このサイトに置いている15話は「初稿」です。正式な「最終稿」は7月以降ノベプラ、なろうにアップします。
大幅な修正が予測されますこと、予めご了承ください。またSNSなどで関連ツイートをするのも7月以降でお願いします。











 父に無視され始めたのはいつ頃からだっただろう。「忙しくてな」とモリスの家に預けられ、そのまま数日放っておかれることが増えたのは。
 拒絶された。愛されなかった。ブルーノが「ブルーノ」とは違うから。
 仕方がないと諦めたのはいつ頃からだっただろう。何度も何度も傷つくことに耐えられず、己も父も互いを無色透明にした。
 王女の器を失って、猫に本体を移しても、チャドは変わらなかったから少し期待してしまったのだ。この人なら愛し続けてくれるかもと。
 自分という不確かなものを誰かに認めてほしかった。ここにいていいのだとわかるように名前を呼んでほしかった。本当のことを知った後でも。
 身勝手な考えだったと思う。嘘をつかれた側にとって偽者は偽者でしかないのに。己が本当に手を尽くすべきは真実と対峙する人の衝撃をやわらげることだったのに。
 何もできない。彼のためにはもう何も。ずっとそう思っていた。
 だがまだ助けになれるだろうか。こんな己でも、嵐に身を置かれた彼の。

「王子に会わせていただけますか」

 早馬を駆けさせてブルーノがサール宮を訪ねたのは正午過ぎ。要望は意外にすんなり聞き入れられた。天帝に遣わされた使者の通訳という立場は相当強いものらしい。
 普通は半日かかる道程を倍速以上で駆けてくれたジーアン馬を馬丁に預け、跳ね橋を渡る。城門前には黄金細工の施された壮麗な婚礼馬車が何台も何台も並んでいた。これが出る前に間に合って良かったと息をつく。
 初めは謁見の間にと言われたが「個人的なお祝いなので」と固辞すると私室で話す許可も下りた。天帝印の捺(お)された旅券はやはりすこぶる強かった。
 サール宮は久々だ。一度目は王女の姿で、二度目は白猫の姿を取ってここへ来た。今初めて自分自身の名と肉体であの人の生家にいる。
 通路を一歩進むたびに膝の震えはいや増した。力をこめて歩んでいく。胸の勇気が消えないように。

「こちらです」

 案内の兵はチャドの部屋の前まで来ると二、三度ドアをノックした。誰かが中で「はい」と応じる。
 衛兵用の控室から顔を出したのは元傭兵団長のグレッグだった。上等そうなお仕着せに身を包む彼はブルーノを一瞥するなり顔をしかめる。防衛隊がなんの用だと言いたげに。

「殿下に結婚祝いを伝えたいそうで」

 端的な説明だけして兵は前室の片隅に陣取った。槍を床に立て、完全待機の体勢だ。話が終わればまた城門まで案内してくれるらしい。できれば盗み聞きされそうな場所には誰もいてほしくないのだが。

「ああ、いい、いい。帰りは俺が送ってく。そっちは持ち場に戻ってな」

 知り合いだからとグレッグが言えば男は「そうか?」と顔を上げた。客人を監視しろとは命令されていないらしく、面倒事を託すと兵は「ありがとうよ。任せたぜ」とにこやかに踵を返す。
 内密の話に来たのはグレッグも察してくれたようである。人払いを済ませた元傭兵団長は押し開いたドアの奥、潜めた声で部屋の主に呼びかけた。

「チャド王子。防衛隊のブルーノが来てます」

 ざわり。空気が変わった気がした。中に招かれるまでの間に酷く奇妙な沈黙が流れる。きっと「どちら」が来たのか彼は悩んだのだ。

「……わかった。入りたまえ」

 緊張を孕む低い声。どきんどきんと波打つ胸を掌で押さえつけ、ブルーノは忘れがたい男の待つ室内に足を踏み入れた。
 どうか彼が望むまま生きられますように。
 小さな祈りを胸に抱いて。



 ******



 なぜ忘れようとするほどに引き留める力が強く働くのだろう。もう会わないはずだった、夢まぼろしの類なのだと言い聞かせた存在を前に立ち尽くす。
 予感はあった。「ジーアン帝国の使者が来た」「通訳はアクアレイア人がしていた」と噂は小耳に挟んでいたから。己が旅立つその前に「彼」が来るのではないのかと。

「あ、あの……お久しぶりです……」

 剣士が挨拶するより先にチャドには彼がブルーノと知れた。ルディアが持つほど鋭い空気を彼は纏ったことがない。いつも震えて、いつも申し訳なさそうで、だから時々真剣にこちらを見るのが嬉しかった。伴侶の中の確かな信頼を感じられて。

「……しばらくぶりだね。すまないが手短に頼めるかい? 今日には城を出る予定なのだ」

 ほとんど空になった部屋を身振りで示してチャドは告げる。先程漏れてきた兵士の声は結婚祝いが云々と言っていた。なら彼も知っているのだろう。室内を見渡したブルーノは城を出るとはどういうことかと尋ねさえしなかった。

「座ってもらう椅子も出せずに申し訳ないな。持っていけるものは全部馬車に載せてしまった後だから」

 私室にはもう備え付けの暖炉だとか、大きすぎる寝台だとか、そういうものしか残っていない。二度と帰郷できないことは言わずにおいた。恋しいときの慰めにするために何もかも持っていくのだとは。

「それで私になんの用だい? 例の件ならドブからあの里の者に……」
「あ、いえ、違うんです。小姫様のことは僕たちも聞きました。その、今日は王子に確認したいことがあって」

 違うのか、とチャドはやや拍子抜けする。防衛隊が来るとしたらアウローラ関連の話しかないと思ったのに。

「私に確認したいこと?」

 まさか再婚を止めにきたのではと考えて心臓が跳ねた。けれどすぐにそんな雑念は振り払う。
 駆け落ちなど持ちかけるほど彼は自分本位ではない。ではなんだ? 怪訝にチャドは青髪の剣士を見つめた。

「はい。ええと……」

 ちらとブルーノが後方を振り返る。部外者を中に入れないためにグレッグは前室に残っていた。扉がきちんと閉まっており、部屋に二人しかいないことを確かめてから彼は慎重に切りだしてくる。強張った声でなされたのは想定外の問いかけだった。

「この城に、ハイランバオスとラオタオが来ていませんか」
「!」

 チャドはごくりと息を飲む。今の反応が問いの答えのようなものだが真正直に肯定することはできなかった。
 あの二人は古王国側の使者としてサール宮を訪れたのだ。そして今、彼らは他人の目につかない秘密の客室を使っている。亡命直後の「ルディア王女」が通された部屋を。

「……それを聞いて、一体どうするつもりなんだい?」

 なるべく冷静に問いかけた。返答次第では上手くはぐらかさねばならない。ジーアン帝国から来た使者は裏切り者の──預言者たちの引き渡しを求めたと聞いている。防衛隊が帝国の意に従って彼らを連行するつもりなら己は客人を守らなくてはならなかった。

「捕まえて連れて帰ります。天帝のところまで」

 やはりかと指先を握り込む。首を振り、チャドは話を切り上げにかかった。

「残念だがあなたの問いには答えられない。確認したいことはそれだけかい? ならばお早くお引き取り願おう」

 出て行くように命じるとブルーノは瞠目する。「なぜですか?」と剣士は理解できないという顔で問いかけた。

「なぜも何もない。あなたにマルゴーの内情を明かす義理はないのだ。私には答えられないとしか言えないよ」
「二人を渡せば聖王に背いたことになるからですか? マルゴーにはジーアンとの軍事同盟が信じられませんか?」

 矢継ぎ早の質問にチャドは無言で視線を逸らす。どうにか口を割らせようと剣士は必死に食い下がった。

「天帝は本気です! 聖王軍がマルゴーに手を出せば何万人でも派兵します! 姫様ともそう約束しているんです! 僕からは、あまり詳しい話はできませんけど……」

 珍しく大きな声で彼はチャドに訴える。ヘウンバオスは信用に足る相手だと。ジーアンの力を借りてもマルゴーが困ることはないと。熱心に説かれたところで又聞きの情報を得ただけの己には応じようもなかったが。
 父からも姉からも同盟の話など聞いていない。これから古王国に発つ人質に知られたくなかったのだなとわかるだけだ。

「お願いですから信じてください……! ジーアンにハイランバオスを渡してくれれば銀山は手放さなくても良くなるし、再婚だって白紙に戻せるはずなんです……!」

 宮殿に来たかだけでも教えてほしいとブルーノは乞うた。誰に聞いたのか、知った話から憶測したのか、彼はマルゴーが聖王に突きつけられた難題を承知している風である。チャドの二度目の婚姻がどんな性質を持ったものかを。
 やはり止めにきてくれたのかと苦笑する。駆け落ちの誘いより現実的な手段を講じて。だがジーアンがどこまで本気でも返答に変わりはなかった。

「父上のお決めになることだ」

 首を振る。ゆっくりと。この国を統治するのは己ではないと。

「出立を取りやめるようには言われていない。だから行かなくてはならない」

 青い瞳を揺らがせて青年は息を飲んだ。どうしてと縋る響きの声が零れる。
 父が何も言わないのは道を決めかねているからだろう。帝国になびいても、古王国にへつらっても、失うものは大きいのだ。
 ここで自分が預言者たちの所在を明かせば縁談くらいはなかったことになるのかもしれない。ただやはりそうする気にはなれなかった。公爵家のしてきたことを考えると。

「私が人質婿になれば多少は民の溜飲が下がる。財産隠しに怒って出ていった傭兵たちも国に戻る気になるかもしれない」

 破談にしない理由を明かせばブルーノは声を失った。
 チャドは続ける。見せしめになる者がいなければ、罪が清算されなければ、マルゴー人は君主を許せないのだと。

「あ、あなたは、銀山のこと知らなかったんじゃないんですか?」
「知らなかったよ。だが私の地位で無知は罪だ。それに大多数の人間にとって私は公爵家の一員だろう」

 パトリシアとの縁談を受けてから少しずつ覚悟を固めていた。銀が民を豊かにすること。誰かが罰を受けること。どちらが欠けても人々の心にはしこりが残る。父がジーアンを信じようと信じまいと己は囚われにいかねばならない。わかりやすい不幸を皆に示すために。

「……でも、そんな……」

 泣き出しそうな顔をしてブルーノは肩を震わせる。なぜあなたがと言いたげに。自分でもそう思う。けれどいつも同じ答えに戻ってくるのだ。己一人だけ安穏と生きているわけにいかないと。
 疎外され、政治に関われないとしても別の形でできることをするべきだ。
 銀はあまりに多くを殺した。己の人生程度ではきっと贖えないほどに。

「本当にそれでいいんですか……?」

 今なら間に合う。言外に彼が訴える。
 チャドは「ああ」と頷いた。何もかも納得ずくだと。
 考えてみれば次の結婚も一度目とそう大差ないのだ。あのときもマルゴーとアクアレイアの同盟強化が本題で自分はそのおまけだった。
 おまけだったのに浮かれてしまった。素晴らしい姫と巡り会えて。

「相手はとてもいい人だから安心してくれ」

 微笑を浮かべてそう諭した。もうお行き、と肩を押す。
 椅子もないからお互い突っ立ったままだった。絵画も何もかも取り払われた部屋は広く、荷物を運んだ後で良かったと安堵する。この瞬間、ここにあったものを眺めて今日のことを思い出すのはつらそうだから。

「僕は…………っ」

 行ってほしくないですと、小さな小さな声が掠れる。裸の床にぽたりと滴が跳ね落ちた。

「ブルーノ君」

 慰めるべきか少し迷って結局やめる。彼の望む言葉を自分は伝えられない。ほかの伴侶は誰もとは自分には。

「あなたとのことは終わったのだ。涙を拭いて仲間のもとへ帰りたまえ。私もそろそろ発たなくては」

 別れを告げてもブルーノは動こうとしなかった。仕方なく自らドアを開けにいく。前室で控えていたグレッグに「送ってやってくれ」と頼めば彼は大いに当惑しつつも剣士の腕を引いて立ち去った。
 さようなら。今度こそ本当に。
 私はこれから二人目の妻を愛せるように努力しよう。あの誠実で温かな人を。



 ******



 己の思い上がりだった。あの人なら味方になってくれると期待したことも、説得すれば結婚を止められると考えたことも。チャドにはチャドの立場があり、祖国を案じる気持ちがあるのに。

(僕、いつまで自分が配偶者のつもりなんだろう? とっくに振られたくせにな……)

 グレッグの半歩後ろをブルーノはとぼとぼ歩く。終わったことだと首を横に振られたら反論なんてできなかった。
 こうしてどんどん無関係の他人になっていくのだろうか。父が己を初めからいなかった子として扱ったように。

「なあ、あんた王子となんかあったのか?」

 と、石の通路を先導していた元傭兵団長がぎこちなくブルーノを振り返る。目尻に残る涙を拭いて「いえ、何も」と否定した。中での会話は聞こえていたに違いない。グレッグは「何もってこたないだろう」という顔をしている。
 妙な疑いを持たれたくなかったのでしばし無言を貫いた。ずっと反応せずにいると向こうも追及は諦めてくれる。

(なんで上手く行かないのかな)

 いつだってチャドは心から伴侶を愛し、大切にしてくれた。まだその想いが残っていると過信したのかもしれない。差し伸べれば手を取ってもらえると。

(やっぱり馬鹿だよ、僕)

 かぶりを振って失意を払う。もう忘れねば。チャドは応じられないと明確に拒んだのだから。
 あの人もルディア側の人間なのだ。決して責務を放り出さない。思うままに生きることなどそもそも考えてもいない。それでも彼には不幸になってほしくなかったのに。

(もうやめろ。ここへ来た目的を思い出せ)

 ブルーノは己の胸に言い聞かせた。こんなところまで足を運んだのは自分のためでもチャドのためでもないはずだ。ルディアに成果を持ち帰らねば。意を決めてグレッグに「あの」と小さく呼びかける。

「案内はここまでで結構です。あなたは王子の側にいてもらえますか?」

 申し出に驚いたのか元傭兵団長の足が止まった。客を放って戻るなど普通の兵はまずしない。だが彼はじきに城を去る主君とブルーノを秤にかけ、主君のほうを取ったようだ。

「そ、そうか? まあちょいと入り組んだ城だけど、そこの階段降りれば後はまっすぐ行きゃいいから」

 グレッグの関心はもう上階の、出てきた部屋に向いている。客人を送る間にチャドが行ってしまうかもと心配だったのかもしれない。腰から下は大急ぎで引き返す体勢に変わっていた。

「わかりました。ありがとうございます」

 お辞儀と同時、グレッグは駆け足でいなくなる。その足音が聞こえなくなるとブルーノは息を潜めて道案内とは逆方向に進んでいった。

(気を取り直して頑張らなきゃ)

 亡命者として初めて宮殿入りしたとき、使ったのは裏口だった。サール宮は表と裏が非常にはっきり分かれている。通路は一部しか交わらず、小間使いが不便なのでは気がかりになるほどだ。今にして思えばやましい用件で公爵家を訪ねた者は皆裏から招かれていたのだろう。つまりハイランバオスとラオタオが見つかるとしたらそちら側以外有り得なかった。

(客室……は場所はわかるけどさすがに入れないだろうな。本当にあの二人が城にいて、今から何か動く気なら裏口のほうに来るかも?)

 そろそろと裏の森に繋がっている出口へと向かう。人に見つからないように石壁にへばりつき、見つかったときのために旅券を握りしめながら。
 だが異なことに通路に兵士の姿はなかった。下男や下女も同じくだ。石造りの暗い廊下はしんと静まり返っている。

(王子が出立間近だから人手が取られてる、のかな……?)

 それにしても妙な話だ。召使いだけならまだしも衛兵まで見かけない理由は浮かばない。見張りのほかに別の任務を与えられているのだろうか? しかしそれこそ一体何を?

「ではそろそろ行ってまいりますね。花婿行列の最後の支度に皆さんの注意が逸れている隙に」
「くれぐれもお気をつけくだされ。うちの兵士に手伝えるのは古城の封鎖までですので」

 不意に響いた話し声にブルーノは呼吸ごと停止した。即座に壁に張りついて曲がり角の先にわずかだけ顔を出す。

(ハイランバオス……!)

 あっさり辿り着いた裏口には目当ての男と公爵がいた。なんの打ち合わせをしているのだろう。漂う不穏な雰囲気にごくりと思わず息を飲む。

「古城の封鎖ねー、ふふふ。古くなっちゃった鍵なら非常時に開かないこともあるかもだもんね」

 この集まりにはハイランバオスだけでなくラオタオも参加しているようだ。聞き捨てならない狐の台詞に耳が跳ねた。

(古城ってグロリアスの古城のこと? 封鎖? 非常時って何?)

 疑問は尽きぬが直接尋ねるわけにもいかない。もどかしく見守るうちに詩人たちが馬に乗った気配がした。響いたいななきは複数。少なくとも十頭は門の先にいるらしい。

「どかんと爆破いたしますが、恨まないでくださいね。我々はあなたの代わりに使者を仕留めてさしあげるのですから」

 指先が凍りつく。
 なんだって? 今ハイランバオスはなんと言った?
 古城を破壊するつもりなのか。ルディアたちの留まる城を。

「朗報をお待ちください。大船に乗ったおつもりで!」

 蹄の足音が遠ざかる。だがそれよりも心臓の音が大きくてほとんど耳に入らなかった。身震いしながらブルーノはどうにか通路を戻り始める。

(し、知らせなきゃ。早く皆に)

 冷静では多分なかった。声を上げたり物音を立てたりこそしなかったが。
 手元から旅券がひらりと舞い落ちたことにブルーノは気づかなかった。己が去ったすぐ後に公爵がそれを拾い上げたことにも。

(なんで爆破? アークのほうに来られると邪魔だから?)

 足早に引き返す。走っているのと変わらぬ速度で。グレッグと別れた通路が見えてくると汗を拭い、何食わぬ顔で城門塔へ入っていった。
 ここさえ抜ければ安全だ。手早く馬を引き取ってハイランバオスたちよりも先にグロリアスへ戻らなければ。惨劇が起きるその前に。

「ああ、お祝いは終わったので?」

 門番がどうぞと道を空けてくれる。じきに婚礼行列が出発する予定だからか格子門は一番高くに上がっていた。河に架かった橋のほうも開放されているとしたら関所ではさして手間取らずに済むかもしれない。

(急いで帰って何時間だ? 馬の足はもつのか?)

 跳ね橋のたもとでブルーノは馬を待った。まだだろうかと気を焦らせて。
 旅券がないと気がついたのと公爵が駆けてきたのは同時だった。
 老君主は血相を変えている。息を切らし、目を見開き、ティボルトは大きく声を張り上げた。

「その者をひっ捕らえよ! 抵抗するなら殺してもいい!」

 馬はまだ連れてこられていなかった。
 自分の足でここから逃げ延びるしかなかった。



 ******



 一人きりになった部屋を見渡して息をつく。室内はあまりに静かで、ほんの一分前のやり取りが未練の見せた幻のように感じられた。
 チャドは何も掛かっていない壁を仰ぐ。そこに飾られていた一幅の絵は目にしなくても思い出せた。物心ついた頃から身近にあったものだから。
 パトリア神話の英雄譚。水害をもたらす蛇に捧げられた生贄姫を救うべく、半神半人の英雄が戦う。不死の力と引き換えに大蛇を滅ぼす矢を得た彼は最後に愛する人を救い、自らは命果てるのだ。
 死せるさだめを受け入れよ。さすれば汝は真に不滅なものとなろう。
 詩人の紡ぐその言葉はマルゴーという国にどこまでも相応しかった。多くの人命を失って達成されたサールリヴィス河の護岸工事は岩塩業の基盤を確かなものにした。同じように父は数多の犠牲を払って銀を掘り、永遠の王権を手に入れようとしたのである。だが己にとってここにあった絵は、そんなこととは無関係だった。
 愛とは我が身を滅ぼしても想う人のもとへと向かう心である。
 チャドにそう教えたのは同じ絵だ。滅びても構わなかった。ドナ・ヴラシィの連合軍にアクアレイアが襲われたときも、祖国から北パトリアへと逃げ出すときも、妻のためならいつでも我が身を投げ出せた。だが今は。

(所詮は私も公爵家の男なのだな)

 愛は揺らいだ。姫の正体をこの目にして。
 わからなくなってしまった。自分が何を愛していたのか。
 幻だったのではないか? そう疑った。伴侶と思っていた人の、わかった気でいたこと全部。何も知らなかったから、何もかも都合良く解釈して一人で夢に浸っていたのではないのかと。
 その程度だったのだ。だから彼の想いから逃げた。あのときもっときちんと話し合うべきだったのに。

 ──僕はもう、誰とも結婚しないし誰も好きになりません……!

 悲痛な叫びを何度思い返しただろう。偽りを詫び、本心を告げてくれた人を突き放した日のことを。彼の嘘を責めたくせに己自身は偽りに頼った。本当は父や姉を糾弾する資格もない。自分だって二人と同罪なのだから。
 仕方ない。こういうものだ。言い訳して立ち向かおうともしなかった。己の想いが本物だったかどうしても信じられなかった。
 欺瞞はいつも真実を貫くより易しい。国のためだと言ったことに嘘はない。ないけれど、やはりそれは逃げだった。
 応える自信がないだけだ。こんな未練に立派な名前をつけるだけの。
 政治の世界に生きられないなら愛に生きようと固く誓ったはずだったのに。

「チャド? ここにいるかしら?」

 と、ノックの音が室内に響く。扉を開けたのはティルダだった。前室に兵が一人も待機していなかったせいか姉は訝しげにチャドを見やる。だが特に小言を受けることはなかった。彼女の横に高位の客がいたからだろう。

「チャド様、準備は整いましたか? なさりたいことは今のうちにお済ませになってくださいね」

 優しいパトリアグリーンの目がとりわけ柔らかに細められる。パトリシアは金の縁取り華やかな外套を身に纏い、もういつでも婚礼馬車に乗り込めそうな雰囲気だった。本当にここでの生活は終わるのだ。寂寞を伴う実感に少しだけ己を甘やかそうかと思う心地になる。

「そうですね。最後に城を見て回ってもいいですか?」

 今なら胸壁の歩廊からブルーノを見送るくらいできるだろうか。そう思い、チャドは散歩の提案をする。
 パトリシアは断らなかった。隣のティルダと、いつも連れ歩いている女騎士に目配せして「ご一緒しますわ」と歩き出す。
 女たちの軽やかな歩みに続き、チャドも静かに自室を離れた。もう戻ることもないだろう。長く過ごした一室に心の中で別れを告げた。

「あ、王子! ひょっとして今から出発ですか!?」

 グレッグが合流したのは外へと続く通路を進む途中だった。客人を送り終え、彼は急いで駆け戻ってきたらしい。乱れたお仕着せにティルダは眉をしかめたが気にせず彼も一行に迎えた。

「いや、もう少し城の空気を吸っていくよ」

 お前も来いとチャドが誘えばグレッグはこくこく頷く。そうして総勢五名で屋根のない歩廊に出た。跳ね橋を見下ろす城門塔のすぐ脇に。
 広がる景色は壮観だ。アルタルーペを背に負って青く輝くサールリヴィスと白い街並み。眼下には黄金細工の馬車の列。
 ブルーノの姿は見つけられなかった。おそらく彼はまだどこかで馬が返ってくるのを待っているのだろう。婚礼馬車の傍らにはパトリシアの護衛兵たちが行儀良く控えるのみだった。

「寂しくなるわね」

 馬車の一群に目をやってティルダが小さく声を落とす。我が姉ながら呆れた台詞だ。チャドの結婚に関して結局彼女はなんの見解も示さなかった。きっと祖国のためだと諦めてしまったのだろう。今までとなんら変わらず。
 あなたには知らないでいてほしかった。ティルダは秘密を明かす際には必ずそう前置きした。ルースに頼んだ仕事のことも、銀山のことも、伝えられたのはどうあっても隠し通すのが不可能になってからだ。
 愛されてはいたのかもしれない。だが信頼はされていなかったし、愛もまたそれほど強固ではなかった。姉には姉の苦悩があったのだと思うが。
 ふと目を移せばグレッグが思いきり不愉快そうに眉間にしわを寄せている。彼のこの正直さが己にはよほど好ましい。残していくのが不憫なほどに。

「すぐにお慣れになりますよ。私がサール宮を出るのだってこれが初めてではないのですから」

 返事はない。誰からも。ティルダも、パトリシアも、マーシャも、グレッグも、チャドの気が済んでほかの場所に移るのを黙ってじっと待っている。
 立ち込める空気のせいで胸壁を守る衛兵たちまで気まずそうだ。婚礼馬車を送り出す関係か、今日は階下の警備が厚く歩廊の人員は数名だった。いつもの己なら気を回して早めに立ち去るところだが、今だけは許してもらおう。明日にはいなくなる男なのだから。
 どれくらい風に吹かれて城門を眺めていただろう。やがて濃紺の髪の青年が跳ね橋に現れる。こちらには気づいていない。不安げな彼の眼差しは門の奥、預けた馬が連れられるはずの方向に注がれていた。

(ブルーノ君……)

 微笑を浮かべて見下ろした。
 幸せになるといい。私に言ったことなど忘れて。
 ほんの短い祈りを捧げる。彼に多くの祝福があるように。
 さあもう行こう。高貴な聖女を待たせすぎた。

「うわわっ!? 何事ですか!?」

 誰かの駆け込む足音が城門を騒がせたのはそのときだ。
 チャドは聞いた。逼迫した父の怒号を。
 良からぬ事態が起きたのだと知らしめる強い命令を。

「その者をひっ捕らえよ! 抵抗するなら殺してもいい!」

 ブルーノは駆け出した。
 短いマントを翻し、まだ馬も来ないうちに。
 目を瞠る。逃げた剣士の後を追い、城門塔から何人も兵が飛び出てくる。
 小堀の前の坂道は大捕り物の舞台に変わった。足の速い兵が彼に追いついて長い槍の先を突き出す。ブルーノはからくも攻撃をかわしたが、逃げる速度は殺がれてしまった。

(な、なぜだ? 彼とてジーアンの使者だろう?)

 チャドはごくりと息を飲む。
 殺してでも捕まえろなど正気の指示には思えない。そんなことをしなければならないほどまずいものを目撃されたのでなかったら。

(まさか城内でハイランバオスに会ったのか?)

 自分が「いる」と言わなかったから自力で探し出そうとしたのでは。城の裏への回り方なら彼は知っているのだから。
 はっとチャドはすぐ横の衛兵を振り返った。男の構えた弓と矢はキリキリと音を立て、ブルーノの背を狙っている。何を考える暇もなく気づけば体当たりしていた。

「うわ!」

 よろめいた兵は弓を取り落とす。矢筒からも数本の矢が転がった。

「……ッ!」

 何をする気だと自問する。だが見ぬふりはできなかった。今にも数人の兵に囲まれそうな彼を。

「ぐわッ!?」
「あぐ……ッ!?」

 サーコートと鎖帷子を貫通して矢を受けた兵士らは坂道にうずくまる。矢の軌道を辿ってこちらを見上げた剣士が顔色を変えた。どうしてと唇が動く。

「な、何やってるんすか王子!」

 グレッグの問いには答えなかった。答えている余裕などなかった。
 足が勝手にパトリシアのもとへ駆ける。腕が勝手に聖なる王女を拘束する。
 手には剣。つい今グレッグの腰から抜いた。

「誰も動くな! 彼を追いかけるのをやめろ!」

 歩廊から響かせた絶叫は下の兵にも伝わったようだった。細い首に剣の刃を添わされたパトリシアを見て古王国の護衛兵がマルゴー兵を押し留める。時計の針が止まったように全員その場に固まった。

「チャ、チャド、どういうつもり? パトリシア殿下を離しなさい!」

 突然乱心した弟にティルダは真っ青になっている。ツインテールの女騎士は敵意のこもった双眸でチャドを睨みつけた。

「貴様、自分が何をしているかわかっているのか!?」

 そんなこと己が一番己に問いたい。終わりにしたはずなのに、すべて忘れるはずだったのに、なぜこんな反逆としか言えない真似をしているのか。
 彼はこの隙に逃げただろうか。まだもたついているだろうか。いずれにせよ今のままでは逃げきれないのは明らかだった。

「……グレッグ。下に私の馬がいる。車にはまだ繋がれていないはずだ。彼を助けにいってくれ」

 藪から棒の命令に元傭兵団長は「は!?」と声を裏返した。姉も「チャド!」と諫める口調で怒鳴りつける。

「お前の主君としてではない。友人として一生のお願いだ。頼むからあの子を死なせないでくれ……!」

 グレッグは狼狽した。当然だ。チャドとブルーノの関係も、城に来た秘密の客が誰なのかも、この男は一切何も知らないのだ。卑怯だとわかっていながら友人という言葉を使った。巻き込む危険も承知の上で。

「お前にしか頼めないんだ……! グレッグ……!」

 泣き落としに折れた彼は「だあーっ!」と大声で叫んだ。疑問は飲み込んでくれたらしい。歩廊を塞いでいた兵士らを突き飛ばし、歴戦の戦士はそのまま階下へと走り出す。

「あんたのお願いじゃなきゃ聞いてないですからね!」

 残響は足音とともに遠ざかった。それからすぐに誰かが門を抜け、跳ね橋を渡り、馬に跨った気配がする。
 愛馬のいななき。聞いて少しほっとした。その隙をつき、捕らえていた聖女が肘でチャドの肋骨を痛打した。

「っ……!」
「パトリシア様!」

 間を置かず、ぴったりの呼吸で女騎士がレイピアを振り翳す。こちらの剣は振り遅れた。気づいたときには武器は弾き飛ばされていた。

「チャド! 大人しくなさい!」

 ティルダの合図で兵がじりじりとにじり寄る。
 丸腰では抵抗の余地もない。できたのは眼下にブルーノとグレッグがいないのを確かめることだけだった。
 己も無事ではいられまい。こんな暴挙に出た以上。

「……獄に繋いで。処分は後で伝えるわ」

 死せるさだめを受け入れよ。さすれば汝は真に不滅なものとなろう。
 どうしてかあの言葉を思い出す。取った行動は英雄的とは言いがたいのに。それともこれが神話の真実なのだろうか?
 最初から最後まで衝動だけだった。守り通さなければという。たとえ我が身を滅ぼしても。

(なんだ。ちゃんと愛していたんじゃないか)

 馬鹿だなと笑う。きっともう届かない。



 ******



 ──囲まれる。そう思ったら矢が飛んできて、槍を構えた衛兵たちが次々と倒れていった。何がどうしてそうなったのか。なぜあの人が己を助けてくれたのか。わからないまま立ち呆ける。
 逃げなければ。なんとか自分に言い聞かせ、走り出しても胸壁を振り返るのをやめられなかった。
 協力できないと言っていたのに。再婚すると言っていたのに。どうして剣を手にするのだ。滅びに向かう人のように。

(チャド王子……!)

 引き返すべきか悩む。まだ間に合うと心が叫ぶ。しかし結局宮殿に戻ることはできなかった。栗毛の馬が駆けてきたからだ。

「乗れ! 防衛隊の!」

 逞しい戦士の腕に引き上げられて馬の背に跨った。グレッグはこちらの騎乗を確認するとぐんぐん速度を上げていく。
 サール宮が遠のいた。
 チャドの姿も見えなくなる。

「王子は!? 大丈夫なんですか!?」

 問えば元傭兵団長は「大丈夫なわけねえだろ!」と一喝した。

「古王国のお姫様に狼藉したんだぞ!? んなこと聞くな!」
「……ッ」

 馬上から後方を見上げる。渦巻き状の下り坂からは歩廊のどんな様子ももう窺えなかったが。
 どうして。どうして。こんなつもりじゃなかったのに。
 グレッグのお仕着せの脇を掴む手に力がこもる。息をつまらせるブルーノに彼は盛大に舌打ちした。

「意味わかんねえけどよ、王子にあんたを死なせるなって頼まれてんだ。悪いと思うなら生き残ること考えてくれ……!」

 追手が来たら教えろとグレッグは更に馬を急がせる。降りることすらできぬままブルーノは流れ去った風景に目をやった。
 まだ追ってきている者はない。しかし城塔で手旗信号らしき何かがちらつくのが視認できた。

「関所に合図を送られたかも」
「ちっ、門を閉じられたら厄介だな」

 サールはそこまで大規模な都市ではない。城下に至れば街を出る石橋まではすぐだった。だがその橋に盾と剣を構えた兵が布陣している。格子門のほうは飾り付けした直後のようで、まだ下ろされずに開いていた。

「王子様の命令だ。ビビらねえで突っ込んでくれよ」

 栗毛を撫でてグレッグが言う。馬はヒヒンと勝気に応えた。
 障害物を嫌がる気質が馬にはある。だから武装兵たちは中腰あるいは片膝で馬の走行を妨害するための姿勢を取っていた。
 だがこの馬は実に訓練された馬であるらしい。大盾で作られたバリケードをものともせず、速度を落とすこともないまま高く胴を伸び上がらせた。
 翼が生えたかのごとき跳躍。
 あまりにも軽々といくつもの頭を越えていく。

「……ッ!」

 着地の衝撃で前後に揺れた。愕然とする兵士たちを置き去りに馬は橋の上を駆け、聳える監視塔を目指す。ぐんぐんと増すスピード。門を守っていた兵は激突を恐れて身を引っ込めた。

「よし、いい子だ! よくやった!」

 サールの城下街を抜ける。眼前には高く連なる緑の壁。アルタルーペを登る道へと入っていく。

「グロリアスに行きゃいいのか?」
「はい。お願いします」

 グレッグはまた後ろを見張れと言ってきた。目視はできなかったものの関所の兵が宮殿に報告信号を送ったことは明らかだった。

「あんた一体なんなんだ? 城の連中に何したんだ?」

 門を突破して少し余裕が出たからか当然の疑問が投げかけられる。
 既に加担させた以上隠しても意味がないか。そう判断して彼に答えた。

「公爵がグロリアスの古城を爆破するつもりだって、聞いてたのばれたみたいです。口封じのつもりだと」
「はあ!? 爆破!?」
「ジーアンの使者を始末したいみたいでした。多分事故に見せかけて」
「…………!」

 グレッグは息を飲む。何か合点することがあったらしく「巻き添え食っても平気なように王子付きの兵士ばっかり護衛にしたのか?」と声が震えた。

「馬鹿にしやがって……!」

 血を吐くように彼は吠える。憤りは止められるものでも慰められるものでもなかった。
 本当に酷い国だ。世界はそんなものだと言えばそうなのかもしれないが。

「……おい、あんた。ブルーノだったか? サールには自分で馬駆ってきたんだよな? 古道と新道の分かれるところからは一人で行けるか?」
「えっ!? ど、どうしてですか!?」

 わけがわからず問い返す。途中で降りてどうしようというのだと。

「二人乗りじゃどうせそのうち追いつかれる。あんたはさっさと古城に戻って一人でも多く俺の仲間を助けてくれ。サール宮にはこの先二度と近づくなって伝えてやってほしいんだ」

 頼むと悲痛に乞われれば首を振ることはできなかった。「だったら僕が残ってあなたが行ったほうが」と代替案を告げるもののグレッグは頷かない。

「言っただろ。王子にあんたを死なせるなって頼まれた。それに俺は団長だ。こんなときのしんがりくらい俺が務めなきゃ駄目だろうが」
「でもそんな……!」

 押し問答をするうちに分かれ道が見えてくる。更に山道の下方からは馬群の足音らしき地響きが聞こえだした。

「任せたぞ! いいな!?」

 ぼやぼやせずにグレッグが路上に飛び降りる。ブルーノにできたのは鞘しか持ち合わせない彼に自分のレイピアを投げ渡すことだけだった。

(どうして……!)

 利口らしい栗毛の馬が「手綱を握れ。鞍に移れ」とでも促すように首を振る。泣き出しそうになるのを堪え、ブルーノは温もり残る鞍に座した。
 大丈夫なはずがない。こんなことになって、チャドも、グレッグも。
 今すぐ二人を助けに引き返したかった。身体を二つに分けられるなら。

(終わったことだって言ったのに──)

 命を懸けるほどの価値が己にあったのか。まだ好きでいてくれたのか。
 わからない。わからないけれど立ち止まるわけにいかなかった。
 最初に自分が始めたのだ。ルディアとの入れ替わりは。

(行かなくちゃ)

 言い聞かせる。最後まで走れ、守られたなら今度は自分が誰かを守れと。
 己しかいない。仲間に危機を知らせられるのは。

(姫様、レイモンド、アルフレッド……!)

 鐙(あぶみ)を踏み込む。前を見据える。景色は風のように通り過ぎていった。
 断崖に沿う古道を駆け上がっていく。狩人の射る矢よりも速く。



 ******



「謝らないといけないんです」

 男は言った。落ち着いた葡萄酒色の双眸に確かに悔いを滲ませて。
 暗い部屋に持ち込まれた応接ソファのテーブルにはインクの乾きを待つ便箋。視線がそちらと引き寄せられる。癖のある、だが几帳面な字で「悪かった」と綴られた。

「酷いことを言ってしまって……」

 語りながら彼は書き終えた二枚目を一枚目の隣に並べる。読んでいいものかわからずに記憶の主──アニークは目を逸らした。
 幼馴染のレイモンド。死刑囚が最後に過ごした貴人用の独房でよく出た名前の一つである。アニークはほとんど会ったことがない。レーギア宮にパディを連れてきた彼と挨拶を交わし、レガッタの日にガレー船で声を張る姿を遠目に眺めたくらいだ。

「喧嘩したの?」

 案じる響きの声は自身から発された。所在なさげに胸の前で褐色の細い指が絡んでいる。
 問いかけに「アルフレッド」は苦笑した。ええ、と短く声が返る。

「俺がどうかしていたんです。あいつは何も悪くないのに、一生懸命頑張ったのに、褒めるどころか認めることもできなかった。……本当に、馬鹿だったと思います」

 詳細は依然不明のままだった。わかるのは騎士物語と同じように主君を巡る恋の争いがあったこと。それだけだ。レイモンドが勝利して「アルフレッド」は敗北した。どうやらその鬱憤を──厳密には異なる感情かもしれないが──相手にぶつけてしまったようだと。

「………………」

 アニークは何も言わなかった。迂闊なことを尋ねて傷を抉りたくないのだ。
 彼女は黙って慕う男を見つめている。残り火に胸を焦がして。

「でもこの遺書は届かないと思います。国家反逆罪の死刑囚と関わりがあると困るので、委員会が燃やすだろうなと。あいつ偉くなったから」

 目線は一瞬、再び遺書に向けられた。逆さまのアレイア語。どうにかそれを読み取ろうと努力する。
 そこにヒントがあるはずだった。レイモンドだけがいまだ己に寄りつこうとしない理由。槍兵のわだかまりを知るための。

「私が預かる? 何があっても届けるわよ」

 申し出に「アルフレッド」は首を振った。支給された便箋は数を数えられているから誤魔化せない。それに十人委員会が国を思ってすることに逆らう気は毛頭ないと。そう諭されてアニークが唇を尖らせる。

「……届かないのになぜ書くの?」

 返事はすぐにはなされなかった。
 ゆっくりと「アルフレッド」がアニークを見つめ返す。口元に静かに優しい微笑を浮かべて。

「もしかしたら、思い出せるかもしれないので」

 あのとき彼は既に考えていたのだろう。自分が誰と接合することになるか。何も知らないアニークは「そんな奇跡起きないわ」と悲しんでいたけれど。
 謝らないといけないんです。
 きっぱりとした声が耳の奥で響いている。
 閉じた瞼を開いても。



 ******



 サール宮へと急行するブルーノを三人で送り出した後、グロリアスの古城は微妙な雰囲気に包まれていた。今まではモモにバジル、ヘウンバオスまで一緒だったから緩和されていた緊張がありありと浮かび上がって。
 今のうちに仮眠を取ろう。そう言い出したのは槍兵だ。主君も彼に頷いて、アルフレッドは従った。二人の眠りを守ったり、自分が休ませてもらったり、何時間かは穏便に消化できたと思う。いくらでもゆっくり過ごせるはずなのに甘い視線すら交わさないルディアとレイモンドを気にしながら。

(ああ、夢か。アニーク陛下の……)

 目を覚ましたのは夕暮れ前。もう一時間もすれば西空が赤くなりだす頃合いだった。
 あてがわれた客室の柔らかなベッドで起き上がる。相変わらず隣室から響く談笑の声はなく、ずっとばらばらでいるつもりかと嘆息した。
 わかっている。不協和音の原因が己にあるということは。
 アークの件が片付いたら。そう考えていたけれど、あまり悠長に構えるべきではないかもしれない。放っておくほど身動き取れなくなりそうだ。

(……今行くか)

 意を決し、アルフレッドは身支度を整えた。胸甲、腕甲、脚甲は着けたまま横になったからベルトを正して剣を帯び直すだけである。
 コンコンとドアをノックした。続き部屋の客室でガタリ、椅子の揺れた音がする。

「姫様は?」

 開口一番アルフレッドはそう尋ねた。豪華な調度品に囲まれたレイモンドの客室にやはり主君の姿はない。
 なぜ二人とも二人になるのを恐れるのだろう。恋人だと、誰に聞いても同じ答えが返るのに。

「……そっちの部屋で多分まだ寝てる」

 半端に椅子から立ち上がった槍兵は顎で奥の客室を示した。彼の濁った目に滲むのは敵意や害意の類ではない。そうではないのに翳(かげ)りが消えない。
 どう問えばいいのだろう。悩んで結局別の話を持ちかけた。「暇なら手合わせしないか?」と。

「いや、俺はいいよ。大体この客室でそんなことできねーだろ」
「バジルの部屋を空ければいい。あそこは物が少ないから運べばすぐだ」
「……いや、遠慮しとく」
「だが待つ以外することが何もないだろう?」
「気分じゃねーんだ。悪ィけど」

 つるむ気はないと主張するようにレイモンドは円卓の小椅子に腰を下ろす。卓上には急な商談用に彼が持ち歩いている騎士物語が置かれていた。本の世界に逃避すれば諦めると思ったか、ページを捲って読んでいるふりをされる。
 希望通りに行動するなら部屋を出ていくべきなのだろう。だがアルフレッドはそうしなかった。これまでのような様子見は。

「どうして俺を避けるんだ?」

 真正面から問いかける。レイモンドはぴたりと全身の動きを止め、それからゆっくり顔を上げた。

「避けてねーよ。何言ってんだ?」

 口元は笑っているが目はまったく笑っていない。けれどまだ噛みつくまいとする理性は感じる。どこまでまともに話し合えるのか。先は見通せなかったが怯むことなく話を続けた。

「嘘をつかないでくれ。自覚だってあるだろう? お前が一番俺に関わろうとしない」

 ぱたりと本が閉ざされる。槍兵の表情はかけらも穏やかでなくなっていた。取り乱さないのが不思議なほどだ。彼は冷たく双眸を歪め、先程と同じ台詞を繰り返した。

「だから、避けてねーよって」

 今だったら見逃してやる。そう脅かされている気がした。
 だが聞かない。こちらにも言っておかねばならないことがあったから。

「何が受け入れられない? 俺が『アルフレッド』とは違うことか?」
「いい加減にしろ。お前しつこいぞ」

 応対の声は次第に荒れたものに変わった。
 レイモンドが立ち上がる。おそらくこちらを追い払うために。
 ──思い出せるかもしれないので。囁きの後「アルフレッド」の続けた懺悔が甦る。それだけは今どうしても彼に伝えておきたかった。

「『アルフレッド』を追いつめたのは自分だと悔いているからか? 死んだ男の代わりを受け入れられないのは」

 絶句する。問いをやめないアルフレッドを黙らせるべく眼前まで歩んできていたレイモンドが。
 どうしてお前にわかるんだ。瞠られた両の目がそう言っていた。
 赤を映して瞳が揺れる。呼吸までも停止させて。

「……アニーク陛下と過ごした最後の一週間、『アルフレッド』はずっとお前を気にしていたよ。お前が一番自分を責める。お前は何も悪くないのにと」

 仲直りできなかったから、と言えば槍兵は震えて半歩後退した。
 できるだけ真摯に向かい合う。自分はきっと彼にとっては他人だけれど。

「『アルフレッド』はお前を責めていなかった。自分のせいで罪悪感を抱かせたかもと悔いていたくらいだ。本当に」
「………………」

 レイモンドはしばし無言で立ち尽くした。ほかにどうしようもなさそうに。
 わななく唇が吐き出すのは苦しげな息ばかりだ。握り拳にも行き場がない。
 何が巡っているのだろう。その思考に。その胸に。
 覚えていないのがもどかしい。「アルフレッド」の声を届けられるのは己だけなのに。

「……あいつが責めてなくたって俺のせいだろ。あいつが一人で悩んでたのに気づかなかった俺のせいだろ? 頼むからもう黙っててくれ! アルの顔で、アルみたいに、許そうとしないでくれよ……!」

 うつむかれて目が合わなくなる。余計なお世話だと全身が拒絶していた。
 罪の意識を手放せぬ彼を見つめてアルフレッドは嘆息する。「放っておけないだろう」と。

「お前が苦しむことはないんだ、レイモンド。姫様と笑って楽しく過ごしても『アルフレッド』は恨まない。婚約者なんだろう? 俺のせいで二人の関係がおかしくなったなら申し訳ないよ」

 槍兵は首を振った。本当にもうやめてくれ、と掠れ声が小さく乞う。

「俺のせいだっつってるだろ……! 誰かのこと妬むような奴じゃなかった。それなのに俺があんなこと言わせたんだ。お前といると惨めになるって、自分だけ何も手にできなかったって……!」

 ぱたぱたと足元に滴が跳ねる。息継ぎできずに肩は上下に震えていた。
 重すぎる荷に潰されたような猫背。どう支えればいいのだろう。

「俺がしてきたこと全部、アルを苦しめただけだった……!」

 幸せになろうと思ってしたこと全部。そう呟いて彼が泣く。
 ああ、とようやく合点した。どういう暴言だったのか。
 酷いことを言ってしまったと悔やむはずだ。祝福すべき成功に悪しき呪いをかけるなど。

「惨めじゃないよ」

 言葉はするりと口をついた。
 レイモンドの目がこちらを向く。疑わしげに。縋るように。
 見つめ返して断言した。

「『アルフレッド』は本当に欲しかったもの一つ手に入れた。だから惨めなんかじゃない」

 絶対に、と強く告げる。ここにいる己がその証明だから。
 かじかんだ唇が「でも」と動くのが見えた。凍える問いに首を振る。

「思うようにならなくて追いつめられていたかもしれない。だけど彼は自分の道を見つけたんだ。でなきゃ俺はもっと違う俺だった。そうだろう?」

 返事はなかった。それでも語りかけるのをやめなかった。
 今すぐにでなくてもいい。いつかわかってくれればと。

「お前の努力は正しかった。望みを叶えて当たり前だ。『アルフレッド』もそう言っていた。……だからレイモンド、もういいんだ。お前は何も悪くない」

 そのときギイと扉が開いた。不穏を察してルディアが部屋を出てきたのだ。
 レイモンドが身を翻すのは早かった。恋人に何を言われると思ったか、彼は額を真っ青にして客室を飛び出した。



 ******



 さよならを告げる以外、守る方法がわからない。
 だがそれさえもできないときは一体どうすればいいのだろう。
 こちらを見るなり駆け去った恋人の後ろ姿にルディアは指先を握り込んだ。唇を噛み、胸を襲う痛みに耐える。己の招いた結果だと。
 アルフレッドとアニークを接合させた後、何も話し合わなかった。死なせた責任を取るために騎士は側に置くと決めたし、レイモンドが納得できなくともよそへやる気はなかったから。
 そうして彼に無理を押しつけた。作り笑いと知っていたのに。

「聞いていたのか? 今の話」

 閉ざされた扉から視線を戻し、こちらを向いた赤髪の騎士が問う。最初から最後まで話は全部耳にした。いつ出ていこうか悩みながら。
 だが盗み聞きするつもりはなかった。できれば聞きたくなかったくらいだ。可憐な村娘の顔を伏せ、ルディアは首を横に振った。

「聞こえたんだ。聞いたんじゃない」

 どっちでも同じだよ、と言わんばかりに溜め息をつかれる。遠慮を知らない騎士はルディアにも同じく深く切り込んだ。

「ああいうこと、レイモンドと全然話していないだろう」

 否定できない。その通りだった。敢えて弁明できるとすれば少しは話したという程度だ。
 避け続けた話題だった。サルアルカを発ってからずっと。ハイランバオスとラオタオを捕らえたら。この一件が片付いたら。そう言い訳して逃げてきた。レイモンドの癒せぬ悲嘆と向き合うことから。

「まあ今は、それどころじゃないのもわかるが……」

 厳しかった語調がいくらか弱められる。騎士も責任を感じているのだ。彼が何かしたのではないが、彼のせいとしか言えない根深い問題に。
 アルフレッドは再び扉を振り返った。静まり返ったその一角。見えない背中を瞳に映そうとするように。

「だが俺を側に置くなら話しておかなきゃならなかったろう? レイモンドが俺をどう思っているか、あなたは知っていたんじゃないのか」

 騎士の声は真剣だった。仲間の記憶が欠けていても、ともに過ごした時間がわずかしかなくても、齟齬は感じていたらしい。
 咎められると本当に何も言えなかった。ああそうだ。話しておくべきだったのに己は動けなかったのだ。身じろぎ一つですべてが崩れそうだったから。

「傷つけるんじゃないかと思って怖かった……」

 ぽつりとルディアは呟いた。視線を避けて目を伏せる。
 言い逃れできることではない。それでも己が己の核に縛られていたのは事実だった。──否、自分は抗っていたのだ。寄り添えずとも突き放すことのないように、見て見ぬふりをするのが取れる最善だった。疲れきったレイモンドが「もうやめたい」と言い出すことがわかっていても、どうしても現状維持しかできなかった。だって自分は。

「私には、私といるのがつらいなら側にいなくていいとしか言えない……」

 首を振る。頼りなく小さく。
 一人で勝手に決めないでくれと言われたこと。それだけが己を留まらせた。この手を離して楽になれるのは自分だけだ。何度も何度も言い聞かせねば心はすぐに逃げたがった。

「…………」

 肩を落として押し黙るルディアをアルフレッドが無言で見つめる。生まれたばかりの彼にさえ呆れられるほど馬鹿なのだなと自嘲した。己自身も駒となるほかないような大きな決断ならできるのに。

「あなたは自分の罪滅ぼしについてしか考えていないんじゃないか?」

 不意の問いかけにルディアは「え?」と顔を上げた。瞬間、強い眼差しが身を射抜く。彼らしいまっすぐな。

「あなたも自分を責めている。だから俺を放り出せない。守ってやるべき対象としか見ていないんだ。……違うか?」

 言い当てられて息を飲んだ。少し前までただの子供のようだったのに、もうそんなことを考える頭があるのかと。騎士の成長は思うより目覚ましいらしい。同じところをぐるぐると回り続ける己とは大違いだ。

「……かもな」

 肩をすくめてそう答えればアルフレッドは唇を尖らせた。彼は怒りも露わに続ける。どこまでも正直に。

「本当に、あなたは俺がいる意味をこれっぽっちもわかっていない」

 太い眉の根が寄せられた。刻まれたしわも深くなる。
 見覚えのある表情だった。いつかも同じ彼を見た。そう、あれはブルーノと入れ替わって間もない頃。防衛隊の皆に正体を告げた日だ。

「俺はあなたを一人にはしない。何があっても、あなたがどんな選択をしても。だがそれだけだ」

 騎士はきっぱりと言い切った。「あなたに花を贈るのも、あなたの隣で眠りにつくのも俺じゃないよ」と。何から何まで悟った声で。

「俺はあなたに哀れまれるためじゃなく、あなたが人を信じられるようにここにいるんだ」

 なんの話をしているのだろう。すぐには理解できなかった。
 人を信じる? そんなことはどうしたって不可能だから「アルフレッド」は騎士になったのではないのか。せめてルディアが一人でも側に居続けてくれる誰かを持てるように。
 ぽかんとしたまま彼を見やる。物分かりの悪い主君に騎士は深々と嘆息した。

「あなたが誰も信じられない人だというのは知っている。だが自分の核の強さを承知なら、俺の核の強さだってわかるだろう?
 何度不信に戻ってきたって構わない。何度でもあなたが勇気を持てるように俺があなたについている。信じたいと願う相手をあなたが信じられるように。愛したいと願う相手を愛せるように。……こう言えば伝わるか?」

 渋面は、なんのための五人編成だと思っているとルディアを叱りつけた彼と完全に一致していた。一人で突っ走る前に連携の努力をしろと憤慨した。
 あれはそう、誘拐犯(アイリーン)に入れ替わりの秘密を吐かせるべくレイピアを抜いた日のこと。父以外の人間に叱られたのは初めてだった。
 お前だって私と似たようなものじゃないかと今なら言い返したに違いない。それとも彼は信じているから先に走っていけたのだろうか。

「私が誰かを信じられるように……?」

 騎士は頷く。「アルフレッド」と同じ顔で。けれど彼より騎士らしく。

「レイモンドとちゃんと話したほうがいい。ブルーノが城に帰ってくる前に。あなたが本当に望むことを、あなたの言葉で伝えるべきだ」

 でなきゃ二人とも救われない。赤い瞳がそう語る。
 まっすぐな彼が眩しかった。闇に飲まれても決して灯火を見失わない。

「このままでいいとは思っていないんだろう?」

 いずれ誰より信の置ける男だと思わせてみせるさ。
 懐かしい台詞が耳に甦る。
 アルフレッド、お前はたいした男だよ。
 どうにもならない境界線さえ跳び越えさせてくれるのだから。

「……すまない。行ってくる」

 本当に望むこと。伝えたい言葉はわかっていた。
 長いスカートを摘まんで駆け出す。閉ざされていた扉を開いて。



 ******



 ぐらぐら視界が揺れていた。混乱のあまり。何を考えるべきかもわからず。
 ルディアに聞かれた。荒らげた声を。彼女に見られた。取り繕えなくなった己を。
 全部おしまいになったのだと確信する。この失態は取り返せない。今度こそ別れを切り出される。一度決めたら覆すことのない人だ。こちらの言い分などきっと聞き入れようともしない。置いていかれる。今度こそ。

(姫様──)

 レイモンドはよろけつつ螺旋階段を下りていく。逃げたところで何が変わるとも思えなかったが、それでも少しでも終わりを引き延ばしたかった。
 どこで間違えたのだろう。考えるほど胸が苦しい。自分のためにも、彼女のためにも、故郷のためにもいいことをしているのだと信じていたのに。

 ──惨めじゃないよ。

 騎士の言葉が追ってくる。そんなはずないと振り払っても。

 ──『アルフレッド』は本当に欲しかったもの一つ手に入れた。だから惨めなんかじゃない。

 許された気になりたくなかった。同じ顔をした別人の言うことなど信じてはならなかった。「アルフレッド」の友人ならば。
 それなのにわからなくなってしまう。違うはずなのに似すぎていて。
 信じたくなってしまう。あいつも「アルフレッド」なのだと。

「おい、誰か見回りサボったか? さっき行ったら門の鍵開いてたぞ」

 不意に響いた男の声にびくりと後ずさりした。一階通路に向かいかけていた足を止め、レイモンドは周囲を窺う。狭い廊下には屯所と思しき一室から兵士がわらわら出てくるところだった。
 元傭兵団の彼らとは顔見知りだ。見つかれば声をかけられるのは間違いない。今は明るく接する余裕などないし、しばらく一人でいたかった。階段塔に引き返し、静かに地下へ降りていく。
 こういうとき厨房に来てしまうのは馴染んだ場所だからだろうか。火のないかまどの側にようやく身を落ち着ける。ここにもじきに料理当番がやって来るのだとは思うが。

(そしたら上に戻らなきゃな……)

 頭のまだしも冷静な部分で思考した。
 何もかも失っても自分にはお似合いなのではなかろうか。恋人の生きる世界のことも、友人に抱かせた苦しみも、少しもわかっていなかった。一人で成長した気になって、本当は全然何も。
 房は暗い。壁掛け燭台で?燭がゆらゆら燃えているだけだ。ぼんやりそれを眺めていると幾多の思い出が脳裏をよぎった。
 国籍がなく学校にも病院にも行けなかった自分のために、幼馴染が何度力を貸してくれたことだろう。将来絶対必要になるからと読み書きを教え、計算を教え、熱病に倒れたときは薬を飲ませ、困ったときは大金を用意してくれた。さんざん恩を受けたくせにそれを仇で返したのだ。掴んだ幸せが零れ落ちても当然だ。
 ルディアのことも、きっと彼が一番正しく理解していたのだろう。根差した不信を薙ぎ倒す力を手にする覚悟もあった。敗北したのは己のほうだ。

(姫様の隣にいていいのは俺じゃない──)

 とっくにわかっていたことだった。考えないようにしていただけで。
 言葉にしてみて痛感する。己の幕は終わったのだと。
 悪足掻きはもうやめよう。ルディアの考えを受け入れよう。重荷になる前に去らなければ。彼女はそんなに強い女ではないのだから。
 痛みの生じぬときにしか側にいられない人だった。弱い心を守れなくなればそれきり終わる恋だった。自分なら、とどうして思い上がれたのか。

(俺がしがみついたって姫様を困らせるだけだ……)

 そのとき誰かの足音がしてレイモンドは顔を上げた。戻ってから話すつもりだったのに、あちらのほうから後を追いかけてきたらしい。

「レイモンド……」

 愛らしい顔立ちをした村娘。初めてこの手に抱きしめた女を前に苦く笑う。あのときはなんて幸福だっただろう。自分が誰を押しのけたかも知らず。
 ルディアが厨房に踏み込む。レイモンドの正面に歩いてくる。
 決然とした王女の顔は嫌いじゃない。最後を飾るにも相応しかった。

「話したいことがある」

 誤魔化しに付き合うのをやめたのだ。声の響きで伝わった。何を言われても平気なように心を決める。

「……何?」

 レイモンドは彼女に問いかけた。できるだけなんでもない風に。荒んだ声で返して傷つけてしまうのは別れ際でも嫌だったから。
 薄く開かれた唇はしばらく何も告げなかった。どう切り出せばいいか迷っているらしい。ひと言でいいのにと思う。互いのために距離を置いたほうがいいと、それだけ言えば終わるのに。

「アルフレッドに叱られた。どうしてお前とちゃんと話をしないんだと」

 だがルディアの口から飛び出したのは予測もしない台詞だった。レイモンドは思わず「え?」と聞き返す。

「絶対に側から離れぬ男が一人いるのだから勇気を持て、何度不信に陥っても信じたいと願う相手を信じてみろと……」

 もう遅いかな。小さく問われてレイモンドは息を飲んだ。
 別れ話に来たんじゃないのか? 信じられずに見つめ返す。

「……お前のせいじゃない。『アルフレッド』を追いつめたのも、死なせたのも両方私だ。私があいつに騎士を夢見させたから。そのくせあいつの忠誠心から逃げ出そうと突き放したから。だからお前が自分を責めることはないんだ」
「……ッ」

 悔恨を耳にした瞬間レイモンドは「んなわけねーだろ!」と否定していた。悲しい自責はやめさせたくて声を張る。

「あんたのせいなんかじゃない。だってどうしようもねーことだろ? あんたが誰も信じられないのは、そういう風に生まれてきたのは」

 反論に返されたのは穏やかな眼差しだった。どんな心境に至ったらそうまで美しく笑えるのだろう。
 ルディアは囁く。静かにこちらに言い聞かせる。

「私だって、お前が私にそう思ってくれるように、お前は何も悪くなかったと考えているんだよ」

 そっと両手を握られた。なあ、と小さく呼びかけられる。泣きたくなるほど優しい声で。

「いつか言ってくれたよな。不安なら一緒に信じると。今度は私が信じるよ。……信じたいんだ。上手くできなかったとしても」

 緩くうねった髪がはらりとレイモンドの胸にかかる。押しつけられた白い額が震えている。
 去っていく者にルディアはこんなことはしない。──しなかった。今までの彼女なら絶対に。

「お前のせいじゃない。お前のせいだったとしても私が一緒に背負っていく。だからもう、一人で苦しまないでくれ……」

 まだ側にいたいんだ。か細い声が囁いた。
 痛みより孤独を選ぶ人なのに。不安定な幸福なら捨ててしまう人なのに。
 必要なんだと言ってくれる。どうしたら一緒にいられると。

「姫様……」

 気がつけば握り合った指先に強い力がこもっていた。わななきながら両手を離す。華奢な背中を、強張った肩を掻き抱くために。
 考えてくれるのか。一人で頑張らなくていいのか。それなら己も続けられるかもしれない。ルディアとのことだけではなく。

「姫様、俺──」

 耳をつんざく爆発音が轟いたのはそのときだった。
 胸にこみあげる愛しさも、安堵の涙も、何もかも吹き飛ばし、グロリアスの古城が揺れた。



 ******



 立っていられないほど激しい振動に最初は地震かと思った。城内には地鳴りにも似た轟音が響いていたし、かまどの横から厨房の入口まで二人揃って一瞬で吹き飛ばされたから。
 だがすぐに天災の類ではないと気づく。崩れた天井──つまり一階の床部分から火の手が上がっているのが見えて。

「燃料倉庫が!」
「早く消せ!」
「ここの水じゃ足りねえよ! 放って逃げたほうがいい!」

 上階の兵士たちは騒然となっている。火勢は相当強いようだ。
 このまま地下にいるとまずい。直感してルディアは尻餅をつくレイモンドと目を見合わせた。

「二階へ戻ろう。アルフレッドと合流したらそのまま避難だ」
「わかった」

 埃を払う暇も惜しんで立ち上がる。大急ぎで狭い通路を引き返した。
 一体何が起きたのだろう。ところどころ空いた穴から悲鳴じみた怒号が響く。吹き込んでくる熱風で周囲の気温も瞬く間に上昇した。
 さほど大きな城ではない。サール宮がマルゴーの本城としたらグロリアスの古城はささやかな出城だ。さっさと逃げねばこちらも炎に巻かれてしまうかもしれなかった。
 避難経路も限られている。窓のない地階は特に。

「……!」

 足を止めたのは螺旋階段の手前だった。時既に遅く、階段塔の出入口は高く積もった瓦礫が埋めてしまっている。天井にはひときわ大きな崩落の跡。その暗い穴の輪郭を燃え盛る火炎が赤く照らしていた。

「ほかって階段あったっけ?」
「わからない。もう一つくらいあると思うが、こういう城の階段は防衛のために繋がっていないことも多いから……」

 台詞の途中で崩壊音が鳴り響く。「うわっ!」とレイモンドはルディアの腕を引いて跳び退いた。ほぼ同時、石床の一部が凶悪な音を立てて落ちてくる。

「………………」

 年季の入った古城である。存外脆いのかもしれない。口にはせずにただちにその場から離れた。煙はあまり階下に流れてこないのだけは幸いだった。
 駆け足で地下通路を進んでいく。闇の澱んだ道の先へ。
 はぐれないように手はしっかりと繋いでいた。時折ぱらぱら降り注ぐ土埃に眉をしかめて歩を速める。
 ただの火事ではない気がする。先程兵士は燃料倉庫がどうのこうのと言っていた。保管中の火薬類が爆発でもしたのだろうか。そもそも人の住まぬ古城になぜそんなものが残っていたのか不思議だが。

(まさか使者を殺すつもりで持ち込んだ?)

 馬鹿なと思う一方で有り得る可能性だと感じる。もしこれがハイランバオスの仕業だったとすれば。
 詩人にはルディアが天帝と接合することも古城を拠点にすることも予見可能だっただろう。ヘウンバオスが隠れ里で防衛の指揮を執るならグロリアスには誰が留まることになるかも。
 あの男は天帝を追いつめるために動く。彼と記憶を分かち合ったルディアを屠ろうとしてもおかしくはない。

「駄目だ、開かねえ!」
「どうなってんだ!」

 階段が近いのか、また上階の声が聞こえた。「こっちだ」とレイモンドが強くルディアの腕を引く。
 二つ目の螺旋階段は塞がれてはいなかった。ただ一瞥してわかるほどの熱気が内部に立ち込めている。薄い黒煙に覆われた階段塔の出入口が陽炎のごとく揺れていた。全身から汗が噴き出す。このすぐ上がどうなっているかなど想像するまでもない。
 それでも突破口はここしかなかった。ルディアたちは無理やり階段を上っていって──そうして言葉を失った。

「…………っ」

 炎。視界一面を覆い尽くす高熱と猛る光。逃れる場所はどこにもないと思い知らせる圧倒的な。
 石造りの城砦が単なる過失でこれほど燃えるはずがない。あらかじめ油でも撒いておかねばここまでは。

「姫様、駄目だ。戻ろう」

 細い通路を蹂躙する緋色の先に外へと続く大扉は見えていた。だが到底駆け抜けられる距離ではない。それに慌てふためく兵たちも「開かない、開かない」と叫んでいる。
 なお悪いことに螺旋階段は二階に続いていなかった。やはり旧式の城なのだ。敵兵がすぐ居住部へ侵入することのないように上下階の移動を制限する構造になっている。
 呼吸のしづらさに耐えかねてルディアたちは引き返した。地下に留まっても一時凌ぎにしかならないが、わかっていてもそれ以外は選べなかった。
 どうしたらいい。どうしたらここを切り抜けられる。

(瓦礫をどけて二階を目指すか? 寝具を繋いで窓から降りれば脱出できる。グローリアがそうしたように)

 だが二人きりで障害物の撤去など何時間かかるだろう。火の手の回るほうが早いに決まっている。

(しかしほかに方法は……)

 レイモンドもルディアと同じ考えらしい。彼の足は明らかに一つめの階段塔へ向かっていた。
 厨房の横を通り過ぎる。ついさっき抱きしめ合った。
 もっと話したかったのに。いつもいつも上手く行かない。
 角を曲がれば天井の大穴が見えた。今にもまた崩れそうな。

「……ッ!」

 再度の爆音と崩落にルディアたちは息を飲んだ。どこかにまだ未使用の火薬が残っていたらしい。目の前で、もっと大量の瓦礫が燃えながら落ちてきて、歩みは完全に止まってしまった。
 どうすればいいのだ? こんな形で閉じ込められて。
 見渡してもほかの通路や抜け道なんてものはなかった。
 厨房の排煙管は這い上がれる大きさだろうか。上がれたとして一階が火の海なのに二人とも無事で済むのか?

(くそッ……!)

 なんの方策も浮かばない。握った掌が汗を掻く。
 高くから騎士の声が降ってきたのはそのときだった。

「──姫様!?」

 ハッと弾かれたように上を見る。レイモンドも、ごそりと落ちた二階の床、縁から覗く赤髪に気がついたようだった。

「二人とも早く二階に戻れ! 外に出られる窓がある!」

 煙が目に染みるのかアルフレッドは目元を庇いつつ叫ぶ。

「上がれないんだ! 階段が使えない! お前だけでも先に逃げろ!」

 命じれば「そんなことできるか!」と怒鳴り声が返された。
 こうする間にもまた崩落が起きるかもしれない。じりじりと焦りが募る。
 そのとき突然、レイモンドの左手が離された。振りほどくような激しさで。瞠目して彼を仰げば「ごめん」と短く詫びられる。

(──え?)

 急激な喉の圧迫に息を飲む。否、飲み込めてはいなかった。槍兵の大きな手に首を絞められていたから。

「……ッ」

 どうにか腕を引き剥がそうともがくけれどレイモンドはルディアから呼吸を奪うのをやめなかった。体格差がありすぎて暴れることもままならない。男の身体なら少しは抵抗できたのに。

「ごめん、姫様。急ぐから」

 彼が何を考えているかは明白だった。この状況なら選択肢は一つしかない。
 ルディアだけを──、ルディアの本体だけを窮地から救い出そうとしているのだ。レイモンドは。

(この……、馬鹿……っ)

 指にますます強い力がこめられる。視界が白み、意識を保てなくなってくる。
 何か言わねばならないのに。
 愛しげに己を見つめる恋人に。

「姫様。ありがとう。側にいたいって言ってくれて嬉しかった」

 暗転する。世界が闇に飲まれていく。
 感じられるのは掌の熱さだけ。
 起きたときには失われている温もりだけ。



 ******



 人生で一番長い五分だった。十分か、あるいは十五分かもしれない。脳蟲は死体から這い出すまでに時間のかかる場合もあるから。
 ポケットから小瓶を取り出す。転んだときに割れていなくて良かったと動悸の激しい胸を片手で押さえながら。

(アンバーが遺してくれた脳髄液だ。きっと姫様を守ってくれる)

 半透明の線虫を指に這わせ、そっとガラス瓶に移した。しっかり蓋を閉じたそれを右手に固く握りしめる。
 レイモンドは片膝をついた石床から立ち上がり、二階で待つ男を見上げた。黙って見届けていたのだ。何を頼むかはわかっているに違いない。

「落とすなよ」

 まっすぐ上に投げるから、と言えば騎士は頷いた。煙の向こうにグローブも手甲も外した腕が構えているのが映る。

「大丈夫だ。いつでも来い」

 身を乗り出した彼の位置を目視でよく確かめた。手が震えないように雑念は全部頭から追い払う。
 大丈夫。大丈夫だ。
 俺はあいつを信じられる。「アルフレッド」の追いかけた夢を。
 だってきっとそれがルディアを変えたのだ。
 祝福せねば嘘ではないか。

「行くぞ……!」

 手首の力を抜いてガラス瓶を放る。美しい直線を描き、最高到達点に達した姫君は速度を緩めて騎士の掌に落下した。
 赤髪はただちに後退する。不安定な体勢を一旦安定させるために。そうして己の懐に主君を確保したらしい彼はもう一度だけこちらに顔を覗かせた。

「死ぬなよレイモンド! 後で必ず合流しよう!」

 まだ話したいことがあるんだと続いた声に思わず笑う。
 馬鹿じゃないのか。助かるわけがないだろう。

(でもちょっとあいつらしいや)

 煙の向こうに姿はない。届くかどうかわからなかったが出せる限りの大声でレイモンドは叫び返した。

「姫様のこと頼んだからな──アル!」

 反響する。燃える古城に友の名が。
 見送るべきを見送るとレイモンドは動かぬ女の傍らに跪いた。
 助かるはずはないけれど生き残る努力はせねばなるまい。ルディアとも話の途中だったのだ。

「勝手にごめん。本当に」

 謝りながらスカートのポケットを探る。彼女もやはり持っていた。アンバーの脳髄液と、セイウチの牙のお守り。
 味なら既に知っている。少々しょっぱいだけだから飲み下すのに難はない。蓋を開け、ぐいと一気に流し込んだ。炎の中を駆けた後自力で処置する自信は持てなかったから。

(……だいぶ薄いな。あんまり効き目ないかもな)

 村娘から脳髄液を頂戴するかと思ったが可憐な寝顔を石で潰すなどできそうもなくて諦めた。これが肉体に愛着を持つということか。まあいいや。お守りだけ大事に掴んで走り出す。
 火はどこまで燃え広がっているだろうか。一階のあの狭い通路をどうしたら突破できるだろうか。そんなことを考えながら進んでいたら突然景色が大きく歪んだ。
 亀裂が走る。そこら中に。一階が派手に崩れたから城が自重を支えられなくなったようだ。基礎となる柱が燃えて大鐘楼が倒れたように。
 礫を飛ばして傾く壁から逃れて階段塔に飛び込む。だがレイモンドはそこを動けなくなってしまった。上へ進む道ももう瓦礫に埋まっていたのである。
 前にも後ろにも行けない。火はこの塔へも来るだろうか。
 さすがに本当に死にそうだ。思う心はなぜだかあまり乱れなかった。

(姫様にはアルがいるから大丈夫だ)

 最果ての岬で死にかかったときも同じことを考えたのを思い出す。筋金入りの騎士だから後はあいつが全部なんとかしてくれると。
 大丈夫。大丈夫だ。
 モモもバジルもブルーノも騎士と上手くやっていける。だからもう。

(ちゃんと話しときゃ良かったな。皆ともっと)

 誰が悪かったんじゃなく、皆で少しずつ背負えば良かった。皆苦しんでいたのだから。ずっと仲間だったのだから。
 あいつにも怒れば良かった。アルの代わりにきっと真面目に答えてくれた。

(『お前の努力は正しかった』か)

 間違いじゃなかったとアルが認めてくれていたならそれでいい。
 できるならもう少し生き延びてルディアの示してくれた勇気に応えられたら良かったが。

(姫様……)

 地響きが続く。塔の崩れる音がする。
 恐怖はない。心は静かだ。
 真っ黒な重たい影が降ったとき、一瞬夕暮れの光が差した。
 綺麗な赤と空の紺碧。
 焼きつけて目を閉じる。



 ******



 どうして彼には己の居場所がわかるのだろう。
 不思議な人だ。前々からの友人のように──否、それよりもうんと親しげにこちらに話しかけてくる。

「ね、ドブ君。もう城に戻っちゃいけないよ」
「えっ?」

 あの人に会ったのは西空が少し翳り出した頃。厩舎にいたがらぬ馬の一頭を引き、湖岸を散歩させていたドブの後ろにふと気がついたら立っていた。

「あれっ? えっ? サール宮におられたんじゃ……」

 里の人間に姿を見られていやしないかキョロキョロと辺りを確認してしまう。人口の多い村ではないし、付近は閑散としていたし、狐顔の青年はフード付きのロングケープを着込んでいたから大丈夫だとは思うが。

「まあまあ、そんなことはいいから。とにかくもうあの古城にもサール宮にも戻っちゃ駄目。わかった?」

 聞き覚えのある響きだった。父が死に、蓄えが尽き、罪を犯した母が刑吏に捕らわれたとき、これと同じ声を聞いた。戻っては駄目よ、行きなさいと。

「────」

 胸の奥がざわざわする。今日限り二度とこの人に会えない気がした。
 黒ケープを翻して狐男が歩き出す。彼も湖岸に馬を留めているようだ。数は二頭。一頭はあの美しい連れ合いのものだろうか。

「あ、あの」

 膨らむ焦燥に突き動かされ、ドブは思わず青年を引き留める。
 聞いてはいけない。忠告は受けていたのについに彼に尋ねてしまった。名を知れば魔法は解けるものなのに。

「あなたは一体誰なんですか」

 振り返った青年は何も言わなかった。ただその薄い唇に、面白がるような、慈しむような、判別しがたい微笑が浮かぶ。

「さあね」

 男は急いでいるらしい。ちょうど古城のほうから戻ってきた連れとさっさと馬に跨るともうドブを一瞥もせず駆け去った。

「………………」

 一体なんだったのだろう。
 静まり返った湖の、無人の畔で立ち尽くす。
 心を現実に引き戻したのは大きな爆発音だった。

「……ッ!?」

 驚いて走り出しかけた馬を大慌てで宥めすかす。断崖に沿う古城を見やれば炎と煙が目に入り、ドブは息を飲み込んだ。──戻っちゃいけない。男の声が耳の奥にこだまする。

(な、なんで?)

 知っていたとしか思えないタイミングと口ぶりだ。まさか彼らがやったのかと道の先に姿を探すが気配はどこにも残っていない。
 そうこうする間に炎上は進む。勢いを増した火は城壁を舐め焦がし、黒煙がもくもくと窓や矢間から吐き出された。
 傭兵団の仲間は皆あの中にいるはずだ。早く助けに行かなければ。馬を手近な木に繋ぎ、ドブは城へと駆け出した。

(使者ってまだ遠乗りから帰ってないよな? モモも確か一緒のはず。客室にいたのって誰だっけ。レイモンドと鉄仮面の騎士?)

 滲む汗とは裏腹に心臓は凍りつきそうだ。山岳湖を迂回して、坂道を猛然と走り、小さな城の玄関口──大扉の前まで戻ってドブはまたもや頭が真っ白になってしまった。外から扉に鎖がかけられているのである。まるで誰も逃がすまいとするように。

(なんで? 鍵は? 鎖を壊せそうなものは──)

 手斧か何か探そうと踵を返したその瞬間、ぶんと耳元で刃の空振る音がした。本能的に飛びすさり、空堀に架かる橋の上にすっ転ぶ。見間違いでなかったらこちらに剣を向けていたのは宮殿の衛兵だった。

「は? 何……」

 なぜ戦場で鉢合わせたのでもないのにマルゴー人がマルゴー人を襲うのだ。尋ねる間もなく再び刃が振り下ろされる。避けきれない。予感がドブの全身をすくませた。
 衝撃に耐えるために縮こまる。剣はいつまでも斬りつけてこなかったが。

「…………?」

 おそるおそる瞼を開けば衛兵は橋の向こうまで吹っ飛ばされて伸びていた。代わりにもっと大きな影が息を切らしてドブを見下ろす。

「大丈夫? 怪我はない?」

 そう問うてきた青髪の剣士が乗るのはよく世話している馬だった。チャドの愛馬だ。栗色の。

「マルゴー公が使者を殺すのに古城を爆破させたんだ。中の人たちを助けたいから手伝ってくれるかな?」



 ******



 山の夕暮れは美しい。太陽が傾くにつれて聳え立つ岩壁が薔薇色に染まり、この世のものでない巨大な宝石のごとく輝く。だが黄昏がどんなに壮麗だったとしても深まる闇を歓迎することはできなかった。
 夜はこの頃ずっと苦手だ。涙の止め方がわからないから。

(アンバー……)

 胸中に友人の名を呟いてモモは沈む夕日を眺めた。マルゴー杉の林を染める眩い赤に目を細める。
 岩塩窟の周辺はごく静かなものだった。集落からは距離があるので生活音は響かない。聞こえるのは風の音と鳥のさえずり程度である。正面の林を抜ける坂道を横切るような野生動物もいなかった。
 空舞う鷹にも特に異状は知らされない。その昔、岩塩を荷車に載せるために拓かれた入口前のスペースでは短い草がそよそよ揺れるのみだった。

(そろそろ交代だったよね。寝床、一人で使えるやつかな)

 前線に立つことより休息を取ることのほうが不安とは妙な話だ。だが身体はいつでもしっかり動けるようにしておかなければならなかった。眠れないなどと泣き言を零している場合ではない。彼女の仇を討つのだから。

(ちょっと無理するくらい平気。ここまで来たら長くはかからないはずだし。全部済んだら、そしたらドブともまた話すんだ)

 腰にぶら下げた斧の柄を握って唇を引き結ぶ。
 今のところ見張りの時間は何事もなく過ぎそうだった。山深くでは暗くなるほど行動しにくくなるだろうし、今夜の敵襲はないかもしれない。そう考えてほんの少し油断はしていたのだと思う。
 モモがそれに気づいたのは隣のバジルが声を上げてからだった。目を瞠った弓兵が「え?」と肩を強張らせる。彼の視線の先を見やってモモも驚愕に息を飲んだ。

(──は?)

 一瞬思考が停止する。細い林道にはゆったりとこちらに向かって歩いてくる詩人と狐の姿があった。目のいい鷹なら見えていたはずだ。それなのに一度もなんの警告もなされなかった。

「ハイランバオ──」

 引き絞られたバジルの弓は、しかし矢を放てなかった。二人のすぐ横を歩く男がずいと前へ出てきたからだ。アークの里の村人が。

(あ、あれって鷹の世話してくれてる……!?)

 出し抜かれた。咄嗟に理解できたのはそれだけだった。
 こちらはこうも堂々と岩塩窟に出てこられるとは想定していなかったのだ。少なくとも村民と敵襲を知らせ合う程度の連携は取れるものと考えていた。
 どうする、と斧を構えつつ逡巡する。あの鷹飼いがなんなのかわからないと迂闊に攻撃もできない。脅されているのだろうか。それとも元々グルだった? 迷う間に彼らは十数歩の距離まで岩塩窟に接近した。

「……っ!」

 バジルが上方に矢を飛ばす。里で待機する誰かの目に留まるように。今ここを守るのは彼とモモの二人だけだ。応援を呼ばねばならなかった。

「うん、いい頃合いに案内してくださいましたね。この人数なら十分に凌げるでしょう。それでは最後の仕上げに入るとしましょうか」

 微笑の聖預言者は片手を上げて狐と鷹飼いに合図を送る。腰の曲刀を抜いたラオタオと、震えて鎌を手にした男がモモたちの前に立ちはだかった。
 二人を残してハイランバオスはアークのもとへ向かう気らしい。入口の鍵は既に受け取っていたようで、迷うことなく彼は歩を踏み出した。

「行かせるわけないでしょ!」

 双頭斧を閃かせ、モモは詩人に振りかぶる。足を狙った攻撃は何気ない軽い仕草でかわされた。すぐさま追撃を試みるが一瞬の間に割り込んだ狐に曲刀を向けられる。

「君の相手はこっちね、モモちゃん」

 薄笑いにぞっとした。三日月の形に歪む双眸には猛攻を踏み止まらせる何かがあった。彼は危険だ。本能的にモモは間合いを取り直す。
 ちらとバジルに目をやれば鷹飼いを前に彼は取るべき行動を決めかねているようだった。弓に矢をつがえてはいるが迷って少しも動かない。

「射て! ハイランバオスに!」

 モモの叫びにハッとバジルは聖預言者を振り返った。三重の鉄鎖は解かれ、扉は開かれ、まさに今敵は坑道へ進まんとしている。
 至近距離からの射撃だったが矢は詩人の身から逸れた。「うわっ! やめ!」と弓兵の悲鳴がこだまする。空にいた鷹たちがバジルを囲んで攻撃を妨害するのをモモは愕然と見やるしかなかった。

(昼間に飛んでた鷹と違う! じゃあこいつらジーアンの──)

 何も知らせぬはずである。いつからどこまで仕組まれていたのか考える暇もないまま斧を振るう。こちらを撫で斬ろうとしていた曲刀を受け止めると狐は楽しそうに「あは」と声を立てた。

「君、地獄より強いんだっけ? じゃあすぐやられたりしないよね?」

 しなやかに身をひねり、ラオタオが二撃目を繰り出す。革スカートを裂いた彼は遠慮など微塵もする気はなさそうだった。



 ******



 どこかで風切り音がした。矢が放たれるときのあの音を己が聞き違うはずがない。見上げれば茜空から細い影が落ちていくところだった。
 何かあったのだろうか。ヘウンバオスは林道を進む足を急がせた。間もなく交代となるバジルとモモをねぎらうのに近くまでは来ていたが、岩塩窟付近の様子までは見えない。引き返して村人たちを連れてくることも考えたが、妙に胸が騒いでそのまま坂を駆け上がった。
 少しすればどうせ夜番の者が来る。先に状況を確かめておこう。
 判断は正しかったのか、それとも誤りだったのか。高く伸びたマルゴー杉の間を抜け、深い横穴の掘られた山肌が見えてくると、もう異変は起きた後なのだと知れた。
 道の先には鷹に群がられた弓兵と一人で応戦中の斧兵。ラオタオらしき男もいる。そして岩塩窟を封じた重い木扉は片側を開け放たれていた。

「おっ、天帝陛下じゃん! 思ったより早かったね」

 こちらに目を留めた若狐が軽いステップで斧を避けつつ厭らしく笑う。彼に武器を向けている小柄な少女はヘウンバオスに気がつくと「ごめん!」と眉を歪めて詫びた。

「ハイランバオスが中に入った! 追いかけて!」

 言って彼女は激しく狐に切り込んでいく。今の間に通れということらしい。何があったのか全容は把握できずとも片割れがアークに接近中なのは明らかだ。ヘウンバオスはともかく岩塩窟に駆けた。そのときだった。

「ヘウンバオス様!」

 杉の陰から飛び出してきた男に腕を掴まれる。顔を見てすべて理解した。
 道理で後手に回ったわけだ。鷹飼いが陥落されていたのなら。

「仲間がまだ、退役兵の本体が奴らの手に」

 退役兵。ということは、これはドナで死体になった男の中身か。
 すいすいと坑道を歩けるならばおそらく接合済みなのだろう。内部の案内も終わっているに違いない。ぐずぐずしている暇はなかった。

「脅されただけか? 敵か味方か判別している時間がない。片がつくまでそこで寝ていろ」
「…………ッ!」

 下腹に拳をめり込ませ、倒れた男が動けぬように思いきり足首を踏み抜く。骨が折れたのを確認すると彼の手から鎌を取り上げ、駆け抜ける際に弓兵の手に投げた。

「あ、ありがとうございまっ」

 鋭利な嘴につつかれながらも少年は上手く受け取ったようだ。振り返らずにヘウンバオスは岩塩窟に飛び込んでいく。

「…………!」

 真っ暗闇のはずのそこには灯りのついたランタンが一つ残っていた。まるで自らの追跡者に分け与えでもするように。
 一度来たとき道は覚えた。ランタンの持ち手を掴んで歩き出す。
 果たすべき終わりに向けて。



 ******



 防戦に転じた割にラオタオの体捌きには余裕がある。わざと道を譲ったことは疑いの余地もなかった。その証拠に天帝が暗がりへ消えた途端に狐の動きが機敏になる。薄れていた彼の害意が濃度を取り戻すのを感じた。

「こんなことして無事に帰れると思ってんの? 言っとくけど、もうすぐ村の人たちだって加勢に来るからね」
「帰る? おかしなこと言うね。ここが終着点なのに」

 戦意を鈍らせようとして逆に自分が惑わされる。何を考えているのだろう。人を食った表情から読み取れるものはない。

「君のほうこそなんで俺と戦うの? 危ないってわかってるでしょ?」

 ほら、とラオタオは腕をひねり、縄鞭(じょうべん)を扱うかのごとく曲刀をしならせた。掴みづらい攻撃に翻弄される。どこでどう曲がるか知れぬ斬撃に気を取られ、受け身にばかり回ってしまう。

「……っそんなの、あんたたちがアンバーを殺したからに決まってるでしょ!」

 それでも反撃の隙を逃すことはなかった。武器を叩き折ってやろうとモモは刀身に狙い定める。力をこめても銀の刃は軽すぎる羽毛のごとくモモの前から逃れていったが。

「あはははは! 見てもないのに自信たっぷりなんだねえ?」

 少し開いた間合いの先で愉快そうに狐が笑う。「モモちゃんはさ」と親しげに名前を呼ばれ、ぞくりと背筋が粟立った。この男は一体誰に化けているつもりなのだろう。場にも彼にも不釣り合いな優しい声で諭される。

「ダレエンとウァーリが殺ったとは考えないの? 俺たちが逃げおおせたのはアンバーがこっちの味方でいてくれたからなんだよ?」

 は、と喉が浅く短い息を吐いた。怒りのあまり指が震える。そんな嘘八百で言い逃れできると思っているのか。
 アンバーは考えなしに動く女ではない。テイアンスアンから二人で下山した詩人たちを怪しんだはずである。協力関係にあるからとすぐに力を貸すような真似はしなかった。モモにはそう確信できた。

「そんなわけ……」

 だが狐はあっさりとその信頼を否定する。

「だからさあ、手足みたいに使ってたわけ。有能だったし、脅せばなんだって聞いたからね。言っとくけど宿営地に火をつけたのあの女だよ? 俺が息子になんかするかもってずっとビビってたからさあ」

 瞬時に冷たくなった声に再び呼吸が停止した。白く染まった脳内を「は?」と疑問符が駆け巡る。
 脅されていた? アンバーがずっと?
 思わず飲んだ唾の音が喉元でいやに大きく響く。あの火事のとき彼女だけが一度も現場に来なかったことが脳裏をよぎった。
 本当に? 本当にアンバーが二人を逃がす手伝いをしたのか?

「あー、やっぱ知らなかったんだ。まあ普通教えないよねえ。いつまた寝返ることになるかわかんなかったわけだしねえ」

 暮れゆく空は影をより濃いものにした。可哀想、と狐の口角が吊り上がる。何か考えるよりも先にモモはその場を飛びのいていた。
 眼前を横払いの刃が空振りする。「ありゃ」とラオタオが瞬きした。

「動揺してたのに反応いいじゃん」

 楽しげな声とともに連続で打ち込まれる。ラオタオは決して俊足の部類ではなかったが、踏み込みも腕の振りも緩急自在でやたらに身体が柔らかかった。思った以上に手首が返る。どんな傾いた姿勢からでも攻撃を繰り出してくる。かわしたはずの切っ先は腕や脚を滑っていった。

「ッあんたたちがアンバーを脅してたなら……! 余計許せるわけないでしょ……!」

 細かな傷には構いもせずに敵の懐へと突っ込む。当てさえすれば重量のある斧のほうが深いダメージを与えられる。肉などいくら切らせてもいいから骨を断ってしまいたかった。こういうタイプは動きを止めれば怖くない。──怖くない、はずだった。

「君って案外薄情だよね」

 蔑む声と眼差しに強く注意を奪われる。いけない。これは当たらない。危険を察して横に跳んだ。
 だがなぜか追ってくると思った刃はモモを追いかけようとしない。ラオタオは完全に足を止め、曲刀の先を下げたまま冷淡にこちらを見据えた。

「ほんとに俺を殺しちゃっていいの? 俺が死んだらアンバーの記憶は永久にこの世界のどこからも失われるんだよ?」

 どうしたら──。どうしたらそんな酷薄な微笑を浮かべられるのだろう。
 聞いた瞬間硬直した。全身を巡る血潮ごと凍りついた。何を言われても耳を貸す気などなかったのに。
 狐は続ける。くつくつと笑いながら。

「ドブ君てわかる? アンバーの一人息子。サール宮で会ったんだ。ちょっと優しくしただけで真っ赤になっちゃって可愛かったなあ」

 動けなかった。動けなくなった。聞くほどに膝が震えて。
 この男は知っているのだ。己と出会う前のアンバーを。彼女がどんな人生を歩み、何を大切にしてきたかを。己にはもはや知りようもないこと全部。
 指先から力が抜ける。斧を取り落としそうになる。
 倒さねばならぬ仇なのに。こいつらがアンバーを殺したのに。

「あっと言う間に懐いてくれたよ。俺が死んだらあの子一人ぼっちになるね? それでも俺を殺したいの?」

 ねえモモちゃん、と問う声は友人のそれに酷似していた。これは狐だ。本物じゃない。言い聞かせても力は戻ってこなかった。
 彼女のやり残したことを、記憶もなしに自分が代わってやれるのか。疑念が勇気をしぼませる。だがラオタオは倒さなくては。彼は主君の敵であり、己は部隊の兵なのだから。

「決まってるでしょ……!」

 無理やり斧の柄を握る。腰を落とし、勢いをつけ、体重移動を利用して加速した刃を振り上げた。──だが。

「あはは! 迷っちゃダメじゃん。殺すのに」

 無意識に小振りになった一撃は軽々とかわされた。胸を反らし、斜めに身を捻るラオタオは右に手にしていた曲刀を左側から閃かせる。背後で持ち替えたのだ。気づいたときにはもう遅かった。
 がら空きの胴を庇う前に鋭い一閃が放たれる。最初に切られたスカートの、隙間に入り込むようにして曲刀は腿から下腹を抉った。



 ******



 ようやく鷹を仕留め終わり、バジルはぜいぜい肩を揺らした。一、二、三と転がる猛禽の数を数える。もうこれ以上はいないよなと。
 嘴で上腕をつつかれ、爪で頭を引っかかれ、どこもかしこも血塗れだったが手当てをしている暇はなかった。早くモモに助太刀せねばと少し離れた戦場を見やる。
 さっきアンバーの名が聞こえた。妙な揺さぶりをかけられていないか心配だ。

(えっ!? 押されてる!?)

 戦況把握は一瞬で済んだ。まるで鉛を背負ったようにモモの動きが鈍かったからだ。──あの攻撃は避けられる。断じたときには手は鎌を捨て、弓に矢をつがえていた。
 速射する。モモに斬りかかろうとする狐の注意を逸らすために。顔の真横を飛んでいった矢に驚いて彼は半歩ほど後ずさりした。

「あっぶな! モモちゃんに当たったらどうすんの!?」

 怯ませて弓矢の使用を封じるつもりかラオタオは「手元狂っても知らないよ?」とわざとらしく肩をすくめる。だが脅しを聞きはしなかった。モモなら多少危ないくらい気にするなと言うに違いないのである。──それに。

「当てるはずないでしょう……!」

 ちらと覗いた小柄な身体は縮こまりうずくまっている。風に混じるのは血の臭い。防ぎきれなかったのだ。唇を噛み、バジルは腰の矢筒から一気に三本の矢を抜いた。
 飛距離を出す必要はない。大事なのは速度とコントロールのみだ。冷静さを保てればどちらも簡単なことだった。

「僕はアンバーさんからモモのこと頼まれてるんです……!」

 厳密には異なるけれど今はそんな些末な問題はどうでもいい。少しでもモモの力になれる言葉を届けたかった。
 もういない人の想いも消えずに残っているのだと。形を変えてずっと支えてくれるのだと。

「モモに何言ったか知りませんが、死んだ人の名前出すなんて卑怯ですよ!」

 ぐっと弦を引き絞り、息つく間もなく一射目、二射目、三射目を放つ。狐は地面に転がり避け、三射目は武器で弾き返した。遠ざけた隙にモモのもとへと駆け急ぐ。脳髄液の瓶を出し、彼女の傷口に振りかけた。

「……ごめん、ありがと」

 渋面を上げ、モモも自分の小瓶を開ける。中身は即刻飲み干された。相当な深手だったらしい。立ち上がるとき彼女は前後にふらついていた。
 だがその瞳に宿る闘志はいつものモモのものである。強くきっぱりした声が闇を増す戦場に響いた。

「モモどうかしてた。あんな奴の話に惑わされるなんて」

 怒りのすべてを力に変えて彼女は双頭斧を構える。己も最後の矢を手にした。ラオタオにはわかるまい。並んだ二人のどちらが先に仕掛けるか。
 半身で曲刀を握る狐は笑ってはいなかった。ただ見ている。どちらが来ても対応を誤らぬように。

「アンバーは、あんたなんかに大事な人を任せたりしない!」

 モモが駆け出た。同時にバジルも弓を引く。彼女が斧を振りかぶる瞬間矢が死角から飛び出すように。だがまだきっと不十分だ。射撃を終えると全速力で近くに転がる矢を拾い、それもすぐさま狐に向けた。

「おっと危ない」

 思った通りラオタオはひらりと舞って同時攻撃をかわしていた。その勢いを上手く乗せて彼は斜めに斬り下ろす。瞬間、バジルの視界に得物を持たぬ狐の肩が開いた状態で映り込んだ。

(今だ……!)

 射た矢はまっすぐ鎖骨の下を貫いた。衝撃でラオタオの曲刀の軌道が逸れる。懐ぎりぎりに潜り込んだ、今度はモモが斧を振り抜く番だった。

「あーあ。元気になるの早すぎない?」

 重心が端にある斧は遠心力を乗せやすい。剣や槍より破壊力を引き出せる。薪割りで持ち慣れているし、モモの武器としていいんじゃないかと勧めたのは己である。
 才能は開花した。称賛が追いつかぬほどに。今その美しい一撃が狐の脇腹を襲った。

「まあいっか。ここまで十分楽しめたしね」

 血飛沫が、道を、草を、赤黒く汚す。どさりと大きな音を立ててラオタオは血溜まりに横たわった。
 真っ先に曲刀が蹴り飛ばされる。狐が手に取れないほど遠く。それからモモが倒れた彼に近づいた。おそらくとどめを刺すために。

「……なんで笑ってんの?」

 彼女が問いを投げたとき、バジルも隣に駆けつけた。臓物を破られて瀕死のはずのラオタオは痛みを感じていないかのごとく口元をニヤつかせている。
 正直言って不気味だった。罠ではないかと疑うほど。危惧したようなことは一切起きなかったが。

「だってハイちゃんの願い事はもうどうしたって叶うもん」

 それは喜ばしいでしょとラオタオがおどける間も鮮血は流れ続けた。勝利を確信した哄笑は実に満足そうである。

「どういう意味?」

 まともに答える気はないらしい。疑問に対し、狐は「ふふふ」と抉れた腹をよじらせる。

「叶うんだよ。どうやってもね。あはははははは!」

 ぷつりと糸が断たれたように狐はそこで事切れた。先程までうるさいくらいだったのにもうなんの言葉も吐かない。お喋り(ラオタオ)と名付けられた男なのに。
 しばらく待つと笑ったままの死に顔の右目から袋型の蟲が這い出してきた。半透明のそれは涙を思わせる。彼にはまったくそぐわなかったが。

「……行こう。村の人たち呼んできて、モモたちも大急ぎでアークのところへ向かわなきゃ」

 摘まんだ蟲をぷちりと潰し、モモはスカートで手を拭った。「ほら、バジルも拭きなよ」とハンカチを渡される。
 そう言えばあちこちから血が垂れているのだった。ありがたく拝借し、鷹の痛撃の痕をいたわる。

「……ありがとね。助かった」

 感謝の言葉は肩越しに受け取った。里のほうへと駆け出しながら、ああ、と思う。
 ここにいてもいいのだと思えることを重ねていこう。それがきっと己のためにも彼女のためにも皆のためにもなっていく。
 そうしてどうにか続けていくのだ。
 不恰好でも。一歩ずつ。



 ******



 記憶は常に己が与える側だった。真の意味で誰かとそれを分かち合ったのは千年生きてきて初めてだ。
 こんな風だったのか。聞いて想像していたものと同じようで異なる事象に心は大いに戸惑った。
 歌物語を愛でるより近しく、遠く、重なったかと思えば離れ、次第にそれはそれ自身の輪郭を露わにする。喜びも悲しみも引かれた線の向こう側だ。まだ自我の育たぬうちは己のものと勘違いするかもしれないが。
 生まれ落ちた瞬間から一歩ずつ遠ざかったのだろう。あれと私は。──否、初めから同じだったことなどなかったに違いない。胸の深くに有していたのは別々の核だったのだから。
 根だと思っていたものは蔓だった。我々は同じ樹の別の枝ですらなかった。
 だからお前を理解できない。
 あんなに大切だったのに。

「おいでになられたのですね」

 青く淡い、波打つような光を纏う巨石の前に着くと同時、片割れが呟いた。こちらに背中を向けたまま彼はクリスタル表面に掌を張りつかせている。
 浮かび上がっている文字は相変わらずほとんど読めなかった。パトリア語を完全習得した今でも。だが彼がろくでもないことをしているのはひと目見れば明らかだった。

「やめろ。アークから離れろ」

 命じるがハイランバオスは手を止めない。あちらに触れてこちらに触れてを繰り返す。言うことを聞かぬならと抜刀してみせてようやく彼はヘウンバオスを振り返った。

「申し訳ありません。まだ機能を使いこなせていないのです。さすがにアーク中枢部には簡単に至れなくて……」

 日常生活の小問題を詫びるように片割れは段取りの悪さを詫びる。うーんと真剣な唸り声が薄青く照らされた暗闇の中に響いた。
 長い指がいくつかの文字をなぞる。光る文字が溶けて崩れて変形する。彼はその残骸を繋ぎ合わせ、熟考しつつ並べ替えた。

「せめてもう一段階解除できれば──あ、なるほど! こうですね!」

 明るく弾んだ声と同時、穴ぐらの景色が塗り替わった。
 音もなく緑が侵食する。テイアンスアンでコナーが見せた幻と同じように。
 視界いっぱいに広がる草原。再現された草の匂いに眩暈がした。見上げれば空は青。天井などないかのごとく明るく晴れ渡っている。遠く流れてきた風がざあと吹き抜けた。どこまでも果てなく続いて見える大地を。

「やはりあなたとお話するにはこれくらいできないとですからね」

 偽物の情景だ。知ってはいても感覚は騙された。
 気がつけば目線の高さまで変わっている。ウヤはもう少し背が低かったはずなのに、今は正面に立つ男とまっすぐ目が合っていた。
 服装も着ていた立襟装束と違っている。縁取りされた白の聖衣に右前開きの革カフタン。金髪頭が戴くのは高位の者であることを示す宝飾つきの高帽子。馴染んだ君主の衣装だった。

「ウヤの姿よりそちらのほうがあなたらしくて私は好きです」

 水に浸した腕が曲がって映るように、瞳がガラスを認識できなくなるように、片割れもそこにある風景を別の何かに見せかける術を得たらしい。
 天の帝と聖なる預言者。双子の姿で対峙した。彼にはこれが一番気に入りの器だったのだろう。肉体を決めたときも「光栄です」とはしゃいでいた。兄弟を名乗れるなんて初めてですねと。

「まあ見た目がなんでもあなた自身の素晴らしさに変わりありませんけれど。思い出話をするのなら相応しいやり方でしょう?」

 にこやかに弟は微笑む。目まぐるしく様々に風貌を変化させながら。
 それはディランであったりスーであったりほかの彼であったりした。いつの時代も傍らに当たり前に存在した。

「やはり記憶は刺激を受けて想起されるものですから」

 最後に彼はあの書記官の姿を取る。黒髪の、さも貧弱げな。対するこちらはゾンシン国の老いた将軍ジリュウにまで戻されていた。
 豊かな緑は枯れきって、塩の噴き出た酷暑の砂漠が一帯を取り囲む。そこに一つだけ不自然に輝く石柱が立っていた。レンムレン湖の成れの果て。最後の水溜まりがあった場所に。

「あなたはお優しい方ですね」

 ハイランバオスは眩しげに目を細める。いつも、いつも、彼は同じ眼差しでこちらを見つめる。慕わしさなど言葉にせずとも伝わった。ただそれが、己の思う慕わしさとは甚だ違っていただけだ。

「今すぐ私を殺めればいいのにそうなさらないのはなぜですか? もしやまだお迷いです? 私を諦めきれないと?」

 問いには答えられなかった。答えてはいけなかった。
 なす術もなく沈黙する。できるのは別の要求を告げることだけだった。

「……手を下ろせ。いいからアークから離れろ……」

 片割れの掌はなお聖櫃との接触をやめない。そのうち浮かぶのは文字だけでなく複雑怪奇な図になった。それにどんな意味があるかまでヘウンバオスにはわからない。だが放置してはまずいのだろう。警告灯を発するようにアークは激しく明滅した。

「殺して止めればいいのです。早くしないともう中枢に到達してしまいますよ? 管理者権限さえ手に入れば簡単に聖櫃の全機能を停止させられること、もちろんご存知なのでしょう?」

 右の手に力をこめる。先程抜いた曲刀はまだ持っていた。ジリュウの腰にはなかったはずの代物だが柄を握る感覚もある。
 ハイランバオスはまたもこちらに背を向けた。虚空に浮かべた文字と記号を追いかけて片割れは細い指を舞わせている。隙だらけだ。一撃で殺せる確信を持てるほど。それでもヘウンバオスには武器を構えもできなかった。

「どうなさったのです? 我が君よ」

 問う声は優しげだ。官服の詩人は頭だけこちらを振り返る。防御は放棄したままで彼は穏やかに語りかけた。

「私はあなたに何もしません。アークを破壊できる段階に至ったら破壊する。それだけです。あなたはあなたの思うままになさってください。私を殺すも、アークが死ぬのを見届けるも」

 微笑は落ち着いたものだった。頬を薔薇色に上気させるのとはまた別の昂揚が祝福の時を迎えた瞳に満ち満ちている。

「私の詩は既に完成を約束されておりますから」

 歌うように詩人は告げた。この形勢を整えられた時点で望みは叶ったも同然だったのだと。

「……どういう意味だ」

 日射が、熱砂が、老将の身を焦がす。塩を散らして滅びの風が吹き荒ぶ。
 低く抑えた声の問いに片割れはにこやかに頬を緩ませた。

「アークが死ねばあなたの夢は叶わない。私が死ねばあなたの心は埋まらない。どちらにしてもあなたは絶望に至るのです。そうでしょう?」

 息を飲む。返す言葉を失ってヘウンバオスは立ち尽くした。
 その通りだった。詩人の預言は正しかった。空虚を抱える覚悟を決めてここまでやって来たくせに、己は彼を殺したくなかった。
 蟲たちの父としての己がではない。一人で歩み、一人で戦い、一人で故郷の死に直面した孤独な己(ヨルク)がまだ半身を求めているのだ。千年信じてきた希望を。

「今ここに、私の記憶の複製を保存しています。私が死んでも私の紡いだ詩は永久に残るでしょう。逆にアークの破壊に成功した際は隠居でもして長大な書を手がけなければなりませんね。私はどちらでも構いません。私たちの結末はあなたがお決めになってください」

 青い光を帯びた目が伏せられる。彼はもうヘウンバオスを一瞥もしなかった。
 絶望の淵で膝をつく背中が見たい。そう言ったのはお前なのにどうして私を見ないのだ。それともアークを通じてなら今の私の無様な姿も覗けるのか。
 汗が伝う。歯を食いしばる。
 ──殺さなければ。
 言い聞かせてきた言葉をもう一度繰り返した。
 湿った手から曲刀が落ちないように持ち直す。ざくり、ざくり、塩の結晶を踏みつけて彼に近づいた。
 砂漠を照らす太陽の光が強い。クリスタルの操作を続ける書記官の後ろ姿に細い刃の影が落ちた。ああ次は早く振り下ろさなければ。

「うふふ」

 と、片割れが笑い出す。背を向けたまま彼は昔話を始めた。

「覚えていますか? 初めの百年はずっと二人きりでしたね。行商人に紛れてあちこち行きました。どこも知らない土地ばかりで、生活するにも毎日苦労が絶えませんでしたねえ」

 持ち上げた手が震える。ハイランバオスは舌を止めない。馬を並べて、焚火を囲んで、泉のほとりで、星を見上げ、さんざん交わした談笑の延長のように喋り続ける。

「新しい器を探すのも大変でした。都合のいい死体などそう手に入るものではありませんでしたし。百年経ってダレエンたちが生まれたときも、どうしても人間が一体しか用意できずに狼の溺死体に入れてみたのでしたよね」

 言葉とともに思い出が甦る。もう戻らない、騒がしかったあの日々が。
 孤独を感じなくなったのは彼が寄り添ってくれていたからだ。故郷を失ってなお今日まで歩き続けられたのは。
 己の影を断ち切れる生者がはたしてどこにいよう? 生きながら魂の欠けた存在にでもならなければそんなことは不可能だ。
 私の湖。ずっとお前に隣にいてほしかったのに。

「ああ。間に合いましたね。もう少し引き延ばせれば管理者画面に入れたので……が…………」

 書記官が倒れた瞬間、周囲は暗闇に戻った。灯りは転がったランタンだけ。拾い上げて見渡せばアークの側に横たわる骸が映る。
 心臓をひと突きにされた片割れは聖預言者の姿に戻って眠っていた。か細い光で弟を照らしつつ傍らに膝をつく。
 地面を流れる血は己にも染み込んだ。温かだったはずのそれは既に冷たく、更に温度を失っていく。
 待っていたものは間もなく瞼の隙間から現れた。かつて己から零れた半身。半透明の小さな蟲。
 見下ろした。何もしないでただじっと。小瓶に収めることもせず。
 見つめていた。無言のまま。
 愛したものが灰になるまで。

(お前もあの水溜まりと同じに消えてしまうのか)

 答えるものは何もない。
 静かで、静かで、やりきれない。



 ******



 目覚めるとすっかり夜が更けていた。最初に己の身体が誰か確かめる。手はグローブをはめていて、長いスカートも履いていない。色は判別つけにくいが髪は短く、濃い青か紺のように思えた。

「……ブルーノが戻ってきたのか?」

 心配そうに覗き込んでくる赤髪の騎士に問う。森の中にいるらしい。大樹の根に委ねられていた身をルディアはゆっくり起き上がらせた。アルフレッドは頷いて彼の小瓶を見せてくる。

「今はここに。アークの里へ戻るならあなたが動けたほうがいいと」

 見回しても近辺には騎士の姿しかなかった。ほかには栗毛の馬が一頭伏せて休んでいるのみだ。鬱蒼とした茂みの向こう、浮かぶ古城のシルエットは無残に崩れ、一部はまだ赤々と燃えている。

「……説明してくれ。何がどうしてこうなった」

 求めれば報告は簡潔に行われた。城の炎上はハイランバオスが謀ったことで、護衛のマルゴー兵もろとも焼き殺そうとしたのだと言われる。アルフレッドは窓から森に降りる脱出口を作り、ルディアや上階に逃げてきた兵を助けたそうだ。元グレッグ傭兵団の兵士たちには騒いだりサールへ戻ったりせずに今夜は森に隠れていろと伝えてあるとの話である。

「彼らの救出に手間取ってな。すまない、起こすのが遅くなった」

 謝罪の後、騎士はブルーノから伝え聞いた宮殿での顛末を語った。チャドとグレッグが命懸けで剣士を逃がしてくれたこと。王子が刃を向けたのは古王国の姫だったこと。
「そうか」とルディアは腕を組む。肩の震えを誤魔化すために。
 もう一つ確かめなければならなかった。どうしても。

「……レイモンドは?」

 それまで平静に話をしていたアルフレッドが口をつぐんだ。小さく首を横に振られる。言葉にできないと言うように。
 もう彼はいないのだ。理解するには十分だった。

「わかった。アークの里へ向かおう。暗いが朝まで待っていられん」

 古城を封鎖したマルゴー兵はどうしたと聞けば「しばらくしたら引き揚げた。道中狩られる心配はないと思う」とのことだった。チャドがパトリシアに手をかけたうえブルーノに逃げきられたから、公爵は古王国とジーアンのどちらになびくかまた悩み出したのだろう。なら後の処理は簡単だ。マルゴーが本当に頼れる国は一つに絞られたのだから。
 栗毛の馬に起きてもらう。鞍の数は足りなかったが二人乗りして隠れ里へと走り出した。暗い、暗い、夜の道を。

「疲れただろう。着くまで肩でも背中でも貸すぞ」

 手綱を握った騎士が言う。申し出に首を振り、馬上から遠のいていく古城を見つめた。ここへ来たとき墓標のようだと思ったそれを。

(レイモンド……)

 どうしてもっと早く話さなかったのだろう。
 怖がらなくて良かったのに。二人できっと優しい答えを出せたのに。



 隠れ里ではバジルとモモと疲れた顔のヘウンバオスが待っていた。
「全部終わった。アークは無事だ」と告げられて、詩人と狐に引き合わされる。目を閉じた二人は静かなものだった。唇は歌うこともない。
 諸々の確認と相談で一晩はあっと言う間に過ぎ去った。
 時計の針は回り続ける。悲しむ心を置き去りに。



 ******



 はあ、はあ、と己の吐き出す息がうるさい。レイピアを杖代わりにして坂道を登っていくが、手にも足にももうほとんど力は入っていなかった。
 ブルーノは上手くやっただろうか。仲間は逃げられただろうか。
 確かめる術もない。グロリアスに向かった兵は別の兵の一団とサール方面へ戻っていくのを見たけれど。
 剣士を追うのを優先したか、一抹の情か、追手はグレッグにとどめを刺さずにいてくれた。だがこの深手では長くもつとも思えない。せめてグロリアスに辿り着ければいいのだが。皆の無事さえ目にできれば。
 崖沿いの古道をよたよた進んでいく。里は遠いなと息切れしながら。
 これは着かない。わかっていた。
 歩むたびに背中に走る激痛が騒ぐ。お前は血を流しすぎた。間もなく迎えが来るだろうと。
 それでも歩むのをやめなかった。したいことも、できることも、ほかには何もなかったから。

(ルースが死んだのもこの辺りだったなあ)

 相棒だった男の顔を思い出す。お気楽そうで、適当で、いつも女の話ばかりして笑っていた。どういう気持ちであいつは死んでいったのだろう。
 いやな国で、いやな仕事をさせてしまった。きっともっと向いていることがあったのに。
 チャドも最後はやりたいようにやれたのだろうか。負わなくていい責任など放り出して。

(何も知らなかった頃はいい国だって思えたのに……)

 だんだん視界がぼやけてくる。夜のせいだけでなく暗い。月明かりまで雲に奪われたようだった。
 闇に飲まれて道が見えない。こんなでは谷に転落しそうである。
 しかし足は止めなかった。もはや己がまっすぐ歩けているかどうかも不確かだったが。

(まあ、けど、青くなったティルダの顔は見ものだったな)

 お前も胸がすくだろ、ルース。
 口角を上げて呼びかける。
 公爵だってこれからは自分の身を切らねばならない。少しずつ変わっていくはずだ。こんなどうしようもない国でも。

(王子がなんとか生き延びて、幸せになってくれるといいな……)

 誠実に過ぎる友人のために小さく祈る。
 目指す古城も、夜の終わりも、まだ途方もなく遠かった。
 瞳を閉じたら最後だろう。悟っていたが抗えなくて瞼が下がる。
 血潮は既に指先まで巡ってはいなかった。
 どさ、と軽い音と衝撃。あとは暗闇。
 背中の痛みが薄れていく。
 それが消えたらもう何も残らなかった。



 ******



 一睡もできないままに迎えた朝。ティボルト・ドムス・ドゥクス・マルゴーは倒れ込むように謁見の間の席に座した。
 ぐるぐると目が回る。思考が回る。
 これからどうすればいいのだろう。こうまで進退窮まった状態で。
 パトリシアは昨日のうちに古王国へと帰ってしまった。小娘一人どうとでも言いくるめられると思ったのに存外に強情で。チャドに武器を向けられた話は聖王の耳に入るだろう。本格的な反逆だと見なされるに違いない。
 ジーアンの使者のほうも完全に打つ手を間違えた。剣士がグロリアスの里に至る前に口封じできていれば事故と言い張れたかもしれないが、今はもう誰が生き残ったかも、どの情報が誰にどう伝わったかもわからない。
 まだ帝国に縋る道は残されているだろうか。公爵家を存続させる方法は。

「ティボルト様、ジーアンの使者殿がお越しです」

 判決を待つ罪人の気分でティボルトは開門と案内を指示する。生きていたかとほっとした反面、どこまで裏を知られたと不安で不安で仕方なかった。
 そうしてマルゴーの命運定まる時が来る。
 謁見の間に現れた一行と、ぞろぞろと連れ立ってきた護衛兵の顔ぶれを見てティボルトは心臓を止めるところだった。グロリアスの古城へやった元傭兵の半数以上が並んだのだから当然だ。剣士ブルーノも使者のすぐ横についており、しばらく顔も上げられなかった。

「申し開きしたいことはあるか?」

 流暢なパトリア語で黒髪の使者が問う。言い訳せねばと焦ったがどう繕えばほころびをなかったことにできるのかはついぞ思いつかなかった。
 冷たい視線が突き刺さる。いくつもの、これまで見捨ててきた者たちの。

「ないならこちらから話すぞ。ハイランバオスとラオタオはグロリアスの里で見つけた。既に始末は完了している」

 聞いた瞬間悟ったのは「もう古王国との関係は終わりだ」ということだった。姫に手を出し、預けられた使者まで死なせたとあっては銀山を守りようもない。
 だがだからと言ってジーアンへの尻尾の振り方もわからなかった。こちらが古城もろとも使者団を葬ろうとしたことは歴然としているのだ。だからそう、続いた使者の言葉は信じがたいものだった。

「予定通り同盟を締結してやろう。調印の準備をしろ」
「なっ、え……っ!?」

 驚きすぎて腰が抜ける。休戦協定ではなくて軍事同盟を結んでくれるつもりなのか? 裏切り者の討伐という大目的は果たしたのに?

「な、な、なぜそんな……」

 理解できなくて思わず使者に尋ねていた。ジーアンがマルゴーのしたことを許してくれるはずないのである。それなのにどうして古城での一件を口にさえしないのか、まったく腹が読めなかった。

「友好の証としてそのうち息女をジーアンに招待する。……言っている意味はわかるな?」

 は、とティボルトは息を飲んだ。やっと少し使者の考えが掴めてきて。
 古王国が求めてきたのと同じことをジーアンも要求しようというのである。東方では妻を何人も娶るのが珍しくないと聞く。ティルダを天帝に、あるいはほかの将軍に輿入れさせろと言っているのだ。

「あ、あの、そ、それは……」
「無理強いする気は更々ない。視察の後に利があると判断すれば受け入れよ。それにこちらは息子のほうでも構わないのだ。射撃が得意らしいしな」

 どこにいると問われて「今は独房に」とたじろぎながら返答する。鋭い瞳をこちらに向けて使者は「出してやれ」と命じた。

「通訳を救ってくれた恩人だ。王子に免じて古城の件は一旦捨て置いてやる。代わりに今後ジーアンとの交渉は彼に代表を務めさせろ」

 断れるはずもなくぶんぶんと縦に頭を振り続ける。
 繋がった。首の皮一枚。ぎりぎりで。

「ついでに銀山の運営も王子に見直させるといい」

 使者の用事は済んだらしい。同盟締結の調印が終わると彼らは長居せず宮殿を立ち去った。「残しておけぬ」と護衛兵らも引き連れて。
 嵐は過ぎてくれたのだろうか。わからない。だがもうジーアンに従う以外にどうしようもない。
 くたびれ果てて椅子に沈む。あまりに力が抜けすぎて、このまま二度と起き上がれそうになかった。



 ******



 蛍が一匹飛んでいく。瓦礫で埋まった空堀の中をいそいそと。

「おい、こら、イーグレット」

 どこへ寄り道しているのだと呼びかけた。こちらはアークの隠れ里とやらへ急ぎたいのに。
 ブルーノの話を聞いてアクアレイアはすぐに発ったが遅れに遅れた到着なのは否めない。とっくに全部終わった後かもしれなかった。ともかく早く行ってこの目で確認せねば。

「イーグレット。聞いているのか?」

 カロは友人を追いかけて山城だったらしき建物へ足を向ける。胸壁は焦げ、塔は崩れ、全体は一階部分に沈み込み、近づくのも危険そうだ。だというのにイーグレットは常ならぬ速度で飛び回った。早くしてくれと呼びつけるようにちかちかと光を放って。

「なんだ? 何か埋まっているのか?」

 空堀の底にやっては来たが、いつ崩落を始めるかわからない古城を見上げて二の足を踏む。これ以上は何かあったら逃げ遅れる。見れば彼にもわかるはずだが友人はとある一箇所で旋回するのをやめなかった。
 瓦解した塔の根元。イーグレットはぐるぐる飛んで必死にここだと訴える。

「……はあ……」

 根負けしてカロは友人のもとへ参じた。平衡危うい瓦礫の山をそろそろと、天性の感覚だけで進んでいく。
 小山を登ると概ねそこが地階と一階の間くらいの高さだと知れた。折れた塔の先端がもう少し角度を変えて落ちていたら本当に近づけなかったろう。

「おい、まさか掘れと言うんじゃないよな?」

 そのまさからしい。イーグレットは積もる瓦礫の隙間に出たり入ったりして正確な位置を示した。生き埋めになったらどうしてくれると毒づきつつお望み通りに細かい石をどけてやる。人体らしき部位が出たのはそのときだった。

「……!?」

 身を反らして瞠目する。中途半端に閉じられた白い手はどこかで見たような小さな牙を握っていた。おそるおそる手首に触れればまだ温かい。どうやら脈もありそうだ。

「いや、だがこれはもう死ぬところなんじゃないか……?」

 頭上の蛍に呟くが彼は納得してくれない。怒ったような高速でカロの周囲を飛び回る。

「わかった、わかった。俺が悪かった」

 潰さぬように慎重に、動かせそうな残骸を一つ一つ取り払った。すると手の主は螺旋階段の段差にできた小空間に上手く潜り込んでいるが知れる。
 これなら引っ張り出せるだろうか。力をこめ、しかし足場が崩れないように注意して腕をこちらに寄せた。そうして徐々に暗い穴から金髪が覗いてくると友人が大慌てだった理由も知れた。

「こいつか……」

 どうやら多少の無理をしてでも助けなければならないようだ。「たった一人」の誰かを見つけられるまで友の代わりに支えてやる。約束したのは己である。あの女にこの男が欠けていてはイーグレットに応えられたと言えないだろう。

「冥府に行くにはまだ早いぞ……!」

 腕を突っ込み、足を踏ん張り、大きな図体を地上へ戻す作業を続ける。誰か手伝ってくれないかと淡い期待を抱いて付近を見渡すも、地元の者は寄りつきたがらぬ城なのか人の気配はないままだった。
 仕方なく孤軍奮闘する。弱まっていく脈拍に焦らされながら。
 側では蛍がいつまでも心配そうに見守っていた。



 ******



 大きな問題はこれでほぼ片付いたのだろう。チャドとパトリシアの結婚話がお流れとなり、使者(ハイランバオス)たちを殺された古王国は「国土没収の言い訳は立った」とばかりに挙兵したが、マルゴーとジーアン間で結ばれた同盟について知るや即時解散したそうだった。
 まさか古王国の貴族たちも帝国がマルゴーに味方するとは考えていなかったに違いない。聖王が「アクアレイア救援軍」などと称して戦力を集めたことも大きな悔いとなったようだ。ジーアンに「我らの領土を踏み荒らす気か?」と問われれば弁明不可能だったから。
 過去パトリア古王国はアクアレイア包囲網を敷く手伝いをする代わりに天帝と不可侵条約を交わしている。だがそれはジーアンに敵対しないという前提を守ったうえでの約束だった。
 こうなってはいつ騎馬軍が古王国に攻め込んでもおかしくはない。マルゴーに手を出す隙がないばかりか、暗君とその取り巻きはいつ聖都が荒らされるか震えて眠る側になったのだ。アクアレイア海軍の再編が進めば更に彼らの安眠は遠のくに違いなかった。

「西パトリアの平定は任せろ」

 そう言って天帝の器に戻ったヘウンバオスは去っていった。しばらく忙しくしていたい、と零した彼の胸中はルディアにも推し量れる。頭と身体が動いていれば悲しみは置いておけるのだ。癒しも忘れもできずとも。
 バオス教の聖預言者は身体ごと代替わりさせ、別の蟲に務めさせるとのことだった。欠けてしまった十将も新たに選定し直したそうである。ヘウンバオスは数年以内にパトリア全域を傘下に収めると宣言した。手始めに小国の相争う北パトリア内陸部から篭絡すると。

「乱暴にやるつもりはない。うっかり有望な人材を殺してしまうと困るしな。アークのためにも少しは平和主義になろう」

 最後の台詞を思い返す。彼の手腕なら緩やかな広域支配はきっと実現できるだろう。ジーアンが勢力を広げれば同盟を結んだ地と地の往来も活発になる。道を整備し、遥か遠い街からも頭脳を結集できるようになればレンムレン湖のアーク復活に一歩近づけるはずだ。

「──とまあ、そんな感じだ」

 事の経緯を語り終えるとルディアは初老のガラス工に目をやった。
 ドナ経由でアクアレイアに帰還した防衛隊は、何はなくともモリスの暮らす孤島のガラス工房へ向かった。彼にはずっと心配かけ通しだったから。
 無事に戻った一人息子と部隊の面々、アイリーンを順に見渡してガラス工は小さく頷く。「本当に大変だったのう」とのねぎらいがありがたかった。
 人数が足りないことには彼も勘付いているはずだ。だが何も追及されない。五体満足に戻った者がこれだけいるということに老人は喜んでくれていた。

「一時はどうなることかと思ったが、天帝が味方についてくれたなら怖いものはなさそうじゃな」

 こくりと頷く。アクアレイアが帝国自由都市となる日も近いだろう。高率な関税が撤廃されれば商人たちも勢いを盛り返す。交易都市のあるべき姿が甦るだけでなく東の果てまで出向く大商人も現れるかもしれない。そうしたら次は帝国自由都市のまま更なる発展を目指すか、領土を買って再独立を達成するか情勢を鑑みつつ考えよう。この海の都をいつまでも守り続けられるように。

「そう言えばパーキンはどうしたんじゃ? ドナを回って帰ってきたなら一緒かと思っておったが」
「ああ、あいつはバオゾへやったんだ。天帝が活版印刷機を欲しがってな」

 忘れていたと補足する。アクアレイアに住まう者ならあのモミアゲの動向は聞いておきたいところだろう。後で十人委員会にも報告をしておかなければ。帝国幹部と強いパイプができたことも併せて伝えれば老人たちも安堵するはずである。事によっては防衛隊の再結成もあるかもしれない。

「ジーアンで三号店を開いてもらうよ。もちろん衛兵の見張りつきで。問題を起こしたらまた別の街に移す。十年もあれば印刷技術は大陸中に相当広まるのではないか?」
「ふむ、なるほど。まあそれがいいかもしれんのう。こっちの印刷工房も別に困ってはおらんようじゃし。レイモンド君も随分しっかりしたからのう」

 恋人の名前にルディアは目を伏せた。モリスはレイモンドの不在に死以外の理由を見出しているのかもしれない。だったら説明しなくては。思うのに唇は上手く動いてくれなかった。喉を詰まらせるルディアを見やってアイリーンや部隊の皆が気遣わしげに押し黙る。
 印刷工房をどうしていくかは早急に決定せねばならなかった。レイモンドもパーキンもいない今、誰があそこの責任者となるべきか。考えなければならぬ問題はまだまだある。取り返した波の乙女の聖像はそのままになっているし、危険人物の最たるグレース・グレディもいまだ野放しの状態だ。なるべく早く民をまとめ、国の指針を揺らがぬものにせねばならない。やっと掴んだ平穏を誰にも破らせないように。

(レイモンドがいてくれたらな……)

 かぶりを振ってルディアは内心の独白を散らした。油断すると禁じたはずの考えがすぐに胸にもたげてくる。
 彼はユリシーズに代わり、アクアレイアの希望となれる唯一の存在だった。民の心を一つにできるとしたら彼しかいなかった。
 大きな大きな穴が空いたのを痛感する。
 考えれば自分が落ちていくだけだ。もうやめようと言い聞かせる。あんなに誰かを信じたいと願うことも、信じれば良かったと嘆くこともきっとない。

(委員会にはレイモンドの死をどう伝えればいいのだろう……)

 マルゴーで殺されたと言えば別の火種になるかもしれない。慎重に話を作る必要がある。愛した者の最期であっても。
 重い息をついたときだった。よく知る声が響いたのは。

「なんだ。やっと帰ってきたのか」

 洞窟の湿気取りでもしていたらしい。掃除用具を手にしたカロがルディアを見下ろしながら言う。長身のロマはきょろきょろと辺りを見回し、やがて視線を一点に定めた。

「俺もマルゴーへは行ったんだが、お前たちはもう立ち去った後でな」

 アイリーンの抱く白猫にカロは個人的報告を述べる。ブルーノは入れ違ったなら仕方ないと言うように「ニャア」と鳴いて首を振った。

「あっ、そうか。お前も手伝いに向かってくれていたのだったか。すまない。完全に失念していた。随分探させたんじゃないのか?」
「気にするな。落ち着いたならそれでいい。しかしあいつには謝ってやれよ。半月しても帰らないから待ちくたびれて迎えにいこうか悩んでいたぞ」
「? あいつ?」

 誰のことを言われているのかわからずにルディアはきょとんと目を丸くする。ロマとガラス工が名を告げようとしたそのとき、外からばたばた騒がしい足音が近づいた。

「なあ! 桟橋にゴンドラあったけど、もしかして皆帰ってきた!?」

 工房一階の作業場で、揃ってぽかんと口を開く。
 モモとバジルは瞠目し、ブルーノとアイリーンは息を飲み、アルフレッドは抱えていた鉄仮面を取り落とした。金属が床にぶつかる硬い音が甲高い反響を止めないうちに喉が声を掠れさせる。

「レ、レイモンド……?」

 なぜと問うこともできなかった。幻だったら消えそうで。
 槍兵はルディアの姿を見つけると満面の笑みで駆けてくる。

「姫様……!」

 力いっぱいに抱きしめられた。確かな鼓動を打っている広い胸に。
 理解はまだ追いつかなかった。全身で生きている彼を感じているのに。

「埋まってたけどカロが見つけてアークの里まで運んでくれて。村の人たちに治療してもらったんだよ。死ななかったのが不思議なくらいだって。ははは、俺ってここぞの運がいいよな」

 夢でも見ているんじゃないのか。
 胸が詰まって声が出ず、動いて喋っている彼を確かめるように抱きしめ返すしかできない。
 人前だとか誰の身体だとか考える余裕もなかった。心の求めるままに恋人にしがみつく。

「レイモンド……っ」

 涙以外何もなかった。止まることなく嗚咽が溢れた。
 上等な服が台無しになるほどぐちゃぐちゃに濡れてしまってもレイモンドはルディアの頭を自分の胸から離そうとしない。髪に潜る指の力も肩を抱く腕の力も強くなる一方だ。

「俺がいないとどんな気分になるかあんたにもわかったろ」

 怖くても急に逃げようとしないでくれよと懇願され、こくこくと頷いた。
 もうそんなことできるはずない。逃げればもっと後悔すると思い知った今となっては。

「お前こそ、二度とあんな馬鹿な真似するな……!」

 返事に力が抜けたらしい。「うん」と囁くとレイモンドはこちらを支えたまま作業場の床に尻餅をつく。引きずられる格好で己もその場にへたり込んだ。

「レイモンドーッ!!」

 と、もう我慢できなかったらしい年少組が駆けてくる。モモとバジルの突進を槍兵はかわさなかった。良かった、良かったと二重奏する二人も一緒に肩を抱かれる。ブルーノとアイリーンまで輪に加わり、真ん中で潰されたルディアは重いくらいだった。

「…………」

 見上げればすぐ側でアルフレッドがにこやかに微笑している。騎士に視線を返すレイモンドも笑っていた。彼らしい、少々締まりのない顔で。















(20210530)