正しさなんてその瞬間には証明されない。己の行いがどんな形で報いられることになるかは。「あのときああしていて良かった」と心から思えるようになるのは大抵ずっと後の話だ。「あのときあんなことしなければ良かった」と心から悔いる羽目になるのも。
 それが大きな決断であればあるほど変化する未来の総量は大きい。想像すらしなかった事態だって十分に起こり得る。だがどんな結果になったとしても、タルバが死んでいなくなるよりずっといい未来のはずだ。己はそう信じている。信じているのだけれども――。

「バジル」

 背後から名を呼ばれ、びくりとバジルは肩を跳ねさせた。

「なっ、なっ、なんでしょう……?」

 極力なんでもないふりで異国の友人を振り返る。窓を開いて光を入れた工房一階の作業場ではいつも通りタルバが床を掃き清めていた。図面やら何やらで散らかった広い机に向かいつつ、バジルは肩越しに彼を見上げる。

「そろそろ砦に顔出しに行かないか?」
「アッ、ハ、ハイ」

 投げかけられたのが日常的なやり取りの一種でホッとした。箒(ほうき)を壁に吊るすタルバの表情は今も強張ったままであるが、ひとまず返答に窮する類の厳しい問いかけではなくて。
 彼に「接合」を施してから約十日、バジルは絶え間ない気まずさの中にいた。必死の泣き落としによって当初の目的は果たしたものの、次はまた別の難題に直面することになって。
 当然ながら内外で何が起きようと生活というものは続く。目覚めたタルバは最初の数日「どうやって寿命なんて延ばしたんだ」「知っていることがあるなら教えてくれ」としつこかった。わけもわからず自分だけ助かるなんてあまりに仲間に申し訳ないと。バジルには「砦の退役兵なら急死の心配はありません」と答える以外どうしようもなかった。そうしてぽろぽろ、黙っておくべきことまで口にしそうになり、今はだんまりを決め込んでいる。
「やめてください、本当にこれ以上僕に何も聞かないでください」とバジルが懇願するに至り、タルバはようやく質問攻めをやめてくれた。代わりに前より会話は少なく、空気は重く、二人の距離は遠くなってしまったが。
 やり方を間違えたのではという不安は日に日に大きく膨らんでいく。今からでもブルーノやアンバーに相談するべきではないか。そう悩んだが、結局何も言えずじまいだった。だってもしタルバがほかの退役兵と同じようにガラス瓶住まいになったとしたら、それこそ本末転倒だろう。自分は彼に幸せに生きてほしくて接合という道を選んだのだから。

「……おい。おい、バジル」

 呼びかけてくる声に気づいてバジルはハッと目を上げた。見れば己の向かう机の傍らに帽子を被って外出準備を整えた友人が立っている。

「それまだ終わらないのか?」

 問われてバジルは慌てて椅子から立ち上がった。「あ、いや、これは後回しで大丈夫です」と新しく取りかかっていた仕事を机の端に寄せる。すると長身の友人が上から紙面を覗き込んだ。

「あなたの生活を豊かにする新時代の工芸品……?」
「えっと、これは宣伝広告なんです。アクアレイアに活版印刷機が導入されたそうなので、製品カタログなんか作れたら販路確保に役立つかなと」

 鏡にせよ、レースガラスにせよ、知ってもらわないことには始まらないのでと続ける。タルバは「そうか」とだけ呟き、足早に工房玄関へ消えていった。

「…………」

 話題の広がらなさにハハ、と頬が引きつる。彼の戸惑いはわからなくもないけれど、ここまで露骨に態度を変えずともいいではないか。前はもっと打てば響く返答があったのに。タルバにしてみれば敵か味方か、隠れて何をしているのか、判別つかぬ人間相手にどう接するか決めかねているのだろうが。

「……はあ……」

 玄関扉の開く音に嘆息する。今のところタルバは誰にもこの件を漏らしてはいない様子だった。「恩人の頼み」というのは彼の中で非常に重く作用するものらしい。
 取り消したいと願っても接合はもはや取り消せない。バジルとしては友人の律義な性格を信じる以外できることは何もなかった。もとより彼なら大丈夫と踏み切ったのは己である。陰鬱を振り払うようにバジルも玄関へと向かう。
 タルバは表で待ってくれていた。「待たせてすみません」と隣に並び、心境に反して明るい昼下がりの小道を二人で歩き出す。
 目を見ないのはそこに猜疑を感じ取りたくないからだ。
 わかっていた。急速にすべてが歪みだしたこと。

(それでもタルバさんならこのまま黙っていてくれるはず)

 二人の間の秘密であれば何も起きることはないのだ。彼も己も、どうか平穏無事でいられますように。
 バジルは脳裏にアクアレイアの民を守護する女神の威容を思い浮かべた。
 心の中で五芒星を切って祈る。嵐の中でも微笑んでいる波の乙女に。



 ******



 これで寿命が百年延びた。そう言われても少しもピンと来ないまま、現実味のない現実を格好だけ続けている。
 状況はタルバの理解の範疇を超えつつあった。百歩譲ってバジルがこちらの正体に勘付いたのはいいとして、十将や天帝も把握していない延命手段をなぜ彼が知っているのか。
 何度問うても友人はついに口を割らなかった。ただ砦の退役兵は心配無用と言っただけだ。砦外の――街でドナ人と所帯を持つ者はどうなのかと尋ねたらすっかり口をつぐんでしまって。

(絶対誰にも言わないでくれ……か)

 無茶な約束をさせられたこと、タルバはずっと悩んでいる。それはバジルがジーアンに漏れると困る重要機密を有している何よりの証拠だったから。多分己は彼を捕らえて洗いざらい白状させるべきなのだろう。ゴジャでもウヤでもきっとそうする。一瞬だって迷うことなく。
 だがバジルは師であり恩人だ。狼藉を働くわけにいかなかった。まして彼が少なくない危険を冒して秘密の一部を明かしてくれたことを思えば。
 と同時に「バジルが何を知っているのかわかれば仲間を助けられる」という考えも膨らんでくる。友人の反応を窺うに、延命措置を受けられたのは一部の退役兵だけなのだ。せめて彼の取った方法だけでも探りたい。生き延びるなら全員で生き延びなければ意味がないと思うから。

(こいつはあの日、俺の『本体』に何をした?)

 隣を歩く緑の頭をちらと見やる。砦を目指して長い坂を上るバジルは黙ったまま半歩遅れでついてきていた。隙間から雑草の伸びる石畳を踏みしめながらタルバは記憶を呼び覚ます。
 覚えているのは細い縄を手にこちらに迫ったバジルの顔。据わった目つきと震える腕、用意された水桶だけだ。蟲は器の外にいる間、意識と呼べる意識を持たない。なんらかの処置を施されたとしたら十中八九そのときだった。
 だがいつも思考はここで止まってしまう。当然だ。絶対に覚えていない時間のことを思い出すなどできないのだから。
 更に言えばもう一つ、紛れ込んで邪魔をしてくる記憶があった。心肺停止の仮死状態となっている間、見ていたなんだか変な夢だ。
 どんな身体に乗り換えるときも今までは真っ暗闇から目を覚ますだけだった。それなのにあの日は無意識が働いていたのだ。
 鳴いている。コケッコッコーと鶏の声で。そして見慣れた厨房棟で俺は随分低い位置からケイトの背中を見上げている。

 ――絞めるのを手伝ってくれるの? ありがとう。

 俺の後ろにいる誰かに礼を述べる彼女の姿は鮮明だ。アレイア語もはっきり聞き取れる。気になるのはこの夢が退役兵の間で流行った「鏡の間の白昼夢」と似通っていることだった。
 このところめっきり大人しくなった同胞はタルバが「最近砦で変わったことはないか?」と聞くと決まって例の幻について語る。まるでそれが慈しむべきかけがえない記憶ででもあるかのごとく。
 はっきり言って不気味だった。何がどうとは言葉にできないところが特に。
 一体ドナに何が起こっているのだろう。どんなに頭をひねってもタルバには一切が謎のままだった。わかるのは、今この街が見かけ通りの平穏にはないということだけだった。

(誰かに知らせるべきなんだろうな)

 またちらと揺れる三つ編みを盗み見る。なるべく平静を保ちながら。
 ファンスウは兵を集めてコリフォ島へ発ったらしいがアクアレイアにはまだアニークがいるはずだ。古龍が彼女を一人にしておくわけがないからほかにも数人宮殿に留まっているのは間違いない。たとえば十将の誰かとか。
 砦に出入りする商人の船に乗ればアクアレイアはおよそ一日の距離である。上層部に問題を報告するのはそう難しい話ではない。
 だがそれはバジルを帝国の敵として突き出すのと同義だった。彼の持つ情報が有益なものであればあるほど尋問は過酷になる。わかっているからタルバも迂闊に動けなかった。
 敵だとか、味方だとか、そんなことお構いなしに技術を伝授し、病を癒してくれた男。そんな相手との約束を破り、秘密を口外するなんてしてはならない不義に思える。

(けどこのままじゃジーアンが……)

 千年の記憶は「同胞のためにこそ駆けよ」とタルバの胸に迫ってくる。
 どうすればいいのだろう。言えば恩人を窮地に追いやり、言わねば裏切り者になる。どちらも傷つけたくないのに。

(どうすりゃいい?)

 いつの間にか長い坂道は終わっていた。タルバは押し黙ったまま石の砦の門をくぐる。
 己がこんな態度だからかバジルは所在なさそうだった。
 答えは今日も出そうになかった。



 ******



 切れ込んだ深い入江と小島群が過ぎ去るのを横目に見つつ、アレイア海東岸を南下する船団がヴラシィに到着したのは十一月十日の夕刻だった。ここまで来ればコリフォ島へはあと数日、乙女像ともエセ預言者とも対面はもうすぐである。
 ルディアは帆船の甲板から護衛に囲まれたファンスウの後ろ姿を見送った。ドナで待機を命じてきたのと同じように、古龍はここヴラシィ港でも監視兵を残して市庁舎へ歩んでいく。
 バジルたちはファンスウ乗っ取りに着手できなかったらしい。老将の振舞いは依然変わらず、中身の入れ替えられた気配はない。逆に彼が退役兵の正体に気づいた様子もなかったが。
 砦の仲間と直接的なやり取りこそできなかったが現状は推察できた。古龍を欺けていたならば今のところはそれでいい。帰路にもチャンスは作れるのだ。なんならコリフォ島でだって。

「とりあえず俺、荷揚げの指示だけしてくるわ」

 と、レイモンドが甲板下倉庫へ歩き出す。大本命のコリフォ島が近いせいか恋人の肩はやや力んでいた。一瞬覗いた横顔も普段の彼らしからぬ硬さで。

「レイモンド君、心配ねえ」

 気遣わしげに槍兵を見やったアイリーンにルディアは「そうだな」と呟いた。アクアレイアを出たときからずっと――否、アルフレッドが捕まったときからずっとレイモンドは酷く思いつめている。騎士がああなった原因はどう考えてもルディアにあるのに、まるで自分が配慮に欠けていたせいだと言わんばかりに。聖像さえ取り戻せば自責の念も少しは薄らぐと思うが。

(まあ当面の目標がある今は、印刷工房で留守番していたときよりマシか)

 肩をすくめて息をつく。参っている恋人に何もしてやれないのがつらい。
 アルフレッドにも損な役回りをさせてしまった。ユリシーズの怒りも恨みも本来は己が引き受けるべき代物だっただろうに。
 結果的にはアルフレッドがルディアの盾となってくれたのだ。幕引きの後、勝手に終わったことにした幼い時代の清算を、彼に全部やらせてしまった。
 せめて主君として騎士に報いてやりたいと思う。重罪人の汚名は付き纏うとしても。

「――え? 本当か?」

 船上のジーアン兵が騒ぎ出したのはそのときだった。漏れ聞こえてきた声の中に「天帝」という語句を聞き取ってルディアはぴくりと耳を尖らせる。隣のアイリーンも目を瞠り、船首に固まる兵の一群を振り向いた。

「どうなさったんだろうな。祝祭の時期でもないのに」
「十将全員ということはまた戦でも始まるかな」

 拾い集めたざわめきを総合するに、どうやらヘウンバオスが将軍たちに召集をかけているようだ。ヴラシィには今バオゾから遣わされてきた伝令がいて、タイミング良く来訪した古龍に面会を申し込んでいるとのことだった。
 そう言えばさっきファンスウの出迎えに何人か騎馬兵が降りてきていたなと思い出す。ドナのように自由都市化していないヴラシィには常駐の兵がいて、真面目に勤めているらしい。アレイア海を統括するジーアンの拠点はドナでもアクアレイアでもなく、今のところやはりヴラシィなのだなと感じられた。

「ていうかなんで去年も今年もご生誕祝い取りやめられたんだろうな?」

 とある兵の疑問に誰かが「おい、詮索するなど不敬だぞ」と顔をしかめる。一人が注意の声を上げると喧騒はただちに静まり、甲板にはまた退屈ムードが広がった。ルディアたちの見張りとして二度も待機を言い渡された彼らは陸が恋しそうだ。

(天帝が十将を呼び出している――か)

 案外早くジーアンの頭を狙えるかもしれない。ルディアは秘かに計を巡らす。それから「落ち着け」と逸る己に言い聞かせた。ヘウンバオスをどうこうする前になんとかしなければならないのはファンスウだ。第一今は聖像を入手するのが最優先事項である。

(アルフレッド、大人しく待っていろよ)

 十将が集結するとしたら、アニークもノウァパトリアへ強制帰還させられる可能性が高い。そうなれば騎士を庇護する有力者が誰もいなくなってしまう。
 早く戻ってやらなければ。錨を下ろした船の上、波に揺れる甲板で薄水色の空を見上げ、ルディアは拳を握りしめた。



 ******



 ああもうまったくいまいましい。なんだって私がこんな島暮らしを一ヶ月も二ヶ月も送らなければならんのだ。やるべきことをとっとと済ませて冬になる前にカーリスへ帰りたいのに、長々としょうもない儀式を引っ張りおって。
 ぶつくさと毒を吐きつつローガン・ショックリーは元アクアレイア王国海軍コリフォ島基地司令官室にて盛大に溜め息をついた。
 本当に面白くない。やっと故郷カーリスからラザラス一派の残党を一掃したと思ったのに、今度は双子神ジェイナスを祀る神殿の祭司どもから総スカンを食らうとは。何が「アンディーンに縄張りを荒らされてジェイナスはお怒りだ」だ。「そんな石像をカーリスに置いておくわけにいかない」だ。思い出すだけで腹立たしい。苦心してアクアレイアから持ち帰った戦利品の価値もわからない馬鹿者どもめ。せっかくカーリス共和都市の宗教的格付が一段も二段も上がるところだったのに。
 幾月過ぎても冷めやらぬ怒りにローガンは鼻息を荒らげた。ジーアン帝国に味方してアクアレイアを陥落させるところまでは順風満帆だったのに、近頃は不運に足を取られてばかりだ。息子は政敵に誘拐されるし、アクアレイア人に借りは作るし、おまけに大口融資した印刷機まで持っていかれて。
 今あの国では空前の印刷ブームが起きているという。噂話を耳にするたびにローガンは悔しかった。私だって騎士物語を刷りたかったのだ。一番に新作を読破して、取引先の全員に自慢したかった。それをあんな若造に先を越されてしまうなんて。

(やっぱり許せん、レイモンド・オルブライト! あとブルーノ・ブルータス……!)

 苛立ちは無限に湧いてくる。それなのにできる憂さ晴らしはコリフォ島近辺を通過するアクアレイア船に砲撃を仕掛けることくらいしかなかった。政情がどうであれジュリアンの笑顔さえ見られれば頑張れるのに、息子はろくに口もきいてくれぬままだし、ただただアクアレイア人が憎い。
 汚らわしいゴミどもめ。海をぶんぶん飛ぶ蝿め! あんな連中の守護精霊にアンディーンはもったいない。たとえカーリスに聖像を祀れずとも絶対に奴らの手には返さんからな!

「失礼します、報告です!」

 ノックの音が響いたのはローガンが暗い決意を新たにした直後だった。島の防備を任せている私兵の一人が駆け込んできて「アクアレイアの船団が!」と叫ぶ。

「沈めろ」

 端的にそう指示すると兵は非常に困った顔で「それが連中、ジーアン帝国の旗を一緒に掲げているんです」と続けた。

「どうせ砲撃を回避しようとして取った苦肉の策だろう。構わん、やれ。気にするな」
「いや、確認したところ本当にジーアン人が乗っているようでして。寄港許可を求める手旗信号によれば、帝国十将の一人ファンスウ将軍が同乗中だとか」
「は、はあ!?」

 思いもよらぬ返答にローガンは声を裏返した。軍議用の大テーブルがでんと鎮座するだけの殺風景な一室に間抜けな声が響き渡る。
 聞けば三隻の船団には百名のジーアン兵までいるらしく、「なんであの帝国の将軍はうちでなくアクアレイアの船で移動したがるんだ?」と悪態をつきたくなった。だがとにかく来ているものは追い払えない。「わかった、入れてやれ」と頷いてローガンは自らも軍港に足を急がせた。
 アレイア海が管轄のラオタオならいざ知らず、ファンスウが乗っているとは一体どういうことだろう。あの老将はアクアレイアで女帝の外遊の付き添いをしていたのではなかったか。

(本当に何をするか読めん奴らだ)

 螺旋階段を駆け下りながら「アニーク陛下もご一緒か?」と尋ねる。しかし東パトリアの旗は上がっていなかったそうで、はてとローガンは小首を傾げた。まあいい。せいぜいごますりをして売り込んでおこう。ファンスウもまた顔を覚えてもらって損はない相手だ。
 冷静に実利を計算できたのは階段を下りきるまでだった。石の壁に囲まれた堅牢な軍港で、ローガンは二度と会いたくなかったアクアレイア人たちと再会することになる。



 ******



 アレイア海のただ一つの出入口、狭い海峡を守る門であるコリフォ島は軍事的にも交易的にもアクアレイアにとって重要な島である。がめついカーリス人どもに基地を奪われた今となってもその事実は変わらない。アクアレイア商船はこの島のすぐ側を通過せねばほかの海へは出られないし、諸外国の船もまたここを通らねばアクアレイアに到達できない。本国を取り返したその後は早急に奪還するべき防衛拠点だ。

(久しぶりだな。ここへ来るのは四度目か)

 城塞の一部でもある武張った石造りの軍港でルディアはようやく固い地面に足をつけた。記憶の中にあるのと変わらぬどっしりとした桟橋から二重胸壁に防護された重厚な砦を見上げる。
 ここの設計には確か、若かりし頃のトレヴァー・オーウェンが携わっていたのだったか。戦史に詳しく築城の知識も豊富だった元海軍大佐の顔を浮かべ、ルディアはわずか目を伏せた。彼の娘を救ってやれなかったこと。砦を見るとどうしてもそれを思い出してしまって。
 しかし感傷に浸っている暇はない。ルディアは再び前方に顔を向けた。内部へ続く通用口のやや手前、カーリス兵と思しき集団が固まっている周辺に。
 おそらく彼らは戦時に一時招集される正式な軍隊ではなく金で雇われた私兵だろう。その証拠に全員がある男を庇うようにして立っている。高級コットンで肩と胸を異常に膨らませた豪商を。

「なっ……なっ……なっ……」

 ぱくぱくと口を開くローガンは「なぜ貴様らがここにいるんだ」という顔をしていた。あえてそちらは気に留めず、ルディアはアイリーンやレイモンドと桟橋の後方に回る。
 甲板からは次々とジーアン兵が降りてきていた。船着き場を埋め尽くす勢いの彼らに守られ、古龍もコリフォの地に降り立つ。

「ローガンじゃったか。久しいの」
「あっ、は、はい! ご無沙汰しております!」
「ここの頭目は今おぬしか? 一つ頼みたいことがある」
「ははっ! なんでございましょう?」

 畏まる豪商にファンスウは軍港及び漁港の一時封鎖を要求した。島内にいるハイランバオスを逃がさないためだろう。「封鎖ですか?」と戸惑うローガンに老将は有無を言わせぬ圧で頷く。

「そう長い期間ではない。我々がこの島に留まる間だけだ。早ければ今日にも出航するかもしれんしの」
「は、はあ。……ええと、あの、失礼ですが、コリフォ島へは今回どういったご用向きで?」
「ほんの視察じゃ。おぬしは深入りせんでいい。ところで兵士を休ませるのに中を借りても良かろうな?」

 古龍の対応はにべもない。なんの説明もしないのに施設の一部を明け渡せと命じられ、豪商は口髭をひくつかせた。その強張った愛想笑いもファンスウが「ああ、そうじゃ」とルディアたちを振り返るや完全に凍りつく。

「あやつらに船賃として波の乙女の聖像を持たせてやると約束しておるのだ。この島にあるのじゃろう? それも渡してやってくれ」
「――は、はああ!?」

 抵抗の滲む返答を古龍は「なんじゃ?」と一蹴する。

「元々天帝陛下がおぬしに賜ったのはこの島だけで、聖像はどさくさまぎれにおぬしがかっぱらっただけじゃろう? 文句があるのか?」

 ほんのひと睨みでローガンは「いえッ! 滅相もございません!」と反発を引っ込める。どうやらアンディーン像は滞りなく返却されそうでほっとした。

「へへ、じゃあさっそく引き取りに行っても?」

 二人のやり取りを見守っていたレイモンドがそわそわしながらそう尋ねる。老将が「ああ、行ってくるがいい」と頷くと槍兵は表情を輝かせ、ルディアとアイリーンの背中を押して歩き出した。早く行こう、もう我慢できないという様子だ。

「ああ待て、おぬしはこっちじゃ」
「キャッ!?」

 と、移動の途中で腕を掴まれたアイリーンがよろけて古龍に寄りかかる。何言う間もなくファンスウは「ついでにあれを探してこい」と声を潜めた。
 どうやら彼はルディアたちがハイランバオスを見つけてくるまで人質としてアイリーンを預かっておくつもりらしい。更に古龍は指笛を吹き、三羽の鷹を呼び寄せた。監視役ということだろう。彼らはルディアの頭の上でぐるぐると旋回を始める。まったく用心深い男だ。

「警戒させたくないからな。しばらくの間、我々はこの砦で待つことにする。段取りが整ったら報告に戻れ」
「……わかった」

 耳打ちに小さく頷き、ルディアは桟橋を歩き出した。レイモンドも心配そうにアイリーンを振り返りつつすぐ隣についてくる。

「どうしたんだ? 聖像を返してくれるんだろう?」

 憎々しげに眉をしかめるローガンに正面から問いかけると悪党は精いっぱいの丁重さで「も、もちろん、神殿までご案内いたしますよ」と強がった。踵を返してスタスタと進み始めた彼の合図で二十名ほどの屈強な男たちも追随してくる。
 ぎょっと目を剥いた槍兵がルディアを守るように身構えたので「聖像の運搬要員だろう」と言って落ち着かせた。当たり前だが石像は重い。一人や二人で運べるようにはできていない。

「あ、そっか。そうだよな」

 まだどこか冷静でないレイモンドの焦燥が見て取れてルディアは小さく息をついた。本当に、早く安心させてやらねば。

「では行ってくる。アイリーン、また後でな」
「え、ええ! 頑張ってね!」

 肩越しに別れの挨拶だけするとルディアたちはローガンの私兵の列の最後尾に加わった。いくつかの小門を抜ければ砦町はすぐそこだった。



 ******



 十一月も半ばと言うのにこの島の風は柔らかい。空はどこまでも高く青く、冬など訪れそうもなかった。いたるところにオリーブの樹が枝を伸ばし、固く油分の多い葉が光っているのも相変わらずだ。
 カーリス兵の背について歩きつつレイモンドは緑濃き小さな街を見回した。自然の景色は以前と同じでも道行く人々はそうでもない。肩と胸を膨らませたカーリス商人が我が物顔で大通りを闊歩(かっぽ)しているし、地元民らしき男は彼らを避けてこそこそと道の端を歩いている。まだ正午にもなっていないのに老人や女子供の姿がないのは治安が悪化している証拠だ。アクアレイアに帰り損ねた島民が受けている抑圧が窺えた。
 声をかけられそうだったら声をかけようと思ったが、男は兵士の一団を見るなりそそくさと進路を変えてしまう。路地裏に逃げ込んだ背中だけかろうじて覗けたが、ぼろを纏う後ろ姿のみすぼらしさに同情せずにはいられなかった。隣を見ればルディアも厳しい表情をしている。
 毒づきたくもなるだろう。元王国領がこの有様では。ほとんど手入れされていない道路脇の汚水溝だとか、商館に改装されてしまったらしい公会堂だとか、目に入るのはそんなものばかりだ。コリフォ島民がまともに生活できていないのが想像できて嫌になる。帝国十将の足として同行している自分たちも油断はしないほうが良さそうだ。

(この分じゃ陛下の遺体もどうなってっかわかんねーな)

 街の西側に位置する小高い丘を振り仰ぎ、レイモンドは唇を噛む。あれからイーグレットの骸がどう処理されたのか噂でも耳にしなかった。酷い状態にはないと信じたいが、そうかと言って立派な墓を建ててもらえたとも思えない。せっかくコリフォまで来たのだし、どうにか確かめられればいいが。

「…………」

 今度は無言で隣の恋人を見下ろす。彼女の頭にも父親のことがないわけではないだろう。優先事項の第一位ではないかもしれないが弔いくらいできればなと頭の隅で考える。今は己も、それよりは聖像のほうが大切だけれど。

(アル…………)

 幼馴染の姿を瞼に浮かべるたびに後ろめたさはいや増した。早くまた笑って過ごせるようになりたい。腹を割って話がしたい。こんな気持ちをずるずると引きずらなくてもいいように。
 何がいけなかったのか。終わったことをこね回しても仕方ないのに苦悩するのをやめられなかった。元の関係に戻れるのか、自分は許してもらえているのか、すぐに不安でいっぱいになって。
 かぶりを振ってレイモンドは思考を散らした。背負いすぎないように生きるのは得意だったはずだろう。そう自分に言い聞かせる。

「神殿というのはあれか」

 と、ルディアが小さく呟いた。見れば一団の先頭は閑散とした街路を抜け、こじんまりした漁港のある入江に到達せんとしている。入江の最も切れ込んだ部分には三角屋根を戴く白い建物が鎮座していた。
 波の乙女の名が示す通り、アンディーン神殿は海の間近にあることが多い。コリフォ島にはもう一つ古い聖堂があるけれど、そちらは東パトリア帝国時代のもので現在は使われていなかった。たまに駆け出しの商人や防衛隊のような組織が宿泊所代わりにするものの、像も何もないただの質素な館である。
 現在向かっているのは東パトリア皇帝からアクアレイアにコリフォ島が譲渡されたとき改めて女神のために新築された神殿だ。本国のアンディーン神殿の分社なので地元民か信心深い者でなければわざわざここには詣でない。けれど今、島に聖像を置いておくならここしかないという場所だった。

(よし、気合入れていくぞ!)

 レイモンドはぴしゃりと両手で頬を打つ。幼馴染を救うためならいくらでも身を切るつもりだった。だがそんなレイモンドを嘲笑うかのように、前を行くカーリス兵らがにやけた顔で振り返る。

「五体満足で残っているといいがな、お前たちの女神様」

 不穏な台詞にレイモンドは「は?」と眉間にしわを寄せた。しかし待てども返事はない。嫌な沈黙が続くのみだ。

「どういう意味だよ」

 重ねて問うてもやはり下品な笑み以外反応らしい反応はなかった。そうこうするうちレイモンドたちも入江の神殿に辿り着く。
 最初にこちらを迎えてくれたのは波打つような溝のある白く美しい列柱だ。小通路といった趣のそこを過ぎると屋根と壁のある聖堂に入る。ここもすべて色合いは真珠のごとき白だった。
 妙な脅しをかけられたからちょっと心配していたが、乙女像は中央の台座にきちんと据えられていた。海の側だけ壁のない開放的なロケーションの本殿でアンディーンは美しく微笑み、その御手を胸の前に掲げている。

「よしよし、それでは例の儀式はしっかり済んでおるのだな?」

 祭壇の奥からはローガンの声が響いていた。豪商は祭司と思しき老女にずいと詰め寄って何やら質問を浴びせている。ほかのカーリス兵たちも女神に拝礼一つせず、台座の前にたむろしていた。

「ええ、まあ、祈りはすべて終わらせましたが……」

 歯切れの悪い老女の返事を最後まで聞くことなくローガンは私兵たちに手で合図する。なんだか妙な雰囲気だ。レイモンドが違和感に警戒を強めると同時、「儀式とは?」とルディアが尋ねた。だが豪商は横からの問いかけを聞こえぬふりでやり過ごす。

「……おい」

 王女の目が吊り上がる。ルディアは何かの危険を察知したらしく、もう一度大きな声で「儀式とはなんの儀式だ?」と問いかけた。だが対するローガンの返答はあまりにちぐはぐなものだった。

「そう言えば、以前貴様が話していたブルーパールの件はでたらめだったようだな? ここの祭司はそんな御神体が石像に隠されているなんて聞いたことがないと言っていたぞ?」
「――は?」
「あれは私に女神像を丁重に扱わせるための方便だったのだろう? まったく小癪な真似をしてくれるよ。確かにこの島につくまでは、うっかり祟られないように保護布でぐるぐる巻きにしていたからな」
「…………」

 ルディアがいっそう険しい目で豪商を見やる。ローガンはくるりと兵士らに向き直り、「さて、それでは聖像をお運びするか」と指示を出した。
 身軽な者が次々と台座に上がる。等身大の聖像にスルスル縄がかけられる。十名ほどがアンディーンを直接囲み、残り十名が下からロープを引く格好だ。だが異なことに、カーリス人たちは運搬用の押し車も出していなければ石像を無傷で受け止めるための敷布さえ出していなかった。おまけに「せーの!」の掛け声もまったくもって揃っておらず、彼らはてんでばらばらに聖像に繋がる縄を引っ張る。

「お、おい」

 思わずレイモンドは祭壇の前に飛び出した。「もっと丁寧に扱えって」と苦言しかけたところで乙女がぐらり傾く。台座から床に向かってゆっくりと。
 受け止めようと手を伸ばしたが無駄だった。ルディアにぐいと腕を引かれ、半歩下がったすぐ手前にアンディーンが落下してくる。

「……ッ!」

 ドゴッと嫌な音がした。硬いものがぶつかり合って凹んだときに出るあの音だ。
 視界に砂埃が舞い散る。一瞬閉じた目を怖々開けてレイモンドは息を飲んだ。

「――ッなんってことすんだよ!」

 言葉を失うルディアの横で大声を張り上げた。石床に叩きつけられた聖像は無残にひび割れ、肘から先がもげている。
 あまりの惨状に頭の中が真っ白になった。壊れた聖像を持ち帰っても民衆は喜ばない。アルフレッドを死罪から救ってやれない。そんなことは考えるまでもなく明らかで、激昂のままレイモンドはローガンに飛びかかった。

「てめえ、アクアレイアに聖像返したくないからってわざと……!」

 胸倉を掴もうとした腕は、しかし群がる兵士たちに退けられる。ルディアもレイピアを抜けないように周りを固められていた。

「おお、怖い怖い。少し傷んだだけではないか。別にこれでも構わんだろう? 今のアクアレイアはジーアン帝国領なのだから」

 言外に「どうせまともに祀れないくせに」と罵られ、カッと頭に血が上る。ローガンは更にこちらを煽らんと大仰に肩をすくめておどけてみせた。

「なんならほかの『船賃』をご用意して差し上げましょうか? どこかの国が交易に出てこられない分、我々はたっぷり余裕がありますのでね」

 いやらしく笑う悪党は格の高い守護精霊が無傷で奪い返されねばそれでいいと言わんばかりのしたり顔だ。どこまでも性根の腐った男である。他人の国をどれだけ踏みにじれば気が済むのか。商売敵というだけでよくここまで非道になれる。

「……ッ」

 怒りでわなわな全身が震えた。こいつのせいで何もかも全部台無しだ。そう思ったらとてもではないが許せなくて、レイモンドは羽交い絞めにしてくる兵を引きずったまま踏み出した。

「ローガン、てめえ――」

 足を止めたのは突然の闖入者のせいである。不意にバウバウと犬の吠える声が響き、不敵だったローガンがヒッと肩をすくませた。

「ま、またあのムク犬か! おい、帰るぞお前たち!」

 レイモンドなど見向きもせずに豪商は駆け足で退散する。「待て、この野郎!」と叫んだら、こんなときだけ都合良く「私はファンスウ殿のご命令により港を封鎖せねばならんのでな!」と逃げられた。追いすがろうとしてレイモンドも走り出す。――だが。

「あはっ! 騒がしいと思ったらもう着いていらしたんですね! お二人ともお久しぶりです!」

 どこからか現れたディラン・ストーン――否、ハイランバオスの明るい声にその場に縫い止められてしまった。振り向けば青く穏やかな海を背に、少女然とした美貌の青年が大型のムク犬連れで立っている。

「あ、すごい音がしたなと思ったらやっぱり壊されていましたか。聖なる像の神性を取り除く秘儀も終わったのでこうなるだろうとは思いましたが」
「なっ……」

 知っていたならなぜもっと厳重に守ってくれなかったのだ。のほほんとしたエセ預言者に憤りが湧き上がる。
 ろくな言葉も出ないまま王女もハイランバオスを睨んだ。だが彼はこちらの反応など意にも介さず老祭司に歩み寄る。

「お疲れ様でした。上手く騙されてくださって良かったですねえ。さあ皆さん、出てきてください。ちゃっちゃと片付けてしまいましょう!」

 エセ預言者がそう言うや、無人に近かった聖堂に突如複数のざわめきが響き始める。この神殿にはどうやら地下があるらしく、海側に下りる石段から職人らしき男たちがわらわらと上がってきた。皆口々に「こりゃ酷い」「床まで傷が入ってんじゃねえか」と顔をしかめる。しかしアンディーン像が破壊されたというのに誰一人本気で悲しむ人間はいなかった。

「あのですね、偽物(レプリカ)なんです。壊れたほうは」
「えっ!?」

 耳打ちにルディアと同時に声を上げる。ハイランバオスは嬉々として聖像がコリフォ島に持ち込まれてからの経緯を説明した。
 まずローガンはコリフォ島民にアンディーン像を破壊させようとしたらしい。双子神ジェイナスを重んじるカーリス市民へのポーズとして、彼はどうしても聖像を処分しなければならなかったのだ。だが当然コリフォ島民は抵抗する。偶然居合わせたハイランバオスは一計案じてともかく破壊は延期させることに成功したのだそうである。
 その一計というのが先程ちらりと話していた「聖なる像から神性を取り除く秘儀」らしい。巧みな話術でエセ預言者は、壊すにしても正式な手順を踏んで壊さねばあなたの一族郎党が祟られる結果となるでしょう、と彼を脅しつけたそうだった。

「一ヶ月もあれば一応レプリカは作れそうでしたしね。ふふ、そっくりだったでしょう?」

 子供のようにはしゃぎつつハイランバオスは「よく見てください」と倒れた乙女像の顔を撫でる。模造品はまるで双子のようだった。アクアレイア人なら間違えることはない見慣れた守護精霊なのに、どこが本物と異なるのか少しも説明できそうにない。
 そう言えばこの男は接合によってコナーの知識の一部を得ていたのだったか。それならレプリカの精巧さも納得だ。

「本物は今どこに?」

 アンディーンの折れた腕や破片を拾い集めている男たちを横目にルディアがエセ預言者に尋ねる。実際に型取りや微調整を行ったのは腰からノミや小刀を提げた、筋骨逞しいこの石工たちなのだろう。ハイランバオスが汗水垂らして石像制作に勤しむ様はとても想像がつかない。

「ここの地下倉庫です。いつでも持ち出せるように舟に積んでありますから、どうぞ安心なさってください」

 なんならご覧になられますかとの誘いに釣られ、レイモンドたちは地下へと続く石段を下りた。入江の崖の急斜面に添う階段はぐるりと折れて舟屋の入口に続いている。
 海に関する祭儀が多いからか、地下倉庫は水路で内湾と繋がっていて神殿の船が出入りできる設計になっていた。ここだけは本国アクアレイア式に桟橋や儀式用ゴンドラがひと通り揃っている。
 倉庫は広く、雑然と様々な船具や神具が置かれていた。その中にもぞもぞと動く人影を見とがめ、レイモンドはさっとルディアの前に立つ。

「あっ! レイモンドさん!? ブルーノさんも!」

 声は聞き覚えのあるものだった。名を呼ばれ、ぱちくりと目を瞬かせる。

「お二人が来られるかもとは伺っていたんですが、あの、父に何もされませんでしたか!?」

 倉庫の暗がりに立っていたのはローガンの愛息、ジュリアン・ショックリーだった。相も変わらず幼気(いたいけ)な双眸に見つめられ、思わずルディアを振り返る。親の仇の息子に対し、彼女がどんな態度を示すかあまりに心配すぎたからだ。

「ああ、我々のほうは特に何も。というかやはりお前も来ていたのだな」

 冷静だがそれとわかる棘もないルディアの返事にほっと息をつく。安堵したのはジュリアンも同じようで、「あ、それなら良かったです」と続いた声は先程よりも緩んでいた。

「レプリカ作りの費用の出所がよくわからなかったからな。このおとぼけ男がそんな金を出すとも思えんし、コリフォ島はアクアレイア以上にすっからかんのはずだろう?」
「あはっ! ご明察です! お金のかかることは全部彼が出資してくださっているんです!」

 王女の冷めた一瞥にハイランバオスが笑って頷く。なるほど反抗期の少年はアンディーンを守るべく裏で奔走してくれていたようだ。「そうなんです。父が何をしでかすかわからなかったものですから……」とジュリアンは怒り半分、申し訳なさ半分といった口ぶりで補足した。

「本物はこちらです。お二人に引き渡すまで無事に守れて良かったです」

 少年は桟橋に舫(もや)われた小舟にそっと近づいて、積み込まれた大きな長びつの蓋を開けた。そこにはさっき壊されたのとそっくりの波の乙女が布に包まれ、ひっそり横たわっている。

「ほ、ほんとだ。本物だ」

 近づいて確かめたら膝から崩れ落ちそうになった。隣を見やればルディアもまたほっと胸を撫で下ろしている。
 ハイランバオスの言によれば聖像偽造には多くの島民が協力してくれたそうだ。またローガンが本物の存在に気づかぬように街中の人間が口裏を合わせてくれているらしい。それでもよく偽物(レプリカ)を完成させて入れ替えるまで何事もなく済んだなと感心したが、そこは大の犬嫌いのローガンを追い払うのにムク犬が活躍したそうだった。「この子は脅すのが得意なので」とご主人様に褒められたラオタオがバウッと可愛い子ぶった声で鳴く。

「ありがとう。お前の機転に助けられたな」

 広げた布を元に戻し、膝をついていたルディアが桟橋に立ち上がった。率直な感謝の言葉にエセ預言者が「いえいえ」と微笑む。珍しくレイモンドも彼の手を取って礼を言いたい気分だった。

「じゃあ後は俺の船まで女神様をお運びすりゃいいよな? 今ならローガンも油断してるだろうし」

 あの男が聖像は破壊してやったと思い込んでいるうちに、アンディーン像を移したい。港が封鎖されれば湾内の巡視船も増えるだろうが、今ならまだその数も少なかろう。とにかく船に乗せてしまえばこっちのものだ。さっそく海に漕ぎ出そうとしてレイモンドは小舟の縁を跨ごうとした。

「おい! お前らそこで何やってる!」

 急に怒声が割り込んできたのはそのときだ。気がつけば薄暗い地下倉庫にはさっきの石工たちが集まっていた。神殿の永年巫女なのだろう老祭司も一緒である。レプリカの折れた腕やら髪やらを抱えた彼らはどうやら後始末のために倉庫に下りてきたようだった。

「え、何って、乙女像をアクアレイアに持って帰ろうとしてんだけど」

 持って帰っていいんだよなと怪訝にハイランバオスを見やる。だが預言者はにこにこ微笑んでいるだけで何も言わない。ジュリアンも大いに戸惑っている風だった。

「神殿の外に持ち出すつもりか? やめてくれ! カーリス人に見つかったらどうなると思ってる!」
「そうだぞ、さっきのが偽物だったと勘付かれたら大変だろう!」

 おや、とレイモンドは瞬きする。なんだか微妙に話が食い違っているような気がして。レプリカを作ってくれたのは彼らではなかったのだろうか。聖像を本国の神殿に返すためにひと肌脱いでくれたのは。

「俺たちは本物のアンディーン像を傷つけられたくなかっただけだ」
「このまま地下に隠しとくのが一番安全なんだよ、わかるだろ?」
「頼むから余計な真似しないでくれ!」

 捲くし立てられてレイモンドは困惑する。確かに船に積み込むまでは危険が大きいかもしれないが、そんな風に怖気づいていたらアンディーン像は永遠に持って帰れない。そもそもコリフォ島に眠らせておいたって宝の持ち腐れではないか。
 波の乙女はアクアレイア人が心を一つにするために必要な象徴(シンボル)だ。再独立や王家再興の道を取らないなら尚更。偽物でカーリス人の目を欺いたとばれれば報復を受ける立場のコリフォ島民が怯えるのはわかるけれど。

「いや、あの、皆さん? 聖像はしかるべき神殿に戻したほうが……」

 見かねたらしいジュリアンが横から口を挟んでくる。だがこれも強い不安に苛まれる石工たちには拒絶された。

「レプリカを作る金を下さったことは感謝していますとも。しかし我々はまだこの街で生きていかねばならんのです」
「本国にアンディーン像が戻れば噂は必ずお父上の耳に入るでしょう。我々はそうなったとき身を守る術を持たんのですよ」

 桟橋のあちらとこちらで向かい合い、しばし互いに沈黙する。交渉は得意なほうだが今この状況を打開する名案は思い浮かばなかった。
 島民の苦悩を推し測れるせいか、ルディアもなんとも言えぬ顔だ。おまけに石工たちは別件での怒りまでぶつけてくる。

「なあ、あんたら前にこの島にイーグレット陛下を連れてきた奴らだろう? 乙女像よりあの白いのの骨を持って帰ってくれねえか? いい迷惑なんだよ。俺らの島にいつまでもあんな災い放置されて」

 思わぬ発言にレイモンドは息を飲んだ。今は亡き国王の名を耳にして咄嗟にルディアを振り返る。

「陛下の遺骨が?」

 彼女の声は震えていた。ルディアもまさか亡骸が無事とは考えていなかったようである。動揺をどう解釈したのか石工たちは道を開け、「ほら、あそこだ」と倉庫の一角を指差した。見ればそこには聖像が納められているのとよく似た黒い棺がぽつんと置かれている。

「ローガンが神殿を穢そうって魂胆で管理を命じやがったんだ。持って行くんならあっちにしてくれ」

 そうだそうだと石工に合唱されてレイモンドはほとほと困り果てた。遺骨も一緒に持ち帰れるならもちろんそうしたいけれど、どうしても必要なのは聖像のほうである。わかったと簡単に頷いてやるわけにいかない。

「…………」

 途方に暮れて固まっていると今までほとんど喋らなかった老祭司が歩み出てくる。年老いた巫女は諦めろとでも言うように静かに首を横に振った。

「……何か方法を考えるよ。あんたたちが危ない橋を渡らなくて済むように。だから本物のアンディーンは俺たちに預からせてくれねーか?」

 そう頼むのが今のレイモンドの精いっぱいだった。無理には奪って帰れない。懐疑的な眼差しにそれだけひしひし感じ取る。
 石工たちは頷かなかった。決定権を持つだろう老巫女も無言だった。

「……一旦出よう。とりあえず聖像はここにあれば大丈夫そうだしな」

 恋人に腕を引かれて渋々桟橋を離れる。地下倉庫を後にして石段を引き返すレイモンドたちを彼らは最後まで黙ってじとりと見つめていた。



 ******



 参ったな、とひとりごちる。一筋縄では行かないだろうと思ってはいたが、状況は更に一段厄介そうだ。
 神殿を出たルディアたちは人気の少ない入江の脇の小道を歩いていた。右隣にはレイモンド、彼の向こうにはハイランバオス、エセ預言者の足元には犬と呼ぶべきか狐と呼ぶべきか悩ましい毛むくじゃらの獣がいる。見上げれば空を飛ぶ鷹は三羽から二羽に減っていた。おそらく一羽はファンスウのもとへ報告に行っているのだろう。

「お前たちはどこで何をしていたんだ?」

 悩んでいても仕方ないのでルディアは二人に近況を問うた。だが思った通りまともな返事はなされない。

「私たちはパトリア古王国で色々と。ま、何をしていたかは後のお楽しみですね」
「バウバウッ!」

 ハイランバオスがそれ以上明かそうとしないのでルディアも追及は諦めた。「あなた方は?」との質問にはこちらもはぐらかしつつ応じる。

「印刷事業を本格的に開始した。レイモンドもコーストフォート市で先駆けてあれこれやってくれていてな。今は五隻も自前の船を持っている」

 顎でレイモンドを示せばエセ預言者は「わあ、それはすごいですね! 服装がすっかり変わっておられるのでどうしたのかなと思ったら、大富豪じゃないですか!」と手を叩いて槍兵を称賛した。ほかにもルディアはコリフォ島まで彼の船団で来たことやアクアレイアで二台目の活版印刷機が稼働し始めたことを告げる。

「なるほど順調なようですね。うんうん、さすが私の見込んだ方です」
「いや、それがそうでもない。実は今かなり厳しい状況に置かれているんだ」

 アークやコナーの話題には微塵たりとも触れぬままルディアはユリシーズの死とアルフレッドの冤罪についてざっくりと説明した。騎士の命を救うためにどうしても聖像が必要なのだと。すると一度は落ち着いたはずのレイモンドが急にそわそわし始める。

「俺やっぱ、神殿の人たちと話し合いに戻ろうかな?」

 槍兵は立ち止まり、後方を振り向いた。そのときだ。立ち並ぶ列柱の間から人が駆けてくるのが見えた。

「ブルーノさん、レイモンドさん、ディランさん!」

 ふっさりとした茶髪を揺らし、ジュリアンがこちらに近づく。ルディアたちに追いつくと少年はぜえぜえ呼吸を整えた。なんの用かと思ったら彼は今まで石工たちを説得してくれていたらしい。だがやはり良い顔はされなかったようで、対策を考えるべく合流しようと思ったとのことであった。

「祭司様だけならなんとかなりそうなんですけど……。あの方は、返せるものなら波の乙女は本国に返したいと以前仰っていたので」

 聞けばジュリアンは偽物(レプリカ)と本物を入れ替える過程で頻繁に神殿に出入りするようになったそうだ。少年の見解によれば祭司は住民の安全と心情を考慮して慎重になっているだけで、本音では聖像を手離したいとの考えを持っているという。いつまでもアンディーンがアクアレイアを留守にしていたら、古王国に「もはやあの国は西パトリアではなくなった」と見なされる可能性が高まる。仮にそうなればコリフォ島は完全にカーリスの領地に組み込まれてしまうかもしれないと。

「なるほどな」

 かっちりとした聖衣を纏い、背筋正しく眼光も鋭かった老巫女を思い返す。記憶が正しければ彼女は十人委員会の保守派筆頭、トリスタン老人の妹だったはずである。いまだコリフォにいるほどだから島への愛着は強いのだろうが、ほかよりは話の通じる相手かもしれない。少なくともアンディーン像を本国に戻す利については一考してくれそうだった。

「そうだよな、住民の安全と心情はでかいよな……」

 ぽつりとレイモンドが零す。槍兵はしばらく考え込んだ後、「神殿じゃなくて街の中回ってみたほうが早いかも」と呟いた。するとジュリアンが間髪入れず「ご案内しますよ!」と申し出る。

「僕、コリフォの皆さんとはよくお話しするんです! 何かお役に立てるかも」
「おお、んじゃそうしてくれるか?」

 利害の調整には長けた男だ。レイモンドが行くと言うならそうしておくべきだろう。それに乙女像のことは、やはり彼の力で持ち帰らせてやりたい。

(でないとこいつ、一生アルフレッドの件で思い悩みそうだしな)

 よし、とルディアはハイランバオスを振り返った。このままここに留まっていても部外者が一緒では込み入った話はできない。なら先にアンディーン像の件に見通しを立てておきたかった。

「私たちはちょっと島をうろつくから、その間にお前は旅支度を整えておいてくれるか?」
「おや? 聖像だけでなく我々もお持ち帰りなさるおつもりで?」
「ああ。ヴラシィで面白い話を聞いたんだ。天帝がどうやら十将全員に招集をかけているらしい。何かあったのだと思わないか?」

 詩人の興味をそそるのにそれ以上の言葉は必要なかった。「おや、そうですか」と妖しく微笑み、ハイランバオスはムク犬の頭を撫でる。

「ふふ、それは確かにご一緒したほうが楽しめそうですねえ」

 にこやかに了承の意を告げると彼はラオタオを連れて歩き出した。「詳しくは船でお聞かせください!」と手を振るエセ預言者に「ああ、わかった。用事が済んだら迎えに行く」と声を張る。

「寝泊まりしている宿はどこだ?」

 仮住まいを聞いたのは必要あってのことだった。裏切り者のねぐらくらいは古龍の耳にも入れてやらねばならなかったから。ルディアが息を飲んだのは、彼の返事がよりによってそこかという場所だったせいである。

「丘の上のあばら家です! 古い灯台守のお家ですよ!」

 軽やかに指し示された西部の丘に目をやって小さく肩をわななかせた。だがすぐに一歩を踏み出し、忍び寄ってきた硬直を振り払う。

「……行こう。多分この島に長居はできない」

 また減った頭上の鷹を数えて告げた。
 したいことと、やるべきことと、できることは全部別だ。
 骸さえあればいつかきちんとあの人を弔えるかも。そんなこと、今は忘れていなければ。



 ******



 湾港の封鎖命令なんて出たからだろう。戻ってきたコリフォの街の中心部は物々しい雰囲気だった。
 レイモンドは円形広場をぐるりと見渡す。公会堂の前には大勢のカーリス兵。彼らは羽振りの良さそうな自国商人に「風が良くてもしばらく島を出られないぞ」と告げている。対するカーリス商人たちは不服そうな顔をしていた。
 そりゃそうだ。ライバル都市が撤退してどこへ行っても稼げる今、もうじき海の大荒れする冬になるのにこんな小さな島に留まりたくはあるまい。「本当に今日明日で済む話なのか?」とか「待っている間に風が変わって船を出せなくなったらどうする」とか、ぶつくさ呟く彼らの苛立ちの矛先がどこに向くかはあまりにわかりやすかった。
 気温的には脱いでも良かったケープのフードをルディアがそっと被り直す。順当な判断だ。ジュリアンが一緒とは言え積極的に絡まれたくない。兵と商人が散り散りになるまでレイモンドたちは建物の陰に退避した。

(しっかしホントに生活感なくなってんなー)

 何度通りに目をやってもコリフォ島民の姿はない。以前は朝網や昼網の市が立っていた場所はカーリス人にすっかり占拠されている。慎ましやかな家々の門戸は固く閉ざされて、皆気配を押し殺しているようだ。
 だがずっと隠れたままで暮らしていけるわけもない。漁民は漁に出なければだし、農夫は作物を加工して冬に備えねばならないはずだ。コリフォ島の気候ならそこまで過酷な季節ではないのかもしれないが。

「いっつもこんな人いねーのか?」

 小声で問うとジュリアンは「いえ、普段はもう少し……」と心配そうに眉を寄せた。砦から一斉に兵が出てきたせいか、いつにも増して今日は島民が外を出歩いていないそうだ。

「この辺りはどうしてもカーリス人が多いですしね。南のオリーブ畑なら誰かいるかもしれません。行ってみますか?」

 ふむ、とレイモンドは思案する。方策を立てるのに無人の街だけ見ていても仕方ない。そこに住む人間の生の声を聞かなくては。神殿の石工とはまた別の意見が出てくるかもしれないし、島民とはもう少し話してみたかった。

「うん、そうする。待ってても誰も出てきそうにねーからな」

 広場には見切りをつけて南方へと歩き出す。カーリス人の姿はかなり減ってはいたが、それでもなるべく近寄りすぎないように注意した。
 皆毎日怖い思いをしているのだろうなと思う。頼れる者もいない中で。
 生命を脅(おびや)かす恐怖が解消されない限り、保身以外の決断はできない。人間に備わった自己防衛本能についてはレイモンドもよく知っていた。コリフォ島民が快く乙女像を引き渡してくれるとしたら、それは島からカーリス人がいなくなったときだけだろう。
 だが現状そんなことは不可能だ。ジーアンを乗っ取った後ならともかく今は妥協点を探るしかない。幸いジュリアンはこちらに好意を持ってくれているし、取れる手立てがあるはずだ。

(オリーブ畑か……)

 緑豊かな林の奥に目をやりつつ曲がりくねった細道を行く。いつしか石畳は途切れ、足元は均された土の道に変わっていた。だがところどころ、不自然に足跡が乱れているのが気にかかる。
 住民に手入れする余裕がないせいもあるだろうが、小道はわざと抉られたのではと思うような箇所もあった。嫌な感じだとレイモンドは眉をしかめる。
 小さな街なので目指す果樹畑にはすぐ着いた。最初に視界に入ったのは広々と乾いた土壌に整然と並ぶ採集用のオリーブの樹々。どの木も大人の背丈ほどの高さで、まっすぐ枝葉を天に向け、たくさんの実をつけている。オリーブは水はけの良い土地で育てなければすぐに痩せてしまうため、一定の間隔ごとに盛土の上に植えられていた。

(おお、人がいる)

 ここは一応労働の場として機能しているようだ。畑には少なくない島民の姿が見えた。収穫期なのか働き手は皆大きな布袋を手にしている。実を摘む傍ら果汁(オイル)も搾っているらしい。積み上がった樽の側には圧搾機を扱う数名の男たちが集まっていた。

「あっ、これは、ジュリアンお坊ちゃん」

 足音に気づいた年配の男がくるりと振り返る。こちらを見やった農夫たちに一瞬ぎょっと瞠目されたが、ルディアがフードを下ろして紺碧の髪を見せると彼らはいくらか緊張を緩めた。レイモンドも胸を張り、衣装のどこにも余分なコットンは詰まっていないことを示す。なんでこんなところに本国の人間がという顔はされたが。

「えっ? あれ? お前ひょっとしてレイモンドか?」

 と、痩せっぽちの農夫の一人に問いかけられる。顔を見れば名前はすぐさま思い出せた。随分やつれてしまっているが、島で一番親しくしていた同い年の友人だ。

「わっ、フレディ! 良かった、生きてたのか!」

 再会の喜びを示して両手を広げるとフレディは遠慮がちに片方の手を握ってくる。二年前、コリフォ島から脱出するための漁船を用意してくれたのが彼だ。「ごめんな、あのときの船借りっぱなしで」と謝ると曖昧な笑みが返された。

「ていうかやけに立派な服着てるけど何? なんでまたこの島に?」

 当然の疑問に対し、レイモンドは空気を読みつつ慎重に答える。農夫たちの眼差しからまだ警戒の色は消えていない。なるべく反発を招かぬように簡単な事実だけを述べた。

「コリフォ島を出た後に始めた商売が当たってさ。今じゃ俺、アクアレイアで一番の注目集める事業主なんだぜ。まあそれで『お前の船団を貸し出せ』ってジーアンのお偉いさん送り届ける足にされてるとこなんだけど」

 現在の地位の説明は彼らにはピンと来なかったようだ。もっとわかりやすく言わなきゃ駄目かと「事業関連のこと話すのに十人委員会にもよく呼ばれてる」と権力中枢の名前を出す。ついでに活版印刷機や騎士物語続編の話にも触れ、本国では経済の立て直しが始まっている旨を伝えた。

「そっか……、アクアレイアはそれなりにやっていけてるんだな」

 安堵より羨望の滲む声には気づかぬふりで「うん」と頷く。まずは農夫らの信用を獲得するべくレイモンドは有力な商人として彼らに接した。

「ところでここのオリーブって全部冬越し用? 交易に回せる分とかある?」

 陽光を受けて輝く樹々を見回しながら商談を持ちかける。「船の礼もあるし、色付けて買い取るぜ。商品積んできてっから物々交換でもいいし。そんな程度じゃあんたらの不足分の埋め合わせにもならないとは思うけど」と歩み寄ればフレディたちは戸惑いながら互いに顔を見合わせた。
 コリフォ島がまだアクアレイア領だった頃、オリーブは特産品として盛んに売買されてきた。流通経路が確保されれば島にはまた外貨が入るようになる。わかってるぜという顔でレイモンドは話を続けた。

「まだ定期商船団を派遣ってわけにはいかねーけどさ、島のことは十人委員会にも報告するつもりだし、困り事とかあれば俺に教えてくれよ。もしなんとかできそうだったらなんとかして帰るから」

 はいと銀行証書を出して取引の具体的な予算を見せる。その額に農夫たちは目玉を剥き、「いや、こんな、」としきりに口をパクパクさせた。
 コリフォ島民も王国人には違いないので大金を動かせる者には弱い。社会的信用というやつだ。彼らがこちらに向ける眼差しはこれで劇的に変化した。

「ほ、本当にこの金額で買ってくれるならありがたいことこの上ないが――」
「あの、レイモンドさん! オリーブのお代って僕に出させてもらってもいいですか!?」

 と、そこに脇で見ていたジュリアンが財布を片手に割り込んでくる。少年が会話に加わるや、急にまた場の空気が澱み、レイモンドはぱちくり瞬いた。
 何かまずそうな雰囲気だ。直感的にそう察し、レイモンドは申し出を断る。

「いや、お前はいいよ。気持ちだけ貰っとく」
「で、ですが、父が迷惑をかけ通しなのに――」
「いやいや、本当にいいって。さっきもちらっと言ったけど、俺こいつの漁船借りたままトリナクリア島で失くしちまってんだよ。俺が出さなきゃ意味ねー金だからさ」

 やんわりジュリアンを退けると農夫たちが小さく息をついたのが聞こえた。明らかに「こいつが絡まなくて良かった」という安堵の息だ。もしかしてこれはあれか。思案したのちレイモンドは隣のルディアを振り返った。

「なあ、俺ちょっとここで皆の話聞いてるから、悪いけどあんたジュリアンと二人で畑の様子見てきてくんねー?」
「ああ、わかった。そのほうが効率良さそうだ」

 彼女は即座にこちらの意を汲み「行こう」とジュリアンを連れ出してくれる。いくら少年が好意的でも被支配民が支配民であるカーリス人に胸に一物持っていないわけがなく、思った通り二人が木立の向こうに消えるとフレディたちはレイモンドを囲んで一気に表情を険しくした。

「困り事を聞いてくれるって言ったな?」
「いつになったらカーリス人は島を出てってくれるんだ?」
「俺たちゃもう限界だ。これ以上奴らのご機嫌取りなんかできねえ」

 一つずつ、しかし途切れることもなく、不満は次々に噴出する。それはもう憎悪と呼んでも過言ではなかった。
 いくらオリーブを摘んだっていくらにもならないと彼らは言う。カーリス兵がやって来て根こそぎ強奪するのだと。それでも畑そのものを焼かれるよりはマシだから従っているだけで、奴隷労働と大差ないと。

「ジュリアン坊ちゃんだけはまともに値をつけてくれるが駄目だ。坊ちゃんのいない時間を見計らって収穫物を奪いに来られるし、坊ちゃんと取引したのがバレたら後で仕返しされる。大金払ってくれるっつったがお前ともオリーブのやり取りはしないほうが賢明かもな。漁はまだ許してもらえるが、油は価値が高いから全部横取りしようとしやがる」

 フレディの吐き捨てた言葉にレイモンドは顔を歪めた。カーリス商人が島の女子供を売り飛ばそうとしたことも一度や二度ではないと知り、嫌悪を抱かずにいるのが難しくなってくる。

「乱暴狼藉は坊ちゃんが収めてはくれるんだがね……」

 皆まで聞くまでもない。豪商の愛息がいないところでは常に嵐が吹き荒れているのだ。もし今ジュリアンがコリフォ島を去ることになれば島民がより重い苦境に置かれるのは間違いなかった。

「…………」

 唇に指を当て、レイモンドはじっと考え込む。切れるカードはそう多くない。だが組み合わせ次第で流れは変えられるはずである。ローガンは聖像(レプリカ)を壊した代わりの船賃を用意してやると言った。であれば彼と交渉の場は持てるのではなかろうか。

「わかった、オリーブには触らないでおく。けど島の皆がもうちょい安心して暮らせるように、俺からローガンに掛け合ってみるよ」
「へえっ!?」

 レイモンドの宣言に農夫たちは焦った様子で首を振る。「いや、だから仕返しされるって!」「十人委員会に、十人委員会に頼んでくれりゃいいからよ!」と彼らは必死で止めにきた。

「大丈夫だって。あんたらを危ない目には遭わせねーよ。印刷商レイモンド・オルブライトとしてちょっと商談するだけだ。あいつも活版印刷機にはかなり融資してたみてーだし、話は聞いてくれると思う」

 不安げなフレディたちを宥めるとレイモンドはくるりと果樹畑を振り返る。立ち並ぶオリーブの間にルディアたちの姿を探せば収穫を手伝う二人の背中が目に映った。と、そこに噂をすればなんとやら、ガラの悪そうなカーリス兵の三人組が現れる。

「!」

 大慌てでレイモンドは駆け出した。だが彼らはこちらが現場に到着する前にジュリアンの叱責によってあっさり降伏させられる。「鞭なんか持って農作業の監視に来るな馬鹿!」とオリーブ畑に甲高い怒号が響いた。

(うわっ、ありゃ確かに島民がやり返されるはずだわ)

 レイモンドは我知らず肩をすくめる。坊ちゃん育ちが災いしてジュリアンは真正面から叱りつけるやり方しか知らないらしい。完全に圧力のかけどころを誤ってしまっている。
 三人組はその場でペコペコ詫びていたが、どう見ても取り繕っているだけで誠意は感じられなかった。「面倒なのに出くわしたな」としか思っていないのがひと目で知れる。反省のなさにジュリアンが追加の小言を繰り出すと我先に畑から撤退したほどだった。
 なるほどな、とレイモンドは合点する。これでは島民が憂さ晴らしの標的にされて当然だ。立場の弱い人間は大抵更に立場の弱い人間を虐めることで己を慰めるのだから。
 コリフォ島民はコリフォ島民でどうせ後から殴られるのを承知の上で助けてもらった礼を言わねばならないし、ジュリアンが厄介がられても致し方ない。せめて彼が親の威光を借りるのでなくローガン並みの実権を握っていれば展開は違ったのだろうが。
 しかし今はそれを指摘するときではなかった。ひらめいた考えを告げるべくレイモンドはルディアとジュリアンに駆け寄る。

「二人とも大丈夫か?」
「あっ、レイモンドさん! こっちは大丈夫です!」
「話はもう済んだのか? どうだった?」

 二人の腕をぐいと引き、レイモンドは「いっぺん神殿に戻ろう」と提案した。その道すがら色々相談したいからと。

「あのさ、一つ聞きてーんだけどカーリス共和都市って騎士物語流行ってた?」
「へっ?」
「いや流行ってたとは思うんだけどさ、どのくらい流行ってた?」
「ええと、あの、うちの富裕層が上着にコットンを詰めるのはセドクティオの夜会服を真似てのことらしいですけど……」
「なるほど! サンキュー!」

 それだけ聞ければとりあえずは十分だ。怪訝にこちらを見つめるルディアに目をやってレイモンドは静かに切り出した。

「――多分持って帰れると思う。聖像も、陛下の遺体も」



 ******



 一緒についてきてほしい。ローガンとの商談に成功したらアンディーン像を持ち帰っていいかどうかの判断をしてほしい。――そう頼んだら祭司は意外にすんなりと要求を受け入れてくれた。ジュリアンが言っていた通り、本音では聖像を正しい場所に戻したいという考えの持ち主なのだろう。トリスタン老をよく知るルディアも「彼女ならこちらの案を前向きに検討してくれるかも」と予測していた。当の祭司は神殿を出てからずっと沈黙を保っていたが。
 高齢の割にしゃっきり歩く老女を連れてレイモンドは砦へ引き返していた。交渉するのは己だが、側にはルディアもジュリアンもいてくれる。司令官室の扉を叩き、中からの返事を待った。

「なんだ貴様らか。……ってなぜジュリアンが一緒なのだ!? 性懲りもなく人の息子をたぶらかしよって……!」

 いまいましげに歯ぎしりするローガンを取り巻きじみた護衛兵たちが囲む。石壁にタペストリーのかけられた、軍議用の大きな机があるだけの広い室内に踏み込むとレイモンドはさっそく本題に入った。

「船賃考えてくれるんだったよな? 神殿に保管されてるイーグレット陛下の骨を持って帰りてーんだけど」

 代替案としては予想の範疇だったのだろう。チョビ髭の豪商は下卑た笑みとともに「そんな慎ましいお代でいいのか?」と返してくる。

「それくらいなら好きにすればいい。今更アクアレイア人が王の遺骨に涙するとも思えんがな」

 あっさり取り付けられた許可にまずはよし、と拳を握った。肝心なのはここからだ。いくらアルフレッドのためとは言え、なるべく聖像を盗むような蛮行には出たくない。禍根を残せば結局は誰のためにもならなくなる。指先に力をこめ、レイモンドは次なる要求を口にした。

「もう一つ、コリフォ島の管理権をジュリアンに譲ってくれ」

 この発言にはローガンもぴくりとこめかみを引きつらせた。「は?」と冷めた目に睨まれ、レイモンドはもう一度声を張る。

「カーリス人が街でめちゃくちゃしてるから、あんたの息子に島民の保護とか兵士の教育とかをやらせろっつってんだよ」

 返ってきたのは想定通りの嘲笑だった。青二才への侮りを隠しもせずに豪商はガッハッハと大笑いする。言外にローガンが「船賃の計算もできない愚か者め」と罵っているのは伝わった。だが失礼な哄笑はすぐにぴたりと止むことになる。

「こっちもタダでとは言わねーっての。ほら」

 差し出したのは騎士物語の続編だ。いつどこで商機に恵まれるかわからないので、いつも最低一冊は持ち歩くようにしている。

「……!?」

 ひと目でそれが何か理解した豪商は目を瞠ったままわなわなとこちらに手を伸ばしてきた。ごくりと喉を鳴らしたあたり、カーリスにはまだ新刊が届いていないらしい。

「い、いやいや、こんな一冊程度では釣られんぞ」

 憎らしい顔には正直に「読みたい」と書いていたが、そこは彼も百戦錬磨の商人である。不釣り合いな条件は受け入れようとしなかった。
 本一冊で頷かれてはこちらとしても拍子抜けだ。ずいとローガンに近づいてレイモンドは「まあまあ」と表紙を開かせた。

「……ッ!」

 見返しに詩聖のサインを見つけると豪商は呼吸を止めて反り返る。沸き立つ心を抑えようとする様を見るに、思ったよりこの男は騎士物語が好きらしい。そう言えば一時期アニークのもとに出入りしていたローガン傘下の御用商人も騎士物語マニアだったっけと思い出した。

「いやいや、だからこんな程度では私は」

 豪商はつつけばすぐにも落ちそうに見える。しかしやはり冷徹に損得勘定のできる男なのだろう。パタンと本を閉じると彼はレイモンドの胸に騎士物語を押しつけ返した。

「し、新刊もサインもいずれ私の力で手に入れる。こんなもので島をかけての交渉をしようとは片腹痛――」
「サインを本物と思ったってことは、あんた今アクアレイアに騎士物語の作者がいるって知ってんだな?」

 思いきり被せた台詞にローガンは再び狼狽する。なんだ、何を言わんとしているんだこいつはという視線を受け、レイモンドはいよいよ取引条件の説明を開始した。

「ちょっと複雑な状況でな、レーギア宮にゃ置いとけねーかもしれねーんだ。微妙な立場の人だけど、コリフォ島なら移るって言ってくれるかもしんねー。アニーク陛下がノウァパトリアに帰国してからの話にはなるが、俺はあんたにあの人のこと任せてもいいと思ってる」

 ローガンの反応は凄まじくわかりやすかった。「さ、作者をコリフォ島に?」と豪商は声を震わせる。

「ああ、具体的に言うと作者のパディはマルゴーと揉めてんだ。そのせいで今アクアレイアもマルゴー公から睨まれてる。けどカーリスなら多少マルゴーとギスギスしたって別に問題ないだろ? 交易上の利害関係もねーんだし」

 あえて言葉にはしなかったが、これがどういう条件提示かは正しく伝わったはずだった。ローガンほどの男ならおそらく数年以内には自前の活版印刷機を手に入れているだろう。四台目、五台目と確実に印刷機は増えていく。それはつまり、活版印刷の要である金属活字の製造法が外部に漏れやすくなるという意味でもあった。
 遠くない将来、カーリスもきっと印刷事業に参戦してくる。そのとき彼らがパディを遇する立場であれば今後あの詩人の生み出す一切が共和都市の利益になるのだ。嗅覚鋭い豪商が乗ってこないわけがなかった。

「き……ッ、貴様正気か?」

 たかが島一つのためにどうしてとローガンの目が言っている。それも要塞と引き換えですらなく住民の平穏のためだけに、と。

「言っとくがジュリアンから一通でも『兵が島民に無体を働いた』って連絡が来たらこの話は全部白紙に戻すからな」

 語気を強めてレイモンドは告げた。ローガンのほうはもう、金の鉱脈を掘り当てたようなニンマリ顔をしていたが。
 おそらくローガンはパディが到着するまでの間、兵に大人しくさせていればいいと思っているに違いない。黄金のなる木を囲い込んだ後はまたオリーブを搾り取ってやれと。
 だがこちらも彼が約束を守り抜くとは考えていない。パディをコリフォ島へやる前にジーアン乗っ取りを完了させ、カーリス人が好き勝手できない状況を作るつもりだ。アクアレイアがこの島を取り戻すまで。

「それじゃ今日から僕がコリフォ島の総督ですね。兵士に賞罰を与えるのも、街のルールを決めるのも、父様は口出しなきようお願いします」

 そう言って少年が父親と相対する。ローガンは一瞬「ジュリアンの反抗期が長引くならやめようかな」という弱気を双眸にちらつかせたが、実利に負けて複雑そうに頷いた。

「では参りましょうか、レイモンドさん、ブルーノさん、祭司様。王の遺骨を船に運び入れなくては」

 部屋の外へと促され、レイモンドたちは司令官室を後にする。ずっと黙って成り行きを見守っていた老巫女は厳しい表情を変えないまま一番後ろについてきていた。
 緊張の途切れぬ中、爽やかな風の吹く胸壁通路へと出る。
 あとは祭司がなんと言ってくれるかだった。



 ******



 砦内はどこもあまり日が差さなくて暗いから太陽の光を浴びるとほっとする。眼下にコリフォの街を眺めつつレイモンドはひとまずジュリアンを振り返った。

「ほら、就任祝い」

 手渡したのは先程ローガンから押し返された騎士物語の続編である。少年は「悪いですよ」と固辞したが、純然たる祝福の気持ちは毛ほども持ち合わせていなかったので「そういうことじゃねー」と強引に押しつけた。

「これをお前の持ち物にして、ここの兵士に読ませてやれっつってんの。俺が心配してんのはお前とカーリス人の間の溝だよ。せっかく総責任者になっても兵士が言うこと聞かなかったら意味ねーだろ?」
「は、はあ」

 権限を得たのだから命令には従わせられるのでは、と疑問符を浮かべる彼にレイモンドは嘆息する。やはりジュリアンは温室育ちのお坊ちゃんだ。権限を得ても兵が彼でなく彼の父親を見ていたら今までと同じではないか。

「あのな、お前の見てないところでも兵に行儀良くさせたかったら『こいつの言いつけは守っておいたほうがお得だな』って思わせなきゃダメなんだって。『ローガンに尻尾振るよりお坊ちゃんのほうがいいや』って。略奪するなとか横暴するなとか叱りつけても逆効果なんだよ。甘い汁だって吸わせてやんないとあいつらこっそり餌場に戻ってくるだろ? わかるか?」

 問いかければ少年はしどろもどろに「な、なんとなく」と答えた。一応彼も自分のやり方はその場しのぎにしかなっていないと自覚していたらしく、指摘にしゅんと項垂れる。
 だがジュリアンにはどうすれば兵を掌握できるのかわかりかねるらしかった。騎士物語を貸し出すことと島民を害させないことがどうにも結びつかないようで、「ええと、つまり、これで彼らに騎士道精神を学ばせろと……?」と斜め上の質問をしてくる。

「いや、だからそうじゃなくて」

 話の通じなさにレイモンドは額に手をやって唸った。純真無垢で健気な少年は「あの、すみません。僕はこれからどうするべきかご教授願えますか?」と真摯に乞うてくる。
 そう言われてもとレイモンドは頭を掻いた。いつも息をするように場の空気を読んできたから言葉では説明するのが難しい。兵士たちの読みたがるだろう騎士物語を利用して彼らに取り入っておくのが今回の最善だとはわかっても。

「え、えーっとな」
「要するに、お前はお前の足場であるカーリス共和都市の人間にまず慕われろという話だ」

 返答に詰まるレイモンドの傍らでルディアが静かに口を開く。さすが彼女はジュリアンの権力者としての課題を見抜いていた。

「お前は表立ってアクアレイアに肩入れしすぎなんだよ。だからカーリス人の反感を買って発言を軽んじられる。カーリス人のことも同じだけ考えてやれ。彼らをよく見て彼らの不足を埋めてやって彼らを安心させてやれ。そうしたら何人かは自分からお前の方針を理解しようとし始める。少しずつでいい、お前はお前自身の味方を作るんだ。でなければ父親のひと言で全部潰される」

 断言に少年は少し震えたようだった。
 王女は続ける。「お前がどんな力を持とうとお前の周りが敵だらけでは決して真価を発揮できない」と。

「兵とよく話をしろ。彼らが何に喜ぶか、何に不快を示すか知れ。どうすれば意志を持って彼らが動いてくれるのか、それでだんだんわかってくる。彼らもお前と大差ない生き物なのだということがな」

 助言を受けてジュリアンはやや動じていた。彼としては「島民に悪さを働くカーリス兵と仲良くしろ」と言われるとは思ってもみなかったのだろう。
 だがルディアの言は真理である。政治というのはきっとバランスを取ることなのだ。立場も考えも異なるたくさんの人間が、それでもなんとか同じ世界でやっていくための。

「兵とよく話す、ですか」

 王女はこくりと頷いた。たじろぐ少年をまっすぐに見つめる彼女は仇敵への憎しみを堪えられなかった以前のルディアと別人のようである。
 わだかまりは消えたわけではないだろう。けれど彼女はいつでも前を向いている。そうあろうと努力している。あの王の娘として。

「お前に必要なのは部下からの好意と敬意だ。お前が役立つ者であればお前の周りに人が集まる。お前がお前自身の力でカーリスの中心に立つことができたそのときは、我々(アクアレイア)との関係も望む方向に変えていけるさ」

 ルディアの言葉にジュリアンが息を飲んだ。カーリスとアクアレイアの因縁をどうにかできる未来があるかもと聞かされて少年は頬を熱くする。

「そ、そうですね! わかりました、頑張ります! もっと視野を広げて僕、いつかあなた方に恩返しできるように――」

 ふっと小さく息が漏れた。苦笑いするルディアのほうから。
 清算ならしてもらったよと聞こえたのは幻聴ではないだろう。

「ジュリアン・ショックリー、聖像とコリフォ島民を守ってくれて礼を言う。今しばらく彼らを頼むぞ」

 唐突に求められた握手に少年はあたふた腕をばたつかせた。レイモンドも彼とは長い付き合いになりそうだなと頬を緩める。

「よーし、そんじゃお前はさっさとその本を兵士たちに見せびらかしに行ってこいよ。こっちのことはもう俺たちだけで平気だからさ」

 背中を軽くポンと叩けばジュリアンは「えっ? いや、お供しますよ?」と惑ったが、「だからアクアレイア人について回るんじゃなくて、カーリス人との仲を深めろよ」と返すと完全に理解した顔で頷いた。

「あっ、確かにそうですね。そうか、そういうことか、なるほど――なんだか上手くやれそうな気がしてきましたよ! ……もう少しご一緒したかったのも本当のことですけど……」

 名残惜しそうに少年はこちらに辞去を告げてくる。「じゃあ僕は失礼します。お二人とも、お元気で」と向けられた小さな背中にレイモンドは控えめに手を振った。
 これでまあ島民の安全については手を打てただろう。仮にジュリアンが兵とこじれたままであってもパディを送り込む約束が効いている間はローガンとて無茶な搾取はしないはずだ。
 さて、とレイモンドはいまだ沈黙を保ったままの老巫女を振り返る。傍らのルディアもまた口元を引き締めて彼女を見やった。
 祭司は厳粛な面持ちでこちらを見つめ返してくる。しわ深く読めない表情がますます緊張を掻き立てる。
 この人がいいと言わなければ聖像を持ち出すことはできないのだ。第一声がどうなるか、心臓はどきどきと早鐘を打っていた。

「一つお聞きしたいのですがの」

 十人委員会の賢老によく似た小さな口がうごめく。老巫女は巫女というより手練手管の政治家に似た鋭さでもって尋ねた。

「ジュリアン殿が実権を握るのならひとまず安心とは思います。しかしその、騎士物語の作者殿が島に来られた後のことはどうお考えで?」

 祭司の疑問はもっともだった。レイモンドたちが帝国乗っ取りを企んでいるなど知りもしない彼女にとって、ローガンが目的を果たした後のコリフォ島がどうなってしまうかは切実な問題だろう。「再び島民が危険に晒される可能性があるのなら聖像は渡せませぬ」ときっぱりと告げられる。

「や、そこはちゃんと考えてるから大丈夫。あのさ、えーと、ローガンが作者を呼んだら何しようとしてるかっつーと、俺と同じ活版印刷なんだ。で、この活版印刷ってのは機材の次にインクがめちゃくちゃ大事なの。乾きの早い新型特製インクじゃなきゃ大量に仕損じが出るだけだから」

 レイモンドは活版印刷機で本を作る流れについて言及しつつ、己が仕掛けた罠についても説明した。ローガンは印刷機とパディが揃えばいくらだって詩を刷れると考えている。だが実際にはそうは行かない。新型インクの製法だけはレイモンドとパーキンが門外不出にしているからだ。他国に技術を盗まれてもアクアレイアが印刷界のトップに立ち続けられるよう、関わる人間が最小限で済むインクだけは仕入れ先も秘匿しているのである。

「けどコリフォ島の連中には――ていうかあんたには、そのインクの作り方を教えとこうと思ってる。島民がインク作れるってわかったらカーリス人だって島外に売り飛ばそうとはしねーだろ? まあ多少上手く立ち回る必要はあると思うけどさ」

 亜麻仁油があればそのインクが作れると言えば老巫女はなるほどと納得した。あの背の高い薄紫の花ならばパトリア海のどこでも見られる。オリーブの収穫にも亜麻布の袋が使われていたくらいだ。

「アクアレイアがコリフォ島を買い戻すまで、それでなんとか凌いでほしい。五年、いや――三年以内に絶対そこまで持って行くから」

 レイモンドの口にした具体的な年数に祭司は驚いたようだった。わずか目を瞠り、彼女はじっとこちらの双眸を見上げてくる。

「この島をカーリスのモンにしたままじゃ交易に支障が出るし、十人委員会も見捨ててはおかねーよ。約束する。だから頼む。俺にアンディーン像を持って帰らせてくれないか」

 脳裏にはアルフレッドのつらそうな顔が浮かんでいた。恩返しにこだわったジュリアンの気持ちが今は少しわかる。受け取るだけの、弱いだけの、自分をどうしても許せないのだ。救われたのにという実感が強いほど。

「わかりました。波の乙女はあなた方に預けましょう。石工や島民には私から説明しておきます」
「――!」

 老巫女の返答にレイモンドは歓喜した。輝く瞳で彼女を見つめ、勢いのまま棒切れみたいな腕を取る。

「あ、ありが――」
「けれどもう一つ聞きたいことが」

 ぴしゃりと祭司は不躾な手を払った。仕えているのが処女神だったら拳では済まないぞという振舞いにレイモンドは「あっ、すみません。失礼しました。なんでしょう?」と背筋を正す。

「聖像はどうやって船に運ぶつもりです? 先程あなたはローガンに『陛下の骨を引き取る』と仰せでしたが、まさか同じ棺に納める気なのですか?」
「ああ、うん、そうだよ。だったら堂々とあのサイズの荷物も船に持ち込めるだろ?」
「…………」

 次いで出てきた質問はまた想定内のものだった。ただし彼女の反応は完全に想定外であったけれど。

「……それには同意できかねます。死は穢れの最たるです。アンディーン像とご遺体を一緒にすることはなりません」

 えっとレイモンドは硬直する。「で、でも陛下はアンディーンの夫なんだし」と食い下がってみたけれど、老巫女は首を縦には振らなかった。援護を求めて隣のルディアを振り返る。しかし王女はこの展開を多少なり予測していたようで、目を伏せるだけで特に反論はしなかった。

「いや、でも……!」
「本国の神官たちも良い顔はしないでしょう。古王国に至っては聖像の神威が下がったと考えるやもしれません。あなたもひとかどの商人ならそれが聖像を持ち帰る意味を半減させる行為だとおわかりになりませんか?」

 諭されてレイモンドは押し黙る。――神威が下がる。老巫女の言うように、聖像がそう見られたら幼馴染を助ける力が失われてしまうかもしれない。何があってもそんな事態だけは避けなければならなかった。

「でもさあ……っ」

 すぐ側にいるのにルディアのほうを向けなくなる。祭司はただ粛々と、神託でも授けるようにアクアレイアに必要な「奇跡」を語るのみだった。

「棺には聖像だけをお入れなさい。ほかの者にはイーグレット陛下の遺骨だと偽って。そしてアクアレイアに戻ったら海を進む間に不可思議な夢を見たと、波の乙女が王国湾でドレスの裾を広げていたとでも言うのです。それから棺の蓋を開ければ陛下ではなく壊れたはずの聖像が見つかるのだから、民衆も諸手を挙げて迎えるでしょう」

 建国記にでも載っていそうな筋書きにレイモンドはぎゅっと拳を握りしめる。老巫女に「我々もあなた方が持ち帰ったのは確かに陛下のご遺体だけでしたとすっとぼけねばなりませんから」と言われれば頷く以外仕方なかった。

「それじゃ陛下は――」

 どうしても声にできなくてレイモンドは喉を震わせる。
 祭司はどこまでも冷静だった。アンディーンの神格を保ち、コリフォ島民を守るため、奇跡の裏の証拠隠滅を提案する。

「レプリカと一緒に海に沈めるほかありません。保管は島民が嫌がりますし、カーリス人に見つかれば捨て置いてはもらえないでしょうからね」

 くらり、その場に立ち眩んだ。
 立場も考えも異なるたくさんの人間が、それでもなんとか同じ世界でやっていくために、バランスを取るのが政治というものだ。ルディアと生きていくのなら、早く痛みに慣れねばならない。

「わかった。先に神殿へ戻って準備していてくれ。用を済ませたら我々もすぐそちらに向かう」

 先に祭司に頷いたのはやはりルディアのほうだった。一体彼女はこんなことを何度繰り返してきたのだろう。そしてこれから何度繰り返していくのだろう。
 来たときと変わらぬ歩調で去っていく老巫女を二人で見送る。
 十一月にしては眩しい陽光が無人の胸壁に降り注いでいる。



 ******



 昼前には島に着いていたはずなのに気がつけば太陽が随分西に傾いていた。オリーブ茂る坂道を上りながらルディアは薄く陰り出した空を見上げる。
 頭上に舞う影は一つから三つに戻っていた。然るべき報告はしたのに古龍もなかなか心配性だ。ここまで来てあの男と逃げ出すわけがないというのに。

「……大丈夫?」

 不意にぽつりと声をかけられ、ルディアは己の歩みがやけにゆっくりだったことに気づいた。隣を見れば気遣わしげに眉根を寄せたレイモンドがこちらを覗き込んでくる。

「平気だよ。そんな顔しなくていい」

 上手く笑えていたろうか。歩調を戻し、樹幹が視界を狭める坂をルディアは行く。
 もう一度ここに来ることがあると思わなかった。父の心臓を貫いて、返り血も拭えぬままに逃げ出した蛍の丘。弔いができると期待してこの島に来たわけではない。コリフォでは聖像を取り戻したかっただけだ。けれど骸を捨てねばならない事態になるとも考えていなかった。

(海に沈めるほかない、か)

 つくづく親不孝な娘だと呆れる。それでも多分あの人は笑って許してくれるのだろうが。

 ――誰も信じてはいけないよ。

 胸の奥に響くのは懐かしい声。これからも永遠に引きずっていく己の核心。
 誰も彼もがいつまでも側にはいてくれないと感じる。側にいてくれそうだと思うと自分のほうが弱腰になって。それで何度も要らぬ亀裂を生じさせてきたというのに。
「たった一人」は見つけたはずだ。レイモンドはこちらが逃げようとするたびに手首を掴んで捕まえてくれる。それでも己はやはりどこかで彼を信じきれていない。
 きっと自分はレイモンドが普通の人間だからまだこうして耐えられているのだ。どう足掻いても蟲よりずっと短い寿命しか持たないから、そのうち終わると思えるから、逆説的に側にいられるだけなのだ。

(馬鹿だな……)

 感傷的になっているのを自覚してルディアは小さくかぶりを振った。坂道の頂上はすぐそこに見えている。もっとしっかりしなければ。
 右手の樹幹が途切れると見下ろす街と城壁の向こうに紺碧の海が広がった。丘に生えた草は青く、当たり前だがどこにも血の跡はない。拾えなかった古いレイピアも転がってはいなかった。

「――」

 祈りを捧げるべきだろうかと立ち止まる。何も言わずに槍兵も隣に並んだ。
 短い静寂。
 一陣の風が吹き抜ける。

「――あれ?」

 少々間抜けな声を発してレイモンドがすぐ脇の草藪を見やった。「今蛍飛んでなかった?」と。

「蛍?」

 こんな季節にいるはずなかろうと首を傾げる。大体何か光っても認識困難な程度には外も明るい。

「一匹いた気がしたんだけどなー」

 レイモンドはまだきょろきょろと周辺を見渡していた。だがやはり蛍の姿は見つからず、諦めた素振りで肩をすくめる。

「蛍ってさ、コリフォ島だと死者の魂って言われてんだって」

 恋人は「知ってた?」となんでもない風に尋ねた。そうして低い声で囁く。

「前に俺、陛下の夢見たことあるんだ。たくさん蛍に囲まれてて、姫様のこと強情な娘だけど頼むって」

 ルディアは「そうか」とだけ返した。二の句を継げずに黙っていると恋人は遠くを見たまま小さく呟く。

「ごめんな」

 謝罪はおそらく骨を持って帰れそうにない件についてだろう。代わりのように「ずっと一緒にいるから、俺」と告げられて苦笑いする。彼が気に病むことではないのに。

「……うん。ありがとう」

 自分からはずっと一緒だなんて言葉、死んでも吐けそうにない。心の底ではこれっぽっちも信じていないそんな言葉。
 草むらをよぎった影に気づいてルディアはふと目を上げた。上空では急かすように鷹たちが羽ばたいている。さすがにそろそろ行かなければ。
 黙祷を終えるとルディアは丘のあばら家へ足を向けた。古い石の住居からはガチャガチャと大きな物音が響いていた。



 ******




「あっ、ちょうど良かった! 今荷物が全部まとまったところです!」

 玄関を開くと同時、青年の明るい声に迎えられる。長旅用の上質なケープを羽織ったハイランバオスはパンパンに膨らんだ大きな荷袋を担ぎ、ルディアににっこり微笑みかけた。
 あばら家には以前はなかった棚や机が増えている。ひと通り揃った調度品を眺めつつ「ここで生活を?」と聞けばエセ預言者は「はい、街から離れていたほうが動物実験はやりやすいですからね!」とウィンクした。
 物騒な台詞にルディアは小さく嘆息する。実験ということは、この男はまたアクアレイアの脳蟲を使ってキメラなど生んでいたのだろうか。カチャカチャうるさい荷物の中身が瓶詰の同胞であるのはすぐ知れた。止めたところで聞くわけもない異常者に注意する気もないけれど。

「処理する時間もなさそうですし、こちらはこのままでいいですよね?」

 と、ハイランバオスが暗がりに設置された大棚の戸を開ける。中に積まれた大量の獣の死骸に「うおわ!?」とレイモンドが悲鳴を上げた。
 鼠に猫に蛇に鳥に、一番上には例のムク犬まで、頭を割られた状態で雑多に押し込められている。呆然と眺めていると「あ、すみません。これだけあなたにお願いします」とエセ預言者に陶器の小瓶を渡された。懐にそれを突っ込みつつルディアは彼に問いかける。

「そう言えばまだどうやってコリフォ島に来たのか聞いていなかったな?」
「ああ、私はジュリアンさんの客人として同伴させていただいたんです。これでも医学の権威と名高いストーン家の跡取り息子ですからね。王侯貴族や商家の訪問医師として引く手あまたなんですよ」

 ああなるほど、使い勝手がいいから器がそのままなのか。確かにディラン・ストーンならどこでも食べるに困らないなと納得した。たとえ彼のうろついていたのがアクアレイアを毛嫌いするパトリア古王国であっても。

「髪色も特にアクアレイア人らしくないですからね。瞳の色もそう珍しくない水色ですし」

 こちらの思考を読んだかのようにハイランバオスが補足する。彼はふふふと楽しげに自身のうねる黒髪を摘まんだ。

「この色はね、どうやら母親のお腹にいる間、どの程度アクアレイア湾の魚を食べたかで出方が異なるようなんです」

 急になんの話だとルディアはやや身構える。だがエセ預言者はこちらの反応など気にかける風もなくペラペラと喋り出した。
 曰く「ディラン」のつけていた大昔の日記によれば、彼の母親は商用のためノウァパトリアに長期滞在をしており、かの都市で彼を出産したそうである。「だからこの身体にはアクアレイア人的特徴と言えるところがないんですよ」とハイランバオスは詩でも諳んじるように続けた。

「他国の妊婦はなかなかアクアレイアにまで来ないので事例が見つかりませんでしたが、遺伝に見えて土地に由来する現象なのが面白くありませんか?」

 にこにこと上機嫌にエセ預言者は自身の発見について語る。その勢いは堰を切った川か何かのようだった。

「海を泳ぐ魚に蟲は取りつくのか。これは過去にアイリーンも調べていたようですが、やはりなさそうですよねえ。そして脳蟲の幼体を食べた魚を食べると髪や瞳の色として現れる、これは偶然とは思えません。アークが機能停止して新しい蟲が生まれなくなった巣では奇抜な色の持ち主がいなくなるということでしょう? ふふふふふ。実は私、ストーン家の産院の記録も調べていましてねえ。ここ数年アクアレイアでは黒髪や茶髪の子供が増えているようでした。アレイアのアークは絶賛稼働中なのに妙だとは思いませんか? これはコナーが何かしたかなと、私はそう睨んでいるのですけれど」
「は、はあ……?」

 ハイランバオスの言わんとすることがわからず、ルディアは困惑の眼差しを返す。だがもう詳しい解説を聞いている暇はなさそうだった。丘へ続く二本の小道を上ってくるジーアン兵の足音がここまで響いてきていたから。

「あ、そう言えば私もあなた方に一つ聞き忘れていましたね。コリフォ島にはカーリス兵が常駐しているのに、どうやって島に入れてもらったんです?」

 その問いに答えたのはルディアでもレイモンドでもなかった。ノックもなしに突然開かれた玄関を見やり、ハイランバオスが端正な顔をしかめる。
 戸口に現れたファンスウがわずかに顎を傾けて突入の合図を出した。するとたちまちあばら家は蟲兵たちでいっぱいになる。

「ええっ、酷くないです!? 仲間を敵に売るなんて!」

 芝居か本気か測りかねる非難にルディアは肩をすくめた。「悪いな。こっちもほかにやりようがなかった」と詫びる。両腕を抑え込まれたエセ預言者は唇を尖らせて「酷い、酷い」と喚きながら戸口に引きずられていった。
 大過なく目的の男を捕縛してファンスウもほっとしたようだ。胸を撫でこそしなかったが、目元の厳しさがほんのわずかにやわらいでいる。

「尋問は船でするのだろう?」
「ああ、港の封鎖を解いたらすぐにもヴラシィへ発つぞ。海に出ればさすがのあやつも逃げられまい。おぬしらも船賃を回収したらさっさと戻れ」

 踵を返した老将にルディアは「わかった」と頷いた。彼が出て行かないうちにもうひと言付け加える。

「あとで時間をもらえるか? ハイランバオスの荷物について取引したいことがある」

 尋ねるやこちらを向いた古龍の細い目が吊り上がった。だが緊迫はそう長く続かず、彼は了承の意を告げてあばら家を引き揚げていく。
 狭い家屋に密集していたジーアン兵がすべて去るとルディアは棚に残されていた陶器の中から蓋付きの小瓶を拝借した。それから奥の大棚を開き、砕けた獣の頭蓋から脳髄液を頂戴しておく。さっきハイランバオスに渡されたほうは取り間違えのないようにレイモンドに預け直して。

「行こう」

 外に出るとまた少し木々の影が伸びていた。入江の神殿を目指してルディアたちは歩き出した。



 ******



 ざざあ、ざざあ。どこか間延びした波の音だけが耳に響く。海を臨む小さな神殿の地下倉庫は先刻訪れた際と変わった様子はなかった。ただ聖像を積んだ舟に亜麻布の大袋が一つ増え、片隅に置かれた棺が空になっていただけだ。

「偽物(レプリカ)の腕だけ一緒にお入れしました。重石としては十分なので、万が一にも浮き上がってはこないでしょう」

 桟橋に立つ老巫女は大袋に目をやって「水底深く沈めていただけますか」と頼んでくる。これくらいなら男二人もいれば持ち上げられるはずだから、と。

「……石像の残りは?」

 努めて心を鈍らせながらルディアは祭司に問いかけた。曰くそちらは島民のほうで処分してくれるらしい。しかし王の骨だけは触れたがる者がいないのでお願いしたいとのことだった。

「わかった」

 ルディアが舟に乗り込むとレイモンドもすぐ後に続く。櫂を握る彼の双眸は悲痛な光に満ちていて、それが少し苦しかった。
 油性インクの製法については既に伝達済みである。残る大仕事は一つ、軍港に泊めた帆船にアンディーン像を運び込むのみだった。
 老巫女に「世話になった」と礼を述べる。改めてその英断に感謝した。よく聖像を持ち出す許可をくれたものだ。波の乙女がアクアレイアに帰還したのがカーリス人の耳に入れば一番に疑われるのは彼女なのに。

「我々の命を賭す以上、必ずお役立てください」

 重い言葉に重い頷きをもって返す。ルディアも櫂を手にして海に漕ぎ出した。
 外から入り込んでくる日差しは暗く陰り始めている。短い水路を抜けた先の漁港には半日出番の来なかった漁船だけが並んでいた。古龍の命じた一時封鎖はとっくに解除されており、カーリス兵が巡視している気配もない。
 載せた荷物が重いのでルディアたちは苦心しながら進まねばならなかった。舟と言っても石像を積める程度には大きくどっしりしているから、本来は四人くらいで漕ぐべき代物なのだろう。
 四人か、と父やアルフレッドと参加したゴンドラレガッタを思い出す。あのときの波に比べればコリフォの海はまだ大人しい。二人欠けてはいるにせよ、なんとか沖まで出られそうだ。

(――あ)

 そのとき突然腕が軽くなり、ルディアはぱちくり瞬きした。前に立っていたレイモンドが「引き潮かな」と月を見上げる。ちょうどいい、このまま流れに乗せてもらおうと。

「陛下が見ててくれてんのかなあ……」

 掠れ声の囁きにルディアはわずか目を伏せた。だったらいいなと返すことも、偶然だと言い切ることもできなくて。
 しばらくすると舟は島の沿岸からかなり離れた沖のほうまで流された。海の色は青く深く、この辺りなら老巫女の希望に添えそうだ。
 沈めてしまえばもう二度と遺骨を取り戻すことはできないだろう。ルディアにもそれはわかっていた。だとしても骸を祖国に持ち帰る選択はない。

(お父様――)

 帝国自由都市派になる。そう決めたのは己自身だ。アクアレイアの不利益となる可能性が高いものならここで処理しておかなくては。
 意を決めてルディアは大袋に手を伸ばした。レイモンドも隣に並び、揺れる船上に膝をつく。
 これが本当に最後なのだな。力をこめても震える指で袋の口をそっと開く。隙間から覗いたのは作り物めいた頭蓋骨。生きていた頃より更に白くなって、無言でそこに佇んでいる。

「――」

 別れの言葉はとても思いつかなかった。この光景を忘れずにいることしか、父のためにできる弔いはきっとなかった。

「一緒にやる」

 袋の口を縛り直したルディアの指をレイモンドが強く握りしめてくる。少しでも痛みを分かち合おうというのだろう。大袋を放り捨てる段になっても彼はずっとルディアの手を離さなかった。
 ――ドボン。重いものが水に落ちる音。そんな異音は打ち寄せる波がすぐに掻き消し、海はまたいつもの澄まし顔に戻る。
 波濤(はとう)によって砕かれた岩が小さな砂粒となるように、父もまた波間に揺れる小さき存在となるのだろうか。そうしたら北へ北へと向かうこの潮流は、あの人の一部だけでも祖国へ導いてくれるだろうか。
 祈りとともにルディアは五芒星を切る。
 海の国の君主には相応しい水葬だ、などと言うのは欺瞞だろう。こんな結末誰も望んでいなかった。

「……行かねばな。ぼんやりしていたら日が落ちる」

 恋人の指をほどいてルディアは櫂を握り直す。
 無駄にはするまい。ここまでして持ち帰る聖像を。



 ******



 ――パトリア騎士物語ってすごい。想像以上の掌返しにジュリアンは感動を禁じ得なかった。いつもなら側を通りがかっただけで舌打ちしてくるヘクターも、何度言っても島民への不遜な態度を改めなかったマーティンも、「読んだら貸してやろうか」のひと言ですっかり大人しくなってしまった。
 父ローガンの私兵には読み書きできる者が多い。ある程度商売のわかる人間のほうが指示しやすいという理由で商家の三男四男をメインに雇っているからだ。警備の仕事を任せる一方、見込みがあれば父は様々なことを教える。海における慣習法や取引の際の交渉術、どこの宮廷で何が流行中かなども。
 だから彼らはパトリア中の貴族が騎士物語を夢中で読みふけっていることも、小説自体の面白さも、そこらの傭兵よりよほど詳しく知っているのだ。当人が熱狂的なファンであることも珍しくない。そんなわけで砦中の兵士から一年分はちやほやされ、ジュリアンはぐったりしたほどだった。

「ねえ父様、そろそろユスティティアの後輩騎士はプリンセス・グローリアと隠密デートに出かけました?」
「いやッ! まだだ。まだだからシーッだぞ! ジュリアン!」

 司令官室の大きな机にかじりついて読書する父に横から問いかける。太陽が落ちてしばらくするのに手提げランプを三つも灯してローガンは必死にページを繰っていた。兵士たちに貸し出しを始める前にまずこちらかと訪ねてきたはいいけれど、はっきり言って手持ち無沙汰だ。
 することもなく椅子の上で腕を組みつつ今後のことを考える。立ち回り方を変えろと諭してくれた二人に自分ができる最大限の恩返し。

「ジュ、ジュリアン。この展開、あまりに不穏ではないか? 怖いから父様の手を握っていてくれないか?」

 懇願に黙考の邪魔をされ、ジュリアンは眉をしかめる。「そこまで怯える必要あります?」と問えば「父様は若い頃から読んでいるんだ! 思い入れが強いんだ!」と涙目で吠えられた。

「はいはい、かしこまりました」

 求められるままジュリアンはガタガタ震える手を握り返す。
 手始めに決めたのは父と仲直りすることだった。この人がカーリスで多くの支持を集める理由を己は知らねばならないと思ったから。父の姑息なやり方がはたしてどこまで参考になるかはわからない。それでもやはりこの人が、一番身近でカーリス的な手本には違いなかった。

「待て、頼む、待ってくれ……。グローリアとユスティティアが結ばれるのが難しいのは私もわかる。だがなんなんだこの男は……!? 百万ウェルスやるからどこかへ消え失せてくれないか……!?」
「感情移入しすぎですよ、父様」

 借り物でない力が欲しい。人を束ねられる男になりたい。それがいつの日かあの二人と繋がる道になるのなら。
 恩人を乗せた船団は日没を前にヴラシィへ発っていた。どうせすぐそこらに錨を下ろすことになるのだし、一晩くらいゆっくりすれば良かったのに、相当急ぐ旅らしい。
 騎士物語に話題を逸らせばもう二、三週、父や兵士たちの目から本物の像が持ち去られたことを誤魔化せそうだった。その後に訪れる波乱を乗り切れるか否かはこれからの己次第だ。

「ジュリアン……! 手を、手をぉ……ッ!」
「はい、はい、ちゃんと握っていますよ」

 半ば呆れつつジュリアンはローガンの手を擦ってやる。
 とりあえず今はこの人がこちらの腹に気づかずにいてくれれば上々だ。



 ******



 さてどうやら、概ねこちらの思惑通りに状況は整ったようである。初めこそどうなることかと旅の結末を危ぶんだけれど、大量の兵が投入された以外にはイレギュラーも発生せずに済んで良かった。

(大詰めだな)

 荷箱の積み上がる暗い船倉でルディアは古龍と対峙する。
 ハイランバオスを捕らえたファンスウは当然のごとく裏切り者を彼の監視下に拘束した。各船の兵力は再編され、蟲兵と思われる者たちは三隻の船のうち古龍と偽預言者の乗る一隻に集められた。
 ――ハイランバオスを合流させれば連中は彼に注意を奪われる。ルディアの睨んだ通りだった。捕縛した程度で油断できる男ではない。ファンスウは彼の逃亡防止に全力を使うだろうし、相対的に防衛隊への用心は薄まるだろうと。
 船内には今までになく多くの兵士がうろついている。海の上で、これだけの戦力差がある中で、事を起こすのは馬鹿しかいない。今なら護衛と別行動して問題はなかろうと、老将が判断するときを待っていた。

「……で、あれの荷物に関して取引したいこととはなんだ?」

 丘の上のあばら家で告げた要望についてさっそくファンスウが問うてくる。
 彼が常に引き連れていた蟲兵は今誰も側にはいなかった。ルディアが二人で話したい、お仲間には聞かせないほうが賢明だぞと告げたからだ。
 疑わしげな顔をしつつも古龍は一人でついてきた。こちらも一人だったから彼は釣られてくれたのだろう。あと少しファンスウの警戒心が強ければ、己が敵としては軽視され、情報源としては重視されていなければ、おそらくこうは行かなかった。

「まあそう焦るな。早くあの男の尋問に戻りたい気持ちはわかるが、こっちもなかなか一大事なのだからな」

 言いながらルディアは下甲板の最奥に位置する第二倉庫を見渡した。手狭な内部にはドナとヴラシィで荷揚げした分だけ四角いスペースが生まれている。小柄な老人を引き倒して首を絞めるには十分な。

「脳蟲の入った小瓶ばかりだったろう? あの男の持ち物は」

 思わせぶりな問いかけでルディアはしばし時間を稼いだ。耳を澄ませば隣の第一倉庫から働く水夫たちの足音がする。彼らはレイモンドによく懐き、日が暮れてからもまめまめしく積荷整理に従事していた。どすん、どすんと荷箱を置く物音は激しすぎる気もしたが、話し声を掻き消すには都合いい。ついでに格闘の騒音も。

「お探しの男だ」

 そう言ってルディアは懐から陶器の小瓶を取り出した。あばら家でくすねてきたそれには少量の液体が入っている。ファンスウは瞠目し、不可解げに眉をしかめた。

「どういう意味かの?」
「おや、わからなかったか? お前たちを化かしてきた狐だよ」

 台詞と同時、古龍の視線がルディアの手元に向けられる。もったいぶらずに渡してやっても良かったが、まずは摘まんで持ち上げるだけにした。
 ガラス製の瓶ではないから中身は外から視認できない。ファンスウは虚言を疑っているはずである。だから古龍を決定的に動じさせるべく彼の腹心の名を出した。

「ウヤだったか。お前がドナに潜り込ませていた男は」

 色々聞かせてもらったと言えばファンスウは目に見えてたじろぐ。息を飲む老将にルディアは小瓶を差し出した。
 そろりそろり、骨と皮の目立つ手がこちらに伸ばされる。そうして指が罠を掴んだ。

「――ッ!」

 手にした小瓶に古龍の目が向いた一瞬の隙を突き、ルディアはファンスウに飛びかかった。一歩踏み込んで襟首を掴む。勢いのまま引き倒す。だが対する古龍も一筋縄では行かなかった。後方にバランスを崩しながらも転倒しきらず踏みとどまり、ルディアの腹部に肘打ちを見舞ってくる。

「ぐっ……!」

 奇襲に多少怯むかなとは甘い期待であったらしい。ルディアの腕から逃れるとファンスウは第二倉庫を脱しようと駆け出した。増援を呼んで抑え込むのが彼には最善なのだから当然の行動だ。
 だが第一倉庫へ続く扉は押しても引いても開かなかった。レイモンドが扉の前に大きな水樽を動かしたせいである。「アンディーン像を安全に持ち帰るために」積載物の再配置をしている彼が、一時的に第二倉庫を完全封鎖しているのだ。簡単には出られないと知ってファンスウはこちらを振り返った。

「なんのつもりじゃ?」

 緊迫の滲む問いかけをルディアは鼻先で笑い飛ばす。

「ウヤから得た情報だ。お前の身体能力は並の兵士と変わらない、一対一なら若いほうが勝つと」

 そう続けると古龍は扉を離れて一歩ずつ後退した。間合いを取ろうとしても狭い倉庫ではすぐに後ろがつっかえたが。
 レイピアはもう抜いていた。あばら家で拝借した小瓶には治療薬――極北の地で瀕死のレイモンドを救ったあの脳髄液――も入っているし、ファンスウがどんな傷を負おうと問題ない。大切なのは彼を確実に仕留めること。この男の本体を手に入れることである。

「残念だったな。ハイランバオスはまだ渡さん」

 逃げ場のない小空間でルディアは剣を閃かせる。刺突に適したレイピアの刃はまっすぐに老将の腹を貫いた。どさり、音を立てファンスウが床に伏せる。

「き、さま……っ」

 流血を広げないようにルディアはケープを脱いで血溜まりに放った。乾いた布は見る間に赤く染まっていく。
 こんなにあっさり「帝国十将の器」を傷つけられるとは思っていなかったのだろう。ファンスウは意識を手離す瞬間まで事態を把握しきれぬ顔でこちらを睨みつけていた。
 千年も生きる彼らのほうが蟲についてよく知らないとは皮肉な話だ。しかし身内を実験の対象にできなかっただろう彼らでは、脳髄液の効能など知る由もないのが当然かもしれない。
 もしジーアンにこちらと同じだけの情報が――例えば「接合」に関してとかが――渡っていれば、とても太刀打ちできなかった。この先も重々気をつけていかなければ。



 ******



 手足を縛っていた縄がはらりと解かれ、足元にわだかまる。ううんと大きく伸びをしてハイランバオスは数時間ぶりの解放感を楽しんだ。
 ああ、やはり自由はいいものだ。のびのびとやりたいことをして生きるのが生物の最大の幸福なのだ。

「まったくもう、酷い目に遭わせるんですから。もう少しで拷問されるところでしたよ?」

 聖像を納めた棺のすぐ隣、塩か何かの荷箱に腰かけて肩をすくめる。するとルディアが「ほかにやりようがなかったんだ。だが予測はついていたろう?」と渋面で自己弁護した。
 それはまあ確かにそうだ。アクアレイアに一筆送った時点でもう十将の誰かは来るなと見越していた。故郷に戻った姫君が帝国にどんな振舞いをしているか、どんな均衡を保っているかも想像力を働かせれば察せられた。だから別に全然怒ってなどいない。むしろ今後の激動にワクワクしているほどである。

「ま、いいじゃん。こうしてゆっくり話はできるようになったわけだし」

 すぐ横で響いた声にハイランバオスはふふっと笑った。若者らしい言葉遣いと老人のしゃがれ声のちぐはぐさに。
 人払いされた第一倉庫には己を含めて十名ほどが集まっていた。古龍の姿をしたラオタオ。ルディアにアイリーンに出世した様子のレイモンド。それから監視の蟲兵たち。
 ファンスウの配下に入っているのは己の荷物から消えていた五匹の脳蟲たちだろう。皆諜報員として有能な者だから成りすますのは得意である。ラオタオも面白そうな役回りだ。まあそう長く居座りそうな身体でもないが。この中で一番楽しそうなのはやはり――。

「コナー先生にお会いした」

 ルディアの台詞にニッコリと口角を上げる。ほらやっぱり、彼女はアークに辿り着いていた。

「ヴラシィに入る前にある程度すり合わせをしておきたい。カーリスで別れた後のこと、まずは聞いてくれるな?」

 ハイランバオスは「もちろんです」と頷いた。
 さあ一体王女はどんな企みを打ち明けてくれるのだろう。独創的で愉快な話ならこちらも願ったりだけれど。



 ******



 寝ても覚めても不安感を拭えずに、出口のない迷宮に閉じ込められたような気分だ。どうしたらこのどうしようもない悩みは消え失せるのだろう。
 あてもなくタルバは砦の中庭をうろつく。幕屋の間に酒瓶が転がる中を。
 表面的にはやはりドナでは何も起こっていなかった。退役兵は相も変わらず無益な享楽に溺れており、彼らの欲を満たすべく小間使いたちは今日も雑事に追われている。
 バジルとはぎくしゃくしたままだった。今まで彼とどんな風に過ごしてきたのかタルバはすっかりわからなくなっていた。何をどうするのが自分にとって一番正しいことなのか、それすら今は判断できない。

「…………」

 厨房棟の裏手から主館の最上階を見上げる。先日なぜかファンスウが手勢に解体させてしまった鏡の間に友人はいるはずだった。手がけた作品を台無しにされて悔しかったはずなのに、迷宮を組み立て直す手伝いを己は少しもできずにいる。
 バジルは一体蟲の何を知っている?
 どこの誰からどうやってそんな情報手に入れた?

(防衛隊――)

 彼に何か伝えられたとしたら、工房を訪れたあの三人でしかない。ごくりとタルバは息を飲む。恩人を突き出すのも、恩人の仲間を突き出すのも、結局のところ同じ話だ。

(どうすればいい?)

 途方に暮れて立ち尽くしているときだった。誰かにポンと背を叩かれたのは。

「どうしたの? こんなところでぼんやりして」

 振り返ればすぐ後ろに空き瓶を三本も抱えたケイトがいた。彼女はタルバの額を見やり、「酷い顔色よ?」と形の良い眉を歪める。

「…………」

 何も答えられずにタルバはただ沈黙した。そうしたら見かねたケイトが瓶を置いてこちらの腕を引っ張ってきた。
 裏口から更に目立たぬ低木の陰に連れられる。普段なら二人きりだと喜べたのに、今は露ほどもそんな感情は湧かなかった。

「……もしかしてバジル君と喧嘩した? 最近ずっと落ち込んでるし」

 案じる声にタルバは首を横に振る。「あら、違うの」と彼女は少々意外そうに瞬きした。
 喧嘩じゃない。喧嘩などでは断じてない。そんな単純な話ならどれだけ気楽にいられたか。

「黙ってるべきなのか、打ち明けるべきなのか、どうしてもわかんねえことがあってさ……」

 気がつくとタルバはそう漏らしていた。「どっち選んでも絶対誰かを不幸にはするんだ。だから自分がどうすればいいかわからない」と。

「…………」

 話があやふやすぎたせいだろう。ケイトは言葉が見つからないといった様子で黙っていた。事実をそのまま明かすわけにはいかないが、聞いてくれるなら聞いてほしくてタルバは一つ例え話をすることにする。

「自分の家族みたいに大事な存在と、自分のこと助けて世話してくれた恩人が対立して、戦争みたいになってたらケイトはどうする?」

 ケイトにそれを問う意味をタルバはわかっていなかった。知らなかったから彼女が瞠目した意味も、傷跡だらけの美しい顔を張り詰めさせた理由もまるで見当がつかなかった。だからその後に向けられた、どこか苦しげな微笑が瞼に焼きついただけだ。

「黙っているか、打ち明けるかで、どちらに味方するか決まるの?」

 彼女は静かに尋ねてくる。「うん」と頷いたタルバの脳裏にはいやな未来図が浮かんでいた。一つは約束したくせに恩人を守れなかった自分。一つは同胞を見殺しにして生き延びたひとりぼっちの自分。
 怖かった。今までこれほど迷ったことがなかったから。誇りを持って選べぬ道を走ったことがなかったから。天帝宮を去るかどうか思い悩んでいたときでさえ、こうまで心を引き裂かれてはいなかった。
 どうしたらいいのだろう。自分はどうするべきなのだろう。
 己が苦悩する間にも仲間の命は刻一刻と終わりに近づいているのに。

「――正しいか、間違っているかじゃなくて、何に一番残っていてほしいかを考えて決めればいいと思う」

 不意に響いた穏やかな声にタルバはハッと顔を上げた。まっすぐにこちらを見つめ、ケイトはそっとタルバの両手を包み込む。温かな、血潮の通う優しい手で。
 彼女は何を乗り越えてきた人なのだろう。わからない。わからないが彼女の声は胸にしみる。

「あなたはとてもいい人だもの。あなたの選んだ答えを私も信じるわ」

 決断しようと決められたのは、多分その瞬間だった。
 偽りのない信頼と乙女の笑みがタルバに力を与えてくれた。
 迷っている暇はない。走り出さねばならないのだ。
 何もかも手遅れになってしまう前に。









(20200627)