かつて栄華を誇った者の落ちぶれた姿ほど惨めなものはない。その辺の村娘だってもう少し手入れの行き届いた格好をしているだろうに、十年ぶりに再会したアニークは全身よれよれのしおしおだった。
ルディアが彼女と知り合ったのは幼少の頃である。東パトリアの皇帝一家が揃って外遊に訪れた際、同い年の姫として遊び相手に任じられたのだ。
アニークがアルフレッドに潤んだ瞳を向けた瞬間、昔と変わらぬその態度に当時の不愉快な記憶が甦った。
――アクアレイアって水浸しなのね。こんなところ、カエルでもなきゃ住めないわ。
失礼な物言いに何度笑顔が引きつったことか。「カエルが住むのは淡水です」と訂正するのも我慢して小さなルディアはワガママ皇女に付き添った。すると今度は「波に触ってみたい」と馬鹿を言い出して、注意も聞かずゴンドラから落っこちたのだ。
――だって、だって、ルディア姫が大丈夫だって言ったのよ。私は悪くないでしょう?
泣きじゃくって訴えるアニーク。非を押しつけられたルディアは絶句した。
彼女の自己弁護は実に巧妙なものだった。まず自身がいかに小さく頼りなく守られるべき存在であるかアピールする。「知らなかったの」「できなかったの」は皇女が用いる最強の言い訳だ。次に彼女の傍らに、彼女を導き保護するべき存在がいたと力説する。己の失敗を他者の怠慢にすり替えるわけである。
この理不尽極まりない女はアクアレイアに留まる間、大変な難敵となった。まさか自分の弱さを盾にする人間がいるとは思いもよらなかったからだ。
怒りを感じるたびにルディアはアニークを軽蔑した。彼女だけは長じて大器となることはあるまいと確信を重ねた。
が、同時に有益なアイデアも得たのである。皇女を真似れば祖母グレースはルディアを見くびってくれるだろう、と。
直感は正しかった。ぶりっこの活用法を学んだルディアに祖母はあっさりと騙された。ある意味ルディアは彼女のおかげでグレディ家に潰されずに済んだわけだが――。
「うっ……ひっく……、ごめんなさい、人と会うのが久しぶりで……グス……っ」
アニークが涙を拭うのをルディアは冷めた目で見つめた。何はともあれ弱々しさの誇張から入るところは変わっていないらしい。世界有数の大都市ノウァパトリアで育ったくせに、他には学ぶことは何もなかったのだろうか。
「つーか東パトリア帝国の皇女様がなんでジーアンの宮殿にいるんだ?」
「レイモンド、忘れたんですか? 二年半前にジーアン帝国が東パトリア帝国と休戦協定を結ぶ条件として人質に出されたんですよ。アクアレイアでも散々話題になったじゃないですか」
「ああ! そう言えばそうだっけ!」
そう言えばそうだっけ、ではない。ユリシーズの方便にもアニークの名前が使われているのに簡単に失念するな、馬鹿者め。
そう、現在アニークは囚われの身であった。東パトリア帝国が領土の南半分を天帝に奪われたとき、「皇族の中から人質をよこせ」と脅された東パトリアが人身御供に彼女を差し出したのである。褐色肌の娘より白い肌の後妻を愛した皇帝が厄介払いしたとも言われていた。いずれにせよアニークの時代はとうに終わっている。
「人と会うのが久しぶりってどういうこと? 皇女様の侍女は?」
モモの問いにアニークははらはらと涙を溢れさせた。わざとらしい嘘泣きを見ているとつい吹き出しそうになっていけない。この女の言うことを鵜呑みにするつもりはないが、一応真面目に聞くふりくらいしておかねば。
「実は私の侍女は天帝に粗相をしたとかで突然追い出されてしまったのです。それでもう半年も、私ずっとひとりぼっちで……」
寂しかったと震える声は男たちの同情心を誘った。アルフレッドは「高貴な女性にそんな仕打ちをするなんて」と怒りを露わにしているし、レイモンドも「ひでー話だ!」とぷりぷりしている。頭の出来は良いはずのバジルもこの種の話に示す反応は単純だった。
「天帝に粗相を働いた? それは宮殿を叩き出されても仕方のない話では?」
噛みついたのはアンバーだった。どこまで役に没入しているのやら、目玉を剥いてアニークを睨みつけている。ジーアン帝国の聖預言者が紛れているのに気づいた皇女は慌ててかぶりを振った。
「ち、違うんです! 決してあの方に不満があるわけでは!」
「当然でしょう。しかし一方の言い分だけを聞いて判断するのは早計ですね。私は少々席を外して我が君に確かめてまいります。宮殿に供も連れずに皇女がいるのはどういうわけか。アイリーン、行きますよ!」
「は、はい! ハイランバオス様!」
いつもながら上手い具合に舞台を整えてくれる女だ。これで中庭に残るのは防衛隊のみとなった。アニークも事情を打ち明けやすくなったはずである。
ルディアが皇女を窺うと、ちらりと視線が向けられた。が、彼女はすぐさま隣のアルフレッドに目を移す。おそらくこの中で彼が一番親切そうに見えたのだろう。
「騎士様、私をお助けください。アクアレイアへ向かう船に、どうか私も一緒に乗せてほしいのです……!」
騎士の手を取りアニークが頼み込む。アルフレッドは驚いて目を丸くした。畳みかけるように皇女は己の不遇について語り出す。
「侍女を国に帰されて、私の面倒を見てくれる人間は誰もいなくなってしまいました。ドレスは臭くなって着られなくなってしまったし、食べ物だってここの果実をかじるしかなくて……。私、もっとましな暮らしを送りたいんです! 音楽を楽しんだり、小鳥を愛でたり、好きな物語を読んで暮らしていた子供の頃みたいに……!」
――もう駄目だった。耐えきれなかった。会ったばかりの人間に亡命幇助を依頼するわ、恥ずかしげもなく享楽主義をひけらかすわ、この女は。
「あっはっは! 無理に決まっているでしょう! アクアレイアはジーアンと揉め事を起こす気など毛頭ありませんからね。それに我々はルディア姫の直属部隊です。尚更あなたの手助けなどできやしませんよ。親イーグレット王派の皇妃と違い、確かあなたは親グレディ家派でしたよね?」
悪いが他を当たってくれとルディアは首を横に振った。まさか一介の兵士にコケにされるとは思ってもみなかったらしく、ぽかんと間抜け面を晒した皇女はみるみる真っ赤になっていく。
「い、一国の姫が頭を下げているというのに、なんと尊大な!」
「これは失敬、しかし今のあなたに本当に『一国の姫』と言える価値が残っておられるのでしょうか? 南部の生まれでありながら皇帝の座す北部に尻尾を振り、母君が亡くなられた途端その北部からも見放される。あなたを持ち上げようとする勢力はあなたを傀儡にしようと狙う外国貴族だけ。そうでしょう?」
「ぶ、無礼者! 不敬罪で牢獄に繋いでやる!」
「面白いご冗談だ。あなたが命じて動く兵が一体どこにいるんです? 無意味に吠え立てるより今はご自身でできることを探されるのが賢明かと思いますよ。この宮殿に囚われて以来、どうせなんにもしてこなかったんでしょう?」
「……ッ」
冷たいルディアの糾弾にアニークは唇を噛んだ。返答に窮するということは概ね図星に違いない。
「ひ、酷い……っ」
お定まりのパターンで彼女はしくしく泣き始める。だが生憎ルディアは涙や責任転嫁に怯む人間ではなかった。寧ろ火に油を注ぐだけだ。苛立ちで気分が悪くなる。こんな寝ぼけた女が皇女をやっているなんて。
「わ、私は天帝に命を握られているのよ? それなのに、あの男のすることに逆らえるはずないではないの。ノウァパトリアに帰りたいと思ったって、わ、私には……っ」
馬鹿が、そうやって心まで屈服するから生きたまま道具にされるのだ。自分では何もしようとしない者に誰が力を貸してくれるものか。
「おい、ブルーノ。ちょっと言い過ぎだぞ」
――いや、嘘だ。一人いた。騎士たるもの女子供に無体な振る舞いをしてはならないと頑なに信じている大馬鹿者が。
「人質としてたった一人で宮殿に取り残されていたなんて、さぞ心細かったに違いない。弱っている女性にそんな言い方をするものじゃあ……」
「わかったわかった、私が悪かった」
早々に折れたのは話がくどくど長くなりそうだったからである。まったく、この自分を叱る男など彼か父くらいのものだ。
「まあ、あなたは私を庇ってくださるの?」
上目遣いのアニークがそっとアルフレッドに寄りかかる。張り倒したい気分でルディアは皇女を眺めた。満更でもなさそうな騎士の表情に尚更腹が立ってくる。
「アクアレイアへお連れするのは不可能ですが、バオゾにいる間、話し相手をさせていただくくらいなら。なんの慰めにもならないかもしれませんが……」
「いえ、いえ、十分です。ああ、誰かの真心に触れるのも久しぶり。私がこの街に連れてこられたときからジーアンの人間は本当に不遜で傲慢で……」
アニークはアルフレッドを泣き落としのターゲットに定めたようだ。そんな皇女の狙いも知らず、騎士は真面目に話に耳を傾けている。
(私はさっさと部屋を決めて明日からのことを相談したいと、そう言っていたはずなんだがな? そうかそうか、そんなにその女を放っておけないか)
チッとルディアは舌打ちした。くそ、面白くない。大体弱りきっているのは私だって同じだぞ。王国の未来を憂い、自ら敵地に潜り込んでいるというのに扱いに差がありすぎないか?
(……普通の男が思い描く『理想の姫君』はああいう女なんだろうな……)
己の思考にダメージを食らい、いかんいかんとルディアはぶんぶんかぶりを振った。
ふん。私だって馬鹿でいられるなら馬鹿でいたかったさ。
******
身を置く場所が決まったのはそれからたっぷり一時間後だった。一階はどこもアニークに荒らされていたため、ルディアたちは二階の大部屋を借り受けることにする。
本当は会議室にでもなる予定だったのか、室内の調度品は華やかな紅一色に統一されており、机や椅子もたくさんあった。宿泊設備は整っていないが庶民どもの寝床には長椅子があれば十分だろう。座面は滑らかで柔らかく、安物のベッドより寝心地も良さそうだった。
「あー疲れたあー。アニーク姫の話、長いしつまんないしモモ途中から聞いてなかったよー」
「あはは、なかなかご大層な『私こんなにつらかったの節』でしたからね」
「あのお姫様と結婚する男は大変だろうな。あの調子で延々グチグチやられてたら飯がまずくなっちまうぜ」
部屋の扉を閉めると同時、モモとバジルとレイモンドが一斉に溜め息を吐き出した。ノンストップで聞かされた嘆きの声はルディアの耳にもまだ反響している錯覚がする。
「お前たちまでそんな風に言って、お可哀想じゃないか」
「うん、確かにお可哀想。身分に精神が追いついてないって哀れだね」
「こら! モモ!」
「ハハ……、けど僕もモモの言う通りだと思います」
「俺もー。つーかアル、お前まだアニーク姫のソロステージに付き合ってやるつもりかよ? はっきり言って時間の無駄だぜ」
「当然だ。俺は騎士として一度した約束は守り抜く」
「うへえ、忍耐あるなー」
「モモはもうやだ!」
「うーん、僕もちょっとご遠慮願いたいですかね……」
「おい、お前たちいつまであんな女の話をしている。アイリーンたちが戻ってきたら……」
ルディアが四人のお喋りを諌めようとしたそのとき、コンコンとノックの音が響いた。そっと扉を開いてみれば、ちょうど帰りを待っていた二人が並んで立っている。
「どんな粗相だったか知りたいですか?」
アンバーの笑顔には言い知れない迫力があった。それだけで追い出されたという侍女が相当派手にやらかしたのがわかる。
「な……何をしたんだ?」
「我が君の愛馬が走る道に洗濯物を干していたそうです」
うわ、とバジルのドン引き声が漏れた。「それの何がそんなにヤバイんだ?」と首を傾げるレイモンドにアイリーンが説明を加える。
「馬ってとっても繊細な生き物なのよ。もちろんヘウンバオス様の馬だから、洗濯物くらいで動じることはないんだけど、突っ込んで足を痛めたり、驚いて身を反らしたりして騎手を落馬させる危険もあるでしょう? 悪気はなかったと思うんだけど……」
悪意がなければ何もかも許されるのかと言えばそんなことはない。無知とは恐ろしいなと背筋が粟立つ。そもそも天帝の通り道くらい把握しておけという話だが。
「アニーク姫に申し開きはあるかお尋ねになられたら『私も侍女もそんなこと教えてもらってなかったんですもの』と答えたそうで。いや、よく追放だけで済ませたなと我が君の寛大さには心を打たれました」
「そ、それは首を刎ねられなかったのが不思議なくらいだな」
「わあー、大人の対応ー」
ハートフィールド兄妹が思わず拍手する程度にはヘウンバオスのほうが立派な皇族に思える。天帝が代わりの侍女を来させなかったのも頷けた。誰だって非常識な人間に大事な庭を荒らされたくない。
「まあ彼女のことはどうでもいいだろう。それより明日からの方針を固めるぞ」
ばっさり切ってアニークの話題を終わらせるとルディアは一同をテーブルに着かせた。
ひとまず天帝に面通しは済ませたが、交渉のためにはそれだけではもちろん足りない。ヘウンバオスやジーアンについてもっと知らなくてはならないし、王国側にも興味を持ってもらわねばならなかった。何しろルディアたちはまだ天帝にも十将にも自由に話しかけられない低い立場なのだから。
「聖誕祭は今夜から始まりますよ。祝祭期間の十日間、あなた方も好きに外出して良いとのお達しです」
「よし、ならまずバオゾを見て回ろう。調査したいことはいくらでもある」
「じゃあ僕地図作りまーす」
「俺地元の人に話しかけまーす」
「モモ様子見て動きまーす」
「では俺は他国においても規律ある行動を心がけつつ臨機応変に」
「わ、私もバオゾなら道案内できそうだわあ」
全員ルディアに協力的でまことに結構だ。やっと本筋に戻れたなと息をつく。アニークの長話さえなければ日の高いうちに情報収集を始められたものを。
「通商安全保障条約も重要だが、ジーアンの次なる侵略目標についても予測を立てておかねばならん。兵糧物資の流れ、建築資材の流れ、ジーアン人の放牧ルート、その他耳にした噂は全て私に報告しろ。いいな?」
「ああ、了解だ」
「よっしゃ、そんじゃ荷解きして冒険に出かけようぜ! 宮殿から攻めるか!? それとも街に繰り出すか!?」
「僕は宮殿派です! おっ先ー!」
「あっバジルずるい! モモも行く!」
「ああッ! てめーら待ちやがれ!」
「こら、バジル、モモ、レイモンド! 屋内で走り回るんじゃない!」
どたばたと駆け出していく四人を見送りルディアはふうと嘆息した。敵陣のど真ん中でも元気がいいのは良いことだ。そう思うことにしておこう。
「あの子たち、コナー先生が静かに過ごしたいって言ってたの覚えてるかしら」
「大丈夫ですよ、アイリーン。彼ならさっき庭を出ていきましたから」
まだ部屋に残っていた二人をルディアはそっと振り返った。ちょいちょいと手招きすれば、それに気づいたアンバーが「なんでしょう?」と身を屈める。
「一つ頼み事がある。タイミングが大事だから、必ず行けるという場を狙ってほしいんだが……」
ごにょごにょと策を伝えると聖預言者はなるほどと頷いた。アイリーンも目を輝かせ、「それは絶対に上手く行くわ」と断言する。
「任せてください。美しきアクアレイアのために尽力いたしますよ」
「ああっ! ハイランバオス様、なんて頼もしい……!」
アイリーンもついているし、相手が誰でも臆せず話せるアンバーなら任せてしまって大丈夫だろう。頼んだぞと念を押し、ルディアも会議室を出た。
騒がしい声を頼りにアルフレッドたちを追いかける。結局この日は広い宮中を確認するだけで終わりになってしまったが。
******
翌朝、祝祭ムードに包まれた街の光景は昨日のそれと一変していた。家々の屋根から屋根に赤青二色の旗が下がり、男も女も華やかな縞模様のチュニック姿で歩いている。路傍は行商人の露店に隙間なく埋め尽され、馬は種類や大小を問わず雄々しく飾り立てられていた。どこからか流れてくる楽しげな鼓笛の音色も祭りに花を添えている。曲がりくねった通りには溢れんばかりの人、人、人。昨日の三倍は増えた気がする。きっと各地から多くの巡礼者が訪れているだろう。ジーアンの民にとって君主の誕生日はバオス教の宗教行事でもあるのだ。
「あっ、ハイランバオス様だ!」
子供の声にルディアたちは足を止めた。まだ天帝宮を出て十分もしていないのに、たちまちアンバーが目聡い少年少女たちに囲まれる。
「遠くの国に行っておられたんでしょう? おかえりなさいませ!」
「ねえねえ、久しぶりにハイランバオス様のお話聞きたい!」
「あたしも! あたしも!」
「ヌル様のやつがいい!」
せがまれたアンバーがこちらを見やって目で詫びた。バオス教の教祖として彼らの期待に応えてやるつもりらしい。
「おい、ハイランバオス様が説法をなさるみたいだぞ!」
「どけどけ! 邪魔だ!」
こうなると大人たちも放ってはおかなかった。遠目に様子を見ていた一団があれよと言う間に人間バリケードに変わる。信者たちの突進で防衛隊は危うく潰されるところだった。
「うーん。それでは今日は神々の歴史を簡単におさらいしましょうか」
ここでもアンバーに疑いを持つ者はいない。演技が板につきすぎて同化したのかと思うほどだ。アイリーンなど早くも「ううっ、ハイランバオス様……!」と嗚咽を上げている。
「歴史ってどこからー?」
「初めからですよ。一年に一度は全ての始まりを胸に刻み直さねばなりません」
うんうんとご老人たちが頷いた。手を合わせてありがたがる彼らを見ていると、本当に妙な街だなという思いがむくむく膨らんでくる。バオゾの街並みは典型的な東パトリア帝国のものなのに、人々は心から天帝一族を敬い、慕い、何十年もジーアンの一部だったように映る。
実際のところ、バオゾはヘウンバオス統治下に入ってまだ三年だった。この僅かな期間で彼らはすっかりバオス教に染まっているのである。これも天帝の巧みな宗教統合の成果だった。
「――うんと昔のお話です。世界には今とは違う古い神々が住んでいました。けれどこの神々は、長い年月が過ぎるうちに力を失くし、滅びて大地になってしまいました」
集まった民衆は聖預言者の言葉に耳を傾ける。新しい考え方に染まりやすい子供だけでなく、大人や老人も同じように。
ルディアの耳にさえハイランバオスの穏やかな声はよく馴染んだ。アンバーが話しているのはパトリア世界に広く知られた創世記だったから。
「古い神々が聖櫃を残して消えた後、空と海からまた新しい神々が生じました。この神々には良いものも悪いものもいて、彼らは頻繁に争いを繰り返しておりました。そのうちに力をつけた一柱の男神が他の精霊を束ねる主神となったのです。彼こそが主神パテル。今も各地で祀られるパトリア十二神の長であり、今この世界を支配する神。――皆さん、ここまではよろしいですね?」
問われた人々は神妙に頷く。レイモンドまでこくこくと頷くのにルディアは秘かに頭を抱えた。
アンバーの語った伝説が所謂「パトリア神話」である。昔は西パトリアでも東パトリアでもこの神々が同じように信仰されていた。三百五十年ほど前、大パトリア帝国が分裂するに至るまでは。
「十二神、特に主神と四大精霊は強い神々として崇められてきました。けれどいつも、時代は過ぎ去るものなのです。あるとき砂漠から来た男が言いました。『私は次の時代の神に遣わされてきた預言者だ』と。『その神は偉大な男の肉体に宿り、大軍を率いてパトリアの神々を滅ぼすだろう』とも」
さなぎの中で目覚めを待つというその神はヌルと呼ばれた。ヌル教は瞬く間に広まって、やがて独立を宣言した東パトリアの国教になった。西パトリアは絶縁状を叩きつけられたも同然だった。
だが話はそれだけでは終わらない。大帝国を真っ二つにしたヌル教は、今度は東パトリア帝国を割ったのだ。ヌルの預言者は後継者を指名しないで死んでしまった。誰が信者を纏めるべきか、嫡男派と副教主派は揉めに揉めた。
そこに東パトリア皇帝がしゃしゃり出てきて事態を更に悪化させる。皇帝の保護した嫡男派と、民衆に支持された副教主派は北南に分かれていがみ合った。泥沼の内紛は三百年の長きに及び、強大だった東パトリア帝国をじわじわ疲弊させていった。
ヘウンバオスが食えないのはこのヌル教に目をつけたことである。「神は東方より来る」という預言を利用して、あの男は剣を交えずに東パトリアの半分を手に入れてしまったのだ。
「あなた方がヌルと呼ぶ神こそが我らの君に他なりません。さあ、祈りを捧げましょう。やがて全ての頂点に立つあの方に!」
両手を合わせる人々をルディアはちらりと盗み見る。
ヘウンバオスはヌル教幹部を抱き込んで領地だけでなく威光も獲得したわけだ。ただの戦上手のやり方とは思えなかった。
出し抜くのはやはり難しいかもしれない。ラオタオのように船を舐めきってくれているならまだやりようもあるが、そんな期待はしないほうが良さそうだ。ヘウンバオスは世界中の商船が集うノウァパトリアの傍らに暮らしてなお海に欲を示さぬ曲者なのだ。心得ているのだろう。己の配下が騎馬民族であることを。
あの男はおそらく意図的に支配地域から船を排除している。建て捨てられた天帝宮にしても話は同じだ。船より馬を、石の城より布の住いを。そうやってジーアンの力を担う騎馬兵に、特権階級はお前たちだと示してやっているのである。統制された軍の力は船の利便性に勝ると断じて。
(私が奴を買い被りすぎているだけならいいんだがな)
ルディアは目だけで天帝宮を振り返る。
この恵まれた海峡に首都を置きながら海洋進出を考えないなど有り得ない。有り得ないが、その理由が鉄の軍団を維持するためなら納得できた。
(ヘウンバオスの考えが私の想像する通りなら、当面ジーアン帝国は自前の船を持とうとはしないはずだ)
唯一その一点にアクアレイアの手繰り寄せられそうな希望がある。天帝とて船が欲しくないわけではないだろう。ゆくゆくは主要な海運国のどこかと同盟を結ぼうとするはずだ。名乗り出る準備は整えておくべきである。いつまでも敵でいるにはジーアンは強すぎる。
「……祈りは捧げ終わりましたか? では私は客人をもてなさねばなりませんので、今日はこれで」
説法は終わったようだった。ルディアたちは再び、人波を掻き分けて往来の雑踏に紛れ込んだ。
******
「ああっハイランバオス様!? やっとバオゾにお戻りに!?」
「ハイランバオス様! うちの娘に赤ん坊が生まれたんです! 是非とも顔を見てやってください!」
「ハイランバオス様! この笛お渡ししたかったんです! ハイランバオス様のために頑張って作ったんですよ!」
「わあい皆、ハイランバオス様の後に続けー!」
聖預言者は予想以上の人気者だった。一人相手が終わるとまた一人、或いは数人のグループがルディアたちの行く手を阻む。無視するわけにもいかなくていちいち立ち止まっていたが、当然バオゾの調査は一向に進まなかった。
「ハイランバオス様、今から聖堂で結婚式があるんです! どうか祝福の花を撒いてはくださいませんか?」
やっと波が過ぎたと思ったらまたも新たな信者に呼び止められる。いい加減うんざりしてきたルディアに「あなたたちだけで行ったほうが早いかも……」とアイリーンが耳打ちした。
「そうだな。『ハイランバオス殿』に同行していただく必要のある場所はピックアップするだけにしておくか。アイリーン、こっちは任せたぞ」
「ええ、片時も離れないわ。だって笑顔を振りまくハイランバオス様とっても素敵だもの! ウウッ……」
「こんな人混みで泣き出すな! なんでお前はすぐに感極まるんだ!」
本当に、アンバーよりもこの女のほうが心配だ。しかしこれ以上無駄にしている時間はない。一旦ここで二人と別れることにして、ルディアたちは比較的空いた脇道に避難した。
「予定より遅れたが、昨日話していた通りだ。可能な限り情報収集を行うぞ」
「ねえねえ、モモお腹減ったんだけど」
「それじゃ市場のほうへ抜けましょうか。多分ここをまっすぐ行けば着きますよ」
「飯食ったらいよいよバオゾ探検だな!」
「だから探検ではないと言っているだろう!」
「なあ皆、少しいいか?」
歩き出した防衛隊をアルフレッドが引き留める。一体なんだと振り向けば、騎士は背後に聳える天帝宮を仰ぎつつ「あの二人とは別行動ならアニーク姫も誘って差し上げられないか?」と問うてきた。
「……お前までどうしたんだ? 遊びにきたんじゃないんだぞ?」
「いや、それは承知している。だが帰ってからだと皇女を訪ねるのが遅くなるし、暗い中でお会いするのはさすがに憚られるというか……」
もごもごとアルフレッドが言い淀む。ああ、なんだ、そういうことかと合点した。
迂闊に話し相手になるなんて約束をしたせいでこの馬鹿は日中の己の時間を割いてやらねばならなくなったのだ。考えなしめ、天帝宮に戻るのはどれだけ早くても夕方だぞ。
「なんならお前だけ城に戻るか?」
「えっ」
「あんな女でも一応は東パトリアの皇女だからな。恩を売っておいて損はあるまい。私では相性が悪すぎるし、お前がやってくれると助かる」
「だ、だがバオゾで予定していた活動は?」
「それは我々だけでも可能だが、あれの相手はお前でなくては務まらん。我慢強く、誠実にだぞ? レイモンドやモモにできると思うか?」
「た、確かに……」
「コラコラコラー!」
「確かにじゃないでしょ、アル兄!」
騒ぐ二人を手で制し、ルディアはアルフレッドに命じる。
「アニーク姫に関してはお前に一任する。手懐けて味方につけろ。以上だ」
期待していると付け加えればアルフレッドの目つきが変わった。そうそう、この男にはこういう言い回しをしてやればいいのだ。お前に与えられた任務は特別で、きちんと意味のあることなのだぞと。
「わかった。やってみよう」
ほら、しっかり乗り気になったから大丈夫だ。
(海賊どもと一戦交えたあの後は雨に打たれた捨て犬みたいになっていたからな……)
力強く道を引き返していく騎士を見やってルディアは内心ほっとした。どうやら同じ失敗は繰り返さずに済んだようだ。
少し意外な気もするが、アルフレッドは防衛隊の中で一番自己顕示欲が強いのだ。泣き言は口にしないものの、扱い方を間違えると痛ましい目でこちらに何か訴えてくる。ルディアにもだんだんわかってきた。
(隊長としての権限を奪っている分、少しは立ててやらんとな)
ひょっとするとアニークから思わぬ話を聞き出せるかもしれない。騎士には別枠で頑張ってもらうとしよう。
四人になった防衛隊は市場で軽食を摘まんだ後、バジルお手製の地図を片手にバオゾの街を巡り歩いた。二人きりの天帝宮でアルフレッドが皇女とどんなひとときを過ごしたか、思い馳せることもなく。
******
――お父様、私イヤです! どうして私がヘウンバオスのところへ行かねばならないの!?
――アニーク、我侭を言わないでおくれ。人質は皇族に限ると脅されているのだよ。
――それなら皇子でも構わないではありませんか! 継承順位を考えたっておかしいわ!
――皇子は駄目だ。妃が天帝には渡したくないと言っておる。せめてお前が新しい母上と上手くやってくれていればなあ……。
そんなと嘆くアニークに父は残念そうに告げた。ジーアンへ行っても達者で過ごせと。泣き喚いても仮病を使っても決定は覆らず、アニークは迎えの馬車に押し込められた。
酷いわ、酷いわ。これが血を分けた娘に対する仕打ちなの。お父様は私よりあの女が大事なのね。お母様が生きていた頃、お父様はあんなに優しかったのに。私の思い通りにならないことなんてなかったのに。恐ろしい男たちに何をされるかわからないわ。どうして私ばかりがこんな目に遭わなければならないの。
――良かったな。私は阿呆には興味ない。
冷笑が耳に甦る。豚のほうが食べられるだけまだ有用だと言った男の。
――一応生かしておいてやるが、今後は身を弁えるのだぞ。お前には側仕えなど贅沢だ。己の程度に相応しい環境で暮らすといい。
待ってと頼んだが無駄だった。侍女の代わりに必死で詫びたがヘウンバオスは聞き入れてくれなかった。アニークに待っていたのは美しい天帝宮での畜生同然の生活。世話してくれる者はおろか訪ねてくる者さえいない。
あんなところに洗濯物を干したのは私じゃないのよ。それなのに何故こんなことになってしまうの。私が悪かったんじゃないわ。私は何もしていないわ。ねえ、そうでしょう?
「……姫! アニーク姫!」
うるさいわね、大きな声で呼ばないで。誰一人わかってくれなくて私は落ち込んでいるんだから。
「アニーク姫、大丈夫ですか!? しっかりしてください!」
何よ、一体誰なのよ。私を嘲笑うつもりなら早くどこかへ消えてちょうだい――。
「きゃああああッ!?」
急に身体が宙に浮いたので驚いて目を開いたら、誰かに抱き上げられていた。思わず肩を突き飛ばす。すると弾みで真っ逆さまに転がり落ち、自分のほうが痛い目を見る羽目になった。
「も、申し訳ありません。ご病気で倒れられたのかと思って」
お詫びの言葉に顔を上げる。見れば中庭の果樹を背景にアルフレッドが尻餅をついていた。すぐさま騎士は起き上がり、アニークに優しく手を差し伸べてくれる。
「眠っておられただけでしたか?」
「ええと……。確かお腹が空いたから果物を取りにきて、そうしたら気が遠くなってしまって……」
「毎日こんなものしか召し上がってないからですよ。外で色々買ってきましたから、どれでも好きなものをお食べください」
言われてアニークは盆に載ったチャイやシミット、クンピールに気がついた。チーズのかかったふわふわのピデに揚げキョフテまである。
「ま、まあ……! いただきます!」
アニークは目を輝かせ、地べたに座って祭り料理を頬張った。はしたなくもチャイはがぶ飲み、甘いシミットはひと口でぺろり、ご飯もののクンピールはがつがつと掻き込んでしまう。揚げキョフテに詰まった具は熱々の挽肉で絶品だった。長く持ちそうなパン生地のピデは大切に布に包んでおく。こうすれば明日も舌を慰められると考えたのだ。
「ありがとう、アルフレッド! ああ、やはりあなたは頼れる騎士様だったわ。久しぶりに生き返った心地よ」
「お誉めに預かり光栄です。姫が力を取り戻されて安心しました。やはり体力が衰えていては何もできませんからね」
「ええ、本当に! 今ならこの宮殿中を駆け回れそう!」
「それは頼もしい。でしたら早速そうしましょう!」
えっとアニークは笑顔のまま固まった。アルフレッドの言わんとすることがわからずに。
今からこの宮殿中を駆け回る? まさかとは思うがそう言ったのか? 彼のノウァパトリア語は綺麗で聞き取りやすいけれど、何か聞き間違えたのだろうか。
「昨日は俺たちもこの天帝宮を隅から隅まで回ってみたんです。それで地下に使用人部屋を見つけまして」
「え、ええと、アルフレッド……?」
「俺たちは十日ほどしか滞在しませんが、あなたはいつ東パトリアに帰れるかわからないわけでしょう?」
「そ、そうだけど……」
「なのでせめてバオゾにいる間、アニーク姫がひと通り身の回りの家事をこなせるようになるお手伝いをさせていただこうかと!」
咄嗟に身を引いたアニークの逃げ道を塞ぐようにアルフレッドが回り込んだ。首を横に振り「お、皇女に必要な技能かしら?」と問うてみるが、騎士の態度は変わらない。
「城に戻られた後のあなたではなく、今ここにいるあなたの役に立つ技能です」
大真面目に言い切られ、そうじゃないでしょと更に激しく首を振る。
「あなたが私をアクアレイアに連れていって保護してくれれば私が小間使いの真似事なんてする必要は」
「え? それは昨日不可能だと申し上げたはずですよ?」
「で、でも私、ムリって言うかイヤって言うか」
「要は慣れです。さあ、まずはこの空いた器を洗うところから始めましょう!」
アニークはこの日、アルフレッドの融通の利かなさを嫌というほど思い知ることになった。井戸水の汲み上げ方から皿を並べる順番まで事細かく指南され、何故そのように行うのかの理由まで叩き込まれる。手順を間違えたときは容赦なくやり直しを命じられた。天帝よりも恐ろしいと震えたほどだ。
「もう計画は立ててあります。明日は洗濯、明後日は掃除、明々後日は魚釣り、それから鶏の捌き方、基本の調理、火の始末、怪我や病気の応急処置、ざっとこのくらいは身につけていただきますので」
「ヒッ!? 鶏を捌く!?」
「大丈夫、俺の妹なんて七つになる前からやっています」
「大丈夫じゃない! 全然大丈夫じゃないわ……!」
――それから数日、アニークには地獄の試練が続いたのだった。
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夜になり、街での下調べを終えて天帝宮に戻ったルディアはアルフレッドの報告を聞いてもんどりうった。抱腹絶倒なんてものではない。腹筋が死ぬかと思った。まさか東パトリア帝国の皇女に新入隊員と同等の指導を試みるとは、斬新な擦り寄りではないか。
「……もしかして無礼だったか?」
「いや、あの女にはいい薬だ。どんどんやってくれ」
まだ痛い腹を擦ってルディアは肩を震わせる。アニークがどんな顔で洗い物をやっつけたのか想像するだにおかしかった。
「さっすがアルだな。予想を上回る展開だぜ」
「僕なら皇女の愚痴を聞き続けてストレスを溜め込んで一日終わってるところですね……」
「うーん、そういうとこ軍人家系なんだよねー。まあモモもだけど」
紅色の会議室はしばし感嘆の声に満たされた。まだまだ笑っていられそうだがアニークに割いてやる時間はない。さっさと打ち切って本題に移る。
「こちらの成果も伝えておこう。地図は七割方埋まった。バオゾは二重構造の街らしいな。外縁部には地元の者しか出入りできないようだったから、明日はアイリーンたちにも付いてきてもらう予定だ」
「そうか。ジーアン兵に怪しまれないようにくれぐれも気をつけてくれ」
「ああ、何か聞かれても『ハイランバオス殿の付き添いだ』で押し通すさ」
当初想定した以上にアンバーはよく立ち回ってくれていた。この調子で行けば最後まで騙し通せそうである。まさか肉体に別人が入り込んでいるなど誰も考えはしないだろうが。
ルディアのときもそうだった。違和感を持たれても「ブルーノ、なんか性格変わったな」で済まされていた。異文化に触れて帰ってきたハイランバオスに多少の変化があったところで気にする者などいやしまい。
「アルフレッド、アニークから天帝の話を聞き出しておいてくれるか?」
「天帝の? どんな話だ?」
「今までどんな声をかけられたか、宗派を改めるよう勧められたか、国に戻る条件を提示されはしなかったか、まあそんなところだな」
「わかった。それとなく聞いてみる」
囲い込んでいるということはアニークを利用する気はあるのだろう。ろくに構っていないところを見るにヘウンバオスも彼女の使い道を決めかねていそうだが、警戒はしておかねばなるまい。
ジーアン帝都での第二日目もこうして過ぎていった。大きな進展が訪れたのはこの四日後のことである。――ドナとヴラシィの男たちが見つかったのだ。
(20150517)