このサイトに置いている15話は「初稿」です。正式な「最終稿」は7月以降ノベプラ、なろうにアップします。
大幅な修正が予測されますこと、予めご了承ください。またSNSなどで関連ツイートをするのも7月以降でお願いします。









 パーキンから話を聞くに、どうやら事はアクアレイアだけで済んでおらず、西パトリア全体が大変な事態になっている様子だった。
 始まりはこの印刷技師が、ルディアが「絶対刷るなよ」と言いつけておいた騎士物語の最終巻を大量印刷してしまったことにある。おまけに彼はわざわざそれをパトリア古王国まで出向いて売りさばいたそうだった。
 同じタイミングで十人委員会から流出したアクアレイア王国史も西パトリアの貴族間に出回った。生前イーグレットがコナーに記させた愛国の書だ。もしアウローラを女王に据えての王国再興を目指していれば西パトリア諸国に協力を求めるための重要な手札となっていた代物である。そして今、聖王の掲げた旗の下にアクアレイア救援軍が結成され、ジーアンから姉妹国を取り戻そうとしているとのことだった。

「あ、アクアレイア救援軍……?」

 ぽかんと皆が口を開ける。当然だ。こちらは帝国自由都市派に転じて無血で故郷を取り戻そうと考えていたのにそんなものを作られては堪らない。しかしパーキンは救援軍の存在を喜んでもらえると思い込んでいたらしく「あれ? 功績に数えてもらえない感じ?」と困惑していた。

「その救援軍、古王国が断りもなく結成したものなのだろう?」

 ルディアの問いに印刷技師は「まあそうだろな」と軽く頷く。

「だとしたら迂闊に歓迎はできない」

 言い切るとパーキンは更に困惑した顔を見せた。本当に、いつもいつも頭のめでたい男である。
 なぜ救援軍の結成などという流れができたかは嫌というほどよくわかった。たかが王国史を読んだ程度で義憤に駆られて起(た)つ貴族が二千も三千もいるとは到底思えない。あの史書は大義名分を示しはしても現実の利は示さぬものだ。それこそ内密に誰にいくらを支払うと確約せねばアクアレイア嫌いの古王国の貴族たちが重い腰を上げるはずなかった。
 真に彼らを動かしたのは『パトリア騎士物語』のほうだ。反逆の決定的証拠とまでは行かずとも、最終巻に書かれていたのは「マルゴー公は銀山を隠している」という事実である。聖王は王国奪還の名目で兵を集め、アクアレイアの──実質的にはマルゴーの──国境付近に留めることで公国に圧力をかけんとしているのだ。今まで額を誤魔化してきた租税の埋め合わせをしなければ適当な理由をつけて攻め込むぞ、と。

(なんということだ……)

 ルディアは眩暈を堪えて深く嘆息した。ここで古王国の派兵を許してしまうかと。ハイランバオスがこの機を逃すはずがない。最悪アークの里が聖王軍に蹂躙されるおそれまであった。
 パーキンの特大愚行まで詩人たちの仕込みとは思えないからまったくの偶然だろう。しかし嫌な偶然だ。運命の──否、災厄の女神が彼らに微笑んでいるかのようである。

「あっ、けどいいことも一つあるぜ!? なんとアクアレイアからジーアン兵が一人残らずいなくなったんだ!」
「は、はあ?」

 と、渋面のルディアの機嫌を取ろうとしてパーキンがまた別の話を始める。だがもう既に悪い予感しかしなかった。
 アクアレイアからジーアン兵がいなくなった? 聖王が兵を向けているこの時期に? まともに考えて有り得ない。

「なんだかよくわからねえが、ラオタオ様がみーんなドナやらヴラシィやらに引き揚げさせちまったんだよ! これで古王国軍もアクアレイアに入りやすくなるよな!」
「ば、馬鹿! 何がいいことだ!」

 思わず声を荒らげる。パーキンは「アクアレイアに戦火が広がらないんならいいじゃん」と言いたいようだが状況はそれよりもっと深刻だった。
 聞けばラオタオはアレイア海東岸を統括する将軍の地位を悪用し、駐屯中のジーアン兵を一斉退去させたうえに港まで封鎖したようである。つまり祖国の戦力は現状ほぼゼロ。機能麻痺寸前の海軍とその予備兵、わずかな神殿騎士がいるのみだった。
 アクアレイア救援軍など名乗っていても聖王軍が街に入れば何をしでかすかわからない。友軍から略奪を受けた都市など古来いくらでも存在する。そしてもしそうなったとき、アクアレイア人に身を守る術はなかった。
 ぐちゃぐちゃだ。アクアレイアも、マルゴーも。

「……駄目だ。一旦幕屋まで戻ろう。方針を話し合わなくては……」

 ふらふらしながらルディアは宿の出口へ向かう。ともかく詩人たちの動向は掴んだのだ。今後のことをヘウンバオスに相談したかった。

「こいつどうする?」

 パーキンの首根っこを掴みつつレイモンドが問うてくる。まさか捨てていくわけにもいかない。「とりあえず連れて行こう」と溜め息まじりの指示を出す。ネブラに放置するよりはジーアン兵に囲まれていたほうが彼も大人しいだろう。諸々落ち着くまでは帝国の世話になるのが良さそうだった。

「ええっ!? 宿代まで払ってくれるんですか!? レイモンド様ーッ!!」

 これからどこへ連行されるか想像もしていない顔でパーキンが感謝を述べる。印刷技師と槍兵と斧兵を先に行かせ、ルディアはしばし裏路地に留まった。
 アルフレッドの肩に止まっていた鷹に──黙って話を聞いていたブルーノに──そっと小さな声で命じる。

「アクアレイアまで飛んでくれるか?」

 鷹はこくりと頷いた。港が封鎖されたという情報が出たときに、もうその役を引き受けるつもりでいてくれたのだろう。海の移動が制限されているのなら翼ある者が空を行くしか道はない。

「モリスとカロからアクアレイアの現状を聞いたら隠れ里まで向かってくれ。聖櫃に危機が迫っているとあちらの者に知らせてほしい。お前はそのまま里にいて、我々の合流を待っていろ」

 命令に応えて羽を広げるとブルーノはさっそく大空へ飛び立った。心配そうなアイリーンやバジルと一緒に彼を見送る。
 鷹の姿が見えなくなるとルディアは郊外の幕屋群へと引き返した。この先の戦略を立て直すために。



 ******



 獄中でトレヴァー・オーウェンが死んでいるのが見つかった。第一報を受け取ってニコラスは「そうか」と息をついた。極刑判決が下る前に彼は自ら死を選んだか。おそらくはそうなるだろうと悟っていたが。
 老いた足を進ませてニコラスはレーギア宮のバルコニーからアクアレイア湾に目を落とす。今はまだ静穏を保っているエメラルドグリーンの潟湖に。
 王国史の持ち出しが発覚したときトレヴァーは十人委員会から逃げ出そうとしなかった。あの繊細な軍人にはこの世への未練などもはやなくなっていたのかもしれない。どんな悪手でも再独立の布石さえ打てれば。
 可愛がっていた一人娘が王家のために死んだこと。こちらが考えるより彼はずっと思いつめていたようだ。思えばトレヴァーはユリシーズが死んだときも喜んでいたほどなのだ。これで今後は再独立派が力をつけていくはずだと。
 もっと注意して見ておくべきだったのだろう。こうなってしまってからでは何もかも遅すぎるが。

「……ほかに変わったことは?」

 嘆息を飲み込んでニコラスは侍従に問う。人手不足でゴンドラ漕ぎに密談になんでもこなすようになった男は「いえ」と首を横に振った。

「強いて言うなら海軍が……。いや、いつも通りはいつも通りなのですが」

 続いた台詞にげんなりする。
 レドリー率いる主力部隊は防衛任務に就いたはいいが、相変わらず壊滅的に統率が取れておらず、古王国軍を歓迎してジーアンから守ってもらったほうがいいのではと言い出す者もいるらしい。ただやはり自由都市派のユリシーズが頂点に立っていた組織だけあり、王国再独立派には傾きたくないと考える者も多いそうだ。そんなに意見がバラバラではいざ戦闘になったとき上手く連携が取れるのか却って不安が募ってくるが。

(ジーアンが建てさせた小砦があってまだ助かったのう)

 このために用意した防衛設備ではないだろうが、戦闘経験の少ない予備兵も真新しい望楼にいれば多少安心できるようだ。
 ともかく聖王にアクアレイアの地を踏み荒らさせてはならない。王家再興の根回しすらできていないのに古王国がアクアレイアをまともに扱うはずないのだから。

(聖王と公爵の間で話がつけば兵も退くはず。それまでの辛抱じゃ)

 古王国の軍勢はアクアレイア湾の西岸、アルタルーペの麓に陣を敷いたきりまったく動いていなかった。彼らの目的が貧しくなったアクアレイアなどではなくマルゴーの隠し銀山にあることは知れている。それでもいつどういう形でこちらにも魔手が伸びるかわからなかった。
 突然すべてのジーアン兵を撤退させたラオタオの思惑も不明である。脅威が去ったと確信が持てるまで気は抜けない。
 ぼろぼろの船だとしても舵取りが舵を離すわけにいかなかった。生きた者が乗った船である限りは。



 *******



 ディランの姿をしていた頃に蒔いた種がちょうどいいときに実ったようだ。「いずれアクアレイアのために力をお借りしたいのです」とそそのかしていた貴族たちが勢揃いした天幕を眺め、ハイランバオスはにこりと微笑む。
 元々パトリア古王国ではヘウンバオスから脳蟲の巣(アクアレイア)を奪う算段で動いていたのだ。計画は変更したが、手札は流用可能である。それがなんだか面白い形で整ってきてくれた。どうやら流れはこちらに向いているらしい。

「約束は果たしましたよ。今度は私のお願いを聞いてくださいますね?」

 問いかけに「うむ、うむ」と聖なる老肥満体が頷く。
 ハイランバオスとラオタオは彼の迎えた客として古王国軍の軍議に同席していた。約束とはアクアレイアに留まっていたジーアン兵を送り返すことである。その代わり、彼らはこちらを仲間に加えてくれる手筈になっていた。
 聖王にはアクアレイア包囲戦の際に強めに息をかけておいたので簡単に事が運んだ。海側から強襲を受ける可能性がほぼなくなり、彼は大いに喜んでいる様子である。

「なぜバオス教の教主殿が帝国を裏切るような真似を……」

 と、胡散臭げに指揮官である貴族の一人が睨んでくる。「ジーアンにも色々とあるのです」と軽くかわせば彼はますます眉間のしわを深くした。

「私はマルゴーへ行きたい。あなた方はマルゴーを攻めたい。私が使者としてサールへ赴けば公爵があなた方の要望を拒絶したとき『アクアレイア救援軍に参加せぬどころかジーアン帝国と通じている』と侵攻の理由をこじつけられるのですから、それでいいではありませんか」

 詮索を牽制すると指揮官は押し黙った。顔には理解できないと書いてある。なんの得もしないのにどうして自分から引っ掻き回しにいくのかと。
 ただ彼も聖王が考えなしにハイランバオスたちを懐に入れてしまったので、さっさと厄介払いしたい思いのほうが強いようだ。いつまでも帝国の造反者に居座られては古王国がジーアンから狙われる羽目になる。だから結局、彼らはこちらの望む通りにしてくれる。

「あなた方はここで吉報をお待ちください。使者の役目を果たした後も我々が戻ることはありませんのでご安心を」

 指揮官から公爵宛ての書簡を受け取り、懐に押し込む。布張りの天幕を出るとこれからともにサールへ向かう古王国側の使者団が待っていた。
 聖王家の第七王女パトリシア・ドムス・オリ・パトリア。それと彼女付きの女騎士。あとはまあ覚える必要もなさそうな護衛たちだ。
 可愛い末娘を使ってまで銀山が欲しいとは見上げた老いぼれ君主である。彼の余命などそれこそ十年もなさそうに見えるのに。

「よろしくねー」

 愛想良く手を差し出したラオタオにパトリシアは一瞬すくみ、しかし気丈に「よろしくお願いいたしますわ」と応じた。肩で切り揃えたベージュの髪も、パトリアグリーンの清らな瞳も乱れない。長いことディアナ神殿の筆頭巫女を務めてきた高名な聖女というのは本当のようだ。
 だがそんなことはハイランバオスにはどうでも良かった。美しく慕わしい魂以外のことはどうでも。

「ではそろそろ参りましょう」

 テイアンスアンよりよほど優しげな峠を見やって歩き出す。アークのもとへ続く道。

「ああ、そうだ。あれを始末しておかなくては」

 踏み出してからふと思い出し、ハイランバオスは懐のガラス瓶を取り出した。草原の旅を安全に終えるためだけに引き連れた、その前は古王国での工作時に「巣のために頑張りましょう」と使い倒した、けれどもう不要な蟲たち。
 型違いながら今日まで上手く乗せられてくれたなと感謝する。蓋を外して瓶を逆さに引っ繰り返せば彼らは液ごと地面にびちゃり落下した。
 跳ねる水滴。意味がわからず首を傾げる王女たち。ラオタオだけは楽しげににやつきながらこちらを見ている。
 聖櫃を破壊する邪魔をされては困りますからね。
 ひとりごち、空になった瓶を戻す。
 小事を終えるとハイランバオスは再び山道を歩き始めた。
 ずっと望んでやまなかった千年の終幕に向けて。



 ******



 天帝のもとを訪ねたのはルディア一人だけだった。パーキンは縄で拘束したが、ぐるぐる巻きでもあの男は油断ならない。念のためモモたち皆に見張ってもらっているのである。本当にもうこれ以上余計な真似のできないように幕屋の周囲は退役兵(マルコム)たちで固めてきた。ここまでしてもまだ何かやらかされそうで不安は拭いきれなかったが。

「……そんなろくでもない奴ならいっそ殺してしまえばどうだ?」

 街での顛末を聞き終えたヘウンバオスが呆れ気味に問うてくる。しかし彼はすぐ「いや、技術は真に優れているのだったな」と思い直した。
 長椅子の上、瞼を閉じた天帝はその裏側に接合で得た新たな記憶を浮かべて参照している風だ。彼とは細かい話をせずとも意思決定が格段に早く済むので助かった。こういうレベルで通じてしまうから半身をもがれた彼の痛みには底がないのだろう。
 絶望の日に出会った蟲の仲間。それも自身から分かたれた。ヘウンバオスの胸中を思ってルディアは小さくかぶりを振る。今はそういうことを考えている場合ではない。何はともあれ「しばらく置いてやっていいか?」と印刷技師の件を頼む。

「一人増えるくらい別に構わん。というか退役兵に監視させているならドナへ連れて行って砦にでもぶち込めばいいだろう。どうせあちらにも人を回さねばならんのだからな」

 ヘウンバオスにも狐たちがジーアン兵を退去させた報告は上がっているようだった。アクアレイアに戦力を戻す手配がどこまで進んだか、彼はルディアに端的に教えてくれる。

「あの二人、単に港を封鎖しただけではなく、ご丁寧にドナから船という船を追い出して入江に鎖をかけたそうだ。今ヴラシィに『ドナへ大型船団を送れ』と早馬をやったところだが、どう急いでもアクアレイアの防衛態勢が整うまで十日はかかるぞ」

 十日。破格のスピードには違いないがそれでも微妙な日数だった。上陸及び略奪行為が始まって終わるには三日もあれば十分と思うと。しかし今はほかに打つ手もない。聖王の関心が銀山から逸れないように祈るばかりだ。

「連れてきた兵の半分はドナからアクアレイアへ送る。その際に接合がまだの蟲の延命を終えてしまいたい。アイリーンと退役兵にも手伝わせるが、それでいいな?」

 問いにルディアは同意した。アクアレイアが再び戦地と化せば今度こそ手の施しようのない致命傷となってしまう。完全にハイランバオスの手の内なのは否めないが、ここは兵力を分けるしかなかった。

「……あれはもうマルゴーに入ったと思うか?」

 長椅子に深く腰を沈め、ヘウンバオスが重々しい声で尋ねる。小さく頷き、ルディアは「この手際なら入国したと考えるべきだろう」と答えた。
 我々も急がなければ。
 視線を交わして頷き合う。

「二年半前にマルゴーに求められていた休戦協定の延長。あれを承諾しに来たという体で使者団を遣わせる」

 天帝は言う。君主の器と後方の指揮はファンスウに任せ、自分がその使者に化けると。防衛隊は通訳のふりをして付き添えとのことである。

「ジーアンからの賓客ならサールに近いグロリアスの里で保養したいと求めても、ついでにその近隣村落まで足を延ばしてもとやかくは言われまい。そこでハイランバオスたちを迎え撃つ」

 アンバー経由でどんな情報が漏れているかわからない。今は何より隠れ里のアークのもとへ辿り着くのが先決だ。天帝の示す意にルディアも「わかった」と応じた。

「支度ができたらすぐに発つぞ。お前も仲間に伝えてこい」

 身体を取り換えるのだろう。ヘウンバオスが長椅子から立ち上がる。
 ルディアもただちに彼の天幕を退出した。一秒でも早く公国へ向かうために。



 ******



「いやあああ! いやっ! いやああああ!!」

 防衛隊の幕屋に王女が戻ると同時、パーキンはマルコムたちに引きずられて別の幕屋へ移っていった。「なんでドナに!? ジーアン兵の皆さんとご一緒に!?」と印刷技師は半泣きだったが憐れむ気持ちは微塵も起きない。お前の信用がなさすぎるのだとレイモンドは薄目で見やるのみだった。
 ルディアによれば彼はこれからドナの砦に一時投獄されるらしい。「首枷でもつけておかねばハイランバオスに集中できん」という意見には同意した。「牢に放り込む前に処遇を告げると逃げられそうだし、砦までは何も言うなと頼んである」との指示内容の的確さにも。

「レイモンド様助けてェ!!」

 玄関布の向こう側、パーキンの泣き叫ぶ声が遠ざかり、ようやくふうと息をつく。どうしていつもあの男は最悪な事態を更に最悪にするのだろう。詩人や狐とは別の意味で災害だ。

「……あ、あのう、なんなんでしょうかあの人は……?」

 と、おずおずと弓兵が尋ねてくる。バジルのほうからレイモンドに話を振るなど再会してから初めてではなかろうか。モミアゲの件は何も聞かずに推察で終わらせるより聞いて確認したほうがいい。彼の判断は正しいと思う。

「あいつはパーキン・ゴールドワーカーっつって、俺の印刷工房の共同経営者でな……」

 答えつつレイモンドは遠い目になってしまった。パーキンをアクアレイアに連れてくるリスクはわかっていたはずなのに回避できなかったなと。こんな風にならないために己が彼を御さねばならなかったのに。

「活版印刷機という素晴らしい発明品を世に生み出した男だが、人格と行動に問題がありすぎて果てしなく厄介な奴なのだ。お前も気をつけてくれ」

 質問を引き取ってルディアがあれこれパーキンの破天荒ぶりを伝えてくれる。ろくでもない武勇伝を一つ知るたび弓兵は「ヒエッ……」と息を飲み込んだ。
 久しぶりにパーキンの顔を見た後だと「反省するだけバジルのほうがまともだな」と思えてくる。それですべてを許せるわけではないけれど。
 サルアルカへ行って帰って約半年。「アルフレッド」の処刑日からは七ヶ月。時間は過ぎても膿んだ傷が癒える兆しはどこにもなかった。怒りを押し殺そうとするほど皆から遠くなっていく。
 どうすればいいのだろう。作り笑いもできなくなったら、どうすれば。

「うーん。女帝陛下と接見したときはもう少し真っ当な男に見えた気がしたが……いや、うん、そうでもなかったかな……」

 間近で響いた声にレイモンドはぎくりと肩を強張らせた。振り返れば鉄仮面を外した騎士が神妙に顔をしかめている。正体がばれぬようにアルフレッドはパーキンの前ではずっと黙ったままだったから、急に会話に参加され、心臓がばくばく波打った。
 やはり彼は覚えているのか。レイモンドが印刷技師と老詩人を伴って意気揚々と宮殿に赴いた日のことを。

「あいつの話はもういいよ。今はそれよりマルゴーのことだろ」

 不自然にならないように目を逸らし、不自然にならないように話題を変えた。騎士の口からあの日のことを聞きたくなくて。
 どんな思いで「アルフレッド」はレイモンドを迎えたのだろう。成功した、恋も名誉も父親も手に入れた幼馴染を。
 いつから彼は惨めだなんて感じるようになったのだろう。一体いつから。

「確かにその通りだな。公国で戦闘になる可能性も高い。ネブラにいるうちに装備を見直しておいたほうがいいかもしれない」

 言ってアルフレッドは剣を抜き、刃こぼれがないか確かめた。点検が済むと刀身はすぐさま鞘に戻される。
 見ないように見ないように努めても馴染んだ声と金属音はどうしようもなく胸を締めつけた。喉が詰まって息ができない。遊牧民の衣装を着た幼げな彼でなく、甲冑を纏う精悍な騎士にこうして隣にいられると。
 頭がぐるぐる混乱してくる。死体は動いてはならないのだ。だってこれではあまりにも──。

「そうしてるとほんとにアル兄みたいだよね」

 と、今まで黙って見ていたモモが呟いた。言葉にしてほしくなかった言葉にレイモンドは瞠目する。そうして思わず吠えかけた。そんなわけないだろう、あいつは二度と戻ってはこないのだと。

「あのさあ」

 だがその前に少女が真剣な面持ちで続ける。有無を言わせぬ、決意を固めた強い眼差しで。

「マルゴーに入るならモモも無事でいられるかわからないし、今のうちに皆に言っておきたいこと言っていい?」

 一瞬暗く伏せられた双眸はきっと砂漠で死んだ女を浮かべていた。噛みつく意志はたちまちに失せ、レイモンドは押し黙る。
 知っていた。サルアルカからの帰り道、彼女がじっと一人で考え込んでいたこと。死者のために何をなすべきか考えていたことを。
 ルディアも、バジルも、アイリーンも、アルフレッドも斧兵に目をやった。皆静かに彼女の次の言葉を待つ。

「あのね、モモちょっと嘘ついてた。今のアル兄もアル兄だって信じてるけど心のどっかで別の人だって感じてる」

 感情を乱すことなくモモは続けた。「死んでほしくなかったし、死なせたくもなかったよ」と。「なんでモモに見送りなんてさせるのって本気で憤った」と。

「でも──」

 ほんのわずか声が震える。
 彼女がどんな結論に至ったか、なんとなくわかる気がした。それを聞いたら己もきっと揺らいでしまうと。だが兄に似ていかなるときもまっすぐな少女は果敢に迷いを口にする。

「でも今のアル兄は、アル兄がどうしてもなりたかったアル兄なんだよね? 前のアル兄と同じじゃなくなったとしても、モモが止められなかったことにもちゃんと意味があったんだよね?」

 アルフレッドがどうしてもなりたかったアルフレッド。ほかのすべてを灰にしてでも志した彼の夢。
 騎士以外の生き方はできない男だ。隣で見てきた己はよく知っている。
 モモの瞳は変わってしまった兄を見ていた。兄に答えを求めていた。

「すごく悲しかったけど、いつかこれで良かったんだって言えるようになるんだよね……?」

 問いかけにアルフレッドが思案した。騎士は真摯に言葉を探しているように見えた。

「……そうしてみせるよ。俺の全身全霊で」

 短い返答。嫌になるほど誠実な。
 流れる空気がやわらぐほどにレイモンドの心臓は冷たく凍りついていった。
 こいつは「アルフレッド」じゃない。ともに過ごした十二年をこいつは何も覚えていない。
 こいつは「アルフレッド」ではないのだ。最後にレイモンドが会った、あの「アルフレッド」では。
 どうしてと渦巻く嘆きは静まらなかった。
 モモも、ルディアも、きっと誰もが友人の遺したものを大切にしようとしている。己にはどうしてもそれが受け入れがたい。
 ちらつくのは酔って荒んだ幼馴染。
 わかっている。何がこんなに苦しいのか。
 仲直りがしたかったんだ。
 ただそれだけ。



 ******



 何もしないで自分を納得させられるのと、かつて己に向けられた彼女の言葉を思い出す。
 モモは強い。悲痛な思いに打ちのめされてもなすべきことを放り出さない。そんな彼女だから自分は一心に憧れてきたのだ。
 今日の間に発つと言われ、バジルは弓矢の支度を終えるとドナ組のタルバに別れを告げに来ていた。薄灰色の大きな猫。ドナへ着いたら彼も仲間の接合を手伝うらしい。砦には小間使いをやっている脳蟲が残っているし、汲んできたままのアクアレイア湾の海水も保管されているはずだった。
 天幕並ぶ緑の湿地。泥濘で足を汚した猫がこちらをそっと見上げる。
 こんな展開になるとは思ってもいなかった。ジーアンとアクアレイアが手を取り合い、蟲の延命が進むとは。
 可能性はきっと数多くあったのだ。一つしかないと信じ込んでいたやり方も。あのときもっと考えてみれば良かった。

「マルゴーから戻ってきたらまたガラス工房を始めましょうね」

 呼びかけるとタルバは「ニャア……?」とためらいを帯びた声で鳴く。猫の目は窺うようにこちらを見つめた。
 思えば彼も律儀な男だ。約束を破ったことなど詫びずに去れば良かったのに、いつまでもバジルを気にして償おうとしてくれる。
 己も覚悟を決めなければ。
 苦く笑ってバジルは続けた。小さな決意表明を。

「水銀鏡もレースガラスもたくさん作ってアクアレイアのために働かなきゃと思うんです。僕にできるの、やっぱりそれだけだろうから……」

 悔いはある。たとえ駄目だと首を振られても皆に相談するべきだった。人のよすぎる「アルフレッド」はきっと本気で許してくれていたのだろうが、自分で自分をまだ許せない。
 それでも今は少しでも前を向いていたかった。一人でも走れてしまうモモを見失わないように。彼女を守り抜けるように。
 皆で行って、皆で帰って、そうしたらできる贖罪を始めたい。

「せっかく寿命も延びたんですし、手伝ってくれますよね?」
「…………!」

 お互い一から修行のし直しだと言えばタルバはこくりと頷いた。
 湿原の短い草をさざめかせ、強い風が吹き抜ける。アルタルーペの山々から吹き降ろした強い風が。
 苦しくても背負ったものと一歩ずつ進んでいく以外はないのだ。
 誓った心は静かだった。



 ******



 罪の所在はいつだって不確かだ。もっと多くの悪事に手を染めた人間がいるときでさえ別の誰かが清算を求められる。
 パトリア古王国から使者が参じているので同席するように──。突然そんな命令を告げられ、チャドはきょとんと首を傾げた。
 古王国から使者が来る。それはわかる。騎士物語の最終巻はこのサールにも取り寄せられたし、まずい火種になるのは明らかだったから。
 父ティボルトは公国内での販売と複製写本の製作を即座に禁止したけれど、西パトリア各国であれが出回っているとしたら考えられることは一つだった。不正に誤魔化した税を納めるか領土そのものを差し出せと迫られるときが来たのである。
 騎士物語は公的文書などではない。空想の産物に何を仰せかと拒絶するのは可能だろう。だが隠し銀山の存在は純然たる事実だった。古王国の使者たちが該当地域を調査すれば嘘はただちに露見するのだ。
 秘密裏に銀の採掘を続けてきたことを姉の口から聞いたとき、胸に巣食った冷めた気分が甦る。父と姉は重犯罪者だけでなく、食うに困って盗みを始めた幼子や、たまたま通りがかったロマ、傭兵団志望の若者など、放り込めそうな人間は誰かれ構わず銀山に放り込んでいた。劣悪な環境で何人死んでいったのか、考えるだけで吐き気がする。
 そのうえ銀山の管理者は公国の後継者である兄だった。奸智を巡らす素養がないと見なされた己だけが何も知らずにのうのうと生きてきたのだ。公爵家はマルゴーのために働いているのだと信じて。
 独立戦争を仕掛ける目前に聖王に秘密を知られ、うろたえる父たちを気の毒とは思えなかった。罪なき者まで地獄に落として自分たちだけ無事に済むはずないのである。そこまでせねば得られない平和なら最初から別の道を採るべきだった。長期的視野も、実際的な権限も持たない己が何を言っても戯言にしか聞こえないのだろうけれど。
 だからこそ驚いた。古王国から遣わされてきた使者と話し合う場に自分まで呼び出されたこと。
 自室に籠っていたチャドが「すぐ来なさい」と命じられたのは謁見の間ではなく父の執務室だった。兵に急かされ、ともかくも部屋を出る。案じる素振りのグレッグには「大丈夫だ」とだけ告げて。

(わざわざ私を名指しするなど一体誰が来たのだろう? 古王国に懇意な者はいないはずだが……)

 行ってみると意外な人物が待っていた。並べられた小椅子のうち最も上等な一席に腰かけていたのはパトリア古王国第七王女パトリシア・ドムス・オリ・パトリア。今は引退したらしいが、女神ディアナの祭事には必ず呼ばれる高貴な巫女だ。傍らには片時も彼女の側を離れぬという女騎士マーシャが護衛らとともについていた。ダークブラウンのツインテールはなるほどどこかで見た気がする。
 だがチャドの目を釘付けにしたのは可憐な娘たちではなかった。王女の座るすぐ後ろ、小椅子にふんぞり返る狐目の青年と、一見穏やかな笑みを浮かべる聖預言者。意識は完全にそちらへ持っていかれていた。なぜこの二人がこんなところにいるのだと。

「は、ハイランバオス殿……?」

 レーギア宮で何度か顔を合わせた男は無言のまま微笑を崩しもしなかった。アレイア海東岸の寄港地を開放すると見せかけて、アクアレイアを罠にかけたバオス教の教主である。目が合えばざわりと悪寒が背筋を駆けた。
 ジーアン帝国十将の一人ラオタオもにたにた笑ってこちらを仰ぐ。なんとも言えない嫌な顔だ。以前に一度、聖預言者への伝言を携えて彼が王国を訪ねたとき、イーグレットに挨拶しに来た彼はまだ親しみを持てそうだったのに。
 チャドが彼らと関わったのはルディアの伴侶であった時期の、中でもほんのわずかな機会だ。二人が己を呼んだとは少々考えにくかった。
 どういう状況なのだろう。探ろうとして執務机のティボルトに目を向ける。だが父は何も説明してくれなかった。ジーアンの二人については不明な点しかなかったせいかもしれないが。

「チャド、これを読んで」

 間を置かず父の隣についていた姉ティルダから一通の書簡が差し出される。言われるがまま封を開いてチャドは再び驚愕した。そこに書かれていた通告に。

「聖王を謀(たばか)った公爵家を追放するか、銀山を譲渡するか選択せよ……。ただし後者の場合、古王国への反逆意思がないことを示すためパトリシアとチャドの婚姻に同意し、夫妻は聖都に住まわせよ……?」

 そうすれば公国の独立を認めてやって構わないとの一文に目を瞠る。莫大な銀と引き換えに、聖王の孫がマルゴーを継ぐのなら、血を流さずに王国の名をくれてやろうと。
 絶句する。なんのために己が呼ばれたのかを悟って。
 父も、姉も、聖王の出した条件に同意するつもりなのだ。チャドに一生人質として囚われよと暗に命じているのである。

「古王国はアルタルーペの麓に五千の兵を集めています。その気になれば倍に増やすのは簡単ですよ? 何しろ古王国内には常時多くの戦力が仕事を求めてうろついていますからね」

 涼やかな声でハイランバオスが補足した。現時点で兵の中にはマルゴー出身の傭兵も少なくないと。

「同士討ちはあなた方も避けたいのでは?」

 くすりと預言者が笑う。美しいこのアルタルーペでマルゴー人とマルゴー人が切りつけ合うなど悲しいでしょう。そう言う割にハイランバオスは楽しげだ。そんな事態になれば深い禍根が残り、後々まで公国の民を分裂させるとわかるだろうに。

「……チャドよ、良いな?」

 父はまったく逆らえる様子ではなかった。重々しく発された声に「はい」としか答えてはならぬ圧力を感じる。
 これしか残されていないのだ。祖国の平和を守る道も、公爵家が生き延びる道も。せめて銀山の話が別の形で出ていれば違ったのだろう。我らは貧しいと言いながら財を秘していた公国に不信を募らせ、招集に応じなくなった傭兵団は数多い。金を作り、兵を育てれば悲願は成せると積み上げた父の努力の一切は無駄になったのだ。
 断ればどうなるのだろう。淀んだ思考がちらついたが、どう考えても自分にそんな自由はなかった。反抗などするだけ無駄だ。どうせ勝手に決められる。

「承知しました……」

 かぶりを振って小さく頷く。承諾に立ち上がったパトリシアが「チャド様、どうぞお願いいたしますわ」と恭しく一礼した。

「そうか。では婚約者殿を客室へお連れしてさしあげなさい」

 旅の疲れをねぎらうように言いつけられ、執務室を退出する。護衛兵たちは揃って聖なる王女の後をついてきたが、ハイランバオスとラオタオはそのまま部屋に留まった。どうやら彼らはまだ密談があるらしい。

(再婚か……)

 覚悟はしていたことだったが、こんな形でその日が来るとは思わなかった。
 聖王家の人質婿。自分にはきっと似合いだろう。
 不意に脳裏をよぎった青に目を伏せる。終わった話だ。あの子とのことは。パトリシアは学識高く温厚で、民にも気安いと聞いている。己の立場の低さを思えば十分すぎる相手だった。

「参りましょう」

 エスコートの手を差し伸べる。月光のように白い手に。
 極力何も考えないよう歩き出した。
 瞼に焼きつく潤んだ青と少しでも遠ざかるように。



 ******



 想定より事態は遥かに悪いほうへと進んでいる。ただ銀山の所有が知られた程度なら他国と手の組みようもあったのに。王国史が古王国を、西パトリアをまとめる理由を作ってしまった。更にこの二人の客だ。

(聖預言者ハイランバオス、ジーアン十将ラオタオ……)

 ティボルトは執務室に残る青年たちを見やった。
 使者として訪れたのがジーアンの要人だという時点で嫌な予感しかなかった。条件を聞き入れなければ即戦争、最悪の同士討ちになる。それ以上に。

「あなた方の望みは一体なんなのです……?」

 怖々と問いかける。古王国に協力してまで彼らが何を行おうとしているのか。そちらに巻き込まれるほうがティボルトは恐ろしかった。逃げ道のないままにとんでもない災いに巻き込まれる気しかしなくて。

「詳細は説明しても意味がないので伏せますが」

 そう前置きして預言者が告げる。

「私たちをジーアン帝国から匿っていただきたいのです。実は少々悪ふざけが過ぎまして、天帝陛下に追われる身でして」

 やっぱりとティボルトは身を震わせた。ネブラにジーアン騎馬軍が結集しているとは聞いていたが、あれは裏切り者を討伐するためだったのだ。古王国に攻められずともこのままではまた帝国に進撃される羽目になるのではないのかと眩暈がしてくる。

「北パトリアへ逃れる準備をいたします。それでよろしいですかな?」

 できるだけ迅速にこの荷厄介な青年たちを追い払おうとそう尋ねた。しかし二人は満面の笑みで「いえ、しばらく滞在させていただきます」と首を振る。

「コナーに会いたいのですよね。公国にいると伺いまして」
「は、はあ?」

 意味がわからず尋ね返すが二人はそれ以上何も語らなかった。本音を言えば今すぐ彼らを捕らえてジーアンに差し出したいが、そんなことをすれば「なぜ使者に狼藉を働いた」と古王国から反逆を疑われるだろう。こちらはどうすることもできない。

「匿ってくださるだけで結構です。もしジーアンから私の消息を尋ねる使者が来ても『会っていないし見てもいない』と言い張ってくだされば」

 ね、簡単でしょうと囁かれてもとてもすぐには頷けなかった。生きた心地がまるでしない。こんな危険物を抱えたままでは。

「……マルゴーで何をなさる気なのですか?」

 問いかけに聖預言者は答えなかった。隣の青年将軍と見つめ合い、くすくすと不快な笑みを零すのみだ。

「私たちはただコナーに会いたいだけですよ。彼が腰を落ち着ける村落があるはずなのですが、ご存知ではありませんか?」

 会えればすぐに出て行くと言うハイランバオスに差し出せる情報はなかった。あの画家が公国に足を踏み入れたのはグレッグ傭兵団とアルタルーペを越える途中の峠までで、その後は行き先を変えたことしか知らない。
 マルゴー内の村落に腰を落ち着けていた? そんな話は初耳だ。

「ほんとにわかんないみたいだよー、ハイちゃん」
「残念ですね。ですがまあ、調べてはくださるでしょう。用事が済めば我々は長居の予定もありませんから」
「そっかー。じゃあしばらくはサール宮でごろごろかなー」

 勝手にそう納得し合うと客人たちは黒のロングケープを羽織り直した。旅装で立襟装束を隠してくれればジーアン人とはわからない。安堵して「ひとまずティルダに部屋に案内させます」と申し出る。

「やった! リッチな部屋で頼むよ?」
「それはどうも、助かります」

 二人はにこやかに礼を告げ、執務室を出て行った。振舞いだけは親しげに、しかし微塵もこちらを思いやりはせず。
 無人となった室内にはティボルトの深い嘆息がこだました。
 南からは聖王軍、東からはジーアン軍。
 どうすればかわしきれるのだろう。
 この状況をどうすれば。



 ******



 部屋に行ってもチャドがいないので執務室まで迎えにきたが、余計なことは考えず大人しく待っているべきだったかもしれない。曲がり角から顔を覗かせ、どう見ても怪しいロングケープの客人を眺め、ドブは息を押し殺した。
 公爵家の裏側など覗かぬほうが賢明だ。探しにきた主人の姿も見当たらないし、関わり合いになる理由がない。己は何も目にしなかった。陰鬱な顔で出てきたティルダに見つかる前に引き返そうと心に決める。
 それなのにまあなんと目敏いことだろう。ドブが踵を返した矢先、客の一人が「あれっ?」とこちらを振り返った。

「ひょっとしてドブ君じゃない?」

 軽やかに弾む声には聞き覚えなどまったくない。フードの下の狐を思わせる面立ちも。
 男は少しも臆すことなく大股歩きでドブのもとへ寄ってくる。思いがけない急接近に硬直した後あたふたした。
 執務室から出てきたということはそれなりの地位にある人だ。誰だったかと思い出そうと頑張っていると「あはは」と明るく笑われる。

「ごめんごめん。前にコナー先生から聞いた子かなと思っただけ。俺と君とは初めて会うよ。知らなくって当たり前!」
「えっ? えっ?」

 なんだ、人伝に特徴を聞いていただけかとほっとする。忘れるなんて無礼なと叱られるかと思ってしまった。偉い人は面倒な難癖をつけたがるし、身構えすぎていたようだ。
 それにしても初めて会う人が「あ、あの子」とピンと来るほど己は個性的な人間だろうか。どちらかと言えば雑踏では埋もれるほうだと思うのだが。
 疑念は湧いたがコナーの名前と友好的な男の態度がドブの緊張をやわらげた。あの画家がひととき一緒に旅しただけの傭兵団の少年をよそで話題にしていたというのもまた妙な気がしたが。

「ドブ君この宮殿で働いてたんだ。先生とはその後も交流続いてる?」
「えっ!? えっと……」

 この質問にはどう答えるべきだろうかと喉が詰まった。ドブは今、月に一度グロリアスの里の奥にある小集落までアウローラの養育費を届けに行っているのである。公爵家に殺されかけた小姫の生存を知る者は己とグレッグ、チャドだけで、三人の中では己が一番目立たず動きやすいから。
 実は今日もあの村から帰ってきたばかりであり、さっさとチャドへの報告を済ませようとしていたのだ。
 だがしかしそんなことをペラペラと喋るわけにはいかなかった。厚い絨毯の敷かれた石の通路には客人を待つティルダがおり、じっとこちらの会話に耳を澄ませていたから。

「あー、いや、超有名な人なんで、俺なんかとは……」
「そっかあ。そうだよねえ」

 視線を泳がせつつ答えれば狐目の男ががっくり肩を落とす。彼もあの画家のファンか何かなのだろうか。わからなかったがコナーの話にはあまり触れずにいたかった。気を逸らすべくドブは話題を切り替える。

「あのう、ところであなた様は一体どちらの……」

 狐男はシーと唇の前で人差し指を立てた。どうやらこれは聞いてはならないことだったらしい。

「あっ、すみません」

 すぐさま詫びると彼は朗らかに首を振る。

「いいよ、いいよ。知らない奴に急に話しかけられたら誰だって思うよね」

 流暢なアレイア語。だが本当に彼はどこの人なのだろう。古王国やマルゴーでは見ない感じの顔立ちだが。もう一人廊下の隅に立っているロングケープは横を向いていて瞳も髪も見えなかった。ただなんとなく、己などは声をかけるのも許されない高貴な人ではないかと思う。

「ところでドブ君は生活困ったりしてない?」
「へっ!?」

 藪から棒の問いかけに思わず声が裏返る。

「い、一応宮殿勤めなので、食べるのや寝るのに困ることは……」

 おずおずと返答すると「わあ、すごい。ちゃんと自分で身を立ててるんだ。偉いねえ」と褒められた。
 なぜだろう。急に母を思い出す。家の手伝いをしたときも、友達の困り事に付き合ったときも、母はドブを力いっぱい褒めてくれた。懐かしいあの響きにどこか似ている気がしたのだ。

「困ってるならいくらか渡しておこうかなって思ったけど、必要ないか」
「あ、あの? なんで俺にそんな……」

 コナーから話を聞いていたくらいでそこまで強い親近感を覚えるだろうか。逆ならともかく、会ってすぐに金をやろうとする男など見たことも聞いたこともない。
 だが彼の目を見つめているとなぜか母の笑顔が思い浮かんでくる。知らない人で、性別さえも違うのに、どうしてこんなに重なって見えるのだ?

「うーん。そうだなあ。想像してたよりも実際の君がいい子そうだったから、かな?」

 微笑にうろたえてドブは思わず後ずさりした。
 こういうのを慈愛の眼差しというのだろうか。何かが胸を大きく揺さぶり、わけもわからず泣きそうになる。

「申し訳ございません。これ以上は人が通りがかるかもしれませんので……。もう部屋へ向かっても?」

 ティルダの問いにケープの青年が「ありゃ残念」と肩をすくめる。そうしてくるりと背を向けた。

「また会えたら話そうね。俺たちコナー先生に伝えたいことがあるんだけどさ、居場所知ってる人がいなくて長期滞在になりそうだし」

 肩越しに投げかけられたその台詞に衝動的に「あの!」と声を上げかけた。伝言だけなら己が預かりましょうかと。
 しかし理性で押し留める。かろうじて「はい、また。話し相手が俺なんかで良かったら」とだけ頷いた。

「ありがと!」

 振り向きざま、狐目の青年がこちらの頭をくしゃりと撫でる。掌の温度までやはり母を彷彿とさせ、彼らが廊下の奥へと消えていった後もドブはしばらく動けなかった。
 公爵家の客。きっと関わるべきではないのに。
 あの人はなんなのだろう。心臓がまだ震えている。







(20210427)