ああほらね、やっぱりお前はディアマントを選んでしまった。
 あの子を魔王にするつもりだということは伝えちゃいけないと言いつけていたのに。
 ア・バオ・ア・クーを取り除いただけでは足りなかったのだ。もう決して己に逆らわぬよう誓わせ奪ったはずの心は、何百年とかけてじわじわ変質してしまった。
 何があっても忘れないと言ったくせに、お前は今なおすべてを忘れたままでいる。

(オーバストはクーと再融合したか……)

 盾の塔の様子を天からそっと窺いながら、ツエントルムは嘆息する。
 この天上を創ってから一体どれほど嘆いてきたことか。
 わたしに間違っていると言ったお前こそが、わたしに世界を守ってくれと頼んだのに。

(もういい)

 大切に思っていた彼は、最初からあの亡びた国にしかいなかったのだ。
 たくさんの友人に囲まれていつも幸せそうだったオーバスト。
 わたしにはお前しかいなかったのに、お前にはわたし以外の大事なものがいつだって他にたくさんある。
 それでもお前の頼みならばと聞いたわたしが愚かだったのか。

(もういい……)

 あの頃の彼は確かにわたしを慕ってくれていたのだ。だったら過去の彼に守ってほしいと乞われたものを、これからも守り続けていくだけだ。
 それが約束だったのだから。



 ******



 魂が抜けた後、オーバストの肉体は泥のように溶けて消滅してしまった。ウェヌスはウェヌスでまったく目覚める気配がない。ゲシュタルトも、湿原に転がるただの黒焦げの塊でしかなくなった。
 何がどうなっているのか少しも掴めないままなのに、更に異変は続く。アラインの腕で、ベルクの背中で、クラウディアの胸元で、三つの神具が急に輝き出したのである。
 白く透明なオリハルコン。神の加護を取り戻したそれに皆一様に目を瞠った。苦々しげな舌打ちをしてみせたのは神鳥ラウダだ。彼は低い声で「先代勇者は消えたものと見なされたらしい」と唸った。
「……どういうことだ?」
 アラインが問うと神鳥は多分に推測を交えて答える。「アンザーツは魔物化してしまったんだろう」と。
「魂が穢れて別の生き物になったから、勇者としての資格を完全に失ったんだ。ともかくこれで勇者は代替わりしてしまったことになる。今その娘が死ねば天変地異の魔法はすぐにも発動するぞ」
 ラウダの視線がエーデルへ向けられる。もう周囲に敵らしき敵はいなかったけれど、皆の間に緊張が駆けた。
「どうしてアンザーツは魔王城に向かったんだ?」
 次の問いにはバールが答えた。
「多分あのアホ、ファルシュと同化しに行ったんや。魔力を定着させんのに依代が必要やから……」
「魔王の力と叡智を手に入れ天界を滅ぼしに行くつもりだろうな。でなければ怒りがおさまるまい」
「天界だけで済んだらええけどな」
 バールは無理矢理笑ったが、事態の深刻さは計り知れない。
 折角何もかも上手くいきそうだったのに、どうしてこんなことになってしまったのだ。
 アラインは歯痒い思いで唇を噛んだ。トルム神が天変地異の魔法を捨ててさえくれればここで笑って解散できたのに。
「どっちでもいい。僕を魔王城まで乗せてくれないか?」
 何とかしてアンザーツを元に戻してあげないと。その思いだけでアラインは神鳥に尋ねる。だが神鳥たちは顔を見合わせ首を振り「先に盾の塔へ行こう」と提案した。
「オーバストがなんや話してくれるて言うてたやろ。どっちみち魔王城に行ったかてアンザーツがあれやったらなんもできひんわ」
「寧ろ決着は天界でつけることになるだろうな。こうなった以上、神とも対面しないわけにいくまい」
 ごくりと息を飲み込んでアラインは頷いた。皆もそれでいいかと問いかけようとして、まだベルクが呆然としたままなのに気がつく。
「……まだ消えてない。きっと何とかなるよ。転移魔法で今から全員盾の塔へ連れて行くから、しっかり抱えてあげてろ」
 喝を入れるようアラインはベルクの肩に拳を打った。腕の中の動かぬ聖女を見つめたまま、もうひとりの勇者はぐっと歯を食いしばる。



 まさかこんなところで祖国に逆戻りするとは思わなかったなとアラインは奇妙な心地で魔法陣を組成した。
 勇者の盾の塔――まだイックスと名乗っていたアンザーツに黒い盾ごと置いて行かれ、最初の挫折を味わった場所だ。あの頃から自分は彼に憧れていた。強く優しい、あるべき勇者像を地で行く彼に。
(でもそれも違ったんだ、きっと……)
 アンザーツはアンザーツで過去の自分から脱却しようともがいていたのだろう。彼は悔いていた。ゲシュタルトやムスケルに何も打ち明けてこなかったことを。
(僕の目指したいものも、もう『アンザーツのように』じゃない)
 それがなんなのかまではわからないけれど、この旅が終われば見えてくるような気がする。

「……お待ちしていました」

 転移魔法が完成し、盾の塔の最上階へ到着すると、聖獣ア・バオ・ア・クーの姿でオーバストが祭壇前に佇んでいた。青みを帯びた巨体を艶やかな羽毛が覆っている。黄金のくちばし、美しい両翼、長い首と頭部を飾る黒いたてがみ。記憶に残っている通りだった。
「ずっと正気やなかったんは魂が削り取られてたせいか」
 バールの言にオーバストはこくりと頷く。そうして再度全員に頭を下げ、申し訳ありませんでしたと告げた。
「この塔に番人として封じられていたものは、私が神に対して持っていた猜疑心や不信感でした。だから私は長いことあの方に逆らえなかった。……もうずっと昔、わざと天変地異を引き起こして地上の文化の発展を妨げていると教えられたとき、私は酷く反発したんです。何故そんなことをしてたくさんの命を奪うのかと。そうしたら神は永久に世界を続けるためだと仰いました」
 あの方がかつて地上の滅びる様を目の当たりにしたことはお話ししましたね、とオーバストは繋ぐ。パーティから離脱していたマハトだけ戸惑うような顔を見せた。後で教えてやるよと従者に耳打ちする。
「勇者の都がある場所には元々もっと大きな都があったんです。私を含め、天界に住まう神鳥たちはみなその都の生き残りです」
「生き残り?」
「はあ? なんやそんなん知らんぞ」
 当の神鳥たちもオーバストの言葉には目を丸くした。知らなくても仕方ないのだと彼は答える。
「私たちは人の肉体を離れたとき、都で生きた記憶をすべて失くしてしまったんですよ。ツエントルムは今もその忘却を嘆いています。術者であった彼だけが当時のことを鮮明に覚えていて、他には誰も何も知らないんです」
 オーバストにとっても随分後になってトルム神から聞かされた話で、覚えていたり思い出したりしたわけではないらしい。
 当時の神はツエントルムと名乗る大魔導師で、人類史上他に類を見ない原始魔力の塊のような男だったそうだ。
「けれど当時は今よりずっと人口も多く、魔力を有する人間自体が珍しかったんです。魔法史は古く技術こそ発展していましたが、理解ある有識者はほんの僅かでした。幼い頃から才覚を発揮していたツエントルムは両親に気味悪がられ、五つにもならないうちに都の機関に預けられたそうです」
 そのとき同じ魔法機関にいたのが自分だったとオーバストは言った。ツエントルムはひとりぼっちで特殊な訓練を受けていて、プライベートの彼に会えるのは自分だけ。たったひとりの友人として二十年来の付き合いをしてきたとのことだった。
「……でも私はそれを忘れてしまった。何度も思い出そうとして、何ひとつ思い出せなかった。そうやってツエントルムを失望させ続けたんです」
 聖獣は青い体毛にくちばしを埋めた。伏せられた瞼の奥にはどんな思いがあるのだろう。声はまるで己を責めるように響く。
「国の最期は呆気ないものでした。戦争が起きて、至るところで人が死に、ツエントルムも毎日のよう前線で血を浴びました。そうしたら負けそうになった相手の国が絶対に使ってはいけないとされる禁呪を使ってしまったんです。大地を破壊し生命を奪い尽くすまで止まらない、破滅の魔法が発動しました。もう皆戦争どころではなくなって、北からぐるりと雪玉のように膨れて転がってくる赤黒い嵐を避けようと必死で。僅かに難を逃れた人を除けば生きていたのは都の人間だけでした。ツエントルムは持てる魔力を最大限まで使って天界の原型を作り、結界を張り、魔法の届いた人々だけは神鳥の姿に変えてそこへ連れて行きました。何百万といた人間に比べれば千にも満たない数でしたが……」
 誰の引き起こした魔法だったのか、何がどうなってこうなったのか、散り散りに残された人々には何もわからなかったという。けれど生きていかなくてはならないので、地上の人間は少しずつ集まり出し、数を増やし、また街や国らしきものを作り始めた。ツエントルムはいつか再び同じことが起きるに違いないと案じ、彼らの国づくりに干渉した――。
「破滅の魔法の影響を引き摺り未だ魔力の放出がやまない場所には辺境の国を、魔力を抑え込むためにツエントルムが陣を敷いた地には勇者の国を作らせました。それでもまだ人間を信じられない彼は、勇者の国が強大になりすぎないよう国土の三分の一を兵士の国にさせました。更に人間が強くなりすぎないように、辺境の国の北側に彼らを脅かす生命を栄えさせました。湧き出る魔力と獣の身体を利用して、人間を憎む魔物たちを……」
 双方の数が増えすぎたときは大地震を起こして数減らしをしていたらしい。そうする中で、やがて勇者と魔王というシステムを思いついたのだとオーバストは語った。
「ツエントルムは地上に降り、勇者の始祖となりました。かつての敵城と自国の都、今なお残る三つの魔法の塔を用いて巨大な魔法陣を拵え、百年ごとに半分殺せば永遠に現状維持できる、永久に世界を守れるだろうと言いました。どうだ、妙案だろうと私に」
 疑念を呈したオーバストにツエントルムは酷くショックを受けたという。
 どうしてお前がそんな反論をするのだと。天界だってお前のために創ったのにと。
 荒れ狂った神はオーバストを盾の塔に落とした。忘れてしまいさえしなければお前だってきっと喜んだのにと嘆きながら。
 けれど結局別離は数年だけだった。寂しいと言ってツエントルムがオーバストを呼び戻したのだ。
「お前が側にいてくれないと、わたしはわたしがツエントルムだと忘れてしまいそうになる。……彼はそう言い、私の精神は彼の手によって引き裂かれました。天界へ戻ると私の翼は片方だけになっていました。何百年かわかりませんがずっと鳥籠の中に入れられて、その間にツエントルムは徐々に輪郭を失っていきました。肉体と同じ形をしていた精神体も今は青い発光体でしかありません。私は鳥籠に囚われながら、ずっと人間だった時代を思い出そうとしていましたが、やはり何も思い出せませんでした」
 地上に落とされた神鳥に仮初の身体が与えられるのは、そうしておかないと魂を保てず死んでしまうからだと言う。天界という特殊な結界に守られた空間でなければ我々は生きていけないのだと。
「地上を覗くなっちゅー掟はそれでやってんな……」
 ぼやいたバールの横でラウダも頷いた。
「なら神殿に立ち入ってはならないという掟は誰もお前に会わせないためか」
「……」
 オーバストは聖獣の頭をもたげてどこか苦しげに目を閉じる。分かたれていた心が混ざり合い、今度は彼の内部で引き裂かれているようだった。オーバストの口ぶりは決して神を擁護するものではなかったが、かといって非難するものでもなかった。多くの勇者と魔王を、そして地上を苦しめてきた男なのに。
「……私が彼から離れてしまうのをツエントルムは最も恐れていました。だから何度も、何度も私を試そうとした。私が彼を手伝って、本当に天変地異を起こす一助となるかどうか」
 結局私は神に従い切れなかったけれどとオーバストが顔を上げる。その黒い双眸はディアマントにそっと向けられた。
「あなたが次の魔王候補だと教えることは禁じられていました。でも私にはあなたが勇者に滅ぼされる未来がどうしても受け入れられなかった。……あの闇魔法の中であなたが私の記憶に触れてくださったので、目が覚めたらきっとお話ししようと思っていたのに、こんなことになってしまって……」
 右の翼に目をやりながらオーバストは申し訳ありませんでしたと詫びる。
「お前の右腕を使ってゲシュタルトを撃ったのは、やはりあの人なのだな」
 ディアマントの問いに聖獣は頷いた。己の借り受けていた器こそがツエントルムの肉体だったと。
「あの方はアンザーツという新しい身体を手に入れて一層力を増したはずです。勇者の魂が魔物となった今、肉体と精神には何の繋がりもありません。天界は魂が物質化される特殊な場所。もしアンザーツがそこへ行って神に挑めば、魂ごと壊されて生まれ変わることすらできなくなるかもしれません」
 ごく、と唾を飲み込んでアラインは拳を握った。マハトが怒りを抑えようと震えているのが目に入る。
 許せない、そんなことはさせるものか。
 アラインも拳を強く握り締めた。
「けどアンザーツは魔王ファルシュを取り込んだんだろ? エーデルが死なない限りはファルシュも死なないんだから……」
 ノーティッツの言葉にはオーバストが首を振る。
「魂が物質化するということは、それ単独の死も起こり得るということです。ファルシュが先に消える可能性は十分にあります」
「……」
 ともかく急がなきゃいけないってことか。アラインは舌打ちして唇を噛む。
 ファルシュと融合してしまったアンザーツを助け出し、ツエントルムから天変地異の魔法を取り上げる――それが最後の大仕事だ。
「ウェヌスはどうなる?」
 悪いが今はそこにしか関心がねえよとばかりにベルクが聞いた。初めて本当に仲間を失いそうになっていて、彼らしくもなく周りを見ている余裕もないらしい。
「すみません。わからないんです、ベルク殿」
 オーバストはディアマントに秘密を打ち明けたせいで身体から弾かれたのだという。ウェヌスやディアマントたち天界人は皆ツエントルムと何らかの形で言動の制約をかわしているらしい。神の子として増幅されている分の力はそれを破れば消えてなくなってしまうのだそうだ。
「ウェヌス様の場合、ご自身がご自身に架した言葉を反故にされたので、もう消滅していてもおかしくないのですが……」
「約束はふたつあったってこと?」
 ノーティッツの問いにオーバストが「ええ」と肯定の意を返す。
「どういうこった?」
 すぐに理解できない焦りでベルクの表情は歪んでいた。側に行って肩を支えてやりたかったが、それより早くノーティッツが説明し始める。
「ウェヌスが神様とした約束を破るとウェヌスは女神じゃなくなる。ウェヌスが女神として自分で立てた誓いを破ると消滅するってこと。まだ消えてないってことは、ウェヌスは時間が停止してる間に神様との約束を破ったんじゃないか? ぼくらと言葉を交わしたあの闇魔法の中で」
「可能性はありますね」
 オーバストはノーティッツに頷いて己の推測を話し始めた。
「それならウェヌス様の契約者であるツエントルムがいなくなれば、目を覚まされるかもしれません」
 そう仮説を立てながらもオーバストは苦しげだった。神がもう消えるべきであることはわかっていても、同情心を捨て切れないのだ。
 それでも聖獣はディアマントから目を逸らさなかった。天の子でありウェヌスの兄である彼の言葉をじっと待っていた。
「……この阿呆を起こすためなら仕方あるまい。死ぬとわかっていて魔王になってやるつもりもないしな」
 ぱあっと目を輝かせたのはエーデルだ。
「じゃああたしたちの味方になってくれるってこと?」
「貴様らが天まで神を討ちに行くと言うならな」
 ふん、とディアマントは鼻息を荒げる。白いコートを背中から掴んでエーデルが「良かった!」と安堵の様子を見せた。
 希望の光が差してきたからか、ベルクも元気が出てきたようだ。
「ってことはツエントルムをしばき倒せばこいつを助けられんだな?」
 そう言って背中の剣を――今までずっと鞘から抜けることのなかった神鳥の剣を手に取った。眩いばかりの白い輝きにアラインは思わず見とれる。やはりベルクには剣が似合う。
「神様に逆らうのに神様から貰った武器装備してて大丈夫か?」
「多分大丈夫だと思います」
 オーバストは神具が元々ツエントルムに作られたものでないことを明かした。ずっと昔から守られてきた神聖な魔道具なのだと。
「確かに今は彼の術がかかっていますが、勇者の傀儡化は血に縛られた魔法です。勇者の血を引かないベルク殿やアライン殿がそれを使っても精神を支配されることはありません。あ、でもディアマント様は絶対に持たないでくださいね! 危ないですからね!」
「それじゃこのまま盾を僕が、剣をベルクが、首飾りをクラウディアが持った状態で行けばいいね」
 アラインが言うと皆頷いた。だがひとりだけ「おい」と言いかけ口を閉じる。
「どうなさったんです?」
 何か言葉を紡ぎかけたディアマントに微笑んだのはクラウディアだった。
 いつもこの僧侶には突っかかり気味のディアマントだが、最終決戦を前にして流石に空気を呼んだのか「なんでもない……」と黙り込む。
 ふたりのやりとりを見守りながらオーバストは次に天界のある場所について話し始めた。ディアマントが神を討つと言った時点で覚悟は出来上がったものらしい。
「天は空にあるのではありません。あの内海の底、霧に包まれた海底火山がそうです」
「えええ!?」
 またも瞠目したのは神鳥たちだった。「せやけど空が!」「雲が!」としどろもどろになっている。
 なんでもオーバストによれば、自然エネルギーを利用し転移の陣、保護の陣、幻視の陣など多重に多種類の魔法をかけて天の楽園に見せかけているのだそうだ。
「……ツエントルムは長いことひとりぼっちでした。きっとそれが彼をあんなに歪めてしまったのでしょう。あの方はやはり間違っています」
 オーバストはきっぱり言い切った。今度こそお止めしなければとも。
「アンザーツも今は神への憎しみで我を忘れてしまっています。ファルシュを取り込み玉座から魔王を引き剥がしたら、すぐにも天界を目指すはずです」
 アラインは全員と目配せし合い頷き合った。成すべきことははっきりしている。後は準備を万全にして挑むだけだ。
「天界へ行く前に試したいことがある。少しだけ時間が欲しいんだけど、いいかな?」
 塔の麓のヒルンヒルトの家へ行きたいと要望を告げるとクラウディアが即座に「案内します」と応えてくれた。
「家があるなら助かるな。ぼくらもウェヌスを休ませてあげる場所が欲しいしね」
「ああ、戦闘終わったばっかだしな。ちょっとは英気を養っとこうぜ」
 ベルクとノーティッツも、一刻も早くウェヌスを目覚めさせたいだろうにすんなり了承してくれる。
 オーバストは支度が終わったらまた最上階へ戻ってきてくださいと言った。天界へは彼が連れて行ってくれるとのことだった。
「皆さんの準備が整うまで、アンザーツが天界へのゲートを通過しないかどうか私が見張っておきます」
 最上階から地下まで降りる魔法陣へとアラインたちは次々に飛び込んだ。魔力の回復を考慮すると、やはり一晩はじっとしておきたい。自分はそこまで疲弊していないけれど、ハルムロースと死闘を繰り広げていた面々はそうもいかないだろう。
「アライン様、試したいことって何です?」
「……上手く行ったら教えるよ」
 マハトの問いには曖昧に返した。上手くいけばいいなと思ってはいるが、期待がかかると失敗したときの失望が大きい。
「この期に及んでまだ俺に隠し事します!?」
「わかったわかった! お前の目の前でやってやるから!!」
 両足が地面に着くとアラインはマハトを連れて大急ぎで賢者の隠れ家へ向かった。
 魔法陣に触れてもいない人間がいたことにはまったく気づいていなかった。






 地上へ降りて行ったアラインたちを見送り、最後に残ったのはディアマントだった。
 あの記憶を垣間見たのだから当然思うところは多々あろう。
 どう呼びかければいいか逡巡し、結局いつものように「ディアマント様」と呼ぶ。
 こちらを見上げた顔は掴めない距離間に張り詰めていた。だが眼差しは見たこともないほど真摯で、たちまち胸が締めつけられる。
「一度くらい父親らしく振る舞えばどうだ」
 そんな風に命じる時点で齟齬があるのに、おかしなもので酷く嬉しがる自分がいる。
 ずっと話したかった。どれだけ自分が彼を愛しているか。
「もう人の身体がありません」
 首を振るとディアマントの方から近づいてきて、聖獣の首元に寄りかかった。翼でその背を優しく包み、オーバストは「さあ行ってください」と囁く。
「あなたは長男なんですから、妹も弟も守ってあげないといけませんよ」






 クラウディアの後について訪れたのはこじんまりした木の家だった。アラインとマハトが魔道書だらけの書斎にこもる間、ベルクたちは動かぬウェヌスをベッドに寝かせてやる。クラウディアのものだという寝室にはベルクとノーティッツ、ウェヌスの三人だけがいた。
 耳を澄ませば聞こえてくるのはすやすや規則正しい寝息。こうしていると本当にただ眠っているだけのようだ。そう何日も健康なまま眠り続けることなどできないだろうから、今日明日中には決着をつけなければならない。
 元人間とは言え何百年と生きてきた神様が相手だ。心してかからねば。
「物語の締めくくりはハッピーエンドって決まってんだ。きっと目を覚ますよ」
 寝台の横にぴったりついているベルクの肩に軽く触れ、先に出てるとノーティッツは部屋を去る。
 変な気を回しやがってと思ったが、眉をしかめる余裕もなかった。
「……青春ごっこなんかこれっきりだぜ」
 後で返すとひとりで勝手に約束するとベルクはウェヌスのリボンを解いた。グローブを脱ぎ、右の手首にきつく巻きつける。
「お前が引っ繰り返って喜ぶくらいの勇者になってきてやるよ、ウェヌス」
 だからお前の父親を、ボコボコにするけど許してくれよな。
 神様なんかいらねえけど、お前のことは必要なんだ。






 大量の魔道書の中からアラインが目当ての一冊を探す間、マハトはラウダとバールにアンザーツたちが何を仲間に隠していたか聞いていた。勇者と魔王がどういう生き物で、どうして彼が都に戻ってこられなかったのか。
 マハトはもうムスケルの記憶に惑わされてはいなかったけれど、話を聞いて少なからずショックを受けたらしかった。だったらなおのことちゃんと話せよと憤りを露わにしている。だがその怒りは憎しみを帯びたものではなかった。
「ほんっとにあいつらは……!!」
 馬鹿力で本棚に拳を叩きつけたものだから、衝撃でばさばさと上の方の魔道書が崩れてくる。探し物をしているんだから邪魔するなと叱りかけ、アラインは落ちてきたのがまさに求めていた一冊であるのに気づいた。
「マハト、お前なかなか……」
 なかなかやるなと言いかけて、はたと言葉を止める。偶然にしては出来過ぎていないか?だってここはヒルンヒルトの家で、アラインのやろうとしていることは――。
「お? どないしたんやアライン?」
「ちょっと黙っててバール」
「……っ!」
 黙れと言われ途端に苦しみ出すバールにラウダが深々と嘆息する。
 アラインは魔道書を開き、必要な記述を探して次々ページを捲った。
 きっとこの術は上手くいく。確信が指を急かす。
「あった!」
 魔法陣の構築の仕方、発動の条件、すべてチェックし終わるとマハトやバールが呼びかけてくるのも無視して闇魔法の詠唱を始めた。ラウダだけは何か勘づいたのか、にやりと笑って術を見守っている。
「ルーフェン・ゼーレ、マヘン・フオルム、ライエン・クラフト……」
 普通は対象を一体に限ると書かれていたが、そんなことは言っていられない。普通では足りないことがあったからあの賢者だってもっともっとと力を求めたのだ。絶対に「ふたり」必要なはずだ。今のアンザーツに呼びかけるためには。
「コーメン・ヒーアヘア――……ヒルンヒルト! ゲシュタルト!」
 描いた黒い魔法陣から目も眩むほどの光が放たれ部屋を満たす。
 やった、成功だ。喜ぶアラインの耳元でくっくっくと愉快そうな笑みが零れた。本当に愉快そうな。

「持つべきものは優秀な子孫だな」

 薄紫の髪を払いながら宙に浮かんだヒルンヒルトがアラインを褒める。

「ちょっと、アンザーツはどうしたの!? 何がどうなったの!?」

 凄まじい剣幕でマハトに詰め寄るのは黒いドレスのゲシュタルトだ。だがその肌は白く、魔性の名残はない。
「ああ待て、事情は私から彼女に教えよう」
 賢者はマハトの肩からそっと聖女を引き剥がすと「触らないでよ!」と怒る彼女に胸元の魔法石を触らせた。多分そこに記憶を蓄積してあるのだろう。ゲシュタルトは一瞬の後ぶるぶる震え出し、トルム神の名を憎らしげに吐き捨てた。
「……やっぱり僕らの側にはくっついて来てたんだ?」
「当たり前だ。私はアンザーツのためだけにこうして永らえているんだぞ。たとえ悪霊扱いされようともな」
「いつまで根に持ってるのよ!?」
 霊体なのにヒルンヒルトに掴みかかるゲシュタルトを見てマハトがぶっと噴き出した。
「はは、確かにふたりとも悪霊だ」
 戦士が嬉しそうにニヤニヤし出すと賢者と聖女は顔を見合わせ諍いを止める。
 なんだか風通しが良くなってきたぞとアラインは神鳥たちとこっそり頬を緩め合った。
「アライン、君の見込みは正しいよ。私たちでなくてはあの男を正気には戻せまい。なあゲシュタルト?」
「……はあ、あなたとなんか協力したくないけどアンザーツのためなら仕方ないわ」
「我々の幽体を定着させるのにちょうどいいものがある。天界に着くまではそれに宿してもらえないか?」
 ヒルンヒルトはそう言うと書斎の机を指差した。言われるままにアラインが抽斗を探ると色褪せた紺のリボンと魔法石の嵌った首飾りが見つかった。するとゲシュタルトが「うええ……っ」と聖女に似つかわしくない声を上げる。
「よくそんなの持ってたわね……」
「私とて仲間を偲ぶ気持ちくらい持ち合わせていたさ」
 どうやらリボンはゲシュタルトの私物だったらしい。ヒルンヒルトはアンザーツの生家を出るとき、これも一緒に持ち出していたようだ。
「ムスケルが私宛に出してくれた手紙も全部取ってある。大事にしていたんだぞ」
「え、そうなの」
 今度はマハトが驚きの声を上げた。だが素直に喜ぶ戦士と違い、ゲシュタルトは「今更そんないい子ぶったって遅いわよ!」と頑なだ。
「君はアンザーツとは和解したくせに、私には冷たいままか……」
「なんであなたと仲良くしなきゃいけないわけ? 言っておくけど百年前からそのスカした顔が気に入らなかったのよ」
「それを言うなら私だって可愛い子ぶった君の態度には辟易」
「だああもー!! お前ら喧嘩すんな!!!」
 間に割って入るマハトが楽しそうで、アラインもつい声を出して笑った。ラウダもバールもホッとしたようだ。
「ともかくふたりとも、まずは霊体を固定しないと――」
 耳をつんざく轟音、今日二度目の不快な雷鳴が轟いたのはそのときだった。






 来てください、とクラウディアに頼まれエーデルは華奢な背中を追いかけた。
 闇魔法の中で出会ったクラウディアには自分の側に近づくなと言われたけれど、どうしてその彼がまるで正反対の行動を取るのだろう。
 隠れ家から少し離れた森の中、クラウディアはぴたりと足を止めエーデルに向き直った。いつもと変わらない穏やかな微笑。それにホッとして彼に近づく。
 大丈夫よね。普段と同じクラウディアだわ。
「こんなところまで来て一体何の用事だったの?」
「ええ、ちょっと」
 答えながらクラウディアは背中に隠れていた両腕をパッと広げた。さっきまで魔力の魔の字も感じなかった掌に雷がふたつ宿っている。状況が把握できずにエーデルはぽかんと口を開いた。
 迸る稲妻が自分に撃ち落とされようとしている。けれどそうしようとしているのがクラウディアだというだけで、逃げなければという選択肢すら浮かばなかった。
 何、なんなの。
 どうしてクラウディアがあたしに魔法を向けているの――。

「やはり貴様もツエントルムの血を引いていたか」

 落雷を弾き返してくれたのはディアマントの大剣だった。エーデルの目の前で火花が散り、閃光が瞬き、魔法の威力が殺ぎ落される。
 にっこり笑ったままクラウディアは「彼も優しいですね」と言った。
「ア・バオ・ア・クーから聞いたのですか? 皆の前でばらしてしまえば良かったのに」
 大風を起こしたクラウディアはディアマントを吹き飛ばそうと魔力を注いだ。ディアマントは羽をたたんでエーデルを守るように立ち、躊躇なく剣を構える。大振りの攻撃を易々かわしてクラウディアは鼻で笑った。
「彼女が消えればチェックメイトです。アンザーツに取り込まれ、ファルシュもまた魔王の資格を失った。天変地異は今すぐにでも起こすことができる」
 そうしたら後はわたしが勇者の血を残せばいい、と冷たい声。呆然と立ち尽くすエーデルの元にまたも雷を手にした彼が間合いを詰めてくる。
「クラウディア……?」
「彼はもういません」
 返答に一瞬で頭が真っ白になった。
 思い出すのは光に飲まれかけたクラウディアの姿。驚いてエーデルを見つめ返した蒼い瞳。
 もうすぐ光に食い潰されるのだと、彼は自分に言わなかったか。
 会えて良かったと。

「嘘よ!!! クラウディアはいなくなったりしない!! だって守ってくれるって言ったもの!! 一緒に行こうって……!!!」

 叫びながらエーデルは少しずつ絶望を理解し始める。
 優しくて温かなクラウディア。彼はいつだってエーデルを励ましてくれたけれど、ひとつだけ絶対に言ってくれない言葉があったのだ。
 ずっと一緒だと。いつまでも側にいると。永遠だけは決して誓ってくれなかった。
「あぐぅ……ッ!!」
 雷がエーデルの皮膚を焼く。並の炎では傷つけられなくなった肉体をいとも簡単に。
「馬鹿者! 抵抗しろ!!」
 怒号とともにディアマントが舞い戻ってクラウディアの背に斬りつけた。
「やめて!! やめて!!!!!」
 襲われているのは自分なのに庇ってしまう。クラウディアが血を流すところなんて見たくなかった。
 ぽろぽろと涙が溢れる。火傷の痛みが胸の痛みにすり替わって、呼吸すら苦しくなってくる。
 エーデルは大樹の根元に尻餅をついた。少しも変わらぬ笑顔のままでクラウディアが見下ろしている。
 竜巻にも似た台風がエーデルたちを包み込み、ディアマントの剣は届かなくなった。懸命に魔法を撃ってくれるが神鳥の首飾りが結界の役目を果たして全部掻き消されてしまう。
 先程の比でないほどにクラウディアの手にした雷は大きくなった。もうとどめを刺す気なのだとひと目でわかった。
 笑ったまま。自由な心を手離したまま。

「あたしは信じてる……あなたのことをずっと……」

 バチバチと破裂音が響いた。目を閉じることはしなかった。
 信じたかった。クラウディアを。たくさんの隠し事を抱えて、約束すらできなかった優しい彼を。

「クラウディア……!!!」

 辺り一帯に雷鳴が轟く。光がすべてを包み込む。
 雷は細い体を真っ直ぐに貫いていた。
 クラウディアは自分で自分を抱きしめるよう身を屈め、我が身に稲妻を落としていた。

「……あなたを守れるのはもうわたしではありません、エーデル」

「クラウディア……?」

 白い肌が焦げている。真っ赤な血が伝っている。それでも彼は微笑んでいた。
「オリハルコンを手に入れてすぐ、わたしは意識を失くして……次に目が覚めたとき、目の前にはあなたがいました。……あなたが側にいてくれるときだけは、わたしはいつもわたしのままでいられた…………」
 血を吐きながら、震えながら、クラウディアは打ち明ける。その手の中には新しい真空波がいくつもいくつも生まれていた。
「すみません……魔王の血を封じる方法……、見つけてあげられなくて……」
 どうか幸せに、と呟くとクラウディアは風魔法を発動させる。
 止めようとしたけれど間に合わなかった。彼は自分にありったけの魔力を撃ち続けた。
「やめて!! やめてクラウディア!!!」
 やがて外界を隔絶していた暴風が止み、ディアマントが飛び込んでくる。エーデルは回復魔法を唱えてと絶叫した。けれど僧侶はそれを拒むよう首を振る。血まみれになっているのに泣きもしないで、笑ったままで、これでいいんですと囁いた。何がいいのかエーデルにはまったく理解できないのに。
「何してんだ!?」
 茂みの向こうからノーティッツたちが駆けつけてくる。絶命寸前のクラウディアを見てアラインが飛び出した。






 神具のせいだと教えてくれたのはヒルンヒルトだ。考える間もなくアラインはクラウディアから首飾りを奪い取り、有無を言わさず癒しの魔法をかけ始めた。
「いけません……、わたしには神の血が流れています……。生きていても邪魔になるだけ…………」
「諦めちゃ駄目だ! 何か方法があるよ!!」
 傍らの賢者を振り返れば嘆息しつつ「精神分離は準備に時間がかかりすぎる。今すぐ効果の得られる手段は思いつかない」と即答する。対するアラインの返事もまた即答だった。
「じゃあ悪いけどとりあえず寝てて」
 重い重い睡眠魔法を三重四重にしてかけると、意表を突かれたのかクラウディアはあっさり深い眠りに落ちた。
「……随分強引だな君も」
「ヒルンヒルトに言われたくないなあ」
「だから君もと言ったろう」
 アラインはふうと息を吐き呼吸を整える。
 ウェヌスに続き回復役のクラウディアが欠けるのは痛手だが仕方あるまい。彼とて望んでこんな血筋に生まれてきたのではないのだから。
「……神様を止めればクラウディアは?」
 賢者に問うと「無論解放されるだろう」との返答だった。
 決まりだとアラインは立ち上がる。まだ涙の筋が残ったままのエーデルに「わかった?」と神鳥の首飾りを突き出した。
「今度は君がクラウディアを助けるんだ」
 またぽろぽろと雫は頬を流れたが、エーデルは力強く頷いた。
 ディアマントがクラウディアを抱き上げて「休ませてやろう」と言う。
「……なんかほんのちょっとの間に、お前ら変わったなあ」
 感心したようベルクが瞠目した。マハトが嬉しそうだった。



 魔力が回復するのにはやはり一晩かかってしまった。
 星降る夜空を窓辺で眺めて雑魚寝して、それぞれに思いを巡らす。
 翌朝盾の塔の最上階へ登ったのはアライン、マハト、ベルク、ノーティッツ、エーデル、ディアマントの六人だった。 ヒルンヒルトの宿った魔法石はアラインが、ゲシュタルトの宿ったリボンはマハトが懐に収めている。
「それではまいりましょう」
 オーバストは聖獣の翼を広げ、アラインたちを背中に乗せた。ラウダとバールもついて来てくれた。
「何百年ぶりの天界やろな」
 濃霧の立ち込める内海へ青く美しい獣が飛び立つ。
 ちょうどそのとき向こう側から真っ黒い影が現れて、先に海底火山のある場所へ吸い込まれて行った。
「……アンザーツか」
 アラインの耳元にヒルンヒルトの重低音が響く。
 ハルムロースなど目でないほどに研ぎ澄まされた怒りの声。石に隠れて姿が見えない分余計に恐ろしく感じる。
 本気で悪霊じみてきたなと思ったが、それは口にはしなかった。
 怒っているのはこの賢者だけではない。



 ******



 海底火山の真上まで来ると濃霧の中に空間転移の魔法陣があった。アンザーツはここを通過していったらしい。
「あそこをくぐれば天界です。皆さん気をつけてくださいね……!」
 降下しながらオーバストが忠告する。ツエントルムからすればアラインたちが来ることは予測がついているはずだ。どんな罠が張ってあるか知れない。
「一応もう策略めいたことは何もないと思いますが……」
「どうしてそう思うの?」
 不審に思ったノーティッツがそう問いかける。オーバストは苦笑いで「私がこちらについてしまいましたから」と答えた。成程、トルム神もあまり冷静とは言えない状況なのか。
 ゲートとなっている魔法陣を抜けると急激に視界が開けた。
 まやかしだと聞いていなければ遥か上空に訪れたのだと勘違いしかねないほど薄い空だった。足元には精巧すぎるほど精巧なダミーの地上。腕を伸ばせば真っ白な雲が掴めてしまいそうだ。
「あちこち小さい岩場が浮いてんな。あれを足場に戦わねえとってか」
 やってやろうじゃねえかと鼻息を荒くするベルクにディアマントが「心配無用だ」と告げる。
「あの中は翼を出さずとも飛べる」
 そう言って彼が指差した先には天界を丸く包む青い結界があった。
 魂が物質化するとはオーバストも言っていたが、肉体より精神が幅を利かせる世界なのかもしれない。
「アンザーツはあれか?」
 オーバストの羽の間でベルクが薄ら目を細めた。
 神殿らしき白い建物に向かう黒い半固形の物体。それを目にして全員息を飲む。
 もはや勇者の原型など留めていなかった。憎悪と呪いの塊となったアンザーツは神殿に取りつき、毒なのか泥なのかよくわからないものをなすりつけている。
「アンザーツ!!!」
 ラウダが呼んだが声はまったく耳に入っていないようだった。怒りと悲しみが冷静さどころか人間らしさすら奪っているのだ。
 アンザーツは吼え立てながら神殿に瘴気を撒き散らした。真っ黒に渦巻くそれは壁や柱を破壊して神殿内部を剥き出しにしていく。どういう風が流れているのか、崩れた建物の一部が結界の外まで飛んできてオーバストが旋回した。
「ツエントルム……!!」
 ふと見ると神殿の入り口にひとりの男が立っていた。姿かたちはアンザーツそのものだが、服装は白い法衣に変わっている。携えた武器は杖ひとつだ。かつて大魔導師と呼ばれただけあって、魔法には絶対の自信を持っているのだろう。
 ツエントルムがほんのひと振り風を放つとアンザーツの巨躯は見る間に神殿から引き剥がされた。
「急がないと!」
 アラインはオーバストを急かす。ツエントルムとアンザーツを戦わせては駄目だ。もし神がアンザーツを殺してしまったら二度と勇者を助けられない。
 聖獣はこくりと頷き結界内へ飛び込んだ。精神を具現化できる空間に突入した途端、ぽん、ぽんとヒルンヒルトとゲシュタルトが出現する。
「こっちはツエントルムを張ったおす。そっちはアンザーツを何とかする。それでいいんだよな?」
 剣を取り立ち上がったベルクにアラインは頷いた。任せたよ、と拳と拳をぶつけ合う。
 アラインとマハトは武器に手をかけ聖獣の背中から飛び出した。空の泳ぎ方などわからないので最初は薄く風をまとう。だが段々と蹴ったところに瞬間的に地面代わりの小規模魔法陣が出現するのだとわかり、アンザーツの背後に降りる頃にはすっかり天界の歩き方に馴染んでいた。思っていたより断然動きやすい。止まりたいところでピタリと止まれる。
「…………」
 アンザーツは決まった形も持たないまま天空にゆらゆら揺れていた。ふらりとこちらに向き直ったがまだ話の通じそうな雰囲気ではない。見失ったツエントルムを探そうと移動し始めたので、注意を引きつけるため火魔法をちらつかせた。
「オオオオオオオ!!!!!!」
 狙い通りこちらを向いてくれたのはいいが、少々リアクションが激しすぎる。マハトとふたり、右と左に黒い腕が伸びてくるのを跳んでかわした。霊体ふたりは軽やかに上空に飛んで避ける。
「まずアンザーツとファルシュを分離させねばならんぞ。ファルシュの方を撃破してアンザーツひとりきりになれば闇魔法で呼びかけられる」
 ヒルンヒルトはそう言いながら両手に魔法弾を浮かべた。
「まさかまた勇者と魔王退治に来ることになるとは思わなかったわね」
 ゲシュタルトのひとりごとに賢者も「まったくだ」と笑った。
(ん? 勇者って……ひょっとして僕か?)
 そんなまさかとアラインは目を瞠る。そもそもゲシュタルトには思い切り血筋を否定されたのに。
「魔王に情けは必要ない。あれはもうファルシュというより神の魔法そのものだ」
 自我などないということを改めて強調され、アラインとマハトは頷き合う。
 会うのはこれが初めてだし、話したこともない魔王。けれど彼が残したかったものは今きっとエーデルに受け継がれているのだろう。そう思う。
「行こう、アンザーツを助けるんだ」
 マハトもヒルンヒルトもゲシュタルトも、目線はじっと黒い塊の中心を向いていた。
 早く気がついてくれよ。
 仲間が皆来てくれてるんだよ。



 ******



 神殿からアンザーツを吹き飛ばしたツエントルムの元にベルクたちを乗せた聖獣が近づく。至近距離で見るトルム神はますますアンザーツそのもので、そのやり口に虫唾が走った。
(つーかただでさえアンザーツが強いってのに、精神と肉体が揃ったらますます強くなるんじゃなかったか?)
 ツエントルムの力量を熟知しているからだろう、オーバストは一定の距離を保ったままそれ以上近寄らないでいる。その様子を一瞥し、ツエントルムがふっと笑った。
「わたしへの報復か。さぞかし恨みも溜まっていることだろうね」
「……もうこんなことはやめましょう!」
 訴えを耳にした途端、トルム神の足元から丸い気弾が浮かび上がってこちらに飛んできた。どんな攻撃を仕掛けてくるのか読めないのでノーティッツに策を練ってもらうのはもう少し後だ。ベルクは神鳥の剣を握り締め、向かってくる光の球を次々切り裂いた。
「……っ!!」
 輝きを取り戻したオリハルコンの軽さは異常だった。まるで羽根でも振っているようである。辺境の都でイデアールと対峙したときはどうしても大振りになる重さに悩まされたが、これならどんな剣よりも速く打ち込んでいけそうだ。
(神具っつっても神様の術が無効なら、単にすげえ強ぇ武器防具ってことか)
 よし、と気合いを入れ直しベルクはオーバストの翼から飛び降りた。また気弾が発射されたがすべて剣圧で薙ぎ払う。そのままの勢いを保ち、着地と同時、斜めに斬り下ろした。
「っしゃ!!」
 元魔導師であるためか、ツエントルムに剣術の心得はないらしい。呆気ないほど簡単に攻撃が決まってベルクは頬を緩める。
 だが瞬きの間に斬られた肉を綺麗に元通りにしたツエントルムの笑みを見て瞬時に青ざめた。多少のダメージなど受けたところで無意味だから防御していないだけだ。そう理解するのに二秒も必要なかった。
「やはり器があるだけで段違いだな」
 余裕たっぷりにツエントルムは腕を広げる。もっと斬ってみろと言わんばかりだ。
 心の中でアンザーツに詫びながら、ベルクは神の両腕をばっさり斬り落とした。だがそれも磁石のようにくっついて、最初から何事もなかったかのように戻ってしまう。
(ヒュドラのときみてえに核があるのか?)
「だったらこれでどうだ!!」
 神鳥の剣の速さに任せ、ベルクは目の前の男を滅多切りにした。回復の暇を与えず攻撃に徹していれば何か光明が見えるかもしれない。
「ベルク、戻れ!! 魔法が来る!!」
 幼馴染の声にハッとして後ろに跳ぶと、直後さっきまで立っていた場所にマグマが噴き出した。一瞬前まで何もなかったぞと無意識に唾を飲み込む。
「おや、あれに勘づくとはなかなか鋭い」
 こま切れにしたはずのツエントルムはもう五体満足だった。血の一滴も垂れていない。
 一旦距離を開くべきだと本能が告げた。今まで見てきたどんな相手より恐ろしい相手を敵に回している。
「聡い人間は嫌いだ」
 そう言うとツエントルムは右腕を高く上げ、デコピンでもするように空中に指を払った。瞬間、凄まじい風の塊が発生してノーティッツに襲いかかる。
 咄嗟にオーバストが翼で庇ってくれたようだったが、小さな空気の弾丸は羽を貫通し目標に届いたようだった。聖獣の上で響いた悲鳴らしきものにベルクの頭が沸騰する。
「てめえ……ッ!!!」
 再度斬りかかるとツエントルムは楽しげにほくそ笑んだ。
「もうひとつ面白いものを見せてやろう」






 「大丈夫?」とエーデルに問われ、ノーティッツは仰向けに転がったまま涙目でこくこく頷く。
 一直線に額を目がけて放たれたのは極小の魔法球であったけれど、凝縮された力はとんでもないものだった。羽の上で燃え尽きているバンダナに防御の呪符を何重にも仕込んでいなければきっと昇天第一号になっていただろう。天国で死ぬなど洒落にならない。
「一撃の重さがやばいな。迂闊に近づけないぞ……」
「あなたは皆のブレーンだものね。是非そうしてほしいわ」
 何か思いついたらすぐに指示して、とエーデルが言う。知らぬ間に随分信用されたなとノーティッツは頬を掻いた。
 飛び込んで戦いたいのは彼女も山々だろう。だがまだそれができない。自分が死ねば何十万もの人間が巻き添えになるとわかっていて、お気楽に戦えるほど楽観的にはなれないのだ。それも神様なんてものを相手に。
「私が加勢に行く。どこまで通じるかわからんが」
 ここまでツエントルムの様子を窺っていたディアマントがオーバストと並走するよう翼を降りた。
 何人行ったところであんな超回復をされては同じだろうと思ったが、他に今打てる手はない。勝つための糸口を掴むにはやはり攻めなければならなかった。
「気をつけてくれ。今はぼくとあんたしか光魔法を使えないんだ」
「承知している。そっちこそ気をつけろ」
 ディアマントは大剣を手にすると後ろから回り込む形でツエントルムの元へ舞い降りた。ベルクが斬りかかるタイミングに合わせ、ふたりで前後から襲いかかる。しかしツエントルムにダブル攻撃は効かず、ただの一筋も傷を負わせることはできなかった。
「ようやく来たか、ディアマント。お前も私に逆らうのだね?」
「魔王になれとは聞いていなかった」
「話す必要もなかっただけだ。操るのは玉座に座らせてからと思っていたが、はじめからお前にも術をかけておくのだったよ」
 こんな術ならかけておいたが、とツエントルムは研ぎ澄まされた光を発した。リボンのようにしなった薄い刃がディアマントの腕や足首を簡単に撥ね飛ばす。バラバラになった身体を見てエーデルが息を飲んだ。
「なんだあれ……?」
 目を細め、ノーティッツは状況を探る。
 明らかに致命傷であるにも関わらず、ツエントルムを睨むディアマントの目の強さは変わらない。
「まさか……!」
 オーバストの悲痛な声に応えるよう神は無慈悲な笑みを浮かべた。
「魔王にするまでは大事な身体だと思ってね。それまでは何をやっても死なないよう、お前とは不死の契約をかわしたんだ」
「ぐぁっ、ぅ、ッ!!」
 微笑みながら更に細かくツエントルムは実の息子を刻んでいく。オーバストが「やめてください!!!」と叫ぶのを面白がっているようだった。
 見ていられずにノーティッツは癒しの呪文を唱え始める。肉体強化ならいざ知らず、治癒の魔法は不得手だった。無駄な魔力消費になるかもしれないが、それでも放ってはおけない。わなわなと震えるエーデルにも「行っていいよ」と告げてやるしか。
「生き続けるのは思うより苦しいぞ? だが魔王になれば死ぬことはできる。ははは、終わりにできるだけお前は恵まれているよ!」
「……ッ!」
 ツエントルムの言葉はディアマントにと言うよりはオーバストに向け発されているようだった。
 不死の呪いか消滅の苦しみか。いずれにせよ神は我が子を苦しめる気でいたらしい。
 あんな親元でウェヌスはよく真っ直ぐ育ってくれた。すごい奇跡だ。感謝しなければ。
 青い翼に隠れてノーティッツはディアマントに回復魔法を届けた。職業僧侶でも何でもない自分が肉や骨を組成するのは少々辛い。全快とまではいかないかもと多少弱気になっていると、途中でディアマントがもういいと言うよう目配せしてきた。まだ身体が半分繋がっていないのに、千切れかけた指の先で彼は魔法陣を描いている。
「死なんのなら怯む必要もないわ」
 激痛ごと振り払うようディアマントは炎を放った。その援護をするようにエーデルも飛びかかっていく。
(策なんか考えてる余裕ないな)
 翼の上にひとり残り、今は全員の回復だけに専念しようとノーティッツは心を決めた。
 アラインたちがこちらに合流してくるまでは最低限もたせなきゃいけない。特にエーデルのことは。
 足を振り上げた魔王の末裔にツエントルムが杖先を向けた。
 治したばかりの身体を張ってディアマントはエーデルを庇う。
「死なんのだから精々利用しろ」
「……ありがとう!」
 ディアマントには悪いが少しの間頑張ってくれと胸中で励ます。
 ベルクとエーデルがツエントルムに何度も攻撃を仕掛けるが、そのどれも決定打にならないまま、神にとっては遊戯のような時間が続いた。



 ******



 アンザーツとファルシュの融合体にアラインとヒルンヒルトはひたすら魔法を放ち続けた。火も水も風も土もだ。雷を使うと絶望の記憶が甦るのか酷く暴れ狂う。抑えるのが困難になるので雷属性だけは自然封じることになった。
 マハトはゲシュタルトの補助を受け、斧を振り回しどす黒い塊に斬りかかっていく。傷口から溢れるのは血ではなく、もっと黒い瘴気や魔法弾だった。
「っ……!! くそ、まだこっちが誰かわかんねえのかよ!!」
 攻撃すればした分だけアンザーツからは反撃が返る。放っておけば何もされないのだとは思うが、そんなわけにもいかなかった。
「こちらを認識しきれないのは表層に現れているのがファルシュだからだ。アンザーツの心は深いところに閉じ篭っているのだろう」
 ヒルンヒルトの分析にゲシュタルトたちは顔を歪める。
 どろどろの手足をうねうねと動かしながら、アンザーツは悲嘆の声を轟かせた。ただの穴にしか見えない空洞の目から灰色で粘性のある涙が溢れてくる。見ているだけで胸が締めつけられた。
「魔物になるほど思い合うとは、君たちは本当にお似合いだよ」
「何よその溜め息?」
「気にしないでくれ。少々妬いているだけさ」
 そう呟くと賢者はまた火魔法の構築を始める。隣についたアラインも効果増幅を狙って同じ魔法を編み出した。
「大丈夫なの? あなたその子にほとんど力をあげちゃったんじゃないの?」
「なんだ、気にかけてくれるのか?」
 気のせいではなくヒルンヒルトは嬉しそうだ。アンザーツとふたりでパーティに混ざっていたときより、今の方がずっと生き生きして映る。それはゲシュタルトもそうだったけれど。
「案ずるな。大賢者の力は譲り渡したが、私本来の力はまだ残っている」
 ヒルンヒルトとアラインで放った炎の蛇はアンザーツの表面を舐め首元に絡みついた。反撃に備え結界を張り、四人で前を見据える。
 高温に喘ぎながらも黒い指先は鋭い真空の刃を幾百と送り返してきた。流石は魔王と勇者と言うべきか、その魔力は無尽蔵で、まだまだ元気そうである。
(このままじゃ長期戦になるな……)
 ごくりと息を飲みアラインはベルクたちのいる神殿を見やった。あちらはあちらで荷が重いのだ。戻れるなら早く戻りたい。
 アラインの思考を読んでかマハトの目にも焦りが滲んだ。戦士はゲシュタルトに肉体強化の光魔法をかけてくれと頼み、両手で強く斧を握る。そんな後方を振り返りながらヒルンヒルトも小さく息を吐いた。
「このままでは埒が明かんか。――私が囮になろう」
「はぁ!?」
 何言ってんだと止めたのはマハトだった。彼もゲシュタルトも、もちろんアラインにはもっとよくわかっていた。案ずるなとは言ったけれどヒルンヒルトに残された魔力などほとんどない。それでも今は戦わなければ取り戻せないものがあるから虚勢を張っているだけだ。
「危なすぎる。やめとけ」
 首を振るマハトに賢者は笑った。
「危険なら尚更私がやる方がいい。君たちへの隠し事はこれでなかったことにしてくれ」
 ヒルンヒルトはふたりの返事を待たなかった。跳躍し、アンザーツの眼前に躍り出る。

「さあ来いこちらだ、アンザーツ」

 両手から雷を放つと火花に心奪われた彼が猛り狂いながらヒルンヒルトを追いかけ始めた。だが昔取った杵柄で、賢者は本当に舞うように、放たれる炎も風もひらりひらりとかわしてしまう。
 ゲシュタルトが「馬鹿ね」と呟いた。マハトは「もうそんな風に言うな」と窘める。
「僕らも追いかけるぞ」
 アンザーツの注意は完全にヒルンヒルトひとりに向いていた。隙を突き総攻撃をかけるなら今しかない。
 三人で頷き合って駆け出した。
 前方で繰り広げられるヒルンヒルトの逃走劇は天空の舞と称していいほど軽やかで美しかった。
「やっぱりあいつ男で良かったわ」
 ゲシュタルトのぼやいた言葉にマハトは苦笑するだけだった。






 踊るように空を駆ける。雲の隙間を擦り抜けて。
 感情を消せと教え込まれ、己の不幸にも無頓着なまま暮らしていたあの頃得たものが最後に己に残ったというのは、随分皮肉なような気も、救われるような気もした。
(アンザーツ……)
 私の中で眠っていたものを揺り起したのは間違いなく君だったよ。
 似ていたからとか同族だったからなんて理由は今はどうでもいい。ただ彼が幸せになってくれれば。
(私にとって大切な友人は君ひとりだとばかり思っていたんだがね)
 ゲシュタルトとムスケルが当たり前に側にいてくれて、あろうことか浮かれている。
 今ならなんだってできる気がする。
 アンザーツ、真実君を救うこともだ。

「もうこれ以上奥の手はないぞ。ちゃんと戻ってこい」

 魔力が尽きたときのために、属性を失ったときのために、晩年考案した術がある。
 広大な面積におそろしく細かい魔法陣を描かねばならないが、代わりに一度だけ闇属性の大魔法を扱うことができる。
 ファルシュとアンザーツの融合は精神と精神の混ざり合いだ。結局どの属性よりも闇魔法をぶつけるのが最も効果的なのだ。制御の難しい魔法だから、できればもっと安全に用いてやりたかったけれど。






「魔法陣だ……」
 アラインがそう呟くとゲシュタルトとマハトが目を瞠った。
 ヒルンヒルトの爪先から魔力の粒が少しずつ漏れていて、アンザーツを引き寄せながら空中に巨大な陣を構築している。賢者を追う漆黒の魔物はそのことにまだ気づいていないようだった。
「あの真ん中にアンザーツを突き落とそう」
 アラインの提案に戦士たちは了承の意を返した。おそらくヒルンヒルトもそれを狙って誘導している。
 魔法陣はほぼ完成間近だった。攻撃をかわしながら、時折雷撃を発しながら、よくぞこれだけ繊細な魔法を拵えたなと感動すら覚えそうだ。いつ魔力が底を尽きてもおかしくない状況なのに。
「何でもするんだよ、あいつ」
「そうね、アンザーツのためならね」
「……だから後ろはこっちで守ってやらねーとな!」
 ゲシュタルトは嘆息しつつ攻撃強化の魔法を唱える。それを受けたマハトは大斧を担いで機を待った。
 繋がった魔法陣のすぐ側で、不意にヒルンヒルトが足を止める。隙だらけの賢者を魔王の爪が貫いた。
「あっ……!!」
 だが黒い爪を引き抜こうとして狼狽したのはアンザーツの方だった。深々と突き刺さったそれは賢者の腹から抜けてこない。どれだけ力を篭めてもだ。

「何をやっているんだアンザーツ?」

 微笑を浮かべ、ヒルンヒルトは己を穿つ爪に触れた。

「君の望んだ結末が待っているのに」

 黒い腕に飛びかかったのはマハトだった。限界まで腕を振り上げ打ち降ろすと歪んだ魔物の腕は骨が砕ける音とともに千切れ飛ぶ。傷の断面からアラインは体内に直接炎を注ぎ込んだ。連続して瘴気が吹き上げこちらを飲み込もうとするが、神鳥の盾で身を守りながら魔法攻撃を続行する。
 ヒルンヒルトの回復にはゲシュタルトが回ってくれた。やっぱり彼女は「馬鹿ね」と口を曲げていた。
「オオオオオオオオオオオオーーーー!!!!!!!!」
 暴れもがくアンザーツに再びマハトの斧が振り下ろされる。ぐらりとその足元が揺らいだ。
 ゲシュタルトとヒルンヒルトが同時に魔法陣の中心へ下がり、同時に雷を呼ぶ。
 身を引き倒しながらアンザーツはそちらへ這った。
 魔法陣の一端に溶けかけた身体が触れると、黒と白の光が辺りを包み込み、気がつけばアラインたちは真っ暗闇に放り込まれていた。



 ――暗い暗い、どこまで行っても黒しかない世界。
 新月の夜より深い闇を見るのは初めてだ。
 起き上がったアラインの側にはマハトもヒルンヒルトもいた。少し離れたところにはゲシュタルトも。
 目を凝らしてもっと周りをよく見てみると、大きな姿見がぽつんと置かれていた。
 どうしてあんなところに鏡があるんだろう。不思議に思い視線を下げればそこにアンザーツがいるのに気がつく。ちゃんと人の姿をした彼が。
 けれど勇者は半分以上鏡に飲み込まれかけていた。鏡の中から誰かが腕を掴んでいて、彼を引き摺り込もうとしているのだ。
 いや、もしかすると押し返そうとしていたのかもしれない。鏡に閉じ込められている魔族の老人は魔王ファルシュだった。
「待って!! 連れて行かないで!!!」
 ゲシュタルトが叫んで走り出す。魔王の手から恋人を奪うと懸命にこちら側へと這い出させた。
 ファルシュは黙って見ているだけで特に攻撃してくるつもりはないようだ。アンザーツが鏡から離れてしまうと鏡面にはひびが入り、魔王の姿は見えなくなった。
「……っう……」
「アンザーツ!!」
 瞼を開いた彼の周囲をぐるりと四人で取り囲む。黒い瞳に仲間が映ってアンザーツは心底驚いたようだった。
「……どうして? 皆……?」
 死んじゃったんじゃと尋ねる声に否定の言葉は返せない。確かに彼の仲間は全員死んでしまっている。
「迎えに来たのよ。あなたがあんまり遅いから」
 半身を起き上がらせたアンザーツにゲシュタルトが縋りついた。
「そうだぜ、もう探し疲れてクタクタだ」
 目尻を拭いながらマハトも言う。今はムスケルの方が勝っていそうだが。
 アンザーツは信じられないという顔でヒルンヒルトと目を合わせた。
 賢者が笑って「そういうことだ」と告げてやれば、感極まった勇者がゲシュタルトを抱き締め返す。
「本当に? 皆、本当に?」
 あっと思う間もなく闇が晴れ、マハトとゲシュタルトとアンザーツの三人は笑いながら掻き消えた。多分魔法陣が効力を失くしたのだろう。場には魔王の姿見と術者であるヒルンヒルト、闇属性のあるアラインだけが残される。
「……大丈夫?」
 尋ねるとヒルンヒルトはオウムのように「大丈夫だ」と返してきた。
 長く深い溜め息を敢えて盛大に吐き零し、アラインは賢者の白い手に触れる。
「そんな嘘つくからこじれるんだよ。もう透けてきてるじゃないか」
 少しだけ貰った力を送り返せばヒルンヒルトはくつくつと笑みを零した。
「やはり君は優秀だ」
 誉められついでにアラインは魔王の鏡に盾を翳した。
 神鳥の盾から柔らかな光が発され、音もなく姿見は消滅する。
 ヒルンヒルトは鏡のあった場所に頭を下げた。アラインもそれに倣った。



 真っ黒い泥の中からアンザーツの腕を掴んでマハトが勇者を引っ張り出す。ファルシュの残骸はぽたぽたと雫になって滑り落ち、やがてすべて見えなくなった。
 あとは最後に残った敵を倒すのみだ。遠くで響く戦いの音に耳を傾け「さて」と賢者が指を鳴らす。
「四人揃うと負ける気がしないな」
 さっきまで消えかけていたくせに何を言っているのだとアラインは苦笑した。かつての仲間がようやく手を取り合えるまでになり、余程喜んでいるらしい。
「随分長いこと戦ってた気がするわね」
 ゲシュタルトも魔力を漲らせ、すべての元凶であるツエントルムに対し戦意全開である。
 そんなふたりを後ろから抱き締め、目覚めたばかりのアンザーツが「駄目だよ」と囁いた。
「……ぼくたちの時代は終わったんだ。もう全部新しい勇者に任せなくちゃ」
 アンザーツは静かにアラインに向き直る。
 凛とした眼差しがこちらを捉え、唇が柔らかく微笑んだ。
 憧れていた勇者の顔で、勇者の言葉で、告げられたそれは――。

「頼んだよ、勇者アライン」

 ああ、と応えてアラインはアンザーツの右手を握った。
 恐れはない。焦りもない。
「行きましょう!」
 駆け出したマハトに並び、追い越して行く。
 僕は僕の中の「勇者」を越えられたんだろうか。






「戦いには手を出さないと言うのなら、他になすべきことを探さねばな」
 ベルクやツエントルムの元へ向かったふたりを見送りヒルンヒルトがそう告げると、アンザーツはにっこり笑って「そうだね」と答えた。
 長いこと生きてきたけれど、勇者という枠の中から解放されるなんて初めてだ。本当に信じられないことばかり起こる。今もヒルンヒルトとゲシュタルトが側にいてくれるなんて。
「アンザーツ、本当に放っておいていいの?」
「大丈夫だよ。けど戦い終わってからのサポートぐらいは必要かな?」
「ふむ。そういうことならあの辺りが怪しいぞ」
 ヒルンヒルトが指を差したのは神の居城である神殿だった。
 天界という空間を保つ魔法も、魂を結晶化するための魔法も、きっとあの奥に隠されているのだろう。
「うん、今のうちに入ってみよう」
 アンザーツを先頭にヒルンヒルトとゲシュタルトがくっついて来る。ムスケルが足りていないのは仕方がないが、本当に百年前に戻ったみたいだ。
(……いや、それより今の方がずっと……)
 戦いが終わったら自分たちはどうなるのだろう。ふたりはどうやら霊体のようだし、自分の身体はツエントルムに奪われている。普通の死者と同じよう、生まれ変わるため一度無に帰してしまうのだろうか。できればもう少し一緒にいたいけれど……。



 ******



 切り刻まれた身体に回復魔法をかけながらディアマントが墜落していく。風魔法でその足元を支えてやりつつノーティッツはうんうん唸った。
 いくら死なないとわかっていても骨や神経をああまでズタズタに引き裂かれてはダメージが大きすぎる。神鳥の剣である程度の魔法までなら防御できるベルクの方がずっとマシだ。おまけにディアマントはエーデルが深手を負わないように受けなくていい傷まで受けている。
 相変わらずツエントルムの回復力は並でなかった。興が乗ってきたのか知らないが、さっきまでより傷の量も塞がる速度も増している気がする。
(光属性が強すぎるんだ……)
 あの魔力を一瞬でも超越できればおそらく痛みを蓄積するくらいできるのに。
(くっそ、情けない)
 何も思いつかない。それは回復や補助に忙殺されているせいではない。
 手がないのだ。ツエントルムの魔力が巨大過ぎて。
(何かないのかよ……!!)
 思い悩む間にもベルクが派手に吹き飛ばされる。癒しの術を唱えようとしてノーティッツは背筋を凍らせた。
「さっきから目障りだな」
 ツエントルムの氷のような眼がこちらを射抜く。危機を察してオーバストが飛行速度を上げてくれたがどう考えても悪あがきだった。
 杖の先から迸った青い光は正確にノーティッツだけを狙ってくる。もう防御のための強力な護符はない。
(即死だけは勘弁してくれ!!)
 祈りながら張った結界の前に、白く透明な光が出現した。
 ふわ、と視界に広がったのは紅いマント。振り向いたのは黒髪青目の異国の勇者。
「向こうは片付いたよ!」
 攻撃を弾き返してくれたのはアラインの持つ神具だった。おお、なんて頼もしいと思わず拝みたくなった。すぐにマハトも駆けつけてきて一気に戦力が跳ね上がる。
「治癒力がすごくて、攻撃は当たるんだけど全部治っちゃうんだ」
 ヒュドラみたいな核もないみたいだと伝えるとアラインとマハトは神妙に頷いた。
「なんとか注意を引きつけておく。ノーティッツはその間に……」
 皆まで聞かずとも予測はついた。
 頼りにしてもらえるのは有り難いが、今回に限り当てが外れるかもしれないぞ。






 魔物の血が流れていると明かされてから、どんなに強い力でもこんなもの要らなかったと嘆いて嘆いて、毎日死にたかった。
 ただもう一度クラウディアに会いたくて、そのためだけに生き長らえたのだ。真っ暗にしか思えないこの先の人生で、たったひとつ残された光に触れたくて。
「もう彼を好きにはさせない……!!!」
 戦う理由ができた途端、持てる力に不足を覚えるなど滑稽な話だ。何度ツエントルムの脊椎を折っても、頭蓋骨を陥没させても、一瞬後には何事もなかったかのよう神は笑った。
 それどころか「そんなに不用意に近づいていいのか?」と面白そうにふくらはぎを捕まえ握り潰してくる。光魔法に強化された手はたちまちエーデルの足を砕いた。
「あう……ッ!!!」
「もう少し楽しませてくれ。お前が死ねばわたしの意志に関係なく魔法は発動してしまうのだから」
 それとも先に地上を半分沈めた方が楽しいかな、とツエントルムはエーデルを放り出す。
「いつまでもディアマントに庇わせるのも忍びないしな」
 繰り出された攻撃にエーデルは腕をクロスし身構えた。高熱を宿した白い塊が礫となって降り注ぐ。こんな足では到底逃げることなどかなわない。どこまで耐え切れるだろうかと痛みに備え目を瞑った。
「……ふむ。やはり持ち主を守ろうとするか」
 ふと目を開けると神鳥の首飾りが小さな結界を作り出していた。魔法による攻撃はすべて弾き返してくれたらしい。
 そうか。そう言えば元々ツエントルムの作った魔道具ではないのだった。
 エーデルは首飾りを掴んで目の前の男を睨みつける。
 人間を、魔物を、生き物を、人形のように扱って笑っていられるような者は元がなんだろうと既に人ではない。それならまだ自分の方がずっと――。

「ははは、魔王の末裔らしくなったな!」

 ツエントルムはエーデルの背中から突き出た両翼を指差し唇を歪めた。黒竜の羽を広げて浮き上がり、速度を上げて突っ込んでいく。
 力が欲しい。もっと強くなりたい。
 なんだって良かった。この男を倒してクラウディアを救えるなら、どんな姿になったって。
(許さない……!)
 ディアマントのことだって許せない。騙して、悩ませて、嘲笑って。
「そうだ、そうやって理性など失くしてしまえ!」
 わたしのようにと神が言う。
 鋭く尖った爪で心臓を貫いたはずなのに、白い法服にはやはり一滴の血も付着しなかった。
 何度切り裂いても、何度抉っても、何をどうしても同じだった。
 悔しい。悔しい。悔しい。
「ははは、はははは、ははははははははは!!!」
 叩きのめしてやれたらいいのに。
 ふたりが苦しめられた分にお釣りがくるくらい。
「許さない、許さないわ……!!あなただけは絶対に!!!」
 ツエントルムに弾かれながらエーデルは叫ぶ。
 力が欲しい。もっと強くなりたい。このままじゃ誰も助けられない。
 金色の魔物の目からは大粒の涙が溢れた。その雫がぽたりと首飾りの中心に落ち、突如神具が眩い光を放ち始める。

(何……)

 ちょうどそのときディアマントが戻ってきて、エーデルの足に回復魔法をかけてくれた。
 空中に足を止めても首飾りの輝きはなおもやまない。光は一層強さを増していくばかりだ。これにはツエントルムも目を瞠った。

「あ……」

 あまりに強く輝いたからか、首飾りは首飾りの形状を保てなくなったらしい。鎖からどろりと落ちた輪はエーデルの右足にアンクレットとして取りついた。さっきまでとは比較にならない魔力を宿して。
 直感的にいけると断じ、エーデルはツエントルムの懐へ飛び込んだ。左足を軸にして、右足を思い切り叩きつける。
 初めて神の手が防御に回った。後ずさりしたツエントルムは口の端から血を垂らした。






 なっさけねえなとベルクは剣を掴んで起き上がる。ずきずき痛む鳩尾は無視してもう一度前方を見据えた。
 どこまで飛ばされてきたのだろう。戻るには少し時間がかかりそうだ。駆け出しながら眉間にきつく皺を寄せる。
 攻撃が当たらないなら当たる方法を考えるだけだ。だが当たった後にあんなに回復されるのでは倒しようがない。急所という急所はすべて攻撃した。知り合いの顔にやりにくさを覚えつつ、頭だって落とした。結果どれも無意味だった。
(くそ! このままじゃ……!)
 ウェヌスを助けるどころか自分だって生きて帰れない。何も変えられない。
 旅に出た頃のことが走馬灯のように思い出され、縁起でもないと振り払った。――振り払おうとした。
 勇者ならもう隣の国にいるだろうとキレて、女神の所業にキレて。だけどいつの間にか自分はちゃんとその気になっていたのだ。勇者なんて偉そうな存在でなくたって戦うと口にしながら。あの女が真っ直ぐ自分にそれを願うから。
(俺だって勇者なんだろ……!)
 浮かんだのは吹っ切れたアラインの横顔。夢を追うと決めた強い眼差し。
 俺は何のためにこの旅を続けてるんだ?誰のために今戦ってるんだ?
 考えれば考えるほどどつぼに嵌まる。成り行きだけでここまで来てしまったように思えた。流されていたのはアラインよりも自分だったのではないか。
 それでも旅立ったことに悔いなどない。勇者を志したことに。
(一度決めたことは貫く。それが俺の生き方ってだけだ……!!)
 勇者ってのは世界を救うんだろ?
 だったらそのための力を発揮しろよ!
 回復されるからなんだって言うんだ!!
 ――私の勇者と声がする。右手を強く握り締める。
 絶対にもう一度あいつに俺の姿を見せてやるんだ。
 あいつの望む勇者の姿を。

「……」

 不意にベルクは異変を悟り、手にした神鳥の剣を見やった。柄から伝わる熱は異様だ。輝きも、眩しいなんてものではない。神具は輪郭を失ってどろどろに溶け始めた。
 消失するのではない、生まれ変わるのだ。
 何故そうとわかったのかはわからない。勘としか言いようがない。或いは剣が呼びかけてくれたのか。
「……今まで放り捨てたり投げ飛ばしたり悪かったな」
 白い輝きに語りかけると呼応するよう瞬いた。
 こいつは味方だ。神様なんかではなく自分の。間違いない。
「取り返さなきゃなんねえ女がいるんだよ、頼むぜ」
 神鳥の剣はひと回りほど小さく鋭くなった。驚くほどしっくり掌に馴染み、吸いつくような掴み心地だ。
「俺好みに振り回しやすくなってくれたじゃねえの」
 笑ってベルクは前へ跳ぶ。
 エーデルの攻撃に後退を続けるツエントルムはもう目前だった。






 ふたつの神具が形を変えたのにつられてか、アラインの腕で神鳥の盾も輝き出した。
 理由なら確かめるまでもなくわかっていた。彼らとてずっと力を解き放ちたかったのだろう。
(勇者の国からずっと一緒に来たんだもんな)
 真っ黒だったオリハルコンは今とても強い光に包まれている。
 同じように真っ黒だったアラインの心が晴れ渡っているように。

「……君も僕で良いのかな?認めてくれたなら嬉しいよ」

 光って形を変えていく、勇者のための神鳥の盾。
 やっと本当の意味で証を手に入れたのだろう。
 それが誇らしい。投げ出さずに歩んで来たことが。
 盾はやがて細身の刀身のレイピアになった。だがオリハルコンなだけあって並の剣より強度は遥かに高そうだ。装飾はどこか杖のようでもあり、魔法を使うアラインにはぴったりだった。

「さあもう全部終わらせないとね……!」

 ツエントルムの頭上からマントを広げ降りていく。
 空中でステップを踏み着地のタイミングを計りつつ、アラインは高く剣を掲げた。






 効いている。手応えがある。
 右手から発動される魔法の障壁を剣先で払いながら、ベルクはどんどんツエントルムとの間合いを詰めた。背後にはエーデルが物騒な翼を広げ、左手から発動される魔法を蹴散らしている。
 あの尋常ならざる治癒さえ封じてしまえば後は攻撃あるのみだった。あちらもカタがついたのか、オリハルコンの剣を手にしたアラインも上空から舞い降りてくる。
 一撃はいただいたな、とベルクはほくそ笑んだ。だがツエントルムも伊達に長生きはしていないらしい。「調子に乗るなよ」と囁くと足元からマグマを放ち、火砕流を巻き起こした。
 限界まで攻めていたので逃げるのが一歩遅れる。風や翼で即座に遠ざかったふたりと違い、ベルクのジャンプはツエントルムにすぐ捕捉された。
「悪い道具に悪い子だ」
 刀身をじかに掴まれベルクは剣を振り回す。身体に傷がつくことなど一切構わずツエントルムは空いた方の手で魔力を固めた。
 神具で斬れば無効化できるのは百も承知だが、神具を抑えつけられていては避けるしかない。そうかと言って神鳥の剣を放り出して逃げるわけにもいかなかった。
「アライン!!!」
 腕で庇っても無駄だと断じ、ベルクは剣に力を篭める。ツエントルムの振り上げた拳は寸前で止められた。エーデルが腹を蹴り、アラインが魔力を分散させたからだ。
「成程な」
 黒い瞳を薄ら歪め、霧散したと思っていた魔法をツエントルムが爆発させる。
 ハッと気づくと周りは煙に囲まれており、誰の姿も見えなかった。
「ッ……!!」
 気配を感じ振り返る。ぞく、と駆けた悪寒に反し、煙幕の向こうから顔を見せたのはアラインだった。
「あ、なんだ」
 無事だったかと続けようとしてベルクは反射的に飛び退った。
 ノーティッツならこんなとき幻視の呪符を使うだろうと思ったのだ。
「なかなか勘が働くな」
 ツエントルムはひとまずベルクひとりに的を絞って戦うことに決めたようだ。ゆら、と陽炎のように揺れると一瞬後にはアンザーツの顔に戻ってベルクの真後ろに立っていた。
「……!!!」
「ただの転移魔法だよ」
 雷が激しい音を轟かせる。
 その眩しい光を眼下に映しながら、ベルクはアラインの肩を掴んだ。
「僕のもただの転移魔法だ」
 エーデルの羽ばたきが漂っていた煙をすべて吹き飛ばす。
 再びツエントルムに向かい、三人で飛び込んだ。
 だがいよいよ神は本気を出すことにしたのか、攻撃の命中率はゼロまで下がっていた。






 アラインやベルクたちの助力になろうとやって来たものの、魔法攻撃の凄まじさに入り込む余地がない。マハトはひとまず己と同じく蚊帳の外になっているディアマントの元へ駆けつけた。何か示し合わせてからならオリハルコン持ちの三人を手伝えるかもしれないと思ったのだ。
 だがディアマントは渋面でツエントルムを睨みつけるだけで一歩も動こうとしない。父親相手に今更怖気づいてしまったのだろうか。
「……このままでは勝てん」
 ぎり、と歯を食いしばりディアマントは剣に手をやる。だが突進していくわけでもなく、上空で見守るオーバストの元へ戻っただけだった。
 不意を打つなら二人より三人か。そう思い直しマハトも後を追う。聖獣の背中にはまだノーティッツが乗っているはずだ。
(アライン様、もうちょっとだけ待っててください……!)
 散々迷惑をかけたのだ。最終決戦でくらいちゃんと勇者の役に立ちたい。






「小僧、一斉攻撃の隙を作る手立てはないか?」
 まさかこの男にまで尋ねられようとは思わなかったとノーティッツは息を止めた。
 真面目な顔でディアマントはこちらの知恵を借りようとしてくる。人間なんぞと息巻いていた彼がである。
「……現状作れても小さな隙にしかならないと思う」
「何かないのか? 神具の攻撃には効果がある。もし逆に奪われでもしたら全員ここで死ぬしかないぞ」
 嫌な可能性を突いてくるなと溜め息が出た。それくらい思いつかなかったわけではない。
 今は三人とも大きな傷や疲労もなく戦えているからいいが、いつまでも良好な状態が続くとは限らないのだ。

「……オーバストさん。オーバストさんからもう一度神様に呼びかけてもらえないかな?」

 意を決しノーティッツは聖獣に提案した。ずっと考えていた唯一の突破口は、ツエントルムの力を抑えるということでなく、彼の心に強く訴えるということだった。
「え?」
 オーバストが問い返す。ディアマントも目を瞠り、足元の聖獣に視線を落とした。
「もうさ、策がどうとか知略がどうとかいうレベルじゃないんだよ。全部魔法に阻まれて攻撃が全然届いてない。卑怯かもしれないけど、そうやって隙を作るしかないんだ」
 そう、卑怯だ。ツエントルムにとって特別な存在だったであろうオーバストに揺さぶりをかけてもらおうと言うのだから。
(でもそれしかないんだよ)
 天変地異を止める方法も、ツエントルムに神様をやめさせる方法も、ウェヌスを助ける方法も。
 自分は勇者ではない。王子でもない。そこら辺にいるただの一般庶民だ。だからこそ戦い方にこだわったことなんかなかった。ベルクたちを守れるならそれで良かった。卑怯卑劣となじられようとそしられようと構わなかった。
「オーバストさん、ぼくに聞いたよね? どうしてまだ自分を頼ってくれるのかって。自分は刃を向けたのにって。ツエントルムにとってもきっと同じだよ。オーバストさんが敵だろうと味方だろうと、オーバストさんの声ならきっと届けられる。もしかしたら倒さなくても術を解いてくれるかもしれない」
 だから頼むよと乞えば聖獣は静かに息を飲み込んだ。
 羽毛の隙間に隠れていたバールとラウダも顔を出す。
「せや、言ったれ。今こそ積年の思いをぶちまけるんや!」
「バールの言う通りだな。このまま我々が負けてしまえば未来永劫トルム神は彷徨うことになる」
 うんうんと反対側からも声がした。いつの間に上ってきたのかマハトが力強く頷いている。
「全部ぶつけて全身で止めてやるのが一番だ。本気で止めたいと思ってんなら尚更な。……じゃなきゃ生まれ変わっても後悔するぜ」
 最後のひと押しは大人びた目をするようになったディアマントからだった。
 オーバストの背中に跪き、柔らかい体毛に指を添わせ、「私も一緒にやる」と告げる。
「ふたりでちゃんと終わらせてやろう」






 ラウダとバールは羽を広げ、身を膨らまし空を飛んだ。「こうなったらワシらもなんでもやったるわい!」とのたまったため、ノーティッツからあっさり「じゃあ空中を飛行して撹乱ね」と命じられたのだ。
 ディアマントはオーバストの背に掴まったままツエントルムに近づいた。あれはあれで父と思って接してきた相手なのだ。引導を渡してやるのは長男である己の務めだろう。
「神様――ツエントルム! もうアンザーツの身体から離れてください!!」
 真下で戦う法服の魔術師はオーバストの声に顔を上げた。
 アライン、ベルク、エーデルの三人を相手取りながら視線を逸らす余裕が憎らしい。
 ツエントルムの放った魔法は神具に切り裂かれ飛び散っていたが、それを物ともしないほど魔法は新しい器から延々放出され続けていた。ノーティッツの言う通り、策謀でどうこうできる力ではない。まるでツエントルム自身が魔法という存在そのもののようだった。
「これ以上戦っても、天変地異を起こしても、得るものなんか何もないでしょう!? 何のためにこんなことを続けるんです!?」
 声が届くのは多分それがオーバストだからではない。
 何百年も側に控え、心を案じ、今もオーバストがそれを続けているからだ。敵として向かい合った今でさえ。
「そうだ。最初からわたしに得るものなど何もなかった」
 聖獣を振り仰ぐツエントルムに笑みはない。
 これこそが神の素顔なのだろう。張り詰めて、冷たく凍ったままでいる。
「わたしはただわたしに残されたものを守っていたにすぎない。だがそれの何が悪い? お前がわたしに守ってくれと頼んだ世界を、その約束を守ってやっているだけだろう?」
 歪んだ薄笑みにはオーバストを責める色が滲んでいた。
 何故忘れてしまったのだと。
 何故思い出してくれないのだと。
(あんな風に何百年と嘆かれ続けてきたのだな……)
 背中の鞘から大剣を抜き、ディアマントは静かにふたりの父を思う。
 ツエントルムの間近に寄ったオーバストが魔法を避けて旋回した。ばさばさと羽音が空に響き渡る。
「父上、あなたは間違っている」
 聖獣の影から飛び出すとディアマントは思い切り剣を振り抜いた。向かってくる魔法のことなど気にも留めない。ただ最後までツエントルムを真っ直ぐ見据えたままでいた。
「新しく何かを得ることはできたはずだ。けれどあなたは変わることから逃げたのだ!」
 叩きつける。父の顔めがけ、目一杯に。
 全部壊してやらねばならない。この男が何百年もかけて築き上げてきた虚ろな楽園を。






 二羽の神鳥の影からノーティッツとマハトが現れたのは同時だった。それぞれ魔法と斧でディアマントを援護する。先に放たれたノーティッツの火魔法は思わず笑ってしまいそうになるほど小さく弱い炎だった。これから卵焼きでも作るのかというくらいの。
「あーあ、こんなときに限って魔力切れだ。ハルムロースにちょっと本気出し過ぎたかな」
 幼馴染は誤魔化すような半笑いを浮かべる。
 だがそんなことを言って、いつも通りやらかしてくれるのだろう?姿が見えただけで肩の力が抜けるのだから、それで十分な気もしたが。
 ベルクは神鳥の剣を構え直して攻撃姿勢を整えた。ツエントルムの魔法は依然変わらず足元から湧いて出てきている。それらを斬り払い、跳びかわし、気を研ぎ澄まして一瞬の勝機を待つ。
 マハトの斧に呪符が張りついているのが見えた。
 ツエントルムが戦士の前にマグマを放ち、幼馴染が口角を上げる。
「辺境土産の古代魔法だ」
 きらりと光ったのは斧の刃ではなかった。磨かれた鏡に酷似した魔法だった。
 相手の魔力をそっくりそのまま跳ね返す効果があるらしい。マグマを浴びたのはマハトではなくツエントルムだった。
 炎に包まれた男は一旦そこから脱出しようと試みた。こちらの魔法は受けてもすぐに肉体を再生できていたのに、自分の魔法ではそうもいかないらしかった。
 ――最後にして最大の隙はそのとき生まれた。
 聖獣が吼え、転移しかけたツエントルムを翼で抑え込む。神は一瞬、ほんの一瞬瞠目し、オーバストを振り仰いだ。
「もうやめましょう。もう、ゆっくり休むんです。私があなたに望むのはそれだけです」
 ツエントルムの指先に細い雷が集まっていく。
 今までのどの魔法よりゆっくりと、時間をかけて。
 その迷いを示すように。
「オーバスト……」
 雷撃は掌を離れる前に掻き消えた。
 ベルクの剣が腹を貫き、アラインの剣が肩を抉り、エーデルの蹴りが肋骨を折っていた。
 回復が来るかと思いすぐさま剣を持ち直す。
 けれどツエントルムはその場に倒れたまま起き上がろうとはしなかった。戦う力は十分に残っていたはずなのに。
 ――ア・バオ・ア・クーの肉体を捨てたオーバストが青銀羽の翼を広げてツエントルムの元に降り立つ。神鳥はコツコツとくちばしを頬に当て、呼びかけに対する反応を待った。何も言わずに、じっと側で。

「……結局お前は最後までわたしを思い出してくれなかったな」

 悲しげな声が空に沈む。
 アラインはベルクとエーデルに視線で合図を寄越すとツエントルムを囲むように移動した。

「片割れのお前と違ってわたしだけこんな力を持って生まれてきたから、最後の最後まで……」

 神具から清らかで温かい光が溢れていた。
 長きに渡る支配から逃れ、本来の力を取り戻して。
 オリハルコンをそっと傾ければ光は明確な進路を取って輝き始める。
 浄化の光に包まれて、アンザーツの肉体から――神の器となっていたそれから青い光が剥がれ落ち消えた。
 やがて小さな丸い球体となったツエントルムがよろよろ浮かび上がってくる。

「……行きましょう。何も覚えてはいませんが、あなたをひとりにはいたしません」

 オーバストがディアマントの周囲をひと回りして飛び立つと、青い光球もそれに続いて結界の外へ羽ばたいていった。
 薄水色の空だけが見上げた視界に映っている。
 ……これで終わったのだろうか。






 キイインと耳鳴りがし始めたのは直後だった。
 アラインが周囲を見回すと、地響きに似た轟音が大気を震わせ異常の発生を知らせてくる。天界で地震だなんて――ああ、いや違う。ここは本当は海底火山なのだった。
「おい、もしかして神様が昇天したから天界も消滅するとかいうオチじゃねえのか!?」
 ベルクの叫びに他の面々も慌てて退却しようとする。だが行きは転移の陣までオーバストに乗せてもらったのだ。そしてその彼はもういない。
「ちょお待て落ち着け! 自力で飛べるヤツ挙手や! 飛ばれへんヤツはさっさと掴まり! 神鳥は先着一名!!」
 バールの言葉にわらわらと人垣ができた。ディアマントに抱えてもらおうとベルクとノーティッツ、更にマハトがコートを掴む。
「三人は無理だろ。マハト、お前はラウダに乗せてもらえよ」
 言いながらアラインも膨らんだバールの背中に腰を落ち着けた。
 地鳴りはどんどん激しくなり、潰れた小島からぱらぱらと土が降ってくる。早めに脱出した方が良さそうだ。ゲートの魔法陣もまだ生きているかどうかわからない。流石にアラインもこんな場所から全員を連れて地上に転移できる自信はなかった。

「少しくらいはもたせてやる。さっさと行け」

 賢者の声が耳に届いたのはそのときだ。
 神殿を振り返ればヒルンヒルトとアンザーツが笑顔で手を振ってくれていた。ゲシュタルトは腕組みしながらチラチラこちらに目をやってくる。
 もっと時間があればまだ話したいことがあったのに。
 恨み言とか文句とか、ありがとうとか良かったねとか。
 せめて今のこの気持ちが伝わるようにとアラインは手を振り返した。
 結界を抜け、行きに通った魔法陣を六人と二羽で潜り抜ける。



「――……!!」



 本物の空が、本物の大地が、美しく広がっていた。
 内海も外海も、大陸を遮断するよう取り囲んでいた濃霧は晴れ渡り、信じられないくらい海が眩しい。
「……すごい」
 アラインの漏らした感嘆の声に、バールも「おお、ホンマや!」と応えてくれた。
 ツエントルムの古代魔法は効力を失ったのだ。
 方法はどうあれ四つの国を守っていた術はもうない。これからは神様なしで生きていかなければならない。
「見ろよ、あっちの方!」
 地図で見慣れた三日月型の大陸ではない他の陸地が水平線の辺りに見えた。
 ベルクは嬉しそうな顔で「まだまだやることありそうだな」と笑う。
 世界が広がれば今までとは違った難問がまた降りかかってくるのだろう。
 だけどこの先はすべて自分たちで考えて、立ち向かっていかなくては。
「国に帰ったらどう説明すっかなあ」
 そういうの全部お前に振っていい?とのベルクの問いにノーティッツが拳で即答する。
「おまっ! 疲れてんだから多少は労われよ!」
「そっちこそ頭脳労働ぼくに任せすぎ! たまには使わないと脳みそ腐るぞ!?」
「貴様ら私の背中で暴れるな!!!!」
 ディアマントの怒鳴り声にエーデルがくすくす笑う。
 しょうがないな若者たちはとマハトとラウダも嘆息した。
 盾の塔が見えてくると今一度全員で海底火山を振り返る。
 幾百の光となって神鳥の群れが遥か空へ飛び去っていくのが見えた。
 ああ、本当に天界はなくなってしまったのだ。
「……バールとラウダは平気なの?」
「んー、ワシらは塔に身体があるさかいなあ」
「まあこれからも訪ねてくればいい。力になれることがあれば協力しよう」
「せやせや、ワシらもう友達やしな!」
「えっ、バールは一緒に都に来てくれないの?」
「……えっ?」
 アラインの誘いに神鳥は目を丸くする。「ええのん?」と珍しく遠慮してみせるので「いいに決まってるじゃないか」と笑いかけた。
「だったらそっちは俺と来るか? ラウダ?」
「……考えておく」
「ありゃ。やっぱアンザーツでないと駄目か」
 他愛もない話に花を咲かせるうちに盾の塔は間近となった。
 深い森を飛び越してヒルンヒルトの隠れ家へ向かう。
「クラウディア!!」
 色めき立ったエーデルの声にディアマントが顔をしかめた。眼下にはこちらを見上げて手を振る留守番ふたりの姿が見える。
 良かったじゃないかベルク。そう言おうとしてアラインは口を噤んだ。振り返った顔を前へ戻して、何食わぬ様子でニヤニヤを噛み殺す。
 よっぽど嬉しかったのか、気恥ずかしい誓いでも立てたのか、ベルクの頬は真っ赤だった。ノーティッツでさえからかう言葉を飲み込むくらい。
 ――それから。



 ******



「ベルク! 久しぶり!!」
 王宮の応接間でアラインは隣国の第三王子としばらくぶりに再会した。あれからひと月ほど経つが、噂ではベルクはまだまだあちこち視察と称して旅して回っているらしい。ノーティッツとウェヌスもそれに同行しているそうだ。
「おお、そっちも元気そうだな。クラウディアたちはどうしてんだ?」
「ああ、だいぶ都にも慣れてきたみたい。ディアマントはちょっと大変だけど」
 だろうなあとベルクも半分苦笑いだった。
 ――実はあれから色々な新事実が発覚していた。まずクラウディアにより語られたのはウェヌスと彼が双子であるということだ。性格が違いすぎるだろうという衝撃が一同に走ったことは言うまでもない。更にそこからノーティッツの推測で「じゃあもしかして、ウェヌスたちってぼくらと同じくらいの年齢なの?」と言うことがわかり、ウェヌスとクラウディアは推定十六歳、ディアマントは推定十八歳という結論が出た。ディアマントは「老け顔すぎる」「年齢詐称だ」と本人にはどうしようもない批判を受けて怒鳴り返していた。
 ツエントルムの命令に逆らったため、ウェヌスとクラウディアから天界の力は消えていた。ディアマントだけはまだ黄金の羽を出すことができたが、契約者がいなくなったので徐々に力は薄れていくだろうとのことだった。
 エーデルとクラウディア、ディアマントの三人は今アラインの屋敷に居候をしている。魔物の血を引いているとか神様の国で暮らしていたとか説明するとややこしいので今後どうしていくかは保留だ。エーデルを挟んだ男女問題については解決したらしいことをクラウディアから聞きかじったが。
 曰く、エーデルの中で目覚めた魔王の血は彼女を人の何倍も長生きさせてしまうそうだ。彼女自身はまだそのことを知らずにいるが、何年も歳を取らなければそのうち自覚してしまうだろうと僧侶は言った。対してディアマントも神から受けた不死の契約が影響し、エーデルと似たような寿命になるのでないかと予測された。「わたしがいなくなってからのことはお任せしますが、わたしの目の黒いうちは手を出さないでくださいね」とのクラウディアのひとことにディアマントは一応頷いたらしかった。廊下ですれ違うたびに「弟のくせに生意気な……」とぶつぶつ呟いているのが不憫だが。
「王様とは何か話したのか? アンザーツのこととか色々さ」
「いやー、それが僕すっごい避けられてて……」
「はああ!?」
「しょうがないから凱旋セレモニーも陛下抜きでの自主開催だよ。笑えるよね。勝手に宮廷に人脈作ってるからいいけど」
 そのうち国王には何らかの形で相応の償いをしてもらうよ、と微笑むと露骨にベルクに目を逸らされた。この話をすると普段穏やかなマハトも早々に話題を変えようとする。
 もう怒っているつもりはないのにな。ただ人として、国の王として、責任の取り方というものを見せてもらいたいと思っているだけなのにな。
「そっちはどうなんだ? ノーティッツとウェヌスも都には来てるんだろ? 後で皆で屋敷に寄ってくれよ」
「あー、それなんだけどさあ……」
 ベルクはにやりと口元を歪めると「お前、俺らともっぺん冒険する気ねえ?」と聞いた。
 なんでも兵士の国では開けた海を越えるため技術者を集めて大型船の開発に乗り出したそうだ。空から見つけた未知なる土地に彼はまた漕ぎ出そうというのである。
「その前に国内でも見て回らなきゃいけねえとこがいっぱいあんだけどよ」
 ベルクがどの辺りのことを言っているかはピンときた。まず辺境の国の復興を手伝わないといけないし、魔物たちが鎮静化しているかどうかも確かめに行かねばならない。勇者としての後始末はまだあれこれと残っているのだ。我が祖国ではシャインバール二十三世が頼りないため率先してアラインが政治介入する羽目に陥っているわけだが。
「もちろん断るわけないだろ?」
 ところで、とアラインは声を潜めた。
「――ウェヌスと婚約したってほんと?」
 ぶふっと盛大に噴き出すとゲホゴホ咽つつベルクが椅子から転げ落ちる。どうやら噂は本当だったらしい。
「おま、それ、誰からっ!!」
「誰からっていうか宮廷情報だけど……兵士の国のプリンスオブゴリラが超絶可憐な現地妻連れて帰ってきたって……」
「宮廷情報にしては単語が俗っぽすぎるだろ!! つーか婚約とかしてねえ!!! 親父にはしろしろって迫られたけどしてねえ!!!!」
「えー!? そうなのなんで!?」
「あいつ元女神だぞ!! 俺以上に恋愛なんかわかってねえよ!!!!」
 もうこの話はやめてくれ、とベルクがぜえぜえ息切れする。宮廷人のくせになんとも奥手だ。女の子と付き合うのって楽しいのに。
 ノーティッツから貰った手紙には兵士の国での彼らのやりとりが書かれていた。旅の仲間を国王に紹介しないわけにいかず、ベルクがウェヌスとノーティッツのふたりを両親に謁見させた日のことが。
 ウェヌスはトローン四世にベルクを選んだ理由についてこう話したそうだ。
「この都で初めてベルクの姿を見た瞬間、全身に電撃が走ったのです。そうして私は、ああ……私の勇者はこの者をおいて他にはいない、そう確信したのです……!」
 ――と。
 彼女が破ったツエントルムとの約束は「地上の男に恋をするな」という類のものだったのでないかとノーティッツは締め括っていた。それにはアラインも多いに頷くところである。
 早く素直になれるといいねと胸中で声援を送ってアラインはテーブルに地図を広げた。まだ動悸の収まっていないベルクに問いかける。

「さあ、まずはどこから目指す?」

 道は続く。
 旅はまだ始まったばかりだ。






 ******






 赤く暗い魔界の空。
 いつもどんより曇った空。
 古い城で、ユーニはひとり玉座に縋って泣いていた。
 誰もいない。
 イデアールも、ファルシュも、リッペも、ハルムロースも、ゲシュタルトも。
 どこにいったのと嘆くたび涙は川となり滑り落ちた。
 帰ってくるって言ったのに。
 すぐ戻るって言ったのに。

「イデアールさま……どこぉ……」

 ぽろぽろと涙が座面に溜まり続ける。
 あまりに悲しみが深すぎて、玉座が白く輝き出したことにユーニは気づいていなかった。
 光は音もなく魔王の間を包み込む。

「……イデアールさま……」

 会いたいと呼ぶ声だけが冷たい城に響いていた。














(20120702)