このサイトに置いている14話は「初稿」です。正式な「最終稿」は6月以降ノベプラ、なろうにアップします。
大幅な修正が予測されますこと、予めご了承ください。またSNSなどで関連ツイートをするのも6月以降でお願いします。








    第四章 美しいあなたのために

 その衝立を越えてくるのはアイリーンだけのはずだった。食事の入った器を抱え、心配そうに、もう少し食べなきゃだめよと説きながら。それなのになぜ今夜に限って彼が呼び出しにくるのだろう。「お前も冷めないうちに来いって」なんて、まるでまだアクアレイアで平和にやっていた頃のように。

「おーい、バジル? 聞こえてるか?」

 なんでもないようにレイモンドがこちらを覗き込んでくる。幕屋の中はもう暗く、槍兵の掲げるランタンなしには何も見ることができない。普段はもっと夕食は早い時間に済むのだが、今日は彼とモモの間で激しい衝突があったからこんなに遅くにずれ込んだのだ。
 だと言うのにレイモンドの表情は本当に何事もなかったようで、己は夢でも見ていたのかと訝った。皆が外に出てきたために逃げ込んだ暗がりで、確かに二人の争う声を耳にしたと思ったのに。

「とにかく今日はお前も皆と飯食えよ! 俺たちと顔合わせづらいとか、もうそういうの考えなくていーからさ」

 平静な声に拒絶的な響きはなかった。目を見ようともしてくれなかったのが嘘のようだ。だが許されたなどと甘い考えを持つことはできなかった。だってレイモンドがどうして急に態度を軟化させたのかわからない。そして彼に本心を問う資格のない己には頷く以外していいことなどないのだった。

「よし、じゃあ行こう! ネブラで買った一級ワインもあるんだ」

 年上の友人はぐいとこちらの手を引いて幕屋の中央のかまどへ向かう。謝罪のタイミングすら掴めず、逆に宙吊りにされた気がした。
 どうしても声が出ない。ごめんなさいと頭を下げねばならないのに。

「バジル!」

 主君の声が己を呼ぶ。卓袱台を囲む面々は皆一様にほっとした顔でこちらを見つめた。アイリーンも、アンバーも、モモも。
 促され、席に着いてもどうしていいかはわからないままだった。今は微笑を浮かべている少女の目には涙の跡。やはりあれは己の見ていた幻などではないのだと知れる。
 ──モモが悪かったの?
 自分のせいでめちゃくちゃになってしまったものが、なぜまだ崩れ落ちずにそこにあるのだろう。日常に戻ろうとする皆に、立ち直ろうと努力する皆に、置いて行かれた気分になる。
 盛りつけられたスープが己の前に置かれた。ルディアが食事の開始を告げる。卓に満ちるのは歓談の声。なんだか酷く遠い響きの。

(いいのかな。僕がここに混ざっても……)

 激しく強い不安に駆られ、バジルは身を縮こまらせた。顔を伏せていることでしか申し訳なさを示せない。
 自分なんかが。ろくに罰さえ受けていないのに。自己非難の思いはむくむくと膨らんだ。だがバジルには、皆の意向に背いてまで己の居た堪れなさを優先することはできなかった。レイモンドが一緒に居ろと言ったのだ。断るなんて有り得ない。己の判断というものをあんなに大きく間違えた後で。

(どうして誰も僕を追い出さないんだろう……)

 スープに映る顔は虚ろに歪んでいる。それすら見るに堪えなくて、バジルは視線を床に落とした。
 もうずっと、この先も、放っておかれるだけなのだと思っていた。もう一度仲間に戻るなど不可能に違いないと。
 レイモンドは何を考えて声をかけに来たのだろう? 彼のあの強固な怒りが自然に解けたはずないのに。

(モモ以外の誰かとも何かあった……?)

 ちらと仰ぎ見た槍兵は陽気な顔でお喋りしている。そうする以外仕方ないとでも言うように。ただ歪な、はまりきらない輪だけがある。食事の味も、彼の胸中も、バジルには何一つわからなかった。



 ******



 一体どういう心境の変化なのだろう。激昂して出て行ったと思ったら今度は全員揃って食事にしようだなんて。「さっきは言いすぎてごめん」と詫びてきた男の顔を思い出しつつモモはスープをズズと啜る。ルディアに何か言われたのは間違いないと思うけれど、何を言われてこうなったのかは定かでない。つい先程まで「防衛隊も終わりかな」と悲壮な心持ちでいたのに。

「皆、料理の味薄くないか? 香辛料手に入ったから使いたかったら遠慮なく使えよ! ほらアイリーン、もっとドバっといけって!」
「え、ええ」

 困惑を示しているのはモモだけではなかった。アイリーンも、アンバーも、以前の賑やかな彼に戻った槍兵を眺めてぱちくり瞬きしている。烈火のごとき悲憤を彼はどこにしまい込んだのだろう? にこにこ笑いかけられてもとてもそれが本物の笑顔には思えない。厚みを増した仮面をむやみに引き剥がそうという気にもならなかったが。

(一緒にやっていくつもりはまだあるってことだよね……?)

 部隊のためか、ルディアのためか、はたまた自分自身のためか。真意は知る由もないけれど、留まってくれるならひとまずはそれでいい。本当に駄目ならレイモンドは自分から見切りをつける。そうしないということは彼も彼なりに「仲間内でギスギスしていてはいけない」と危機感を持ってくれているのだ。となれば後は残る二人の問題だった。

「バジル、もう食べないの?」

 そのうちの一人にそっと声をかける。斜め向かいに肩を丸めて腰かけた弓兵はびくりと肩を跳ねさせた。
 スープの嵩がいくらか減っているだけでほとんど手つかずの夕食。泳がせた目を上げることなくバジルは「あ、いえ……」と喉を詰まらせる。食べるのか食べないのかはハッキリしない。弓兵の手にした匙はどの皿に下りるでもなく空中をさまようばかりだ。
 いつまでも返答らしい返答もなく、結局「少しは栄養取らないと倒れるよ?」と苦言するに留まった。優しくしても、厳しくしても、ぽっきり折れてしまいそうで。
 止まれたくせに止まらなかった兄が悪い。その考えは変わっていない。だがバジルに非がなかったかと言われるとそれも否である。諜報活動を行う部隊の兵として彼は最悪の選択をした。ミスなら庇いようもあるが、意図して機密を流したことは本来どう処罰されてもおかしくない。悪くて抹殺、良くて除隊と国外追放だ。
 だが今はルディアの取れる対応も限られていた。バジルの身柄をジーアンに拘束されても厄介だし、追放処分にはまずできない。しばしすべての作戦から彼を外すくらいしか懲罰的な命は下せないだろう。謹慎処分程度ではバジルのほうもいつまでも罪を清算した気分になどなれまいが。

(埋められないよね。人の死んだ穴なんて……)

 ふう、と小さく息を吐く。
 難しい問題だ。悪意でも我欲のためでもなかったと知っているから叱り方がわからなくなる。実行する前に相談しろと言うのも何か違う気がした。友人の生死がかかった状況で、やめておけと諭されるのを承知で、相談なんてする気になれるものだろうか? そこまで敵に心を許すなという話だが。
 そう、そもそもそこがモモには理解できなかった。場合によっては美談なのかもしれないが、兵には兵の引くべき線があるはずだ。それともいつか己にも判断に迷う瞬間が来るのだろうか。

(バジルのことはちょっと長い目で見なきゃかなあ……)

 硬質チーズの塊を口に放り、味わうでもなく飲み下す。斜め向かいの弓兵の食は一向に進んでいない。もっと食べても誰も目くじら立てやしないのに。

(まあ手をつける気にならないか……)

 また溜め息を繰り返す。唯一の安心材料は、これ以上バジルが妙な暴走する心配はないということだけだった。彼はタルバの延命という目的を一応にせよ果たしたのだ。しばらくは大人しくしていてくれるはずである。

「そう言えばあの猫って今どこにいるの?」

 ふと思い出した灰色猫の所在を問う。するとバジルはびくつきながら視線をこちらに返してきた。

「ええと……タルバさんなら女帝の車かと……」

 弓兵曰く、馬で移動するときは一緒だったが、さすがに彼をこちらの幕屋に入れるわけにはいかないので放してきたということだ。最後に見たのは十将のウァーリに抱かれて荷台に上がる姿だったという。

「ああそっか、あいつもまだいるんだっけ」

 延命を受けた男の名にレイモンドの目つきがにわかに険しくなる。だが彼はすぐ笑顔に戻ると「そっかそっか、女帝陛下のところか」と変わりない口調で続けた。

「明日は俺らもあっちに顔出しに行ってみるか? ブルーノ一人に任せっきりになってるしな」

 この発言には皆揃って息を飲んだ。まさかレイモンドが進んで騎士のもとを訪ねようとは考えもしなかったからだ。

「レッ、レイモンド君? 大丈夫なの?」

 思わずといった様子でアイリーンが問いかける。槍兵は「平気、平気!」と笑って取り合わなかったが。
 ルディアを仰げば心配そうに細い眉を歪めている。しかし彼女も強く止める理由は浮かばなかったらしく「無理するなよ」と言うだけで終わった。

「よし、そんじゃ今夜は皆さっさと寝るんだぞ? 明日は馬に乗せられるかもしんねーからな!」

 本当に、レイモンドに何が起きたというのだろう。この短時間でここまで彼が行動を変えてしまうなんて。

(聞いても教えてくれないんだろうなあ)

 和解は求めてきたくせに理解は拒んでいる彼を見やってモモは肩をすくめた。当たり前に諦めている自分に気づいて辟易する。
 気軽になぜと問えないのは罪の意識があるからだ。向けられた敵意に怯んでしまったから。
 続けていれば、一緒にいれば、前みたいに戻れるだろうか。
 今はこれが──こんな程度が、自分たちの及第点だとわかるだけだ。



 ******



 大事なものほど急に遠くへやろうとする。自分が関わらなくても平気だと、むしろそのほうがいいのだと思い込んで安心したがる。彼女にそういう傾向があることはわかっていた。今までずっと先回りして不信の種を摘んできたのにどうして芽など出させてしまったのだろう。一度根づけば容易には取り除けるものでないと知っていたのに。
 レイモンドは身を起こし、移動生活に即した小さな寝台から下りた。軍服風に仕立てた一着ではなくてジーアン風の立襟装束に腕を通す。この先は厳しい寒さが待っている。遊牧民に倣って防寒する必要がある。
 同じ黒でもフェルト地はもこもことして温かだった。昨日までとは違う己になる儀式を静かに終える。朝食はいつも夕飯の残りを適当に摘まむだけなので顔を洗えば支度はすぐに整った。あの騎士のもとへ出向く準備は。
 深く、深く、息を吐く。
 なんだってやってやる。ルディアの側にいるためなら。

「レイモンド、本当に行くのか?」

 朝の薄闇に小さく声が響いたのはそのときだった。振り向けば気遣わしげな恋人が衝立に区切られた小空間に立っている。探るような眼差しを受け止め、安心させるべく笑いかけた。

「ああ、出発した後じゃなかなか声かけられないだろ? 今のうちに俺たちも外に出ちまおう」

 覚悟ならもう決めた。あれを幼馴染として扱えなければきっとまたルディアは「もういいんだぞ」と言い出す。そして二度目は本当の別れ話になる。
 天帝との入れ替わりに成功すれば彼女がレイモンドを遠ざけるのは簡単なのだ。権力の壁に阻まれて手が届かなくなる未来は目に見えた。だから彼女にはどうしても「防衛隊は大丈夫だ」と思わせなければならなかった。「無理をして一緒にいるわけじゃない」と。

「おーい皆、行くぞー」

 呼びかけると衝立の奥からモモやバジルがぞろぞろ出てくる。アイリーンもアンバーも、今日から全員揃いの冬着だ。どんな服でも一番高貴に見えるのはやはりルディアで、彼女を先頭に一行は湿原に降り立った。
 風が吹く。
 強く、強く、髪を乱して。
 目当ての男はのろのろ歩きの馬たちの向こうにすぐ見つかった。彼の傍らのブルーノは朝早くから連れ立って現れたこちらに驚きを隠せぬ様子だ。騎士はというとルディアに気づくや目を輝かせ、さっそく嬉しげに寄ってきた。

「ひめさま!」

 それはアレイア語なのだなと舌打ちしたい気分に駆られる。アルフレッドは主君の前に足を止めると「おはよう、みんな」と挨拶し、集まった面々を順に眺めてニコニコ顔で名を呼んだ。

「モモ、アンバー、アイリーン」

 順調だった羅列はそこでぴたりと止まり、おまえはだれだと言わんばかりに騎士が首を傾ける。真正面から見つめられ、居心地悪そうに弓兵が「ぼ、僕はバジル、です……」と芯のない声で名を名乗った。

「ぼ……? バジ……?」

 母国語なのに彼には語句の切れ目がわからないらしい。気を回したブルーノがジーアン語でアルフレッドにぼそぼそと耳打ちする。ようやく意味が通じたか、にこりと笑んだアルフレッドは友好的に握手を求めた。

「はじめまして。バジル、よろしく」

 響いたのはジーアン語。それで弓兵はたちまち委縮してしまう。うつむいたままなんとか手は握り返していたが、傍目にもわかるほどバジルの肩は震えていた。
 当然だ。長年親しくしていた男に「はじめまして」なんて言われたら誰でもそうなる。それが半分自分のせいならなおのこと。
 表面上はにこやかに二人を眺めつつ、胸の温度に冷めきっている己を知る。バジルを気の毒に思う気持ちは露ほども湧かなかった。だがもう怒りは捨ててしまわねばならない。ルディアを怯えさせるものは。

「このひとは?」

 と、無垢な双眸がこちらを向いた。黙っていれば「アルフレッド」そのままの、赤く燃え立つような瞳が。生真面目そうな太い眉も、くっきりした鼻筋も、七つの頃からすぐ横にあった顔だ。ずっと見てきた。ときに励まされながら、ときに羨望を覚えながら、ずっと隣で。

 ──もう構わないでくれ、レイモンド。

 瞬間、レイモンドは息を飲んで立ち尽くした。目の前の男の顔と、苦しげに吐き出した幼馴染の表情が重なって。何があっても笑って応じると決めていたのにそんなこと頭から吹き飛んでしまう。

 ──お前といると、何も手にできなかった自分が惨めで仕方なくなる……。

 耳の奥で甦る声のせいで上手く舌が回らない。だがルディアの見ている前で失敗はできなかった。笑わなくては。受け入れるふりをしなくては。でないと自分はまた大切なものを失ってしまう。

「俺はレイモンド・オルブライト……」

 レイモンドだ、とジーアン語で返答した。静かに頷いた赤髪の騎士が、ややぎこちない発音で復唱する。

「レイモンド?」

 馴染んだ声に、よく知った眼差しに、締めつけられた胸が痛んだ。だが彼はこちらの変調に気づいた風もなく笑顔で握手を求めてくる。

「はじめまして、レイモンド。よろしく」

 覚えたての言葉を使いたがる幼子のようだった。「アルフレッド」そっくりの顔を見て、やり直したかったのはこいつじゃないと叫びたくなる。
 幼馴染に似た何か。震えているのを隠すために力をこめて手を握った。

「こっちこそ、よろしくな」

 名を呼び返すことはできなかった。こいつにアルと呼びかけたくなかったし、呼びかけられない己にも勘付かれたくなかったから。
 本当はアルと呼ぶべきなのだろう。ルディアに不仲を疑わせたくないのなら。だがどうしてもできなかった。頑張っても声が喉につっかえて音が音になってくれない。上手くやろうとする精神に肉体が反発するかのように。

「ひめさまも、うま、のるといい」

 騎士の関心がルディアにしかないことが不幸中の幸いだった。アルフレッドは主君の手を引き、小柄なジーアン馬に上げる。騎乗訓練をしていれば無理に会話を保たせる必要も生じなかった。
 その日は結局一度も彼の名を口にすることなく終わった。ルディアがそれに気づいていたかどうかは知らない。



 ******



 わかっていたことじゃないの。そのうち彼は姫君(ルディア)のもとに帰るのだって。
 部隊の仲間に囲まれて笑っているアルフレッドを車の陰に隠れて見つめる。一ヶ月以上ほとんど放っておいたくせに、一日あれば元の鞘に収まってしまうのねと軽蔑せずにいられなかった。
 主君が側にいるからか、あらゆるしがらみを忘れたからか、アルフレッドの表情は朗らかだ。笑顔は己にも向けてくれるがそこまで上機嫌ではない。いつだって彼の目は別のプリンセスを探している。

(もう私の恋が叶う日は来ないわね)

 もともと期待もしていなかったが、彼からルディア以外のすべてが欠落した今となってはかける望みも見当たらなかった。それなのになぜまだ自分は彼に執着するのだろう。いくら己の「核」とは言え、本当に馬鹿みたいだ。
 アニークは騎士との乗馬を諦めて幕屋に戻ることにした。乗ろうとしていた馬を放し、荷台に上がるべく歩を踏み出す。「ニャッ」と足元で悲鳴がしたのはその直後だった。

「きゃあ!?」

 けつまずいたのは温かな何か。崩れたバランスを立て直し、なんだなんだと下を向く。するとそこには猫の器に入れてやったタルバがいた。
 彼もまた隠れてこそこそ防衛隊を見ていたらしい。あの緑髪のガラス職人が気がかりで仕方ないのだろう。鳩尾(みぞおち)を蹴ってしまったのに、灰色猫は鳴き声を漏らさぬように健気に痛みに耐えていた。

「……あなたも難儀な立場よねえ」

 ぽつり呟く。敵と味方の板挟み。彼さえ黙してくれていれば「アルフレッド」は生き延びていたのではと思わなくないけれど、さすがの己も身内を責める気にはなれなかった。延命は必要な情報だった。タルバの判断もダレエンの判断も間違ってはいなかった。間違っていないならそれは正しいはずなのに、なぜこんなにも虚しいのだろう。
 喪失感はまだ心臓を止めるほどではない。息絶えた彼の首を確かにこの手に抱いたのに、おかしなくらい実感が伴っていなかった。何もかも遠い日の夢のようで。
 思い出は他人の記憶じみていた。彼なりの罪ほろぼしか「アルフレッド」は随分長く最後の時間をアニークと過ごしてくれたけれど、もう何を話したかも朧気にしか思い出せない。誰のせいでもないんです、と繰り返す落ち着いた声をかすかに覚えているだけだ。

(あなたさえいてくれれば私はなんでも良かったのにね)

 ぼんやり物思いにふける間、灰色猫は無言でアニークを見上げていた。己がここに陣取ったままでは彼が居づらいかもしれない。そう思い、脇を追い越す。

「出発前には上がってくるのよ」

 ひと言だけ声をかけ、今度こそ荷台に上った。
 玄関布を捲る前にもう一度アルフレッドを振り返る。主君を見つめ、温和に笑っている彼を。

(……あの調子じゃ私のことなんかきっとすぐに忘れてしまうわ)

 どうしようもない寂しさを振り切るように幕屋へ逃げ込む。魔除けのために正面の壁に飾られた黄金馬像がひとりぼっちのアニークを迎えた。
 早く、早く、埋めてしまおう。恋心なんてものは。伴侶なら己には最高の人がいる。想いはもはや届かぬものとなったのだ。命尽きるまで消えない炎だとしても、せめて土を被せなければ。

(ヘウンバオス様──)

 半ば無理やりほかの男を脳裏に浮かべる。あの人はこれからどうするつもりなのだろう。本当にアークが見つかったならその後は。アクアレイアから手を引くのか、レンムレン国を再建するのか。なんにせよ状況が大きく変わるのは間違いない。
 己はこれからあの人を側で支えていかなくては。妻として、彼の最後の分身として。
 心を決めておきたいのに、アニークにはどうしてもそれが現実味のある未来には思えないのだった。



 ******



 聖櫃(アーク)が何かを突き止めるのがあなたの試練ではないですか。そう言い残して片割れが去り、およそ二年の時が過ぎた。まだ二年。たった二年だ。だがその二年が決定的に自分たちを変えてしまった。
 ヘウンバオスは上座に据えた長椅子から立ち上がり、壁に飾った一対の黄金馬像を振り仰いだ。訪れた客が最初に目にする正面奥には各天幕の最上の品を置くのが習わしだ。ジーアン族がジーアン帝国として名乗りを上げたそのときから、ここの飾りは黄金(こがね)を塗った馬に統一させていた。十将の耳につけさせたのも、弟の耳につけさせたのも、皆同じものだった。
 ハイランバオスもラオタオもまだ耳飾りを外してはいまい。直感はほとんど確信に近かった。だから惑いが胸に湧く。己は彼らをどう迎えるべきなのか。
 アークを探せ。求められたそれは果たした。問題はそうして得られるものがなんなのかということだ。延命の方法は未だ明らかでないものの、可能らしいのは判明している。聖櫃は蟲に永遠をもたらしてくれるのか。再び郷里が手に入るのか。そういった一切を片割れは示唆しないままだった。
 黄金馬像に背を向けてヘウンバオスは幕屋を出た。サルアルカ近郊に築いた一大冬営地では馬や羊が囲いの中で干し草を食んでいる。
 放牧は季節ごとに決まった土地を巡るのが基本だ。家畜が草を食い尽くさぬよう、何度も恵みを望めるように。羊たちはあてどなくさまよい歩くわけではない。しばし離れた大地にも時が過ぎればまた戻る。
 ──あれも戻ってくる気だろうか。ヘウンバオスは吹き抜ける冷たい風に目を伏せた。わかりやすい手土産まで携えて何を企んでいるのだか。
 防衛隊とコナーさえ始末すればジーアンの秘密を知る者はいなくなる。そういう意図で連れてくるのだと考えることもできる。あの男の真意など、こうと断定できたものではないけれど。
 だが少なくともアークを見つけた次に待つのがなんなのか、語る気くらいはあるのだろう。当人が直接ここへ向かっているということは。なら己は、彼のもたらす答えの先を考えておかねばならない。
 曲刀の柄を握って力をこめた。「さすがは我が君」と喜ぶに違いない片割れを瞼に浮かべて。嬉しげに笑う詩人の顔は容易に想像することができる。だが彼を前にした己の姿は微塵も思い描けなかった。
 これは迷いだ。
 わかっている。

(三月にはハイランバオスがここへ来る──)

 振り返ればどこまでも緑の草原が広がった。ずっと、ずっと、ともに駆けてきた蟲(わたし)たちの第二の故郷。
 あれは今どのあたりにいるのだろう。
 首を落とす気になれるかどうか、自問の答えは出なかった。



 ******



 少し離れていただけなのに随分遠ざかっていたように思う景色を一望する。地を埋める背の高い草々と天蓋を覆う青。地平線まで見通せる野はどこか海を彷彿とさせる。ありとあらゆる生命の母であるあの水辺に。
 ウァーリには引っ込んでいろと言われたが、ここまで来て暗い屋内でじっとしてなどいられない。ハイランバオスは馬を駆り、コナーやラオタオと平原へ出ていた。好奇心旺盛な画家は早くも付近の地勢や植生に関心を奪われていたが、狐は栗毛の一頭に乗って同じくこの大草原を眺めている。

「帰ってきたって感じするねー」

 軽やかな声とともに細い目が三日月型に緩められた。足を止めた自分たちを多数の馬が追い越していくが気にせず道に留まり続ける。

「寒くない?」

 問いかけに首を振った。隙間風が入り込むと凍えて動けなくなるので遊牧民の装束は手元も首元もぴったりしている。開けっ放しだったラオタオの立襟もドナを発ってからは一番上までしっかりと締められていた。
 確かに冷えるがこの寒気がハイランバオスは嫌いでなかった。厳しい環境を克服するには知恵がいる。困難はいつだって眼前に美しい詩を見せてくれた。ジーアン族に入り込んで初めて遭った災害(ゾド)の年も。
 ネブラを過ぎてもまだ吹雪らしい吹雪に見舞われないからか、極端に降雪の少なかったあの冬が思い出される。
 草原は脆弱だ。雪が降りすぎても降らなさすぎても冬を越すのが難しくなる。ほとんどの土地で森林が育つほどの雨量がなく、それゆえ農耕にも適さず、雪が積もれば家畜の食す草は埋もれ、雪が降らねば草そのものが枯れてしまう。大雪は白いゾド、植物の枯死は黒いゾドと呼ばれて恐れられてきた。
 あれは楽しい日々だった。悩み苦しむあの人を側で見つめられて。
 一面の緑にハイランバオスは微笑を浮かべる。五世紀も昔のことでも記憶はこんなに鮮やかだ。

「ね、ハイちゃん、あのときのこと考えてる?」

 すぐ隣につけた狐が楽しげにこちらを仰ぐ。「ええ」と返してハイランバオスは目を閉じた。道はしばらく分岐もないし、再度馬を駆る気になるまで思い出に浸ることにする。
 遠い日の詩を呼び起こした。映る景色と重ねるように。



 ******



 ジーアン族を乗っ取ろう。迷いない目であの方が告げたのは我々が三十二人になってすぐの頃だった。
 当時ヘウンバオスはサルヤクットと名乗っていた。これまでも何度か用いたサルアルカ風の名前である。あちらこちらを放浪し、結局我々は天なる山々(テイアンスアン)にほど近いサルアルカの街に居ついていた。百年前の分裂で馬や羊の頭に入れた同胞が長旅に耐え得る状態でなかったからだ。
 同じ記憶を有すれども──否、だからこそ獣脳は己が人か動物かわからずに混乱する。一人目の宿主は赤子でも病人でも構わないから人間にしておくほうがいい。そんな共通認識ができたのもこの頃だった。
 手元には十六匹の新たな蟲たち。彼らの器を確保するのが目下の最優先事項である。動ける人数は多くなかった。三十二人になったと言っても我々の半分は水筒の中を漂っており、八人は獣脳のため役立たず、サルヤクットの手足となって働けたのはたった七人だけだった。
 その七人の筆頭がスー、つまりのちの己である。ヘウンバオスはいつも必ずハイランバオスに水にまつわる名をつけた。固く結ばれた唇が開き、こちらに「スー」と呼びかけるときの響きが好きだった。まだ世界のことなんて知りもせず、己は一心にサルヤクットを慕っていた。それでももう、自分自身の本当の望みがなんなのか知っていたように思う。

「新しく生まれてきた者たちはジーアン族の子供に入れる。まず我々が彼らの内部に入り込もう」

 サルヤクットは密かにずっと計画を練っていたらしかった。砂塵舞う小都の宿の一室で淀みなく案が語られる。
 ジーアン族は遊牧に生きる民。移動を宿命づけられた彼らは必要最低限の物しか持たない。それはつまり、大量の文書の保管を前提とする文字文化が彼らの暮らしに根づいていないことを意味した。だがジーアン族とて周辺の大国とやり取りする際は読み書きできねば困るのだ。ゆえに彼らは支配地域の文士や知識人を連れ回し、通訳や代筆を行わせるそうである。ほかには医師や職人も複数同行しているそうで「部外者が懐に潜り込むにはまたとない入口だろう」とサルヤクットは不敵に笑った。
 滑り出しは順調だった。我々は何百年も大陸を旅していて十分すぎる知見を身につけていたし、ジーアン族の目に留まるように活動していればあちらから「一緒に来い」とお呼びがかかった。
 従順な新入りたちにジーアン族は支配者の傲慢な態度で接した。彼らの血を引く子供らが少しずつ別人に変わりつつあるとも知らずに。

「はい、これで十六人目です」

 信頼厚い医師であれば理由をつけて幼子を預かる程度わけもない。柔らかな喉を絞め、蟲本体を流し込み、耳に生まれを囁けば彼らはすぐに彼らの役目を理解した。侵食は進む。ひっそりと。ヘウンバオスも早い段階でサルヤクットの肉体を捨て、子供たちに紛れ込んだ。成長した彼は次代の英雄として頭角を現した。初めに計画した通りだ。ハイランバオスたちも側で主君を支えるべく次々に身体を換えた。
 ここまで味方の数が多いと入れ替わりそのものはそれほど難しい問題でなくなる。だが実地で送る遊牧民の生活は傍で見るより困難なものだった。余剰の収穫物を取っておける農民と違い、遊牧民には蓄えがほとんどない。養うことを考えると家畜を増やすにも限度があった。
 日々の暮らしに彼らの主食が肉でなく乳であるのを知る。保存可能なチーズや馬乳酒、並ぶ食事はつましかった。だが馬にせよ羊にせよ、そうたっぷりと乳を搾らせてはくれない。草原は果てしなく広かったが、街に比べて住む者は少なかった。農耕できないような土地では食べていける人数が限られており、密集しては暮らせないのだ。遊牧に貢献しないよそ者を囲っておける力を誇るジーアン族でさえ普段はばらばらに住んでいて、一つ所にせいぜい三、四世帯の幕屋がぽつりぽつりと立つのみだった。
 基盤の脆さにヘウンバオスはとっくに気づいていただろう。天候次第で草原は森林にも砂漠にもなり得る。家畜に食わせる草がまともに育つかは雨と気温によっていた。人の手では操りようもないものに。
 それでもやはり遊牧民は強かった。騎馬と射撃に慣れた彼らは数々の都市を圧倒し、必要物資を巻き上げた。夏の多雨に恵まれれば家畜も人口も増やせたし、小規模ながら街に似せた拠点を築くこともできた。けれどもやはり遊牧民は、草原と家畜に命を委ねていたのだ。

「……駄目だ。早急に、どこか少しでも湿った土地に家畜を移さねばならない」

 ただごとならぬ口ぶりでヘウンバオスがそう言ったのはジーアン族と同化を始めた十二年目。遊牧民の間では「災害(ゾド)は決まった周期で起きる」と言われている。それがちょうど十二年。入れ替わりを繰り返し、ヘウンバオスが初めてジーアンの長となった年の冬のことだった。
 雨は前年の夏から既に少なかった。場所によっては草地が茶色く枯れ果てて冬営などできようもない状態にあるという。となれば起きるのは残った土地の取り合いだ。増やした家畜と人の数だけ圧しかかるものは重かった。
 南へ向かうと告げられる。草原を南北に流れる川の岸辺を制圧するのだと。そこにはオルデイトゥなる男の率いる部族が暮らすはずだ。武勇に秀でた彼らを攻めて無事でいられる保証はない。だが躊躇している場合ではなかった。
 準備は即座に進められた。同時に囮として先行する者の名前が告げられる。あの頃皆はなんと呼ばれていたのだったか。些末なことは忘れたが、切込み役が己とダレエン、ウァーリ、ファンスウだったのは確かだ。
 最初の宿主がその後の指向を決めるのか、蟲はいつも似たような器を選ぶ。ダレエンは常に狼のようだったし、ウァーリはすぐに女と同じ服を着た。己も戦場に出るよりは広場で歌っているほうが似合う身体ばかりだったし、平素の好みとやや離れた肉体を纏っていたのはファンスウだけだったように思う。
 今では後方で戦況を見極めるのが仕事の古龍も昔はよく前線に立っていた。盗賊に襲われたとき、戦火に巻き込まれたとき、危ういところを何度も救ってもらったし、その逆も然りである。年若く頑健な器を用いていれば彼は俊敏で強かった。時代とともに配下が増え、自分で武器を取らなくなったから古龍は衰えたのである。まあともかく、当時の切れ味は鋭かった。
 武器と防具の調達が終わるとただちに南下が始まった。先行隊の目的は敵に矢を射かけて逃げ、ヘウンバオスが包囲を敷く地に誘い込むことだ。本隊から離れると四人で身を忍ばせながら獲物を探した。
 遭遇はすぐだった。草原の起伏の波に武装した男たちが見え隠れする。水の豊かな土地が狙われやすい認識はあるのだろう。オルデイトゥの一族も見回りを出して警戒を強めているようだ。だがそれならそれで血気に逸ってあっさり釣られてくれるかもしれない。頷き合って最初の一射を彼らに向けた。
 ハイランバオスの放った矢は手前にいた男の肩を貫いた。遠くでうぎゃっと悲鳴が響く。全員殺す必要はない。ついてきてもらわねば困るのだから。手綱を引いて馬に踵を返させる。追いかけたくなる隙を見せつつハイランバオスは逃走した。
 草地を駆ける。逃げ切りも追いつかれもしない速度を保ち、背中から飛んでくる矢をかわしながら。本隊との合流は上手く行った。待ち伏せに遭った敵は全員射殺され、草むらに転がった。一つ誤算だったのは想定よりおびき寄せたオルデイトゥの一族が少なかったことだけだ。
 こちらが思うよりオルデイトゥはずっと冷静な男らしい。同胞を殺されても怒りまかせでの反撃はしてこなかった。どころか二度目の襲撃では待ち伏せを見抜いて誰も追ってこなかったほどだ。まさか初戦で屠った者たちが霊となり告げ口したわけでもあるまいに。何度仕掛けても無駄だった。彼らはちっともこちらを深追いしてくれなかった。
 オルデイトゥを倒さなければ家畜に草を食わせてやれない。七度目の襲撃の後、本隊の半分も加わって強襲を装うことになった。もう半分は後方に隠れて布陣、回り込んで横から敵を叩くというのがヘウンバオスの描いた絵だ。悪い作戦ではなかった。だが戦場には不運がつきものなのである。



 落馬したのはウァーリだった。ただの人間が落ちただけなら一瞥すらくれずに見捨てていただろう。何しろ四方八方で矢が飛び交っているのである。他人にかまけている余裕などない。
 彼女の肺には深々と敵の矢が突き刺さっていた。間もなく呼吸不能となり、絶命するのが目に見える。伏兵が来るにもまだ少しかかるだろう。勝敗がつく前に中から本体が這い出してしまいそうだった。

「何をぼんやりしている!」

 と、短剣の鞘で矢を弾いてダレエンが駆けてくる。獣脳でも誕生から数百年の時が経つ彼は相当人間らしく動ける。恐れを知らず、戦士としても優秀だ。ハイランバオスは手短にウァーリが射られたことを告げた。

「そいつを連れてさっさと離脱しろ!」

 狼男がそう吠える。だが素直に頷くわけにもいかなかった。戦場から兵士が逃げ出したとなればヘウンバオスの統率力が疑われる。若くして一族を治める彼は常に長の座をほかの者から狙われていた。付け入る隙を与えれば身内にも牙を剥かれるだろう。戦闘行動を取っている今、さすがにそれは浅慮なのではと危ぶんだ。しかも己はヘウンバオスの腹心の一人なのである。功も立てずに前線を離れればどうなるか考えるまでもない。ダレエンにしても話は同じだ。ウァーリを救うため矢のないところまで逃れるべきか、一瞬のためらいが次の不幸を呼び込んだ。

「避けろ!」

 押された拍子、右肩に激痛が走る。湿った上衣がハイランバオスに負った傷の深さを教えた。なんとか馬上に身を伏せて落下しないように堪える。

「大丈夫か!?」

 問いかける声に唇を噛んで頷いた。利き腕をやられるなんてついていない。だがこれなら一人で先に退く言い訳になるかもしれない。

「彼女をここに乗せてください……。私がなんとか、連れ帰ります……」

 切れ切れに伝えるとダレエンは馬を飛び降り、事切れそうなウァーリを腕に抱え上げた。間もなくずしりとした重みが鞍のすぐ手前に加わる。落とさないように彼女を支え、ハイランバオスは馬を蹴った。
 無防備このうえなかったのにさして追撃を受けなかったのは、異変を察したファンスウがこちらを守って矢を射てくれていたからのようだ。胸中で感謝を述べつつ逃げるに徹した。間もなくしてウァーリの本体が姿を見せた。
 血はどくどくと流れ続ける。大きな血管が傷ついたのか、そんなに出なくていいと宥めたくなるほどだ。視界は色を失って、水の入った小瓶の蓋を開けるなど簡単ではない状況になっていた。
 しかし彼女を死なせてはヘウンバオスが悲しむだろう。悲嘆に暮れる表情も尊いには違いないが、失望は買いたくない。骸の目から涙のごとく零れた蟲を血まみれの手に掬い、ハイランバオスはともかく落とすまいと努めた。体液の中でなら蟲はしばし生存できる。かつて己もそうやって守られた。途切れそうな意識を繋ぎ、主君のいる本陣を目指す。白と黒に明滅していた世界の中で、そのときふっと黄金が見えた。

「────!!」

 聞き取れなかった絶叫は、多分あの方が己の名前を呼んだ声。同胞の深手に動じて彼はすぐに駆けつけた。馬上からまずは骸が降ろされる。次いで介助の手を借りた己が。寄りかかって目を伏せたまま「彼女は戦死しました」と言うとヘウンバオスはたちまち声を失った。

「死ん…………」

 ちらと視線だけ上げて絶句する彼を見やる。白い額。嘘だと言ってほしそうな双眸。それを見たら満足し、右手の蟲を差し出した。

「器だけです。ご安心を」

 致命傷を負っているかもしれないのに頭をごつんと殴られる。「ご無体な」と訴えるも取り合ってはもらえなかった。肩の痛みを誤魔化してふふっと笑う。状況としては笑っている場合ではなかったのだが。
 ヘウンバオスはすぐに手勢を進めたが、伏兵が着いたときにはオルデイトゥは退却した後だった。やはりあの男には勘付かれてしまったようだ。一人だけ急に後退を始めたから、まだ後方に敵が隠れひそんでいると。
 この失敗は手痛かった。味方に死者まで出したのに何も得られなかったからだ。それでもなおヘウンバオスは川の獲得を諦めていなかった。東西より南北のほうが植生に多様さが見られること、ゾドに耐え得る植物が多いことを彼は予期していたのである。
 ハイランバオスが後にアークから得た知恵はヘウンバオスの先見の明を証明して余りあった。否、先見の明と呼ぶのもおかしな話だ。彼はただ大陸を巡り学んだことを腐らせなかっただけである。長い年月が蟲たちを少しずつ怠惰にしても、帝国の強大さが彼らに胡坐を掻かせても、彼だけは休むことなく走り続けた。類稀なるあの方と我々は一つだなどと度しがたい幻想を抱く蟲たちをただ乗りさせて。

「この次は私も出る」

 ヘウンバオスは待ち伏せをやめた。どうせもう手の内は知られているのだ。損害を出さないように立てた策ではオルデイトゥを釣れなかった。であれば彼を戦場に引きずり出す力をぶつける以外にない。頭さえ倒れればどんな部族も散り散りになるのだから。
 だが愚策には違いなかった。全力と全力でぶつかり合えば互いに多くの死者を出す。この次はウァーリだけでは済まないだろう。

「全員明日の進撃に備えろ」

 明敏なヘウンバオスには珍しく決行を告げる声には焦りが滲んでいた。次第に痩せ細る家畜の姿が堪えているのか、はたまたウァーリやハイランバオスが死にかけたことが堪えているのか、彼は迷い、その分決着を急いでいるように見えた。
 ──なんだか少しうきうきした。苦境に置かれたあの方がいつになく輝いていて。
 これは詩だと、そう思った。試練と祝福を繰り返す詩。天上で光る星のための。彼の歩みはすべて詩になる。私たちは同じ詩の中にいる。
 そうして始めた八度目の襲撃。出し惜しみせず兵を投入したこちらに対し、オルデイトゥも一族の総力で迎え撃った。だが数も腕も集団としてのまとまりも、ほんの少しあちらのほうが上だった。そしてこんなとき味方につけるべき運も、ヘウンバオスには微笑んでくれなかったのである。



 オルデイトゥが落馬した。彼を討ち取る千載一遇のチャンスだった。体勢を立て直そうとする彼にジーアン族の兵士たちが殺到する。オルデイトゥは一時戦場に孤立した。
 味方と合流しようとする彼を阻止して兵の動きが入り乱れる。ヘウンバオスは遠目にそれを確かめて静かに弓に矢をつがえた。
 完璧な騎射だった。オルデイトゥの喉元めがけて矢はまっすぐに放たれた。死角となる斜め後ろからの攻撃だ。どんなに強い男であっても避けられるものではない。
 だからまったくの偶然で、オルデイトゥが矢を見もせずに身を伏せたとき、直感的に「勝てない」と悟った。少なくともこの戦場では。
 馬上でバランスを崩しながらオルデイトゥはヘウンバオスに返礼の矢を射てくる。ハイランバオスは咄嗟に馬を前へやった。射抜かれたのは主君ではなくまたもや己の肩だった。
 叫び声。それからすぐに「戻るぞ!」と同じ声が撤退を告げる。戦いはまだ続けられるのに甘い人だ。目から蟲を出す羽目にはならなかったものの、これで進退窮まったのは確かだった。



 八度目もオルデイトゥを討つことは叶わなかった。もうそろそろ誰に一族の長を代われと迫られても不思議ではない。不幸中の幸いで、最もそういうことを言い出しそうな男は先の戦いで死んでいた。次なる行動を決める権限はまだヘウンバオスの手にあった。
 オルデイトゥの地は諦めたほうがいい。兵士たちにも妙な負け癖、苦手意識がつきつつある。だが一度手を出した草地に未練が残るのか、ヘウンバオスは決断しかねる様子だった。
 迷う彼の手を握る。暗く静かな天幕で。ハイランバオスはにっこりと愛しい半身に微笑みかけた。

「西の谷に向かいませんか? あそこなら強い風も吹き込まず、土地も潤っているはずです」

 提案にヘウンバオスが考え込む。「西か。確かにあちらのほうが層は薄い」と頷きそうな反応が返ったものの、またすぐ沈黙が場を満たした。

「……一つ確実な手を打って結束を固めることも大切かと」

 悩める彼の後押し役になるのはいつも己だった。百年ごとに仲間は増えて、若虎と若狐を除けばのちにジーアン十将となる八名がすぐ側にいたけれど。
 あの方にとって特別なのはいつまでも片割れの己一人だった。苦難の果てにたった一粒掌に受け止めた希望。死にゆく湖を前にして起きた最後の奇跡。

「わかった。お前の言うようにしよう」

 ヘウンバオスはさっさと頭を切り替えると襲撃計画を立て直した。次は一度で欲しい地域を制圧し、家畜の多くが緑の草にありついた。



 試練の後には祝福が来る。谷と一緒に小さな山を手に入れたヘウンバオスはそこで鉄が採れるのに気づいた。ジーアン族が囲う職人たちの中には腕利きの刀鍛冶がいる。彼らが鉄鉱石を溶かし、優れた武具を生み出すと、先の勝利と相まってヘウンバオスの求心力は瞬く間に高まった。
 常ならば鉄は稀少な貂(てん)の毛皮と交換してようやく得られる。かさばるものや重いものを所有しない遊牧民が例外的に求める資源だ。噂を聞きつけた親類が鉄を欲して参じると兵の数が一気に増えた。せっかくの武器を使わないのかと問われた主君はもちろん「使う」と頷いた。
 もともと彼はレンムレン湖探しに広い世界を駆け回るべくジーアン乗っ取りを期したのだ。領域を広げる機会をみすみす見逃すはずもない。
 草原に散らばっていた氏族の、いくつものグループがヘウンバオスを頼りに西に集まった。この冬はゾドに耐えねばならぬ冬だとわかっていたから遠征の口実作りは簡単だった。鉄が武力を高めてくれる。一つ他部族を蹴散らすたびに遠縁の親戚が増えた。
 西へ西への快進撃は続く。大きな山が聳(そび)える地は同じ草原でも気候が微妙に違っていて豊かな草に恵まれた。海と見紛う巨大な湖一帯でも目に見えて雪の量が変わった。家畜が太り、馬が逞しくなればなるほどジーアン族は力づく。軍勢は膨れ上がり、恐れをなした他部族は西へ西へと逃走した。

「世界を手中に収めればレンムレン湖もきっと見つかる!」

 そうだろう、と馬を駆けさせて彼が問う。五百年も生きているとは思えない若々しさで。失われた巣を取り戻すこと、レンムレン国という郷里への執着がきっと彼の核だった。微笑とともにハイランバオスは同意する。相反する心に気づかぬふりをして。

「ええ、きっと見つかります。私たちが力を合わせれば不可能はありません」

 そんなに上手く行かなくてもいいのにな。あなたにはもっと苦しんでほしいのにな。己の頭の中ですら言葉にできない言葉がどこかを巡っていた。けれど祝福を望んでいたのもまた事実だ。越えがたい苦難を越えて生まれ故郷に至るとすれば、それはフィナーレに相応しい。
 だが結局、そのときはそれ以上ジーアン族が勢力を伸ばすことはなかった。流れ矢を受けたヘウンバオスが器を死なせてしまったからだ。
 草原という不安定な大地に暮らす遊牧民は強いリーダーを求める。乾燥地帯の局地的な洪水、危険な野生動物との遭遇、遊牧生活においては瞬時の判断が家畜と一家の運命を左右する。だから皆、誰が頭目に立つのかで露骨に態度を変えるのである。
 長の死を知った氏族たちは矢よりも早く解散した。世界に踏み出そうとしていたヘウンバオスはぽっきりと両足を折られた。

「くそッ……!」

 補給隊の若い娘に本体を移した彼が苦々しく顔を歪める。これほど悔しげな彼の顔を見るのは初めてだった。濃いしわが刻まれた眉間。退却してきた西の草地を睨む視線。己の手落ちを受け止めきれずに怒りと失意を露わにしている。あのままどこへでも行けたのに、と。
 ──ああ綺麗だ。心からそう思った。
 目の前で道を断たれて立ち尽くすその姿。諦め悪く足掻こうとするその姿。こうして隣にいればまた同じ顔に出逢えるだろうか?
 胸の奥底が震える。魂が歌い始める。
 屈さぬあなたは美しい。



 ******



「野放しにしないほうがいいんじゃないのか?」

 狼男の問いかけにウァーリは静かに頭を上げる。ゴロゴロと回る車輪の音。それだけで騒々しい荷台の上の幕屋は今、己と彼の二人きりだった。
 誰のことかなど問うまでもない。ネブラを抜けて草原に入った途端、断りもせず馬で駆け出した裏切り者たちの話だ。
 ダレエンの懸念はもっともだった。ハイランバオスもラオタオも聖預言者と将軍のなりをしている。蟲兵には注意するよう言ってあるが、ファンスウ配下の一般兵はジーアン上層で起きた不祥事を知らない。あの二人に命じられれば素直に聞いてしまうかもしれない。不審な接触があったわけではないけれど、警戒するに越したことはないだろう。

「わかってるわ。でもあいつら言うこと聞かないのよ。人質がいるのをお忘れなんですかって笑うだけで」

 長椅子に背を預け、嘆息しつつ首を振る。
 監視の鷹ならつけている。怪しい動きもしていない。となれば好きにさせるしかなかった。二人の口ぶりではどうも捕らわれたのは駄犬と古龍の二人だけではないようだ。全容が明らかになるまで迂闊な手出しは避けたかった。あの道楽者たちは利害より気分で動きを決めるのだから。

「……お前はどう思う」

 と、低い声に問いかけられる。ダレエンの言わんとすることが何かわからずウァーリはきょとんと見つめ返した。

「あいつらこのままこっちに戻る気でいるんじゃないか」

 続いた言葉に思わず「はあ!?」と声を上げた。あれだけ派手に出て行って、さすがにそれはないのではないか。否定しようとした直後、狼に遮られる。

「アークが見つかった後どうするかを俺たちは話し合っていない」

 黒い眼が貫くようにこちらを見つめた。一瞬の沈黙を車輪の回転がゴロゴロと乱す。片膝だけ座面に乗り上げ、ダレエンはウァーリに顔を近づけた。

「レンムレン湖の代わりがあれば故郷探しは終わりになるんじゃないのか? そうして延命の手段もわかれば俺たちが次に目指すのはなんだ? 各々満足の行く余生ということにならないか?」

 帰ってきたがる可能性は十分ある、と彼が言う。ヘウンバオスがその願いを聞き入れる可能性もと。

「……確かにそうかもしれないけど……」

 思考はしばし混乱した。ダレエンの言う通り、十将会議でアークを探すとは決めたものの見つけた後にどうするかまでは論じていない。そもそもあのとき自分たちはアークが何かさえわからなかった。蟲を生むクリスタルだと知ったのはアクアレイアでルディアに取引を持ちかけられた後のことだ。
 もし本当にアークがレンムレン湖の母だったなら、長かった旅もここまでになるのだろうか? 約束の地へと至ればハイランバオスやラオタオや退役兵も皆戻ってくるのだろうか? 彼らを受け入れられるかどうかはさておいて。

「ヘウンバオスはきっと許すぞ。信じたいから信じてしまう」
「まあそうね、そうでしょうね……」

 詩人の数々の酔狂を思い返して溜め息をついた。今度のことも今まで通りに手打ちにされる可能性は少なくない。双子の愛は深いから。
 ダレエンが何を危惧しているか、ようやく己も理解する。ハイランバオスの目的が不明すぎること以上に、天帝に生まれる隙が心配なのだ。この男は。

「あいつが妙な真似をしたときは俺が殺す」

 ヘウンバオスには仕留められまい。狼がそう断定する。
 長く、長く、側で見てきた。苦境にあっても王を支える忠義な従者としての詩人を。そして真摯に彼に報いようとしてきた王を。
 何百年も、一度だって疑うことなどなかったのだ。預言者然とした彼が西へ行こうと言えば西へ、東へ行こうと言えば東へ、皆揃って駆けられたのに。
 ネブラは越えた。サルアルカは日一日と近づいている。
 どんな決着を迎えるとしても迷わないようにしよう。できる覚悟はそれだけだった。



 ******



 どこに身を置けばいいのかもうわからない。わかるのは自分がここにいてはならないという焦燥に似た思いだけだ。
 レイモンドはあれから毎日バジルを食事に誘いに来る。まるで一人でも仲間が欠けては意味がないとでも言うように。アルフレッドらと合流する日も頻繁だった。集まれば昼の間はずっと一緒で疲れてしまう。こうして緩やかな輪に紛れていても自分から彼らに話しかけるわけではないが。
 馬の蹄(ひづめ)が規則正しく音を立てる。整列もせず移動するジーアン兵の波の中で主君と騎士の背中はいくらか遠く映った。二人に続いてレイモンド、ブルーノ、アイリーン、アンバーの乗る馬が行く。己の傍らには帽子を被ったピンク色の後ろ頭。時折こちらを振り返り、後続がはぐれていないのを確かめるとモモはまた進行方向に向き直った。
 心臓を針で刺される心地がする。明確な気遣いを感じるたびに。
 何をやっているのだろう。ただ毎日、己のしでかしたことに狼狽するばかりで。嘆息を零す資格さえありはしなかった。だから息も言葉も飲み込む。存在を希釈するように。

「バジル君!」

 背後で声が響いたのはそのときだった。びくりと肩を跳ねさせるとバジルはおずおず声の主を振り仰ぐ。隣に馬を寄せてきたのはひらひら手を振るコナーだった。直接話をするのは天帝宮で出し物をした日以来だ。
 聖櫃の管理者だという画家の親しげな眼差しについ身構える。一体なんの用だろう。

「やあ、久しぶりだね。調子はどうだい? サルアルカに着く前に君とは一度話をしておきたかったんだ」

 アクアレイアの重要人物を無下にするわけにいかない。前方を行くモモたちに聞こえぬように低めた声でバジルは「お久しぶりです」と応じる。なるべく手短に済ませてくれと祈りながら見つめ返した。今は誰の側にいても罪悪感が募るだけだから。

「あの、僕にお話って……?」

 よほど卑屈な顔で問いかけたのだろう。尋ねた途端にコナーがふふっと笑い出す。「事情は人伝に聞いたがね、別に君を叱りつけようと言うのじゃないよ」と落ち着いた声に窘められた。だがそんなことを言われたら余計に口などきけやしない。うつむいて黙り込んでしまったバジルに黒髪を揺らした画家がふうと小さく息をついた。

「もう少し元気を出したまえ。今にも消え入りそうじゃないか? 落ち込んでいたって時間は前にしか進まないよ。君の才能はこの先も世界の前進に必要だ。失態に囚われるより今から何を成せるかを考えたほうが建設的と思うがね」

 励ましの言葉に更に身が縮こまる。成せることなど到底あるとは思えない。部隊の皆を危険に晒し、アルフレッドを死なせてしまった。己にはそんな粗末な頭が一つあるだけだ。

「ドナで出発を待つ間、君の作った鏡を見せてもらったよ」

 返事も待たずにコナーが褒める。「素晴らしい出来だった」と。

「あれだけクリアな鏡ならどこの富裕層も欲しがる。事によってはパトリア圏の貴族のステータスになるかもしれない。印刷業以上にアクアレイアの財政を立て直してくれるのはまず間違いなかろうね」

 もうやめてほしかった。これ以上聞きたくなかった。いくら称賛されたって心苦しいだけである。そんなことで自分がまだ皆と一緒にいてもいいとは到底思えない。

「まあそういうわけだから、君の次なる発明にも期待しているよ。忘れないでくれたまえ。科学を発展させるのは君のような人間だということを!」

 言いたいことだけ言い終えるとコナーは騎乗したまま道の端へずれていった。どうやら彼は一団を離れて草地の様子を観察するつもりらしい。広大な草原は意外にもでこぼこしており、大量の人馬と車に均された範囲を出ると相当進みづらくなるのに。
 ともあれ画家の関心がよそへ移ってほっとした。バジルは項垂れていた顔を上げる。
 と、少しだけ前に向けた視線がこちらを見つめる少女を捉えた。余分な同情は感じない、しかし無情に見捨てもしない眼差しを。

「…………」

 モモはやはりすぐ前に向き直った。言葉はないが、もうずっとつかず離れずいてくれる。以前の己ならどんなに喜んだことだろう。だが今は彼女の親切に申し訳なさしか感じなかった。

(……旅が終わったら出て行こう。姫様の許可を得られたら)

 日ごとに自責の念は強まる。相応しくない。こんな自分ではあまりにも。
 昔みたいになんて願えなかった。皆の優しさに甘え、裁きも受けずうやむやに済まそうなんて。
 だからもう、自分から消えるしかないのだ。



 ******



 遮るもののない草原に風が強く吹きつける。刃のごとく研ぎ澄まされたそれは地上に生きるすべてのものから体温を奪い尽くそうとするようだ。ようやく温もった鞍の上、前後に軽く揺さぶられつつルディアは晴れた空を見上げた。頭がおかしくなりそうだ。地上はこんなに吹雪いているのに。
 前触れなく降り出した雪は前触れなく止むのが草原の常だった。会話をすると肺が痛むので雪の間は何も喋らないことにしている。ただ強く手綱を握り、ほかの馬と衝突しないようにだけ気をつけた。
 この雪は雲から降ってくるのではないらしい。遠くの高峰に積もったものが溶けることなく風で運ばれてくるのだとハイランバオスが教えてくれた。髪が濡れたら凍りますよとご丁寧に帽子に隠す仕草までして。
 ドナを出たのが新年を迎えてすぐだったから、あれから一月経った今が一番寒い時期だという。なるほどと言わざるを得ない極寒だった。カロとの決着をつけるために向かった北の果ての岬も酷く凍えた覚えがあるが、草原はその比ではない。疲労が即生命に関わるため馬は走らせられないし、幕屋を曳かせているものも一区間ごとに交代した。ただ立っているだけで弱るのだ。遊牧民が冬になると少しでも暖かな地に移り、家畜を守るに徹する理由が理解できた。サルアルカに着くのは三月末の予定なので今より気候はやわらいでいるはずである。風雪に行動を阻害されるおそれはないと信じたい。

(しかし冷えるな)

 閉口しつつルディアは周囲を見渡した。アルフレッドもレイモンドも無言で雪に耐えている。老体のブルーノと虚弱なアイリーンは早くも幕屋に避難していた。モモは遅れがちなバジルを案じて後方にいるようだ。アンバーも斧兵にくっついているのか姿が確認できなかった。この突発的な吹雪がまだ続くようなら自分たちも屋内に引っ込んだほうがいいかもしれない。

(できればなるべく外にいて視察を行いたいのだが……)

 こう視界が悪くては目にすべきものも目にできない。風は強まる一方だし、今日はもう色々と諦めたほうが良さそうだった。己が戻ると言わなければ誰もそうしようとは言い出さない。それに車を運搬する退役兵らも息を抜きづらいだろう。

「…………」

 ちらとルディアは防衛隊用の幕屋を囲む二十余名の兵士を振り向く。ウヤ(マルコム)にゴジャ(オーベド)、第一グループの脳蟲たちは身を切る寒さに文句も言わず黙々と荷馬を歩かせていた。
 早く彼らと心置きなく言葉を交わせる環境も用意しなければ。ジーアン兵の目がありすぎて今はねぎらうこともできない。ハイランバオスやラオタオとも世間話の域を出ない無難なやり取りがあるのみだった。

(やるべきことは皆もわかってくれている。二言三言伝えられればそれでいいんだ。最終的な打ち合わせでは……)

 何もかもサルアルカに至ってからかと息をついた。焦る思いを消しきれないのは協力者たる二人がいまいち信用ならないからだろうか。エセ預言者たちの言を鵜呑みにするなよとは言い聞かせてから旅立ったが。

「レイモンド、次の休憩で一旦幕屋に入ろう」

 斜め後ろの恋人に告げると彼はほっとしたように頷いた。隣のアルフレッドには寂しげに見つめられたが致し方ない。まだどこが人体の限界ラインか推し量れない彼もさっさと女帝(ほごしゃ)のもとへ送り返さねば。
 アクアレイアが一定距離ごとに補給のできる寄港地を確保して短い航行日数と旅の安全を維持していたように、ジーアンもまた草原という海原に一定距離ごとに駅と呼ばれる厩舎を設けている。騎馬民族の小さな拠点の周辺には必ず冬営中の遊牧民がいて、疲れた馬を交換し、食物を差し出してくれた。
 道を重視するジーアンの統治はどこか自分たちと似ている。冬の旅、それも酷寒を行く旅だとは思えないほどここまでずっと安定した道のりだった。残り二ヶ月の旅程もきっと同じように過ぎていくのだろう。すべてを凍りつかせたまま。

(ヘウンバオスとの接合を果たせば難事には片が付く──)

 対処すべき問題から目を背けていることは知っていた。だがサルアルカでの入れ替わりは、部隊よりむしろ退役兵(脳蟲)の手を借りて実行することになる。なら今は皆をそっとしておきたかった。表面上は以前の彼らに戻ってきてもバジルは小さくなったままだし、レイモンドも無理をしているのは否めない。とてもではないが作戦行動をともにするなど不可能だった。
 楽にしてやりたいと思う。たとえ自分が皆と離れ離れになっても。そう願うことの間違いは指摘されたはずなのに。
 風が吹く。灰色じみた白が視界を埋め尽くす。
 ──どうしても誰も信じられない。
 きっと変わらないのだろう。この先も己は永遠に。そのことがまた心苦しく、彼らを尊重できないなら側にいるべきではないとの思いは強まった。
 冷気を吸った胸が痛い。だが目は前から逸らさなかった。両隣も、すぐ後ろも、振り返ることはできなかったけれど。



 ******



「また詩を作っているのか」

 鼻歌を口ずさむ片割れの背に呼びかければ彼はくるりと振り返り、丸い頬を上気させつつ「熱い戦いでしたから」と悪びれもせず微笑んだ。
 春になり、家畜たちは子を産んだ。ゾドの冬を越えるという当初の目的だけならば見事に完遂したと言える。だが胸にあるのは一抹の虚しさのみだった。己がしくじりさえしなければまだ見ぬ塩湖に手を伸ばせたかもしれないのだ。この悔しさは簡単には消えはしまい。

「血の団結は崩れても、我らの真の絆はいっそう深まれり……」

 歌う男に「おい」と思わず眉をしかめた。

「遠慮をしない奴だな。敗北まで詩にするか?」

 氏族が冷淡に去っていったことを思うとまだ歯痒い。あれからすぐに有力な別の男に身体を換えたが姿が違えば印象までも変わるのか、ジーアンの血族はほとんど残ろうとしなかった。よく知りもせぬ西方に戦いながら進むより踵を返して豊かな草地を押さえたほうが得だと彼らは踏んだのだ。
 この点に関しては反省すべき点が多々ある。今度大きな戦いを起こす際には血縁に頼るのではなく組織立った軍を編成せねばならない。征服地の住人も、追い出すのでなく力として組み込むべきだ。でなければ強大かつ巨大な国など作れるはずもないのだから。

「あはっ」

 と、片割れが楽しげに笑みを零す。なんだと見れば「あなたもめげないお方ですね」と輝く瞳を細められた。

「敗北などではありませんよ。挫折はいつだって大いなる勝利の先触れです。レンムレン湖が見つかったそのときは、この冬の出来事すべてあなたの栄光を飾る黄金となりましょう」

 若緑と小花が揺れる草原で詩人が告げる。「スー」と短い名を呼んだ。言葉にならない思いを込めて。
 職人に紛れて知恵をつけるのが好きだった彼は障害の残った器を捨てた後、黒髪碧眼の文士に身を移していた。サルアルカ風に戻った名が示すのは何百年と過ぎても探すのをやめられない生まれ故郷のあの「水」だ。
 青く澄んだ目に戻らぬオアシスを幻視する。彼は希望の象徴だった。小さな水溜まりと成り果てたレンムレン湖が潰えたとき、ただ一つ、天の星のごとく降ってきた。

「きっとお祝いしましょうね。これ以上ないほど盛大な宴を開いて。あなたのために私は最高の詩を捧げます。めでたしめでたしで終わる詩を」

 春の柔らかな日が照る中を、親愛を示して両手が握られる。
 心というものに特別な何かを掲げ置く場所があるとすれば、そこにあったのはいつも同じ夢だった。
 一対の黄金の馬。世界の果てまで駆けていく。隣に彼という半身が在れば、荒唐無稽な考えもいつかは現実に変えられると信じられた。
 歌うようにスーが続ける。「鉄山の鉄は採り尽くしてしまいましたが、我々の進撃の余波で亡びた国から鉄銭が流出しているようです」と。
 鉄鉱石には無駄が多い。あんなに重いのに苦労して溶かしてみれば使える量は半分以下だ。だが鉄銭くらい純度の高い鉄ならば簡素な鍛冶場で十分に加工できる。遊牧民が家畜を追っての移動生活をしながらでも。なんとも滑らかに片割れは言い切った。

「血の結束は弱いので、心などない鉄を使って確たる力を持ちましょう」

 そう囁かれ、似た者同士だなと笑った。何百年と過ぎようと立ち止まることを知らない自分たちは。
 五世紀もの時を費やし、ジーアンは大きくなった。その功績の半分は片割れのものだった。
 いつも、いつも、支えてくれたのは同じ腕。振り切って立ち上がったはずなのに、なぜまだ心はあの半身を求めるのだろう。
 詩の終わりを待っている。
 祝福されるべき千年の果てを。
 そこに己の望んだすべてが揃っていて、永遠に欠けないことを。














(20210307)