――どうしても誰も信じられない。

 あの日見た彼女の寂しげな横顔を忘れられない。
 だから多分、これはずっと己の頭のどこかにあったことなのだ。



 ******



 兵士に指示が飛んだ後、モモがサロンに連れてこられたのは早かった。この時間なら妹はまだ朝食の途中だったかもしれない。表情には戸惑いと不愉快、そして何より警戒が見て取れる。

「モモに一体なんの用?」

 女帝の寝所を見渡して彼女はきつく眉をしかめた。鋭い双眸は本来ここにはいないはずの退役兵を認めて更に歪められる。
 応接ソファの傍らにタルバは突っ立ったままだった。彼の隣にはウァーリとダレエン、二人の将に守られたアニークがアルフレッドと向かい合っている。誰一人どこかに腰かけようともせず、室内を満たす空気は張りつめていた。
 狼に牙を引っ込める気配はない。アルフレッドは入口に立つ妹を振り返り、慎重に言葉を選んで状況を告げた。

「……バジルが彼に『延命処置』をしたらしい」

 顎でタルバのほうを示せばたちまちモモが目を点にする。「は!?」と響いた大声はこれまで聞いたどの「は?」よりも深刻だった。

「どういうことか説明してくれるわよね?」

 動揺をはぐらかせまいとしてウァーリがすかさず問うてくる。妹は棒立ちの青年退役兵を見やり、しばし言葉を失った。その表情は「バジル、馬鹿なの? 何やってんの?」と語っている。
 だがいくら弓兵を責めたところでどうしようもない。モモは瞬時にこの場を切り抜ける方向に頭を切り替えたようだった。

「説明って? モモに何が聞きたいわけ?」

 正門をくぐる際に武器は取り上げられただろうに、妹の語気は強めである。加勢に参じるかのごとくアルフレッドの隣に並ぶとモモはジーアンの蟲たちを見上げた。

「何じゃないわよ。延命の方法も、どうしてそれを黙っていたかも、今ほかに隠していることも、全部言えって言ってんのよ」

 凄まれても妹は怯まない。どころか彼女は反抗的な挑発を返す。

「言うわけないじゃん。そんな大事なことペラペラ喋る人間に見える?」

 肩をすくめ、鼻先で笑い、モモは要求を拒絶した。その態度にカチンときたらしいダレエンがナイフの刃を閃かせてもどこ吹く風だ。
 モモの豪胆さはアルフレッドのほうが却って心配になるほどだった。ドナでなすべきことは全部上手く行った――。それがあるから彼女は強気でいられるのだとは思うが。

「聞きたいなら姫様と交渉してよね。モモから言うこと別にないから」

 続いた台詞についに狼が飛び出す。襟ぐりを掴まれて引き倒され、頸動脈に鋭利な刃を突きつけられてもモモはダレエンを睨むのをやめなかった。
 まるで獣と獣だ。先に目を逸らしたほうが敗北すると思っている。

「何か勘違いしていないか? 俺たちは交渉なぞ考えていない。お前が吐くか吐かないかだ」

 馬乗りになったままダレエンが刃先を滑らせた。それでもモモは震えることなく「いつまで自分たちが優位に立ってると思ってんの?」と笑う。

「姫様がハイランバオス引き渡すだけで何もしてないわけないじゃん。無事に帰ってくるといいよね。コリフォ島に向かった人たち」

 少女の首に押しつけられたナイフの動きがぴたり止まった。「どういう意味だ」とダレエンが顔をしかめる。

「大人しく姫様たちの帰りを待ったほうがいいと思うよ。捕虜と捕虜の交換は死体じゃできないんだからさ」

 不穏な助言にダレエンがウァーリを振り仰いだ。彼女のほうもモモの発言に神妙な顔をしている。だが戦力差を考慮してルディアに何かできるはずないと結論が出たらしい。返ってきたのは「はったりはやめて」のひと言だった。

「先延ばしにすれば逃げられると思った? 悪いけどその手には乗らないわよ。
あなたたちがあたしたちを騙していたとわかった今、そんな出まかせ耳にする気にもならないわ」

 ウァーリの声は常になく刺々しい。「取引がしたいならせめて先に延命方法を話すのね」と突き放され、再びモモが押し黙る。のしかかっていたダレエンも脅しのためかナイフを突き立てる場所を変えた。

「自分から口を開くのと、口に横穴が開くのとどちらがいい?」

 思いきり眉を歪めるだけでモモは何も答えない。悩んでいるのだ。どこまでルディアがジーアンに侵食しているか告げるかを。言えば対策を取られるし、言わねば牽制にはならない。数秒沈黙が続いた。

「横穴のほうをご所望か」

 今にも頬を貫きそうな刃をどうしても見過ごせず、アルフレッドは「おい」と止めに入ろうとした。斜め向かいで制止の声が響いたのはそのときだった。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ! バジルやバジルの仲間には酷いことするのやめてくれって頼んだろ!?」

 真っ青な顔で成り行きを見守っていた青年がナイフを掴むダレエンの右腕に飛びかかる。しかし肘のひと振りはあっさりタルバを押しのけた。狼のほうに退く気はこれっぽっちもなく、冷たい黒の双眸を映す刃が今一度小さな獲物に向けられる。

「言わないなら二目と見られん顔にしてやる。お前のためならアルフレッドが話してくれるかもしれんしな」

 瞬間、モモが絶対何も喋らないでよという目でこちらを威嚇した。ほとんど声になりかかっていた言葉を飲み込み、アルフレッドはその場に固まる。指先一つ動かせない己に代わり、二人の間に割り込んでくれたのはまたもや同じ男だった。

「やめてくれって! 恩人なんだって話したじゃないか!」

 青年は果敢に武器を取り上げようと狼に挑む。しかしダレエンは鬱陶しげに無視するだけで脅迫をやめようとしなかった。「妹がどうなってもいいのか」とお定まりの文句を告げられ、アルフレッドはどうすることもできずにただ息を飲む。
 ダレエンは本気だろう。敵と判断したのなら生きたまま耳や鼻を削ぐくらいやってのけそうに思えた。だがこれから帰還する主君のことを考えるととてもではないが白状できない。
 接合について知られればアクアレイアとジーアンの蟲が容易に入れ替われると知られる。それはようやく祖国を取り戻す希望を掴んだルディアの生命線を断つ行為にほかならなかった。
 詳しい事情はわからないが、接合を受けたタルバ自身もまだ記憶の共有には気づいていない風に見える。接合を単に延命措置と誤解してくれているのならこのまま話をかわしきらねばならなかった。

「アルフレッド、本当にいいのか?」

 ダレエンがモモの瞼に切っ先を押し当てながら尋ねてくる。

「最初にこの女の目玉を繰り抜く。次は耳、次は鼻、次は舌、次は唇。今なら全部残せるかもしれないぞ?」

 具体的すぎる宣告に堪えているのがだんだんと苦しくなった。やるならば妹ではなく己にやれと要求するのはおそらく逆効果だろう。どう考えてもモモを攻撃したほうが吐かせやすいから今こうなっているのである。そうして早くもアルフレッドは「わかった」と頷きかけていた。
 だが結局ダレエンのナイフはどこも裂かなかった。退役兵の絶叫がようやく将たちに響いたからだ。

「なあ、ウァーリも止めてくれよ! 俺はあんたなら信用できると思って全部打ち明けたんだぞ!? それなのにあんたは同じ十将ってだけでこんな仕打ちを許すのか!?」

 ぴくりとウァーリの入念に整えられた眉が跳ねる。彼らの間で取り決めでもあったのか「約束してくれたじゃないか……!」と切に訴えるタルバに対し、彼女は明らかな譲歩を見せた。

「ダレエン」

 諫(いさ)める響きの声に呼ばれて一旦はダレエンも停止する。しかし彼は手にした武器を収めようとはしなかった。「恩人の仲間だからなんなんだ? 俺たち皆の命がかかっているんだぞ?」と冷淡に言い放ち、尋問を続行しようとする。

「ダレエン」

 もう一度ウァーリが彼を呼んだ。モモの瞳孔すれすれに突きつけられていた刃がそれでわずかに引っ込められる。

「ダレエン、約束は約束よ……! あたしたちは血を分けた同胞なんだから、それだけは守らなきゃ」

 チッと小さく舌打ちしてダレエンは腰の鞘にナイフを戻した。渋々ながらも下敷きにした妹から離れてくれてほっとする。一方モモは不機嫌そうに、赤い筋の残った首に手をやりながら起き上がった。

「……で、手荒にせずにどうやって寿命を延ばしたか聞くつもりだ?」

 問われて今度はウァーリのほうが返答に詰まる。「言っとくけどこっちは何も喋るつもりないからね」とモモがきっぱり言ってのけるとダレエンがほらなとばかりに肩をすくめた。

「残念だ、アルフレッド。お前とはもう一度手合わせをしたかったのに」

 次の矛先は当然こちらへ向けられる。元々自分は「ルディアが帝国に背かぬように」人質としてレーギア宮に通っていたのだ。隠し事がばれた以上、身の安全など保証されるはずもなかった。

「どうする気だ?」
「殺すに決まっているだろう。そういう条件であの女の提案を受け入れたのはお前とて承知のはずだ」

 またしても空気が塗り替わる。情報提供さえすれば助命するといった情けを見せる気もないようで、ダレエンはナイフの柄を握り直した。

「や、やめてくれって! その人だってバジルの仲間で――」

 背後から近づいたタルバの長身をダレエンが片手で跳ねのける。「悪いがお前よりこっちのほうが先約だ」と狼は彼の主張を認めなかった。

「ダレエン、待って! い、いくらなんでも話が急すぎるわよ!」

 次いで慌てて飛び出してきたのはアニークだ。わけもわからずオロオロするばかりだった彼女は凶刃がアルフレッドに向けられるや全力で抵抗を始める。我が身を盾にし、女帝は「ナイフをしまって!」と命じた。

「馬鹿を言うな。俺たちをたばかっていた敵だぞ」

 モモに接合のことを吐かせるための演技ではないらしい。ダレエンの全身は殺気に満ち満ちている。
 怒りのたぎる黒い眼が「裏切られた」と言っていた。己は正しく恩に報いてやったのに、許しがたい悪行だと。

「じ、事情があって言えなかっただけかもしれないじゃない? お願いだからアルフレッドを敵だなんて決めつけないでよ……!」

 アニークはナイフからアルフレッドを守るためぴたり張りつき、離れまいと腕を回す。問答無用で彼女を引き剥がそうとした狼を参入してきたウァーリがなだめた。

「ちょっと、この子にまで乱暴しないで。アルフレッド君のことだって、何も今すぐ処分しなくてもいいでしょう? どうせ事情は話してもらわなきゃなんだから」

 一旦収めろとの声にダレエンは失笑を返す。「こいつを痛めつけたってどうせ何も言いやしない。だったらさっさと見せしめにしたほうがほかの連中が吐く気になる」と暗に彼は尋問対象を広げる考えを示した。
 アンブローズやモリスを引きずってこられたらさすがにモモも黙秘が難しいかもしれない。飲み込んだ息がいやに大きく耳に響く。そんなこちらに一瞥をくれ、ダレエンは忌々しげに吐き捨てた。

「……アルフレッド、俺はな、お前たちにハイランバオスを差し出すつもりがあるとわかって安心していたんだ。マルゴーでの怪しい動きもラオタオが己の鷹をどこぞに飛ばしたいがためにお前たちを利用しただけで、お前たちと狐の間に繋がりはないのだとな。だがどうだ? お前は俺たちが余命幾許もないと知っていて延命方法を黙っていた。俺たちが滅びる日を今か今かと待ち構えていたわけだ!」

 違うと言いたかったけれど、とても口にできそうにない。震え声のアニークが「アルフレッドはそんな人じゃないったら!」と庇ってくれたが怒れる男を鎮めるには至らなかった。ダレエンは女帝の腕を掴み、力づくで彼女を遠くへやろうとする。

「離して! いや!」
「アニーク、もうこの男のことは忘れろ。俺たちがルディアから人質を取った経緯はヘウンバオスにも伝わっているんだ。アルフレッドを生かす理由をどうあいつに弁明する? お前がこいつを庇うなら俺はお前ごと斬らねばならん」
「……ッ」

 一瞬狼狽した隙にアニークはアルフレッドから引き離された。女帝の身柄はウァーリがそっと抱きとめる。沈痛な面持ちで立つ彼女の心はどっちつかずで揺れているようだった。

「お前もいいな?」

 問いかけに吊り目がわずか伏せられる。ウァーリはまだアルフレッドに情を残してくれているのか明確には返答しない。だが十将という立場にある彼女が何を最優先にするかは考えるまでもなくはっきりしていた。

「恩人だからとこいつのことを甘やかしたのは俺たちだ。責任は俺たち二人が取らねばならん」

 美貌を歪めて「わかってるわよ」とウァーリが苦々しく呟く。アニークへの同情も、タルバへの配慮も振り払い、彼女はアルフレッドを見据えた。

「……本当になんにも言い訳しないのね」

 悲しげなひと言。それが了承の合図だった。「やめて!」とアニークの悲鳴がこだまする中をダレエンが無言でナイフを構え直す。
 丸腰のモモが寝台のほうをちらと見やった。早く逃げようと言うように妹はアルフレッドの袖を引く。宮殿裏の水路に繋がる隠し通路。確かにあそこからなら最短ルートでこの危地を脱せるだろう。――だが。

「やめてって言ってるじゃない!」

 大粒の涙を零してアニークが躍り出る。細腕を目いっぱい広げてダレエンの前に立ちはだかる彼女を見たらとても逃げる気にならなかった。
 外へ出たってどうにもならない。たとえジーアンの手を逃れても次は海軍に追われるだけだ。

「本気で斬られたいのか?」

 退け、とダレエンが女帝を睨む。だがアニークも譲らない。膠着状態に陥るまで一分とかからなかった。
 かち、こち、と壁掛け時計の針が進む音だけが響く。誰もが息をつめたまま次の動作に移れずにいた。
 ダレエンは武器を手にしたまま、アニークは歯を食いしばったまま、見守る者たちは身じろぎもできぬまま。――完全な静止。完全な沈黙。
 気色ばんでいた狼の目が揺れている。いつまでも刃が振り下ろされないのは何が邪魔しているからだろう? アルフレッドは深く息をつき、向かい合う男に問いかけた。

「……まだ俺に恩義を感じてくれているなら一つ頼んでもいいか?」

 ダレエンが怪訝そうにこちらを見やる。命乞いかと嘲るように。
 だがアルフレッドに今更そんな気はなかった。助かったところで主君に難を引き寄せるしかできなくなった身なのだから。だから彼に頼みたいのはそんなつまらないことではなくて。

「どうせ殺すなら処刑場で罪人として殺してほしい」

 端的に告げれば室内の時間が止まった。
 ずっと考えていたことがある。願いが言葉になる前から、心の中で、きっとずっと。
 今がそのときなのだろう。波も風もない静かな心でそう感じた。



 ******



 船がヴラシィ港を出たのは当初の予定とさして変わらぬ十一月十六日のことである。この時期は北へ北へと吹きつける冬風が多くなるから一週間もすればドナに到着する見込みだった。アンバーたちと状況の擦り合わせをしたいからすぐには砦を出られないかもしれないが、ドナからアクアレイアまではいつも二日もかからない。秋の間になんとか帰国できそうだった。

(やれやれ、これでようやく大きな仕事は片付いたか。あとは波の乙女の像を神殿に納めるだけだな)

 すっかり落ち着いた船内を見回してルディアは軽い息をつく。
 ジーアン兵で蟲とわかる者は皆ハイランバオス手持ちの脳蟲と入れ替えた。ドナの退役兵に続き、これでまた天帝に対する有利なカードを増やせたことになる。彼らは身内を大事にするからガラス瓶に封じた本体を二つ三つ見せれば動揺を誘えるだろう。ヘウンバオスが十将に招集をかけているのも渡りに船だ。今なら一気に幹部全員を狙える可能性もあった。

「レイモンド」

 と、細い通路を行くルディアの前に恋人が現れる。倉庫方面から歩いてきたルディアを見やって彼は「あいつと話してきたの?」と声をひそめた。
 あいつとは第二倉庫をねぐらにするエセ預言者にほかならない。今後の計画をスムーズに実行に移すため、ルディアは足繁く彼やラオタオのもとに通って話し合いを続けていた。昨日まではファンスウ配下と脳蟲の入れ替えについて。今日からはジーアン帝国乗っ取りについて。

「ああ。我が君にまみえる日が楽しみですと喜んでいたよ」

 アクアレイア奪還に向け、まずは帝国自由都市を目指すつもりでいることはコリフォ島を発った日にも聞かせていた。周辺諸国に呼びかけて再独立戦争を仕掛けるのではなく、裏で一手ずつ詰めていくと。派手好きな詩人には物足りない作戦かもなと危ぶんでいたけれど、特に不満は生じなかったようである。ハイランバオスは「わあ、それはとっても名案ですね!」と笑顔を弾けさせていた。

「そっか。じゃあこのまま普通に協力してくれそうなんだな」

 ほっとした様子のレイモンドにこくりと頷く。嫌がられるどころかこちらが一瞬たじろいだほどだ。「心から信じていた同胞が誰一人本物の味方でなかったことを知ったら、あの方はどんな顔をなさるでしょう?」という陶酔しきった彼の台詞に。
 ヘウンバオスも厄介な男に好かれたものだ。だからと言って憐れむつもりは毛頭ないが。

「ひとまずあの二人にはドナで降りてもらおうと思う。一緒にアクアレイアに戻ると引き渡しがややこしくなりそうだしな。兵士もまとめて砦に待機させておく予定だ。ダレエンとウァーリは後日ファンスウの名でドナに呼び出す」
「うん、うん」

 有利な戦場を選択するのは兵法の基本である。退役兵たちの街を制圧できたのはやはり大きい。一切が滞りなく運んでいるという実感に恋人も頬を緩めていた。

「早くアルにも色々手伝ってもらわねーとな」

 役目があればあいつは頑張れるんだと幼馴染について語るレイモンドの目は往路に比べて遥かに明るい。
 ルディアも早くアクアレイアに戻りたかった。乙女像さえ持ち帰れば苦境は大きく変えられるのだ。真面目に過ぎるあの騎士はそれを良しとはしないかもしれないけれど。

(待っていろよ、アルフレッド)

 胸中で呼びかける。もうすぐ迎えにいくからと。
 そうしたら我々はもう少しましな主従になろう。
 いつか終わりが来るとしても、また笑い合えるように。



 ******



 ジーアンの蟲がどんな価値観で動いているか、少しはわかっているつもりだ。彼らが天帝の名を出してアルフレッドを殺すのが取るべき責任だと言った以上、決断は曲げられないのだろう。彼らにとってそれは背信と同義だから。
 やはりそういう巡り合わせなのだなとひとりごちる。薄まらない影にずっと足首を掴まれている感触があったから、逃げられないのは悟っていた。たとえ彼の気配がなくとも逃げようなどとは考えもしなかったろうが。
 最初から己の意志は決まっていた。主君のための最善を取ると。

「ここで斬り捨てるんじゃなく、正式な裁判の後に殺してくれ」

 誰も何も言わないのでアルフレッドは別の言い方で繰り返す。
 最初に「……何を言っているの?」と震えながら聞き返したのは思った通りアニークだった。

「こうなったときの覚悟は決めて人質役になったつもりだ。不都合を秘匿した言い逃れをする気もない。だが最初の約束に従うのなら俺以外の人間には手を出さないと誓ってほしい。モモにも、ほかの誰にもだ」

 こちらを仰ぐ女帝の視線には気づかぬふりでダレエンとウァーリに告げる。二人は突然の要望に面食らっている様子だった。
 自分の言葉で本音を伝えられるのはこれが最後かもしれない。意を決めて、アルフレッドは静かに彼らに語りかける。

「……本当は今すぐやり方を教えたいよ。バジルが我慢できなかった気持ちが俺にもよくわかる。ダレエンにもウァーリにもアニーク陛下にも世話になった。なりすぎたなと思うくらいだ。皆には長生きしてほしいし、延命措置の施せる環境が整っていれば俺もバジルと同じことをしたかもしれない」

 アルフレッドは今一度長身の青年に目を向けた。タルバはバジルだけでなくモモや自分のことまで守ろうとしてくれた。きっといい関係を築いているのだ。己がこのサロンにいるときは確かな安らぎを得られたように。

「だが口を割る気はないのだろう? くだらない戯言はよせ」

 と、ダレエンが刺々しい口ぶりで言う。彼はまだ怒りを手放そうとはせず、吠える声にも「そんなことでほだされるか」という響きを滲ませていた。

「何もできないことは申し訳なく思っている。でももし俺の願いを聞き届けてくれるなら、俺から姫様にどうにかならないか頼んでみるよ。多分そのほうがダレエンたちにとってもいいと思うんだ。闇雲に方法を調べようとして姫様と決裂したら二度と延命を望めない可能性が高い。俺はこのまま三人を放ってはおけない」

 あまり直截に告げたからかダレエンが鋭い目を丸くする。「尋問や拷問よりも交渉のほうが道は拓ける。助けられるなら助けたいんだ」と続けると彼はなお複雑そうに眉間に深いしわを刻んだ。

「俺が遺言しておけば姫様も――」
「もういい、やめろ。ちょっと黙れ」

 ぶんぶん腕を振る仕草で発言を止められたのでアルフレッドは素直に黙す。ダレエンは「なんでお前が俺たちの心配をしているんだ」と呆れ果てていた。

「アルフレッド君ってほんとアルフレッド君よねえ」

 似たような顔で彼の隣に並ぶウァーリもなんだか毒気を抜かれた風だ。ただ一人、アニークだけがアルフレッドに抗議するよう大きな目を瞠っていた。

「お前がどんなにいい奴でも俺はお前を殺さなければならんのだぞ?」
「けど逆に、俺が人質の務めを果たせばもう一度姫様と話し合う余地ができるってことだろう? 前の約束は前の約束、次の約束は次の約束として」

 苦しげに問うダレエンに「いいよ」と小さく笑みを浮かべる。それでいい。むしろそのほうがいいのだと。

「俺はやっぱり死ぬべきなんだ。国のためにも、姫様のためにも」

 何度考え直しても変わらなかった思いを告げる。
 生き延びるだけで民衆の憎悪を育て、部隊を孤立させるなら、幕を引くのは早いほうが賢明だ。未練はない。一つだけ最後に残せるものがあれば。

「――アニーク陛下」

 アルフレッドは己の胸にしがみつく女帝に呼びかけた。黒い瞳にいっぱいの涙を溜めてこちらを見上げている彼女に。
 本物じゃないと否定したこともあった。身勝手な苛立ちをぶつけて傷つけたことも。
 だが振り返ればいつも彼女が暗い道を照らしてくれていたように思う。

「いつか言ってくださいましたね。俺にもお返しをくださると」

 成したことはどれほど時が流れても巡り巡っていつか自分を助けてくれる。アニークがパディに慰めの詩を捧げていたとき述べた言葉だ。あのとき己にも彼女から返礼が約束された。

「何……?」

 聞きたくないと拒むようにアニークは首を振る。実際それは拒絶であったが彼女にしか頼めなかった。騎士という生き方を理解してくれる者にしか。
 この人と決めた主君にどこまでもついていく。それだけが騎士であることの証明だ。形ある勲章は望まない。何を失くしても構わない。ずっとルディアに仕え続けられるなら。

「俺が死んだら俺の死体に脳蟲を入れてもらえますか?」

 女帝の頬がひくりと引きつる。アニークは今にも「嫌よ」と叫び出しそうに見えた。彼女の華奢な肩に手をやり、なるべく優しく己から引き剥がしながらアルフレッドは丁重に願い出る。

「……蟲は最初に取りついた宿主の一番強い思いを核にして人格を作る、ですよね? 俺はそれさえ残ればいい。だからお願いできますか」

 重い沈黙がサロンを満たした。誰も彼もアルフレッドが何を言っているのかわからないという顔で立ち呆けている。
 最初に怒りを表明したのはやはりというかアニークだった。

「そんなの頷けるはずないでしょう!?」

 女帝は大声で泣き喚く。そんなに泣いて喉が潰れやしないか心配になるほどに。

「なんのために私があなたを守ってきたと思っているの!?」

 か弱い拳が胸やら腕やら殴りつけてくるのを受け止めながらアルフレッドは「すみません」と詫びるしかなかった。せっかく生かそうとしてくれたのに、応えられなくてすみません、と。



 ******



 どうしてこんなおかしな方向に話が転がっているのだ。
 どうせ殺すなら処刑場で殺してくれ? 死体には脳蟲を入れてほしい?
 我が兄ながら何を口走っているのかまったく意味不明である。
 一つだけモモに理解できたのはアルフレッドが人質の死をもって問題解決を図ろうとしているということだった。ほかには波紋が及ばぬよう、将軍たちが無慈悲な手段を取らぬよう、自分だけが犠牲になって。

(いやいやいや、全然上策じゃないでしょ)

 ぽかんとしたまま大泣きする女帝をなだめる兄を見上げる。どこまで本気で提案したのか読み取れず、モモはうろたえるばかりだった。
 だって全部、嘘や誤魔化しを口にしたように見えなかった。

(姫様たちが戻ってくるまでの時間稼ぎ……なんだよね?)

 自分に言い聞かせようとしても「この兄がそんな迂遠な行動を取れるわけがない」という長年の実感が邪魔をする。超のつく真面目人間で、保身や世辞が大の苦手で、演技などできもしないのだから。
 今さっきアルフレッドはなんと言った? 俺はやっぱり死ぬべきなんだと、そうのたまわなかったか?

「ちょっとタルバ、あなたその子を連れて隣の部屋にでも行ってて。ひとまずアニークを落ち着かせたいから」
「え、あ、ああ」

 ウァーリから指示を受けた青年がパッとこちらを振り返る。慣れた面々だけで女帝をあやそうというらしい。この場にいられると安らげぬ不穏分子は一時追い出される運びになった。
 追われるように寝所の前室に身を移す。衛兵は通路のほうに立っているのか手狭な小部屋はモモとタルバの二人きりだった。
 小さな溜め息一つ零し、まだどこか呆然としている青年を見やる。とにかく今は少しでも持てる情報を増やさなければ。

「バジルになんて言われたの」

 無視されるかと思ったがタルバは律義にこちらに向き直って応じた。「誰にも秘密にしてくれるなら寿命を延ばしてやるって……」といかにもバジルが口にしそうな言葉が返ってくる。

「そっちはなんで俺たちが蟲だってこと気づいてたんだ。あいつに俺の正体を教えたのはあんたらだろう?」

 あちらはあちらでモモに疑問をぶつけてきた。退役兵は帝国上層部に戦力外と見なされているから本当に何も知らないのだ。こちらの事情に通じていたらドナで大人しくしてくれていたかなと頭の隅で考えつつ「ハイランバオスから聞いたの」と答える。

「モモたちあいつに一緒に国を取り返しましょうって持ちかけられてたから、あいつのことで十将と色々駆け引きしてたわけ。……全部台無しになったけど」

 睨んだって仕方がない。わかっていても落胆の意は消えなかった。
 タルバはそれで人質なんかいたのかと合点した顔をしている。同時に恩人を思ってか、額を青ざめさせてもいたが。

「……さっき言ってたお姫様はダレエンやウァーリとまともに話し合ってくれそうなのか? 交渉次第じゃバジルが危ないかもしれない。お姫様にちゃんと話し合ってほしいって頼めるか?」

 不安そうに問いかけてくる青年にモモはもはや苛立ちを抑えきれなかった。本当に、どいつもこいつも自分のことしか考えていないのではないか。

「――わかんないよ!」

 勝手な要求をしてくるタルバについ怒鳴りつけてしまう。自分のしでかしたことなら最後まで自分で責任を持てばどうだと言いたかった。できないのなら何もしなければ良かったのだと。

「わかんないよ、もう、バジルもアル兄も馬鹿ばっかり……!」

 誰が誰のために頑張っているところなのか全然考えてくれていない。自分のしたいことだけで小さな頭をいっぱいにして。バジルともアルフレッドとも、ゆっくり話す時間を持てなかったのは確かだけれど。

「……蟲は宿主の一番強い思いを核にするって何?」

 最も気にかかっていた兄の言葉を繰り返す。死を受け入れてしまっていて、死んだほうがルディアのためだとすら思っていて、常に正しい騎士であろうとする愚直な兄の。

「……そのままだよ。俺たちは最初の宿主の残した思いに永遠に縛られるんだ」

 タルバの返答はモモに安堵をもたらしてはくれなかった。静まり返った前室に青年のかじかんだ声が響く。

「……バジルを怒らないでやってくれ。約束を破ったのは俺なんだ……」

 もはや嘆息すら出ない。モモはただ泣き声止まぬ隣室の会話に耳を澄ませていた。



 ******



 こんなに長く一緒にいて気づかなかったわけがない。アルフレッドが減刑にちっとも納得していないこと。
 それでも彼に死んでほしくなかったから気づいていないふりをした。部隊に汚名がついて回るのを彼が気に病まないよう、なんとか手立てを考えながら。

「嫌よ……、いや……!」

 泣きじゃくる以外どうすることもできなくてアニークは激情のまま涙を流す。ダレエンもウァーリもアルフレッドも前言を取り下げる気配さえ見せなかった。いつも最後には皆折れてくれたのに、こちらが泣き止むのを待つのみだ。

「なんでアルフレッドが死ななくちゃいけないの? 二人だって彼のこと好きなんでしょう? ヘウンバオス様には報告しなきゃいいじゃない! 後でまたルディアに延命の方法を聞き出すんだったら!」

 拙い主張が受け入れられるとは思えなかったが言わずにはいられなかった。わかっている。天帝を騙すような真似をすればほかの仲間の信頼まで失うと。自分のこの発言も見過ごしてもらえるものではない。どうしたってダレエンとウァーリはアルフレッドを罰さねばならないのだ。

「アルフレッドを殺すなら私を殺してからにして……!」

 騎士の両腕を掴んで喚く。決定を覆せないならせめて一緒に散りたかった。アニークの核は彼がいなければ永久に空回るものだから。決して報われぬものだから。――だが切なる願いは穏やかに棄却される。

「それは駄目です、アニーク陛下」

 首を振ったのはアルフレッドだ。「あなたの人生は始まったばかりでしょう」と優しい声に諭されて思わず噛みつきたくなってしまう。
 短い生をせめて意味あるものにしたくて己はこの国に来たのだ。憧れだった騎士物語の世界に触れようと。目的ならばもう果たした。いつ死んだって同じことだ。アルフレッドがいなくなるなら。

「あなただから俺はお願いしたいんです」

 アルフレッドがアニークの手を掴む。ゆっくりと胸から指を引き剥がしつつ騎士は真摯な眼差しを向けてきた。

「……どうしても俺はあの人を孤独にはしたくない。俺という存在が消えてもずっと側で支えていきたいんです」

 あの人というのが誰か名前を問う必要もない。アニークには全部わかった。わかりたくないことまで全部。
 だって自分が散々彼に教えたのだ。宿主の残した思いから蟲は逃れられないと。蟲が生き続ける限り核も決して滅びないと。
 ――アルフレッドはルディアと同じ生き物になるつもりなのだ。揺るぎない彼の信念を新たな生命の核にして。

「俺を騎士にしてくださいますか」

 誰のとは彼は口にはしなかった。
 あなたの騎士にと言われたのならすぐにも頷いていただろう。
 でも違う。アルフレッドがなりたいのはアニークの騎士ではない。

「……嫌よ……」

 力なく首を振る。そんなこと認められなかった。どんな理屈をつけたって、蟲は結局以前の誰かとは別人だ。アルフレッドはいなくなる。この広い世界のどこからも。

「嫌よ、そんなの絶対に嫌……! たちの悪い冗談はもうやめて! そんなに私に頷かせたいのなら口づけの一つもしてみなさいよ! あなたにはできないでしょうけ――」

 ど、と言い切る前に何かが被さった。近すぎる赤い双眸と目が合って、頬を支えていた指と、重なっていた唇がゆっくりと離れていくのを自覚する。
 他人の伴侶と知っているくせに。
 好きでもないのに不埒な真似はできないと言っていたくせに。

「……これでお約束いただけますか?」

 あらゆる力が抜けきってアニークはその場にへたり込んだ。
 欲しかったのはこんなさよならなんかじゃない。違うのにもう何も言えない。
 アニークがわかったと承諾せねばアルフレッドは別の手段を講じるだろう。それでは己が彼の最期を見届けられなくなるだけだ。

「……自分の言い出したことは守らなきゃならないわ」

 傍らに膝をついたウァーリがアニークの肩を支えた。ダレエンは赤髪の騎士と向かい合い、彼らしからぬ感傷を含んだ声で問いかける。

「裁判を開くように言えばいいのか」

 アルフレッドの「ああ、頼む」という短い返事に嗚咽が止まらなくなった。二人の将は恩人の望みを引き受けようと決めたらしく、手早く段取りを整えていく。

「あたしはこの子についてるから、あんたは十人委員会のほうをお願い」
「わかった」

 止める間もなく足音は遠のいた。
 まだ昼の鐘も鳴っていないのに目の前は暗いままだった。



 ******



 中での話は終わったらしい。衛兵用の前室で待っていたモモが開かれた扉を見やると将軍二人と彼らに寄りかかるように歩く女帝が寝所から出てきた。

「しばらく中にいていいわよ」

 すれ違いざまウァーリがそう告げてくる。この状況で身内とゆっくりさせてやろうなど殺すと決めた男相手に随分と甘いことだ。アルフレッドは逃げないという確信があるのだろう。
 ダレエンが「宮殿からは出すなよ」と外の衛兵に命じているのも聞こえた。とりあえずウォード邸にはまだまだ帰れなさそうである。
 ふうと短い息をつき、モモは寝所の扉を開いた。最初タルバがついて来ようとしたけれど「ちょっと二人で話させて」と頼むと彼の足が止まる。
 事を大きくした罪悪感とジーアンの秘密を知る敵に対する警戒心、その両方が見て取れる顔で青年はモモを眺めた。視線を無視して一人でさっさと寝所に入る。今は馬鹿の相手などしていられない。もっとどうしようもない大馬鹿の相手をしなければならないのだから。

「アル兄」

 呼びかけると兄はこちらを振り向いた。いやにすっきりした表情をしていて腹の底がむかむかする。

「裁判を始めてもらうように頼んだよ」

 そんなことをのたまうのでますます胃の腑が熱くなった。どれくらいの力で殴れば目が覚めるだろうかと本気で思案してしまう。

「姫様はこれから普通の人間とは違う長い生を歩むことになるだろう? 俺もそれについていきたいと思っている」

 百年でも、二百年でも、千年でもと語るアルフレッドは早くも異界の生物になったようだ。――正気ではない。そのために死を選ぶなんて。

「……姫様にはブルーノだってアンバーだっているじゃん」

 怒りをこめてそう告げた。放っておいてもルディアは一人になどならない。アクアレイア湾にはほかの個体もいるのだし、仲間だって作れると。

「俺じゃなきゃ駄目な理由があるんだ」

 けれど兄は譲らなかった。一番強い思いでなければ届かないとでも言うように、ただ眩しげに目を細める。

「一応聞くけどそれって何? 蟲の人格の核とかいうのと関係あるの?」

 返答は「うん」と小さく頷かれただけ。ほかにはなんの説明もない。さすがに抑えきれなくなる。勝手に全部決めようとするアルフレッドへの憤りを。

「誰もそんなの望んでないよ。皆アル兄を助けようとして頑張ってんだよ? なんで台無しにするようなこと言うわけ?」

 モモは歩を詰め、兄の胸倉を掴んで己に引き寄せた。表に聞こえないように小声で「入れ替わりは順調に進んでる。姫様が帰ってきたらこんな状況いくらでも引っ繰り返せる」と耳打ちするが、アルフレッドはやはり首を横に振る。

「これが一番いいんだ。俺が生きているとどうしても禍根が残る。街の人も、海軍も、十人委員会も防衛隊をよく思わないよ。俺が一人で引き受けるんじゃなかったら」

 悟りきった言い分に腸が煮え繰りそうだった。「それくらい姫様が考えてないと思う? アル兄を助けた後のこと、あの人が考えてないと思う?」と掴んだままの胸倉を揺さぶる。
 頼むから妙な気遣いをしないでほしい。アルフレッドに生きてほしいという皆の心をこれ以上無視するのは。たとえそれが騎士として歩むべき道なのだとしても。

「姫様が無策じゃないのはわかっている。あの人なら数年あれば部隊の不名誉くらい巻き返してみせるだろう」
「じゃあいいじゃん! 死んだほうがいいなんて言うのやめて、もっと真剣に生き残ること考えたら!?」
「……考えたよ。姫様がアンディーン像を取りに行くと聞いてから俺はずっと考えていた。どんな風に自分が牢獄を出ることになるか。どんな風にあの人が俺の名前についた傷を回復しようと試みるか」

 アルフレッドは静かに語る。ルディアはおそらく聖像奪還の偉業を喧伝するために、アンディーン神殿にジーアンの黄金馬像を持ち込んだ者を腐すだろうと。神殿関係者には聖域を侵した英雄を快く思わない人間が多いから、きっとそこから取り込もうとするはずだと。
 新聞を渡したのはそんな結論を聞きたかったからではない。牢を出た後どう立ち回るか考えるのに情報が必要だろうと何号も掻き集めたのだ。決して死に向かう理由を見出させるためではない。はたしてこの愚か者はそれをわかっているのだろうか。

「自分が平穏にやっていくためにユリシーズを貶めることは俺にはできない。こういう形になったこと、却って良かったと思っているんだ。アニーク陛下やダレエンたちに感謝しているのも本当だし、姫様とジーアンの関係が少しでもいいものになればと願っている」

 天帝の身体を奪ってそれで終わりじゃないだろう、と囁かれる。ジーアンの蟲のその先も、あの人だったら考えてくれるだろう、と。
 ――何を言っているのだろう。この兄は、本当に何を。

「……姫様も、レイモンドも、バジルも皆傷つくよ? わかってんの?」

 肩が震える。知らず拳に力がこもる。
 ああ、とアルフレッドが頷いた。それでもう我慢ならなくなった。

「わかってる。全部俺のわがままだ」
「……ッ!」

 思いきり左の頬を殴り飛ばすとモモはもう一発殴りつけたい衝動を堪えた。拳の代わりに「馬ッ鹿じゃないの!?」と罵倒する。

「――うん。多分馬鹿なんだ」

 赤くなった口の端を押さえて騎士は苦笑いしている。己の最後とこれからをすっかり決めてしまった顔で。
 どこまでも人の話を聞かない男だ。ただ前へ、目指すものだけ見つめて一人で走っていく。
 助かるはずだったのに。
 皆また元に戻れるはずだったのに。



 ******



 ニコラス・ファーマーの第一声にブラッドリーは狼狽を隠しきれなかった。突然の委員会招集に嫌な予感がしなかったわけではない。だがいくらなんでもこれはあんまりではないか。

「それではアルフレッド・ハートフィールドに判決を言い渡す」

 開かれたのは会議ではなく裁判だった。そのうえ被告本人は不在の欠席裁判である。ろくな証拠検分もないまま、公式文書に弁明を残すことも許されず、罪人は闇に葬られるのだ。

「有罪。海軍提督を殺害し、国家転覆を謀った罪で死刑とする」

 レイモンド・オルブライトがアクアレイアを留守にしている間に始末しようと言うのだろう。ニコラスは手際良くアルフレッドの処刑日まで定めた。

「では三日後、執行は国民広場で」

 早すぎると抗議しなければ本当にその日に決まっていたかもしれない。自分以外の全員が厄介の芽をさっさと摘み取ろうとする中で、ブラッドリーは甥のためなんとか一週間をもぎ取った。
 せめて遺言をゆっくりと書き記す時間は必要だろう。彼だけでなく彼の親類一族も別れを受け入れる期間を持たねば。

「しかしアニーク陛下も急にどうなさったんでしょうね」
「サロンに匿われていたんだろう? 迂闊に触れでもしたんじゃないのか」

 だとしたら天帝の耳に入る前に尚更早く手を打たなければと小会議室に声が響く。当日の警備は海軍にとか、囚人はそれまで監獄塔にとか、耳に入る言葉はどこまでも冷たかった。誰もアルフレッドを人間と見なさなくなったようである。
 これまであの子を守っていた鎧はすべて剥がれ落ちたのだ。突きつけられた現実にブラッドリーは眩暈を堪えた。

(アルフレッド……!)

 堰を切った流れはもはや止められまい。ブラッドリーにできたのは、せめて騎士が騎士らしく死ねるように斬首にしてくれと頼むことだけだった。



 ******



 ――あるよ。どうしても誰も信じられない。

 吹く風にセージが揺れる静かな墓地で彼女は言った。それが己の核なのだなと。だから疑心が染みついて離れてくれないのだなと。
 あのときからだ。いつか来るその日を考えるようになったのは。
 跳べなかった。鎧が重くて船の上から。幼馴染は軽々と跳んでみせたのに。
 次は必ず飛び越える。飛び越えられると信じている。たとえ誰にも望まれていなくても。

 ――騎士というのは極めて概念的な存在だ。
 ――厄介なのはそれが他人に呼んでもらう肩書きだということだ。

 ルディアの言葉を思い出す。主君もなし、剣もなしでは誰もお前を騎士だとは思わない。そう突きつけてきた彼女のことを。
 もういいのだ。名など成せずとも、道の途上で朽ち果てようとも。その先に続いていくものがあるなら。
 きっと自分は騎士になれる。
 焦がれてやまなかったものに。



 ******



 秋深まったアレイア海の船旅は順風満帆そのものだった。風任せに進むのが帆船の基本だが、手慣れた船員が三角帆の調整をまめに行ってくれたおかげでアクアレイアはどんどん近づいてきていた。
 ルディアたちがドナ入りしたのは十一月二十二日の昼下がりのことである。行きはファンスウに止められて船に留まるしかなかったが、帰りは堂々ほかの兵たちと表から仲間を訪ねた。そろそろ落ち着いているかと思った砦は少しも穏やかでなかったが。

「――は、はあ!? タルバに接合を施した!?」

 主館最上階の寝所でルディアは声を裏返す。レイモンドもアイリーンも目を白黒させながらアンバーからの報告を聞いた。
 曰く、バジルがどうしても友人を放っておけなかったらしい。そのうえ彼は接合を受けたのち急に女帝との面会を希望し、アクアレイアに赴いた際に姿をくらませたそうである。

「な……っ! ドナに戻ってきていないのか?」

 動揺のままルディアが問うと部屋の隅で縮こまっていたバジルが更に小さくなった。弓兵を励ますように肩に手を添えたブルーノもさすがに庇いきれないという顔をしている。

「これはまずいと思って私たちもすぐ偵察の鳥は飛ばしたの。三羽も出したし一羽くらいそろそろ帰ってくるはずだと思うんだけど……」

 狐の姿でアンバーが外を気にかける。この部屋は防衛上窓と呼べる窓がないので今は望楼でマルコムが偵察部隊の帰還を待機しているそうだ。
 最悪の場合など想定したくもないけれど、ジーアンに虚偽が露見していればアルフレッドやモモたちに何があってもおかしくない。ルディアはごくりと息を飲んだ。

「あは! なんだか大変そうですねえ」

 焦るこちらとは対照的にハイランバオスとラオタオは手を叩いて面白がる。ろくでなしどもは思いがけない事態の勃発を楽しんでいる様子だ。
 お前たちにも無関係の問題ではないだろう。そう文句をつけようとしたときだった。寝所の扉が激しくノックされたのは。

「たっ、大変です!」

 駆け込んできたウヤ(マルコム)と二羽のハイイロガンがアクアレイアで何が起こったか早口に捲くし立てる。事の深刻さはただのひと言で伝わった。

「十一月二十三日にアルフレッド・ハートフィールドの死刑が執行されるって……!」

 水鳥が掴んで帰ってきたと思しき新聞の切れ端を渡され、ルディアはしばし声を失う。破れてすぐには読み取れないそこには確かに騎士の裁判が行われ、有罪が確定した旨が書かれていた。
 ――アニークがアルフレッドを守れない状況になったのだ。瞬時に理解して顔を上げる。

「二十三日って明日じゃないのか?」

 どよめきが室内に広がる。バジルもブルーノもアイリーンもレイモンドも皆顔面を蒼白にした。
 どんなに急いでもドナからアクアレイアまでは半日かかる。今すぐ戻らねば騎士の救出に間に合わない。

「は、早く港に! 一隻だけでもすぐ出そう!」

 槍兵に腕を引かれ、ルディアはそのまま駆け出した。

「お前たちはドナで待っていろ! 詳しい戦果はアイリーンに聞いてくれ!」

 何もかも放り出し、港へと引き返す。乙女像を積んだ船へと。
 せっかくアンディーンを取り戻したのにアルフレッドが殺されたのでは意味がない。多少強引な手を使ってもなんとか刑を止めなければ。
 長い坂道をルディアは全速で駆け下った。
 腕を掴むレイモンドの手にこもる力はかつてなく強かった。



 ******



 大勢の靴に踏まれて薄汚れた新聞を拾い上げて顔をしかめる。人通りの多い広場で急に足を止めたせいか、すぐ後ろを歩いていた中年男とぶつかりかけて舌打ちされた。

「危ねえな、どこ見てやがる」

 男はこちらをひと睨みすると眉間のしわを深くする。進路を変えさせられただけでも腹立たしいのにもう一つ憤懣(ふんまん)の種が増えたという顔だ。

「変なもんに気を取られやがって。ロマに字なんか読めるのかね」

 月並みすぎる悪態は歯牙にもかけず、カロは紙面に目を通した。雑踏を行くアクアレイア人は誰も彼も見出しにあるのと同じ話題を口にしている。

「やれやれ、やっと裁かれてくれるか」
「これで死者の魂も浮かばれるね」
「明日はもちろん皆来るでしょ?」
「ああ、俺たちの英雄を殺した悪党の断末魔を聞き届けなくちゃな」

 ぺちゃくちゃと鬱陶しい連中だ。耳に届く無遠慮な声を無視してカロは裏側の記事も読む。そこにはアルフレッド・ハートフィールドの処刑が明日正午に実施されること、海軍が広場の警備に当たること、囚人が監獄塔の最上階にて最後の時を過ごしていることなどが書き連ねられていた。
 どうしたものかと嘆息する。ぶち込まれたのが半地下牢なら脱獄を手伝ってやれたかもしれないが、四階まで上がって獄を破るのは己でも難しそうだ。
 アルフレッドにはイーグレットの手紙を届けてもらった恩がある。モリスも彼の安否を心配しているし、できればなんとかしてやりたいが。

(こうなった事情を一番知っていそうな女も一向に顔を見せんしな)

 レーギア宮に呼び出されたモモが戻らないまま一週間が経とうとしている。新聞を信じるなら彼女は現在監獄塔で兄の世話をしているそうだ。
 ジーアンの連中に閉じ込められているのかも、と言ったのはモリスである。なんにせよ迂闊に手を出せる状況ではない。

「ったく、なんで貴族と同じ斬首なんだよ。あんな奴、骨になるまで吊るしてやりゃいいのに」

 海軍らしき鎧を纏う赤髪の青年がカロの真横を通りすぎる。男の引き連れた一団は大鐘楼の正面すぐ、厳めしく立つ二本の鉄柱の前で止まった。
 重罪人に罰を与える際にだけ神殿奥から引っ張り出される黒い柱だ。かつてはロマもしばしばあれの餌食にされた。

「じゃなきゃあいつもユリシーズと同じに大鐘楼のてっぺんから突き落としてやりたかった……!」

 吠える青年に周りの者もまったくだと同調している。
 薄ら寒い光景だった。今はこれがこの国の正しさなのだなと思うと。
 絞首が斬首より一段低く見られるのはそれが盗人に与えられる刑だからだ。首を斬られた者はいつまでも罪と骸を晒されない。すぐに棺が用意され、死後の尊厳は守られる。
 ずっと昔イーグレットから聞いた話だ。だから多分、彼も吊るされないことにこだわった。死ねばそこらの土塊(つちくれ)と変わらないのに馬鹿な奴らだ。

「……どうしたらいいと思う?」

 視界の端で瞬いている小さな光に問いかける。光は首を振るように弱々しくカロの眼前を横切り、危ないから何もするなと忠告した。
 彼が言うならそのほうがいいのだろう。レーギア宮に寄り添って影のごとく立つ監獄塔をちらと見上げ、カロは広場に背を向けた。
 アクアレイア人の考えなど己には未来永劫わからない。守りたいのは友人に託された願いだけだ。
 あの女に「たった一人」が見つかるまではイーグレットの代わりを務める。ただそれだけ。



 ******



 小さな杯になみなみと葡萄酒が注がれている。いつもあのうらぶれた酒場で口にしていたのと同じ。
 最後に欲しいものはあるか。問われてならばと求めたのがこれだった。
 アニークも、ダレエンも、ウァーリも、独房を訪ねる者は皆優しい。彼らのおかげで獄中でも何一つ不自由なく過ごせた。
 鉄格子の嵌まった窓と青銅製の扉以外は上流貴族の私室かと見まがう部屋でアルフレッドは深くソファに沈み込む。杯の酒を半分まで飲み、芳香に一抹の懐かしさを覚えながらペンを執った。
 蝋燭の灯が白紙の便箋を照らし出す。書くべき遺言は既に書き終えていた。テーブルに広げているのはその余りだ。
 己の胸中を言葉にして伝えることは熱を手放す行為に思える。一つ記しては紙一枚分身軽になっていくようだった。今は随分すっきりして、大きな思いは数えるほどしか残っていない。
 詩にでもできたらとインク壺の蓋を開けてみたものの、こんなときまで筆をすらすら走らせることができるのはどうやら詩人だけらしい。酒を頼りに空白と向き合うが、一節も書けぬまま時間だけが過ぎていった。
 ――そうしてどれくらい経っただろうか。気がつけばアルフレッドは薄暗い独房ではなく夕暮れの大鐘楼に立っていた。


「――――」


 目を瞠る。鐘室を照らす赤い光の眩しさに。けれどもすぐに夜が下りてきて視界は半分紺に染まった。
 この空を知っている。太陽の残り火を、その日最後の輝きを、一身に浴びていた男を。
 見渡しても大鐘楼の頂には誰の影も形もなかった。けれど強く彼を感じる。
 そう言えば監獄塔の最上階には二年前ユリシーズも囚われていたのだったと思い出した。
 騎士の道を踏み外し、ゴンドラレガッタで海軍に連行された後、彼は孤独に何を思っていたのだろう。たった一人で、愛した姫から遠く離れて。
 二人で騎士に戻るはずだった。自分が腕を掴みそこねた。
 ――だけど。

「…………」

 アルフレッドは足を踏み出し、縁石ぎりぎりまで歩を進める。あと一歩前へ出れば広場に落ちるというところまで。
 壁の代わりの列柱に手を添えて闇を見下ろした。彼が墜落した夜の底。
 石畳には歪な穴が開いている。そのすぐ側には鉄の柱が。

「……もうすぐ行くから待っててくれ」

 小さく呟く。
 多分お前の望んだ形ではないけれど。
 正解からはうんと遠いかもしれないけれど。

「どうしてもこうする以外できないんだ」

 ――そこでふっと目が覚めた。
 燃え尽きた灯りの灰がかすかに便箋に零れている。ペンはその横に転がって、誰が飲んだのか酒杯は空になっていた。
 アルフレッドは塵(ごみ)を払い、ペンとインク壺を片付ける。
 書き残したい言葉はもうない。彼になら向こうで会えば伝えられる。
 行かなければならなかった。夢をこの手に掴むために。
 明かり取り用の小窓からは涼やかな朝の光が差し込んでいた。



 ******



 物語が終わるとき、幕は一体どんな風に下りてくるのだろう。
 まだ少しも想像がつかない。ここにある意識がどうやって途切れるのか。

「準備はいいか」

 独房まで迎えにきたのはダレエンとモモだった。アニークは先にウァーリに連れられて広場へと向かったらしい。
 いつもノウァパトリア風の上等な服を着ているのに今日のダレエンは刑吏に扮して地味な黒装束を纏っている。アルフレッドも「これを着ろ」と首回りの広く開いた新しい上衣を渡された。
 首斬り役になってくれたのは「下手な奴がやると刃が通らずに長く苦しむ」からだそうだ。確かに彼の腕ならば痛みなど感じる暇もないかもしれない。
 着替えの前にはモモが散髪してくれた。「髪が長いと刃が引っかかるでしょ」と鋏(はさみ)を向けてくる彼女はこちらがやっぱりやめたと言うのを待っているように見えた。
 この一週間、妹からは何度も考え直すべきだと諭された。帝国の乗っ取りが進めば状況はいくらでも変えられる、一人で全部背負いすぎだと。それはそうかもしれないが、首を縦には振れなかった。
 逃げられないのだ。こうしたいと願う己の心からは。
 取れる責任は取りたかった。ルディアが検討してくれるならアニークたちを死の運命から救いたかった。十将との仕切り直しが必要で、人質が命をもって贖えば話が次へ進むとしたら、いいと言わざるを得ないだろう。そうして主君に忠義だけを残せるなら。

「終わったよ」

 シャキン、シャキンと響いていた音が止む。鋏を置いた妹に短く礼を述べ、アルフレッドは貰った服に袖を通した。

「……いいんだね?」

 牢の外へと出る前にもう一度念を押される。こくり頷くと先導のダレエンに続き、監獄塔の狭い通路を歩き出した。
 石積みの塔は三階部分がレーギア宮と繋がっている。屋根付きの橋と言えば大運河の真ん中に架かる真珠橋もそうだけれど、壁と窓で完全に塞がれているのはここだけだ。罪人と兵士以外は行き来もない短い石の橋を過ぎ、いくらか慣れた景色に戻る。
 閑散とした宮殿内には使用人の姿もなかった。王国が斃れてからは最低限の下男下女しか見かけなくなっていたが、今日はまったく人間の気配がしない。全員広場に出ているのかもしれなかった。少なくとも十人委員会はそうだろう。きっと街中の人々がユリシーズを悼むために集まっている。

「――――」

 アルフレッドが腰の曲がった人影に気がついたのはいくつかの部屋を抜け、中庭へ続く大階段を下っているときだった。囚人がここを通ると事前に知っていたからか、老詩人が手すりの陰から暗い眼光を覗かせる。

「ほれ、やはり騎士などろくな生き物ではない」

 勝ち誇ったかのような笑み。歪んだその表情を見ても、悲しみや憤りはもう湧いてこなかった。
 なんだこいつと言わんばかりの渋面を作るダレエンとモモの横で立ち止まり、アルフレッドはパディと向き合う。彼にも伝えたいことがあるのを思い出したから。
 脳裏に甦ったのは幼い情景。夢中で読みふけった写本。誰かに剣を捧げたいという願い。胸に抱いた星の輝き。
 言葉を綴った者の真意がどうであれ、物語はきっと誰かと出会うためにある。
 追いかけた憧れは間違いだったかもしれない。彼の言う通り騎士というのは世界一の愚か者なのかもしれない。それでも。

「――ありがとう、騎士物語を書いてくれて」

 ひと言だけ感謝を告げてアルフレッドは目を細めた。
 憧れが、夢が己を育ててきた。それだけは本当だ。

「あなたと同じ時代を生きられて良かった」

 歩き出す。背後でパディが息を飲む音がした。
 回廊と衛兵控室を抜ければ正門はすぐそこだ。耳を澄ませばたくさんの人のざわめきと息遣いが感じ取れた。
 ――鐘が鳴る。時の巡り、戦いの始まり、祝福されし夫婦の門出も、罪人の死も、すべてを知らせる鐘の音が。
 晴れやかな空に高く響いている。人々の放つ怨嗟の声を掻き消して。



 ******



 一睡もできないまま朝を迎え、次第に高く昇っていく太陽に焦燥を募らせた。
 風がもっと強く吹くよう、波がもっと速く駆けるよう、無力に祈ることしかできない。
 海門を越え、視界にアクアレイアの街並みが映ったのは正午の鐘とほぼ同時だった。
 ルディアは見る。広場いっぱいに集まった群衆を。彼らにぐるりと囲まれた罪人と首斬り人を。そこで今から何が行われようとしているかを。

「……ッ! お行儀良く商港に錨を下ろしている時間はない! このまま直接乗り込むぞ!」

 国民広場に船が横付けするのは珍しい話ではない。特別な荷を積んでいればそちらで下ろすのがむしろ普通だ。レイモンドも「わかった」と船長に指示を出す。刑はまだ執行されないと信じたかった。
 この先は弁舌で延期を訴えるしかあるまい。アンディーンがアクアレイアに帰ってきたのに血なまぐさい真似はよせと。そのためには力づくでも処刑台の前に割り込まねばならなかった。
 広場はひと目で海軍とわかる武装兵が監視している。単独では突破するのも厳しそうだ。

「倉庫の聖像を持ってきてくれ! 私が下で時間を稼ぐ。お前は甲板から皆に守護精霊の帰還を知らしめろ!」

 ルディアが叫ぶとレイモンドも手早く船首で準備を始めた。華々しく朗報を演出するべく彼はまず衣服から整える。
 本当は波の上を揺れる船で石像なんて重い荷を出し入れするべきではない。しかし時は一刻を争う。海軍も、民衆も、船の存在に気づいていた。こちらが介入しようとする気配も見て察しているだろう。何しろ船は水先案内の誘導を無視して広場へと直行している。

「おい、止まれ! そこの船! 荷揚げのスペースなんかないのが見えねえのか!?」

 大鐘楼の麓には海軍兵士が群がってこちらに退けとジェスチャーしていた。だが船は彼らを無視して前進する。橋板を渡す時間も惜しく、ゴンドラ溜まりの真横を通過した際にルディアは船縁を跳び越えた。
 小舟の一艘に着地すると高く波しぶきが上がる。傾きすぎたゴンドラから次のゴンドラへと移り、足を縺れさせながらなんとか広場の一隅に辿り着いた。そのときにはもうレドリーが壁を作って立ちはだかっていたけれど。

「ったく防衛隊はこれだからよ……! 騒乱罪で逮捕されたくなきゃ大人しくしてろよ……!」

 一、二、三――どう見ても十人は引き連れている。多勢に無勢だ。ルディアは犯罪行為に及ぶ意志がないことを示すべく両手を上げる。そうしてゆっくり横歩きして少しずつ二本の鉄柱に近づいた。
 けれどまだ柱の間に立たされた罪人まではほど遠い。赤髪は見えているのに兵がどんどん集まってきてますます壁が厚くなる。レイモンドもコリフォ島でアンディーン像を取り返したと演説を始めたが、まだ御神体は引っ張り出せていなかった。

「アルフレッド!」

 こちらへ来いと命じる代わりにルディアは騎士に呼びかける。名を呼ぶ以外は具体的に何も言えないのが歯がゆかった。アルフレッドはいまだ重罪人なのだ。逃亡幇助と受け取られれば今後に響く。

「アルフレッド! 聞こえたなら返事をしろ!」

 騎士の頭がこちらを向いたように見えた。前方を塞ぐ何人もの兵士のせいであまりはっきり目視はできなかったけれど。

「おい、これ以上近づくな! 死刑を妨害するつもりか!?」

 肩を掴む男を突き飛ばしたかったが、堪えて睨みつけるに留める。「側に行くくらい構わんだろう!?」とレドリーの指を剥がして無理やりに歩を進めた。
 なんでもいい。少しでも斬首を遅らせることができたなら。
 海軍と派手に揉み合いながらルディアは広場に打ち立てられた黒い鉄の柱を目指す。いつも一分とかからない距離が今は果てしなく遠かった。かわしてもかわしても伸びてくる腕は減らない。堅牢な人壁は破れず、踏みとどまるのが精いっぱいだ。

「アルフレッド……!」

 ルディアは叫んだ。声の限りに。
 どうしても助けてやらねばならなかった。全部己の不甲斐なさのせいだから。
 騎士の誓いを立てさせたくせに彼の人生を引き受ける覚悟がなかった。己の弱さがすべての元凶だったのだから。

「アルフレッド……っ!」

 無我夢中で手を伸ばす。前へ出ようと人波を掻く。
 もう一度やり直すために。
 歓声は不意のタイミングで沸き起こった。
 それが何を意味するものなのか、しばらくルディアにはわからなかった。



 ******



 運命も妙な計らいをするものだ。何もかも終わった後の帰国になると思ったのに、最後の最後に彼女に会わせてくれるとは。

(姫様――)

 重罪人の席である二本の柱の中央でアルフレッドは顔を上げた。そうすると海軍兵士に押し戻されまいと踏ん張るルディアがよく見えた。
 主君が従者のためになど身体を張らなくてもいいのに。
 もっと大きなもののために彼女は力を使うべきなのに。

(なんだかんだ言ってあの人も優しいな)

 くすりと笑う。やはり自分は主君がルディアだからこそ側にいたい、ずっと支えていきたいと思うのだと。
 見物人が囃し立てる声は聞こえていなかった。傍らで曲刀を握るダレエンも、大鐘楼の前に陣取るアニークも、女帝をしかと支えるウァーリも、鉄柱の側に控える母や弟妹も、今巻き起こった騒ぎよりアルフレッドをじっと見ている。
 国民広場はかつてなく混み合い、けれど自分の周りには数えるほどしか人がおらず、なんとなく円形劇場を思わせた。舞台袖は騒々しいが、そろそろ幕を引かなくては。

「どうする? 少し待つか?」

 刃を引っ込めたほうがいいか問われ、アルフレッドは「いいや」と首を横に振った。決心は変わらない。己がすべてを清算するべき者であるのも。
 半端に曲刀を構えたままダレエンがちらと前方の海軍兵士の一団を見やる。ルディアがそこを抜け出せそうな様子はなく、彼は得物を持ち直した。そして数歩後ろに下がる。最も斬りやすい位置から罪人の首を落とすために。
 民衆が声高く叫ぶ。だがやはり「殺せ」も「死ね」もアルフレッドの耳には入ってこなかった。視覚も聴覚も一切が彼女しか追おうとしていない。
 死の前の極限状態では通常起こり得ないほどの集中力が発揮されると言う。自分の全神経が何を求めているのかが、一つ呼吸をするたびに、鮮明に、鮮明になっていき、そのことがただ嬉しかった。

「本当にいいのか?」

 もう一度尋ねられる。待ってやってもいいんだぞと優しい響きのある声で。だからこちらも「いいんだ」ときっぱり返した。
 これ以上ルディアやレイモンドを海軍と争わせるわけにいかない。二人には王国の重要機関と無用な軋轢を生じさせたくなかった。十人委員会のお歴々も今頃困っているだろう。言葉は交わしたいけれど交わさないほうがいい。

「やってくれ」

 ダレエンが仕留めやすいようにアルフレッドは石畳に膝をついた。懐かしいあの日、騎士に任ぜられたあのとき、主君の前に跪いた姿のままに。
 誓ったのは生涯の忠誠。死しても続く主従の契り。
 形式的なものだとルディアは言うかもしれない。だが己にはあれがすべての始まりだった。

 ――ああ俺は、この先きっとこの人のためにどんなことでもするだろう。

 剣に口づけを授けられたとき、芽生えた予感を覚えている。まだ恋もせず、嫉妬もなく、単純だったあの頃の。
 偽物だの本物だの思い悩むこともなかった。
 悪くはあるまい。あのまっすぐさをもう一度取り戻せるのなら。

「俺には雑念が多すぎた」

 笑って自己反省を述べた。一つしか手に取れないほど不器用なのに、多くを望みすぎてしまったと。ダレエンは「そんなことはないと思うが」と否定してくれたけれど。

「安心しろ。二人目のお前も俺たちが面倒を見てやる」

 背後で刃が掲げられる。ちらついた光でそれを知る。
 ああ、本当に終わるのだ。
 二十年。長いようであまりに短い歳月だった。
 これから積み重なる時はちゃんと自分を追い越してくれるだろうか。
 ルディアやほかの皆にも優しく寄り添ってくれるだろうか。

(姫様――)

 屈んだままルディアを見上げる。レドリーはまだ防衛隊を広場に入れまいと力を振り絞っている。
 最後にひと目見られて良かった。物語の続きを知ることはできずとも、己の何が次の始まりになるのかはわかる。こんなにもはっきりと。

 ――心ばえ正しく、立派な騎士になってください。

 耳の奥で響いた声に目を伏せた。

 ずっとあなたの側にいる。
「たった一人」になれるよう。



 ******



 何かが跳ねる音がした。
 重い何かが、固い地面に。
 鼻をついた血の臭いに思考が完全停止する。頭と一緒に手足も止まり、目を瞠ったまま立ち尽くした。

「――……」

 甲板から響いていたレイモンドの演説も止まっていた。民衆の興奮があまり激しすぎたためか、海軍はたちまち全員広場へと引き返す。防衛隊の妨害などもはやどうでもよさそうに。

「アルフレッド……?」

 黒々と光る鉄柱の間に目をやれば頭部のない誰かが血溜まりに伏している。ドレスが汚れるのも厭わず落ちた頭を抱え上げたのはアニークだった。
 首と胴とが離れたら普通人間は生きてはいない。当たり前の事実を飲み込むことさえ容易でなかった。
 その後どうやって広場から離れたのか、誰に腕を引かれたのか、どうしても何も思い出せない。



 ******



 ようやく頭が回りだしたのはレーギア宮に連れてこられてからだった。寝所に続く前室で呆然とするルディアたちにモモが何度もこんな事態になった経緯を説明してくれていたように思う。
 まだしも冷静を取り戻しつつあった己と違い、レイモンドは完全に虚脱していた。ダレエンたちには「とにかく待て」とだけ言われ、かつての己の自室を前に時間と心を持て余している。
 ――接合について一部情報が漏れてしまった。考えるべきは今後の対応だというのに、麻痺してしまった頭では打つ手が何もひらめかない。いざとなればドナに連れ込んでどうとでもできるから考えずとも良かったのは確かだが。
 どうとだってできるのにどうして死なせてしまったのか。自分を責める言葉だけが頭の奥にわんわんと響いている。

「入っていいわよ」

 ドアを開いたウァーリの両手は汚れていた。長いスカートには濡れたような染みがあり、中で何をしていたのだろうと思う。
 否、それもモモがさっき話していた。アルフレッドは人質として死ぬことを受け入れた代わりに彼らに一つ願いを聞いてもらったのだと。
 彼の願いはジーアンの蟲の命を延ばし、アクアレイアと敵対しない形で器を与えること。そう、それから――。

「……アルフレッド……」

 おそるおそる入室したルディアが見たのは棺の中に横たえられた騎士だった。不可解なのは先刻切り落とされたはずの首が元通りくっついていることである。アルフレッドの首回りは何かの液体で湿っており、なぜかフスの岬での出来事を思い出した。
 ――誰の脳髄液を使って遺体を修復したのだろうか。

「あなたのせいよ……」

 骸の首元に座り込んでいた女帝がルディアを強く睨む。涙でぐちゃぐちゃになった頬を拭いもせずにそのまま向けられ、意味がわからず顔をしかめた。
 アルフレッドを殺したのはジーアンだ。自分たちだって取引の条件を守らず小砦を建設し、好き放題に振る舞っていたくせに。呆れて言葉も出てこない。――いや、違う。考えようとしていないだけだ。何が彼に――、誰への思いがアルフレッドにこんな真似をさせたのか。

「良かったわね。これで彼もあなたと同じになるんだから」

 アニークは手にしていた小瓶を傾け、騎士の耳に中身を注いだ。透明な水はすぐに尽き、空の小瓶が放り出される。
 気がつけばルディアはふらふら棺のもとへ歩き出していた。
 爪先に力をこめても現実味がなさすぎて、夢の中でもさまよっているのではないのかと錯覚する。

 ――あるよ。どうしても誰も信じられない。

 どうして今、彼に告げた言葉が甦るのか。
 どうして彼がこんな願いを託した理由がわかるのか。
 あれはアルフレッドに献身を諦めさせようと口にしたことだったのに。
 血の気が失われていた腕に、指に、肩に、首に、頬に、額に、耳に、赤みが差す。唇が薄く開き、鼻が息を吸い始め、閉ざされていた瞼が開く。

「――――」

 棺の中で目を覚ましたアルフレッドは最初しばらくぼんやりしていた。彼はまず隣のアニークを見、逆隣のダレエンを見、ドアの側に立つウァーリを見、押し黙るモモを見、無言で震えるレイモンドを見、最後にルディアを赤い瞳に映し出した。
 瞬間、何かに弾かれたように騎士が身を起こそうとする。生まれたばかりで肉体の扱い方も知らぬまま、それでも必死にルディアのほうへ近づこうと。

「あ――」

 不格好な忠誠のポーズだった。くぐもった声は名前など呼ばなかった。
 半分棺に入ったまま、ただ腕だけをまっすぐこちらに伸ばしてくる。それですべてを理解する。

「あ、あ――」

 言葉も紡げぬアルフレッドを前にして、崩れるように膝をついた。
 身震いを抑えられない。こんなことは頼んでいないと叫びだしそうだった。
 視界が滲む。胸が痛い。
 教えてはいけなかったのだ。どんな困難を与えても乗り越えて進んでしまうこの男に、誰も信じられないなんてことは。
 また私が間違えた。
 見くびって、本気にしないで、信頼からも理解からも逃げたから。

「……馬鹿なやつ……」

 掠れた声で呟いてルディアは騎士の頭を抱きしめた。ほかにどうしてやればいいのかわからなかった。
 別の姫に仕えてもきっと平気だったのに。
 お前はお前のことだけを考えていれば良かったのに。

(私が私でなくても同じだなんて言ったから――)

 いつも、いつも、己のほうに覚悟が足りない。誰かの心を引き受ける覚悟。だから悲劇を招いてしまう。

「……なんで……?」

 レイモンドが呟いた。
 乾いた問いへの返事はなく、晩秋の長く冷たい夜を告げる鐘の音だけが遠く遠く響いていた。










(20200724)