第四章 羊の密告
物語というのは不思議だ。そこに書かれた文章はなんら変わっていないのに、時の経過で、読み手の置かれた状況で、まったく印象を変えてしまう。
今までなんとも思わずに読み飛ばしていた一行が急に深い意味を持ち始める。心の奥に踏み入って、癒えない傷を疼かせるほど深い意味を。
「――……」
静かに長い息を吐き、アルフレッドは膝に広げた騎士物語から目を上げた。固まりかけていた肩の筋肉を回しほぐす。向かいのソファでは女帝が書き物の最中なので動作はなるべく控えめに。
特別やるほどのこともなく、サロンに移ってからはずっと本を読むか新聞を読むかの二択だった。あるいは読書のふりをして終わりない沈思に耽(ふけ)るか。
皮肉なことに自己反省の時間だけは山ほどある。やり直したい瞬間は二度と巡ってこないのに。
記憶は風化するという。だが今は少しもそんな気はしなかった。受け止めた剣の重みも、呪いじみた声の響きも、いつまでも生々しい。
息をつめ、アルフレッドは再び視線をページに戻した。左隣はずっと空席のままである。あれから誰が座るでもなく、酷く空虚な穴として存在している。
わからなかった。考えても、考えても。
納得いく答えを見つけたからといって何か取り戻せるわけではない。だからもう、主君や部隊やアクアレイアのこれからを考えたほうがいいと思うのに、気がつけばまたあの日に引き戻されている。
何を間違えたのだろう。自分の何がああまで彼を激昂させ、身を投げるほど嘆かせたのだろう。
――私のことはどうなるんだ?
同じ問いを何度も何度も繰り返している。答える相手を喪った問いを。
「どうしたの? アルフレッド」
と、不意に正面で声が響いた。書物を繰る手を長く止めすぎていたせいか、顔を上げるとアニークの心配そうな目と目が合う。
「いえ、なんでもありません。ちょっと疲れただけですよ。ここ最近目を酷使してばかりなので」
咄嗟の言い訳に彼女は一応納得してくれたようだ。しかし放っておく気にはなれなかったらしく、「じゃあ休憩がてらお喋りしない?」と持ちかけられる。
「どのあたりを読んでいたの?」
「プリンセス・オプリガーティオとサー・セドクティオの章です」
問われてアルフレッドは目に入った人物名を拾い上げた。章ごとに来訪先の変わるパトリア騎士物語では誰の登場する回か説明するのがわかりやすい。が、病弱ながら賢明なプリンセス・オプリガーティオと、軽薄ながら意外に一途なサー・セドクティオに関しては、人気のゆえ独立した章があるためにもう少し具体的に補足しなければならなかった。
ここでは二人が緊迫の中、忠誠と情愛について各々の立場から語っている。オプリガーティオは小国の主として、セドクティオは主に恋する男として。
「第三部の山場ですね。遠国の姫と王子が駆け落ちに失敗したという報告に、珍しく騎士が取り乱して帰ってくる……」
「ああ、あそこ」
アニークは「好きな章だし何百回と読んだわ」と得意げだ。特にお気に入りだというセドクティオの独白は一言一句違わず暗唱できるという。
二人きりではどうしても静かになりがちなサロンを活気づけるためだろう。頼みもしないのに彼女は高く腕を掲げ、情感たっぷりに一人朗読劇を始めた。なんの悪意も他意もなく。
「『ずっと、ずっと、あなたをお慕いしておりました。そう言えればどんなにかこの胸が楽になるかわからない。それなのにあなたは私に杯の酒を漏らすなと仰せなのですね。ああ、あなたへの愛が憎しみに変わりそうです! どうして一番側にいる私に一番酷いことをなさるのです? 我が姫よ!』――と、こうでしょう?」
にこやかに笑いかけられてアルフレッドは息を飲んだ。
張られた声の大きさに圧倒されたわけではない。普段ならアニークの達者な芝居に拍手すら送っていたことだろう。だがまさに読むのを中断したきっかけの台詞をぽんとぶつけられ、動じぬわけにいかなかった。
――杯の酒。飲み干したくせにと白銀の騎士が責める。
あれは確かに誓いであった。決して互いを裏切らぬという。
「ここ、いつも余裕たっぷりでちっとも本心を見せないサー・セドクティオがどんなに深くオプリガーティオを想っているかわかって胸を打たれるわよね。私もこの台詞は何度かユリシーズに読み上げてもらって――」
そこまで言ってハッとアニークが口を閉じた。「ご、ごめんなさい」と大慌てで詫びられてアルフレッドはしばしその場に硬直する。
「……いえ、大丈夫です」
なんとかそう返事して表面を取り繕った。しばらく耳にしなかった彼の名にどきりと跳ねた心臓をなだめて。
「ま、まあとにかく、いい場面よね! うん、うん」
焦った様子でアニークは強引に話題を戻す。気にしなくていいのにと思ったが、そういうわけにもいかないらしい。失態を誤魔化すように彼女は口の滑るまま喋り続ける。
「それにしてもこう、なんていうか、オプリガーティオもなかなか無慈悲な女よねえ? この章を読んでいると私、どうしてもセドクティオの肩を持ちたくなっちゃうわ」
思いもよらないひと言が飛び出したのはそのときだ。えっとアルフレッドは瞠目した。敬愛の対象であった小国の姫にあんまりな評価を下されて。
オプリガーティオが無慈悲? 不治の病に喘いでも民のため、領地のために力を尽くす彼女のどこが? 正直にそう思った。
全登場人物中、最も己を削っているのがプリンセス・オプリガーティオだ。褒められこそすれ貶(けな)される点があるとは思えない。それに彼女は彼女の騎士を誰よりも認めている。セドクティオは有能ではあるが、同時に不遜とも言える男なのに。
ぱちくり瞬くこちらを置いてアニークは自分用のパトリア騎士物語を開く。該当箇所を見つけると女帝は「やっぱりねえ」と深く嘆息した。
「この姫わかっていてやっているでしょう、セドクティオのつらい心を……! 気づかないふりを続けるなんて卑怯じゃない? セドクティオは彼女のために頑張っているんだから、口づけの一つもしてあげればいいのに!」
「え、ええ!?」
当惑はついに声に出る。さすがにそれは主従の一線を越える行為だ。人目につけばただではすまない。事によってはセドクティオがオプリガーティオから引き離される可能性もある。
「確かに俺も彼女のこれは見て見ぬふりと思いますが、オプリガーティオには騎士としての彼が必要なのだから仕方ないのではないですか?」
病気で動けぬ王女にとって唯一無二の手足と言えるのがサー・セドクティオである。道ならぬ恋に溺れて四肢を失えば彼女は領地を守れなくなる。そこはセドクティオが主君のため、私情を滅して耐えるべきところではと思わざるを得なかった。
だがアニークは、アルフレッドとはまったく別の見解を示す。
「セドクティオが騎士であることに誇りを持っているならそれでもいいわよ。だけど彼ってオプリガーティオを愛しているだけじゃない? 騎士でいるしか側にいる術がないからそうしているのよ。なのにオプリガーティオは恋なんて諦めてただ忠実であれって言うんですもの、あんまりだわ!」
女帝はオプリガーティオがセドクティオの愛情を軽視しすぎだと憤慨する。騎士道なんて本当はどうだっていい人間に役目ばかり押しつけて、申し訳なく感じないのかと。
「――――」
アルフレッドは再び目を見開いた。今何か、無関係だと思っていた点と点が突然繋がった気がして。
それが一体なんなのか最初はよくわからなかった。わからなかったがとても大切なことに思えた。
騎士である自分に誇りを持っているから騎士をしているのではない。騎士でいるしか術がないからそうしている。言われてみれば納得のセドクティオ解釈がなぜか胸に重く響く。
「……で、ですがそれでも口づけというのは無理があるのではないですか? 不仲な主従ではないとは言え、オプリガーティオに恋愛感情はないでしょう。噂が立てば誰のためにもなりませんし、好きでもない相手にそんな、よほどのことがなかったらできませんよ」
アルフレッドは思考に半分気を取られたままそう言った。褒賞を不埒な形で与えるのはいかがなものかと顔をしかめれば女帝はもごもご口ごもる。
「まあそれはそうだけど、オプリガーティオもセドクティオを嫌いでないなら一度くらい……」
隠しきれない希望のこもる眼差しをちらと向けられ、アルフレッドは思わず斜めに目を逸らした。触れないでおく話だと思っていたから急に恋慕が燃えているのを見せられて狼狽する。彼女の「核」である情熱が薄らぐことが決してないのは知っていたはずなのだが。
「いや、ですが、親しみや感謝の念をそういうものと混同するのは……」
諫(いさ)めたつもりの言葉だったのに響きは酷く言い訳がましい。アニークがすぐ「そうね、あなたの言う通りね」と聞き分けてくれなければもっと無様に喉を詰まらせていたかもしれなかった。
「……だけどオプリガーティオは病身で、いつ死んでもおかしくなかったわけでしょう? セドクティオはその前に、ほんのわずかでも自分が愛されていたことを知りたかったのではないかしら……」
ぽつりと頼りなげな呟きが落ちる。言われて振り返ってみれば、かの騎士は求めても求めても望むものを得られない気の毒な男だった。
セドクティオは嘆く。あなたは私を何もわかってくださらないと。
以前このエピソードに触れたときは、ずっと私の騎士でいてと望まれる彼を羨ましいとさえ思ったのに、今はもうそんな感情は湧かない。ただ彼の悲嘆が別の騎士の悲嘆と重なって響くのみだ。
――わからないのか。
夢の底の暗闇で白銀の騎士が嗤(わら)う。
多くを知っているわけではない。けれど彼が抱いていた深い怒りや悲しみをまったく知らぬわけでもない。
――どうして一番側にいる私に一番酷いことをなさるのです?
心が妙にざわめいた。今まで理解の彼方だったセドクティオが急に近しい男に思えて。
グローリア一行が彼の住まう小国を訪ねたとき、憧れを追って真摯に騎士の道を行くユスティティアにセドクティオはこう零している。「私もお前のような騎士になりたかった」と。それはいつか大鐘楼で打ち明けられたユリシーズの言葉に似ていた。
******
ドキンドキン、心臓が嫌な音を立てている。背中は汗でぐっしょりだ。平静を装っていたいのに、そう簡単には休ませてくれない現状にバジルは痛む胃を押さえる。
「アクアレイアに水銀鏡を持って行きたい?」
怪訝に眉を歪めたのは聖預言者の器に入って駄犬を演じるブルーノだった。砦の主館の最上階、長椅子とテーブルとベッド以外は家具らしい家具もない、狐の寝所でタルバが「ああ」と堂々頷く。
「この間ファンスウが『探し物をしている』とか言って鏡の迷宮を勝手に解体しちまっただろ? 幸い全部割られずに残っちゃいるけど、苦労して組み立て直してもまたバラされるかもしれねえし。だったら女帝陛下に献上して喜んでもらったほうがいいと思って」
突然出てきた要望になんと応じるべきかわからないという表情でブルーノは「はあ、なるほど?」と肩をすくめた。長椅子に腰かける彼の隣に狐(アンバー)の姿はない。表向きラオタオは器を管理されていることになっているため退役兵とはなるべく接触させないと決めてあるのだ。だから今、アクアレイアに渡りたいと言い出したタルバの相手に困っているのはバジルとブルーノだけだった。
「天帝宮にいた頃は新しいものができるとしょっちゅうお渡ししてたんだよ。ほら、レースガラスとかさ」
タルバは偽預言者(ウェイシャン)に決定権がないのは把握しているようで「アクアレイアにいる奴に聞いといてほしい」とだけ頼む。「退役兵がドナを出るのがまずいなら鏡を送るだけでいいから」と続いた台詞に少しだけ安堵した。
――友人から今後の展望について語られたのは昨夜のことだ。せっかく寿命が延びたのだし、ガラス作りにせよ鏡作りにせよもっと手の込んだことがしてみたいと。女帝に技術が認められれば職人を増やしてもらえるかもしれないし、工房も今より大きくできると思う。そんな風に説きつけられてバジルは激しい不安に駆られた。もしかして彼は、理由をつけてジーアン上層部の誰かに例の秘密を打ち明けようとしているのではないのかと。
「まあ別に、無理なら無理で構わねえしさ」
だが淡白な態度を示す彼を見るに、一応そういった心配はなさそうだ。懸念のあまりここまでついてきてしまったが、タルバは要求を通そうと変にごねることもなく、さっさと部屋を去ろうとする。
「そんじゃ返事が来たらまた教えてくれ」
これは一緒に出て行くのが自然かな、とバジルも彼の後に続いた。腰はまだびくびくと引けたまま。
砦は今日も今日とて静かだ。鏡が全部取り払われて広々とした前室を抜け、吹き抜けの階段を下りながら息をつく。距離感が狂ったせいで全然突っ込んだことを聞けない。タルバは無言で前を歩くのみである。
本当はどういう意図があるのだときちんと問いただすべきなのだろう。だがバジルにはできなかった。信じると決めた相手を疑いたくなかったから。――否、疑うことでこれ以上後ろめたさを増やしたくなかったのだ。己はもう己の犯した愚行だけで手いっぱいだったから。
(ブルーノさん、ちゃんと断ってくれるよね?)
厨房棟へ向かいながら、女帝との接見など設定されないように念じる。ないとは思うが今はすべてが不安だった。
今頃寝所ではブルーノと、別室に隠れていたアンバーが対応を検討しているところだろう。ひょっとしたら二人は「水銀鏡という新技術をアクアレイアに伝えるいい機会では」「ついでに軽い偵察や情報収集もできるのでは」と考えるかもしれないが、今はファンスウの動きも知れず、デリケートな時期である。余計な行動は控えてくれると信じたい。
(ううっ、やっぱり昨夜のうちにちゃんと止めておくんだった)
なんでもないふりをするために成り行き任せにするしかない己を嘆く。胃の痛みはキリキリと強くなる一方だった。
とにかくジーアンの蟲をすべてアクアレイアの脳蟲と入れ替えるまでは持ち堪えねば。そこまで行けばタルバのこと、ルディアに相談できるようになっているはずなのだから。
(何も起きない、大丈夫、何も起きない、大丈夫……)
すうはあと息を吸って吐く。不安を軽減させるためにモモの笑顔を瞼の裏に思い浮かべる。
だがしかし悲しいほどに効果はなかった。彼女に一連の経緯を話せば普通に「マジ……?」と引かれそうな気しかしない。既にうわあという顔になりつつある幻覚をバジルはぶんぶんかぶりを振って掻き消した。
(一番心配なのはタルバさんが僕も一緒にアクアレイアに連れて行きたいって頼んでることなんだよな……)
女帝には水銀鏡についてよく知ってほしいから、という理由はごく真っ当なものである。それにブルーノもアンバーも優しいので「バジル君を帰国させてあげよう」とタルバの要望を通してしまうのでは思えた。
本当にいい。今はそういうの本当にいい。叫び出したい衝動を堪えてバジルは毎日が平穏無事に過ぎることだけを祈願する。
だが運気というのは下がるときにはどこまでも下がるものらしい。悪い予感は的中し、その日の夕方にはもうバジルは親切な二人から「久々の帰国だし、楽しんできてね」と祝われる羽目になっていた。
こうなればタルバが本当に女帝のために、工房とこれからの自身のために、ただ鏡を献上したいだけなのだと信じる以外仕方ない。
ドキンドキンと心臓が嫌な音を立てていた。平静を装っていたいのに、道を間違えたまま進んでいるという感覚はいつまでも去ってくれなかった。
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――お前のような騎士になりたい。そう言ったら笑うか?
燃えるような夕暮れの光の中で彼は尋ねた。あのひと言に一体どんな意味があったか自分は何も考えていなかったのではなかろうか。彼もまた己と同じに「騎士でありたい」男なのだと額面通りに受け取るばかりで。
――騎士でいるしか側にいる術がないからそうしているのよ。
思い上がりかもしれない。だがユリシーズがセドクティオと同様の行動原理で動いていたと仮定すると、縺れていた思考の糸がするするほどけていく気がした。
彼とルディアの間の亀裂は深かった。多少歩み寄った程度では関係修復など不可能だと思うくらいに。ユリシーズは国王暗殺未遂事件すら起こしていて、防衛隊への敵意を隠しもしなかった。
それでも彼は帝国自由都市派から王国再独立派になっていいと言ってくれたのだ。おそらくは酒場でのあの安らぎを守るために。
離れがたさは己にもあった。けれどアルフレッドは振り切った。ルディアの騎士でいたかったから。
ではユリシーズは? 彼もルディアの騎士に戻りたかったのか? ――答えは否だ。きっと否だ。
――お前は馬鹿にされたんだ! そう言えば折れる程度の思いしか持ち合わせていないと見下されたんだ! お前がどれだけ苦しんだか知りもせず、あの女は……ッ!
白い頬に流れた涙を思い出す。ユリシーズが苛烈な怒りを見せるのは、いつだってルディアに対してのみだった。
忘れられていなかったのだ。水に流そうとした怨恨を。それなのに己が彼を焚きつけてしまった。燻っていた火を煽り、首を絞めて中身を抜いてやろうだなんて提案をさせてしまった。
そのくせ己は己の悩みと苦しみ以外何を見る余裕もなかったのだから始末に負えない。ユリシーズがどんな思いで杯に酒を注いだのか、少しは考えるべきだったのに。
彼はただアルフレッドのためだけに手を汚す覚悟をしてくれた。それを己はどうしてああも尊大に踏み散らすことができたのだろう。
――落ち着けだと? 二人で決めて、誓いまで立てた約束を一方的に破っておいて何をほざく!? 損も得も私は考えなかったのに! お前のこと以外何も!
後から後から彼の言葉が追いついてくる。献身を無視された人間の、悲しく痛ましい嘆きが。
馬鹿なのは自分だった。偽りのない言葉で訴えかければ彼が剣を引っ込めてくれると信じていた。ユリシーズが怒っていたのはその無理解だと気づかないまま。
最初は主君の敵として警戒していたはずである。それがなぜ、一体いつから彼だけは自分の味方でいてくれると錯覚するようになったのか。
――このやり方じゃ俺は前に進めないって思ったんだ。
あの瞬間、なんなら己は彼が祝福してくれるとさえ期待したのではなかろうか。騎士としてお前は正しい決断をした、本当に良かったなと。ユリシーズが心を砕いて用意してくれた一切を自分はあっさり捨てようとしたのに。
――お前にとって私はその程度なのか?
重い誓いを破ったという実感すらきっとなかった。ユリシーズならわかってくれると軽く見ていた。彼とて同じ騎士なのだからと。
そうだ。自分はずっと思い違いをしていたのだ。いつでもどんな話にも彼は頷いてくれたから。
ユリシーズは優しかった。行き場のなかったアルフレッドに慰めと励ましを与えて側にいてくれた。アルフレッドが騎士の道から滑り落ち、最低な一人の男になったときも。
いつの間にかすっかり勘違いしていた。彼は自分という人間のすべてを受け入れてくれるのだと。ルディアに対する思いの差を彼のほうでは悟っていて、だから誓いまで立てさせたのに。
「――……」
アルフレッドは暗闇に目を凝らし、寝台の天蓋を見つめた。頭が動きすぎるせいで今夜は少しも眠れない。睡魔は訪れる気配もなかった。
自分が何を選んで何を選ばなかったのか、今更に理解する。
お前も騎士ならわかってくれと言ったこと。あれがどんな意味を持ったか。
――私のことはどうなるんだ?
問いの続きが聞こえる気がする。
――お前にはあの女さえいればいいのか?
本の中の騎士もまた同じように嘆いていた。国さえ守れればあなたはそれでいいのでしょうと。
夜の静寂に身を浸し、開いていた瞼を閉じる。
耳を澄ませても誰の声ももう聞こえない。代わりのように夜明けが近いことを告げる大鐘楼の鐘が鳴った。
******
ガタンと椅子が倒れるようなけたたましい音がして、思わずぴたりと動きを止める。間を置かず響いたのは「嘘つけよ! あいつの裁判止めてんのあんただろ!?」というレドリーのがなり声だった。
うんざりしながらモモは後方を振り返り、隣室に続く扉の施錠を確かめる。今日もまたあの従兄は荒れ狂っているようだ。十人委員会がいつまで経ってもアルフレッドを裁判にかけられないのはアニークが止めているせいなのだが、彼はどうしてもブラッドリーの贔屓ということにしたいらしい。そういう理由にしておけば日頃の鬱憤を好きなだけぶつけられるからだろう。まったくどうしようもない雑魚である。
「はあ……ほんとクソ」
ぼそりとそう零したら「モモ、しっ!」と次兄に指を立てられた。うっかり隣に聞こえたらどうするのだとアンブローズはびくびくしている。レドリーに吠えられた程度で縮こまってしまうのだから、こっちも残念な小魚だ。
(まあわかんなくもないけどねー。ご機嫌損ねて追い出されたらモモたち行くとこなくなっちゃうし)
やれやれとドアを離れつつ肩をすくめる。ハートフィールド家に一時の居室としてあてがわれた客間では母ローズが無言でソファにかけていた。いたずらにレドリーを刺激しないようにとは母も考えているのだろう。長い足を組み、スカートの裾までぴたりと静止させ、完全な沈黙を保っている。
そうこうするうち隣室の口論が途切れた。レドリーが海軍の集まりに向かう時刻になったらしい。感情が乱れると自分のことしか見えなくなる彼の性格のよくよく表れた足音が玄関に向かって遠くなっていく。
「……ふう、もう平気かな」
屋敷の中から従兄の気配がなくなると部屋の真ん中で石像みたいに固まっていた次兄が全身の力を抜いた。アンブローズは母の隣にくたびれきった様子で腰を落ち着ける。モモも二人の座したソファに寄り、ローテーブルのすぐ横に置かれた小椅子に腰かけた。
「そろそろここを出たときのことを考えないといけなさそうね」
と、ぽつり母が言う。いつも言葉の重い人だが今日は殊更に重々しく。
ずっとウォード家の世話になるわけにはいかない。それはモモにもわかっていた。レドリーがあの調子ではブラッドリーとてそのうち抑えられなくなる。今はほかの従弟たちもこちらを守ってくれているが、できれば暴力沙汰になる前に距離を取るのが良さそうだった。
「薬局は畳まなきゃだよなあ」
丹精込めて手入れしていた薬草園を思ってか、次兄が暗く目を伏せる。確かにアルフレッドが減刑されても家業の再開は厳しいな、とモモも腕組みした。薬は需要があるから客が一人も来ないことはなかろうが、海軍に傷薬の納品を続けるのはもはや絶望的である。暴徒に荒らされた店の商品も戻ってくるとは思えない。
「そもそもこのままアクアレイアに留まれるかもわからないしね」
母はごく冷静に告げる。「出て行くならどこがいい?」と続いた問いが現実を突きつけた。
「ど、どこがって……」
アンブローズは赤とピンクの中間色の毛髪に手をやって震える。この色じゃ古王国やマルゴーへは移れないよと言外に訴える次兄を見やってモモはしばし黙考した。
己も一緒にアクアレイアを出なければならないと言われると困る。防衛隊が十人委員会から密命を受けることはもうなかろうが、ジーアン乗っ取りが済むまではルディアの力になろうと心に決めてあるのだ。アンバーやバジルもまだ自由の身ではないわけだし、中途半端には放り出せない。引っ越すなら仲間と連携できる場所に引っ越さなければ。
「……モモはドナかな。こないだ行ってきた感じだと住み心地もそんなに悪くなさそうだったし」
「――ドナ?」
母と次兄は意外そうにこちらを見つめる。頷いて「探せば仕事もあると思うよ」と続ければ二人は対岸の帝国自由都市について真面目に検討し始めたようだった。
「ド、ドナってジーアンの退役兵がうろうろしてるんだろ? 怖いところなんじゃないの?」
「砦に寄らなきゃ別に平気。バジルが住めてるくらいだもん」
「あ、そっか。ドナってバジル君がいるんだっけ」
「彼はなんのお仕事を?」
「弟子取ってガラス工房やってるよ。アン兄もあそこの雑用だったら手伝えるんじゃないかな?」
「そ、そうなんだ。バジル君、自分の工房持ててるんだ」
先人がいてくれるならと拳を握り、アンブローズは勇気を奮い立たせている。アクアレイアの脳蟲が中枢にいるあの街でなら、己も家族二人くらいなんとか守ってやれるだろう。
(薬局は無理かもだけど、計算も代書もできるし生活していけるよね?)
これからの暮らしを思い、小さくない溜め息をつく。まったく余計な苦労をさせてと脳裏に浮かべた長兄に渾身の手刀を食らわせた。本当に憎らしいのは馬鹿な兄でも雑魚すぎる従兄でもなく、何もかも承知でやったとしか思えない白銀の騎士であったが。
(アル兄から何もかも取り上げるつもりじゃなきゃあんな死に方はしないよね……)
執念深さに恐れ入る。死んだからには彼ももう何もできはしないだろうが。
「モモ、ドナって一般庶民は今どういう風に暮らしてるの?」
ドナについてあれこれ質問を受けながら、モモは「とにかくこれ以上まずい問題が発生しませんように」と祈った。
ここ最近どうも嫌な胸騒ぎがして落ち着かない。海軍やレドリーに目立った動きは見られないし、パーキン発行の新聞だって事件を煽りはしていないのに。
(聖像が手に入ったかわからないからこんなにソワソワするのかなあ?)
早く皆がアクアレイアに戻るといい。アルフレッドが釈放されたらいつもの面々で集まって、お疲れ会でも開きたい。
希望はそこに見えているのだ。あともう少し踏ん張ろう。
******
こんなにあっさりアクアレイアへの渡航許可が下りるとは考えていなかった。まずは今、誰があの街に滞在中かわかれば十分と思っていたのに。
西へと進む船の上でタルバはどうしたものか悩む。まだこれからどんな形で動いていくか、どうすれば事を穏便に済ませられるか、考えはまとまりきっていなかった。
寿命を延ばす方法があるらしいこと。それをジーアン上層部に伝える決意は変わっていない。しかし「誰に」明かすかは熟慮が必要な問題だ。
ラオタオには打ち明ける気になれなかった。あれは気性が残酷だし、バジルに何をするかわからない。アクアレイアに到着したら接見予定のアニークにも下手に詳細を知らせたくなかった。あの娘は数年前に初めて器を得たところで判断力が育っているとは思えない節がある。それに話せばすぐ天帝に筒抜けになりそうだった。
明かすならある程度の地位があり、確実にタルバの事情を汲んでくれる者でなければいけない。万一のときバジルを庇護下に置いてくれる者でなければ。
(つっても熊さんは今バオゾにいるはずなんだよな……)
眉間に濃いしわを刻んでなお温もりを隠しきれない男の顔を思い浮かべた。ジーアン十将の最重鎮、通称「大熊」はタルバにとって七代前の親に当たる。人格者の彼に相談できればなんとか恩人を守れるのではと思うのだが。
(結局まだアクアレイアに誰がいるかもわかんねえままだしな)
タルバは重く嘆息する。その仕草が少々大きすぎたせいか、帆船の乗員たちがびくりと一斉に肩をすくめた。
(おっと、ビビらせちまったか?)
機嫌が悪いわけではないと示すべく、ごほんと一つ咳払いする。しかし海を見渡す甲板の緊張感はそんなことでは解けてくれず、困ったなとひとりごちた。バジルの故郷の人間に無礼をする気はないのだが、ジーアン人を乗せているというだけで彼らは構えてしまうようだ。
「タルバさん、どうしました? 船酔いですか?」
と、隣のバジルがこちらを見上げる。どうも彼は慣れぬ船旅でタルバが具合を悪くしたのではと案じてくれたものらしい。ろくに話もしないまま海の上に連れ出され、彼のほうがよほど青い顔をしているくせに。
「や、別に船酔いってわけじゃ……」
ない、と首を振ろうとしてタルバは「いや、これ船酔いかも」と言い直した。どこかの部屋で横になっていたほうが周りの者も気にならないかと思ったのだ。
「休んだほうがいいですよ」
ハンモックを使っていいか聞いてきます、とバジルが船縁を離れる。いい奴だなと思うと同時、罪悪感がちくりと小さく胸を刺した。タルバの真の目的を知ったら彼はどんな顔をするだろう。
(いや、まあ、アクアレイアにファンスウの部下しかいなかったら何も言わずにドナに引き返すことになると思うけど……)
古龍も甘いのは身内までである。バジルのことは話せない。話せるとしたら己に近い、古い記憶を同じくする「親」の系譜にだけだ。
(許してくれよ。お前のことは絶対守ってみせるから……)
揺れる甲板で薄灰色の空を見上げる。
アクアレイアまで長い一日になりそうだった。
******
吐く気になったか、と問う。しかし男は縦にも横にも首を振らない。言葉の代わりに血を流し、人形のように横たわり、解放されるときをただ待っているかのように見える。
実際それはそうだったろう。ファンスウから「鷹の中身」の尋問を任されたダレエンがいくら彼らを痛めつけても反応に変わりはなかった。手を変え品を変え使えなくなった器を変え、なぜラオタオに飼われていたのか、元々そこに入っていたジーアンの蟲はどこへ行ったのか、何度も問いかけてみた。鞭打ちや爪剥ぎや水責めが効かぬなら、ウァーリに手厚く介抱させて懐柔を試みようとも。
しかし彼らは何も吐かない。十匹も捕らえた中の一匹もだ。一つだけ彼らが揃って口にしたのは「喋ればもっと恐ろしい目に遭わされる」のひと言。狐はよほど彼らを上手く躾けたらしい。どんなに肉体をいたぶられても「本体」が殺されることはないと脳蟲たちは理解していて、要するに尋問も拷問も互いの徒労に終わるのみだった。
「ちっ……また動かなくなった」
失血しすぎたらしい男の頭を水桶に突っ込んで、ダレエンは膝をついていた石床から立ち上がる。アルフレッドがサロンに移って空きが出た半地下牢には動物と人間の死骸がいくつも転がっていた。
ここのいいところは潮が満ちれば勝手に血が洗われてくれるところだな、と息をつく。耳の穴から這い出してきた脳蟲を瓶に回収し、ひとまずダレエンは牢獄を後にした。
意外に手こずらされるものだ。ラオタオ造反の証拠が出たとわかったときはハイランバオスやアークのこともすぐに判明するだろうと踏んだのに。普通の人間相手なら間違いなく必要な情報収集は済んでいる。脳蟲にものを聞くのがまさかこれほど面倒だとは。
(十匹全員が同じ情報を持っているなら何匹か殺してみせてもいいんだが)
監獄塔の螺旋階段を上りつつ今日何度目かの舌打ちをする。薄々そんな気はしていたが、アクアレイアが絡むと酷くやりにくい。今までの当たり前が全然通じないのである。脳蟲のことも、こちらの正体が彼らに露見していることも、身内に裏切り者がいることも、状況の悪さに拍車をかけていた。
進んでいるはずの話が進んでいるように思えない。ファンスウがコリフォ島からハイランバオスを連れ帰ればさすがに前進を感じられるだろうけれど。
(気になるのはラオタオ本体が行方不明という話だな……)
先日ドナから秘密裏に届いた一報。事故による消失の可能性もあるが、まだ断定はできないとファンスウは言っていた。全容が掴めるまでこちらも油断はしないほうが良さそうだ。
「あ、ダレエン」
ウァーリが声をかけてきたのは監獄塔とレーギア宮を繋ぐ石橋通路を渡り、中庭まで戻ってきたときだった。「ちょうど良かった。今探しに行くとこだったのよ」と手招かれ、いつも会議に使っている一番大きな幕屋に連れ込まれる。
「何かあったか?」
「手紙が来たの。またドナから」
ほら、と渡された書簡には愉快なほど汚らしい字で記された預言者の聖名。どう見てもウェイシャンの筆跡だ。一体なんだと思ったら「近く女帝に貢物をするために、タルバとバジル・グリーンウッドの二名が向かいます。よろしくお願いします」とある。
「?? なんだこれは?」
詳しい説明を求めるとウァーリは渋面で肩をすくめた。曰く、どうも駄犬が判断に困ってやらかしたかもとのことである。
「今ドナってごたついてるじゃない? 退役兵が砦を占拠するわ、ラオタオの本体までなくなるわ、あの子一人でどうすればいいかわかんなくなって途方に暮れてるみたいなのよ。そこにタルバに『アクアレイアへ行ってもいいか?』って頼み込まれたらしくって」
「ああ、なるほど。頭がボンと破裂して俺たちに投げてきたというわけか」
ウァーリはやや疲れ気味に「龍爺が寄ってくれたからゴジャたちも大人しくなったと思ったのにねえ」とぼやく。貢物は何かと問えば「水銀鏡ですって」と返された。
「水銀鏡?」
初めて聞く名前にぱちくりと瞬きする。ウァーリにもどんな品なのか見当がつかないらしく、それ以上は語られなかった。彼女としてはわざわざこの時期のドナから、退役兵が防衛隊の男連れで訪ねてくるということのほうがよほど気にかかるようである。「何もないとは思うけど一応気をつけておきましょ」と囁かれた。
「女帝陛下に会いたい理由、どうもドナに技術者を増やしたいからみたいなの」
「ふむ?」
「なんかさ、前にラオタオがやたら小間使いを増やしたがってたこと思い出しちゃって。あれも結局なんだったのかうやむやのままだし」
「ああ、脳蟲で実験するとか言っていたやつか。まあ実行に移す前に退役兵に襲われたんじゃないのか」
「タルバはラオタオやハイランバオスとつるむタイプに思えないし、何か裏があるかもなんて疑うの、失礼よねって思うんだけど……」
はあ、とウァーリが肩を落とす。仲間の誰かを怪しまなければならぬ現状に彼女は明らかに疲弊していた。
ハイランバオスだけでも耐えがたいところ、ラオタオも黒らしいと判明し、しかもドナでは彼らの協力者がいるのではと思える状況が続いている。優しい性分のウァーリでは病むなと言うほうが無理だろう。
ダレエンとしても最近の流れにはうんざりだった。敵なら敵、味方なら味方と札でもつけていてほしい。せめて思い切って殺せるように。
「で、タルバが来るのはいつなんだ?」
「明日か明後日じゃない? 手紙の届いたタイミングから考えて」
「わかった。そのときは俺も一緒にいよう」
先程の尋問で乱れた着衣を整えつつ腰に結わえたナイフの握りを確かめる。ジーアンの連中は、程度の差はあれ結局皆仲間への情を捨て切れない。仮に刃を抜けるとしたらおそらく自分だけだろう。
ハイランバオスは北の地でダレエンを殺そうとした。遥か昔、最初に彼から分裂した「子」であるこの自分をだ。今ここに己が生きて立っているのは偶然あの場にアルフレッドが居合わせたからにほかならない。
あれは躊躇なく誰にでも手をかけられる男だ。彼だけでなくラオタオも。
獣脳で良かったと己の運命に感謝した。「親」に振り回されるほど記憶に支配されていたら、牙を折られていたかもしれない。
群れに仇なす裏切り者は必ず排除しなければ。
心しておこう。誰が彼らの仲間でも剣を振り下ろせるように。
******
タルバは一体何を考えているのだろう。どうして急にドナを出る気になったのだろう。打てば響く間柄と言えるくらい仲良くなって、彼の人柄をすっかりわかった気になっていたけれど、今はもう以前と同じ自信は持てない。
アクアレイアに向かう間、バジルはずっと不安だった。これからどんな悪いことが起きるのか、自分たちの友情はどうなってしまうのかと。
けれど眼下に広がる海が懐かしいエメラルド色を帯び始めると、悩みは全部頭から綺麗に消し飛んでしまった。
「……っ!」
ああ、とバジルは胸熱くする。水盤の上に乗った街、美しきアクアレイアを遠目に眺めて。
きらきらと波は輝く。冬が迫り、日照の分だけ控えめになっているものの、見つめればドキドキとする眩しさで。
砂州の間の海門には少なからず船が行き交い、内湾にはゴンドラが横切る姿も見えた。あの風変わりな反りのある黒い小舟を目にすると、バジルの胸にも「本当に帰ってきたんだ」という実感が深く沁みる。
「すごいな。これがアクアレイアか……」
船縁では同じくタルバが海に直接生えたような街を見つめて頬を紅潮させていた。こんな国見たことない、と彼は純粋に感動している風だ。
もしかしたらタルバは真実バジルを故郷に帰したい一心で「女帝に鏡を献上したい」なんて言い出したのかもしれない。祖国の情景を眼前にすると明るい希望が湧いてくる。
(いや、本当にそうかもな。僕も結構長いこと帰りたい帰りたいって喚いてたし、タルバさんも延命のお礼だとはちょっと言いにくかっただけで)
近づいてくる宮殿や神殿、大鐘楼や税関岬を前にしてバジルは心弾ませる。視界に見慣れた建物があるだけでこれほど浮かれ心地になると思わなかった。今度の帰還では会うのは難しいだろうが、街には今愛するモモもいるのである。彼女と同じ空気を吸っていると考えるだけで幸せだった。
「よし、行くか。えっと、レーギア宮だっけ? ああ、そうだ、鏡もちゃんと持ってかねえと」
帆船が商港に入るとタルバはさっそく行動を開始した。ジーアン人が降りてきて目玉を剥く役人に荷の内容と来訪理由を申告し、バジルもアクアレイアの地に降り立つ。
一年何ヶ月ぶりだろう。あまりにも久々すぎて、大運河の対岸の国民広場へ渡るのに辻ゴンドラを捕まえるのにも挙動不審になってしまう。それでも小舟はすぐにこちらへ寄ってきて、バジルたちを税関岬から向かいの広場に移してくれた。
(――あれ? アンディーン神殿の鉄柱が出てる)
突っ切ろうとした国民広場で見つけたそれにバジルは思わず息を飲む。今は誰の刑罰も実行中ではないようだが、黒々と鈍い光を反射する二本の柱はどう見ても重罪人を吊るすためのものだった。
「バジル? どうした?」
足を止めたこちらに気づき、タルバが肩越しに振り返る。「あ、いえ」と首を振ってバジルは無理やり歩を速めた。
今のは一体なんだろう。ひょっとして囚われの身だという騎士と関係あるのだろうか。
ざわつく胸にかかった靄を散らすように目を逸らす。ここまで来れば宮殿はもうすぐだ。各自大小の鏡を脇にバジルたちは門へと急いだ。
******
珍しいこともあるもので、今日はアニークがペンにもインクにも触らない。詩を作るようになって以来、彼女は毎日飽きもせず紙に何やら書きつけているのに。詩人に送る便箋を吟味するでもなく、空中に騎士やら姫やらを幻視して百面相するでもなく、女帝は静かに本のページを捲っている。
「詩作はなさらないのですか?」
気になってアルフレッドが尋ねるとアニークは読みかけの騎士物語から顔を上げて頷いた。彼女曰く、今日明日あたり来客があるそうで、筆が乗っているときに手を止めるのが嫌だから読書しながら待つということである。
「えっ? 来客?」
アルフレッドは驚いて問い返した。するとすぐ詳しい説明がなされる。
「そう。ドナからね、退役兵でガラス工房に弟子入りした子がいるんだけど、その子が私に献上品を持ってきてくれるんですって」
それはこのサロンに来るということだろうか。囚人が同席するのはまずいのではとソファから腰を浮かせる。だがアニークのほうは意に介した様子もなく「早かったらそろそろかしらね?」などと壁掛け時計を見やっていた。
「あの、別室で接見なさるんですよね?」
おそるおそる問いかける。しかし女帝はきょとんと瞬くばかりだった。
「ウァーリもダレエンもこの部屋にいればいいと言っていたわよ?」
頭の痛くなる返答だ。退役兵ということはジーアンの蟲なのは間違いないし気にしなくていいのかな、と少し悩む。
聞けば客人が来訪するのは「技術者を増やしてほしい」という嘆願のためだという。新技術で生み出した水銀鏡なるものを見せてくれるのだと告げられ、ますます自分が場違いでないか気にかかった。サロンの客としているならいいが、今の己は獄中にあるべき犯罪者なのだから。
「俺がいたらおかしな話になりません?」
一応突っ込んで尋ねてみる。コンコンとノックの音が響いたのはそのすぐ後のことだった。
「アニーク陛下、タルバが到着しました」
「ああ、もう来たの。入れていいわよ」
わずかに開いた扉から顔を覗かせる衛兵にアニークが入室の許可を与える。次の瞬間、アルフレッドは驚愕とともに立ち上がった。
「――バ、バジル!?」
「えっ!? あっ!? アルフレッドさん!?」
ダレエンとウァーリ、騎馬民族の縦襟装束を着た青年に続いて寝所に現れたのは、紛うことなき防衛隊の少年弓兵バジル・グリーンウッドであった。捕虜としてドナに住んでいるのは知っていたが、まさかこのレーギア宮で再会するとは思ってもみなかった。ジーアン風の衣装に身を包んではいるものの、以前より背も伸びて、健康そうでほっとする。
「あら、知り合い?」
と、アニークが尋ねてくる。「あ、防衛隊の隊員なんです。ええと、二年前にジーアン軍にバオゾに連れて行かれてからずっと会えていなかったんですが」とかいつまんで説明すると彼女は「ふうん?」と頷いた。
「もしかしてレースガラスを作ってくれていた奥宮の職人かしら? あなたの部下だったのね、アルフレッド」
女帝は朗らかにバジルにおいでおいでする。しかし宮廷での勝手がわからず弓兵はその場に硬直してしまい、結果ウァーリとダレエンがアニークの両隣を占領することとなった。
「まあまあ、まずはその子とタルバに献上品を見せてもらいましょうよ」
「楽しみだ。解説は俺にもわかるように頼むぞ」
二人が女帝と同じソファに腰かけるとは珍しい。なんだか守りを固めるような位置取りですらある。
「それもそうね。じゃあタルバ、お願いするわ」
タルバと呼ばれた背の高い三白眼の青年は「お久しぶりです」とアニークに会釈してまずは近況報告を始めた。天帝宮の衛兵を辞めてドナへ赴き、そこでバジルの弟子になったという話を聞いてアルフレッドは目を瞠る。
座り直した自席から弓兵を見上げればバジルは少々照れくさそうにこめかみを掻いた。初弟子を取る喜びは職人にとって無上のものだと言うけれど、彼も例外ではなさそうだ。
「へえ? アクアレイア人とジーアン人だっていうのに、なんだか仲良さそうじゃない?」
口紅をたっぷり引いた唇に妖しげな笑みを浮かべてウァーリが言う。続いて彼女に自己紹介を乞われたバジルが改めてジーアン語で名を名乗った。
「ぼ、僕はバジル・グリーンウッドと申します。アルフレッドさんが隊長職を務めていらした防衛隊の弓兵で、今はドナで、砦に工芸品を納めるガラス工をしています。今日はその、女帝陛下に僕らの作った水銀鏡をご覧に入れたいと思いまして、海を越えてレーギア宮までやって来た次第です」
モモからは遠回しに「ドナでは全部上手く行った」としか聞けなかったのでこういう形で情報を得られるのはありがたい。とはいえ今読み取れるのは弓兵が元気に生きているという事実だけだが。
(このタルバという退役兵にはどっちの蟲が入っているんだろう? 師弟なら中身がジーアン人のままでも味方寄りではあるのかな?)
帝国の青年ガラス工はバジルの隣に半歩下がり、バジルが持つより重そうな献上品を携えている。彼が弓兵を師と仰いでいるらしいのはその態度から十分に伝わった。
接合済みの脳蟲なのか、そうでないジーアンの蟲なのか、アルフレッドには判別できそうもない。しかし彼がドナに移った当初からバジルと行動をともにしていることを踏まえると、なんとなく純粋なジーアン人かなという気がした。
接合は両者に記憶を共有させる。となればジーアンの蟲は肉体に戻せない。バジルなら弟子の中身を取り替えるなんてとんでもないと言いそうだ。それに中身が別人なら、弟子だという話ももっと曖昧に濁したのではと思えた。
「ねえ、早くその水銀鏡っていうのを見せて。レースガラスとどっちが素敵か知りたいわ」
「は、はい。ただいま!」
アニークの声に急かされてバジルとタルバは献上品を包んでいた布を取る。現れたのは美しい細工の施された手鏡と、同じく飾り縁のついた姿見だった。
「わ……っ! す、水銀鏡ってこんなにはっきり映るものなの!?」
歓声が室内に満ちる。予想以上に周囲の景色や人物を鮮やかに映し出す鏡に対し、女帝だけでなくウァーリやダレエンも驚きを隠せぬ様子だ。バジルから差し出された手鏡を奪い合うように楽しむと彼らは「なるほど」「これは量産を考えて当然ね」と合点した。
「どうでしょう? ドナに五人か十人か、アクアレイアのガラス職人を呼んで技術指導をしても構わないでしょうか?」
アルフレッドの存在をいくらか気にする素振りを見せつつタルバがアニークに問いかける。彼からすれば「なんだこいつは」という警戒対象なのだろう。女帝の部屋でごく軽装のアクアレイア人が寛いでいるのだから仕方ない。
「そうね、私はいいと思うけど。あなたたち二人はどう? そもそもこれって私に決定権のあることかしら?」
話を振られたダレエンとウァーリが互いに目を見合わせる。先に答えたのはウァーリのほうだ。「ま、いいんじゃない? 後で龍爺にも聞かなきゃだけど、今はその方向で」と彼女はにこやかに微笑んだ。と、なんだか奇妙な間を挟み、ウァーリがタルバに問い直す。
「技術者ってガラス工なら誰だっていいのよね?」
「ああ、人選も任せるよ。若くても年寄りでもなんでもいい」
返答に彼女はほっとしたように見えた。「?」とアルフレッドは違和感に首を傾げる。だがその正体は最後まで掴めないままだった。
「ね、ところであなた防衛隊の人なのよね? 良ければ書見台の椅子をこっちに持ってきてお喋りしない? アルフレッドの気晴らしになると思うから!」
明るい笑顔を綻ばせ、アニークがそう催促するのでその後は謁見というよりも歓談の流れになる。命じられるまま小椅子を運んで隣にやって来たバジルに「アルフレッドさん! ご無事で良かった!」と半泣きで抱きつかれ、久々に胸が晴れた心地がした。
「俺も無事な姿を見られて良かった。なかなか迎えに行けずにすまない」
詫びればバジルは顔を上げ、ぶんぶん首を横に振る。ダレエンやウァーリの目があって重要な話は一切できなかったけれど、今どんな暮らしをしているか語り合うのはほっとするひとときだった。
話の弾みでアニークが「アンディーン像が戻ってくればアルフレッドも外に出られるの」と教えたこともバジルを安心させたらしい。「そうなんですね! 良かったですね! モモも喜んでますね!」としきりに手を握られる。そんなバジルの隣ではタルバがこちらのやり取りにじっと耳を傾けていた。
「――そっか。あんたあの子の兄貴なのか」
どうやらバジルは好きな女性の話まで彼に打ち明けているらしい。ぽそりと呟かれた言葉が深く印象に残った。
印刷機や騎士物語続編の話でもひとしきり盛り上がり、結局二人がサロンを去ったのは夕方六時の鐘が響く頃だった。バジルたちは明朝ドナに戻るそうで、今夜は中庭の幕屋に一泊させてもらうとのことである。
「おやすみなさい、アルフレッドさん! きっとまた元気でお会いしましょうね!」
三度に渡る握手の末にバジルはタルバに腕を引かれて退出した。ウァーリも同じタイミングで席を立つ。どうやら彼女は二人を寝床に案内してやるらしい。
そろそろアニークも囚人と別れて君主の私室に戻る時間だ。アルフレッドは女帝を見送るためにソファから立ち上がった。ダレエンもアニークに付き添うべく身を起こす。だが今日の彼女はまだ部屋を離れようとしなかった。
「ねえ、良かったわねえ。あなたの部下がこんな素晴らしい鏡を作ってくれるなんて!」
熱に浮かされたような調子でアニークが語りかけてくる。「この水銀鏡は絶対に防衛隊の名誉回復に使えるわよ!」と。
「私、バジル・グリーンウッドの名前を大々的に宣伝するわ! 鏡を大量購入すればアクアレイアのためにもなるし、任せてちょうだい!」
「役に立てるよう頑張るわね」とソファに腰かけたまま女帝は強く拳を握る。しばし反応に迷ったのち、アルフレッドはこの事態が防衛隊の不始末ではなく己個人の不始末に収束するならそれでいいかと息をついた。
「……ありがとうございます。ほかの皆が悪者にならずに済むようにお気遣いいただいて」
裁かれるべきは己のみだという響きをどこかに感じたのだろう。アニークは一瞬喉を詰まらせると「あなたねえ」と思いきり眉をしかめる。
「あなただってこんな目に遭わなきゃいけないほどの悪さをしたわけじゃないでしょう?」
頷けるはずがなく、アルフレッドは首を振った。
「したことの責任は取らなければと思っています」
今日も誰も座らなかった左隣に目をやって告げる。
どう足掻いても清廉潔白にはなれない。何が償いになるのかまだわからないままだけれど、あの酒杯を忘れる卑怯は許せなかった。
極刑を言い渡されるだけの罪は、やはり犯したのだと思う。生きる選択肢を与えられ、今も己は戸惑っている。どうしてもそれが正しいとは思えなくて。
「アルフレッド」
呼びかけられてアルフレッドは顔を上げた。気づけば側にダレエンが立っていて、真剣な表情でこちらをじっと見下ろしている。
「恩というのは巡り巡ってくるものだ。お前を助けようとする誰かがいるのはお前が誰かを助けてきたからにほかならない。そう思いつめた顔をするな」
優しい言葉に我知らず苦笑した。厚意には痛み入るけれど、今この胸にある後ろ暗さはきっと一生忘れてはならぬものだ。
「お前がいなければ俺もウァーリもハイランバオスに殺されていた。取引上の人質として預かってはいるが、俺の裁量の許す限り守ってやろうと考えている。だからもう少し前を向け」
ぽんと肩を叩かれる。アニークも「そうよ、そうよ」と同意を示した。
「私たちにとって恩人って特別なんだから。長生きしてくれないと困るわ」
こちらの考えを読んだというより最悪の可能性を考えたくないという口ぶりで彼女はアルフレッドの内にあるものを否定する。ダレエンもまた親愛を隠すことなく激励を続けた。
「俺たちがお前の首に刃を突き立てることがあるとすれば、ハイランバオスやアークのことでお前の主君が嘘をついていたときだけだ。減刑にぴいぴい喚く輩がいるならいくらでも黙らせてやる。わかったな?」
それだけ言うとダレエンはアニークの手を取って部屋を出ていく。去り際に「読むなら気分の明るくなる本を読むのよ!」「というかお前はちゃんと寝ろ」と諭されて、また少し苦笑いが出た。
(前を向け、か……)
生きることに疑問を持たずに生きられる日など来るのだろうか。
アルフレッドは息をつき、静かにソファに座り直す。
見渡せば室内は随分と暗く翳っていた。テーブルに置きっぱなしの手鏡には重苦しげな男の顔が映っていた。
******
昼も、夜も、頭の中をまとまりきらない考えがぐるぐると回っている。親類のこと、部隊のこと、アニークのこと、ユリシーズのこと、ルディアのこと。
騎士物語はあれからまた先へ先へと読み進めていた。
物語というのはきっと人生のパロディなのだ。喜びも、悲しみも、すべてがそこに詰まっている。
蝋燭の乏しい灯りを引き寄せてアルフレッドはページを繰った。美しい文章に、沈黙を保つ行間に、織り込まれた世界の普遍を噛みしめながら考える。
ユスティティアはどうすれば主君と添い遂げられたのか。
セドクティオはどうすれば幸せになれたのか。
トレランティアはどうすれば踏みとどまれたのか。
そしてこれからの自分のことを。
ルディアにとって己は重い足枷になる。大罪人を引き連れて行動すれば行動するほど防衛隊は民衆に疎んじられる。並の献身ではなんの足しにもならないだろう。むしろ負債が膨れるばかりだ。そうでなくても彼女は永遠に続く孤独を強いられているのに、どうすれば今の己が主君の力になれるのか。
(俺ができる中で一番いいのは多分……)
最後まで読み終わった騎士物語をぱたりと閉じて、ひっそりと瞼を下ろす。ユスティティアが囚われた後、古城で余生を過ごしたグローリアに――彼女のモデルとなった姫に思い馳せる。
パディの詩は毒薬の後遺症に苦しめられた彼女にとって何よりの救いだったはずだ。叶うなら己もルディアにとってそういう存在になりたい。でなければ死罪を犯した身の上で、世間の顰蹙(ひんしゅく)を買ってまで仕える意味がないだろう。
「――」
蝋燭の照らし出す影がふと濃くなったような気がして隣を見やる。ごめんなとひとりごち、アルフレッドは閉じた本の表紙を飾る騎士と姫に目を戻した。
ほかが全部どうだっていいわけじゃない。
けれど自分は騎士であることを決してやめられはしないのだ。
******
すっきりした気分でバジルは船の甲板に上がった。危惧していたような事態にはならず、接見も最初から最後までスムーズで。
タルバは本当にただ工房に人を増やしたかっただけらしい。中庭の幕屋でも友人はほかのジーアン人に接触を試みようともしなかった。それは単に兵士の大半がコリフォ島へ赴いていたせいかもしれないが、とにかく何も困ったことが起きなかったのは事実である。
朝一でドナに渡る商船もすぐに押さえられて良かった。対岸に戻れば自分もひと心地つけそうだ。
(これでアクアレイアとはまたしばらくお別れかあ)
停泊中の船の上からバジルは広い商港を見渡す。吹き込んでくる晩秋の潮風は背筋が震えるほど冷たい。けれどたぷたぷ揺れる波や動き回る荷運び人から目を逸らすことはできなかった。もうじき船は沖へ出て、慣れ親しんだ一切と遠ざかるのだと思えば尚更。
「バジル、しばらく上にいる気か?」
低い声に呼びかけられて振り返る。見れば草原育ちで寒さなどものともしていない友人が「船酔い対策に早めに横になろうと思うんだが」と告げてきた。
「あ、そうですね。気持ち悪くなる前に寝ちゃったほうが賢明だと思います。僕はもう少しここでこうしていたいんですけど……」
構いませんかと尋ねる前にタルバはこくり頷いてくる。「何かあったら呼べよ」と船室に向かう友人はいつも通りの彼に見えた。
宮殿で女帝に会って、タルバの中で何か整理がついたのだろうか。だったらいい。少しは落ち着いてくれたなら。
自分にとっても悪くない機会だった。タルバがアクアレイアの職人と上手くやってくれたならルディアもドナの大人しい退役兵には軟化してくれるかもと思えた。主君さえ頷いてくれればタルバの案じる仲間にも接合を施してやれるかもしれないし、そういう風に持っていくのがお互いきっと一番いい。
道はまだ続いていくのだ。間違えたかもと焦ったが、それならそれで正しい道と合流させるまでである。
(アルフレッドさんとも会えたし、本当に良かったな)
積荷の点検が終わったのか、出航だと大きな声が張り上げられる。次はいつ帰ってこられるかわからない故郷を瞳に焼きつけるべくバジルは船縁で背伸びした。
(アクアレイアが見えなくなったらタルバさんの看病に行こう。ほかの仲間の寿命もどうにかしてあげたいって言えば安心できるよね)
桟橋が、商港が、大鐘楼が、国民広場が、見る間に小さくなっていく。気にかかっていた処刑用の鉄柱もすぐに遠景に埋もれて消えた。
あれもきっと自分がドナにいる間に取り払われてしまうだろう。波の乙女が騎士を救い出してくれるのだから。
(よし、僕も水銀鏡作り頑張るぞ。アルフレッドさんが大手を振って表通りを歩けるように!)
決意を新たに強く拳を握りしめる。
バジルがタルバの不在に気がついたのは、白帆を張った船が王国湾の海門を過ぎ、アレイア海へ出たときだった。
******
はあ、はあ、と息を切らせて船着き場を駆け抜ける。何人もの水夫や商人を追い越し、船を降りるとき頭から引っ被った誰かの黒いケープを揺らして。
商港を出てすぐの岸辺で手を上げればゴンドラが寄ってくる。申し訳ないと思いつつ無賃で対岸につけてもらい、タルバは方形広場に上がった。
高い塔の脇を過ぎ、鉄の柱を横目に見ながら出てきたばかりのレーギア宮へ逆戻りする。門番は何度か顔を合わせた覚えのある蟲兵で「蠍(さそり)に会いたい」と言えばすぐに通してくれた。第十世代ともなると誰が誰の系譜なのか把握するのも面倒だが、こちらのことは知ってもらえていたようだ。
ウァーリなら己の話を聞いてくれる。確信できる相手でなければきっと走り出せなかった。将がほかにダレエンしかおらず、宮殿の兵がほぼ出払っていたのも大きい。
今なら余計な人間にまで話が広まる心配はなかった。バジルのことも、先にドナに帰してしまえばすぐには手出しできないはずだ。
タルバは急ぐ。ついさっき別れの挨拶を済ませた幕屋へと。どうかウァーリが親身になってくれますようにと祈りながら。
「――あら? 朝の船で帰るって言ってなかった?」
不躾に玄関布を捲ったのに彼女の対応は鷹揚としていた。何から話すべきかわからず、タルバはしばし呼吸を整えるに終始する。
広い幕屋ではダレエンが絨毯に、ウァーリが長椅子にゆったり足を伸ばしていた。ノウァパトリア人の姿をしていてもこの二人は変わらない。いつも性格そのままの恰好である。
ウァーリにタルバの記憶はないが、タルバには彼女の古い記憶がある。蟲が「親」に弱いのは例外なくその記憶のせいだ。だが逆に、蓄積された記憶から誰が信頼に値するか「子」は推し量ることができる。
仲間のためにウァーリはいつでも惜しみなく自分の力を貸し与えた。直近の親ではないにせよ、ほかにこんな頼み事をできる相手はいない。
「どうしたの? 酷い顔よ?」
心臓が変な風に跳ねている。
言えば何かが捩じれて戻らなくなるかもしれない。けれど。
「俺たちの寿命を延ばす方法があるって聞いた……」
乾いた声がタルバの喉に張りついた。告げた瞬間、蠍と狼が顔色を変える。
ドナで起きている静かな異変を語るべくタルバはウァーリの前へ進み、そのまま膝から崩れ落ちた。
「……今から俺が話すことは、天帝陛下や皆にはまだ黙っててくれないか? バジルを酷い目に遭わせたくないんだ。多分全部、俺のためにしてくれたことだから――」
額を床に擦りつけて頼み込めば蠍は「ちょっと、落ち着いて!」とこちらを助け起こしてきた。順序立てて説明しろなんて求められてもそんなこと上手くできない。一つずつ言葉を繋ぎ、なんとか今日までの経緯を口にする。
「防衛隊の隊員が、新しい小間使いを連れてドナの砦に来た日から、何か変だと思ってたんだ。皆の様子も、バジルたちの様子も……」
声が震える。もう後には戻れない。それだけ嫌にはっきり悟った。
話は伝わったのだろうか。ウァーリを見てもダレエンを見てもわからない。ただ二人ともタルバには読み取れない表情で目を合わせるのみである。
風さえ吹かず、沈黙はどこまでも重かった。
******
常には聞かぬ、ばたばたと騒々しい足音が女帝のサロンに近づいてきたのはまだ昼前のことである。不穏な気配を感じてアルフレッドは本を置く。囚人が武器など持つのは言語道断とわかっていたが、ソファから立ち上がるとすぐにアニークの手を引いて、彼女の甲冑コレクションが陳列してある壁際へと身を寄せた。
「アルフレッド君、いるかしら?」
が、足音の正体は宮殿内に踏み込んできた暴徒ではなくウァーリとダレエンの二人だった。なんだと軽く息をつき、早とちりに赤面する。見れば今朝には港を発つと言っていたタルバの姿もそこにあり、それで気配が多かったのかと納得した。
(あれ? けどバジルがいないな?)
アルフレッドが平常心でいられたのはそこまでだった。「その子から離れて」とウァーリに冷たく命じられ、違和感を覚えながらもアニークと数歩の距離を取る。ダレエンが女帝を背中に庇うのを見てやはり「??」と困惑した。
「あたしたち、初めにきちんと言ったわよね? もしあなたたちが嘘をつけばこの部屋に死体が転がることになるって」
話がまったく見えてこず、アルフレッドは眉をしかめる。「なんのことだ?」と問いかければ彼女は「しらばっくれないで」と目尻をきつく吊り上げた。
「蟲を延命させる方法があるんですって?」
思わず息を飲んでからまずい反応を示したことを自覚する。常になく険しい目つきのダレエンに「返答次第ではただではすまんぞ」と凄まれ、完全に言葉に窮した。
アルフレッドはちらとタルバに目を向ける。彼は額を青ざめさせ、すっかり固まりきっている。出所はあそこかと鈍い己でも想像できた。
バジルは彼と親しそうだった。誰にも秘密だと言って教えてしまったのかもしれない。
「ちょ、ちょっと待って。何? なんなの?」
緊迫の空間におろおろと割り込んできたのはアニークだ。彼女は腰のナイフを抜いたダレエンの腕に抱きついて必死で歩みを止めようとしていた。対する帝国の狼は荒っぽくそれをあしらったが。
「お前が答えないのならお前の妹に聞くまでだ。――モモ・ハートフィールドを呼べ。全部綺麗に吐いてもらう」
(20200713)