「えっ……? 姫様、今なんて……?」
驚き目を瞠る槍兵をまっすぐ見つめ返せずにルディアは斜めに顔を背ける。問うてきたレイモンド以上に頬を赤くして「だからその、あくまで暫定だぞ、暫定」と答えればレモン色の双眸はたちまち喜びに輝いた。
「やったーっ! マジで? マジで?」
小躍りして飛び跳ねた勢いのままレイモンドはルディアの両手を掴んでくる。アルフレッドもモモたちも今朝は出勤済みであり、誰かに見られる心配なんてないのに酷くたじろいだ。
「本当に俺のこと婚約者にしてくれるんだ!?」
至近距離にはまだ慣れない。「返事貰えるまでもっと時間かかると思ってた」と頬をほころばせるレイモンドの柔らかすぎる眼差しにも。
「迷って消耗するよりは、どちらかはっきりさせたほうがいいだろう」
優柔不断が一番悪いとルディアは告げた。特にこんな、理性以外の力が働く問題では。
「条件に不足や不満もないわけだし……」
悔いはしない。そう決めた。ひとりよがりにならないように改めてモモにも相談した。「そうだよねえ。今のレイモンド、姫様の相手として申し分ないもんねえ……」という昨夜の斧兵の台詞を思い出す。なになに、と会話に混ざってきたブルータス姉弟の「側にいたら好きって気持ちは膨らむだけよ!」という言葉を。
捨てられない思いならどうにか飼い馴らさねばならない。引きずられ、無様に振り回されることのないように。だからこれは恋愛というものに対する降伏宣言ではなくて、未来へ前進するために導き出した結論なのだ。
「ううっ、めちゃくちゃ嬉しい! 給料日と誕生日とカーニバルがいっぺんに来るよりもっと嬉しい!」
こじんまりしたブルータス家の居間に槍兵のはしゃぎ声が響く。床の木目を睨みながらどのタイミングで「そろそろ手を離してくれ」と言うべきか悩んでいるとレイモンドはいっそう指に力を込めた。
「あの、抱きしめていい……?」
「……っ」
おずおずと尋ねられ、馬鹿かと返しかけて気づく。申し出を受け入れた今、拒絶する理由が一つもないことに。
「……い、一分だけだぞ」
答えるが早くレイモンドはがばりとルディアにかぶさってきた。優しく肩に腕を回され、頭を胸に押しつけられ、身じろぎもできずに固まる。けれどもう嫌がるポーズを取る必要はないのだ。ルディアはゆっくり力を抜き、目の前の男に全身を委ねた。
布越しの温もりは初めて味わうものではない。だが名実ともに「許された」状態で味わうそれは初めてだった。密着している部位が多ければ多いほど心が安らぐのは何故だろう。心臓は壊れそうなほど逸っているのに。
「姫様……」
恍惚とした囁きに耳をくすぐられ、閉じかけていた目を開けた。見上げればレイモンドは堪らないといった顔で手を取り抱きしめ直してくる。
だがもう一分過ぎているのではなかろうか。だったらそろそろやめにしなくては。意志の力を総動員してルディアは我が身を引き剥がした。
「まだここ出るまで時間あるだろ? あとちょっとだけ」
恋をすると六十秒数えることもできなくなってしまうらしい。懇願されたが一分は一分だ。心を鬼にして首を横に振る。
「線引きはしておかないと堕落する。ほら、行くぞ。開店準備があるだろう」
そう言って居間のドアを開け、ルディアはレイモンドに手招きした。槍兵は少々物言いたげな様子であったが、それでも不平は漏らさず後についてくる。
「一応断っておくが、仕事とプライベートを混同するなよ」
「わかってるって。ところ構わず抱きつくようなことはしねーって」
暫定婚約者として振る舞うのは人目につかない場所でだけだと彼が同意する。駄々をこねられずほっとしたのも束の間、レイモンドはやや答えにくい問いを投げかけてきた。
「けど皆には言っていいだろ? 仲間内くらいはさ」
ルディアはうっと押し黙る。改まって「付き合うことになりました」などと発表するのは恥ずかしいことこのうえなかった。大体昨日は「レイモンドとの婚約について検討する最終会議」のため、泊まり込み当番のモモやアイリーンやブルーノにどういう経緯でこうなったのか散々喋らされているのだ。少なくとも彼女らにはこれ以上説明しなくていいのではないかと思えた。
「駄目?」
「だ、駄目ではない。というかアルフレッド以外の者は知っている……」
もごもごと「女連中には色々相談に乗ってもらったから」と補足する。するとレイモンドは「あ、そーなの」と照れくさそうに頬を掻いた。
「じゃあアルには俺から話していい? 今日の夕方にでも」
「ああ、わかった」
大事なことには違いないし、全員が共有している情報をアルフレッドにだけ伏せておくわけにもいかない。レイモンドが伝えてくれるならそれが一番いいかと頷く。
「もういいな? そろそろ行こう。開店に間に合わなくなる」
足を止めていた扉の前でルディアはレイモンドを急かした。外階段に出ようとドアノブに手をかける。そうしたらあろうことか、その上からひょいと手を重ねられた。
「あ、ちょっと待って」
囁きと同時、見習い貴公子は上体を屈める。後ろからルディアにくっつくと彼はこめかみに唇を寄せてきた。
一瞬の接触。柔らかな感触。こちらが何か言う前に体温は離れていく。
「……っ」
「よっしゃ、行こ行こ!」
ドアを押し開け、階段を下り出した馬鹿者にかろうじて「お前なあ……!」と吠え立てた。「だって半年も会えなかったし、まだ全然摂取量が足りてねーんだもん!」と彼は悪びれなかったが。
(ううっ、こ、婚約者ならこの程度当たり前……なのか?)
あまりどぎまぎさせないでほしい。これは冷静に決めたことだと断言するのが難しくなってしまう。いずれにせよ婚約を解消するなどもう不可能なことだけれど。
ブルータス整髪店の鍵をかけるとルディアは膝に力をこめ、ぎくしゃくした足取りで歩き出した。夏空は今日も晴れ渡り、災いや不幸など一切起こらなさそうだった。
******
「えっ……? タルバさん、今なんて……?」
驚き目を瞠るガラス工をまっすぐ見つめ返せずにタルバは斜めに顔を背ける。問うてきたバジルにどう説明するべきか悩みつつ「悪い。断りきれなかった」となるべく誠実に謝罪した。
タルバがいつもの納品日通り砦に出向いたのは今朝のこと。こちらの届けた美しいレースガラスの数々をつまらなさそうに受け取った退役兵のまとめ役にこう言われた。「ちょうど退屈してたんだ。これ作った奴呼んでこいよ」と。
表向きの立場がどうであれ「親」が幹部クラスでもない限り蟲に上下関係はない。これまでタルバができないと断った要求はすぐに取り下げられてきた。だが今日は違った。ドナの蟲たちの中心であるゴジャが「いいから呼べってんだよ!」と暴れ出したのだ。この頃言動の粗暴さに拍車がかかっているなとは思っていたが、ついに脳まで酒が回ったものらしい。ゴジャの仲間もゴジャを諫めず、タルバは数に押し切られる形で工房へ引き返してきたのだった。
「ラオタオ将軍が長いこと不在だろう? それで連中、調子に乗ってるんだと思う」
「あ、ああーなるほど……。均衡が崩れるとそういうことが起きるわけですね……」
ハハとバジルは引きつった笑みを浮かべた。可哀想になるほど額は真っ青で、彼が身の危険を感じているのがひしひしと伝わってくる。そりゃそうだ。退屈だからなんて理由で呼び出され、捕虜が身構えぬはずがない。
「わかったって言わなきゃ皆でここまで乗り込んできそうだったからさ」
ごめんともう一度頭を下げる。「なるべくお前に迷惑かけたくないって思ってんだけど……」と。
「だ、大事なものしか置いてないんで工房で狼藉を働かれるのは困ります! タルバさんの判断は間違っていませんよ!」
お人好しのガラス工はぶんぶんと首を横に振った。難しい状況だったことに十分な理解を示してくれて、ありがたさに痛み入る。
「で、でも、そうですか。退役兵のうじゃうじゃいる砦に……砦に行かなきゃいけないんですね……」
そう呟くバジルの声は震えていた。歯の根がカチカチ鳴る音を耳にしていると申し訳なさが極まってくる。やはりきっぱり断るべきだったろうか。「同胞の頼みを聞けないのか!?」と暴走しそうな気配があったから承諾してしまったけれど。
仕方ないことなのだろうが蟲たちは被害妄想気味だ。レンムレン湖に至れぬ悲しみを天帝にぶつけ、十将にぶつけ、余命幾許もない自らを哀れんでいる。
タルバとてそういう感傷がないではない。だが彼らのように残された時間を浪費する気にはなれなかった。たとえ仲間から「ともに痛みを分かち合おうとしない冷血漢」と蔑まれても。
「安心しろ。何があろうとお前には手出しさせない」
不安げなガラス工に約束するときっぱり告げる。ジーアンの男に二言はないと。
バジルは大切な友人であり、ガラス作りを教えてくれた恩人だ。彼が不利益を被るような事態にはしたくなかった。学びたいことはまだたくさんある。敵である己の師となってくれた男をつまらぬ些事で失うわけにいかない。
「タルバさん……」
腰の曲刀を掴んだタルバを見てバジルは小さく息を飲んだ。彼はぎゅっと唇を引き結ぶと握り拳を持ち上げて意外に逞しい胸を叩く。
「ぼ、僕だって防衛隊の一員です! たまには兵士として根性のあるところをお見せしますよ!」
奮起したバジルは「行きましょう、彼らの城に!」と宣言した。火を入れる直前だった炉の傍らに薪を積み、ガラス工は手早く服装を整える。
「ありがとう。ごめんな、バジル」
「タルバさんの謝ることじゃありませんって! むしろいつも、面倒事を引き受けさせちゃってすみません」
決心の鈍らぬうちに出かけたいのかバジルが肩を押してくる。工房の戸締りを終えるとタルバは異国の友人と坂道を歩き出した。
ジーアン織のカフタンを着ていても彼はジーアン人ではない。ちゃんと自分が守ってやらねば。蟲たちは普通の人間を一段低く扱うことが多いのだから。
(特にゴジャは学者だろうと職人だろうと斬りたいときはお構いなしだしな)
刃を抜かずに帰ってこられるように祈る。じきに昼時だというのにドナの街はうらぶれて、楽しげなざわめきなど一つも聞こえてこなかった。
******
何かあってもタルバが側にいてくれるから大丈夫。今までだって彼のおかげでなんとかなってきたじゃないか――。そう信じてやって来た砦なのに、現実はまったく大丈夫ではなかった。到着するなり屈強な男に両脇を押さえられ、連行された中庭で周囲をぐるりと酔漢に囲まれ、バジルはひええと縮こまる。
「ふーん、こいつがれえのアクアレイア人か」
「俺見たことあるぜ。バオゾの祭りでよう……ヒック」
幕屋の林立する中庭には総勢五十名ほどの退役兵が集まっていた。全員隣に一人ないし二人の娼婦をはべらせており、御用達と思しき商人も控えている。
鍛え上げられた遊牧民らの物見高な視線に晒され、正直言って生きた心地がしなかった。腰に武器を結わえた者は少なくなかったし、彼らの傍若無人さを示すがごとく辺りは一面荒れ放題だ。仮にも軍事施設の内部だというのに灌木は根元から折れ、菜園は踏み荒らされ、そこら中に酒の空瓶が転がっている。そして酒瓶の傍らには泥酔して倒れた者、着衣の乱れたうら若き娘たちが介抱らしい介抱もされずに捨て置かれていた。
酒池肉林の宴に興じる彼らの口からまともな台詞が出てくるとは思えない。そしてその通り、バジルはさっそく無茶な注文を申しつけられたのである。
「お前がバジル・グリーンウッドか。何か面白い芸をして俺たちを楽しませろよ」
高慢に笑ったのは宴会場の真ん中で長椅子にふんぞり返っていた男だった。逞しい肩に値の張りそうな毛皮の外套を羽織っているが、大事に着る気がないのがわかる汚れ方をしている。扱いが乱暴なのは人間に対しても同じようで、彼はバジルに突然呼びつけた非礼を詫びるどころか名乗りさえしなかった。
「おいゴジャ、そんな曖昧な言い方じゃバジルが何をどうすりゃいいかわかんねえだろ」
一緒に退役兵たちに囲まれていたタルバが嘆息混じりに抗議する。ゴジャと呼ばれた無精ひげの男は太い眉をしかめ、「ああ?」と威圧的に凄んできた。
「天帝の生誕祭ではできたことが、ここじゃできねえってのかよ?」
数歩の距離にいるはずなのに酒臭い呼気が鼻先まで漂ってくる。不快を堪え、バジルは「ええと」と返事した。
「あのー、今日はなんの道具も持ってきていないですし……、こういうことはアイデアが湧かないとどうにも……」
控えめに彼の希望を叶えるのは難しい旨を告げる。するとゴジャはぎろりと血走った双眸を吊り上げた。
「できるできねえを聞いてんじゃねえ! 俺はやれっつってんだ!」
怒鳴り声にヒエッと身をすくませる。タルバがさっと前へ出てバジルを背中に庇ってくれたが、酔っ払いたちはどうしても彼らの道理を通さなければ気が済まないようだった。
「俺たちはなあ、最後にパーッと楽しみてえのよ。けど女と酒だけじゃ大して盛り上がらなくなってきた。わかるか? あ? 別に余興ならアクアレイア人を嬲り殺す余興だって一向に構わねんだぜ」
そうだそうだと酔いどれ退役兵たちが「楽しませろ!」「見世物をやれ!」と合唱を始める。彼らに奉仕する娼婦や商人たちが青くなってもお構いなしだ。なんて短絡的で暴力的な連中なのだろうか。同じジーアン人なのに利発で気のいいタルバとは大違いである。
息を飲み、バジルは視線をさまよわせた。相手は多勢でしこたま飲んでいて言葉が通じそうにない。なんとか適当にご機嫌を取れってこの場を無事に切り抜ける手段を見つけ出さなくては。
だが悲しいかな、中庭にはヒントにできそうなものはなかった。天帝に余興を命じられたときは彼が理学や工学好きであると知っていたから良かったが、享楽に飽きただけの無学な退役兵たちに何をしてやればいいかなど皆目見当もつかない。
「え、えーと、ゴジャ……様は、どういった遊びがお好きなんでしょう?」
おそるおそる尋ねるとゴジャは「面白けりゃなんでもいい」と一番困る返答をよこす。わかったのは彼らにあまり難解な出し物は向かないということだけだった。
「お、面白ければ。面白ければ、ですか……」
困り果てているバジルを見やってタルバが小さく息をつく。退役兵の中では若く下っ端に見えるのに、青年は臆することなくゴジャに頼んだ。
「なあ、すぐには思いつかねえみたいだからちょっと砦の中を散歩してきてもいいか? ここでお前らに囲まれてるよりそのほうがひらめくと思うんだ」
ありがたい助け船にバジルはおずおず顔を上げる。
「そ、そうさせていただけると助かります。歩き回っているうちにお気に召す考えがまとまるかも」
するとゴジャはたちまち黒い眼を歪ませた。
「砦内を散歩だと?」
不機嫌に眉根を寄せた男はいいとも悪いとも言わない。彼の顔色を窺うほかの退役兵たちも無言を保ち、奇妙な沈黙が続いた。
ゴジャの出方次第ではおそらく合唱程度の威嚇では収まらなくなるだろう。音を立てぬように息を飲み、バジルは蛇に睨まれた蛙状態で返事を待った。
「まあいいんじゃないですか? 天帝陛下の宴でも防衛隊には作戦会議の時間が与えられていたわけですし」
と、思わぬ方向からもう一隻救援船がやって来る。声の主はゴジャの背後に腕組みして立つ黒髪の若者だった。ザルなのか飲んでいる量が少ないだけかは不明だが、佇まいに知性と品性が残っており、顔つきもまともそうである。
「彼一人自由に歩かせるくらいどうってことないでしょう。ま、ラオタオ将軍にばれたら叱られるかもですが」
「ふん、まあ、ウヤがそう言うなら行かせてやる。けどてめえ、散歩だなんて嘘ついて逃げ出したらぶっ殺すからな!」
どうやらこの場は下がっていいということになったらしい。
「は、はい! もちろん! ありがとうございます!」
なるべく愛想良く感謝を述べ、バジルはそそくさと退役兵の作る人垣を擦り抜けた。タルバもバジルを守るようにぴったり後ろについてくる。
作り笑いは崩さないまま建物内へ通じる出入口へ急いだ。石の砦をしばらく歩いて人の気配を感じなくなった頃、ようやくバジルはへなへな座り込むことができた。
******
分厚く冷たい石壁に並ぶ矢狭間から街を見やる。砦は小高い丘の上にあり、依頼を無視して脱出などしようものならここから背中を射られるのだろうなと想像はたやすくついた。
「ごめんな本当、嫌な思いさせて」
盛大な溜め息ともにタルバがそう詫びてくる。当直の兵士も誰もいない幕壁内の仄暗い通路を歩きつつ「いえ、タルバさんの謝ることじゃないですよ」とバジルは友人をねぎらった。
「酔ってなきゃゴジャもそう悪い奴じゃないんだが、色々あってあいつも皆も荒れててさ。身内には八つ当たりできねえから、代わりにお前にむちゃくちゃ言ってくるんだと……」
はあ、とタルバは再び深く嘆息する。そんな彼にバジルは少々引っかかっていたことを尋ねた。
「タルバさんはあの人と前からお知り合いなんですか? 割と気安く会話してましたよね。特に目上の男性を相手にするって感じでもなく」
ああ、と青年が目を逸らす。タルバは少し考えてからバジルの質問に答えた。
「俺たち退役兵は皆、時々特殊な任務を請け負うことがあったんだよ。だからお互いよく知ってるし、どっちが上官でどっちが部下ってこともないんだ」
詳しいことは話せないがと首を振られ、それ以上聞けなくなる。特殊な任務とはなんなのか気になったがタルバの口は重く閉ざされたままだった。
(そうかあ。タルバさん、ただの衛兵じゃなくて特別な衛兵だったんだなあ)
それもそうかと一人頷く。軍を抜けた後こんな街に呼ばれて好きに暮らせるのだ。きっと彼は重要極まりない役目を果たしてきたに違いない。……にしてもただれた生活を送る砦の退役兵たちがタルバと同じだけ働けるとは思えないが。特殊任務には頭脳や忍耐が必要でなかったのだろうか?
「とりあえずあいつらに何してやるか考えなきゃな。面白いことやれって言うほうは簡単でいいぜ」
やれやれと彼が肩をすくめる。バジルも今は目先の問題をなんとかするのが先決かと意識を切り替えた。
「本当にそれですよ。ちょっとやそっとじゃ満足してくれなさそうですしねえ。大掛かりで派手な出し物にしなきゃだろうなとは思いますけど……」
「なんか思いつきそうか?」
「いや、厳しいです。とにかく使えるものが見つからないと」
それから二人は城塔を上ってみたり、歩廊を往復してみたり、馬場や跳ね橋や石落としまで覗いたが、良い着想は得られなかった。最初に歩き始めた幕壁通路は既に通りすぎていて、このままでは成果なく中庭に戻る羽目になりそうである。
「あの、ジーアン人ってどんなとき楽しいってなるんですか?」
バジルは痛む胃を押さえ、タルバに尋ねた。
「……まあそうだな、宴会のときとかだな」
と彼も神妙な顔で答える。
「え、宴会以外では?」
「うーん。狩りとか競馬とか?」
「どっちも砦じゃ無理ですね……。ほかはどうです?」
「すまん。俺も娯楽にはうとくて」
「ううううう」
タルバに聞いてもまったく参考になる話が出ず、唸るしかできない。彼曰く「身体を動かせたほうが頭を空にして楽しめるんじゃないか」とのことだったが、思案はますます混迷を極めるのみだった。自分が何か作るよりもサーカスや劇団を呼んだほうが効果あるのではなかろうか。おそらく求められているのは曲芸的、実演遊戯的な何かなのだ。
(せめて工房に道具を取りに帰れたらなあ)
壊されるかもと懸念して手ぶらで来たのが誤算だった。ヤスリや錐があればまだ戦えたかもしれないのに。今日納品した物の中に使えそうなものはあっただろうか? 退役兵はレースガラスでさえ見飽きたと言いそうだが――。
「あっ」
妙案が一つ思い浮かんだときだった。これだけ歩き回っても一人の歩哨とも出くわしていなかった手抜き防備の砦で人にぶつかったのは。
「きゃっ!」
「うわっ!」
衝撃に一歩退く。見通しの悪い曲がり角を曲がってきた下働きらしき女性はたどたどしいジーアン語で「すみません!」と詫びてきた。どうやら退役兵に粗相をしたと勘違いしたようだ。深々と頭を下げられ、バジルは「いえ、平気です!」と慌ててアレイア語で返す。どこか見覚えのある暗褐色のカートルを着た女性はそれを聞き、おっかなびっくり顔を上げた。そうしてもっとバジルを驚かせたのだった。
「えっ……!? ケ、ケイトさん!?」
「あ、あなた防衛隊の……!」
ケイトはバジルの脇に立つタルバに気づいてハッと構える。
「あっ、大丈夫です! 彼は友達……というか弟子? みたいなアレなんで!」
そう彼女を落ち着かせ、バジルはもう一度正面からケイトを見つめた。自分でもよくすぐ名前が出てきたなと思うほど彼女は変貌を遂げている。長かったダークブラウンの髪はばさりと切られ、白いうなじが露わだった。こけていた頬に肉がつき、双眸に力が戻ったのはいいが、女神然とした美しい顔に以前はなかった切り傷や火傷の痕が増えているのが痛ましい。もしやここの退役兵にやられたのかと腹の底がひりついた。
「ケイトさん、ドナに帰ってたんですね……」
「ええ。あのままアクアレイアにいてもしょうがなかったし、私にもまだ何かできることはあると思って。あなたのほうこそ何故ドナに? それにその服はジーアン人のものじゃないの?」
「あ、僕は捕まっちゃったっていうか、技術者として働かされているっていうか……。要するにちょっと待遇のいい捕虜で」
「まあ、そうなのね」
ケイトの受け答えはしっかりしていた。取り乱したところもなく、恋人の仇にナイフを突き出してきた復讐者の面影は見られない。
「なんだバジル? 知り合いか?」
と、後ろからタルバが尋ねてきた。アレイア語は理解できずとも漂う空気に異質なものを感じたらしく、青年は警戒気味にケイトを見やる。
「あ、ええと、彼女はケイトさんと言って……」
なんと紹介したものかバジルはやや言葉に詰まった。ケイトは友人ではないが、単なる知人とも違う。敵か味方かで示すのも難しい。できれば敵対したくない相手だけれど。
「ぼ、僕が、今度会ったら絶対に力になろうと思っていた人です」
「……!」
恩義を重んじるジーアン人はそのひと言でなんとなく察してくれたようだ。深くゆっくり頷かれ、「わかった」と了解される。
ちょっと恥ずかしいこと言ったかな、とケイトを振り向けば彼女はきょとんとこちらを見つめ返していた。どうやら彼女にはもっと簡単なジーアン語しか扱えないようである。
「なあバジル、彼女にも余興のこと相談してみたらどうだ? ここで小間使いしてるならゴジャたちの趣味には詳しいはずだろ?」
「あ、そうですねえ! どういう遊びに飽きちゃってるかは是非教えてほしいところですねえ!」
緊張気味にタルバに注意を向けるケイトにバジルは「ちょっとお願いがあるんですが」と切り出した。ゴジャの命令で見世物をしないといけなくてと事情を明かすと彼女は「た、大変ね」と同情を示してくれる。
「でもごめんなさい。砦のことを話すのはいいんだけど、そろそろ戻らないといけないの。下働きのドナ人が集まってる棟があるから、そこまでついてきてくれないかしら?」
そのほうが落ち着いて情報交換できると思うとケイトが言った。願ったりの申し出にバジルは「はい!」と勇んで飛びつく。
「助かります! 本っ当に助かります!」
「相変わらず素直な性格してるわね。さあ、厨房はあっち。行きましょう」
ケイトはまだ少しタルバが気になるようであったが何も言わずに彼を一緒に連れて行ってくれた。歩廊からがらんと広い主館を抜け、隣接する厨房棟まで急ぎ歩く。
さすがに使用人エリアまで来ると人の気配は増え始めた。夕餉に向けて具材の下ごしらえをするのがケイトの仕事らしく、人目につかないよう裏口で待つバジルたちのもとに彼女は大籠いっぱいの人参を運んでくる。
「皮むきしながらでいいかしら?」
「もちろん! 僕もお手伝いします!」
「なんだ? この人参やっつけりゃいいのか?」
ドナ人とアクアレイア人とジーアン人が肩を並べて皮むきするという奇怪な共同作業はこうして始まった。まさかタルバまで加わってくると思わなかったらしく、ケイトは目を白黒させる。
「ジ、ジーアン人にこんなことさせていいの?」
「えっ? やってくれてるんですし、別にいいんじゃないですか?」
それより早くドナのことを聞かせてほしいと乞えば、ケイトはタルバに目をやったままごくりと息を飲み込んだ。視界の隅の気になる人物はさておいて、とにもかくにも彼女は静かに語り始める。退役兵が住みだしてからドナがどう変わったか。その苦難の連続たる道のりを。
******
はあ、と小さく嘆息し、ウヤは中庭の惨状を一瞥した。鼻を折られた娼婦がしくしく泣いている。散々飲まされ、小突き回され、もう勘弁してくださいと土下座している商人も。
こうなったのはガラス工を待ちかねてゴジャがまた暴れたせいだ。最近の彼はまったく自分を制御できなくなっている。暴力が仲間たちにまで及ばぬ限り咎めだてするつもりはないが、見るに堪えない醜態なのもまた事実。退役兵の監視役など断れば良かったなと今更ながら後悔した。ほかならぬファンスウの頼みだから引き受けたけれど、こんな集団にあまり長居したくもない。
「おい、ウヤ! あのチビまだ帰ってこねえぞ!」
「天帝陛下がお待ちになった時間はもっと長かったですよ。どうせ逃げられやしないんですし、居眠りしながら待つくらいでちょうどいいのじゃありませんか?」
なるべく刺激しないようにウヤはゴジャをたしなめた。「親」の自分が諭せば彼はまだ黙る理性を保ってくれる。近い記憶を持つということは案外心を縛るのだ。ウヤに「ドナに潜り込み、何かあれば報告を送ってくれ」と極秘の指令が下されたのも蟲たちの反抗を煽っていたのがゴジャだったからだろう。古龍は自由を与えるふりして管理しようと考えたのだ。管理不可能になるまでは。
(まったく子供みたいな自暴自棄はほどほどにしてほしいね。まだ三十年程度しか生きていない彼らでは仕方ないのかもしれないが、こんなことをしている場合ではなかろうに)
離反した蟲はほとんどが第十世代、最後の分裂で生まれた者だった。残りも全員第九世代で精神の未熟な者ばかりである。彼らは軍にいた頃から己の受け継ぐ記憶の上にあぐらを掻いてろくな修養をしなかった。そして今は同じ記憶に「あいつらばかり長生きして」と恨みつらみを見出している。
ゴジャは特に天帝や十将を良く思っていないようだった。寿命の話を知ったとき、彼はしきりに「騙された、騙された!」と喚いていた。それからすぐに若い蟲への呼びかけが始まったのだ。自分たちにも人生を謳歌する権利がある、一人一人が帝と同じに振る舞っていいはずだという浅薄な呼びかけが。
賛同したのは二百名余り。全員揃ってドナの街にやって来た。最初は彼らも比較的穏健だったように思う。何しろ願えば願ったものが調達されてくるのである。酒や人間だけでなく贅沢品の数々までも。
費用負担をしているのが同じ第十世代でありながら将軍として輝かしい道を歩むラオタオだと聞いたとき、ゴジャは得意満面だった。狐をもっと困らせてやろうと高級娼婦を倍に増やした。アクアレイアの商人が多少値をふっかけてきても喜んで頷いてやったくらいである。だが彼が快くいられたのはそこまでだった。
砦にはもう初めの半分も蟲がいない。虚栄に疲れた者たちはほかの安らぎを手に入れて郊外へ出ていったからだ。
「小間使いの女に惚れた。落ち着いた場所で彼女とゆっくり暮らしたい」そう言って一人目が抜けたとき、ゴジャには引き留めることができなかった。来る者を増やす力はあっても去る者を止める力は彼には備わっていなかったのだ。一人抜けると二人、三人と後に続き、あっと言う間に歯止めのきかない流れになった。仲間の門出を祝福する度量があればまた違ったのだろうが、ゴジャは彼らの離脱を小さな裏切りと見なしていた。
同じ考えを有する仲間が減っていく不安。それが彼の弱い心を蝕んでいる。まとまりを欠けば天帝に排除される可能性も高まる。だからゴジャは何をしていても気が休まらぬのだ。ウヤから見れば完全な自業自得だが。
「なあ、やっぱ遅ぇよ。タルバが逃がしやがったのかもしんねえ。あいつ俺のこと前からちょっと舐めてやがるしな」
がりがりと爪で太腿を引っ掻きながらゴジャがウヤを見上げてくる。冷めた思いが滲まぬように「考えすぎですよ」と笑った。
「気になるなら私が見てきてあげましょう。きっとどこかで途方に暮れているだけと思いますが」
踵を返し、ウヤはゴジャの腰かけた長椅子を離れる。邪魔者が背中を向けた途端、腹心の座を狙う馬鹿者どもが一斉にゴジャに群がった。それらの気配を丸ごと無視して中庭を歩み去る。ガキどものお守りも大変だ、とウヤは胸中で毒づいた。
******
「……そんな感じで妥協だったり打算だったり、退役兵と家庭を持った女性は多いの。もう一度港町としてやっていくにはあまりにも失ったものが多すぎるでしょう? 街の男手もほとんど残っていなかったし、奴隷でいるよりは妻に格上げされたほうが安全に暮らせそうだからって。中には本気で情が芽生えて睦まじくやっている子もいるわ。ドナ人と結婚したジーアン人には横柄な人が少ないみたい。ましな人から抜けたおかげでここは煮こごりの巣窟になってるけどね」
「ううっ、じゃ、じゃあ僕の出し物は一番やばい人たち向けに考えないと駄目ってことですね……?」
「まあそうね。こっちが何もしていないときも突然怒鳴り散らしてくるような人たちだから、大変だと思うけど……」
ケイトの言にバジルはごくりと息を飲む。参考になる話を聞きたかったのに身震いするばかりでどうしようもない。聞かなければ良かったと早くも後悔が押し寄せた。
「案はあるの? 私には余興なんて思いつかないけど、受けそうかどうかなら答えられると思うわ」
ケイトは親切にそう申し出てくれる。こちらに対して思うところは多々あるだろうに心根の優しい人だ。
「う、うーん。思いついたと言えば一つ思いついたんですが、一日では準備ができない系でして……」
そう、とケイトが眉根を寄せる。話し込む間も彼女の荒れた白い手は淡々と人参の皮を剥き続けた。その隣ではケイト以上の手早さでタルバが野菜の嵩を減らし続けている。アレイア語のわからない彼は「俺が作業を頑張るから二人は気兼ねなく話し合え」と集中してくれているのだ。
「あなたのその、お弟子さんはどう言ってるの? こんな雑用手伝ってくれるくらいだし、相談できない相手ではないんでしょう?」
「それがその、彼にも退役兵たちの好みはわからないそうで……。ものすごく真っ当な人なので……」
言外に彼では「煮こごり」の気持ちが推測できないのだと告げる。ケイトは静かに「そうね。ジーアン人同士だって善人と悪人はわかり合えないのが普通だわ」と呟いた。
「ドナ人を気にかけてくれた人たちは皆とっくに砦を出てるしね……」
彼女が髪を切ったのはある退役兵に勧められてのことだったらしい。「お前は見目がいいから気をつけたほうがいい」とわざわざアレイア語のできる人間に頼んで伝えてきてくれたそうだ。それでも言い寄ってくる男は絶えず、自ら顔を傷つけるに至ってようやく受難は去ったらしいが。
ケイトはさらりと、本当にさらりとそれをバジルに教えてくれた。多分彼女は生涯夫や恋人を持つ気がないのだろう。だから簡単に頬を焼くなどできるのだ。ドナのために尽くすのも償いの意味が大きいに違いない。
(せっかく同じ街にいるんだし、ケイトさんのために僕も何かできたらいいんだけどなあ)
生まれ故郷がこんな風になって、彼女はさぞかし胸を痛めていることだろう。ドナを元通りの港町に戻すことはできなくても、せめて暴力的な退役兵たちを大人しくさせられたら――。
「探しましたよ。こんなところにいたんですね」
と、前触れもなくジーアン語で呼びかけられてバジルはびくりと全身を跳ねさせた。開いた手から人参が滑り落ちる。振り向けば厨房棟の裏口に、さっき中庭で見かけた退役兵の一人が姿を現していた。
「ゴジャが癇癪を起こしましてねえ。すぐに戻ってもらえますか?」
有無を言わさぬ強い口調に息を飲む。黒髪のジーアン人はタルバをかわし、こちらの都合も聞かずにバジルの腕を掴んだ。
「ウヤ! 待ってくれ、俺たちまだ相談中で」
「でももう辛抱できないみたいで。すみません」
形だけの謝罪とともにバジルはひょいと青年の肩に担がれる。表口に回れば中庭はすぐそこだ。このまま連れて行かれたら惨劇しか待っていないのは目に見えていた。
(ヒエエ! まずいまずい! まだ全然ちゃんと考えられてないのに!)
「あの、あの、主館! 隣の主館通ってってもらっていいですか!?」
あわあわと必死で時間稼ぎを図る。ウヤは「そのくらいお安いご用です」と気前良く請け負ってくれたが、代わりに歩行速度を倍に上げられた。
(ああああ! 意味なし!)
暴れても状況を悪化させるだけだろう。こうなればもう腹を決めるしかない。一瞬いいなと思っただけの余興案だがなんとかこれで押し切らなくては。
血の気が引くのをぐっと堪え、バジルは可能な限りアイデアを膨らませた。拉致された己の背後からは焦りの滲む足音が二つ大急ぎで追ってきていた。
******
考えすぎだとウヤが言った通り、アクアレイアのガラス工もタルバも自分を無視して逃げたのではなかったようだ。先刻と同じくゴジャは戻ってきた二人を仲間に囲ませる。誰がこのドナを仕切っているか、彼らには一度わからせてやらねばなるまい。
「どうだ? 俺たちの喜びそうな見世物は思いついたか?」
青ざめきったアクアレイア人に問いかける。「い、一応一つだけですが……」と子供みたいな顔立ちのガラス工は声を引きつらせた。
「よし、それじゃとっとと準備しろ」
顎で行けと命令する。しかしバジル・グリーンウッドは「ええと、その」とわちゃわちゃ指を踊らせるだけだった。
「そのー、即席ではやっぱりちょっと厳しいんで、工期をいただきたいんですが……」
「ああ?」
どうやらガラス工はすぐには要求に応じられないと言いたいらしい。
「てめえ今思いついたっつっただろうが」
睨みつけると彼は怯えて弁明した。曰く「設計や設営に時間がかかっちゃうものなんですう」とのことである。
「んなこと言って何もひらめいてないだけじゃねえのか? 誤魔化そうってもそうはいかねえぞ」
「そんなことはありません! な、内容は今説明できます! 砦の空いているスペースを使ってアトラクションを作りたいなと」
「はああ? なんだそのアト……アトラ……くそッ! わっかんねえ専門用語使うんじゃねえ!」
がなり声にガラス工は頭を伏せる。ガチガチと歯を鳴らしながら彼は「うう、今回のアトラクションっていうのはつまり迷路のことで」と説明した。
「迷路ォ?」
「はい。以前レースガラスと一緒に水銀鏡を納めさせていただいたかと思うんですが、その鏡をもっとたくさん作って迷路の壁にして、主館を迷宮化しようかと……」
バジル・グリーンウッドはしどろもどろに計画を打ち明けた。迷宮に目印をつけておけば誰がどこまで辿り着いたかすぐわかる。最初にゴールした人間に報奨を与えるのもいいだろう。勝敗を競わないならくじでも置いて罰ゲームや謎解きを楽しめばいい。一人で攻略に臨んでもいいし、二人でペアを組んでもいい。鏡の壁は組み替えることができるから何度だって遊べると。
ガラス工を取り巻く人垣から「へえ」と二、三の声が上がった。面白そうだという期待が場の雰囲気から伝わってくる。砂糖水でガラスを消すよりずっといい趣向じゃないかとゴジャもわずかに鼻を鳴らした。
「工期はどのくらい必要なんだ? 一週間か? 二週間か? それくらいなら待ってやる」
だがバジル・グリーンウッドは空気の読めない男だった。こちらは明日をも知れぬ身なのに、気の長いことをほざいてくれる。
「ええと……最低でも二ヶ月は……」
「に、二ヶ月ぅ?」
ゴジャは大きく嘆息し、腕を払いつつ首を振った。話にならない。そんなに待てるはずがない。この男は今すぐ退屈を蹴散らすために呼ばれたことをてんでわかっていないらしい。
「二週間でやれ。できないならお前は役立たずだ。俺たちがお前の楽しみ方を考えてやる」
この却下にガラス工はうろたえた。「に、二週間じゃワンブロックくらいしか……!」と彼は懸命にどの工程にどれくらい時間を要するか懇切丁寧に捲くし立ててくる。
だがもうゴジャに聞く気はなかった。彼は要望に応えることができなかった。それがすべてだ。役立たずには役立たずの運命が待っている。このガラス工がいなくなればタルバもきっと目を覚まして砦の仲間に加わるだろう。
「よーし、久しぶりに弓をやるか! このチビの頭に酒瓶を乗せろ! 見事に俺が射落としてやる!」
ゴジャがそう叫んだのでガラス工はヒッとタルバの陰に隠れた。同胞のくせに砦の暮らしに興味も示さぬ薄情者は腰の曲刀に手をやりながら双眸をきつく尖らせる。
「おい。お前それ、こいつが俺の同居人だってわかって言ってるんだよな?」
反抗的な態度だった。今こそ蟲は――恵まれなかった第十・第九世代の蟲は――一致団結しなければならないのに、なんて勝手な男だろう。仲間なら賛同するべきではないか。仲間の味方をするべきではないか。それなのに。
(やっぱりタルバも俺たちを蔑んでやがんだな。俺たちよりもドナの女なんか選んだあいつらみたく……)
思考の支離滅裂さにゴジャは自分で気がついていなかった。タルバの事情や心境をタルバの身になって考えることができなかったのに、胸に巣食った不安が大きく重すぎて、呼び起こされた妄想を真実だと思い込んだ。
実際それはゴジャにとっては真実味があったのだ。それに誰かに不当に攻撃されていると思い込んでいるうちは、己の選択が失敗だったかもしれないことについて忘れていられた。
「同居人だからなんだ? こいつは俺たちがドナに呼んだ職人だ。こいつには俺たちに従う義務がある。それを果たせなかったんだから、どうされても文句は言えねえだろ」
ゴジャは己にガラス工を裁く権限があることを主張した。アクアレイア人やドナの住民たちと違い、彼はラオタオの持ち物ではない。ゴジャたち退役兵が天帝から直接賜った贈り物だ。確かにタルバも権利の一部は持っているのかもしれないが、そんなものはせいぜい二百分の一に過ぎなかった。
(そうだ、正しいのは俺たちだ。タルバは自分のことしか頭にねえ。蟲全体のことを考えてるなら俺たちと同じ意見になるはずだ)
青年の手はまだ曲刀を握りしめたままだった。緊迫感が高まるにつれゴジャのほうでも身構えずにはいられなくなってくる。添えるだけ指を添えておくか。そう腕の位置を変えたときだった。タルバが鞘から刃を引き抜いたのは。
「……ッやる気かてめえ!?」
長椅子を蹴って跳ね起きる。成り行きを見守っていたほかの蟲たちも一斉に武器を取った。だが斬り合いが始まる前に皆動きを止めてしまう。何をやっているのだとゴジャもぽかんと刃の向きを変えた青年を見やった。
「バジルは俺の師で恩人だ。罪過があるなら俺が罰を引き受ける」
タルバは曲刀の切っ先を己の腹に向け、逆手に持った柄をゴジャの手に押しつけてきた。「殺せ」ときっぱり告げられる。恩人を斬りたいならまず同胞殺しの不名誉を背負えと。
「……ッ」
瞬発的にゴジャは曲刀を払いのける。衛兵用のシンプルなそれは乾いた音を立て、散らかった地面に転がった。
「恩人? そいつ防衛隊の隊員だろう? それがなんで恩人になる?」
問いただす声には抑えきれない怒りがこもる。防衛隊はジーアンを騙そうとした過去のある一団だ。そんな奴に恩義を感じるなどどうかしている。タルバは頭がおかしくなったとしか思えなかった。今だってバジル・グリーンウッドは青ざめて目を回すばかりなのに、命をかける価値が一体どこにあるというのだ。
(くそ、脅せば俺がびびって引っ込むと思ったか?)
ほかの仲間が見ている前で引き下がるわけにいかない。そっちがそのつもりならとゴジャは腰の曲刀を抜き、正面に突き出した。目と鼻の先で止められた鋭い刃にタルバがやや顔をしかめる。
「死にてえなら殺してやる。どうせ近いうち死ぬんだ、皆」
日焼けした逞しい首の側面に切っ先を押しつけた。ガラス工がタルバの前に飛び出すのと、ウヤがゴジャの武器を押し下げるのが同時だった。
「熱くなりすぎですよ、ゴジャ! さすがに仲間に武器を向けるのはいただけません!」
殺しなどして十将が調査に来たらどうするのだと小声で問われ、ハッと己の行為が生み出す不利益に気づく。ドナの蟲が仲間割れしていると勘違いされては堪らない。弱みにつけ込むのが得意な名将は多いのだから。
「けどよ、ウヤ」
舐められたままでは示しがつかない。言葉にはせず訴えた。己にも退役兵をドナに連れてきた責任というものがある。あんたならわかってくれるだろう、と。だがウヤはいつもと同じに平和路線の解決を勧めてくる。
「鏡の迷宮、いいじゃないですか。これ以上ない贅沢ですよ。請求書を見たらラオタオ将軍は引っ繰り返るかもですけど、それもまた見ものでしょう?」
「…………っ」
ウヤに説得されると急に意志が揺らぎだす。彼の発言は有益なものだと記憶が裏付けているからだ。古い記憶であればあるほど生々しさは薄れるけれど、「親」のウヤにはろくに逆らえたことがなかった。特にドナへ来て、仲間だと思っていた連中がぽろぽろ抜け始めてからは。
「…………」
長く苦しい沈黙の後、ゴジャは「わかったよ……」と呟いた。虚勢を張って大声で吠えるように怒鳴りつける。
「二ヶ月だけ待ってやる。ただしつまんねえもん作ったらガラス工の命はないと思え!」
ゴジャが曲刀を鞘に収めるとタルバやアクアレイア人だけでなく退役兵たちの間からも安堵の吐息が漏れ聞こえた。誰も彼もゴジャが傍若無人に過ぎると無言で責めてくるようである。
「そ、そうだよなー、本気で仲間を斬るわけないよな」
「はは、びっくりさせやがって」
気心の知れた数人がぽんと肩を叩いてきたが、座って飲み直す気にもなれずゴジャは無造作に彼らの手を振り払った。荒々しい足取りで中庭を突っ切り、己のゲルに向かって歩く。
「ああ!? 何じろじろ見てやがるんだ!?」
その途中、主館の陰からこちらを覗く小間使いに気がついてゴジャは足元の酒瓶を蹴り飛ばした。ゴロゴロ転がって別の空瓶に衝突したそれは不快な高音を響かせる。
「……っ!」
すみません、と傷女は裏に引っ込んだ。膨らむばかりの苛立ちを持て余し、ゴジャは薄暗いゲルに入る。
外は妙に静まり返って誰もいないみたいだった。不貞寝を決め込んだ長椅子の上でゴジャはしばらく瞼を閉じたまま起きていたが、誰一人声をかけにくる者も様子を見にくる者もおらず、それが無性に気に入らなかった。
******
バジルたちが平和な静けさを保つ郊外のガラス工房に戻ってきたのは夕暮れ近くのことだった。理不尽かつ凶暴な人間の存在しない空間にようやくほっと息をつき、緊張の糸を緩める。
「うわーん、良かった! なんとか無事に帰ってこられましたねえ!」
涙目でバジルはタルバの手を取った。「本当に何もかもあなたのおかげです! ありがとうございます!」とぺこぺこ頭を下げれば彼は少々ばつ悪そうに顔を背け、「そんな何回も言わなくていいって。っつーかあれはゴジャの無茶振りが悪いだろ。こっちが謝らなきゃいけないくらいだ」と首を振る。
「いやいや、タルバさんは何も悪くありませんよ! 力を誇示しなきゃ自分を保てないような人間は何してもダメって僕の大事な人も言っていましたし!」
仲間意識から自分を責めようとするタルバにバジルはそう力説した。本当に近年稀に見る危機だった。よくぞ生還叶ったものだ。
「あんな場当たり的な言いがかりで殺されていたら『雑魚すぎ……』って墓に彫られるところです。せめて好きな人が涙してくれる程度には立派な死に際でありたいですからねー」
評価の厳しい想い人を脳裏に思い浮かべつつバジルは苦笑気味にぼやいた。すると隣で聞いていたタルバが意外そうに瞬きする。
「へえ、あの子結構きつい性格してるんだな。まあそうじゃなきゃ今の世の中やってけないか」
「へっ?」
突然飛び出したその発言にバジルはきょとんと首を傾げた。タルバとモモに面識はないはずである。ひょっとすると天帝の生誕を祝う宴の席に彼もいたのかもしれないが、モモの話をしたことはなかったはずだ。それなのにタルバの口ぶりはまるで彼女を知っているかのようである。
「あ、あの子って誰のことです?」
湧いた疑問をそのままぶつけるとタルバは「え?」と怪訝な顔で問い返してきた。
「今日会ったケイトって子だよ。お前あの子に惚れてるんだろ?」
「…………はっ?」
想定外も想定外の反応にバジルは一瞬思考停止する。早合点して「あっちも脈ありなんじゃないか? 中庭に連れて行かれるお前を一緒に追いかけたとき、あの子が袖にナイフ隠すところ見たぜ。あれは助けようとしてくれてたよ」と続ける友人に「いやいやいやいやいやいやいや」と力いっぱい首を振った。
「ケイトさんとはそういうのじゃありませんけど!? 僕の好きな子はもっと超然としているというか、ナイフを隠し持つどころじゃ済まないというか」
とにかくケイトは違うと伝える。「そうなのか? なんだかただならぬ雰囲気だったのにな」と鋭いのだか鈍いのだか判別しがたい反応を返され、バジルはハハと頬を引きつらせた。恋人を射殺した男を前にケイトは相当冷静だったとは思うが、時間がどう流れようとやりきれなさは拭えまい。それは己とて同じだ。
「けどお前、好きな女はいるんだな。どんな子だ? 結婚の約束はもうしてるのか?」
最もデリケートなところから話題が逸れてほっとする。バジルは天上の花のつぼみもかくやというピンク色の、慈悲と無慈悲を併せ持つあの瞳を心に思い描きながらタルバの質問に答えた。
「結婚できたら嬉しいですけど僕の一方的な片想いで……。熊とか倒せちゃうんで男手必要ないんですよね、多分」
「く、熊を?」
「ええ。あと虎も」
「虎も!? すごいな!?」
一体どんな屈強な娘だとタルバが震える。「見た目は小柄で可愛いですね」とモモの容姿を教えてやれば彼はますます困惑した。
「彼女が強いのは腕っぷしだけじゃないんです。並大抵の精神力の持ち主じゃなくて、絶対その場しのぎの嘘や気休めを言わないから、彼女の言葉は重くて価値があるんですよ」
恋愛談義など久しぶりで、バジルはついぺらぺらと喋りすぎてしまう。だがタルバは与太話にも好意的に頷いてくれた。
「僕みたいなすぐヒエーってなる人間には存在が救いなんですよね。好きとか惚れたとか以前に」
何物にも代えがたい彼女の特質。あらゆる雑音を薙ぎ払い突き進む美しさ。たとえ振り向いてもらえずともそれを間近で見ていたい。彼女が胸に住む限り自分も強く歩んでいけると思うから。
「名前はモモって言うんです。モモ・ハートフィールドって」
慕わしい人について話していると心が会いたがってくる。いつになれば己は故郷に帰ることができるのだろうか。ジーアンに捕まってからの日数を思うと焦燥はいや増した。なるべく気にしすぎないようにしてはいるけれど。
「ふうん、そうか。いつか会えたら会ってみたいな」
しみじみとしたタルバの呟きにバジルは「いやあ、それはちょっと冒険ですよ」と引きつり笑いを浮かべる。ジーアン人の彼に対してモモが斧を振り上げずにいられるかは甚だ疑問であった。彼女は理性的だけれど、それは「非常に賢い獣」という表現がぴったりの理性なのだから。
「会えたらだよ。そのときまで俺が生きてたら、だ」
低い声には少なからぬ悲哀がこもる。迫りくる死期を憂いてタルバは小さく嘆息した。
「タルバさん……」
「悪い。気にすんな」
出すべき話題じゃなかったとばかりにぽんと肩を叩かれる。暗くなってきた工房に明かりを灯して回る友人に目をやってバジルはしばし沈黙した。
こうして一緒に暮らしていても彼の死病の正体はよくわからない。タルバは苦しげに咳き込むこともなければ発熱して倒れることもなかった。だが今日はゴジャも病を匂わせる言葉を口にしていたように思う。どうせ近いうち皆死ぬのだと、まるで退役兵全体に不治の病が蔓延しているかのごとく。
「あ、そうだ。さっきケイトさんがあなたのこと褒めてましたよ!」
どうにか明るいムードに戻そうとバジルはタルバが喜んでくれそうな話題を引っ張り出した。砦の外までケイトが見送ってくれたとき、彼女はアレイア語で喋っていたから彼はきっと知らないだろう。自分の勇姿がほかの者にはどう見えていたか。
「あの子が俺を?」
「ええ、身を盾にしてすごく格好良かったって。あんなことなかなかできる人いないって」
にこやかにバジルは告げる。ほんのねぎらいのつもりで。タルバには笑っていてほしかったし、元気になってほしかったから。しかしこの狙いは当たりに当たりすぎていたようだ。振り返った青年の顔は真っ赤だった。ランプの炎が彼を照らす効果以上に。
「えっ……? あの子がマジで俺のことをそんな風に……?」
「へっ」
予想外すぎる反応にバジルは「えっ、あの」と冷や汗を浮かべる。こちらの動揺に気づいた様子もなくタルバは緩む口元を掌で覆った。
「うっわー、こういうの久しぶりだから嬉しいなー。砦に行ったらまた会えるかなー?」
「……あの、えっと、タルバさん?」
もしかして惚れっぽいタイプなんですか、とも聞けずに黙り込む。タルバは意気揚々と拳を握り、「明日からの水銀鏡作り、俺も頑張るからできるだけ早く終わらせようぜ! 鏡の量産が終わったら砦で組み立てるんだもんな!?」と吊り目を輝かせた。
「そうと決まれば設計だ、設計! 迷路の構造考えよう!」
ぐいぐいと肩を押され、作業台に座らされる。すぐさま鏡に見立てた木片が卓上に並べられ、話を戻すのは困難になった。
(ヒエーン!)
こういうのはどうだ、ああいうのはどうだと熱心にアイデアを出すタルバにバジルは半泣きで応じる。ああ、ケイトは確実に色恋沙汰などごめんだろうに何をやっているのだろう。せめてここに「勘違いするの早すぎでしょ……」と言ってくれる誰かがいれば良かったのに。
(うう、やっぱり僕にはモモが必要だ)
脳内の彼女には「それってモモに面倒押しつけてるだけじゃん」と冷たい目で見られたが、その冷温さえ恋しかった。早く彼女のもとに戻りたい。どうせなじられるなら妄想ではなく本物の彼女に「うわ……」となじられたい。
てきぱきと迷宮の模型を作りつつバジルは不自由な我が身を嘆いた。愛しい彼女は今どこで何をしているのだろう。少しは自分のことを思い出してくれているのだろうか。
(絶対にこれっぽっちも思い出してないっていうか、毎日僕とは関係ないこと考えて生きてるんだろうけどなー!)
微塵の希望も持てないのがつらいところだ。バジルはそっと目尻に溜まった涙を拭った。現実が己の想像通りであろうことが悲しかった。
******
ああもう、もう、面倒くさいと言ったらない。一人でも鬱陶しいのに揃いも揃って惚れたの腫れたの。誰が誰をどう思っていてもいいけれど、生活に支障ない範囲にしてほしい。コントロールしきれないのが恋だとは言うが、恋していない人間にだって同じく生活があるのだから。
「はああぁぁあ……」
冥府より深い息をつき、モモはテーブルに突っ伏した。療養院の談話室に陣取るのは猫の戻りを待つアイリーンと己だけだ。今日もルディアはレイモンドの印刷工房へ――それはいちゃつくためでなく純粋に仕事のためなのだが――出向いている。
「どうしたの、モモちゃん? 今日はやけに溜め息が多いわね」
間の抜けたアイリーンの疑問にモモはまた嘆息記録を伸ばしそうになった。彼女は主君が断る断ると言い続けて結局断れなかったことも、兄が二人を見るときの複雑極まりない表情についても知らないから安穏としていられるのだ。
前者はいい。レイモンドが現実的、もっと言えば即物的な努力を結実させて帰ってきただけのことだ。予測しなかった事態なのでルディアも取るべき道を考え直さねばならなかった。そして彼女はレイモンドを選んだ。今度はなんの弊害もなかったから。
問題は後者だ。昨夜主君に「相談がある」と持ちかけられた女子会でモモはよっぽど兄の想いを打ち明けてしまおうか悩んだ。知っているのと知らないのでは対応が違ってくる。少なくとも傷つける意図のない言葉でアルフレッドが傷つくことはなくなるだろう。だがモモにはどうしても言えなかった。伝えてくれと頼まれたわけでもないのに本人に繊細な感情を伝えるのは己の倫理観が良しとしなかったのだ。
「……なんでもない……」
不思議そうに覗き込んでくるアイリーンにそう返す。だがすぐに「や、でも本人にじゃなかったら根回ししたほうがいいんじゃない?」と思いつき、モモはがばりと顔を上げた。
「あの、あのさあ、アイリーン」
どう説明するのがいいか慎重に言葉を選ぶ。「しばらくアル兄落ち込んでると思うけどそっとしておいてあげて」では多分伝わりきらないだろう。「姫様たちとアル兄が一緒にいたらそれとなく間に入るなり別のところへ連れていくなりしてあげて」では仲違いを疑われそうだ。やはりそのまま言うしかない。意を決し、モモはすうっと息を吸い込んだ。
「モモちゃん大丈夫? 本当にらしくないわねえ。何かあったの?」
落ちくぼんだ目に正面から見つめられ、モモはぴたりと息を止める。まさに真実を口にしようとしたそのとき、不意にアイリーンの起こした問題の数々が頭をよぎっていったからだ。
言うべきときに言うべきことを言い逃すのは彼女の持ち芸、逆の失敗もまた然りである。うっかり彼女に兄が横恋慕していると知られようものならどこでどう口を滑らせるかわからなかった。
「……やっぱなんでもない……」
がっくりと肩を落としてモモは再度テーブルに頭を沈める。話す気はないという無言のメッセージを受け取ってアイリーンも関心をよそへ向けた。
「遅いわね、ブルーノ」
呟きは拾う者もなく床に落ちる。片付けも済んで今日はもう帰るだけなのに、この頃のブルーノは繊細な患者を慰めるのに忙しいらしくなかなか引き揚げてこなかった。
(モモたちが早く帰らないとアル兄が先にお店に着いちゃうんだけどなー)
レイモンドやルディアと気まずい時間を過ごす兄のことを考えると忍びない。逆にそれに耐えられなければ騎士など続けていけないのかもしれないが。
(うーん、昨夜姫様にちゃんと話すべきだったかなあ)
一応己も「けじめはつけてね」と忠告はした。要するに人前でいちゃいちゃするなよと。「借りている身体だし、婚約すると言っても暫定だ」という主君の返事がまあまあしっかりしていたからあまりしつこくは言わなかったが。
(いやー、でもモモから話せることじゃないよねえ。ほかにできることは全部やったと思うし……)
うんうんと一人頷く。こうなればもはやあの二人の良識を信じるしかない。目の前で見せつけられなくても、しょうもない自慢をされなくても、真面目な兄は自分の不甲斐なさと比べて落ち込んでしまうのだろうけれど。
(アル兄って我欲のために行動するのほんと苦手だからなー)
はあ、とまた溜め息が漏れた。屋内は暗く、日はもう沈みそうなのに、猫はまだ足音もさせなかった。
******
わずかな瞠目。瞼を伏せて「そうか」のひと言。幼馴染の第一声は期待したほど驚きに満ちたものではなかった。たったそれだけで終わってしまった反応にレイモンドはあれっと首をひねる。
「もしかして知ってた? あんまびっくりしてねーな?」
尋ねるとアルフレッドは硬い表情で「まあな」と答えた。
「むしろまだそうなっていなかったのが意外だったよ。……将来の約束くらい、とっくにしていると思ってた」
ブルータス整髪店の何も置いていない一階店舗を見渡しながら赤髪の騎士が呟く。差し込んでくる光はほとんどなくなって、ランタンの逆を向かれると側にいてもちゃんと顔が見えなかった。
だがそこは十年来の幼馴染だ。次に彼が何を言うかくらい簡単に想像できた。ありがとうやごめんなさいだけでなく、おめでとうも忘れずに言える男なのだ、アルフレッドは。
「良かったな」
ささやかな祝福にレイモンドはへへっとこめかみを掻いた。どんな金持ちの上客を得るよりなお嬉しい。自分をよく知る友人がそう言ってくれるのは。
ルディアにプロポーズしたこと。それ自体彼は良く思わないのではないかと危ぶんでいたから余計じんとした。防衛隊はあくまで王女の部下であり、一線を越えることは許されない。アルフレッドはそういった考えの持ち主だろうと思っていたから。だが彼は堅いことは一切言わず、素直にお祝いしてくれた。それがレイモンドには嬉しかった。いくらルディアと両想いでも友人が認めてくれねば幸せも半減なのだから。
「結婚式では特等席に座ってくれよ、アル」
「気が早いぞ。一応暫定なんじゃなかったのか?」
えいえいと肩をつつけば幼馴染は苦笑混じりに身をかわす。「暫定っつってもほかには候補いねーもん」とレイモンドは軽口を退けた。
アルフレッドを羨んだ時期もある。結局はアクアレイア人になりきることのできない自分と彼を比べて卑屈になって。だけどあの頃、鬱々とした気持ちを彼に直接ぶつけることがなくて良かったと思う。己の未熟さや勝手さで大切な友人を失くさずに済んで。だから今、こうしてとても満ち足りた気分で感謝を告げることができる。
「お前のおかげだよ。アル、本当にありがとう」
突然の礼にアルフレッドは「え?」と声を上げた。何が自分のおかげなのかわからないと言いたげなお人好しにレイモンドはくつくつ笑う。
「お前に会ってなかったら、俺はただの下町のこすいガキで終わってただろ。いやー、なんか最近急に昔を思い出すこと増えてさ。それがいつもお前に世話かけたなって思い出ばっかで……。困ったときは絶対お前がいてくれたよな。親父のことも、アルがいなきゃ和解どころじゃなかったと思うし」
だからありがとう、と繰り返した。感謝してもしきれないと。アルフレッドには「そこまで言われるほどのことはしていないよ」と謙遜されたが。
「いやいや、そこまでのことだって。正直どうすりゃ受けた恩を返しきれるかわかんねーもん」
明るく笑うレイモンドに幼馴染はかぶりを振る。どうやら彼は本当にすべての成功はレイモンドが独力で勝ち取ったことだと考えているらしい。いくつになっても無欲な男だ。恩のおの字も着せる気がないのだから。
「なあ、今日は俺が泊まり込みする日だけど、暇だったらお前も泊まっていけよ。めでたい日だし、皆で飲もうと思っていい酒買ってあるんだ」
酒杯を傾ける仕草をして婚約披露パーティー代わりの飲み会に誘う。しかしアルフレッドはこれにも首を横に振った。
「悪いな。今日はこれから先約があって」
「先約? 誰と?」
彼が夜に予定を入れているなんて珍しい。レイモンドはハッとして「まさか女か!?」と食いついた。
「違う、違う。騎士物語の新作が話題になっているだろう? 増刷分が売りに出されるまで待てないというファンが多くてな。貸してくれと頼まれているんだ」
「なーんだ。そういうことか」
騎士物語愛好家の集いなら邪魔をするわけにいかない。友人は趣味を同じくする人々と語り合うのをいつも楽しみにしているのだから。譲るこちらは残念でならないが。
「だったら引き留めて悪かったな。良かったら皆さんに貸本も始めましたって伝えといてくれ」
「ああ、わかった。言っておく」
アルフレッドは「そろそろ行くよ」と踵を返すと軽く手を振り、ブルータス整髪店を出ていった。ぱたりと扉が閉ざされて、入れ替わりに深い静寂が立ち込める。
(……お礼、ちゃんと言えてたよな?)
レイモンドは言い回しやタイミングは適切であったかどうかの一人反省会を始めた。どうもアクアレイアに帰国して以来、騎士のリアクションが薄い気がするのだ。こちらの気にしすぎならいいのだが。
(まあ毎日蟲が入った女帝の相手してんだもんなー。疲れてるに決まってるよなー)
原因は思い当たるのに自分が何かしたかなと不安が消えないのは何故だろう。懸案事項だったルディアとの関係も認めてもらったのだから、万事問題はないはずなのに。
(俺も最近ばたばたしてて疲れてんのかなー? 今日は思いっきり飲むか!)
ストレスは溜め込む前に発散せねば不健康だ。宴会するならつまみがいるぞとレイモンドは外階段へ出て厨房へ上がった。墓島組のモモたちが帰ってきたのはそれからすぐのことだった。
******
鈍いノックの音がして、間もなくキイと扉が開く。現れた客人を振り返り、ユリシーズは思わず眉間にしわを寄せた。
来たのはいいがまた酷い顔で来たものだ。ここ最近で一番悲壮感を漂わせているのではなかろうか。いつもこれ以上悪くなることはないだろうと思うのに、彼の落ちた穴は底なしらしい。
アルフレッドは『ユスティティアのやけ酒』のドアをくぐり、ユリシーズの腰かけるカウンターまで歩いてくる。既に中身の減っているグラスを見やって彼は小さく息を吐いた。
「……飲みながら読むのはやめてくれよ」
「大丈夫だ。万が一にも汚さないよう読書の間は遠ざかっておく」
さっと立ち上がり、ユリシーズは二つほど奥に席をずらす。台の上が濡れていないのを確かめてから赤髪の騎士は真新しい一冊を差し出した。
「ありがとう、助かった。アニーク陛下に早く読め読めとせっつかれていたんでな」
「返すのはいつでもいい。それじゃ俺はこれで」
用は済んだと言わんばかりにアルフレッドは短いマントを翻す。「待て待て」と腕を伸ばしてユリシーズはせっかち男を引き留めた。
「そんなにすぐに帰る奴がいるか。そこにお前用の酒が入っているのが見えんのか?」
「……今日は飲みに来たんじゃないぞ」
呆れ顔でアルフレッドは隅の座席の一杯に目をやる。「これくらい読み終わるのに三十分もかからんから一杯飲んで待っていろ」とユリシーズは本を開き、顎で座れとジェスチャーした。
赤髪の騎士は渋々といった様子で丸椅子に腰を下ろす。だが酒に口をつける気はないのか身体は横を向いたままだった。「飲めと言うのに」と勧めても彼は「だから今日は本を貸しに来ただけだ」と頑固である。「前のより薄くしてあるぞ」と言ってやっても無駄だった。杯を持ち上げることもせず、アルフレッドは対角線上のユリシーズにどうでもいい問いを投げかけてくる。
「三十分はいくらなんでも無理じゃないか?」
騎士物語を読み終えるのに彼は一晩かかったらしい。最初から最後まで読破せねばならないというのは凡人の発想だなとユリシーズは口角を上げた。
「私が読むのは新章だけだ。これまでの話は全部覚えるくらい朗読させられてきたからな」
「新章だけ? いや、待つから詩も読んだほうがいい。はっきり言って芸術的だぞ」
彼好みの話題が出ているはずなのに騎士の表情は一向に晴れない。この数日、ユリシーズが気にするまい気にするまいと努めて結局堪えきれなかった沈痛な面持ちより今日はいっそう痛ましかった。ルディアたちがどうして彼を放っておけるのか不思議で仕方ない。仲間内ではアルフレッドが完璧に普段の自分を演じているなら更に痛ましいことだが。
(話を聞いてやろうと思って呼んだんだろうが。ここまで来て何をためらう)
騎士物語を読むふりをしつつユリシーズは赤髪の騎士を盗み見た。取り繕う必要がないからか、彼は憔悴しきった顔で暗がりを見つめている。荒んだ双眸にかつての己が覗く気がしてユリシーズはかぶりを振った。
「お前、何かあっただろう?」
尋ねるとアルフレッドは無言でこちらに目を向ける。わずかにひそめられた眉には聞いてくれるなと書いてあった。だが素直に応じるわけにはいかない。こちらにも一つ知りたいことがある。
「何もないならあの女にもう私の話をしているはずだ。何故言わない? 何か不都合が起きたのか?」
「…………」
しばし押し黙った後、アルフレッドは「不都合なんて」と呟いた。苦しげな声に聞いた自分までつらくなる。彼を責めたいわけではないのに。
「俺が言いそびれているだけだ……」
アルフレッドの掠れ声は苦い記憶を呼び起こした。一番聞いてほしい嘆きを誰にも言えなかったとき、多分自分も彼と似たような顔をしていた。
あまり激しい混乱のさなかにいると自分が溺れていることにさえ気づかないものなのだ。いつもやっていたことができなくなる。いつも選んでいた最善が見えなくなる。そうしてだんだん暗い沼に嵌まり込む。
「言いそびれ、か。まあ別にまだ言わなくていいんじゃないか? 私に彼女の正体を言いふらす気はないし、メリットもない。あっちもこれまでと変わらんだろう。元々防衛隊の一員として私にマークされているとは考えているだろうしな」
警戒度が九十から九十一に上がるだけだと言えばアルフレッドは「しかし」と言ってうつむいた。彼がするべき報告を怠っているのは事実である。不忠な自分に騎士は戸惑っているらしかった。
「お前が黙っていてくれるならそのほうがありがたいんだ。政治的な意味じゃない。また差し向かいで飲んでみたいと考えていたからな」
この間のはやっぱり楽しかったから、と伝える。赤髪の騎士からは「それは俺もだが、しかし……」と芳しくない返答があった。これ以上道義にもとったことはできないという考えらしい。たとえ傷ついた本心はそれを望んでいても。
「気に入らないか? ならこう考えればいい。酔っ払った私がぽろりと彼女の正体をどうやって知ったか零すかもしれないから監視も兼ねて飲んでいる、とな」
「ユリシーズ……」
アルフレッドは「どうしてそんなに俺に飲ませようとするんだ?」と率直に尋ねてくる。ユリシーズもまた率直に「でなきゃお前の胸を軽くできないまま帰すことになるからに決まっているだろう」と答えた。
「…………」
赤髪の騎士は黙り込む。溜め込んだ毒を吐き出したいくせにどうしても彼は首を縦に振らない。楽になりたくてここへ来たんじゃないのか。本の貸し借り程度なら明日宮殿でするのでも十分だと思わなかったわけではあるまい。
「背信行為と受け取られないか心配か? だがどうせ女帝に一時仕えすることになったとき、あの女からついでに私の動向に目を光らせておけと命じられているのだろう? その命令を実行すればいいだけのことではないか」
ユリシーズは本を置き、丸椅子から立ち上がった。自席から端の席まで移動する。アルフレッドはそれを無言で、気圧されたように見上げていた。
「明日その顔で主君の前に立てるのか?」
問いかけに彼はごくりと息を飲む。どう言えば騎士の心を揺さぶれるのか、理解したうえでの問いだった。
言い訳はなんでもいい。ただ早く抱えたものを放り出させてやりたかった。利害も立場も関係ない。彼を一人にしておけない。
「好きなだけ飲んで、好きなだけ吐き散らしたらいい。仲間に言えないことも全部」
思いのほか優しい声が出て自分で驚く。アルフレッドは蚊の鳴くような細い声で「なぜ」と呟いた。
婚約を破棄された後、ユリシーズは誰とどこにいても苦しかった。好奇の目も同情の言葉も等しく心を傷つけた。けれど一番自分を痛めつけたのは、平気なふりをしてしまった自分自身だったと思う。
悲しいとか、悔しいとか、憎らしいとか、情けないとか、誰かに言えていたならきっと違ったのだ。自信たっぷりでいたのに捨てられたことが恥ずかしいと。
プライドが邪魔をした。積み重ねてきた努力がすべて仇になった。家柄も、実績も、ユリシーズの中で悲鳴を上げる弱さを決して認めなかった。
アルフレッドも同じなのだ。彼の場合、高すぎる忠誠心と超のつく真面目さが彼を黙らせようとしている。
「……あんまりつらいことが続くと痛みで心が歪むだろう。自分が悪くてそうなったわけじゃないなら余計に」
わかっていた。これはあの頃苦しんでいた自分が聞きたかった言葉だ。誰も言ってくれなかったから、自分でも言ってやれなかったから、光差す場所から遠のいた。
「この間のより飲みやすく薄めてある。一杯だけでいいから飲んでいってくれ。私の自己満足のために」
水割りの入ったグラスを押しつける。アルフレッドはしばらく葡萄酒に映る己の顔を眺めていたが、その表情はますます歪むだけだった。
明日主君の前に立てるのか尋ねたのが効いたのだろう。騎士の手がためらいがちに杯に伸ばされる。ひと口舐めて「まだきついぞ」と眉をしかめると彼は残りを一気に喉に流し込んだ。
その夜結局ユリシーズは読みかけの本のもとに戻らなかった。酒の力は偉大である。節度などあっさり忘れさせてしまう。だがその力を借りてでなければ乗り越えられないことも人生にはきっとあるのだ。
満足だった。初めて、こんなに。
(20181122)