駆け足で急に何もかも動き始めたようだった。ずっと閉ざされた檻の中、外で何が起こっているか知る由もなく安穏と過ごしてきた。その帳尻を合わせるようにすべてが目まぐるしく変化していく。
 ドナの街を守る砦の一室でバジルは苦い息を殺した。目の前には狐に宿ったアンバーと聖預言者に宿るブルーノ。ここまで順調に計画が進んでいることを確かめ合って二人は真剣な表情をしている。

「次はいよいよ十将を狙うわよ。段取りはもう頭に入ったわね?」
「う、うん。大丈夫」

 女優に問われたブルーノが不安そうに頷いた。状況に応じて打つ手を変えていけるように、ここ数日バジルたちは度々こうして話し込んでいる。ラオタオ捕縛の虚偽報告に釣られて来たのが誰であればどう動く、どんな形で連携するかといったことを。
 入念な打ち合わせが必要なのは十将を迎えた際、狐の肉体を空けておかねばならないからだ。中に誰か入っていれば「取り出せ」と命じられたとき困る。アンバーの身の安全のため、帝国幹部の接合及び入れ替えはバジルとブルーノ、退役兵に成り代わったマルコムやオーベド、新人小間使いたちのみで行うことに決まっていた。

「本当に大丈夫? ブルーノ君、顔真っ青よ?」
「ううっ、言わないで……! 頑張らなきゃって言い聞かせてるところだから……!」

 最も場慣れしたアンバーなしで作戦を実行せねばならないなど不安しかない。切り替えの早いマルコムが「概要はわかりました。それじゃ俺たちは怪しまれないように中庭でいつも通りやっておきます」と引き揚げたのとは対照的に、ラオタオのねぐらに入り浸って不自然でないブルーノはいつまでも聖預言者の白い頬を引きつらせたままでいた。胃が痛いのは迷宮のメンテナンスと偽って何度も寝所に足を運ぶバジル自身もであったが。

(姫様は本気でジーアン帝国を乗っ取るつもりなんだな……)

 一つ一つ、又聞きの事実が実感を帯びて迫ってきている。王国の名が消えた後、主君らに降りかかった災難。帝国に残された爪痕。考えなくてはならないのはアクアレイアのこれからなのに、脳裏にタルバの苦笑いがよぎってつらい。もうすぐ病気で死ぬんだと悲しげに目を伏せた。
 本物のハイランバオスはコナーとの接合を経て寿命を百年延ばしたという。頭には延命措置という単語がぐるぐると踊っていた。――最近毎日考えている。どうしたら誰にもばれずにタルバに接合させられるか。

「一人で立ち回るわけじゃないから落ち着いて。バジル君もいるんだし、ね?」

 突然こちらに話を振られ、バジルは「はい!?」と声を裏返した。その勢いに面食らったアンバーにぱちくりと瞬かれ、慌てて「あっ、いや! 僕だってついていますよ、ブルーノさん!」と取り繕う。

「マルコムさんも頭の回る人ですしね、その、ええと、皆で力を合わせれば、姫様の期待にも応えられるかと」

 しどろもどろにバジルは弱気な幼馴染を励ました。ブルーノは「聖預言者の器に入ったウェイシャンのふりをする」という繊細な演技を求められる立場にある。十将とも直接対峙しなければならないだろうし、しっかりサポートしていかねば。

「ありがとう、バジル君。本当によろしくだよ」
「ええ、もちろんです」

 にこにこ笑顔で応じつつバジルは内心の陰鬱をひた隠す。
 昨日は晩酌に誘ってみた。しかしタルバは滅法酒に強かった。そろそろ寝るかという段になってもケロリとして、とても不意をつける感じではなくて。
 酔っているのは確かなのに隣のベッドでバジルが起き上がっただけで即座に覚醒してしまうし、さすがは元天帝宮の衛兵である。寝込みを襲うのは困難を極めそうだった。
 とは言えこの街でまともな睡眠薬など手に入るまい。一人では――協力者がいなければ――道を拓ける気がしなかった。

「…………」

 頼んでみようかどうしようか。まだ打ち合わせを続けているブルーノたちを順に見やって逡巡する。気の優しい幼馴染なら同情してくれるかもしれない。アンバーだって深い悩みを一蹴はしないだろう。親身になってそうかそうかと聞いてくれるはずである。
 けれど結局バジルには何一つ言い出せなかった。二人に相談してみたところで「姫様の判断を仰ごう」と諭されるのは目に見えている。そしてルディアがわかったと頷くところはバジルにはとても想像できないのだった。
 袋小路の行き止まりだ。これならまだケイトに協力を頼んだほうが現実的とさえ思える。「タルバの死病を治すために首を絞めるのを手伝ってくれないか」なんてどう伝えればいいかもわからないけれど。

(はあ……、もう、諦めたほうがいいのかな)

 不可能を突きつけられるたび気が沈む。祖国のためにはならないと承知しているから尚更。
 考えるのをやめようとしても心のどこかに「友人を見殺しにするのか?」と自問が引っかかったままだった。そうしてまた同じ思考を繰り返すのだ。

(ああ、もう、モモならきっと迷ったりしないんだろうな)

 瞼の裏で想い人は「バッカじゃない?」と肩をすくめた。彼女に思い馳せた後も心がまるで静まらないなど初めてだ。
 ――と、そのとき、カーンカーンと砦外から高い鐘の音が響いた。どこぞの船が港に入ってきたらしい。

「十将の誰かかしら?」
「だだだ、出した手紙の返事もまだだし、どうかな!?」
「でも一応、もう来てもおかしくはないんですよね……?」

 びくびくと震えつつ手旗信号の続報を待てば、しばらくして入港した船団はジーアン旗を掲げていることが知れる。

「……!」

 互いに顔を見合わせてバジルたちはごくりと息を飲み込んだ。

「それじゃ皆、任せたわよ」

 言ってアンバーは細い腰紐をするりと解く。慣れたとはいえ決して良い気分にはなれない「取り出し」を済ませると、バジルたちは予定通り狐の寝所を後にした。



 ******



 通せんぼをするようにぐるりと周りを取り囲まれ、ルディアはきつく眉根を寄せる。腰の曲刀に手をかけた兵士たちはいつでも抜刀できる構えでこちらと向かい合っていた。

「なんだこれは?」

 厳しい口調で問いただすも人壁の向こう側に立つ老人はどこ吹く風だ。

「砦に赴くのは我々だけで良い。おぬしらは出航までこの船に留まっておれ」

 そんなひと言が返されて内心チッと舌打ちする。
 予想通りの命令だった。上陸許可はやらんと言われれば従う以外術はない。丘に聳(そび)える石の砦をちらと見上げてルディアは下唇を噛んだ。

「荷の揚げ降ろしくらいはしてもいいんだろうな?」

 問えば古龍は「監視のもとでなら許そう。ただしおぬしら三人はドナの地に立つのでないぞ」と釘を刺してくる。警戒は明らかで、微塵の信用もないのがまざまざと窺えた。

「では行こう」

 三十名いた兵の半数を甲板に残し、ファンスウはさっさと下船してしまう。傍らのレイモンドもアイリーンも「どうしよう?」と尋ねたそうにルディアに視線を送ってくる。
 周囲には依然変わらず武装したジーアン兵。古龍が戻ってくるまではとても出歩けそうにない。歯がゆいが、砦のことは砦の者たちに任せるしかなさそうだった。

「レイモンド、アイリーン」

 顎で二人を促すとルディアは船倉へと歩き出す。さすがに中までついてくる兵士はおらず、ほっとした。おそらく船に残されたほうが蟲ではない人間の兵なのだろう。

「ドナでの交易分だけ下にやってくれ」
「あっ、は、はい!」

 倉庫の奥で縮こまっていた水夫たちに仕事を与えると各所で人が動き出す。その喧騒に紛れるようにルディアはぽそりと肩越しに呟いた。

「最悪の事態に備え、一応いつでも船は出せるようにしておこう」

 ひそめた声にレイモンドたちの表情が張りつめる。
 最悪の事態。間違いなくそれは「聖預言者や退役兵にアクアレイアの脳蟲が入っていると知られること」だ。ファンスウはほかの船の兵も砦へ連れて行くかもしれない。アンバーたちに何かあったとき、武力でやり込められてしまう可能性は高かった。
 古龍の防御を解けぬ限り、接合を試みるのは不可能だろう。とにかく正体がばれずにいてくれと切に祈る。功を焦らなくてもいい。まずは我が身を守ってくれと。

(本物のラオタオがいないと露見すればどうなるか……。アンバーなら上手くやってくれると思うが……)

 耳を澄ませば桟橋に隊列を成すジーアン兵と思しき足音がいくつもいくつも重なって響いてくる。長い待機時間になりそうだった。



 ******



 やはり己の知らぬ間に何かあったのではなかろうか。そんな疑念が日に日に色濃くなっていく。
 退役兵がラオタオに直談判すると言って迷宮に押しかけてきたあの日から、タルバには砦の空気が一変したように感じられた。若狐が滞在中にも関わらずゴジャたちはのびのびしているくらいだし、ラオタオもまるで表に出てこない。見張り役のウェイシャンと主館の私室にこもったきりだ。
 おかしいのはバジルもだった。探るような目でたびたびこちらを眺めてくるのに目が合うとさっと顔を背ける。昨日だって好きでもない馬乳酒をしきりに飲もうと誘ってきて。どういう風の吹き回しだと尋ねたら「いえ、別に。特になんにもありませんよ?」と見え見えの嘘をつかれた。
 絶対に何かあったのだ。しかしそれがなんなのか糸口すら掴めない。
 数日溜め込んだもどかしさをぶつけるようにタルバは低い声で唸った。

「おい、言えよ。お前ら何か隠してるだろ」

 壁に押しつけた黒髪の男を眼光鋭く睨みつける。縦襟装束の胸倉を掴まれたウヤは眉をしかめ、逃げ場を求めて視線を左右にさまよわせた。
 だがあいにく厨房棟の裏口にほかの退役兵の姿はない。昼食後のこの時間は小間使いたちも屋内での雑用に従事していた。邪魔の入らないうちに聞くべきことを聞いてしまおうとタルバは拳に力をこめる。

「わかってんだぞ。お前らが陰でこそこそなんかやってたってのは」
「……ッ」

 凄んでもウヤは何一つ白状しようともしない。どころか彼は「一体なんの話です?」としらばっくれようとした。タルバ相手なら言い逃れできると踏んだのだ。ふざけた男だ。同胞が真剣に事情を尋ねているというのに。

「誤魔化すんじゃねえ。お前らあの日ラオタオのところで――」

 途中で言葉が切れたのは身内への非難を言いよどんだからではなかった。
 カーン、カーンと高く大きく鐘の音がこだまする。昼下がりの港のほうで。

「……ッ!」

 一瞬気を取られた隙をつき、ウヤが腕を振りほどいた。拘束から逃れた彼はそのまま中庭へと走り出す。

「あっ、おい!」
「話ならまた後で! 今は急ぎますので!」

 追いかけようとしたけれど、ちょうどそのとき裏口が開いて立ち止まらざるを得なくなった。厨房棟から飛び出てきたのがケイトだったからである。

「あっ! 来てたのね、良かった。悪いのだけどちょっと中を手伝ってもらえない?」

 彼女はタルバを認めると申し訳なさそうに頼んできた。これでもうタルバは完全に裏口に留まることになってしまう。憎からず思う女を置いてよそへ行くなどまだ青い己にはできない。

「急ぎなの。昨日までって言われていた地下貯蔵庫の整理がまだ終わらなくて」
「貯蔵庫の?」

 普段聞かない仕事内容にやや首を傾げるとケイトは「ええ」と困り眉のまま話し始めた。

「昨日急に大きな水がめがいくつも増えたのは知っている? それで私たち、棚から何から模様替えしなきゃならなくなって。だけどドナ人は女子供ばかりでしょう? 重いものを動かすのには時間がかかるの。新入りは皆よく働いてくれるけど鏡の間に取られてばかりだし、今は冬に向けて保存食も作らなきゃいけない時期だから、どうしても手が回らなくって」

 鐘が鳴ったということは港に着いた船から物資が届くはず。その到着よりも先に片付けを済ませなくてはとケイトが早口に捲くし立てる。彼女がこんなに焦っているのは珍しい。ひょっとすると若狐から直接命じられたことなのかもしれなかった。

「わかった」

 即答してタルバはさっと歩き出す。少しでも早く手を貸せるように厨房棟の地下へと急いだ。
 言いつけを守れなかったと知られたらラオタオに何をされるかわからない。うっかり見つかったとき酷い懲らしめを受けないように、下働きの者の側には自分がいたほうが良さそうだ。

「そう言えばバジル君は?」

 問われてタルバは隣接する主館のあるほうを見上げる。親切な異郷の友人も今は鏡の間にいるはずだ。ラオタオの寝所の隣で落ち着いてメンテナンスなどできるのかと朝にも確認はしたけれど。

「あっちの上」

 それだけでケイトには伝わったらしい。「そう」とどこか心配そうな声が返る。彼女もまたあのガラス工を案じているのだ。酷薄な若狐に惨い仕打ちを受けていやしないかと。

(やっぱり止めりゃ良かったかな)

 ウヤとも話したかったし、大丈夫だと言い張るから一人で行かせてしまったが、不安は大いに不安である。バジルは平気なのだろうか? ラオタオの名を耳にするだけであんなに怯えていたくせに。

(貯蔵庫がなんとかなったらちょっと様子見に行くか)

 嘆息を一つ吐きこぼし、タルバはケイトと地下へ続く階段を駆け下りた。
 冷たい石の地下房では女たちが大わらわで穀物袋や酒樽を移動させていた。



 ******



 大型船舶の入港制限はドナが自由都市になった際いくらか緩和されたものの、今なおずっと続いている。ドナに錨を下ろせるのは特別な許可を受けた船だけだ。だから港で鐘が鳴ったということは、アクアレイアの商人かジーアン人の誰かが来たという意味にほかならなかった。
 マルコムは大急ぎで中庭の仲間のもとへ舞い戻る。まだ少し馴染みきらない大人の男の長い足を駆けさせて。
 主館の前には退役兵の肉体と記憶を得た患者たちが集まっていた。ゴジャの姿のオーベドが不安げな目を向けてくるので視線で「しっかりしろ」と伝える。打ち合わせなら何十回としてきたじゃないか。本番も練習通りにやるだけだ。

「よし、皆こっちに」

 マルコムはまず戦力となる同胞だけで輪を固めた。第二グループの――己がアクアレイアの脳蟲だという自覚のない――退役兵とは距離を取り、彼らとは異なる動きを取りやすいようにする。
 ウヤの記憶を持つマルコムには「今ドナの港に降りたのはファンスウだ」という確信があった。アークやハイランバオスの情報を求めてやまないあの男が捕らえた狐を長々と放っておくはずがない。知らせの返事を書く間も惜しんできっと来る、と。
 主館からは間もなくブルーノも出てきた。愛らしい猫の姿で記憶喪失患者を励ましてくれていた彼は今、駄犬の役を引き継いで聖預言者のなりをしている。
 本物のラオタオがドナのどこにもいないことを隠すために狐の器を空にする第一準備は済んだらしい。麗しき顔をこちらに向けてブルーノは静かに親指を立ててみせた。
 果樹の間に小さな幕屋の林立する中庭の喧騒はいつも通りだ。退役兵が偽者と見抜かれることはまずあるまい。惰眠と美酒と快楽とを貪る彼らがわざわざこちらの行動を妨げることも。
 後は古龍が到着次第、護衛がいれば適当に言いくるめて引き離し、密談には持ってこいだが悲鳴も籠る奥部屋で首を絞めるだけである。
 どきどきと早くも心臓は早鐘を打ち始めていた。胸を押さえて鼓動をなだめ、マルコムはファンスウの到着を待つ。――だが。

「えっ?」

 マルコムは耳を疑った。開かれた城門から響いてくる多すぎる足音に。
 ざっ、ざっ、ざっ。十人や二十人どころではない人の気配が一定のリズムを保って中庭に近づいてくる。
 古龍が来るという予測は半分当たっていた。しかし彼は一人ではなかった。
 来るとすれば退役兵を刺激しない少人数で――想定していたのとは正反対の状況に思わずごくりと息を飲む。

「邪魔するぞ」

 五十人近い兵を引き連れたファンスウがひと声放つと酒を手に硬直していた退役兵らは我先に幕屋の中へ駆け込んだ。将軍の相手などという面倒はしたくないという意思表示だ。「ラオタオ捕縛に関する交渉はこっちでやる」と伝えているので別に構わないけれど。
 今はむしろ古龍を取り巻くジーアン兵のほうが問題だった。なぜこれほどの配下を従えてドナに来たのか、理由が掴めず困惑する。ファンスウが厳戒態勢を敷くほどの脅威はここにはないはずだ。
 警戒心を持たせたとしたら先日の報告である。狐を取り押さえたという嘘を古龍に書き送ったのはマルコムだ。その中にまずい文言でもあっただろうか。考えても理由はわからずじまいだった。

「狐っ子は今どこに?」

 問われたブルーノがびくびくしながら主館の入口を振り仰いだ。「中だな」とファンスウが低く呟く。古龍が兵士を連れたまま一階広間に踏み入ったので、マルコムは慌てて彼の後を追った。
 中庭からついてきたのはブルーノ一人だけだった。オーベドたちは一旦待機、鏡の間に小間使いとして潜り込んだほかの仲間が呼びにきたら加勢する手筈になっている。
 まずは自分とブルーノがファンスウを一人にさせねばならなかった。護衛兵との分断を図るべく、急ぎ足で階段を上る古龍に並ぶ。

「あの、この大所帯はどういうことです?」

 率直な疑問をぶつけるとファンスウはウヤ(息子)と信じて疑わない男に端的に説明した。

「コリフォ島にハイランバオスがおるらしい。あれを確実に取り押さえるのに兵は積めるだけ積んできた」
「えっ!?」
「それに道中何が起きても不思議ではないからのう。なるべく単独行動はせんことにしたのだ」
「な、なるほど……?」

 答えながら思わぬ展開に目を瞠る。聞けば防衛隊のもとに上っ調子の手紙が届いたらしく、古龍はレイモンド・オルブライトの船でアレイア海を南下するところらしかった。同乗のルディア、レイモンド、アイリーンは今現在船内に留め置いているという。近くにはいても王女一行の助力は得られなさそうで、マルコムは小さく眉をしかめた。

(いや、まあ、元々俺たちだけでやる予定だったわけだしな)

 ホール横の階段を上りきり、吹き抜けの廊下を歩む間にちらりと兵士の数を数える。顔ぶれを見るに全員ジーアンの蟲兵ではありそうだが、簡単に接合に持ち込める人数ではない。しかも古龍は彼らを側から離す気はないと宣言したところである。中庭に兵士たちを送り返す妙案はさっぱり思いつかなかった。将軍の逆隣を行くブルーノも困り果てた顔で行軍に付き添っている。
 どうしよう、とマルコムは大いに頭を悩ませた。「内密の話がありまして」とファンスウ一人を呼び出すのはおそらく可能だ。しかしそれでも近辺には護衛が大勢残るだろう。四、五人ならいざ知らず、四十人も五十人もオーベドたちとて捌ききれまい。
「歓迎します」と宴に誘うのも浅はかだ。ハイランバオスを警戒しつつの道中で彼らが酒など飲むはずない。むしろこっちが怪しまれておしまいだ。

(護衛を引き離す方法、護衛を引き離す方法……)

 ひらめきが降りてくるまで歩調くらい緩めたかったが、違和感を持たれると危険なので早足ぎみに歩き続ける。二階の階段も三階の階段も終わり、一団は鏡の迷宮に近づきつつあった。

(いや、これ今日行けなくないか?)

 そうして出てきた結論にマルコムは歯噛みする。逃せぬ好機が到来したのにろくな手出しもできないなんてと。
 実はアンバーには「最終的なゴーサインはマルコム君が出してちょうだい」と頼まれている。退役兵と偽預言者、どちらとも連携しやすい位置にいる己が状況を判断して伝達せよと。
 ファンスウの乗っ取りはさっさと済ませてしまいたい。しかし鏡の間で待つ仲間たちと中庭のオーベドたちが揃っても古龍をどうこうするのは不可能ではないかと思えた。迷宮を上手く使えば短時間の分断は図れるかもしれないが、いかんせん蟲兵のこの人数だ。誰か一人に怪しい動きを察知されればすべてが水泡に帰すことになる。

「なんだ、この奇怪な部屋は?」

 思考をまとめる暇もなくマルコムは迷宮入口に到着した。立ち並ぶ水銀鏡に顔をしかめたファンスウに「良ければお楽しみになられますか?」と問おうとして口をつぐむ。単独行動を控えたい古龍相手に「ウヤ」ならまずそんなことは言わない。

(ああ、くそ! 欲を出すな、欲を!)

 舞台がきっちり整うまで絶対に動いてはいけないと狐面の女優に口酸っぱく厳命されたのを思い出し、マルコムは苦い思いで古龍を招いた。「どうぞこちらへ。案内します」と先導すればファンスウは疑うことなく後についてくる。

(こんなにうじゃうじゃ兵士がいなきゃ今すぐだってやれるのに……)

 獲物を目の前にして飛びかかれないのがただただ歯がゆい。だがこの来訪が往路のものなら復路も当然ドナに立ち寄るということだ。今回は将を見送り、蟲兵たちをどうするか対策を考え、コリフォ島帰りのファンスウを待つほうが賢明なのではなかろうか。マルコムはそう思い直す。
 切り替えた後は多少落ち着き、ドナの砦の現状維持に注力するのが最善だと頭を冷やせた。発覚するとまずいのは、本当は狐を捕まえてなどいないこと、そしてアクアレイアの蟲が退役兵と入れ替わっていることだ。今日はとにかくこの場を上手く誤魔化さなくては。

(大丈夫。練習通り、脚本通りやるだけだ)

 迷宮の最後の曲がり角を曲がり、マルコムは寝所の扉をノックした。回数はきっちり三回。これは鏡の裏に潜む仲間に向けた「決行せず」の合図でもある。
 頭に入れていたパターンの応用ができたのはここまでだった。静まり返った奥部屋でマルコムは更なる難題を突きつけられることになる。



 ******



(は、始まった)

 迷宮のゴールを開閉する例の管理者用小空間でバジルはじっと息を潜める。設計図を丸めて作った紙筒を壁に当てれば中の会話は正確に聞き取れた。
 兵士たちのどよめきと咎めるような誰かの声。しわがれた老人のそれは推測するまでもなくあの古龍のものだった。

「どういうことじゃ?」

 詰問は予定通り。対するマルコムの返答もアンバーの書いた筋書きのままである。

「いえ、これは……。確かにラオタオの本体はこの水壺に保管していたのですが……」

 寝所では今ファンスウが長椅子に横たわる狐の器と破損した壺に向き合っているはずだった。そう、バジルたちはラオタオの不在を「不注意によって遺失した」という設定で押し通すことに決めていたのだ。
 本来はここで動揺したファンスウに急襲をかける算段であったのだが、護衛がこれほどウジャウジャいては仕方ない。返り討ちに遭う危険性が高すぎる。となれば今は「ラオタオを引き渡せ」との要求を封じるのが優先だった。

「誰か水壺を倒してしまったようですね。まさかウェイシャン――」
「わあ! ち、違いますって! 俺じゃないっす!」

 空いているほうの手でアンバーが泳ぐガラスの小瓶を握りしめつつバジルは盗み聞きを続行する。
 室内は壺に残った水の中にラオタオ本体を探す兵士の声で騒然となっていた。だが残念ながらいくら目を皿にしても狐が出てくることはない。申し訳程度に置いた黒粉にさっさと騙されてくれと願う。
 乾いた蟲は真っ黒に炭化して死んでしまう。ジーアンの蟲ならば誰もがよく知るヘウンバオスの原初の記憶だ。意味ありげな黒炭の塵に気がつけば皆膝を折って狐の消滅を理解するに違いない。

(これで納得してくれたらいいけど……)

 が、現実はバジルたちに厳しかった。ここで古龍がさっさとラオタオの死を認めてくれれば良かったのだが、前予想を裏切らずファンスウは冷静だった。
 黒粉を発見して息を飲む兵士らに老人は「うろたえるでない! これがあの狐っ子かどうかなぞまだわからん!」と言い聞かせる。次いで彼は刺すような鋭い声でマルコムに尋ねた。

「ウヤ、ここの番をしていた者は誰だ?」
「あ、ええと、ウェイシャンです。破壊欲が高まって何をしでかすか知れない退役兵に出入りさせるより、彼に見ていてもらうのが一番安全でしたから」

 返答を聞くと古龍は長椅子の前に屈み、安置されたラオタオの器にも触れたらしい。「まだ温かい」と確認する声が響く。

「中身を抜いたのはついさっきか?」
「いえ、四日前の襲撃時です。肉体も保全しておくべきと思って定期的に中に蟲を宿らせてはいましたが」
「誰がこやつに入っていた?」
「アクアレイアの小間使いです。彼らは蟲との話だったのでちょうどいいなと思いまして。ただまあ自分が将軍の姿をしていると勘付かれると厄介なので、半日おきに古い蟲は捨てるようにして新しいのを使っていました」
「今誰も入っていないのはなぜだ?」
「入れ替えどきに鐘が鳴ったからではないかと……。ウェイシャンにはじきにあなたが来ると伝えておりましたので」
「ではこの黒いのはアクアレイアの脳蟲である可能性も?」
「いえ、それはおそらくラオタオ本人かと思います。水壺をさらっても影も形もありませんので」

 ずばずばと問いは遠慮なく重ねられた。マルコムはすべてにそつなく、ウヤらしく答えていく。

「なぜ常時見張りをつけておらなんだ? 最初から防げた事故のはずだろう」
「……申し訳ありません。完全に私の手落ちです」
「詫びを聞いているのではない。おぬしは一体どこで何をしておった?」
「私はついさっきまでタルバと話をしていました。彼はこの砦では少々特殊な立場にいて、退役兵の行動にも疑問を呈しておりましたから、長々と捕まってしまいまして……」
「ではこの部屋にはウェイシャンが一人いただけで、ほかには誰も立ち入っていなかったのだな?」
「は、はい」

 追及の手はなお緩められない。矢継ぎ早の問いかけに、聞いているバジルのほうがキリキリと胃を痛めた。頑張れ、頑張れ、と心の中でマルコムに声援を送る。

「……誰も関与はしていないかと。この部屋とラオタオのことは彼に一任しておりましたので」

 マルコムの誘導により、ブルーノ(ウェイシャン)に注目が集まったのがわかった。緊迫感のある間を挟み、わざとらしいほど狼狽しきった声が響く。

「えっ、えっ、これって俺が駄目だった感じっすか? あの、けど俺も、もう監視とかしなくていいんだ、ハイランバオス役も交代させてもらえるかもって思ったら居ても立ってもいられなくって」

 可能な限り頭の悪そうな言い回しでブルーノが弁明した。浅薄にも守るべき寝所を放り出し、中庭へ飛び出してしまったこと。脳蟲さえ入っていなければ空っぽの身体を置き去りにしても問題ないと考えたことを。

「鐘の音聞いて、きっと龍爺が来たんだって……。昔はああいう音で訓練とかしてたから、つい……」

 声は次第に頼りなく掠れていく。元々委縮しがちなブルーノのすくみっぷりは演じていると思えないほど見事だった。

「……面目ないです。この駄犬以外にも使える者がいれば良かったのですが」

 続いてやはり演技巧者のマルコムが嘆く。言外に彼は人手がいなさすぎたと弁解した。暴力による訴えに成功した退役兵たちを宥めすかして操れる味方がせめてもう一人いれば、と。
 これはファンスウに対して有効な言い訳のはずだった。裏で糸を引いていた彼になら理解できる。ゴジャたちの過熱を抑えねばならなかったウヤに若狐の面倒まで見る余裕はなかったと。引き続きウェイシャンに監視役を任せたのは妥当な判断だったのだと。更にウェイシャンは獣脳だ。彼がへまをやらかしたという形にすれば信憑性はもっと高まる。

「ウェイシャン、おぬしが水壺を割ったのか?」
「ひっ! いや、あの、違うと思うん……ですけど。ここ出るときもちゃんと鍵はかけたはず、ですし……」

 怯えきった犬の声でブルーノは身の潔白を主張した。ここで素直に謝るのはあまりウェイシャンらしくない。疑われすぎないラインを狙っていかなければならない。だがファンスウは思った以上にしつこかった。

「誰かがこっそり狐っ子を持ち出して現場を偽装した可能性も考えられるな」

 そう言って老人は憶測を引っ込めようとしない。むしろこの状況を不可解と断じ、より仔細に室内を観察しようとする姿勢さえ窺わせた。

「だ、誰かって。ラオタオ盗んでどうするんすか?」
「少なくとも余計な口をきく前にあやつを黙らせられるじゃろう。このドナの砦にもハイランバオスと結託する誰かがいるのやもしれん」

 古龍は明らかにウェイシャンや退役兵に疑いを向けていた。駄犬のうっかりでは片づけてくれそうになく、困った展開になってくる。

「お、俺じゃないっすよ? 俺は、だって、龍爺の血統じゃないっすか。俺はそんな、ハイランバオスやラオタオの仲間になったりしないっすよ!」

 哀れっぽい物言いでブルーノがファンスウに泣きつく。疑いを向けられたら情に訴えろとはアンバーの言である。ジーアンの蟲は身内と認識している相手に弱いから、困ったときは容赦なくそこを突けと三十回は聞かされた。

「…………」

 助言は正しかったようで、古龍はしばらく思い悩むように沈黙した。いなくなった狐の代わりにウェイシャンを調べてみるか、などの発言は出てこない。立場的にブルーノ(ウェイシャン)は相当怪しく見えるはずなのに拘束しようともしなかった。だがファンスウも「ラオタオ本体が何者かに持ち去られた」という疑念は捨てきれないらしく、とんでもないことを言い出す。

「……四日前には防衛隊もここに来ていたのだったな。ドナにはずっとあそこの弓兵も留まっておるし、一度砦を洗いざらい調べておくべきかもしれん」

(は、はあ……ッ!?)

 そのときバジルに駆けた衝撃は途轍もないものであった。ぐしゃりと歪んだ紙筒の奥、引っ繰り返ったマルコムの声が響く。

「と、砦をですか!? しかしそれではゴジャたちがどう思うか――」

 利発な彼は退役兵が不満を持つ可能性を示す。実際中身は別人なので案ずる必要はないのだが、砦の一斉捜索などどんなこじつけをしても阻止しなければならなかった。秘かに保管している本物の退役兵たちが龍の目に触れないように。

「あやつらとて狐っ子が消えたと言えば協力くらいするだろう。何、不平不満を零されたら後日埋め合わせの贅沢品でもくれてやればいいだけだ」

 ファンスウは前言を撤回しなかった。兵を集めて抜き打ち検査の段取りまで話し出すのでバジルは今度こそ紙筒を握り潰しそうになる。

(ま、待って待って待って)

 だらだらと背中に、脇に、汗が流れた。古龍はさっき防衛隊を疑っている風な態度も見せていた。もし己がジーアン兵に見つかって、アンバーを守る懐を探られたらめちゃくちゃまずいのではないか――。青ざめたままバジルは透明ガラスの小瓶をポケットの奥へ押しやる。

「ちょうどいい。狐っ子の飼う鷹からアクアレイアの脳蟲が出てあれの造反が確定した今、ドナに不審な点がないか検めておくのは必要な手だ。皆、まずは中庭から行くぞ」

 バジルの足は瞬時に走り出していた。初めは音を立てないようにゆっくり、鏡の間を最短距離で抜けた後は全速力でどたばたと。
 向かったのは厨房棟の地下貯蔵庫だ。ほかの退役兵たちも一緒くたに隠している。
 早くアンバーを避難させねば。その一心でバジルは主館を飛び出した。



 ******



 一体全体上で何があったのだろう。ぞろぞろと蟲兵を引き連れて再び中庭に出てきた古龍にオーベドは絨毯の上で身をすくませた。
 接合によって記憶を得ていても演技というのは難しい。取りついたゴジャは単純な性格の男だったから、今までは適当に偉そうにしておけば安泰だったが、こういう目上の者に対する振舞いはよくわからなかった。
 しかしとりあえずびくびくと構えているのが正解であったらしい。こちらを見やったファンスウはオーベド(ゴジャ)の硬直ぶりになんら注意を払うことなく第一声を投げかけてきた。

「おぬしたち、しばらくそこにじっとしておれよ。おぬしたちが狐っ子に縄をかけたと聞いたからここまで出向いたというのに、肝心の奴本体が消え失せてしまったのだ。ハイランバオスの手の者が入り込んで盗んだ可能性もあるし、これから砦内を見て回ろうと思う」
「は……はああ!?」

 なんで家探しされることになってんだ、とオーベドは目玉を剥いて石造りの主館を見上げる。ブルーノにもマルコムにも古龍を言いくるめられなかったのだろうか。あの二人はどこ行った? 俺らは一体どうすりゃいいんだ?
 ぐるぐる頭を回す間にファンスウは中庭に転がった酒壺やら杯やらを勝手に兵に漁らせ始める。中には幕屋に押し入る者もいて、オーベドは咄嗟に「あ、おい!」と制止の声を上げてしまった。

「なんじゃ? じっとしておれと言ったろう。大人しく待てんのか?」
「そっちこそ、俺らのモンを好き放題触るんじゃねえよ! ラオタオがいなくなった? んなこた見ても聞いてもねえぞ!」
「実際いなくなったからこうして探しに出てきたのだ。まだそう時間は経っておらん。財を取り上げるわけでもなし、いいからそこで黙って見ておれ」

 曲刀の柄に手を添えた兵数人に囲まれればもう何もすることはできず、反抗していいかどうかの判別もつかず、座したままファンスウを見上げる以外なす術なかった。庭土に直接広げた綾織りの絨毯の中心で、オーベドは脳蟲仲間と困惑して眉をしかめる。
 宴会場は次々と荒らされた。持ち主が中で寝こけていた幕屋も見逃してなどもらえなかった。端から端まで余すところなく、小ぶりな高坏(たかつき)まで覗かれる。果ては「どけ」と絨毯を丸められ、土を掘り返して何か埋めた痕跡がないかといったことも確認された。

(こ、こいつら……!)

 むかむかと腹が立ち、ついオーベドは「俺たちのこと疑ってんのか!?」と声を荒らげる。ジーアンの蟲の記憶は古龍たちの横暴ぶりに本能的な不快感を呼び起こした。だがファンスウは軽やかにこちらの怒りをやり過ごす。

「ハイランバオスの手の者が入り込んでいるかもしれぬ。そう言ったのは別に退役兵の中にという話ではない。アクアレイアにも調教できる蟲はおるのだ。おぬしらとて自分の住処は綺麗なほうが良いだろう?」
「…………!」

 そんな風に諭されたらもう口だけでも歯向かえない。ぐっと拳を握りしめ、オーベドは押し黙る。
 ドナの頭の自分(ゴジャ)が何も言わないのにほかの者に何か言えるはずがなかった。あちこち引っ掻き回されるのをただ不機嫌に眺めるのみだ。

(中庭にはなんにも置いてなくて助かったな)

 心臓をざわつかせつつ嵐が早く過ぎ去ってくれるのを祈る。何がどうなっているのやら、さっぱり掴めぬ現状では迂闊にマルコムを探しにも行けない。

(あいつらはまだ上か? 俺らどうすりゃいいんだよ……)

 振り仰いだ主館四階はしんと静まり返っていた。ひりつくような緊迫はまだ続きそうだった。



 ******



 一体全体ドナで何があったのだろう。ラオタオを掌中にしたと報告が入ったときは、これでもうハイランバオスの片腕は切り落としたと思ったのに。
 結局中庭のどこからも狐の本体が発見されることはなかった。これはという引っかかりを覚えるほどの不審物も。最後は退役兵たちの懐まで探らせたのに埃一つ落ちてこず、ファンスウはじっと考え込む。
 やはりこれは駄犬の起こした不慮の事故だったのだろうか。ラオタオはもうこの世にいない者なのだろうか。
 納得しようとすればするほど化かされている気がして仕方なくなってくる。あの食えぬ男を捕らえる策を考案したのは己だが、掴まされたのは煙だったのではないのかと。
 このタイミングでの急死はあまりにハイランバオスに都合が良すぎた。なぜラオタオがアクアレイアの脳蟲を自分の鷹に宿らせていたのか、あの男が裏で何をしていたのか、知る機会は寸前になって奪われてしまった。ドナにも誰か裏切り者が――繋がりを明るみに出したくない何者かが――潜んでいるとしか思えない。
 確信はファンスウの思考に深く根を下ろす。それが誰かまだ断定はできないが、そういう誰かがいなければこんな事態は起こり得ないと。

「一度主館に戻られますか?」

 堅牢な石の館を見やりながら連れてきた兵の一人が聞いてきた。目を上げて無言で頷き、ファンスウは用のなくなった中庭に背を向ける。
 ウヤには「防衛隊の弓兵が怪しい」と言って出てきたが、今さっきまで最も疑わしいのは砦の退役兵だった。彼らならたやすく狐の甘言に乗せられたかもという気がするし、保身を依頼されていてもおかしくない。
 だが証拠は出なかった。となれば次に黒に近いのはウェイシャンだ。常日頃監視役としてラオタオに張りついていた彼ならばいくらでも懐柔のチャンスがあっただろう。本人も理性的に熟考できるタイプではない。ただいくら幼稚な獣脳でも己の近縁を疑うことは本能が拒んでいた。頭では可能性の高さを理解できていても情が判断を妨げる。
 次に怪しいウヤにしたって同じことだ。懐刀として長く重んじてきたこともあり、なおさら黒と思いたくなかった。ウェイシャンとウヤが共謀すれば誰の手を借りずともラオタオ本体を隠匿できるのが明らかでも。

(厳しいな。単に動ける立場だったというだけでは……)

 引き返した主館ホールを歩きつつファンスウは眉をしかめる。身内に疑心を向けたくないこと以上に厄介な問題もあった。猜疑を示したその瞬間、広がるだろう動揺だ。
 今でさえファンスウは「砦の退役兵の中に間者が紛れ込んでいるかも」とは言わなかった。一時の享楽に溺れる彼らを軽蔑する蟲ならともかく、退役兵に同情を示すウァーリあたりがそんな発言を耳にすれば「なんてこと言うの」と目を吊り上げて怒るだろう。渋々ながら与えられた役目をこなすウェイシャンと、帝国のため力を尽くすウヤに取調べなどした日には、待っているのは容赦ない罵詈雑言だ。
 ――ジーアンの蟲は病んでいる。これはもう、そういう病と言ってよかった。
 千年もの長き間、我々は「我々」という生き物だった。同じ道をひた走り、同じ楽園を夢に見る。
 ハイランバオスがめちゃくちゃにしたのは「我々は皆同じだ」という根源的な認識である。あの疫病神が経糸をほどいたせいでジーアンの蟲はばらばらになってしまった。それなのにまだ「我々は皆同じだ」という実感だけは残っていて、たわんだ糸に足を取られてしまっている。同胞なら無条件に信頼できたあの日々はもはや過去の遺物なのに。
 正直言ってファンスウはドナの砦にいる全員、中身を抜いてしまいたかった。水中を泳がせておけば誰も一切余計な真似はできないのだから。コリフォ島でハイランバオスを捕らえるまでの間だけでも背後を気にしたくなかった。
 だができない。何百年も同じ蟲だけを本当の仲間と信じてきた「我々」には、疑いを向けられる不快にも、疑いを向ける不快にも耐えられない。
 疑心をはっきり言葉にすれば起きるのは更なる崩壊だ。断絶はより深まり、不信と不満はより蔓延し、同じ故郷を同じように求める者同士さえ傷つけ合うようになる。
 先が予想できるからファンスウは帝国の病巣に触れられなかった。少しずつ、少しずつ、ほつけてぼろぼろになる絆を漫然と眺めているしかできない。
 ファンスウ直属の蟲兵たちは初めてドナの現状を目にし、退役兵への嫌悪を強めているようだった。最初に「我々とは違う」と見放されるのは間違いなくゴジャたちだろう。そうして生まれたひずみはきっと全体をも歪めるのだ。

(だが家探しは少々やりすぎだったかもしれんの……)

 己の行為が想定以上に波紋を広げる予感がして、ファンスウはここで捜索を切り上げるべきか逡巡する。けれどもすぐに「これは必要最低限の検分だ」と思い直した。

(本当に誰かハイランバオスと繋がっていたらどうする?)

 今ここで暴けることがあるのなら暴いておかねば霧の中を歩み続けることになる。誰が「我々」で誰が「我々でない」のか、せめて目星をつけなければ。
 それに警戒せねばならないのは身内に限った話ではないのだ。ラオタオの鷹に仕込まれていたのはアクアレイアの蟲だった。三日三晩拷問にかけても彼らは一切口を割らなかったけれど、防衛隊との関わりは否定できない。となればルディアの連れ込んだ小間使いたちと、ドナで捕虜として暮らす弓兵くらいは身ぐるみ剥いでおかねばなるまい。

(そこから何か出てくれるのが我々にとっても一番いいのだがな)

 苦い溜め息を押し殺し、一階から四階へ、ファンスウはしらみ潰しに主館のすべての部屋を探った。邪魔な鏡は取り払い、一つの見落としもないように。けれどやはり狐本体が発見されることはなかった。裏切り者の存在を示唆する不審物も。
 やはりラオタオは炭化によって死んでいて、水壺を倒したのはウェイシャンだったということだろうか。
 腑に落ちず違和感を強めるファンスウの前に、あまりにもご都合な――作為めいた答えが用意されたのは隣の厨房棟へ移ったときだった。

「ファンスウ、犯人がわかりました」

 玄関を開いてすぐの小ホールに待ち構えていたのはウヤである。狐の寝所にいないからどこへ行ったのかと思ったら、彼は独自に砦を調べていたようだ。

「なんじゃと?」
「説明します。どうぞこちらへ」

 促されるまま踏み入った大部屋は従者たちの食堂だった。中央に寄せられた広いテーブルのすぐ前に青ざめて震える男女が並んでいる。色とりどりの毛髪から察するに全員アクアレイア人らしい。誰も彼も下着同然の格好で、手には頼りなく己の服を抱えていた。

「持ち物検査は済んでいます。残念ながら何も出てはきませんでしたが……」

 ウヤの言葉にファンスウは小さく顔をしかめる。わざとらしいと感じるのはこんな状況だからだろうか。
 食堂の片隅には不安げにこちらを覗くウェイシャンの姿も見えた。芝居の席に迷い込んだ気分でファンスウは聡明な息子を振り返った。

「水壺を倒したのはそいつです」

 ウヤは前列の真ん中でひときわ青ざめた女を指差す。そのときにはもう予感していたのだと思う。これからどんな理路整然とした不可解な言い訳が始まるか。
 だが聞かないという選択はできなかった。だからファンスウは極力いつもの平静さで「どういうことじゃ?」と尋ねたのだった。



 ******



 どきん、どきん、うるさい心音を聞きとがめられないように少し大きく声を張る。「そいつです」と示した女小間使いは療養院でジーアン語を学んだとき、二人一組で教科書を使っていたパメラだった。
 古龍がラオタオ本体の消失に納得してくれなかったのは、ウェイシャン一人に責任を被せるには砦全体が怪しすぎたからである。だからマルコムは古龍と蟲兵が中庭に出ていった後、迷宮に潜んでいた仲間と急遽打ち合わせを行い、これまでの説明と矛盾しない真犯人をでっちあげることにしたのだ。
 ジーアンの蟲の傾向として自身に近しい同胞への信頼と愛着は強い。「犯行は外部(アクアレイア)の者による」と提示できれば少なくとも退役兵から疑惑の視線は逸らしてやれるはずだった。供述が上手く行けば家探しもここで終了するだろう。
 とにかくさっさとファンスウを騙しきってしまわなければ。蟲兵たちが地下貯蔵庫に踏み込む前に。

「どういうことじゃ?」

 こちらを振り返った古龍にマルコムは「やはり鍵がかかっていなかったようで……」と厳粛な面持ちで告げる。

「本日鏡の間に出入りした者を集めて尋問してみたところ、この女が奥部屋に忍び込むのを見た、何か割れる音を聞いたと複数証言が出たのです」

 びくびくと縮こまって整列する小間使いたちを見やり、ファンスウは冷めた調子で「こやつらが例の新入りか?」と尋ねた。アクアレイアの脳蟲かという意味だろう。マルコムは誤魔化さずに「はい」と答える。すると古龍はパメラに向かい、鋭く質問を投げかけた。

「女。将軍の私室に侵入した理由はなんだ? まさか中から呼ばれたわけでもあるまい?」
「あ、あの…………、その…………」

 緊張と恐怖のためか彼女の舌はもつれている。しかしパメラは自分の仕事をやりきった。マルコムが指示した通り、ごく単純な動機の説明をしてみせる。

「ここへ来てから友達が……あの、同じ小間使いのアクアレイア人がたびたびどこかにいなくなるので、もしやあの方のお部屋にいるのではと思って……」

 この台詞に古龍はぴくりと反応した。なるほど若狐に拷問趣味があることを聞きつけて救出目的で動いたか、と思ってくれれば願ったりだ。

「いけないこととは私も承知しておりました。けれどせめて遺品の一つくらい落ちていないかと考えてしまい……。そうしたら長椅子にあの方が横になっておられるのに気がついて、驚いた拍子にテーブルの水壺に思いきりぶつかってしまったのです」

 そんなに大切なものが収まっていたとは露知らず、見つかるのがただ怖くて逃げ出した、とパメラは泣きそうになりながら嘘の自白を続ける。
 これで一応話の筋は通ったはずだ。後はファンスウが信じてくれるかどうかだった。

「……………」

 読みきれない沈黙が重い。古龍はしばらく何も答えず、冷徹な目で容疑者とほかの小間使いたち、ブルーノ(ウェイシャン)を順に見やる。
 一瞥はマルコム(ウヤ)にも送られた。ファンスウは深く考え込んでいる風だった。
 今彼の頭にあるのは「誰がハイランバオスと繋がっているのか」「あるいは誰も繋がっていないのか」だろう。ファンスウの立場で見れば起こっているのは看過できないトラブルだ。
 ラオタオを捕まえたという知らせがあった。だが来てみれば狐本体は消えていて、後には炭が残るだけ。奇しくもハイランバオスから一報の入った直後である。せめてはっきり誰がやったかその目にせねば安心できまい。
 マルコムとしては「なんだ、うちの者のしわざではなかったか」と拍子抜けしてほしかった。そうしてひとまず捜索を打ち切ってほしかった。
 だが犯人を突き出すだけでは上手く行くまい。新入り小間使いたちが脳蟲ということは知られているし、最初に記憶喪失患者を欲しがったのがラオタオであるのを踏まえれば、古龍の中には別の疑問がもたげてきているはずである。即ち「ハイランバオスやラオタオと結託しているのは防衛隊のほうではないか」との疑問が。だからなんとか、別の詭弁でこの場を取り繕わねばならない。

「この女の処罰は私がしておきます。狐にもまだ誰か入れておかねばならないと思いますので」

 暗に彼女を殺した後、本体は再利用する旨を耳打ちする。それからマルコムはぼそりと低く付け加えた。ファンスウ一行を砦から追い払うためのひと言を。

「――敵は既にドナの深くに入り込んでいるのやも。あなたも砦に留まるより船でお過ごしになったほうが安全かもしれません」

 古龍にとってラオタオの命が失われたのは解せぬ問題のはずである。ここにいればまた別の災難が降りかかるかもと仄めかせば兵士らと引き揚げてくれる可能性は高かった。
 代わりに防衛隊への不信は募るかもしれないが、これが今取れる最善の策である。接合と入れ替わりの秘密だけは勘付かれるわけにいかない。

「……あなたに何かあってからでは遅い。砦のことは、すべて私にお任せを」

 父を慕う息子の顔でマルコムはファンスウに告げる。ほんの一瞬古龍は何か言いたげにしたものの、かぶりを振って「そうだな」と呟いた。

「おぬしの懸念も一理ある。厨房棟を見回ったら港へ引き返すとしよう」

 言ってファンスウは地下貯蔵庫への階段があるほうへと歩き出す。彼を守る蟲兵も当然のように引き連れて。
 マルコムは小さく指を握り込んだ。くそ、と舌打ちしたいのを堪える。
 これはもう己には止められない。「ウヤ」はここでファンスウの妨害などする男ではない。

(もしものときは戦うしかないかもな)

 刃を交える覚悟を決めつつ隠した蟲が見つからぬようアンディーンに祈りを捧げた。古龍がこちらを振り返ったのはそのときだった。

「――ウヤ、私を裏切るなよ」

 ひと言告げると老人は再び歩き出し、食堂を去っていく。
 ちくりと胸を刺す痛みにマルコムはぱちくり瞬いた。
 なぜ己が、アクアレイアを苦しめるジーアンの将軍相手に罪悪感など持つのだろう。化かし合いなどお互い様のはずなのに。

「…………?」

 心臓がいやにざわざわする。尾を引くその感覚が「ウヤ」の記憶のもたらすものだと気づいたのは、ずっと後になってからだった。



 ******



 やばい、やばい、やばい、やばい。
 どうする、どうする、どうする、どうする。
 近づいてくる足音にバジルは冷や汗を垂れ流す。アンバーを収めたガラスの小瓶は既に懐になかった。この貯蔵庫に下りてきたとき、ケイトたちを手伝うふりして水がめや樽の整理をしつつ、こっそりと安全な場所に移したからだ。だから自分でアンバー本体を持ち歩くという最悪な状態からは脱していたが、しかしそれでもなかなかどうして予断を許さぬピンチであった。

(ど、どど、どうしよう)

 逃げ出したいがあいにく出入口は一つしかない。石階段を埋め尽くす勢いで兵の気配は増え続ける。
 心配そうに震えているのは下働きの女たちもだった。言いつけられた片付けはギリギリ終了したものの、常にない物々しい雰囲気を感じ取って「えっ? 何?」「誰か来てるの?」とひそひそ声で囁き合う。
 堂々としていろ、心を強く持つんだとバジルは己に言い聞かせた。お前は胸にモモ・ハートフィールドを住まわせている男だろうと。大丈夫、お前にならやり通せる。僕はなんにも知りませんという人畜無害な小動物の顔を保つのだ。行け、頑張れ、バジル・グリーンウッド!

「なんだ? やけに大勢集まっておるな」

 最初の一人が貯蔵庫に現れたのは、精神を整える儀がちょうど終わったときだった。数人の兵に守られるようにして龍髭の老人が姿を現す。ジーアン帝国十将の一人、ファンスウだ。先刻は鏡や壁の向こう側にいてどんな男か声しかわからなかったけれど、ひと目で切れ者と知れる迫力の眼光をしている。

「ほう。ここにいたのか、防衛隊の」

 冷たい双眸にちらと覗かれ、バジルはヒッと震え上がった。たったひと言で狩人に追いつめられた小鹿か兎の気分になる。身を隠したい衝動に駆られたが、備蓄用食料と人で満杯の貯蔵庫に己の引っ込める隙間はなかった。ぐるぐると目を回しつつ、バジルは「は、はい! 確かに僕は防衛隊の一員ですが、なんでしょう!?」と返事した。

(ううっ、目つきから何から怖すぎるんだよぉ)

 到底視線を合わせられず、目玉は左右に泳ぎに泳ぐ。ずらりと兵士を従えた老将の佇まいはあまりに威圧的だった。
 いやいやいや、ビビりすぎるな。モモなら「ふーん」で済ませるレベルの圧ではないか。大丈夫。まだ行ける。僕はやれるぞ。何もわかっていないふり、何もわかっていないふりだ。

(ひーん、オーラが強いよぉ)

 将軍の放つ気迫に負けて固まるだけの木偶の棒と化していく。思考にゆとりなどという贅沢なものはなかった。いいからさっさと終わってくれ。早くどこかへ行ってくれ。それ以外の言葉は浮かんでさえこない。

「何、たいしたことではないのだが、砦でちと紛失騒ぎがあってのう。ここにいる者たちも隠し持っているものがないか調べさせてもらうぞ」

 なくなったのが何かは言わず、古龍はずいと倉庫の奥まで立ち入ってくる。何人も何人も増える兵士は出入口を塞ぐ者、小間使いを集める者、室内を点検する者に分かれた。

「うわわわわ!?」

 構える暇もなく取り囲まれ、服に腕を突っ込まれ、バジルは「キャーッ!」と声を跳ねさせる。ろくな抵抗もできぬまま腰帯をほどかれて、床にばさばさ設計図が散らばった。騎馬民族の平服など着ているせいか、いともあっさり肌の一部まで露わにされる。

「キャアーッ! イヤーッ! モモーッ!」
「お、おい」

 止めに入ってくれたのは今回もやはりタルバであった。一切経緯のわからぬ彼はファンスウやジーアン兵の来訪にぱちくり目を瞬かせていたのだが、悲鳴にやっと我に返って慌ててこちらに駆け寄ってくる。

「な、なんだこりゃ? 紛失って何がなくなったんだよ? ていうかあんたらアクアレイアで任務があるんじゃなかったか?」
「所用で少し離れることになったのだ。そう手間は取らせんよ。中庭の連中も我々に幕屋の中まで見せてくれたのだ。おぬしも協力してくれるな?」

 タルバの返事を聞く前に兵は彼にも群がった。物を入れられそうなところは入念に探りまくり、終わったら終わったで酷く無造作に放り出す。バジルなど三つ編みは分解されるわ、下着の中まで覗かれるわ、散々だった。
 妥協なき身体検査に心から「アンバーさんを先に隠しておいて良かった」と安堵する。ガラスの小瓶など所持していたらどう考えても一発アウトだ。

「ちょっ、待て待て! 女にも同じようにやるつもりか!?」

 と、そこに焦りの滲むタルバの叫び声が響いた。どうやらケイトが兵に肩を掴まれたらしい。タルバは男を引き剥がしたが、抵抗はほぼ焼け石に水だった。相手は二人や三人ではないのだ。彼女を守ろうと暴れるうちにほかの小間使いたちに不躾な手が伸びていく。

「やめろ馬鹿!」

 それでも吠えるタルバに対し、兵士たちはやや鬱陶しそうに眉をしかめた。なんで奴隷など庇う、ちょっと乱暴にするくらい良いではないかという顔だ。
 このままでは普通に全身を剥かれそうで、バジルは乱れた着衣の合わせ目を寄せながらハラハラ彼らを見守った。こういうときタルバに頼るしかないのがつらい。歯向かえば殺される捕虜でなければ少しは戦力になれるのに。
 大体タルバにだってなんでも解決できるわけではないのだ。現に今、友人は困り果てた様子で同胞と向かい合っていた。何がなんでも洗いざらい調べたいらしいファンスウはそんなタルバを無視して「やれ」と命じたが。
 そのときだった。何やらものすごい台詞が飛び出したのは。

「こ、ここの女は全員俺の妻だから触るな」

 思わぬ防御にバジルは盛大に吹きかける。親しくしている小間使いを手酷く扱わせないための方便なのはわかったが、全員妻とはあまりに豪気で。背中に庇われたケイトたちもぽかんと口を開いている。

「は、はあ?」

 ジーアン兵も皆お前は何を言っているんだという顔だ。しかし「勝手に触るのは良くない」という共通認識は生まれたようで、見えない壁に阻まれるように彼らは一歩奥へと下がった。そこにふう、と古龍の重い嘆息が響く。

「……それでは服の中は女に探させよう。手荒にしなければ文句はあるまい? ほかの者は棚を見よ」

 ファンスウの指示とともに兵士の大多数が貯蔵庫内に分散する。残ったのは小柄な数名の女兵士で、彼女たちは黙々と小間使いの持ち物検査を進めた。

(ひっ、ひええええ)

 タルバと一緒にケイトの側につきながらバジルは叫びそうになるのを堪える。棚に陳列してあるものはどれも無事では済まなかった。粉袋は口を開けられ、中まで引っ掻き回される。酒樽は無残に割られ、貯蔵庫の床に高価なワインの海を作った。特に飲料水の入った大がめは執拗に調べ上げられた。少しずつ中の水が汲まれ、混入物がないかどうかチェックされる。大がめがすっかり空になるまでそれは続けられた。

「……っ!」

 干し肉やチーズまでぞんざいに取り調べられるものだから、小間使いたちの額が次第に青ざめてくる。このままではせっかく作った保存食が全部台無しになるのではないか。不安が地下貯蔵庫を満たした。

(ああああ、そんなに乱さないでぇ)

 バジルはもう目の前を直視していられなかった。いつアンバーや退役兵らの本体が発見されて大騒動に発展するか気が気でなく、もはや失神寸前だった。
 ガッチャガッチャとあちらこちらで樽や壺や木箱を返す音がするたび心臓が止まりそうになる。駄目だ。これはもう駄目だ。どう考えてもおしまいだ――。

「あっ、それは」

 ケイトが声を上げたのはバジルが意識を白ませかけたまさにその瞬間だった。彼女は仲間の仕事が無に帰すのを黙って見ていられなくなったらしく、ついに古龍の前に踏み出す。
 ファンスウが手を伸ばしかけていたのは透明ガラスの大瓶が並ぶ棚だった。円筒型の瓶の中身はスライスされた季節の果実とシロップで、種類ごとに似たような瓶がもう二十本ほど置いてある。今年の収穫はひと通り済んでいるので何かあっても作り直せない保存食の筆頭だった。

「そちらはハイランバオス様にお出しするシロップ漬けなんです。お願いですからそのままにしておいてくださいませんか」

 ケイトは濡れた床に膝をつき、必死に両手を合わせて乞うた。なんて危ないことをするのだと見ているこちらが泡を吹きそうになる。しかしファンスウは彼女のことなど視界にも入れようとしなかった。そのまま古龍は大瓶を掴む。そこにまた別の抑止の声が響いた。

「おい、聞こえなかったのか? 聖預言者様のお口に入るものだそうだぞ」
「……やれやれ、まったく。おぬしはちとここの女に肩入れをしすぎじゃぞ」

 古龍が瓶を離す気になったのは、タルバに言い含められたからと言うよりは開封せずとも中身が丸見えだったからだろう。ドナに来てから作ったガラスはどれも本当にクリアである。取り違えが起こらないから助かると小間使いたちにも重宝されている。
 ファンスウは彼の目線の高さに並ぶ大瓶を凝視した。薄切りにされた果実は底のほうに沈んでいるものもあれば、上のほうにぷかぷか浮いているものも、真ん中あたりを漂っているものもある。取り立てて変わったシロップ漬けではない。ほかの大瓶も同じくだった。

「まあいい。ここに探し物はなさそうだしの」

 問題なしと断じてくれたか古龍は間もなく次の棚へと標的を変える。嘆願が通じたケイトはよろよろしながら皆のもとへ戻ってきた。誰からともなく手を握り合い、ただ一切が過ぎるのを待つ。
 貯蔵庫はその後もたっぷり調べられた。けれどもついにアンバーも、退役兵も、その本体を発見されるには至らなかった。

「……そうか。何も出てこなんだか」

 なぜかほっとしたような息をつき、ファンスウはまた兵を連れ、ぞろぞろと引き揚げていく。膝から崩れそうになるのを堪えてバジルは古龍を見送った。

「……整理終わったところだったのに、また片付けなきゃいけないわね」

 ぽつりとケイトの呟きが落ちる。粉も液体もぶちまけられてぐちゃぐちゃな地下貯蔵庫を見渡してタルバが「すまん」と肩をすくめた。

「どうしてあなたが謝るのよ」
「そうさ、また助けてくれたじゃないの」

 気落ちする彼に小間使いたちが励ましの声をかける。まだあどけない女の子も、ご高齢の未亡人も。

「謝罪より、いつからハレムの主人になったのか聞きたいわね」

 普段になくくだけた調子でケイトがタルバに笑いかける。「いや、あれは」と焦る友人に頬を緩め、バジルは惨状から守られたガラスの大瓶を振り返った。

(ああ、良かったあ。砂糖水に沈めたガラスは視認できなくなるって知ってて……)

 天帝の誕生日を祝ったバオゾの宴では「なんの役に立つのだ?」と問われて答えられなかったが、今ちゃんと役に立ったではないか。
 蟲本体を収めているのは海水入りの小瓶である。それをそのままシロップの瓶に落とせば二重防壁の完成だ。やや細かめに刻んだ果実も、果汁でほんのり濁った液も、半透明の蟲を隠すヴェールの機能を果たしてくれた。ファンスウもまさかシロップの中に蟲がいるとは考えもしなかったに違いない。
 ジーアン兵の足音はもうどこからも聞こえなかった。ほっと安堵の息をつき、ようやくバジルはへなへな脱力――しようとした。

「あなたがいてくれるだけで本当に随分安心ね。砦で紛失騒ぎだなんて、何がなくなったのかわからないけど、私たちどんなとばっちりを受けてもおかしくないことだもの」
「いや、咄嗟の判断とは言え皆には失礼な真似をした。すまなかった」

 けど一体なんだったんだろうなと、床掃除に取りかかりつつ天井を見上げた彼にバジルはズキンと胸を痛める。タルバには本当にわけがわからないだろう。この砦で起きていることすべて。
 知らぬ間に仲間と敵が入れ替わっているのに彼だけ蚊帳の外にいる。自由に動くことはできても真実からは遠ざけられるばかりである。タルバはこんなに懸命に自分たちを守ってくれているというのに。

「…………」

 バジルは静かに目を伏せた。大きな嵐が去ったから、またあの自問が戻ってくる。このままにしていいのかと。友人を見殺しにするのかと。
 だがどうしたらいいのだろう。一人ではとても接合になんて持ち込めない。せめてもう一人協力者がいなければ。

(タルバさん……)

 延命措置のやり方なんて最初から知らなければ良かった。知らなければ何もできない自分のことも、きっと許せていたはずなのに。
 明日にも彼は死ぬかもしれない。寿命を迎え、真っ黒になって。そうでなくともいつ何がどうなって彼と離れ離れになるかわからないのだ。例えば誰かがファンスウとの入れ替わりに成功したら、状況は大きく変わってバジルたちはアクアレイアに帰ることになるかもしれない。それはもう、いつそうなっても不思議ではないのだ。
 何もかもが駆け足で動き始めている。
 帳尻合わせに間に合わなければきっと届かなくなってしまう。



 ******



 高かった熱も下がってふらつかなくなったので「そろそろ牢に戻ります」と申し出たら「駄目に決まっているでしょう!?」と怒鳴られた。結局そのままサロンに居残ることになり、アルフレッドはいつもの席で日常の延長のごとき非日常を過ごしている。
 モモの持ってきてくれた新聞を膝に広げ、見出しに目を走らせた。「印刷商、ファンスウ将軍とコリフォ島へ」の文字列が並ぶのは今日の日付の号である。ルディアたちがアクアレイアを発ったのは昨日の昼だそうだから、今頃はもうドナに着いているだろう。皆無事でいるかなと対岸の街に思い馳せる。案じたところで今の己にできることはないのだけれど。

(俺が考えるべきなのは俺自身の進退だな)

 アルフレッドはふう、と小さく溜め息をついた。
 乙女像を奪還してくる。ルディアがそう宣言したのなら必ず持ち帰ってくるだろう。そうして多分、己はアニークの後押しで市井に戻ることになる。
 はたしてそれがいいことなのかアルフレッドにはわからなかった。ゴールドワーカータイムスのどの号を見ても民衆の悲憤と悲嘆、犯人に重罰を与えたいという強烈な衝動が読み取れる。己が生き延びたところで防衛隊やルディアのためにならないのではないだろうか。今はまだアルフレッド個人に向けられている憎悪も、それがどう飛び火していくか想像はあまりにたやすい。もちろん主君は百も承知でコリフォ島へ向かってくれたのだと思うが。

「……ねえ、そんな辛気くさいの読むのやめたら?」

 と、考え込むアルフレッドに向かいの席からアニークが問うてくる。よほど難しい顔をしていたらしく、こちらを見やる女帝の眼差しは気遣わしげだ。
 新聞の語るアクアレイア内の大騒動とは対照的に王女の寝所は静かである。今日はダレエンとウァーリもおらず、アニークは書き物に集中していた。
 詩を作る元気が出たのはいいことだ。アンディーン像の話が出るまで動揺のあまり彼女はとても平常心に戻れそうになかったのだから。

「別のにしておいたほうがいいわよ。情報収集も大事だけれど、まずは英気を養わなきゃでしょう?」

 言ってアニークはローテーブルに積み上がった本の中から気分転換できそうなものを見繕い始める。とにかく新聞はもう駄目と咎められたので、ならばと『パトリア騎士物語』の第一巻を手に取った。続編ではなく子供の頃から身に馴染む冒険活劇のほうである。これからしばらくこの部屋を出られそうもないし、頭から読み返すにはいい機会だと思ったのだ。アニークはそれを選ぶかと困惑顔をしていたが。

「まあ、うん、没頭できるかもしれないわね……」

 余計なことは何も言わず、アニークは再び書き物に戻った。彼女がパディに「民衆の心をなだめる詩を書いてくれ」とせがんでいるのは知っている。詩人が快諾の返事など絶対にしないだろうことも。
 彼女を見ていると本当に自分に正直だなと思う。迷いなく向けられる好意が時々少し苦しい。
 ルディアもこんなだったのだろうか。重すぎる忠誠心にたじろいで、自分は何も返せないのにと遠ざかろうとしたのだろうか。
 思えば故郷に帰ってから他者の心を思いやり、想像力を働かせるということをずっと怠っていた気がする。考える余裕がなかったのは事実だが、無意識に考えるのを避けてもいたのもあるだろう。おそらく己は、誰に対しても。
 左隣の静けさにアルフレッドは目を伏せる。すぐ正面ではさらさらと女帝がペンを走らせている。
 パディが罵倒で返してきてもアニークはまた同じように「お願い」と必死に綴るのではなかろうか。アルフレッドの裁判がいつまで経っても始まらないのも彼女が十人委員会に圧力をかけてくれているおかげである。
 恩恵に預かったままでいいのかなと悩まないわけではない。己はアニークに随分な態度を取ってきたというのに。気づけばこちらの借りばかりだ。せめて少しでも返せるものがあればいいのだが。

「…………」

 アルフレッドはわずか目を上げてアニークの顔を盗み見た。若く健康そうに見えるが彼女もいつ世を去ってもおかしくはないのだ。

(『接合』か……)

 マルゴーから帰国した主君の話していたことをそっと脳裏に思い浮かべる。記憶を共有することになるが寿命も百年延びるらしいとのあの言を。
 大きすぎる借りは作りたくないという思いとは別に、溌溂としたアニークの生がぷつりと途切れてしまうのはとても悲しいことに思えた。

(姫様に頼んでも、こればかりは頷いてくれないだろうな……)

 ぱらりと手元の本を開く。そこにはまだ長い道を歩き始めたばかりの騎士と姫がいる。待ち受ける運命など何も知らない二人の姿はあまりに眩しい。
 アルフレッドはページを繰った。真実がどうであれ、いつも己の心にあった物語の。
 怨恨に囚われた詩人も、道を外れてしまった騎士も、ただ悲しい。
 どうして人は間違わずに生きてはいけないのだろう。



 ******



 わけのわからない一日がやっと終わったと思ったら、またわけのわからない一日が新たにやって来たようである。いい加減にしてくれと、皆して一体なんなのだと、回らぬ頭の片隅で惑う。
 そう、昨日はわけのわからない一日だった。突然ファンスウが部隊を率いて訪ねてくるし、遺失物がどうとか言って砦中荒らしまくるし、落ち着いてからも後片付けが大変だった。もう一度ウヤを問いただそうとした頃にはとっぷり日が暮れていて、眠りたいから帰ってくれと幕屋を追い出されそうになって。ドナに起きている異変について尋ねても「そんなものはありません。あなたの単なる妄想です」と否定されてあっさり終わった。納得できず食い下がったら怯えたバジルに「もうやめましょう」と止められて。
 師でもある恩人に諫(いさ)められればタルバとしては帰るしかない。ガラス工房に戻っても心はまったく晴れなかったが。
 自分だけ何も知らない。確信はむくむく育ち、今や喉を食い破らん勢いだ。
 今朝方ファンスウがコリフォ島へ旅立ったこともタルバは一切知らなかった。教えてくれたのも近所のお喋り好きの主婦で、同胞の誰かではない。
 ドナで何かが起きている。それは間違いないことだ。
 だがさすがに、この展開は予想していなかった――。

「何も聞かずに僕の言う通りにしてください……」

 顔面蒼白の恩人にそう迫られてタルバはごくりと息を飲む。友人と認識している相手からロープを持って詰め寄られたら誰だってパニックを起こすだろう。
 火のない溶鉱炉の隣、厨房に押し込まれるようにタルバは後ずさりする。

「バジル、何、」

 問いかけに彼は答えてくれなかった。いや、声を発してはくれたのだ。ただそれがまともな答えになっていなかったというだけで。

「タルバさん、蟲なんでしょう? だからもうすぐ死ぬんでしょう?」
「は……?」

 被せられた言葉にまたも頭が真っ白になる。誰から話が漏れたのか見当さえつけられなかった。
 酔っ払った退役兵が何か冗談を吹っかけたのか? それともウェイシャンかラオタオが? あるいはファンスウ一行に不可解な面でもあったのか――。

「…………」

 なんと二の句を継ぐべきかわからずタルバはバジルの丸い瞳を見つめ返す。迷いと悔いを振り切ろうともがくような双眸を。

「あなたの寿命を延ばす方法、一つだけ知っているんです」

 タルバは三度声を失くした。まったく予期せぬ彼の言葉に。
 本当にわけのわからないことだらけだ。自分もきっと大きな流れの中にいるのに、溺れているのか泳げているのかそれさえもわからない。

「絶対誰にも言わないでください」

 暗にバジルは共犯になれと言っていた。細い喉を震わせて。
 のんびりとした昼下がり、いつもなら「そろそろ砦へ向かうか」と穏やかに会話している頃合いだ。だが今日は、激震に次ぐ激震に立ち尽くしていることしかできない。

「約束してください。僕たちだけの秘密にしていてくれるって。僕はやっぱりどうしても、あなたを助けたいんです――」









(20200608)