葦原を埋め立てた人工島と網の目に張られた水路の街。そう聞いていたから、もっと整然とした、自然との調和を拒んだ都市なのかと思っていた。
 ――美しい。
 エメラルドの海に抱かれたアクアレイアを馬上から見つめ、ヘウンバオスは感慨に耽る。
 街は一つの大きな流れ、大運河を背骨としていた。通常は運河といえば陸地を掘削し、海や湖と繋いだ人工河川を指すけれど、アクアレイアの運河はそれとは別物らしい。
 元々あった幾百の流れを水路に転用したのだろう。直線的な運河はほとんど見受けられなかった。目抜き通りの大運河でさえ大きく蛇行し、建物の隙間を縫う小運河に至っては好き放題に曲がりくねっている。おかげで見通しは最悪だった。
 迷宮都市を織りなしているのはそれだけではない。街全体が水に浸っているので当然だが、やたらと橋が多かった。商港から王宮前の広場へ行くのに馬を渡らせた橋はたちまち十を越え、レーギア宮の見える前から数えるのに飽きてしまった。
 平らな橋ならいくらあろうと構わないのだがアクアレイアはゴンドラの街である。小舟を通すために大抵の橋はアーチ状に膨らんでおり、そうでなければ始めと終わりに階段が設けられていた。こんな昇り降りの億劫な橋が本島だけで四百以上あるのだそうだ。船乗りの足腰が丈夫になるはずである。
 更に点在する小トンネルも曲者だった。限られた土地を有効活用するために路地の真上まで張り出した家屋がその下を通る者の頭を低く屈ませる。横坑はすこぶる狭く、大人には通行不可能だろうと思われる道まであった。
 確かにここでは馬車は淘汰されるしかなさそうだ。アクアレイアでは代わりに船があらゆる運搬を請け負うというのも頷ける。
 水と暮らしていくために、他の利便性を一切排除した街だった。畑どころか放牧地もなく、ただ海のみに開かれた。
 アクアレイアが波の乙女の伴侶を名乗って憚らないわけだ。気まぐれな女神のご機嫌を損ねず、かつ愛の恵みを受けるには、それに相応しい夫でなければならないに違いない。見事な融合、潔いまでの一心同体。まさに「海との結婚」である。
 陸への思慕が感じられないのは街の基礎を築いたのが海賊だからだろうか。だがこの解釈にはやや引っかかりがあった。
 アクアレイアに砦を建てると海賊たちはドナから本拠を移し替えたという。荒稼ぎを続けるのなら待ち伏せしやすい入江の多いアレイア海東岸を縄張りにしたほうがずっと得だったにも関わらず、だ。
 果たして首領は何に惹かれてここへ来たのか。或いはどんな本能に導かれたのか――。

「天帝陛下―! そこ曲がったら国民広場だってー!」

 列の先頭を徒歩で行くラオタオが振り向いたのは、税関岬から真珠橋を経て壮麗なアンディーン神殿の裏手に出てきたときだった。
 通りの両脇には先に行かせた兵たちが直立不動でずらりと胸を張っている。この付近の制圧は既に完了したらしい。
 建物で隠れて見えない向こう側にひしめく民衆の重苦しい息遣いを感じた。愛馬に足を進めさせると大太鼓がドンと打ち鳴らされる。
 前方でローガンが何か叫ぶのが聞こえた。おそらくアレイア語で「天帝陛下のおなーりー」とでも言っているのだろう。その声が途切れる頃、神殿と宮殿に挟まれた狭い通路は終わりになった。
 陰の中から進み出る。瞬間、ヘウンバオスは懐かしい極彩色に息を飲んだ。

「――……」

 赤、青、黄、桃、緑、紫、橙に黒。実に色とりどりの頭が垂れ下がっている。
 キンケイの羽のような、天に架かる虹のような。
 これは祝福された街に起きる同一の現象なのだろうか。ヘウンバオスは同じ光景を生まれ故郷でしか見たことがない。
 期待はいよいよ高まった。逸る気持ちを抑えて広場の中央に進んだ。
 民衆は石畳に手をついて不安げに顔を伏せ、海軍の男たちは武器を取り上げられた状態で跪いている。東パトリア帝国との交易がヘウンバオスの采配一つにかかっていると十分理解しているからだろう。実に従順で大人しく、いっそ哀れなほどだった。
 だがいかに不憫でも通過儀礼は済ませねばならない。新たな支配の実感は、流血の記憶によって強められるものなのだから。

「ローガン、ここにアクアレイアで最も信望厚い人間を連れてこい」

 ヘウンバオスの命令に豪商は「はっ!」と敬礼した。
 ローガンはライバル都市の凋落が嬉しくて堪らないようだ。性の悪い笑みを浮かべると早速アクアレイア海軍の並ぶ宮殿前に近づいていく。
「うーん! そうですなあ、やはり彼ですかなあ!」
 白羽の矢が当たったのは武骨な甲冑に白いマントを着けた初老の男だった。貴人らしい品格と武人らしい貫禄が佇まいに滲み出ている。
「シーシュフォス・リリエンソール提督です。海軍史に残る名将ですよ」
 笑顔の悪党に肩を叩かれて将軍が立ち上がると広場はどよめきに包まれた。泣き出しそうにシーシュフォスを見つめる者、片膝をついたままこちらを睨む者、反応は様々だ。シーシュフォス自身は仕方ないという表情でヘウンバオスのもとへ参じた。
 馬上から品定めの一瞥を送る。ドナ・ヴラシィ軍の意表を突くクルージャ砦奪還作戦を実行に移したのはこの男だったか。役職から考えても、まあ不適任ということはなさそうだ。
「そこへ直れ」
 言いながらヘウンバオスは剣を抜いた。相手にジーアン語が通じているとは思わないが、通訳を介すまでもなかろう。
 シーシュフォスは後ろ手に腕を組み、胸を反らしてこちらを見上げた。不穏な空気に緊張してはいるものの、その目に怯えの色はない。
 鞭をしならせるようにヘウンバオスは歪曲した刃を滑らせた。固唾を飲んで見守っていたアクアレイア人たちが一斉に悲鳴を上げる。
「提督!」
「ちくしょう、なんてことを!」
「馬鹿、やめろ! まだ倒れてはおられない!」
 飛び出しかけた海軍兵を同じ海軍兵が制する。狂乱するか逃亡するか見ものだと思っていたのに、民衆はその場に踏み止まっていた。
 なかなか利口だ。実力差を見誤り、歯向かってきた馬鹿な小国とは違う。
「よく避けなかったな」
 ヘウンバオスは口角を上げ、双眸から血を流す将軍を誉めた。痛みを堪え、最初の姿勢を保つ男の背中は何よりも雄弁に「逆らってはならんぞ」と語っている。
 深く抉ったから視力は戻らないだろう。傷を受けた本人が一番わかっているはずだ。だがそれと引き替えに、この男はもっと重要な確約を手に入れたのだ。
「お前たちもよく耐えた。反抗の意思はないと認めてやる」
 広場で震えるアクアレイア人全員に告げる。血を拭い、曲剣を鞘に収めるとヘウンバオスは民を解散させるように命じた。
 ローガンとラオタオが忙しく駆け回り始める。一時間もすると群衆は自分の家に引っ込んで辺りはジーアン関係者のみとなった。
(さて、あれはどこだろう。そろそろ出てきてもおかしくなさそうな頃合いだが)
 ヘウンバオスはきょろきょろと付近にハイランバオスの姿を探した。だが少々もったいぶった性格の弟はまだ声すら聞かせないままだ。
 こちらがどれだけ今日この日を待ち侘びていたか知らないはずがないだろうに、まったくあの道楽者は。

「ああ、陛下。弟君がお越しですよ」

 いつの間に隣へ来たのかコナーがレーギア宮を指差す。画家に示された門を見やればバオス教の聖預言者――ではなくて、アクアレイア海軍の若き軍医が駆けてくるところだった。
(やはり知っていたのだな)
 顔をしかめて腕組みする。
「コナー、お前は一体……」
「まあまあ、私の身の上話など後回しでいいではありませんか。今はそれより弟君と喜びを分かち合いたいのでは?」
 存じておりますよ、と画家はウィンクしてみせた。あまりの胡散臭さに閉口する。しかしその指摘自体は間違いではない。
 ハイランバオスは一番長く苦労をともにした相手だ。本当に、今まで忠義によく仕えてくれた。彼には大いに報いてやらねば。弟がいなかったら、自分はきっと道の半ばで息絶えるどころか旅路を始めることさえできなかっただろう。

「お待たせいたしました! どうぞこちらへ、例の島へご案内いたします!」

 久方ぶりに会う弟は艶やかにうねる黒髪を揺らし、嬉しそうに声を弾ませた。さあ、さあ、と袖を引かれて馬を降りる。
 アクアレイア人の闖入に近習たちは驚かなかった。連れてきた仲間には事情は通達済みである。寧ろ温かい目で見守られる。
「今からゴンドラに乗りますからね! 私たくさん漕ぐ練習をしたんですよ! 我が君にお誉めいただきたくて!」
「わかった、わかった。はしゃぐんじゃない」
 紅色に頬を染め、ヘウンバオスに飛びつく彼はいつもと同じハイランバオスだ。見た目は変わっても中身はまったく変わらない。その無邪気さにまなじりが綻ぶ。
 こちらでの名はディランだったか。二年に及ぶ潜入生活で弟はすっかり櫂の操作を心得たらしく「アクアレイアは景観も素晴らしいんですよ!」と通じた素振りで語ってくる。
 ぐいぐいと背を押され、ヘウンバオスは広場に面したゴンドラ溜まりに連れられた。いよいよアクアレイアの内湾へ漕ぎ出すのだ。そう考えると否応なしに胸は高鳴った。
「あっそうだ。モリスとかいう住人は私のほうで適当にアレしておいたんですが、コナーのほうはどういたしましょう? 一緒に工房島へお連れになりますか?」
 黒塗りの小舟に乗り込む直前になって問われる。振り返ればコナーは「私はどちらでも」とにこやかな笑みを浮かべた。
「そうだな、まずはお前と二人だけで行こう。誓いが現実になったこと、兄弟水入らずで祝したい」
 ヘウンバオスの返答に感激屋の弟はうるっと瞳を潤ませた。金や物、土地や奴隷を与えるより、彼にはこういう計らいが何よりのねぎらいとなるのだ。
「おお、我が君よ、私ほどの幸せ者は世界のどこを探してもいはしません……! ううっ、ぐす、あなたにそんな風に仰っていただけるなんて……!」
「おい、乗ったぞ。感謝の祈りは後にして早く漕いでくれ」
 ビロードの張られた座席に腰を下ろして出発を促す。ハイランバオスは感涙にむせびつつ長いオールを握り直した。
「お前たち、その画家から目を離すなとラオタオによく言っておけ。いいな?」
「はい! かしこまりました!」
 コナーの監視は一旦近習たちに任せることにする。逃げ出せるとは思えないが念のためだ。兵は十人張りつかせた。
「ふふふ、私なら大人しくしておりますのに。ではいってらっしゃいませ」
 軽やかに手を振られる。間もなくゴンドラはたっぷりした水の上をゆらゆらと滑り始めた。
 浅い喫水、浅い海。夏にはぐんと水位の下がった砂漠の湖を思い出す。
 あのオアシスにも小舟を浮かべた。何度も、何度も、何度も、何度も。――それが潰えてしまうまで。
「風がまだ冷たいでしょう」
 椅子の後ろで水を掻くゴンドラ漕ぎの声が響く。気遣いと思わせて面白がるふざけた態度にふっと笑った。髪まで凍る草原の冬に比べれば、この程度。
「もっと厳しい寒さでも、うだるほどの暑さでも構わんさ。ここが私の愛した故郷と同じなら」
 瞼を閉じれば遠い景色が浮かんでくる。
 ゴンドラが心地良く揺れている間、ヘウンバオスはしばし懐古に浸ることにした。




 ******




 ヘウンバオスが最初の意識を持ったのは遥か昔、塩の湖のほとりでのこと。
 その頃はヨルクという名前で呼ばれていた。広い砂漠のオアシス都市、偉大なる英雄アク・キヨンルに建造されたレンムレン国の王子だった。
 ヨルクは身分違いの恋人と入水心中を図り、一人生き残ったらしい。らしいと言うのは何も覚えていないからだ。別名を「物忘れの湖」というレンムレンの塩沢は、ヨルクから愛のみならず一切の記憶を奪っていた。
 国の統治者であった母はこれ幸いと息子に再教育を施し、二度とつまらぬ女にうつつを抜かさないように厳しく監督した。生まれ変わったヨルクにとっても興味あるのは広がる塩湖のみ。暇さえあれば湖面を眺めて飽きもしないので母はもしや死んだ女に未練があるのかと心配しなくてはならなかった。
 それから十年。湖の傍らで勉学に励んでいた頃が最も幸福かつ平穏であったように思う。死の大地、神々の墓場と恐れられる広大な砂漠にレンムレン国はあったけれど、湖畔の柳が林になるくらいオアシスは豊かだったし、西から東に、東から西に、旅するキャラバンの足音は絶えなかった。肝を冷やしたのは時折聞こえてくる騎馬民族の噂くらいで。
 北方の大草原で血みどろの勢力争いを繰り広げる遊牧民は「極めて野蛮」と砂漠以上に恐れられていた。当時最も隆盛を誇ったのがジーアン族だ。彼らの支配はオアシス諸都市にまで及び、レンムレン国もその属国の一つに列されていた。ただ遠方であったため、数年おきに大がかりな上納金の取り立てを行う程度で基本的に彼らは砂漠に無関心だった。
 ――時代の災厄は東から来た。大国ゾンシンがオアシスを繋ぐ通商路に欲を持ち、塩湖のすぐ近くまで派兵してきたのだ。
 レンムレン国は砂漠の東端に位置する。ジーアン族とゾンシンの争いに巻き込まれるのは早かった。
 ヨルクは人質としてジーアン族のもとへ来いと命じられた。オアシス諸都市が寛大な統治を説くゾンシンになびき、背後を突かれる事態になるのを防ごうとしての要求だろう。
 母は嘆き悲しんだし、ヨルクも塩湖を離れたくなかったが、命令に従う以外の道はなかった。皇帝の気まぐれでいつ兵を引っ込めるかわからないゾンシンよりも現実に砂漠の民を掌握してきたジーアン族のほうが脅威に感じられたのだ。
 ヨルクは天突く山脈の向こう、サルアルカの街へ連れられることに決まった。大きな湖のほとりだという話が唯一の慰めだった。




 一ヶ月の旅の末、辿り着いたサルアルカは故郷とは似ても似つかず、ヨルクは酷く落胆した。街から見える雄大な山並みは美しく、緑の濃さはオアシスの比でなかったし、砂嵐に襲われない幕屋はとても過ごしやすかったけれど。
 湖の水が塩辛くなかった。それだけで故郷に戻りたくて仕方なくなった。己の守るべき場所はここではない。早くあの水辺に帰らせてくれと。
 サルアルカで過ごした日々はヨルクを飢えさせた。できることと言えば騎馬民族を観察し、付け入る隙を探ることだけ。来る日も来る日もヨルクは街の中を練り歩いた。幸い大した監視や拘束はされていなかった。何か問えば答えてくれる付き人もいたし、恵まれてはいたのだろう。
 サルアルカもまた隊商宿の街だった。遥か遠い西の異国を旅立った行商人がゾンシンの都を目指すルートは三つあり、そのうちの「草原の道」と呼ばれるルートがサルアルカを通っていたのだ。最短距離で東西を結ぶのはレンムレン国を通る「オアシスの道」だが難所の少ない「草原の道」は大勢の旅人に利用されていた。
 この街に一時の巣を作るのはキャラバンだけではない。夏は羊を追いながら草原を移動する遊牧民も冬は各々の宿営地に留まる。ジーアン族はサルアルカに足繁くやって来た。上納金を巻き上げるためではなく、干し草を得るために。
 馬上の彼らを見上げるとき、ヨルクはいつも圧倒された。体格だけなら駱駝も馬に負けていないと思うが、ジーアン馬の剛健さと勇猛さは段違いである。それを駆る戦士はなおのこと果敢に見えた。
 騎馬民族が武勇に秀でる理由は簡単だ。第一に馬は強い。歩兵と騎兵が戦えばどちらかが勝つかなど知れている。定住者は自分の馬など持っていないのが普通だから、最低でも一族の男と同数の馬を揃える遊牧民の戦闘力が高いのは当然だった。
 第二に乗馬は技術である。技術とは鍛錬によって高められるものだ。歩兵を馬に乗せたところで付け焼刃にしかならないが、子供の頃から馬の背に跨って育ってきた遊牧民は鞍上で矢を放つのも酒を楽しむのも自由自在だった。
 つまりジーアンの男は全て騎兵なのであり、移動生活に慣れた女は全て補給兵なのだ。そこにただ守られているだけの無駄な人間はいない。戦いありきの暮らしを送る彼らの姿はヨルクに静かな衝撃を与えた。
 せめて同等の軍隊を持たねば大切なレンムレン湖を守り抜くことはできない。草原の季節が巡るごとに力を渇望するヨルクの思いは強まった。望んですぐに手に入るものではないからこそ余計に欲しくて堪らなかった。
 力さえあれば、敵対する力に抗うことも、他の力に呼びかけることもできたのだから。




 ヨルクの人質生活は存外に短く、三年で終わりを告げた。
 ――ゾンシンがレンムレン国を亡ぼしたそうだ。
 そう伝えに来た男は酷く冷淡だった。
 遊牧民の力関係は頭目が変わると激変する。代替わりでジーアン族は結束を弱め、多くの離反者を出してしまった。今が好機と他の氏族からも攻撃を加えられ、砂漠にかまけている場合ではなくなったらしい。使者の態度から察するに、奪われた属国を取り返す気はなさそうだった。
 ヨルクは一人放り出された。生きていくために身を置いたのは通訳を求めていた隊商の一行だった。キャラバンからキャラバンへ移り、それらしい経歴を作りながら、ヨルクはレンムレン国に関する情報を集めた。
 必死だった。帰るだけならいつでもできたが、その程度で満足できるはずがなかった。せめてあの湖を荒らした者に一矢報いてやらなければ。
 レンムレン国に攻め入ったのはゾンシンのオモ将軍という男だそうだ。オモはヨルクの母を殺したばかりか民衆を残らず連れ去り、自国の従順な民と移し替えたそうである。今なお都の一切はオモが取り仕切っていると聞き、居ても立っても居られなかった。
 一年経ち、二年経ち、ヨルクはついに帰国を決めた。行商人に成りすまし、サルアルカ風にサルヤクットと偽名を名乗った。
 霧の中の輝ける宝石、トパーズの別名である。ヨルクがこの世に生まれた日、居合わせた異国の男に献上されたのがこの石であったという。闇を払う光芒に驚いた母は眩い髪と眼を持つ息子にヨルク――「明るく光るもの」と名付けたのだ。
 生憎とその宝石自体は心中騒ぎの際に塩湖に沈んでいた。だがその輝きまで損なわれたわけではない。
 ヨルクもまた光を見失ってはいなかった。掴めばたちどころに消えてしまう儚い炎ではあったけれど。
 レンムレン国に入るのは容易かった。ゾンシンの皇帝は、元々キャラバンの運んでくる香辛料や貴石に惹かれて砂漠の征服を目指したのである。行商人に門戸を閉ざす理由はない。
 久々に見るレンムレン湖は相変わらず美しく、ヨルクの目に知らず涙がこみ上げた。
 ――焦らずにやろう。必ず復讐をやり遂げよう。
 心に誓い、激情に重い蓋をした。
 ヨルクは珍品と武具を扱う商人としてオモ将軍に取り入った。
 五年かかった。文字通り東奔西走し、将軍と二人きりで密談できる仲になるまで。




 長い黒髭に濃い眉をした面長の男を小舟に乗せ、ヨルクは塩湖の中央に漕ぎ出した。
 馬鹿な奴だ。内密の話があるという誘いだけでのこのことついてくるとは。
 レンムレン国の人間がまとめてゾンシン本国へ送られていたのは幸運だった。おかげでヨルクは誰にも正体を見破られず、こうして本懐を成そうとしている。
 武力による奪還は早々に諦めていた。同胞は散り散りになっていたし、利用できそうな他勢力も見当たらなかった。立ち向かうにはゾンシンは強大すぎたから、ヨルクに選べる道はただ一つだった。
 鏡のごとく静止した水面。澄み切った紺碧の空。
 緊張気味にオモがこちらを見つめている。ここに至る前準備として彼には色々吹き込んでやったから不安で仕方ないのだろう。
 信用は既に揺らがぬものとなっていた。城内に裏切り者がいると囁いてなお将軍はヨルク自身になんの疑惑も持たなかった。まさか謀反人自身がそう申告してくるとは思いもしなかったのだろうが。
「サルヤクットよ、一体誰がそうなのだ? 覚悟ならできている。どうか早くその者の名を教えてくれ」
「オモ将軍、心してお聞きください。あなたに凶刃を向けようとしている男、それは……」
 名乗る気はなかった。確実に仕留めることのほうが重要だった。
 耳打ちするふりをして上体を屈める。ヨルクは隠し持っていた短剣でオモの腹を突き刺した。――そのつもりだった。

「サ、サルヤクット……!? これは一体……」

 唯一の誤算は将軍が懐に読みかけの木簡をしまっていたことだ。刃先は板を割っただけで標的に小さな傷さえつけなかった。
「貴様、私をたばかったな!」
 オモは獣に豹変した。乱闘に次ぐ乱闘の末武器を奪われ、ヨルクは肺を引き裂かれた。
 激痛に倒れそうになる。だがまだ敗北するわけにいかない。
 死に物狂いでオモを湖に突き落とし、勢い舟ごと引っ繰り返った。
 白いあぶく。濃い藍色。青で染まった世界にゆっくり落ちていく。
 泳げない将軍は上も下もわからなくなって沈んでいった。その様を、自らも同じ運命を辿りながら見ていた。
 赤く煙る水中に目を細め、薄笑いを浮かべて。息絶える最後の瞬間まで――。

「………………」

 気がつくとヨルクは湖畔に倒れていた。薄闇をさまよう意識に「大丈夫ですか、オモ将軍」と取り乱す兵の声が響く。
(まだ生きていたか、しぶとい奴め!)
 人が集まる前にとどめを。そう思って跳ね起きたのに、見渡す視界に将軍の姿はなかった。目を皿にして探しても本当に影も形もない。傍らの兵は「ああ良かった、将軍がお目覚めになって!」と喜んでいるのに。
 意味がわからなかった。
 どうしてそれを自分に言うのか。
 波打ち際の柳林にはヨルクの骸が上がっていた。
 ますます意味がわからなかった。




 奇怪としか言いようのない形で故郷はヨルクの手に戻った。オモ将軍の魂は滅び去ってしまったのか、ヨルクの魂が彼の肉体から追い出される気配はない。
 物忘れの湖。不可思議な塩沢。そこに秘密が隠されているに違いなかった。オモと成り代わったヨルクはどうにかレンムレン湖を調べることにした。
 全体、この湖は謎めいている。流れ入るのは真水なのに満ちているのは塩水だし、湖を出る川もない。古い湖水がどこへ消えるのか誰も知らなかった。
 都のほうも余所とは違った。オモの連れてきたゾンシンの民が一様に黒髪であるのに対し、元いた住人は色とりどりの髪をしていた。ジーアン族も、サルアルカの農民も、キャラバンの異国人でさえ毛色はせいぜい二、三種類だったのに。
 ヨルクは自分が十五歳だった頃を思い出そうと努めた。恋人と溺れ死のうと考えた阿呆に起きた出来事を知りたかった。
 変えたのは刑法だ。「生き残れば無罪にしてやる」とヨルクは捕らえた罪人を片っ端から湖に沈めた。
 処刑の場所は日によって変えた。烽火台に登っても一望できないほど塩沢は広かったし、ヨルクはかつて選んだ死地を覚えていなかったからだ。
 罪人は二人戻った。どちらもあの「物忘れ」の症状に罹っていた。
 ヨルクは男にルグ、女にユーリンの名を与えた。言葉を覚えるのに多少時間は要したが、二人はヨルクと同じように半年も経つと完全に生まれ直した。
 事故が起きたのはそのすぐ後だ。体格のいいルグを駱駝の世話係に、年若いユーリンを書記官見習いに任命し、詳しい観察を続けることにした矢先、大人しいはずの駱駝に蹴られてルグが死んでしまったのだ。
 軍医のもとへ運ばれたときには手遅れで、動かない男を前にヨルクは呆然とするほかなかった。
 その日は特に暑かった。日干し煉瓦でできた砦は乾ききっていた。
 ――だから酷く驚いた。屍の目元に涙が光ったのを見て。
(なんだこれは)
 ヨルクは瞠目した。よく見ると寝台にこぼれ落ちたそれは水滴ではなかったのだ。
 蟲だった。半透明の蟲がもがくように震えていた。
(なんだこれは……)
 異様な光景に息を継ぐことも忘れる。人を呼ぶ声すら出せず、ヨルクはただその蟲を見ていた。瞬く間に干乾び、黒一色に染まって崩れ落ちる姿を。
「…………」
 ごくりと唾を飲む。
 後には炭に似た粉が残るだけだった。




 ルグに関しては後でもう一つ奇妙な報告があった。遺体をミイラにするために腐りやすい内臓を取り除いたところ、脳に虫食い穴が開いていたというのだ。
 軍医の前では気のせいだろうと一顧だにしなかったが、ヨルクの心は穏やかでなかった。
 あの蟲がなんなのか早急に突き止めねばならない。ルグの体内から出てきたとしか思えないあれが、もしユーリンの内部にも棲みついていたとしたら――。
 ヨルクは励まし合ってきた仲間を亡くし、落ち込むユーリンを慰めた。彼女を私室に招き入れ、酔いやすい酒を勧める。
 警戒心など微塵も持たず、羊は深く眠り込んだ。用意した水瓶に頭を沈めると彼女の脈はしばらくののちに止まった。
 ――果たして蟲は再度その姿を現した。だが今度は水に浸っているからか、いつまで経っても炭化は始まらない。そのうち蟲は泳ぎ飽きてユーリンの中に戻っていった。
 一体これはどういう事象なのだろう。眠れぬ夜が明けてすぐ、ヨルクは彼女に尋ねてみた。昨夜は妙な夢を見なかったかと。
 ユーリンはいいえと首を振った。寝入ってしまった非礼を詫びる彼女が嘘をついている風には見えなかった。
 どうやら蟲は「外」にいる間、何も記憶しないらしい。他にもいくつか仮説が立てられた。おそらく水生の生き物であること。死体に巣食う生き物であること。独自の意思を持つ生き物であること――。
 己の頭にも同じ蟲がいるのかもしれない。
 予感は否定できなかった。こうなれば次に知りたいのはユーリンにもヨルクと同じ「入れ替わり」が起こり得るかであった。
 試すならできる限り条件を揃えなくてはならない。あのとき自分は致命傷を負っていた。オモは溺死しただけで外傷はなかったはずだ。
 蟲は使える骸と使えない骸を見分けている可能性がある。死肉を食む蛆虫が健康な生者には滅多に寄りつかないように。
 ヨルクは幾度となくユーリンを誘い、酒の席をともにした。そのうち数回は水瓶で彼女を溺れさせたが、ユーリンはやはり何も覚えていなかった。
 ある夜ヨルクは蟲を水筒にとじこめたまま戻さなかった。彼女は二度と目を覚まさず、遺体は墓地に葬られた。
 とある悪党の絞首刑が執行されたのは同じ日だ。広場の真ん中に吊るされたのは隊商の襲撃を繰り返していた盗賊で、屈強な無頼漢だった。その亡骸を前にしてヨルクは処刑人に命じる。
「本当に死んだかきちんと確かめろ」
 処刑人は堂々と答えた。
「呼吸は止まり、心臓は沈黙し、もはや指一本動かないでしょう!」
「間違いないな?」と念を押し、ヨルクは砂上に降ろさせた死体に近づいた。さり気なく懐から水筒を取り出し、鼻や耳、口や目に中身を注ぎ、反応を見るふりをする。
 蟲が活動を開始するのにどれくらい時間がかかるかわからなかったが、幸いそこまで長くは待たされなかった。身を起こしたユーリンの第一声は「あれ、オモ将軍? あたしったらまた眠りこけちゃったんですか?」だった。
「馬鹿者! まだ息があるではないか!」
 ヨルクの怒号に処刑人は青くなって飛び上がり、大慌てでユーリンを絞首台に引きずっていく。
 呑気に眺めていられたのは広場を固める兵と見物人だけだったに違いない。失態を演じた処刑人は冷や汗だらだらであったし、ユーリンはわけがわからず泣き叫んだ。
 身震いが止まらなかったのはヨルクとて同じだ。これで証明されてしまったのだから。あの蟲こそが己の本当の姿であると。

「将軍! オモ将軍! 助けてください! どうして、ねえ! どうしてなんですか!」

 首を縛られたユーリンはしばらくすると静かになった。すまなかったと謝罪する代わりに顔に布をかけてやる。
 まだ誰にも、蟲である本人にも、その存在を知られるわけにはいかなかった。外の世界にこぼれ出てきたユーリンは引き返せずに黒くなって死んだ。




 何故こんな生き物がいるのだろう。いつからこの湖にいたのだろう。
 いくら考えても問いの答えは出なかった。だがもうヨルクにこれ以上の追究を行う気は起きなかった。
 死体を乗っ取って生き続けるなど化け物の所業である。公になればただでは済まない。同郷の出身者には同じ蟲を飼っている者もあるのかもしれないが、探し出そうとも思わなかった。
 この先このレンムレン湖をどう守っていくべきか。
 頭にあるのはそれだけだった。




 数年後、オモ将軍にゾンシン本国へ戻れという指令が下った。再び力を取り戻したジーアン族が北の国境を脅かしているらしい。オアシスに駐屯中の軍を連れ、この戦線に加われとのことだった。
 またもやレンムレン湖を離れなければならないとは。ヨルクはままならない己の立場に肩を落とした。
 だが今度の別離には希望もあった。防衛の心得や用兵術、故郷の未来のために必要な技術を実地で学べる良い機会であったのだから。
 それに何年戻れずとも人生の時間が尽きる心配はしなくて良いのである。
 塩沢の水を大切に大瓶に汲み、ヨルクはレンムレン国を発った。




 久々に相対した騎馬軍団は以前よりずっと強固に結びついていた。遊牧民は頂点に立つ男の才気が著しく全体に影響する。ジーアン族の新しい頭目は人を動かすに足る器らしい。
 ゾンシン軍はたびたび苦戦を強いられた。もしジーアンの長が血縁者に頼るのみでなく他の全ての氏族を束ねていたら、砦という砦を突破されていたかもしれない。
 だが結果は職業軍人として統率されたゾンシン軍の粘り勝ちだった。騎馬兵を追い払うのに二十五年も要したから、相当な軍事費を捻出する羽目になったけれど。
 ――オモはすっかり老いていた。引き揚げてきた老将に皇帝は暇を告げた。
「レンムレン国に兵を戻す後任は誰でしょう?」
 そう尋ねるとジリュウ将軍だと言われた。ヨルクは酒でも酌み交わしながら引継ぎしたいと願い出た。許可はあっさり取り付けられた。
 数日も話し込めば、人となりや交友関係、知るべきことはひと通り知れる。若いジリュウは老練なオモを尊敬していたので計略にかけるのは容易かった。
 深酒をさせ、レンムレン湖の水瓶で将軍を溺れさせる。後は自身も毒を煽り、同じ水瓶に頭を突っ込むだけだった。




 ――それから。それから五十年余りのことはなるべく思い出したくない。
 後悔が、無力感が、自責の念が大きすぎて。
 悲劇を回避するために、どう行動していれば良かったのだろう?
 答えはまだわからない。わかっていない。
 ただ覆せない結果が残されているだけで。




 故郷に帰ったヨルクを待っていたのは湖の異変だった。春は最も水嵩の増す季節なのに、明らかに塩沢が縮んでいるのだ。
 ヨルクは我が目を疑った。見間違いだと思いたかった。
 かつての湖岸と今の湖岸の間には塩を吹く乾いた土壌が露出している。湖も、もはやヨルクの知る湖とは別物だった。
 掬った水をひと口飲んで眉を寄せる。塩分が濃く、味が悪いどころではない。
 魚も水鳥も激減していた。新しく湖畔に茂った植物もなかった。
(無理な灌漑でもしたのか?)
 そう考えて塩湖に注ぐ川を遡り、更に愕然とする。
 砂漠の地形になんらかの変化があったらしい。川の本流は異な場所で分岐し、見知らぬ土地へせっせと水を運んでいた。今まで存在した支流は大半がワジと化し、レンムレン湖へ至る流れも半分以下の水量になっている。
 ――このままでは遠からぬ将来、都に人が住めなくなる。
 事の重大さはただちに理解できた。だがヨルクにはどんな対策を取るべきかわからなかった。
 砂漠地帯の治水は甚だ困難だ。用水路に水を引くとか岸辺に堤防を築く程度ならいざ知らず、変わってしまった川の流れを元通りにするなんて試す前から不可能と知れた。それでも諦めるに諦めきれず、無謀な工事で何百人もの人夫を死なせてしまったが。
 十五年に及んだジリュウの暴政に民は不満を募らせた。レンムレン湖が日に日に小さく塩辛くなって、キャラバンの足が遠退いたことも貧しい彼らに追い打ちをかけた。
 もはやこの地では暮らしていけない。飢え死ぬ前に他のオアシスへ移らせてほしい。
 涙ながらに直訴され、ヨルクもついに頷かざるを得なくなった。
 都は荒れて、変わり果てていた。魚は一匹たりとて泳がず、水鳥の鳴き声は響かず、柳の林も立ち枯れて。
 認めなければならなかった。レンムレン湖は死に至ろうとしているのだと。
 日干し煉瓦の砦には役人と軍人だけが残った。街と塩沢の間には相当な距離が開いており、塩混じりの砂塵が吹けば湖は烽火台からも見えなくなった。
 更に何年か経つと湖面に白い膜が張り、周辺には病を伴う悪臭が漂った。
 ――あの蟲ももう生きてはいまい。
 ひっそりと死滅した同胞を思い、ヨルクは一人で胸を痛めた。




 月日は無情に過ぎていく。
 初めて会ったときは三十路そこそこだったジリュウもすっかりしわ深い老人になっていた。
 何十回目かの夏が来た。最後から二番目の夏だった。
 砂漠の熱を和らげるオアシスが小さくなってしまったので、レンムレン国の酷暑は年々厳しさを増していた。その年は特に日射が激しく、乾ききった川底に水はいつまでも戻ってこなかった。秋が来ても、冬が来ても、春が来ても、次の夏が来ても。
 湖は急速に縮まった。あちらこちらに塩の結晶が墓標を建てた。
 何も知らない皇帝が命じる。砂漠の砦はもう放棄するようにと。
 運命が堪らなく憎かった。ここを離れるくらいなら湖とともに朽ちたかった。
(……ああそうか、今ならせめて蟲たちと同じ場所で死ねるのか)
 慰めに囚われたヨルクは一人レンムレン湖へ歩き出した。
 自らを忘れ去ろうとしている物忘れの湖へ。




「ジリュウ様! 塩湖近辺は瘴気が濃くて危険です! 早く砦にお戻りくださ――ゴホ! ゲホゴホ!」
 呼び止める声に振り返る。見れば側付きの書記官がヨルクを追いかけてくるところだった。
 五言絶句を詠むのが趣味の忠義深い青年である。若者は死にゆく塩沢に執心する将軍が心配でならない様子だった。
「最後の別れに向かうのだ。邪魔をするな」
「だ、だったらお供させてください! 見ているだけにしますので!」
 邪険に扱われてもめげず、書記官は後をついて来る。帰れと怒鳴るのも面倒でヨルクは若者を放置した。
 砂漠は暑い。岸に着くまでに倒れたくない。老人に余分な体力はないのだ。
 ざく、ざく、と尖った塩の柱を踏む。かつて湖底だった平原は延々と続いていた。
 どれくらい歩いただろう。照りつける太陽の下、辿り着いたレンムレン湖はもはや小さな水溜まりと化していた。
 今日か明日には地面に吸われて消えそうだ。ぽつんと佇む生まれ故郷を前にヨルクは寂しく項垂れた。
 なんて残酷な終わりだろう。あんなに大きな湖だったのに。
(ああ、本当にここまでか……)
 水は澄んで見えたけれど、それは決して命の棲めない清らかさだった。
 言い知れぬ悲しみがこみ上げる。涙はぽたぽた頬を伝った。
 ヨルクはとめどなく溢れる滴を掌にそっと受け止めた。どんなにわずかでもいいからレンムレン湖に水を注ぎ足してやりたかったのだ。

「――え?」

 そのとき奇跡は起こった。奇跡としか言いようのない、完璧なタイミングで「彼」はこの世に生まれてきた。
 ぱしゃんと小さく音を立て、手中に落ちた何かに目を凝らす。
 涙にまみれた、ヨルクの右目からこぼれ出た半透明のその生き物は、いつか見た蟲にほかならなかった。
「ジリュウ様? どうかなさいましたか?」
 硬直した将軍を案じて書記官が一歩近づく。
 何故とか何がとか考えている暇はなかった。この特異な生命は乾けばすぐに滅びてしまうと知っていたから。

「あぐっ!?」

 振り向きざまにヨルクは書記官の股ぐらを蹴り上げた。ついてきたのが武官でなくて良かったと、己の幸運に感謝しつつ倒れた青年の腹に跨る。
 絞殺するのに片手だけでは時間を無為にしそうだった。ヨルクは口内に蟲を放り、まだ状況を掴み損ねている男の喉を締め上げた。
「うぎ……っ、ぅ、ぐぅうっ…………!」
 老いて肉体が衰えたなど感傷に過ぎなかったようだ。早く死ね、早く死ね、と力をこめた両腕は今まで生きてきた中できっと一番強かった。
 ひ弱な詩人は白い顔を赤くし、青くし、また白くして息を止める。唾と蟲とを吐き出すと、どこから湧いたかもわからぬ同胞にヨルクは人の形を与えた。
 ――もしかしてレンムレン湖が最後の希望を残してくれたのかもしれない。そんな予感を抱きながら。

「……ああ……」

 書記官の瞼の下に潜り込んだ蟲は本物の変わり種だった。伝え聞く民話にも、ヨルクの見てきた宿主たちにも、最初から人語を解した「物忘れ」はいない。人間としての振る舞いは全て後から学んだものだ。
 だが彼は儚く消えかかっている塩沢を前に泣き崩れ、こう言ったのである。

「こんな形で生まれ故郷を失うなんてあんまりだ。今すぐに消えた湖水を探しにいきたい! レンムレン湖はきっと別の場所で生きている!」

 それはヨルクの胸にあったのとまったく同じ叫びだった。他人の口を借りて飛び出した心に目を瞠る。
 何者なのだ、この男は。どうして私と同じ悲嘆に苦しんでいる。
「…………」
 ヨルクは書記官に一歩近づいた。すると彼は水面の影に気づいて振り向いた。

「――あなたは私? 私はあなた?」

 不可思議な問いかけに面食らう。なぞなぞかと思ったが違った。彼はヨルクを自分自身だと思い込んでいた。何故なら彼は、一から百まで寸分違わず同じ記憶を有した分身だったから。
「……では我々は双子のようなものなのだな」
「そのようですね。びっくりです」
 しばらく二人で話し合い、出した結論に静かな頷きが返される。
 信じがたい心地でヨルクは遅れて生まれた弟を歓迎した。
 奇跡だと思った。ついさっきまで孤独に死のうとしていたのに、最後の最後に痛みを分かち合える同胞ができるなんて。
「ねえ、あなたが何をお考えか当ててみせましょうか?」
 弟は初めから屈託なく笑った。記憶は共有していても不思議に性格は似つかなかった。
「一人では無理でも二人なら見つけられるかもしれない――でしょう?」
 言い当てられて破顔する。
 世界は果てしなく広いのだ。絶望するにはまだ早い。
「ああ、私とともに来い。どれだけかかってもレンムレン湖を探し出そう!」




 あの約束はヨルクが人の身に宿り、ちょうど百年目に誓われたものだった。
 弟はヨルクの手となり足となり働き、どこへでもついてきた。行商人として方々を旅して、見聞を広めて、初めて海を見たときは感動のあまり二人揃って声を失くした。
 ――これだけ広い塩の湖があるのならレンムレン湖と同じ水もどこかにあるに違いない。
 言葉にせずとも通じ合った。喜びも、悲しみも、思うようにいかない苛立ちも。
 ヨルクはそのうち一介の旅人の限界を感じ始めた。ひとたび戦乱が起きれば街道は通行止めとなり、目的地に入れなくなったり街に足止めされたりする。蛮族の住む僻地や俗人を拒む聖地、山賊海賊の巣窟など、そもそも侵入不可能なところも多かった。
 旅の続行を断念するとき、脳裏にはいつもジーアン族の姿がよぎった。縦横無尽に大草原を駆け回る、あの騎馬民族を乗っ取れたら。そんな思いを強めていた頃、次の百年が終わった。
 二人だったヨルクたちは四人に増えた。どうやら蟲は百年周期で分裂を繰り返すらしい。ヨルクから生まれた蟲はやはりヨルクと同じ記憶を持ち、弟から生まれた蟲は弟と同じ記憶を持っていた。
 もしやこの世に生き続ける限り、仲間は増えていくのだろうか。
 この推測は的中した。四人は八人に、八人は十六人に、十六人は三十二人に、百年ごとに蟲は倍々に増殖した。
 こうなれば夢も夢ではなくなってくる。何しろ全員同じ根っこを持っているのだ。血よりも濃く、決して切れない強い絆がヨルクたちを結んでいた。怖いものなど何もなかった。ヨルクは迷わずジーアン族を手中に収めた。
 東西南北に勢力を広げ、自らが支配者として君臨すれば辿り着けない場所はなくなるだろう。レンムレン湖もきっと見つかる。
 今こそ世界に旅立とう!
 決意を固めたヨルクは仲間を率いて戦った。
 だがこの判断は少々早計だったらしい。一時的に大草原の統一は成ったものの、諸氏族の連合体はすぐに瓦解してしまった。遊牧民が世代交代するたびに振り出しに戻るのは相変わらずで、「入れもの」の死が想定以上に大きく響いてしまったのだ。
 以後ヨルクは勢いで動くのはやめにして、計画的に、徹底的に、騎馬軍団を育成した。より広い版図を獲得するにはもっと圧倒的な武力が必要だった。
 三十二人は六十四人に、六十四人は百二十八人に、百二十八人は二百五十六人になった。この頃からゾンシンやオアシス諸都市、他の遊牧民の内部に間諜を送り始めた。
 数が増えればできることは格段に多くなる。ヨルクは忙しく駆け回った。
 千年目、仲間はついに千人に達した。ジーアン族はゾンシンの末裔を亡ぼし、帝国として産声を上げた。
 ヨルクは――実際の呼び名は肉体を替えるごとに改めていたが――千年間の集大成となる大遠征に赴くにあたり、最も古い名前を名乗ることにした。今度はサルヤクットではなく、ジーアン風にヘウンバオスと。




 ******




 探し求めるという意味のトパーズが自身を表す名であったのは皮肉な話だ。欲したのは黄金よりも稀有なオアシスで、焦燥にもがく日も、夢にうなされる日もあったけれど。
 再びこの手に勝ち取った今となっては懐かしい思い出である。この先はまた別の名を己に冠するのもいいだろう。
「ハイランバオス、着いたのか?」
 アクアマリンの名をやった片割れに尋ねる。波に洗われる桟橋にゴンドラを舫いながら弟は頷いた。
「ええ、ここがアイリーンの脳蟲研究始まりの地です」
 王国湾には葦原や埋め立て地以外にも島らしい島があったようだ。見上げた小島は馬蹄の形にこんもりと盛り上がっていた。
 丘の上の工房ではなく狭い入江に手招きされる。浜には波の侵入する岩窟があり、奥には机と棚が置かれていた。
 薄暗い足元には茶色くくすんだ古い資料や半分壊れた実験器具。こんなものと戯れるのが子供の頃から生き甲斐だったとはつくづく変わった女だ。
 だが彼女には感謝しなければなるまい。我々を約束の地に導いてくれたこと。
「……長かったな、本当に……」
 万感の思いを胸に呟いた。ハイランバオスも心をこめて「はい」と応える。
 もう一度生まれ故郷を取り戻したい。その一念だけでよくぞここまでやって来た。野を越えて、山を越えて、血と汗を流しながら。
「色々あった。お前が突然『これからは宗教ですよ!』と言い出したり、吟詠のパトロンに軍資金を調達させたり」
「色々ありました。総勢二十名で皇帝の重臣に成り代わってクーデターを引き起こしたり、籠城を決め込んだオアシス街の城門を皆で中からこじ開けたり」
 交わした視線にどちらからともなく笑みがこぼれる。
 長かったと言ったばかりだが、振り返れば昨日の出来事のようでもあった。遠大な目的を持つ者には一千年の歳月でも短いものだ。何しろアクアレイアが見つかる前は大陸全土にジーアン帝国を広げるつもりでいたのだから。
「ふふふ、昔話に興じていたら百年あっても足りません」
「そうだな、早速本題に移るとしよう」
「ではこちらへどうぞ」
 ハイランバオスは抽斗から虫眼鏡とやらを取り出した。厚いガラスレンズの嵌められた、柄杓とよく似た道具である。これを使えば目には見えない小さな蟲でも視認できるようになるらしい。ガラスは何かにつけて献上されてきたが、そんなことができるとは知らなかった。
「アイリーンによれば、脳蟲は通常極小の生物として波間に漂っているそうで。死体への寄生が上手く行った場合はムシャムシャと宿主の脳を食べて成長するらしいです」
「ふむ、針の穴より小さくとも育てば小指の爪ほどになるのだな」
「脳って栄養たっぷりなのかもしれませんねえ」
 ヘウンバオスが虫眼鏡を受け取ると弟は手桶に海水を汲み上げる。ランタンの灯りの下で差し出された生命の水を覗き込んだ。
 いつぶりだろう。これほど心が躍るのは。果てなく広がる海と初めて向かい合ったときでさえ、胸の早鐘はもう少し大人しかった気がする。
 仲間の中にはすぐに手放せない仕事を任せている者もいた。遠く離れた彼らにもここの海水とレンズを送り、確かに故郷を取り戻したぞと早く伝えてやりたかった。――だが。
「……? おい、もう一度汲み直せ。蟲の姿が見当たらない」
 ヘウンバオスはむっと手桶を突き返した。海水を汲んだ場所が悪かったのか、水中に自分と同じ生き物を発見できなかったのだ。
「あれ? おかしいですね、いませんでしたか?」
 問い返しながら双子は古い海水を捨て、新しい海水を運んだ。血眼になって調べるが、今度も蟲は見つからない。楽しみにしていただけに苛立ちは大きく、つい声を荒げてしまった。
「アイリーンの研究室は本当にこの島で合っているのか? どこか別の場所と勘違いしているのではなかろうな?」
「そんなことありませんよ。ほら、現に彼女の取ったサンプルだって」
 示された標本を乱暴に奪い、ヘウンバオスはラベルを一瞥する。琥珀色の瓶の下部には「脳蟲(大)」「工房島の洞窟にて採取」と細い字で記されていた。
「これは一度宿主を得たものを保存しているのか?」
「はい。工房島とはここのことですし、中身もちゃんと」
 蓋を開いてヘウンバオスは絶句した。頭も、身体も、全て凍りつくほどに。

「…………なんだこれは…………?」

 瞠目したまま顔を上げる。どうにか絞り出した問いに応じるハイランバオスの声は不釣り合いに明るかった。

「えっ? 脳蟲ですよ? そう書いてあるじゃないですか」

 激昂で頭が白む。気づいたときにはヘウンバオスは弟の胸倉を掴んで怒鳴り散らしていた。
「嘘を言え! 我々はこんなに細長くも毛むくじゃらでもないだろう!」
「あはっ! そうですね、私たちは袋状の、いわゆる輪虫ですもんね! でもアクアレイアに生きる蟲は皆この線虫タイプなんですよ!」
 説明が返ってきたことに狼狽せざるを得なかった。弟はにこにこと上機嫌で首を絞められている。
 理解できない。何故こいつは動じもせずに笑っている?
 自分が何を口にしたか自分でわかっていないのか? アクアレイアの脳蟲は我々と形状を異にする線虫だと、そう言ったのだぞ?
「……だったら我々の同胞はどこにいる? さっさと連れて行け。私が平静でいられる間に」
「残念ながらどこにもおりません。アクアレイアにはアクアレイア固有の蟲が生きるのみです」
 眩暈がした。双子の言葉を受け入れるには忌避感が強すぎた。
 ハイランバオスが何を言っているのか本気でわからない。わかりたくない。
「……だからくだらない嘘はよせ。ここは我々の探し求めたレンムレン湖なのだろう?」
 腕が、舌が、膝が震える。
 悪い冗談でしたと詫びるべきなのに愚弟はそうせず首を振った。
「いいえ、王国湾とレンムレン湖は全然違います。生態こそ酷似しておりますが、脳蟲も我々とは別種の独立した存在です」
 平然と返す彼を見てますます混乱は進む。
 信じられない。なんのためにあちらこちらに手を回し、アクアレイアを陥落させたと思っているのだ。
「あはっ! 驚きました?」
 無邪気な問いに返事をしてやる気力は湧いてこなかった。瞠目し、押し黙るヘウンバオスに双子は陶酔の眼差しを向ける。
「ああ、あなたがそんな顔をなさるなんて……! これまでずっと内緒にしてきた甲斐がありました……!」
 ぞっと背中を駆けた悪寒が締め上げていた弟を投げ捨てさせた。右手はほぼ無意識に曲剣の柄を握り締める。
「ふふっ、ふふふふふ」
 思いきり床に放られたのにハイランバオスは楽しそうに笑い続けた。本当に楽しそうに。
「……何がおかしい?」
「いえ、おかしくて笑っているのではありません。嬉しくて笑っているのです」
「では質問を変える。何をそんなにはしゃぐ理由がある?」
 最初に戻ってきた感情は怒りだ。別物だと承知しながらさもアクアレイアにレンムレン湖と同じ水が存在するかのごとく振る舞った弟を許しがたかった。亡き故郷に、同胞に対する冒涜である。納得のいく弁明なしに看過することはできない。
「ふふふふ、だって九百年も生きてきて初めてあなたがこれほど動揺する様を見たんですよ? 喜ばずにはいられないでしょう。ふふふ、ふふ!」
 止まらない哄笑が岩壁に反響する。
 おかしなところが――良い意味でまともでない面があるとは思っていたが、今日のハイランバオスは殊更異常だ。片割れに対し、一度も抱いた経験のない警戒心が頭をもたげる。
「ねえ、私たち随分あっさりここまで来たと思いませんか?」
「……は?」
 問われてヘウンバオスは顔を歪めた。
(またわけのわからないことを)
 果たして彼は会話できているつもりなのだろうか。あまりの意の通じなさにこちらは苛立ち通しなのに。
「あなたは比類なき完全無欠の王でした。沈着冷静、深謀遠慮! 待つと心に決めたなら十年でも百年でも待ち、好機と読めば無駄な時間は一日も費やさず、あらゆる人間、あらゆる国を思い通りに動かしてきた。どんな英雄もあなたの前では無力だった! そんなあなたとともにいられて私は本当に幸せだったと思います。……でも、でもですよ?」
 ゆっくりとハイランバオスが起き上がる。歌のような称賛が全て過去形なのが引っ掛かった。剣から手を離さずにヘウンバオスは対峙した男を睨む。
「……ここのところ、妙に虚しくなるときがあったんです。信頼できる味方は千を超えていて、ジーアンに対抗できそうな国も見当たらなくて、ああ上手く行ってるなあと思うほど」
「何が言いたい?」
 怒気を隠すことなく問うた。
 弟はいつも通りの微笑を浮かべ、薔薇のつぼみの唇で答える。
「あなたには逆境が足りていないのかな、と」
 言葉を――、同じ言語を話しているとは到底思えない。同じ言葉を、本当に同じ意味で用いているのか。
「逆境だと……?」
 我ながらよく逆上しないで聞けた。
 この長い旅の始まりにあった喪失を、あの絶望を逆境と言わずして何を逆境と言うのだろう。何百年も一体何を耐え忍んできたと、この弟は。
「そう、あなたという偉大なお方の物語を、もっと! もっと! もっと強く輝かせる究極の試練というやつです! だってクライマックスが盛り上がりに欠けてはつまらないではないですか!? やはり主人公たるあなたには想像を絶する困難を乗り越えてほしいではないですか!?」
 ハイランバオスは興奮のままに叫んだ。呼吸は浅く、熱っぽく、頬は緩んで紅潮し、青い瞳は爛々と光る。ふふ、ふふふと不気味な笑い声がこだました。
「思えばあなたには本当の意味での敵がいませんでした! ですが宝石というものは磨かれてこそ美しくなるものでしょう!? 競う相手もいないのに成長できるはずがない! 愚かな私はずっとそこに気づかなかったんですよねえ! だけどようやく悟ったんです! あなたが真に光り輝くそのためには、折れぬ心がぽっきり折れてしまうくらいの絶望が必要なんだって! そう確信したんです! アークの中枢に触れたときに!」
 またわからない言葉が出てきた。ヘウンバオスは頭痛を堪えて問い返す。
「アーク? パトリア神話の冒頭に出てくる聖櫃のことか?」
 弟は「はい!」と元気良く頷く。
「古の神々が地上に遺した英知の結晶――ああ、あれと接触したときの快感をあなたにも分けて差し上げたい……! ほんの一瞬で己の中に溢れんばかりの知恵の光が」
「なんでもいい、少しは私にわかるように話せ!」
 ヘウンバオスは鬱陶しい口上を遮った。苛立ちは限界に達していた。
 相通じ合っていたはずの片割れが理解できない。崇拝が幻滅に変わったわけでもなさそうなのに。

「――ふむ、それでは一番ショックな話からいたしましょうか。あなたの寿命、理屈の上ではもう尽きています」

 微笑みながら告げられて頬が引きつる。彼の口から飛び出してくるあらゆる言葉が毒矢に思えた。こちらの用意した的は射ないくせに、引き起こす災いは甚大だ。
「は……?」
「蟲の分裂って十回が上限なんですって。つまり我々の最後の分裂は三十年前に終わってしまっているのですね。もういつ死んでもおかしくないらしいですよ? オリジナルが死ぬと同一個体は一斉に生命活動を停止するとのことなので、ジーアン帝国もそのとき一緒におしまいですね! あはっ!」
「何を急に、そんなでたらめを」
「でたらめだなんてとんでもない! 私はあなたに隠し事はしましたが、嘘をついたことは一度だってありません! これはアーク情報ですし、確かな真実です!」
「だからそのアークとはなんなのだ!?」
 順を追って話すという、ただそれだけのことが何故できないのか腹が立って仕方ない。弟はわざとこちらを撹乱したがっているようにしか見えなかった。いつもの過剰演出と同じに。詩作道楽の延長と同じに。

「アークが何かを突き止めるのがあなたの試練ではありませんか」

 預言者然とした物言いに何かが切れた。剣を抜き、切っ先をハイランバオスに突きつけて最後にもう一度だけ問う。
「なんのつもりでこんな茶番を演じた……?」
 切って捨てる意思を明確にしても片割れの笑みは崩れなかった。それどころか嬉しそうに、心の底から嬉しそうに白い歯を覗かせる。

「あなたを絶望させるために」

 迷いない声に柄を握る手の力が増す。ヘウンバオスの怒りが膨れ上がるのも構わずに弟は続けた。
「さっき申し上げたではないですか、あなたには本当の敵がいなかった、と。だからこの先は私がその役を担うんです。名案でしょう?」
 半身を得て九百年、こんな日が訪れるなど想像だにしなかった。足元から己の影を引き剥がされる日が来ようなどとは。
 撤回を望んでヘウンバオスは双子を睨んだ。今ならまだ、今ならまだと胸のどこかで祈りながら。
「ねえ、今どんなお気持ちです? ようやく手に入れたオアシスは蜃気楼で、一番の腹心にはこっぴどく裏切られて。しかも明日をも知れない身だと知ってしまった。ああ、果たして生きている間に見つけられるでしょうか? あなたの忘れじのレンムレン湖は!」
 詩人は一人酔い痴れていた。悦に入った声が酷く耳障りで、強く噛みすぎた唇からは血の味がして、目の前がどんどん暗くなる。
「本気で私の敵になりたいのか……?」
 問いかけは凍えたように震えていた。王者の声では有り得なかった。それは道の途上で力尽きんとする旅人の声よりも、ずっと惨めで頼りなく。
「あなたという至上の光のためならば私はこの世で最も深い闇になりましょう。たとえあなたが絶望を振り払えずとも、栄光を掴めずとも、それでも構わないのです。ただ最後まで、あなたを高みへ導くために生きたと思えるのなら」
 滅びるときは一緒です。
 彼は笑う。屈託なく笑う。
 ついていけなくて剣に逃げた。殺さなければ眠れそうになかった。
 ――それなのに。

「ガウウ! ガウガウ!」

 突如響いた狼の声に身を反らす。敏捷な獣に腕に噛みつかれ、ヘウンバオスは足元に武器を取り落とした。
「ッ!?」
 カランカランと抜き身が躍る。その剣を悠々と拾い上げ、ハイランバオスは狼の横を通りすぎた。
 獣は彼を襲わない。寧ろ弟を守るようにして立ちはだかる。
「コヨーテって言うんです。なかなか可愛いでしょう? マルゴーの、とある伯爵から譲り受けたんですよ」
 片割れは最初から工房島に番犬を潜伏させていたようだ。狭い洞窟に二対一。丸腰のヘウンバオスは迂闊に動けなくなってしまう。
「利口ですのであなたが何もしなければ手酷い真似はいたしません」
 猛獣に塞がれた出口へとハイランバオスは歩き出した。思わず「待て!」と声を張るが、浜に向かう足は引き返さない。
 ただ最後に、片割れは一度だけ振り返った。
「……己の目でレンムレン湖を見たのは私とあなただけ。その思い出のために生きられず、本当に申し訳ありません。でも私は、最初にあなたと分かたれてしまったから、きっと一番あなたと遠く隔たってしまったのです」
 出口に立つハイランバオスの表情は逆光でよく見えない。
 ただ笑っているのだろうと思った。ヘウンバオスの知らない顔で。
「頑張ってくださいね! 無駄な努力に終わる可能性は高いですけど、いつもどこにいてもあなたを応援していますから! ふふっ、アクアレイアなんかのために貴重な年月を費やして残念でしたね!」
 捨て台詞に腰の鞘を投げつけた。鼻唄まじりにそれも拾って弟はいなくなる。
 後には獣の息遣いと波の音が響くのみだった。




 ******




 工房島での顛末を聞き、吹き出しそうになるのを堪えて「それはそれは……」とコナーは置き去りにされた天帝に同情した。協力を頼まれた当初からなんて愉快な――否、独創的な企みだろうと感心してはいたけれど、まさかここまで大々的に己の主君をぶちのめすとは。
「近習には日が暮れる頃に迎えに上がるよう命じましたから、しばらく追手がかかる心配はありません。我々はゆっくりマルゴー公国を目指しましょう」
 冷たい風の吹きすさぶガレー船の縁にもたれ、軍医はにこにこ罪なく笑う。時代時代にこういう性質の人間は現れるものだけれど、それが世界に一大帝国を築かんとする男の傍らだったというのは面白い。
「なるほど、であれば優雅に逃亡できそうだ。しかし私までストーン家の船に乗ってしまって良かったのかな? 代わりに狐が檻に入れられることになるのでは?」
「ラオタオなら心配ありません。あれも私の分身ですから口は回ります。それよりあなたを我が君のもとに留めておくほうが不親切というものでしょう? あなたに吐かせればアークについては大体わかってしまうんですから。やはり我が君は、焦燥と煩悶の責め苦に苛まれながら真実に至るべきですよ!」
 興奮に身をくねらせつつハイランバオスは熱弁する。
 実に風変わりで、実にろくでもない預言者だ。普段は誰かに肩入れするなど考えもしない自分だが、彼にだけはつい力を貸してしまった。

 ――千年を駆けたあの方が最後にどんな王に化けるか、見ものだとは思いませんか?

 あの誘い文句は秀逸だった。完璧に頷かされたなと思うほど。
「ニンフィに着いたらどうします? 私はアルタルーペの山を越え、ひとまず北西に雲隠れする予定ですが」
「私は少々お遣いを頼まれているのでね。防衛隊のアルフレッド隊長を追おうかなと」
 コナーはポケットのピアスを取り出し、また同じ場所へ収めた。
 アニーク姫の形見の品だ。もういない彼女のために、せめてこの手で届けてやらねば。悲劇の来訪を予期していながら何も教えてやらなかった代わりに。
「命短し恋せよ乙女、紅き唇褪せぬ間に――か」
「おや、素敵なフレーズですね。なんの詩です?」
「なあに、ひと時代昔の流行歌さ。アクアレイアでも似たようなのを歌う者がいるよ」
 さんざめく波を掻き分けてガレー船は北に進む。
 マルゴー公国とジーアン帝国に結ばれた休戦協定が切れるまでまだ少し間があるし、天帝があの大山脈に騎馬兵をやれるようになるのは更に先の話だろう。ニンフィで消息を絶ってしまえば簡単に追いかけてはこられまい。それよりもまず彼は、この痛手から立ち直らなければならないだろうが。
「君の天帝は再び走り出せると思うかね?」
「あはっ! どうでしょう? 折れたままでもひん曲がっても我が君は我が君ですから、私はそのお心と添い遂げるだけですが」
 でも、と詩人の続けた言葉はこれまた預言的であった。
 生まれ故郷の小さく縮んだ湖と同じ、弱き生命は決して宿れぬ水溜まりの目で彼は告げる。
「砂漠の柳はこう言われているのです。『生きて千年枯れず、枯れて千年倒れず、倒れて千年腐らず』と」
 まだたかが千年生きただけではありませんか。
 そう笑う男に釣られてコナーも笑った。




 ******




「うわーッ! 知らない、本当に俺なんにも知らない! コナーから監視兵を外したのはハイちゃんの命令だし、アクアレイアを出るのも許可取ってるって聞いたから! 大体共謀してたんなら俺もとっくに逃げてるって! 頼むから信じてくれよーッ!」
 謁見の間から響く絶叫にローガンは身震いした。盗み聞きしているだけではよくわからないが、とんでもない事態になっているのは間違いない。
 夕刻、ゴンドラにヘウンバオスを乗せて戻ったジーアン兵は真っ青だった。ローガンが離れている間に何やらひと騒動あったらしい。コナーが消えたそうだから、内部に裏切り者が出たのかもしれなかった。
 造反には厳しいジーアン帝国だ。くわばらくわばらと口内で唱える。ここはとにかく、とばっちりだけは受けないように気をつけなくては。

「ううっ、殺されるかと思った……」

 控えの間に転がり出てきたラオタオは常日頃の彼らしくなく半べそを掻いて崩れ落ちた。よほどの死地を脱してきたのだろう。疲労困憊するあまり立っていられないらしい。
 ドン引きしつつ「大丈夫ですか?」と手を差し出す。狐の肩はまだふるふると震えていた。
「あの、一体全体陛下に何が」
「絶対聞かないほうがいい! 家で息子が待ってんだろ!?」
 当然だが部外者であるローガンに裏事情を教えてはもらえなかった。わかるのは相当な地位の人間が天帝に刃を向けたということ、それだけだ。
 冷静に状況を見定め、取るべき道を探る必要がある。ジーアン帝国の膝元で甘い汁を吸うという大目的が達成されねば投資損だ。
「あのー、ローガン殿、天帝陛下がお呼びです」
「は、はいッ!? わわわ、私ですか!?」
 藪から棒に衛兵に呼ばれ、ローガンは声を裏返した。今さっき黄泉から生還したばかりのラオタオが「死ぬなよ……」と意味深に見つめてくる。
 面白がっている風でもなく本気で心配されているのが怖い。これなら普段の笑えない冗談でからかわれているほうが何倍もましだ。
 ごくりと両開きの扉を見やる。まだ踏ん切りがついていないのに衛兵は「さ、お早く」と扉を開けて背中を押した。自分が不興を買いたくないからってそれはないだろう。
「あ、そそそ、その、天帝陛下におかれましてはご機嫌麗しゅ……」
「一番早い船で帰る。すぐ支度しろ」
 御前に跪いたローガンにヘウンバオスは短く言い捨てた。
 ひれ伏したまま眉をしかめる。散々アクアレイアへ急げとせっついておいて今度はさっさと引き揚げたいとはどういう了見だと。
(船を出すのだってただじゃないんだぞ、この暴君!)
 憤りはおくびにも出さず、ローガンは「帰るというのはドナにでしょうか? それともバオゾに?」と手を揉みながら問いかけた。返答を得ようと顔を上げ、ぽかんと目を丸くする。
 彫像やら王冠やら錫杖やら、あらゆるものが引っ繰り返った王の座で天帝は悄然と足を投げ出していた。血の双眸に覇気はない。憤怒の力を使い果たし、ただくたびれて横たわっている。
「…………」
 ヘウンバオスのこんな姿を見たのは初めてだ。こんなにも無防備で、こんなにも憔悴した。
 本当に彼は自分が連れてきた男と同一人物なのだろうか。これではまるで糸の切れたマリオネットだ。
「……なんだ? 言われなければどこから来たかもわからないのか?」
「あ、い、いえ! そういうことではなく!」
 急にぎろりと睨まれて、ローガンは慌てて姿勢を正す。すぐに港へ向かわずにいるとヘウンバオスはますます両目を血走らせた。
「も、もしお疲れでしたら行きのような早馬はやめにして、バオゾまで私の船で向かいますか? 横になっている間に着きますし、お身体にも良いのではと思いますが」
 勇気を出して提案する。媚を売ろうとしたのではない。豪商の直感が騒いだのだ。凄まじい商談のチャンスが訪れようとしているぞと。
「……船か。まだこの一帯の海をしっかり見たことはなかったな」
「ええ、ええ、そうでしょうとも。アレイア海を出てすぐにコリフォ島という風光明媚な島がございまして、いいところだと聞きますよ。実はイーグレットたちがその要塞に身を寄せたらしいんですがねえ。本国は手放してもコリフォ島はまだ自分たちの領地だと勘違いしているのかもしれません」
 ローガンはちらりと天帝の反応を窺った。
 王家を追放しただけではパトリアの血は途絶えない。いつどんなきっかけでイーグレットが担ぎ出されてカーリスの邪魔をするかわからなかった。
 潰せるときに敵はきちんと潰しておくべきなのだ。この東方交易の通商権をカーリス商人で独占し続けるためには。
「……湖はあるのか?」
 予想外の質問にローガンは「は?」と尋ね返した。聞き間違いかと思ったがどうやらそうではなかったらしい。もう一度同じ質問を繰り返される。
「コリフォ島に湖はあるのか?」
「えっ、あ、ええ、確かあったと……いや、あります! あります!」
 島の南西に渡り鳥が巣を作る水辺があるという話を思い出して頷いた。天帝はそれ以上何も聞かず、玉座の背もたれに身を預ける。
 しばし無為な沈黙が流れた。
「……あ、あのー、もしコリフォ島へ立ち寄っていいのでしたら、うちの兵で島を占拠して構いませんかね? いや! 正直に申し上げると島ごとカーリス共和都市に賜りたいのです! アクアレイアが東パトリアの海を任されていたように、我々もジーアン帝国の海を任せていただきたいのですよ!」
 こう訴えた本音は「アクアレイア商船をアレイア海に封じておきたいから」だった。そうすれば市場から締め出された彼らの穴埋めはカーリス商人の仕事になるし、商売の規模をもっと広げられる。
 普段のヘウンバオスにこんな話はとてもできない。ジーアンがどう得をするのかと一蹴されるのがオチである。だが今日の、この思考力を失った彼ならば――。

「……好きにしろ。いいから早く私をここから遠ざけてくれ……!」

 やったとローガンは心の中で拳を握った。「ありがとうございます!」と礼を述べ、足取り軽く控えの間へと退出する。
 ヘウンバオスは神の化身だ。己の言葉は覆せない。コリフォ島には砦があると言ったってアクアレイアは通商条件の締めつけでいくらでも脅せるし、島は手に入ったも同然だった。
 なんたる僥倖! ジーアン上層部に何があったか知らないが、事件様々だ!
「ふっふっふ……! いやあ、ツキが巡っておりますなあ……!」
 堪えても堪えても笑みを堪えられないローガンに衛兵とラオタオはぽかんと口を開いた。今年の春はとりわけ素晴らしい春になりそうだった。









(20151016)