このサイトに置いている14話は「初稿」です。正式な「最終稿」は6月以降ノベプラ、なろうにアップします。
大幅な修正が予測されますこと、予めご了承ください。またSNSなどで関連ツイートをするのも6月以降でお願いします。







    第一章 天上の星のもとへ

 アルフレッドの処刑執行から一日。ルディアたちは再びレイモンドの帆船でドナに引き返していた。息を吹き返した彼をあのまま宮殿に置いておくことはできなかったし、まだ生きていると悟られぬように匿うにはアクアレイアからなるべく離れる必要があったからだ。もっとも今のアルフレッドに対し、「まだ生きている」などと言えたものかは不明だったが。
 入港したのは日没間近。何よりもまず同乗していたハートフィールド一家を降ろした。いかに帆船が大きく多数の船室を持つとは言え、彼らの目に騎士の姿を触れさせるわけにいかない。女帝から「広場の空き家で薬局を営んでいい」との許しを得たアンブローズ・ハートフィールドは、ぺこぺこと何度も何度も頭を下げると母を伴って夕暮れの街に消えていった。
 親子に続いて下船したのはダレエン、ウァーリ、アニークだ。レーギア宮に残っていた少数の蟲兵と、顔面まで覆う兜を被せられた騎士を連れ、将軍たちはひとまず丘の砦に向かった。
 あそこなら人間一人隠すくらいわけはない。先にドナ入りして留まっていたファンスウ一行──中身は一部入れ替え済みだ──と合流し、アニークたちは酒瓶転がる中庭に腰を落ち着けた。
 ルディアたち防衛隊も「古龍に預けたアイリーンに会わせてもらう」という名目で同じ砦の狐の寝所に赴いた。皆に伝えたのは騎士の訃報。幕を下ろした悲劇の顛末。
 本当はこの先のことを話し合うべきだったのだろう。だが誰もとてもそんな精神状態ではなくて、「一晩それぞれ喪に服せ」と部隊の一時解散を告げるのがルディアにできる精いっぱいだった。
 奇しくも砦に引きずり込むことに成功した十将の本体をどう奪うかなど己が一人で考えればいい。ほんの短い時間でも皆を休ませてやりたかった。休めばどうにかなる問題ではないこともよくよくわかっていたけれど。


 そうして一夜が明けた今日、十一月二十五日。砦に戻ったルディアの前にはバジルとモモ、アイリーンの姿があった。
 ウェイシャン役のブルーノとラオタオ役のアンバーは面倒が起きないように本物の狐と聖預言者と寝所に籠ってもらっている。ルディアたちはその手前、鏡の迷宮が撤去されて広々とした一室に集まっていた。
 一瞥した皆の顔色は優れない。モモは普段と変わりなく見えるけれど、そう振る舞っているだけだろう。小さくなったバジルは所在なさそうにうつむき、斧兵と目が合うのを恐れているかのようだった。

「ね、ねえ、レイモンド君は?」

 普段以上に青ざめたアイリーンがおろおろ周囲を見回しながら尋ねてくる。ドナまで一緒に来たはずの槍兵の姿がないので心配になったらしい。
 昨夜ルディアがレイモンドと同じ商館に引っ込んだのは全員知っていることだ。首を振り、彼はこの集まりには来ないのだとやんわり伝えた。

「まだ休ませたほうが良さそうだったのでな」

 それだけ答えると余計な話は交えずに今聞くべきことだけを聞く。

「バジル、アイリーン。砦の様子はどうだった?」

 問いかけにしどろもどろに二人が応じた。

「あ、は、はい、大体いつも通りかと」
「い、一応、特に大変な問題は起きていないわ」

 厨房棟に出入りする弓兵によれば、ファンスウ一行が先に滞在していたからか女帝や将軍が増えたことによる下男下女らの混乱はさほどでもないそうだ。アニークたちが幕屋内から出てこないので重罪人の存在にもまったく気づいていないらしい。ドナの女に至っては粗暴な退役兵よりもよほど相手がしやすいと行幸(みゆき)を喜ぶ者も多いとのことである。逆に縄張りを占拠された退役兵ら──これは第二グループの脳蟲と接合させた、己がアクアレイアの蟲と自覚のない蟲たちだ──は女帝に一時退去を命じられ、ぐちぐちと不平不満を零していたようだったが。
 アニークに他意はない。手狭になった中庭から余計な者を追い払いたかっただけだろう。アルフレッドが砦内で商いをするアクアレイア人に見つかったら彼に不利な噂が立ってしまうから。
 マルコムたち第一グループの脳蟲も現在まとめて砦から締め出され、市街の広場に幕屋を並べ直していた。女帝の命令は天帝の勅令も同然。ドナの主人と定められた退役兵でも従わざるを得ないのである。
 つまり今この砦にはジーアン側の勢力としてダレエン、ウァーリ、アニークと未接合の蟲兵及びファンスウ配下の一般兵が、アクアレイア側の勢力としてハイランバオス、ラオタオ、アンバー、ブルーノ、アイリーン、バジル、モモ、ルディアが存在しているということだ。
 退役兵を追い出されたのは正直手痛い。砦内で何か仕掛けたいとき数で劣るのは不安がある。とは言え今はまともな連携など取れないだろうし、動きたくとも動かぬほうが賢明なのかもしれなかった。

「そっちはどうだった?」

 と、今度は中央広場に新店舗を賜ったモモに聞く。

「使えそうな家があったし、ママとアン兄は落ち着けそうかな。広場のほうも今のところは静かだった。幕屋の主張が激しいけど、退役兵たちはお行儀良くしてるみたい」

「まあマルコムたちが一緒だし酔って暴れる心配はないでしょ」と続いた台詞に頷いた。ということは当面の問題はやはり延命措置の概要について十将たちをどう誤魔化すかという一点になりそうだ。
 昨日はファンスウに化けた狐が彼らを出迎え、アクアレイアでの悶着の報告を受けがてら「詳しい話はまた明日、アニークが泣き止んでからにしよう」とあしらってくれた。だが今日はもうそうは行くまい。どうにかして早急に連中の首を絞める策をひねり出さねば。

「────」

 不意に襲ってきた罪悪感にルディアは小さく目を伏せた。
 ジーアン帝国を乗っ取るという戦略を変えるつもりは毛頭ない。けれど今、アルフレッドの最後の頼みを無視するのかという迷いが生じつつあるのも確かだった。敵対しない形での接合と入れ替わりなど不可能だ。それなのに思考は勝手に彼の願いを叶える術を探り出そうと試みる。

(罪滅ぼしのつもりなのか? だとしても接合を施した後、女帝や十将を解放するなど有り得ない。我々は帝国からアクアレイアを守らねばならんのに)

 かぶりを振って雑念を散らし、ルディアは再度三人に向き直った。

「私はこれからアルフレッドの見舞いに行く」

 ダレエンとウァーリの隙を見つけるには直に接触するほかない。こちらにはファンスウの本体と器もある。もし狼が牙を剥いても最悪の事態は回避できるだろう。
「お前たちはどうする?」と聞きかけてルディアは声を飲み込んだ。騎士の名なんて口にしたから弓兵は青ざめきって硬直し、斧兵は色のない頬を張りつめさせている。アイリーンもあわあわと年少組を案じていた。それで彼らに問うのはやめ、別の指示を告げ直す。

「……お前たちは家族と会うなりなんなりして好きに過ごせ。あちらの兵士に尋問されそうになったら私を通せと突っぱねろ」

 端的に命じるとルディアは一人中庭へと歩き出した。
 後をついてくる足音は聞こえなかった。



 ******



 好きに過ごせと言われてもどうすればいいかわからない。どう考えても今は遊んでいるときではないし、手も足も使えるものは全部使って己のしでかした過ちの埋め合わせをしなければならないのに。
 与えられなかった次の指令に「失望されたのだろうか」と疑心が湧く。だがそれも当然だ。こんな結果を招く可能性を考慮できなかった自分が悪い。己に都合良くすべてが回ってくれることに賭けてしまった愚かな自分が。

「あの……」

 せめて謝らなくてはとバジルは声を絞り出す。がらんと空いて冷えた空間。どうしても顔を上げられない己をくるりと振り返り、小柄な少女がきっぱりと告げた。

「昨日も言ったけどさ、モモ別にバジルのせいだと思ってないよ」

 優しくも冷たくもない平坦な声。ただ粛々と罪と責任と感情を切り分けんとする公正な。

「まあ相談もなく勝手な真似して部隊を危険に晒したことはちゃんと反省してほしいけど……。アル兄はバジルが何もしなくてもこうなってたと思うから」

 罵詈雑言で責めない彼女に却って気持ちが萎縮する。「でも」とバジルが首を振るとモモは硬い声のまま続けた。

「アル兄は、もし助かっても今度は自分で死に場所探してそっちで死んでた。だってそうしなきゃ姫様の足引っ張るのわかってたんだもん。モモが止めても無駄だった。だからこれはアル兄が自分一人で決めた自殺で、バジルのポカは関係ない」

 あまりに強く言い切られて「でも」と食い下がる声が掠れる。でもやはり己がきっかけを作ったはずだ。自分さえ馬鹿なことをしなければアルフレッドは今頃ここで皆と笑っていたかもしれない。問題を丸く収めるために死ぬなんて選択肢は捨ててしまって。

「ごめんなさい……」

 彼女のほうを向けぬまま、伏せた顔を中途半端に逸らして詫びた。
 どうしようもない謝罪にモモが嘆息する。

「……モモたちも大事なこと見落としてたんだよ。バジルにはバジルの時間が流れてたのに、モモたちに無理に合わさせようとしたの。だからもういいとは言わないけど、アル兄のことはアル兄にしか怒ってないから、モモは」

 言って少女は前室の扉に向かって歩き出す。迷いはないが強張った足取りで。

「モモ、アン兄たちのとこ戻るね。ついでに広場の退役兵たちも見ておく」

 自分の仕事を彼女はわかっている風だった。そのままモモが出ていくと部屋はしんと静まり返る。

「わ、私、ブルーノの様子見てくるわ。……バ、バジル君も、その、あんまり思いつめないでね……?」

 アイリーンはモモとは逆の、狐の寝所に足を向ける。取り残されたバジルはしばし立ち尽くしたのち足を引きずって歩を踏み出した。
 とにかく何か少しでもできることを探さなければ。焦燥がかろうじて四肢を動かした。厨房棟まで立ち入れるのはきっと己だけだろう。ケイトたちが部隊や女帝の客人を不審に思うことがないように注意を払っておくべきだ。
 わかっている。今更取り戻せるものなどない。失ったものはずっと失われたままだ。それでも何かしないではいられなかった。
 のろのろ歩いていたはずがいつの間にか随分早足になっている。吹き抜けのホールを飛び出し、主館に隣接する厨房棟へとバジルは駆けた。裏口に回り、冷たい石の通路を抜け、小間使いらの仕事場に向かう。
 ──と、そのとき、ニャアと響いた耳慣れぬ声に足を止めた。
 ニャア、と哀切にもう一度。薄水色の小さな瞳がこちらを見つめる。
 暗い廊下の突き当たり、彼はここで一足先に女たちを見守っていたらしい。脱力するままバジルは石床に膝をついた。
 薄灰色の大きな猫がおずおずと寄ってくる。申し訳なさそうに目を伏せて。
 ──どうするんですか。そんな姿になってしまって。
 ──猫の手でどうやってガラスを扱うつもりですか。
 ここがどこかも考えず、バジルはそう叫びかけた。
 アルフレッドの胴と頭を繋げるために大量の脳髄液が必要だったのは聞いている。あの肉体を犠牲にしたということは、彼はもう、ケイトたちのよく知る彼には戻れないということだった。

「タルバさん……」

 呟きが狭い通路に反響する。
 嘆くなどおこがましい。けれどなぜと虚空に問うのをやめられない。
 こんなことを望んでいたのじゃなかったのに。
 自分を助けてくれた人を助けたかっただけなのに。



 ******



 ドナの街は坂が多い。同じ海運都市なのに、遠浅で扁平なアクアレイアとはまるで異なる風景が広がる。丘の上から見下ろした入江は深く、ごつごつした岩が目立つし、風除けにもなる小群島の連なりは壮観だ。エメラルドグリーンの潟湖に比してこちらの湾は深い紺碧。街並みも故郷のそれとは違っている。橋など一つも架かっていないし家屋も湿気で痛んでいない。雨水を溜めて濾過する式のアクアレイアの井戸よりも美味しい水が常時汲める。
 それほど悪いところではない。むしろ祖国より住み心地はいいかもしれない。夏冬に蔓延する病魔もここでは風が散らし、熱をやわらげてくれそうだ。そう思うのにモモの心は晴れなかった。巣にこだわる蟲でもないのに「もう我が家に帰る日は来ないのだな」とぼんやり考えこんでしまう。
 まあそれはいい。いや良くはないけれど仕方がない。ままならないのが人生だ。新天地でどうにかやっていくしかないこともあるだろう。かぶりを振って砦から海へと至る坂を下る。石畳の隙間から伸びた草を蹴りつけながら歩いていく。
 アンブローズたちのもとへ戻るとは言ったものの、その前に寄っておきたい場所があった。港のすぐ側、寂れたドナの街にあって、まだしも華やかな建物の並ぶその一画。アクアレイア人居留区。
 レイモンドが休んでいるのはここの第一商館のはずである。少しうろつけば目的地はすぐ見つかった。アンディーンのレリーフが施された大扉を押し開き、屋内をうろつかせてもらう。
 一階には商談中と思しき数人の商人がいた。だが宿泊施設になっている上階は、槍兵以外誰もいないのかごく静かなものだった。ドア横にかかった札の色の違いで訪ねたい部屋は即座に知れる。少し迷ってコンコンと飴色に塗られた木扉をノックした。

「──モモだよ」

 名乗ったのは礼儀と言うより多分互いのためだった。
 返事はない。眠っているのか会いたくないのか中に誰もいないのか。

「レイモンド、どっか行ってるの? モモだよー」

 間を置いてまた小さくノックを繰り返す。けれどやはり、どんなに待っても反応は返らなかった。
 今は来るべきタイミングではなかったということだろう。息をつき、モモは半歩ドアを離れる。

「……帰るね。寝てるの邪魔してごめん」

 十人委員会から兄の遺書を預かっていないか聞こうと思っていたのだが、日を改めたほうが良さそうだ。レーギア宮で「なんでアルを止めてくれなかったんだよ?」と酷い顔で尋ねられたのを思い出し、もう行こうと踵を返す。話をしたくないのなら無理強いすることはできない。

(だからモモ言ったじゃん。馬鹿アル兄)

 胸中で悪態をつく。どうやっても二度とは届かない言葉。
 帰ったことがわかるようにわざと大きな足音を立てて歩いた。
 早く行こう。モモは早足で商館を後にする。
 新しい家に戻って庭仕事を手伝うのだ。せっかく女帝が気を回し、ハーブの苗までくれたのだから。部隊のほうでもいつ何があるかわからない。きちんと生計を立てられるように薬局だけは再開の目途を立てなくては。

(とにかくまずは家のことしなきゃ)

 坂道を引き返していく。一歩ずつ力をこめて。
 誰がどんなに傷ついていても世界は回る。時間は決して止まってくれない。生きている者は生きていくための生活をしなければならないのだ。
 石畳を蹴って歩く。
 息苦しさが追いついてこないように。



 ******



 人の気配が去ったのを確かめて、ようやく詰まった息を吐いた。何をする力も入らず転がったベッドの上、なぜこんなことになったのだろうとただ呻く。
 わからない。わかりたくなくて苦しい。アルフレッドの決心も、モモの考えも、バジルの行為も何もかも。ともすれば激しい非難が口をつきそうになる。
 憤りは海軍にも十人委員会にもあった。けれどやはり、自分が一番悪かったのではと思ってしまう。己があれほどアルフレッドを追いつめていなければ、主君を慕う騎士の想いに気づいていれば、もっと早く彼は心を持ち直していたのではないのかと。
 甦るのは酒臭く荒んだ顔の幼馴染。最後に話したアルフレッド。良かったなと嘲笑われた。望むものすべて手に入れて、さぞいい気分なのだろうと。
 金や地位や恋を掴み取ったことに罪の意識を持つなんて思ってもみなかった。恵まれた者は幸福で、余裕があるから身を切られる痛みにも耐えられるのだと信じていた。今はもうそんな風には思えない。
 せめてあと一日早く帰国していたら。
 ほんの少しだけ今と何かが違っていたら。
 思考はぐるぐる同じところを回り続ける。

「アル……」

 名を呟いても答える者はどこにもいない。堪えがたくて目を閉じた。すると今度は瞼の裏に知らない男の顔がよぎる。
 まっすぐに、ルディアに向かい手を伸ばした。主君だけを見つめるあの目。
 あんな生き物になることを望ませるほど痛めつけたのは誰だったのか。

 ──お前といると、何も手にできなかった自分が惨めで仕方なくなる。

 耳の奥に響く声がレイモンドに思い知らせる。
 己のこの手も間違いなくアルフレッドを処刑場へ引きずっていったのだと。



 ******



 やらなければならないとわかっていても気の進まないことはある。主館から下りてきた中庭で、ファンスウ配下の蟲兵と一般兵に鋭い視線を投げられつつルディアは一番上質なフェルトで覆われた幕屋の前に足を止めた。
 入りにくさを感じるのはジーアン側から「さっさと延命の方法を教えろ」とせっつかれているせいだけではないだろう。意を決めて来訪を告げる。名前を名乗れば入っていいとの許可がただちに与えられた。

「邪魔するぞ」

 綾織の絨毯が敷かれた貴人専用の幕屋ではアニークとダレエンとウァーリの三人が赤髪の男を囲んで歌物語を聞かせているところだった。アルフレッドはルディアがいるとほかの何も目に入らなくなるらしい。大急ぎで彼はこちらに近づこうと立ち上がる。
 片手で制して「座っていろ」とたしなめた。命じたところで言葉はほとんど通じてはいないのだが。それでもルディアが彼らの輪に近づくとアルフレッドは大人しく敷物に座り直した。
 まるで大きな犬のようだ。以前の彼にも増して露骨な忠誠心。どんな態度を取ればいいのかわからなくなってしまう。

「話す気になったの?」

 と、長椅子の片端に座を占めたウァーリが問うてきた。彼女も女帝も狼男もルディアに向ける眼差しは甚だ敵対的である。騙していたのがばれたのだから友好的なほうがおかしいが。

「出した条件を守らなかったのはそっちだって同じだろう? 小砦の建設の件、知らないとは言わせんぞ。アルフレッドを殺してお前たちは清算を終わらせたんだ。せめて何か新しく取引してくれなくてはな」

 できる限り冷たく言い放つ。一方的に非を押しつけられないように。そんな牽制をしたところで反発を避けられはしなかったが。

「だけどあなたは永遠にアルフレッドを手に入れたじゃない」

 棘だらけのアニークの言葉。望んではいなかったと返すことはできなかった。沈黙で応じるルディアに対し「何が欲しいの?」とウァーリが尋ねる。帝国に求めるものなど今は一つも浮かばない。せいぜい早く砦内の人気(ひとけ)のない場所で一人きりになってくれと願うくらいだ。
 ふん、と鼻先で笑い飛ばす。ウァーリにせよ、ダレエンにせよ、今は届いた報告を信じて「ハイランバオスは古龍の手にある」と思い込んでいるのである。ルディアが彼らにある程度用済みと見なされている以上、迂闊に返答するわけにはいかなかった。約束の不履行があってなお生かされているのは延命措置とアルフレッドの件があるからだ。交渉は慎重に行う必要がある。

「簡単に渡せる情報ではないことくらいわかるだろう? 少なくともこちらの安全を確保してからでなければ何も明かすつもりはない」

 きっぱりとはねつけたルディアをダレエンの黒目が睨んだ。まどろっこしいのは嫌いだと言わんばかりに狼は絨毯を蹴って立ち上がり、実力行使に出ようとする。

「……ッ!」

 同時にガタリ、誰かの飛び出す音がした。ウーッと低い声が唸る。脅そうとした標的を守るように立ち塞がれ、途端ダレエンが態度を変えた。

「おい、別に痛めつけようとしたわけじゃない。そう怒るな、アルフレッド」

 言って狼は曲刀から手を離す。ひとまず暴力に訴えるのはやめにしてくれたらしい。洗練された戦士の動きを目で追いつつルディアはひそかに嘆息した。
 ファンスウは老人だったから良かったが、武芸に秀でるダレエンの接合にはなかなか骨が折れそうだ。そもそも今は彼らの連れている蟲兵全部と入れ替えを行えるほど脳蟲の手持ちもない。ダレエンとウァーリの器だけでも奪えれば有利に事を運べそうだが、古龍の身体を使ってどこまで二人を誘導できたものだろうか。こんな状況では酒に酔って眠り込んでくれることにもたいした期待は持てなかった。ジーアンの警戒はあまりに強い。一人で来いと呼び出して、もし狼を仕留め損ねれば待つのは惨憺たる未来だ。やはり功は急げない。

「もったいぶらずに条件を提示しろ。これ以上舐めた真似をしないならお前もお前の仲間たちもアルフレッドが望んだ通り生かしておいてやるつもりなんだ。どこでどうやって延命手段があることを知ったのか、どうすれば俺たちの寿命を延ばすことができるのか、洗いざらい吐いてもらうぞ」

 ずいと迫るダレエンにルディアは首を横に振った。そんな口先だけの約束を簡単に信じられるはずがない。いかに彼らがアルフレッドを大事にしてくれていようとも、変わってしまった今の騎士がどんな保証に成り得るのかルディアには判別できかねた。

「聞こえなかったのか? 取引になら応じてやるからさっさと条件を言わないと──」

 闖入者が現れたのはそのときだ。前触れもなく幕屋に垂れた玄関布がスッと捲り上げられて、冷たい外気が吹き込んだ。差し込む光の眩しさもルディアに急展開を告げる。敵か味方か知れぬ誰かがこの場に横入りしてきたことを。

「その条件、思いつかないのでしたら私が出させていただきましょうか?」

 逆光を受けた男の発する澱みない声。狼たちが揃って息を飲み込んだ。
 そこにいたのは皮カフタンに聖衣を纏った美貌の預言者。供には狐の姿まである。ハイランバオスの器に入ったハイランバオスと、ラオタオの器に入ったラオタオだ。いつの間に身を移し替えたのか、二人は本来使用していた肉体に戻っていた。

「なっ……」

 ダレエンらと一緒になってルディアも目を白黒させる。なぜここで貴様らが登場するのだと視線で問えば、事も無げに二人はふふっと笑ってみせた。
 ハイランバオスもラオタオもこちらには一瞥もくれずサソリと狼と対峙する。加勢すべきか静観すべきか判断に迷う状況だった。この道楽者どもは一体何を考えているのだろう。
 ダレエンたちは武器を取り、完全なる戦闘態勢でアニークを背に庇っている。「ラオタオ本体は消失した」「捕まえたハイランバオスはファンスウの管理下に置かれている」──そう聞いていたはずの狼たちは驚愕を隠せぬ様子だ。

「お前たち、どうやってその身体に……!」
「ウェイシャンとファンスウに何をしたの!?」

 返答はなされない。聖預言者は穏やかに微笑するのみである。代わりのようにラオタオが二人に応じた。

「ね、面白いモノ見せてあげよっか?」

 ほら、とラオタオの右腕が背後に従わされていた老人の肩を掴む。一歩前に引きずり出されたファンスウはぐるぐると目を回しており、ひと目で中に誰がいるのかが知れた。

(ブ、ブルーノ!?)

 ウェイシャンと接合したブルーノは「ハイランバオス役を務める駄犬のふり」をするために聖預言者の身体に入っていたはずである。器を追い出された後に、どうやら彼は古龍の老体を押しつけられたようだった。

「これに入ってるのは防衛隊のブルーノ君。で、このガラス瓶に入ってるのが──誰だと思う?」

 からかい調子の狐のクイズにウァーリが「龍爺!?」と叫ぶ。人質を取られたことを瞬時に理解してサソリたちは顔色を変えた。

「うん、正解! それだけ利口ならウェイシャンの本体が今どうなってるかもわかるよね? ガラス瓶、二つもあるからうっかり片方割っても困らないってわけ! さあ、ハイちゃんのお話聞いてくれる気になったかな?」

 見せびらかしていた小瓶をひょいと懐に収めるとラオタオは聖預言者に場を譲る。胡散臭すぎる男の御手においでおいでと招かれてルディアは思わず眉をしかめた。
 だがしかし、さすがにここで無関係を装うのは難しい。荒天の海に漕ぎ出す気持ちで狐の横まで後ずさりする。アルフレッドもルディアについてこようとしたが、それは預言者に阻まれた。

「彼には今しばらく人質役を続行してもらいましょう。こちらにもファンスウとウェイシャンがいるわけですし、平等でしょう? 捕虜の交換を行うまではお互いに手出しはしないということで」

 帝国幹部なんてカードを切って何が平等だと突っ込みたくなる台詞を吐き、エセ聖人は同胞らに向き直る。悠々としたその動作が彼の余裕を憎らしいほど知らしめた。
 狼たちは物凄まじい形相で歯噛みしている。あっさり形勢逆転され、主導権を握られた彼らの心中は察するに余りあった。やっと掴んだ尻尾が茨に化けたのだ。沸き立つ怒りを抑えるだけでひと苦労だろう。

「……ッ、条件ってなんなのよ?」
「ああ、そうそう、そうでした」

 ウァーリが問うと本題となる条件提示はすぐになされた。ハイランバオスは一切表情を変えぬまま意味のわからないことを言い出す。

「あなた方、我が君から招集がかかっているそうではありませんか。私たちも是非ご一緒させてくれませんか?」

 思わず「は?」と瞠目した。確かに彼には十将が天帝から呼び出されている旨を伝えていたが、ヘウンバオスの待つ地へ向かうのはダレエンとウァーリの本体を手に入れた後であるべきだ。天帝の油断を誘って彼の記憶と肉体を奪うのがルディアたちの最終目標なのだから、先にサソリと狼を行動不能にせねばならない。それともハイランバオスには何か策でもあるのだろうか。

「一緒にって、あたしたちと? 一体何を考えてるの?」

 狙いを見定めようとする目でウァーリが預言者をねめつける。彼女の不審はもっともだった。帝国が血眼で探していた疫病神が自分から掌中に飛び込んでこようと言うのである。ファンスウという大盾で身を守ることができるにせよ、それはいささか果敢に過ぎた。
 ルディアからもハイランバオスの行動は突飛に思える。だが次に彼の口から放たれたのは、もっと度しがたい言葉だった。

「だってアークが見つかったのでしょう? 我々の、レンムレン湖の」

 ルディアも、ダレエンも、ウァーリも声を失った。はらはらとこのやり取りを見守っていたアニークもだ。けれども聖預言者は、そんな反応を気にかけることもなく続ける。

「ファンスウに届いた書簡を私もさっき読ませてもらったんです。そうしたら十将の集合場所がバオゾではなくサルアルカだったんですよね。この時期に、レンムレン国とそう遠くないサルアルカですよ? これはもう完全にそういう符号ではないですか!」

 一人で確信しきっている彼に対し、皆呆気に取られるばかりだ。レンムレン湖のアークが見つかった? 本当だとしたら一大事だ。

「おや、信じられないという顔ですねえ。まあそれでも構いません。あの方に聞けばわかることです。私を連れて行けばあなた方は我が君の前に裏切り者を突き出せるのですから、悪い話ではないでしょう? もちろん頷いていただけますね?」

 にこやかに問うハイランバオスにサソリも狼も押し黙る。少しして噛みつくように「条件はそれだけ?」と問うたのはウァーリのほうだった。ダレエンは更に警戒を強め、いつ腰の曲刀を抜いてもおかしくない状態である。

「いえ、もう一つ。コナーを同行させたいのでラオタオの鷹を返してください。マルゴーまで出向いたあの子たちなら画家の居場所を知っているはずですし、迎えにいってもらいます。彼がドナに到着したら皆で出発するとしましょう!」

 またこいつはペラペラと、とルディアは痛む頭を抱える。「やっぱりコソコソ何かやってたんじゃない!」という目でウァーリに睨まれたが相手にしている余力はなかった。
「おい」と預言者に呼びかける。あまり勝手に話を進めてくれるなと。眉間に深いしわを刻むルディアに対し、男はまったく反省の色を見せなかったが。

「あなただって私を売るふりなんかしたんですから、おあいこですよ。それにコナーもアークが残存しているかもと聞けば大喜びで出てきます。仲間外れにしては可哀想でしょう?」

 その顔と声で諭されると妙に納得しそうになるのはなぜなのだろう。有無を言わせぬ圧に飲まれ、結局黙らされてしまう。
 ダレエンとウァーリのほうも渋々と言った様子で了承した。狐の手に古龍の本体が落ちた今、どのみち彼らは頷かざるを得なかったが。

「楽しい道中になりそうではないですか! コナーが来るまで一ヶ月はかかるでしょうし、それまでにはそこの彼も旅くらいできるようになっているのではないですか? 陸路を行くなら久しぶりに馬に乗れますねえ。ふふ、いい子を探しておかなければ!」

 行きましょうと背中を押され、ルディアは狐やブルーノとともに退出した。どこまで理解できたのか、幼児のように後を追ってくる赤髪の騎士に「来るな」と強く首を振る。きょとんとしたままアルフレッドはダレエンに腕を引かれて戻っていった。
 ああもう、全部めちゃくちゃだ。ファンスウにはファンスウが入っていると思わせたままでなくてはあの二人に隙など作れなかったのに。
 ルディアはぎりりと奥歯を噛む。後にした幕屋からは「なんなのよ、あの子たち!」というウァーリの絶叫がわんわんと響いていた。



 ******



 ジーアン兵だらけの中庭を突っ切って、主館最上階に位置する狐の寝所まで引き返すと、ルディアは「なんのつもりだ」とエセ預言者に詰め寄った。
 わざわざコナーを連れて天帝に会いにいこうなど何を考えているのか。聖櫃の管理人たる師を守れと言ったのはお前だろう、と。
 でんと大きな寝台と、長椅子、テーブル、いくつかの衝立が置かれた以外何もない一室には狐に器を返却させられたアンバーがディラン・ストーンの姿で腕組みしていた。その隣では交代を手伝わされたらしいアイリーンがびくびく身を震わせている。馴染みきらない老体の膝をさすってブルーノも聖預言者に噛みつくルディアを見やっていた。

「先程も申しましたが、発見は絶望的と思われていたレンムレン湖のアークが見つかったのですよ? これは多少計画を変更してでもお祝いに駆けつけねばではありませんか!」

 ハイランバオスは悪びれない。将軍たちの中身を抜いてからこっそりと天帝に近づく算段をしていたのに、正面から堂々と彼の敬愛する王を訪ねる意思を示してくる。

「あのな、そのアークだってお前が勝手に見つかったと思っているだけ……」

 だろうがと続けようとした文句は最後まで言えなかった。人差し指をそっと唇に押し当てられ、物理的に声を封じられる。

「アークは見つかったんですよ。これは本当に確かなことです」

 エセ預言者は自信たっぷりに言い切った。なおも訝るルディアに彼は推測の根拠を説明してくれる。

「アレイアのアークはマルゴーの山中にあったでしょう? 聖櫃は動かされてさえいなければ巣に流れ込む川の上流にあるのです。十将が集まるように指示されたサルアルカは大山脈を挟んでレンムレン国のほぼ真向かい。少なくとも我が君は、アークの場所の見当はつけられたと考えて間違いありません」

 言って詩人はアクアマリンの双眸を輝かせた。さすがは我が君、深く険しいあの山から一粒の宝石を探り当てるなど不可能だと思っていましたと。

「山……?」
「ええ、そうです。レンムレン湖に雪解け水を運んでいた天山です!」

 詩人は語る。空を割り、砂漠と草原を分かつ壁として君臨するその山脈は、ジーアン語でテイアンスアン──「天なる山」と呼ばれて恐れられていると。万年雪に覆われた高峰。侵入者を拒む絶壁。誰も深部に足を踏み入れたことがないというその山は、アルタルーペと多分に重なるところがあった。アークが眠っているとしたらそこ以外にはないという。
 ハイランバオスの補足を聞いてルディアはごくりと息を飲んだ。彼の狙いがついぞわからず。
 仮に予言が真実だとしてこの男はどう動くつもりなのだろう。天帝の前に姿を晒すなど危険極まりない行為だ。まさか本当に「お祝いに駆けつけたいだけ」ではなかろうな。

「当初は古王国をけしかけ、アクアレイアを奪ってやきもきさせる予定でしたが、いやまったく嬉しい誤算でしたね! 我が君は卑賤な私が想像する以上に素晴らしいお方です! 数少ないヒントからこうして本命に辿り着いてしまうのですから!」

 頬を薄紅に染めた詩人はきゃっきゃと狐の手を取って踊る。ラオタオのほうも「楽しみだね! アークを囲んで皆で祝杯を挙げなきゃね!」と大層乗り気な様子だった。しまいには二人ともとんでもないことをのたまい出す。

「我々の悲願、祖国レンムレン湖の再発見はなされたと言っても過言ではないでしょう! まさに大団円ですね! こんな日が来るなんて、我が君に過酷な試練を与えて良かった!」
「ほんの百年だけだけど延命もできるってわかったし、後は皆でアークを守りながら楽しく暮らしたらいいよね! 接合のこと教えるのと引き換えだったら天帝陛下も俺たちの裏切りくらいお手打ちにしてくれるっしょ!」

 さっと額から血の気が引いた。この二人、本気で元の陣営に戻る気なのか? いくら彼らの走らせた激震の結果アークが見つけ出されたからと言って。

「ちょっと待て、話が違──」

 聖預言者と狐のダンスはそこでぴたりと静止した。レイピアの柄に手をやり、ルディアは退路を確保しもって身構える。だがこちらの緊張はたちまち一笑に付された。

「──とまあ、故郷の母たる聖櫃が見つかり、道を別った片割れも舞い戻り、あの方が喜びの絶頂にあるタイミングで総入れ替えを行うのがドラマティックで最高なのではないでしょうか?」

 あはっと彼は残忍な欲望を開示する。こちらと手を切るつもりは微塵もないようで「大丈夫ですよ。協力してくださったお礼にアクアレイアはあなた方にお返しします」と再度の約束がなされた。

「そ、そうか……」

 明るい返事にルディアはへたりと脱力する。だがまだ安堵はできなかった。アークには蟲の心を強く惹きつける力がある。あんなものを目にすればいくらこの非常識で冷血な詩人も里心がついてしまうのではないかという気がした。

「途中で気が変わったりしないだろうな?」

 念押しするとハイランバオスは「ええ!」と微笑む。

「レンムレン湖のアークは既に機能を停止していますから。我が君をぬか喜びさせる以外、なんの役にも立ちません」

 聖櫃はもう死骸なのだと詩人はあっさり言い捨てた。ひとかけらの親愛も、郷愁の思いすら滲ませず。

「まああなた方は我々に振り回されているという体でも、人質がいるので仕方なくという体でも、なんでもいいのでサルアルカまでご同行ください。快適な旅を保証しますよ! 美しい草原と空は忘れがたい思い出となるでしょう!」

 ハイランバオスはすっかり出来上がった酔っ払いのように鼻歌なぞ口ずさむ。ラオタオも上機嫌で「そんじゃさっそく例の鷹を回収してマルゴーに飛ばしにいかない!?」と詩人を誘い、ステップを踏んで部屋を出ていった。
 アンバーを振り返れば少女然とした軍医の肩がすくめられる。無言の女優は「好きにさせるしかないわね」と言いたげだ。長いジーアン生活で彼らをよく知るアイリーンも災害を見送るように閉ざされたドアを見やった。何度も階段を行き来したせいでまだ膝が痛むらしいブルーノも深々と息をつく。

「……とりあえず、しばらくは尋問や拷問を受ける心配はなくなったと考えることにしよう」

 ダレエンたちも下手に防衛隊をつつけなくなったのは事実だ。
 奇妙な取り合わせではあるが、草原と砂漠の境界テイアンスアンの山々まで、将軍たちとルディア一行は旅の仲間となるようである。
















(20210110)