このサイトに置いている15話は「初稿」です。正式な「最終稿」は7月以降ノベプラ、なろうにアップします。
大幅な修正が予測されますこと、予めご了承ください。またSNSなどで関連ツイートをするのも7月以降でお願いします。










 公爵家を継ぎ、古くなったサール宮を改築したとき、父ティボルトは可能な限り優美な宮廷となるように建築家や画家に依頼したという。ゆえにこの石の城には時々不釣り合いなほど豪奢な部屋が存在する。
 無骨な壁を隠して輝く白漆喰。天井を飾る神話の登場人物たち。田舎貴族と侮られまいとしてか客人の立ち入るエリアは少々華美に思えるほどだ。
 独立国家の君主の居城に相応しく。父がそう考えていたのがよくわかる。
 聖王の覚えめでたきティボルトは息子らに「王子」を名乗らせる許可までも取りつけた。いつかパトリア古王国の干渉を受けぬ「王国」になりたい。願いは秘して、我々も聖王家に連なる血筋ですからと言って。
 その仄暗い情熱が、独立への執念が、チャドには少しも理解できない。理解できないが従わざるを得なかった。銀山と次男を手離せば名前だけでも王国になれる。聖王を出し抜く機会も残される。父はそちらを選んだのだ。

「チャド様の準備が出来次第、パトリア古王国へお招きしますわ」

 サール宮で最も典雅な調度品がしつらえられた賓客室。前室に護衛を留め、女騎士だけを傍らに控えさせたパトリシアは厳かにそう告げた。人間の温もりのある眼差しで、いたわるようにこちらを見つめて。

「本当は身一つですぐ連れ帰れと命じられているのですが、突然すぎてきっとあなたも困惑なさっておいででしょう。夫婦としてやっていくなら良い関係を築きたいのです。心残りのないようにご支度をなさってください」

 横暴な命令よりも誠意ある言葉のほうにチャドは戸惑う。

「あなたはこんな結婚がお嫌ではないのですか?」
 問えば聖女は視線を落とし「逆らえません」と首を振った。

「私が私の裁量でできることなどたかが知れているのです。父の許してくれる範囲でなら自由には振る舞えますが」
「それにしても、わざわざあなたほどの方が私を出迎えにこなくとも」
「自分の伴侶になる方ですもの。こんなにも突然で、こんなにも意図が明らかで、ほとんど脅迫なのですから、せめて自分でお迎えに上がるのが筋合いではありませんか」

 理知的なパトリアグリーンの双眸は古王国と公国の関係を冷静に受け止めていた。立派な人だとチャドは思う。この人となら存外上手くやっていけるかもしれないなと。
 だが思った瞬間ブルーノの顔がよぎる。王女の仮の姿ではなく、最後に見たあの青年の。

「………………」

 忘れなければと自戒するほど思い出すのはなぜだろう。けれどもう、本当にこれきりにしなければ。あのとき自分で言った通りに「どこかの貴族か王族と再婚する」ことになったのだから。

「……なるべく急いで支度します。あなたの親切を台無しにしないように」

 それだけ答えてチャドは客室を後にした。
 あまり遅れては聖王がマルゴーへの疑念を膨らませてしまう。用意するのに時間のかかる婚礼の品は後回しにして十日以内には発たなければ。
 ほかには誰も好きにならない。
 悲痛な声が耳の奥でこだましている。
 嘘をつかれていたことはもうどうでも良かった。誰もがきっと自分の裁量で可能なことを、許されている範囲内で、精いっぱいやっているだけだから。
 振り返るまい。心に決めて歩を速める。絨毯を踏んで進んでいく。



 ******



 全身を凍てつかせたのは決して軽くない衝撃だった。公爵に与えられたのは束の間の平穏だと、いつかこんな毎日は突然終わりを告げるのだと、とっくに知っていたはずなのに。傭兵団の居残り組は公爵家の秘密をどこにも漏らさぬように留め置かれただけなのだから。
 結婚する。チャドが、パトリア古王国の姫と。それが何を意味しているかは明白で、グレッグはろくな返事もできなかった。
 ただ見やる。部屋に戻ってくるなり「すまない」と詫びた主君を。

「私はマルゴーと聖王の関係を保証する人質として婿入りする。聖都へ赴けばおそらく二度と帰国は叶わないだろう。お前たちを連れていくこともできない。悪いが父に仕えるか、姉に仕えるか、改めて選び直してくれ」

 皆揃って息を飲む。きな臭い状況になっているのはわかっていてもこうして直接現実を突きつけられると苦しかった。
 グレッグは仲間たちと目を見合わせる。公爵家からは逃げられない。宮廷を離れて別の生活を始めようとすれば「どこで何を吹聴されるかわからない」と殺されるのは目に見えていた。それでもチャドに仕えていれば、飼われているなど思わずに済んだのに。

「すみません、王子……」

 一人、また一人、ティボルトかティルダを選んで形式ばかりの忠誠を誓う。どうしてもどちらも選べぬグレッグとドブを残し、元傭兵団の侍従たちは一礼してチャドのもとを去っていった。
 仕方ない。仕方がないのだ。己の命を守るためには。
 言い聞かせてもやはりグレッグにはティボルトもティルダも選べなかった。気遣わしげに「銀山送りにされるかもしれないぞ」とチャドが忠告してくれても、どうしても。

「……今すぐ返事しなきゃ駄目っすか? 王子が宮殿を出るまでは、俺もこの部屋にいたいです」
「グレッグ」

 ふうと嘆息一つ零し、チャドは「わかった」と了承する。隣のドブも主君が出立する際に次の道を決めたいと告げた。このしっかり者の少年は、本来ならいつまでも沈みかけた船にしがみつくタイプではないのだが。判断が先送りになっているのは三人で守ってきた小さな存在があるからだろうか。

「あの、」

 三白眼を泳がせてドブはおずおずと切り出した。

「あの、これから、小姫様のお遣いはどうしたら」

 問われた王子はしばし沈痛に押し黙る。
 愛した人の忘れ形見だ。きっと誰より一緒に聖都へ行きたいだろう。

「……出発までにまとまった養育費を用意しよう。戻ったばかりですまないが、もう一度だけ里に届けてもらえるか?」

 ドブはこくりと頷いた。そうする以外できない様子で。
 この国はいつも誰かに不幸を押しつけようとする。
 グレッグにはどうしてもそれが理解できなかった。



 ******



 風に乗り、一路アクアレイアへと。広げた翼は幾日もかけ、ようやくにして休められた。
 ブルーノはモリスの住む工房島へと舞い降りる。ちょうど開いていた窓から一階作業場に滑り込むと、突然の珍客に驚いた老ガラス工が椅子を蹴って飛び上がった。

「な、なんじゃ!? 何が入ってきたんじゃ!?」

 その声に釣られてか隣室から「どうした?」とカロも駆けつける。皆がドナへ移ったとき、ロマはモリスの身を案じてアクアレイアに残ったのだと聞いていた。まだ側にいてくれて心強く思う。

「ピィ! ピィピィピィ!」

 鳴いて急を訴えれば即座に机上に文字表が差し出された。爪先でトントンとひとまず己の名を示す。

「おお、ブルーノ君か」

 ほっとした顔を浮かべるモリスにブルーノは手短に用件を伝えた。人の口があれば早く済むのだが、ないものは仕方ない。ルディアたちがマルゴー公国へ向かったこと。西パトリアの最近の情勢が知りたいこと。こちらの要望を把握するや二人はどっさり新聞を持ってきてくれた。
 パーキンがいなくても印刷工房は仕事を続けているらしい。このまま戻ってこないほうが職人たちには平和かもしれなかった。のんびりしている暇もないのでざっと記事を読み込んでいく。

(王国史流出……、アクアレイア湾東岸に聖王軍……、海軍が警戒中……)

 やはり今のアクアレイアは危うい立場にあるようだ。いつ古王国がこちらに剣の先を向けてもおかしくなかった。仮にもジーアン領であるアクアレイアに軽率に仕掛けるかなと思わなくもないが、聖王は愚昧なことで有名だ。銀山を手にできなかったとき、腹いせに襲いかかってこないとは言いきれない。
 それに戦場になる可能性があるだけで商人たちの足は遠のく。なるべく早くハイランバオスたちを見つけだし、決着をつけなくてはならなかった。

(ん? この記事は……)

 気になる情報が視界に飛び込み、ブルーノは文面に目を走らせる。ドナ港が封鎖される少し前、詩人たちが付近を通過したと思しき日付。ドナで退役兵の骸が見つかったと書いてある。被害者は砦の退役兵ではない。地元の女と所帯を持ち、街で穏やかに暮らしていた蟲だ。
 下手人は割れておらず、ドナでは厳戒態勢が続いているそうだった。これがたやすく港に鎖をかけられた理由かとげんなりする。彼らのささやかな都合のために何人殺す気なのだろう。記憶を分け合った陽気な青年がもういないことを思い出し、急がなければという念を強くした。

「ピィピィピィ!」

 だが別れを告げ、窓辺で羽を広げた矢先に「待て」と低い声に止められる。振り返ればカロはまっすぐブルーノに申し出た。

「マルゴーだろう? 俺も行く。何か力になれるかもしれん」

 連れがいると飛行速度を出せなくなる。ありがたい親切だったがブルーノは首を振って断った。しかしロマは話を終わらせてくれない。「場所だけ教えろ。勝手に行く」と食い下がられる。
 飛び立ちたい気持ちを堪え、グロリアスの里と隠れ里までの道筋を伝えた。今はハイランバオスとラオタオを追っていて、彼らとは敵同士だということも。

「ピィー!」

 用事が済むと一秒たりとも留まってはいられなかった。行き先はマルゴー。それだけで自然と思い馳せてしまう人がいる。彼の国もこのままでは古王国に攻め込まれるかもしれないのだ。
 一心に先を急いだ。これ以上酷いことが起きないように。起こってしまった問題もなんとか収められるように。
 飛ぶしかなかった。風を切り裂く矢のごとく。



 ******



 王子が宮殿を去ってしまったら自分は誰に仕えるのだろう。ルースが毛嫌いしていたティルダか、食わせ者のティボルトか。あらゆることが偉い人の間でだけ決まっていく。いつも、いつも、こちらは翻弄されるばかりだ。
 ドブはぼんやり主君不在の部屋の絵画を眺めていた。見慣れた神話の一幕は半神半人の英雄が生贄の姫を救うべく不死の力を捨てるところを描いている。
 強い想いは滅びを厭わぬ。古代の詩人は高らかに歌い上げる。死せるさだめを受け入れよ。さすれば汝は真に不滅なものとなろうと。
 そして英雄は死んでしまう。姫が捧げられるはずだった蛇の怪物に挑んで。
 理解しがたい考えだった。それほど大事な相手なら一緒に幸せになればいいのに。化け物退治などほかの英雄たちに任せ、彼は姫と手を取り合って逃げるだけで良かったのに。
 それとも彼は血筋のゆえ、逃げ出したくとも戦う以外なかったのか。高貴な人々も思うように生きられないからこんな絵を見て己を慰めているのか。英雄ですら愛した者と添い遂げることはできないのだと。

(俺たちどうなっちゃうのかな……)

 ドブは小さく息をつく。同じ部屋の番をしているグレッグも先程から溜め息ばかりだ。主君はと言えば婚礼準備に忙しく、今朝からずっと出たり戻ったりを繰り返していた。どうにか彼とアウローラを会わせてやりたかったけれど、そんな時間はなさそうだ。
 と、コンコンとドアがノックされる。「王子ならおられませんよ」と即答すると兵士がひょこりと顔を出した。

「用事があるのは殿下じゃない。ドブというのはお前のことか?」

 名指しされ、一体なんだと瞬きする。身構えたドブに告げられたのは「客人が退屈だからとお前を呼んでいる」のひと言。それですぐにピンと来た。昨日会ったあの人だと。

「出られるな? 待たせたくない。すぐに来い」

 兵士はぐいと乱暴にドブの腕を捕まえた。グレッグが「おいおい、王子に話通してからだろ」と割り込んでもまったく聞く耳持とうとしない。この城ではチャドは舐められ気味だから承諾なんて取る気がないのだ。

「わーっ! ちょ、待って待って!」

 ドブは兵士に引きずられぬよう絨毯に踏ん張った。またあの人と話せるならそれは嬉しい。だがこちらにも任務があるし、あまり強引なのは困る。
 どうしよう。なんと言ってこの兵に待ってもらおう。悩んでいるとまたもや部屋の扉が開いた。

「うん? なんだ? 何をしている?」

 今度姿を現したのは温厚糸目の貴公子だった。主君の登場にドブは心底安堵する。良いタイミングで戻ってくれて助かった。これで王子に無断で持ち場を離れなくて済む。

「あの、チャド王子、俺昨日サール宮に来たお客さんに部屋までおいでよって言われてるみたいで。ちょっと行ってきていいですか?」

 伺いを立てるとチャドは訝しげに顔をしかめた。

「昨日サール宮に来た客? パトリシア王女のことか?」

 問い返されて首を振る。王子の未来の伴侶のほうはまだ顔を見たこともない。というか誘われたとしても婚前の女の部屋に一人で出向くはずなかった。

「いえ、そうじゃなくて。黒いケープ羽織ってて、どこの誰かまではちょっとわからないんですけど……」

 なんだか変なお願いをしているなと思ったが、ほかに適当な言い方もない。不明な点は不明のまま説明する。ドブが話すほどチャドの表情は深刻なものに変わっていった。やはり自分は変なお願いをしているらしい。

「……呼ばれたなら行くしかないが、名前を聞いたり顔を覚えたりしないほうがいい。絶対にだ」

 返ってきた不穏な台詞にどきりとする。よくわからないが相当な問題のある相手というのは確かなようだ。横で聞いていたグレッグもややたじろいでドブを見やった。

「は、はい。何も聞かないようにします」

 こくこく頷いて約束する。と同時、待ち構えていた兵士が腕に力をこめた。引きずられるままドブは歩き出す。なぜか誰の姿もなく、しんと静まり返った廊下を。

(な、なんでここまで人払いされてんだ?)

 大勢の人間が働いている宮殿なのに下男も下女も一人もいない。衛兵たちは各部屋の前に立つのではなく通路の入口だけを厳重に塞いでいた。まるでその先が異界にでも繋がっているかのように。
 物言わぬ彼らの脇を通り過ぎる。いつも曲がらない角を曲がる。存在さえも知らなかった階段を上っていけば別の城に迷い込んだようだった。
 サール宮のこんな奥まで来るのは初めてだ。兵士はとりわけ人気のない角の一室にドブを連れ、無人の前室に入ると硬い拳で客室のドアをノックした。

「し、失礼しまーす……」

 背中を押されて入室する。兵士は中には見向きもせず、扉を閉ざして足早に去っていった。

「わあ、来てくれてありがとー!」

 ──直後、緊張を吹き飛ばすように響いたのは明るい声。ドブが目をやると部屋の中央の応接ソファに腰かけてあの狐目の男がにこにこと笑っていた。

「おいでおいで、ほらこっち!」
「あ、は、はい」

 手招きされ、促されるまま彼のすぐ側に立つ。狐男の隣には穏やかな笑みを浮かべる美しい男がいた。玉飾りで結わえられた長い髪、水の色の瞳はどこか神秘的でさえある。
 ケープを脱いだ二人の衣装は独特なものだった。狐のほうは文様入りの立襟装束。ライン入りの腰帯も初めて目にする代物である。宗教家らしき男のほうは白い聖衣と紺地の長衣(ながぎぬ)。本当に、どこの国のお偉方なのだろう。
 ドブは直接対峙したことはないけれど、ジーアンの兵がこういう服装だった気がする。室内には止まり木に掴まった鷹が三羽もおり、ますますあの帝国を想起させられた。
 否、やめよう。詮索は。きっと知ってもいいことがない。

「いやー、今公爵にコナー先生がどこにいるのか探してもらってるんだけど、待ってる間暇で暇でしょうがなくてさあ」

 狐は言う。その発言にドブの心がちくりと痛んだ。
 先日訪ねていったときコナーは旅に出たまま帰宅していなかったが、画家の隠れ家がどこにあるかは知っているのだ。それなのに素知らぬふりでこの人と話をするのは心苦しいものがあった。

「ドブ君ほら、座ってお菓子食べなよ」

 鷹揚に皿の焼き菓子を勧めてこられて更に申し訳なくなる。自分は彼に何も返せやしないのにと。

「いえ、結構です」

 固辞したが狐は「なんで?」と唇を尖らせた。

「美味しいよ? 毒見させようってんじゃないし」

 言って青年は飴色のパイを摘まんで口内に放る。ね、と優しく微笑まれると純然たる好意を拒むのにまた別の罪悪感が湧いてきた。頭の中ではぐるぐると「どうしよう」の言葉が回る。
 コナーの居場所は明かせない。あそこにはアウローラ姫がいる。見つかってもし殺されでもしたらチャドは深く嘆くだろう。
 だがあの里へ行くのはきっと今度が最後だった。伝言を預かるならば今しかない。王子は急いで養育費を用意すると言っていたから。

(悩む必要ないだろ? ちょっと会ってちょっと話しただけの人だぞ?)

 落ち着けと言い聞かせても葛藤は深まるばかりだった。なんの恩義もない男で、秘密を明かす義理もないのに。それなのになぜ己はこれほど彼に惹かれてしまうのだろう。困っているなら助けになりたい。どこの誰かなんてどうでもいい。温かな目を向けられると苦しくて、その痛みがすべてだった。
 父に騙され、マルゴーへ連れてこられた母を帰してやれずに死なせた過去が甦る。ああそうだ。誰かに何かしてやりたいと思ったときは、この次になんて思わずにそのときやらねばならないのだ。

「あ、あの」

 衝動的にドブは男に呼びかけた。こちらを仰ぐ狐の顔は母の顔に見えていた。

「あの……、今だったら、コナー先生に伝言できるかも」

 ドブの発言を耳にした途端、二人は奇妙に沈黙する。やはり言わないほうが良かったか。どっと噴き出した汗とともに後悔の念が渦巻いた。

「ドブ君、もしかして先生の居場所知ってるの?」

 尋ねられ、思わず首を横に振る。脳髄を支配していたのは恐怖だ。己は何か重大なミスをしたのではないかという。

「や、あの、どこにいるかまでは知らないですけど……! 先生の知り合いに手紙預けるくらいだったら……!」

 しどろもどろに返した言葉に狐たちは目を見合わせる。その反応に全身から血の気が引いた。アウローラ姫のこと、知られてしまったらどうしよう。
 どきどきと鼓動が乱れる。何をやっているのだと自己嫌悪に陥った。しかし幸いドブの苦しみはそう長く続かなかった。

「そっか、知り合いかあ。ごめんね。せっかくだけど直接じゃなきゃ言えないようなことなんだ」

 申し出は先方から断られる。ほっとしすぎて膝から崩れ落ちかけた。

「いや、いや、いいんです。そうですよね! 重要機密とかですよね!」

 諸々の感情を誤魔化すように笑いながら首を振る。安堵が心を落ち着かせると次いで酷い気恥ずかしさに襲われた。
 本当に、何をやっているのだろう。己などが身分を隠すほど高貴な人の力になれるはずなかったのに。

「その知り合いとは最近会う予定だったの? 宮廷に勤めてても外行ったりはするんだ?」
「あ、ま、まあ、一応お遣いとかあるんで……」
「ふうん、そっか。ドブ君も忙しいんだねえ。やっぱ栄養あるもの食べたほうがいいんじゃない?」

 狐男はまたもやドブに焼き菓子を差し出してくる。パイ生地から仄かに香る甘い匂いがひくりと鼻腔をくすぐった。

「ほら、あーん」

 内心の動揺も手伝って命じられるままドブは口を開いてしまう。隙を逃さず狐はパイの半分をこちらの口に突っ込んだ。

「ドブ君、美味しい?」

 貰ってしまって良かったのかとモゴモゴしながら小さく頷く。
 頬張れば菓子は確かに美味かった。母にも食べさせてやりたかったなと思うほど。



 ******



 不要と見なし、脇に放り捨てていたものが役に立つこともあるらしい。一年限りのマルゴーとの休戦協定は随分前に期限が切れ、以来無効のままだった。今更になって承認の使者が向かえば公爵は驚くだろう。しかし拒みはできないはずだ。聖王と揉めている今は背後の安全を確約されたいだろうから。

(マルゴーに入って今日で九日か)

 ヘウンバオスは馬上から通行税の徴収所である石塔を仰いだ。天帝印付きの旅券は高い効果を上げており、どの関所でも一行は手厚い歓待を受けている。併せて付けた書状には「この使者と防衛隊を天帝の代理人とし、交渉においてあらゆる権限を付与する」と書いてあるのだから当然だが。
 サールはもう目と鼻の先で、宮殿へ赴くにはサールリヴィス河に架かる橋を渡るだけとなっていた。アクアレイアでの片割れの動きを考えるに自分たちはおそらく七日から十日ほどの後れを取って近辺を移動している。大所帯の軍隊と違い、ハイランバオスは最速でアレイア地方に戻る人数を選択できた。差ができたのはやむを得ない。
 だが考えてみればあの男が「アークは壊しておきました」などと事後報告をするはずないのだ。多少遅くなったとしても聖櫃は無事と断定できた。
 あれは絶対に己の目の前で事を行う。今までずっとそうだったように。

(本当に危険なのは我々が隠れ里に着いてからだ)

 通行許可が下りるまでの間、待たされることになった石橋でヘウンバオスはルディアたち防衛隊を見やる。大熊には兵をつけろと最後まで食い下がられたがマルゴーに入国したのは結局己と彼ら五人だけだった。
 近習すら連れなかったのはこれが平和を約束する一団だからだ。しかし本音はまったく別のところにあった。実質的には一人でここまで来た理由は。

「お通りください! どうぞ!」

 と、門番が旅券を確認したらしく石塔を塞ぐ格子門が鎖に引かれて上がっていく。注意深く馬を駆る防衛隊一行とともにヘウンバオスも騎乗したまま望楼一階の通路を抜けた。
 一歩進むたび視界の端で黒髪が揺れる。旅の間に伸びきった前髪が。
 君主の器をファンスウに預け、その龍の身はウヤに託し、ヘウンバオス自身はウヤの──理知的な一つ結びの男の姿を借りていた。退役兵の監視役だった彼は通常の指揮系統から外れており、よそへ移しやすかったからだ。
 片割れに会えばどちらかが命あるいは自由を失うことになる。同胞の誰にもそんな運命をともにさせたくはなかった。それにハイランバオスもラオタオも仲間を屠るのになんのためらいも持っていない。数を連れ歩くほど面白半分に惨殺される危険のほうが大きかった。
 一人でつけねばならないのだ。弟との決着は。
 十将には「私が戻らなかったときはジーアンを頼む」と伝えてある。ドナですべての蟲の接合を完了させ、アクアレイアの蟲と引継ぎを行った後は好きなように皆を生きさせてやってほしいと。
 無事の帰還が叶っても叶わなくてもジーアンは新たな時代を迎えるだろう。アクアレイアも真に守るべき二つめの故郷となった。過ぎ去った日々にはもう囚われまい。

(ハイランバオス……)

 胸中に片割れの名を呟けば苛烈に燃え上がる焔があった。
 あれもサールへ来たのだろうか。聖王軍が布陣したまま留まっているということは、彼もまたヘウンバオスと同じように少数で独自に動いている可能性が高い。きっと近くに潜んでいる。見つけ次第仕留めなければ。
 弟の代わりに瞼に浮かべたのは死んでいった同胞たち。一千年、増え続ける仲間を一人も欠かすことなくここまで来たつもりだった。
 弔いをしなくてはならない。彼らを生み、夢を見させ、道半ばで果てさせてしまった者の務めとして。
 石塔を過ぎてからの長い石橋は終わりに近づいていた。顔を上げれば小高い山の上の城が静かにこちらを見下ろしていた。







 ******



 飛んで、飛んで、さすがに飛び疲れた頃に例の里が見えてきて、ブルーノはほっと小さく息を吐いた。眼下の小集落は前回訪れたときと変わらず、全戸が山道の一部のごとくひっそりしている。杉林からちらほらと覗く住人たちにも不穏な様子は見られなかった。
 とりあえずハイランバオスがアークに悪さをした後ではなさそうだ。最後にもう一度羽ばたきし、画家の隠れ家(アトリエ)へと舞い降りた。
 さすがにここでは名乗るだけで意思の疎通を図るのは不可能だろう。小窓を叩く嘴(くちばし)に気づいた農婦と目を合わせ、ブルーノは必死に鳴いた。まずは里の人間に異常を察してもらえるように。

「なんだいなんだい、また鷹かい?」

 手慣れたもので、農婦はすぐにブルーノを引き入れてくれる。前回コナーを誘いにきたのがラオタオの飼い鳥だったからだろう。中身が脳蟲ということに彼女は最初から勘付いていたようだった。
 ピィピィピィと喚き散らし、ともかく早く文字表なりなんなり広げてくれと訴える。すると農婦はしばし思案し、ほかの村人を連れてくるついでにもっといいものを貸してくれた。

「た、大変なんです……! コナー先生がハイランバオスに殺されて……!」

 ブルーノに与えられたのはどこか主君に似た風貌の可憐な村娘の姿。その口ですべて捲くし立てた。サルアルカの先、テイアンスアンで何が起きたか。

「姫様の話だと、レンムレン湖のアークの核を移した後、コナー先生は本体を踏み潰されてしまったって……」

 アトリエに集まった村人たちにどよめきが走る。だが彼らは平静を失わず、ブルーノがこれほど慌てて飛んできた理由のほうを尋ねてくれた。

「うちのアークには管理者の複製も核も保存されているから大丈夫だ。それで君は、そのことを伝えにここに?」
「いえ、それだけじゃなくて、ハイランバオスが今度はこっちの、アレイアのアークを狙っていて……!」

 再度どよめきが巻き起こり、より詳細な説明を求められる。しどろもどろにどうにか事の顛末を語り終えると村人たちは神妙に顔を見合わせた。

「岩塩窟に見張りを立てよう。管理者と接合済みの蟲がアークの破壊を企てているとしたら核の完全消去が有り得る」
「そうだね。プロテクトはしてあるけど、触れさせないのが一番だ」
「初期化も怖いぞ。いじれるコードはいじっておこう」

 ブルーノには理解しかねる言葉を交えて彼らは防衛の算段をつける。坑道の様子を見に出ていこうとする農婦たちに「あの!」と大きく声を張った。己も彼らを手伝わねばと。

「姫様たちも里に向かっているんです。それまで僕も使ってください。剣術の心得ならありますし……!」

 微々たる力だがないよりはましだろう。戦う意志があると示すと村人たちは「頼もしい」「ありがとう」とブルーノを歓迎してくれた。アクアレイアの脳蟲だからか、ともに聖櫃を守る仲間として認めてくれたようである。

「しかしあの子が帰った後でまだ良かったね」

 と、農婦がぽつりと呟いた。そのぼやきになんだか引っかかるものを感じてつい「あの子?」と問いかける。

「ああ、月に一回ここへ来る子がいるんだよ。いたって言うほうが正確かな。きっともう来ないだろうし」
「??? どういうことでしょう?」

 聞けばあの子とは元グレッグ傭兵団のドブという少年らしい。チャドの命で彼は毎月アウローラの養育費を届けてくれていたそうだ。そのドブが二日前、いつも以上の大金を持って里を訪ねてきていたとのことである。王子の再婚が決まったので今後は支払いが難しくなるからと。

「えっ?」

 思いがけず飛び出した話にブルーノは息を飲み込んだ。動揺をどう解釈したのか農婦は「古王国に攻め込まれるかもって時期に妙だろう? そのうえ相手は聖王の末娘だそうだよ」と肩をすくめる。
 一体どういうことなのだろう。事情が掴めず困惑する。

「体のいい人質さね。公爵は聖王軍に引っ込んでもらうために銀山と次男坊を差し出すことにしたんだろうよ」

 衝撃が身を貫いた。人質として差し出される? 古王国の姫君に?
 いずれ再婚はすることになると聞いていた。部屋住みの次男なら政略結婚に利用されること自体は決して珍しくないのだろう。だがあの人にそんな事態が降りかかるなんて。
 マルゴーには二度と戻れないという話も、十日以内に出発するという話も、心を大きく揺さぶった。それでも今は隠れ里でルディアたちの到着を待つ以外なかったが。

「さあ行こう。何もされていないのを確かめて、岩塩窟を封じなくちゃ」

 促され、ブルーノは震える足で踏み出した。真っ白になりそうな頭で自分のなすべきことだけを念じながら。



 ******



 防衛隊が天帝から遣わされた休戦協定の使者を連れ、目通りを希望している──こう聞いてマルゴー公が捨て置けるはずもない。望楼からは急使が駆けたものと見え、宮殿に着いたときには丁重な出迎えの兵が並んでいた。
 久方ぶりのサール宮を睨み据え、ルディアは小堀の跳ね橋を渡る。石造りの厚い胸壁に守られた城砦は純白に塗り上げられ、山城だという点を踏まえれば優雅な印象すら与えた。
 警戒は相当されているらしい。屋根のない歩廊からこちらを見下ろす兵士らは皆手に弓を掴んでいる。防衛隊には印刷商レイモンド・オルブライトが名を連ねるのだ。マルゴー人には身構えられて当然だった。
 騎士物語の件にせよ協定更新の件にせよ、公爵も聞きたいことは山ほどあるに違いない。城門をくぐったルディア一行はすぐさま謁見の間に通された。

「しばらくぶりだの。まさか今度はジーアン帝国の使者殿ご同伴で現れるとは思いもせなんだわ。お前さんたちはどこまで営業に行っているのだね?」

 名目上は通訳として伴われたからだろう。ティボルト・ドムス・ドゥクス・マルゴーはジーアン人には伝わるまいと思ってかアレイア語でいささか無礼な挨拶を述べた。「どこへでも出かけていくのがアクアレイアの商人ですので」と軽くかわし、ルディアは一歩前へ出る。
 公爵はレイモンドに聞いているのだと言いたげに目つき鋭く睨んでくるが、この場は己が取り仕切ると決めていた。無視してさっさと話を進める。

「商人が得意先から書簡を預かる、使者の案内を頼まれる。変わったことでもないでしょう。今回はたまたまそれが天帝陛下だったというだけですよ」
「『パトリア騎士物語』の内容について、お前さんたちは知っていたのではないのかね?」

 よほど溜飲が下がらぬらしい。ティボルトは最終巻への言及を取り下げようとしなかった。仕方なく「初めから知っていたならさすがに融資を持ちかけはしません」と肩をすくめる。

「我々も刷る前に気づいて止めはしたのです。工房の共同経営者が大馬鹿者で近隣国にばら撒いてしまいましたが……。しかし今日はその件の弁明に伺ったのではありませんよ。使者殿の話をお聞きいただけますか?」

 ルディアはその場に跪き、ヘウンバオスをティボルトの前へ促した。公爵もジーアン人の前では居丈高になれぬ様子で「遠路はるばるお越しいただき誠にありがとうございます」とへりくだる。形だけジーアン語に訳して聞かせると天帝もジーアン語で応対した。

「今回の協定更新には条件がある。パトリア古王国に槍の先を向けられた今、ジーアンまで敵に回したくないだろう。さっさと確認しろ」

 言って彼は懐から一通の書状を出した。折り畳まれたそれはまずルディアに手渡される。さっと立ち上がりティボルトの傍らへと近づいた。ジーアン語で記された文面を翻訳してやるために。

「帝国と刃を交えたくなければ公国内に逃げ込んだ裏切り者たちを差し出せ。約束できないなら山を焼き払ってでも進軍する=v

 読み上げた瞬間、は、と公爵が息を止めた。双眸は大きく瞠られ、こけた頬には汗が滲む。

「な、何を…………」
「ハイランバオスとラオタオが来ているのはわかっている。こちらに二名を引き渡せば協定は成立だ>氛氓ニありますね」

 冷徹に見やればティボルトは苦々しい顔で首を振った。

「い、意味がわからん。ジーアンの裏切り者たち? そんなもの話を聞くのも初めてだ」
「そうですか? アクアレイアからパトリア古王国へ向かった彼らの足取りを考えれば次にマルゴーへ入るのは自然なルートと思いますが」

 狩人が獲物を追いつめるようにルディアは公爵に問いかける。だが彼は追及に取り合おうとしない。「古王国に向かったのなら古王国に留まっているのではないのかね? うちでは噂すら耳にせんよ!」と苦しい否定が続けられた。

「二人はアクアレイアに駐屯していた兵を東岸に引き揚げさせました。聖王となんらかの密約を交わしていたのは明らかです。例えば古王国側の使者としてサール宮を訪ねれば、彼らは古王国に居つくよりずっと安全に生き延びられる。公爵殿は西パトリアとの連帯を示すために使者を無下にできない立場ですからね。ひょっとして既に宮廷に匿われておいでなのでは?」
「……ッ何を言うか! 断じて有り得ん!」

 指摘に対し、ティボルトは憤然と抗議する。ハイランバオスが来ていようと来ていまいと同じ反応しか返せぬことは百も承知だ。お前の事情はジーアンに筒抜けだぞと揺さぶりをかけられればいい。
 本題はここからだった。マルゴーをこちらの味方につけるのは。

「天帝陛下はただ休戦を約束するだけでなく、マルゴーに侵入する敵があれば援軍を出してやると仰せです。休戦協定ではなくて軍事同盟を締結することを視野に入れておられます」

 鞭の直後に出した飴は荒れ狂う声を封じさせた。

「は──はあ?」

 素っ頓狂な声を上げ、ティボルトが目を丸くする。なんだそれは。ジーアンが古王国からマルゴーを守ってくれるとはどういうことだと。

「銀山の秘匿が明るみに出た以上、マルゴーが今まで通りに西パトリア各国とやっていくことは不可能だ。浮き駒となった公国を帝国の傘下に取り込むなら今が好機──そういうお考えなのでは?」

 アークのことはおくびにも出さず、淡々とジーアン側の狙いを語る。大国に挟まれた小国はどちらの勢力と懇意にするか迫られるのが常だからルディアの示した考えは自然なものだ。

「悪い話ではないでしょう? 属国として支配されよと言われているわけではない。西パトリアとの緩衝地として機能してくれるなら厚遇してやっていいと、天帝陛下は仰せになられているのです」

 ごく、と公爵の喉が鳴る。彼にとっては魅力的な、縋りたくなる誘いの声のはずだった。マルゴーに手を出せばジーアンが動くとなれば聖王も考え直す。問題は長らく西パトリア圏に属してきたマルゴーが慣れ親しんだ集団を離れ、異文化の王を信頼できるかどうかだった。

「ご存知の通りバオス教の生き神である天帝陛下が偽りの約束をなさることは有り得ません。アクアレイアでもジーアン兵は規律正しく、無辜の民はただの一人も殺されていませんよ」
「…………。使者殿に、国内を洗ってみると伝えてくれるか……?」

 長考ののち、ティボルトはそう返答した。本当にハイランバオスが入国したなら彼が把握していないわけがないが、今ここで白状はできまい。公国側にも探してみたら見つかったという建前が必要だ。

「わかりました。──受け入れるそうです。これでよろしいか?」

 振り返り、アレイア語でヘウンバオスに問いかける。するとあちらも「今はそれで良しとしよう」と滑らかなアレイア語を発した。やり取りを審査されていたと気づいた公爵はたちまち顔から血の気を引かせる。

「使者殿はアニーク陛下に薦められた騎士物語をご愛好です。公爵殿の報告を待つ間、グロリアスの里でお過ごしいただいても?」

 ティボルトはもはやこくこく頷くのみだった。よし、とルディアは小さく拳を握りしめる。これで後はアークの里を守りつつハイランバオスたちが尻尾を出すのを待てばいい。
「出発準備が出来次第お送りします」と一行は控室に留められた。宮殿に入る前よりずっと兵士たちの気遣いの度合いは増したようだった。



 ******



 卒倒しそうなほどばくばくと波打つ心臓を手で押さえ、通路の奥へと進んでいく。足音を忍ばせ、誰にも見咎められないように。
 こんなに早くジーアンの使者が来るなんて。預言者たちがここにいることを見透かされているなんて。
 考えれば考えるほどティボルトの心は乱れた。とにかく早くあの厄介者どもを城外へ追い出さなくては。「見つかりました」と報告するにせよサール内ではまずすぎる。

「お逃げくだされ! 一刻も早く!」

 角の客室に辿り着くと呼吸も整わない間に叫んだ。冥府に片足を突っ込んだ気分のティボルトとは対照的に、ソファにかけたハイランバオスもラオタオものんびりと余裕ありげだ。

「どしたの? 天帝陛下のお遣いでも来た?」

 狐の問いに「そうです。そうです」と頷いた。だからさっさとこの宮殿から消えてくれと。

「岩塩商に紛れればサールリヴィス河を下れます。今ならまだ北パトリアへは追ってこないはずですので!」

 ティボルトは強く二人に勧める。勧めながら、河を下ってくれるなら関所で捕らえやすいだろうとも考えた。もし後で聖王に彼らをジーアンに差し出したことを非難されても兵士が早まってしまったと言い訳できる。捕り物の舞台がこのサール宮でさえなければ。

「あはは、本当に来てたんだ。ね、それって防衛隊と一緒だったでしょ」

 楽しげな顔を向けられ、ティボルトはぎくりとした。ラオタオの言う通り、確かに使者は防衛隊と一緒だったがなぜ彼がそこまで知っているのだろう。
 微笑を浮かべたハイランバオスも「我々の身柄をよこせば軍事同盟を結んでやると持ちかけられましたか?」とまるで見ていたように言い当てる。咄嗟に否定できなくてティボルトはたじろいだ。

「いいのですよ。少し考えればわかることです。今のあなたが彼らに従わざるを得なかったことも……」

 聖預言者は優しい口調で赦しを述べる。不快にも遺憾にも思っていないと。ただ、と静かに彼は続けた。

「本当にジーアンなど信用なさるおつもりなので?」

 言葉はティボルトの胸を覆う不安に直接突き刺さった。嵐の中で、自覚する余力もなかった保身的考えが──腹のわからぬ他者への疑念というものが──ハイランバオスのひと言で急に形を持ってしまう。布の家に暮らす野蛮人との約束などどこまで本気にできたものかと。

「いや、それは……」
「俺たちを売って帝国にそっぽ向かれたらマルゴーいよいよ孤立無援じゃん。もっとよく考えたほうがいいんじゃないの?」
「う、売るだなんて。私はあなた方に安全に逃げていただこうと」
「ああそう? けど国内で俺らが見つからなきゃ見つからないで困るよね? 納得しないと使者は帰ってくれないだろうしさ」
「………………」

 返答に窮してティボルトは押し黙った。駄目だ。彼らにはばれている。帝国になびくつもりだったこと。彼らを引き渡そうとしたこと。それでもどうにか説得せねばとティボルトは言葉を尽くした。──否、尽くそうとした。

「黒髪でしたか?」

 唐突にそんなことを問われ、思わず「は?」と尋ね返す。ハイランバオスはにこりと笑んで問いを続けた。

「黒髪の、賢しげな眼の青年でしたか? ジーアンからの使者というのは」

 わけもわからずティボルトは「え、ええ」と首肯する。返答を聞くと預言者は満足そうに口を開いた。

「ならばあなたの取るべき道は一つです。使者など殺してしまいましょう」

 物騒すぎる台詞に全身凍りつく。ぶんぶんと首を横に振り「できません!」と悲鳴じみた声で訴えた。使者を殺す。外交上最もやってはならないことだ。そんなことをすれば即座に戦になる。

「騎馬軍がマルゴーに攻め込む理由を作ることはできません。国の寿命が縮むだけです!」
「わかっていますよ。あなた方にやれとは言っていないでしょう」
「は、はあ?」
「使者は我々が殺します。そしてすみやかにマルゴー国外へ逃れます。あなたはジーアン人同士の殺し合いだと弁明できるし、我々を匿っておく必要もなくなる。一石二鳥ではありませんか」
「は、はあ……!?」

 考えても理解はまったく不可能だった。こいつは何を言っているのだと瞬きしながら見つめ返す。ハイランバオスはティボルトの困惑ぶりを面白がるように口元を緩ませた。それから落ち着き払った声で告げてくる。

「待ち人なのです。彼は私を殺しにきたし、私も彼を待っていました。コナーの件はここに留まる方便ですよ。探しても会えないことは知っていました」

 どういうことだ。つまり預言者は最初から天帝の遣いが来るのを待っていたのか? なんらかの因縁があって?

「つい先程もラオタオが申しましたが、ジーアンだけを頼みにする危うさにはあなたも気づいておいででしょう」

 ハイランバオスは妖しく笑んで囁きかける。古王国と断絶しない道も残しておくべきだと。

「あなたに真に必要なのは我々を守り、逃がしたという事実。それさえあれば西パトリアに絶縁状を叩きつけずに済むのです。帝国が掌を返したときに困るでしょう? ジーアンはね、身内以外は同じ人間だなんて思っていませんから。それよりは帝国の脅威に対し、西パトリアに結束を呼びかけて聖王から銀山を拝領し直すほうがあなたにもいいのではないですか?」

 立ち上がった聖預言者はこちらに近づき、そっとティボルトの手を取った。

「使者団はグロリアスの里へ向かいましたね?」

 青年は神の目を通して世界を眺めているかのごときだ。次から次に看破され、堪らずひれ伏しそうになる。

「は、はい……」

 震えて頷くティボルトにハイランバオスは今立てたらしい計画を語った。

「殺すならサール宮よりあちらの古城がいいでしょう。逃亡者が潜んでいてもおかしくないし、放置されていた火薬庫から出火でもすれば現場が荒れて真相解明しづらくなります」
「火薬庫? いえ、あの城には火薬の類なんてもう……」
「するんですよ。厨房や暖房器具を使用するための燃料を運ぶくらいあなた方にもできるでしょう? たまたまそこに粉末火薬が混じるだけです。それすら知られたくないのなら運び手には始末していい兵を用いればいかがです?」

 始末していい兵と聞き、脳裏を掠めたのはチャドの側付きたちだった。温情で生かしていたが、息子を人質に出すと決まった今は飼い続けても意味のない連中である。

「……わ、わかりました。すぐに手配いたします」

 意を決し、ティボルトは頷いた。ハイランバオスが使者を殺し、北パトリアへ逃れればジーアン軍はそちらへ向かう。情報さえ渡せばおそらく休戦協定は結べるだろう。使者が死に損なったときは潔く帝国へこの二人を差し出そう。今はまだ静観だ。最終的に事態がどう転ぶかを慎重に見極めねば。

「では詳しい段取りはまた後で。使者団を見送ったらお戻りください」

 客室を出るように命じられ、ティボルトは部屋を後にした。冷えきった長い廊下に踏み出せば老体は哀れにふらつく。壁についた手で己を支えてどうにかこうにか前へ進んだ。
 これでいい。きっとこれでいいはずだ。
 震える胸中で繰り返す。
 本当はもう風に煽られるままになっていたのだけれど。



 ******



 公爵に何をされるかと危ぶんでいたが、無事にサール宮を出てこられ、モモは胸を撫で下ろした。これから一行は護衛兵の案内でグロリアスの里へ向かうらしい。ルースと戦った古道ではなく整備された新道を使うのはわかっていたが、陰惨な記憶なだけに気も塞いだ。
 接見の間で、主君は公国がアクアレイア王家を葬ろうとしたことを話題にもしなかった。情勢がすっかり変わったからだろう。ルディアはいつも過去より未来を重んじる。
 だが普通の人間は受けた痛みを手離さない。わだかまりの根づいた心は同じ場所に留まろうとし続ける。だから案内役として元グレッグ傭兵団の男たちが現れたとき、モモはいささか緊張した。彼らに罵声を浴びせられるのではないのかと。実際にはそんないざこざは一つも起こらず、十名ほどの硬い顔をした護衛兵が各々の荷馬車の御者台に乗り込んだだけだったが。
 サール宮の跳ね橋の前、グロリアスの里を目指す行列は粛々と伸びていく。使者をもてなすための品々も次々に積み込まれた。

「通訳で防衛隊が来てるとは聞いたけど、本当だったんだな」

 と、聞き覚えのある声が響いて振り返る。こちらを見やる少年と目が合い、モモはわずかに身を震わせた。彼とアンバーの関係を知る前であればもう少し動揺せずにいられただろうか。

「ドブ……」
「それってジーアンから連れてきた馬? あんたも乗って移動すんの?」

 問いかけにモモは「うん」と答える。ぶっきらぼうだがドブの態度は険悪なものでもない。話しかけてきた理由が何か探ろうと三白眼を盗み見た。少年は斜めについと顔を逸らし、見られたくなさそうだったが。

「……ちょっとだけ話しておかなきゃいけないことがあるんだ。その馬後ろに繋いでさ、あんた俺の馬に乗ってくんない?」

 相乗りの誘いに瞠目する。隣でバジルが凍りついた気配がしたが、無視して「わかった」と応じた。わだかまりに目を伏せてでも接触してきたということはアウローラに何かあったのかもしれない。ほかに彼から打ち明けられそうな重大事項は思いつかなかった。
 ドブは列の先頭の馬に乗るらしい。鞍に上がった少年の手に引き上げられ、モモは彼のすぐ前に座した。グレッグの姿がないのできょろきょろと見回していると「おっさんならチャド王子についてるよ」と嘆息される。
 どうにも元気がなさそうに見えるのは気のせいだろうか。ドブの声は疲れている。健康な若者らしい溌溂さが足りていない。そう感じた理由は一行が進み始めるとすぐに知らされた。

「……あのさ。チャド王子、結婚するんだ。古王国のパトリシアってお姫様と」
「えっ!?」

 ほかの馬や荷馬車を上手く誘導しつつ少年は坂を下っていく。ひそひそ声で話すドブとモモの後ろで馬車の車輪がガラガラと音を立てた。

「俺たちももう王子付きの兵じゃなくなっちまうから、この間、最後の養育費届けてきた。グロリアスの先にある集落まで」

 思わぬ話にぱちくり瞬く。聞けばドブはチャドに頼まれ、何度か小姫のもとへ足を延ばしたようだった。「すげえ頼み込まなきゃ会わせてくれないんだけど、五体満足で育ってるよ」と報告を受ける。確かに訪ねてすぐの面会は不可能に違いない。アウローラの本体はマルゴー人の赤子に入れられたと聞いている。海色の髪の王女に戻すには時間がかかって当然だ。

「そっか……。ありがとね、今まで王女様を守ってくれて」

 礼を述べるとドブはしばし黙り込む。

「連れて帰ってやれないのか?」

 真剣な声に問われ、今度はこちらが返事に困った。

「わかんない。もしかしたら連れて帰れるかもしれないけど、アクアレイアもまだバタバタしてるから……」

 首を横に振ったモモにドブは「だよな」と重たげな溜め息を吐いた。帝国の使者を連れての来訪だ。彼のほうでも無理は言えないと堪えてくれた風である。ただそれでもドブはこちらに小姫を託したいようだったが。

「……マルゴーもさ、安全とはほど遠いと思うんだ。周りの国との関係がって話じゃなくて、この国自体が変なんだよ。嘘ばっかりで、王子だって我慢してばっかりで」

 城下へ至る通りは次第に道幅を広げ、前方には入国税を取るための監視塔が近づいていた。人々は昨今の不穏な空気を避けるように家に引っ込み、街にはまばらな人影しかなかったが、内緒話はそろそろ終わりにしたほうが良さそうだ。都の出口の石橋にはさすがに兵士の姿がある。

「俺が元々住んでた村、多分あそこが隠し銀山のある場所なんだ。昔から人をいっぱい乗せた馬車がよく来てた。村長は鉄山だって言ってたけど絶対違う。俺の母ちゃん、あそこの話を売ろうとして死刑に決まったんだから」

 びくりと小さく肩が跳ねた。母ちゃんというドブの言葉に。だが少年のほうはこちらの様子を気にする余裕もなさそうだ。

「ルースさんも、鉱山に人集めるのに人さらいの真似事やってたんだと思う。……わかんなくなっちまうんだ。ここにいると、誰が正しかったのか」

 苦りきった声でドブは「連れてけるなら連れてったほうがいい」と訴える。ああ、やはり彼はアンバーの息子だ。防衛隊にいい感情は決して持っていないだろうに。

「相談してみる。ありがとう」

 返答に少年はほっと安堵の息を漏らした。こちらからも彼女の話をするべきかと悩んだが、なんの言葉も浮かばぬまま橋の上の関所に辿り着いてしまう。

「塔に入る前に降りてくれ。もう後ろ戻っていいよ」

 下馬しろと言われればそうする以外仕方ない。後ろ髪を引かれつつもモモは石橋に着地した。
 行列はゆっくりと前進する。少年の背中は遠ざかっていった。



 ******



 山の日暮れが早いのは峰の向こうにすぐ太陽が隠れて見えなくなるからだ。平地であればゆっくり沈む夕日でも遮蔽物の多いアルタルーペではあっと言う間に一日の店じまいをされてしまう。
 ゆえにグロリアスの里に着いたとき、空はまだ明るかったがアークの里へと向かうのは断念した。暗くなれば道中の危険は増すし、ヘウンバオスも「我々が到着するまで重大な危機は起きない」と断言したからだ。
 ルディアたちは美しい翠の山岳湖を見下ろすプリンセス・グローリアの城にいた。今は時々公爵家が別荘として使うだけで、誰も住まない古城である。先に入城した護衛兵たちが簡易清掃を行う間、一行は空堀に架かる橋の前で里を眺めて時を過ごした。
 騎士物語の始まりの地。そしておそらく終わりの地。グローリアが少女期を過ごしたという城の周辺が保養地扱いされるようになったのは、毒の後遺症に苦しんだ彼女が晩年引きこもった地でもあるからに違いない。
 里は急傾斜の山と広い湖に挟まれたわずかな平地に家を並べる。哀れな姫の終の棲家は湖畔から少し離れた断崖沿いに立っていた。城から人が去ったのは老朽化のせいだけではないだろう。不吉なものには皆触れたがらない。古城は巨大な墓標なのだ。

(ん? あれは……)

 と、青空を横切って飛んでくる影に気づいてルディアはじっと目を凝らす。──鷹だ。こちらに接近しようとするのは琥珀色の翼を広げた鷹だった。
 一瞬ハイランバオスやラオタオの仲間かと身構える。しかしすぐ隠れ里にもコナーが置いてきた鷹がいるのを思い出した。サルアルカへ行かないかと師を誘う役目を果たしたアクアレイアの脳蟲だ。それなら今はあの二人と関わりはないはずだし、アレイアのアークを守る味方の一員のはずである。

「ピィー! ピィピィ!」

 舞い降りた鷹はルディアの差し出した腕に止まった。すぐに文字表を出してやろうとしたが、横から天帝に制止される。

「待て。中身を確認してからだ」

 それもそうだ。テイアンスアンで詩人側についた鷹ならジーアンの──袋型の蟲が入っていることになる。ひと目でわかることなのだからチェックはしたほうがいい。こんな会話を聞いても逃げ出そうとしないあたりで味方だろうと確信は持てたが。

「わかった。どこか本体を出せそうな場所は……」

 一帯に目をやると同時、背後で重い音が響いた。古城の門が開く音だ。振り返れば掃除を終えた護衛兵らが「使者殿、お待たせしました! どうぞ!」とこちらに手招きをしている。
 ルディアは天帝と視線を交わし、確認は城内で行おうと頷き合った。馬から降りると兵士の一人に手綱を渡して「休ませておいてくれ」と頼む。防衛隊の面々もルディアに倣って馬を放した。小橋を渡る部隊の後を羽ばたきしながら琥珀の鷹もついてくる。
 突然増えた猛禽に戸惑いつつも護衛兵は中を案内してくれた。武骨な石壁の城門塔がルディアたちを迎え入れる。屯所が一階、客室が二階、三階と四階は保全が行き届いておらず、立ち入るのはお勧めしないと首を振られた。
 時代物の山城だからか一階はホールすらない。狭い通路には圧迫感が滲んでおり、全体に息苦しかった。だが居住部の二階に上がると雰囲気は一変する。タペストリーが壁を覆い、山城の荒々しさをやわらげた。随所を飾る肖像画も最近の絵具を使用したものになる。この分なら客室は過ごしやすく整えられていそうだった。

「お部屋はちょうど六部屋です。続き部屋になっているので使者殿は一番奥をお使いになるのがよろしいかと。我々は屯所にいなければ厩舎か地下の厨房におります。御用の際はお呼びください」

 案内を終えた兵士たちは一礼して階下に去る。「晩飯何出せばいいんだろ?」「羊肉でいいのかなあ」と不安げなぼそぼそ声が聞こえなくなるとルディアはぱたりと扉を閉ざした。
 見れば気の早いことで、ヘウンバオスはもう銀に光る洗面器に水差しの水を注いでいる。無抵抗で首を絞められた鷹が線虫の正体を晒すと天帝はようやくほっとした顔で「話を聞こう」と息をついた。

「ピィピィー!」

 さて、鷹はやはり隠れ里で保護されていた鷹らしい。ブルーノからの急報を受け、彼はグロリアスでルディアたちを待っていたのだと教えてくれた。ほかの二羽は岩塩窟の見張りを務めているそうだ。自分はこれから集落に帰還して一行の到着を報告するが、ほかに伝言することはあるかと尋ねられた。

「いや、ひとまずは近くまで来たと伝えてもらえればそれでいい。ブルーノが着いたのも今日か? そうか。こちらもあまり遅れずに済んで良かった」

 必要な状況説明はブルーノが先に行ってくれたようだ。これならスムーズにアークの防衛に入れそうである。ヘウンバオスも同盟の件は明日で良かろうと言うので鷹にはこのまま飛び立たせる運びとなった。

「このくらいあれば通れる?」

 モモの手が山側の目立たぬ窓を押し開く。礼を述べるようにひと鳴きすると小さな遣いは翼を広げ、間もなくマルゴー杉の向こうに見えなくなった。
 ふうと小さく息をつく。──もうすぐだ。ハイランバオスたちを捕らえれば終わりにできる。今度こそ。

「さっさと部屋を決めて休むぞ」

 呼びかけるとアルフレッドたちはぞろぞろ移動を開始した。階段のすぐ横に位置する最初の部屋より次の部屋のほうが広く、調度品も質がいい。使者殿は一番奥をと言われた理由を理解する。その次の部屋は更にひと回り広くなり、同じ調子で客室はだんだん豪華になっていった。
 ヘウンバオスが湖を見下ろす角部屋に腰を落ち着けたので、ルディアは彼の隣室を使わせてもらうことにする。続く一室にはレイモンドが、次の一室にはアルフレッドが、その次にはモモが控えることとなった。最初の部屋を取ったのはバジルだ。位置的に出入りが最も多いはずだが大丈夫かと案じたが、弓兵は「これでも身に余る贅沢です……」と遠慮した様子だった。

「食事は朝に持ち運べるものを用意してもらおう。じきに日も落ちる。明日は明るくなったらすぐに動きたい」

 荷を解いてもう眠ろうと促せば皆頷いた。が、一人だけ首を縦に振らないでルディアを見つめ返す者がいる。

「城内の見回りはいいのか? 古い城だし、賊が潜んでいないとも限らない。なんならさっきの護衛兵に朝食を頼むついでに行ってくるが」

 安全確認をしたいと言うアルフレッドに皆は揃って目を見合わせた。最初に天帝が「お前たちに任せた」と早々に離脱する。見回りなど己の仕事ではないし、指示を出すのはルディアの仕事だと言うのだろう。
 だが彼が残るなら全員で点検には向かえなかった。政情不安定なマルゴーで、ジーアンの使者を一人にするほどルディアも愚か者ではない。

「俺と姫様は残るし、お前ら三人で行ってくれば? 一応こっちもあんま手薄にできねーだろ」

 と、そのとき、レイモンドが騎士に別行動を提案した。ルディアが与えようとした命令も彼のと同じだったのだが、声の響きがいやに冷淡だった気がして身がすくむ。横顔を見ればいつも通りに笑っているのに。

(レイモンド……?)

 違和感を覚えないのかアルフレッドは「そうだな。それが良さそうだな」とすんなり意見を聞き入れた。次いで騎士は是非を問う顔でこちらを見やる。

「あ、ああ。行くならお前とモモとバジルで行ってくれ。頼んだぞ」
「わかった。行ってくる」

 弓兵と斧兵を連れ、アルフレッドは客室を後にした。ヘウンバオスもドアを閉じ、室内はしんと静まり返る。

「………………」

 二人きりになったのにどうしても何をどう言えばいいかわからず、恋人の側でルディアは黙り込むばかりだった。



 ******



 騎士物語の城なんてアニークが聞いたら大騒ぎしそうである。「西パトリアにいるうちに私も行ってみたかったわ」と恨めしそうに零す声は容易に想像することができた。いつか彼女も来られるようになるといい。これからもう百年は人生を楽しめるのだから。

(プリンセス・グローリアの古城か)

 アルフレッドは石造りの山城の目の回りそうな螺旋階段を上っていく。随分昔に築城されたというのは本当らしく、レーギア宮や天帝宮とはまるで様相が異なった。壁は滑らかにされておらず、ところどころ積まれた石が出っ張ってぼこぼこしている。窓も小さくほとんど光を採り入れない。強いて言うなら城より監獄のイメージだ。否、もしかすると現代の監獄はこういう古い建築物を転用したのかもしれなかった。

「どこも埃まみれだな……」

 辿り着いた上階の惨状をランタンで照らして思わず嘆息する。立ち入らないほうがいいという忠告通り、三階も四階も閉口する汚さだった。埃だけでなくあちこちに蜘蛛の巣が張り、コウモリの糞らしきものも落ちている。横倒しのキャビネットや壊れた椅子には誰かの触れた形跡もない。
 一歩進むたび粉塵が舞い上がり、コホコホと咳き込んだ。こんなところには賊も居つきたくないだろう。もちろん不審者の気配もなかった。小さな城だし一応すべての部屋を見て回るつもりだが、ランタンの灯が小さくなったら撤退するべきかもしれない。
 そんなことを考えて眉間にしわを寄せていたら、隣を歩いていたモモとふと視線が交わった。彼女は彼女で黙々と巡視を行うアルフレッドに思うところがあったらしい。「あんまりはしゃがないんだね」と馴染みのないものを見る目で囁かれる。

「アニーク陛下と接合したのに騎士物語覚えてないの?」

 初めはその問いかけの意味を測りかねた。しばらく悩んでようやくああ、と合点する。「アルフレッド」は騎士物語を好いていたのにお前はここにいて何も感じないのかと、そう尋ねられているのだ。

「いや、全編しっかり覚えているよ。ただ俺は騎士になったから、前ほど強い憧れはないかな」

 記憶のページを繰れば『パトリア騎士物語』の情景は鮮やかに甦った。豪胆なプリンセス・グローリア。困惑しつつ彼女に仕えるサー・ユスティティア。一組の美しい主従への好感はある。だがそれだけだ。

「感慨深いものはあるがな。例えば集めたシーツを結んでロープ代わりにして、そこの窓から森に脱走したグローリアのことを考えると楽しくはある」

 返答にモモは「そっか」と目を伏せた。声はしっかりしていたが覇気があるとは言いがたい。喉の奥には飲み込んだ感情がありそうだった。傍らの弓兵もそんな彼女を心配そうに見つめている。

「前の俺とは違うと嫌か?」

 真正面から切り込めば二人は小さく息を飲んだ。
 承知している。握手をし、受け入れてくれた者たちも、ひとまずそれを選択したに過ぎないと。けれど己も己の道を曲げるわけにはいかなかった。

「俺には俺が『アルフレッド』とは別人だという自覚がある。同じになろうと努力しようとも思わない。彼が遺したかったものも、俺がそうありたいものも『騎士』だからだ」

 今の自分は「アルフレッド」のなりたかった「アルフレッド」なのだろう。そう言ってくれたモモならきっとわかってくれる。信じて告げた。己はここにいる己に満足していると。

「俺は『騎士』だ。お前たちの『アルフレッド』には多分なれない。それじゃお前たちはやっぱり嫌か? 俺が『アルフレッド』らしくないのは」

 静寂がまた深くなる。冷ややかな闇の淀んだ一室で、埃を吸った絨毯の上、アルフレッドはじっと二人の返事を待った。
 蟲と人が歩み寄るのは思う以上に難しいのかもしれない。「アルフレッド」もアニークを認めるまでに随分かかった。けれど以前とは違う生き物になったとしても、お互いを苦しめない距離を探ることはできるはずだ。火は何もかもを灰にするが、凍えた身体を温めてくれるものでもあるのだから。

「……わかりません。僕はただ、申し訳ないと思うだけです……」

 先に答えたのはバジルだった。自分のせいで悲劇が引き起こされたと信じる彼はアルフレッドに求めるものなど考えられないと首を振る。「そうだね、モモもわかんないや」と隣の少女も呟いた。

「でも無理にアル兄のふりされたらそのほうが嫌だから、変な気遣いしなくていいよ。前と同じほうがいいか、今すぐ答えられないけど……答えが出るまで待っててくれるんでしょ?」

 顔を上げ、まっすぐこちらを見上げる妹に「ああ」と頷く。それは死んだ男ではなく生ける己の役目だと。「アルフレッド」は主君以外のすべてを捨てたのではなくて、きっと己に託したのだと思うから。

「……僕は、本当は『アルフレッドさん』に謝りたいんです。あの人が許してくれていたとしても」

 と、弓兵が声を漏らす。握り拳を震わせて彼は小さな声で続けた。

「でも今は……今のアルフレッドさんがどうかということよりも、自分に何ができるのか考えたいと思います……」

 ランタンの灯が揺れている。皆の心を映すように。

「ありがとう、二人とも」

 アルフレッドは返答への礼を告げた。
 少しずつ、少しずつ、胸を開き合えればいい。そしていつかまた本当の仲間になれたら。

「あ、次の部屋で最後みたい。良かった。早く見回りして戻ろ!」

 続きの間へのドアを開いたモモがこちらを振り返る。鎧戸が壊れているのか半分開いた窓からは赤い光が差していた。
 もう夕暮れか。すぐに暗くなりそうだ。手早く用事を済ませなければ。

「モモは右から、バジルは左から回ってくれ。いいか?」
「はーい」
「了解です!」

 アルフレッドはベッドの下やクローゼット、そのほか隠れられそうなところに不審人物がいないかどうかチェックした。遭遇したのは結局蜘蛛や鼠ばかりだったけれど。
 後は屯所に寄るだけだ。モモとバジルと来た道を大急ぎで引き返す。護衛の元傭兵たちは面倒な夕飯作りから解放され、歓声を上げて喜んだ。

(明日はいよいよアークの里か)

 厚い鉄仮面の下、アルフレッドは唇を引き結ぶ。
 記憶にもない初めての地だ。気を引き締めてかからねば。ハイランバオスもどんな形で襲ってくるかわからない。
 剣の柄を握りしめ、必ずルディアを守り通すと胸に誓う。
 この先も、何があっても。



 ******



 パトリア聖暦一四四三年六月三十日。後世の歴史学者は言う。この日こそがパトリアの──そしてもっと広い世界の運命をも決定づけたと。
 山の端が仄かに白んできた早朝、ルディアは護衛兵たちに「遠乗りしてくる」と告げ、アークの隠れ里へと発った。徒歩では三時間の道のりだが馬の足ならもう少し早い。うら寂れた山道沿いの十戸ほどの小集落に辿り着いたのは日がまだ低いうちだった。

「姫様!」

 画家の隠れ家が見えてくる頃、前回の来訪時コナーから「差し上げます」と譲られた清楚な娘が駆けてくる。柔らかな髪を乱す彼女の中身はブルーノか。その後方には数人の村人がわらわらとついてきていた。
 ブルーノが事情を伝えてくれたおかげでルディアから改めて説明することはほとんどなかった。ジーアンの使者としてヘウンバオスが同行していること、マルゴー公との接見で軍事同盟が成立したこと、追加で聞かせた話はその二点くらいである。モモがドブから明かされたチャドの再婚話についても既に村人の知るところだった。

「そっちはどうだ? アクアレイアで何か新しい情報はあったか?」

 王子と聞いてぼんやりしていたブルーノはルディアの問いかけにハッとしてあれこれ喋り出す。海軍が小砦に兵を置き古王国軍の侵入を警戒していることだとか、トレヴァー・オーウェンが捕縛ののち獄中で死亡したこと、王国史を流出させたのはどうやら彼らしいこと。一つ耳にするたびに溜め息をつきたくなった。聞けばどうしてそんなことが起きたか思い当たるのに実際事が起きるまでは危機を察せぬ己のあまりの愚鈍さに。

(トレヴァー・オーウェン。そうか、彼の仕業だったか……)

 脳裏には海色の髪の娘が甦る。王女の代わりに散っていったジャクリーンが。
 トレヴァーが娘を想ってやったことなら責を負うべきは己である。また一つあの国を守らねばならぬ理由が増えた。

「アクアレイアにもそろそろジーアン軍が着く。きっと心配は無用だ」

 チャドがサールを発っていないから聖王もまだ動いてはいないはず。軍勢に潟湖が荒らされる可能性は以前より低まった。
 ルディアが告げるとブルーノはこくり頷く。続いて彼はドナの街で退役兵の死体が見つかる事件があったと報告した。

「退役兵の死体だと?」

 顔を歪めたのはヘウンバオスだ。またも同胞が手にかけられたと知って彼はぎりぎり歯を軋ませた。気圧されながらブルーノは「犯人はわかってなくて、それでドナの港が封鎖されたみたいです」と補足する。
 なるほどとルディアは嘆息した。どこまでも嫌なことをしてくれる連中だ。
 だが納得と同時に何か引っかかる。思考が言葉になる前に違和感は霧散してしまったが。

「僕からは以上です。あの、それで、実はコナー先生から姫様たちが着いたら岩塩窟まで連れてきてほしいと頼まれておりまして……」
「は? コナー先生に?」

 器も本体も殺されたはずの師の名に驚き、ルディアは思わず問い返す。だがブルーノは「息を吹き返したとかじゃないんです。行って会えばわかります」と難解な顔で言うのみだった。

「その子は視える子だからね。あんたたちは手を繋いでもらえばいいよ」

 一歩出てきた農婦がルディアの腕を引く。理解は進まぬままだったが聖櫃の無事を確かめに岩塩窟へは向かわなければならなかった。「わかった」と頷いて全員でマルゴー杉の林のほうへと歩き出す。
 山に掘られた横穴はやはり迷宮めいていた。よしんばハイランバオスたちがこの地を発見できたとしても自力ではアークのもとに到達できまい。そう確信を持つほどに。
 ブルーノに手を取られ、慎重に二度目の坑道を進んでいく。複雑に枝分かれした闇の先へと。
 はたしてその奥、その人はいた。淡く光る巨大なクリスタルの傍らに。

「コナー先生!?」

 ルディアの声に「おや」と師が振り返る。いつも通りの飄々とした佇まいで。
 だが異なことに画家の姿はうっすらと透けていた。まさかと思って「視える」という村娘の手を離せばコナーはどこにも視えなくなる。
 この現象には覚えがあった。イェンスの船で、祭司フスの存在を知らされたとき、浮かぶ右手が同じように見えたり見えなかったりしたから。

「存外早くおいでになってくださいましたね。ジーアンでのおおよその経緯は彼から聞きましたよ」

 ブルーノと手を繋ぎ直すと師はまた姿を現した。しかしほかの者たちの目に彼は映らないらしく、なんだどうしたとざわつかれる。

「コナーがいるのか? 今ここにか?」

 怪訝に眉をしかめた天帝に尋ねられ、ブルーノの空いた右手を握ってみろと促した。防衛隊の面々にも彼の肉体の一部に触れるように命じる。

「うおっ!?」
「こここ、コナー先生!?」
「ど、どうなってるの?」
「なんだか透けているように見えるが……」

 村娘の肩や腕を遠慮がちに摘まむ四人は怖々と画家を見やった。そんな彼らにコナーは「いやあ」とこめかみを掻く。

「再会を喜んでくれるのはありがたいが、正確には私は君たちの知る『コナー』とは少し違うのだよ。管理者が旅立つ前に保存した最後の複製(コピー)、それが私だ。だから私にはドナやテイアンスアンでの記憶がないのさ」

 説明を受けてもにわかには理解しがたかった。途中までしか書かれていない写本のようなものだと聞いてようやく少しイメージを掴む。
 アークの管理者ともなると聖櫃に己自身を移すことまでできるらしい。そう言えばテイアンスアンの洞窟にもレンムレン湖のアーク管理者が残されていたのだったか。衝撃続きで忘れていたが。

「というわけでルディア王女、私めにまたあなたの記憶を閲覧させていただけますかな? あらましはブルーノ君から聞いたのですが、アレイアのアークを守るために詳細が知りたいのです」

 コナーはにこやかにルディアに手を差し伸べた。聖櫃に触れることで記憶が丸ごと保存されるとは前回受けた説明である。必要ならば致し方ない。ふうと息をつき、ヘウンバオスに伺いを立てた。

「……お前との接合で得た記憶も見せることになるが、構わないか?」

 天帝はあっさり「いい」と頷く。何を覗かれることになってもアークの防衛以上に優先される恥などないと。
 ならばとルディアは透き通る巨石に指先を伸ばした。一瞬青い光の粒が掌に集まって、そしてすぐに泡が弾けるように消える。今回は千年分のおまけつきだ。飲み込むには多少時間がかかったらしくコナーもしばし沈黙した。

「うーん、なるほど……。テイアンスアンでそんなことが……。ひょっとしてハイランバオスが大暴走を始めたのは『私(コナー)』がはしゃいで喋りすぎたせいなのでは……?」

 唇に人差し指を押し当てて画家は真剣に考え込む。一人反省会が済むと師は面目なさそうに「いやはや、私の本体が申し訳ない」と謝罪した。

「芸術家の血と言いますか、ラテンの血と言いますか、楽しくなると手落ちが増えてしまうんですねえ」

 気まずそうに肩をすくめるコナーに冷えた眼差しを送る。思うところは多々あったが、今はそんな場合ではないので引っ込めた。その代わり、少し強めに問いかける。

「増えてしまうんですねえ、ではないですよ。それで我々はどのようにアークを守ればいいのですか?」

 言い訳を聞きにきたのではない。首を振れば師は苦笑いを引っ込めて「そうですねえ」と思案した。

「ハイランバオスは過去に『コナー』と接合していますから、時間をかければアークのプロテクトを解いてしまえるかもしれません。テイアンスアンで聖櫃の操作方法も目の当たりにしたようですしね。
 私のほうでも対策は行いますが、一番はアークに彼を近づけないことです。岩塩窟の守りを固めていただけますか?」

 初めにハイランバオスとの不慮の接合が起きた後、コナーは慌ててアークを今の岩塩窟に引っ越しさせたそうである。だが今回はそんなことをやっている暇もない。一時的にアークを眠らせ、機能を制限する以外「核」を守る手段はないとのことだった。
 師曰く「核」の破壊にはハイランバオスの身一つあれば十分らしい。爆発物を用いてアークを粉砕しなくとも、管理者の真似ができるなら中枢部に猛毒を流せるのだと教えられた。

「ね、眠り……? 猛毒……?」
「まあそれは比喩的な表現です。とにかく彼はその気になれば聖櫃の息の根を止められるわけですよ」

 指先一つでね、と師は白手袋の人差し指を突き立てる。幻を映し出したり、不可思議な生物を生み出したり、記憶を保存したり、長寿の霊薬となったり、そもそもが理解不可能な代物なのだ。滅びるときもこちらの想定する範囲には収まってくれぬということだろう。

「わかりました。以後この岩塩窟の出入口は封鎖します。次にお会いするときにはハイランバオスたちを捕らえたと報告させていただきますよ」

 踵を返し、ルディアは聖櫃のもとを去る。──否、去ろうとした。だが己の背中に注がれる、どこか眩しげな眼差しに気づいてくるりと振り返る。

「しかし本当に天帝との接合を実現し、アクアレイアとジーアンの協力体制を築き上げてしまうとは……。いやはや、あなたには感心しました」

 教え子の躍進を祝う教師の顔でコナーはルディアを称賛する。本体が死んだというのに今にも拍手を始めそうなほど画家は上機嫌だった。

「前々からそんな気はしていましたが、あなたはやはり普通の蟲とは違うようです。病変した脳を巣にした蟲だからなんでしょうか? どちらかと言えば我々管理者に近い視点で行動を選択なさっている。あなたは巣を出て外側から守ることを厭(いと)わない。ほかの末端の蟲たちは帰る前提で動くのに」

 コナーが何を伝えようとしているのか、初めルディアにはわからなかった。けれど師が跪き、恭しく首(こうべ)を垂れたそのときに、天啓のごとく理解する。己が彼に蟲を率いる王として認められたこと。

「『コナー』はもう戻りません。アークは末端の蟲のほかに、聖櫃を守ることに特化した蟲を生みますが、管理者本体を再度生成することは不可能です。
 ですからこの先はあなたに──広大な領土を統べるだろうあなたにアークの守護者となっていただきたい」

 改めて乞わずとも既に自分はそういう者となりつつあるのではと思ったが、戴冠式のようなものかと思い直す。
 聖櫃を守ることに特化した蟲とは隠れ里の村人たちのことだろう。寄生主の記憶の一部を人格の核にするのではなく、寄生主の記憶すべてを受け継ぐ特殊な蟲がいると前回コナーは語っていた。アウローラに入れたのは聖櫃の中枢に近いそんな蟲だと。
 アークの側で生活し、アークを見守る彼らを脇にして師がルディアに頼んだのは、これからジーアンがもたらす発展を期待してのことに違いない。

「──お任せを」

 肩越しの短い返事にコナーは笑った。ブルーノの手を離し、ルディアは急ぎ岩塩窟の入口へ戻る。外にはほかの村人たちも集まっており、横穴はただちに厚い扉と鎖で封じられた。

「私は守りのために残る。公爵から知らせがあれば伝えてほしい」

 と、腰に結わえた曲刀を確かめながら天帝が言う。彼はもういつどんな形でハイランバオスたちがやって来てもおかしくないと考えている風だった。

「一報を受け取るくらいなら古城に一人いれば十分だろう。お前たちも残れるだけここに残れ」

 ヘウンバオスの指示に一瞬皆が顔を見合わせる。モモとバジルはすぐに手に武器を掴み、防衛に加わる意思を見せたけれど、アルフレッドとレイモンドは先にルディアの返事を待った。

「そうだな。公爵とはまだひと悶着ないとも限らん。古城に待機するのは私が適任だろう」

 二人は「それなら自分も」とルディアに付き添う旨を告げる。一人でいると詩人たちに狙われるかもと言われると必要ないとは断りづらい。有り得ない話ではなかったし、グローリアの城には三人で戻ることにした。

「お前はどうする?」

 まだなんとも答えていないブルーノに問いかける。ほっそりした村娘の肩が震えるのをぐっと堪えて彼は強い目で返した。

「あの、僕、サール宮に行っても構わないですか」

 突飛な頼みに「サール宮?」と聞き返す。再婚話など出ているからチャドに会いたいのだろうか。非常時に私事を優先するタイプではないはずだが。

「ジーアンとマルゴーの軍事同盟が成立したって聞いてからずっと考えていたんです。もし公爵が口先だけで同盟に同意したんだったら、ハイランバオスがサール宮に隠れていても見つかったとは言わないですよね……?」

 問われてルディアは「ああ」と頷く。公爵にとってジーアンとの軍事同盟を受け入れることはパトリア古王国との決定的な断絶を意味する。ジーアン軍が聖王軍を蹴散らすような展開になればマルゴーは西パトリア全域から白い目で見られるだろう。いかに不仲であろうとも文化・習俗・宗教を同じくする集団と離別することに抵抗がないとは言えなかった。だからこそルディアも公爵が心変わりした場合に備え、隠れ里に兵を配しにきたのである。

「チャド王子、だったら多分、宮廷でハイランバオスたちを見かけたかどうか教えてくれると思うんです……」
「!」

 なるほどとルディアは合点した。チャドが苦しい再婚を求められているのは事実だ。彼の立場なら機密を漏らしてくれるかもしれない。それにティボルトがジーアンの手を取ることに決めたなら彼は聖王の娘などと結ばれなくて済むのだから。

「……そうか。では私と身体を交換し、サール宮まで行ってくれるか? 用件は『王子に再婚のお祝いを伝え忘れていた』とでも言えばいい」

 ブルーノはパッと瞳を輝かせ「ありがとうございます!」とルディアの手を握りしめた。不躾なことをしてしまったとすぐ青ざめて引っ込めたが。
 離れてしまった彼の手を自分から握り返す。頑張れよと励ます代わりに。

「サールへ行って戻ってくるなら時間がない。さあ早く入れ替わろう」



 ******



 これがコナーのアトリエで、住んでいるのは農婦とアウローラ。里には鷹が四羽いて、そのうち一羽はブルーノがジーアンから借りていた鷹。今は村娘が入っている。残り三羽がラオタオの飼っていた鷹。ラオタオの鷹に入っていたのはアクアレイアの脳蟲だから、一緒にアークを守ってくれる──。
 ややこしいなと眉を曲げつつアルフレッドは一つ一つ情報を整理する。主君とブルーノが姿を取り換えるのを待つ間することもなかったし、おそらく己の頭が一番こんがらがっていそうだから。
 皆が当然に知っていて自分だけが知らないことも多いのだろう。ブルーノがサール宮に行きたいと言ったとき、なぜ部隊全員が神妙に彼を見たのか己にはわからなかった。事情はモモがそっと耳打ちしてくれたが。
 まだかなと背後の家を振り返る。鎧戸の閉じた小さな一軒家。入れ替わりは首絞めに慣れた農婦が行ってくれていて、アルフレッドはレイモンドと玄関前で待機していた。見ていてくれと頼まれた馬を撫でながら微動だにしない扉を何度も確認する。

「姫様が村娘の身体に入るということは、公爵から連絡が入ったときはお前が対応することになるのかな」

 壁にもたれて腕組みする槍兵に話しかけた。ほかの者はもう各々の持ち場についており、隠れ家周辺には誰もいない。

「あー、そうだな」

 こちらを見もせずレイモンドはあまり気のない返事をよこした。槍兵は更に鷹の舞う空を見上げて完全に目を逸らしてしまう。

「どう言って古城に姫様を連れて入る?」
「使者殿が現地の娘をお気に召してとか言えばいいんじゃね?」
「そうか。なるほど」

 会話はそれ以上続かなかった。あちらから話しかけてくる気配もなく、風の音と鳥の鳴き声が沈黙を強調して響く。

「………………」

 ふうと小さく息をついた。彼とも一度、もっとちゃんと話しておくべきかもしれない。

「すまない。待たせた」

 そんなことを考えていたらこじんまりした扉を開いてルディアたちが家から出てきた。人の目があればレイモンドも多少はこちらを気にかける。「そんじゃ行こうぜ」と彼はアルフレッドに乗馬するよう合図した。

「三頭しかいないからな。ブルーノ、お前は私と一緒に乗れ」
「は、はい」

 相乗りするなら体重の軽い者同士のほうが馬も疲れなくて済む。二人が鞍に腰を下ろしたのを確認するとレイモンドが先頭を進み出した。アルフレッドも主君と剣士の後ろを守る形で続く。

(また一番離れたな)

 金髪の後ろ頭を見やってそうひとりごちた。気がつけば彼とはいつも距離が開いている。行動をともにすることは許容しても、できる限り近づきたくないとでも言うように。

(いや、レイモンドだけじゃないか)

 目を合わせ、公平な態度で接してくれても融けない壁のある人もいる。騎馬に不慣れなブルーノにコツを教えてやるルディアは今日も氷のごときだった。彼女が死した男の望みを受け入れて、アルフレッドを側に置くと決めてくれたのはわかるのに。

(俺はまだ姫様の孤独を消し去れてはいない)

 馬が走れば隠れ里はぐんぐん後方に遠ざかる。
 古城へと引き返すまでの約一時間、主君と槍兵を順に眺めて沈黙は重くなるばかりだった。



 ******



 レイモンドたち大丈夫だったかな、と彼らの去ったマルゴー杉の林の向こうをちらと見やる。主君とブルーノが入れ替わるのを待つ間くらい自分も一緒にいるべきだったか。いやでも結局古城で三人きりになるしな。
 うーんうーんとモモは唸る。閉ざされた岩塩窟の入口を守りながら。
 兄たちのことは心配だったが見送った以上できることは何もない。思い悩むのはやめておこうと気持ちを防備に切り替える。ハイランバオスがどんな策を弄するかわからない今、気を逸らすことはできなかった。

(バジルが戦えそうで良かった)

 同じく岩塩窟の入口を担当する弓兵の横顔を一瞥する。テイアンスアンまでは青い顔か白い顔しか見なかったが、彼は随分持ち直したようだった。表情は張りつめているし、以前ほど明るくもないけれど、それでも前を向いていると感じられる。彼は多分モモのためにそうすると決めてくれたのだ。己の痛みにかまけている場合ではないと。

(モモも早く元気出さなきゃな)

 視線を前の林に戻し、気づかれぬように浅く苦しい息を吐く。
 夜になると涙が出てくる。嗚咽まで上げるほどではないけれど。
 隣に彼女がいないこと、考えだすと眠れないから最近はあまり思い出さないようにしていた。けれどもうじきひと区切りつけられるはずだ。
 アンバーの仇を討たねば。
 あの狐たちが殺したに違いないのだから。
 油断すると崩れ落ちる蟲の姿が脳裏によぎって指が震えた。誤魔化すように強く斧の柄を握る。
 守りたかった。彼女が生きてここにいたなら守っただろうものすべて。

(落ち着いたらドブに声かけてみよう)

 古城で忙しく働いている少年を脳裏に浮かべる。かける言葉は決まっていた。
 怪しまれるかもしれなくても。拒まれるかもしれなくても。チャドのもとにいられないならうちに来てみないかと。
 半分アクアレイアの血が流れているなら本島でだって上手くやっていけるよなんてとても約束できないが、マルゴーに居続けるよりましなはずだ。帝国の使者が「気に入ったから連れて帰る」と言えば公爵も素直に送り出してくれるだろう。

(それでいいよね? アンバー)

 呼びかける。答えてくれない幻に。
 いつかきっと悲しみごと受け止められる日が来るんだよねと。



 ******



「では戦闘状態になったとしても実際に戦えるのはせいぜい十二、三名というところか。ふむ……岩塩窟と村の出入口の見張りで手いっぱいだな」

 村民が集まる家屋の食卓で広げた図面を睨みつけ、ヘウンバオスは戦闘員の数を数えた。アークの里は十戸ほどの小集落だ。普通の村に見せかけるために大人だけでなく子供もいる。マルゴー民としての生活もあり、全員がアークを守る戦線を張れるわけでは当然なかった。
 今現在配置についている六名を除けば武器を振るえる者はたった七名だった。昼と夜の交代制を採るにせよ、本当に見張るくらいしかできなさそうだ。とは言えハイランバオスたちも兵を率いて現れるとは思えなかったが。
 己がウヤの身体を借りて使者役を務めることは片割れにはお見通しだったに違いない。ならパトリアのどの国も使者に手をかけようとしないのも承知しているはずである。
 少数で忍び込んでくる。その可能性が最も高い。問題は彼がどうやってこの包囲を突破しようとするかだった。

「鷹はもう空に飛ばしているのだな?」
「あ、ああ。二羽ずつ出してる。昼過ぎにでも交代させるよ」
「中身はきちんと確認したか?」
「もちろんしたとも。全員こっちの脳蟲だった」

 軍議の卓を取り囲む村人の一人が頷く。この家の主で鷹の世話役でもある男は「心配なら呼び戻して確かめるか?」と首を絞める仕草を見せた。

「いや、いい。視認した者がいるなら十分だ」

 申し出を断るとヘウンバオスは解散を告げる。村民の把握も配備のし直しも後方支援の段取りも終わった。夜番の者にはさっさと仮眠を取らせたかった。

「指揮官が来てくれて助かったねえ」
「我々の本業は上手く隠すことだからな」

 ほっとした顔で彼らは自宅へ戻っていく。出番が来るまで体力を温存できるように。ヘウンバオスも鷹飼いの男の家を出て画家の隠れ家で休息を取ろうと歩み出した。

「気をつけて。鷹から何か報告があればすぐ伝えるよ」

 男の台詞に「頼む」と頷く。玄関扉を閉めればもう振り返りもしなかった。
 早く決着をつけたい。
 頭にあったのは一つだけ。
 果たすべき終わりのことだけ。
 だから多分、それを見逃したのだろう。



 ******



 彼は混乱の中にいた。
 なぜあの人を呼び止めて助けを乞わなかったのかと激しい後悔が胸中に大渦を巻いていた。
 板きれ一枚。震えを払い、扉を開いて「お待ちください!」とひと言叫べばすべてを放り出せるのだ。しかし彼にはできなかった。既に一度、聖預言者の頼みを拒んで同胞を殺されていたから。
 ハイランバオスとラオタオが隠れ里に踏み入ったのは一昨日のことである。二人は鷹にドブの後をつけさせて集落の場所を特定した。そしてゆっくり闇に紛れ、里で最も低地に位置する鷹飼いの男の家を襲ったのだ。
 詩人たちは隠れ里までは見つけられても岩塩窟の奥のアークを見つけるのは困難だろうと考えていた。だからドナで未接合の退役兵を殺しておいた。
 鷹飼いの本体を奪った二人は退役兵と──煩悶しているこの男と──接合を行ったのである。村人の記憶を盗み見、道案内をさせるべく。
 目論見は上手く行った。だが異文化圏の妻子と睦まじく暮らせるほど善良な退役兵はハイランバオスたちに疑念を抱き、何を企んでいるか知らないが加担できないと首を振った。詩人のほうもただで従わせられるとは思っていない。そうして縄で拘束された彼の前に蟲の泳ぐガラス瓶が取り出された。
 それは防衛隊が持ち運びきれず、ドナに残された蟲だった。第二グループの脳蟲と接合した砦の退役兵たちだ。と言っても彼にはその形状からジーアンの蟲らしいとしか判別はできなかったが。
 ガラス瓶の中身が半分床にぶちまけられたとき、彼は半狂乱に陥った。眼前で同胞殺しが始まったのだから穏やかではいられまい。「言うことを聞くと約束しないともっと殺してしまいますよ?」と囁かれ、彼は逆らえなくなった。
 身勝手にドナに引っ込んだ退役兵にも仲間意識は残っている。それに瓶には親しい友人が囚われていないとも限らなかった。ヘウンバオスに正体を明かし、自身の保護を願うより、彼は同胞の安全を取った。自分たちのものでない聖櫃がどうなろうと仲間の命には代えられなかった。

「近いうちにまた訪れるのでよく働いてくださいね」

 聖預言者の残したひと言は今も彼を縛っている。縄が解かれた後もずっと。
 ──飛ばしたふりをして鷹はどこかに隠さなければ。
 ぶるぶると身を震わせて扉に背中をへばりつけた彼の頭を去来するのはそれだけだった。












(20210510)