このサイトに置いている14話は「初稿」です。正式な「最終稿」は6月以降ノベプラ、なろうにアップします。
大幅な修正が予測されますこと、予めご了承ください。またSNSなどで関連ツイートをするのも6月以降でお願いします。









    第六章 そして遠い日の夢を見る


 忘れられない光景がある。実際に己の目で見たわけでもないのに。
 砂塵と塩が風に舞う。じりじりと日射に焼かれて。
 あれは故郷の最後の日。
 水辺を求めてあの人がさまよい歩く。
 私は彼から目を離せずについていく。



 ******



 幕屋に控えた防衛隊に出発が告げられたのはサルアルカに到着した十日後のことだった。新道とやらは完成に至ったらしい。早めに動けそうで良かったとモモはほっと息をついた。
 客人扱いになったとは言え自由があったわけではない。天幕はジーアン兵にぐるりと囲まれたままだったし、移動という口実もないから馬に乗って出歩くこともできなかった。代わりにそこらにいる者に日用品のお使いを頼めるようになったので、マルコムたちとの意思疎通は図りやすくなったけれど。
 短いやり取りを重ね、退役兵に成り代わった脳蟲たちにもルディアの計略は伝わっていた。主君がいつどこで天帝の首を狙うかは。

「いよいよね」

 伝令を見送ったアンバーが愛らしい軍医の顔を引き締める。モモもこくりと頷いた。この先の予定を頭に浮かべながら。
 アークのもとでヘウンバオスを襲撃するのはルディア、コナー、ラオタオにハイランバオスだ。抵抗された場合は人質を使って動きを止める。最も重要な捕虜であるファンスウは身の危険の大きいエセ預言者が、狐の監視役であったウェイシャンはラオタオがその本体を所持していた。防衛隊は幾人かの退役兵本体を瓶に封じて隠している。
 だがルディアたちが五人きりで、兵士がすぐに駆けつけられない洞窟に潜るなら、人質など使わずとも問題なく入れ替われるだろうと思えた。万一の際に備えて後方を固めておくのがモモたちの役目である。途中で天帝に逃げられたとか、十将に企みを察知されたとか、そういった場合はこちらが身を守らねばならない。マルコムたちと連携し、交戦にも逃亡にも転じられるように構えておくのが肝要だった。

「テイアンスアンに出発だって?」
「今すぐにか?」

 衝立の裏からレイモンドとルディアが現れる。別の衝立からもアイリーンとバジルが顔を出し、緊張に息を飲んでいた。

「うん。この幕屋、また車に載せるから一旦出ろって」

 兵士に与えられた指示を四人にも伝え直す。主君は「そうか」と頷くと馬に担がせる荷物だけさっと手にして玄関へ向かった。槍兵たちもぐずぐずせず、各々の準備を整える。
 きっとこれが防衛隊としての最後の仕事になるだろう。ジーアン乗っ取りが完了すればルディアが部隊を留め置いておく理由はない。
 その後に自分たちがどうなるかはまだわからないが、己の役目はきっちりと果たしたかった。進むべき道を進むことでしか示せないものがあるから。
 兄の願いを叶えたこと。怒りながらでも最後は認めて受け入れたこと。己は背負っていかねばならない。

 幕屋の解体と積込みが終わるとただちに天なる山々(テイアンスアン)への最後の旅が始まった。巨大な山塊の砂漠側を目指す迂回路の旅である。高峰を登って分水嶺を越えるより、山際を回り込んで砂漠を旅したほうが目的地に近いそうだ。
 一般兵をサルアルカに残し、天帝は防衛隊や退役兵を含めた百名超を連れて東へと足を向けた。今度の旅では様々に取り巻く景色が移り変わった。
 最初は緑たなびく草原。いくつかの小谷を過ぎると草地が消え、地面が固くひび割れてくる。隊列に迫る岩壁。山と山の間の抜け道。曲がりくねった狭い自然の回廊を抜けたと思えば一面に荒涼とした不毛の大地が広がった。
 暗灰色の砂礫の荒野。砂の上に大小の尖った石が転がった。
 空気は茶色く濁っていた。風の巻き上げた大量の砂がどこまでも地を覆う。──テイアンスアンの砂漠側。
 およそ人の住むところではない。見渡す限り砂と石ころだけの世界に身震いする。それでも天山の麓ではまだ草くらい育つのか、よく見ればぽつりぽつりと硬い棘を持ついら草が生えていた。
 モモが馬上で圧倒されている間にジーアン兵は砂礫の道を歩み出す。無数の足跡を刻んで一行は木の一本も生えぬ岩山沿いを進んでいった。
 馬の足が柔らかな砂に沈まないように気をつけてついていく。獣もいない、鳥も飛ばない、風と砂だけが君臨する地を。目印としてか一定間隔ごとに立つ石杭だけが人の営みを感じさせるものだった。
 薄ら寂しい風景が一変したのは流れる川に──かつてレンムレン湖に注いだ大河の本流に──出会ったときだ。
 目の覚めるような豊かな緑があっと言う間に視界を染める。河畔に細く枝を伸ばした紅柳(タマリスク)。水草に似た葉を垂らし、小さな蕾をたくさんつけた。根元には大きな鼻の小動物が群れで憩う。名前は知らぬが羚羊(れいよう)の一種だろう。繁茂した草を彼らは美味そうに食んでいた。
 ついさっきまで何も生きていなかったのに。
 こんなところでは人も動物も暮らせまいと思ったのに。
 水は命の源なのだ。目にした光景は実に単純な真実を悟らせた。
 同時にこの乾ききった地で故郷(オアシス)を失った蟲のことを考える。水辺への渇望はこちらが思うよりずっと深いものなのかもしれない。
 川のすぐ側を行くことは砂漠において非常に心強かった。胸に巣食う不安のすべてを追い払えたわけではないが。
 短い旅は数日で終わりを告げた。途中でほかの遊牧民と遭遇することもなく、風が吹き荒ぶ以外は静かな往路だった。



 ******




 上流へと遡るのはわかっていたが、あまりに高く聳(そび)え立つ裸の岩山を眼前にするとさすがに「ここを登るのか」と怯む気持ちが湧いてくる。アルタルーペの踏み慣らされた交易路と同水準の峠道を望んでいたわけでもないが、最低限通れればいいと通された新道はなかなかの悪路だった。
 水源に続く川の流れに沿ってだけ柳の繁る荒れた斜面。風に削られた奇岩が林立する間にこれまでと同じ石杭が打たれている。どう頑張っても砂の蹂躙は防げぬからか、路面は均されさえもせず邪魔な小岩が取り除かれているだけだ。岩石砂漠の延長じみた山の隘路。ここを行かねば聖櫃は拝めないらしい。

「この先は限られた者だけで向かう」

 ヘウンバオスが宣言し、テイアンスアンの麓に一行を留める。馬一頭通るのがやっとの道幅しかないため、幕屋を積んだ車や兵の大半もここに置いていくそうだ。そうなるだろうとは思ったが、防衛隊もルディア以外は残るようにと通達があった。
 ジーアン側からすれば当然の要求だ。彼らの母たるアークのもとに部外者を立ち入らせてくれるだけむしろ寛容とも言える。
 入山するのは天帝と側付きの兵士が十名、十将の長、ダレエン、ウァーリ、ラオタオにハイランバオス、コナー、ルディア、それと空を飛ぶ鷹が三羽とのことだった。ここからは防衛隊にも退役兵にも頼れない。何が起こっても己の機転でなんとかせねばならなかった。

「では行くぞ」

 案内の鷹に先行させ、ヘウンバオスが新道に馬をやる。下馬はしなくていいらしい。狐に問えば洞窟までの行程は数時間との話だった。
 山の峻厳さに反して意外に近くほっとする。だが数時間後には天帝をと思うと鼓動が速まった。

(必ず朗報を聞かせるからな)

 短く切られた隊列の最後尾から部隊の皆を振り返る。こちらを見送る面々の額は白く強張っていた。
 祖国のためにも、彼らのためにも、早くすべてを終わらせなければ。
 唇を引き結び、ルディアは馬の手綱を強く握りしめた。



 ******



 岩を穿ち、砂礫を下流に押し流し、雪解け水を運ぶ川は黄褐色の山肌を滑り落ちる。渓谷には貧弱ながら草木が育ち、動物たちの気配があった。
 崖下の奔流を眺めつつヘウンバオスは慎重に馬を歩かせる。山道は川に沿い、岩場の縁のぎりぎりを通っていた。だがこの足場の悪さなら敵襲を受ける恐れは少ない。襲うほうも逃げ道の確保くらいは考えて動くものだ。
 ちらとだけ隊列後方に目をやった。一瞥したのはアクアレイアの姫と画家、行楽気分の詩人と狐。脳裏にはファンスウから聞いた話がよぎっていた。彼がルディアに本体を奪われたときの状況が。

 ──刺されたはずだったのです。あの王女のレイピアで。しかし兵の間では騒ぎにもなっていなかったのですか?

 視線を再び前に戻し、素知らぬ顔で急勾配の坂道を進んでいく。
 ハイランバオスの返してきた小瓶には確かに龍が囚われており、別の肉体を与えるやコリフォ島での顛末や船上の騒動を事細かに伝えてくれた。油断したのはなぜだったのか、こちらにない札はなんだったのか、今ではもうはっきりわかる。──脳髄液。それがルディアの荒っぽい策を可能にしたのだ。
 王女たちは胴と首が離れても修復できる術を得ていた。地位ある器を傷つけられるはずがないと踏んでいたファンスウが虚を衝かれたのも納得だ。
 種が割れれば今後のことも予測がつく。より有利に交渉を行うために彼女は己にも襲いかかるかもしれなかった。出された取引条件は現実的なものだったから、そこまで懸念してもいないが。

(故郷を取り戻そうとする蟲の王女か)

 似たようなことをしていた昔の自分(ヨルク)を思い出し、ヘウンバオスは苦笑した。ひょっとすると彼女が最も警戒すべき相手かもなと。

 ──信じがたいことですが、ウヤが王女に情報を流したようなのです。

 苦渋に満ちた龍の報告が甦る。密命を与えた息子こそが裏ではこそこそ敵と通じていたのかもしれない。そうファンスウは謝罪した。
 状況は錯綜している。帝国に戻ると言ったハイランバオスやラオタオも信用しきれたものではなかった。だがまずは、聖櫃(アーク)が我々に何を与えてくれるのか見極めるのが先決だ。そのために王女や画家を泳がせているのだから。

(話が終われば用済みのアクアレイア人など捕らえればいい。どれだけ捕虜がいようとも砂漠から無事に帰りたければ我々に従う以外ないのだから)

 敵地に飛び込むとはそういうことだと浅はかな姫を嘲る。ここまでは上手くやったつもりでいるのだろうが、好きにさせる気は更々ない。退役兵に彼女と繋がる裏切り者がいるならばそれも炙り出してやろう。
 適当な器がないのでファンスウには小瓶に戻ってもらったが、ウヤは兵士に見張らせていた。おかしな行動を取ればすぐ縄にかけられるはずだ。
 腰帯に刺した曲刀の柄を握る。立襟装束の下には鎧も着込んでいた。不測の事態に見舞われても十分対応できるように。

 ──あなたがもう一度仕えよと私に求めてくださるなら……。

 胸の中で、嘘はつかない男の誓いを反芻する。このまま何も起きなければ、彼が王女を助けるようなことがなければ、もう一度片割れを信じられるのではないかと願いながら。
 千年の時が育んだ甘さと弱さを乗せたまま馬は険しい断崖を登っていった。水辺以外は相変わらず死んだような風景だけが続いていた。



 ******



 テイアンスアンの様相は草原側と砂漠側で天と地ほどの違いがある。鬱蒼と繁る木々の中、獣道を分け入っていくのも難儀だろうが、岩だらけの急斜面を風に耐えつつ登っていくのも苦行だった。
 ウァーリは頭に巻いた布が飛ばされないように強く押さえる。そこまで酷い突風ではないにせよ、山頂の雪を運んで散らす風は冷たい。だがどうやら道はだんだん良くなっているようだった。山の奥へと入ったからか、崖下にあった川が近づいてきたからか、風よけになる木立が幾重にも重なる。やがてそれは林となり、森となり、切り拓かれた小さな広場が一行を迎え入れた。

「やれやれ、着いたみたいだな」

 空を舞う鷹を見上げてダレエンが言う。三羽の鷹は頭上でくるくる旋回し、小さな森を離れようとしなかった。見渡せばいくつも切り株が目に入る。伐採された木材は橋の建設に利用されたものらしい。小広場の奥には渓流を越え、別の道へと続く真新しい平橋が架かっていた。
 ──橋の先を少し行けば洞窟がある。工事の指揮を執った兵が言っていた。アークのもとへ向かう五人以外は袂(たもと)で待っていればいいと。

「お前たちはここに」

 馬を止め、ヘウンバオスが十名の近習に命じる。彼の双眸は橋向こうの更に狭まった隘路に向けられていた。ウァーリはもちろん大熊や狼にも小広場での待機が申し渡される。鷹は洞窟の入口まで案内を続けるようだ。
「この先は徒歩のほうが良さそうだ」と下馬した天帝に後を頼まれたダレエンが己の馬と主君の馬を細い木の幹に繋いだ。ハイランバオスやラオタオたちも馬を降り、同じように縄で繋ぐ。

「ふふふ! アークはもうすぐそこですか」
「ねえハイちゃん、俺すっごいドキドキしてきた!」

 詩人たちは楽しげに手を取り合う。大熊が呆れ果てた目で彼らを見ても気にした様子は皆無だった。苦言など口にするだけ無駄そうだ。ふうと小さく息をつき、見送りのためウァーリも地上へと降り立つ。

「我々が戻るまで休んでいろ」

 ヘウンバオスは聖預言者と若狐、王女と画家を視線で呼ぶとさっさと橋へと歩いていった。五人の背中はあっさりと遠ざかる。
 中まで兵を連れて行ってはどうかとは今まで何度も進言したが、結局天帝は近習一人側に置かないままだった。一本道では後をつけてもすぐに見つかってしまうだろう。異変があれば鷹が知らせに飛ぶとは思うが心配だ。

(ハイランバオスとラオタオのこと、疑っていないのかしら)

 考えるとまた溜め息が出た。自らジーアンに戻ってきたと言ったって詩人が同胞に牙を剥いたのは確かなのだ。ダレエンは肉体を破壊されたし、ウァーリだって殺されかけた。嘘をついて仲間を騙し続けたラオタオにせよ、もう一度信じるなんて不可能だ。二人のほうは天帝以外がどう思おうとどうでもいいのかもしれないが。

(まあファンスウは無事に解放されたわけだし、従う意志はあると思っていいのかしらね……)

 その程度で贖罪した気になってもらっては困るけれど、仲間に危害を加えることは一応ないのではないかとは思える。だがやはり、裏切り者たちの腰元で揺れる曲刀は気がかりだった。危険な野獣と出くわした際のため外させることはなかったが、取り上げておいたほうが良かったのではと少し悔いる。それに人質もウェイシャンのほうは帰ってきていないのだ。詩人の話では「然るべき手順を踏めば王女から差し出しますよ」とのことだったが。

「はあ…………」

 三度目の嘆息も重かった。ふと見れば大熊も狼男も似たような渋面で大岩の陰に消えていく主君らに釘付けになっている。
 アークのもとで話を聞くだけ。それだけなのに胸騒ぎは静まらなかった。



 ******



 急流は飛沫とともにうねりつつ灰茶の岩間を切れ落ちる。多少緩やかな流れの上に架けられた簡素に過ぎる橋を越え、ルディアたちは歩を急がせた。
 登り始めたときには大岩小岩の景色だったのが今は巨岩しか見当たらない。倒れてきやしないだろうなと危ぶみつつ最後の坂を登りきると、岩の間に突如ぽっかり暗い穴が空いていた。

「ここがアークの見つかった洞窟かあ」

 先頭を進んでいたラオタオがランタンを掲げて中を覗く。天井は低かったが屈めばなんとか入れそうだ。上空を舞っていた鷹が降りてくる。ヘウンバオスが「待っていろ」と命じると鳥兵たちはピィと利口に頷いた。

「危なそうだし俺から行くねー」

 言って狐が岩の隙間に潜り込む。続いて詩人と天帝が、次にコナーが中へと入り、最後にルディアが彼らに続いた。
 日光が差し込まないためか風もないのに空気が冷たい。足元には小さな岩や石ころが散らばっていた。入口の狭さに反して洞窟内は広かったが、平坦ではなく上って下って奥へと至る。
 と、前方で灯りが静止し、先を歩く四人が足を止めたのがわかった。掲げた光が照らし出したのは眼下の巨大クリスタル。六角柱を斜めに切った形状の、美しく透き通った。アルタルーペで見たものとそっくりだ。蟲の形は違うのに聖櫃のほうは同じに見える。

「おお!」

 喜び勇んでコナーが駆けた。ひと足先に師はアークの鎮座する広い窪みへと飛び降りる。

「すごい、本当に傷一つない」

 隅から隅まで検めてコナーは声を弾ませた。いくらか興奮が落ち着いた頃にルディアたちも彼に追いつく。師は周辺の自然環境を一望し「ああ、なるほど」と合点した。

「ひょっとすると最近まで凍っていたのかもしれないな」

 言われてルディアもドームに似た窪地を見回す。コナー曰く「ここに雨水が溜まって凍結し、溶けた水は岩間に染み込んで川に流れた。気候変動の周期を考えるとそうして保存されていたと考えるのが自然だ」だそうだ。
 確かに雨量が多ければ水の溜まりそうな地形だった。窪みは深く、鍋の底のようになっている。広範囲での凍結は十分有り得そうだった。今も長居は毒とわかる芯からの身の震えがある。

「はー。懐かしい感じってこういうことかあ」

 周囲を眺める余裕のあるアクアレイア人と違い、ジーアン人の三名はじっとアークに見入っていた。珍しく呆けたような狐の隣で天帝もハイランバオスも神妙な顔つきをしている。まるで初めて流れ星を見る子供のように。

「これがアークか……」

 ヘウンバオスが声を漏らす。しかし彼の表情からは懐古の念は感じ取れても歓喜や執着は感じなかった。双眸も陶酔を宿してはいない。「稼働が終わった」とはこういうことかと納得する。同じに見えてもこちらのアークは死んでいるのだ。
 だが完全な骸というのでもないらしい。コナーは手袋を取り外し、透き通る石柱に触れた。するとアークが青白い光を放って輝き始める。

「やはり核が生きている……! すごい。すごいぞ。やあどうも、初めまして」

 何がどうすごいのか、誰に挨拶しているのか、説明は特になされなかった。突然の発光に目を丸くするルディアたちを捨て置いてコナーは一人でうんうん頷いている。

「我が君にもわかるようにご説明いただきたいですねえ」

 ハイランバオスが苦言して初めて彼は我に返った。光が消え、暗い洞窟内を照らすのはまたランタンの灯だけになる。師は「すまない、すまない」と頭を掻いて謝罪した。

「せっかくですからアークのこと、あなたにも少しお話ししましょうか。ここの管理人はあなた方を歓迎するそうですし」

 コナーは天帝に向き直るとにこやかに持ちかける。「管理人?」と尋ね返したヘウンバオス同様にルディアもはてと首を傾げた。管理人とは師自身を指しているのではないのかと。

「核が残っておりましたので彼の複製(コピー)も無事だったのです。今さっき情報交換をしました。まああなた方には彼の姿は見えないと思いますが……。お名前はキヨンルだそうです。アク・キヨンル。歴史上ではレンムレン国の初代国王とされる人物ですね」

 天帝が顔を歪めて「適当なことをほざいているのではなかろうな」と語気を強める。画家は笑って彼の疑いを否定した。

「我が子が千年も生き延びたこと、ここまで辿り着いてくれたこと、誇らしく思う──だそうですよ」

 まるで隣に誰かいるようにコナーは虚空に視線をやる。天帝はいっそう眉をしかめて問いかけた。

「アークとはなんだ? 蟲を生む水晶だという以外にも何かあるのか?」

 血の透けた赤い眼が鋭く巨石を睨みつける。ヘウンバオスに答えるコナーの声はどこまでも穏やかだった。

「アークはうんと遠い昔、滅亡の危機に瀕した人類が叡智を託した方舟です」

 言ってまた師は何もない隣を見やる。眩しげに目を細めて。

「聞かせてやってくれとのことですし、簡単にお話ししましょうか」

 彼が再びアークに触れると今度はアルファベットらしきものがクリスタルの表面に浮かび上がった。だがなんと書かれているのかはわからない。ほとんど知らない単語だった。
 師の指がいくつかの文字を撫でると現れる文章も変わる。その後すぐ視界に映る景色そのものが切り替わった。



 ******



 なんだこれは。なんだここは。さっきまでいた洞窟はどこだ。
 一体いつからそこにいたのか、それともこちらが紛れ込んだのか、白く長い上着を羽織った人間が聖櫃と己を囲んで慌ただしく動き回る。周囲にはいくつもの大きな機材。城攻めに使うのよりはこじんまりとしているが、なんのためのものかは不明な。全体物々しい雰囲気だった。まるでこれから恐ろしい敵が襲いにでも来るかのように。

「これはレンムレン湖のアークを作った方々です」

 間近で画家の声が響く。振り向けばヘウンバオスの傍らでコナーがアークを眺めていた。突如現れた妙な格好の人間たちは誰一人こちらに気づいていない様子だ。ハイランバオスも、ラオタオも、ルディアも巨石のすぐ正面に立っているのに一切目に触れていないようである。
 夢の中に迷い込んだ。そう表現するのが近そうだった。一方的にこちらからだけ観測している。手元の小さな金属板を懸命に撫でつける彼らを。

「世界中で一気に気温が上がりましてね。まあそれは前触れに過ぎなかったのですが、悪い病気が流行ったり、大きめの隕石が落ちたり、凍土の底から見たこともない寄生虫が発見されたり、天変地異に戦争に大規模な環境汚染に──ともかくありとあらゆる危機が相次いだのが彼らの滅びの原因でした」

 頭は少しも追いついていなかった。コナーの言を信じるならば沈痛な面持ちで眼前を行き交う彼らはもういない人間らしい。いつの時代のなんという国の光景なのだろう。察せられるのは見たこともない機器を操る彼らがこちらより遥かに進んだ文明を有していることだけだった。
 とても人が作ったとは思えないが、アークが人造物というのは本当らしい。管を通じて巨石の内部に何かの液体が注がれる。白い服を着た男女が音もなく蓋をする。コナーは続けた。「目前に死が迫ったとき、このような聖櫃に記憶と知恵を遺すことに賭けた人々は多かったのです」と。
 亡国の王族が冠や史書を持ち出したがるようなものか。再興を望む者たちはいつも似たり寄ったりの振舞いをする。そう思うとこの奇異な異人らも多少は近しい存在に感じられた。

「最終的に四十八ヶ国でアークが建造されることになりました。未完成のまま政府や研究所が力尽きたところもあり、何基のアークが始動まで至れたのかはわかりませんが……」

 人類が叡智を託した方舟──。何が詰まっているのだろう。不可思議な青い光を放っている石柱に触れてみたくなる。だがヘウンバオスが一歩踏み出すと幻は泡のごとく消え去った。不思議な景色は元いた洞窟のそれに戻り、アークに伸ばした指だけが視界にぽつんと取り残される。

「アクアレイアのアークもこれと同じように作られました」

 コナーは再び亡霊を呼び戻そうとはしなかった。聖櫃の魔力は十分見せたということか、淡く輝くアークを見上げ、今度は別の話を始める。

「蟲にいくつか型があるのはどの蟲が環境に適応できるか試す時間がなかったからで、アークの製造方法に大きな違いはありません。我々は同種の疑似生命なのですよ。人類が滅びたのち、後退した世界を前に進めるための」

 人為的に生み出されたなら当然だが蟲には使命があるらしい。やはり亡国を甦らせようとする王族の発想だ。残した血に希望を託そうとする。
 コナーは言った。そこに国が興れば飛躍的に文明が発展する、そういう場所を選んでアーク管理者は開拓や建国を行うのだと。川に蟲の卵を流し、海中で孵化させれば、近辺に住む者たちは脳に蟲を飼っておらずとも色彩豊かな髪と目になる。珍しいので記録に残り、それが将来アークを発見させるための布石となってくれるのだと。
 説明しながら画家は巨石に様々な都市を映した。コナーの口にしたすべてを理解できたわけではない。だが彼の話がどこに着地するかくらいは想像できた。過去に存在した大国。滅びとともに失われた知識と技術。方舟にそれを積んだということは、アークを作った者たちはいつか岸に辿り着く日を待っているということだ。

「……これをどこかの湖にやればレンムレン湖と同じ湖になるのか?」

 問いかけに画家は首を振った。

「残念ながらレンムレン湖のアークにはもう蟲は生み出せません。その段階はとうに終わり、今は眠りについています。これがあなた方の母体であったのは確かですが、今は次の役目──人類に研究され、科学の躍進に貢献するという役目を果たす日を待っています」

 眠りについている。もう蟲を生み出すことはない。その言葉に傷ついた己がいた。ひょっとしたらと抱いていた期待が打ち砕かれた気がした。しかしまだ諦めるにしては早い。

「アークを調べれば何がわかる?」

 この問いにまたもや画家は首を振った。

「調べても今の科学では何一つわかりません」

 予想に違わぬ答えが返る。わかっていた。アークがそこらの学者や職人風情には手に負えない代物だということは。──けれど。

「……もう一度これを作ることができたら、レンムレン湖もまた生まれてくることができるか?」

 一縷の望みを抱いてヘウンバオスは問う。
 ひと目見た瞬間から懐かしさは感じていた。だがそれだけだ。辿り着いた、帰ってきたとは思えなかった。これはそう、遺跡のようなものであって、己が真に求めていたのはそこに生きていた命だったのだ。
 だが聖櫃が作られたものなら、かつて人の手が生んだものなら、夢見ることはまだ許されるのではないか。
 画家は微笑む。「もちろんです」と頷いて。

「人類がアークを再生産し得る科学力を獲得するまで見守るのが管理者である私の務め。あなたのこれまでの千年は、確実にその礎となりましたよ」

 そうかとヘウンバオスは答えた。己の足では辿り着けぬかもしれなくとも、故郷に至る道は存在しているのだ。
 初めてそれならいいと思えた。故郷に帰ることよりも、故郷が確かにあるということが大切なのだ。たとえまだ見ぬ未来であっても。
 アークは望んだものではなかった。だが確かな導(しるべ)ではあった。夢中で駆けた千年をささやかに祝福してくれる。

(そうか。今あの湖はどこにも存在しないのか……)

 少し呆けた気分になる。受け止めるべき答えを手にして。
 そんなこちらを気遣うようにコナーはおずおず尋ねてきた。

「アークをこのまま置いておくと劣化が進みそうなので、核は私が譲り受け、器(クリスタル)のほうは陛下にお任せしても?」

 そう言えばまだアークの「核」がなんなのか聞いていなかったと思い出す。問えばコナーは嬉しげに説明した。

「核と言うのはあらゆる情報(データ)の詰め込まれた聖櫃の脳であり心臓です。私が私のアークに統合したほうが後世に伝わる確率を高められるかと存じます」

 快活な笑みに「好きにしろ」と息をついた。止めても彼は引き下がりそうに見えなかったし、どうせ勝手に何かされてもこちらにはわからない。
 にこりと笑ってコナーは「お礼にいいものをご覧入れましょう」とアークに触れた。その途端、今までの比でないほど強い光が彼の全身を包み込む。

「今私に管理者権限が移りました」

 画家がにこやかに告げた直後、広がったのは一面の水の光景だった。

「────」

 目を瞠る。
 日の照る砂漠。涼やかな水辺。茂る柳。愛してやまなかったあの湖。
 ヘウンバオスは震えつつレンムレン湖を見渡した。色とりどりの髪の住民が行き交うオアシス。キャラバンが停泊し、多くの異国人で賑わう。
 ああ、ここだ。ここにずっと帰りたかった。
 思わず駆け出す。
 今度の幻は消えなかった。
 足の裏に砂の熱が伝わってくる。湖畔の柳を掴むことも、豊かな湖水に身を浸すことも、なんでもできた。
 日干レンガの家並みが眩しい。水もきらきら輝いている。
 ずっと、ずっと、探し求めた故郷を掌に掬い上げ、ヘウンバオスは己が半身を振り返った。
 見ているか、お前もこれを。
 私たちのレンムレン湖を!
 片割れに問いたかった。胸に満ちる無上の歓びを分かち合い、彼と手と手を取り合いたかった。
 信じられる。いつか再びこの情景が甦ること。
 アークを守り、知の道を促進するのが己の成すべきすべてということ。

 ──そのとき突然一切が暗闇に舞い戻った。



 ******



 オアシスの景色を広げる前に師はルディアにちらと視線を送ってきた。隙を作るからその間に天帝を抑え込めという意味だろう。だから気づかれないように、注意深くヘウンバオスの後ろを取ったつもりだった。
 そろりと手を伸ばした矢先、水辺の幻影が掻き消える。辺りはたちまち暗い洞窟へと変わる。何が起きたのか知る前に濃い血の匂いが漂った。

「は……?」

 思わず声を漏らしてしまう。双眸が捉えたのはアークのすぐ側に倒れた師の背中。後ろから胸の真ん中をひと突きにされた。
 傍らで鮮血の滴る曲刀を手にしていたのはハイランバオスだ。にこにこと、彼はいつもと変わらぬ笑みを浮かべている。

「何を──」

 ヘウンバオスが喉を引きつらせて問うた。詩人はことのほか嬉しげに天帝に答えてみせる。本当に楽しそうに。

「あなたのお言葉を耳にして気が変わりました」

 ハイランバオスは爪先でコナーの頭を転がした。耳から這い出してきた蟲を長い指が優しく摘まんで地面に下ろす。それから詩人はぷちりとコナー本体を踏み潰した。

「あは」

 短い笑い声が響く。目の前で繰り広げられた一切についていけずに目を瞠る。

「これで消えちゃいましたね、レンムレン湖のアークの核」

 ヘウンバオスが刃を抜く。切りかかろうと振り上げられた曲刀は、だがすぐ行き場を失った。

「おーっと、それ以上ハイちゃんに近づいたら間違って割っちゃうかも!」

 横入りしてきたラオタオが小瓶を見せつけながら笑う。中にウェイシャンが泳ぐ瓶だ。天帝は顔をしかめて刃を下ろし、狐と詩人を睨みつけた。
 隣でルディアも拳を握る。二人の所業に身を震わせて。

「どういうつもりだ……?」

 怒気に満ちた声で二人に問いかけた。こんな計画ではなかったはずだ。天帝と接合し、ジーアンの蟲の中身を入れ替えて、それが終わればヘウンバオスの本体は詩人が好きにするのだと思っていた。
 それなのになぜコナーを殺す必要があった? 器だけでなく本体まで、一体なぜ?
 わななくルディアに詩人は「すみません」と詫びる。

「ここに来るまではあなたの味方をするつもりでいたのですが、我が君がこの残骸に私の思っていた以上の希望を見出したようでしたので、そちらを潰したほうが面白そうだなと思ってしまって」

 あまりに堂々と語るのでしばし頭が混乱した。──では何か、つまりこの男は土壇場で方針を変えたということか。ヘウンバオスが「聖櫃を再現できればレンムレン湖も再現できる」と考えたから。

「ふざけるなよ……!」

 ヘウンバオスの吠える声が洞窟にこだました。ハイランバオスは嬉しそうに笑っている。

「お前とてあの湖を探し求めてきたのではないのか!? 私と同じに! 何百年もの時をかけて!」
「だってあと百年ごときではどうにもならないではないですか。手に入らない故郷など絵に描いた想像図と同じでしょう?」
「お前は私が望むならもう一度仕えると言っただろう!?」
「あは! あんな言葉を本気にしてくださったのですか? ねえ、私あなたに申し上げましたよね。これからはあなたの敵になると。確かに私はあなたに嘘をついたことはありませんでした。ですがもう、それは遠い過去のことです。敵なのですから甘言を弄するくらいのことはしますよ」

 人語を話すこの男が本当に己と同じ生き物なのか疑わしい。ヘウンバオスもルディアも言葉を失った。アレイアのアークにも、レンムレン湖のアークにも強い執着を持たないこと。天帝を深く絶望させたいこと。それがまさかこんな形で組み合わさるなど。

「我が君よ。私は昔から苦悩するあなたが好きでした。ですが昔は、あなたの再起を前提とした苦しみを愛していると勘違いしていたのです。私はずっと、繰り返し、繰り返し、一つの光景を夢見ていました。自分で目にした光景ではありません。水溜まりと成り果てた、死にゆくレンムレン湖を前に、膝をつくあなたを見たのは私ではない──」

 ハイランバオスが滔々(とうとう)と語る。そのたびに身体がどんどん冷えていく。

「覚えていますか? あのとき側にいた書記官を! 彼はねえ、老いた将軍の悲嘆に凄まじい美を感じたのです! 私はどうしても彼の見たあなたの背中を我が目にしたい! あなたをあの絶望の淵へ追いやりたい! だからあなたが立ち上がるなら、私はあなたの足を?(も)がねばなりません」

 それが詩人の核なのだろうか。理解できないことばかりのたまう男は最後に「ですが」と希望を残す。

「まだ核を残す聖櫃は存在します。あなたの夢は完全には終わっていない! 最後に私と追いかけっこをいたしましょう。私がアレイアのアークに辿り着く前に、あなたが私を捕らえれば未来の故郷へ至る道は繋がりますよ!」

 ハイランバオスが洞窟の出口に歩き出したのでルディアは咄嗟に彼の背中に斬りかかった。しかしレイピアの一撃は軽やかにかわされ、更にラオタオにも立ち塞がれる。

「追って来られると邪魔だよねえ、ハイちゃん?」

 台詞とともに狐は躊躇なく小瓶を岩壁に叩きつけた。ガシャンと派手な音が響く。思わずそちらを向いた一瞬、殺気すら感じさせない自然な動作で曲刀を振るわれた。

「……ッ!」

 脇腹が抉られる。出血と痛みに堪らず屈み込む。
 二人はコナーの骸を跨ぎ、悠々と去っていった。天帝は彼らを追いかけようとしたが、結局やめて逆方向へ駆けていく。彼にはぶちまけられた蟲を放っておけなかったのだろう。
 なぜ、と歯を食いしばる。傷口を手で押さえ、どうにか岩場を這いずろうとしたけれど、詩人たちにはとても追いつけそうになかった。



 ******



 琥珀色の翼を広げ、焦ったように鷹が上空を羽ばたく。その音を聞きつけてダレエンはさっと顔を上げた。
 この小さな同胞たちは洞窟の入口で主君の様子を見守っていたはずだ。先に戻るなど何かあったとしか思えない。小広場に馬を繋いで待機していた兵士の間に緊張が走る。鷹はその輪の中心へ降りてきた。

「どうした? 向こうで何があった?」

 早くも近習の数人は曲刀に手をかけている。ピィピィ喚き立てる鳥兵に大熊が懐から文字表を差し出したときだった。橋向こうから人影が現れたのは。

「大変大変ー! 落盤したー!」

 駆けてきたのはラオタオだ。大仰な身振りで若狐は洞窟の出入口が塞がれてしまったと伝える。少し遅れてハイランバオスも小広場に戻り、天帝と客人が取り残された旨を語った。

「大きな岩が倒れてきて。全員で行っても動かせないかもしれません」

 主君を案じる詩人の顔にダレエンは眉をしかめる。確かに近辺を埋めるのは何かの弾みで倒れそうな岩ばかりだが、この二人だけが無事だったというのが不自然な気がしたのだ。

「本当か?」

 念を押す大熊に三羽の鷹がピィピィ頷く。どうやら本当に事故らしい。そうとわかると全員即座に橋へ向かった。
 落盤とは一大事だ。怪我などしていなければいいが。
 バサバサと翼を広げ、鷹が一行を急き立てる。岩だらけの狭い坂を大急ぎで先導する。
 急報に動じたことは否めない。しかし不審な動きに気づかないほど冷静さを損なったわけでもなかった。やはり不自然ではあったのだ。事故が発生したのだとしても、狐ばかりか詩人まで主君の側から離れるなど。
 ふと後ろを振り返る。橋を渡りきるまではあった気配が消えた気がして。
 ──いない。ハイランバオスとラオタオが。

「……ッ!」

 本能的にダレエンは地を蹴って細い坂道を駆け戻った。脇に押しのけられたウァーリが「ちょっと!? どうしたの!?」と大声で問うてくる。
 振り返らずとも隊列が前後に乱れたのが知れた。だが構っている暇はない。後方で立ち昇る白い煙が見えていたから。

「橋が! 全員引き返せ!」

 叫びはどこまで聞こえただろう。倒れて油を零すランタンが平橋の真ん中で赤い炎を上げていた。燃え落ちれば道を失う。上着を脱ぎ、まだ焚火サイズのそれに被せる。何度も何度もばさばさと。

「どいて!」

 いくらか小さくなった火にウァーリやほかの兵士たちが水筒の水をかけた。ジュウと小さな音を立て、やっと炎が消えてくれる。どうやら橋は焦げた程度で済んだようだ。

「ハイランバオスとラオタオは?」

 大熊も二人がいないのに気づいたらしい。嫌な空気が立ち込める。ダレエンはすぐに立ち上がり「俺が追う」と繋いだ馬のもとへ急いだ。

「ダレエン、あたしも!」

 そう言ってサソリも小広場へ飛び出してくる。ヘウンバオスのことは残った大熊と兵に任せ、ダレエンは馬に飛び乗った。
 何があったか知らないが、ろくでもないことに違いない。
 もはや容赦する気はなかった。
 毒を撒き散らすだけの二人に。



 ******



 麓に残った兵の手で宿営地には十五戸の幕屋が固まって組み立てられた。風が強いのでフェルトや骨組みが吹き飛ばぬよう互いに庇い合うためだ。いつもは多少なり離しておくのに、今日は身体を寄せ合って寒気に耐える羊の群れのごときである。
 アンバーは川辺でふうと息をついた。ディラン・ストーンの黒髪はふわふわと柔らかく、愛らしい曲線を描いているのだが、ここでは砂が絡みついて仕方ない。払っても払っても砂埃にまみれるので、もはやすっかり手入れを諦めてしまった。
 岸に膝をつき大鍋に水を張る。映るのは少女然とした他人の顔。この器にはいつまで入っていられるだろうと思案する。
 おそらく己はジーアン上層の誰かと入れ替わる。せっかくラオタオの記憶を有しているのだ。ルディアとしても手放したくはないだろう。となればモモの側に居続けるのは少し難しいかもしれない。今はできるだけ彼女から離れたくないのだけれど。

(自分の仕事はこなさなきゃね)

 半人半鳥の魔獣にされ、飼われるだけだった己を拾ってくれたのは防衛隊だ。ルディアには返さねばならぬ大恩がある。モモだって、するべきことを放って支えられたって喜びはしないだろう。
 今はそれほど悪くない状況だ。ハイランバオスもラオタオもアクアレイアに味方している。あの二人がどう出るかさえ読めなくて振り回されていた頃とは違う。
 かぶりを振ってアンバーは立ち上がった。ともかくまずは夕食のために水を運んでおかなければ。
 そうして繁る柳の間を抜けたときだった。曲者たちと鉢合わせたのは。

「おや、ちょうどいいところに」

 いつ戻ってきたのだろう。ハイランバオスとラオタオが幕屋の陰で疲れた馬を交換している。彼らは実に手際よく新しい馬に荷を載せ換えた。
 なんだこれは。一体どういう状況だ。明らかにどこかへ旅立とうとしている二人に怪訝に眉をしかめる。何度見ても付近には詩人たちの姿しかなく、主君や画家は足音さえ響かせなかった。
 何かおかしい。直感がアンバーに告げる。だがそれについて問いただす隙は与えられない。

「兵士をここに足留めしておきたいんだよね。牧草積んでる車あるじゃん? あれと幕屋のいくつかに火でもつけといてよ」

 さらりと無茶な要求をされ、アンバーは息を飲んだ。「時間がない」と二人は意図を少しも説明してくれない。「俺たちは先にサルアルカに戻るから」とだけ言ってさっさと鞍に跨ってしまう。慌てて留めようと飛び出した。

「ちょっと。姫様は? コナー先生と天帝は?」
「お姫様はまだ大丈夫! 傭兵団の息子に悪さされたくなきゃ素直に言うこと聞いてねー?」

 冷酷な声にぞっとした。防衛隊と合流するまで──否、防衛隊と合流してもなお自分を縛り続けた言葉に。
 己がラオタオの記憶を有するということは、彼のほうでもアンバーの記憶を有するということだ。知られている。何が一番の弱みかは。

「部隊の中でも君の監視は緩めてあるし、後はよろしく!」

 手を振って彼らは天幕の隙間を器用に走り去った。なんの判断材料も得ないまま背中を見送る羽目になる。
 こんな空気の乾いた場所で、こんな風の強い日に、火などつけて大丈夫なのだろうか。ああ言われれば従う以外にないけれど。

「…………」

 大鍋を強く掴み直す。アンバーは幕屋のかまどに火を取りに歩を速めた。



 ******



 ガンガンガンと鍋の底を叩くような音が響いて顔を上げる。実際それは急を知らせる鐘の代わりだったらしい。次いで「火事だ!」と物騒なジーアン語が飛び交った。
 驚いたバジルが立ち上がるのと、外から猫が飛び込んできたのがほぼ同時。来ては駄目だと聞かせたはずのタルバがニャアニャア騒ぐのでバジルは慌てて猫の口を塞がなければならなかった。

「ニャーッ! ニャアーッ!」

 そんなことはいいから外に出ろと言わんばかりに彼が暴れる。アイリーンやレイモンド、モモと一緒に玄関を出て、初めて惨禍を目撃した。
 火の手があちこちで上がっている。放火であるのは明らかだ。
 タルバはもしや防衛隊を案じてくれたのだろうか。誰の仕業にせよ真っ先に疑われるのは自分たちだから。

「……っおい! 川の水汲んで消火すんぞ!」

 各自できるだけ大きな鍋や深皿を取りに戻り、再び外へと飛び出した。風が炎を煽って育てる。ジーアン兵の大半は火を消すよりも延焼を防ぐべく周囲の幕屋を畳んでいた。
 水をかけるなら小火のところに回れと怒号が返される。バジルたちは牧草の燃える荷車のもとに集まった。川までの列を作り、空の器と水の入った器とを延々と回し続ける。近づける程度に火が収まると全員で車を牽いて川に投げた。その後はまた隣の火消しの加勢に向かう。
 どうしてとか誰がとか考えている余裕はなかった。火の回りは早すぎた。
 数名の兵士らが心配そうに「女帝陛下の幕屋も崩れそうだ」と別の火事場を見上げている。ブルーノやアルフレッドがどうなったのか、不安は膨らむ一方だった。



 ******



 壁から炎が吹いたのは「火事だ!」と聞こえた直後のこと。天幕を覆うのは厚いフェルト地。これほど燃えやすい建材もないから炎は簡単に猛り狂った。
 ほとんど私物を持たぬブルーノは早々に避難したけれど、アニークのほうはそうもいかない。騎士物語にパディと交わし合った詩に、放っておけないものがあまりに多すぎたのだ。
 中身を確かめる暇もなく紙類を?き集める。そうこうする間に火は壁を舐め、幕屋を形作っている木製の骨を焼いた。たとえ天井が落ちてきてもこれだけは守らなくては。本と手紙を抱きかかえ、アニークは出口に向かう。
 だが顔を上げ、すぐに周囲の視界の悪さに立ちすくんだ。灰色の煙がすべてを覆っている。ちらつくのは炎の赤だけ。玄関側の壁は歪み、ぱちぱちと不吉な音を立てていた。
 どちらへ逃げればいいのだろう。迷いがアニークを凍りつかせた。長考している時間などない。ここにもじきに火が回る。わかっていても足は動いてくれなかった。

(どうしよう。煙で前が全然見えない──)

 身体がふわりと持ち上がったのはそのときだ。誰か兵士が救出に飛び込んできてくれたらしい。背中と膝を支える形で抱えられ、あっと言う間に屋外へと運ばれる。

「あ、ありがと……」

 う、と続けようとしてアニークは目を見開いた。もう少しで転がり落ちるかと思った。アルフレッドの顔が近すぎて。

「あっ、えっ、ええっ!?」
「怪我はどこにも?」
「な、ななな、ない、ないわ」

 動転しながら問いに答える。地面に足が着いた後も到底力など入らなかった。一体全体先程から何事なのだ。何が起こっているのだ。

「なんの騒ぎだ! なぜ燃えている!?」

 と、そこにテイアンスアンに登ったはずのダレエンとウァーリが馬に乗ったまま駆けてくる。剣幕激しく尋ねる二人に居合わせた兵士らがしどろもどろに報告した。

「どうも火をつけた者がいるようで……」
「ウヤか?」
「いえ、違います。退役兵もよく監視していましたが誰も不審な動きは」

 短いやり取りで誰を犯人と断じたか、続いてダレエンは預言者と狐の所在を問いかけた。

「ハイランバオス様とラオタオ様ですか? いえ、見かけておりません。先にお戻りだったので?」

 返答を聞くや狼たちは矢のごとく猛然と駆け出していく。この火事の収拾をつけないのかと驚いたが、二人の姿はたちまちに見えなくなり、何も問うことはできなかった。
 上で何があったのだろう。天帝や大熊たちは無事なのだろうか。
 不安になったが今は己も考え込んでいる場合ではなかった。アニークは足に力をこめて立ち、馬の避難の手伝いに向かった。



 ******



 素早く逃げるには砂に足を取られない固い道を行くほかない。つまり往路を引き返すのだ。馬は新しいのに取り換えたし、そう長く休ませなければ逃亡は果たせるだろう。サルアルカまで着いてしまえばどうとでもなる。一時を凌ぐためだけの使い捨ての味方は多い。
 ただし時間稼ぎは必要だった。せっかく楽しい遊びを始めたのだから、早々と捕まっては盛り上がりに欠けるだろう。やはりパトリア古王国くらいまでは上手に逃げおおせなくては。

「おや?」

 と、ハイランバオスは意外に早く迫ってきた追手に気づいて目を丸くした。弓に手をかけ、射撃体勢に移りつつ後方を振り返る。するとそこには艶やかな黒髪を大いに乱して馬を駆る演技派女優の姿があった。

「おやおやまあ」
「ありゃ、ついてきちゃったか」

 隣でラオタオも瞬きする。宿営地に火さえ放ってくれればそれで良かったのに、何を思ったかわざわざ追ってきたらしい。遠方に煙が立ち昇ったのは確認したので問題はないけれど。

「しばらく並走させてもらうわ。その間に何があったのか教えてちょうだい」

 口内に砂が入るのも厭わずにアンバーはそう乞うた。聞いた事情は仲間にも伝えると続けた彼女はなるほどなかなか本番に強い役者のようだ。
 どうしたものかなと迷ったところでまた二つほど後方の影が増える。川辺の道を追いすがるのは今度こそ本物の追手だった。

「すみません。ちょっとそれどころじゃないようです」

 ひと言詫びてハイランバオスは影に向かって矢を放つ。狙ったのは人間ではなく馬のほうだ。二頭程度なら走れなくすれば追いつけない。
 狙い通りに矢は馬体を貫いた。しかし騎乗者の気迫に当てられでもしたか、速度は衰えてくれない。激しく砂煙を上げてダレエンが更にこちらに迫る。
 ラオタオの射たウァーリのほうも似たようなものだった。次いで彼らの射た矢がびゅんと飛んでくる。

「ッ!」

 反射的に動いたと見えるアンバーが剣で矢を弾き飛ばした。繊細な見た目に似合わずディランの身体は運動神経がいいのである。ちょうどいい。このまま彼女にしんがりを務めてもらおう。勝手に決めてハイランバオスはラオタオと頷き合う。

「さっすが王国海軍の一員! そのまましばらく守っててくれる?」
「なっ……」

 嫌そうに顔は歪めたが、なし崩しに戦闘に巻き込まれてもアンバーは断りはしなかった。切り抜けるにはこちらにつくしかないと判断したのだろう。ろくな防具もつけていないのに本当に盾役になってくれる。

「なぜ逃げる! どうして橋や宿営地に火をつけた!?」

 問われて思わず肩をすくめた。どうやらダレエンとウァーリは天帝の安否を確かめる前に追跡を開始したようだ。それでこんなに早く追いついてきたのかと納得する。事情くらいは聞いてから飛び出せばそんな間抜けなことを聞かずとも済んだのに。

「洞窟で何をしていたの!? 申し開きをする気があるなら止まりなさい!」

 サソリの命令は一笑に付して矢をつがえた。ぴたりと後ろに張りついた女優の脇をすり抜けるように一射二射と放っていく。あちらからの攻撃はアンバーの哀れな馬が全部引き受けてくれたからハイランバオスもラオタオもたっぷり攻撃に専念できた。

「きゃっ……!」

 何射目かでウァーリの馬が前脚を大きく上げて転倒する。一緒に彼女が落馬すると狼は一瞬そちらに気を取られた。
 負傷した馬では追うにも限度がある。なんとしてもここで捕らえると決めたのか、馬上で彼が刃を抜いた。鞍から高く腰を上げ、突撃の姿勢を見せる。
 重篤な損傷でも後で修復できるのに致命傷を与えることに遠慮などするはずがない。短期決着を狙って切り込むつもり満々のダレエンにハイランバオスも馬の足を緩めさせた。アンバーにも道端に引っ込むように合図する。
 振り切るほうが簡単だが殺したほうが面白い。ちょうど彼らも追いついた。

「……ッ!?」

 風を切り、鷹が地上へ滑空してくる。ハイランバオスとダレエンが対峙したまさにその瞬間に。
 間合いに踏み込んだタイミングで障害物に横切られ、狼がやや仰け反った。彼の視界が翼で埋まった隙をつき、ハイランバオスは狼の腹に刃を突き刺す。バランスを崩した身体はあっさり地面に墜落した。

「とどめ刺しとくねー、ハイちゃん」

 残っていた矢で狐が素早くダレエンの胸を射抜く。見ればラオタオの肩にも二羽、別の鷹が舞い降りていた。

「……き、さま……」

 力なく掠れた声はものの数秒で聞こえなくなる。
 狼のほうはこれでいい。ついでにサソリも始末しよう。
 くるりと来た道を振り返る。倒れたまま微動だにしない馬の側でウァーリはよろよろ起き上がるところだった。
 ハイランバオスが矢を手にするとラオタオも曲刀を構え持つ。サソリの弓は馬の下敷きになっているからいくらでも嬲れそうだった。時間が惜しいので長々と遊んではやらないが。

「どうして……」

 攻撃に備えて身構えながらウァーリが震え声で問う。彼女は一体何について尋ねようとしているのだろう? 同胞に手をかけたことか。はたまた不届き者の味方が増えたことか。多分後者だなと当たりをつけて答えてやる。口にして教えてやらねば彼女らは何もわからないのだから。

「延命という餌があるのにジーアン内部に私についた者がいると考えなかったのですか? ああ、それとも全然違う相手を疑っていたのでしょうか」

 くすりと笑って矢を放った。サソリが上手く横に跳んでかわすので着地点を狙って次の矢を飛ばす。踊らせるように次々と。

「おや?」

 と、調子に乗って射ていたら矢筒が空になっていた。曲刀はダレエンの腹に突き刺さったままなので丸腰になってしまう。得物を探してハイランバオスは周辺を見回した。視線を逸らしたその直後、飛んできたのはナイフだった。

「危ない!」

 声を上げ、アンバーが割り込んでくる。なんと優秀な護衛だろう。ナイフは彼女の馬に刺さり、ウァーリの武器はこれで本当になくなった。退却のための乗り物すら失った彼女ではもはや己の身一つで応戦する以外ない。
 まったく愚かな蟲たちだ。逃がすまいと勇むから道を間違える。似たような戦法で勢力を広げた時代もあったのに、どうして忘れてしまうのだろう。

「さようなら。あなたたちはあんまり美しくなかったですね」

 別れの挨拶とほぼ同時、ラオタオが馬を駆りつつ曲刀を掲げた。ウァーリは跳んでかわそうとしたが鷹に邪魔されて半歩遅れる。
 赤い飛沫が干からびた道を湿らせた。頸動脈からはよく血が出る。
 ほかに追手らしい追手がいないのを確かめるとハイランバオスはサルアルカに向け再び馬を走らせた。



 ******



 全然意味がわからない。目の前で起きていることのすべてが。
 彼らはなぜダレエンやウァーリを殺したのだ? 十将の本体は接合のために取っておくべきもののはずだし、彼らの器もなんらかの形で利用できたのに。

「では行きましょうか」

 転がった死体を一瞥し、エセ預言者が先を急ぐ。ラオタオも詩人のすぐ後をついていった。アンバーは二人に置いていかれないように逡巡しつつも現場を離れる。

「ねえ、どういうことなの」

 尋ねても答えは返らない。ハイランバオスは「もう少しここを離れてから」と首を振る。狐のほうに視線をやっても反応は変わらなかった。「いい子だからちょっとだけ待とうね」となだめられて終わってしまう。
 嫌な感じだ。本当に彼らを追ってきて良かったのか不安になる。火を放ったのが己だと知られたら言い訳できないと飛び出してきたけれど、これはこれでまずかった気がする。将軍殺しの罪をなすりつけられるかもしれない。

(どうしよう……)

 今ならまだ引き返せば何食わぬ顔で宿営地の火事の騒ぎに紛れ込めるのではないか。肩越しに後方を振り返りながらアンバーは頭を悩ませた。舞台のどこに己の位置を定めればいいか。

「おーい、ついてこれてないよー。もっとスピード上げてー」

 と、ラオタオが前方から呼びかけてくる。アンバーの馬は複数の傷を負い、とてもではないが全力で走れなくなっていた。今動いてくれているのが不思議なほどだ。最後に受けたナイフの傷など周囲が紫に変色している。きっと毒が塗り込まれていたのだろう。
 これでは行くことも戻ることもできなくなってしまいそうだ。そう危惧したときだった。前を行く二人が川岸に馬を止めたのは。

「この辺りですかねえ」
「そうだねえ」

 水の色をした双眸がこちらを見やる。側へ寄るよう手招きされ、アンバーはなんとかそこまで馬をやった。

「道端に死体を転がした理由ですが、とても単純な話です」

 ハイランバオスが語り出す。やや唐突な切り出し方に内心戸惑いが生じた。天帝やルディアの話でないのなら馬の手当てをしながら聞いてもいいだろうか。刺さったままの毒刃だけでもなるべく早く抜いてやりたい。

「見知った顔が倒れていたら一旦足を止めるでしょう?」

 詩人はにこりと微笑んだ。ほぼ同時、え、と思う間もなく何かがアンバーの背を貫く。重い衝撃に狼狽しつつ視線を落とすと己の下腹から突き出た曲刀の切っ先が光っていた。

(え?)

 ごぼ、と喉から血が溢れる。鞍の上に座していることすらできず、アンバーは馬上に倒れた。後から後から鮮血が流れ出る。身体が滑り、地上に落下するほどに。

(なに…………)

 全然意味がわからない。我が身に起きていることのすべて。
 なぜ、どうして。状況を見極めようとしても思考は激痛に散らされた。
 影がアンバーを見下ろす。
 そうして冷たい言葉を吐く。

「ごめんねえ、俺たち誰にも追いつかれたくないからさ」

 ついたばかりの血を払い、曲刀を鞘に戻すと狐は手綱を握り直した。何事もなかったように詩人たちは道の先へと駆けていく。

(モモ……ちゃ…………)

 視界は赤く染まっていた。死はもうそこに迫っている。
 最後の力を振り絞り、アンバーは血溜まりに身を伏した。這い出てしまった本体がわずかでもそこで長らえるように。



 ******



 天帝や兵士とともに主君が下山してきたのは大方の火災が収まった頃だった。苦りきった表情で王女は告げた。ハイランバオスとラオタオがコナーを殺して逃亡したと。
 死傷者は画家だけではなかったらしい。小瓶に入れておいたウェイシャンも黒ずんだ灰となって見つかり、ルディア自身も深手を負わされたそうだった。今問題なく歩けているのはコナーの脳髄液を使って治療したからということである。

「放火もおそらくあの二人の仕業だろう。混乱に乗じて逃げたんだ。いつの間にか案内の鷹まで消えていたし……。とにかく我々もすぐ後を追うぞ」

 馬を出せ、と命じる主君にモモは「わかった」と頷いた。大急ぎで駆け出しながら息を飲む。狂ってしまった計画の修正は容易ではなさそうだ。というかもはやそれどころではない気がする。
 気がかりなのは今後の話だけではなかった。出火当初から一度もアンバーを見ていないこと。どうしてもそれが気になって仕方ない。人命が危ないときに放っておくような女ではないのだ。彼女自身が災難に巻き込まれているのではなかったら。

(アンバーの乗ってた馬もいない……)

 一時避難させられた馬群の中にいるべき一頭を見つけられずに身が震える。ジーアン人は馬留などの場所を作らず、足を縛って放置するだけなので宿営地から迷い出たのかもしれないが、不安は刻一刻と増大した。
 防衛隊はそれぞれの馬に跨り、ジーアン兵の後を追いかけて走り出す。狐と詩人の追跡には既にダレエンとウァーリが出ているとのことだ。上手く行けば二人に加勢できるかもしれない。ただ火事が起きてから少々時間が経ちすぎていて、追いついてみなければ何がどうなっているかはわからなさそうだった。
 隊列は速度を上げて進んでいく。無言の時間が永遠のように続いた。
 重苦しい空気はしかし、突然に終わりを告げる。先頭から異常などよめきが波及して防衛隊は思わず顔を見合わせた。
 何か発見されたらしい。だが砂埃と馬の足で何も見えない。ようやくそこに近づくと濃い血の匂いが漂った。

「……っ!」

 人馬の垣根の向こう側に横たわるのは二体の骸。あちこちに矢傷を負わされ弱った馬も力なく屈んでいる。物言わぬ遺体の前でヘウンバオスがわなわなと肩を震わせていた。
 助からなかったのだろうか。ダレエンの腹に深々と突き立てられているのは見覚えのある曲刀だった。心臓を射抜く矢のほうは誰のものか不明だが、詩人が狼を討ったのは間違いない。

「……そこまで遠くへは逃げていないはずだ。追え」

 短い命令。痛ましい顔でジーアン兵が道を駆け出す。同胞を弔うためか天帝は十数名の兵とともにそこに留まるようだった。
 流れに押されてモモも馬を走らせる。しばらく行くとまた隊列が路上に何か見咎めたらしく速度を落とした。視界を遮る人数が減ったので今度はすぐに誰が倒れているのか知れる。
 黒い髪。緩くウェーブのかかった艶やかな。目を瞠り、モモは思わず友人の名を叫んだ。

「アンバー!」

 どうして彼女がこんなところに一人でいるのかわからない。何がどうなって血溜まりに頭を突っ込んでいるのか。
 隊列を追い抜いてモモは友人のもとへ急いだ。全力で馬を駆けさせる。飛び降りるように道の上に着地する。

「アンバー……!」

 呼びかけながら血眼で、とうに這い出てしまっただろう本体を探した。死体の姿勢はうつ伏せだ。アクアレイアの脳蟲は耳の穴から出入りするので血の池に落ちたに違いない。這いつくばって動くものがないか凝視する。
 赤黒く濁った血液は大地に染み込み、砂を被り、ほとんど乾ききっていた。それでも探す。片手で水筒を取り出しながら。
 もぞ、と砂の塊が動くのを捉え、モモはそれを摘まみ上げた。手首を返して掌に乗せたものを確かめる。砂と血で汚れた線虫。
 ただちに水をかけて湿らせようとした。水筒の蓋を外し、掌を皿代わりに。──けれど。

「…………ッ!」

 突風が吹き飛ばす。一度は確かに掴んだ彼女を。
 アンバーはディランの白い頬に落ちた。そうしてすぐに真っ黒に炭化した。

「あ……」

 一部始終が目に焼きつく。
 黒粉と化した彼女を風が無情にさらっていく。

「やだ……っ」

 受け入れられずに首を振った。予感も何もなかった別れを。
 だって今朝まで一緒にいたのに。

「やだよぉ、アンバー……!」

 なんでと空っぽの器に縋る。溢れた涙が無意味に骸を湿らせた。
 なんで。どうして。──わからない。わからないよ。
 慟哭するモモの傍らに唇を噛んだルディアが膝をつく。いつかのように後ろから肩を支えられ、彼女を亡くすのが二度目であるのを思い出した。
 ああそうだ。あのときも死んだのはアンバーだった。部隊の皆を守るために魔獣の身体を晒してくれた。
 立たなければ。こんなことをした連中を捕らえて叩きのめさなければ。そう思うのにどこにも力が入らない。虚勢を支えてくれていたのが誰だったか思い知らされるだけだった。
 ジーアン兵は防衛隊を置き去りに裏切り者たちを追っていく。
 蹄の音が遠ざかっても嗚咽はいつまでも止まなかった。



 ******



 怒涛のごとく時は過ぎ、長かった一日の終わりが砂漠に訪れる。
 取り急ぎ立て直された幕屋群に兵士たちが戻ってきて、追走班に後を託した旨を天帝に報告する。だがサルアルカに至るまでに逃げた二人を捕縛するのは難しそうだとのことだった。街で彼らが馬を換え、広すぎる草原の道なき道を行くとすれば見つけられないかもしれないと。
 ヘウンバオスと同じ幕屋でルディアはじっと話に耳を傾けていた。防衛隊の武器は衛兵に没収され、見張りとともに壁際に座らされ、ほとんど虜囚の扱いだったが致し方ない。一行はいまだ混乱の渦中にあった。
 安置された骸の数に陰鬱な気分になる。モモも、バジルも、レイモンドも、ブルータス姉弟も、ジーアンの将や兵たちも、暗い顔でうつむいている。だが己まで彼らと同じに黙り込んでいるわけにいかなかった。ハイランバオスが何をしようとしているか、正確な予測ができるのは自分だけだったから。

「……あの男はマルゴーへ向かったのだと思う。少なくとも最終的にはそこを目指そうとするはずだ」

 呟けば長椅子に座した男が憔悴した顔を上げる。ヘウンバオスはルディアを睨んで「なぜわかる?」と問いかけた。

「アクアレイアの──アレイアのアークが有する核を消滅させれば聖櫃が発明される未来の可能性は潰えると、そう言っているように聞こえた。嫌がらせとしてこれ以上のものはないだろう。だからきっと、あの男はこちらのアークを破壊しようと行動する」

 自分で口にした言葉に薄っすらと汗を掻く。信じたくない窮状だ。よりにもよってそこを狙われる羽目になるとは。
 管理者である師は死んだ。けれど多分、アーク自体はまだ生きている。守護する者を欠いたまま。

「……アルタルーペの山中にあるんだ。隠れ里だし、岩塩窟の深部に隠されているから、ハイランバオスもすぐには辿り着けないと思う」

 ルディアが何を言いたいのかヘウンバオスには伝わったようだ。これは詩人の用意したゲームだ。どちらが先にアークのもとへ到着し、壊すなり守るなり各々の目的を果たせるかの。

「マルゴーへ進軍しろと?」

 ルディアは首を横に振った。その判断は早計だ。ジーアンはアルタルーペの高峰を前に一度撤退を決めている。すんなり公国を落とせるとは思えない。
 それに今はもっと優先すべきことがあった。もしも隠れ里に着く前に天帝やジーアンの蟲が寿命を迎えてしまったら、帝国の強大な力を借り受けられなくなってしまう。

「私もお前もただ一つ世界に残るアークを守らねばならない。利害は一致しているはず。だからまず、私を信用してほしい」

 冷めた血の色の双眸がルディアを見つめた。同胞以外、いや同胞すらも今はどこまで信じていいかわからないと言いたげな。
 当然だ。彼は彼の片割れに手酷く二度も裏切られた。よその型違いの蟲などはなから信じる気になれないだろう。
 自分自身誰も信じきれないくせに他人にはそれを乞うのかとおかしかった。だが一つだけ、運命共同体として差し出せるものがある。

「私の記憶をくれてやる。百年の猶予とともに」

 隣でバジルやレイモンドが息を飲んだのがわかった。しかし今は悠長に首を絞めに行ける機を窺っている場合ではない。
 アークの保存を願うならヘウンバオスは理解を示してくれるはずだ。記憶の共有さえすれば協力体制はきっと築ける。

「私と『接合』をしてくれ」



 ******



 ああ楽しい。実に楽しい。九百年生きてきた中で今が一番幸せだ。あの方を輝かせるために己の全身全霊を捧げられるのだから!
 ハイランバオスは天に散らばる無数の星を見上げつつ夜の大草原を駆けた。砂漠と谷間の回廊を抜け、最も危険な地帯は脱したと言えるだろう。そろそろ馬に小休止させてやってもいいかもしれない。
 しかしまだ興奮とともに駆けていきたい気分だった。一番いい馬を拝借したし、小一時間なら無理もきくだろう。速度だけわずかに緩め、サルアルカへと続く道を走り続ける。
 今頃彼はルディアとどんな話をしているだろうか。寿命は無事に伸びたかもしれない。万全の状態で最後の戦いに挑むために。

「楽しみだねえ、ハイちゃん」

 いつも一番通じ合える狐もふふっと笑い声を上げる。急に方針を変えたのに息ぴったりに合わせてくれる我が子の存在に感謝した。心から信じられる者がいてこそ難事も成功するのである。

「これからが本番です。我が君のために頑張りましょうね!」

 胸弾ませてハイランバオスは燦然と光る星々を目に映した。春とは言っても日が落ちれば気温は氷点下まで下がる。馬が汗で冷えないように気をつけねば。
 ふふ、ふふふ、と笑みは無限に零れ出た。楽しくて楽しくて仕方なかった。

 忘れられない光景がある。実際に己の目で見たわけでもないのに。
 砂塵と塩が風に舞う。じりじりと日射に焼かれて。
 あれは故郷の最後の日。
 水辺を求めてあの人がさまよい歩く。
 私は彼から目を離せずについていく。

 折れない人の小さな背中。深い嘆きに満ち満ちた。
 天から滑り落ちた星はきっとああいう姿をしている。
 何よりも美しい人。
 私はあなたを詩にしたい。















(20210404)