このサイトに置いている14話は「初稿」です。正式な「最終稿」は6月以降ノベプラ、なろうにアップします。
大幅な修正が予測されますこと、予めご了承ください。またSNSなどで関連ツイートをするのも6月以降でお願いします。








    第三章 惑い惑いつ草原を往く

 あれは、そら。あれは、くも。
 はだにふれる、これは、かぜ。かぜはくさをゆらしている。
 つめたいがつづくとさむくて、さむいときはふくをふやす。
 アニークのくれたふく。あたたかい「ひつじ」のけのふく。
「ひつじ」はくもににているとダレエンがおしえてくれた。しろくてふわふわもこもこして、おいしいにくもたべられる。
 だけどそらにうかんだくもはいろいろだから、どれが「ひつじ」ににているのかはわからない。ひょっとすると「ひつじ」のほうにもいろいろいるのかもしれない。
 ながたびになるからそのうちほんものをみられるわ、といったのはウァーリ。いすにすわって、てんじょうをみあげて、このいえも「ひつじ」のけとかわでつくるのよ、とゆびをたてた。
 なかにいるとすこしくらくて、そとからみるとまっしろな。あれはみんなでねるところ。ゆうがたになるとおなじまくやが「くも」みたいにわいてくる。ひるまはみっつだけらしい。みっつ、は、いち、に、のつぎ。
 くるまのうえのまくやには「とくべつ」な「きゃくじん」がのっているのだときいた。「とくべつ」も「きゃくじん」もまだよくわからないけれど、あそこにもひとがいて、ねむったりたべたりしているのだ。うまにのったへいしとはちがうひとたちが。
 
 あのひとも、まくやのなかにいるのかな。
 いるのだったらあいたいな。
 そらよりあおいめとかみの、おれのだいじな──おひめさま。



 ******



「待っ、駄目! そっちは行っちゃ──アルフレッド!」

 勝手に歩き出した騎士をブルーノは大慌てで引き留める。ぐいっと強く手を掴み「離れないで!」と諭してようやく友人は足を止めた。
 ドナを発って早二日。アクアレイア人と鉢合わせる可能性がほぼなくなって騎士を外に出してやれるようになったのはいいけれど、部隊の過ごす幕屋にはまだ彼を近づかせたくなかった。ルディア一人だけならともかく、死者の姿で生き続ける脳蟲(アルフレッド)を誰も受け入れられない今は心惑わすのみである。

「ほら、行こう」

 か細い老人の声で促す。だが彼は言われた意味を理解せず、いつまでも車の上の幕屋を見ていた。まるでどこに宝物が秘されているか本能的にわかるようだ。騎士の視線は王女の仮住まいから離れなかった。

「……ね、行こう。馬が水飲み終わったらまたすぐ出発なんだから」

 今度はジーアン語で告げる。すると小さな頷きが返ってきて、伝わったかとほっとした。
 この辺りは東パトリア帝国領でも特に乾いた土地であるのが知られている。小川の恵みは貴重なため、兵士たちは各々の馬を岸辺で休ませてやっていた。
 車が止まれば大人しく室内に引っ込んでいる理由はない。アニークが外気を吸いに出ていったのを皮切りに幕屋はすぐに空になった。一方ルディアたちは休憩中でも玄関布を捲る気配すらさせなかったが。

(見たことない風景だなあ)

 長針のごとき枯れ色の草に覆われた野を見回し、西パトリアとの気候の差を実感する。海峡を越えれば海の色や水温が変化するように、長い間ドナを外敵から守ってきた山岳地帯を抜けるとそこには荒野と呼んで差し支えない平原が広がっていた。
 見たことがない、というと少し語弊があるかもしれない。正確には見覚えはあった。接合で得たウェイシャンの記憶の中に。だがやはり己の目に映すのが初めてのものはすべて新鮮に感じる。
 草原の旅になるとの話だが、青々とした草は生えてはいなかった。ほかより小高い丘の上にはずらりと葡萄の樹が植わり、遮るものなく注ぐ日射を浴びている。だがまだここは閉じた平野であるらしい。遠景には山峡が荒野を狭めているのが見えた。
 アルタルーペの山が尽き、東パトリアの低い山地と出会うところ。あそこを過ぎれば本格的な緑の道が始まるに違いない。

「ブルーノ」
「しっ! その名前で呼んじゃダメ!」

 と、通りのいい声で名を呼ばれ、思わず目尻を吊り上げた。すぐ側には談笑するジーアン兵がうじゃうじゃといるのである。古龍が古龍でないと知る蟲兵たちはいいとして、一般兵に聞き咎められでもしたら誤魔化し方がわからない。アルフレッドがアレイア語でやり取りしてくれればいいのだが、二つの言語を同時に習得することは生まれたての蟲には難しいようだった。

「ブ……」
「だからダメだって。外にいるときは将軍って言うんだよ」

 声を潜めてブルーノは友人を叱る。きょとんと見つめ返されて、また嘆息が深くなった。
 ジーアン語を先に学習したせいか、はたまたダレエンがジーアン語でばかり彼に話しかけるせいか、アルフレッドはいまだ母国語を操れない。幕屋にいるときはそれでもいいが、こうして外で話すときは厄介だ。
 先にジーアン語に慣れさせ、アレイア語は第二言語として教えたほうが早いのではなかろうか。付きっきりでやっているのに成果のなさに悩んでしまう。その場合、頼まれたアレイア語の指導のほうは数ヶ月後になりそうだが。

(多少気遣ってはくれてるけど、聞こえてくる会話ほとんどジーアン語だからなあ……)

 せめて周りをアレイア語話者だけにできればと考えてブルーノは即かぶりを振った。部隊の皆でアルフレッドを世話することは物理的には可能だが、心理的には不可能だ。彼がもう少し「アルフレッド」らしい振舞いをできるようにならなくてはとても皆に会わせられない。最低でもアレイア語だけは滑らかに話せるようにならなければ。

(けど周りにもっと同じ言語使う人がいないと覚えられないよね……)

 はあ、と小さく息を吐く。堂々巡りで気が滅入る。
 そのときだった。ブルーノの鼻先すれすれを白馬が横切っていったのは。

「ご、ごめんなさい! 怪我しなかった!?」

 尻餅をついたブルーノの頭上から降ってきたのは焦りの滲むアニークの声。どうやら彼女はジーアン帝国の一員らしく乗馬訓練を始めたらしい。いつものドレス姿ではなく、遊牧民の立襟装束で木製の鞍に跨っている。

「あなたたちも乗っていいわよ! 初心者向きの落ち着いた牝馬がウァーリのところに──いやあああああ!」

 台詞の途中でもう馬が走り出し、女帝は無力に水辺へと連れ去られた。彼女を追って幾人かの兵士たちが小川のほとりへ駆け急ぐ。土を払ってブルーノはうんとこしょと立ち上がった。

「……どうする? 馬乗りたい?」

 問えば騎士は心なしか嬉しげに頷いた。きらきら輝く双眸を見ていられず、つい顔を背けてしまう。思い出したのはかつての友人。アクアレイアには馬がいないから騎士らしく馬上槍を振るえないと嘆いていた。
 否応なしに突きつけられる。「騎士」だけがここに残ったこと。

「ねえねえー! アルフレッドくーん!」

 と、今度は遠くでウァーリの高い声が響いた。蹄の足音が軽やかに近づき、ブルーノたちの傍らに艶やかな毛並みの黒馬が立ち止まる。逞しいその背にはウァーリだけでなくダレエンも相乗りしていた。

「ちょっと試し乗りしてみない? この子なかなか利口だわよ!」
「ジーアンでは三つにもなれば誰でも馬上で生活を始める。お前もそんなものだろう? 今日からやってみるといい。最初は一緒に乗ってやるから」

 言うが早くダレエンはさっと下馬してウァーリを降ろす。あれよと言う間に狼男はアルフレッドの腕を捕え、騎士を鞍に上げてしまった。腹を蹴られた馬はただちに荒野を駆け出す。二人の背中が遠ざかるのに一分とかからなかった。

「あなたにはあたしが教えてあげましょうか?」

 置き去りにされてしまったブルーノに、からかうようにウァーリが尋ねる。「いや、僕は」と首を振るのが己の精いっぱいだった。ウェイシャンは気楽に乗馬していたけれど、あんな大きな生き物に身を預けるのはやはり怖い。

「あら残念。それじゃ幕屋でお茶にでもする? そろそろ喉が渇いたでしょ」

 にこりと笑んでウァーリがこちらの腕を取る。選択の余地もなくブルーノは彼女とともに引き返した。
 兵士の間を縫って歩く。荷台の上の幕屋を目指して。老人の足をいたわってウァーリはいくらかゆっくりと進んでくれた。
 こんなとき彼女たちは親切だなとしみじみ思う。この器が古龍のものだから大切にしてくれるのだろうが、接合の影響もあり、帝国への冷酷なイメージは随分薄まりつつあった。恩人に対する振舞いを毎日隣で眺めているから余計にそう感じるのかもしれない。少なくとも「引き受ける」と決めたアルフレッドに対しては、彼らはとてもいい人だった。
 だからこそ怖くなる。思い出はすべて失い、母国語もほとんど通じず、女帝や将軍たちからは丁重に扱われる──そんな男をどれくらい仲間と思えるものなのかと、またあの懸念がもたげてくる。
 ルディアはどうする気なのだろう。「アルフレッド」はアニークたちを助けてほしいと遺言した。難しい願い事だ。女帝にせよ、将軍にせよ、アルフレッドに優しいだけでアクアレイアに肩入れしているわけではない。だからと言ってルディアがジーアンごとアルフレッドを切り捨てるとも思えないが、それでも不安は晴れなかった。

(もしも今より部隊がバラバラになるようなことがあったら……)

 幕屋に戻るその前にブルーノはもう一度荒野を振り返る。馬と戯れる兵士の一団にやはりルディアの姿はない。
 どうしたらいいのだろう。耐える以外の、触れない以外の方法がわからない。現状維持ではきっと誰も救われないのに。
 苦しみはいつまでどこまで続くのか。迷い込んだ迷路の出口はまだどこにも見えなかった。



 ******



 馬上で硬直してしまい、危うく落馬するところだった。幕屋を出てきたのは気まずさに耐えがたかったからなのに、今度は彼と居合わせることになるとは。
 バジルは借り馬の手綱を強く引っ張った。顎を反らされ、馬が不機嫌に足を止める。だが止まってくれればなんでもいい。これ以上彼に近づかないでさえくれれば。

(アルフレッドさん……)

 群れを成し、小川に首を突っ込んでいる馬たちのその奥に騎士はいた。服装こそジーアン風の冬着だが、見間違えようもない赤髪の。
 ドナを離れたから表に出られるようになったのか。回らぬ頭でもその程度は思い至ったが、どうすればいいのかはわからず呆然と彼を見つめる。もたつきながら馬を疾駆させようとする彼を。
 ニャア、と懐で猫が鳴いた。それでハッと我に返った。
 同時に騎士が振り返る。そして確かに馬群を貫いてこちらを見た。

「────」

 雷に打たれたようにバジルは動けなくなった。灰色猫の案じる視線を感じたが、騎士から目を逸らすことができない。
 冷たい汗が頬を伝う。呼吸すらままならなくて指先が震えた。だが彼は──アルフレッドのほうはバジルを風景の一部としか見なさなかったようだった。声をかけてくることもなく、微笑を浮かべることもなく、彼はまた前を向いて馬と一緒に行ってしまう。

「…………」

 心音がバクンバクンと乱れるのを自力では抑えられそうになかった。
 一瞬にして理解する。彼が別人になったこと。
 ほとんど逃げるようにしてバジルは馬を旋回させた。
 この場から離れることしか今は考えられなかった。



 ******



 車輪が止まり、車軸止めが噛まされたから、いつもギシギシうるさい幕屋が小さく軋むこともしない。室内の物音は移動時よりずっと大きく響いていた。
 金属製のかまどでグツグツ大鍋の煮える音がする。食事当番のレイモンドが昼食を用意しているのだ。だがその様子は衝立に隠れて少しも見えなかった。同じ空間にいながら部隊は隔絶されている。
 モモはふうと息をついた。フェルトの壁際の寝台に腰かけて、隣の女の肩にもたれる。アンバーは寄りかかってもいやな顔一つしなかった。いつも通りに黙ってそこにいてくれる。変わらないということが今は何よりありがたい。

(バジルが本当にだめっぽいんだよねえ……)

 今日もまたあの弓兵はまったく姿を見せずにいた。どうも彼は乗馬を覚えてずっと外に出ているようだ。食事はアイリーンが確保したのを夜に食べさせているそうだが、ほかの生活はどうしているのか一切が不明だった。
 レイモンドも、ルディアもそれを追及しない。問題を解決せんと踏み込んだ途端総崩れになる未来がまざまざ浮かぶから。状況が変わるまで待つしかないのだ。時の流れが何をどこまで癒してくれるかわからなくても。

「ね、アンバー。今日のお昼はなんだろうね!」

 場違いに明るい声で聞いたのは、その明るさが早く日常になればいいと願うからだ。レイモンドにも、バジルにも、告げるべきことはもう告げた。あれは兄の意志だったと。あの一事に関しては兄にすべての責任があると。
 だからモモが皆にできることは何もない。普段と同じに振る舞う努力をするのみだ。骨も肉も断たれても皮一枚で繋がっている。そんなことだってあるのだから。

「そうねえ、干し肉で出汁を取ったクリームスープとかかしら?」

 湿っぽくなりたくないというモモの気持ちを汲み取ってアンバーもにこりと微笑み返してくれる。長らくエセ預言者の居所となっていたディランの姿にはまだ慣れないが、彼女といると安心できた。

「同じような保存食使っててもレイモンド君のご飯美味しいのよね。マルゴーの嫁ぎ先とは段違い」
「マルゴーの食事もこんな感じなの? あ、そう言えばアルタルーペで山羊のミルク飲んだなあ」

 他愛ない会話の温度が心地良い。「いつも」に戻れている気がする。
 そのとき不意にアンバーの横顔に翳(かげ)りが差したように見えた。

「ああ、モモちゃんはグレッグ傭兵団と一緒にあの山を越えたんだっけ」

 探るような声音に小さな違和感を覚える。

「ドブっていう子がいなかった? 十三、四歳くらいの」

 続けて問われ、ためらいがちに「ああ、うん。アウローラ姫のお世話をよく手伝ってくれた子だ」と返事した。

「そう……」

 しばし奇妙な沈黙が挟まる。なんだろうと構えているとぽつり彼女が呟いた。

「息子なのよ。死んだと思ってたんだけどね」
「えっ!?」

 アンバーってあんな大きな子供がいるような歳だったの? 意外すぎて思考が止まる。そう言えば最初に会ったときの魔獣の上半身も別に彼女の肉体ではなかったのだったっけ。あの下女は二十代後半くらいに見えたけれど、本当のアンバーはもっと上の世代なのかもしれない。

「そ、そっか。ドブってアンバーの息子なんだ。だからあんなにめちゃくちゃいい子だったんだ……」

 あれこれと気配りを受け、親切にしてもらったことを思い返す。彼の温めてくれた山羊乳は豪雨に冷えた身体をぽかぽかにしてくれた。副団長のルースとあんなことになったから、きっともう嫌われてしまったと思うけれど。

「……元気でいるんじゃないかな? 姫様とレイモンドがマルゴー公を訪ねたとき、宮殿で会ったって言ってたし」
「……! あの子まだグレッグと一緒なの?」

 そう、とアンバーは胸を撫で下ろす。初めて目にする母の表情にそうだよねとモモも胸中でひとりごちた。
 仲良くしている実感があったって現実は知らないことだらけなのだ。今皆がバラバラなのは、最悪の形でそれを突きつけられたからだった。仲間だなんて言ったって所詮は勝手な個人の集まりに過ぎないのだと。
 と、視界が急に薄暗くなる。顔を上げればレイモンドが衝立の向こう側からひょいとこちらを覗いていた。

「メシできたぞー」

 何も変わらないようで、緊張とわだかまりを孕む声。レーギア宮で骸が起き上がったとき、どうしてみすみすアルフレッドを死なせたのかと槍兵はモモに激昂した。それでも日常を演じてくれる理性に敬意をこめて応える。

「うん、ありがとう」

 立ち上がり、モモはアンバーと連れ立ってゆっくり食卓へ向かった。
 薄氷の上を渡るようにゆっくりと。



 ******



 遊牧民は宴でもない限り一家揃って食事する習慣がないという。細々とした仕事が多く、家畜と外で過ごす時間も長いから、携帯食で済ませるか、幕屋のかまどの作り置きを勝手に摘まんで腹を膨らませるのだと。それで彼らの食卓は小さな卓袱台(ちゃぶだい)一つきりなのである。
 肩を寄せ合う面々を見やってルディアは目を伏せた。テーブルが狭いのは、あるはずの空席が認識しづらくなるという意味でむしろ助かるかもしれない。二人掛けでちょうど良さそうなスペースにルディアとレイモンド、アンバーにモモ、アイリーンまでが並ぶとぎゅうぎゅう詰めの感があり、欠けている者が誰かなど今はいいかと思わせてくれた。押し合いへし合いしないようにまずは食事を済ませなければと。

「いただこう」

 昼食の開始を告げれば全員一斉に匙を取る。誰が何を話すでもなく、しばし無言の時間が続いた。
 食事時だけは全員で集まると決めていた。バジルは早々に脱落したが、同じ幕屋でまったく顔を合わせずいるのも良くなかろうと判断してのことである。だがそれはいささか早計だったかもしれない。「美味しいよ」とのモモの言葉に曖昧な反応しか返さないレイモンドを見ているとそう思わざるを得なかった。
 アイリーンとアンバーには「おお、良かった」「そんじゃまた作るわ」と笑顔で応対できているのに恋人は斧兵とだけは目を合わせようとしない。容易には取り繕えない確執が生じているのを目の当たりにして悔いが生まれないはずがなかった。

(やはりもう少し休ませるべきだったか)

 バジルのことも、レイモンドのことも。脳蟲について知りすぎている彼らを残してドナを発てない状況だったのも事実だけれど。
 せめて幕屋から連れ出してやれればいいのだが、未熟に過ぎる乗馬技術ではそうもいかない。それに外には「彼」のいる可能性も高かった。

「…………」

 湯で戻されてもまだ硬い干し肉を無理やり喉奥に飲み込む。そう言えば、と思い出したのは一行の進路に位置する小都市のことだった。

「もうじきネブラに着くんじゃないのか?」

 ルディアの声に「え?」と皆が振り返る。

「大きな湖の側にある、ワインで有名な街だよ。マルゴーと東パトリアの境にあって、そこより北はジーアン帝国の領土になる」

 草原には遊牧民の野営地はあっても商業都市はないと聞く。大がかりな補給ができる最後のポイントだろうと告げる。「我々も買い足せるものがあれば買い足したほうがいいかもな」と暗に自由行動の許可を示せばレイモンドが「!」と目を見開いた。
 防衛隊がうろつくことに十将はいい顔をしないだろうが、お互い人質がいるのである。多少の我侭は許容してもらおうと思う。

「ネブラって、ジーアン軍が最初にアレイア海に攻め込んだとき東パトリアが不可侵条約結ぶ代わりに騎馬軍の通過許可出したとこ?」

 モモの問いに「そうだ」と頷く。マルゴーへ至るにせよ、アレイア海東岸へ抜けるにせよ、ジーアン軍が越えなければならなかった要地の一つだ。
 草原から西パトリアに繋がる入口。山と山に挟まれた陸の門。

「ずっとここにこもっていたのでは気が塞ぐだろう? 街に着いたら少し外に出たほうがいい」

 異論は特に誰からも出なかった。むしろ皆ほっとした面持ちだ。そのことにルディアは一人胸を痛める。部隊一つまとめきれぬ己があまりに不甲斐なくて。だが今は自己反省に時を費やしている場合ではなかった。まだやるべきことがある。始めたことは終わらせなければならないのだ。

(この旅で目的を果たす。天帝にさえ成り代われれば防衛隊は必要ない)

 アクアレイアの再独立は脳蟲だけで成せるだろう。そこまで持っていければバジルもモモもレイモンドも縛りつけずに解放してやれる。

「…………」

 また大切な人間を手離そうとする悪癖が顔を出している自覚はあった。だが己にもどうしようもない。「アルフレッド」は戻らないし、彼らはずっとつらいままなのだ。
 それなら部隊の本当の解散だけでも告げてやらねばならなかった。
 彼らがもはや仲間だという体裁すら保てないなら。



 ******



 あれはそら。あれはくも。
 はだにふれるこれはかぜ。はやくはしるとつよくなる。
 うまにのるのはきもちいい。こけたらすこしいたいけど、うんととおくまでみわたせる。
 うまにのってさがしたらあのひとをみつけられるかも。
 とりでをでたらあわなくなったおひめさま。でもいまも、そばにいるのだとおそわった。
 ──ひめさま。おれのたいせつな。



 ******



 幕屋を出てゆっくりできるという話に安堵したことは否めない。ルディアに余計な心労を与えまいと努力してはいるものの、今までと変わらぬ態度で皆と過ごせているかというと頷けたものではなかったから。
 バジルが食卓に寄りつかず日中は馬で移動していることも、知ってはいたが止める気にはならなかった。いくらモモが「アル兄が自分一人で決めたんだよ」と言ったって彼が敵国に秘密の一部を漏らしたことは事実なのだ。情に流されがちな性格はよくよく知っているけれど、今はまだレイモンドには弓兵のしたことを許容できそうになかった。
 自分もドナへ行けていれば違ったのだろうかと思う。現時点で可能な配慮をするだけだっただろうルディアに代わり、自分が何か、バジルの暴走を防ぐ手を打てていればと。

「…………」

 飲み込みきれなかった嘆息を小さく吐いてレイモンドは調理器具の手入れを続ける。鍋を磨くのはもう何度目かもわからない。だがこんなことくらいしかすることもない。ゴロゴロと回る車輪の音に耳を澄ませば思考は一時霧散した。騒音も嘆きの根源までは掻き消してくれなかったが。
 と、幕屋の外で馬がいなないて「止まれー!」とジーアン語の指示が続く。小休憩のあと動き出してからいくらも経っていないのに、もう目的の街近くに着いたらしい。ゆっくりと車が停止し、ざわざわとジーアン兵の騒ぎだす声が聞こえた。

「到着したか。外出許可を取ってくる」

 そう言って出ていったルディアが戻るのは早かった。「一人なら街に入ってもいいそうだ」と入市許可証らしき旅券を手渡され、レイモンドは瞬きする。

「一人だけ? それ、俺が行っていいの?」

 ウァーリたちが防衛隊に過度の自由を与えたくないのはわかる。だがさすがに単独行動になるとは想定していなかった。通行証が一人分なら誰が使うかは話し合ったほうがいいのではなかろうか。ずっと幕屋に閉じこもっているのはモモたちも同じなのだし。

「ここはお前が行くべきだろう。どこにでも人脈はあったほうがいいからな」

 レイモンドの問いにルディアが首を振る。彼女の判断基準では印刷商の己を出すのが最善のようで、ならその指示に従うべきかと思い直した。この中では自分が一番商談に長けているのは間違いない。
「一応東パトリアの街だが気をつけろよ」とルディアはこちらに念押しした。ネブラはここ数年で遊牧民との交流が増えた結果、半ば彼らの冬営地と化しているそうだ。それならそれで好都合だ。とにかく寒いと噂の草原の冬に備え、現地人の使用する防寒着を直接買いつけることができる。

「わかった。じゃあ行ってくるよ」

 旅券を財布に突っ込むとレイモンドはまとめておいた荷袋を肩に担いで幕屋の玄関布を捲った。
 ルディア以外の見送りはない。アイリーンはつい先程ブルーノの様子を見にいったところだし、モモとアンバーはまだ衝立の裏だった。もとよりルディアも全員で連れ立って歩く気はなかっただろう。息抜きだと彼女は言っていたのだから。

「出発は明朝だそうだが、なるべく早く戻れよ」
「うん、日が沈む前には帰る」

 一人だけ抜ける申し訳なさを覚えつつ外へ出る。久方ぶりの空はあいにくの薄曇りだ。だがぼんやりした灰と青は暗がりに慣れた目にも優しかった。
 荷台の上できょろきょろと周囲を見渡す。まず目についたのは対岸が霞んではっきり見えないほど大きな青い湖だった。ネブラの街はそこから少し離れて城壁を築いており、湖とは人工運河で繋がっているのが窺える。
 岬があるのにどうしてわざわざ水路の掘削などしたのだろう。三方を湖水に囲まれていたほうが防衛だってしやすかろうに。
 変な街だと思ったが、荷台を降りれば理解は進んだ。びちゃ、と足元で泥が跳ねる。空も風も冷たく乾ききっているのに、短い草が伸びるのはどう見てもアクアレイアの低すぎる島にあるのと同じ湿った土だった。
 改めて街を仰げばネブラがいくらか高い土地を選んで建てられたのが知れる。水辺はうんと遠いのに岸がこれだけ水浸しということは、潮の満ち引きで潟が洗われるのと同様にネブラ湖も頻繁に水位が変わって付近一帯を湿地化するに違いない。よくよく目を凝らしてみると湖には見慣れた葦原まで育っている。なんだかよそに来たという感じがしなくてほっとした。
 ジーアン兵たちはもう思い思いに馬を放して遊ばせてやっている。よし、とレイモンドは掌で頬を打ち、力強く第一歩を踏み出した。
 上手くやれば必要物資以外にも珍しい交易品が手に入るかもしれない。そう思うと頑張ろうという気力が湧いた。ルディアも喜んでくれるかも。想像して胸を弾ませる。わずかな高揚は呆気なく踏み散らされてしまったが。

「あぶない!」

 誰かの叫びが響くと同時、何か大きな塊がレイモンドの背を突き飛ばした。決して軽くはない衝撃。驚いて振り返り、そうして更に目を見開く。
 小柄な黒馬に乗っていたのは夕映えのごとき赤髪の騎士。崩したバランスを立て直せずに彼は地面に転げ落ちた。
 びちゃり、泥が跳ねて飛ぶ。青年の着た立襟装束の黒布を汚して。

「うー……」

 痛めたらしい腰を擦りつつ騎士がそろりと顔を上げる。赤い瞳に捉えられ、レイモンドは凍ったように動けなくなった。
 目を逸らせない。一番見たくないものなのに。

「……すみません。おれ、ふちゅういです」

 たどたどしいジーアン語にぞっとする。彼の口から己に向けてそんな言葉が出てきたことに。
 気がつけばレイモンドの足は何歩も後ずさりしていた。アルフレッドは馬を撫でて騎乗し直すとそのまま駆け去っていく。
 後ろ姿が視界から消えるより先に市門へ走り出していた。
 一刻も早くこの場から離れたかった。
 慟哭を堪えきれなくなる前に。



 ******



 ネブラの街には入れなくても外の空気は吸わないか、と持ちかけたのは自分だった。先に一人で出ていったアイリーンも心配だし、遠巻きにでもバジルの様子を確認しておきたかったから。
 返事を渋るルディアを連れて泥濘(ぬかるみ)に降り立ってすぐ主君がいまいち乗り気でなかった理由に思い至った。荒野を割って突如広がる青い湖。群れ成す黒毛や茶毛の馬群。その中に目立つ赤髪がぽつんと一つ紛れていたから。
 モモが身を強張らせると同時、アルフレッドがこちらを振り向く。正確には兄は「モモたち」に気がついたのではない。「主君」に気がついたのだ。

「……ひめさま?」

 馬の駆り方は覚えたのか、軽やかな蹄の足音がこだまする。あっと言う間に騎士はモモとルディアとアンバーの目の前までやって来た。

「ひめさま!」

 さも嬉しげに緩められた頬を見やって王女が露骨に顔を歪める。呼びかけにルディアはしばらく応じなかった。彼女が微動だにしないのでアルフレッドも動かない。兄はただ眩しそうに目を細め、じっと主君を見つめている。
 そのうちルディアが息をつき「降りないのか?」と問いかけた。きょとんと目を丸くしてアルフレッドは首を傾げる。
 どうもアレイア語では伝わらなかったらしい。ルディアが「降りないのかと聞いている」とジーアン語で問い直すと兄は合点して馬の背を離れた。
 まるで異国の人のようだ。首元から風が吹き込まないように襟を立たせた服なんて着ているから余計にそんな風に思える。似た恰好でもバジルはちゃんとアクアレイア人に見えたのに。

「アル兄……」

 呟くも反応は返らない。兄の目は相も変わらず主君だけを見つめている。
 代わりのようにルディアが騎士に話しかけた。

「アルフレッド。彼女はモモ、お前の妹だぞ」

 またジーアン語。わかっているのかいないのか、アルフレッドは不思議そうにモモの顔を一瞥する。

「いも、うと?」

 なんとも興味の薄そうな兄の声を聞きながら、本物の赤ん坊みたいな時期は短いのだなとひとりごちた。
 覚えていなくて当然だ。だってドナにいる間、一度も見舞に行かなかった。行こうと思えば行けたのに、ブルーノが側にいてくれるならと顔を合わせるのを避けた。
 こうして正面から向き合っても思ったよりは動じていない。だが偽りようのないほどに心は乾ききっていた。また会えて嬉しいな、なんて感情ひとかけらも湧いてこない。
 取り乱すほどではないが「初めまして」と笑えるほど冷静にもなれなくて。それでも己がそうしなければならないことはわかっていた。なし崩しでも兄の愚かな決断に最初に「わかった」と頷いたのは自分だったから。

「そう、モモだよ。──アル兄」

 モモ、と低い声が呟く。一瞬こみ上げた涙の正体がなんなのか、考えるのはやめにした。喚きたがる心を無視して静かにただ「うん」と頷く。できるだけなんでもないように。

「アルフレッド君、私のこともいいかしら?」

 遅れて兄を囲んだアンバーも改めて自己紹介をした。よろしくね、と彼女もジーアン語で話す。
 そのときぽんと後ろから肩を叩かれた。振り返れば古龍の姿のブルーノと、額に汗したアイリーンが心配そうにこちらを覗き込んでいる。いつ見ても顔色の悪い姉弟だ。二人を安心させるべくモモは「大丈夫だよ」と笑った。
 大丈夫。──大丈夫。まったく別の人間に変わってしまったわけじゃない。騎士を夢見た「アルフレッド」はまだここに生きている。
 もう一度始めればいいだけだ。
 新しい自分たちを。



 ******



「先生も一緒に来れば良かったのにねえ」

 湖面に石を投げ込みながら可愛い狐がそうぼやく。小都市を少し離れて薄く延びる、青い湖沼は頼りない冬の光を受けてなおきらきらと輝いていた。
 たいして面白い街ではない。この地の芳醇な葡萄酒は名高いが、それはもうとっくに車に積み終えた。慕わしい王への手土産を選んでしまえばやることもなく、ハイランバオスは暇潰しにラオタオと岸まで馬を駆ってきたのだ。
 荒涼とした大地にできた湿地帯(みずたまり)。湖畔にはみっしりと背の高い葦(あし)が生い茂る。水辺というのに付近に人家が少ないのは足元の泥土が耕せたものではないからだろう。見渡せば葡萄畑は遠くの丘に霞んでいる。
 漁民しか寄りつかないせいか湖は人間より野鳥が幅を利かせていた。パッと見ただけでサギ、チドリ、ツル、コウノトリと様々な種が確認できる。鳥類でこれなら魚類はもっと豊富だろう。捕食者より餌のほうが多くなければ繁栄は成り立たないのだから。

「コナーも忙しいのでしょう。この辺りまでは滅多に出てこられないようですし、一人でゆっくりネブラを見て回りたいのではないですか?」

 のんびり口調で答えつつハイランバオスは馬を下りた。見上げた空は薄灰色ではあるものの雪や雨の降りそうな兆しはない。葡萄の生る日照量と温暖さは残しても、ネブラはもうステップ気候の土地なのだ。年間を通じてどんなに雨が少ないか、それは湖の定まらぬ湖岸線が証明している。

「親しみ深い湖です。流れ込む川はあるのに出て行く川は一つとなく、ここに注げば真水もたちまち塩水に変わり、湖自体も消失したり出現したりを何度も繰り返すのですから」

 ふふ、とハイランバオスは笑った。そう聞くや狐は掌で湖水を掬い、ぺろりとひと口舐めてみる。「うわ、ほんとだ。しょっぱい」と舌を出して彼は大いに眉をしかめた。
 生まれ故郷を思い起こさせる草原(ステップ)湖だ。雨が降らねばただちに縮み、数年に渡り沼地と化すのも珍しくない。枯れれば土壌の成分が露出して付近に塩害と悪疫をもたらす。砂漠の街のオアシスがそうして死んでいったのと同じに。

「塩湖って意外にあちこちにあるよね。蟲がいたのはアクアレイアだけだったけど」

 自分も水を飲みたそうな馬をなだめてラオタオが言う。湖面を見やった彼の瞳に望郷の色はなかった。アークの中枢と接合し、膨大な知恵を手にした己と違って彼はもう少し巣に執着があってもいいはずなのだが。

「そう言えば、あなたは命のあるうちに成したいことはないんです?」

 思いつくままハイランバオスは問いかけた。突拍子のない言葉であったかもしれない。だがそれを気にする間柄でもない。狐も「ええー?」と困惑した風を演じて笑っている。

「俺はハイちゃんが楽しそうならいいよ。そしたら俺も楽しいし!」

 いたいけな返答に「なるほど」と納得した。別段聞くまでもなかったようだ。彼の核は「一緒に楽しみたい」というどこまでもシンプルなものらしい。
 再び湖に目を戻し、清冽な青に微笑む。懐かしいあの巣によく似た紛い物。ほかには何も代わりにならぬと知るためだけに存在する。
 アクアレイアもそうだった。さてこれから、あの方に送り届けるものは一体なんになるだろう?
 ハイランバオスは葡萄畑の更に奥、青く連なる低い山々を見つめた。
 アルタルーペの東の端。定住民(パトリア)の地と遊牧民(ジーアン)の地を分ける境。じきにあそこを越えていく。

「ね、ハイちゃん」

 不意に甘えた声に呼ばれた。肩にとすんと軽い衝撃。ほぼ同時、亜麻色の髪が頬をくすぐる。背中を預けるようにしてもたれかかってきた彼は上目遣いで囁いた。

「愛してるよ」

 微笑んで「知っています」と答えれば狐はふふっと吹き出した。戯れる母と娘のごとく二人きりで笑い合う。
 風が湖面を吹き渡り、葦原をかさかさ揺らした。
 レンムレン湖のアークを見ても狐はたじろがないだろう。コナーの来たのがいい証拠だ。危険な賭けなら彼は乗らない。ハイランバオスとラオタオが天帝の忠実な僕(しもべ)に戻り、客人に仇なすやもと考えていれば。

(まあ多少危ない橋を渡ってでも未知のアークに触れたいと出てきてくれたのかもしれませんが……)

 残骸だと画家は言う。しかし本当に残骸なら管理者が後世に聖櫃(アーク)を残す理由がない。機能は停止していてもなんらかの利用価値があるのである。
 今のところ動かぬアークを正しく評価できるのはコナー一人だけだった。であれば彼には仕事を果たしてもらわねばなるまい。このままルディアを助けるか、はたまた帝国に舞い戻るか、決めるのはそれからだ。
 終わりが美しければいい。そこに至る道はなんでも。戸惑い、嘆き、苦しみ抜いたその先にしか真に輝くものはない。
 ──忘れられない光景がある。見たこともないのにずっと。
 ああ早くあの方に会いたい。



 ******



 休みなく駿馬(しゅんめ)を乗り継ぎ全速力で駆けさせれば三ヶ月かかる道のりも三分の一の日数でこなせる。そうやって駆けつけた急使のもたらした一報は、確かに可及的速やかに報告されるべきものだった。

「ハイランバオスがファンスウとウェイシャンを人質にして同行中だと?」

 暗号で書かれた文を握り潰し、どういうことだと大熊に問う。最初にこれを受け取った古参の将はヘウンバオスの耳元に唇を寄せ、小さな声でぼそぼそとサソリと狼の窮状を伝えた。

「それがその、例の王女と裏で結託していたようで」

 顔をしかめ、ヘウンバオスは「その可能性は前々から十分に考えられたはずだろう」と熊を睨む。型すら異なる敵国の蟲姫にファンスウが警戒を解くとは思えない。ということは何かあったのだ。古龍でも予想外の何か。

「……これ以後届いた書簡はすべて私のもとにまず持ってこい。誰にも内容を悟られるな」

 低く告げ、文を懐に押し込んだ。背筋を這い上がろうとする悪寒を無理やりに振り払う。見えざる手に喉を絞められる錯覚も無視してヘウンバオスは鐙(あぶみ)に足を引っかけた。
 愛馬に跨り見渡すは緑の海。見据えるはその先の連峰。草原と砂漠を分かつ巨大な山塊──テイアンスアン。
 天なる霊山と人は言う。レンムレン湖に注いでいたのはあの峨々(がが)たる峻嶺の清らな雪解け水だった。だからきっと、あそこが我らの本当の始まりの地だ。
 山は深い。限られた道以外ほとんどが人跡未踏。ゆえにそこに立ち入るにはまず森を拓く必要があった。
 空からの偵察で目的の場所は判明している。新山道を敷設する工事も順調に進んでいる。後はサルアルカの地に集めた十将とアークを迎えに行くだけだ。──それなのに。

(ハイランバオス……)

 見渡すは緑の海。強い風が吹きつける。
 懐の文に触れないように、詩人の歌う高らかな声を思い出すことのないように、ヘウンバオスは幕屋へ馬を走らせた。



 ******



 ネブラというのは古パトリア語で「霧」を意味する。都市の歴史が始まって以来しばしば霧のごとく消えた湖にちなむ名なのだろう。あるいは塩湖だけでなく、何度も離散を余儀なくされた住民の受難を示してつけられた名なのかもしれない。こんなところに住んでいたのではその生活も霧のように儚いものであったろうから。

(ふう。買い残しはないよな?)

 入るのに使った市門と同じ市門をくぐり抜け、レイモンドは膨らんだ荷物を背負い直す。世界中の商人が集まるノウァパトリア並みに多国籍な街だった。さすがは東パトリア帝国、ジーアン帝国、マルゴー公国、北パトリアの南域にアレイア海東岸を繋ぐ陸の交差点なだけはある。
 立地の割に規模の小さい都市なのは、まさしくその立地のために常に危険に晒されてきたからだろう。あらゆる国に通じているということは、あらゆる国から侵略者が訪れるという意味にほかならない。ルディアの話していた通り、現在ネブラは大量の勝利者(ジーアン人)が足を留める保養地となっていた。
 おかげでフェルトの防寒着を買いつけるのにたいした苦労はしなかったが、ここから敵地に入るのだという緊張が一気に高まる。否、それさえも今は眼前の問題から意識を逸らす役に立つばかりだったが。

「──アル兄!」

 だしぬけに響いた少女の声にレイモンドは息を飲んだ。
 買出しを終えた帰り道、目指す車まであと少し。聞こえなかったことにして歩を緩めねば良かったのに、うっかり足を止めてしまった。
 ぐるり付近一帯を見渡す。夕暮れに差しかかり、ジーアン兵らは部隊ごとに分かれて幕屋を組み立てていた。彼らの馬は夜のうちに遠くへ行ってしまわぬように後ろ足を縛られて周辺に捨て置かれていた。
 緩慢にうろつくその群れの奥、ぐずつく湿地の泥の上、暮れる光と濃い影の中、誰かを見上げて微笑しているモモとルディアの横顔が映る。
 先刻も見た小柄な黒馬。その傍らで手綱を握る男は赤髪。向けられた笑顔に対し、彼もにこやかに応じている。
 街にいる間ずっと考えまいとしていた。頭から追い出そうと、ずっと、必死に、今だって。だが一度目にしてしまったら、一度耳にしてしまったら、なぜという思いでいっぱいになってしまう。
 ──アル兄?
 なんでそんな風に呼ぶんだ?
 もうそいつは俺たちの「アルフレッド」ではないのに。

(馬鹿、やめろ)

 握りすぎた拳がぶるぶると震えた。
 言ってはいけない。そんな言葉は。「アルフレッド」ではないものをあいつの名前で呼ぶなだなんて、ルディアの前では絶対に。それは彼女の──彼女こそ本物の王女(ルディア)だという前提を破壊してしまう。

「あ、」

 愕然と立ち尽くすレイモンドに最初に気づいたのはモモだった。堂々としていてくれれば良かったのに、彼女の見せた一瞬の気おくれが心のどこかに暗く冷たい火をつける。
 そこにいたのはルディアとモモだけではなかった。アイリーンやアンバーや、騎士のお目付け役という体の老将(ブルーノ)も団欒に参加していた。
 弓兵以外の全員が、嫌になごやかな雰囲気で。こちらを見ても知らん顔の、何もわからぬ男を取り巻き、親愛の笑みすら浮かべ、そして──そして。

「…………」

 気づけばレイモンドの足はふらりと皆に近づいていた。我ながらよく耐えたと思う。渦巻く怒りに仮面を被せてやり過ごす日々があれほど長くなかったら、きっともっとみっともなく喚き散らしていた。

「モモ」

 軽い調子で名前を呼ぶ。肩の大荷物を示しつつ「買ってきたもん片付けるの手伝ってくんねー?」と続けた声は笑えるくらい普段の己と大差なかった。

「……うん」

 ルディアとアンバーがついてこようと踏み出したのを手で払う仕草で遮る。仮住まいの幕屋まで戻るのにどう歩いたのかも思い出せない。ただもう多分、激情を抑えきれてはいなかった。後ろのモモも重く沈黙していたから、決壊は予期していただろう。
 分厚い玄関布を捲る。あそこまではと決めた境界。それを越えたらもう理性や付き合いの長さから来る思いやりは跡形もなく吹き飛んだ。

「お前さあ……」

 酷く冷たい声が出る。怒りが喉を震わせる。

「あいつのこと本当にアルだと思ってんの?」

 否定してほしかった。あれは便宜上兄と呼んだだけに過ぎないと首を振ってほしかった。「アルフレッド」が別の何かに置き換わるなど耐えられない。自分はまだ彼に謝れてもいないのに。
 だがモモは望んだようにはしてくれなかった。夕闇に飲まれ、ほぼ真っ暗な幕屋に凛とその声を響かせる。

「そうだよ」

 瞬間的にレイモンドは「なんで?」と詰め寄っていた。それは裏切りだろうと思った。血の繋がった彼女が一番彼に近しかったのに。

「なんでも何も、アル兄としか言いようがないじゃん。姫様だけであんなに頭いっぱいな人」

 断定を受け入れがたくてかぶりを振る。心が理解を拒んでいた。詰まった喉から溢れたのは「違う」と抗う荒々しい声。
 だって残っていないのだろう? ひとりぼっちの己に手を差し伸べてくれたことも、重い病を癒してくれたことも、お互いに励まし合って生きてきたことも、あの蟲の中には何も。
 あるのはルディアへの思いだけだ。ほかは全部、全部灰になってしまった。

「違う、あんなの、アルじゃない」

 本心を偽ることはもはやレイモンドには不可能だった。言ってはいけないと戒めたのに。めちゃくちゃになるとわかっていたのに。ルディアが側にいないから、自分が彼女を置いてきたから、飲み込むべき暴言を──どこかで正当だと感じている悲憤を吐き出してしまう。

「あれがアルと同じなんて、思ってもねーこと言うのやめろよ! アルはまだ生きてるんだって自分に言い訳したいだけだろ!?」

 堪えきれずに叫びは大きくこだました。声の勢いに驚いてか、棘ある言葉に驚いてか、モモの肩がびくりと跳ねる。
 ああそうだ。彼女は言い訳しているのだ。救えなかった兄の一部でも救えたと己に言い聞かせているのだ。その欺瞞がわかったからレイモンドは言い返す隙を与えず暴力的に吠え立てた。

「アルが馬鹿なこと言い出したときはお前が止めるって言ったのに、ちゃんと見とくって言ったくせに、お前がそうしなかったから……! だからあいつはアルなんだって思い込みたいだけじゃねーのかよ!?」

 はあ、はあ、と息を切らす。静寂が幕屋に満ちる。
 モモからはなんの弁解もない。だが目が逸らされた気配もなかった。上下に肩を揺らしながらレイモンドは暗がりに立つ少女をきつく睨みつける。
 誤魔化せなくなっていた。お前はずっとあいつのすぐ側にいて話し合うこともできたくせにという怒りを。一度もアルフレッドに会えなかった自分より、関わるなと命じられていた自分より、彼女はずっとアルフレッドの力になれたはずなのだ。
 それなのにモモはあいつを助けることを諦めた。──諦めたのだ。その気になれば二人で城から逃げ出せたのに。

「モモはあれがアル兄だって信じるよ」

 ぽつりと彼女が呟いた。強く決意を滲ませて。
 淡々と静かな声。あまりにも理解不能で噛みつく気力も湧いてこない。ただ失意が増していく一方だ。

「ああそうかよ……」

 乾いた声で吐き捨てる。レイモンドは足元に荷を放り、それを思いきり蹴り飛ばし、苦痛を薄めるためにもう一度外へ出た。
 そうしてすぐに後悔する。荷台の前まで戻っていた恋人と目が合って。

「レイモンド」

 いつからそこにいたのだろう。全部聞こえていたのだろうか。今まで一人で胸の底に押し込んでいた言葉すべて。

「少し歩こう。話がしたい」

 穏やかに笑んでルディアが誘った。胸甲の上にケープ一枚羽織っただけでは夜の冷えが堪えるだろうに。まるで今はほかにもっと大切なことがあるとでも言うようだ。

「……わかった」

 否と拒める空気ではなかった。レイモンドはルディアに連れられ、暗い影の伸びる湿原へ歩き出した。



 ******



 ほら、だから言ったじゃん。皆すごく傷つくよって。誰でも自分のせいだと思う。でなきゃ誰かのせいにしたがる。アル兄一人で決めたことだって絶対にそうなるよって。
 レイモンドを追ってこれ以上話をする気にはなれなかった。言いたいことも少しも思い浮かばない。
 そうだ、彼の言う通り自分は兄の愚行を見ていただけなのだ。こんな事態を防ぐためにアクアレイアに居残ったくせに。
 いつもこうなる。怠けた覚えはないはずなのに力不足で。マルゴーのときもそうだった。アウローラは守りきれず、主君の肉体も失った。任せてと言って何度己は果たすべき役目を果たせずにきたのだろう。

「……モモちゃん」

 かさりと布のずれる音。少しだけ夕日の光が差し込んで、誰かが入ってきたのが知れる。影は一つきりだった。ほかには誰もいなかったから、彼女の胸に飛び込めた。

「アンバー」

 震えて掠れた弱々しい声。なんだか自分じゃないようだ。
 暗闇に戻った幕屋で温もりにしがみつく。受け止めてくれたのがわかって、それでもう言葉を止められなくなった。

「モモが悪かったの? モモがちゃんとアル兄を説得できてたら良かった? アル兄とダレエンたちで勝手に全部進めてたのに?」

 自己弁護したがる自分に怖くなる。揺れずに立っていたいのに己を庇いきれなかった。
 あのときもっと、アルフレッドが願いを捨てざるを得ないような、あくどい脅しをかけていれば良かったのか。兄の追ってきた夢も、貫こうとした正義も無価値なものとして、強引に宮殿から連れ出していれば。

「こんなの誰も喜ばないって、皆を人殺しにしたいのって、何回言ってもダメだったんだよ? お願いだからやめてって、もっと皆のこと考えてって何回も言ったのに」

 訴える声が情けなくまた震える。言えるはずなかった。レイモンドたちに。アルフレッドは夢と仲間を秤にかけて己の夢を取ったなんて。
 兄はただ主君の傍らに本物の騎士を残すことだけにこだわった。ルディアが受け入れなくてもいい、誰もわかってくれなくても、それでもやる意味のあることなのだと。
 モモには止められなかった。命も名誉もなげうって「騎士になる」と言った男を。どうしても止められなかったのだ。

「モモがちゃんと……説得できてたらぁ……っ」

 嗚咽が喉をついて溢れる。アンバーは服が濡れるのも構わずにモモの涙ごと抱きしめてくれた。何も言わず、ただ優しく。
 どれくらいそうしていただろう。ひっく、ひっくと上擦っていた呼吸が少しずつ落ち着いてくる。不意に頭を撫でていた温かな指が止まり、モモはわずかに顔を上げた。
 穏やかな目と目が合う。今は水の色をした、愛情深い母の目と。

「……間違えたんじゃないかって思うのは悲しいからよ」

 アンバーは小さな子供をあやすような声で囁く。彼女の人生にもきっと多くの悲劇があったのだろうと思わせる響きをもって。

「悲しいと正しくない気がしてしまうの。嬉しくても正しいとは言えないことや、悲しくても間違いじゃないことが本当はたくさんあるはずなのに」

 不思議に深く沁みとおる言葉だった。一人で大きな決断をしたことを褒めて認めてくれるような。「モモちゃんは大丈夫」と彼女が言う。何がどうなっても最善を尽くした結果でしょうと。

「悲しみが癒えたとき、ようやく正しさの在り処がわかるの。正義なんて意味じゃなく、これで良かったんだって思えるかどうかの正しさが」

 にこりとアンバーが笑みを浮かべる。そして再びモモを胸に抱きしめた。

「私は私を助けてくれたあなたのことを信じてるわ」
「アンバー……」

 また滲んできた涙ごと目頭を押しつける。
 もう少しだけ甘えていてもいいだろうか。すぐ泣き止むから少しだけ。
 立ち止まらない。それはあの日に決めたことだ。どんなにバラバラになろうとも、まだ台無しにはなっていない。糸のすべてが解けたわけでは。
 言い聞かせる。抱えた荷を投げ出さないように。やめてしまっていいのよと優しい人に言わせないように。
 だって己はこうなるとわかっていて見送った側なのだから。



 ******



 天幕からも馬の群れからも離れると恋人は静かに湖畔に足を止めた。くるりとこちらを振り返ったルディアの表情は穏やかで、これ以上負担を増やさないはずだったのにと苦しくなる。

「小さな幕屋をもう一つ増やしてくれないか聞いてみよう」

 お前さえ嫌でなければハイランバオスたちのほうへ移ってもいいのだし、と彼女が続ける。提案は現実的なものだった。今すぐ頷きたいほどに。争い合うくらいなら互いに距離を取るべきだ。そんなことは子供だってわかる。
 だがレイモンドは素直に首を縦に振ることができなかった。己のいない間にまた幼馴染によく似た蟲が「アルフレッド」のいるべき場所を彼の巣に変えてしまうのではないかと思うと。

「……あんたはあいつを受け入れるつもりなの?」

 意図的に避けてきた問いだったが、もう聞かざるを得なかった。偶然一緒になったにせよ、彼女が騎士の混ざった輪で過ごしていたのは事実なのだ。

「引き受けてやるしかあるまい。私のために死んだようなものなのだから」

 モモよりも更にきっぱりとした声。考え方の違いをまざまざ見せつけられるようでたじろぐ。ルディアはもう疲弊したレイモンドのために黙っておくこともしなかった。ずっと考えていただろうに言わなかった、現実を直視できない己が彼女に聞けなかった、重い胸中が語られる。

「……私が核の話なんてしたからアルフレッドは死んだんだ。あいつを殺したのは私だよ、レイモンド」

 だから責任は自分が持つ。そんな響きのある言葉だった。
 レイモンドはどうにか首を横に振る。「あんたのせいじゃないだろ」と返した声は低く掠れて頼りなかった。
 責めたくない。ルディアだけは。もうその肩に重荷を背負わないでほしい。願っても彼女は荷を下ろしてはくれないけれど。

(モモや姫様があいつを認めたって俺は……)

 アルフレッドが「アルフレッド」だということ。ルディアを「ルディア」と同じだと思えても、どうしても納得できない。ただの記憶喪失なら良かった。それならきっと思い出なんてもう一度作ればいいさと前を向けた。
 つらいのは償う相手がいないことだ。あいつに詫びても意味がない。苦渋の果てに死んだのは今いるアルフレッドではないのだ。

(いくら姫様のためだって、あいつをアルなんて呼べねーよ……!)

 このときまだレイモンドは気がついていなかった。自分がどんなに的外れな考えを抱いていたか。無理をしていつも通りを演じたのは、うわべだけでも皆との不和を避けたのは、ルディアに諍いの仲裁役など務めさせないためだった。彼女に余計な気遣いをさせ、これ以上疲弊させたくなかった。だから仲間割れしないように耐えてきた。
 だがそれは完全な読み違いだったのだ。ルディアは続ける。慈悲深き君主の目でこちらを見つめて。

「……苦しかったらサルアルカまででいいんだぞ。私に付き合わなくたって」

 頭の奥で遅すぎる警鐘が鳴り響く。額から血の気が引いて、指先はたちまち凍えて固まった。
 ──知っている。この顔を。この声を。
 ルディアが遠くへ逃げだそうとする直前の。
 レイモンドは息を飲んだ。彼女が言わんとしていることを大慌てで考えた。まさかルディアは目的地にさえ着いてしまえば防衛隊は必要ないと言っているのか? ここまでずっと皆で彼女を支えてきたのに?

「正式には王国とともに消えた部隊だ。それなのに私も少し頼りすぎた」

 これは危険な温情だ。別れを見越した優しさだ。確信が余計にレイモンドを焦らせる。ルディアはもうあの騎士以外の全員を置いていく未来を見ていた。そうすることが皆のためになると本気で考えているのだ。

「……ッあんたを一人にできるわけねーだろ!?」

 咄嗟に言えたのはそれだけだった。肩を掴んで正面から見つめ返すが彼女の表情は変わらない。大切なものを守ろうとするときのあの穏やかな微笑みは。

(駄目だ……)

 レイモンドは立ち尽くした。己の短慮が引き起こした事態のあまりの深刻さに。
 駄目だったのだ。あんな口論をしてしまっては。懸念が一つ形になっただけでもうルディアは一切を諦めることを考えるのに。一度でも「ずっと一緒にはいられない」と思ってしまえばそちらを信じてしまうのに。

「俺はあんたと一緒に生きるって決めたんだ! 何があってもあんたの前から逃げたりしない!」

 必死に叫んで言い聞かせる。恋慕は冷めていないこと。側を離れる気はないこと。けれどどこまで伝わったろう? いいんだと諭すように苦笑を浮かべているルディアに。
 急速に優先順位が入れ替わる。なんでもいいから彼女の手を握っておかねばならなかった。今にも逃げていきそうな波を捕らえられねば次に来るのは己の終わりだ。

「だがレイモンド、お前だって限界だろう?」

 耐えがたいほどつらいなら、と説き伏せようとする彼女にぶんぶん首を振る。言いくるめられないように出せる限りの大声で抗った。

「そりゃ今のままじゃしんどいよ! けど俺だって皆とのことなんとかしたいと思ってんだ! だからそんな、先走って一人で考えすぎないでくれよ……!」

 勝手に全部決めないでくれというかつての助言を思い出したのかルディアがハッと瞠目する。次いで返った「そうだな……」との呟きには少なからぬ方向修正の兆しが見えた。ひとまずここで部隊に関する結論を出すのはやめにしてくれたらしい。だがレイモンドがほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、彼女はまたもや背に氷柱を差し入れるような言葉を放った。

「……私も無理強いはしたくないんだ。嫌になったらすぐ言えよ」

 まだ薄氷の上にいる。そう察するのは早かった。彼女の不信は心に根づいてしまったのだと。
 眩暈とともにレイモンドはなすべきことを理解する。幼馴染に似た何かを、それを兄と呼ぶモモを、秘密を敵に漏らしたバジルを、新しい関係を始めようとするブルーノやアイリーンやアンバーを、受け入れなくてはならないのだ。許す許さないではなく、ルディアに置いていかれないために。

「そろそろ戻ろう。日が暮れる」

 深紅に染まった湿原を一瞥し、ルディアがゆっくり歩き出す。迷いない足。悲しみの中にあっても。イーグレットの介錯をした後ですらそうだった。
 立ち止まったらきっとあっさり捨てられる。そこにいろと微笑んで。簡単に思い浮かぶからレイモンドは踏み出さなければならなかった。
 ネブラを過ぎれば草原が始まる。
 癒えもしない痛みなど、ここで手放すべきだった。















(20210210)