未来編 獣の試練 後編
「だーかーらー、あんたひとりにしとくと危ねえから言ってんだろ!?」
「それが余計なお世話だって言うんだ。お前に心配してもらう必要はない」
ネルトリヒが閉じようとする寝室の扉を力任せに引っ張ってバイトラークは歯を食いしばる。僅かな隙間に片足を差し込み締め出されるのを阻止しながら、何とか強情な悪魔との交渉を続けた。
「んなこと言って昨夜だって寝ぼけて火ィ噴いてたじゃねーか! こっちの気が気じゃねえんだよ、あんたが新しい火傷拵えてないかさあ」
「だったら尚更やめてくれ。知らない間に大怪我させるのはぼくとしても不本意だ」
「俺だって朝あんたの様子見に来て黒焦げの遺体と対面するなんざごめんだぜ?」
言い争いの原因は彼の夢見の悪さにある。勇者の試練を受けるか否か問われた二日目の夜もネルトリヒは夢に魘され魔力を暴走させていた。二度あることは三度あるという。今夜こそは互いの良質な睡眠のために最初から同じ部屋に泊まろうと提案したところ、先の押し問答に発展したわけである。まったく素直に親切を受ければいいものを。
「……悪夢程度に殺されるなら今まで何百回と死んでる。治癒の魔法もあるし、本当にそんなお節介要らないんだ」
足をどけろ、ドアを閉じさせろと凄む悪魔を見下ろしてバイトラークは溜息を吐いた。何百回ってなんだよと。
「ああいうのしょっちゅうあんの? 逆に放っとけねーんだけど」
ネルトリヒの眉間に高い山と深い谷が刻まれる。更に舌打ちのおまけつきで回答が返された。
「もうずっと、三百年以上こういうことはなかった。……久しぶりにこの姿で人と会ったせいだろ。お前が騒がず大人しくしてくれてりゃすぐに収まるよ」
ホントかよ、と半分疑いながら「ああそう」とぼやく。全体この悪魔は強がりである。実際その辺の軍人などよりずっと強いのだろうけれど、それは戦闘力の話だ。実戦訓練で半死半生の目に遭って酷いPTSDになった兵士も軍内にはいる。だがそいつの怯え方よりネルトリヒの方が深刻だという気がしてならない。骨折の処置を誤って今でも骨が曲がったままでいるような、当の本人がその痛みを享受しきっているような。他人に対してわかったような口を叩くのは好きでないのだが。
「よし、じゃあ間を取ろう。あんたは俺が怪我するかもと気ィ遣ってくれてんだよな? だったらあんたが寝てる間は俺は寝ない。あんたが魘され始めたらなるべく近づかずに起こしてやる。まあ徹夜することにはなるだろうけど別にそこは、あんたが働きに出てる間にいくらでも惰眠は貪れるからさ」
大丈夫だという悪魔の主張より結局心配の方が勝った。おかしな話だ、こんな魔物を相手に。
「ぼくの話を聞いてたか? そういうのが余計なお節介だって……」
「しょうがねえだろ、放っておけねーんだから!」
半ば怒鳴りつけるようにバイトラークは声を張り上げた。瞠られた赤い瞳も、醜く爛れた火傷の痕も、見慣れればそう恐ろしいものではない。何か彼にも利や狙いがあってのことかもしれないが、ネルトリヒがバイトラークに無償であれこれしてくれている事実に変わりはないのだ。こいつは人間じゃないからと冷たく見過ごすような真似はできない。
「別にどんな夢見るのかとかあんたの過去とか聞かねえよ。ただ自分の手の届く範囲で誰かが苦しんでたら目ェ離せねーだろ? 俺はあんたの呻き声をBGMにして寝れるほど悪趣味じゃねえんだよ」
観念して寝室に入れろと迫るバイトラークにネルトリヒは目を吊り上げる。近づくな、触れてくれるなと今にも切りつけそうに鋭く。
「うるさい。いい加減にしないと追い出すぞ!」
「悪魔のくせにたかが人間のお節介をなんでそんなに怖がるんだ? 俺があんたに何かしたか?」
率直な疑問をぶつけるとネルトリヒは押し黙った。怖がるという表現が彼には心外だったらしい。――否、案外図星だったのかもしれない。
「……」
「いくらあんたが嫌がろうと自分の炎で丸焼けになるような奴ひとりにできねえよ」
「……じゃあどうしたらぼくに構うのをやめるんだ? お前がぼくをどう思っててもぼくはどうでもいい。お前が優しかろうが冷たかろうが魔法のことは教えてやるし、試練に勝てばオリハルコンもやると言っている」
「だから、そういうのじゃねーんだって」
「頼むからやめてくれ。迷惑だ」
「…………」
今度はこっちが黙り込む番だった。わからねえ奴だなと出かかった文句を飲み込み、代わりに思ってもいない了承の意を示す。
「わかった。そこまで言うならやめる、やめるよ。けどひとつだけ条件がある」
「条件?」
落ち着きかけた表情をまた強張らせてネルトリヒは問い返した。
これは賭けだった。昨夜からいつ告げようかタイミングを計っていたのが、まさかこういう形になるとは自分でも予想外だったけれど。
「実は俺にももうひとつ名前がある。フェルナー家の長男が代々受け継ぐ秘密の名前だ。あんたがそれを当てられたら、俺はもうあんたに干渉しないと約束する」
ぴく、と悪魔が目と耳を尖らせる。彼もよもや自分が出した謎かけと同じ謎々を返されるとは思わなかったようだ。
「秘密の名前だと? 馬鹿馬鹿しい、適当なことを言うな」
「適当じゃねえよ、何代も前のご先祖が必ず受け継ぐようにって遺言した名前だぞ。……なんでそういうことさせたのかは曾爺ちゃんの代替わりのとき有耶無耶になっちまったらしいけど、とにかく今でも名前は伝わってる」
胡散臭いものを眺めるようだったネルトリヒの双眸がふと色を変えた。遠い昔の知人の顔でも思い出したか悪魔は深々嘆息する。そういう遺言もあったかもしれないという顔だった。
「で、勝負すんの? しねえの? どっち?」
「……お前がぼくの本名を当てるよりぼくがお前の秘密の名前を暴く方が可能性高いけど、それはいいのか?」
「ああ構わねえ。どうせあんたの名前がわかんなきゃ同じことだしな」
ふんとバイトラークは鼻を鳴らした。そう、どのみち同じ話なのだ。ネルトリヒが誰かわからないまま八日目を迎えれば二度と彼には会えなくなる。だがこうして勝負を持ちかけておけば、悪魔が正答を導き出すまでの間は彼の拒絶を撥ね退ける口実ができる。
「受けるんだな?」
「そうは言ってない」
「お? じゃあ俺に言うこと聞かせるのは諦めたってこと?」
「なんでそうなる」
「だって勝負する気がないってことは俺を止める気がないってことだろ」
「……」
「するの? しねえの?」
「……わかったよ。すればいいんだろ、すれば」
苛立った返事にバイトラークは手を鳴らした。上手い具合に釣り針に引っかかってくれた。
「そうこなくちゃな! それじゃ俺の名前がわかるまであんたには余計なお世話も黙認してもらうぜ。なにせ勝負がついてねえんだから」
そう告げるや否やバイトラークは思いきり扉を引いて寝室に踏み入った。ハッとした悪魔が「詭弁じゃないか!」と訴えてきたが、しれっと首を振り己の正当性を主張する。
「詭弁じゃねえだろ、理に適ってらあ。あんたは俺の名前さえわかれば俺の横暴を止められんだから、ほら、言ってみればいいじゃねえか名前」
「……ッ」
流石のネルトリヒも今すぐ正解には辿り着けまい。であれば彼にバイトラークをどうこうする権限はないということだ。
これで即座に言い当てられたら間抜けだな、と少々危惧したが響いてきたのは機嫌を損ねた悪魔が寝台にダイブする羽音だけだった。
「おやすみぐらい言おうぜ、おやすみ」
返事の代わりに悪魔は深く毛布の奥へと頭を沈める。もう少し暴れられるかもと思っていたのでこの潔さはやや意外だった。 もしかするとこちらが思うよりネルトリヒは気を許してくれつつあるのかもしれない。時折見せる冷たさや刺々しさにはまだヒヤリとさせられるけれど。
安眠を妨害しないように照明を落とし、ベッドサイドに椅子を運んで酒瓶の蓋を外す。抜け落ちていた羽根を拾うとバイトラークは青銀に目を凝らした。根元の色は綺麗だが先端は黒く炭化している。
なんだって自分を燃やす夢なんか見るのだろう。
どんな記憶や罪悪感が悪魔の内に眠っているのだろう。
忘れたくないものはないのかと問うたとき、明らかにネルトリヒは動揺した。幾百回も繰り返す悪夢や、癒しの魔法で治さない古傷が彼にとって「そう」なのだろうか。だとしたら痛ましい。
「……」
耳を澄ましてバイトラークは寝息が聴こえてくるのを待った。ヒントになりそうな寝言を呟いてくれれば役得なんだがとほんのり打算を働かせつつ。
羽根を手離すと宙で崩れた。床の隅では固まった灰がじっと息を殺している。
火属性か、と知らぬ間に重い息を吐いていた。
強すぎる炎でなければ火は暖かく頼もしいものなのに。
バイトラークが目を覚ますと時刻は正午過ぎだった。ピイピイと小うるさいアラームを止めて眠い目を擦る。既にネルトリヒの姿はなく、デスクには冷めた朝食が律儀に用意されていた。
サンドイッチを頬張りながら再び寝台に寝転がる。今日は夕刻まで童話と睨めっこして過ごす予定だ。
神殿にやってきてもう四日目、折り返し地点は先程通過した。あと三日半でどうにかネルトリヒの名前を判明させねばならない。
「よっしゃ、本気出すぞ」
喝を入れるべく両頬を打ち、集中して指で文字を追う。上手いこと候補をふたりに絞れればいいのだが。
ふぅむと唸りながらバイトラークは脳内の情報を整理した。ディアマントがイイ線を行っているらしいから、あの時代の誰かなのは間違いないだろう。翼の男というだけでは答えに辿り着けないようなことも言っていたし、別の切り口で考えてみる必要がある。
確かイデアールは人に近い姿をしたり巨大な黒竜に化けたりしていた。あれはネルトリヒがふたつの姿を使い分けているのと似ている。他にも変身能力を持つ男はふたりいる。ハルムロースとその部下リッペがそうだ。特にハルムロースの方は人間に紛れているときも赤い目をしており、魔物の姿に戻ったときは腕に梟の翼を纏っていた。
「……けどイメージ違うんだよなあ~~」
寝返りを打つ勢いで半身を起こすとバイトラークは挿絵を睨んだ。銀髪、赤目、鳥の翼、賢者に等しい魔力。順当に推理すればディアマントより彼の方がネルトリヒに近い。しかし己の中でどこかが腑に落ちないのだ。四百年も経てば性格など変わってしまうのかもしれないが、ハルムロースのような利己的な男が己の魔法で己を痛めつけるとは考えられなかった。
子供向けの冒険譚ゆえ事実相違な箇所はあるかと問うたのは昨日だ。物語を流し読みしたネルトリヒはほとんど何の脚色もないと答えた。補足があったのはゲシュタルトに関してのみである。が、彼女は女性なので流石にネルトリヒの真の姿ということはなかろう。
悪魔の言葉を書き出したメモにもちらと目を向けてみる。アラインの命令かと問われたこと。王とは古い友人だと言ったこと。魔法使い同士彼らに何らかの利害が発生していること。神鳥の剣は元々ネルトリヒの持ち物ではないこと。目ぼしいのはそれくらいだ。
(魔法使い、魔法使いか……)
そう言えば神様も正体は魔法使いだったんだよなと考えた瞬間、嫌な閃きが舞い降りた。
そうだ、世に魔物を生み出したのは神様じゃないか。だとしたらネルトリヒは古い魔物の生き残りではなく新たに誰かに作り出された生命だという可能性もある。例えば王様の――アラインの魔法で。
もしそうなら彼の本名は王と同じということにならないか? 他の魔物が絶滅した今、ネルトリヒだけが生き残っている理由にも説明がつくし、彼がアラインと真っ向から敵になりたがらないのも納得だ。
(いや待て待て。流石にそれは考えすぎだ)
冷静に検討しろと己に言い聞かせバイトラークは思考を巻き戻す。もっと純然たる事実から、ネルトリヒ本人の特徴や彼の語った言葉から推測はなされなければならない。大体もしこの予想が正しいなら悪魔がアラインを友人と称するのはおかしいではないか。
残されたチャンスはたったの二回。あまり馬鹿なことはできない。
バイトラークはベッドから起き上がると書斎に移動し端末を起動させた。もう何度か見たネット上の百科事典、魔物や魔法の研究サイトを順番に回っていく。その中で複数の身体的特徴がかぶるのはやはりハルムロースだけだった。
(どうする? 試してみるか?)
悩みつつフラッシュメモリを差し込めばパスワードを求める画面が開かれる。
Hと打ちかけて手が止まった。胸の底から「絶対違うからやめとけ」という囁きが響いてくる。根拠は不明だ。胡散臭いからとしか言いようがない。
次にボックスに入れたのはLの文字。神鳥ラウダの持つ青銀の翼が悪魔のそれを彷彿とさせるためだ。だがこれも途中で消した。そうだと言い切れる確証がなさすぎた。
勘は悪くない方だが今ひとつピンとくる名が出てこない。あの本の中に正解が隠れているという自信はあるのに。
「……」
こうなると先程思い至った「ネルトリヒ=アラインの魔法」という可能性の方が気になった。バイトラークからは窺い知れない繋がりがあのふたりの間にあるのではないのかと。
突拍子のない考えだし、その線は薄い。わかっている。しかし薬指は確実にAのキーへと向かう。
本来はもっと情報を集めて最終日ギリギリに試してみるべきなのだろう。
でもそうしたくなかった。早く確かめたかった。後味の悪い思いをするのは嫌だから。
”Allein”と入力するとコンピュータはクイズ番組でお馴染みのブブーという音を鳴らした。
不正解で安心したのは初めてだ。
帰宅したネルトリヒには開口一番「馬鹿じゃないのか」と呆れられた。ムッとしながらバイトラークは反論する。「俺だって半分以上違うだろうなと思ってたさ」と。
「じゃあなんでアラインなんて入れたんだ? 深読みしすぎもいいとこだろ」
「証拠が欲しかったんだよ。万一あんたが王様の分身だったり王様の魔法だったりしたらやりづれぇし。アラインを倒したと思ったらあんたも消えてたとか嫌すぎるだろ」
ネルトリヒとアラインが別々の魔法使いだということをハッキリさせておきたかった。正直にそう告げるとネルトリヒは鼻で笑った。
「お優しいことで」
皮肉った笑みに可愛げはまったくない。夢と現を彷徨っている夜ならばもう少し素の表情を見せてくれるのに。
悪魔はまるでこちらの行いが偽善的で薄っぺらなものだとでも言いたげだ。昨夜苦しそうにしていた彼を揺すり起こしてやったのが誰かはすっかり忘れてしまったようである。
「まあぼくがアラインの魔法の一部だとしたら、オリハルコンを持ってることも今まで見逃されてることも筋が通るか。あながち浅い考えってわけでもなさそうだな」
上着を椅子に引っ掛けながらネルトリヒは所感を述べた。オリハルコンという単語にぴくりと耳が反応する。これは疑問のぶつけどきかもしれない。
「そういやあんた、神鳥の剣なんてどうやって手に入れたんだ?」
尋ねた途端、書斎の空気が凍りついた。悪魔のくせにネルトリヒは嘘が下手だ。或いは急に何でもないふりができなくなる。知り合ってからまだ日は浅い。しかし彼の饒舌がどんなとき動きを止めるかはもうわかる気がした。
彼の悪夢と密接に関わることなのだ、多分。
オリハルコンも、アラインも、本当の名前も。
「あれは譲ってもらったんだ。……今となっては他人の手にあった方がアラインも落ち着くんだろう」
ネルトリヒは自覚しているのだろうか。自分が時折酷く淋しげに遠くを見ていることを。
森に引きこもった悪魔。それでも人の世界を捨てきれない悪魔。
王城から滅多に出てくることのないアラインとどこか似ている。
「王様の事情についてはまだ話してくれるつもりねえんだよな?」
確認を取るとネルトリヒはこくりと頷いた。人口の著しい減少をアラインが捨て置く理由。それはバイトラークがネルトリヒの正体を見破ったとき教えてもらうことになっている。
「あんたの知ってる事情を俺が知ったら、アラインに王様を辞めてもらいたいっていう俺の考えも変わると思うか?」
やや逡巡して悪魔はいいやと言い切った。
「それはないな。お前はきっと変わらないよ」
どうしてか、その声は昔からの友人に語りかけるように聞こえた。久しぶりだな、変わらないなと笑う顔が一瞬脳裏をよぎる。
「知りたいなら最後に教えてやろうか。もしお前にぼくの名前がわからなくても、聞かせてやるよ、それくらい」
「はあ? 酔っ払ってんのかあんた」
思わず尋ね返したバイトラークにネルトリヒは何故という顔を向けた。折角破格のサービスをしてやろうと言うのに文句でもあるのかと不服そうだ。
「そもそも最初から怪しいんだって。俺が損することは何にもねえ契約だし、オリハルコンも勝てば持ってきゃいいとか言うし、どういう腹づもりしてんだよ? 後出しで変な条件つけるとか無しだぜ?」
態度はつんけんしているくせに妙に協力的なところがミスマッチで気持ち悪い。いっそ何か企んでますと言われた方が納得いく。しかしバイトラークの目にネルトリヒは詐欺師や盗人の類には見えないのだ。もっと言えば魔物や悪魔にも。だから欠片も意図が読めない。彼の狙いがどこにあるのか。はたまたそんなものは一切存在しないのか。
「別に後出しする気はないよ。いかにも貧乏臭いお前から貰いたいものなんか思い浮かばないしな」
「悪かったな貧乏臭くて……」
「謎かけも魔法の講義も、全部ただの気まぐれだ。数百年に一度くらいそういうことがあってもいいだろ?」
気まぐれに意味を求めるな、とネルトリヒは勝手に話を纏めてしまった。やっぱり嘘が下手だなとバイトラークは胸中に呟く。どうして彼が誤魔化しているとわかるのか、それも不思議だったけれど。
「素直に俺が気に入ったって言えばいいじゃん」
「……」
ネルトリヒの赤い目はここ数日で一番冷徹だった。氷の魔法でも使われたのかと勘違いするほどに。
「今日の講義取りやめにするか?」
「わー! 悪かったって! 調子乗ってすんません!!」
慌ててペコペコ頭を下げて、踵を返した悪魔の腕に縋りつく。ネルトリヒは大仰な溜息を吐くと面倒臭そうにバイトラークを振り払った。
「はあ、教える気なくした。今日は閉店だ閉店」
「ちょ、え、ま、マジかよ?」
「マジだ。飯食ったらさっさと寝ろ」
「え、ええー!? じゃあせめて晩酌付き合ってくれよ!! 一番いいやつ開けるから!!」
情けない顔で頼み込んだおかげか二言三言の嫌味を零しただけでネルトリヒは酒盛りを承諾してくれた。「言っておくが酔っても理性は失くさないからぼくの名前を聞き出そうとしても無駄だぞ」と先に釘を刺されてしまったが。酷い誤解だ。そんなつもりで誘ったのではなかったのに。いや、まあ、少しはそういった目論見もなくはなかったけれど。
気を利かせて悪魔は即席のつまみを用意してくれた。並べられた朝食を見たときと同じ違和感を覚えてバイトラークは密かに眉根を寄せる。
例えばイデアールやクヴァドラートのような魔物がオムレツだのサンドイッチだのを作り得るだろうか?
料理など普通の魔物には無用のはずである。現にこの神殿にも調理場は見当たらない。
それなのにネルトリヒは普通の人間がどんな食事を口にするのか知っている上、自分で作ることもできるのだ。
(……昨日聞いたのはゲシュタルトが国王に裏切られたって話だったな)
人を憎み、勇者を恨み、魔へと転じた憐れな聖女。彼女もハルムロースも瞳の色は真っ赤だった。
翼だけでは判断できないというネルトリヒの言葉もまたバイトラークの直感を肯定している。自らを悪魔と名乗らず魔法使いと称したことも。
――元は人間、かもしれない。
もしそうなら剣と己の名の暗示するものは。
ピイピイとアラームが鳴り響き、放り出していた携帯を手探りで引き寄せる。
二日酔いというほどではないがまだ少し酒が残っている感じだ。身体がだるくて頭が冴えない。が、時刻を確認すると同時、冷や汗を掻いて覚醒した。視界の隅にすやすや寝息を立てている男がいたから。
「おいネルトリヒ、十二時回ってんぞ!! 仕事は!?」
羽毛を押しのけ揺さぶれば一瞬びくりと赤目が泳ぐ。けれど彼はすぐ平静を取り戻し「カレンダー見ろよ」と床に転げた。どうやらもうひと眠りする気のようだ。
日付を確かめてみると今日から大型連休の始まりだった。曜日感覚の薄れる神殿生活も五日目となればこんな失敗も致し方なかろう。
「わ、悪ィ……」
小さな声で詫びを告げ、微睡むネルトリヒにそろそろと近づく。二度寝しようと思うくらいには昨夜はよく眠れたらしい。どこにも焦げ目は残っていないし、本当に熟睡できたようだ。
「何見てんだ」
横顔を観察していると開いた薄目に睨まれた。寝起きの不機嫌さも相まって目尻が嫌に鋭い。
「や、夢見良かったのかなって」
「……夢も見ないぐらい飲ませてくれたのはどこのどいつだ?」
あ、そういうことかとバイトラークは拳を打った。熟睡ではなく泥酔だったと。それでもゆっくり眠れたのならいいことだ。
「あんたさえ良けりゃ定期的に飲みにきてやるぜ? その方が魘されずに済むんだろ?」
水筒を手渡しながら試しにひとつ提案してみる。彼が本当に自分を気に入ってくれているなら名前当ての結果に関わらず頷いてくれると思ったのだ。
だが返事は色よいものでなかった。ネルトリヒはかぶりを振って「ぼくとお前は一週間だけの仲だよ」と断言した。
「ええ? なんでだよ、そこは譲ってくれる気ないわけ?」
「ないな。ぼくの名前がわからなきゃ飲み友ごっこも明後日までだ」
ごっこって、とバイトラークは言葉を失う。
酒宴の雰囲気は悪くなかったはずだった。ネルトリヒの仕事の話や辺境軍の裏話、過去にバイトラークが転々とした街の話、親の話、友達の話、随分打ち解け会話も弾んだように思う。何度か屈託なく笑うネルトリヒの顔も見れた。やはりアルコールの力は偉大なのだと実感していたところなのに。
「ああ違うか。お前の名前を言い当てたら今すぐおしまいだったっけ」
「!? わかったのか!?」
驚いて尋ね返したバイトラークにネルトリヒは間を置いて否を告げる。別にそうじゃない、と床に落ちた声は酒のせいか掠れていた。
「なんだよビックリさせんなよ~~」
こちらはまだこれという決め手に欠けた状態だ。切羽詰まる前に本当に何とかしなくては。
「あ、そうだ。今日仕事休みなら外行かねえ? いい加減こもりっぱなしだしさ俺」
「外? 出るのは構わないが研究所のある町までしか付き合えないぞ」
「え? なんで?」
「そこまでしか結界を張ってない。結界を出るとぼくは……」
深刻そうな語り口に緊張感が漂う。何か大きな理由がありそうでバイトラークも息を飲んだ。
「もしかして……アラインに気づかれるとか?」
互いに見張り合っているとは彼の口から聞いた話だ。うっかり見つかって国王に計画が知れればすべて水の泡である。それはこちらとしても何とか避けたい事態だった。
「いや違う。結界を出ようと出まいと気づかれるときは気づかれるしな」
「え!? てことはまさか既に」
発見されているのでは、という懸念に襲われバイトラークはさあっと青ざめる。考えられる展開のうち最も良くないケースに突入したのではないだろうか。気が気でなかったがネルトリヒには杞憂だとあっさり否定された。
「大丈夫だよ。アラインの魔力は三年前からぱったり感じなくなった。ここ最近はぼくの様子を見にくる余裕もないみたいだ」
「えっ? え……?」
どういうことかすぐには言葉が飲み込めない。あると言っていた監視は今現在はなくなっているということか?
自分にも理解できるよう解説を求めると、ネルトリヒは重々しく息をつき寝台に座り直した。「とりあえず最初の質問に答えるぞ」と悪魔は己の置かれた状況を説明し始める。
「ぼくが結界を張ってるのは魔力を霧散させないため、それとアラインに力を奪われないようにするためだ」
「……?」
「破滅の魔法って知ってるだろ。あれを体内に封じた副作用で、アラインは他人の魔力を無作為に吸い取る体質になってしまったんだ」
え、と知らず声が出ていた。勇者たちの冒険譚より数年後に勃発した大戦の方が実は詳細な記録に欠けている。同時期に発生した王国の災禍についても同様で「アラインが解決した」ということ以外はほとんど知られていないのだ。
「魔力という魔力が勝手に彼に収束するから今じゃおちおち魔法も使えない。放出した魔力をそのまま持っていかれるからな。だから壁を作って内側から出て行かないようにしてる」
それでも少しずつ削り取られてはいるんだが、とネルトリヒは右手を見つめた。バイクを使って通勤しているのはそういう理由だったらしい。
「アラインは――強くなりすぎたな」
落ちた呟きは重かった。
友人だと庇うくせに化け物だと揶揄してみせたのも同じ理由か。
地上に残されたたったふたりの魔法使い。奪う側と奪われる側では力の差は歴然である。道理であっさり敵わないと言い切るわけだ。
「多分もう間接的な接触でも危ないところまできてるんだろう。生きてるかどうか見に来た自分が相手を痛めつけちゃ本末転倒だ。心配しなくても結界を出ない限り向こうが勘付くことはないよ」
「ちょっと待て。……じゃあ魔法使いが生まれてこなくなったのは、ひょっとして王様のせいなのか?」
整理した頭で思い至ったのはろくでもない推論だった。魔力を奪うとは魔法使いを普通の人間に変えてしまうということだろう。時期的にも一致する。辺境の国で最初の異常が報告されたのは戦争終結の二年後だ。それまでは当たり前の存在だった魔法使いがぱたりと生まれなくなってしまったと。
「アラインのせいなんて言い方するな」
怒ったような、悲しむような声音で答えるネルトリヒも憶測を撥ね退けはしなかった。
ただ憐れみだけが読み取れる。彼の古い友人への。
「アラインがそうしてなかったら当の昔に世界は滅んでる。ブレーキは効かない、ストッパーはいないじゃどうしようもないだろ? 死のうと思っても魔力がありすぎて死ねないんだ。もう一度、彼が破滅の呪文でも唱えれば別かもしれないけど」
「……」
とにかくあまり悪く言わないでくれ、と傷ついた顔を俯けて悪魔はこちらから目を逸らした。ついでに「外で何か用事でもあるのか?」と話まで逸らしてくれる。
「や、試練ってのを受けるなら軍に戻って装備を整えとくかなって」
「ああ、そういうこと」
堂々と近代兵器の調達を口にするバイトラークにネルトリヒは平然と頷いた。どんな得物を用意しようと彼の魔法の敵ではないということだろうか。持ち込みにストップがかからなかったのは有り難いが、それはそれで恐ろしい。
「だったら研究所までは送ってやるよ。どうせ今日のうちには戻ってこれないだろうから、明日の夕方また同じ場所で拾ってやる。それでいいか?」
「おう、助かるぜ。ありがとな」
ひとりでも淋しがるなよとか、ちゃんと戸締りしろよとか言いかけてやめた。本当に言いたいことは茶化して伝えられるようなことではない。
地下からは見えない祭壇に柄にもなく神頼みしてみる。今夜は彼に悪い夢が近づきませんようにと。
名前がわからなくては駄目かな。やはり駄目なのだろうな。知人ではなく友人になるには。
そうなれたときは尋ねてもいいだろうか。
どうしてそんなに辛そうな目で自分を見るのかと。
******
六日目の夕刻、約束した通りネルトリヒは研究所の駐車場でバイクに凭れて待っていた。
「お前は神殿ごと埋まる気なのか?」
引き気味の声にそう問われる。バイトラークが背負ったパンパンの荷物の中身がほぼ銃火器と危険物であることは一見して知れたらしい。一応あれも文化遺産に登録されていておかしくない建造物なんだぞとやんわり窘められた。
「そんな無茶な威力のモンまで持ち出せねえって。……まぁあんたなら後から土魔法で直せるだろうとは思ってるけど」
「細部の再現までは自信がない。変に当てにしないでくれ」
まあまあと締まりのない笑みを浮かべつつ後部座席に足をかける。ふたり分の重みでぐらついた車体は走り出すとすぐ速度に乗って安定した。
軍ではどんな報告をしたのかとネルトリヒは聞いてこなかった。関心がないのか予測がつくのか、或いはその両方か。
議会長と上司はもう魔法使いの実在を否定しなかった。お前がそんなに入れ込むのならきっと本物なんだろう、と返すコメントに困ることを言われた。こちらが思う以上にあのふたりは自分を信用してくれているようだ。
武器の持ち出しに関してもひと悶着あったけれど、結局上司が全部責任を持つと言って送り出してくれた。
ふたりの期待に応えるためにも、何としても試練に打ち勝ちネルトリヒを仲間に引き入れたい。それだけではまだアラインに届かないかもしれなくても。
「そういや祭壇の間って罠とか仕掛けていいのか?」
勝利への渇望からつい口にしてしまった問いに悪魔はこれみよがしな溜息を吐く。曰く、「仮にも勇者になろうって人間のすることか?」とのご意見だった。
「なんでえ、いいじゃん。俺がどんな勇者目指そうと俺の自由だろ? 清廉潔白じゃなきゃ勇者にはなれませんなんて法律でもあんのかよ?」
「……確かに決まりはないけどな」
どんな勇者か、とひとりごちる悪魔の声はまた遠い。思わず肩を掴んだ指に力をこめるとハッとしてネルトリヒが振り返った。
「とりあえず罠は無しだ。試練ってのは高い高い塔を登った先で受けるのが慣わしなんだよ。先手で何か仕掛けられるようなものじゃないんだ」
「ちぇー、夜のうちに足場も作りたかったんだけどなー」
「文句を垂れるな。階段地獄がないだけありがたいと思え」
勇者を倒せるのは勇者だけ。ネルトリヒの言葉を思い出しバイトラークは口元を引き締める。
己がその称号を授かりオリハルコンの所有者となるほか王への対抗手段はないという。なら今は示された一本道を進むだけだ。
勇者として認められたら何か変わるものがあるのだろうか。自分にもアラインに匹敵する何かが得られるのだろうか。あまりそんな予感もしないけれど。
(こいつは俺が国王を退けるって言ってること、どう思ってんだろな。もし本音ではアラインを傷つけられたくないと思ってるなら……)
本当はクーデターなんて武力解決には走りたくない。誰もが数少ない人類の生き残りなのだから。だが王にこの衰退を止める気がないのなら総指揮官は降りてもらわねばならないし、いざ諍いが起こったときのために力は必要だ。
できればネルトリヒの言葉通り、アラインが悪い男でないことを信じたかった。永劫の生の中で真っ当な思考回路を損なってしまったわけではないのだと。
「なあ、昨日はちゃんと眠れたか?」
ひとりで魘され業火に焼かれはしなかったか、案ずるバイトラークに悪魔はしばし黙り込む。ネルトリヒが戸惑い反発するのは大抵気遣いや優しさに対してだった。
何か大きな悔いが彼にそうさせているのだ。でもまだ己に問う資格はない。どんな罪を犯して闇に堕ちたのか、などと。
「……平気だったよ。腹さえ括ればなんでもないんだ、夢なんていう幻は」
まるで現実の方が余程恐ろしいと言わんばかりに彼は細い肩を震わせる。焼かれる痛みよりなお痛いものなど自分には想像もつかない。
無限の時を生きるということは無限の苦しみを味わうことに他ならぬのではないだろうか。何故そんな牢獄に今も身を置いているのだろう。死ねない王と違って彼は、その気になれば魔力をすべて放り棄てることもできるはずなのに。
「腹さえ括ればって何?」
ひとりぼっちで何を決めたんだ。
問いに答えは返らなかった。ただネルトリヒの唇は笑っていた。――笑っているという気がした。
神殿に着く頃にはもう日はとっぷり暮れていた。これが最後の晩餐かなと脅すネルトリヒと夕食を平らげ、食後の杯を酌み交わす。
解散か存続か、泣いても笑っても明日で決まりだ。できればこれで終わりにはしたくない。本名に関するヒントはあれからひとつも得られていないけれど。
「あんまり飲みすぎるなよ。酒気帯びに受けさせる試練なんかないからな」
「俺だってどぶろく勇者にはなりたかねえよ。今日は一杯で終わりにするって」
教官みたいな物言いはよしてくれ、と大袈裟にぼやくと悪くない笑みが返される。明日でお別れと思っているからかネルトリヒの物腰は普段より柔らかい。だがそんな一時的な友情を見せられても却って空しくなってしまう。
強がりは強がりのままだったなとバイトラークは内心嘆息した。爛れた皮膚が溶けて落ちても「痛い」とか「助けて」とか一度も耳にしなかった。そういう言葉を聞けていたなら今頃名前くらい教えてくれていたのでないかと思う。
「パスワード、最後はいつ試すんだ?」
半分面白がるように――おそらくは面白がるふりをして、魔法使いは問いかけた。
クラウディア、ノーティッツ、ヒルンヒルト、アンザーツ、辺境の国にも何百といた宮廷魔導師たち。ネルトリヒはどこにいたのだろう。
「わかんねえ、試練の後かな。これかなっていうのはあるけどまだ確証ねえんだよ」
そっちこそ俺の名前はわかったのかと問い返せばネルトリヒははぐらかすようそっぽを向いた。どうやら彼もまだ答えられる状態ではないらしい。
「先に当てるとか豪語してたくせに全然じゃん」
バイトラークの責め立てに悪魔は唇を尖らせた。
「いいんだよ、無理に答えなくたって。お前の負けは決まってるんだし」
「確定じゃねえよ! つーか本気で何も思いついてねえの? 自信なくて言えないとかじゃなく?」
情報量や頭の回転の速さから考えてもネルトリヒが候補ひとつ挙げてこないのは意外だった。三回もチャンスはあるのだ。ひとつくらい何か言えばいいのに。大体遺言を残した祖先とは知り合いだと言っていなかったか?
「じゃああれだ、あんたも試練の後に答えてくれ。問題出しっぱなし解答未回収じゃ俺が気持ち悪い」
「はあ? 答える答えないはぼくの自由だろう?」
「ダメダメ。あんたは勝負受けたんだから、逃亡は許可しません」
「……面倒な奴だな」
「ああ? 最初に面倒ごと引き受けたのはあんたの方だぜ?」
「そうだった。だがまあこの騒がしい日々も明日で終わりと思うと清々するよ」
「だからまだ確定じゃねえっつってんだろ!」
怒鳴ったところで丁度酒杯が空になった。お開きだなと肩を竦めてネルトリヒはさっさと書斎から引き払ってしまう。
本当にわからない男だ。突き放しきることも手を取ることもしない。どちらか一方に徹してくれればまだ考えが読みやすいのに。
「今夜は他所で寝てくれよ。ぼくにも少し準備がいる」
投げ寄越された毛布を受け止めバイトラークは魔法使いの後ろ姿を見送った。鬱陶しい相手と距離を取ろうというのではなく、本当に試練のためのセッティングが必要らしい。
夜のうちにオリハルコンの封印を解くのだろうか。伝説の勇者の武具、神鳥の聖剣の。
(元々ぼくのものじゃない、か)
ネルトリヒはアラインから貴重な聖石を譲り受けられるような人物だった。そこが大きなポイントだ。
先代勇者のアンザーツ、王に大賢者の力を与えたヒルンヒルト、どちらであったとしても頷ける。それに彼らはふたりとも戦争の只中で姿を消しており、死亡が確認されていないのだ。特に精神体であるアンザーツは何百年長らえていても不思議ではない。
(このままあいつが何も言わなきゃ確率は二分の一……)
もしあとひとこと、ほんのひとことネルトリヒから聞き出せれば答えはひとつに絞られるのだが――。
******
夜が過ぎ、試練の朝が訪れた。
別々に起床し、別々に朝食を終え、細い廊下でバイトラークは呼ばれるのを待つ。
全身隙のない武装を施したつもりだ。何しろ魔法を使う鳥人と一戦交えようと言うのだから。
「もう来ていいぞ」
祭壇の間に響いたのは聖獣の代役を務めるネルトリヒの声だった。
意を決し中に踏み入ると、両翼を広げた悪魔と宙に浮かび上がるオリハルコンが目に飛び込む。
白く透き通った色褪せぬ輝き。美しい意匠の彫られた鞘と柄。だが美しさだけでなく力強さも同時に感じられる。
聖剣を目にした瞬間、不思議と緊張も気負いも消えた。
天井近くからこちらを見下ろすネルトリヒと目が合って、彼が静かに口を開く。
「ルールは単純だ。お前がぼくを参らせて、剣がお前を主と定めればいい」
降参は認めるが生死の保証はしかねるとの前置きにごくりと唾を飲み込んだ。わかったと頷きホルスターの銃に手をかける。
軍に身を置くと決めたとき、命を捨てる覚悟はした。今更怖気づきはしない。
銃口を悪魔と呼ばれる男に向ける。ネルトリヒが腕組みを解く。それが開始の合図だった。
(まずは地面に引き摺り下ろす!!)
最初にバイトラークが放ったのは銃弾でも散弾でもなく鉄紐つきの鉛玉だった。紐の片端は銃の内部に繋がれており、投げ縄と同じ役目を果たす仕様になっている。目測さえ見誤らなければネルトリヒの動きを制限するのにまたとない武器だった。あの翼で飛び回られてはこちらがあまりに不利すぎる。
が、こういう形で仕掛けてくるのは彼も予想済みだったらしい。あっさりかわされ鉛は何もない空間を落下した。鉄紐を巻き戻すバイトラークをちらと覗くとネルトリヒは様子見程度に火弾を三つ飛ばしてくる。真横に跳んで魔法をやり過ごし、再び同じ銃を上方へ向けた。
「拘束はいい案だと思うけど、ぼくを捕まえるのは骨が折れると思うぞ」
「うるせえ! やってみねぇとわかんねーよ!!」
叫ぶと同時バイトラークは鉛玉を発射する。次の狙いはネルトリヒでなくオリハルコンだ。目当ての賞品が奪える場所に飾られているのだ。放っておく手はないだろう。強力な武器なら先に入手してしまえというのは立派な戦略的行動だった。
「あ、お前!?」
鉄紐の行方に気づいてネルトリヒが驚きの声を上げる。よっしゃと裏をかいてやった喜びを味わったのも束の間、突如起こった爆風が鉛玉もバイトラークも一緒くたに吹き飛ばした。
「!?!?」
わけがわからず土埃の中を転がる。鉄紐は確かに目標に届いたと思ったのに、何かの斥力で弾かれてしまったように見えた。
「馬鹿、勝負がつくまでは結界張ってるに決まってるだろ! せこい真似するな!!」
翼の風圧で砂煙が散っていく。なんだよ先行取得なしかよという舌打ちはよく聴こえる耳に拾われたらしく、鋭くひと睨みされた。
ということはやはり神具なしで大魔法使いに挑まねばならないわけか。手持ちの武器がどこまで通用するか不安なのに、なんて酷い。
「グレネードランチャーでもロケットランチャーでも必要なら出してこい。即死じゃない限りぼくは死なないんだ、遠慮はいらないぞ」
暗に回復魔法があることを示唆しつつネルトリヒは両腕を広げた。また火弾だ。今度のは六つ、拳よりふた回りほど大きい。
バイトラークはさっと辺りを見回した。平坦な石床、高すぎるピラミッド天井、祭壇に続く階段、五本の石柱、窓のない壁。何度確かめても周囲にあるのはそれだけだ。身を隠せる場所は皆無、嫌というほど見通しが良いので高所を抑えられているのが痛かった
「チッ!!」
四方から襲いかかってくる火球をアクロバティックな動きで避けつつ、バイトラークはダメもとで実弾を撃ってみる。火の玉の真ん中を貫いて弾丸は飛んだ。だが案の定魔法が相殺されることはなく、炎はそのままこちらに迫ってくる。
「ッ……!! 避けるしかねーのかちくしょう!!」
不平を零しながら跳躍すると、丁度前後からバイトラークを追ってきた火弾がぶつかり合って弾け飛んだ。成程、同等の魔力をもってすれば消滅させることは可能らしい。
「よし、それなら……!」
残った四つの火球を引きつけ、タイミングを見計らい身を伏せる。狙い通り衝突した火球はどちらも綺麗さっぱり消え去った。
どんなもんだという顔で笑ってみせると上空のネルトリヒが面白そうに口角を上げる。火魔法のひとつふたつ破られたところで痛くも痒くもなさそうだった。できれば彼が余裕ぶっている間に反撃の糸口を掴みたい。
「ふぅん、じゃあこれはどうする?」
ボウ、と強い音を立て真っ赤な熱塊が生まれてくる。厄介なことをされる前にとバイトラークはリボルバーの引鉄に指をかけた。出し惜しみはせず銃弾残り五発すべて使い切る。だがネルトリヒはひらりひらりと弾丸を退け、眉ひとつ動かさなかった。
レベル差ありすぎだろと嘆きたくなる気持ちを抑えて空になった弾倉を捨てる。早速の補充音が切ない。殺傷能力が高すぎると渋らずに機関銃のひとつも持ってくるべきだったろうか。
「っと危ねぇ!!」
灼熱の玉は気づけば目前に迫っていた。ふたつの魔法は複雑な軌道を描き、フロアを逃げ惑うバイトラークを確実に壁際へ追い詰めてくる。
さっきの攻撃と違うのはふよふよ漂ったり急にスピードを上げたり緩急が激しすぎるという点だった。うまく自滅を誘うことができず、逆に自分の逃げ場がなくなってくる。
「大丈夫か? 降参したっていいんだぞ?」
「~~ッ! くっそ、軍人舐めんなよ!!」
へらへら笑う悪魔にそう宣言すると、バイトラークは背中の小銃を抜き思い切って片方の熱塊に突き刺した。そしてそのままバットを振る要領でもう一方に叩きつける。無茶苦茶な方法だが魔法が消せればそれで良かった。こんなものに手こずっていてはいつまでもネルトリヒに到達できない。
「その銃さっさと離した方がいいと思うけど」
「え?」
ぶわ、と熱風が頬を撫でた。ふと見れば散ったはずの魔法が何故か小銃にくっついたままでいる。大きさは既に倍ほどに膨らんでいた。
「打ち消し合う魔法もあれば、吸収し合う魔法もあるんだよ。そこは教えてなかったな」
咄嗟に武器を投げ捨てたけれど到底間に合っていなかった。凝縮されていた熱がたちまち膨張し、バイトラークごと神殿の一角を飲み込む。時間にすればほんの数秒、しかし長い数秒だった。
「……ッ」
高温の熱波に襲われ、その場に蹲ったバイトラークの元へネルトリヒがそろりそろりと寄ってくる。やはり試練と言っても殺すつもりはないのだろう。彼は癒しの術を発動しかけていた。命の保証はしかねると言ったくせに、甘いのは一体どっちだ。
耳を澄ませて羽音を捉える。間近まで悪魔が近づく。バイトラークは呼吸を潜めてただ堪えた。
「!!!」
丸い影の動きが緩んだ瞬間、電光石火の早業で鉛玉を撃ちネルトリヒの左肩を鉄紐で絡め取る。簡単に逃げられないように己の左腕にも手早く紐を巻き付けた。
「よぅし、捕まえたぜネルトリヒ」
奥義死んだフリだと笑うバイトラークに悪魔は瞠った目を細めた。眉間に寄せられた皺は濃い。
プスプスと焦げ付いた軍服はまだ煙を上げていた。今まで割と大事に着ていたので少しショックだ。自費で買い直すと案外高いんだぞと涙目になってしまう。
「……成程、耐熱服を着込んでたのか。それなら多少の高温はどうってことないわけだ」
「あんたとやり合うのに防熱対策してねえ方がどうかしてるぜ。さて、この距離なら流石にかわせねえよな?」
四本目の銃にはいわゆるガス弾を装填していた。暴動鎮圧用に作られた致死性のない催涙弾だ。風で威力を弱められては意味がないのでできる限り銃口を近づける。彼のレパートリーに解毒術の類がないのはわかっていた。これが決まれば勝負ありだ。
「死にやしねえからちょいと我慢してくれよ……!」
撃った瞬間ネルトリヒが笑うのが見えた。
凄まじい勢いを持った竜巻が魔法使いを中心に発生する。風のうねりはガスを薄めるどころか四散し撒き散らされるはずだったそれを高濃度のまま閉じ込めた。土魔法に分解された床石の礫が大量に上方へ集められる。竜巻が衰えると同時、土砂は山となり有毒物の上に降り積もった。――つまり完璧な形で処理されてしまったのだ。
「…………」
「どうしたんだ呆然として。あ、今のが切り札だったとか?」
そりゃ悪いことしたなと詫びる声には同情心など微塵も感じられない。この期に及んで魔法を見くびったバイトラークを小馬鹿にしている節さえあった。お前はそんな浅い認識でアラインをどうこうするつもりでいたのかと。
確かに今の催涙弾が最も効果の高い攻撃だろうとは思っていた。だがまだ他にやりようがないわけではない。ネルトリヒはこちらの鉄紐に自由を制限されているのだし――。
「う、おおお!!?」
急に視界が逆さを向いて左腕が悲鳴を上げた。
「痛ッ!! いてぇ!!」
骨まで響く痛みと地面に届かない爪先が、青銀の翼の羽ばたきが、回る景色が己の置かれた状況を明確に伝えてくれる。非力そうな細腕のどこにそんな力があったのか、これも魔法の成せる技なのか、ネルトリヒが空中でバイトラークを振り回していた。まるでひとりメリーゴーランドだ。加わり続ける遠心力に「ちょっと待て」と思わず泣きが入る。
「わーーーー!!!!!」
柱に叩きつけられる直前、鉄紐の継ぎ目を外してなんとか難を逃れた。が、高所から回転つきで放り出されたのに違いはない。思い切り吹き飛ばされ、壁にぶつかり”墜落”する。
「いっ……、でででぇ~~……」
衝撃を緩和する努力はしたが、今度は本気でしばらく起き上がれそうになかった。骨や内臓がやられたのでなければいいのだが。
情けなく倒れたまま痺れる腕で銃を掴んで上を向く。
畳みかけるには絶好のチャンスだろうに、何故かネルトリヒは近づいても仕掛けてもこなかった。
あの顔だ、とバイトラークは息を飲む。
傷ついて青褪めた悪魔の表情。これまでも何度か目にした。
何が彼を恐れさせるのかなど知らない。知らないが、今は自分との真っ向勝負中だ。こちらを向けよと叫ぶ代わりに銃声を轟かせた。
「……!」
一発目は空砲代わりに垂直上方へ。二発目の弾で胴を狙う。逃れられそうな方向へ三発目、四発目と。
六発全弾撃ち切ると手榴弾のピンを抜いた。爆発は神殿を揺らし、空気を震わせる。地を這う煙幕がバイトラークを包み隠した。 肺や背骨が痛むのに耐えて駆け続ける。澱みない攻撃の流れを切りたくなかった。ここでネルトリヒを凌駕できなければ勝算はゼロだった。
トリガーを引く。的当ては得意だ。だが今日は掠りもしない。どうしても風のバリケードを破ることができない。
閃光手榴弾も功を奏さなかった。怯ませるくらいはできたが、視神経と聴覚に異常を来してもネルトリヒはあっさり治癒してしまった。
弾倉を捨てる。弾をこめる。容赦しているつもりなどないのに無駄撃ちばかりで気が焦る。
そうしてついに恐れていた事態が起きた。
「……」
ガチ、ガチ、と響くのは聞きたくもない空振り音。色とりどりの煙はすっかり晴れており、バイトラークの背には固い柱がぶつかった。
「本気でやってその程度か?」
近づいた影が期待外れだと冷めた声で言う。巨大な焔が彼の頭上に揺らいでいて、こちらの降伏を促していた。
もう少し勝負になると思ったのにと落胆する気持ちが半分、残り半分はまだ諦めたくないと執念を燃やしている。しかし最早自爆で相討ちぐらいの使えない策しか思い浮かんでこなかった。
ガス弾なら残っているが面体を失くしてしまったし、小銃はひとつ丸ごと駄目にしている。手元にあるのは弾切れのリボルバーとアーミーナイフくらいだ。
「!」
バイトラークの投げつけた拳銃をかわして姿勢の崩れたネルトリヒにすかさずナイフの第二撃を放つ。けれどそれも完全に読まれており、難なく振り払われた。相手が手の届く高さにいてくれれば肉弾戦に持ち込むのだが、悪魔は悠々羽ばたいたまま降りてこない。どころか魔法の火球をいっそう燃え上がらせてこちらにぽんと投げつけてきた。
万事休すだ。ネルトリヒの顔にも「早く参ったと言え」と書いてある。迫りくる炎を睨んでバイトラークは歯噛みした。
何かあるだろ、反撃の方法が。何か。ぼさっとしてねえでさっさと思いつけよ。オリハルコンを手に入れられなきゃ何にも変えられないんだぞ――。
「……ッ!!」
巻かれると思った火焔はバイトラークまで届かなかった。恐る恐る薄目を開けると真っ白な輝きが炎を押し留めている。
初めはネルトリヒが魔法を急停止させたのかと思った。でも違った。悪魔ですら予想だにしなかった光景がそこに広がっていた。
結界に守られていたはずの聖剣がバイトラークの目前に直立している。剣越しに見上げればネルトリヒも呆然と瞬きを繰り返していた。
オリハルコンが自ら意志を持ち封印を破ったと言うのか?
いやまさか、無機物にそんなことできるわけがない。
でもだったらどうしてこいつは俺を助けてくれたんだ?
「――……」
何かに突き動かされるようにバイトラークは剣を取った。鞘の装飾はフェルナー家に伝わる意匠と同じものを連想させた。
すらりとした刀身を抜き、空中に浮かぶ熱球と相対する。力いっぱい上から下に叩きつけると剣圧で魔法が弾け飛んだ。
たちまち熱が冷まされていく。炎は燃え尽きて消滅する。
目が点になったまま戻らなかった。破壊力抜群なんて代物ではなかった。
アラインはこんな神具をひとりでいくつも持っているのか。
「ッ!!」
懐へ飛び込んできた獣の爪を避けバイトラークは跳び退った。遂に本気を出したと思しきネルトリヒが赤い瞳に獰猛な光を宿らせている。間髪入れず魔法球と研ぎ澄まされた刃の羽根が放射され、無我夢中で襲いくるものを薙ぎ払った。神鳥の剣は防御力も凄まじかった。
「おい、何すんだよ!! オリハルコンは俺を持ち主って認めてくれたんじゃねえのか!? 試練はもう終わりだろ!!」
「お前はまだそれを使いこなせてない!! 順番は狂ったが魔獣の一匹や二匹倒せることくらい証明してみせろ!!!!」
ネルトリヒはどちらかが倒れるまで戦いを止める気はないようだ。確かに彼の言も一理ある。どんな強い武器を持っていても扱えなければ意味がない。
「そういうことならやってやんぜ!!」
小銃を収めていた背中のホルスターに鞘を押し込みバイトラークは階段を駆け上がった。祭壇のある踊り場から助走をつけて、ネルトリヒに向かい一直線にジャンプする。普通なら重力の導くまま床へ叩きつけられるところだが、聖剣が見えない翼を与えてくれた。剣から生まれてくる風がバイトラークを宙に留まらせてくれる。
「うおおッ!!?」
しかし悪魔もそう簡単に攻略させてくれる相手ではなかった。強風に煽られバイトラークはなすすべなく祭壇まで吹き飛ばされる。仕方なく中距離から斬撃を浴びせたが、かまいたちはすべてギリギリでかわされた。
岩の神殿に火の手が回る。ネルトリヒは攻撃魔法の多用を抑え、熱でこちらの気力と体力を奪う作戦に出たようだ。先程まではどんなに火魔法が登場しても付近の気温以外変化しなかったのに、打って変わって周囲の空気が暑く蒸された。肺が少し痛いくらいだ。皮膚を伝う汗の量も夥しい。
手当たり次第に火消しを試みてみたがネルトリヒが上乗せしてくる火勢の方が強かった。そのうちに柄が手の内で滑るようになってくる。これはまずい、何か打開策を考えなければ。
ぼたぼた零れる汗はあちこちに水玉模様の染みを作った。ふらつく頭が冷涼を求めて視線を彷徨わさせる。
(ね、寝るときは隙間風だらけで凍え死ぬかと思ったのに……!)
あ、そうだとバイトラークは一瞬ネルトリヒに背を向けた。力任せにオリハルコンで壁を斬りつけるとドゴォンという破壊音とともに建物の一部が崩落する。そこから冷たい空気が流れ込んできて、ほっと息をついた。
「――!!!!」
間合いを詰められたのは刹那のことだ。振り返りざまに薙いだ剣はしゃがんでかわされ、真下から伸びてきた腕に胸と腹を引き裂かれる。鋭い痛みがバランスを崩させ、受けた衝撃を捌き切れずにバイトラークは階段を転がり落ちた。剣を抱えたままだったのによく余計な怪我をしなかったなと変なところで感心する。
「っつ~~……」
唸る己を遥か頭上からネルトリヒがじっと見ていた。彼のやりにくいところは不用意に近づくということをほとんどしてくれない慎重さにある。この剣なら至近距離にさえ踏み込んでくれれば決定打を放つことができそうなのに。
(くそ、やっぱ学生のとき一度くらい剣道部に入っとくんだった)
不慣れな装備はどこかで必ずボロが出る。これでも適応は早い方だと思うのだが。もっと使い慣れた、それこそリボルバーや連発小銃ならネルトリヒも十分射程圏内なのに。
「えっ?」
本日二度目の驚愕は直後に訪れた。半身を起こし握り締めていた剣の柄が、あろうことかカービン銃の銃床に変化していたのだ。
白く透き通る輝きは間違いなくオリハルコンのそれだった。慌てて背中の鞘を確かめれば、手の中で溶け、数十発の弾丸に変わる。
「……また勇者らしからぬ神具だな」
不敵な笑みを浮かべてはいたが、ネルトリヒは今や窮地に立たされているのは自分だということをよくよく悟っていたようだった。
駆け抜けた風がオリハルコンの弾をあちこちに散らばせる。拾い上げた数発を転がりながら装填し、狙いを獣の肩に定めた。
風も、炎も、どんな魔法も通用しない。ただ真っ直ぐにすべてを貫くひとつの力が――意志という力が、ネルトリヒに向かって飛んだ。
空から落ちるのは何度目だろう。現実では二度目だろうか。
夢の中でなら何度も落ちた。火だるまになって。灰になって。
鎖骨の下から噴き出した血は右腕の下に小さな池を作っている。発動させていた魔法はすべて無に帰り、神殿には元の静寂が戻っていた。
「おい大丈夫か? 俺やりすぎちまったか?」
そう心配そうな顔で覗き込まれるとおかしくて笑い出しそうだ。おかしくなって、何がしたかったのか忘れてしまいそうになる。――ああ、ぼくはあんまり長いこと生きすぎたのかな。
「いくら肩でもこの出血じゃやばいぞ。ほら、意識あるうちに早く治せよ、なあ」
揺さぶる腕は軍隊式の止血を始めたようだった。治療を勧められても呪文を唱える気になれず、乾いた唇はまったく別の言葉を刻む。
「アラインは……、彼は知らなかったんだ。自分が世界の均衡を壊してしまうなんて思いもしてなかった……」
「あ? 何言ってんだ? いいから先に傷を何とかしろって」
「破滅の魔法を封じ込めたのは皆を守るためだったのに、その力で今は生命を傷つけてる……。魂は生まれた直後が一番弱いから……、全部アラインに引き寄せられて持って行かれて……」
バイトラークが瞠目する。頭は悪くない奴だ、今ので大方予測はついたのだろう。出生数が激減した理由も、アラインが何もできずにいる理由も。
彼が死ななければ正常な世界は戻らない。なのに彼を死に至らせる手段がない。
それでも出来得る限り抑えてはいたはずだ。奪わないように、奪い尽くさないように。魂の根幹を成す魔力――生命力を。
「ぼくにアラインの本心まではわからない。もしかすると他にも理由があって放置しているのかもしれない。でも……」
ひとつ確信を持って言えることがある。アラインはバイトラークを待ち望んでいたはずだ。いつも迷いを振り払うとき、彼の隣にはもうひとりの勇者がいたのだから。
「お前になら話してくれるよ、何もかも」
失血で霞んだ視界に焦る軍人の姿が映る。強く身体を揺すられて、大丈夫、大丈夫と返事した。
わかっている。今更都合良く死を選ぶことなどできはしない。
このままお前に殺されたという事実を抱いて眠れたら穏やかな夢を見れそうだけど、それじゃ勝手すぎるよな。
死体の魔力がアラインの元へ運ばれたら彼はまた一歩人間から遠ざかってしまうのだ。そんなものを押し付けてイチ抜けたなんて言えやしない。
「おい、ネルトリヒ! 魔法が無理なら造血剤を――」
瞼を閉じれば懐かしい声が響く。薄っすら開いた目に映るのは、だがあの男の顔ではなかった。
幻覚でも見たかったのか、臨死体験でもしたかったのか、痛みを消したくなかったのか、本当にちぐはぐで笑ってしまう。
「お……っ、おお?」
傷を塞いで起き上がるとバイトラークは安心しきって項垂れた。ビビらせんじゃねえよと怒鳴られたが聞こえなかったフリをする。そんな風に案じてもらえる資格はとうに失効している。
「行ってこいよ、アラインのところへ。オリハルコンを持ってるんだ。無条件で会ってくれるさ」
「……。あんたは一緒に来てくれねえのか?」
問いかけには首を振った。行けない理由は明白だった。
「ぼくは彼に近づけない。それにまだお前に名前を当ててもらってもいない」
バイトラークはぐっと黙り込みこちらを見つめる。しばらく待ったが回答はなかった。もしかすると動物的な直観で見抜いてくるかもしれないと思っていたのだが。
いいんだわからなくて。ぼくはすっかり変わってしまったし、お前が覚えているはずもない。
「あんたは、俺の名前は」
苦りきった顔で彼が聞く。答えるまいと決めていたのにこれが最後と思うと勝手に口が開いた。
「バイトラークの綴りの中にわかりやすい文字が四つ入ってる。B、E、R、G。……そのオリハルコンの持ち主だった奴と同じ名だ」
子々孫々に秘密の名前を受け継がせたことに呪術的な意味などおそらくなかっただろう。ただあの律儀な青年は、誰のために何を成すべきか執念で血に残した。死の前日まで深い森を探るのをやめなかった男だ。ツヴァングの呼びかけに、自分はついに一度も応えてやらなかったのに。けれどそれが結果的に、四百年もの時をかけてこの場所へ勇者を導いたのだろう。
「ベルク」
二度と呼ぶことはないと思っていた名前。音を刻んだと同時、激情がこみ上げて崩れ落ちそうになる。
泣きたくなかった。知られたくなかった。全部リセットして水に流してなんていう虫のいい話は今でもやっぱり許せなかった。
「どうだ? 当たってたろ?」
無理矢理笑ってバイトラークが頷くのを待つ。不正解であるわけがないのだ。最初に森で拾ったときには相手が誰だかわかっていた。よりによってなんでお前がぼくを探しに来るんだって愕然として、何度も喚き散らしそうになって。……でもそれも今日でおしまい。
「さて、お別れの時間かな。オリハルコン以外ここに目ぼしいものはないし、勇者がふたり揃えば今までとは違った道も見えてくるだろ。頑張って人類の未来でも何でも切り拓いてくれ。ぼくが力を貸せるのはここまでだ」
懐から転移の呪符を取り出してバイトラークに握らせる。ついでに集め直した真っ白な弾丸も。
未練がましい自分を叱咤し身を離した。一週間だけと割り切らなければ側にいることもできなかったくせに。
少しは償いになっただろうか。少しは罰になっただろうか。
聞いてみたいが問える相手はどこにもいない。もうどこにも。
「あんたの名前、わかった」
その声は唐突に降りてきた。顔を上げるとバイトラークのいやに真剣な顔が映った。
生まれ変わっても仕草や表情は残るんだなとぼんやり考えていた。頭の中では遠い記憶が幾つも幾つも再生されていた。
「ノーティッツだ」
そう呼びかけられるまで。
答えが正しいか間違っているかは確かめるまでもなさそうだった。石床に膝をついた男は俯いたままピクリともしない。暗褐色の頬を伝い落ちた雫が音もなく跳ねるのを見つめ、何と声をかけるべきか迷いながらバイトラークは身を屈めた。
どうしてと掠れた声が種明かしを求める。もし最後までネルトリヒが謎々に乗ってくれなければ断定はできなかったと答えた。
「あんた階段地獄がないだけマシって言ったじゃん。童話の中で試練の塔を真面目に上ったことのある奴は限られてる。しかも王様と友達で、魔法使いで、俺の名前がわかりそうなのに言い渋るような男は他にいねえと思ったんだよ。……あんたはずっと口では言わなかったけど、この上なく俺に協力的だっただろ」
その理由が神鳥の剣や自分の真名に関係するなら当てはまる答えはただひとつだ。だからカマをかけた。悪魔が「ベルク」の友人かどうか。
語られた言葉だけが真実なのではない。特にネルトリヒは胸の内を隠したがった。だから隠す理由を見つけなくてはならなかった。
もしここにいる獣がアンザーツやヒルンヒルトだったなら、謎々にももっとあっさり答えたはずだ。彼らとベルクの間に拗れるほどの親密さはなかったのだから。クラウディアにしろ辺境の魔導師にしろ同じ話だ。近づきたいのか遠ざけたいのか曖昧だったネルトリヒの態度が、実は最も多くを語っていたのである。
「後出ししたから俺の負けなんて言わねえよな?」
仲間になってくれ。改めてそう右手を差し出して反応を待つ。
ネルトリヒは――ノーティッツは力なく首を振った。
「お前の名前当てたんだから引き分けだろう。ぼくは行けない、ここに置いていってくれ」
「んなッ! まだ意地張るか? 最初の約束は……」
「そうだ、先に約束を破ったのはぼくの方だ。何があってもお前には会わないと四百年前決めたのに、誓いを守り切れなかった」
突風がバイトラークを吹き飛ばす。風の壁に手を伸ばしても魔法使いには触れられなかった。
淡い光が全身を包み込み、空間からも弾かれる。青銀の羽も、赤いままの瞳も、小さな嗚咽も急速に遠のいていった。最後に届いた声ですら「早くアラインのところへ行ってやれ」と、ただそれだけ。
気がつくとバイトラークは森の外に締め出されていた。背後には例の駐輪場。頭上からはどさどさと時間差で荷物が降ってくる。
「~~ッ!! ふざけんなよてめぇ!! やることやったら絶対また来るからな!!!! 首洗って待っとけよ!!!!」
荒ぶる感情に任せて怒鳴り散らし、ぜえぜえ肩を震わせた。どうせ聞こえているに違いないのだ。そういうこずるい男だ。あいつは。
時刻は昼過ぎ。バイトラークは踵を返すと目についた喫茶店に飛び込んだ。席に着くなり端末を起動させ、胸ポケットのフラッシュメモリを端子に突き刺す。パスワードは三度目の正直で解除された。
「……」
ざっと中身を確認すれば「魔法に関する報告」という連番のファイルが並んでいる。これらはバイトラークが講義で学んだことやノーティッツ自身の研究成果を纏めたもののようだった。ひとまず今は下へ下へとスクロールする。データはおよそ百件超有り、最後のふたつだけ「破滅に関する考察」と「新規ファイル」という毛色の違う名がついていた。
逸る気持ちを抑えながらアイコンをクリックする。開いたメモには短い言葉が打ち込まれていただけだった。
――ごめんな。
「ッこれだけでわかるかよ……!!」
憤りも露わに舌打ちすれば疎らな客が眉を顰めた。困り顔の店員にメニューを渡されふぅと苦しい息を吐く。
何があったか知りたかったのに。ノーティッツのあの言い草から察するに「ベルク」はおそらくバイトラーク本人だったのに。
(アラインのところへ行ってやれ、か……)
この期に及んで他人の心配をする奴が、なんで悪魔なんかやってるんだよ。本当に。
******
フラッシュメモリと辞表を残してバイトラークは独身寮を後にした。これから自分の取る行動で軍に迷惑がかかるかもしれない。そう思ってのことだった。
国道を走るバイクは橋を越え、トンネルを抜け、夜通し王都を目指す。祝福されし聖なる都、王の膝元へ。
議会長と上司にはひとことくらい言って出てくれば良かったかもしれない。大体のあらましは書き置きしてあるので何も伝わらないということはなかろうが。
人口の減少、文化の衰退。知れば知るほどどうしようもなかったのだとしかわからなかった。既に他の大陸では動植物が死滅し、大地さえ消失しかかっているという。
他人の命を吸う感覚とはどういうものなのだろう。それも己が望んだのでなく、平和を求めた代償としてだ。
本当にまだ間に合うのだろうか。何とかできるのだろうか。
ノーティッツの言ったよう、勇者がふたり揃えば別の道を見つけられるのだろうか。
朝日が眩しく景色を照らし出す頃、聳え立つ白亜の城が視界の隅に現れた。
夕暮れは逢魔が時という。ならば朝焼けが巡り会わせてくれる神秘の名は何であろう。
「――……」
海沿いの都に一歩踏み入れた瞬間、バイトラークの周囲を取り巻くすべてが変わった。
道も、街も、空の色さえ。
切り立った細長い一本道が灰色の王城へ続いていた。
心象風景などという言葉は知らない。闇魔法の実際の効果も体感したことはない。
だがこの先に誰がいるのかなんてことは考えずともすぐに知れた。背中のオリハルコンが静かに共鳴していたから。
バイトラークは門まで来るとバイクを降りて歩き出した。手には輝く石の銃。貴族も衛兵も侍女もいない、寂しい牢獄の奥へ進む。
「……あんたが王様?」
最奥の一室で丸くなっていた黒髪の男は客人の来訪など一切予期していなかったようだ。夢現に微睡む顔で開いた扉に目を向けてくる。だがその丸く青い瞳がひとたび焦点を結ぶや否や、たちまち世界は引っ繰り返った。
「ベルク?」
澱んだ景色は男の内部に吸い込まれるよう消えていき、代わりに王の私室に相応しい絢爛豪華な調度品が辺りを囲んだ。
そこはもう色彩のない暗い部屋ではなくなっていた。国王の寝所にバイトラークは立っていた。
倒さなければと思い続けた相手が目の前にいる。人類の敵だと勘違いしていた相手が。
トリガーには触れないで膝上まである小銃を立てた。これがどういう素材でできた代物か、彼にはひと目でわかっただろう。ものの数秒で秘密の名前を暴いてくれるぐらいなのだから。
「あんたに話があって来たんだ」
もしかするとこの不思議な銃でなら彼にとどめを刺せるのかもしれない。王も拒まず死を受け入れてくれるのかもしれない。
――だけど。
「もういっぺん世界を救う勇者になる気ある?」
(20130511)