このサイトに置いている14話は「初稿」です。正式な「最終稿」は6月以降ノベプラ、なろうにアップします。
大幅な修正が予測されますこと、予めご了承ください。またSNSなどで関連ツイートをするのも6月以降でお願いします。









    第五章 詩人は祝福の詩を歌う

 広くなだらかな丘陵の、揺れる草々の向こうに霞む街を見つけてルディアは小さく息をついた。ここまで小さな移動集落としか出くわさなかった草原で、初めて都市と呼べそうな都市を目にしたのだ。海原に陸の影を見た水夫のように安堵の気持ちがこみ上げるのも当然というものだろう。
 寒々と、薄ら悲しい道のりだった。打ち解け合って穏やかに過ごそうと努力するほど。もうじきすべてを終えられる。そのことにただほっとする。実際は新たな苦難が始まるに過ぎずとも、少なくとも負う必要のない者にまで重荷を負わせる日々はおしまいにできるのだから。

(さあ、行こう)

 心なしか足を速めた馬群を追ってルディアも己の馬を急かした。サルアルカは三月下旬の早春の光に照らされ、きらきらと輝いていた。
 聞きかじった話によれば、かの街は大山脈が雲を押し留めるために安定した降雨に恵まれ、広範囲で農業が営まれているらしい。湖には獲りきれないほど魚がおり、家畜に食べさせる牧草も豊富だそうだ。更に重要な交易路が通っているとなれば栄えないほうがどうかしている。しかし一行はそんな街を素通りし、一直線に郊外へ向かった。即ち天帝の待つ幕屋へと。

(皆大丈夫だろうか)

 ちらと退役兵たちに目をやる。頷き合うことはなかったが、かわした視線で意図は察してくれたと思う。この先はいつ「接合」に踏み切るかわからない。心してかからねばならなかった。

(とにかくまずは天帝との接見だな)

 次第に近づいてくる天幕群にルディアは唇を引き結ぶ。ヘウンバオスは突然帰ってくると言い出した弟を相当怪しんでいるだろうし、コナーやルディアに対しても同様の不信感を持っているに違いない。「交渉に来た」と思わせるのが肝要だった。本命のジーアン乗っ取りに勘付かれることのないように。
 恐れるなと己を励ます。型違いの蟲と蟲が触れ合うと記憶が共有されるなど、普通に生きていて思いつくはずもないのだ。だからきっと上手くやれる。

(正念場だ)

 馬が草原を駆けていく。バジルもモモもレイモンドも気遣わしげにこちらを見ている。目前に迫った舞台は一時的にでも抱えた問題を忘れさせてくれた。終わった後のことについては終わった後に考えよう。それだけ決めてルディアは丘を駆け抜けた。



 ******



 到着の一報が届いたときにはこちらに向かってくる一団が平原の遠くに視認できた。見通しだけはいい空間だ。先頭に立った二人がおおいと手を振る姿もすぐに目に入る。
 初めて見る器でもダレエンとウァーリはわかりやすい。眼光鋭く俊敏そうな中背の男と唇に真紅を引いた大女。印象はいつも同じである。
 ヘウンバオスが馬上で手を上げると二人の将は速度を上げた。間もなく馬は天幕立ち並ぶ低い丘へとやって来る。そうしてヘウンバオスの前に止まった。

「……書簡で知らせた通りだ。すまない。後手に回ってしまって」
「あたしたちの失態よ。ごめんなさい」

 詫びているのはファンスウとウェイシャンが虜囚にされた件だろう。狼も、サソリも硬い表情だ。だが王女たちに出し抜かれたのをとやかく言う気は今のところなかった。報告を読めばジーアンの蟲よりも彼らのほうが重要な情報をいくつも秘匿していることはわかったし、その中にこちらの裏をかける手札があったとしても不思議ではない。敗因があったとすれば君主たる己の慢心だ。特にこの数百年は、あらゆる場で意のままに他国を操ってきたから。

「ほかの将はもう到着している。あれとルディア一行を集めて私の幕屋で話を聞こう」

 片割れの名前は口にしなかった。馬を下りるように顎で示せば二人は即座に鞍から離れる。傍らに控えていた大熊に「残りの将を呼んでこい」と命じるとヘウンバオスも下馬してさっさと歩き出した。感傷を意識する前に。



 ******



 ついにここまで来たかという感慨にふける暇もなく、防衛隊は多数の兵士に守られた大きな天幕へと引っ張られた。
 ひと目で天帝専用と知れる、入口の飾り布から豪奢な幕屋だ。害意はないと示すために所持した武器は没収される前に預けた。背中を強く押されるままにルディアは室内に踏み込む。フェルトの白壁を朱金の美しい絹で覆ったそこは遊牧民の小宮殿という感があった。かつて訪ねた天帝宮の庭の幕屋を思い出す。状況はバオゾのときとはもうまるで違ったが。

「もっと中へ詰めろ」

 言われて少し奥へと進む。続々と人は増えていった。最初に連れられたのはルディア、レイモンド、バジル、モモ、アイリーンにアンバーだ。ダレエンとウァーリの両名に見張られながらハイランバオス、ラオタオ、コナーも入ってくる。その後すぐに古龍の姿のブルーノと、何が始まるかわかっていなさそうなアルフレッドがアニークに伴われて入室した。彼らの足元には猫のタルバも見受けられる。
 迎えるのは玉座のごとく据えられた長椅子に腰かけるヘウンバオス。彼の脇を固める七名の男たち。バオゾの宴で見た顔も何人か混じっていたので彼らがジーアン十将かという憶測はたやすかった。そうそうたる顔ぶれだ。あちらもそれだけ必死ということだろう。
 足音が止むと内部には冷たい温度の緊張が満ちる。玄関布が下ろされるや、長椅子の奥に控えた男の声が静寂を切り裂いた。

「ハイランバオス、コナー、王女ルディア、天帝陛下の御前へ」

 呼ばれたのは喋らせる必要があると見なされた三人だけだ。絨毯の上に跪く仲間を残し、ルディアは天帝の前へ出る。真ん中にハイランバオスが両膝を、右にコナーが片膝をついたので己も左に片膝をついた。場が整うとほぼ同時、ヘウンバオスが「大体の話は聞いた」と切り出してくる。

「お前たちは結託してファンスウとウェイシャンの本体を強奪したそうだな。それで一体どういうつもりで私の前に顔を出した?」

 鮮血の透ける双眸は彼の片割れだけを強く睨んでいた。溢れんばかりの怒りに他者が口を挟む隙はない。ゆえに彼への返答はハイランバオスが行った。

「最初は人質を使って楽しいことをしようかなと画策していたのですが」

 あっけらかんと詩人は悪意を白状する。聞かされた天帝がいっそう苛立ちを募らせるのを気に留めた風もなく。

「アークが見つかったようでしたので、取り急ぎお祝いに駆けつけました」

 ハイランバオスは悪びれもせずにっこりと指を組んだ。敬虔な祈りと祝福のポーズにヘウンバオスの眉間のしわが深くなる。彼の腰の曲刀が見えていないはずがないのに詩人は囀(さえず)りをやめなかった。

「おや? お喜びになってくださらないのです? せっかくこうしてあなたのもとにコナーまで連れてまいりましたのに」

 なんとも恩着せがましい台詞だ。味方のはずのルディアでさえ煽りすぎではないのかと不安になる。しかしさすがはエセ預言者と九百年も連れ添ってきた男だ。ヘウンバオスは不快に思考を乱すことなく本題だけを推し進めた。

「その男はアークのなんだ」

 問いかけられてハイランバオスが画家を見やる。片膝立ちのままでコナーは「では改めて自己紹介でも」と微笑んだ。師は大仰に、舞台の上で挨拶をする役者のように恭しく頭を垂れる。

「私はアクアレイアのアーク管理者です。聖櫃の中枢から生まれ、聖櫃を守る使命のために生きている特別な蟲でございます。レンムレン湖のアークが発見されたと聞き及び、是非ともお目にかかりたいと馳せ参じた次第です」

 己なら古いアークがどんな状態にあるか説明できると豪語する画家に対し、天帝は胡散臭げな一瞥で返した。「どうして見つかったなどと思う?」と次なる問いが重ねられる。まるでこちらを試すように。

「だってほかに、十将を一堂に会させるほどの重大な用件は考えられないではないですか!」

 陶酔に浸りきった目をきらきらと輝かせ、答えたのは詩人だった。今度は彼が夢心地のまま問い返す。

「あなたにはごく限られた情報しか伝わっていなかったはず。一体どうやってアークを探し当てられたのです?」

 深々と溜め息が吐き出される。普段の調子を崩さないハイランバオスに天帝は眉をしかめる一方だ。詩人に付き合ってこれ以上疲労したくないということだろう。諦めたように目を逸らし、ヘウンバオスは問いに応じた。

「蟲を生むクリスタル。そんなもの干上がったレンムレン湖から出てきたことはなかったから、砂漠に続く水源を探させた。テイアンスアンの洞窟に入った鷹はひと目でこれがアークだとわかったと言っていた。不思議に懐かしい気がしたと」

 見るからに喜ばしげにハイランバオスが「ご聡明な」と頬を染める。

「本当に、あなたには不可能などないようです。うふふふふ、もちろん我々もアークのもとへ連れて行ってくださるのでしょう? あなたの千年の集大成、最高の大団円をともに味わわせてください!」

 乞われた天帝はひときわ大きく嘆息した。当然と言えば当然の、冷たい声が返される。

「その前に首を刎ねられると思わなかったのか?」

 牙を突き立てられたのに詩人は驚きもしなかった。それどころか「刎ねたいですか? ではどうぞ」と自ら首を差し出してみせる。あまりにも平然とした彼の態度にヘウンバオスは喉を詰まらせたようだった。短い沈黙。ややあって狂人の相手をやめた天帝がルディアのほうに目を向ける。

「貴様はなぜここへ来た。裏切り者と通じ合った分際で」

 威圧する声に顔を上げた。視線が合う。突き刺さる。
 ためらわず口を開き、ルディアは交渉を持ちかけた。表向きの、相手の油断を誘うための。

「ハイランバオスと結託していたのは事実だが、私は私の祖国を取り戻したいだけだ。サルアルカには話し合うために来た。もしもそちらがアクアレイアの返還を約束してくれるなら、私には延命の秘密を明かす用意がある」

 提示した取引の内容は天帝の気を引いたらしい。ぴくりと彼の耳が跳ねる。互いに利のある契約だと思い込ませられるようにルディアは説得を続けた。

「この男はアークが見つかったならジーアンに帰るのもいいなどとほざくし、直接やり取りしたほうが早いと思った。捕虜にした蟲たちも望みが叶えば帝国にお返ししよう。悪い条件ではないだろう? アクアレイアがジーアンの蟲にとって紛い物だったなら領有にこだわる必要はないはずだ」

 ヘウンバオスが目を眇(すが)める。答えはすぐには示されなかった。

「必要かそうでないかを決めるのは私であってお前ではない」

 撥ねつけられ、不興を買ったかなと惑う。だがそう的外れな話を持ちかけたのではなかったようだ。値踏みする目でルディアを見やると天帝はひとまずの留保を告げた。

「返答はアークの現物を見てから行う。それまではくれぐれもファンスウたちを丁重に扱え」

 是ではないが否でもないその言葉。魚が針にかかったことを確信し、よしと内心ほくそ笑む。
 だがこれで終わりというわけにはいかなかった。ルディアの意気を挫(くじ)くかのようにヘウンバオスは詰問じみた追及を始める。

「ところで延命が成ったとして、我々はどうやって我々の命が長らえたことを知ればいいのだ?」

 至極もっともな質問だ。「おめでとう、あなたはこれからもう百年生きることができますよ!」などと言われても百年経ってみなければ真実はわからない。取引を検討するにあたってヘウンバオスがその確認をしたがるのは当たり前の話だった。

「そもそもどうやって延命が可能な措置かを証明するつもりだ? ないものをあると言って騙すほうがずっと簡単なのだぞ?」

 疑いに満ちた眼差しがルディアの目論見を暴こうと絡む。下手に嘘をつけばたちどころに見抜かれそうだ。少し考え、状況証拠だけ口にすることにした。

「物理的に証明する手立てはない。しかしこちらの弓兵が弟子のために延命を行ったのは紛れもない事実だ。真に不可能な措置だとしたらそんなことは最初から起きなかった。そうだろう?」

 ルディアの言に天帝が押し黙る。帝国側に一連の件が露見した後、防衛隊が何をもって清算することになったかはヘウンバオスも聞き及んでいるはずだ。痛手はあまりに大きかった。今はそれを証の代わりとするほかない。

「……では延命は実際に可能であるとしよう。お前たちが本当に我々にそれを施す気があるかどうかはどうすれば信じられる?」

 遠慮ない問いかけが続く。少しの矛盾も見逃すまいとするような。
 だが目を逸らすわけにはいかない。この質問には交易で国を盛り立ててきたアクアレイアの王女として率直な意見を返した。

「寿命を迎えた蟲たちはある日一斉に死ぬと聞いた。東方を支配するジーアンで、突然ごっそり上層部が倒れれば未曽有の大混乱になる。交易国で内乱など困るのだ。一世紀先送りにできるならそうしたい」

 回答に不自然な点はなかったと思う。述べた言葉に一つ嘘があるとすれば、だから今のうちに帝国を乗っ取りたいということだけだった。

「なるほどな」

 現実を見据えたルディアの説明にヘウンバオスは一応納得してくれたようである。それ以上のことはもう何も聞かれなかった。
 しばし沈黙が訪れる。一秒一秒が異様に長く感じられる。
 張りつめた空気を最初に破り、天帝に尋ねたのはコナーだった。

「一つだけお伺いしたいのですが、洞窟で発見されたという聖櫃はどういった状態でしたか?」

 話す許可も与えられていないのにと不躾を咎められてもおかしくない場面である。だが天帝も十将も画家の無礼を看過した。

「どういう意味だ?」

 ヘウンバオスがコナーに問う。「破損などは?」と師が続けると天帝は後ろに控えた熊のような大男に顎で何かの合図を送った。

「発見者に描かせた絵がある。それを見ろ」

 間もなく男が寄ってきて、コナーに小さな紙筒が手渡される。画家は丁寧に丸められたそれを開いた。

「ほお……!」

 聞くからに興奮した声。どうやら彼にとって良いものが描かれていたらしい。

「折れても抉れても削れてもいない! 完璧な保存状態だ! 本当にこの形でアークが残っているとしたら、ひょっとして『核』が生きているかも……!」

 色めきだった師に「核?」と天帝が問いかける。

「我々が人格の核と呼んでいるものか?」

 ヘウンバオスの推察には「いいえ」とすぐさま首が振られた。

「人格形成に使用される宿主の残留思念とは違います。もっと別の、アークの心臓部たる──あ、いや」

 画家は途中で語るのをやめてしまう。彼はふむ、と指に手を当てて考え込むとこう続けた。

「私と、あなたと、ルディア王女と、ラオタオ殿と、ハイランバオス殿の五人でならアークのもとで詳しくお話しいたしましょう。現物を眺めながら聞いたほうがあなたにとってもきっと良いかと思います」

 なんにせよ現地には専門家を連れて行くべきだと説くコナーに対し、天帝は長く考え込んだのち「……わかった」と了承した。ルディアはおお、と胸中で歓声を上げる。これは嬉しい支援である。周囲とは隔絶された状況で、四対一なら天帝の首を絞めるのも簡単だ。師の協力に心から感謝した。

「発見地は険しい山中だ。鳥の姿でなければ辿り着けなかった。今新しい道を敷設している。完成まで今少し待て」

 ヘウンバオス曰く、工事は最終段階に入っており、数日中に道は通じるとのことだ。そう聞いてハイランバオスが「わあ!」と頬を紅潮させた。

「楽しみですねえ。五人でいざアークのもとへ! 今から胸が高鳴ります!」

 天帝は片割れになんの反応も返さない。代わりのように全員幕屋を退出せよとの命が下った。十将も、女帝も、画家も、防衛隊も全員だと。最低限の確認は済んだということだろう。顎先で出入口が示される。

「客人に天幕を用意してやれ」

 指示を受け、大熊に似た将がいち早く玄関布を捲って外へ出て行った。接見はこれで終了らしい。もたもたせずにルディアたちも立ち上がる。

「お前はまだここにいろ。聞きたいことが山ほどある」

 と、天帝がハイランバオスだけを引き留めた。なんの尋問をする気だと額に汗が滲んだが、難癖をつけて連れ出すのも難しい。結局ルディアは部隊とともにそのまま辞去する運びとなった。

(まああいつなら上手くやり過ごすか。アークのもとに、五人で辿り着きさえすれば我々の勝利は確定だ)

 背後を気にしつつ敷居を跨ぐ。一歩幕屋から出れば冷たい風が草を揺らして吹き抜けた。
 いよいよ最終局面だ。最初に頭さえ押さえれば後のことはどうとでもなる。ダレエンのような手強い者は後回しに、一人ずつ入れ替わっていけばいい。
 ルディアは無言で仲間の背中を盗み見た。これが終わればやっと自由にしてやれる。今まで本当によく耐えてくれたと。
 あと少し、ほんの少しだ。悲しみを呼び込むばかりの不甲斐ない主君に仕えさせるのも。



 ******



 ふう、とレイモンドは胸を撫で下ろす。ルディアが危険に晒されることなく天帝との話が済んで良かったと。ともかく一歩前進だ。障害はまだあれこれと残っているが、最初の関門はすり抜けた。

(姫様もちょっとほっとした顔してるな)

 恋人の横顔を見れば緊張がいくらか解けているのがわかる。とは言え気楽にお喋りできる雰囲気ではなかったが。天幕を出た防衛隊に毛むくじゃらの大男が「少し待て」と言いつけて去る。武装したジーアン兵がうろうろする草むらに部隊はしばし留め置かれた。

(早くこいつらどっか行ってくんねーかな)

 じろじろと見張られていては仲間内での会話すら憚(はばか)られる。余計な話は一切せずにレイモンドたちは表面上大人しく待った。胸中に秘した計画を悟られることのないように。
 しばらくすると熊男が戻ってきて「お前たちの幕屋を車から下ろしたぞ」と告げられる。寝床は今までと変わりないらしい。防衛隊は防衛隊の、コナーはコナーの、ブルーノたちはブルーノたちの元いた幕屋へ促された。

「それでは寛がせていただこうかな。次に君たちに会うのはテイアンスアンを登るときになりそうだね!」
「え、えーと。じゃあ僕たちも……」

 上機嫌に鼻歌なぞ口ずさみ、画家は手を振って去っていく。名残惜しそうな騎士の手を引き、ブルーノも女帝の幕屋へ歩いていった。その後をアニークと灰色猫が衛兵に守られながらついていく。

「俺は先生と同じとこ使えばいいよね? ハイちゃんが出てきたら戻るから、皆は先にゆっくりしててー」

 まだ残ると言うラオタオにルディアが「わかった」と頷いた。なら遠慮なく引き揚げることにしよう。そうレイモンドたちが歩き出したときだった。「貴様はこっちだ!」と大熊が狐の首根っこを掴んだのは。

「ほええ!? ちょっ、首絞まっ! ちょっ!」

 ろくな抵抗もできぬままラオタオは別の大きな天幕へずるずる引きずられていく。全力で嫌がる声が喜劇のごとく虚空に響いた。
 取り調べでも始まるのだろうか。いささか不安ではあるが、ラオタオにせよハイランバオスにせよ助け舟の出しようがない。レイモンドは心の中で二人の健闘を祈った。まあおそらく、心配せずとも口八丁で出てくるだろう。それにこれはなんというか、彼らの自業自得だった。
 この隙にこちらは最終確認が入りそうである。粛々と歩むルディアに続き、防衛隊は幕屋に戻った。玄関布を下ろしきり、誰の監視もないことを速やかに確認する。王女はレイモンド、モモ、バジル、アイリーン、アンバーの五人を側に集めて囁いた。

「いいな。テイアンスアンに入山するまでは普段通りにしていろ」

 それで全部伝わった。やはりルディアはアークのもとで天帝を毒牙にかけるつもりなのだと。
 もうじき大きな仕事が終わる。彼女はきっといくつもの大国を統べる君主に生まれ変わるだろう。そうなればルディアの考えや性向とは関係なく防衛隊は形を変えるか解散になるはずだ。
 これまでの行動でレイモンドは「もしも部隊がなくなるとしても彼女の隣に居続けたい」という意志は示したつもりである。誰とも問題を起こさなかったし、アルフレッドにも親切にしてやった。この先ルディアが何を言い出しても反論できる材料を用意するために。
 彼女はきっと好きなところへ行けと言う。つらいならアルフレッドやモモやバジルと一緒にいなくてもいいと。だから己は、つらくなどないという証拠をもっとたくさん作らねばならなかった。いつでもルディアを納得させて、急にどこかへいなくなったりさせないように。

(姫様がいなけりゃ俺は──)

 今考えるべきことじゃない。まだ天帝との入れ替わりすら行っていない状況で。わかっていても胸に居座る憂慮を締め出すのは困難だった。
 早く何もかも落ち着けばいい。ルディアは思いつめすぎる。手にしたはずの幸福さえ彼女は置き去りにしてしまう。
 離れ離れになりたくなかった。その気持ちが強すぎた。
 だから多分、彼女以外のすべてのことに頭が回らなかったのだと思う。



 ******



 胃がむずむずと違和感を訴える。明らかに消化不良だった。ほとんどなんの申し開きもさせないままヘウンバオスが裏切り者への追及をやめてしまって。

「いったー! そんな乱暴に扱うことないだろー!?」

 軍議用の幕屋の中、絨毯の上に放られた狐を見やってウァーリはきつく眉をしかめる。室内にはファンスウを除く十将の全員が集合し直していた。皆同じ気持ちなのだ。ルディアもコナーも今はどうだっていい。ふざけきった二人の態度が許せない。

「この大嘘つき!」
「やっぱりハイランバオスと繋がっていたんじゃないか!」

 引き倒した狐を囲んで皆で詰め寄る。事と次第では天帝に措置を考え直してもらわねばならなかった。認められるはずないのだ。今更仲間に戻ろうなんて虫のいい考えは。

「貴様、どう落とし前をつける気だ?」

 大熊がずいと迫る。厳しく眼光を尖らせて。温厚な彼がここまで怒気を露わにするなど百年に一度あるかどうかだ。だがラオタオは、さもおかしげに吹き出しただけだった。

「あはははは!」

 一体何が面白いのか狐は手を叩いて笑い転がる。甲高い声が響くたび臓腑が冷えていくようだった。なんて嫌な温度差だろう。ウァーリは指先を握り込み、許しがたい侮辱に耐えた。

「延命したって長らえるのは百年ぽっちなんだよ。どうせ皆死ぬんじゃん? じゃあやりたいことやったほうが楽しいでしょ」

 出てきた言葉に絶句する。自分が何をしでかしたか、事の重大さを理解していないとしか思えなかった。青筋を立てた大熊が胸ぐらを掴んでもラオタオは不遜な言動を改めない。「ところでいつまで人のこと転がしてるつもりなの?」と舐めきった台詞が発される。

「貴様どこまで……ッ!」

 わななく声は哄笑に遮断された。人質を使って脅しにかかるかと思ったが、狐はそれよりもっと信じがたい言葉をのたまう。

「天帝陛下は俺になんにも言わなかったよ? じゃあさ、今のところお前らにこんな扱い受ける謂われもないよね?」

 またもや声を失わされる。絶句するウァーリの横で殺気を纏ったダレエンが立ち上がった。狼も理性を手離す寸前だ。

「お前たち、本当にこのまま戻ってくる気なのか?」

 問いかけに狐はにんまり口角を上げた。

「俺たちもさあ、まさかアークが見つかるとは夢にも思ってなかったんだわ。だから今までのはぜーんぶなし! お前らだってハイちゃんのおかげで故郷が見つかったようなもんなんだし、別にいいっしょ? 聖櫃の話持ち込んだのも、天帝陛下がここまで必死になったのも、みーんなハイちゃんの功績だろ?」

 開いた口が塞がらない。彼が何を言っているのか少しも理解できなかった。
 ラオタオはのそのそと勝手に一人で起き上がると欠伸をしながら幕屋の出口へと向かう。

「本気で言っているのか……?」

 大熊の震える声にはくすりと微笑が返された。

「天帝陛下は俺たちをお許しくださると思うよ?」

 玄関布を捲る音。光が入って影が揺らぐ。悠々と出て行く足音に、誰も何もできなかった。



 ******



「良かったのですか? 私と二人きりになどなって」

 足元で響いた声にヘウンバオスは顔をしかめた。何を考えているのか知れぬ片割れは、すぐ側に跪いた姿勢のまま陶然と微笑んでいる。その視線を避けるべく長椅子に深く身を沈めた。

「寝首を掻かれる心配はなさっていないということで?」

 追ってきた無邪気な声を「武器もないのに何を言う」と一蹴する。

「ああ、そう言えばここに入る前に取り上げられた気がしますね」

 軽やかに彼は笑った。そんなことはたいした問題ではないと言うように。
 なぜこうもこの男はいつも通りなのだろう。不可解で、不愉快で、今すぐにくびり殺してしまいたくなる。

「あなたが我々の滞在を認めてくださったということは、私の曲刀ものちほどお返しいただけるのでしょうか?」

 調子づいた問いかけにヘウンバオスはぎろりと双子をねめつけた。

「客と認めたのは王女と画家の二人だけだ。延命の方法とアークのこと、よく知る者が二人もいればお前とラオタオは必要ない」

 切り捨てることを宣言したつもりだったのに、ハイランバオスは「おや」と残念ぶるだけで一向に動じていない。どころか彼は「お祝いのために三ヶ月もかけて冬の草原を越えてまいりましたのに」と嘆いてみせる始末だった。
 真面目に聞く気になれずに大きく息を吐く。眉間にかかる力は増す一方だ。

「そう言えば私にお聞きになりたいことがあったのでは?」

 なんでも尋ねろと言わんばかりに満面の笑みを向けられる。だが疑念はすぐに言葉になってはくれなかった。
 眼差しが鬱陶しい。昔と同じにされるだけで、あまりに彼に馴染みすぎた己はどこかが麻痺してくる。同じではなくなったのに。もう何もかも違うのに。これは自分に背いた敵だと認識できない。

「……アークについて知っていること、本来ならお前から私に報告すべきではないのか? 延命のやり方も、祝いに駆けつけたと言うのなら」

 それなら王女とも画家とも取引する必要はなくなる。教えないのは敵でいるのをやめるつもりがないからだろうと言外に主張する。だがハイランバオスは意に介した風もなく、あは、と声を立てて笑った。

「なるほど、そういう考えをお持ちでいらしたわけですね。確かに私はどちらについてもある程度以上存じていますが、あなたに何も申し上げなかったのはルディア王女と『ジーアンからアクアレイアを取り戻すお手伝いをします』と約束してしまったからです。私はあなたという方に『嘘はつかない』と誓った身ですから、その契約を反故にはできませんでした。だからこそこうやって、あなたのもとに役立つ客人として連れてきたのですよ」

 隠し事はしても嘘はつかない。それはこの厄介な片割れの一貫した行動指針だった。理屈の上では蟲の寿命は尽きている。そう言われたときヘウンバオスが途轍もない衝撃を受けたのは、彼の発する言葉の重みを誰より承知していたからだ。

「……なんのために帰ってきた?」

 第二の問いはおよそ勢いを失くしていた。ハイランバオスはもう一歩分膝を寄せ「最初にお話しした通りです」と眩しそうにこちらを見上げる。

「アークが見つかったお祝いをするために。だってようやく私たちは、千年も探し続けた故郷に辿り着いたのですよ?」

 再起は信じていたけれど聖櫃の発見に至るとは思ってもみなかったと、彼は感激した様子だった。聞けば世界中ほとんどすべてのアークが消失の憂き目に遭い、稼働するのはわずかにアクアレイアのアークのみだと言う。語る詩人はどこまでも誇らしげだった。

「あなたが道を切り拓いてくださった。私たちは私たちの望んでいた終着点で安らげる。そうでしょう?」

 許しもなく弟はヘウンバオスの手を握る。入れ替われる器なのをいいことに誰か別人が入っているのではと思いたかった。こんな都合のいい言葉を、この男が紡ぐはずないのだ。

「後ろ足で盛大に砂をかけておいて、宴の美酒は味わうつもりか」

 吐き捨てれば片割れは「奴隷で構いません」と答えた。妙なる微笑は一瞬も崩れない。刎ねたければ首を刎ねろと頭を垂れたときと同じに。

「約束したではありませんか。めでたしめでたしで終わる詩を捧げると」

 甘い囁き。手を振り払い、ヘウンバオスは彼を睨んだ。「どの口がほざく」と唾を吐く。アークが見つかったから出戻ってきたということは、逆にアークが見つからなければ背信行為を続けたということだ。
 信用できるわけがない。そんなにすぐに掌を返す者のことなど。

「今も昔も私はあなたの成すことを見届けたいだけ。本当にそれだけです」

 性懲りなくハイランバオスがまた指を伸ばしてくる。そっと手を握られても片割れの顔は見なかった。
 臆面もなく彼が言う。「私は感動しているのです」と。

「あなたがもう一度仕えよと私に求めてくださるなら、命尽きるまであなたのために働きます。ジーアンを裏切ることもありません」

 誓いを立てるという言葉にほんのわずか心が揺れた。
 目と目が合う。澄んだ水の色をした双眸と。

「……人質を一人返せ。お前の安全を保証する分を」

 ぱあっと瞳に光を灯すとハイランバオスは懐に手を滑らせた。間もなく彼は陶器の小瓶をヘウンバオスに差し出してくる。

「ファンスウです」

 彼らにとって最も価値ある捕虜の名を聞いてやっと安堵した。片割れはまだ仲間殺しはしていない。今なら我々はなんとかやり直せるかもしれない。

「本当に私のもとへ戻ってくるのか」

 掠れ声の問いかけにハイランバオスは頷いた。「お望みのままに」と再度手を握られる。だがこちらから彼の手を握り返すことはできなかった。胸が痛みを忘れたわけではなかったから。

「私をお許しいただけますか?」

 長い指に確かな熱と力をこめて片割れが乞うてくる。ヘウンバオスは是とも否とも答えられずに押し黙った。
 だが沈黙は雄弁だ。消しきれていない愛着を無言のうちに語ってしまう。

「我が君の寛大なお心に感謝いたします」

 ハイランバオスは嬉しげに頬を綻ばせた。
 あんなに痛い目に遭わされたのに、結局己はいつも彼に甘いのだった。



 ******



 よくわからない話だったなとひとりごちる。長椅子に腰かけていた高帽子の男がジーアンの皇帝で、彼がルディアを客人と言った。かろうじてそれだけはわかったが。

(おれがまだ言葉をよく知らないからかな)

 それぞれの幕屋に戻るようにとの指示のままアルフレッドはブルーノたちと女帝の幕屋に引き返していた。あんなにうるさかったのに、もうガラガラともカラカラとも騒音は響かない。
 緊張しすぎて疲れたらしくブルーノは早々に床に入っていた。アルフレッドもぼんやりとかまどの前に腰を下ろす。
 サルアルカに着いたのにまだルディアとは一緒になれないのだろうか。己の頭にあったのは主君のことだけ。ほかは全部、今までと変わらず続くものだと思い込んでいた。

「そろそろお別れかしらね」

 長椅子に座したアニークが寂しそうにぽつり呟く。え、と思わず彼女を見ると「だってヘウンバオス様との交渉は成立したみたいだし、テイアンスアンでアークを見たら防衛隊はアクアレイアに帰るでしょう?」と尋ねられた。

「身体を換えればあなただって帰国できなくはないものね」

 私は天帝陛下のもとに残らなきゃいけないから、とアニークが続ける。その顔がなんだか泣き出しそうに見えてアルフレッドはうろたえた。
 思わずポケットのハンカチを掴む。だが別にアニークは涙を流しているわけではない。握りしめたコットン生地の出番はなさそうだった。

「あなたも随分しゃんと動けるようになったし、アレイア語も上手くなったし、私がついてなきゃダメなことなんてもうないわ」

 褒め言葉のはずなのになぜかあまり嬉しくない。そうか、ルディアと一緒になるとアニークとはお別れになるのか。だから彼女は自分が主君のもとへ行くと複雑そうにしていたのか。今更ながらその心情に思い至る。
 アルフレッドが目覚めたときからアニークはずっと親身でいてくれた。何もできない、右も左もわからない自分を保護して見守ってくれた。礼を言わなくてはならない。ありがとうの言い方だって教えてくれたのは彼女なのだ。

(もし後で姫様のほうに行くことになったら伝えられなくなる)

 離れ離れになる前に今言おう。そう思ったのに紡ごうとした言葉は呆気なく遮られた。

「いらっしゃい」

 長椅子から立ち上がり、アニークが手招きする。アルフレッドもそろそろと彼女の向かった幕屋の奥へと踏み入った。

「これがあなたの騎士の剣」

 褐色の細い指が示すのは、黄金馬像のすぐ横に飾られたひと振りの剣。柄に大きく鷹の意匠が施された。
「返すわね」と彼女は言うが預けた覚えは一切ない。これが自分の持ち物だという実感もほぼなかった。ただなんとなく惹きつけられるものがあり、静かに指が伸びていく。

「……ありがとう」

 壁から剣を取り外し、腰に帯びるや言葉は自然に溢れていた。だがアニークは感謝など必要ないと言いたげに首を振る。

「ヘウンバオス様が客人だって仰ったから、もう武器を持っていいと思うの。鍛錬も遠慮なくやってね。きっとダレエンが付き合ってくれるわ」

 彼女の顔はやはりどこか寂しげだ。何か言うべきことがあるのではなかろうか。そんな気持ちが湧いてくるが、それが何かまではわからない。わからないのでアルフレッドは黙るしかなかった。

(そろそろお別れ……)

 胸を苛む悲しみはついに言葉にならなかった。
 腰の剣は不思議なほど己にしっくり馴染んでいる。
 アニークは諦めたように笑っている。



 ******



 なんて嬉しい誤算だろう。まさかアジア側のアークがほぼ完全と言えそうな形で残っているなんて!
 跳ねるように己の幕屋に戻ってからもコナーの興奮は続いた。まだ絵を少し見ただけなのでぬか喜びになる可能性は否めないが「核」が無事ならこちらのアークにデータを移行・統合できる。これまで不明瞭な点のあったアジア側の研究成果をものにすることができるのだ。喜ばずにいられようか!
 どれだけ文明の発展を望めるか考えただけで胸が躍る。人類がいよいよ聖櫃を利用する段階にまでなったとき、サルアルカで得たこの一歩は大いに科学に貢献してくれるだろう。
 それにジーアン帝国も、ルディアが統治することになれば広大な領域が長く平和を保てるに違いない。天帝には悪いけれど、皇帝の座は彼女に明け渡してもらったほうがいいのである。争いは確かにある種の技術革新をもたらすが、それ以上に取り返しのつかぬ破壊をもたらすものだ。人類を正しく進歩に導くことができるなら平和のほうが実りは大きい。

(レンムレン湖のアークか。位置と近辺の使用言語から考えておそらく中国(チャイナ)のものだな。中央アジア諸国の協力もあっただろうか?)

 手帳を広げ、コナーは先程ヘウンバオスに見せてもらった聖櫃の様子を自分でもスケッチした。透き通った六角柱。それを斜めにスライスした棺桶サイズのクリスタル。破損がなければ「核」は保存されている。早くアルタルーペの隠れ里に持ち帰りたくてうずうずした。
 ジーアンはまだ接合についてほとんど何もわかっていない。ハイランバオスが天帝につく気でもなければ計略は成功するだろう。だがあの詩人と接合し、古い記憶を覗き見たコナーには、詩人が半身への嫌がらせをやめないことには揺るぎない確信があった。末端の蟲たちはいつだって最初の宿主の残りかすに突き動かされるものなのだ。

(アークから『核』を抜けばいよいよハイランバオスたちに里心がつく心配はなくなるし、アクアレイアにとっては万事追い風だな)

 幕屋には間もなく狐が戻ってきて、楽しげにほかの将とのやり取りを語ってくれた。しばらくすると詩人も玄関布を捲って五体満足な姿を見せる。
 彼の腰に長い曲刀が差してあるのに気付いてコナーはほらやはり、と口角を上げた。気の毒な王をからかってきたと思しきハイランバオスは幸せそうだ。

「我々もしばらくゆっくりすることにいたしましょう。テイアンスアンに発つ日まで」

 頷き合ってコナーたちは思い思いに室内に散った。
 見上げれば天窓から降りてくる光が温かく柔らかい。
 ああ、じきに春が来るのだ。














(20210315)