来たときは五人だったのに帰るときは三人だった。こちらが蟲の入れ替えにまごつく間にチャドとグレッグはひと足早くサールへの帰路に着いたらしい。
 幼馴染と貴公子はやはり上手く行かなかったようである。朝の清涼な空気の中、手にした編み籠に目をやってレイモンドはふうと小さく嘆息した。
 白猫は大人しく鳴き声一つ立てずにいる。かける言葉など見つからなかった。

「我々もそろそろ行こう」

 と、剣士の姿に戻ったルディアが声をかけてくる。コナーの隠れ家の前には赤子を抱いた農婦と画家が見送りに立ってくれていた。
「お気をつけて」
 にこやかにコナーに手を振られ、王女がぺこりと一礼する。
「先生のおかげで道が開けました。ありがとうございます」
「いやいや、解決策をひらめいたのはあなたではありませんか。楽しみにしておりますよ。これから舞台がどう動くのか」
 観客気分の発言にレイモンドは内心ムッとした。反発の大半は彼がルディアの記憶を覗き見たという一事に由来しているとわかっていたが、聖櫃の管理者とは随分いいご身分だなと思わずにいられない。
(蟲のボスならちょっとくらい手伝ってくれりゃいいのに)
 こそりと陰で肩をすくめた。画家は特に誰の味方でもないらしい。人間世界が発展するならなんでも大いに歓迎するとのスタンスだそうだ。

「健闘を祈っております。いずれまた、どこかでお会いいたしましょう」

 飄々とした笑みは最後まで変わらなかった。「ええ、先生もお元気で」と別れを告げてルディアが坂道を下り始める。小脇に編み籠を抱え直してレイモンドも後に続いた。
 ここから三時間ほど歩けばグロリアスの里に着く。プリンセス・グローリアが少女時代を過ごしたという古城と美しい湖のある村だ。
 里からは旅人向けの馬車が出ているはずだった。サールに戻ったらウァーリを牢から出してやって帰り支度を進めなければ。公爵から手紙を受け取るのも忘れずに。
「へへ、これから忙しくなりそうだな」
 帰国後のあれこれに思いを馳せ、レイモンドは拳を握った。方針が定まったからか歩む足がつい勇み足になる。裏で動きのあったこと、ウァーリに悟られないように気をつけなくては。
「ああ、難題が山ほどある。出口があるだけありがたいがな」
 ルディアのほうはすっかり普段の彼女だった。いよいよジーアンと事を構えようというのに少しも乱れたところがなく、覚悟の決まった顔をしている。
 難題か、とレイモンドは唇を引き結んだ。天帝に成り代わるなど一筋縄では行かないだろう。そもそもどうやってヘウンバオスの首を絞めるのか、十将の目はどう誤魔化すのか、こなさねばならぬ問題は多そうだ。
「せっかく無駄な血流さずにアクアレイアを取り戻せるかもしれねーんだ。皆で頭ひねろうぜ。アルも、モモも、アイリーンもいるんだし、全員で考えりゃ何か名案が浮かぶだろ!」
 力づけようとルディアの肩に手を添えた。するとどうしてか恋人は暗い表情でうつむく。遠い目をして彼女は「どうかな」と呟いた。

「アルフレッドは嫌がるかもしれん」

 意外な言葉にレイモンドは目を丸くする。
「へっ? アルが? なんで?」
 尋ねてもルディアはまともに応じなかった。「なんとなくだ」と説明にならぬ説明で前言をはぐらかされる。
「ともかく急ごう。合流したら我々はウァーリを助け出すためにサール周辺を駆け回っていたと説明するぞ。人相書きが違っていたのを証明するのに四日もかかってしまったと」
「う、うん」
 これ以上話す気はないとばかりに強引に話題を変えられる。踏み込めそうな雰囲気ではなかったため、レイモンドは流され気味に引き下がった。
 ルディアはどう口裏を合わせるか事細かに指示を出してくる。失言に対してこちらに口を挟ませまいとするように。
(? なんでアルが嫌がるんだろ?)
 レイモンドは一人秘かに小首を傾げた。
 このときもっと彼女に深く尋ねておけば何か違ったのかもしれない。けれど長らく空気を読んでやり過ごすのが染みついていた己には、今は聞かずにおくほうが良さそうだという無難な判断しかできなかった。
 気づいていれば引き返せたかもしれないのに、気づくことができなかった。
 自分が今、二度と戻れぬ分かれ道に立っていることに。


 ******


 一度心に刺さると抜けない棘がある。普段それは痛みもせず、存在を忘れているほどなのに、ふとした瞬間甦ってちくりと胸の奥を刺す。

 ――俺は死ぬまで騎士でありたい。
 ――いつかハートフィールドの名が嘲笑ではなく称賛の対象になるように。

 あの言葉もそうした棘の一つだった。父親と同じに見られたくないと、夢の裏側を明かした彼の。
 失望とは少し違う。当たり前の事実を確認しただけだ。彼は何より彼のために騎士を志したのだと。
 思い上がらないように自分に釘を刺しただけ。彼は決して「ルディアだから」主君に選んだのではないと。
 しばらく忘れて過ごしていたのは彼の勤勉実直さが本物だったからだろう。騎士であることを望む彼は概ねこちらの望む道を外れなかった。
 だがそれはやはり棘だったのである。
 胸に毒を残す棘。じわじわと心を蝕み、不信の種を芽吹かせる。

 ――できれば俺を戦場から遠ざけないでくれないか?
 ――俺一人だけ安全な場所に逃げ込んだと誤解されるのは耐えがたい。

 今頃になって天帝宮での会話など思い出したのはジーアン帝国を乗っ取ろうなどと考えたせいだろうか。それとも。

 ――いや、今回は同行できそうにないから、これくらいはな。

 マルゴーへ向かう前に見たアルフレッドの濁った瞳が脳裏にちらつく。己の中の猜疑心を呼び覚ますには十分すぎたあの眼差し。
 どうしても他人を信じられない。ルディアにとってそれは「仕事を任せられない」とか「取引相手にできない」とかでなく「自身に対する親愛が永続するものと思えない」と同義だった。
 元より時間の問題だとは感じていたのだ。王女でなくなった自分にどこまで彼がついてきてくれるか。
 アルフレッドは誰とも行動原理が異なる。彼だけはルディアの案を拒絶するかもしれなかった。
(別々の道を行くときが来たのかもしれないな)
 胸中でひとりごちる。言葉にした途端せり上がった寂しさに苦笑いを浮かべながら。
(だとしてもどうしようもない)
 何かを得れば何かを失うのが道理だ。困難な道を選ぶならなおさら。
 甘えはするまい。彼には既に返しきれぬほど尽くしてもらったのだから。


 ******


 夜。「ユスティティアのやけ酒」にはいつも通り白銀の騎士の姿があった。
 昨日大鐘楼で見たよりもユリシーズは晴れやかな顔をしている。彼と同じくさっぱりした気分でアルフレッドは今宵の杯を傾けた。
 こんなに美味い酒を飲むのは初めてだ。胸のつかえが取れたおかげで楽しく憂いなく酔っ払える。隣の男も鼻歌を口ずさむほど機嫌良く、空いたグラスにがばがばと水割りワインを注ぎ足していた。
 受け入れてしまえば小さなことだったのだ。一人じゃなかったから苦しみを乗り越えられた。その事実がこんなにも嬉しい。

「そう言えば、王国再独立派に転向する話は誰かにしたのか?」

 と、アルフレッドは気になっていたことを尋ねた。白銀の騎士は「いいや」とあっさり首を振る。
「私が動くと海軍が騒ぐ。ジーアンに砦建設を任されている今、転向の気配を悟られるのは上策であるまい。グレースの件もあるし、表向きは自由都市派を続けるつもりだ」
「そうか。そうだな」
 理に適った説明にアルフレッドは頷いた。確かに彼の言う通り、しばらくは態度に出さぬが賢明だろう。十将もグレース・グレディも油断ならない存在だ。隠せる動きは隠したほうがいいに決まっている。

「ま、とりあえず王女が帰国するまでだな。その後は防衛隊と足並みを揃えていくよ」

 笑って告げるユリシーズを見てアルフレッドも頬を緩めた。今後は彼と協同できると思うと力が湧いてくる。
 白銀の騎士はブルーノの正体が誰か伝えたのは一羽のアレイアハイイロガンだったと教えてくれた。冬の疫病で彼の妹が死んだとき、グレースはその身に己を移し替え、以後はシルヴィア・リリエンソールとして生きているのだと。病死した患者の耳に海水を注入するよう広めたのも彼女が最初とのことだった。

「姫様も皆も驚くだろうな。お前が手を貸してくれるとわかったら」

 アルフレッドは酒を舐めつつ口角を上げる。ユリシーズが再独立派に回ったことはモモにもアイリーンにもまだ告げていなかった。確保する前にグレースに勘付かれたくなかったし、ルディア抜きで話をしたら妹は疑いしか持たないだろうと思ったからだ。
 会談は頭同士でするのが最も手っ取り早い。そういうわけでアルフレッドとユリシーズは相変わらず今夜もこっそり会っていた。とは言え気持ちの上ではもう後ろ暗いところは何もなかったけれど。

「私も今から楽しみだ。あの女、きっと引っ繰り返るぞ」

 笑顔で酒を酌み交わす。幼少期の思い出からサロンでの笑い話まで、気安いお喋りの声はいつまでも途切れなかった。
 ルディアたちが帰ってきたらもう一度おめでとうと伝えたい。大切な主君と幼馴染の門出を心から祝福していると。
 すっきりとそう思えるようになったことがアルフレッドには何よりも誇らしかった。己の手で騎士の心を再び取り戻せたことが。
 早く彼女に会いたいと心が逸る。
 今ならどんなめちゃくちゃな命令でもこなせる気がした。グローリアでさえためらいそうな、どんな無理のある命令でも。


 ******


 白々しい。まったくもって白々しい。何が「誤解がとけてくれて良かった」だとウァーリはぎりぎり歯軋りした。
 先程まで閉じ込められていた塔を背に青髪の剣士を睨む。堅牢な石橋の上、ルディアはとってつけたような口ぶりで「また人さらいと難癖をつけられては敵わない。用事も済ませたことだしさっさとアクアレイアに帰るとしよう」と一行を都の外へ促した。

「……ふうん? 用事も済ませたことだし、ねえ?」

 頬が引きつるのを堪えきれぬままウァーリは王女と槍兵を一瞥する。彼らによれば誤認逮捕も数日の勾留もマルゴーではよくあることらしい。大抵は裁判が開かれる前に釈放してもらえるが、小銭稼ぎにご執心の看守が容疑者を帰す気になるまで大変だったというのが二人の用意した「言い訳」だった。

「なんだ? 何かおかしなことを言ったか?」

 いくら探しても穴などないぞと告げるようにルディアがこちらを振り返る。眉間に濃くしわを寄せ、ウァーリは「いいえ!」と唇を尖らせた。
 一歩進むたび獄中で冷えた腰が痛む。腹立たしさで全身の血が煮えそうだ。
「大丈夫すか? 荷物持ちますよ?」
 そう手を差し伸べてくるレイモンドの心遣いも今やまったく喜べなかった。親しみやすく気配り上手な男の子だと思ったのに、嘘つきでは論外だ。二人で何かしてきたのは間違いないのに彼はそのことに触れもしない。
「いらないわ」
 冷たく拒絶の意を示し、ウァーリはずんずん石橋を渡った。視線を上げれば向かいの森の梢に三羽の鷹が仲良く飛んでいるのが映る。
(見てなさいよ! 帰ったらあの子たちにこの四日のこと何もかも報告させるんですからね!)
 ふんとウァーリは息を巻いた。隠し事が何か掴んだらただでは済まさないぞ、と。
 このときはまだ監視役の鷹たちを――彼らの飼い主である若狐を――味方であると信じていたので、何を見たか正直に教えてくれると思っていたのだ。
 ラオタオの中に別の脳蟲が入っていること。ウァーリがそれを知るのはもう少し先の話になる。


 ******


 血の気の引いた頭を揺らして緑の影が鏡の間を徘徊する。迷宮の建設現場を呆然と歩き続けるガラス工にタルバは小さく唇を噛んだ。
 立てば亡霊、座れば骸、歩く姿は半死人――。嵐の到来から一週間、いまだ異国の友人は魂が抜けた状態にあった。
 一体どんな責め苦に遭ったのかバジルはひと言も漏らさない。ただぽかんと口を開け、斜め上を見つめているばかりである。時折ぶつぶつ何事か呟くのが聞こえたが、早口かつ小さすぎるアレイア語はタルバの耳に聞き取れるものでなかった。
 水銀鏡を用いた迷路はラオタオの私室に作るなら構わないとの許可が下り、現在も工事は進行中である。引かれ直した図面は正確なものだったし、バジルも一応頭は動いているようだ。
 だがどう見ても今の友人は正常とは言いがたかった。退役兵とすれ違うだけですくみあがり、脂汗がどっと噴き出す。五体満足で外傷らしい外傷もなく、とてもラオタオの折檻を受けたとは思えないのに、それでも彼の混乱は長々と尾を引いていた。

「大丈夫かしら、バジル君……」

 隣では同じようにケイトがガラス工を案じている。彼女がそれとなく尋ねてみてもバジルは「大丈夫です、大丈夫!」と慌てるだけで狐に何をされたかは一つも打ち明けなかったそうだ。
 最悪な想像しかできず、胃のひりつく感覚に眉をしかめた。考えたくなんてないのに考えてしまう。友人を襲った悲劇を。

「休ませてあげたいわね……。それとも働いていたほうが楽なのかしら……」

 互いにはっきり口にすることはなかったが、ここで色々と危ない目に遭ってきたケイトが同じ懸念を抱いているのは明らかだった。怪我もないのにこんなにショックを引きずるなんて可能性は一つしかない。
(くそ、なんで止められなかったんだ)
 中身はウェイシャンだと知っていたのに聖預言者に手を出せなかった自分が酷く情けなかった。バジルは敵味方の域を越えて己に技術を授けてくれた恩人であるというのに。
 当人に「犯されたのか?」など聞けるわけもなく、タルバはひたすら自責の念に苛まれた。聞けばおそらく一瞬で問題は解決したのだが。
 バジルが退役兵に怯えるのは彼が新たに抱えた秘密の露見を恐れてであったし、危惧されるような事態は当然起きていなかった。
 しかしタルバとケイトにはそんなこと知る由もなかった。それゆえ深刻さは増していった。
(これからは何があっても俺がお前を守ってやる)
 手遅れかもしれないが許してくれとタルバは強く拳を握る。
 憎き狐はゴジャたちが大人しくなったのでそろそろアクアレイアに引き返す予定らしい。戻るならさっさと戻れと毒を吐かずにはいられなかった。
 恩人のために何ができるか。今のタルバに考えられるのはそれだけだった。


 ******


 世の中には「楽そうに見えて最悪な仕事」というのが存在する。レドリー・ウォードが着いた任務もその一つに違いなかった。
 唐突にドナへの送迎を命じられ、狐の足にさせられたのが十日ほど前の話。つきっきりで放埓な気まぐれ男の相手をせねばならず、実にうんざりする毎日だった。
 酒の準備も女の手配ももうこりごりだ。嫌々ながらなんとか用意してみれば「好みじゃない」と一蹴されるし、やっていられない。幼馴染はいつもこんな奴をいなしているのかとつくづく感心させられる。
 快速船が無事アクアレイアの軍港に錨を下ろし、ラオタオが「じゃあねー、ご苦労さん!」と去っていったとき、レドリーは心底ほっとした。しかしまだ任務が完了したわけではない。早く帰って家でゆっくり休むためには提督への報告を済ませねばならなかった。
 そんなわけでレドリーが足を向けたのはレーギア宮だ。折しも大鐘楼の鐘は正午を告げたばかりである。この時間ならサロンから引き揚げてくる幼馴染を正門前で捕まえられるはずだった。
 想定通り、広場を急ぐレドリーの前に白銀の騎士は姿を見せた。――ただし隣に似つかわしくない男を連れて。

「うげっ……! ア、アルフレッド……!」

 従弟の姿を目にすると同時、長年の癖で思いきり顔を歪めてしまう。無駄にいい子の親戚は拒絶的なこちらの態度を気にした風もなく「あれ? 久しぶりだなレドリー。ドナに出張中なんじゃなかったか?」と気さくに手など上げてきた。

「い、今さっき帰ったとこだ」

 ぞんざいにそれだけ言うと存在を無視するように顔を逸らす。なんでこいつがユリシーズと仲良さげに歩いてくるんだと不可解な状況に苛立った。いや、己とてアルフレッドが女帝のサロンに出入りしていることを知らないわけではないけれど。
(くそ、ちょっと職場が同じだからって親友みたいな顔しやがって)
 父のことと言い、剣のことと言い、この従弟は何かとこちらの領域を侵してくるので神経過敏になっていけない。まさか賢明な幼馴染がこんな騎士馬鹿に心許すはずないと思うが、二人の間に流れる空気の柔らかさが引っかかった。
(ユリシーズはどんな相手にも分け隔てしないからな。それをこいつが勘違いしてるんだ。うん)
 吠えるどころか噛みつきそうになる己を堪え、レドリーはユリシーズに向き直る。
「ほらよ、今回の報告書」
 既にまとめてあった文書を渡すと白銀の騎士が「ありがとう」とにこやかに礼を述べた。
「将軍の相手は骨が折れたろう? 今日はゆっくり心身をねぎらってくれ」
 我が友ながら彼の振舞いは常にそつなく完璧だ。その温和な笑みを見ているとアルフレッドのごとき小物を気にするのが愚かしく思えてくる。
「ああ、そうさせてもらうよ。また代役が必要になったときは俺を呼べよな」
 平常心を取り戻し、レドリーは自信たっぷりに短い髪を掻き上げた。
「じゃ、お先。おいアルフレッド、お前もあんまりユリシーズにつきまとって困らせるんじゃねえぞ」
 揃って女帝に重用されていようと彼の親友の座についているのは己である。引き立てられて出世するのはお前じゃないと図々しい従弟を睨む。
 だがアルフレッドには視線の意味も鋭さもまったく伝わらなかったらしい。
「今度そっちにも顔を出すよ。伯父さんによろしくな」
 などと笑顔で応じられ、盛大に崩れ落ちかけた。
(こ、こいつ……)
 少しは焦るなりなんなりすれば可愛げのあるものを、どこまでも鈍い男だ。鼻持ちならない従弟の顔をどうしても青ざめさせてやりたくなり、レドリーは去りかけた足を止めた。

「そう言えば、取っ捕まってた防衛隊のちっこいのが大変な目に遭ってたぜ。隊長が捕虜救出もできない甲斐性なしだと下の連中は苦労するな」

 鼻で笑うとアルフレッドは「えっ?」と大きく目を瞠る。
「捕虜ってバジルの――緑の髪の弓兵か? 大変な目って?」
 求めていた手応えにレドリーは口角を上げた。「俺もそこまでは話せねえよ」と大仰に首を振る。ある程度の秘密保持義務があることはユリシーズに渡した報告書に視線を向ければ従弟も理解したようだった。
(ふん。焦れ焦れ)
 焦りのまま女帝の面前で失態を演じ、ただの平民に戻ればいい。そう胸中で毒づいた。一段上から見下ろしていられたのはそこまでだったが。

「こら。人を甲斐性なしなどと言うものではない。アルフレッドはよくやっているし、ジーアンが捕虜の返還に応じないのはお前も知っているだろう?」

 たしなめられて愕然とする。友人の声が真剣そのものだったことに。
「えっ、あっ、ユリシーズ」
「いたずらに兵の心を乱してどうする? 今のはお前が悪かったぞ」
 幼馴染はレドリーを厳しく見据え、アルフレッドを擁護した。「早く彼に謝れ」との要求に急に言葉が出なくなる。
(な、なんでこいつを庇うんだ? 防衛隊は自由都市派を邪魔する敵だろ?)
 そう問いたいのにさすがにそのまま口にすることはできなかった。理解不能な展開にただただ困惑だけが深まる。
「レドリー!」
 犬のしつけでもするかのように白銀の騎士はこちらを急かした。息を飲み、レドリーはしゅんと肩をすぼめる。

「す、すまん。言いすぎた……」

 結局ユリシーズに気圧されて己が詫びる羽目になる。「俺は気にしていないよ。甲斐性なしなのは事実だしな」と苦笑いで首を振られ、余計に惨めな気持ちが湧いた。
「アルフレッド、そう落ち込むな。ドナで何があったかくらい後でいくらでも教えてやる」
「ああ、ありがとう。頼めるか?」
 手早く報告書を繰りながら幼馴染はアルフレッドにそんな約束をしさえする。もはや完全な悪者と成り果てたレドリーは唇を噛んで後退した。
(くそ! 面白くねえ!)
 別れの挨拶もろくにせぬまま雑踏に紛れ込む。これ以上あの親密な空気の中に身を置いていたくなかった。ユリシーズは寛大なだけ、ユリシーズは公正なだけと呪文のように繰り返す。

「あーっ! クッソむかつく!」

 それでも鬱憤を抑えきれず、何度も虚空にパンチした。白昼の広場で腕など振り回していたら歩行者にぶつかるのは自明の理であったのだが。

「――なんだ?」

 背の高い黒髪の男が振り返る。歴戦の雄もかくやという凄みを感じて「わ、すみません!」と慌てて詫びた。
 詫びてからレドリーは怒りに肩を震わせる。本日二度目の謝り損とはついていない。
(っんだよ! ロマじゃねえか! びびらすなよ!)
 薄汚れたコートが風に翻り、遠ざかるのを睨みつけた。顔の半分を癖の強い前髪で覆った男はそのまま人混みに埋もれていく。
 はあ、とレドリーは嘆息した。帰ってさっさと横になろう。それがいい。
 時が流れれば不愉快も遠のく。目を覚ます頃には世界もいくらか己に優しくなってくれているだろう。


 ******


 報告書に目を通したユリシーズの言によれば、バジルは「許可なく大量の鏡を作った」かどで処罰を受けたそうだった。だが折檻部屋に連れ込まれたにもかかわらず大した怪我はしておらず、鏡作りは続行中とのことである。「あまり心配しなくとも平気ではないか? 少なくとも火急の事態ではないと思う」というのが白銀の騎士の見解だった。
 海軍提督の彼が言うなら必要以上に恐れることもないだろう。礼を述べるとアルフレッドは友人と別れ、当初予定していた通り時間貸しのゴンドラで墓島の療養院へと漕ぎ出した。
(今日はゆっくりモモたちの講義を手伝えそうだな)
 詩作に目覚めたアニークが「午後は集中したいの」と言い出したのは昼前のことである。おかげでサロンは早々とお開きになった。まさか彼女から帰ってほしいと頼まれる日が来るとはだ。
 アルフレッドは微笑とともにレーギア宮を振り返る。ゴンドラ溜まりの奥に鎮座する薔薇色の宮殿。今もあそこでアニークが懸命に詩を書いていると思うと自然に頬がほころんでくる。別人だとか別人じゃないとかもうまったく気にしていないのが不思議だった。
 これが受け入れるということかもしれない。心はどこまでも澄み渡り、何も恐れていなかった。これからも自分はルディアの騎士でいられるという確信が嬉しかった。
(あれ?)
 と、広場に逸らした視線が異なものを捉える。褐色肌に一つ結びの黒い髪。宮殿を見上げる長身の男に驚いてアルフレッドは思わず叫んだ。

「カ、カロ!?」

 呼びかけに一瞬ロマがこちらを向く。しかし彼はすぐさま踵を返し、人垣の奥に見えなくなった。
(帰ってきたのか? アクアレイアに)
 追うべきか追わざるべきか少し悩んで結局やめる。避けられたように見えたし、今から岸に戻っても追いつけないのは明らかだった。
 用があるなら彼のほうから部隊を訪ねてくれるだろう。カロはもう王女への復讐心を手離してくれたのだから。
(また会えるといいな)
 アルフレッドはゴンドラの櫂を握り直した。ロマの去った広場を見つめて目を細める。
 すべてはきっと良い方向に流れている。


 ******


 蛍が一匹飛んだ気がした。
 光の中を。まだ周囲も明るいというのに。
 こんなときは大抵すぐ側に何かある。小さな光を追いかけてカロが海を振り返ると、湾上のゴンドラに知っている男が見えた。
 赤い短髪。太い眉。まっすぐこちらを見上げる双眸。
 考える前にカロの足は逆方向へ進んでいた。すると頭上でチカチカ明滅していた光が抗議でもするかのごとく目の前を旋回し始める。

「……勘弁してくれ。まだどんな顔をして会えばいいのかわからない」

 深く溜め息を吐き出すと光はすうっと薄れて消えた。
 相変わらずお節介な友人である。時折こうして現れる蛍が本当に彼かどうか確かめたことはないけれど。
 アクアレイアには到着したばかりだった。目的の人間をどう探し当てたものかカロは頭を悩ませる。モリスにも聞くには聞いたがあの男の現在地は異母弟にもわからないらしい。近くをうろついていればそのうち鉢合わせるだろうが。
「!」
 そんなことを考えていたらまた白い光が先導し出した。広場を行き交う人々は淡い発光に気がついた様子もなく各々の活動に従事している。
 露店を出す者、話し込む者、積み荷を背負って歩く者。彼らを皆追い越してカロは尾を引く光に続いた。
 多分彼も歌を楽しみにしているのだろう。途中までしか知らなくて、いつも途中でやめていた歌。最後まで聴かせてやれれば自分も嬉しい。
(まさか今頃こっちから出向く気になるとはな)
 どんな顔をして会えばいいかわからないのはあの男に対しても同じだった。けれど今を逃したら会わずに終わるのは間違いない。
 せっかく繋いでもらった縁だ。一度だけ歌い交わすのも悪くはなかろう。
 リュートの入った袋を肩に担ぎ直し、カロは通りを歩いていった。
 音も影もなく飛び回るご機嫌な蛍とともに。


 ******


 どこかで一手仕損じたまま駒を進めている気がする。思いもかけない方向へ流されたままでいるような。
 具体性のかけらもない漠然とした危機感にファンスウは眉をしかめた。ドナでの顛末を報告にきた若狐はいつもと変わらず見えるのに――否、だからこそ化かされている気がして仕方ない。

「で、そっちはなんかあった? 防衛隊の居残り組がこそこそなんかやってたとかは?」

 絨毯に足を放り出し、ラオタオはこちらを見上げた。長椅子に深く腰かけてファンスウはゆっくりと息を吐く。

「……今のところ何も」

 ほんのひと言答えるだけで組み合わせた指の先まで強張った。警戒がもはや緩められぬことを感じる。少しも信じる気にならない。
「ふうん? そうなんだ。本当に全然何もナシ?」
 問いながら若狐は幕屋の入口を振り返った。道を塞ぐようそこに立っていたダレエンが彼に頷く。
「ああ、外部の者と接触した形跡は見られない。アルフレッドも飲みの相手は毎回同じだ」
 ウァーリが不在にしている間、防衛隊の動向を探るのはこの狼の役目だった。ファンスウも何人か部下を回して墓島の出入りなど見張らせているが、部隊の様子に変化はない。赤髪の騎士は自宅と宮殿と酒場の往復だし、アイリーンと斧兵の少女も似たものだ。朝夕に彼らは根城の理髪店で顔を合わせているようだが、集まってもすぐ解散して大した話はしていなさそうだった。
 唯一の例外が印刷工房に騎士物語の出版を停止させに赴いた件である。だがそれはどう考えてもハイランバオスと繋がりそうな事案ではなかった。こちらが気を張っているのが馬鹿馬鹿しくなるくらい防衛隊の周辺は穏やかだ。

「じゃあやっぱ本命はサールに向かったお姫様か。そろそろ三週間になるし、あっちも戻ってくる頃だよな」

 楽しみだね、と狐が笑う。最初から賽の目を知っているような顔をして。
 仕損じたという直感だけがファンスウの中で強まった。直感だけというのが困りものだが。

「小間使い大量投入の日も近いかな? そしたら俺、もう一回ドナに戻るけどいいよね?」

 首を横には振れなかった。行動を抑止できるほど彼はまだしくじっていない。
 それにラオタオはある程度浮かせておかねばならぬ駒だ。ハイランバオスのほうから獲りにこさせるためには。
「わかった。そのときはまたウェイシャンを連れて行くのだぞ」
 幕屋の片隅で足を崩していた偽預言者に視線を向ける。瞬時に姿勢を正した彼は「は、はい!? 頑張りまーす!?」と従順な返事をしたが、話を聞いていなかったのは明らかだった。
 ファンスウはふうと息をつく。監視役がこの駄犬一匹ではやはり荷が重そうだ。かと言ってあまり見張りも増やせないが。

「……じき帰還か。ウァーリが朗報をもたらしてくれるといいんだがな」

 ぼそりとダレエンが呟いた。行き詰っている感のある現状への不満足を隠しもせず。
 期待は持たないほうがいいという気がした。この停滞はしばらく続きそうに思える。自分たちはまだハイランバオスの掌中で踊らされているのだと。
 糸口を掴まねばならなかった。閉じ込められた迷宮から抜け出すための糸口を。
 まだ待てだ。焦るなと己に言い聞かせ、ファンスウは指を組み直す。
 ルディアの帰国予定日は刻一刻と近づいていた。今しばらく気を抜くことはできなかった。


 ******


 人は皆、己に馴染んだものを好む。習慣の力は恐ろしい。どんな良い方向へ道が開けても必ず揺り戻しが起きる。
 思考の癖、物事の捉え方、選択する行動の傾向。それらはすべて蓄積された志向であり、総合して性格と呼ばれる。
 臆病な選択を続けてきた人間には勇敢さを必要とする選択肢になかなか手を伸ばせない。逆もまた然り。蛮勇な者は危機のときでさえ慎重を嫌う。怠惰な者は考えること自体避けるだろう。
 性格は厄介だ。植物が根を張るように人間を慣れた志向に留めようとする。
 だから気をつけねばならない。今までの己と決別し、新たな道へ踏み出そうとする者は。
 過去の己が足首を掴んでいると忘れてはならない。さんざん浸りきってきた価値観や感傷は隙あらば元の道へ引き返そうと努めるし、その力が最も強まるのは新たな道で苦難に打ちのめされたときだということを。
 善悪も好きも嫌いも関係なく、人間は慣れた自分に戻ろうとする。馴染んだものなら弱っていても選びやすいから。
 過去の己を振り切りたければ忘れてはならない。新たな道での蓄積が十分でないうちは、足元の影が一番の大敵だということを。
 思考の癖、物事の捉え方、選択する行動の傾向。それらはすべて蓄積された経験に引きずられる。
 人間はそういう風にできている。


 ******


 パトリア聖暦一四四二年十月十九日。その日は快い朝から始まった。
 長らく心配をかけてきた弟に「最近なんだか楽しそうだね」と優しい笑顔で送り出され、ブルータス整髪店に着いたのが九時過ぎ。モモとアイリーンにも連日の手伝いを感謝され、アルフレッドは気持ち良くレーギア宮に馳せ参じた。

「聞いてちょうだい! このところかかりきりだった新作が完成したの!」

 寝所の扉を開けるなり甲高い声に迎えられる。見れば女帝はできたばかりと思しき長い詩の綴られた便箋をこれでもかと広げていた。
 きらきらと輝く瞳に我知らず頬が緩む。このところ格段に腕を上げた彼女に披露されたのはこれまでで一番の力作だった。
「パディってすごいわ。いつも私の出来損ないの詩を何かと深めて返してくるの。そうしたら私も次はこう書いてみようってアイデアが浮かんで書かずにはいられなくなっちゃうのよ!」
 一作仕上がった興奮のままアニークはすぐにパディに見せにいきたいと言う。二つ返事で頷きながらアルフレッドは「俺もいいですか?」と問うた。
「実は昨日、患者たちの語学指導の傍らに一つ書いてみたのがあって」
「えっ!? あなたも詩を作ったの!?」
 女帝は「見せてちょうだい!」と両手をこちらに突き出してくる。
「あまりセンスはないですが……」
 照れくささを誤魔化すためにごほんと一つ咳払いしてアルフレッドは懐から封筒を取り出した。半ばひったくるようにアニークは中の便箋を抜き、それを貪り読み始める。
「まあ……! まあ、まあ…………!」
 目の前で自作の詩を読まれるというのもなかなか気恥ずかしいものだ。良い反応なのか悪い反応なのか判別をつけられないまま「ど、どうでしょう?」と聞いてみる。
「これは是非パディに見てもらうべきよ!」
 一作目がこのレベルなんてすごいとアニークは頬を紅潮させた。力説されてほっとして「ありがとうございます。そう言っていただけると安心します」と礼を言う。
 彼女はもう待ちきれないといった様子で「ほら、早くパディのところへ行くわよ!」とこちらの腕を引っ張った。アルフレッドが心穏やかでいられたのはこのときまでだった。

「性懲りもなく尻尾を振りにきよったのか」

 衝立の奥から顔を覗かせた老人が天敵を見とがめて眉を歪める。濁りきった双眸にアルフレッドはわずか怯んだ。
 今日も今日とてパディは苛烈だ。騎士嫌いが緩和されそうな気配すらない。ただただ鋭い眼光がこちらを焼こうとするだけで。
「あ、あの、私たち新しい詩を持ってきたのよ」
 急速に冷えた空気にうろたえつつ、ともかくもアニークが手紙を差し出す。
 だがこれは完全な悪手だった。「私たち?」と口にしてパディはますます顔をしかめた。
「ええ。アルフレッドもあなたを励ますために詩を――」
 言葉は途中で無遠慮な笑いに遮られる。

「なるほど。女帝陛下に倣えば高慢な詩人にも取り入ることができると勘違いしたわけだ」

 老人は軽蔑の目でアルフレッドを一瞥した。邪な目的などかけらもないのに初めからそうと断定される。相変わらず彼の中で騎士は極悪人らしい。
「どんな句で詩を汚したのか知らないが、目にする価値など露ほども感じないな。持ち帰って竈の焚きつけにするといい」
 こう正面切って拒絶されるとさすがに少し気が塞ぐ。手紙ならひょっとして受け取ってくれるかと思ったのに、目算が甘かったようだ。
「し、詩を汚したって……」
 あまりの侮辱にアニークも呆気に取られた様子だった。彼女はパディが普段どんな剣幕でアルフレッドやユリシーズに噛みつくか知らなかったから驚いたのもあるだろう。親しい者を庇わずにいられない女帝は果敢にも老詩人に向き直った。
「あのねパディ、アルフレッドは本当にただ親切心で」
「騎士の親切心なんぞこの世で一番信用なりません。騎士なんぞ、己が貰える見返りのことしか頭にないのですからな!」
 が、彼女の勇気はすぐに勢い衰える。自分の声より大きな声で怒鳴られれば身がすくむのは当然だ。そのうえ罵倒は激しさを増す一方だった。
「こんなに醜悪な生き物はほかにおりません! この世に騎士が生きていると思うだけでぞっとする! ああおぞましい! ああ忌々しい!」
 パディは腹に溜め込んだ憎悪を吐き散らす。かつて騎士だった詩人を思い、アルフレッドは唇を噛んだ。
 彼は覚えていないのだろうか? 彼の隣にグローリアがいた頃のことを。
 幸せを思い出せた時代には騎士の美点を即興詩にもできたはずだ。騎士物語の前半では――毒殺事件の真相を知る前は、パディは明るい世界を紡いでいたのだから。
「……騎士がすべて悪しき存在とは思えません。正道さえ忘れなければ正しい騎士であれるはずです。そうでしょう?」
 堪らずアルフレッドは聞いていた。マルゴー公に対する恨みを騎士すべてに向けるのを考え直してほしい一心で。
 返ってきたのは思いもかけないひと言だったが。

「何をたわけたことをぬかしておる? 正しい騎士なんてもの、存在するはずないだろう?」

 真冬の風を思わせる眼がアルフレッドを凍りつかせる。パディは掠れた声で笑い、「愚か者め」と呟いた。

「騎士とは人に授けてもらう称号だ。主君なしには成り立たないのが最初から決まっている。己の運命を握る相手に媚びもせず、落胆もせず、勝手な怒りを向けもせず、真に忠義を尽くせる者などいると思うか?」

 問いかけに何故か鼓動が早まった。コーストフォート市を出てからの自分がまざまざと思い返され、咄嗟に「でも」と言い返す。
「でもユスティティアは、プリンセス・グローリアに忠実であろうとしたはずです。一時的には不誠実だったとしても」
 パディの目つきは変わらない。冷淡な失笑をアルフレッドはただ見ていた。
 じわりと胸に不安が広がる。
 杯に落ちた毒のように。

「金銭を欲する騎士は俗物という程度で済む。本当に醜悪なのは騎士道に夢を抱く騎士だ。他者に依拠した時点で最も大切な意思と矜持を失っているくせに、その矛盾に気づきもせず無私無欲などと言い張る」

 有り得ぬものだと詩人が言った。正しい騎士などどこにもいないと。主君の正しさと己の正しさが食い違ったとき、ようやくそのことに気づくのだと。

「薄っぺらな自己実現の願望に他人を巻き込んで『正しい騎士』とは笑えるよ。一人遊びなら一人ですべきでないのかね? 騎士ごっこなんてお遊びは」

 悪態は鋭く胸に突き刺さった。だが何故それが痛むのか、アルフレッドにはわからなかった。
 多分理解してはならない類の言葉だったのだと思う。美しい夢を美しいまま保つためには。

「詩人は詩を書けば詩人でいられる。だが騎士は、人にそう呼んでもらわねば決して騎士を名乗れない。――欺瞞に満ちた哀れで滑稽な生き物だ」

 パディはくるりと背を向けた。震える手で杖を握ると彼はずるずる足を引きずって衝立の奥に消える。
「…………」
 アニークのかじかむ指に袖を引かれ、無言のまま視線を交わした。
 もう出ていったほうがいい。頷き合って客室を後にする。

「……また日を改めるわ。あなたの詩、しばらく私が預かっていてもいい?」

 アルフレッドは「お願いします」とだけ返した。
 詩はおそらく日の目を見ずに終わるだろう。パディの心が休まらぬ限り。
 本当に騎士そのものを許せないのだ。そう思ったら背筋がうすら寒くなった。
 騎士の矛盾。主君と己の食い違い。
 早急に考えねばならないことができた気がするのに少しも頭が働かない。
 どうしてこんなに胸が騒いでいるのだろう。


 ******


 じくじくと痛む棘の抜けぬまま夕刻を告げる鐘が鳴り、アルフレッドは帰路に着いた。
 今日は何にも身が入らなかった。本を読んでも雑談に興じても表面を上滑りするだけで、ユリシーズにも心配され通しで。「良ければ話を聞いてやるぞ?」と夜に会う約束を取りつけられたことだけはいつもの光景だったけれど。
 広場の市に目をやっても、いくつ橋を渡っても、奇妙な焦燥が薄らぐ気配はしなかった。少し気になる程度の引っかかりなのに、不思議といつまでも気になり続ける。
(詩人は詩を書けば詩人でいられる。だが騎士は――か)
 そうこうするうちにブルータス整髪店が見えてくる。外階段を上がって二階居住部の鍵を開けると中から人の話し声が聞こえた。響く声から察するにモモとアイリーン以外にも誰かいるようだ。

「よっ! おかえり、アル!」

 居間の扉を開いて迎えてくれたのはまだ旅装束の幼馴染だった。明るい笑みを目にすると同時、今の今まで漂っていたもやもやが吹き飛ぶ。

「レイモンド! 無事に帰ってきたんだな」

 ということは、とテーブルに見やればそこにはルディアと白猫の姿があった。足を組み、向かいに座した療養院組から留守の間の報告を受けつつふむふむと主君は相槌を打っている。
「大体わかった。続刊の印刷を止めてくれて礼を言う。クルージャ砦と湾内の新しい防衛設備についても把握した」
 アルフレッドが来る前にこちらからするべき話はあらかた済んでいたらしい。くるりと顔だけ振り向いたモモに「ちょうど良かった。今からマルゴー組の話聞くところだよー」と手招きされる。

「留守の間もよくやってくれていたようだな。ご苦労だった、アルフレッド」

 胸弾ませてアルフレッドはルディアに近づいた。今すぐにでも「ユリシーズが仲間になってくれるぞ!」と言いたかったのをなんとか堪える。この報告はどう考えても順番的に最後である。表情筋と逸る心臓を落ち着かせつつ主君の傍らに足を止めた。
 ルディアの一番近くにはレイモンドがひょいと陣取る。彼女の腰かけた椅子の背に肘を置いて寄りかかる幼馴染を目にしても今はなんとも思わなかった。二人の幸福を邪魔するものがなければいいとさえ願う。
 完全に以前と同じ――いや、以前よりずっとまっすぐに立てていた。最初に彼女に望まれた心ばえ正しき騎士として。

「ではまず先生に会って聞いたアークの話から始めよう」

 ルディアは低く抑えた声で旅の成果を語りだす。アークに薬効があることや蟲が聖櫃を守ろうとすること。ほかにもハイランバオスがジーアンを引っ掻き回そうと狙っていることやアーク管理者には文明を発展させる使命があることなど、しばし息を飲む話が続いた。
 特に驚いたのは『接合』に関してだ。寿命が延びて記憶が共有できるというだけでも衝撃だったのに、今ラオタオに入っているのは十中八九アンバーだと聞かされてアルフレッドは目玉を剥いた。
「え、ええ!? どういうこと!?」
 同じくモモも椅子の上で引っ繰り返る。「あ、あれは本物じゃない?」と額に汗を浮かべる妹に主君はそっと首を振った。
「やたら我々をドナに招こうとしてくるから気にはなっていたんだ。この羽根が雌ダチョウのものとわかって確信した。『接合』でラオタオの記憶を得たから彼女の演技にはほころびがないのだとな」
 そう言ってルディアは大きな茶色の羽毛を取り出す。手に取ってみれば確かに主君の言う通り、幅広のそれはどこか見覚えがあるように感じた。

「ほんとに? ほんとにアンバーが生きてるの?」

 身を乗り出して問うモモに手の中の羽根を渡してやる。横から顔を覗かせたアイリーンが「こ、これは間違いなくアンバーのだわ」と断言すると妹は目を輝かせた。
「……!」
 生物学者のアイリーンが言うなら確定も同然だ。更に彼女は「ラオタオ様にハイランバオスの肉体を奪われてアンバーも回収されちゃったときはどうなるかと思ったけど、人質として捕まったんじゃなく『接合』の実験に使われたのね」と推定する。
「いや、人質のつもりは人質のつもりだったろう。あのエセ預言者がこちらに正体を伝えなかったのがいい証拠だ」
 発言を受け、ルディアが半分首を振った。状況だけ見ればアンバーが敵中に取り残されたままなのは変わらないし、女優はハイランバオスたちの想定通りに動く駒とも思われているはずだ、と。
「身の安全を考えれば狐のふりを続ける以外ないからな。それにアクアレイアの蟲なら必ずアクアレイアの利になるように立ち回る。天帝に嫌がらせしたいあの男からすれば将軍役にはうってつけだったろうよ」
 なるほどと唸らされる。アイリーンも「きっとラオタオ様の案ね。捕まったとき側にいたのはあの人だけだし」と頷いた。
「それじゃバジルも無事かな? お仕置きされたとか聞いたからウワ……って思ってたけど、アンバーなら酷いことするわけないもんね」
 モモは早くも安堵の笑みを浮かべている。油断ならない状況でも朗報は朗報と受け止めているようだ。アルフレッドもひとまずは仲間の無事を喜んだ。
「『接合』を使えば我々にもジーアンを出し抜くチャンスができる。現状それが唯一掴める勝機だろう」
 ここからが本題だ、とルディアは口元を引き締めた。真剣な横顔を見つめ、アルフレッドはごくりと喉を鳴らす。

「――帝国を乗っ取るぞ」

 最初にモモが瞬きした。アイリーンもぽかんと口を開いて固まる。ブルーノとレイモンドは既に構想を聞いていたようで静かに頷くのみだった。
「やることはシンプルだ。蟲と知れているジーアン人の首を絞め、こちらの蟲と接合ののち入れ替える。要はアンバーと同種の演者をこつこつ増やしていくわけだ。記憶を共有した状態ならそう難しい演技ではあるまい? 最終的には一〇二四匹の蟲すべて肉体を明け渡してもらう」
 ルディアは続ける。「独立に戦争という過程を持ち込む必要がなければ早期の決着も望める」と。
「帝国の意思決定権がこちらに移ればアクアレイアを自由都市に指定するのはたやすい。永続自治権などすぐに獲得できるだろう」
 えっとアルフレッドは瞠目した。主君の口ぶりに同じ疑問を抱いたらしく、妹も怪訝そうに顔をしかめる。

「自由都市? 待って姫様、まさか王国再独立派やめる気なの?」

 問いかけがなされた瞬間冷たい何かが背筋を這った。その正体がなんなのかわからないまま話は次へ進んでいく。
「ああ。アウローラは政争に巻き込まないと決めた。アクアレイア人が安全に生きていけるなら王国という形にこだわる必要もないしな」
「で、でも、帝国自由都市って結局ジーアンの一部じゃん? アクアレイアが立ち直るにはアクアレイア人の力で独立を掴まなきゃって……」
「その点については大丈夫だ。自由都市に格上げになったら今度は街の買取額を提示する」
「ええええ!? なんて!? 買取額!?」
「領土の交換や売買はどの国でも古くから行われている。経済力を復興させてアクアレイアを買い戻すんだよ。いかにも商業国家らしいやり方だろう?」
 未来を見据えたルディアの眼差しは力強い。澱みない説明にモモは「ああ、そ、そういうこと」と驚嘆の目で主君を見つめた。

「手始めにドナを落とす。ちょうど蟲入りの小間使いを三十人も連れて行くと決まっているしな。その先はドナに呼び出した十将と順番に入れ替わっていく。頃合いを見てヘウンバオスにも会うつもりだ」

 天帝役を引き受けるのはルディアだという。アクアレイア商人が交易に専念できるよう、彼女が東方に君臨して各国のパワーバランスを整えるのだと。
 頭の整理にはしばらくかかりそうだった。ずっと王家再興を目指すものだと思っていたから、聞いた話を飲み込むだけでも時間を要した。
 アイリーンとモモは「本番の前に実験が必要かしらね?」「そんな攻略方法があったかー」とすんなり受け入れている様子だ。だがアルフレッドには素直に頷けぬものがあった。「ルディア」の肉体は戻らないまでも彼女はここに留まるのだと信じていたから。
(姫様が天帝に成り代わる……)
 震える指を無意識に握り込む。
 それが最善の選択なのは己にもわかっていた。余分な金や命を消費せず自由を取り戻せるならこんないいことはほかにない。わからないのは主君との関係がどうなるのかという一事だった。

「それではもしジーアン乗っ取りに成功したら、あなたはもうアクアレイアに戻ってこないのか……?」

 気づいたらそう尋ねていた。真横に立つアルフレッドを見上げたルディアは是とも否とも答えない。ただ少し、気遣いの滲む目を向けてくるのみである。
「足は遠のくだろうな。ほかはともかく私は東方を離れられまい」
 主君の声はもう決めたと言っていた。説得には応じないと。
「だが蟲は巣に執着するんだろう? アクアレイアを守れてもアクアレイアにいられなくなるんじゃ本末転倒だ」
 何かに急き立てられるようにしてアルフレッドは訴える。けれど彼女は聞く耳を持たなかった。「帰る気になれば帰ってこられる。悲観するほどのことではないよ」と。
「ジーアンの蟲たちはどうなる? 殺すのか? ガラス瓶に閉じ込めたままにするのか? アニーク陛下も?」
 敵への配慮など求めても仕方ない。それなのに止められなかった。なんでもいいから主君を思い留まらせる材料が欲しかった。
 だってこのままでは彼女は。

「アルフレッド」

 揺れない瞳がこちらを仰ぐ。唐突にルディアは椅子から立ち上がった。

「下で少し、二人で話そう」

 既視感のある微笑。お前だけはコリフォ島に連れていけないと言われた日、こんな風に優しく笑いかけられた気がする。
 心臓がざわついた。行っては駄目だと声がする。
 ルディアの視線を避けるようにアルフレッドは居間を見渡した。
 何か察したらしいモモが顎で奥階段を示す。ほかの面々はどうしたどうしたという顔で主君に目をやっていた。
「行くぞ」
 先にルディアが歩き出す。促されれば行くしかなかった。自分は彼女の騎士だから。
「――……」
 どうして転がり落ちる錯覚などするのだろう。なす術もなくアルフレッドは一階店舗へ続く階段を下りていく。

 ――お前は無名の騎士のまま終わらないでくれ。

 耳の奥で反響するのは「間違えた日」に聞いた声。同じことが繰り返される予感がした。否、もっと悪いことが。




 暗闇にカンテラの明かりが灯る。鎧戸まで閉めきった空っぽの店内は耳鳴りするほど静まり返り、足音だけがいやに響く。
 はさみも椅子もここには何も残っていない。己と主君の影が揺れているだけだ。
 言い表せぬ緊張に息を詰まらせるアルフレッドに彼女はくるりと向き直った。

「――お前には詫びねばならん」

 すまないと告げられた理由がわからず首を振る。ルディアが何を申し訳なく思っているかなど、まだわかりたくなかった。
「なんと言われても私はほかの手段は取らない。今度ばかりは選びようもないのだ。ヘウンバオスに成り代われるとしたら私だけだろう?」
 否定も肯定もできない問いを投げかけてこないでほしい。頭では彼女の言う通りだと理解できても心は微塵も納得しようとしていないのに。
「お前の事情はわかっている」
 ルディアは低く囁いた。次にどんな言葉が来るか知っていた。

「私についてこられなくても嘆きはしない。仕えるのをやめることを恥だなどとは思わないでくれ」

 当たらなくていい予感ほど何故ぴったりと当たるのか。
 アルフレッドは今度こそ力いっぱい首を振った。
「やめるなんて絶対にない。俺はどこまでもあなたについていく」
「名誉どころか不名誉を得ることになってもか?」
 すかさず問いが返された。鋭い声は痛むまいと虚勢を張る心臓を抉る。
 彼女は何故アルフレッドが受け入れがたく感じているかわかっているのだ。レイモンドやモモが疑問にも思わないところで二の足を踏んでいるのが。
 ルディアが天帝に姿を変えてバオゾで暮らすようになればアクアレイア人のアルフレッドが騎士を続けるのは困難になる。商売を理由に宮廷に出入り可能な幼馴染と違い、己は祖国の非難を免れないだろう。ジーアンに屈従せずとも良くなったのに何故まだヘウンバオスを主と仰ぐと。
「……お前に騎士というこだわりがなければ良かったんだがな」
 暗に彼女はモモやブルーノは離れて任務をこなすのを苦に思わないと言っていた。嫌がっているのはアルフレッド一人だけだと。
「俺はあなたについて――」
「アルフレッド」
 繰り返そうとした台詞は途中で遮られた。
「ハートフィールドの名を栄えあるものにしようとしてお前は騎士になったのだろう?」
 わかっていると彼女が言う。「主君のくせに夢を叶えてやれなくてすまない」と、腹立たしいほど優しい声で。
 こんなときルディアは強情だ。絶対に人の話を聞いてくれない。今ももう、アルフレッドを手離すことを勝手に決めてしまっている。
 こちらはまだ騎士であろうとしているのに。名誉よりも主君を取ろうとしているのに。
「アニークとは上手くやっているのか?」
 突如出てきた女帝の名前にアルフレッドは眉をしかめた。胸に広がる不安感を極力意識の外に追いやって「一応は」と短く返す。
「お前が望むなら女帝には手を出さない。寿命を迎えれば遺体は引き取らせてもらうが、それまでは好きに生活してくれていい」
 飛躍してきた話にくらりと眩暈がした。

 ――騎士というのは極めて概念的な存在だ。
 ――主君もなし、剣もなしでは誰もお前を騎士と思わない。

 どうして今そんな言葉を思い出す?
 女帝に一時仕えしろとルディアが己に命じたときの言葉など。

「アルフレッド、お前はアニークの騎士になれ。東パトリア帝国となら昔から深い縁がある。称賛はされても誹謗されることはない」

 彼女の笑みが穏やかで、無性にやるせなくなった。
 ついていくと言っているのにかけらもルディアに伝わらない。主君はまるでアルフレッドの本心が別にあるとでも言いたげだ。
 名誉欲など見せたからいつまでも誤解されたままなのだろうか?
 自分にとって大切なのは騎士らしくあれるかどうかだけなのに、かたくなに相手にしてもらえないのは何故だろう?
「俺はいやだ。あなたがどこの誰になっても俺の主君はあなただけだ。ほかの人間に仕える気はこれっぽっちも」
 ルディアが首を横に振る。「私だってお前に汚名を着せるのはいやなんだ」と彼女は小さく呟いた。

「なあアルフレッド、お前はよく尽くしてくれた。私にはもったいないくらいお前は忠義な騎士だったよ」

 カンテラの炎が揺らぐ。赤い光に照らされたルディアの顔はアルフレッドを見ていなかった。
 いや、違う。奥の奥まで見通していたのだ。自分の騎士がどういう男か彼女にはよくわかっていた。いつも、いつも、アルフレッドがどうして騎士であることにこだわったのか。

「……だがな、私は思うんだ。たまたま私が最初の主だっただけだと。お前は真面目な奴だから、もし初めて仕えた相手がアニークだったら今と同じ言葉を彼女に告げただろうと」

 ルディアの零したその言葉にアルフレッドは声を失う。別の主を得ていたらなど考えたこともなかったから、なんの反応もできなかった。
 初めて仕えた相手がアニークだったら?
 今と同じ言葉を彼女に告げただろう?
 わからなさすぎて吐き気がする。
 すぐに否定できなかった自分にも。
「俺は――」
 思ったより動揺した声が出て更に動揺した。そんな己と対照的にルディアは微笑んだままでいる。

「……私ではお前を騎士にしてやれない。だからいいんだ、別の主君を選んでも。お前にとって大切なのは騎士らしくあれるかどうかだろう? 仕える相手は私でなくても同じはずだ」

 アルフレッドは立ち尽くした。言葉は一つも出てこなかった。
 頭の中が真っ白で、胸に渦巻く感情を言語化できない。
 ルディアは何を言っている?
 アルフレッドに何を諭そうとしている?
(いやだ)
 聞きたくなかった。考えたくなかった。
 彼女が続けさせてくれれば済む話だ。不名誉に耐えなくていいなど言わず、自分を側に置いてくれれば。
 確かに少しためらった。だがそれだけだ。騎士なら主君とともにあるべきと承知している。自分はちゃんと正しい道を選び取れる。

「俺の主君は……!」

 絞り出した声は悲鳴に近かった。
 当たり前だ。主君が誰でもお前のすることは変わらなかったなんて言われて平気でいられるはずがない。
 だって自分が仕えてきたのはルディアなのに。それなのに。

「――お前は別に、私のために騎士でいたいわけじゃないだろう?」

 告げられた言葉に絶句する。
 今の今まで捨て置いてきた真実に。
 違うと言えない自分が理解できなかった。ああそうだ、彼女は何も間違っていないと考えてしまった自分が。
 抗議したいのに声が出ない。己の最も醜いところを暴かれて。
 最初の主君がアニークだったらきっとルディアに見向きもしなかった。務めを放り出すような真似は。
 アルフレッドが本当になりたかったのは「正しい騎士」であり「ルディアの騎士」ではなかったと彼女にはわかっているのだ。所詮すべては騎士ごっこに過ぎなかったと。

「俺の、主君は……」

 わななく声に力はない。虚勢も張れず、アルフレッドは唇を歪めた。
 失恋なら耐えられる。過ぎ去れば消える痛みなら。
 ――だがルディアの突きつけてきたものは。

「お前は次のグローリアを探してくれ」

 立派に見える形が必要だったのだ。己を恥じずにいるために。
 だから彼女を付き合わせてきた。騎士でいるには主君が不可欠だったから。
 女を賞品のごとく扱い、指輪の儀式を穢した父と一体何が違うのだろう?
 王女の身分も肉体も持たぬ彼女にずっと王女でいてほしいと願った己の。
「――……」
 ルディアはもう役を降りると言っている。
 アルフレッドには何も答えられなかった。


 ******


 おや、とユリシーズは目を瞠る。酒場の奥のカウンターで項垂れている人影を見つけて。
 いつも彼はもう少し遅い時間にやって来るのに今宵はこちらが出遅れたものらしい。あまり長く待たせたのでなければ良いが。

「今来たところか? 明かりもつけずにどうしたのだ?」

 尋ねながら扉を閉め、カンテラを高く掲げた。すると真っ青な顔をした男がよろけつつ振り返る。

「ユリシーズ……」

 生気の欠けた声と目にユリシーズは息を飲んだ。こちらを見上げる騎士の額は血が通っていないのではと心配になるほど青く、寒くもないのに肩は小刻みに震えている。
「ど、どうした? 何があった?」
 慌てて駆け寄ると何か硬いものを蹴飛ばした。見れば火のない携行ランプが足元に引っ繰り返っており、アルフレッドがしばらく一人で虚脱していたのが窺える。
 どれだけ飲んでも本当の意味で彼が理性を失ったことはない。それなのに、今ここにいるアルフレッドはとても正気に見えなかった。
「……どうしたんだ? さっき港で、ルディアたちが帰ってきたとは耳にしたが」
 問いながら静かに隣に腰を下ろす。王女の名前に赤髪の騎士はびくりと身をすくませた。
 どうやら彼女と何事かあったらしい。おそるおそるユリシーズは抱いた懸念を口にした。
「わ……私が協力するという話を信用してもらえなかったとか?」
 これには首を左右に振られる。違うのか、と拍子抜けした。アルフレッドが彼女と意見を異にするとしたら己の件だけと思っていたのに。

「お前のことまで……、まだ話せな…………」

 切れ切れの声が詰まって静寂が訪れる。そんなところまで話は進んでいないと聞かされてユリシーズはますます困惑した。
 では一体何が原因で揉めているのだ。こうもありあり混乱が伝わるほどに。
「ゆっくりでいい。どうしたのか教えてくれ」
 落ち着かせるべく肩を支えた。うつむいたきりアルフレッドは顔を上げようとしなかったが。

「姫様が……言ったのは…………」

 ぽつりぽつりとなんの整理もされていない情報の断片だけ与えられる。短い言葉を繋ぎ合わせてどうにか状況を推測した。アルフレッドの声は小さく頼りなく、本人も何を喋っているのかわからない有り様だったけれど。
 それでもユリシーズは根気強く、一つ一つの話を丁寧に聞き取った。理解が進めば進むほど腸が煮え、心臓が焦げつくような惨い話を。

「あの人は……仕える相手は私でなくても同じはずだと…………」

 ぽたりと滴が伝い落ちる。それを見て、自分の中の何かが切れた。
 ――甦る。
 癒えたと思っていた痛みが。
 過ぎ去ったと感じていた憎しみが。

「あの女、お前にそんなふざけたことをほざいたのか?」

 怒りで白んだ頭を振ってユリシーズはアルフレッドに向き直った。
 足元に視線を落とし、赤髪の騎士は溢れる涙をぬぐうことすらできずにいる。
 苦しげに寄せられた眉を、傷ついた双眸を、とても見ていられなかった。己に非があると信じ込んでいる彼を。

「……姫様は間違っていない。あの人は、主君より自分を大事にしている俺に気づいていたのに今まで言わずにいてくれたんだ。口では『騎士として』だの『主君のため』だの言いながら、俺はずっと俺のためだけに生きてきたのに、あの人のためだなんて嘘だったのに、あの人は」

 あの人は、とアルフレッドが喉を詰まらす。
 恋じゃなかった。忠誠心でもなかったと。
 単なる自己愛。それがたまたま今まで上手く機能しただけ。今日まで美しく見せかけることができていただけ。

「俺は全然、騎士なんかじゃなかったんだ」

 力なく彼は呻く。彼という人間を形成してきた土台を破壊し尽くされて。
 ユリシーズはかぶりを振った。「それは違う」と断固否定した。

「主君が誰でも関係なく騎士であろうとする者が本物の騎士でないはずがない。お前は潔癖すぎるんだ。心の中で誰を一番に思っていようが問われるのは行動だろう? それでは騎士は恋人の一人も持てなくなる」

 反論にアルフレッドが目を上げる。「でも」と認めようとしない彼に再度強く言い聞かせた。
「お前は誰よりも素晴らしい騎士だ。あの女も、お前自身も、それをわかっていないだけだ」
 がっしりと肩を掴むと赤い瞳が静かに揺れる。
 慰めを必要としている彼になんと言ってやればいいか、ユリシーズにはよくわかっていた。

「大体どうしてお前だけが一番だの二番だの苦悩せねばならんのだ? あの女が一度でもお前を一番に考えてくれたことがあったのか?」

 声に勝手に力がこもるのを抑えられない。かつて己の受けた傷が、疼いて、痛んで、どうしようもなかった。
(くそ! あの女、適当なことばかり抜かしおって)
 何が主君は誰でも同じだ。本当にアルフレッドが自分のことしか考えない男ならとうの昔にアニークに乗り換えているはずだろう。それなのによくそんな侮辱的な言葉を吐ける。
 今だって彼は二人目の主君を選ぶことなどまるで頭にないようだった。酷い愚弄だと怒ればいいのに、あんな女はこっちから願い下げだと言えばいいのに、我を失くして打ち震えているばかりで。
 ユリシーズは歯軋りしてアルフレッドの双眸を覗き込んだ。
 彼をなんとかしてやらねば。自分がなんとかしてやらねば。
 強い思いで問いかける。

「お前これからどうしたいんだ?」

 海軍で面倒を見てやるのでも、新しい主君探しに付き合うのでも、なんでもしてやるつもりだった。彼の望むことならなんでも。
 このまま放っておけなかった。何年も尽くしてきたのに一方的におしまいにされて、歩もうとした道を断たれた男のことを。
「俺は――」
 アルフレッドは黙り込む。しばらくして「わからない」とあまりに弱々しい返事があった。
 騎士は言う。別の主君など考えられない。だがルディアに仕え続けていいのかもわからない、と。

「だって俺のわがままじゃないか。あの人の騎士でいたいなんて願いは」

 頬を伝う滂沱の涙が痛ましく、ユリシーズは唇を噛んだ。
 わがままのはずないだろう。胸中でそう叫ぶ。
 たとえ彼女がどんなにもっともらしく聞こえる言い分を並べ立てたとしても、アルフレッドの忠誠は確かに存在していたのだ。「アクアレイアのためです」と軽んじられた己の恋が偽物でなかったのと同じに。
 いつものルディアのやり方だ。あの女はそうやって終わるものと終わらないものをふるいにかけようとするのだ。

「ルディアに責められるべきところがないと本当に思っているのか?」

 肩を掴んだ指先にぐっと力をこめ直す。こちらを見つめ返した騎士は答えを出すのを躊躇するように見えた。
 わかっているのだ。彼とて主君は不完全な人間だと。

「……計画が成功したら金で国を買い戻すとか言っていたな? 領土の譲渡や売買は古来よくある話だが、この場合誰が一番得をするかは考えたか?」

 問いかけにアルフレッドが瞬きする。実直すぎる彼にはルディアがもう一つ狙いを持っていたなど思いつきもしなかったようだ。
「買い戻しの中心になるのはレイモンド・オルブライトに違いない。再独立の立役者として奴は歴史に名を残すだろうな」
 随分な扱いの差だと言えば騎士の表情が凍りついた。
 王女の身体を失ったから、きっと身分を忘れたのだ。思うように生きていいと勘違いして色恋にうつつを抜かした。人の心を踏みにじったことも忘れて。
「今の彼女は冷静でないのではないか?」
 騎士物語の姫だって意中の男にはべらべらと自国の秘密を打ち明けただろうと囁く。恋とはどんな高貴な人間にも道を誤らせるのだと。

「――思い留まらせよう。アクアレイアの王女ならアクアレイアの王女として国を守っていくべきだ」

 間近で息を飲む音がした。ユリシーズの提案に「思い留まらせる……?」と赤髪の騎士が尋ね返す。
「小間使いを引き渡す際に何か仕掛けるつもりなのだろう? だったらその前に彼女を動けなくすればいい。中身を抜いて、ガラス瓶にでも閉じ込めて」
 アルフレッドは息を止めた。彼が怖気づく前に「お前のために言っているのだぞ!」とがなる。

「ルディアの騎士でいたいなら聞け! 主君の過ちを正すのも騎士の役目だと思うなら!」

 ユリシーズは精いっぱい言葉を尽くした。ジーアンの乗っ取りを期すのも、帝国自由都市を目指すのも、もっと慎重に考えねばならぬと。
 個人的な感情が優先されることがあってはならないのだ。ルディアはそこを履き違えている。

「レイモンドが英雄視され、王同然に見なされるようになれば既存勢力の反発を招く! これまでも不仲な貴族がいなかったわけではないが、自由都市派と王国再独立派のように民が二分されなかったのは王家の存在があったからだ! 血統という金では買えない冠が、長い間この国の要石の役目を果たしていたんだよ!」

 否定の声はしなかった。アクアレイアには王家が必要だと語るユリシーズをアルフレッドはただ見ていた。そうかもしれないと頷きたそうに。
「国を買い戻すまではいい。だがアウローラ姫の身体が残っているのなら彼女は王家を再興し、今度こそ女王となるべきだ」
 そうすれば騎士は騎士のまま主君の側に身を置ける。言外にそう告げる。
 名誉を失うこともない。不出来な己を嘆くなら一から歩み直せばいい。
「天帝役を担うのだって何もルディアである必要はあるまい? グレースなら喜んで引き受ける。あの女狐とて巣を守るためならこちらに協力するさ」
 アルフレッドはぐらぐらと目を揺らがせ、黙って話を聞いていた。
 ガラス瓶にルディアを閉じ込めている間に我々で乗っ取り計画を進めよう。アウローラに戴冠させたところで彼女を戻してやればいい。大丈夫だ。上手く行くよ。私がお前についている。
 ユリシーズはこんこんと騎士を説き伏せた。
 アルフレッドはほとんど頷きかけていた。
 次のグローリアを探せというルディアの言に従っても従わなくても待つのは暗い未来なのだ。頷くほかに彼に選択の余地はなかった。

「でも姫様は、もう俺を心ばえ正しい騎士だとは――」

 それなのに騎士は首を振る。
 主君より自分を大事にしていると突きつけられたのがアルフレッドには相当ショックだったらしい。ルディアの戯言を気に病んで彼は動くのをためらった。
「……ッ」
 もどかしかった。そうじゃないと伝えたかった。あの女はいつも、いつも、同じように他人の好意を侮るのだと。

「お前の忠義がどれだけ低く見積もられたのかわからないのか!?」

 気がつけばユリシーズはカウンターに拳を叩きつけていた。
 腹が立って仕方ない。大切なものを二度も傷つけられたのが。

「お前は馬鹿にされたんだ! そう言えば折れる程度の思いしか持ち合わせていないと見下されたんだ! お前がどれだけ苦しんだか知りもせず、あの女は……ッ!」

 視界が滲む。遠ざかったはずの光景が甦る。
 結局ルディアは何一つ変わっていないのだ。ユリシーズの初恋を、わかってくださいのひと言で墓場に埋めたあのときから。
「……っ」
 溢れた涙を手の甲で拭う。アルフレッドは瞠目したままこちらを見つめた。
 悔しさでどうかなりそうだ。
 この痛みを忘れるなどやはりできない。

「――わからせてやればいい。お前がどこまで本気なのか」

 騎士の双眸をじっと見据えて低く囁く。
 何も殺そうというんじゃない。しばらく眠らせておくだけだ、と。

「お前ならどちらにもなれる。『正しい騎士』にも『ルディアの騎士』にも」

 ユリシーズはアルフレッドの手を取った。
 彼はその手をほどかなかった。









(20190614)