このサイトに置いている15話は「初稿」です。正式な「最終稿」は7月以降ノベプラ、なろうにアップします。
大幅な修正が予測されますこと、予めご了承ください。またSNSなどで関連ツイートをするのも7月以降でお願いします。
ゆっくりと瞼を開く。目まぐるしく脳裏を駆け巡っていった一千年の記憶に静かにおののきながら。これがこの男の辿ってきた道のりか。震えを抑えて隣を見ればヘウンバオスはもうしゃっきりと敷物の上に起き上がり、何やら沈思に耽っていた。
不思議なものだ。知るということは。アクアレイアを罠にかけ、父を殺した相手なのに、敵だという感覚は絹のごとく薄れていた。アクアレイアを失えば己もきっと同じ郷愁に囚われる。わかるから、接合を行う以前の自分に戻れる気がしなかった。
彼のほうはどうだろう。身を起こし、顔を覗けば複雑そうな目と目が合う。はあ、と嘆息一つ落としてヘウンバオスは立ち上がった。そうしてルディアを絨毯に残し、自分は長椅子に座り直す。
「ろくでもない計画を立てていたくせによくぞ教える気になったな」
天帝の言葉を受けて幕屋内に控えていた兵と将が一斉に武器を構えた。拘束されるかと思ったが、ヘウンバオスの腕が無言で制止する。
「取り急ぎサルアルカに戻り、未接合の脳蟲と可能な限り接合を行う。その後すぐにマルゴーへの旅の支度だ。いいな」
ざわめく蟲たちに天帝は「後でゆっくり説明してやる」と言った。ひとまずルディアを信用する気にはなったらしい。ハイランバオスの破壊行動を止めるべく最も重要な機密を打ち明けたことは理解してくれたようだ。
「お前たちもその女を敵だと思わなくていい。……その女は、王女ルディアは新たな私の半身だ」
苦しげに吐かれた息にどんな感傷がこもっていたか、記憶のおかげで推測はたやすかった。古いほうの半身を彼は本当に大事に思っていたのだから。
ルディアは頷く。今まではなかった色を帯び始めたヘウンバオスの眼差しに。一千年の歴史があまりに圧倒的で、こちらのほうは彼を己の半身だなどと口にしづらいものがあるが、分かち合ったものはやはり特別だ。
「感謝する」
礼を述べ、ルディアは幕屋の隅にいた部隊の面々を振り返った。天帝が片手で払う仕草を見せると兵たちがそそくさと脇に退く。立ち上がった皆とともにルディアは退出しようとした。ジーアン側のことはもうヘウンバオスに任せてしまっていいだろう。
そのときふと思い出す。一つだけ、もしあの男の希望を叶えてやれるなら、そうしたいと願っていたこと。
「すまない。個人的な頼みなんだが──」
ひと言告げればヘウンバオスは「そんなことか」とあっさり了承してくれた。出発まで時間もあるし、今のうちに済ませてしまえと。
「ありがとう。どうしてもほかの者では駄目だからな」
今度こそルディアは天帝の幕屋を後にした。横たわるダレエンとウァーリの傍らに座り込んでいた女帝を連れて。
******
火事のせいで半分に減った天幕はどこも兵士と荷物でいっぱいになっていた。アニークがルディアに連れてこられたのはそんな幕屋の一つである。これからここで何を行い、アニークがどうなるか、王女は丁寧に説明した。
内容は先刻ヘウンバオスに対してなされたものと同じだった。おそらく同じだったと思う。親しくしていた二人の死に呆然として理解はできていなかったけれど。
接合、と言うらしい。延命ついでに記憶を共有するそれは。
ルディアは小さな幕屋から兵士たちを追い出した。彼女の部隊の兵士もだ。残ったのは三人だけ。ルディアとアニークとアルフレッドの三人だけ。
「あいつが何を考えていたかわかるよ」
苦笑と微笑の間のような顔で王女が肩をすくめる。一人で何もかもわかった風に。
「具体的にこうしろと頼まれたわけではないが、私なら汲んでくれると思ってあいつは言葉にしなかったのだと思う」
それから急に礼を言われた。場違いなまでに真摯に、ありがとうと。
「私の騎士が世話をかけた」
言って彼女はきょとんとしているアルフレッドに目をやった。
眩しいものを見る目だった。心のどこか灼かれた者の。
ルディアはきっと生涯己に仕える者としてアルフレッドを認めたのだろう。まだ今の彼のすべてを受け入れてはおらずとも。
勝手に負けた気分になる。彼女は永遠を手にしたのに己には何もない。何も遺してくれなかった。「アルフレッド」は、アニークには。
うつむいたまま押し黙り、誰の顔も見なかった。そんなアニークにルディアは穏やかな声で告げた。
「……水瓶も縄もある。接合を始めよう」
頸動脈が絞められると意識は一瞬で暗転する。常ならば間を置かず次の覚醒が訪れるが、今回はその前に不思議な夢がアニークを取り巻いた。
生まれてまだ半年にも満たぬ彼の慎ましい思い出たち。意味ある言葉にすらならなかった親愛と信頼。アルフレッドの目から見る己は優しく温かだった。物語を聞かせれば彼は喜び、即興詩を紡げば尊敬の念を高めた。
沁み渡る。憂いに彩られていた景色が少しずつ塗り替わる。
まっさらな彼の瞳で見る世界。幼いけれど彼らしい温もりに満ちた。
記憶の中のアニークが剣を返しながら笑う。その笑みに拭いきれない哀切を感じ取り、アルフレッドは胸痛め、なす術もなく黙り込んだ。
燃え盛る天幕に飛び込む。主君の次に慕う女が無事でいて、彼は安堵に息をつく。ああこの人を死なせなくて良かったと。
──どうしてだろう。彼は「アルフレッド」ではないのに。別人だと知っているのに嬉しいのは。
これと同じことが今、彼の身にも起きているのがわかるからか。
「────」
跳ね起きた。溢れる涙を頬に伝わらせたままで。
ルディアはなんと言っていた? 「あいつが何を考えていたかわかるよ」と、彼女はそう言っていなかったか。アニークとの接合は「アルフレッド」自身が望んでいたことなのだと。
「どうだった?」
問いかけが降ってくる。同じ絨毯に膝をついた王女が微笑みながらこちらを見ている。
分かち合う情報量の差だろうか。アルフレッドのほうはまだ眠りの中にいるようだった。
「………………」
簡単に答えられるわけがない。
胸がいっぱいで喉が詰まる。
何も遺してくれなかったのではなかった。アニークを置いていったあの騎士は、最初からアニークと──アニークの想いすべてと新しい生を生きてくれるつもりだったのだ。
「アルフレッド……」
後から後から涙が溢れて止まらない。
恋は報われたのだろうか。「アニーク」と私の恋は。
******
突然すべての点と点が線で繋がったようだった。己が何者だったのか、何者になろうと苦しんでいたのか、彼女の記憶が教えてくれる。一つずつ眩しい光で照らし出して。
思い出したわけではない。だがかつて己自身だった男の胸中は明白だった。アニークに感じていた恩。確かな情と慕わしさ。それらを越えるルディアへの強い想い。
ゆっくりと起き上がり、隣で泣いているアニークを見やる。いつにも増して彼女を近しく感じるのは魂の半分が溶け合ったせいだろうか。
「大丈夫か?」
主君に問われてアルフレッドは頷き返した。まだ多少ふらつくが、動くのは動けそうだ。
足に力をこめて立つ。ここはジーアン兵のために用意された幕屋だから、己は部隊の──防衛隊の幕屋のほうに戻らなくてはならなかった。そう、もう、これからは。
「アニーク陛下」
アニークが身を起こしやすいように手を差し出す。女帝はアルフレッドよりひと回り小さな手でこちらの掌を握り返した。
見つめ合うけれど言葉はない。互いの瞳に互いを映し出すだけだ。
立ち上がっても彼女はしばらく動かなかった。だからアルフレッドのほうも黙ったままでハンカチを取り出し、褐色の頬を流れる涙を拭う。
「あげる」
と、アニークが片耳に残っていたパトリア石のピアスを外した。少し湿ったハンカチにそれを受け、アルフレッドはポケットにそっと押し込む。
「私は先に戻っているぞ」
どういう気遣いかルディアがそう言って幕屋から出て行った。部隊で集まり直すなら己も早く追わなければ。
だが言葉が出てこない。舌は縺れたままだった。ありがとうとかすみませんとか何か言わねばならないのに。
焦ったからかポケットから抜いた手がこつんと剣の柄に当たる。アニークが守ってくれていた騎士の剣。それでようやく言葉が決まった。
アルフレッドは彼女を見つめる。
そして静かにひと言だけ問いかけた。
「……俺の剣に、あなたの名前をつけていいでしょうか」
黒い双眸が瞠られる。夜の泉に似た瞳。いつだって鏡のごとくアルフレッドを映してくれた。いつも、いつも、どんなときも。
アニークは震えながら頷いた。小さく、けれどはっきりと。
深々と頭を下げてアルフレッドは女帝の面前を立ち去った。
身を捧げるべき人がいる。だから一緒にはいられない。けれど互いの胸の中に特別な居場所を持つことはできるはずだ。
アルフレッドは防衛隊の幕屋へ急いだ。ルディアの騎士として在るために。
******
騎士と女帝の接合準備が整うと主君は部隊をさっさと幕屋へ帰してしまった。待機を命じられたバジルたちは特別することもなく、アイリーンやブルーノと一様に黙り込んでいた。
かまどの横には引き取ってきたアンバーの遺体。否、ディラン・ストーンの空の肉体と言うべきか。入れるなら早く次の脳蟲を入れてしまわねばならないのに誰も何もできずにいる。この身体が動いたら、まだ彼女が生きているように悪い錯覚をする気がして。
モモはもう泣いてはいない。声もなく、ただ肩を落としている。
「どうしてアンバーはあんなところにいたのかしら……」
アイリーンがぽつりと疑問を口にした。モモの前で今そんなこと聞くなよと言いたげにレイモンドが彼女と少女を順に見やる。
「……何か様子が変だって、あいつらの後追っかけてくれたんだろ。一人でも俺たちの誰か気づいてりゃ良かったんだ」
それは違うと首を振るべきか逡巡した。
それは違う。多分違う。断定したくはないけれど、宿営地に火をつけたのはアンバーだ。足音を忍ばせて、かまどから取り火して出て行った彼女の背中をバジルは見ていた。それに火が出る直前までアンバーとは河畔で話をしていたのだ。「ちょっと来て」と呼び出しを受けて。
「あなた部隊を抜ける気でしょう」
彼女はぴしゃり言い当てた。どうしても居心地悪く、皆の輪に戻りきれない己を見つめ、真剣な目で。
「駄目よ。あなたはモモちゃんの側にいてくれなきゃ」
アンバーがそう諭す意味がわからずバジルは「でも」とうつむいた。そんな要望とてもではないが受け止められる気がしなかった。
資格だって到底あるとは思えない。防衛隊を続ける資格も、モモの隣に立つ資格も。それなのにアンバーはこちらの言葉を聞き入れようとしなかった。
「これはまだほかの子たちには内緒ね」
そう言って彼女がそっと打ち明けたのは狐に脅迫されていた事実。「私だって状況さえ違えばあなたみたいになっていたのかもしれないのよ」とアンバーは続けた。たまたまラオタオとハイランバオスがルディアに肩入れする気になり、たまたま裏切りに手を染めずに済んだだけだと。
「勘違いしないでほしいんだけど、別にあなたを慰めてるんじゃないから」
柳の間、乾いた砂漠に流れゆく雪解け水を眺めながら女優は鋭く釘を刺した。自分は部隊に受けた恩を返したいだけ。曖昧な立場で仲間の顔を続けた分もと。
「モモちゃんはあなたのことを見捨ててない。だからあなたが自分の過ちから逃げないで。あの子がなんとかやり直そうと頑張っていること、私は台無しにしたくないのよ」
最後に聞いた彼女の言葉が耳の奥にこだまする。遺言になってしまったその言葉。
もういない。モモを支えてくれた人は。
自失したまま座り込む少女の小さな後ろ姿をただ見ていた。己に何ができるだろうと悩みながら。
ルディアが赤髪の騎士を連れ、幕屋へと戻ってきたのはそのときだった。
******
次に部隊に何か通達するときは解散命令になると思っていたのにな。複雑な思いでルディアは一同を見渡す。
幕屋内には妙な緊張が漂っていた。きっと自分がアルフレッドを連れ帰ったせいだろう。
接合を経た騎士はもう何も知らない幼子ではない。大きく欠けて損なわれたものが元に戻ったわけではないが、少なくとも己が誰で、なんのためにここにいるかは承知しているはずだった。
「………………」
沈黙が場を支配する。赤い双眸は案じるように項垂れた少女を見ている。
と、静寂が破られた。顔を上げ、よどみない声を発したのは今の今まで肩を震わせていたモモだった。
「マルゴーに行くんだよね? ハイランバオスとラオタオを止めに」
薄紅の眼が鋭く光る。彼女は早くも獣の獰猛を取り戻していた。「そうだ」と頷き返せばモモはよりきっぱりとルディアに告げる。
「モモも行くから」
斧兵は過去に一度公爵家に命を狙われている。それでも行くというのだから決意はさぞや固いのだろう。「わかった」とルディアは承諾した。
心配を通り越し、ぎょっとした顔でレイモンドたちが少女を見やる。
「だ、大丈夫か?」
槍兵が遠慮がちに問いかけるとモモはぎり、と指先を握り込んだ。
「だって行くしかないでしょ」
後ろに戻っても何もない。彼女の瞳が語っている。ああそうだ。この兄妹は前へ前へしか進まないのだ。
「ぼ、僕も行きます!」
突然バジルが立ち上がり、そんな宣言を響かせた。どんな心境の変化が彼にあったのだろう。虚ろだった表情にはひとかけらの勇気が覗く。
「僕も……行かせてほしいです……」
震え声の懇願に苦笑を浮かべた。天帝の比でなく己も甘いなと。
本来なら弓兵は厳罰の対象だ。新たな任務になどつかせられない。だが今はわずかでも戦力が欲しかった。
「いいだろう。ただしもう一人で暴走するんじゃないぞ」
言い含めるとバジルはこくこくと頷く。そのままルディアは視線を滑らせ、レイモンドやブルータス姉弟にも同行を依頼した。
「すまないが、お前たちもあと少しだけ私に付き合ってくれないか」
今度こそこれが最後の大仕事となるだろう。天帝はアークを守る意を固め、ルディアの手を取ってくれた。世の趨勢(すうせい)がどう変わってもジーアンと敵対することは二度とない。百年後には命尽きる彼らの、アクアレイアだけが後継者となれるのだから。
「当たり前だろ」
「マルゴーなら多少は勝手がわかりますし」
「わ、私で役に立てそうなら」
三者三様の返答に「ありがとう」と礼を述べた。
と、隣で見ていた騎士が一歩前へ踏み出す。それから彼はこの場に集う全員に呼びかけた。
「レイモンド、バジル、モモ、ブルーノ、アイリーン」
芯の通ったはっきりした声。今までの子供じみていた彼とは違う。
「もう一度、改めてよろしく頼む」
アルフレッドの差し出した手に五人は一瞬硬直した。「アルフレッド」の最期を知り、騎士の自覚を備えた彼に応じることが何を意味しているか惑って。
きっとこれが本当のはじめましてだ。だから迷っても仕方ない。誰が騎士を拒んでも。
重苦しい沈黙が続く。皆が揃って身を凍りつかせる中を、一番にやって来たのはやはりというか彼女だった。
「うん。よろしくね」
痛みを堪えた表情でモモが「アル兄」と囁く。
次いでブルーノがおずおずと騎士の掌を握りしめた。
アイリーンも「蟲のこと、わからなかったらなんでも聞いてちょうだい」と彼に告げる。
初めは躊躇を見せたバジルも意を決し、立襟装束から覗く騎士の手を掴んだ。
「……すみません、僕のせいで」
衝動的に出たらしき謝罪にアルフレッドは静かに首を横に振る。「接合で得たアニーク陛下の記憶が間違いないものなら『アルフレッド』は少しも気にしていないよ。むしろお前を心配していたくらいだ」と。
「自分で選び取ったことで、最後まで後悔しなかった。……俺のほうこそ何も知らずに、つらい思いをさせてしまってすまなかったな」
弓兵はもう目尻に溜まった涙が溢れぬように耐えるだけだった。騎士の瞳は最後に槍兵を振り返る。
「お前にも『アルフレッド』は悪かったと詫びる手紙を書いていたぞ」
そう告げられてもレイモンドはなんとも言えない表情だったが。
恋人がずっとアルフレッドを「アル」と呼んでいないことには気づいていた。受け入れたふりをしていても本心では受け入れられていないのだ。揺れるようならレイモンドは関わらせないほうがいいかもしれない。彼だけマルゴーへは連れて行かず、アクアレイアに帰したほうが。
が、ルディアが口を挟もうとしたタイミングで槍兵が「そっか」と柔らかく微笑む。彼は騎士の握手に応じた。相変わらずあの愛称は使わないまま。
「…………」
二人を側で見守りつつどうしたものかと息をつく。レイモンドが平気なふりを続けるなら何も言わないほうがいいような気もしてしまう。
「あ、あの」
不意に横から響いた声にルディアは伏せていた目を上げた。「その、ちょっと僕、姫様にお話が」と周りを気にする素振りをしつつバジルが続ける。どうも二人になりたそうな雰囲気で。
ルディアは幕屋内を見渡し「わかった」と頷いた。急を要する話なら今聞くほうがいいだろう。
「……お前たち、悪いが遺体から脳髄液を採取しておいてくれるか? できる者だけでいい。くれぐれも無理はするな」
暗にディランの肉体の修復や再利用は行わない旨を告げる。アルフレッドとアイリーンが了解したとばかりに頷き、レイモンドとブルーノとモモが鎮痛に骸を眺めた。
誰からともなく指を揃え、五芒星を宙に描く。魂が正しく弔われるように。ルディアとバジルも短い黙祷を捧げると少しの間幕屋を出た。
外はもう真っ暗だった。日は地の果てに沈んでおり、昼間の熱気が嘘のように肌寒い。夜の砂漠は別世界だ。
「あの、火事の直前のことなんですけど……」
周りに誰もいないのを確かめてからバジルは報告を始める。しどろもどろに彼が語って聞かせたのはアンバーとの最後の会話についてだった。
「……姫様に黙っていたこと、全部終わったら打ち明けるつもりだったんだと思います。アンバーさんは……」
言葉が出てこず息を飲む。考えもしなかった裏事情の存在に返事はなかなかできなかった。
脅されていた? アンバーが?
接合によって息子がいると知られたせいで?
「……そうか……」
なんとか声を絞り出す。己の愚かさに打ち震えながら。
いつも見落としてばかりだ。大切なことばかり。
「モモには何も言うなよ」
それだけ念を押しておくのがルディアの精いっぱいだった。
先にバジルを中に戻す。冷たい夜風に身を晒し、しばし物思いに耽った。
天帝と接合なんてしたからだろうか。わけもなく帰りたくなる。もう二度と戻らぬ時間に。
いつまでも私は一人なのかもしれない。
誰が隣にいてくれても。
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どうしてだろう。今までよりも決定的に別人になってしまったと絶望に似た思いがある。幼児のようだった彼よりもずっと落ち着き、表面的には元通りに近づいた感さえあるのに。
他人の記憶が混ざったからかとレイモンドは奥歯を噛む。接合後のルディアを見てもそんなこと思わなかったのに。
なぜ皆平気なのだろう。内心思うところはあっても仲間として迎え入れようとできるのだろう。
「アルフレッド」が自分の意志で遺したアルフレッドだから?
かけらだけでも騎士の形見を大事にしたいと?
わからなくて盛大に溜め息を吐き散らしそうになる。けれど黙ってディランの解剖を見守るモモのすぐ側でそんな真似はできなかった。小さく首を振って耐える。自分が荒れていいときじゃない。
少女の横にはさり気なくバジルがついていた。アンバーがいなくなった分をどうにかせねばと決めたのか、彼はいくらか前向きになったようだ。
「アルフレッド」が許していたなら己が怒っていいのだろうか。それさえよくわからなくなってくる。
騎士としての道を選び、幼馴染が死んだこと。心のどこかで仕方ないと納得していた。あいつはずっとまっすぐ過ぎるほどまっすぐで、騎士以外の生き方も死に方も求めてはいなかったから。
だが永遠に仲直りできないまま友人の死を認めたくなかったのだ。詫び状を書いていたなど言われても他人の言葉では響かない。たとえ生まれ直した騎士が文面まで正確に話せたとしても。
こいつは「アルフレッド」じゃない。
胸の底で嫌悪が凝り固まっていく。
「……こんなものかしらね」
そうこうする間に脳髄液の採取は完了したらしい。道具を片付け手を拭くとアイリーンは小瓶に移したそれを一つずつ部隊の面々に手渡した。
「時間が経つほど回復効果は薄れちゃうから気をつけて。でも大切に使ってね。私たちが持っていけるのはこれだけだから……」
アンバーの亡骸は明日の朝一番に弔火(ちょうか)で焼かれることになっていた。気温が上がれば腐敗も早まる。ブルーノも、ダレエンたちの火葬の前には古龍に器を返すとのことだった。
次が始まったのだから己もしっかりしなければ。ルディアの隣にいたいなら。
悲嘆も不服も全部飲み込んで前を向く。
けれど随分疲れてもいた。
悲嘆も不服もいつか吐き出すことになる。飲み込みきれなくなってしまえば。
予感は既に胸にあった。ただもう自分では何をどうすることもできないだけだった。
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四角に組まれた木の間、遺骸を焼くための炎がもくもくと煙を上げる。
最初にそこにくべられたのは美しかった黒髪の青年。数年だけ片割れが中に入っていた。ウァーリとダレエンを同じように投じる前にヘウンバオスは古参の龍を呼び戻した。追い出されていた老体に再び腰を落ち着けた彼は風が煽る葬送の火に息を飲む。
燃やすものならいくらでもあった。ハイランバオスが燃した天幕の焼け残りが。だからこんな砂漠でも慰霊に困ることはない。
その火を前に何があったか語り聞かせた。
何が起きて、誰が犠牲になったのか。
「…………」
ファンスウはしばし絶句していた。それから彼は、自分がいいように詩人に操られていたことを悟る。
「それでは私が解放されたのは、私だけが接合をしておらず、喋らせても問題なかったからなのですか……?」
ヘウンバオスは嘆息で返した。おそらくそういうことだろうなと。
ほかの蟲は──ドナの砦の退役兵らは防衛隊に捕縛された後ただちに接合がなされたが、コリフォ近海で襲われたファンスウだけは処理が後回しになっていた。ルディアは自我ある患者の中から候補を選ぼうとしていたのだ。騎士の処刑騒ぎでタイミングを逸する間に詩人に龍を掠め取られてしまったが。
「鷹の件も、報告は受けていたのに私の見通しが甘かった。捕虜にでもされているのだと思い込んでいた」
詫びの代わりに事実だけ述べる。
アクアレイアの脳蟲と入れ替わっていた偵察用のラオタオの鷹。中身がまた別の鷹に移されているかもとは考えていなかった。それがアークの探索部隊に加わっていた可能性までは。
大熊の話を聞く限り、消えた三羽の鷹がハイランバオス側についていたのは間違いない。でなければ落盤などという虚偽を肯定するはずなかった。本体を取り換えられていたとしたら何年も前からだ。それこそまだハイランバオスがアクアレイアでディランとして諜報活動をしていた頃。いち早くアークの存在を知った彼が聖櫃を探さなかったわけないのだから。
造反者だけでなく秘密裏に殺された者もいるかもしれない。片割れが動きを取りやすくするために。言うことを聞くなら生かし、聞かないなら接合済みの脳蟲と入れ替える。そんなやり方が彼と狐には可能だったのだから。
確かめるのが怖かった。皆の中身を取り出して数えてみればわかることだがきっと仲間の数は合わない。
それでも知らねばならなかった。もう二度と、弟を信じたいなどと願わないように。
「ファンスウ」
長い話の間にサソリと狼はほとんど真っ黒になっていた。同じように死んでいっただろう彼らの哀れな本体を悼む。
「マルゴーに兵を出す。お前は私の後ろを守れ」
握り拳を震わせて龍は「はい」と頷いた。
火は轟々と燃え続ける。あらゆる感傷を焼き滅ぼして。
激震の後も余震は続いた。ヘウンバオスがサルアルカまで引き返すと、先行して狐たちを追っていた兵が彼らを捕捉できなかったとすまなさそうに報告に来た。更に街にいた兵のうち十数名が消息不明となっていると。
そちらはおそらくハイランバオスがパトリア古王国内を渡り歩いていた際に使役していたアクアレイアの脳蟲兵だろう。コリフォ島を発った後、片割れは古龍配下の蟲兵に彼らを成り代わらせていた。
元々器に入っていたジーアンの蟲たちは保存液を捨てられたガラス瓶の中で干からびて死んでいたそうだった。
己の迷いがここまでの暴虐を許したのだと思うとすべてが許しがたい。
どうしてもあれを殺さなければならなかった。
己のこの手で。どうしても。
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明らかになった惨状について天帝はあまり多くを語らなかった。減っていた兵士の数や所属については詳細に述べてくれたが彼の被った心痛については。
幕屋に待機するルディアたちに伝えられたのは「ひとまずネブラへ向かう」のひと言。マルゴーへの侵攻はしないにしても近辺に五千も兵を留めておけばプレッシャーは与えられる。聖櫃を守るため公爵とはどんな交渉が必要になるかわからない。誇示できる力は誇示しておこうとのことだった。
「動かせる兵はネブラに集わせる。公国が無視できない数を」
ヘウンバオスは自身も千騎を率いて西進すると告げた。防衛隊も同軍に追従せよと指示を受ける。
慌ただしく準備が進み、慌ただしくサルアルカを後にする。侵攻はしないと言いつつ天帝は十将の半数を同行させた。とは言え彼らは三将を欠き、実際に馬を駆るのは四人だったが。
春になり、草原の移動はしやすくなっていた。詩人たちを追いかけて急ぎ足の行軍が続く。皆ほとんど無駄口を叩くことすらしなかった。
いつ見てもバジルは唇を引き結び、固く沈黙を保っている。だが彼は以前に比して震えなくなっていた。モモも時折考え込んでいる風だったが戦意喪失の気配はない。サルアルカで鷹に移ったブルーノはそもそも人語を話せる状態でなかったし、皆が静かだとアイリーンも口をきこうとしなかった。
静寂は異常なほどだ。こんなに大人しい人間の集まりではなかったのに。
アルフレッドだけはある意味いつも通りだった。昔の彼と同じように、当然という顔でルディアの側についている。
レイモンドは──彼もやはり口数が減っていた。目が合えばへにゃりと頬を緩ませるが、そこにいるのにどこかに置いてきたような錯覚さえする。
どう声をかければいいか、ずっとわからないままだ。今の彼に「苦しいなら来なくていい」と告げることは決定的に彼を追いつめる気がした。
いつも助けてくれていたのになと思う。
何もできない。見ているだけで。
アルフレッドは本当にいつも通りだった。部隊の誰にもアイリーンにも平気で話しかけるからルディアのほうがひやひやする。
記憶を得て「アルフレッド」に近づいても今の彼に親しみを持てるかどうかは別の話だ。むしろ防衛隊に関する認識ができたことで今までとは違う危うさが生まれていた。何も知らない子供になら優しく接する理性を持てても大人の男にはどうだろう。
いつ誰が爆発するかと危ぶんでいたが、結局諍いは起きなかった。単に皆、そこまで元気ではなかったというだけかもしれない。
行軍は約二ヶ月半をかけて終わった。草原の尽きるところ、ルディアたちは再びネブラの湿った土の上に立った。
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行きに通りがかったとき、湖はこんなに青く澄み渡っていただろうか。他人の記憶でもあるのとないのとでは印象に差が出るものだ。
アルフレッドは広がる葦原を眺める。アクアレイア湾によく似た塩湖はより清冽さを増したようだ。初めて馬に乗ったのが確かこの辺りだった。部隊の皆に「はじめまして」と挨拶したのも。
天帝はここで兵士に幕営させるつもりらしい。湿地の中でもなるべく乾いた土壌を選んで幕屋がどんどん組み立てられる。
遠景にはアルタルーペの東端が霞んでいた。ジーアン兵が集結しているとの情報はすぐにもサールへ届くだろうと思われた。
「おい、アルフレッド。この先は顔を隠せ」
と、主君に腕を掴まれて防衛隊の幕屋へと引っ張り込まれる。渡されたのはすっぽりと頭部を覆う鉄仮面。これと遊牧民の服は合わなくないかと思ったら鎧一式も返された。ずっとアニークが預かってくれていたものを。
サルアルカに残った女帝を思い出し、我知らず剣の柄を握る。アクアレイアに近づくほど景色が美しく見えるのは、西パトリアに憧れた彼女の瞳を通じているからかもしれない。
分け合った記憶は少しずつ遠くなっていくと聞く。だが今はまだ彼女の想いは鮮明だった。
「モモたちも着替えたほうがいいよね?」
アルフレッドが鎧の装着を済ませると妹が──本当にそう呼んでいいのかは不明だが、兄と呼んでくれるので妹なのだと捉えている──立襟装束の首元を引っ張る。パトリア圏に入るならパトリア人らしくしようということだろう。
部隊はこれからネブラの街で情報収集をする予定だった。ハイランバオスとラオタオがここを通ったのはまず間違いないからだ。いかにも帝国の訪問客という恰好でいるよりも、アクアレイア人として雑踏に紛れたほうが有益な話が聞けるかもしれない。支配層には秘めたい噂もあるだろう。
鷹の姿のブルーノと、捕虜になったとき装備を取られたバジル以外は全員が元々着ていた衣装にそれぞれ腕を通した。準備ができると主君は部隊を率いて街に繰り出した。
「こ、この印は……! どうぞ、どうぞ、お通りください!」
姿勢を正した衛兵がそそくさと格子を上げる。いざ向かった街門ではなんの審査も行われなかった。強い味方がいるというのは頼もしい。ヘウンバオスの授けてくれた旅券にはこれ見よがしに天帝印が捺されており、防衛隊の自由と安全を保証していた。この証書さえ持っていれば難事が起きても平気そうだ。
「住民は普通に生活しているようだな」
ぐるりと街を見渡してルディアが言う。「まずは広場へ向かおう」との指示に応じてレイモンドが前へ出た。彼は一度防寒着を揃えるためにネブラに入ったことがあるのだ。大通りをすいすいと行く槍兵の背に部隊の面々も続いた。
「どうだ? 前と変わった様子はあるか?」
「いや、冬営の時期が終わったから遊牧民が減ったかなーってくらいだ。街の感じは同じだな」
「そうか。気づいたことがあればすぐ言ってくれ。何しろ逃げたのがバオス教の教主様だ。どこでどんな煽動を行っていてもおかしくはない」
「ああ、わかった」
傍らでルディアとレイモンドのやり取りを見守る。甘い雰囲気は見られないが、二人は恋人同士らしい。これは接合で知ったのではなくアイリーンやモモから聞きかじった話だった。
だが詳しいことは何も知らない。アルフレッドが尋ねても教えてもらえないのである。主君の大切な人間なら己もきちんと尊重せねばと思うのに。
それにこの槍兵のことは「アルフレッド」も気にかけていた。酷く傷つけてしまったと、悔いた顔でアニークに零した彼を思い出す。
死の直前の一週間、彼は女帝に乞われるままに様々な話をした。それが今、巡り巡って己の頭に還ってきている。
握手は交わしてくれた仲間がこちらを見やって目を伏せるとき、ざわざわと胸が波立った。何も知らなければきっと気にも留めなかったのに。
(早く色々覚え直さないとな)
主君のことも部隊のことも己のことも。接合前より多少はものがわかるようにはなってきたが、まだ全然だ。「アルフレッド」と同じでなくていいけれど、必要な気遣いくらいは早くできるようになりたい。
そんなことを考えながら円形広場まで出ると、突然誰かの悲鳴が付近に響き渡った。
「うわあーッ!! 見逃してくれーッ!!」
それは男の声だった。どこかで聞いた覚えのある。
アルフレッドは声の主を探して視線を滑らせた。注意を引かれて顔を上げたレイモンドたちと同じように。
******
「食い逃げだ!」
そんな怒号が街の平穏を切り裂く。見れば裏路地から人影が飛び出してくるところだった。
暗がりや迷路に逃げ込むのではなく雑踏で追手を撒こうとするあたり、地元住民ではないなとすぐに知れる。ネブラは度重なる侵略を受け、何度も何度も建て直された街だけあって構造が複雑なのだ。古い石造りの家並みにレンガの新区画が食い込み、脇道小道が実に多い。だからよそ者が素早くずらかりたいときは人通りの多いところへ出るのが最適解なのだった。
とは言えそれはこっそり逃げ出すならの話だ。食い逃げ犯だと連呼されつつ衆人の前に登場すれば当たり前だが即刻身柄を取り押さえられる。裏路地から出てきた男もすぐに石畳の上に転がされていた。
ネブラもあまり治安が良いとは言えないな。捕獲現場を遠目に見ながら脇を通り過ぎようとして、レイモンドは「ん?」と立ち止まった。何か今、視界に入れてはならないモミアゲが視界に入ったような気がして。
「うわーん! 魚一匹くらい恵んでくれたっていいじゃないかよーッ!」
首に縄をかけられて引きずられていく印刷技師に思わず「パーキン!?」と名を叫ぶ。すると彼もこちらに気づいて「ああッ! レイモンド! ブルーノにモモさんも!」と両手両足をばたつかせた。
なんでこいつがネブラにいるんだと不吉な予感を覚えつつ、ともかく急いで後を追う。「連れがとんだご迷惑を」と代金を肩代わりしてやれば縄を解かれたパーキンが涙ながらに礼を言った。
「ああっ、ありがてえありがてえ! 助かったぜレイモンド様!」
「お前なんでこんなところにいるんだ? まさかアクアレイアから追放されたとか言わねーよな?」
おそるおそる尋ねるとそのまさかだったらしい。「えへへ」と引きつった顔を向けられ、くらくらと眩暈がした。一体今度は何をやらかしてくれたのだ。
不測の事態の発生を察したらしいルディアが肘でこちらをつつき「ここではやめよう。場所を変えるぞ」と耳打ちする。人に聞かれると困る話が出てくる可能性は高かった。一も二もなくレイモンドも頷く。
「あ、だったら俺の連泊してる宿が」
パーキンの台詞に思わず「食い逃げするような奴が宿取る金なんて持ってんのか?」と眉をしかめる。すると「宿は後払いだからな!」と頭痛の悪化する返答があった。
ともかくその宿とやらに連れ立って移動する。初めてパーキンと会うバジルは完全に「なんだこの人……」という顔をしていた。
アルフレッドのほうは女帝と印刷技師を引き合わせたことがあったからか、動じている素振りはない。頭部を完全に覆い隠す鉄仮面のおかげで表情までは見えなかったが。
人影まばらな裏路地の、典型的な安宿の一室にぞろぞろと入っていく。狭く粗末な室内にはぼろぼろの寝台が一つあるだけだった。
「……で、何があったんだ?」
覚悟を決めた表情で王女が問う。ベッドに腰を下ろしたパーキンは人差し指と人差し指をツンツン合わせ、なかなか喋ろうとしなかった。「早く言え!」とレイピアを掴むルディアが急かしてようやく彼は恥ずかしそうに口を開く。
「あのう、怒らないで聞いてほしいんですけどぉ……」
告げられたのは「実は騎士物語の最終巻を刷ってばら撒いちゃって」という最悪の事実。だがそちらはまだしも予測の範囲内と言えた。大問題が発覚したのはその次の大馬鹿男の言だった。
「あと同じ時期に依頼で刷った歴史書が、持ち出し禁止のアクアレイア王国史だったらしくて、十人委員会に取っ捕まっちゃいまして……」
思わず「は?」と目を瞠る。アクアレイア王国史。それはもしかしなくてもあれか。コナーから預かったあの原稿。表に出せば王国再独立派や周辺諸国を焚きつけることになるからと封じられた──。
「……は?」
ルディアも、モモも、アイリーンも、鷹のブルーノすら息を飲んだ。ただでさえ大変なときになんて災厄を引き起こしてくれるのだと。
「逆によくまだ首と胴体繋がってるよね!? 脱獄したの!?」
転がり逃げる印刷技師に武器を構えた斧兵が迫る。パーキンは「脱獄なんてしてないしてない! 特別に出してもらえたんだよ!」と全力で否定した。
「出してもらえたって、一体誰にだ?」
至極もっともな疑問がルディアから発される。返答を聞いて今度こそ全員で頭を抱えることになった。
パーキンはその二人に、ネブラへ行けば防衛隊が通るから書簡を渡してくれと頼まれたそうである。言われた通りにすれば罪を帳消しにしてやろうと。
「聖預言者ハイランバオス様とジーアン十将のラオタオ様です!」
良くない方向に話が進んでしまっている。
予感は現実となり始めていた。
(20210422)