ゆらりゆらりと静かな波に揺られているとどこか心が落ち着くのは、海の国に生まれた者の証だろうか。二ヶ月ぶりの感覚を懐かしく味わいながら、ああやはり自分はアクアレイア人だと実感する。
 船縁に肘をつき、レイモンドは遠ざかるコーストフォートの街並みを眺めた。交通の要所として繁栄を約束された河港、自治の象徴である市庁舎も、負けず劣らず華やかな赤レンガの商館群も、掌で包めるほどに小さくなって、やがて白い岸壁に隠れる。
 季節は秋。北方の瞬きする間の短い秋。予定通りの出立だった。レイモンドたちを乗せたコグ船はこれからまっすぐ北の果ての岬を目指す。今度こそ前へ進むために。
「おかけになったほうがよろしいですよ、レイモンドさん」
 と、すぐ側で涼やかな声が響いた。振り向けばにこにこと上機嫌に微笑んだハイランバオスが立っている。琥珀の鷹を連れた男は皆と同じ毛皮のコートに身を包み、まるで自身も仲間の一員という顔をしていた。
「痛みはなくともいつ悪くなるかわかりません。私もできるだけ新鮮な栄養剤を積み込みましたが、この先は補充の見込みもほぼないですし」
 そんな気遣いを口にして医者はこちらの肩を支えようとする。ついビクッと身をかわしたレイモンドに彼はふふふと笑みをこぼした。
「介添えは必要ありませんか? ですがあまり無理なさらないでくださいね。フスの岬に辿り着くまでは」
「…………」
 それ以降はどうなろうとどうでもよさげな口ぶりである。実際どうでもいいのだろう。ハイランバオスはレイモンドの白けた顔など気に留める様子もなく「では今日のお薬です」と小さなガラス瓶を差し出した。
「えっ、これだけ?」
 小指ほどの容器を受け取って目を丸くする。細い瓶は見慣れた黄色の薬液で満たされていたが、量はいつもの四分の一にもならなかった。ケチってんじゃなかろうなとつい疑いの眼差しを向けてしまう。
「すみません。行きの薬を確保するだけで精いっぱいで」
 だが医者は取ってつけたような謝罪を口にするだけだった。毛ほどの誠意も感じられず、レイモンドは眉間のしわを深くする。
(なんなんだろうなー、こいつ)
 渡された栄養剤を一気飲みしながら聖預言者を盗み見た。麗しき黒髪の青年は目的地に到着するのが楽しみでならないらしく、頬を薔薇色に染めている。彼がどういう意図でフスの岬を目指すのかは依然謎のままだった。ルディアやアルフレッドにもハイランバオスの思惑は読めないらしい。
(天帝を裏切ったとかジーアンに追われてるとか、わっけわかんねー。一体何考えてやがる?)
 入れ替わり蟲に興味があるのは間違いないが、それを知ってどうするつもりなのだろう。やはり政治や軍事に利用する気か。だとしたらまたアクアレイアには難事が降りかかるかもしれない。
(とりあえず、これ以上こいつに借り作らねーように気をつけなきゃな)
「うおっ」
 警戒心を察してか、琥珀の鷹がからかうようにレイモンドの周囲を飛び回る。尖ったくちばしで器用に空き瓶を奪い取ると、猛禽は主人の手に狩りの獲物を投げ落とした。
「容器はこのまま引き取らせていただきますね。次はまた、明日の今頃にでも」
 鼻歌混じりで医者は船縁を去っていく。じっと目を凝らしても踊り出しそうな背中から読み取れるものは何もない。
 そろりとコートに手を差し入れ、服の上から下腹の傷を撫でた。今のところ腫れぼったさや痛みはなく、寧ろ快調なくらいである。二ヶ月もベッドに寝たきりでいたのに、不自然なほど筋力の衰えも感じなかった。
(……変な薬……)
 万能薬どころではない効能に眉をしかめる。正体不明の栄養剤が己の生命線というのがつらいところだ。
「おい、レイモンド。寝床の用意できてるんだし横になってろよ」
 むっつり黙り込んでいると、またひょっこり別の男が現れた。心配で心配で堪らないという顔で苦言され、まだ多少の気後れを感じつつ「や、もう普通に歩き回れるし」と首を振る。
「俺もちょっとは船の用事手伝っとかねーとかなって」
「ばっ……! そんなのいいから横になってろ!」
 一喝するとイェンスはレイモンドのコートの袖を小さく摘まんで引っ張った。剣幕の割に行動は遠慮がちで苦笑する。
「そうやって油断してるときが一番危ないんだぞ!?」
「いや、まあ、気をつけるけどさあ」
 叱られているというのに悪い気がしないのは何故なのだろう。こちらの腕を引いたまま船倉に向かう男を振り払うのは簡単だったが、そうしない己の変化に少し戸惑う。
「おう、イェンスの言う通りだ。寝とけ、寝とけ。甲板掃除も飯の支度もお前はやらなくていいからな」
 少し離れてこちらのやり取りを眺めていたスヴァンテたちにもしっしと手で追い払われ、レイモンドはしどろもどろに「あ、ありがと」と返事した。
 船に戻って一番驚いたのは彼らの態度が様変わりしていたことかもしれない。副船長も老水夫らも険らしい険がなくなっており、逆に気遣いを感じるくらいだった。どうも彼らはアルフレッドがイェンスにした昔話をこっそり立ち聞きしていたようで、こちらに対する考えを全面的に改めたらしい。
 ――もし北辺人の子供がずっと、支援もなくアミクスの中で生きていかねばならなかったとしたら。想像してみろとオリヤンが呼びかけてくれたそうだ。それでやっとスヴァンテたちにも同情心が芽生えるに至ったらしい。
 とはいえやはり大きいのは借金返済の目処が立ったことだろう。既に三百万ウェルスのうち百万ウェルスは返している。新事業が軌道に乗ればアミクス内での彼らの立場も以前よりずっと良くなるはずだった。
「ふふ。スヴァンテたち、口にはしねーがアクアレイア人ってのは皆あんなに商才があるのかってビビってたぜ。まあ一番目玉剥いたのは俺だったけどな!」
 武骨な腕を借りて縄梯子を下りる。得意げに笑うイェンスに「あのくらいで商才なんて言わねーよ」と居心地悪く肩をすくめた。
「たまたま思いつきが当たっただけで、深い考えがあったわけじゃねーし」
「いやいや、その思いつきが大事だろ!」
 客室仕様にされた倉庫の扉を開き、イェンスが大仰に腕を広げる。「おかげで怪我人用のベッドも買えたしさ!」とまっさらな寝床に促された。
 狭い部屋の奥半分にぴったり収まった寝台は船が揺れても振り落とされない柵つきで、上質の毛布が整えられている。折角戻ってきた金をこんな無駄遣いしていてはまたスヴァンテに小言を言われるんじゃないかと心配だ。
(あーあ、ハンモックがあんな隅っこに追いやられちまって)
 王女様と騎士の寝場所はどうするのだと嘆息する。イェンスはとにかく我が子が安楽に過ごせるようにと心を砕いてくれたようだが。
(別に全然大したことしてねーってのに……)
 和解ののち、手始めにレイモンドがしたのはパーキンとイェンスを組ませることだった。元々あの金細工師は北辺で改宗者向けの護符を売りたがっていたのである。だったらイェンスの協力があれば別の形でひと儲けできるのではと考えたのだ。
 祈祷やまじないに使うフサルク文字には五芒星のような書き順がなく、都合が良かった。イェンスに作ってもらった『身代わり護符』は古き神々の報復を恐れる改宗者だけでなく、北パトリアの一般市民にも飛ぶように売れているという。これまでは悪い意味で広く知られたイェンスの名が、却って護符の霊力を信じさせる結果となったのだ。初めはおっかなびっくりだったパーキンも、今では「第二弾を考えておきます! 航海が終わりましたら是非また印刷所を手伝っていただけませんか?」などと元神官にへりくだるようになっていた。
「本当にありがとうな。これで俺たちもようやく陸に上がれそうだ。皆にも、うんと楽な生活をさせてやれる」
 じゃあゆっくりしててくれ、とイェンスが扉を閉める。緩みそうになる口元をごしごし擦ってレイモンドは毛布に包まった。
 くそ、なんだこれは。これはこれで距離感が難しいぞ。
(こういうのが父親と息子なのか?)
 知っている限りの親子を思い浮かべてみるが、よくわからない。コートの下から首飾りを引っ張り出し、レイモンドは護符と同じ文字の刻まれたセイウチの牙を見つめた。以前よりは信じる気になったお守りを。
(生き残らなくちゃな)
 ルディアと一緒にアクアレイアに帰るために。
 傷はもう痛くなかった。多少の違和感はあるものの、完治したのではないかと思える。だが安静にと忠告された半年には程遠かった。カロもそんなに長くは待ってくれないだろう。もしまた戦闘になればそのときは――。
 小さな牙を握り込み、もう片方の手でポケットを探る。自分の本当のお守りは、硬い銀貨の感触は、ひっそりとそこに存在していた。
 生き残りたい。けれどそれ以上に彼女に生きてほしい。
(姫様が笑ってくれるなら、俺はどうなったっていい)
 胸中に呟いて目を閉じる。




 老水夫たちにせがまれてリュートを奏でる騎士を遠目にルディアはほっと息をついた。船員たちはアルフレッドやレイモンドには受け入れる姿勢を示してくれている。
 さすがにルディアに声をかけてくる者はいないがそれで良かった。二人ともイーグレットの死には無関係だと、カロの敵ではないのだとわかってもらえてさえいれば。
(これならフスの岬まで問題なく行けそうだな)
 あとは自分が大人しくしていればいい。なるべく目立たぬところにいようとルディアは船首に背を向けた。
 肩越しにアルフレッドを見やれば美しい音色に釣られて彼を囲む人間は一人また一人と増えている。倉庫から顔を出したイェンスも早速その輪に加わった。ということは槍兵は今一人だなとルディアは客室に足を向ける。しかし梯子を下りる直前、思わぬ人物に引きとめられた。
「歌を聴くような気分ではないかい?」
 振り返るとオリヤンが縦傷のある双眸を細めて立っていた。
「いや、放っておいてはレイモンドが退屈だろうと思ってな」
 階下を指差すルディアに亜麻紙商は「少し話をしないかい?」と誘ってくる。他の船員のように冷たい声でなく、至って穏和ないつもの声で。それを不思議に感じつつ頷いた。長く事情を黙っていたこと、怒らせたかもと思っていたのに。
「私は皆よりパトリア的な考え方に馴染んでいるし、リマニで会ったときからずっと君を見ているからね。スヴァンテたちと同調して責める気にはなれないんだ」
 ルディアの困惑を見て取って亜麻紙商はそう告げた。オリヤンは現在、自分の船団とは別行動を取っている。商売を他人に任せてまでコグ船に乗り込んだのはルディアを連れてきた責任を感じてのことだろう。彼もまた決着を見届けなければと考えているようだった。
「君の苦しんでいた理由を知って共感を覚えたくらいだよ。私も身内殺しの罪を背負って生きてきた人間だから」
 そう言えばコグ船に乗り換えるとき、パーキンがそんなことを言っていたなと思い出す。色々ありすぎて今の今まですっかり忘れていたけれど。
 オリヤンは口元に優しい微笑を浮かべたまま重い打ち明け話を始めた。「私が殺したのは兄だった」と海より遥か遠くを見つめて彼は語る。
「酷い暴力を振るう男でね、義姉はいつも青痣を作って、あいつのご機嫌取りばかりしていた。それがなんとも不憫で堪らなくてねえ。何がきっかけだったかはもう思い出せないんだ。気がついたら血塗れのあいつが横たわっていて、私の拳は返り血に染まっていた。村の連中は随分同情してくれたよ。あいつは家の中でも外でも乱暴者だったから」
 握り拳に目を落とし、オリヤンは淡々と続ける。励まそうとしてくれているのだと悟るのに長い時間はかからなかった。
「……本当は、私は目玉を抉られるはずだったんだ。だが断罪の刃は瞼を軽く撫でただけだった。今でも許されて良かったのかと怖くなるときがある。義姉は私を人でなしだと罵倒したし、自分自身も血を分けた兄弟になんて情のない真似をしたのかと呆れていたしね」
 ほんの少し息を詰め、オリヤンは呟く。それでも今はこれで良かったのだと思うと。
「イェンスに出会って、仲間ができて、皆のためにとしたことに却って自分が救われていた。君だって一人じゃないだろう? だからカロが――、何よりも君が、君を許せるようになってほしいと願うよ」
 亜麻紙商はぽんとルディアの肩を叩いた。力になれることがあればいつでも言ってくれと、どこかの騎士顔負けの台詞まで添えて。
「…………」
 礼の代わりに頭を下げる。オリヤンはそれ以上何も言わず、「昔話なんて聞かせてすまなかったね」と立ち去った。
(……自分を許すか。そんな日が来るんだろうか)
 亜麻紙商の背中を見つめて息を吐く。レイモンドに身の振り方を考え直すと告げてからも、心の整理はついていなかった。あの人を手にかけた罪も、真実を伝えなかった罪も、依然残ったままだと感じる。――けれど。
(許せても、許せなくても、進みたい道は一つだけだ)
 臆さずに、立ち止まらずにいたいと願う。最後まで毅然としていたあの人のように、己もまた。
 そしてあの国に帰りたい。あの人と一緒に守っていこうと誓った故郷に。




 ******




 肌を刺す寒さにぶるりと震え、隣の男がいないのに気づく。半身を起こせば肩にかけられた薄いコートがずり落ちて、裸のまま眠り込んだのだったと思い出した。
(カロ、外に出てるのかしら)
 ぼろぼろのあばら家を見渡しながらアイリーンは冷えたローブに袖を通す。殺風景な小屋に人影はなく、ロマは前日仕掛けた罠に魚でもかかっていないか見にいった様子だ。手伝おうと思っていたのに、小窓から差し込む淡い陽光と鳥の鳴き声から察するに、己はまた盛大に朝寝坊したらしい。
 コーストフォートから北辺海の北岸まで歩き通して約二ヶ月、カロはここでしばらく知り合いを待つと言った。例年トナカイが秋の終わりに群れを休める場所だそうで、一群を率いる男は少年時代にカロが世話になっていた船の引退水夫らしい。間もなく北辺には長い冬が訪れる。風雪に閉ざされた道を歩むのに彼らの助力を仰ぐのだろう。
(フスの岬に着いたらカロと姫様は……)
 ぎゅっと唇を引き結び、コートを抱いて立ち上がる。自分にできるのは彼を一人にしないと示すことだけだ。川辺で寒い思いをしているに違いないロマを探しにアイリーンはあばら家を出た。ぽろりと落ちたくしゃくしゃの紙を踏んづけたのはそのときだった。
「?」
 何かしらと拾って開いて小首を傾げる。コートから出てきたそれは一見して手紙のように思われたが、それにしては文章がおかしかった。書かれているのはパトリア文字なのに、見たことも聞いたこともない語句ばかり並んでいる。ところどころ北辺の呪術に見られるフサルク文字も混ざっていて、文意は少しも読み取れなかった。
「??」
 解読を試みてアイリーンは上下左右に便箋を回転させる。重ねたり透かしてみたりしたものの、何が書かれているのかはさっぱり不明なままだった。
(あ、もしかしてこれってロマ語なのかしら?)
 そう思いつき、最初から読み直そうと思った矢先、暗号は手から奪われる。ハッと顔を上げればピチピチと跳ねる袋を抱えたカロが川から戻っていた。
「あ……、ご、ごめんなさい。落ちてたから何かと思って」
 顔をしかめたロマの沈黙に焦って詫びるが返事はない。彼はくしゃくしゃの紙をくしゃくしゃなままポケットに突っ込んだだけだった。そんなぞんざいな扱いなのに、どうしても捨てられないもののように。
「起きたんなら飯にしよう。鍋に水を汲んできてくれ」
 手紙のことは話題にもせずカロはアイリーンを遠ざける。有無を言わせないピリピリした雰囲気で、黙って従うほかなかった。
(……ロマって確か、あまり持ち物に執着しないんじゃなかったかしら)
 そう思い出したのは彼が火起こしの支度を始め、完全にこちらに背を向けてしまってからだった。




 がさがさとポケットで響く乾いた音に気が滅入る。重くもないのに重い気がして意識がそちらに向いてしまう。
 冬の匂いの風が吹く、寒い岸辺で湯が煮えるのを待ちながら、カロは焚火の傍らにそっと腰を下ろした。
 もう何度読み返したかわからない手紙のことを考える。それを残した友人のことを。
(アクアレイアの民を恨まないでほしい、か)
 遺言を思い返すたび悲しみと怒りが胸を焼いた。飲み込むこともやり過ごすこともできなくて、息苦しさが際限なく続く。
(そんなことできるわけがない)
 イーグレット、俺にはお前が哀れでならないよ。もっと早く、お前に教えてやれば良かった。お前の娘は実の娘ではないのだと。そうしたらお前もさっさとあの国に見切りをつけて、どこへでも自由に旅立てたろうに。
 もくもくと湯気が昇り、あぶくが生じて湯が煮立つ。生き物を扱うのだけは手慣れたアイリーンが捌いた魚の身を落とす。摘んできた野草を浮かべて火が通ると、空腹を満たすのが目的の味気ないスープを啜った。
 ――カロ、君に頼みがある。
 耳元で囁きかける幻聴に首を振る。薪でも拾ってこようと腰を上げ、カロは不意に近づいてくる複数の足音に気がついた。方角は東。ゆったりとした蹄の響き。数はゆうに百を超える。
「ねえ、来たんじゃない?」
 深いモミの森を見やってアイリーンも腰を浮かせた。残り火に足で砂をかけ、「行くぞ」と細い腕を引く。
「――……」
 去り際にカロが立ち止まり、周囲をじっと見回したのをアイリーンは不思議そうな目で見つめていた。冷たい風が追い立てるように強く背中に吹きつける。
 少年時代の幻は、あれ以来一度も見かけていなかった。イーグレットは本当にもういなくなったらしい。
(やっぱりお前は俺に呆れてしまったのかな)
 こうして手紙をくれたのに、少しも喜べない俺に。相変わらずアクアレイア人への恨みつらみでいっぱいの俺に。
 しばらく行くと、よく肥えた白い冬毛のトナカイたちが脇目も振らずに苔をついばむ姿が見えた。おおいと北辺語で呼びかければ家畜を囲む刺青の男たちが驚いて振り返る。
 久々に会った仲間に自分を思い出してもらうのに、右眼を見せるより早い手はない。連れていってほしい場所があると乞えば一も二もなく彼らは了承してくれた。北へ向かうならスキーとそりも貸してやろうと気前よく申し出られる。
「ああ、懐かしい。まさかお前が女連れで顔を見せてくれるとは。パトリア人か? 彼女の名前は?」
「フスの岬で何があるんだ? ここ数年はイェンスたちも来てないぞ」
「おい、イーグレットはどうしてる? この辺りじゃアクアレイアの噂なんてちっとも耳に入っちゃこない。元気でやってるんだろうな?」
 矢継ぎ早の問いかけにカロは無言でかぶりを振った。静かに伏せた目に何か感じ取ってくれたのか、質問はぴたりとやむ。
「……ゆっくり話をさせてくれ。長くなるが、わけはきちんと説明するから」
 わかっていた。決闘をしに行くと告げれば引き返せなくなることは。彼らが仇を取れと励ますことはあっても刃を下ろせと説くことはないと。
(お前は俺を酷い男と思うだろうか、イーグレット)
 コーストフォートを発つ前に、イェンスに聞いておけば良かった。もう一度あの幻に会う術はないのか。彼は本当にイーグレットだったのか。
 ――頼みがある。
 たった一人の友人の、遺言を無視して北を目指す。




 ******




 十月末、コグ船は嵐を避けて入江深くに留まっていた。北辺に特有の、切れ込んだ細長い湾である。海から直接屹立する幾重もの高山が障壁となり、暴風は多少やわらいでいた。横殴りに打ちつけるみぞれも、フスによれば半日ほどでやむそうだ。
 重苦しい雨音響く船長室でイェンスは小窓の外の景色を見やった。闇にちらつく白い雪にふとあるものを思い出す。「そう言えばさ」と沈黙を破り、右肩の祭司に問いかけた。
「レイモンドたちが危ないって知らせてくれた、あいつなんだったんだろう? イーグレットの幽霊みたいな」
 フスも見たはずの幻。今更ながら一瞬の邂逅が甦り、不思議でならなくなる。死後彼がカロの側にくっついていたのはともかく、どうして少年の姿などしていたのだろうと。
 一連の騒動の後、自分は我が子の回復を祈るのに必死だったし、スヴァンテたちとの悶着もあって記憶の隅に追いやっていたが、考えてみればおかしな話だ。あれが本物の彼ならば、四十代の、大人になったイーグレットと会うべきではなかろうか。
『いや、彼は幽霊ではないよ』
 問いかけに祭司が人差し指で答える。強いて言えば己と同じ種類のものだと続けられ、なんだそりゃと眉根を寄せた。
「あんたと同じ? っつーかあんた、自分のこと幽霊とか魂とかそんなんじゃないって言うけどさ、だったら何かは全然話してくんねーよな」
 恨みがましく唇を尖らせるイェンスにフスはおどけて手を開く。駄々っ子をあやすように頭を撫でられ、「またそうやってはぐらかす」と目尻を吊り上げた。
 この男は昔からこうだ。イェンスには理解不可能と判断するとほとんどなんの説明もせず、のらりくらりとはぐらかす。しかしどういう気紛れか、今日の彼は宙に長い指を滑らせて話し相手を続けてくれた。
『それでは聞くが、君は魂というものをなんだと考えているのかね? 人間が心とか精神とか呼んでいるもののことでいいのかい?』
 妙に小難しい問いを投げかけられ、イェンスはそれ以外何があるのだと頷く。するとフスは『であればやはり、あの少年はイーグレットの魂ではないな』と断言した。
『死者の魂は空に還ると言ったのはロマか。北辺人は選ばれた戦士でなければ海の深くに、パトリア人は地の底にある黄泉の国へ行くのだと信じているね。それらは全て正しくて、全て間違っているのだよ。魂はあらゆる全てに還るのさ。肉体という器を失くした瞬間から、崩れて散って見えなくなる。ちょうど杯からこぼれた水が形を保てなくなるように』
「…………」
 よくわからずにイェンスは顔をしかめる。まあお聞きとフスは続けた。
『時々変わり者がいるのは確かだ。君が初めから視る力を備えて生まれたのと同じに、彼は初めから残す力を備えて生まれたのだろう。――ねえ、白というのは突然変異の色だよ。蟲たちの巣にならば我々アークの特質を秘かに継いだ人間がいてもおかしくはない。彼は己の能力に無自覚なまま、その思いを少しずつ世界に残して死んだのだろうね』
 聞けば聞くほど頭はこんがらがるばかりだ。イェンスは早々と理解を諦め、知りたいところだけ尋ねようと大雑把に問いかけた。
「つまりあれはイーグレットってことでいいのか?」
 祭司は否定も肯定もしない。ただ愉快そうに紋様の刻まれた指を遊ばせる。話しても無駄と思ったのか、或いは平易な言葉が見つからなかったのか、結局右手が語ったのは不可解な謎々だった。
『誰も過去の自分が自分であることに異は唱えまい。だが現在の自分と過去の自分がまったく同じ人間だと考える者は少なかろう。あれはイーグレットだと言うことも、イーグレットではないと言うこともできる。精神とは常に現在の現象だ。残留思念が何を思考しようともそれは当人から隔絶されている。まあつまり、あの少年は私の同類だよ』
 ああそうと盛大に溜め息をつく。やはりフスにはまともに説明する気がないようだ。
 イェンスがそっぽを向くとフスは機嫌を窺うように膨れた頬をつついてきた。生ぬるい風が触れる感触にキッと鋭く睨みつける。
「あんたなあ」
『同じ話ならどうせ後でまたすることになるさ。岬に行きたがっている医者は私に興味があるらしいしね』
 暗にハイランバオスを指してフスが告げた。ルディアたちの話によれば、彼もまた入れ替わり蟲の亜種なのだそうだ。そう知って以来、祭司は妙に嬉しげにしている。
(なんなんだろうな、こいつも)
 神々のごとき力を持っているわけではない。だが神々のごとく世界を見通す。海が荒れる日はいつも彼が教えてくれた。どこに船を避難させるか、帆は畳むべきか錨は下ろすべきか。カーモス族との戦いだって、フスの指南がなければ生き残れなかったろう。
 けれど彼はイェンスの頭脳になろうとはしてくれなかった。生計の立て方も、パトリア人との付き合い方も、親身になって相談に乗ってくれたのはオリヤンやイーグレットだ。フスは人間と関わりすぎるのを良しとしていないきらいがあった。今までは漠然と、彼が慎重すぎるのだと考えていたけれど。
(……もしかしたら、元々フスはあの洞窟を出ようなんざ思っちゃいなかったのかもしれないな)
 生贄として十年間閉じ込められた岬の岩屋。初めてフスと出会った場所。
 思い出すのは恐怖と孤独に泣き暮らした日々。半分透けた、自分にしか見えない男が唯一頼れる大人だった。
 医者はあそこで、本当のフスがいる場所で、何を明かそうというのだろう。そして今、彼の何を知っているのだろう。
(……アーク……)
 大洪水を前にして、全滅を逃れるために一種類ずつ全ての生き物のつがいが乗せられた、伝説の方舟。時折フスはアークと自身を同列に話す。
 イェンスは彼が何者か知らない。神官のための文字を作り、神話を編纂した偉大な祭司であったとしか。
 ハイランバオスを連れていけば自分にも彼の秘密の一端を覗くことができるだろうか。それともまた、難解な知識の壁に阻まれるだけだろうか。




 降りしきる雨の奏でる陰鬱な調べに眉を寄せ、アルフレッドは雨漏りしそうにどんよりとした天井を見上げた。
「海に出てからずっと天気が良くないな」
 三人入ればいっぱいの手狭な客室でぽつりと呟く。視線を戻せばすることもなく雨上がりを待つルディアとレイモンドが揃って頷いた。
「確かに雨か曇りばかりだ。こう日照が少ないと昼間という気にならないな」
「こっちの冬は暗いらしいぜ。晴れる日のほうが珍しいのに、太陽もすぐ沈んじまうって」
 寝床で毛布に包まり直した幼馴染は「フスの岬に着く頃には極夜だってさ。カーモス神の力が強まる季節だから気をつけろって言われたよ」とイェンスに聞いたらしい話をもらす。その声からはすっかり毒気が抜けていた。
 アルフレッドの見たところ、仲良くとまではいかずとも二人は上手くやっている様子だ。このまま親子と呼べる親子になってほしい。そうなれなかった者の分まで。
「……極夜か。一日中夜が続くと言われてもピンと来ないな」
 と、丸椅子に腰かけたルディアが腕を組み直した。「確かにこの頃尋常でなく夜が長くなってきたことは感じるが、ずっと太陽が出ないのにどう暮らすのか想像がつかん」と彼女はもっともな疑問を口にする。
「日中の数時間は黎明程度に明るいようだぞ。それに雪が白いから、真っ暗闇というのでもないと」
「しかしそれは陸上での話だろう?」
 アルフレッドも水夫たちに聞きかじった話を共有したが、彼女は船が暗礁に乗り上げやしないか心配そうだ。アレイア海やパトリア海とは気象条件も航海技術も異なるので結局はイェンスたちに任せるしかないのだが。
「けどさ、冬はオーロラが出やすいんだろ? それちょっと楽しみだよな」
 枕元で難しい顔をしている王女にレイモンドが笑いかける。するとルディアの表情も釣られて少し明るくなった。
「ああ、そうだな」
 答える彼女の名は古パトリア語でアウローラ、ロマの言葉でルディアという。幼馴染は眩しげに目を細め、「早く見たいよ」と続けた。地上の光に注がれる、その眼差しは温かで優しい。
(なんだか変わったな、レイモンド)
 半年離れていただけなのに、時々彼が別人に見えることがある。昔から特に不親切な性格ではなかったが、他人のために我が身を削るような真似は絶対にしなかったのに。先日ルディアを説得したときも、レイモンドの口からあんな台詞が出てくるとは思わなかった。姫様のいないアクアレイアじゃ意味がない、なんて。
(いつの間にかこいつも立派な兵士になっていたんだな)
 友人の成長に頬がほころぶ。今のレイモンドなら特別報酬などなくともカロに怯むことはなかろう。幼馴染に背中を預けられるのは心強かった。
(とはいえ病み上がりは病み上がりだ。やはり俺がしっかり姫様を守らなくては)
 アルフレッドはそっと剣の柄を握った。まだ持ち慣れない片手剣。この刃を抜くことなく全てが終わるように祈る。
 雨雲が去ったのはそれから間もなくのことだった。にわかに船内が騒がしくなり、甲板に出る足音が響きだしたのに気がついてアルフレッドもルディアと客室を後にする。
 曇天の下、出港準備を終えたコグ船は風を捕らえて谷底に似た湾を抜けた。入り組んだ海岸線を右舷に見つつ、黒い波を越えて北上していく。
 一行がフスの岬に到着するのはこの一ヶ月後のことである。




 ******




 ひと口に海と言っても水温の高い低いがあるという。冬には滝まで凍りつく最北の地に不凍港が存在するのは、この辺りを流れているのが暖流だからとのことだった。とはいえ雪は容赦なく降るし、風は身を切るように冷たい。長く暮らした草原の、極寒の冬を思い出すほどに。
 ハイランバオスは白一色に染まった岬を見やってぞくぞく全身を震わせた。大小の岩々が波に洗われる海岸では、朽ち果てかけた桟橋がコグ船を迎える。歓喜のあまり堪らず悲鳴を上げそうだった。ああ、ついにここまで来たのだ。アークの残骸が眠る墓所に。
「よし降りるぞ! スヴァンテ、頼む」
 イェンスの指示で副船長が小舟を引っ張り出してくる。コグ船が錨を下ろすとただちに乗員の大移動が始まった。桟橋が腐っていて使い物にならず、小舟は何度も船と岸とを往復する。全ての者が下船するまで長いこと待たなければならなかった。
 寒冷のために一本の木も生えていない高い断崖。歩を踏み出せば膝の下まで雪に埋まる。先頭のスヴァンテが作る轍を通り、老水夫らは低い坂を上った。
 どれくらい歩いただろう。ハイランバオスは雪景色にぽっかりと大きな穴が開いているのに気がついた。大穴だと思ったそれは、厚い氷の張った小さな湖であったが。
「お前らいいな? さっさと巣ごもりの支度を終わらせちまうぞ」
 イェンスは水夫たちにテント張りや魚釣りを命じる。この氷の湖にわざわざノミを入れるらしい。食糧は十分積んできているが、待ち合わせた相手がいつ来るかわからないので越冬するつもりでかかるのだろう。
「私も手を貸しましょうか?」
 鷹を引き連れ、湖畔で指揮を執る男に尋ねる。こんな雑多な用事はさっさと片付けて早く本題に入りたかった。早くアークを、蟲を生み出す叡智の結晶を目にしたかった。
「いや、先生は俺と来てくれ。遅くなったがツケてた治療費払わせてもらうよ」
 イェンスは親指を返し、凍りつく湖の後背に切り立つ岩山を示す。白い粉をまぶされた灰色の岩壁に本物の空洞を発見し、ハイランバオスは色めき立った。
「あれが例の洞窟なんです? カーモス族の神殿があるという?」
「ああそうだ。フスがあんたをそこに案内しろってさ」
 わっと思わず手を組み合わせる。祭司のほうにも対話を試みようとする意思が感じられて嬉しかった。何も喋ってくれないコナーと違い、フスからは有益な情報を引き出せるかもしれない。型の異なる蟲であっても仕組みは同じだ。是非とも色々聞かせてほしい。
 北辺の神官に代々受け継がれてきたフサルク文字。正しく読めばフサルクの意は「フスのアーク」となる。アクアレイアが「アレイアのアーク」と読めるのも偶然ではない。レンムレン国の創始者が、アク・キヨンルという名の英傑であったことも。
 彼らは人間社会に身を潜めつつ、同時に歴史に埋もれまいとして存在を誇示する。まるで仲間にだけ「見つけてくれ」と訴えるように。
 どこかにまだ眠っているに違いない。事切れた残骸として、レンムレン国のアークも。それがどこなのか知りたかった。あの方を動かす材料になり得るのか。
「足元暗いから気をつけろよ」
 ランタンを手にイェンスが大岩の隙間に入っていく。隘路の側面に描かれた古い壁画やまじないにわくわくしながら後に続いた。
 洞窟は深く、入口以外は長い時間をかけて掘削された模様である。簡素な岩の社をくぐり、百段近い階段を下り、更に奥へと踏み込んでいった。
「……!」
 突然何かがまばゆく輝き、ハイランバオスは目をつむった。騒ぎ立てる鷹をなだめ、岩屋の暗がりに目をやる。すると月光を受けた水晶が、闇にきらきら光の粒を散らしていた。六角柱の、人が横たわれそうに大きなクリスタルが。
「……こ、これがアーク……!」
 感激のあまりハイランバオスはしばし呆けた。無造作に打ち捨てられた方舟には醜い亀裂が入っていたが、そんなことは気にならなかった。
 なんて美しいのだろう。透明で、継ぎ目もなく、一切の無駄が省かれた。
 頭上を仰ぐとわずかだが丸く切り取られた夜空が見えた。生贄のための祠はそこだけすり鉢状の高天井になっており、静謐な空気に満ちている。
「こんなところまで人連れてきたの初めてだぜ」
 水晶柱に背を預け、イェンスがこちらに手招きした。大急ぎで駆け寄って、差し伸べられた手を握る。
「え……っ!? か、彼が祭司フスですか?」
 目の前に出現した男の姿に瞠目した。右手の甲の刺青は確かに前に見たものと同じだが、今は手首に腕に肩、鼻から下の全身がくっきりと浮かんでいる。
「そうだとも。初めまして、ハイランバオス君」
 話す口を得た古代の神官は仰々しい毛皮を翻して腕を組んだ。そのまま彼は体重を感じさせない仕草で後ろに跳ね、アークの先端に着地する。
「君の質問に答える前に、まず私の質問に答えてもらおうか。君は一体どこの誰にアークの話を聞いたのかな?」




 なるほど、なるほどと伝えられた青年の事情に笑い声を立てる。
「やはり接合が起こっていたか。予定外に情報を持ち出されるとは、間抜けなアークがいたものだ」
「ですが同期は強制終了されてしまったんです。そのせいで私の知識は色々と穴だらけで」
 アレイアのアークに触れたという型違いの末端は「やはり気になってしまうでしょう? 何も教えてもらえないのなら自力で探ろうと思い立ちまして」と岬を訪ねた動機を明かした。
 子供のような純真さだ。小さな子供も大きな子供も厄介なものに違いはないが。
「あなたも秘密主義のお方です?」
 単刀直入に手札をさらす気があるか問われ、フスは「いいや?」と首を振る。
「理解できる者になら惜しみなく話させてもらうよ。この時代にこんな訪問を受けられるとは、実に私は運がいい」
「わあ、ありがとうございます!」
 大喜びでハイランバオスは礼を言った。医者の手を取るイェンスはというと、退屈そうにくああとあくびを噛み殺している。先程から彼には耳慣れない語句ばかり用いているせいだろう。会話に混ざるのは早くも断念した様子だった。
「ここまで来た甲斐がありました! それでは早速お伺いしても? どうして急に右手以外も見えるようになったんです?」
 興味津々の問いかけにフスは朗らかに応じる。「ここには私を構築する粒子が多く残っているからね」と腕を広げ、足元の水晶柱に注意を促した。
「生憎アークが破損していて全身の再現はできないが、イェンスのお守り程度なら右手だけでお釣りがくる。君とお喋りするのにも、まあ不足はないだろう」
「あなたの使っていた肉体はもう残っていないので?」
「『フス』はアークのもとに帰ってこなかった。多分他の人間たちと一緒くたに死んだんだ。私は彼が最後に取った複製(コピー)なんだよ」
「複製? おや、中枢にはそんなこともできるんですね」
 アクアマリンの目を瞠り、ハイランバオスはフスを見つめる。上から下まで検分され、ふふふと笑いがこみ上げた。
「できなければおかしいじゃないか? 我々は人格や記憶を移し替える高度な技術を有しているのに、蟲の身体よりずっと巨大なこのアークに、己のデータを保存できないはずがない」
 違うかねと尋ねれば型違いの若者は「確かにそうです」と頷いた。
「しかしあなたが亡霊じみた姿でいらっしゃるのは不思議で仕方ありません。人によって見えたり見えなかったりすることも」
「ふむ、そこが疑問か。見える見えないは単純に機能の問題だな。見る器官を持っていないから見えないだけさ。見える範囲も人によりけりだ。特定の人物の残した特定の思念だけ見えるという者もいる」
「なるほど。その器官というのはこのように手を繋いでいれば共有できるものなので?」
「大抵の場合はそうだね」
「先程粒子と仰いましたが、あなたはそういったものの集合体なのですか?」
「ああ、そうだ。意識というのは不定形で状態的なものだけれど、物質化して留めることも不可能ではない。物質なら視覚で捉える手段もあろう。……で、君が本当に知りたいことはそんなことなのかい?」
 腕組みして問いかける。ハイランバオスは屈託ない笑顔で「いいえ」と首を振った。癖のある微笑は崩さず、強欲な少女のように彼はめちゃくちゃな希望を告げる。
「耐用年数を過ぎたアークを見つけ出して、再稼働させることはできるのかなと」
 怖いもの知らずの発言に思いきり吹き出した。笑いを堪えるフスを見やってイェンスがぎょっとする。
「はっはっは、いかにも瀕死の蟲らしい発想だ。だがアークを復活させることはできないよ。できるならとっくに私がやっている」
「ああ、やはり無理でしたか。ずっと探してきたものなので、たとえ用をなさないとしてもひと目見たいと考えているのですが」
「ふむ、しかし探し出すのはおすすめしないな。アークはまだ人の目に触れるべきじゃない。やっと未開の野蛮人を卒業したばかりの人類では我々の正しい利用法などわからないよ。君が開発したような万能薬を作れると知れば、早晩アクアレイアの脳蟲は乱獲の憂き目に遭うだろうね」
 ああいうものを広めるなと暗に叱る。しかし医者から返ってきたのはどこか不敵な笑みだった。
「おや、矛盾していませんか? あなたはカーモス族の強襲があるまで大神殿のご神体として祀られていたわけでしょう? 毎日多くの信者の目に晒されてきたかと存じますが」
「神聖なものとして守られるなら安全かと考えたんだよ。山にこもった連中のほうが賢明だったみたいだがね」
 傷つけられた方舟を見やり、フスは嘆息する。あの猛火の一夜が明けたのち、生贄の添え物としてこの世で最も辺鄙な岬に運ばれてきた自分は途方に暮れる羽目になった。亀裂はただちにアークを停止させるものではなかったが、文明の発展を待とうとしていた千年はもたないのが明らかだったから。
 第一の役目を終えたアークは本体をどう後世に残すか考える。第二の役目は人類に発見され、研究されることにあるからだ。フスがこうやってぺらぺらと受け答えするのも何かの形で記録が残るかもしれないと期待してのことだった。自分はイェンスと洞窟を出ることを選び、彼に核を移してしまったが、抜け殻にだって計り知れない価値があるのだ。
「とにかくアークの存在を脅かすことをされては困るな。だが君が我々の事情を汲んでくれるなら協力は惜しまないよ。他に知りたいことがあるなら聞いてみたまえ」
「うーん、他にですか」
「どのみち私には君のアークがどこにあるかなどわからないしね。我々の特性を考えれば、巣に流れ込む川をしらみつぶしに当たるのが一番早そうだが」
「ええっ!? あなたでもわからないんですか!? か……川をしらみつぶし……。あ、あの砂漠に注ぐ川を……?」
 ハイランバオスはがっくりと肩を落とした。アークに聞けば望む答えを得られるものと思い込んでいたらしい。可哀想だが卓越した知識や技術を奇跡の類と混同するのはままあることだ。アークも万能ではないと知れただけでも収穫だろう。
「うう……わかりました。探索は地道に続けることにします……。例の栄養剤も医学界に発表する気は毛頭ありませんのでご安心を……」
「おいおい、そこまで落ち込まなくてもいいだろう。何か私に答えられそうなことはないのかい?」
 医者の落ち込みぶりは激しく、つい力づけようとしてしまう。いつでもどこでも楽しそうな彼にしょげられると、仲間意識も手伝って少々心苦しかった。ハイランバオスはそんなフスに暗い一瞥を投げかける。「うーん、それでは……」と気だるげな声が問うた。
「何か面白いこと知りません?」
 病的な目に一瞬ぞくりと背筋が粟立つ。――この子は危険分子かもしれない。そういう予感が働かないではなかったが、試してみたい気持ちが勝った。
 東方に大帝国が出現し、北パトリアには印刷機が生まれ、時代は今、大きく動こうとしている。ともすれば一足飛びに目的に近づくチャンスなのだ。これを逃す手はないだろう。
「……興味深い蟲なら一匹知っているよ。本来は生存本能の塊であるはずなのに、少し前まで本気で死にたがっていた」
 イェンスが怪訝な顔でこちらを覗く。その視線には気づかないふりをした。
「彼女は病変した脳に巣をこしらえた蟲だから、窒息死した亡骸を奪う普通の蟲とは少し違っているのかも」
 私に代わって調べてくれないかと告げる。好奇心をくすぐられたか、医者は「ふうん」と喉を鳴らした。新しい、別の玩具を見つけた幼い子供の声で。
「私も彼女、気になっていたんですよねえ。死にたがっていただけではなく、帰りたくないとも仰っていたそうなんです。蟲のくせにちょっと変わってますよねえ?」
 すっかり元気を取り戻し、ハイランバオスはにこにこ笑う。「そう言えばもう一つ質問があったのを思い出しました」と明るい声で彼は続けた。
「あなたがずっとイェンスさんと一緒におられるのは何故なんです?」
 ――また答えにくい質問を。
 ぽりぽりと頬を掻き、隣の男の視線を避けて星のきらめく頭上を見やる。
 生贄の添え物として祠に放り込まれたとき、正直フスにはイェンスを助けてやる気などなかった。機能停止まで粘る間に少しでも賢い人間に発見されたい。望んでいたのはそれだけで。少年の目に己の姿が映るらしいとわかったときも、いい暇潰しになるなと考えた程度だった。
「……一人で千年過ごすより、子供と十年暮らすほうが色々あるのさ」
 闇に、寒さに、いつ殺されるかわからない境遇に、怯える彼をあやすうちに離れがたくなっていた。人の手に余る知恵を分けてやることはできなかったし、悩み苦しむ彼に迷信とそうでないものの線引きをしてやることもできなかったが、それでも。
「ふふっ、そうですか。アークが誰かに肩入れすることも有り得るんですね」
 満足そうな笑みをもらすハイランバオスのすぐ横でイェンスは「なんの話だ?」と首を傾げる。
 彼がフスを理解する日は永遠に来ないだろう。たとえ孤独に苛まれても彼は神々を必要とする段階の人間だ。ルスカの加護を吹聴しながら神々を信じず、宗教を利用する自分とはかけ離れすぎている。
「なんの話もしていないよ。君に関係のある話はね」
 フスの物言いにイェンスはムッと唇を突き出した。「ありがとうございました。また後日、他の話もお聞かせください」と頭を下げたハイランバオスが彼の手を離したので、そろそろ上に戻ろうと促す。
 洞窟の暗い道を引き返し、見晴らしのいい白銀の断崖に戻ると久々に雲一つない空が出迎えてくれた。いや、そればかりか壮大な贈り物つきである。水夫たちも、客人たちも、皆一様に顎を反らして天の一角を見上げていた。
 ――オーロラか。胸中に呟いて、フスも踊る光に手をかざした。




 湖面に反射する青い光に気がついたのは槍兵だった。休んでいろと言ったのに、頬を赤くして駆けてくるから一体なんだと思ったら「なあ、あれ」と袖を引かれた。
 示されたのは紺碧の空。瞬く星々にかかる薄衣。前触れもなく始まった天上のダンスにルディアはたちまち目を奪われる。傍らでアルフレッドも足を止め、「すごいな」と囁いた。
「……虹より高いところに出るのか」
 騎士は運びかけの荷物を抱えて神々の遊戯に見入る。湖上に現れたオーロラは青く淡い色彩をのびのびと広げながら、湖畔で見守る人間たちなど素知らぬ顔で舞い続けた。
 美しいものを前にすると、呼吸をするのも忘れてしまう。大きなものを前にすると、自分がちっぽけな存在であるのを思い出す。
「綺麗だなあ」
 レイモンドの呟きにルディアはそっと目を伏せた。ただしんみりと、こんな光を見てカロは親友の娘に名をつけたのかと考える。
 もうじきあの男もここにやって来るだろう。もう逃げない。彼からも、自分からも。
「……お前たちに一つだけ言っておく。もしカロを説得できなくとも、あいつの命を奪うことは許さんぞ」
 目を剥いて両脇の騎士と槍兵が振り返った。「えっ」「だがそれは」と戸惑う彼らに苦く笑う。
「やっぱり私にはできないんだ。あの人が大切に思ってきた友達だから」
「…………」
 二人は「そう言われても」という顔で目を見合わせる。返ってきたのは彼ららしい台詞だった。
「悪いがあなたに危険が及びそうな場合は応戦するぞ」
「気絶させてふんじばるくらいセーフだろ?」
 主君の命令は素直に拝承しろと、防衛隊の結成当初、自分は説明しなかっただろうか。困った奴らだと呆れながら胸の中で喜んでいるのは、駒ではなくて人を得たのだとどこかでわかっているからだろうか。
「私とてこんなところで死ぬ気はない。アクアレイアに戻ったらやるべきことは山積みなんだ。……まあそうだな、いざとなったら尻尾を巻いて退散するか」
 提案にレイモンドが吹き出した。
「そりゃいいや。生きてりゃ何度でも話し合いはできるもんな」
 槍兵は正確にルディアの意図を読み取ってくれる。「決闘を汚したと怒られやしないか?」と心配そうにぼやく騎士も、なんだかんだで付き合ってくれそうだった。
 改めて二人に感謝する。ずっと側にいてくれたこと。遠い国から駆けつけてくれたこと。
 ――だからルディア、ひとりぼっちにならないでくれ。
 遺書の一文が甦り、ルディアは胸に手を当てた。音もなく波打つオーロラを瞼に焼きつける。清らかな月の白さに目を閉じる。




 ******




 夢幻の光が儚く消え失せ、残念そうに隣の女が息をついた。「北にいればまた見られるさ」と励ませば毛皮で着膨れたアイリーンが「オーロラってよく出るの?」と尋ね返す。
「ひと月に二、三度くらいか。雲の上のことだから、晴れていないといけないが」
 一本杖のスキーで前に進みながら昔を思い出して答えた。今夜のように雪雲に覆われていない日は珍しいけれど、運が良ければフスの岬に着くまでにもう一度くらい拝めるだろう。
 カーモス族はルスカの盾と嫌悪する光。ロマにとっては死者の魂がたゆたうところ。単に美しい自然現象としてオーロラに感嘆していた友人は、あんな空に還れるロマが羨ましいよと笑っていた。
(……結局何も変わらなかったな)
 できるだけ時間をかけて結論を先延ばしにしてきたものの、彼の幻は戻ってこないし、自分はルディアを許せないままで。
 最果ての地は刻一刻と近づきつつある。初めてオーロラを目にした場所は。
(俺たちは出会わないほうが良かったのかもしれない)
 そうしたらこんな風にこじれることもなかっただろう。己の願いと彼の願いがこれほど食い違うことも。
 肩が震える。手がかじかむ。毛皮のおかげで寒くなどないはずなのに、吸い込んだ冷気は肺の中から身を凍らせるようだった。その温度でも炎を静められないのが苦しい。
 早く解放されたかった。友人のために何もしてやれないならいっそ。
(イーグレット、お前はどこに行ったんだ?)
 黙々と北へ向かう男たちの背中について、ただ歩く。道も白。森も白。雪が風に舞い上がるたびあいつじゃないかと振り返る。
「…………」
 幻でも良かったんだ。側にいてくれるならなんでも。それともこれは、あのときお前から逃げた罰なのか。
(イーグレット……)
 去っていった友人の頼りなげな姿が甦る。王位を継承してすぐの、冠を持て余した。
 ――結婚したい女性がいるんだ。
 そう打ち明けられたとき、ああついにそんな日が来たかと震えたのを覚えている。あの頃からきっと自分は何も変われていないのだろう。
 とぼとぼと雪原を歩く。記憶はカロを責め立てるように遠い日の光景を映し出した。




 イェンスの船を降り、アクアレイアに帰還して以来、イーグレットの様子は少し変だった。覇気がなく、話しかけても上の空で、謙虚さからではなく本心で「私なんて」と自虐する。
 弱冠二十歳の新国王が華やかな宮殿でどんな辛苦に耐えていたか、まだ背も伸びきらない十六のロマでは漠然と想像するしかできなかった。イーグレットは愚痴や弱音を吐こうとはしなかったし、カロのほうでも無理に話せとは言えなくて。
 友人への気遣いから尋ねなかったわけではない。ただ自分にそうする勇気がなかったのだ。和気あいあいとした船上生活から一転、地上での新たな暮らしに馴染めないでいたのは自分も同じだったから。
 当時まだアクアレイアにはかなりの数のロマがいた。彼らに家はなかったが、一晩眠るだけならばゴンドラ一艘あれば足りる。土地勘を持ち、操船に慣れたロマたちが街で騒ぎを起こして逃げるのはそう珍しいことではなかった。カロはイーグレットに迷惑をかけまいとなるべく大人しくしていたけれど、同胞の素行にはしばしば冷や汗を掻かされた。
 街を歩けば向けられる視線や声で歓迎されていないとわかる。アクアレイア人とロマの間に深い溝があることを痛感するたび不安は増大していった。もしイーグレットに同じ蔑みが芽生えたらどうしよう、と。
 そんな馬鹿なことあるはずない。そう笑い飛ばせなかったのはイーグレットが明らかに以前の彼と変わりつつあったからだ。イェンスに商売の助言をする彼はいつも頼もしかったのに、政治と向き合う彼は切羽詰まっていて、成果のためなら他人を押しのけることもしそうに危うかった。
 イーグレットが王国を良い方向に導こうと必死だったのは知っている。そのために権力を求め、名声を求め、財貨を得ようとしていると。けれどカロには怖かった。そんなことに執念を燃やすアクアレイア人という生き物が。
 ――俺とこいつは何か違う。薄々感じていた差異をはっきり自覚するようになったのはあの頃だ。抱えきれない荷を抱え、そのどれも手離せないといつか言われるかもしれない。お前はもう要らないと、これからは王国を守っていかねばならないからと、彼に見捨てられるかもしれない。
 小さな疑いは少しずつ大きくなった。いつも通りを装って友人の部屋に通いながら、カロは一人怯えていた。そうして懸念は半分現実になったのだった。
「とても純真無垢な人で、名前はディアナという。彼女といると本当にほっとするよ。私の白い皮膚を少しも嫌がらなくてね。家柄も申し分ないし、求婚を受け入れてもらえれば宮廷での地盤固めにもなるだろう。しかし……」
 ロマの入国禁止法を定めること。つまり今いるロマたちを手荒な手段で追放していいと官憲に許可すること。それを絶対の条件にされたと彼は言う。
 イーグレットが自国の内政について打ち明けるなど初めてだった。その言葉に潜んだ希望を嗅ぎ取って、カロは陰鬱な気持ちを隠す。
 無情な天秤にかけられている。それでも友人を非難する気は起きなかった。自分には理解できないアクアレイア人を、尽くすべき友として選んだのは自分なのだから。
「そんなに惚れた女なのか」
 尋ねるとイーグレットは熱っぽい目を逸らして伏せた。
「もう他に、あんな女性はきっと現れないと思う」
 返答に胸を掻き乱される。イーグレットには必要なことだ。わかっていても飲み込むのは容易でなかった。
 けれど何が言えただろう。自分は政治の話にも商売の話にも付き合えない。アクアレイア人の常識も知らず、アレイア地方に戻ってからは一度も彼の役に立てていなかった。そのうえロマは嫌われ者だ。イーグレットの関心が余所に移って当然だった。実利を好むのがアクアレイア人という生き物なのだから。
「だったら俺からジェレムに話してやる。別にお前にロマと敵対する気はないんだろう?」
 自分にもできることはある。口をついた提案が友を思う真心でなされたのか、くだらない対抗心でなされたのか、カロには区別がつかなかった。ただこれを逃したら、今までの友情に報いる機会は二度と巡ってこないと思った。
「ちゃんと事情を説明すればあいつだってわかってくれる。流血沙汰が起きる前にロマのほうから街を出れば済む話だ。お前は何も心配するな」
 内心の動揺は無視して笑う。優しい友人は「隠し通路を知っていたって街に入ってこられないのでは意味がない。カロ、私は……!」とこちらを案じた。
 引きとめようとしてくれたことに安堵する。ロマが邪魔になっても俺だけはまだ必要としてもらえるのかと。なら自分は、その気持ちに応えなければならなかった。彼のために精いっぱい、やれることをやろうと決める。
「巡回の隙を突くくらい簡単だ。昔からあちこちでロマは叩き出されてきたし、皆しれっと同じ街に戻っている。だからそんな顔をするな。今まで通り、俺は俺の好きなときにお前に会いにくる」
 平気だとなだめてもイーグレットはなお渋る。「大体ロマがお前たちの決め事なんて守ると思うか?」と真顔で問うと、友人はやっと少し笑ってくれた。
「心配なのはジェレムだけだ。一度はロマの世話になったお前が掌を返したと思われるとまずいから、あいつとだけはきっちり話をつけておかないと。――大丈夫、こっちは任せろ。お前はきっとその女といい夫婦になるんだぞ」
 力になれることがある。たったそれだけの理由で走れた。俺は真剣そのものだった。だけどやはり、ジェレムと殴り合いしたことも、アレイア地方を出ていったことも、お前のためではなかったんじゃないかと思う。
 イーグレット、俺は本当に恐れていたんだ。お前に別れを告げられること。お前に見損なわれたくなかった。お前のために何かできると証明したかった。結局俺は怒るロマたちを抑えきれず、己の無力を思い知っただけだったけれど。

「……じゃあな、イーグレット。どこにいてもお前の幸せを願っている」

 さよならを告げたのは自分だった。ジェレムを説得できなかったのかと失望される前に足は逃げ出していた。側にいたいと願っていたはずなのに、この先ロマである自分が彼の役に立てることはないと思うと、足を引っ張るだけだと思うとどうしても留まれなくて。あのとき側を離れなければ違う未来があったかもしれないのに。
 ――何かできなければならなかったんだ。お前の生き方を否定するまいとしながら、俺の心はアクアレイア人を憎み始めていた。お前をアクアレイア人にしてしまう、お前の愛する全てのものが消えてしまえばいいと願った。
 そんな心は振り払ってしまいたかったんだ。お前に相応しい友人になって。だけどきっと、俺の醜い憎悪は見抜かれたんだろう。お前がいなくなったのは、俺がお前の思うほど強くもまっすぐでもないと知ってしまったからなんだろう。
 もうじきフスの岬に着く。俺の旅はそこで終わりだ。お前と同じところには行けそうもないけれど、どのみち合わせる顔もない。
 俺はあの女を殺す。友達甲斐がなくてすまない。




 ******




 数日続いた地吹雪がようやくやんだその翌日、カロは姿を現した。深い雪に埋もれた極夜の断崖の、硬く凍った湖に。
 スヴァンテから報せを受けてイェンスはすぐルディアたちを呼びに駆けた。洞窟の社で暖を取っていたアクアレイア人たちは各々の武器を手に立ち上がる。ルディアはレイピア、アルフレッドは片手剣、そしてレイモンドは背丈と同じ長さの槍。頷き合って出口へ向かう三人の、最後尾を行く息子の腕を捕まえた。
「お前は駄目だ! 傷が開いたらどうするんだ!」
 表情を曇らせるイェンスにレイモンドは首を振る。
「一人で見てるわけにいかねーよ。戦闘になるとも限らねーし、行かせてくれ」
 落ち着いた声に乞われ、イェンスは黙り込んだ。ルディアたちは早くも岬に飛び出そうとしている。
「なあ」と急かされ、余計に指に力がこもった。なんだか胸騒ぎがするのだと、伝えたところで止まってくれそうになくて。
「……あのさ、俺、姫様のことが片付かなきゃ他のこと考える余裕ないんだわ。けどこれが終わったらあんたとゆっくり話したいって思ってんだよ」
 レイモンドは厚い毛皮のコートごと手首を掴むイェンスに諭す。
「俺の一番大事な人の、一番大事なときなんだ」
 行かせてくれと繰り返す息子にもう何も言えなくなった。あの深い傷を誰のために負ったのか、どうして我慢して自分の船に乗ってくれたのか知っているから。
 イェンスはほんの少しだけ手を緩める。拘束を解くと、レイモンドはちらりとルディアの後ろ姿を確かめて、頭だけこちらを振り向いた。
「ありがとな、心配してくれて。――親父」
 コートの裾を翻し、止める間もなくレイモンドは駆けていく。聞き違いではない言葉にイェンスは小さく震えた。
(レイモンド……)
 彼にも何か予感めいたものがあったのだろうか。もしかしたら、これが最後の会話になるかもしれないと。
 手を合わせ、急いで短い祈りを終える。イェンスは駆け足で湖のほとりへと向かった。
 暗い穴を抜け、真っ白な世界を見渡す。スヴァンテたちは既に居並び、カロを連れてきた古い仲間とぼそぼそ囁き合っていた。その人垣を越えた先に殺気立った男が見える。
 刃を交えずには終わるまい。わざわざフスに聞かなくたって、そんなことは明らかだった。




 雪と氷が星明かりを照り返す夜の底。明るいような暗いような、奇妙に曖昧な空間で、死神然とした男が自分を待っている。
 湖上に薄く積もった雪を踏みしめて、ルディアは一歩ずつカロに近づいた。膝まで覆う毛皮のローブを着込んだ彼は、雪用ブーツの反った爪先をこちらに向けてわずかに顎を傾ける。その側まで来て初めて誰かが彼の腕を引きとめているのに気づいた。
「アイリーン」
 名を呼べば前にも増してやつれた女が泣きそうな目でロマを見上げる。
「ねえ、やっぱりやめましょう。こんなのなんにもならないじゃない」
 訴えにカロは無言で首を振った。放つ殺気と不釣り合いにいたわり深く、男は細腕を引き剥がす。
「もう下がれ。お前を突き飛ばしたりしたくない」
「でも……!」
 アイリーンは再度ロマの腕を掴んだ。しかしカロは彼女を無視してルディアと対峙する。瞳に宿した暗い炎を隠しもせず。
「……話し合う余地はないか?」
 尋ねると「ない」ときっぱり断言された。傍らの騎士も痛ましい声で「親友の残した一人娘だろう? こんな報復にどんな意味がある?」と問うが、カロの考えは依然変わらないようだ。
「そいつは『ルディア』じゃない」
 言い返そうとしたアルフレッドを制し、ルディアはロマをじっと見据えた。
 先祖代々の歌を継ぎたいとか、これから誰とどんな風に生きていこうとか、そういった未来のことは彼の中にもう残っていないのだろう。一瞬きらめき、尾を引いて落ちる彗星のように、燃え尽きても構わないとロマの右眼が言っている。少し前まで自分も彼と同じだった。でも今は。
「……私はあの人が守ったものをあの人の代わりに守っていく。あの人に償い、あの人との絆を取り戻すために。だからお前にもう一度、私こそ王女ルディアだと認めてほしいんだ」
 名付け親のお前にと乞う。くどくどと言葉を重ねる気はなかった。示さねばならぬのは今後の己の行動のみだ。生き様でしか証はもはや立てられない。
「そう言われて頷けると思っているのか?」
 逡巡もためらいもなくカロが問い返す。できるはずないと吐き捨てられ、場の緊迫はいや増した。そこに遅れて槍兵が駆け込んでくる。
「カロ……!」
「今度こそ死にに来たか」
 鼻で笑ってカロはレイモンドを一瞥した。恩人の息子でも手加減はしてくれなさそうだ。「待て、ジェレムはお前に」と説得を続けようとする騎士を遮ってロマは鋭い声を響かせた。
「自分があいつの娘だと思うなら、勝ってそうだと言えばいい。それが決闘というものだ」
 冷たく告げるとカロはポケットから琥珀色のガラス瓶を取り出した。ラベルの貼られた小さな瓶だ。中は何かの液体で満たされている。
「ブルーノの身体まで道連れにはできんからな。これはお前と入れ替える用の脳蟲だ」
 どうやらロマは工房島からサンプルを持ち出してきたらしい。小瓶を奪おうとすぐさまアイリーンが手を伸ばしたが、彼女の企ては失敗に終わった。突如舞い込んできた鷹の羽ばたきで咄嗟の英断は呆気なく蹴散らされる。
「キャッ!」
「無粋ですよ、アイリーン。折角詩的な場面ですのに」
 湖畔で見守る人垣から抜けてきたハイランバオスが引っ繰り返った女を助け起こした。
「ど、どうしてあなたがここに!? 嫌です、邪魔しないでください!」
 暴れるアイリーンを軽々と抱きかかえ、聖預言者はその場から引き揚げる。他人事だと面白がっているらしい。つくづく趣味の悪い男だ。
 二人が去ると氷上には痛いほどの静寂が戻った。剣の柄には手をやったものの、動けずにいるルディアたちにロマはクイと指を振る。
「三対一でいい。来ないならこちらから行くぞ」
 戦闘開始の宣告にアルフレッドとレイモンドが武器を構えて前へ出た。意を決し、ルディアも鞘からレイピアを抜く。
 殺し合いをする気はない。少なくとも余計な者まで巻き込むつもりは。
(決着は私がつける)
 極夜の空には半分の月。運命を決めかねて、天にも昇れず地にも潜れず立ち尽くしている。雪雲はまだ視界の端にしつこく引っかかっていた。足元で踏みしめた雪がキシキシと鳴る。
 カロの目はルディアだけを見据えていた。ごくりと息を飲み込むと同時、懐に小瓶を収め直した男はこちらに飛びかかってきた。




 頑固者めと舌打ちしたい気分で片手剣を振る。怯ませようとカロの目の前に閃かせた刃は、しかしあっさり拳の裏に弾かれた。アルフレッドは半身を返し、崩れかけた体勢を立て直す。反転の勢いに乗って今度は横から脛を狙うがこれも難なくかわされた。
 向こう側ではレイモンドが槍の柄をしならせてカロをルディアに近づけさせまいと暴れている。なすべきことははっきりしていた。幼馴染も狙いは一つのようだった。
 ロマが見せた脳蟲入りのガラス瓶。あれさえ壊せば「中身」が入れ替え不能になり、カロは退くしかなくなるはずだ。脱兎に転じるにせよ追ってくるのが難しい状況にする必要はある。数ではこちらが勝っていても油断ならない強敵だった。足一本奪うくらいの気迫で挑もうとアルフレッドは唇を引き結ぶ。
 カロと戦うのは二度目だ。一度目は防衛隊がまだニンフィのアクアレイア人居留区でくさくさしていた頃、魔獣の頭部を盗んで逃げたアイリーンを追跡中、あれよと言う間に投げ飛ばされた。
 彼は強い。おそらく自分たち三人よりも。それを押さえ込まねばならない。しかも王女に命じられた通り、命に別状ないように、だ。
「はあっ!」
 レイモンドの槍が逸れたタイミングで逆方向から片手剣を振り下ろす。背面を突かれてもカロは動じず、剣の根元に潜り込みながら身をかわし、こちらに足払いをかけた。慌てて後ろに跳び退り、引っ繰り返されるのを避ける。カロを休ませないために今度はルディアがロマの後を追いかけた。
「恥知らずめ! 自分で殺した男の娘を名乗りたいとは!」
「あの人はアクアレイアのために誇り高く死んでいった! ならば生き残った私が祖国のために恥知らずになれなくてどうする!」
 レイピアがカロの肩を襲う。ガキッと鈍い音がして、ロマがナイフで斬撃を受け止めたのが知れた。足が止まった隙を突き、アルフレッドは猛然とカロに切りかかる。
「甘い!」
 王女を振り払ったロマは返す刃をこちらに向けた。飛び道具と化したナイフが頬を掠める。気を取られた一瞬の間にカロは視界から消えていた。ひと拍子遅れて飛び込んできたレイモンドと切り結びかけて「うわっ!」と仰け反る。腹の真ん中に重い蹴りが飛んできたのは直後だった。
「うぐっ……!」
 いかに分厚い毛皮とはいえ胸甲よりは固くない。凍傷になるといけないからと鎧の類は預けていたことを思い出し、ゲホゴホむせた。
「くそっ……!」
 痛みを堪えて立ち上がる。すぐ戦線に復帰したが、三方から囲んでもカロの優位は揺らがなかった。判断力、身のこなし、どれを取っても一級品だ。目は同じ目かと思うほどこちらの動きを素早く捉え、先を読んで制してくる。訓練ではなく実戦で経験を積んだ男なのだ。それも集団である軍隊と違い、完全な個人技。ロマお得意の曲芸的な動きも合わさって予測不可能な攻撃を仕掛けてくる。
「うおっ!」
 レイモンドが襟首を掴まれ地面に叩きつけられた。幼馴染は倒れたまま槍でロマを突こうとするが、ポケットどころかコートにも触れない。なまじ目標が明確なだけにかわされやすくなっているのだろう。
(だったら!)
 アルフレッドは横一線に剣を振った。どうせ毛皮がキルトアーマーの代わりを果たしてろくに切れやしないのだ。なら胴に当たっても鈍痛を与えるのみである。数秒動けなくさえすればガラス瓶の破壊は可能だ。思い切り叩き込んでやるつもりだった。
「……ッ!?」
 ところが二本目のナイフがアルフレッドの狙いを阻む。眉間に向かい飛んできたそれを避けようと身を逸らしたため突進は威力を削がれた。カロに当たるのは当たったものの、やや顔をしかめられただけですぐにみぞおちを蹴り上げられる。
「がっ……!」
 転んでも剣は離さなかった。もう一度だと半身を起こす。だがそのもう一度は来なかった。槍兵と王女の挟撃を鮮やかにかわしたカロが攻撃態勢に移れていないアルフレッドを標的に定めたからだ。
 数歩の助走をつけて跳躍し、カロはアルフレッドの腹部に着地した。体重がかけられたのは一瞬だったがダメージは決定的で、再び雪に沈められる。意地でも剣を離さぬ右手をカロは剣ごと蹴り抜いた。反撃する余裕もなく片手剣は吹っ飛ばされ、氷の上を滑っていく。それだけでは不十分だと断じたか、更に無慈悲にロマは顎骨を砕こうと右足を上げた。寸でのところでルディアが割り込み、深刻な打撃にはならなかったが。
「アルフレッド!」
 声が出せれば危ないと彼女に叫んでいただろう。迂闊に突き出したレイピアが――刺突用の細い剣が、瞬く間にカロのブーツの餌食となって折れ曲がる。ルディアは対峙する男に向かい、使い物にならなくなった剣を潔く投げ捨てた。
「走れ!」
 レイモンドの声が響く。幼馴染が指差したのはアルフレッドの剣が転がった方向だ。彼女に武器を拾わせて自分はロマを食い止めるつもりらしい。
 首飾りの革紐が飛び出していることにも気づかず、レイモンドは槍を構えてカロと向かい合った。なんとか助けになろうとアルフレッドも氷を這う。
(くそ、いつもの剣だったら……!)
 ないものに頼っても仕方ないとわかっていてもバスタードソードがあればと悔やまれた。重量のある片手半剣ならさっきの攻撃も有効打になっただろう。遠くまで蹴り飛ばされることもなかったはずだ。
「いい加減にしろよ、おっさん。あんた陛下の手紙読んだんじゃないのかよ?」
 忌々しげにレイモンドが問いかける。
「お前こそ、あの女が偽者だと知っているくせに」
 返答に幼馴染は怒声を返した。
「そう思ってんのはてめーだけだ!」
 カロは巧みに腕を使い、振りかぶられた槍を押しかわす。レイモンドも突くだけでなく打撃を浴びせようとするのだが、ロマの存外な敏捷さに翻弄されるのみだった。打ち込みは回避され、槍に掴みかかられる。カロが両腕をぐるりと回すと幼馴染の手から武器がもぎ取られた。
「ぐ……っ!」
 膝を蹴られたレイモンドがバランスを崩す。ロマは奪った槍を捨て、冷然と幼馴染を見やった。槍を失った槍兵はなお果敢にロマに飛びかかる。たちまち二人は揉み合いになり、拳骨、頭突き、体当たりの応酬となった。
 だがどう見てもレイモンドの劣勢だ。見る間に打撲の傷が増え、腹部を庇う動きになる。早く加勢しなければとアルフレッドは必死に雪に手を伸ばした。
「よけろ、レイモンド!」
 やっと掴んだナイフをロマ目がけて投げつける。これで多少なり隙が作れるはずだった。
 しかし現実はそう優しくないらしい。飛んできた刃を指二本でキャッチしてカロはくるりと手首を返した。ナイフはすんなり持ち主の手に戻ってしまう。
「ッ……!」
 ためらいもせずカロはレイモンドの首を狙った。幼馴染は間一髪でかわしたが、代わりに切れた首飾りがばらけて散らばる。
(このままでは……!)
 片手剣を拾ったルディアが全力でこちらに引き返してきているのを確認し、アルフレッドはカロの足に飛びついた。転ばせるつもりだったがそうはならず、逆に踵で顎を蹴られる。
 頭が激しく揺さぶられたその瞬間、見えていた景色がモノクロになって明滅した。それが終わったと思ったら、今度は激しい吐き気と眩暈に襲われる。
「う……っ!?」
 ――手が、足が、動かない。不慣れな剣で戦うルディアが見えるのに、彼女を庇って攻撃を受けるレイモンドが見えるのに、金縛りにでも遭ったように。
 脳震盪なんて言葉はまだ知らなかった。大人しく回復を待つしかないことも。
 傷の上から痛烈な殴打を受けたレイモンドの倒れる姿が二重に映る。ナイフは取り落とさせたものの、盾を剥がれた王女が追い詰められるまで長い時間はかからなかった。




 最初に自分に戦い方を教えてくれたのはイェンスの船にいた男だ。目の良し悪しが生死を分ける、あとは身体がついてこられるかどうかだと。
 イーグレットと別れてから長い間一人で生きてきた。二十年、背中を預ける友もなく。だからこんな未熟者が三人がかりで向かってきても大した脅威ではないのだ。
 四肢が麻痺しているようだから騎士はしばらく起き上がれないだろう。槍兵も、青ざめた額を見れば芳しくない状態と知れる。剣を振り回す仇敵はカロが後退するのに釣られて次第に仲間たちと離れた。或いはあちらも二人から自分を遠ざけようとしたのかもしれない。
「くっ……!」
 間合いを詰め、ルディアの剣の柄を掴んだ。こちらの目元を狙って彼女は雪を蹴り上げたが、気にせず腕に力をこめる。お返しにカロも膝蹴りを放った。武器を持っていかれるまいと踏ん張っていたために、まともに腹に一撃受けてルディアはその場で膝をついた。
「うぐ……ッ!」
 げほっ、えほっと咳き込む声が氷上に響く。この程度かとがっかりしながら片手剣を投げ捨てる。もう一度あいつの娘を名乗りたいなどとほざいておいてこの程度かと。
 一体自分はどこでどう間違えたのだろう。行けないよと言うイーグレットを力づくで連れ出さなかった最後の日か。変わっていく彼を恐れてアクアレイアを去ってしまった遠い日か。
 この女を見誤ったことは確かだ。イーグレットの育てた子供がイーグレットを裏切るはずないと信じ込んでしまった。こいつもまた、自分には理解不能なアクアレイア人だったのに。
「俺は認めん。お前があいつの娘だなどとは」
 暗い天蓋に閉ざされた白銀の風景。白と黒の世界に異物のごとく転がった青。これを取り除かねばならない。安らかに、一切何も考えず、孤独ですらない無となって滅びるために。
 イーグレットはアクアレイア人を恨むなと言う。全部自分で決めたのだからと。それなら俺だって自分で恨むと決めたのだと言いたかった。見下げられたとしても構うものか。どうせ二度と会えないのだから。お前は行ってしまったのだから。冠を戴いた姿で。
「カロ……」
 ゆっくりと近づく自分を見上げて膝をついたままルディアが構える。友人の返り血を浴びて呆然とする彼女のさまを思い出す。
「どう思っているんだ。あいつを殺したこと」
 納得のいく答えなど求めてはいなかった。ただ怒りの炎をたぎらせるために聞いたのだ。この女の言葉では止まれないことくらいわかっていた。
「……罪は罪だ。しかし私は娘として、果たすべき義務を果たした。この先も後悔はするまい」
 十分だ。胸中に呟いてカロは拳を鳴らす。諦めの悪い目がしつこくポケットを追っていたが、何ができるとも思えなかった。この女に残された手段はせいぜいレイピアの鞘で小瓶を狙うくらいだ。
「ッ……!」
 案の定彼女の間合いに入った直後、紐から外されていた鞘が振り上げられた。半歩も下がれば奇襲はあっさり空振りに終わる。がら空きの胸を蹴り飛ばし、カロは冷たい氷上に仇敵を転がした。
「ぐっ……!」
 飛びかかり、馬乗りになったルディアを仰向けにさせる。喉を絞め上げるともがいたが、力をこめても引き剥がすことは不可能なようだった。
「カ……、ロ……っ」
 殺気を感じて振り返る。見ればすぐ側で死にぞこないが足を引きずっているのが見えた。無駄な努力だ。大人しくしていれば自分は助かったかもしれないのに。
 レイモンドは背後からこちらの腕に掴みかかった。左手でルディアの喉元を押さえたままカロは右手でレイピアの鞘を拾う。後ろに突けば槍兵はもんどりうって倒れ伏した。念入りにもう一発浴びせると痙攣して動かなくなる。
 仕切り直しだ。再びルディアにのしかかり、遺言も聞かぬまま首を絞めた。
「…………っ」
 ああ、これでやっと終われる。友人のために何もできない愚かな自分と別れられる。
 イーグレット、結局俺が一番手酷くお前を裏切ってしまったな。お前の最後の願いさえ俺には叶えられそうもない。だが他にどうしようもなかったのだ。俺にとってお前の存在は大きすぎた。
(イーグレット……)
 ルディアの頬が色を失くす。抵抗はすっかり弱々しいものになっていた。
 この女を殺したらお前はどんな顔をするだろう。泣くだろうか。嘆くだろうか。俺を恨むと化けて出るかな。
 自分の想像に知らず吹き出す。呪い殺してくれるならそうしてくれと口角を上げた。
 だって俺のしていることはあまりに酷薄だ。炎は今やお前まで焼こうとしている。お前が残した手紙には、娘を想う言葉が山ほど綴られていたのに、俺のこの手はそれさえ灰に帰そうというのだ。
(イーグレット、俺は……)
 お前に会いたい。もう一度、どんな形でもいいから。
「――――」
 視線を感じ、全身がざわついたのはそのときだった。ばっと顔を上げ、周囲にきょろきょろ目をやるが、湖畔の立会人らの他にこちらを見つめる者はない。
 けれど誰かに見られているのは確かだった。雪解け水の流れる川で初めて彼の幻を見たときも、これとまったく同じ感覚を味わったのだから。
(どこだ? どこからこっちを……)
 極夜の空を見上げたのはルディアの双眸がそこを見ている気がしたからだ。それからすぐに白い鳥が――白鷺が天に翼を広げた。
(あ……)
 星空の一点が破れる。そこから溢れ出した光が夜を駆け巡る。あっと言う間に暗闇を払いのけたそれは、真昼のごとき明るさで世界の果ての岬を包んだ。四方八方に腕を広げ、自身を激しく波打たせながら。

「……イーグレット……?」

 オーロラは無限の色を持つ。時には雲と見紛う真っ白な光を放つこともある。どこに出るかもその時々で異なった。森の彼方に浮かぶ日もあれば、こうして人間たちの真上に降りそそぐ日も。そのとき光は天を覆い尽くすのだ。
「げほっ! げほっ!」
 手から力が抜けていたのに気づき、動揺したまま眼下のルディアに目を戻す。だがもう彼女の喉を絞めることはできなかった。
 駄目だと首を振られたから。ずっと呼び続けていた男に。
「――……」
 手を下ろせと諭す仕草に指が震える。氷に膝をついていたのは少年でも青年でもなく最後に手紙をくれた彼で、唇に優しい微笑を浮かべていた。
 それだけの、一瞬の幻。動けなくなるには十分な。
(本当に酷い男だ)
 憎んでいると知っていて、苦しんでいると知っていて、お前が俺を止めるのか。お前が俺を。イーグレット。
 ――カロ、君に頼みがある。
 友の言葉が耳の奥にこだまする。自分を絶望の淵に叩き落とした、愛情深い彼の言葉が。
 どうかルディアを守ってほしい。そうイーグレットは言ったのだ。人生に光を与えてくれた娘を、同じ道を歩んできたルディアを、どうか自分の代わりにと。
 嗚咽を堪えきれなくなり、光る天に泣き吠えた。
 殺してしまいたかったのに、もう死んでしまいたかったのに、どちらの道も塞がれる。
(お前がこいつを庇うなら、俺に殺せるはずないだろう)




 慟哭するロマを見やり、レイモンドはぴくりと指を跳ねさせた。何が起きたのかわからないが、今なら脳蟲を奪えるかもしれない。そう思い、最後の力を振り絞って半身を起こす。
「はあっ……、はあ……っ」
 脈打っている傷を押さえて膝で歩いた。カロはどこまでも無防備で、簡単にポケットの中を探らせる。
 取り出したガラス瓶はただちに硬い氷に投げつけた。がしゃんという音にも気づかずロマはオーロラを見上げて泣いている。
「……姫様……っ」
 手を差し伸べるとルディアは半分呆けながら「レイモンド、今お父様が」と呟いた。彼女を助け起こしてもなおロマはこちらをほったらかしたままでいる。どうやら本当に戦意喪失したようだ。
(なんだ……、どっちが勝ったんだ……?)
 状況から判断しようと見比べるがよくわからない。それともこれは、勝負がつかなかったのだろうか。天からの使者に引き分けの裁定をされて。
(だったら終わりって言わねーと……)
 ふらつきながら立ち上がり、レイモンドは立会人の一団を振り返った。拳を高く突き出せば彼らは一斉に駆けてくる。
(――あれ?)
 ふと気づけばレイモンドは氷上に横たわっていた。起きたところなのに何故また寝転んでいるのだと首を傾げる。姫様と呼ぼうとしたら声の代わりに血が溢れた。傍らではルディアが蒼白になっている。必死に何か叫んでいる。
「レイモンド、おい、しっかりしろ!」
 なんでそんな顔してるんだ。カロは戦うのをやめてくれたんじゃないのか。脳蟲の小瓶も壊したし、危機はめでたく去っただろう。
「レイモンド、お前傷が……!」
 他人のコートを勝手に開いてルディアは息を飲み込んだ。気恥ずかしいからそういうのは心の準備をさせてくれと茶化そうとしてまた血を吐く。ルディアの眉間のしわが濃くなる。
(ああ……これ駄目だ。寒いからかな。感覚がない……)
 目を閉じたら起きられなくなるんじゃないか。それが不安で重い瞼を必死に開いた。もし彼女が笑ってくれれば眠ってしまっていいのだけれど。
(姫様……)
 冷やせば傷が凍ると思ってか、ルディアは掻き集めた雪をレイモンドの腹に乗せてくる。そんなこといいからこっちを向いてほしかった。寝入ってしまう前に笑顔が見たかった。
「……め、さま……」
「喋るな馬鹿! 大人しくしてろ!」
 一喝に己のほうが微笑する。怒鳴られるなんて久々だ。まあこれでも悪くはない。満足して目をつぶる。
 あとのことはきっとアルフレッドがどうにかしてくれるだろう。筋金入りの騎士だから、王女の涙を乾かすためならなんだってやるはずだ。もし俺が二度と目覚めることがなくても、アルさえいれば。
(ひめさま…………)
 悪くない人生だった。彼女のおかげで。叶うなら、もう少し側にいたかったけれど。




 転がった四肢から力が抜けたのに気づいてルディアはハッと息を止める。
「おい」
 かじかむ声で呼びかけるがレイモンドはぴくりとも反応しない。イェンスが手を握っても駄目だった。脈はどんどん弱まって、雪は真紅に染まっていく。
「レイモンド、おい」
 こんなところで死なせてたまるか。お前はまだこれからの男だろう。
 そう念じ、再度止血を試みるも開いた傷が塞がってくれる気配はない。死神の鎌は今にも彼の首を刈り取ってしまいそうだった。
(嫌だ……!)
 死なせたくない。だがどうすればいいかわからない。
 群がる水夫の中からルディアはうねった黒髪を探した。行きの船で薬を使い果たしたのは知っている。それでも希望は彼にしかなかった。
「――助けてあげましょうか?」
 目が合うとハイランバオスはくすりと微笑んだ。「いいですよ。あなたが私の言うことをなんでも一つ聞いてくださるのでしたら」などと悪魔じみた取引を持ちかけられる。
「一つというのは他でもなく、私をあなたの……」
「助かるのか? だったら早く治療してくれ、話は後だ!」
 即答したルディアに男は目を丸くした。それからふふふと面白そうに笑い声を漏らす。
「やはりあなたは興味深い個体ですねえ。私がアクアレイアに害をなす計画を立てていたらどうするんです?」
「話は後だと言っている。頼むからさっさとしてくれ!」
 生気のないレイモンドの顔を見ていたら胸が張り裂けそうだった。ルディアが急かすと冷淡な医者は「放っておいてもまだ四時間は死にませんよ」などとのたまう。
「おいで、ラオタオ」
 前へ歩み出たハイランバオスは腕を伸ばし、琥珀の翼の鷹を呼んだ。軽薄な若き将軍の名を耳にしてルディアはにわかに目を瞠る。
「少々苦しい思いをさせますが、我慢してくれますね?」
 猛禽はピィと落ち着いた声で鳴き、喉を絞める医者のなすがままになった。間を置かず鷹は窒息し、翼と足がだらんと垂れ下がる。左目からこぼれた袋型の蟲を瓶に回収するとハイランバオスは自前の短剣を取り出した。続いて彼は患者の胸に鷹の骸を横たえて、その小さな頭部に穴を穿ち始める。
「こ、こりゃなんの儀式だ?」
 イェンスがそう尋ねたのも無理はない。ルディアの目にも医者のやっていることは前時代的な快癒の祈りにしか見えなかった。アイリーンに説明を求めても「わかりません」と首を振られるし、効果があるのか不安になる。
「この薬、最初に発見したのはロバータ・オールドリッチなんですよ」
 頭蓋骨を貫いた刃を丁寧に抜き取りつつ、ハイランバオスはマルゴーで珍獣を収集していた伯爵夫人の名を挙げた。
「疑問に思ったことはありませんか? 脳蟲は決して損傷の激しい死体に取りつかないのに人間と獣を半分ずつくっつけた魔獣には寄生できていたなんて」
 アンバーのことを言っているのは間違いない。「何故なのか知っているのか?」と返すと医者はにこやかに頷いた。
「ロバータは最初からキメラを造りたかったみたいですね。目的があったから、使えそうなものは端から試していった。執念がこの万能薬を――死体と死体を繋ぎ合わせるほど強い回復力を持つ、この薬を見つけ出させたんですよ」
 新鮮なほど効き目があるんですと言ってハイランバオスは穿った穴から髄液を滴らせた。見覚えのある黄色の液体。医者によると普通の人間はこれが無色透明らしい。
「いつもは血が混ざらないように精製するんですけど、今日は仕方ありませんね」
 雪のどけられた傷口に薬液が垂らされると、泡立ったそこは見る間に接着し、新しい肉と皮膚が生まれ直した。まるで魔法だ。「残りは飲んでもらいましょうか」とハイランバオスは手に受けた髄液をよいしょと槍兵の口内にそそぐ。
 血色を見ればレイモンドが一命を取り留めたのがはっきり知れた。医者曰く、「生搾りですし完治したと思いますよ」とのことだ。
(ん? ちょっと待て。もしかしてこいつ、今までずっと治せるものをわざと治さずにいたんじゃ……)
 胡散臭さは倍増したが、今は考えないことにした。誰かが死んで泣くよりも騙されて怒るほうがいい。
 イェンスに運ばれていくレイモンドを見やってルディアはほっと息をついた。見上げれば極夜の空は澄み渡り、冴えた空気に星々が輝いていた。




 ******




 ――夢を見ていたような気がする。コリフォ島で、俺は一人で蛍を見ていて、そこにあの人がやって来る。
「強情な娘だが、よろしく頼むよ」
 後ろで手を組み、穏やかに微笑むイーグレットに「はい」と答えた。答えた瞬間目が覚めて、光の海から現実に引き戻されてしまったが。

「……姫様?」

 呟くと枕元にいたルディアがこちらに被さるようにして「大丈夫か? 痛みはないか?」と尋ねてきた。ぼんやりしつつ起き上がり、レイモンドは辺りを見回す。
(あれっ? 傷開いてなかったっけ?)
 円錐形に張られたテントの中はほんのりと明るかった。どうやら今は昼過ぎらしい。煙出しのための隙間から曙の光が差し込んでいる。地平線の向こうに隠れた太陽が少しだけ光を分けてくれる時間だ。
「いや、なんともねー。すげー元気」
 ぽんぽん腹を叩いても不快な感覚は一切なかった。返事を聞いたルディアはさっと立ち上がり、「知らせてくる」と飛び出していく。
 アルフレッドやアイリーンを連れて彼女はすぐに戻ってきた。三人の後にはイェンスとカロも続く。うおっと一瞬身構えたが、憔悴したロマに殺意は感じられなかった。
「……俺はもう行く。イェンスにでも読んでもらえ」
 レイモンドの顔を見てカロは何かを投げてくる。放られたのはあちこちしわだらけになった一通の手紙だった。
「読む間ちょっと待ってくれよ」
 引きとめるとカロはテントの入口で顔をしかめる。どうして報復をやめたのかとか、もうルディアに危害は加えないだろうなとか、こちらは知りたいことだらけなのだ。そう簡単に見送るわけにいかなかった。
「それが例の、イーグレットからお前宛ての遺書か?」
 イェンスの問いにロマが頷く。「また懐かしい暗号だな」と便箋を開いて父はうっすら目を細めた。
 レイモンドが眠っている間、どうやらイェンスがカロを落ち着かせてくれたらしい。事情もある程度聞いたようで、ルディアに「読むぞ」と確認を取る。
「ああ、頼む」
 緊張気味に彼女は頷いた。レイモンドも、アルフレッドも、アイリーンも、揃ってごくりと息を飲む。
 正真正銘これが最後のイーグレットの肉筆だろう。どうかルディアを励ます一通でありますようにと祈るレイモンドの傍らで、イェンスはゆっくりと王の遺言を読み上げ始める。
「……君に手紙を書くのはこれが最後になると思う。君はいつでも私を案じてくれているのに、一緒に逃げようという君の申し出に応えることができなくてすまない。私はコリフォ島へ行く。しかしこれは強制されてのことではなく、自らの意思でだ。どうかアクアレイアの民を恨まないでほしい」
 枕元に腰を下ろしたルディアがぎゅっと拳を握りしめた。聞き入る皆の表情は真剣そのものだ。
 何故なのか、夢の続きを見ている気がしてレイモンドは瞼を伏せた。あの人が側にいる錯覚さえする。本当にここにいてくれているなら嬉しいけれど。
「君には話したいことが山ほどあるのに、果たしていない約束もまだたくさん残っているのに、時間というのは待ってくれないものだね。情勢がもっと落ち着いて、王国に平和が訪れたら、今度こそ君と別れ別れになっていた二十年間のやり直しをするつもりだったんだ。本当だよ。……けれどもはやそれも叶うまい。だからここに一つだけ白状しておく。
 君が「いい夫婦になれ」と言ってくれたのに、私の結婚生活は最初から破綻していた。妻はグレディ家の手先で、私には彼女を変えることができなかった。ルディアが生まれてからも状況は悪くなる一方だったよ。宮中から私の味方はいなくなり、ディアナは儚く世を去って、娘はグレース・グレディの操り人形と化した。何もかもめちゃくちゃにされたのに、私にはグレースを憎む気力も残っていなかった。君をアレイア地方から追いやって以来、私は自分を責めてばかりいたんだ。何を失い、何を奪われても、己の不甲斐なさが悪いと考えることしかできなかった。いつしか何にも逆らわなくなり、自分は無価値だ、王としての資格など――いや、生きる資格さえないと考えるようになっていた。私は孤独だった。君との友情も永久に損なわれた気がした」
 つらい懺悔に胸が痛む。もっと早くルディアに出会えていれば、もっと力になれることがあったかもしれない。戻せない時間を悔やむのは不毛なことだと承知してはいるが。
「そんな私にある転機が訪れた。ルディアが重い病に倒れたのは私が死を考え始めた頃のことだ。娘を回復させるのに私は必死だったけれど、内心では彼女がいなくなったらまた自分にかかる重圧が増すと怯えていただけかもしれない。私は卑怯な臆病者になっていた。ルディアも少なからずそうなっていた。……だがあの子には奇跡が起きたのだ」
 うつむくルディアが心配で、ちらちらと顔を覗いた。大丈夫だと言ってやりたい。あの人の手紙にあんたが縮こまるようなこと書いてあるはずないだろうと。しかし口を差し挟む余地もなくイェンスの朗読は続いていく。
「熱が下がって次に目を覚ましたとき、あの子は何も覚えていなかった。私への親愛を示してはいけないとグレースに強く戒められていたのに、あの子は私の手を握り返してくれた。初めて君の右眼を見た、遠い日のことを思い出したよ。私はもう一度立ち上がろうと決心した。今度こそ娘とともにグレディ家と戦おうと。
 それからは毎日、大変だったが張り合いもあったな。記憶の底に沈めていた君との思い出も徐々に甦らせることができるようになった。ルディアは二度とグレースの色に染まらず、君の予言した通り、父親思いに育ってくれた。私は全身全霊であの子を守ってきたつもりだ。できることはなんでもしたし、なんにでも耐えた。くじけそうになったときは、君が名前をくれた娘だろうと自分を奮い立たせて」
 イーグレットの肉声が聞こえてくるようだ。脳裏にはコリフォ島で見た王の素顔が甦る。
「カロ、君に頼みがある」
 イェンスは震える声で呟いた。ロマを踏みとどまらせたのだろう、あの人の最後の願いを。
「……私に代わってこれからは、君があの子を守ってくれないか?」
 息を飲むいくつもの音が響いた。アイリーンがカロを見やり、細い肩をわななかせる。ルディアもまた目を瞠り、手紙を読むイェンスを仰いだ。
「ルディアはコリフォ島へやらず、マルゴー公国に逃がすつもりだ。だが王家の血が流れる以上、あの子も真に平穏には生きられないだろう。いや、私は身の安全以上にあの子の心を案じているのだ。
 私はルディアを思うばかりに「誰も信じてはいけない」などと言い聞かせて育ててしまった。それが心残りでならない。私が側にいなくなればあの子には誰が残るだろう? チャド王子には遠慮が拭いきれないようだし、ユリシーズはあの子に牙を剥いた。
 ずっとでなくて構わないのだ。あの子が誰かを見つけるまで、私にとっての君に等しい誰かに巡り会うまでの間、あの子の支えになってほしい。あの子を助けてやってほしい。
 自分の過ちから出た心配を他人に押しつけるものではないと承知はしている。だがこんなことを頼めるのは君だけだ。私のために親身になってくれたように、あの子を見守ってくれないか?
 私が人生で最も暗く深い闇に落ちたとき、光をくれたのはルディアだった。生まれ変わったあの子が私を救ってくれた。そして私はどうにかこの世に生きながらえて、君との再会も果たせたのだ。君が頷いてくれたなら私は思い残すことなく旅立てる。
 今こうして王宮を去る決断を迫られて、私は私が何者であるか悟った。冠を外されても、玉座を追われても、私はアクアレイアの王であることをやめないだろう。何故なら私の王たる背中をルディアがどこかで見ているからだ。
 ……許せ、友よ。二十年前ならきっと君と逃げ出した。しかし私は変わってしまった。私は父になったのだ。最後まであの子が私を誇ってくれるように、私は王である自分を捨てられない。私のこの頑固な願いを認めてほしい。王国の誰のせいでもないのだ。たとえ民衆が引きとめてくれたとしても、私の選択は変わらなかった。それは確かだ。
 長々と自分の事情ばかり書きつけてすまない。勝手だが、ルディアのことは君に任せる。その代わり、私はどんなに遠く離れていても君を思い続けるよ。君のまっすぐな眼差しが、いつも、君のいないときでも私の弱さを振り払ってくれたように。
 君を見ている。ずっと、君がどこにいようとも。忘れないでくれ。私たちの歌も旅も続くのだ。親愛なる友よ、君の人生に幸多きことを……」
 終わりまで読みきってイェンスが喉を詰まらせる。
 涙が出るのは信じたことが正しかったからだろうか。それともあの人の想いが温かいからだろうか。
「……っ」
 ルディアの頬が濡れて光る。それを見て、思わず肩を抱き寄せた。
「なんでお前まで泣いているんだ」
「泣くだろそりゃ……! 良かったな、姫様。ちゃんとあの人が言ってくれて。娘だって言ってもらえて本当に良かった……」
 アイリーンは号泣し、貰い泣きでイェンスまで鼻を啜る。同じく目頭を押さえた騎士は「そうか、そういう手紙だったか」と頬をほころばせた。
「遺言を守る自信はないが、復讐も続けられない。これからどう生きればいいか、少し一人で考えさせてくれ」
 じゃあなとロマは玄関代わりの布を捲くる。慌ててアルフレッドが「あっ! 望郷の歌は!?」と尋ねた。
「リュートをよこせ。返すついでにジェレムに直接教えてもらう」
 突き出した手に古びた楽器が渡されるとカロは今度こそテントを去る。振り返ればテントに残ったアイリーンが「きっとまた戻ってきてくれるわ」と涙を浮かべて呟いた。
 そうなればいい。いや、そうなるに決まっている。イーグレットの用意してくれた「めでたしめでたし」が簡単に覆るはずないではないか。




 ******




 ――ああ、不思議な気分だ。お前の姿は見えないのに、お前と一緒に歌った歌を口ずさむとお前の声が重なる気がする。
 俺の過ちを、お前は許してくれたんだろうか。
 俺の抱いた憎しみを、お前は認めてくれたんだろうか。
 だとしたらつくづく愚かな男だ。だが俺はそんなお前だからこそ心を許して友達になったんだったな。
 イーグレット、これから俺たちはどこへ行こう。お前が側にいてくれるなら俺はどこにだって行ける。
 そのうちアクアレイアへも足を延ばそう。今はまだ胸が痛むけれど、いつかそのうち。
 お前の愛してきたものを、俺にも愛せる日が来たら。








⇒終章へ

(20170428)