カラカラと乾いた音を立てて車輪が回る。石橋を渡り、関所を出てきた四輪馬車が合図のハンカチを翻したのを確認するとチャドは手綱を握り直した。
「行くぞ」
 同じく街門向かいの木陰に馬を停めていた男に呼びかける。グレッグは一連のチャドの行動に何やら物言いたげにしていたが、結局は不満の一つも告げることなくついてきた。
 黒塗りの大きな箱の後に続く。四名のアクアレイア人を乗せた馬車は、ここから半日ほどかけてグロリアスの里に向かうという。そこで一泊したら今度は徒歩で数時間の山腹にある小村を――コナーの隠れ家がある小村を目指すのだそうだ。
 城を出たのは早朝だった。父と姉には「遠乗りしてきます」とだけ告げた。
 護衛という名の監視さえあれば二人はチャドに何も言わない。代わりに権限らしき権限が与えられることもなかったが。
 邪魔にならない範囲の自由を謳歌させてくれるのは罪滅ぼしのつもりなのだ。そしておそらく清算が終われば己はまた駒に戻されるのだろう。
(アウローラの件がばれないようにしなくてはな)
 コナーのもとで生き延びているという娘。存在を知れば父も姉も看過はするまい。とはいえ今のアウローラはひと目で隣国の王女とわかる姿ではないそうだが。
 チャドはちらりと目を上げて先行する馬車を見やった。直接娘に会うか否か尋ねられたのは昨夜のことだ。他言しないでくれるなら同行しても構わないがどうすると。
 意外だった。ルディアにされるのは事後報告だけとばかり思っていたから。
 魂が蟲の形に結晶化する。そう説明を受けたとき、なんとなくいくらか嘘が混じっているなと気づいていた。どうしてアクアレイア人にだけそんな現象が起きるのかチャドには皆目見当もつかない。しかしそれが隣国の重大な秘密であるのは明らかだった。
 だからルディアが秘密に近づかせてくれるとは考えもしていなかったのだ。所詮マルゴー人でしかない自分に、父親の権利を行使させてくれるとは。
(何故私を除け者にしておかない?)
 疑り深くなった頭が彼女を見透かそうとしているのに気づく。ルディアには政治的打算があるのかもという考えはぬぐうことができなかった。具体的にはどんな目論見か述べることもできないくせに。
(……彼はどう思っているのだろう)
 こちらを見上げる白猫の目が脳裏に甦り、チャドは小さくかぶりを振る。
 実際にアウローラを産んだのは彼だが、彼は母親とは言えない。ルディアの代理で出産を果たしただけだ。乳母に似た愛情は持っているかもしれないが、王家の姫の親だという認識があるとは思えなかった。
(命令に従っていただけならば、そもそもアウローラがどうなろうと関心さえないかもしれない)
 自虐的な笑みを漏らす。夫婦のつもりで過ごしていたのが己だけだったこと、そんなことはもう忘れようと決めたのに、たやすく掻き乱されていて。
 愛を告げるのはいつも自分のほうだった。彼はいつも曖昧に濁すだけだった。それでも受け入れてもらえていると感じていたのはこちらの思い上がりだったのだろうか?
(馬鹿なことを。私が罪悪感と愛情の区別もつかなかっただけだ)
 ずっと騙していてごめんなさいと床に額を擦りつけられたとき、もしもっと別の言葉が聞けていたら今と何か違っただろうか。
 知らない人間に見えたのだ。彼の本当の名前を聞いて、今まで自分が自分の思い込みだけで妻を解釈してきたことを突きつけられて。
 大怪我をしそうになって涙ながらに叱られたとき、彼はただ「主君の夫」を案じていただけだった。
 娘の悲報に打ちひしがれ、抱きしめ合って眠った夜も、彼の頭にあったのはきっと自分と全然違うことだった。
 二人で培ってきたものが一つ残らず意味を変えた。わからなくなっても仕方あるまい? 自分が何を愛していたのか。
(どちらがアウローラを引き取るか決まったら、彼らとは会うこともなくなるだろうな)
 ルディアが招いてくれたのはこれが最後と彼女も思ったからかもしれない。
 前方の馬車は岐路に差しかかっていた。右手には断崖に沿う急勾配の古道があり、左手には長いつづら折りの始まりが見える。
 馬車はルースが命を落とした古道のほうを選んで曲がった。渋面のグレッグに目配せだけして先に駆ける。
 車輪は砂埃を上げてカラカラと回り続けた。
 その先にある終わりに向けてカラカラと。


 ******


 分かれ道に立っている。その自覚は以前からあった。このままでは主君にも仲間にも見放される日が来ると。
 それでもずるずる隠し事を続けた。現実と向かい合うよりは楽だったから。真実について考えるよりは楽だったから。
 ――今は違う。ユスティティアの嘆きを目の当たりにした今は。
 失いたくない。自分からはどうしても終わらせられなかったもの。得る資格などないとわかっても諦めきれなかったもの。
 まだ手を伸ばすことができるなら。ひとかけらでも何か掴みとれるなら。
 俺はあの人の……。


「アルフレッド! 見て! これ見て!」
 いつになく興奮気味に女帝がこちらの腕を引く。顔を出したばかりのサロンに白銀の騎士の姿はなく、寝所は己とアニークの二人きりだった。
「ど、どうなさったので? 何を見ればいいんです?」
 目を輝かせて迫る彼女をアルフレッドはそっと押し戻す。こんな鼻先に身を寄せて、控えの間の衛兵に誤解されたらどうするのだと少し焦った。
「いいから早く見てちょうだい!」
 こちらの懸念など気づきもせずにアニークは数枚の便箋を押しつけてくる。何がなんやらわからないまま受け取ったそれに目を落とせば、彼女の急かした理由が知れた。
「あっ」
 アルフレッドは思わず小さく声を上げる。白い紙には見慣れたパディの筆跡があった。だがそこに書きとめられた短い詩は初めて目にするものだった。

『生きながら亡霊となった者は誰か――我がユスティティア
 疲れた足で荒れ野を歩む者は誰か――我がユスティティア
 帰らぬ栄光に手を伸ばす者は誰か――我がユスティティア
 肉親の血を吸って育った木は誰が一家を殺したか歌うのをやめない
 枝を切られても幹が朽ちても誰が泣いても歌うのをやめない
 通りすがりの慈悲深き姫よ、誰があなたに憐憫を乞うた?』

 怨念のこもった言葉にぞっと鳥肌が立つ。固まってしまったアルフレッドにアニークは「次、次」と身振りで紙をめくるよう命じた。
 言われるがまま二枚目に進む。すると今度は誰が書いたかわからない、流麗だが見覚えのない文字が趣の異なる詩を綴っていた。

『哀しみの中で 至高の生命の鼓動はなお途切れずに続いている
山を越え 海を越え 私の胸を打った騎士に
 時を越えて伸ばすこの手が どうか届いて癒されますよう』

 これは誰の作だろうか。まさかと思いつつアニークを見やる。女帝は「次! 最後! ついさっき届いたの!」とまたも紙を繰る仕草をした。

『新しき時代の姫よ、私の痛みは永遠に続くもの
 古き時代の我が姫がこの世を永遠に去ってから
 心臓が止まるまで血も止まらなくなったのです
 けれどそれほど憩えと言うのなら憩いましょう
 詩句を並べている間は私の心もまだ穏やかです』

 アルフレッドは目を瞠る。どうやら知らぬ間に彼女とパディは詩の交換などしていたらしい。
「これ、私が何か書いたらまた返事くれるって意味よね!?」
 問いかけには「ええ、おそらく」と頷いた。それからもう一度最初から読み直し「……そうですね、これはそうとしか受け取れませんね」と言い添える。
 アニークは満面の笑みでこちらを見やった。大きな瞳と紅潮した頬がほっと安堵に緩んでいる。
「良かったあ。私、あれから何度も手紙書いたのよ。手紙っていうか、二枚目みたいな詩もどきだけど」
 詩もどきという謙遜にアルフレッドは首を振った。
「いや、ちゃんと詩になっていますよ。というか、いい詩だと思います」
 素直にそう称賛する。パディのものに比べると相当拙くはあるけれど、彼を思って書いたのだとストレートに伝わってくる。
「ほ、本当?」
「ええ、本当です」
 愛好家の間でも騎士物語を題材に詩作する人間は稀だ。パディの文章が完成されすぎているからよほど神経が太くなければ一節も書けない。ましてそれを直接作者に差し出すとなれば技巧より魂の問題だった。詩にこめた思いの強さの。
「一応パディに送った詩は全部写しを取ってあるのだけど……」
 変なことを書いていないか見てほしい、とアニークが頼んでくる。乞われるままアルフレッドは新たな数枚の便箋を開いた。

『まことの詩に、まことの心を送りたい
 痛みに喘ぐあなたがまどろみもできぬ夜
 その手を取って黎明まで側にいたい
 かつてあなたの詩が与えてくれたもの
 それが私に呼びかける
 震えるあなたを温めよと』

『どうか覚えていてください
 あなたが人々に教えたこと
 若々しい豪胆さ――それはユスティティアとグローリア
 互いに信じ合う心――それはユスティティアとグローリア
 愛のなせる長い忍耐――それはユスティティアとグローリア
 あなたに教わった人々は
 人生を励まされていると』

 詩は二つ三つに留まらなかった。アニークは本当に何度もパディを慰めようと努力したらしかった。
 先日パディに「あれを書いたのはお前たちか?」と尋ねられたのはおそらくこのことだったのだろう。初めのほうの詩には記名がなされていなかったから。

「ど、どうだった? 下手なりに伝えられているかしら? パディに感謝していることとか、とても心配しているってこと」

 アルフレッドはこくりと頷く。これほど飾らぬ詩であれば、もつれた胸にも何かしら響かせることができたかもしれない。
「こういう発想はなかったです。とてもいい詩ばかりです」
 対話ではなく創作物を通じてのやり取りだからパディは応じた。そんな気がした。普通に手紙を書くほうがずっと簡単だったろうに、どうしてアニークは詩を選ぶことができたのだろう。
「あなたが貸してくれた本の中に詩の教本があったのよ、アルフレッド」
 詩人同士で詩を交わし合うことがあると書いてあったと彼女は言った。これならパディが詩作を続けてくれるかもと思ったと。傷つき疲れてしまった彼も虚構の中でなら癒されるかもしれないと。
「私、もっと勉強するわ。詩のことも、パディが生きた時代のことも。ほんの少しでも彼が楽になれるように」
 アニークの眼差しには騎士物語を生んだ者への惜しみない愛が溢れていた。
 正直言って意外だった。いつも自分の楽しみを最優先に、自分のことばかり考えてきた彼女がそんな殊勝さを見せたのが。
「よーし! 私しばらくどう返事するか考えるわね! アルフレッドは本でも読んで待っていて!」
 女帝はソファに腰かけると亜麻紙を広げてうんうん唸る。衝撃を隠しきれず、アルフレッドはしばしその場に立ち尽くした。
 自分のことしか頭にないのは一体誰だったのだろう。自分のことは棚に上げ、いつも彼女を非難したのは。
 情けない。なんの成長もない自分が。いつまでも暗い酒場で不貞腐れるだけの自分が。
(このままじゃ駄目だ)
 強く思う。このままでは主君や仲間を失うだけでは済まないと。
 いい加減に前を向いて進まなければ。己の過ちと向き合わなければ。
(――俺はユスティティアにはならない)
 主君とともに歩めなかったあの騎士には。あんな哀しい存在には。
(俺はまだあの人の側にいたい……)
 己を正す方法は知っていた。どうすれば再び騎士として立てるか。
 居心地の良い場所で他人に甘えているのはもう終わりにしなくてはならない。いつまでも嵐に打ちひしがれているのは。
 わかっていた。レイモンドに敵わなかった理由だって、本当は。
 弱い自分がどうしても認めたがらなかっただけ。
 それをもう、認めて前に進まなくては。


 ******


 ――父親がクズだから、今にお前もクズになるよ。
 未来を見てきたように告げる大人たちの言葉に怯え、戸惑っていた子供時代を思い出す。
 同意のない婚姻など要求して「海への求婚」を穢したからウィルフレッド・ハートフィールドの名は街中に知れ渡っていて、長男のアルフレッドはいつも後ろ指を差された。
 ――信用ならない奴だから友達にしないほうがいい。
 ――親切なのはふりだけかもしれないぞ。
 心無い声はどこにいても響いてくる。学校でも市場でも。
 いくら「自分は父とは違う」と反論しても彼らは決して聞き入れなかった。信じてもらうためには人の何倍も実直で勤勉であらねばならなかった。
 真っ当な人間だと思われたければ真っ当に振る舞うことが肝要だ。いつしかアルフレッドは堅物とか石頭とか言われるようになっていた。それはクズよりはるかにましな評価だったのでアルフレッドは良しとした。
 正しさは纏えば纏うほど頑丈な鎧になる。約束を守り、礼節を重んじ、常に公明正大であれば何を言われても動じずいられた。
 それでもどこかで引っかかってはいたのだろう。いつか父親と同じになるよという声が。
 振り切りたかった。名誉ある騎士となり、ハートフィールドの名が持つ意味を変えたかった。騎士を志した最初の自分は。

「……正しく正しく生きようとすると、間違えたときに脆いな。酒に頼るような真似、自分はしないと思っていたのに」

 手にしたグラスを眺めて呟く。隣で話を聞いてくれていた男は痛ましそうに目を伏せた。
 伯父のことや家族のことを話題に出すのは初めてではなかったが、ここまで己の内面を打ち明けたのは初めてだ。幼馴染やルディア以外にこんな話をする日が来るとは思わなかった。
「……そうか、苦労したのだな」
 返されたユリシーズの声が優しく、我知らず微笑する。別の出会い方をしていれば、自分たちはもっといい友人になれただろうか。
「俺は騎士に憧れて、騎士であることにこだわった。……結局それが自分の首を絞めたんだ」
 アルフレッドの続けた台詞に白銀の騎士が首を傾げる。空気の変化を敏感に察してユリシーズはこちらの顔を覗き込んだ。
「あの人が俺にマルゴーへ行け、コリフォ島には来るんじゃないと言ったとき、俺はそれが姫様のためならと受け入れた。――でも本当は違ったんだ。あの人には見抜かれていた。俺がまだ、俺をずっと追い立ててきた名誉欲を手離せていなかったこと」
 だから彼女は夢を追えと言ったのだ。ほかに大切なものがあるならと。
 そうして自分は頷いた。聞こえのいい言い訳を得て、己の望みを優先した。
 戻れるならあの日に戻って自分を殴り飛ばしてやりたい。実際に彼女と遠く隔たれてみれば即消え失せた栄誉への未練にどうして足を取られたのかと。
 レイモンドが甲板を走り出したとき、自分も一緒に走れば良かった。どんな不格好でも走れば良かった。
 あのときからずっと後ろめたかった。騎士ならば当然するべきだったことを自分はできなかったから。

「……だから当たり前なんだ、あの人がレイモンドに惹かれたのは。あの人が一番苦しかったとき、側にいたのは俺じゃなかった。それだけの話なんだ」

 静かな懺悔が酒場に響く。認めてしまえばもうすんなりと口に出せた。
 失恋の痛手より、つらかったのは己の誤り。その根底にあったもの。
 差がついたと感じるたびに苦しかった。ほかならぬ己のせいで騎士らしさを損なったことが。
「名誉欲くらい誰にだってあるだろう」
 眉をしかめたユリシーズにアルフレッドは首を振る。「大事なときに支えられなかったのは確かだ」と。
「だがあの女のほうが先にお前を遠ざけようとしたのだぞ!」
 そう言って彼は聞こうとしなかったけれど。

「最後に選んだのは俺だ」

 きっぱりと言い切った。誤魔化すことにもう意味はなかった。
 自分の痛みは自分で引き受けねばならない。歩けるようになったのなら。

「ユリシーズ」

 まっすぐに見つめ返して呼びかける。何度彼が「お前は悪くない」と庇ってくれたか思い出しながら。
 胸に溜まっていた毒は酒で随分薄まった。他愛無いやり取りに頬の強張りはやわらいで、呼吸するのも楽になった。
 正しくなかったかもしれない。だが自分にはこの場所が必要だった。それは間違いなく真実だ。

「今夜限りもう来ない。今までありがとう」

 向けた微笑にユリシーズが硬直する。
「……妹にでもばれたのか? 私と会っていることが?」
 すぐさま返ってきた問いにアルフレッドは「いいや」と答えた。
「誰にも気づかれていないよ。俺がそう決めただけだ」
 掠れた声が何故と聞く。嫌だと引き留める口ぶりで。
 アルフレッドはできるだけ端的に告げた。ひと言ですべて伝わるように。

「俺はあの人の騎士に戻る」

 息を飲む音がした。
 一瞬こちらに伸ばされた手が宙を泳いで引っ込められる。
 ルディアに非があったのではない。そういう話をしたわけが彼にはただちに理解できたようだった。わだかまっていたものは流れ去っていったのだと。

「……そうか」

 呟いたきりユリシーズは押し黙る。いつも猛烈な勢いで愚痴を吐く口が今は薄く開かれたまま文句の一つも紡げずにいた。急すぎるとかあんな女とか暴れ出しても何もおかしくなかったのに、ずっと黙って、目を瞠って。
 ここで会わなくなるということは敵に戻るということだ。今更どこまで彼をそんな風に思えるか疑問だが、今まで通り気安く接することはできまい。
 アルフレッドは立ち上がった。立ち上がり、グラスに残っていた酒を一気に飲み干した。
「もう行くよ」
 暗いうちに帰るのは初めてだなと少し笑う。ユリシーズの反応はなかった。

「……お前とここで過ごせて良かった。お前がいなきゃ俺は今も一人で腐ったままだった。ありがとう」

 空の酒杯をコトンとカウンターに置く。「勝手で悪い」と詫びながら。
 本当に身勝手だ。頼るだけ頼って出ていくなど。
 それでもやはり自分はルディアの騎士でありたい。ユスティティアは詩人になったが自分はきっとほかの何にもなれないから。騎士でなくなるということは、己を失くすのと同義だから。
 扉を開けてアルフレッドは『ユスティティアのやけ酒』を後にした。
 最後に見やったユリシーズは闇の中で小さく拳を握りしめていた。


 ******


 夢も、酔いも、いつかはさめる。
 始まったことには終わりが来る。
 わかりきっていたはずなのに、何を呆然としているのだろう?
 ほんの少しのきっかけで終わってしまう関係だ。それは承知のはずだった。アルフレッドがここを去る日が来ることは――。
(いつの間に一緒にやっていける気になっていたんだ?)
 ユリシーズは左手に収まったグラスをテーブルに戻した。続きを飲む気にはなれそうもなく、ワインボトルごとカウンターの脇に押しやってしまう。
(いつの間にこれほど心を許していた?)
 こちらがブルーノ・ブルータスの正体に気づいているとわかればルディアも警戒の種類を変えるだろう。その対応を考えなければならないのに、今しがた失われたもののことしか頭は考えてくれなかった。
 騎士に戻る。彼は言った。その声が胸に深々と突き刺さる。
(私が戻れなかったものにお前だけ戻るのか?)
 嫉妬ではない。羨望でもない。全身を満たすのは哀切と孤独だった。
 自分と同じ痛みに苦しむ者を、わかり合える仲間を見つけたと思ったのに、今になってまた己は安息を奪われねばならないのか。
(いやだ……)
 悲鳴を上げる心臓を掻きむしる。元気になった。いいことだ。納得しようと繰り返すほど混乱は強まった。
(何故なのだ? どうしてあの女を許せる?)
 ユリシーズには何よりそれが信じがたい。どう考えても苦悩の元凶となったのはルディアの矛盾した命令だった。それなのにアルフレッドは自分で選んだと言い切る。憑き物の落ちた顔で、晴れやかに笑いさえして。
(己に非があると言いながら、どうしてまっすぐ立つことができる?)
 切れ切れの息を飲み込み、ユリシーズは他人のいた気配だけ残す隣席に目をやった。
 真面目な男だ。敵に対しても誠実な。
 側にいると落ち着いた。昔の自分に似ている気がした。まだ愛を信じていた頃の。
 手酷く痛めつけられた彼が同じところに落ちてくるのを自分は待っていたのだろうか? 慰めの言葉をかけながら?
(違う。いたわりは本心だった。私のようにはならないでほしかった)
 苦しんで苦しんで苦しんで、人の道を踏み外した男のようには。
「……ッ」
 ダン、と拳をカウンターに叩きつける。望み通りアルフレッドは立ち直って明るい世界に帰ったのに、受け入れられない自分を受け入れられなかった。
 願っていた結末が別にあったというのだろうか?
 自分も彼と同じ道に戻りたかったと?

「――」

 はたとユリシーズは瞠目する。身を貫いた雷にしばし思考も忘れて呆けた。
(……そうなのか?)
 自問に答える声はない。まだそれは言葉にならない。
 一度も考えたことがなかったから。痛みを振り払おうとして多くの罪に手を染めた、己が今更真っ当ぶれるはずがないと思っていたから。
 だがアルフレッドとて清廉潔白なわけではない。この数ヶ月の裏切り行為は彼を癒す一方で、騎士としての矜持をずたずたにしたはずだった。
 それなのに彼は言う。まだ騎士でありたいと。
(……罪があっても戻れるのか? 心ばえさえ正しければ)
 開いた両手が震えていた。ユリシーズはもう一度彼の言葉を思い返した。

 ――最後に選んだのは俺だ。

 おそらく己も同じことを認めればいいのだと悟る。悲嘆に暮れてルディアに押しつけた全責任を半分自分で引き取るだけだと。
 知っていて目を背けてきた事実なら己にもあった。彼女が勝手に婚約破棄を決めたこと、何も話してくれなかったことを嘆きながら、ユリシーズはそれとまったく同じことをしてきたのだ。
 言わなかったのは自分もだった。不安を隠して誤魔化したのは。結婚すれば解決すると問題を先送りにして一度も向き合わなかったのに、彼女だけを責め立てた。
 そうだ。ずっとわかっていた。わかっていたから苦しかった。こんなことはもうやめたかった。
 執着を捨ててしまえばそれこそ何も残らないから終わりにできなかっただけで、自分はずっと、やめられるならやめてしまいたかったのだ。
 今ならきっと一人じゃない。
 己を突き動かしてきたこの愛憎を手離しても。
「…………」
 どれくらいそうして眠らず考えていたのだろう。気がつけば鎧戸の隙間から淡い光が差し込み始めていた。
 新しく生まれ直した太陽が朝を告げる。すべてを祝福するように。


 ******


 着きました、と師に示されたのは十戸ほどの集落だった。谷間を細く流れる川に沿って小ぶりな家屋が点在し、全体にひっそりしている。見た目は山道とさして変わらず、アークの里だと知らなければ素通りしそうな土地だった。
 ルディアの受けた印象通り、ここに長居する旅人はいないらしい。宿を取るなら昨夜泊まった湖畔の村のほうが便利だし、わざわざこの里を通らなくてもほかに馬車道があるそうだ。
 生計は何で立てているのか尋ねたら「塩ですかね」と返された。集落を囲う杉林の奥にわずかだが岩塩の採れる洞窟があるらしい。
「まあ今ではほとんど空っぽですが」
 口角を上げ、悪戯っぽくコナーは肩をすくめてみせた。師の足は傾斜の強い坂道をすいすいと上っていく。
 ルディアは背後を気にしつつ黒い外套の後を追った。すぐ側にはブルーノを抱えたレイモンドが、その後ろには数歩遅れてチャドとグレッグがにこりともせずついてきている。
 コナーはルディア以外の者にアークを見せる気はないと言った。だから先にアウローラに会わせてもらう段取りになっている。
 娘のことは多分一番簡単で、一番気の重い話だった。たとえ父親でもやはりチャドにはすべて明かせるわけではない。何もかも喋らなくていい程度に事態が収まってくれているのが不幸中の幸いだった。

「こちらです」

 師は集落の中ほどに立つ切妻屋根の木造家屋に進んでいった。玄関が開くと同時、奥から中年農婦が出てくる。
「あら、お帰りなさいませ」
 髪も瞳も濃いブラウンの、一般的なマルゴー人のなりをした女は訝り気味にこちらを一瞥した。コナーが何事か耳打ちすると彼女は途端に愛想良くなる。
「ああ、ああ、どうぞお越しくださいました。お入りください。なんにもないところですが」
 促されるままルディアは屋内に招かれた。表口は簡素な居間と簡素な台所に直結しており、一見普通の民家と変わらない。やたら棚が多いのと雑に紙類が突っ込まれているあたりが師のアトリエという感じだ。
 レイモンドとブルーノとチャドが玄関をくぐったところで一度パタンと扉が閉じる。しばらくすると家の中にはコナーだけが入ってきた。
 どうやらグレッグは外で農婦に足止めされているらしい。手際の良いことで彼に蟲の知識がないのは既に伝達済みのようである。この里の人間はほとんど蟲だそうだから、客の区分を伝える方法も確立されているのだろう。

「では姫の寝所に参りましょうか」

 先導する師に従ってルディアたちは一つ奥の部屋に入った。二つ並んだ寝台の横、昼の光が差し込む窓辺に揺り籠が置かれている。
 なんだか一枚の絵のようだ。宮廷事情も世界情勢もあずかり知らず、柔らかな布に包まれた赤ん坊が眠っている。
 誰も何も言わないから寝息がすうすうよく響いた。初めに赤子に近づいたのは足音を忍ばせた白猫だった。
 眠りの妨げにならぬよう背を伸ばし、ブルーノは揺り籠を覗き込む。しかし少々背丈が足りず、彼は寝床の周りをぐるぐるするだけだった。人の姿をしていればすぐにも抱き上げられただろうに。
 見かねてルディアは手を貸しにいく。揺り籠の前に両膝をつき、太腿に猫を乗せ、一緒に娘の顔を見た。見覚えのない顔をした娘の。

「…………」

 身を入れ替えたとは聞いていた。だが現実にその光景を目にすると、言葉にならない感情が胸を押し潰す。
 焦げ茶の巻き毛。瞼で秘された瞳の色も多分同じ。
 無関係の乳児ではないのかと思いたい己を笑い、顔を上げる。コナーは淡々とした口調で「中身が入っているかどうか確認なさいますか?」と聞いた。
「いえ、結構です」
 悩みもせずに断った己も母としては冷淡な部類だったと思う。
 アウローラなどと名付けたから同じ運命を辿らせたのか。娘には人間でいてほしかったのに。

「この子に娘の魂が……?」

 いつの間にか隣に来ていたチャドが赤子の頬に手を伸ばした。触れていいかためらうように怖々と。
(魂か……。一体何を表す名なのだろうな、それは)
 師がアウローラに処方したのはルディアたちが脳蟲と呼んでいる蟲でなく、もっとアークの中枢に近いものだそうだ。脳蟲よりも上等で、一人目の宿主の記憶をそのまま取り込めるらしい。だから人格が変容することもないのだと。
 それでも別人と見なす人は別人と見なすようですが、との言葉を思い返す。ルディアにはどちらとも言えない。蟲を単に魂の結晶と認識しているチャドが少し羨ましかった。

「アウローラは最初からずっとアウローラだったのだね?」

 元夫の質問に「ああ」と答える。間に脳蟲がもう一匹割り込んでいるような事態はないと。
 彼の言い出しそうなことは大体予測がついていた。マルゴー人の身であれば公爵家に命を狙われる心配もない。このままひっそり育てたいと提案されるに違いなかった。そうして己にはアウローラの肉体だけが残されるのだ。
(よくできた筋書きだ)
 王家を再興するために娘に成り代わった自分を想像して吐き気がする。だがそれは最も現実的な案に思えた。すぐに使えはしなくても最高に近いカードだと。我が子の人生まで乗っ取るのかという声を無視できるなら。
「…………」
 沈黙がまた部屋に満ちた。コナーが「そろそろいいですか?」とルディアを呼ぶ。アークのもとへ行こうとの誘いだ。
 頷いて立ち上がり、揺り籠に背を向けた。同時にチャドが問いかけてくる。

「私に引き取らせてくれるかい? 今のこの身体ごと」

 拒否などできるはずがない。
「わかった」と頷いてルディアは寝室を後にした。


 ******


「すみません、俺ちょっと」
 短く詫びてレイモンドはどうするか迷っていた身を翻す。一旦は閉ざされたドアを開き、外へと足を急がせた。
 一人で行くと聞いていたのに追いかけてしまったのは、どうしてもルディアが気になったからだ。すれ違い様に見た横顔が妙につらそうだったから。
 きょろきょろと辺りを回す。見れば彼女とコナーは既に林道に踏み入ろうとしており、慌ててそちらへ駆け出した。

「レイモンド?」

 足音に気づいた二人が振り返る。ルディアは「待っていろと言っただろう」と困ったように眉をしかめた。
「や、その、大丈夫かなと思って」
 しどろもどろにレイモンドは彼女を案じていることを伝える。何か無理していないかとはコナーの前では聞けなかったが。
「なんだ? お前もついてきたいのか?」
 発された問いに少し悩んで「うん」と答えた。放っておけなくて飛び出してきたのだ。側にいて問題ないなら側にいたい。少しでもルディアを支えたい。
「それは駄目だね。アークのもとに連れて行くのは彼女一人だ」
 が、肝心の画家の態度はにべもなかった。顔の前で手を振られ、あっさりと突っぱねられてしまう。曰く、隠れ里の蟲ではないルディアを案内することも本来は避けるべき危険行為なのだそうだ。
「何がアークの消失に繋がるか知れない以上、蟲ですらない君を信じることはできない。悪いが村で待っていてくれたまえ」
 きっぱりとした物言いにレイモンドは唇を噛んだ。「けど後でどんな話したか教えてもらうなら同じじゃないすか?」と食い下がってみるものの、コナーは頑として聞き入れない。
「又聞きと現物を見るのとでは天と地ほどの隔たりがあるよ。輝くものを目にすれば人間は欲を出す。己を過信せぬ分別を持ち合わせているつもりなら利口にしていられるね?」
 反論を封じられ、レイモンドは押し黙った。画家の隣に視線を移せば愛しい王女が心配げにこちらを見上げているのに気づく。その心配がアークについて聞けなくなるかもという懸念を含んでいるのはひと目見て察せられた。
(『お前はアクアレイア人じゃない』の次は『お前は蟲じゃない』ってか)
 嘆息を飲み込んで数歩分あった距離を詰めた。ルディアの手を取り、できるだけ優しい声で囁く。「待ってるから、一人で無理すんじゃねーぞ」と。
「ああ、ありがとう」
 返された微笑に少しほっとした。さっき見たよりは落ち着いた表情だ。
「じゃあ行ってくる」
 歩き出したコナーを追って恋人は林の奥に消えていく。尾行したってすぐにばれるんだろうなと諦めの息をつき、しばらくしてレイモンドは踵を返した。
 鳥のさえずり。川のせせらぎ。響く音楽は穏やかだ。こちらの胸の重さなど知りもせず。
(心配なのは姫様一人じゃねーんだよなあ)
 寝室に残してきた幼馴染を思い、介入すべきか否か悩んだ。さすがにチャドもここまで来てブルーノを無視はしないと思うが。
 そんなことを考えつつマルゴー杉の間を抜けてコナーの家に戻ったら、玄関先でこれまた別の陰鬱そうな男に出くわした。

「グレッグ」

 名を呼ぶと元傭兵団長が振り返る。
「あ? なんだ、お前も追い出されたクチか?」
 問うてきた男は閉ざされた窓から屋内を窺うように上体を屈めていた。隣を見れば不機嫌な兵士の相手にくたびれた感を隠しきれない農婦が肩をすくめている。
「ったく、なんで俺らは中に入っちゃいけねえんだよ。こっちは護衛で来てるんだぞ?」
 苛立ちを示す台詞に農婦はなんの返事もしない。同じやり取りは既に何度も行われているらしく、「なーにが先生の言いつけだ!」と憤慨しきった声だけが空しく辺りにこだました。
 このままでは玄関を蹴破りそうだと荒れた男を見て危ぶむ。鍛えられた肩を叩き、レイモンドは「まあまあ」と短気な元傭兵団長をなだめた。
「王子様もようやく子供に会えたんだし、しばらくそっとしとこうぜ。俺らは散歩でも行かねーか? ブルーノも先生と出かけちまってさ」
 うっかり中に乗り込まれてアウローラの顔を見られると厄介だ。どう見ても別人だぞと突っ込まれたとき言い訳できない。この男はなるべく遠くにやっておこうと軍服の袖を引く。
 初めは渋ったグレッグだが、農婦が「そうしてくださいますか? 私もこれから食事の支度があるもので」と水を向けると仕方なしに頷いた。厄介者扱いに不服そうではあったけれど、ひとまずレイモンドについてくる。
 足を向けたのはルディアたちが歩いていった林とは逆方向の川辺だった。岸に転がる大小の岩を踏み越え、目的もなくただ歩く。防衛隊と傭兵団の関係がこんなにこじれていなければ弾む会話もできたのだろうが。
(おっさんはルース殺したのがモモだってわかってんだもんなー)
 一昨日狩りで一緒になった護衛たち。彼らはあまり深い事情に通じていないようだった。ルースが公爵家の命令で動いていたこと、アクアレイア人と何かあったらしいのは察していても、そもそもの原因となった亡命の件などは。
 だからどうにか最小限のギスギスで場をなごやかにできたのだが、グレッグは違う。彼がこちらに近づいたのは探りを入れたいときだけだった。
 粗探しと言ってもいい。多分グレッグは防衛隊にも責任があったと思いたいのだ。殺し合いを回避することはできたはずだと。

「ありゃ、行き止まりか」

 大岩の向こうで川岸が途切れているのを発見し、レイモンドは足を止めた。後ろの男に戻れと促す。「橋でもあるかと思ったんだが、悪ィな」と詫びながら。
 引き返す間もグレッグは閉ざした口を開かなかった。少し痩せた背中を見て憔悴しているなと感じる。
 こういうとき、ついつい棘を抜こうとするのはもはや習性なのだろう。気がつくとレイモンドは強張った後ろ姿に話しかけていた。
「すまねーな。こんな辺鄙な村まで来させちまって」
 グレッグはぶっきらぼうに「別に」と応じる。「亡命請け負った延長だろ」と続けた彼は自嘲気味にせせら笑った。

「まあ結局、助けるどころかうちが殺しちまったわけだが。お前らのお姫様は」

 酷い台詞だ。どう返せばいいかなどわかるはずもなくレイモンドは黙り込む。グレッグはグレッグで己の言葉に動揺したのか急に早歩きになった。
 置いていかれないように、けれど追いつかないように、気をつけながら歩を速める。動揺は心のほうも加速させてグレッグを多弁にした。
「……責めないのか? 怒ってないのか? 仕えてた主君なんだろ? なんだってそんな普通の顔ができる?」
 矢継ぎ早の問いかけにレイモンドは眉をしかめる。
 己とて思うところがないではない。ルースが奪ったルディアの身体は彼女にとって父親との繋がりを示す唯一のものだったし、取り戻せるなら取り戻してやりたかった。それが可能ならルディアもきっとそうすることを選んだだろう。だが現実には、失われてしまったものは二度と返ってこないのだ。

「終わったことを根に持ってたら先に進めねーんだよ。姫様は俺たちにそんなこと望んでない。大体おっさん、ルースが裏で何してたか全然知らなかったんじゃねーの?」

 こちらが質問を投げ返すと今度はグレッグが黙り込んだ。「知ってたらきっと止めてただろ?」と重ねた問いに重い沈黙が立ち込める。
 ルディアと違ってルースは死んだ。魂のかけらさえこの世のどこにも残っていない。だから多分、グレッグよりはつらくないし、ごちゃごちゃ言う気にもなれない。それだけだ。

「……俺がもっと頼りになりゃあ、あいつ話してくれてたかなあ」

 ぽつりと落ちた呟きにレイモンドは何も答えられなかった。ただ目を伏せ、瞼の裏に在りし日の副団長を思い浮かべる。
 マルゴー人には珍しい、色素の薄い瞳をしていた。誰の目にもパトリア圏外の血筋であるのが明らかな。
 ああいう外見の人間がマルゴーで生きるには苦難の連続だったに違いない。同類であるレイモンドには簡単に想像できた。
(言わなかったんじゃなくて、言えなかっただけかもな)
 そう思ったがグレッグに憶測を伝える気は起きなかった。言えば余計に彼を苦しめる気がして。
 レイモンドが返答を避けたため、グレッグも話すのをやめてしまう。小石を踏む乾いた足音くらいしか彼の発する音はなくなってしまった。
(こいつらにはもう関わらないほうが良さそうだ)
 漠然とそう感じる。近づいただけで傷が開くような相手とは距離を置く以外道がない。むやみに心を擦り減らさせたくないのならこちらから離れてやるのが賢明だ。
(上手くやれてるときもあったんだけどなあ……)
 無言のままレイモンドは歩き続けた。どれくらい経てばコナーの家に戻っていいか考えながら。
(近づいただけで傷が開く、か)
 ふとブルーノが心配になる。猫の口では上手く伝えられないこともあろう。昔のチャドなら喜んで意を汲む努力をしてくれたに違いないが。
 今頃二人で何を話しているのだろう。あの不器用な幼馴染が少しでもいい道へ進めればいいけれど。


 ******


 ルディアもレイモンドも出て行ってしまったので、また揺り籠に首を伸ばすのが難しくなってしまった。ブルーノは傍らの貴公子を見上げ、肩を落とす。当たり前だが膝に乗せてくれるような気配はない。
 チャドは飽きもせずアウローラの寝顔をじっと眺めていた。姿は他人の子供なのにあまり気にしていない様子だ。そのうち眠りから覚めた赤子がぐずって泣き出すと、彼はようやく出番が来たとばかりに娘を抱き上げた。

「あー、あー!」

 チャドが赤子を揺すってやれば泣き声はぴたりとやむ。父の顔を覚えているのかアウローラはきゃっきゃと両手をばたつかせた。
 小さな命を見上げてブルーノは目を細める。「忘れないでいてくれたのだね」とチャドも嬉しそうだ。
「城には連れて帰れないが、養育の支援をしよう。できるだけ会いにくるし、大きくなったら養女として迎えるぞ。約束だ」
 未来を語る声は無償の愛に溢れ、聞いていると胸が痛んだ。彼がアウローラを受け入れてくれて良かったと思う反面、自分はと悲しくなる。
 まだ一度もちゃんと目を合わせてもらえていなかった。近づかないでほしいと全身が言っている。心臓の裂け目は塞がっていないのだと。
(ずっとこのままなのかな……)
 これ以上どうにもならないのだろうか。秘密を黙っていられなかった馬鹿者は自分だけれど。

「茶色の髪もよく似合うよ。目はなんだか私のほうに似ているね?」

 楽しげな二人の世界に立ち入ってはいけない気がしてブルーノはベッドの陰に後退した。早く誰か戻ってこないか祈りながら。
 悲しいが、息を潜めて時間が過ぎるのを待つのには慣れていた。父の前ではいつもそうしていた気がする。音を立てず、動きもせず、ずっとじっと。
(別人だって気づかれちゃいけなかったんだなあ)
 本当の息子じゃないことも、本当の妻じゃないことも、気づかれたら終わりだった。だけどチャドは名前を知らないだけだったから、大丈夫だと錯覚したのだ。彼は自分を見てくれると。
 なんて愚かな思い上がり。散々嘘をついておいて、加害者であるのも忘れて幸福を望んだ。父母のもとでは得られなかった温かいものを。
「…………」
 どれくらいそうしていただろう。やがてチャドの声が途切れ、ぎし、と側で床板のきしむ音がした。つらいなら捨て置いてくれて構わなかったのに、姿がなければないで気に病ませてしまったらしい。本当に優しい男だ。

「……あなたもこの子と遊んでやるかい?」

 無理やり絞り出したような声に顔を上げる。血を吐きながら作り笑いをするような。
 そんなものを聞いたら申し訳なさで堪らなくなってブルーノは首を振った。
 自分はアウローラの親ではない。現状を確かめたならそれで満足しなくては。
 うつむいたブルーノにチャドは「そうか」とだけ言った。漂う微妙な雰囲気に赤子が「うー?」と不思議そうな声を発する。
 わかりやすく怒ってくれればまだ良かった。いつまで伴侶ぶるつもりだと。だがチャドはブルーノを責めない。視界に入れまいと目を逸らすのも戸惑っているだけだった。どう扱えばいいかわからなくなった相手に。
(ああ、僕、本当に酷いことしたんだ)
 今更に思い知る。明かした事実が彼にとってどんなに重いものだったか。
 名前を呼んでほしかった。そんな小さな願いのために己が抉った傷の深さは。
 仕方ない。仕方がない。
 すべて報いだ。浅い考えで他人の人生を踏み荒らした。

「……後で少し、二人で話す時間を取ろう。あなたはきっとそのために来たのだろう?」

 優しい言葉が降り注ぐ。苦しげな、どこか観念したような。
 やはりチャドは誠実な人間だ。関わったものを放棄できない。彼には責任のないことまで。
 ブルーノはおずおずとチャドを見上げ、小さく小さく頷いた。もういいです、もういいんですと言えない自分を嫌悪しながら。
 どうあってもきっとこれが最後だろう。それなら彼に伝えたかった。愛していたと。ずっと側にいたかったと。
 だがそんな言葉どうして口に出せるだろう? 本当のことを伝えたからこそ傷つけたとわかっているのに。
 近づけないのに遠ざかれない自分があまりに滑稽で、ブルーノは少し笑った。


 ******


 今は寂れたこの村も、ひと昔前までは製塩業でそこそこ栄えていたらしい。採掘量の減少により閉鎖された古い岩塩窟の一つ。その入口に到着すると師はランタンに火を灯し、にこやかに微笑んだ。
「ここにあなたをお連れする日が来るとは思いませんでした」
 ルディアが蟲入りということは家庭教師時代から勘付いていたそうだ。だがまさか、平民と入れ替わったりアークの存在を知ったりするとは予測の範囲外だったと彼は愉快げに語った。
「どうぞこちらへ」
 招かれるままルディアは暗い洞窟に歩を踏み出す。坑道は狭く、古びて少し荒れていたが、コナーは慣れた様子で奥へと進んでいった。
 岩塩はよほど深く掘られたようだ。道はいくつも枝分かれしており、一人で置いていかれたら村に戻れなさそうである。灯火は弱く、せいぜい数歩先までしか届かない。上ったり下ったり、何度も足を取られかけた。この迷宮の奥にならどんな至宝が隠されていても不思議ではなかった。
 蟲を生み出すクリスタル。一体どんなものなのだろうと気が逸る。
 間もなくそれは曲がり角を折れ曲がったルディアの眼前に現れた。

「――……」

 息を飲む。ランタンの光に照らされ、ひっそりと岩場に鎮座する輝きに。
 六角柱を斜めに切った、半透明の、見上げるほどの巨大な石がそこにあった。ひと目でどんなに大切なものか骨身にまで染み渡る、圧倒的な存在が。
 これは一体どういう現象なのだろう。
 全身に震えが走る。涙が溢れそうになる。
 仄かな光を湛えたアークに目を奪われ、ルディアはしばし呼吸を忘れた。
 見たわけでも覚えているわけでもないのに確信しか抱けない。ここから己が生まれたのだと。
(これがアーク)
 ほかに言葉は出てこなかった。ほかの言葉が必要だとも感じなかった。
 まさかこれほど体感的に理解できるとは。アークが絶対に失えないものだということ。

「よくご覧になられましたか?」

 問いかけにルディアはハッと目を上げる。見れば石柱のもとで師がこちらに手招きをしていた。
 側に寄るとアークの下部が指差される。そこには青く短い髪を広げ、何かの溶液に浮かびながら眠っている女児がいた。

「アウローラ……」

 赤子は右手にぶかぶかの指輪を嵌めている。鷹の紋章のそれはモモが王女の身分証明として預けたものだった。棺にも似たクリスタルの内側で、装身具を捧げられた娘は本物の死体じみていた。
「ここにあるのは身体だけです。眠ったままでも成長に問題はありませんが、どうなさいますか? 連れてお帰りになられますか?」
 多分本当に骸だけがあるのだろう。師はアウローラに中身が入っているとは言わない。
 ルディアは首を横に振った。「今は時期尚早でしょう」と返す。コナーも特に否定せず「ま、王国史次第ですよね」と口角を上げただけだった。

「……先生。どういう理屈でアウローラの肉体は生きているのです? アークとはなんなのですか?」

 問いかけても師はすぐには答えてくれない。ランタンの光を吸い込む美しいクリスタルを眩しげに見つめるばかりで。
「コナー先生、アークとは……」
「原理を説明したところであなたには理解できません。アークが一体なんなのかも、半分の半分の半分だって解明できる人間はまだいないでしょう」
 わかるのは蟲だけです、と彼が言う。それも言語化可能なのは管理者だけで、ほかの蟲は直感的な愛着を持つに過ぎないと。だからこれが何かまで喋る気はない――否、喋っても無駄だと不毛視する師にルディアはぐっと拳を握った。
 理解できないと言われても「わかりました」と引き下がるわけにいかない。ハイランバオスがこちらより多くの情報を有しているなら尚更だった。
 ジーアンはアークを探している。なら己は知らねばならない。アクアレイアが再独立を果たすために、アークが使えるカードか否か。

「ハイランバオスの知っていることだけでも教えていただけませんか」

 噛みつくように食い下がる。コナーを見据え、ルディアは交換条件の提示を待った。
 ここまで連れてきたということは師のほうにも応じるつもりがあるはずだ。でなければ最初からアークを見せつけたりしなかったろう。
「そうですねえ、あなたにも飲み込めそうなお話だけなら」
 思った通りコナーは前言を覆す。にこやかに微笑んだ後、彼は「ただし」と付け足した。
「私にあなたのすべてを開示するおつもりはありますか?」
 コナーはじっとこちらを見つめ返してくる。師の問いにルディアは怪訝に眉を寄せた。
「開示?」
「アークに触れればあなたの生きたこれまでの記憶がアークにも保存されます。管理者たる私にはそれを覗き見ることができる。例えばあなたがあの預言者とどんな会話をなさったかとか」
「き、記憶の保存?」
 耳慣れない言葉にルディアは困惑した。要するにジーアンの蟲と似たような記憶の共有がアークを使って行えるということだろうか。だがコナーは開示、あるいは覗き見と表現した。であればそれは一方的なものなのだろう。
「……断るとどうなります?」
「私にとっても重大な秘密ですからね。話はここまでということになります。こうして実物をご覧いただき、あなたにも聖櫃を守る意思は芽生えたでしょうし、ひとまずそれで私には十分です。ま、あなたにはご満足いただけないかもしれませんが」
 うっとルディアは返事に詰まる。「個人情報の悪用はいたしませんよ」と笑うコナーにほかの条件を出す気は更々なさそうだった。
 アークの位置を知り得ただけではジーアンと渡り合うことはできない。もし駆け引きに失敗すれば彼らがここへ乗り込むことも考えられた。
 もっと情報が必要だ。もっと手札に加えやすい情報が。
 頭ではわかっていた。彼に頷くべきなのだと。――だが。

「敵か味方かわからない相手にそこまではできません?」

 見透かした声に問われる。「あなたを尊重しているからこそ先にお聞きしたんですがねえ」と師は悪戯っぽく肩をすくめた。
「私がハイランバオスなら何も言わずにアークにべたべた触らせているところです。まあ無理強いはいたしませんから、お好きなようになさってください」
 自分で決めろと選択権を委ねられ、ルディアは大いにたじろいだ。コナーが敵でも味方でも記憶を覗き見させるなど並大抵の覚悟ではできない。他人には知られたくないことだって抱えて生きてきたのだから。
「……私の記憶になんの用があるのです?」
「アークを守っていくために少しでも有益な情報が欲しいのです」
 師は石柱を振り返り、「私はこれの奴隷なので」と自嘲する。世界のあちこちに目をやって気をつけてはいるものの、心配の種が尽きないのだと。
 アークを守りたいというコナーの言に嘘はなさそうだった。師はまだほんの少ししか管理者としての顔を見せていないけれど、彼が己を表すのに奴隷などという言葉を用いるのは初めてだ。
(本当にやるのか?)
 自問にルディアは息を飲んだ。
 生きてきた記憶を見せる。とんでもないおおごとだ。思考も行動も何もかも晒せば後でどうなるか知れない。普通に考えれば断固拒否の一択だった。――そう、普通に考えれば。

「どうなさいます?」

 にこりと笑んで師が問うてくる。こちらの度量を試すように。
 ルディアは悩むのをやめた。静かに佇むクリスタルを見ていると本能的に手を伸ばしたくなってくる。触れるのは悪いことでないように思えた。
 それにコナーが敵か味方かも決断に影響する要素ではないのだ。ほかの誰も知らないことを彼だけは知っている。その知を得るのが第一で、被る不利益を考えるのは二の次だった。活路を開くにはそうする以外ないのだから。

「――」

 アークの硬い表面にそっと掌を押しつける。押しつけた箇所に集まった光が明滅する。
 起きたことはたったそれだけ。だがそれだけですべて完了したらしい。
 腕を下ろしたルディアに代わり、今度はコナーが石柱に触れた。そうして彼は満足そうに顔を上げた。

「……それではアークについてお話ししましょうか」



 ******


 来ないのではと思っていた男は朝、いつもときっかり同じ時間にレーギア宮に現れた。いつも通りに女帝を囲み、いつも通りに談笑を交わし、いつも通りに昼過ぎに「今日はそろそろ」と立ち上がる。
 普段に増してユリシーズはそつがない。アルフレッドが口を挟むわずかな隙もないほどに。
 それでも目の下の隈は目立った。昨夜一睡もしていないのがありあり知れる彼を見ると心臓がちくりと痛む。どちらかしか取れないものを選んだ以上、何もすることはできないが。
「ユリシーズ、詩の本があれば持ってきてね。特に技巧を書いた本よ!」
「ええ。明日は忘れず父の蔵書を漁ってまいります」
 鈍いアニークは騎士の変調に気づきもしないで別れを告げる。白いマントを翻し、歩み去っていくユリシーズの後ろ姿にアルフレッドは目を伏せた。
 いつか思い出になるのだろうか。そんなこともあったなと。
 ユリシーズのすべてを認めていたわけではない。彼のしてきたことの中には許しがたい行為もあった。
 国王暗殺を謀ったこと。鐘つき人が残っていたのに大鐘楼を破壊したこと。法廷で嘘をついたことも罪がないとは言えなかった。だがきっと、そういう男の親身な慰めだったから己の心は救われたのだ。
 忘れたくない。たとえこれから縁は薄らいでいくにしても。

「アルフレッド」

 と、ほとんど退室しかかっていたユリシーズが振り返る。ドアに手をかけたまま、意を決めた表情で。

「……夕刻の鐘が鳴ったら大鐘楼に来てほしい。話がある」

 告げるだけ告げると白銀の騎士はすぐに寝所を出て行った。
 こちらの返事を待たなかったのは急いでいたからではあるまい。なんとなく彼の胸中がわかる気がしてアルフレッドは息を飲んだ。
(ユリシーズ……)
「二人も仲良くなったわよね」というアニークのずれた台詞が室内に響く。
 日はまだ高く、暗い影はどこにも差していなかった。


 ******


 何から語り始めるべきか――。師が選んだのはアークと蟲の関係を説明することだった。
 創世記にも記されているように、聖櫃が滅びた古い神々の置き土産というのは事実だそうである。蟲は巣とアークを守るよう彼らに『設計』されたらしい。末端の蟲であれ中枢の蟲であれ備わった本能は等しく、管理者として生まれたコナーはアークの保存を使命とし、世に放たれてかれこれ百年ほどになるとのことだった。
「蟲がアークを守るのは、アークが失われやすいからでしょうね」
 師は淡々と既に多くのアークが歴史に消えた事実を語る。大パトリア帝国のアークも、レンムレン湖のアークも、フサルク島のアークも、機能停止や消失の憂き目に遭って完全な形では残っていないそうだ。
「おそらくこのアレイアのアークが最後の一つです。我々は未来のためにこれを守り抜かねばなりません」
 きっぱりとコナーは言う。アークは人類が滅亡の危機を免れるべく存在するものですから、と。
 話のスケールにルディアはぱちくり瞬きした。が、神秘の石柱を眺めていると戸惑いはどこかへ消え失せる。
 不思議な納得感があった。まるで最初からそうと知っていたような。
「……何故アークは失われやすいのです?」
「延命に役立つからですよ。大パトリア帝国にあったアークは内部の循環液を飲み尽くされ、本体も粉末薬に変えられてしまいました。蟲にもアークと似た環境を作ろうとする性質があるのでご存知でしょう? 瀕死のレイモンド君の傷を癒した例の髄液以上の奇跡がアークには起こせるのですよ」
 師の知らぬはずの話が飛び出し、本当に記憶を見られたのだなと驚く。
 だが次はクリスタルを見やっても消えない疑問が湧いてきた。失われやすいと言うのなら何故あんな男にその存在を伝えたのだと。

「ハイランバオスにアークのことを話した理由はなんですか?」

 この問いにコナーはうっと胸を押さえた。目を逸らし、彼は何やら言いにくそうに「いや、私にも予期せぬ事故がありまして……」と弁解を始める。
 曰く、師は教えようとして教えたのではないらしい。偶然に『接合』という情報の共有が行われてしまったそうだ。ジーアン軍がアレイア海東岸に迫った翌年、ドナ近海で起きた海難事故のせいで。

「嵐の夜、私と彼は同じ船に乗っていたのです。秘密裏にジーアンに近づこうとしていたグレース・グレディの計らいで引き合わされておりましたゆえ」

 祖母の名にルディアはぴくりと耳を跳ねさせた。それはグレースが聖預言者の肉体を得るきっかけになった事故ではないのか。まさかあのときコナーまで一緒だったとは、と小さく眉をしかめる。
「『接合』は型の異なる蟲同士の接触で起こります。要するに我々は海で溺れて中身が露出していたのですね。本当に奇跡のような偶然ですが、ともかく彼は私から管理者しか知り得ない知識を得てしまいました。私のほうもジーアンの蟲について知ることになりましたが……。まあ、どう考えてもハイランバオスの手にしたもののほうが大きかったでしょうねえ」
 乾き笑いが天井に響いた。一応コナーは接合の途中で聖預言者から逃れたと言う。管理者となると器なしでも意識を保っていられるそうで、情報の流出は最小限に食い止められたとのことだった。

「……ハイランバオスが知ったのはどんなことです?」

 ルディアの問いに師は「一つずつお答えしましょう」と頷く。落ち着いた声がつらつらと要点を述べた。
「まず『接合』についてです。これが起こると記憶のほかに遺伝子情報の交換もされます。平たく言うと寿命が少し延びるのです。ただし蟲が接合できるのは一生に一度きりですし、延びる寿命も百年程度ですがね」
 原理を解説する気は毛頭ないらしく、コナーは端的に事象だけを羅列する。百年が少しという時間感覚に常人と異なるものを感じたが、話の腰を折るようなコメントは控えて次を待った。
「それから蟲の標準生息期間について。百年周期の分裂は十回までと決まっていて、上限を超えた蟲はいつ死んでもおかしくないこと。オリジナルが活動を停止すればほかの蟲も死滅すること。これも彼の知るところとなりました」
 師によればヘウンバオスの双眸が赤いのは彼が蟲として機能不全に陥りつつある証左だそうだ。
 老いた蟲は髪と瞳の色を作れなくなるという。ヘウンバオスは生まれたとき、もっと青に近い目と亜麻色の髪をしていたらしい。眼球は色が抜けると血管が透けるようになり、毛髪は金から白に近づくと聞き、ルディアは我知らず息を飲んだ。
(天帝の金髪、かなり薄い色をしていなかったか?)
 思い出してぞっとする。
 それでは数年後のジーアンはどうなっているのだろう。上層部が死に絶えて帝国が瓦解すれば、東方は交易どころでなくなってしまうのではないか。
(めちゃくちゃになるぞ、ジーアンの版図一帯)
 命の期限が迫っているとは聞いていたが今まで半信半疑だった。実感以上にアクアレイアは厳しい状況にあるのかもしれない。たとえ王家再興が成ったとしても。

「……『接合』で寿命が延びると仰いましたね? ではハイランバオスだけはジーアンの蟲が亡びた後も生き続けられるのですか?」

 気になっていたことを一つ問いかけた。余命わずかだと言いながら妙に余裕たっぷりだったあの男。同時に死ぬならどうやってヘウンバオスの最期を詩に書き起こすのか疑問だったがそれならば納得行く。
 コナーは「ええ」と頷いた。ルディアの推測した通りだと。

「接合によって彼は特異な存在になってしまった。聖櫃の知恵の一部を有し、故郷へのこだわりも捨て、欲望のままに生きる。前代未聞の変わり種です」

 ハイランバオスに蟲の常識を当てはめることはできない。彼に残るのは天帝への関心のみで、脳蟲もジーアンの同胞も使い捨ての道具としか見てはいない――師の語る見解をルディアは「だろうな」という思いで聞いた。
 彼は愉快犯なのだ。難題を吹っかけて相手の出方を楽しむだけ。
 だから政治交渉に向かない。少なくとも己は彼とまともに手を結ぶ気になれなかった。
(ならこの人はどうなのだ?)
 腹の底を窺うように師を見やる。アークのことを知られたのは事故だと言うが、腑に落ちない。彼もまた現状を楽しんでいる節がある。
 管理者なら黙っていても良かったはずだ。アークとはなんですと空とぼけ、こちらを追い払ったって。
 記憶を覗き見たのだからルディアがアークをジーアンとの交渉に使えないか模索中なのはばれているだろう。それなのに惜しげもなくぺらぺら喋る。そこが解せない。
 師もルディアも同じアークから生まれたから、仲間だと見なしてくれているのだろうか? だとしても疑問は残るが。
(味方なら味方だと最初に宣言しそうなものだしな)
 コナーは表情を読ませない。彼にもきっと思惑があるに違いないのに「話が少し逸れましたね」と呟く声は依然落ち着き払っている。
 この人は何を考えているのだろう。どんな狙いでルディアをここに入れたのだろう。アークを守るということが彼の大前提として。
(そう、守るだけなら私にやらせずともいいのだ。ほかの誰かにやらせたって……)
 思い出すのはバオゾでの出来事だった。宴の席で師は明らかにヘウンバオスに擦り寄った。それに彼はハイランバオスにも一時協力したのではないのか。
「…………」
 じわじわと警戒心がもたげてくる。眼差しは自然鋭くなった。
 慎重に見極めねばなるまい。敵なのか、味方なのか、誰につこうとしているのか。
「あとはアークのことですが」
 ルディアの胸中など気にかける様子もなくコナーは話を再開した。暗闇の中に浮かび上がるクリスタルに手を添えて師は語る。ハイランバオスが手にした知識をどう悪用しているかを。

「――本当に彼は残酷ですねえ。アレイアのアークとレンムレン湖のアークは別物だと知っていて、天帝には『アークを探せ』とだけ告げたのですから」

 あなたも聞いていなかったでしょう、とコナーが言う。蟲にとって愛すべきは己を生んだアークだけで、無関係の聖櫃には固執しようもないのだと、と。
「は?」
 意味がわからずルディアは眉間にしわを寄せた。今何かすごいことを聞いた気がするのだが。
 それではジーアンの蟲にとって現存するアークは無価値なものだということか? それなのにハイランバオスにアーク探しをさせられていると?
「アレイアのアークに触れたところで彼らの郷愁は満たされません。そもそも彼らのアーク自体とっくに機能停止しているかと思います」
「機能、停止……」
「蟲の母体として何か求められる状態にはほぼないということです。探しても無意味とは言いませんが、落胆は必至でしょうね。辿り着いた先にあったのがよそのアーク、よりはましかもしれませんが」
 師によればハイランバオスは天帝を苦しめるために誤誘導をかけたのだろうということだ。アークのことなど知りもしないジーアンの蟲たちはアークと名のつくものすべて無視できない状態にある。彼らがこの地に到達してもしなくても空回りに終わるように舞台は整えられていたのだと。

「いやはや、天帝を絶望させたいという欲求は本物のようです。巻き込まれた我々には迷惑極まりないですが」

 コナーはやれやれと肩をすくめた。目を細めて苦笑いする彼は、何故なのか面白がっているように映る。空回りであれなんであれ、このアークが狙われているのは間違いない事実なのに。
「アクアレイアを独立させたいあなたを使えば蟲の巣からも聖櫃からも天帝を遠ざけられる。手の込んだ嫌がらせです。ハイランバオスがあなたにアークを守るよう命じたのも、あなたに実物を見せて焚きつけるためでしょう。彼自身はアレイアのアークがどこにあるのか掴んではいませんでしたが、あなたなら私に会うのも不可能ではないと読んだ。そしてその通りになったわけです」
 師はルディアに向き直った。微笑は崩れぬままだった。
 その昔、盤上に駒を並べた講義の席で戦略を尋ねてきたのと同じ顔でコナーはルディアに問うてくる。

「さて、あなたはここからどう出ます?」

 ルディアは指先を握り込んだ。簡単に答えられるはずがなかった。
 アクアレイアもアークも守り抜く方法。そんなものがあるなら逆にこっちが聞きたい。
「先生には妙案が思いついているのですか?」
「いえ、特には。ただ私は末端の蟲と違い、巣に対する執着は薄いので。天帝の手にアークを触れさせないだけなら難しく考えずともいいでしょう?」
 隠し通せば済む話ですと師は笑う。ルディアの直面した現実のほうがよほど厳しいと言うように。
 祖国はジーアンの支配下にあり、財政難は印刷機の登場でやっと回復の糸口を掴んだばかり。国内は帝国自由都市派と王国再独立派に分かれ、波の乙女の聖像はいまだカーリスに奪われたまま。ドナの特需でどうにか生き延びている民は少なくないけれど、それがいつまで続くかは知れない。おまけにジーアン帝国は突如崩壊する可能性が高く、東方交易は根底から続行不能になるかもと来ている。
「アクアレイアにはここが正念場ですねえ」
 やはりコナーは楽しげで、ルディアは思いきり顔を歪めた。偽預言者を残酷呼ばわりする割に彼も十分ひとでなしだ。

「何がそんなに面白いのです?」

 冷静に問うたつもりが口をついた声には苛立ちが滲んでいた。師はぴたりと笑みを引っ込め、瞠った目でまじまじこちらを見つめ返す。
 返答は与えられず、ますます憤りが募った。コナーに対する怒りではない。己の無力に対する怒りだ。アクアレイアのために生きると誓ったくせに、結局何もできていないも同然の。

「巣に対する執着が薄い? 祖国のことなどどうでもいいというのですか?」

 ほとんど八つ当たりだった。そんなことはわかっていた。八方塞がりのまま荷物だけ増やされてむくれている。
 ただそれだけ。まるで子供に戻ったみたいに。
 コナーはふっと笑みを漏らした。「あなたは我慢強い生徒でしたが、時々少し気持ちが強く出るのでしたね」と懐かしげに目を細められる。

「アークの管理者には――いえ、アーク本体である私には、聖櫃を守るほかにもう一つ使命があるのです」

 真摯な瞳で師は告げた。人類がアークを理解し得るほど科学的に発展した、精神的に成熟した、そういう社会をもたらさねばならないのだと。でなければアークは存在する意味がないのだと。
「あなたと天帝がぶつかれば世界に一大変化が生じるのではと期待しました。ご不快に思わせて申し訳ありません。まあ面白がったことは否定しませんが」
 謝罪を聞いてもルディアの心は晴れなかった。いっそうコナーを遠く感じて憂鬱になる。巣を守る気持ちもなく、無益な争いを止めもせず、あまりに己と違いすぎて。

「……以前あなたが理想の王を探していると言ったのはアークを守らせるためですか?」

 尋ねると師は吊り気味の三白眼を丸くした。
「誰があなたの王なのです?」
 きつくまなじりを尖らせてルディアは質問を続行する。この先コナーがどう立ち回るつもりでいるのか少しでも明らかにするために。
 収穫なしでは帰れなかった。偽預言者の手の上で踊らされたままでは。
 せめてこの人の動向くらいはと眼前の師とアークを睨む。しばし沈黙した後にコナーはにこりと口元を緩めた。

「我が王と呼べる者などいませんよ」

 ハイランバオスもヘウンバオスもましてあなたも私の王にはなれません、と声が返る。悠然とした眼差しはまっすぐにルディアに注がれ、ほんのわずかも逸らされなかった。
「……ですがもしアークを理解できる王が現れれば、あなたはその王に仕えるのではないのですか?」
 半分は警戒から、半分は期待から、探るように問いかける。
 コナーは吹き出したようだった。小さく肩など震わせて。

「移ろいやすい人の世に後ろ盾は求めません。随分懐かしいことを覚えていてくださいましたね。理想の王を探しているなど私の詭弁だったのに」

 堪えるような笑い声にルディアは「え?」と瞬きする。「いやまさか、あなたがそんな素直に受け取ってくださっていたとは」と師はいかにも微笑ましそうに続けた。
「私の求める指導者が現れるのはずっと未来の話です。まず間違いなく数百年は先でしょうね。――こう言えばおわかりになりますか?」
「……ッ!?」
 衝撃を受けすぎて思考が停止する。今までずっと、いつかはコナーもどこかの宮廷に腰を落ち着けるものと思っていたのに、そんなまさか。

「てっ、体よく言い換えていただけなのですか……!? 誰にも仕官する気はないことを……!?」

 にっこりと頷かれ、ルディアは一気に脱力した。曰く、特定の勢力に肩入れすると動きにくくなってしまうので、とのことである。
 なんだ、それではこの人は、ハイランバオスに乗っかって経過を眺めているだけか。どこにつくわけでもなく、世界が進歩するなら良しと、アークに危険が及ばぬ範囲で必要そうな情報だけ与えて。
(な、なんだ……)
 敵でも味方でもなかったのだ。事情通の傍観者。それがコナー・ファーマーなのだ。
「いやあ、気を揉ませてしまったみたいで申し訳ございません」
 師は再びにこやかに頭を下げる。しばらくの間受け入れがたく、ルディアはハハ、と乾き笑いを漏らした。
 ともかく一つ懸念事項はなくなった。コナーがどの陣営に入るかで力関係はがらりと変わる。彼がどこにも属さないと確証が持てたのは大きかった。
(まったく先生も演技達者な……)
 やれやれと息をつく。理想の王を探していますというあの台詞。今の今まで処世術の一つだったなど考えもしなかった。長いこと騙してくれたものである。無垢な少女だった自分は己に君主の才覚が足りぬから彼を引き留められないのだとしばし本気で落ち込んだのに、今頃こんなオチがつくとは。

(演技達者な――)

 そのとき不意にルディアの脳にあるひらめきが湧き起こった。
 身を貫いた稲妻に目を瞠る。あまりのことに指先一つ動かなくなった。
(……演技……?)
 待てよ、と息を飲む。立てた仮説はたちまち確信に変わった。
 ――演技。演技だ。全部演技だったのだ。今まで目にしてきたものは。
(ひょっとしてあいつ、あいつの渡してきたあれは)
 そうだ。変だと思っていた。やけに本物らしすぎると。だが『接合』の話が本当なら、もしそれがすべての蟲に起こり得るなら、あの男は。

「さて、そろそろ村に戻りましょうか。記憶を覗き見たお詫びに一つ贈り物をさせてください。きっと喜んでいただけると思います」

 そう言ってコナーが踵を返す。来た道を戻ろうと歩き出した師の腕を掴み、ルディアは声の限りに叫んだ。
「待ってください!」
 コナーがこちらを振り返る。少し驚いたような顔で。
 身震いしながらルディアは問うた。
 祖国の窮状を引っ繰り返して余りある奇策。思いついたかもしれない。

「……コナー先生、これが何かわかりますか?」

 ルディアが取り出した茶色の羽根にランタンをかざし、コナーはきょとんと目を丸くした。突然何をと訝りつつも博識な師は即答してくれる。

「雌ダチョウの羽根ですね」

 十分だった。十分すぎるひと言だった。
 ルディアはコナーの袖を引き、ぼそりと己の考えを告げた。

「……それはまた、面白いことを……」

 緩んだ口元を覆うように師は掌を持ち上げる。伝わってくる興奮は何よりもアクアレイアの行く末に希望があることを物語っていた。


 ******


 ひょっとするとドナの退役兵たちは自分たちを神様か何かと勘違いしているのかもしれない。少なくとも「急げ」と命じれば一週間かかることが三日で、三ヶ月かかることが二ヶ月で終わると考えているのは間違いなかった。
 砦の主館でバジルは重い溜め息を飲み込む。必要枚数の水銀鏡が揃ったのが二日前のことだというのにゴジャとその取り巻きたちは「さっさと迷宮を完成させろ」とやかましい。
 小間使いを総動員して組み立てに励んでいるのに何故彼らにはこちらが手を抜いているように見えるのだろう? 外野から暴言を吐かれては作業員の動きが鈍って当然なのに何故ねちねちと文句を垂れるのをやめないのだろう?
 現場の監視などせずに中庭で飲んだくれていればいいのに組み上がっていく建造物を見るのは面白いらしい。まったくいい迷惑だった。
(とにかく急ごう。ここまで来たらあと一息だし!)
 バジルの指示のもと吹き抜けの広間に次々と鏡が設置されていく。退役兵が寄ってきて並べた鏡の前で踊るなど無思慮な邪魔をしてくれたが、できるだけ気にしないように工事を進めた。

「大丈夫か? こっち俺が持ち上げるから、あんたはそっち支えててくれ」
「あ、ありがとう」

 と、迷宮の一角から流れてきた甘い空気にびくりとしてバジルは思わず足を止める。振り返って見てみればタルバがケイトの運ぶ鏡を所定の位置に収めているところだった。
 異国の友人はいつの間にやらアレイア語を習得し、なんだかんだとケイトを気にかけている。彼女は恋人なんて募集していないと思いますよ、と釘を刺すには刺したけれど、彼はあまりわかっていないように感じた。
 騎馬民族の間では、夫を亡くした若い妻はその兄弟に嫁ぎ直すのが一般的であると聞く。最初の夫の喪に服し、以後結婚しないというパターンはほとんど見られないらしい。今のところタルバがケイトと一線踏み越えようとする兆候はなかったが、もしそうなったらどうしようとヒヤヒヤした。
(もう一回ちゃんと言ったほうがいいかなー!? どうかなー!?)
 深刻に思案しつつバジルは広間をぐるぐる回る。カンカンと甲高い鐘の音が鳴ったのは、そろそろ小間使いの一部を日常業務に戻さないとなと考えたときだった。
「え?」
 夕刻にはまだ早い。なんの鐘だと顔を上げると退役兵が残らず青ざめているのに気づいた。ざわつく彼らは中庭に続く主館の玄関口を見やり、一様に身を固まらせている。
「え?」
 わけがわからずバジルはタルバに目をやった。彼もまたケイトの隣で動きを止め、緊張気味にドアを見ている。
(あ、もしかして)
 小間使いが鏡を放って整列を始めたので、誰か帰ってくるのだとわかった。
 それが誰かなど考えるまでもない。ドナを治める将は一人しかいなかった。なるべくなら、本当に、極力どうにか顔を合わせたくなかったけれど。

「たっだいまー! みんないい子にしてたー!?」

 両開きの扉から腕を広げた性悪狐が現れた瞬間、広間の空気は凍りついた。いつも威勢のいいゴジャも、ふんぞり返った取り巻き連中も、一斉に後ずさりする。
 細い目が冷たく辺りを一瞥した。狐のすぐ後ろには顔布をつけた聖預言者の姿まである。帝国の最重役らの登場に緊張は高まる一方だった。

「……へええ? 俺の許可なしにご大層なもの拵えてくれてるじゃん?」

 ヒエッとバジルは息を飲む。ラオタオはいやにゆっくりと、一歩ずつ威圧感を増幅させつつ広間の中央まで進んだ。
 実行する直前の卑劣な悪戯が教師に発見されたとき、教室がこんな雰囲気になっていたような気がする。あのとき自分は主犯でも主犯の友達でもなかったから「うわー」と思うだけで済んでいたが、この場合は一体どうなるのだろうか。
「ちょーっと俺がアクアレイアに出てるうちに随分偉くなったみたいだなー、ゴジャ?」
 矛先はまず退役兵のボスに向けられた。怯えて顔を逸らしたゴジャに普段の荒っぽさはない。嘘のように委縮して大きな身体を震えさせている。
 蛇に睨まれた蛙ならぬ狐に睨まれたオタマジャクシだ。ほかの退役兵たちはラオタオと目が合わないようにうつむいているし、誰もゴジャを助けようとはしていなかった。
「何この鏡? 誰の金でこんなことしてんの?」
 狐の追及はやまない。もしやゴジャはこのまま失脚するのではと思えた。
 そんな期待をかけたのも束の間、思いもよらぬ流れ矢が飛んでくる。退役兵の総ボスは突然がばりと身を起こすと太い指でバジルを示し、己の罪をなすりつけてきた。
「違う、あいつだ! あいつがあんたの許可なんて後で取りゃいいって言ったんだ!」
 悪質なでっち上げにバジルは「はああ!?」と声を裏返す。目玉が飛び出るかと思った。一体全体何を言い出すのだ、この男は。
「ふうーん? バジル君が俺の金使い込んだんだ?」
 くるりとこちらを振り向いたラオタオに「ちちちち違います違います!」と首を振る。慌てふためく間に狐は距離を詰め、ほぼ眼前に迫っていた。上からずいと三日月の眼に覗き込まれ、恐怖で気絶しそうになる。
「バジル!」
 割り込んできたタルバが背中に庇ってくれたがラオタオの視界に彼は映っていないようだった。まるで荷物でもどけるみたいに友人を脇に押しやると、狐はバジルの胸倉を乱暴に掴み上げる。
「可愛い顔して案外反抗的なことするなあ? 君のこと買ってたんだけど調子に乗っちゃった?」
 喉が詰まり、宙に足が浮き、これはかなりまずいのではと血の気が引いた。
 まったく笑っていない双眸と目が合う。固まる以外何もできない。
「俺はさあ、自分の庭を荒らされるのが大っ嫌いなんだよねえ」
 わかるかな、と問いながらラオタオはバジルだけでなく固唾を飲んで見守る退役兵にも目をやった。それでなんとなくピンと来る。あっ、これ見せしめだ。同胞よりはいたぶりやすいから見せしめに選ばれたんだ、と。
 悪い予感は当たるもので、狐はバジルの首を絞めたまま広間に声を響かせた。特にゴジャとその取り巻きに忠告をするように。

「生かしてもらってるってこともわからないような馬鹿、生きてる価値あるのかなあ? ないよなあ? いい子にできないんだったらどうなっても仕方ないよなあ」

 退役兵たちは縮こまり、誰もひと言も発さない。
 いや、一人だけラオタオに立ち向かう勇者があった。義理堅い友人だった。
「待ってくれ! バジルはゴジャの命令通りに働いただけで何も」
 悪いことはと続きそうだった台詞は途中でぷつりと切れる。またしても問答無用でタルバは突き飛ばされたのだった。

「悪い子にはお仕置きだよねえ」

 向けられた酷薄な薄笑いに汗が噴き出す。ほとんど生存本能でバジルは身を捩り、「ごめんなさい! ごめんなさい!」と叫んでいた。
「ははは、何それジーアン語? 何言ってんのかよくわかんないや!」
 絶対に聞き取れているくせに狐は取り合おうとしない。どころか「ちょうど龍爺の相手でストレス溜まってたんだー」などと言い出す。
 床に下ろしてはもらえたものの、今度は首根っこを掴まれて引きずられた。「えっ? ぐえっ!?」と混乱するバジルを広間の角の階段まで連れて行くとラオタオは二階に上がり始める。
「痛ッ! うわわわわ!」
 一段上るたびに腰やら背中やらぶつけ、ぐるぐると視界が回った。これからどこへ連れて行かれるのか考えただけで泣きそうだった。
(だ、誰か……!)
 助けを求めて首を動かすも側には布で顔を隠したハイランバオスしかいない。現状から考えて中に味方が入っているとは到底思えず、絶望しかなかった。

「バジル!」

 こんな状況でも追ってきてくれた友人は盛大に嘆息した狐によって阻まれる。ラオタオは「ちょっと通せんぼしといてくれる?」と聖預言者にひと言投げるとバジルを肩に担ぎ上げた。
「タ、タルバさん!」
 階段の途中でタルバは足を止め、悔しげに眉を歪める。彼でも聖なる青年に曲刀を抜くことはできないらしく、それ以上進めないでいた。
 そうこうする間にバジルは二階に着いてしまう。細い廊下に入ったら広間は完全に見えなくなった。
(うわああああ! お仕置きって何!? お仕置きって何されるの!?)
 痛いのと苦しいのと精神的に引きずるのは嫌だと胸中で絶叫する。祈るようにモモの顔を思い浮かべ、最悪彼女にやられていると思い込もうと決意した。
 それでも恐怖は消えてくれない。どこぞの薄暗い一室にぽいと放り込まれたとき、バジルは死を覚悟した。尻餅をついた痛みなど部屋に並んだ拷問器具の不穏さに比べれば爽やかな潮風だった。

「さ、それじゃ一緒に遊ぼっか!」

 転んだままのこちらに被さるようにしてラオタオは顔を近づけてくる。血も涙もない笑みだ。バジルがガタガタ震えているのが楽しくて仕方ないらしい。
(ひ、ひええええーッ!)
 思考はもはや不可能だった。楽しかった思い出が順に脳裏に甦る。
 皆ごめんと防衛隊の仲間たちに謝った。生きて帰れないかもしれないと。
(ああ、モモ、せめて最後にひと目だけでも会いたかった……っ!)
 ――が、しかし、異なことにラオタオはいつまでも何もしてこなかった。
 変だなと閉じていた瞼をうっすら開く。するとそこにはいやに優しい微笑を浮かべた彼がいた。

「――安心して。私よ、私」

 監視があるから二人になれるチャンスを待ってたの、と言われて瞬きする。手荒にしてごめんなさいねと。
 さっきまでの性悪狐はもうどこにもいなかった。本物だと疑いもしなかったあの男は。

「……ア、ア、ア……っ!?」

 狼狽しすぎて名前を呼べない。バジルはただただ両の目を白黒させる。
 世紀の女優はにこりと笑い、「なんとかドナに防衛隊を連れてくるわ。上手く合流して私は無事だって伝えて」と告げた。茶目っ気たっぷりにウインクなどして。
 一体全体何がどうなっているのかはさっぱりわからぬままだった。
 そうこうする間に彼女はダチョウの羽根を取り出し、バジルの懐に忍ばせた。


 ******


 村外れのこじんまりした家の中でルディアは立ったり座ったりを繰り返す。心は少しも落ち着かず、考え事すらろくにできない有り様だった。熟慮せねばならぬことが山とあるのに窓の外ばかり見てしまう。そわそわと髪やら服やらいじらずにおれず、まるでそこらの村娘と変わらない。
「はあ……」
 ついた嘆息の存外な熱っぽさに眉をしかめた。
 らしくない。まったくもってらしくない。思わぬ形で求めていたものが手に入り、浮足立ってしまっている。
(そんなに悪くない、よな?)
 指先までピンと伸ばした手をかざし、今一度コナーのくれた「お詫びの品」を確かめた。血色の良いピンクの爪。ほっそりした指。折れそうな手首。肌は白くて瑞々しい。
 悪くないと思うのに心臓がどきどきと忙しないのは何故だろう。良い悪いを決めるには彼の意見が足りないとわかっているせいだろうか。
 おかしなものだ。彼がこの姿を気に入るか気に入らないかなど、これからのことに比べれば大した問題でもないのに。恋なんてしていると何が些末で何が重大かわからなくなってしまう。

「すみませーん」

 と、待っていた男が戸口にやって来た。扉を開けば「あ、どうも! ここに行けって先生に言われて来たんすけど」と他人行儀に告げてくる。だが恋人はもじもじとうつむき加減のルディアを見やってすぐにその態度を変えた。

「……あれ? 姫様?」

 言わなくてもわかるのか、と妙にほっとする。師も「なるべく元々のあなたと似た容貌の者を選びました」とは話していたが。
「その、先生がくれたんだ。私にも自分のものと言える器が必要だろうと……」
 しどろもどろにルディアはコナーから村人の肉体を譲られたことを伝えた。入れ替わりついでにブルーノの身体は本人に返してきたことも。
「あっちはあっちで、多分チャドに会いにいった、と思う」
 久方ぶりの娘のなりにどうしてなのか恥じらいがやまない。レイモンドの目を見ることができず、頬は熱くなるばかりだった。この娘が申し分ない器量の持ち主であるのは確認済みなのに、それでも変に思われていないか気になって仕方ない。普段とは印象の異なる薄茶色の髪や華奢な身体つきが。
「お、おお、いいじゃん。……えっ? それじゃこれからずっとその身体使うってこと?」
 問いかけには「いや」と返した。囚われたウァーリと合流することを考えると一旦ブルーノの姿に戻らねばなるまい。新しい器はひとまず村に置いていくと思うと答える。

「ただ、まあ、今夜はずっとこの身体でいる……」

 あんまり赤くなって言ったのでレイモンドにも熱が伝染したものらしい。「あ、ああそう」と同じく真っ赤になった彼がよろけてドアにぶつかった。
 しばし無言で見つめ合う。「自分の器」を得たということがどういうことか、互いにわからないではなかった。「今夜」という言葉の意味も、重みもまた。
「…………」
「…………」
 いつもすぐ「抱きしめていい?」と聞いてくるくせにレイモンドは微動だにしない。半分玄関に張りついたまま大量の汗を浮かべている。
「……やっぱり変か? 私には合っていないか、この身体」
 不安になって尋ねると恋人はぶんぶん首を横に振った。
「いや! 身体は! 合うとか合わないとかねーから! 半日もありゃ男でも女でも若くても年寄りでも慣れるから!」
 予想外の展開すぎて頭がついてきてないだけだと彼は言う。断じて変なんかではないと。
「…………。あの、中入って座っていい?」
 平常心を取り戻すのに雑談でもしようという提案にルディアは頷いた。とは言え片田舎の小屋みたいな家にはろくな家具がなく、安住の地を見つけるにもひと苦労したが。
 おそらくここは廃屋で、村人が綺麗に片付けてくれていただけなのだろう。テーブルに備えられていた椅子は四つのうち三つも脚が傷んでいた。長櫃の類もないし、並んで座れそうなところというと残りはもうベッドしかない。
 レイモンドはおそるおそるといった風に寝台の角に座った。ルディアも少し離れてそっと腰を下ろす。
「――」
 室内には異様な緊張が立ち込めていた。どこに視線をやればいいのか悩んで床に目をやれば膨らんだ胸と長いスカートが目に入る。ああ、今、本当に女の姿をしているのだなと紺地の布を握りしめた。
 隣の男はそんなルディアに見とれて陶然としている。蕩けた眼差しにハッとして、気恥ずかしさで堪らなくなり、つい彼を睨みつけた。
「おい、早く何か話せ」
「いや、なんかもう俺、胸がいっぱいで……」
 レイモンドは深々と息をつく。熱に浮かされた恋人はこちらのこめかみに手を伸ばし、掠れた声で囁いた。

「姫様のことすんげー好き……」

 いきなりそれかとむせそうになる。そうする間にも指はくるくる波打つ髪を絡め取った。こんなことで、こんな程度で、前後不覚になるほどドキドキするのだから己も愚かだ。
「姫様は俺のこと好き?」
 わかっているくせに、と思う。好きでないわけがなかった。なんとも思っていなかったのに、知らぬ間に胸の隙間に入り込まれた。そうして追い出せなくなった。
 言葉で告げる代わりにルディアは首飾りの革紐を引っ張る。セイウチの牙のお守りは今も胸元に収めてあった。それを手に取り、恋人を見つめ返す。

「お前ぐらいだよ。私にこんなものをつけさせるのは」

 返答にレイモンドが笑った。腰を浮かせた彼が真横に座り直すのをルディアはどぎまぎしつつ迎えた。
 多分これからキスをする。もしかするとそれ以上もあるかもしれない。正式な夫婦でなければ行わないようなこと。
「……いい?」
 問いかけとともに長い指がルディアの顎に添えられた。熱い目に見つめられ、少しだけ上を向かされる。
 覚悟はあった。最初からそのつもりで呼んでいた。だと言うのに、いざそのときが来ると急に真逆の自分が顔を出すのは何故だろう?
 心のどこかで声がした。その声が高まっていた胸を一瞬で冷まさせた。

 ――どうしてこいつは私なのだ? 私のどこが好きなのだ?

 幾度かもたげた疑問がまた湧いてくる。はたしてこんな決定的なことをして問題はないのかと。
「……ッ」
 近づいてくる唇に息を飲む。気がつけばルディアはレイモンドを押し返し、思いきり口づけを避けていた。

「あ!? いや、これは……!」

 真っ白の頭で言い訳を探す。まさかの空振りに瞠られた双眸が罪悪感を刺激して動揺はますます加速した。阿呆か私は。一体何をやっているのだ。
「これは、その、」
 ルディアは必死に短い言葉を繋ぎ合わせる。
 どうにか弁明しなければならなかった。嫌だったわけではないから。拒もうと思ったのではないから。

「っ……お前、本当に私でいいのか?」

 蟲なんだぞと言った瞬間、何かの糸が切れたのがわかった。「わざわざ私など選ばなくとも幸せになれるんだぞ? 今のお前なら引く手あまただろう?」と追い立てられるように続けてしまう。
「この身体は見目もいいし、受け入れやすいかもしれないが、次はどんな器に入るかわからない。そんな生き物が婚約者で本当にいいのか?」
「……へ?」
 レイモンドは大きな垂れ目をぱちくりさせる。こちらが突然及び腰になったから面食らっているらしい。だが彼の驚きはすぐに笑いに取って代わった。

「あはは、姫様って、ほんといつも土壇場で守りに入るよなあ」

 今度はルディアが「は?」と聞き返す番だった。「怖がりなとこも好きだからいいけど」と歯の浮く台詞を告げられて「は!?」と耳まで赤くなる。
「俺はあんたじゃなきゃやだよ。脳蟲だとか人間だとか王女だとか平民だとか考えて好きになったわけじゃねーもん。身体なんかなんでもいいって」
 誰に入っていようがあんたはあんたじゃん、と語る彼はどこまでもあっさりしていた。本当に心底からそう思っているようである。
「だがお前にも生理的嫌悪感を催す場合はあるだろうし」
 納得していないルディアを見てレイモンドはふっと微笑んだ。そのまま彼は思い出話など始める。

「姫様さ、前に俺に『お前は金を汚すのが嫌いだからな』って言ってくれたの覚えてる?」

 問われてルディアは顔をしかめた。なんとなく覚えのある会話だが、いつの会話かまでははっきり思い出せない。困っていると彼が「ほら、戦争で傭兵団がドナとヴラシィにつこうとしてたとき」と教えてくれた。
「ああ、あのときか」
 こちらが合点するとレイモンドの目が懐かしげに細められる。
「俺、あのときすんげー嬉しかったんだよ」
 そう言って恋人はルディアの両手をぎゅっと掴んだ。「あの言葉が俺を救ってくれたから、俺は今ここにいるんだ」と。
「そんな大仰な……」
「大仰じゃねーって! 姫様は俺のことちゃんとわかってくれてるって思えたし、この人だったらずっと守りたいって思えた。俺はずっとアクアレイア人になりきれなくて引け目感じて生きてきたけど、それも全部あんたがいてくれたおかげで変われたんだ。だから」
 だからとレイモンドが囁く。
 まっすぐな目に見つめられ、何故か動けなくなった。

「俺にとってはあんたの言葉があんた自身だ。あんたがどんな姿でも、言葉はいつもあんたの心から出たもんだろ? 俺にはそれさえあればいい。脳蟲だのなんだのはこれっぽっちも気にしてねーよ」

 抱き寄せられた腕の中でルディアは身を震わせる。ああ、と堪らず熱い息をついた。
 どうしてかな、と考える。いつも、いつも、レイモンドは一番欲しい言葉をくれる。一番大きな不安を遠くへやってくれる。
 生い立ちに似たところでもあるのかもしれない。だからどうすればルディアを宥められるのかわかるのかも。彼もしばしば孤独な過去を匂わせた。大勢の中でひとりぼっちだったことを。
(そうか。私でいいのか)
 安堵に四肢を緩めるとレイモンドがくすりと笑う気配がした。「もういい?」と改めて問われ、ルディアはそっと顔を上げる。
 大丈夫だと信じられた。この先どんな器を選ぶことになっても彼ならきっとと。いつも、いつも、同じ不信に立ち返る己はまた次の心配事を見つけてくるに違いないが。疑いながら続いていくに違いないが。それでも。

「…………」

 目を閉じる。降りてくる熱を待つ。
 長く待ちわびていた熱を。


 ******


 自分の身体のはずなのに袖を通すのは憂鬱だった。
 だけど行かなくちゃいけない。もう終わりにしなきゃならない。
 この旅も、最初のルディアとの入れ替わりも、自分で決めたことなのだから。


 姿を戻したブルーノがコナーの家に引き返すとチャドは表でグレッグと話をしているところだった。多分アウローラの件だろう。養育費がどうのと会話の断片が聞こえてくる。
 終わるまで待つかと思ったが、チャドはすぐこちらに気づいて顔を上げた。後回しにしてくれて一向に構わなかったのに、「ちょっと出てくる」という声とともに彼がこちらに歩んでくる。護衛の責務を果たそうとしたグレッグは腕を払われ、すげなく同行を断られていた。

「歩きながら話そうか」

 穏やかな笑みを浮かべたチャドがブルーノの隣に並ぶ。一度面と向かってと決めたからか、彼はいくらか普段に近い彼に見えた。
 頷いて一緒に坂を下り始める。川沿いの細い道を。
「どういう名目で金を渡すか相談していたのだ。定期的にコナーに絵を頼んでいることにすれば不自然でないのでは、とかね」
 こちらが何か切り出す前に喋り始めたのは彼だった。人の好い貴公子は今後どうやって小さな姫を守り育てていくつもりか詳細に述べてくれる。マルゴーに顔を出すのは今のルディアには難しいだろうから全面的に任せてほしいとも言われた。娘のことは何も心配いらないと。
「ありがとうございます」
 アウローラへの変わらぬ愛に感謝してブルーノは頭を下げた。チャドは首を横に振り、「自分の子供だ。礼を言われる筋合いはないよ」と返す。
「養育費の件、彼女にも後で伝えておいてくれるかい?」
 はい、とブルーノは答えた。声が震えてしまわぬように気をつけて。
「主君には必ず報告いたします」
 自分は今、ちゃんと防衛隊のブルーノ・ブルータスに戻れているのだろうか。ぐらぐらしている足元には気づかぬふりで歩き続ける。
 ちらと見た川面に映る青い影がまるで他人みたいだった。これが一番慣れた身体のはずなのに、短い髪に、隣の男と変わらぬ背丈に、違和感をぬぐえない。
「…………」
 見上げれば空は陰り始めていた。日が沈めば山には獣が出るだろう。あまり遠くまで行かず、早めに引き返したほうが良さそうだ。
 同じことを考えたのか、少し開けた野原に花畑を見つけるとチャドはそこで足を止めた。時間も遅く、周囲に村人の気配はない。聞かれたくない話をするにはおあつらえ向きの場所に思えた。
 引きずってきた感傷を、名前もつけられぬ関係を、一息に終わらせるには。

「……ここでいいかな?」

 さあどうぞ、と促す視線に我知らず顔を伏せた。何を話せばいいかなど自分でもわかっていなかった。
 頭にあるのは喋らないほうが賢明だと思うことばかりだ。それで結局以前と同じ言葉を選ぶことになる。

「……ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした……」

 掠れ声を絞って詫びればチャドは小さく肩をすくめた。「謝罪ならもういい」と優しい声で拒まれる。
「怒ってはいないんだ。……怒れたほうが楽だったかもとは思うがね」
 ぽつりと零れた呟きにブルーノは身を凍らせた。震えるこちらに気づいた彼がすまなさそうにかぶりを振る。

「いや、気にしないでくれ。恨み言のつもりはなかった」

 何も返せず黙り込む。風だけが吹きすぎていく。
 短い草の間では淡い色の小さな花々がそよいでいた。音も立てず、ひっそりと、空気の温もらなさを気にかけることもなく。
「…………」
 二の句を継げず、ブルーノは視線だけさまよわせた。チャドと目を合わせる勇気もないから自ずと足元を見ることになる。宮殿を飾る薔薇や椿とは違う、慎ましやかな草花を。
 ――馬鹿みたいだ。植物だって己の咲いていい場所くらいわきまえているというのに。
(……やっぱり何も言えないよね……)
 ぎゅっと指先を握り込んだ。
 今の自分は王女でもなんでもない。可憐な容姿も妻の座も手にしていない。
 魔法は解けてしまったのだ。自ら解いてしまったのだ。本当の名など告げるから。
(馬鹿だな、僕……)
 どちらも無言でいるうちに闇はどんどん濃くなった。迫る夜に急かされてもやはりなんの言葉も出ない。
 ごめんなさい以外何を言えばいいのだろう?
 どうすれば償えるのだろう?
 台無しにしてしまったものを少しでも取り戻すには。

「……ひと言で良かったのかい? こんなところまで来る必要なかったかな」

 これ以上何もないのなら戻ろうか、とチャドが言う。もう少しと引き留めるには影は長く伸びすぎていた。
 行ってしまう。
 終わってしまう。
 まだ諦めきれないのに。

「――ブルーノ君」

 不意に己の名が呼ばれた。歩みを止めてチャドがこちらを振り返る。
 数歩先に立つ彼の顔は逆光でよく見えない。
 それでも笑っているのがわかった。
 笑おうとしているのがわかった。
「アウローラはいずれ養女にするつもりだが、私はまたどこぞの貴族か王族と結婚することになるはずだ。……その人に、誠心誠意尽くせればと願っているよ」
 だから私を不幸にしたと思わなくていい、とチャドは続ける。気に病むことは何もないから君は君の人生に戻れと諭すように。
「――」
 声を失い、ブルーノは立ち尽くした。
 自分が何にショックを受けているのかもわからなかった。

「……美しい夢を見ていたのだ。そう思うことにした」

 くるりと彼は踵を返す。そうして来た道を戻り始める。
 動けないブルーノを置いて後ろ姿は遠ざかった。
 胸の内に轟く悲鳴がまるで嵐だ。
 心臓が大声で吠えている。本当に幻にするつもりかと。

「僕は……!」

 絶叫に近い声で呼び止めた。チャドのために黙っていようと決めたくせに、最後まで堪えきれない己の愚かしさを責めながら。
 すべてが夢ではなかったと言ってどうなる?
 また傷つけるだけではないのか?

「僕は、もう、誰とも結婚しないし誰も好きになりません……!」

 ――肩越しに、彼が一体どんな顔でこちらを見つめ返していたか。
 辺りはすっかり暗くなっていてブルーノにはわからなかった。昼間でも涙で滲んで見えなかったと思うけれど。

「……私は現実を生きねばならない」

 苦く笑い、チャドは歩み去っていった。後には暗闇が残るだけだった。


 ******


 深まりつつある秋の日没は鐘の音とともに訪れる。耳の奥に残された荘厳な響きを思い返し、ユリシーズは紺碧の混じる夕空を見上げた。
 大鐘楼を選んで彼を呼び出したのは、ここが自分にとって罪の象徴と言っていい場所だったからだ。王女との決別を誓い、剣と心と騎士の名を汚した。
 こんな気持ちで同じ場所に立つことになるとは思わなかった。悔いはしないと息巻いていた当時の己に今の自分を見せてやりたい。
(何が起こるかわからんものだな、人生とは)
 列柱の間から見下ろしたアクアレイアは赤い光に照らされている。人払いは済ませていたから塔の頂は静かなものだった。
 ユリシーズはそっと目を伏せて耳を澄ませる。カツン、カツンと硬質な足音が近づいてくるのを聞いていた。天啓のようなその音を。

「アルフレッド」

 鐘室まで上ってきた男を振り返る。赤髪の騎士は疲れた風もなく「話って?」と尋ねてきた。これから定時の報告会で長居できないとも告げられる。
「そう時間は取らせない」
 視線を街の景色に戻してユリシーズは彼に答えた。アルフレッドはこちらの隣まで来ると同じように眼下に目をやる。
 切り出し方には迷ったが話すことは決まっていた。打ち明けると決めた思いは。
「昨日は何も言えなかったからな。良かったなともわかったとも」
 まずはおめでとうと祝した。再出発を見届けられて自分も誇らしく思うと。それから。
「……ありがとう。私に私を振り返るきっかけをくれて」
 述べた礼にアルフレッドが瞠目した。赤髪の騎士はユリシーズを振り返り、まじまじ顔を覗き込んでくる。
「きっかけ?」
 問いに答えてユリシーズは「ああ」と笑った。「自分がどうしたいのか改めて考えさせられた」と。
 海辺には夜が静かに下りてきている。罪なき者にも、罪ある者にも、優しく毛布をかけるように。
 ユリシーズはぽつりと零した。今まで言葉にすることもなかった心の内を。

「お前と過ごすようになって毎日本当に楽しかった。こんなに楽しかったのは人生で初めて……いや、二度目かな」

 一度目はルディアの婚約者だった頃だと言えば騎士は少々複雑そうな表情をする。「終わった話だ」とユリシーズは微笑した。
「……この数年、ずっと悪い夢の中に閉じ込められている気分だった。もがくほど深みにはまって、どうすればそこを抜け出せるのかわからずに、無関係の人間を数多く傷つけた……」
 宝石箱に似た宮殿、聖像を欠いたアンディーン神殿、広場を行き交う者たちを、水路を渡るゴンドラを、一つずつ視界に映す。
 不思議に心は静かだった。己にも非があったと認めてからのほうがずっと。

「あの女にはできなかったことをして乗り越えようと思ったのだ。だから私は――」

 アルフレッドは黙って懺悔を聞いていた。苦しんでも己の道を忘れなかった本物の騎士は。
 なんて男だろうと思う。痛む傷ほど心を混乱させるものなのに、彼はついに踏みとどまった。落ちた穴から這い上がった。
 ずっと隣で見てきたのだ。自分たちは似た者同士の被害者だと思いながら。
 なあアルフレッド、お前は私に教えてくれた。私の選べなかった道の先には一体何があったのか。お前が私に、別の生き方もできたはずだと示してみせてくれたんだ。一緒に穴に落ちるのではなく。

「今からでも戻れると思うか?」

 ユリシーズはアルフレッドに向き直った。
 正直な願望を口にする。己が新たに得た夢を。

「……お前みたいな騎士になりたい。そんなことを言ったら笑うか?」

 赤い光が差してくる。西の空から、星を連れて。
 騎士はまっすぐこちらを見つめ、茶化したりなどしなかった。最初から無理だと決めつけることもなかった。
「ユリシーズ……」
 名前を呼ばれて実感する。心に開いた大穴を自分で埋める必要がなくなったこと。
 今日やっと己の恋は終わったのだ。捨てきれなくて腐らせ続けた初恋は。
 もういいだろうと言ってやる。傷ついていた過去の己に。ルディアは最後に二人といない友人に出会わせてくれたではないかと。

「自由都市派はやめにして、再独立派になってもいい」

 宣言にアルフレッドは息を飲んだ。「本当か?」と上擦った声に問われる。
「ああ、誰から入れ替わりの話を聞いたかも全部話す。だからまた、私と飲み明かしてくれるか?」
「……!」
 返された満面の笑みは輝かしい未来を想起させるものだった。
 彼がいてくれるなら自分はきっとやり直せる。そう信じられる。
 どちらからともなく交わされた固い握手に胸の奥が熱くなった。
 ――前へ進める。否、進むのだ。
 長かった悪夢を振り切って。


 ******


 蛍が一匹飛んだ気がした。
 闇の中で。祝福でも授けるように。
 ああ陛下だ、と思う。たまに見るあの人の夢だと。緑の繁る丘の上、いつもにこにこしているだけで何も喋らないけれど、今日は格別嬉しげな――。

「……ッ!」

 がばりとレイモンドは跳ね起きた。もしや寝過ごしたのではと慌てて。
 だが屋内は薄暗く、夜明けは訪れたばかりのようだ。ほっと胸を撫で下ろし、隣の毛布の膨らみを揺さぶった。なるべく優しくいたわるように。
「姫様、姫様」
 身体を交換しないとと呼びかける。チャドはともかくグレッグの目もあるのだし、人目につかない時間帯に済ませてしまったほうがいい。それはルディア本人が昨夜言っていたことだ。
 恋人はううんと眠たげに瞼を擦った。欠伸しながら起き上がり、「もう朝か」と前髪を掻き上げる。
 一晩経って改めて見ても可愛いなあ、とレイモンドはにんまりした。顔立ちのことではない。ルディアの入った肉体が放つ独特の空気感みたいなものだ。
 寝台を降りた彼女に続いてレイモンドも靴を履いた。椅子に引っかけていたシャツを掴み、ご機嫌で身支度を整える。それが終わると窓辺でもつれた髪と戦う恋人の側に寄り、にっこりと笑いかけた。
「な、俺にやらせて」
 手を差し出せば「頼む」と木櫛が渡される。昔ブルーノに聞いた要領で毛先から丁寧に髪をとかした。
 明るい茶色の、ちょっと細めの、ふわふわしたロングヘアー。これが彼女の新しい身体なのだと愛おしく思う。
(大事にしなくちゃな)
 精いっぱい守っていこう。今度こそ誰にも奪わせない。そんな決意を秘かに固めた。固めた矢先に心はぽきりと折られたが。

「……あのな、レイモンド。丁重に扱ってくれるのはいいが、この身体、そう頻繁には使わないかもしれないぞ」

 びっくりして「ええっ!?」と叫ぶ。危うく櫛を落っことすところだった。
「な、なんで!?」
 ストレートな問いかけに彼女は相対的な利用価値がどうのとよくわからないことを言う。困惑しきったレイモンドを見上げ、ルディアは至極真面目な声で説明した。
「『接合』の話はしただろう? あれはアクアレイアの蟲とジーアンの蟲の間でなら誰と誰でも行える。互いに初めての接合であればな」
「う、うん」
 寝入りばなに聞いた新たな蟲情報を思い出し、レイモンドはひとまず頷く。確かコナーは『接合』によってハイランバオスにアークの秘密を知られたのだ。どの蟲にでも起こり得る事象なら自分たちも気をつけねばなるまい。ルディアの記憶がジーアンに渡ればただでさえ深刻な状況がより深刻になるのは明らかだった。
「こちらの頭を見せる代わりにあちらの記憶を手に入れることができるわけだ。一千年の歴史を生きた彼らの知恵を」
 だと言うのに彼女の口ぶりは接合を望んでいるように聞こえる。レイモンドは眉をしかめ、「どういうこと?」と解説を求めた。
 水色の双眸が開かれる。いつも決然と進んできた王女の瞳が己を見つめる。
 どこまでも真剣に、どこの誰よりも大胆不敵にルディアは告げた。

「ジーアン帝国を乗っ取る」

 あまりの台詞にレイモンドはあんぐりと口を開く。
 できるのか。そんなことが。
 いや、ルディアが言うならできるのだろうが。

「えっ……? ひょっとしてこの身体、そんな頻繁に使わないかもって」

 ジーアン人の誰かと入れ替わるつもりなのか。もしかしてそうなのか。
 一体誰とという問いはおそらくあまりに愚問だった。問いかける前に答えに至り、冷や汗を垂らす。
「……っ」
 玉座を奪う算段ならば相手は一人しかいなかった。恐れおののくレイモンドにルディアは更に異なことを言い出す。
 つい昨日までそんな宗旨替えの気配は微塵もさせていなかったくせに。
 これ以上ない会心の笑みで。

「もう近隣諸国に力を貸してもらうことも、アウローラを政治利用することも考えなくていい。――レイモンド、我々は帝国自由都市派に回るぞ」









(20190530)