困ったことになったなとルディアは秘かに眉をしかめる。
 甲板から見下ろす桟橋には大量のジーアン兵。揃いの縦襟装束に身を包み、腰帯に曲刀を挟んだ男どもがあちらこちらで輪をなしている。
 整列せず十数人ごとの塊になっているのはレイモンドの用意した三隻の船に誰がどうやって乗り込むか最終調整しているからだ。何度数え直しても彼らはきっちり百と一名、荷袋を負って立っており、否応なしに溜め息が出た。
 対ハイランバオスならジーアンはもっと隠密に――、それこそ十将が単独で動くはずと読んだのに、完全に当てが外れてしまった。すぐ横でアイリーンも神妙な顔をしている。良くない流れだと悩ましげに。

「やっぱりずっと固まって動く気みたいねえ」

 彼女の視線は一番大きな輪の中心、龍髭を伸ばした老人に向けられていた。
 単純計算で三十三人、少なくとも三十人は帝国の将の周りをうろつくことになるだろう。現時点で既にファンスウは十数名の精鋭たちに囲まれている。
 頭だけアイリーンを振り返り、ルディアは無言で肩をすくめる。
 本当に困ったことになった。古龍がドナに赴いてくれるのはありがたいが、これほどの兵を引き連れてとはまったく想定していなかった。
 はたして上手くファンスウの「本体」を手に入れることができるだろうか? 古龍を配下から引き離すのはなかなか骨が折れそうだ。さすがに彼が例の鏡の迷宮で遊びたがるとも思えない。
 いや、それよりももっと大きな問題がある。ドナに着けば間違いなく古龍はウヤに「ラオタオの中身」を要求してくるだろう。まさか狐の正体はアンバーでしたと打ち明けるわけにいかないし、誤魔化し方を考えねばなるまい。
 患者たちと入れ替えた瓶詰の退役兵らを発見されても一大事だ。またしても砦での綱渡りは確定したようである。

(せめてこのジーアン兵が全員蟲なら良かったのだがな)

 商船の高い船縁から兵士の群れを見やって唸る。
 アンバーによれば「アクアレイアへ来ている蟲兵は五十人」とのことだから今視界にいる半分はおそらくただの人間だ。誤って手にかければ蟲のようには復活しないし、ジーアンとの更なる面倒を引き起こすのは想像に難くない。
 だからと言って何もせずに乗り切れる状況ではなかった。どうにかして隙を見つけ、ファンスウの記憶と器を奪わなければ。指揮権さえ獲得できれば兵が何人いようともどうとでもできるのだから。

「よーし、橋板渡してくれー!」

 見下ろせば桟橋で大きく腕を振るレイモンドの姿が映る。
 どうやら乗船が始まったらしい。ルディアの乗る帆船にも次々と兵士たちが上がってくる。船長直々にもてなされつつファンスウも甲板に現れた。

「…………」

 眼光鋭い二つの目を一瞬ちらりとこちらに向けて古龍は船室に去っていく。
 この旅の目的は二つきりだ。
 あの老人の肉体を乗っ取って、乙女の像を持ち帰る。
 成し遂げるべきことはそれだけ。



 ******



 風を孕んだ白帆が膨れ、どっしり大きな船体が波を切り裂いて進み出すと、レイモンドはひとまずほっと息をついた。
 急な出発だったけれど風向きが良くて助かった。この調子でコリフォ島まで好天候に恵まれたい。早く帰ってこられれば早く帰ってこられただけ幼馴染の重い荷を軽くしてやれるのだから。

(さあ、頑張らなきゃな)

 船上を見渡してきょろきょろと船団長を探す。船の所有者は己だが、実際に各船の船長や水夫たちを取り仕切るのは彼の仕事だ。どんな所属のなんという兵がどの船に何人乗ったか、拵えた名簿を片手に船首へと足を向けた。
 船団長はすぐにこちらに気がついて「おお、おお、ありがとうございます」と書類を受け取る。硬直気味の男の肩をレイモンドはぽんと叩いた。

「困り事が起きたら全部俺に言ってくれりゃいいからな」

 帝国の将を乗せているという重圧にへまをやらかされないうちにあらかじめフォローしておく。船団長は低姿勢に「ええ、ええ、お願いします。私どもも無事コリフォ島に到着できるよう善処します」と頭を下げた。
 冗談めかした軽いやり取りを続けると男の緊張は多少ほぐれたようである。じゃあと笑顔で手を振ってレイモンドは次に水夫らの持ち場を回った。

「どうだ、お前ら? 変わったことねーか?」
「あっ、レイモンドさん! 今のとこ問題ないです!」
「倉庫の連中もちゃんと休憩取れそうだな?」
「はい、大丈夫です!」

 帆船のさほど多くない船員たちに一人ずつ声をかけていく。「しばらく窮屈な思いさせるかもしんねーけど、礼は弾むからよろしくな」と。先程の船団長と同じように彼らもはにかんで頷いてくれた。
 これでまあ当面船内は大丈夫だろう。守ってやるつもりがあると示すだけで雇われ人は心の余裕を持てるものだ。操船にも慣れた者たちだし、いつも通り快い船の旅を提供してくれるに違いない。
 狭い通路でひと息し、レイモンドはふと我に返る。

(付き合いの浅い船員の気持ちならわかるのに、なんでアルが何考えてるかはわかってやれなかったんだろうな)

 油断すると耳の奥に騎士の声が甦ってつらくなる。もう構わないでくれと、逃げ込むように家の中へ去っていった。

 ――お前といると、何も手にできなかった自分が惨めで仕方なくなる。

 劣等感は己にも覚えのある感情だ。何度も願った。金より大切に思うものが欲しい、せめて友のように夢があればと。
 いつから捩じれていたのだろう? こんな風になるまで気づきもしなかった。
 アルフレッドは真面目だから仕える主君に恋焦がれるなど有り得ない、彼はむしろこちらに苦言してくるかもと考えていたくらいで。己の無思慮な言葉や態度がどれほど幼馴染を傷つけてきたか、想像するだに胸が痛む。
 兆候はあったはずなのに見逃した。気をつけて見ていればそれと悟れたはずなのに、自分のことにばかりかまけて。

(本当に頑張らねーと、俺)

 焦燥に追い立てられるようにしてレイモンドは船内を歩き出した。
 手でも口でも頭でもどこか動かしていなければ息が詰まりそうだった。



 ******



 埠頭に積まれた荷箱の陰で目立たぬようにこっそりと遠ざかる船影を見送る。潮風に捲れかかったフードを慌てて押さえつけ、モモはふうと息をついた。
 主君らを乗せた船団はこれからアレイア海東岸――、ドナとヴラシィを回る定番ルートでコリフォ島を目指すそうだ。帰国予定は約一ケ月後。それまではなんとか兄への批判と攻撃をやり過ごさねばならない。

(とにかくまずはアル兄に聖像のこと知らせなきゃね)

 税関岬の向かいに聳える薔薇色の宮殿を仰ぎ、モモは漕いできたゴンドラに乗り込む。舳先を向けたのは壮麗なレーギア宮でなく大運河沿いに並ぶ貴族の邸宅、その一つであるブラッドリーの屋敷だった。
 アルフレッドが女帝のサロンで看病されているということは、先日のように秘密裏に二人で会える可能性は低いということである。面会には公的な機関による公的な許可が必要だろう。幸い伯父は十人委員会の一員だ。
 そういうわけでモモはウォード邸に舞い戻った。ほかは無理でも誰より兄に目をかけてきたブラッドリーなら泣き落とせると踏んだのだ。
 目算は正しかったようである。書斎で休んでいた伯父は「お願いがあるの」とモモが告げるや「アルフレッドのことか?」と尋ね返してきた。ここ最近の心労でげっそりこけたブラッドリーの渋面を見上げ、こくりと頷く。

「半地下牢からは出してもらったんでしょ? 今なら会えるんじゃないかなと思って」

 モモの要求に最初ブラッドリーは首を振った。だがこちらも快諾されるとは考えていない。「家族との面会、許可してもしなくても変わらないよ。アル兄の立場、これ以上悪くしようがないもん」ともう一段声を強める。

「…………」

 苦々しく嘆息し、ブラッドリーは椅子に腰かけたまま項垂れた。そうすると彫りの深い目元の影がいっそう濃くなる。机の端に積み上げられた騎士物語に寄りかかる彼の姿に往年の力強さはなかった。
 どうにも心が安らがないとき、伯父はいつもこの部屋にいる。好きな小説を読むことが気分転換になるのだろう。今は手元の本を開いて現実逃避する余力もなさそうだったけれど。

「……聞き出せそうなら聞いてくれるか? ユリシーズと何があったのか」

 絞り出された悲痛な声にモモは「うん」と小さく答える。真相を共有できぬ気まずさを誤魔化すように視線を落とした。

「女帝陛下やジーアン兵の目があるから、どこまで喋ってくれるかわからないけど……」
「アクアレイアの不利益になりそうな話なら聞かなくていい」

 軍人らしくブラッドリーはきっぱり言う。だが彼の言動は明らかに矛盾していて、内心の混乱が見て取れた。
 不利益な話が出るかもと思うなら最後まで非情に徹すればいい。面会なんて許可せずに、駄目だと首を横に振れば。
 胸中でごめんねと詫びる。せめてひと目でも身内に会わせてやりたいという情けに付け入る真似をして。
 ルディアたちがアンディーン神殿の聖なる像を取り戻そうとしていることは十人委員会にも秘密だった。ジーアンとの裏取引などもとより明かせるはずもない。レイモンドはただ船と水夫を徴発されただけという形になっている。

(もうちょっとだけ待っててね。聖像が返ってきたらアル兄のこと助けられるから……)

 国のためでなくアルフレッドのためだけに宮殿への立入許可の一筆を認めてくれたブラッドリーはモモに書状を持たせると書斎の扉を押し開いた。
 行けと無言で促される。人に見つかる前に、と。
 ぺこりと小さく一礼し、ケープのフードを被り直し、モモは館を後にした。



 ******



「えっ? コリフォ島へアンディーンの聖像を取りに?」

 アルフレッドの発した疑問に「そう」と艶やかに頷いたのは派手な赤い口紅を引いた女だった。ウァーリの隣でダレエンも腕組みし、うんうん首を振っている。聞けばハイランバオスから一報があり、ファンスウが部下を引き連れてエセ預言者をふん捕まえに向かったらしい。
 コリフォ島までの足には海軍ではなくレイモンドの船が選ばれたそうである。防衛隊からは船主の槍兵のほか、ルディアとアイリーンが古龍に同行しているということだった。
 どうして己にそんな情報が与えられたのかわからずにアルフレッドは小首を傾げる。向かいのソファに腰かけたアニークも困惑気味に二人の将を見つめていた。
 ハイランバオスの名前を出してこちらの反応でも窺っているのだろうか? それにしては妙に詳しく不要な現状まで伝えてくれた気がするが。
 コンコンとノックの音が響いたのは直後だった。ほんのわずかに扉を開き、女帝の寝所を守る兵士が来客を告げる。

「防衛隊のモモ・ハートフィールドだそうですが」

 意外な接見希望者にアルフレッドはまたもやぱちくり瞬いた。

「いいわ。通して」

 ウァーリが命じると衛兵は両開きのドアの半分を開放する。
 たった一人でモモは敵陣に現れた。入室するや妹は将軍二人の姿を見やって警戒を強める。一瞬サロンに駆けた緊張を緩めたのはダレエンだった。

「ちょうどいい。今ファンスウとお前たちの主君がコリフォ島へ出向いた話をしていたところだ」

 そのひと言でこの面々が集まっている意味を察したのかモモは「なるほど」と応じる。そりゃそうか、ジーアン側でも情報共有はするよねという表情だ。

「どこまで聞いたの?」

 問いと視線を投げかけられてアルフレッドは腰を浮かした。立ち上がろうとしたものの、すぐさま四方から「ちょっと! 怪我人は座ってて!」と諫める声が飛んでくる。
 とは言え将軍や妹の席が足りない状態で一人だけ背もたれに身を預けているのは忍びない。「いや、でも」と遠慮を示すと今度はウァーリにぐぐっと肩口を押さえ込まれた。

「アルフレッド君、あなたまだ熱があるのよ? あちこち腫れたまんまだし、本当はベッドで寝てなくちゃいけないの。いいかしら?」
「わ、わかった」

 気迫に負けて大人しく引き下がる。十将の二人がソファにかけようとしないので低いテーブルの右サイドまで歩んできたモモも突っ立ったままだった。
 いつものサロンのいつもの席で、埋まらぬ左の空白に冷え冷えとした何かを感じつつアルフレッドは妹を見上げる。
 モモがここにやって来たということは十人委員会から――否、ブラッドリーから訪問許可が下りたのだろう。であれば己の極刑はいよいよ覆せないものになったということだ。
 もしまだ希望があるのなら厳格な伯父が許すはずない。英雄殺しの政治犯に家族との面会など。

「あの、モモからも改めて説明していい? 姫様たちが何しに行ったか」

 と、ソファを囲む将たちにモモが尋ねる。ダレエンが頷き、ウァーリが促すと妹はさっき聞いたのとほとんど同じ内容を伝えてきた。ただし彼女の話には一点重要な続きがあったが。

「ハイランバオス捕縛に協力する代わりにアンディーン神殿の乙女像を返してもらえることになっててね。『アクアレイアに守護精霊が戻ってきたぞ!』ってお祝いムードになればアル兄の減刑を望めるかもって姫様が」
「……!」

 この言葉に目を輝かせたのは己よりむしろアニークだった。女帝はその場に立ち上がると「本当!?」と喉を震わせる。

「げ、減刑って、死罪ではなくなるという意味よね? アルフレッドの処刑はなくなるという意味よね?」
「あ、はい。おめでたいからお祭りだってことになれば『死』は穢れなんで、特赦の対象になるんです。アル兄も前科者にはなっちゃいますけど命は助かるはずだから……」
「……! ……!」

 アニークはダレエンとウァーリを見やり、これを報告しに来てくれたのねと破顔する。喜びのままテーブル越しに両手を掴まれ、アルフレッドはぎょっとした。

「良かった……! ファンスウが帰ってくるまであなたは私が守ってみせるわ。海軍になんて渡さないから安心してね……!」

 熱烈な宣言に十将たちは微笑ましげに肩をすくめ合う。傍らでモモも安堵の息をついたようだった。己はというと突然差し伸べられた救済の手に戸惑いを隠しきれなかったけれど。
 ――波の乙女がアクアレイアに戻ってくる。そうなったら街は確かに歓呼で湧くに違いない。英雄の死を嘆く声も掻き消してしまうほどに。

「そう言えばアルフレッド君、ユリシーズとは一体何があったわけ?」

 と、いい加減事情を教えろという口ぶりでウァーリが話を振ってくる。
 どうやらルディアはまだジーアンに何も明かしていないらしい。確認がてらモモにちらりと目配せすると妹も苦い目でこちらを見つめ返してきた。どうもこの場は打ち合わせなしで切り抜けねばならないらしい。
 なんと答えたものか迷う。さすがにウァーリたちにまで黙秘を貫くわけにはいくまい。一から十までではなくとも、とにかく何か話さなくては。

「アルフレッド、いいのよ? 無理に答えなくたって」

 助け舟は気遣わしげに眉根を寄せたアニークが出してくれた。彼女はいつも誰より近くでユリシーズとアルフレッドの交流が深まるのを見てきたからか、傷を抉るくらいなら秘させておこうとしてくれる。
 しかしやはり人質としてこの宮殿にいる以上「喋りたくない」は通用しないだろうと思えた。ともかくもアルフレッドは口を開く。すると今度はこちらを制するようにしてモモの声が被さった。

「それねえ、聞いたよ、アンブローズ兄から。アル兄しょっちゅうユリシーズと飲んでたんだって? モモたちの知らないところで」

 誤魔化せないんだから黙っててという言外の圧力に押され、アルフレッドは言葉を飲み込む。モモはやや呆れた感じの表情を作って――いや、実際呆れていたのかもしれないが――「アル兄らしいよね」と大仰に嘆息した。

「? どういうこと?」

 少なすぎる説明に当然ウァーリから疑問の声が返ってくる。神経の太い妹は平然と事実関係をすっ飛ばし、将たちにでっち上げの経緯を聞かせた。

「毎日サロンで顔合わすうちに仲良くなったんだよね? そんでレイモンドが帰国した頃から一緒に飲むようになったんでしょ? アン兄がそのくらいから朝帰りが始まったって言ってたし。
 ユリシーズは姫様の元カレだもんね。姫様とレイモンドが親密そうにしてるとこ目撃して、落ち込んでるのほっとけなくて慰めてたら懐かれたのかな? アル兄ってほんといつも敵味方関係ないもんね!
 でもさすがに相手が相手だから皆に報告できなかったのかな? モモたちに教えたら止められるのわかりきってるもんね! ね! ――で、思った以上に好かれちゃって、自由都市派にでも誘われた? その断り方がヘタクソすぎて逆上でもさせちゃったかな?」

 矢継ぎ早に紡がれる嘘に圧倒されて声を失う。モモの作り話はいかにも己とユリシーズの間になら起こりそうな出来事だった。さすが生まれて十七年も妹をやっているだけある。内容が真に迫っている。

「そ、そうだったの? アルフレッド?」

 アニークの黒い双眸が深い悲哀と同情を湛えてこちらを見やった。そのまま「はい」と頷いてしまえれば良かったのだろうが、どうしてもそうできなくてアルフレッドは首を振る。

「……いえ、違います。慰めてもらっていたのは俺のほうです」

 ぽつりと小さく声を落とせば室内は水を打ったように静まり返った。誰への思慕がこの事態を招いたか、皆それで如実に察して沈黙する。恋多きウァーリなどもうすっかり合点した顔をしていた。

「それはつまり、ユリシーズは『ブルーノ・ブルータス』の正体を知っていたということか?」

 ダレエンの鋭い問いにアルフレッドは「ああ」と答える。その点は開示していい情報と断じたのかモモも話を止める素振りは見せなかった。
 帝国側に知られて困るのは蟲の接合に関することだけなのだ。勘づかれてはならないのは、ルディアがジーアン乗っ取りを企てていることだけ。

「少し前にハイランバオスのふりをしていたグレース・グレディという女が今ユリシーズの妹をやっているんだ。こう言えばわかるか?」
「なるほどな。中身の話はそこから漏れたと」

 狼男が拳を打つとサロンにはまた静寂が訪れる。秘していた想いを暴露し、重苦しさの増す空気の中で、最初に口を開いたのはアニークだった。

「……取調べで何も言わなかったのはなぜ?」

 真摯な眼差しに見つめられ、アルフレッドは押し黙る。
 理由なら様々あった。脳蟲の話はできなかったとか、自分に都合いいように弁明することはできなかったとか。だが一番は、何も語らないことがおそらく唯一己に許された「騎士らしさ」だったからだ。

「ユリシーズの誘いを拒みきれなかったのは事実です。……だから俺に無罪を主張する資格はないと思いました」

 苦笑するとアニークはやおら目を吊り上げた。

「そんなこと……っ!」

 詰まり気味に一喝され、やるせなさと憤りの浮き彫りになった小作りの顔に目を瞠る。

「誰だって、傷ついたり迷ったりするものでしょう……! ユスティティアが騎士であり続けるためにどれだけ苦しんだか忘れたの!?」

 アニークの潤んだ目からはらはらと滴が零れ、テーブルに跳ねた。ハンカチで目元を覆い、彼女はソファに座り直す。
 こんな風に泣けるアニークをなんて純粋なのだろうと思った。
 こんな風に庇ってくれると知っていて、彼女やユリシーズを頼ってしまった自分とは違って。

「……まあとにかく、モモもやり直せばいいとは思うよ。姫様だってアル兄を助けるつもりでコリフォ島まで行ってくれてるわけなんだし」

 こんなところで騎士の道終わりじゃないでしょと妹が言う。ウァーリたちもそうだそうだと賛同した。

「若気の至りってやつよ、アルフレッド君。何百年生きてたって大恋愛が破局した直後は意味わかんないことしちゃうもの!」
「こいつなんか何年も本拠地に戻らないときがある」
「あんたは平常から戻らないでしょ!?」

 笑いを誘う励ましに空気が明るく塗り替わる。四人が四人ともユリシーズの名を出さぬように「これからまた騎士として頑張っていけばいい」と言うのでアルフレッドは鉛を飲み込んだ心地がした。
 聖像さえ手に入れば処刑台から降りられる。
 騎士として再びルディアに仕えられる。
 だがそんなこといいのだろうか?
 本当に許されるのだろうか?
 大罪を犯しておいて自分だけ助かるなんて。


「駄目だぞアルフレッド。お前は私が連れて行く」


 突如間近で響いた声にアルフレッドはハッと隣を振り返った。
 ソファの左の空席には誰の姿も、誰かの座った形跡もない。そこには二度と塞がらぬ大きな穴があるばかりだ。

「…………」

 息を飲み、固まる己に妹が「どうしたの?」と怪訝な顔を向けてくる。だがアルフレッドには「なんでもない」と首を振るのが精いっぱいだった。
 気づかぬ間に滲んでいた汗がつうと背中を流れる。そう言えばまだ熱があるのだった。そんなことを思い出した。

「……モモ。もしまた宮殿に来られそうならここ一週間分の新聞を持ってきてくれないか?」
「へ? 新聞?」

 若干眉をしかめたもののモモは「いいよ」と了承してくれる。外部の情報を入手することにウァーリたちも否は唱えず「そうね。何か読みながらゆっくり養生なさい」といつも通り親切だった。

「あ、そうそう、ドナに小間使い送る件も全部上手く行ったからね。こっちのことはなんにも心配いらないから」

 さり気ない台詞にルディアたちのジーアン乗っ取り計画が進行していることを知る。頷けばアニークが「話は終わった? じゃあもう寝かせていいわね?」とソファから立ち上がった。
 寝台まで女帝に先導され、ウァーリたちが来るまでの間病人食を取っていたテーブルを離れる。
 人の気配が順に去っても耳の奥の残響はしばらく消えないままだった。

 ――アルフレッド・ハートフィールド。
 ――お前は決して名誉ある騎士にはなれない。




 ******



 動く気になどなれずともぼんやりしていられる立場ではない。十人委員会の一員として、また一度は海軍提督の座に就いた軍人の一人として、組織再編をどう行うか考えるのは己の仕事だ。
 そう思うのに書斎の椅子に沈んだまま立ち上がれない己がいた。ユリシーズの国葬がひと段落して久々に集まりのない一日なのに、次の会議に備えて案を練ることも、海軍の古い名簿に頼れそうな人物を探すことも、一切何もできずにいる。
 ブラッドリー・ウォードは肺の中のわずかな空気をひっそりと吐き出した。
 足音が近づいてくる。憚りもせず怒りを示す騒々しい物音が。
 ノックもなしに書斎のドアを開いたのは長男のレドリーだった。短い赤髪を逆立てて、瞳を義憤と憎悪に燃やし、誰に何を聞いたのやら、つかつかこちらに歩み迫る。
 どうせ海軍予備兵にでもレーギア宮の動向を探らせていたのだろう。歪んだ口から出てきたのは想像通りの非難だった。

「モモに会わせてやったんだって?」

 ブラッドリーは答えない。答えずにただ瞼を伏せる。そんなこちらの反応に長子はまた激怒したようだった。

「本当あんた昔からアルフレッドには甘いよな……!」

 机を挟んで立つレドリーは激しく拳を振り下ろす。衝撃でインク壺が揺れ、積み上がっていた蔵書の塔から騎士物語が落っこちた。
 無意識に眉間に小さくしわを寄せる。それを見咎めてレドリーは殊更鼻息を荒らげた。

「当主のくせにあんたなんでそんな危なっかしい真似すんだよ!? あいつのために家ごと倒れていいってのか!? 俺が今、海軍でどんな立場か知っててやってるんだよなあ!?」

 ぜいぜいと肩を揺らす息子を前にブラッドリーはやはり何も言えなかった。反論をしたくなかったわけではない。お前こそどうしてアルフレッドを信じてやれない、優しい従弟を追いつめる言動ばかりするのだと。
 だが胸の内をそのまま口にする気にはなれなかった。言えば亀裂は深まって取り返しがつかなくなると思ったし、己の精神も耐えられなくなるに違いないと漠然と予測できたから。

「……言いたいことはそれだけか? だったらもう下がってくれ」

 食事も喉を通らぬ日々で、返した声に覇気などなかった。痛むもの、苦しいものと距離を置きたいだけだった。
 だが要望の告げ方は最悪の部類だったのだろう。レドリーは腕を払って机の上をめちゃくちゃにすると声の限りに吠え立てた。

「あんた俺のことなんか一生まともに考える気ないんだろう!?」

 来たときよりも荒々しく、嵐のごとく息子は去る。傷つけたなとわかっても追いかける気力は湧いてこなかった。
 きっと今浴びせられた言葉がすべてだ。こんなときまで自分の頭は「あの子なら他人の物に八つ当たりなんてしないのに」などと考えている。
 子供たちが小さかった頃、書斎に入る許しは与えていなかった。本は貴重で高価だし、気に入りの騎士物語を汚されては堪らなかったから。
 けれどアルフレッドには――生真面目で聞き分けのいいあの子には、十歳になる以前から自由にここに出入りしていいと鍵を渡した。
 軍においては「絶対にしてはならないこと」と「自分の果たすべきこと」を承知している者が正しい。規律すらまともに守れぬ我が子より努力を惜しまぬ甥のほうがブラッドリーには好ましく見えた。
 初めは小さな差異だった。一歩ずつ一歩ずつアルフレッドは前進し、やがて明白な優劣が生じた。
 ――アルフレッドを養子としてウォード家に迎えたい。そんな希望を告げたのは甥の成人の前年だ。レドリーのほうがアルフレッドより四つも年上なのである。家を継ぐ邪魔になるなど可能性すらないことだった。それなのに息子は猛反発をした。不遇な甥に立身出世の道を開いてやりたいだけだといくら言葉を尽くしても。
 あの頃もっと強引になれていたら、実子への遠慮に押し負けていなければ、今こんな悲しみに打ちひしがれずに済んだのだろうか。
 飛び出していったレドリーより、やはり自分はアルフレッドを案じている。亡き英雄のための正義も、国のための必要悪も、誰もあの子に味方しないから。

(アルフレッド……)

 床に転がった騎士物語に机の端から垂れたインクがぽたぽた滴り続けるのをブラッドリーは疲れ呆けて眺めていた。
 ぽたり、ぽたり。
 黒い滴が跳ねて広がる。
 騎士の背に真っ暗な影が張りついている。



 ******



 危ない、危ない。まだバクバク跳ねている心臓を無理やり宥め、パーキン・ゴールドワーカーはへらへら笑いでいつもの自分を装った。

「最近の新聞ってこれで全部? お代はそこに置いといたからね!」

 人気のない書房には紙束を抱え込んだ少女が一人。目深にフードを下ろした姿はまるでどこぞの暗殺者だ。しかし現実には彼女のほうがそこらの闇稼業の人間よりずっと手強く恐ろしいだろう。

「モモしばらくここには来れないかもだけど、くれぐれも悪さしないでよ?」

 最後に視線で釘を刺し、防衛隊の斧兵は扉を開けて出ていった。「気をつけてな!」と小柄な背中に声をかけつつパーキンは秘かに胸を撫で下ろす。
 ああ良かった。二階に上がると言われなくて。『パトリア騎士物語』の最終巻を刷り始めたと知られたら命はなかったかもしれない。印刷工房に風評被害が及ばぬようにしばらく来ないと言っていたが、勘の鋭いあの娘のことだ。モノが完成するまでは油断しないほうがいいだろう。

「……本当に行ったな?」

 黄昏の国民広場の雑踏に桃色の影がないことを右左右と確認してパーキンは扉を閉めた。よし、それじゃあ印刷指揮を再開しよう。そう階段へ向かおうとしたときだ。背後でギイとブロンズ扉が開いたのは。

「ヒイッ!」

 動物的直感によってモモが戻ってきたのかと焦る。しかしそうではなかったらしい。わずかな扉の隙間から書房に滑り込んできたのは細身の中年男だった。
 髪色は群青。どう見てもアクアレイア人である。彼にも何か事情があるのかモモと同じく黒いケープを羽織っていた。病的にやつれた顔の上半分がフードによって秘されている。

「印刷を頼みたいんだが」

 嗄れた声で告げるや否や男はこちらに金袋を押しつけた。人間のごく自然な反応としてパーキンはさっそく袋の口をがばりと開く。眩い黄金の輝きに目を奪われたのは直後だった。

「ほっ、ほほ、本の発行をご希望で!?」

 舌なめずりして依頼内容について問う。群青の髪の男はこくりと頷き、原稿らしき紙の収まった書箱をそっと差し出した。

「一つだけ必ず守ってほしい条件がある。この依頼があったこと自体内密に。刷り上がったものはすべて私が引き取らせてもらう」
「えっ? 店頭で販売なさらないんです?」

 続けた問いにも男はそうだと頷いた。曰く、アクアレイアより諸外国に売るほうが儲けの出やすいものらしい。
 なるほどなとパーキンは拳を打った。己もこの男に倣い、騎士物語最終巻は周辺国に先に販売するべきかもしれない。ある程度広まった後でなら頭の固いブルーノや十人委員会のお偉方も国内で売るなとは言わないだろう。

「構いませんとも! かしこまりました!」

 にこやかにパーキンは是を告げた。無事に契約を結び終え、男は小さく息をつく。
 細かい仕様や報酬の確認をすると黒いケープの中年男はそそくさ書房を後にした。パーキンのもとにどこぞの小国の年代記と思しき資料を――新たなる、そしてアクアレイアにとって最大となる火種を残して。
 パーキン・ゴールドワーカーはまだ知らない。己が今全パトリアの行く末を決める二冊の書物を手にしていること。
 いずれ歴史に名を残すこの活版印刷機開発者は、世界を揺るがす言の葉の力を――その力の本当の大きさを、まだ知らない。



 ******



 広場を抜けて橋を渡り、細い裏路地を通り抜け、トレヴァー・オーウェンは水路に停めたゴンドラの小さな部屋に飛び込んだ。
 二十年来の付き合いの船頭が舟を滑らせる。ギイ、ギイ。傷んだまま修繕もできていない船体が鈍く軋んで音を立てる。

「上手く行きましたか?」

 小部屋の外からの問いかけにトレヴァーは「ああ」と短く返した。フードを下ろし、額を拭う。汗で湿った群青色の前髪を分けて。
 もう我慢の限界だった。ユリシーズがこの世を去り、帝国自由都市派の頭はいなくなったも同然なのに、委員会はまだ王国の再独立を目指そうとしない。
 防衛隊も防衛隊だ。王家に仕えていたのならユリシーズを国賊に仕立て上げ、再独立派に呼びかければ良かったものを、お利口に縮こまって。
 いや、もう、あの連中には期待するまい。マルゴーから王国史を持ち帰ってきたあの日からどのみち彼らへの信用は失せていた。せっかくコナーが記した原稿を「アクアレイアを二分してしまう」なんて理由で封じるべきと提言した奴らなのだ。再独立派を名乗ったところで到底本気とは思えない。
 やはり己がやらなくてはならないのだ。己が剣を抜かなくてはならないのだ。
 許せなかった。ジーアンの一都市として自治権を得ようなんて主張が。
 許せなかった。アクアレイアのそこかしこを闊歩している騎馬民族が。
 ジャクリーンはバオゾに連れて行かれたまま生きているか死んでいるかさえわからないのに。否、海軍の衛生兵から受けた報告が事実なら、娘には二度と会うことも叶わないのに。
 王女のドレスを着せられて、身代わりとしてコリフォ島に追放された可愛い可愛いジャクリーン。あの子の守ろうとしたものはほとんど何も残っていない。敬愛していたルディア王女は公国で殺められ、防衛隊は大罪人と印刷屋なぞに成り下がった。あの子は命をかけたのに、あの子の安否を尋ねられたのはただ一度、たった一度だ!
 もう誰もジャクリーンの名を出すこともない。だから己が、父親である己がやらねばならなかった。西パトリア諸国に資金を借りてでも、あの子のための再独立戦争を。継承権を放棄していないアウローラ姫が今もまだ存命であるのだから。
 はあ、はあ、とトレヴァーは荒い呼吸を落ち着かせる。わずかな協力者以外には誰にも何も悟られぬよう。
 十人委員会の一員として目を通した本物のアクアレイア史はニコラスの家に厳重保管されている。だが数多の戦術書、歴史書を読み込んできた己にはその内容を記憶するのはごくたやすいことだった。
 パーキン・ゴールドワーカーに渡した原稿はトレヴァーが自身で書き直したものだ。真実はそのままに、愛国の響きは高らかに歌い上げて。
 許せなかった。愛する娘の欠けたまま回り続けるこの世界が。
 許せなかった。あの子の死をせめて意味あるものに変えてやりたかった。
 だからもう、こうする以外に道はないのだ。









(20200419)