このサイトに置いている14話は「初稿」です。正式な「最終稿」は6月以降ノベプラ、なろうにアップします。
大幅な修正が予測されますこと、予めご了承ください。またSNSなどで関連ツイートをするのも6月以降でお願いします。








    第二章 羊の子らが集まりて

 ごめんなと小さく掠れた呟きにルディアが「え?」と振り返る。なんのことだと問いかける眼差しだけをこちらに向けて、彼女は腕に引っかけた外出用の黒ケープを椅子の背もたれに預けた。
 重厚な木の椅子だ。焼け焦げたような暗い茶色を塗り込まれ、ニスで丁寧に仕上げられた。肘掛けも座面もどっしりとして、貴人の独房に置かれた調度品を思わせる。木椅子の向かう書き物机も、そこに並んだ文房具も、連想させるものは同じだった。幼馴染が最後に過ごしたあの一室。

「ごめんな、今日、俺だけ皆のとこ行けなくて」

 もう一度レイモンドが具体的な謝罪を述べると恋人は「ああ」と合点し、気にするなと言う風に優しい顔で首を振った。

「別にいい。寝ていろと言ったのは私だろう」

 ルディアが第一商館の一等宿泊室に戻ったのはつい先程、正午の鐘から少しした後だった。午前中、砦にはバジルやモモが集まっていたはずである。現状を確認し合い、今後の方針を決めるために。
 どうしてもあの二人に会いたくなかった。レイモンドの欠席理由はそれだけだ。顔を見るのがつらかった。ドナに着いた昨日の時点でバジルのことは明確に避けてしまったし、モモにも辛辣な言葉ばかりぶつけそうになって。
 だがいつまでも閉じこもり、何もしないで眠っているわけにいかない。心は追いつかなかったが、それでもどうにか寝台を下りてレイモンドはルディアに向き直った。
 なんでもない素振りで問う。「それで、これからどうすんだ?」と。

「実はまた状況が変わってしまってな……」

 ルディアはふうと嘆息を返してきた。聞けばどうやら彼女の思惑とはずれた方向に話が進んでいるらしい。焦げ茶色の机と椅子が並ぶ横、壁に埋められた暖炉の前、眉根を寄せてルディアが続ける。
 王女曰く、ハイランバオスとラオタオが交渉の場に割り込んできたと思ったら、彼らはすべてを彼らの思うまま取り決めてしまったそうだ。まだ確定ではないもののレンムレン湖のアークが見つかった可能性もあり、二人はコナーを呼びつける手配までしてくれたそうである。

「ファンスウに別人が入っていることも知られてしまったし、退役兵のときのように少しずつこちらの脳蟲と入れ替える、というのは厳しいかもしれん」

 できれば十将の二人だけでも先に落としたかったのだが、と渋面のルディアが嘆く。とにかく今はダレエンたちも十分用心しているだろうし派手な動きは控えようとのことだった。確かにそれはそのほうが良さそうだ。焦って連中に手を出して接合の秘密を悟られては元も子もない。バジルの件で情報は漏れてしまったものの、まだ誤魔化せる範囲ではある。レイモンドは「わかった」とルディアの言に頷いた。

「どんな形で乗っ取りを決行するかはさておいて、我々が天帝のもとへ向かうのは変わらん。今は一ヶ月後の出発に向けて準備しよう。さっき薬局と工房に寄ってモモとバジルにもそう伝えてきた」

 二人の名を耳にして一瞬ぴくりと指が震えた。強張りかけた表情を誤魔化すためにレイモンドは努めて明るい声で応じる。

「よし、そんじゃ旅支度は俺に任せてくれ! ジーアンの奴らと一緒ってことは、西方風の食事や寝床は期待できないってことだもんな! 不自由しないで済むように色々見繕っておくぜ!」

 胸を叩いてルディアに告げた。上手く笑えているかどうかもわからないまま。
 せめて彼女の前でだけは元気なふりをしなくてはならなかった。すぐに無理をする恋人に余計な気遣いをさせたくない。彼女とて傷ついているに違いないのに己の心痛の面倒まで見させるわけにいかなかった。
 だがそんな胸中は見透かされていたのだろう。「お前は砦の集まりに来なくていいぞ」と先手を打たれる。商館のほうで荷作りを進めてくれ、共有するべき情報はその時々に伝えると。

「え……」

 でも、と断ろうとした言葉は微笑によって遮られた。

「モモも薬局に居させるし、バジルにもガラス工房に居てもらう。……どうせ動けないのなら一ヶ月しっかり休養したほうがいいのではと思ってな。砦にはアルフレッドがいるし、皆まだ近づきたくないだろう?」

 特にお前たち三人は、と言われた気がした。ルディアは口にはしなかったが受け入れられていないだろうと。

「…………」

 なんと答えればいいのかわからずレイモンドは立ち尽くす。「でもそれじゃ、あんたに負担が」と凍える喉を震わせると「私だって必要なければ会いになど行かないよ」とたしなめる響きの返事があった。

「……少し気持ちを落ち着ける時間を作ろう。このままでは全員駄目になってしまう」

 言ってルディアはこちらに腕を伸ばしてくる。優しい眼差しで見つめられ、いたわり深く抱きしめられ、レイモンドは息を飲んだ。
 肩口にそっと額が押しつけられる。背に回された指に力がこめられる。彼女のほうからこんな風にしてくるなんて今まで一度もなかったことだ。

「レイモンド」

 酷く寒い場所にいるようにルディアの吐き出す息が震えた。
 聞き逃してはならない言葉が告げられる。予感は間もなく現実となった。

「お前は絶対、あんな馬鹿な真似はするなよ……」

 うんと頷くこと以外、己に何ができただろう。
 アルフレッドは間違えた。
 彼は生きねばならなかった。
 こんなにルディアを弱らせて、持てるすべてを灰にして、それでも「騎士」になるなんて。──そんなこと、彼はするべきでなかったのだ。



 ******



 サソリが主館の最上階、狐の寝所にやって来たのはブルーノがファンスウの器に入って一週間ほど過ぎた朝だった。
 狐の寝所とは言ってもラオタオもハイランバオスも不在である。彼らは長旅に耐える良馬を求めて小旅行に出かけていた。ディランに移されたアンバーもアクアレイア人の肉体を得たのを幸いとモモの手伝いに行っている。
 だから今、ここには古龍のいでたちの己と姉アイリーンしか残っていない。昼前になら個別の情報収集にルディアが顔を出しにくるが、まだ数時間も後の話だ。それにこちらの行動パターンくらい、十将であるウァーリには伝わっていると思うのだが。

「え、ええと、なんのご用件でしょう……?」

 しわがれた声でびくびくしながら問いかける。するとサソリは「あなたヒマでしょ? やってほしいことがあるのよね」とブルーノの腕を掴んできた。
 まさかこれから絞め殺されるのではなかろうなと汗が噴き出す。己目当てに将軍が足を運んでくるなんて、それしか思いつかなかった。

「や、やってほしいこと?」

 引きずられまいと踏ん張ったが抵抗は徒労に終わる。細い手首を捕えた腕は彼女の肉体的性別を思い出させるには十分な力でブルーノを制圧した。

「ええ。その姿(ファンスウ)ならあたしたちの幕屋に長居しても不自然じゃないでしょう? というわけだから観念してさっさといらっしゃい」

 ろくな説明もないままにウァーリが大股で歩き出す。老人の腕力と体力では拒みきれず、ブルーノはおろおろ後をついてくるアイリーンとともに中庭へと連れ出された。

「ほーらアルフレッド君、先生を連れてきたわよー」
「せん、せい?」
「あなたにものを教えてくれる人のこと。しっかり聞いて、よく学んで、早く一人前になってね」
「しっかり、きく、よく、まなぶ」

 幕屋内には先日と同じくダレエン、アニーク、アルフレッドの姿があった。玄関布の内側にブルーノを引っ張り込むとウァーリはそのまま絨毯に座す赤髪の騎士の傍らへ向かう。

「どうせ砦でやることなんてないでしょ? だったらさ、この子にアレイア語を教えてあげてほしいのよね」

 要望は「なんだそんなことか」と拍子抜けするものだった。聞けば彼も少しずつ話せるようにはなってきたが、ジーアン語ばかり覚えるので後から生活に困るのではと思ったそうだ。敵なのか味方なのかわからない心配りに「はあ」とブルーノは曖昧に返す。
 おそらくは監視も兼ねているのだろう。中庭には蟲兵だけでなく古龍配下の一般兵も紛れている。ブルーノが彼らに指令を出そうと思えばたやすい。将軍たちは預言者(じゃまもの)のいない隙に封じられるものは封じておくつもりなのだ。
 ルディアに聞かずに応じていいかは悩んだが、どうせ逃がしてもらえまいという気がした。大人しく了承の旨を告げ、ブルーノは「ごめん、姫様に伝えてくれる?」と入口から様子を窺うアイリーンに言づける。
 不安げな姉に大丈夫と囁く代わりに無言でじっと視線を送った。重要人物が捕虜にされている現状、ウァーリたちとて無茶はするまい。ブルーノは片手を払い、幕屋の外に彼女を追い出す。そうしてサソリを振り返った。

「決まりね。じゃあよろしく!」

 ウァーリが笑顔で手を叩く。長椅子に腰を下ろした彼女の横には鋭い目つきの女帝と狼。露わな不信に「呼びつけておいて酷いな」と胸中で嘆息する。
 ともあれ今のアルフレッドにアレイア語が必要なのは確かだった。日々の糧を得るためにも不要な危機を避けるためにも彼は学び直さねばならない。
 幼馴染と──かつてそうであった男と──同じ敷物の上に座り、ブルーノは改めて「騎士」に向かい合う。
 赤い髪。赤い瞳。立襟装束を着ている以外、見た目は以前と少しも変わらぬアルフレッドだ。まっすぐに人を見る眼差しも。出会ったときから彼はずっとそうだった。教室の隅で一人うつむくだけだった己に手を差し伸べてくれた。

「せん、せい?」

 拙いジーアン語での問いに、これは一体誰なのだろうと胸が痛む。はたしてこのアルフレッドはどれくらい「アルフレッド」に近いのかと。

「僕はブルーノ・ブルータスだよ。ブルーノでいい」

 伝わるように、まずジーアン語で自己紹介した。聞き慣れない音だったのかアルフレッドはもごもごとまごつきながら繰り返す。

「ブルー……ノ?」

 疑問形。その響きに、己でも己が誰かわからないまま不安に過ごした少年期が甦った。何度も何度も扉の裏で父の嘆きをこっそり聞いた。「あれはブルーノなんかじゃない」と荒れる声を。
 母がどんなに「溺れたショックが大きいだけよ」と諭しても父は自分を受け入れなかった。「あの子はあんなびくびくした子じゃなかった」と。
 おそらく「ブルーノ」は高波に飲まれたとき、一心に死を恐れたのだろう。それが己の核となり、別人のごとく変わり果てた。生前の性格を多分に残す蟲もいるが、そうでない蟲もきっとよくいる。

「ブレー、ノ?」

 生まれて間もない彼にとってそれはやや難しい発音らしい。ブルーノとすら言えないのならレイモンドやバジルだってまだ言えないに違いない。想像して悲しくなる。
 アルフレッドは皆に拒まれるかもしれない。「アルフレッド」が彼らにとって大切でありすぎたために。
 否定できない可能性に身体が震えてしまうのは己も同じ蟲だからだ。せめて自分はこの新しい生命の側を離れないでいよう。心秘かにそう決める。

「ブレーノじゃなくて、ブルーノだよ」

 優しく訂正すれば今度は「ブルーノ?」と正しい発音が返された。
 けれどもやはり、彼が本当に「アルフレッド」かはブルーノにはどうしてもわからなかった。



 ******



 意外にのんびり時間は流れていくのだな。そう窓際でひとりごちる。ドナに来て二週間。当初はどうなることかと思った新店舗立ち上げも終わり、売上は現在順調に伸びている。主な取引先が例の砦であるというのがいかにも「女帝の保護を受けている」という感じで先行きは依然不明だったが。
 吊るし干しにしたセージの束を腕に抱え、モモは階段に向かった。そろそろ正午の鐘が鳴る。ルディアが定期連絡に来る頃合いだ。
 主君にばかり駆け回らせて何をしているのかと思う。しかし彼女が「休め」と命じたことそのものは正解だったという気がした。
 皆といるとどうしてもアルフレッドを思い出す。そこに兄だけ足りないのを誰の頭も意識してしまう。せめて平静を装えるようになるまでは顔を合わせずいたほうがいいのだ。いたずらに傷を抉り合うくらいなら。

(モモたちバラバラになっちゃったな……)

 物理的な距離があった頃よりも心理的な距離を感じる。嫌になったわけではない。それでも今は歯車を?み合わせられる気がしなかった。
 暗い階段を一歩一歩下りていく。どこが足をぶつけやすいとか、どの程度の荷物なら廊下で引っかからないかとか、感覚は新居に馴染みつつあった。ただふともう帰れないことを考えてしまうだけだ。感傷なんて柄でもないと、そう思っていたのに。

「あ、モモさん。ハーブを取ってきてくれたんですね」

 と、暗がりになった通路の奥で涼やかな声が響く。それからひょこり、少女のごとき美しい顔の青年が現れた。
 律義にディランを演じなくてもいいはずなのにアンバーは「いつ何があるかわかりませんし」と今日も軍医のふりをしている。この薬局の雑用も薬の知識をつけたくて手を貸してくれているそうだ。わざわざずっと泊まり込んで己の側にいてくれる意味がそれだけでないのは明白だけれども。

「貸してください。残りは私がやっておきます。じきに来客の時間でしょう?」

 にこりと優しく微笑む彼女にあの詩人特有の胡散臭さはない。「ありがとう」とたくさんの意味と感謝をこめて告げる。
 アンバーとも兄の話はしていなかった。性別的な問題で夜は別の部屋で休むし、日中は母や次兄の目があって込み入った話をする余地がないからだ。
 それでも彼女がここにいてくれて良かったと思う。こんな状態に置かれても寄り添ってくれる誰かがいて。一人でも己はきっと立てるけれど、二人のほうがもう少ししっかり立っていられる。

(五人だったはずなのにな)

 ちくりと胸を刺した痛みにモモは腕の中のハーブを握りしめた。
 ルディアに聞いた話によると、ブルーノがジーアンの幕屋に取られたため、暇のできたアイリーンは足繁くガラス工房に通っているらしい。研究に夢中になって弟の水死を見過ごした過去を持つ彼女は今の弓兵に放っておけないものを感じているそうだ。モリスへの恩義もあるだろう。ともあれ彼女がバジルを気にかけてくれるのは助かった。自分やレイモンドではきっと怯えさせるだけだから。

「? モモさん? どうかしましたか?」
「なんでもない! モモ裏口のほう行ってるね!」

 束ねたセージを年上の友人に託してモモは駆ける。暗い気持ちを無理やりに振り払って。皿の数が合っていない食卓の脇を通り過ぎる。しんとした台所を抜け、勝手口の小さな扉を内に開く。
 見上げた空は冬の灰色。燃え立つ秋は終わったのだ。

(どうしたらいいのかな)

 答えの出ない問いかけをずっと一人で続けている。
 今更ながら痛感した。自分たちを繋いでいたのが誰だったのか。
 アルフレッドがいなければ皆出会っていなかった。親同士付き合いのあったバジルとブルーノはともかく、あの五人で王女の直属部隊に立候補するような未来はきっと訪れなかった。
 今なんとか皆を一つにまとめているのはルディアである。レイモンドと旅の準備を進めながら、彼女は薬局と工房と砦を回って連絡だけは欠かさぬように、不用意に心を乱さぬように、注意深く接してくれている。
 だがいつまでもその温情に甘えているわけにいかない。この傷が癒えるまでなど状況が待ってくれない。既に半月が過ぎ去った。もう半月もすればコナーがここへ来て、そしてまた次の戦いが始まるのだ。
 大丈夫なのだろうか。こんなままで、本当に。
 陰鬱は膨らむばかりだった。それなのに、モモはこれから訪ねてくる主君に何も進言できそうになかった。



 ******



 本当に来てしまったか、というのが最初の感想だった。コナーのもとへ鷹が飛び立って一ヶ月。新年の祝い日までに師が訪れなかったらそのまま出発する気でいたのに。
 はたして彼を天帝に会わせなどしていいものだろうか。こうして師がドナに赴いてしまった以上、その判断を信用するしかないけれど。

「やあ、ごきげんうるわしゅう!」

 下船した旅装の画家は桟橋にルディアの姿を見つけると気さくに手を振ってきた。航海禁止の冬となり、ドナへの入港も制限されているはずなのにコネでなんとかしたらしい。名残惜しげな船長に軽い会釈だけ返してコナーは悠々と歩きだす。人影まばらな石造りの商港をルディアも彼について歩いた。

「先生、鷹はどうなさったのですか? 三羽とも見当たりませんが」

 怪訝に眉をひそめて問えば師は事も無げに「マルゴーに置いてきました」と答える。隠れ里の場所が漏れていたのだから当然だろうという口ぶりだ。

「置いてきたって、先生の鷹ではないでしょう!」
「まあまあ、そう怖い顔をなさらずに。どうやらジーアンの将軍たちに酷い目に遭わされていたようですし、私が保護したほうがいいと考えたまでですよ」

 表情が素直に出すぎていたらしく、じゃじゃ馬の相手でもするようになだめられる。確かに重要機密を知る脳蟲が十将に囚われたままよりいいが、どうも最近誰にも彼にも好き放題されている錯覚がして溜め息が出た。

「そんなことよりまた随分と面白そうな展開になっているではありませんか。サルアルカに向けて発つまで私はどこに宿を取れば? 仕事は全部放り出してきましたから、どんな部屋でも結構ですよ!」

 うきうきと満面の笑みを湛えた画家は興奮を抑えきれない様子である。このままスキップでも始めそうな勢いだ。あまりにもハイランバオスの予言通りで頭を抱えたくなってくる。

「面白そうな展開? それではあなたもレンムレン湖のアークが見つかったとお考えなのですか?」

 問いかけに師は「ええ、もちろん」と頷いた。

「可能性は極めて高いと言えるでしょう。ジーアン側のアークが残っているとしたらテイアンスアン近辺だと私も思っておりましたし」

 実物を見るのが楽しみです、と浮かれる師にまた溜め息をつく。凍える風に晒された広い港を見回してルディアは声を低くした。

「……アークなど見せてハイランバオスが妙な方向に暴走しはしませんか?」

 言外に帝国側に彼の心が傾きすぎるのではと告げる。コナーが「大丈夫ですよ」と問題視しない態度を見せても不安は少しも薄らがなかった。

「芸術家は何を考えているのかわからなさすぎるのです!」

 唇を尖らせるルディアに師は「手厳しいな」と肩をすくめる。そうして彼はもう一度大丈夫だと見なした理由を説明した。

「レンムレン湖のアークなら運用期間をとうに過ぎておりますゆえ」

 それはあの詩人からも聞いた。アークは機能停止しており、新たに蟲を生むこともないのだと。ならどうして師は彼の誘いに応じてサルアルカへ旅する気になったのだろう。古いアークがまだ使えるものだから興味があるのではないのか。

「ですが蟲がアークを守ろうとする本能には変わりないでしょう?」

 次の問いには静かに首を横に振られた。「我々が我々のアークに縛られるのと同じようにはいきません。レンムレン湖のアークにはもう蟲たちを惹きつける力はほとんどなく、本体に記録を残すのみのはずです」と懸念はやんわり否定される。

「動作再開の方法もありませんしね。ハイランバオスが故郷恋しさで掌を返す心配はありませんよ。彼は私(アーク)と接合したことで巣への未練も失ってしまったし、そもそもつくような里心が残っていたら天帝を裏切っていないでしょう」

 確信しきった物言いにルディアは眉根を寄せて唸る。今一つ不安が拭えないのはあの預言者の人徳のなさゆえかもなと思い直した。協力的な姿勢でいても胡散臭く、口が裂けても仲間だなどとは言えない男なのだから。

「まあ彼を信じきれないお気持ちはわかります。あの詩人は真に美しい一瞬と出会うことしか頭にないという感じですしね」

 仕方ない子供だとでも言うようにコナーは穏やかに苦笑する。我が君を絶望させたいのです──そう微笑んだエセ預言者を思い出し、ルディアはいささかげんなりした。やはり芸術家という生き物はわからない。

「まあ彼は、最後に天帝本体を手に入れて、それを眺めて詩でも書ければ満足なのではないですか?」

 ハイランバオスの記憶を有する師の評にそれはそうかもと頷いた。あの男が求めるものは半身の苦しみだけなのだ。
 だが油断は禁物だ。身を守る術の限られた敵地へ切り込みに行くのである。不測の事態に備えて第一グループの退役兵くらいは同行させなければ。
 話し込むうちに足は街路へ出る門に差しかかっていた。曇天の見下ろす中、ルディアたちはひとまず砦の将軍らに画家の到着を知らせるべく歩きだした。



 ******



 港の鐘の音を聞いて待ち人がドナに来たのを知る。ああ、いよいよ出発か。皆がまたひとところに集まるのか。どきん、どきん。心臓が嫌な跳ね方をした。

「保存食の積み込みは終わった? シロップ漬けは瓶が割れないようにね! 飲用水と酒類のチェックもお願い! 手の空いた人は厩舎に回って!」

 てきぱきと皆に指示を出すケイトを見やり、バジルは震える指を握り込む。小間使いたちは連日荷作りに追われていた。百名超の兵士を連れて将軍と女帝が遥か東方へ旅立つのだ。準備しなければならないものは山ほどある。
 ルディアには休めと言われていたが工房でじっとしていられず、結局バジルも毎日砦に顔を出していた。とは言えケイトたち下働きの女以外に会うことはなかったが。
 アイリーンが案じてくれているのは知っていた。けれど何をどう慰められても後悔は増すばかりだ。皆のためにせめて何かと思うのに、迫る出立が怖くてどうしようもない。
 ジーアン人の移動には馬が使われる。だが満足な乗馬技術を持たない客人は一つの車に乗せられると聞いている。防衛隊が防衛隊という単位で動くことになるのは目に見えていた。
 気が重い。しかし行かない選択肢はない。そもそも己に何か選ぶ権限がもう許されていないと思えた。──奪ってしまったのだから。アルフレッドの未来の可能性全部。
「バジルのせいじゃないよ」というモモの言葉は胸に馴染まないままだった。理屈として理解できる部分はあっても受け入れたら別の何かが崩れる気がして。
 どうしたら償えるのだろう。そればかり頭を巡る。
 あんなことをしでかしてなお己が部隊を除籍されないでいるのは事情に通じすぎているからだ。目の届かない場所へ放逐してジーアンに秘密を知られればそれこそ目も当てられないから。加えて防衛隊自体正式な組織ではなくなって久しく、正式な処分というのもできないのである。
 つまり事実上お咎めなし。受けるべき罰を受けられないこともまたバジルを苦しめた。誰が一番悪かったのかは歴然としているのに。
 どうしたらいいのだろう。どうしたら皆に許しを乞えるのだろう。一体己はどうしたら。

「ラオタオ様も戻られたし、いつでも送り出せるように急ぎましょう!」

 厨房棟に小間使いたちの騒がしい足音が行き交う。あちらを手伝え、こちらを手伝えと言われるまま、行く先を失った小舟のように波に揺られ、バジルは翌日までを過ごした。



 ******



 天は高く、高く、高く、薄く延ばした水の色。昨日まで星の光を遮っていた雲は晴れ、新たな旅の始まりに相応しい好天である。
 ハイランバオスは大満足でドナ郊外の平野に並ぶ馬と車に目をやった。軍の移動は大所帯になりがちだが、今回も見渡す景色はなかなかに壮観だ。
 馬は二百頭、荷車は大小合わせて五十台、それと貴人を運ぶ用の解体しない幕屋が三つ。一つには女帝と将軍たちが、一つには防衛隊が、最後の一つにはハイランバオスとラオタオとコナーが乗ることになっている。
 何台もの車に渡した板の上、羊毛(フェルト)の家は停泊中の船のごとく鎮座する。幕屋を守る兵士らは既に騎乗済みだった。勇姿を示す五十名は古龍配下の一般兵、その隣の五十名も同じく古龍の従えていた蟲兵である。彼らの内部には古王国にてハイランバオスが使役してきた蟲を紛れさせていた。ほかにはルディアの手懐けた脳蟲患者ら──退役兵の姿をした二十名──が一団の道連れとなっている。
 患者たちは正体を秘し、あくまで改心したジーアンの蟲として「我々を旅に同行させてほしい」と十将に頼み込んでいた。退役兵の方針転換にウァーリもダレエンも不審を感じはしたようだが、結局連れて行くことにしたあたり身内に甘い体質は永遠に治らぬらしい。
 吹き出しそうになるほどすべてが簡単だ。一度離れていった者は戻ってきてもまた離れると彼らは考えないのだろうか? これなら己が帝国に戻りたいと縋っても頷いてもらえそうである。
 堪えきれずにふふっと笑う。すると隣で馬を撫でていたラオタオが「何々? 楽しそうじゃん?」とこちらに顔を寄せてきた。
 それはそうだ。楽しいに決まっている。これからこの世で最も輝かしい人に最高の贈り物を届けにいくところなのだから。
 ああ、あの方はどんな顔をなさるだろう! 想像だけで胸がはちきれそうになる。
 アーク管理者、帝国を脅かす王女、味方のふりをした脳蟲。今ならなんでも揃っている。あの方に何を差し出せば一番喜んでもらえるだろう?
 くすくすと笑みは尽きることなく溢れた。
 本当に楽しみだ。もう一度あの方の手を取るときが。
 身内への甘さはすべて尊い愛の表れでもある。寂しい思いをさせてしまったあの方の、側へと早く戻りたかった。



 ******



 見てそうとわかる演技ほど痛々しいものはない。うじゃうじゃと人馬の集う原っぱで「おーい!」と手を振る槍兵を見やり、アンバーは思わず眉間にしわを寄せた。

「よっ! 二人とも久しぶり!」

 にこりと笑いかけられて、その不自然さに息を詰める。薬局から連れ立ってきたモモもにわかに表情を険しくした。
 明るい声は普段のレイモンドと変わりない。変わりないから状況にそぐわず、ちぐはぐさが却って浮き彫りになっていた。明らかな痩せ我慢。レイモンドは憤りを残したままほとんど無理やりいつもの彼を演じている。
 視線を移せば槍兵の傍らで顔をしかめる青髪の王女と目が合った。バジルやモモのためではない。レイモンドが彼女の負担にならぬように全体の和を優先したのはひと目で知れた。

「アイリーンとバジルはもう中にいるぜ。俺らはあの幕屋使えってさ」

 槍兵の示す先には厚いフェルト生地の家。通常解体して運ぶものだが今回は客を囲っておくためにそのまま移動させるらしい。複数台の車と馬に繋がれたその姿はさながら陸を行く船である。居住性の低い船に比べればこちらのほうが格段に過ごしやすかろうが。
 幕屋付近にはさり気なくマルコムやオーベドたちも待機していた。退役兵は第二グループだけを残して全員同行できたようだ。味方の顔ぶれを確認すると緊張は多少やわらいだ。

「じきに出発するらしい。我々も中で待っていよう」

 ルディアの指示でアンバーもモモもレイモンドも荷台に上がり、順に幕屋の玄関布を捲っていく。
 外から見た印象通り内装は至って一般的なものだった。敷きつめられた厚い絨毯。夜は寝床に変わる長椅子。中央の竈も(ストーブ)綺麗に清掃されていて、煮炊きに困りはしなさそうだ。卓袱台(ちゃぶだい)や長櫃(ながびつ)、細かな生活道具の類もひと通りは揃っている。これならジーアン兵たちと同水準の生活が送れるだろう。遊牧民の一家のように打ち解け合えるかは別として。

「あっ、姫様。モモちゃんたちも」

 と、人が増えたのに気づいてアイリーンが衝立から顔を出す。狐の寝所から持ち込んだものだろう。目隠しの役を果たすそれは八人家族が暮らせる幕屋をざっくりと四つの空間に分けていた。
 バジルのほうは姿が見えない。やはり出てきづらいのかなと薄暗がりに目を凝らす。すると半分衝立に隠れ、緑の頭がうつむいているのが見えた。

「飯が食えるかと寝床が足りるかの確認はしとかなきゃなー」

 弓兵の存在に気がついていないようにレイモンドが声を張る。内部の設備を検めるべく歩き出した槍兵と弓兵の目は合わなかった。まるで舞台ですれ違う演者と黒子だ。
 モモはモモで少年に一瞥を向けた後、「具合悪いなら寝てなよ」と言っただけだった。突き放す口ぶりではない。しかしまだ当たり前に一緒にいられる空気でもない。「はい……」とか細く呟いてバジルが奥に引っ込むと少女は短い息をついた。

「モモたちも寝るとこ決めよっか。今日からは隣で寝てもいいよね?」

 アンバーは「ええ」と頷く。ディラン・ストーンの仮面を外して。
 限られた人数とは言えドナの街にはアクアレイア人の出入りがあった。何か問題が起きたときハートフィールド家を守るためにはいつ何時でもあの軍医になりきれねばならなかった。
 今日からはただのアンバー・ヴァレンタインとしてモモの側についていたい。自分に何ができるかはわからないが、今の彼女にはきっと支えが必要だ。

「ジーアン式の暮らし方、教えてあげる。経験するのは私も初めてだけどね。甘いものも少しはあるのよ。楽しみにしていてちょうだい」

 狐の記憶を覗いて得た食の知識を披露すればモモは「うん」と笑顔を見せた。東側の壁際の日焼けした長椅子に彼女を促し、アンバーも歩きだす。
 ちらりと肩越しに振り返ったルディアはまだ難しい顔をしていた。そのうち彼女も槍兵に呼ばれ、西側の衝立の奥に消えていった。



 ******



 緩やかに車が進み出したのを揺れる幕屋の中で感じる。移動生活に慣れた馬はアニークたちにガタゴトと振動を与えつつ、一歩ずつ着実に前へ前へと踏み出していった。
 膝の上から落っこちた本とクッションを拾い上げ、長椅子に深く座り直す。見回したのはドナに来てからほぼずっと変わらぬ光景。己の隣で長い足を組むウァーリ。彼女の足元で胡坐を掻いているダレエン。爪を眺めたり欠伸をしたり、二人ともこの程度の揺れはものともしていない様子である。
 狼男のすぐ横には彼を真似て敷物に腰かけるアルフレッド。更にその隣には縮こまって正座しているブルーノの姿があった。こちらの二人は簡易な造りの幕屋が崩れはしないかと心配そうな面持ちだ。

「あの、だ、大丈夫なんですか? 座っていても転びそうなんですが」

 おそるおそるといった感じで老人の声が問う。それに応じるダレエンのほうは落ち着き払ったものだった。

「揺れるときはもっと揺れる。まだ道も悪いしな。よろけたくないならお前もその辺の長椅子を使え」
「は、はい」

 きょろきょろと幕屋内を見渡して彼は壁際に置かれた別の長椅子へと這っていく。「先生」から言葉を習えと命じられているアルフレッドものそのそと後に続いた。

「え、ええと、お借りしますね」

 居場所に定めた長椅子の座面に縋りつきながらブルーノが声を張ってくる。ダレエンが「勝手にしろ。幕屋のものは好きに使え」と答えると彼はようやくほっとしたように痩せぎすの胸を撫で下ろした。
 叱られてばかりいたせいか、びくびくした古龍を見るとアニークはなんだか複雑な気分になる。ブルーノはルディアの仲間だというので始めこそ敵視していたけれど、こんなに弱々しそうだと冷たくするのも気の毒だった。
 それに彼はとても親身にアルフレッドの言語習得を手助けしてくれている。未だに騎士はジーアン語とアレイア語の区別をつけられていないものの、根気強く相手をするブルーノのおかげで以前より上手く喋れるようになっていた。これならここから三ヶ月かけてサルアルカに着く頃には意思疎通の問題はほぼなくなっているだろう。自分で考え、自分で動けるようになればアルフレッドも一人前だ。そうしたら──。

(そうしたら、彼をルディアのもとへ帰さなきゃいけないのかしら)

 ぴたり止まってしまった思考にアニークは目を伏せる。
 彼はこちらの人質だ。彼が主君と居たがっても希望を叶えてやれるかどうかわからない。それに己が恐れているものは、そんな事情とはきっと関係ないのだろう。
 本を開いて読書するふりをしながらアニークは長椅子の脇、レーギア宮から持ち込んだ剣と鎧に目をやった。
 鈍く光る胸甲や腕甲は「アルフレッド」の遺品である。剣のほうも、いずれ返すと約束した鷹の紋章のバスタードソードだった。
 まだ物をよくわかっていない騎士に渡すわけにいかないから自分が預かっているのだが、再び彼がこれらを纏って立つ日を思うと憂鬱だ。
 どうしたってもう手に入らない男である。わかっているのにアニークの「核」は恋心を冷ますことすら許してくれない。
 胸にはずっと穴が開いたようだった。その穴に凍える風が吹き込んでくる。ともすれば身体ごと凍てつかせそうに冷たい風が。
 視線を落とせば本の中ではまだ若いユスティティアとグローリアが楽しげに笑い合っている。取り戻せない歳月が流れた後「いつか我が剣にあなたの名を賜りたかった」と悲しい想いを告げることになる騎士を見て、自分を重ねずにいられなかった。

(側にいられれば良かったのよ。特別なことなんて何もなくても……)

 グローリアは首を振る。「それはもうサー・テネルにやったのよ」と。
 命までルディアに捧げた赤髪の騎士はアニークに何も遺さなかった。
 その事実がただ虚しい。












(20210120)