計画はこのうえなく上手く行った。退役兵は仲間が別人に成り代わったとは気づきもせず、三十人の新入り小間使いが二十人に減じたことに至っては認識すらしていなかった。
 不審火を鎮めた海軍がガレー船を守りつつ放火犯を探す間、ルディアたちはなんの問題もなくドナ乗っ取り作戦の第二段階へと進んだ。即ち退役兵全員の完全なる入れ替えに。

「実験は成功よ……! 『接合』で記憶を得れば第二グループの脳蟲もすぐに活動できるみたい!」

 珍しく頬を紅潮させてアイリーンが振り返る。衝立に身を隠す彼女の視線の先にはポリポリと頭を掻いて迷宮へ引き返す「退役兵」の姿があった。
 中身はもちろんアクアレイアの脳蟲だ。だが接合には患者たちを使ったわけではない。アイリーンに試させたのは昨日行ったそれとは別の実験だった。
 ルディアがドナに連れてきた脳蟲は二つの組に分けられる。第一グループはブルーノと療養院の患者たち、ある程度の自我を獲得済みの蟲たちだ。対して第二グループは一度も生物に寄生した経験がない蟲、つまりまだ自我と呼べる自我を持たない「海中から採取しただけの脳蟲」だった。
 普通脳蟲は一人目の宿主に取りついてから言語を用いるようになるまで半年かかる。人間の赤子に比べれば恐るべき学習速度だが、それでも自己の確立に半年は必要なのだ。
 しかし今、一日食用鶏に宿していただけの脳蟲は接合が完了するやすっくと立ち上がり、危うげない足取りでラオタオの私室を後にした。コケコッコーと鳴くこともなく、羽をばたつかせる動作もなく。

 ――未成熟な脳蟲でも接合により人格形成を早められるのではないか。

 この仮説が証明されれば水袋に詰めて持ち込んだ脳蟲と退役兵を総入れ替えしてしまえる。そして結果はほぼルディアの望んだ通りとなったのだった。

「大丈夫そうです! 普通に喋って普通に皆と飲んでます!」

 次に迷宮を抜けてきたのはウヤの姿のマルコムだった。先駆けて退役兵らの一員となった利発な少年が「実験体」の庭での様子を報告すると安堵の空気が寝所に満ちる。
 マルコム曰く、彼は自身をジーアン人と思い込んでいるそうである。千年の長きに渡る「接合元」の記憶に比べ、一日足らずの家畜の記憶など紙より軽い。「鏡の間なんて通ったせいかなんだか妙な幻覚を見たぜ」と笑い話にしていたということだった。

「姫様の読み、当たったね。脳蟲いっぱい連れてきて大正解だったじゃん!」

 皮の水袋を守るモモが瞳を輝かせる。狐の身体に入り直したアンバーも斧兵の隣でうんうんと頷いた。

「アクアレイアの蟲だって自覚があればなお良かったけど、退役兵の『本体』を抜き取って人質を増やせるなら十分よね。天帝への忠誠心も薄れるでしょうし」

 彼女の言にハイランバオスの肉体を得たブルーノも、迷宮管理と偽って砦に呼び出したバジルもなるほどという表情だ。ルディアが「味方としての働きに期待できずとも邪魔にならねばそれでいい」と続けるとマルコムから頼もしい声が返った。

「俺とオーベドで舵取りします。皆さんが動きやすいように」

 彼の意気込みは本物だ。何しろもう戻る身体を処分してしまったのだから。
 本当は可能なら第二グループの脳蟲は動物よりマルコムやオーベドの空いた肉体に宿らせたかった。初めはそうしようと試みたのだ。だがどうしても器に脳蟲が定着せず、遺体を使い回すのは諦めざるを得なかった。
 一度でも「最初の宿主」となった者は以後「一人目」にはなれないらしい。アイリーンも過去に同じ実験をしてやはり失敗したと言った。
 宿主に最も強く残った思いが蟲の人格の核となる――おそらくその仕組みが関連しているのだろう。「核」の残っていない脳では蟲は成虫になれないのだ。だから巣を作らない。

(ともあれ準備は整った。後は順次中身を入れ替えていくだけだ)

 ルディアは改めてアンバー、ブルーノ、マルコムと顔を合わせる。「段取りはわかっているな?」と問えば三者は一様に頷いた。

「第二グループの脳蟲は小間使いに紛れた患者たちが夕食用の家畜に仕込んでくれるのよね?」
「そうしたら僕とアンバーさんは味方数人とこの部屋に待機して」
「俺かオーベドが退役兵を一人ずつ迷宮に送り込む――と」

 アンバーたちは揃って首を絞めるジェスチャーをしてみせる。これだけ息が合っていれば連携には問題なさそうだ。三日も経てば砦の退役兵は全員瓶の中だろう。
 ルディアとモモとアイリーンにはこれ以上の手伝いはできなかった。十将に怪しまれないうちにアクアレイアへ戻らなければならないからだ。
 既に昨夜マルコムがウヤの字を真似てファンスウに書を送ってくれている。捕り物は無事完了した、防衛隊は海軍のガレー船で送らせる、と。

「近いうちにファンスウがドナを訪ねてくると思う。捕らえた狐を放っておく男ではないだろうからな」

 狙えそうならそのときに古龍を落とせと静かに告げる。力強い声で「任せて」と答えたのはアンバーだった。

「悪知恵ならここに山ほど入ってるもの、やってみせるわ」

 自らの頭を指して女優がばちんとウィンクする。口笛を鳴らしたモモの声援を受け取って彼女は握り拳を固めた。だがその晴れやかな表情は長くもたずに暗く翳る。

「姫様たちも気をつけてね。ラオタオの鷹がジーアンの鷹じゃないこと、もうバレてると思うから」

 忠告には「ああ」と返した。何かあってもそこは白を切るしかない。
 ルディアがコナーに会うために隣国マルゴーへ赴いたとき、秘かに尾行していたという三羽の鷹。アンバーは彼らなら重要な情報を漏らすことはまずないと言う。鷹に入っている脳蟲は肉体を得て久しく、接合によってジーアン側の状況も心得ている。アークの話もコナーの話もしてはならないとわかるはず。なんなら口裏を合わせて誤魔化してくれていると思う、と。
 不安な点は多々あったが今は彼女を信じるほかなかった。それにジーアンにアークの所在を知られたとして十将がすぐに動き出せるわけではない。聖櫃は巨大であり、かつ山奥に存在するのだ。奪うためには策か人手、あるいはその両方が必要だった。
 今一番肝心なのはドナの砦を落としきること。そしてできるだけ早く十将の記憶と肉体を手に入れることだ。それさえ済んでしまえばもっと多様な戦略を選べるようになるのだから。

(急がなければ。アルフレッドの刑が執行される前に)

 ふう、と短い息を吐く。
 追いつめてしまった者には追いつめただけの責任がある。彼は決してここで死ぬべき男ではない。救い出すのが己の義務だ。

「アンバー、ブルーノ、マルコムたちもドナのことは頼んだぞ」

 人払いした狐の私室で残していく仲間たちと見つめ合う。一人だけうつむき加減で目の合わなかった弓兵にも「バジル、お前も」と呼びかけた。

「あっ、は、はい!」

 どもり調子の返答にルディアは思わず眉をしかめる。タルバには何もしないと約束したが、ジーアン人など弟子に持つ彼の胸中も心配だ。

「が、頑張ります。アクアレイアとアルフレッドさんのために」

 バジルはそう声を震わせた。わかっているなら何も言うまい。不要な小言を連ねるのはやめにしてルディアは最終確認に入る。

「それでは私とモモとアイリーンはこれよりアクアレイアに帰還する。朗報を待っているぞ」

 アンバーたちの無言の頷きを一瞥してルディアはくるりと踵を返した。
 打つべき布石を打ち終えて祖国の港に降り立ったのはこの翌日、夕暮れ前のことである。帰り着いたアクアレイアではまた新たな展開が待ち受けていたのだった。



 ******



 ――夢を見る。誰かの笑う声がする。
 どこから聞こえてくるのかわからず暗闇を見渡すけれど、すぐ隣で響くようにもずっと遠くから響くようにも思えて判別がつけられない。
 哄笑と重なる嘆きは悲しげで、泣いているのかもしれなかった。じっと耳を澄ませても誰の声かはわからなかったが。
 わからないと言えば暑いのかも寒いのかもわからない。どこか痛かった気がするが、今その苦痛は去っている。背中に感じていた冷たさも、焼け焦げそうだった全身の熱も。
 今なら起き上がれるかもしれない。そう思い、指に、腕に、力をこめる。
 瞼を開けば視界にぼんやり角ばった影が映った。
 ――天蓋だ。
 気づくのにそう長い時間はかからない。周囲を取り巻く薄絹と豪奢な黄金の装飾には見覚えがあったから。
 柔らかな寝床。肌触りの良い寝具。
 どうしてここにいるのだろう。動かぬ頭で考える。

「アニーク陛下……?」

 声は空しく寝所に反響するのみだった。
 重い睡魔に襲われてアルフレッドは再び眠りに落ちていった。



 ******



 アンバーとブルーノを置いてきたせいで帰りの船は最悪だった。諌める上司がいなくなり、レドリーがねちねち絡んできたせいだ。
 いつもなら「うるさいなあ」くらい言い返しそうな斧兵が黙って受け流していたためか「父親が屑だから」だの「身のほどもわきまえずにつけ上がるから」だの暴言はエスカレートする一方だった。幸い連日徹夜続きの少尉は一時間もすると仮眠を取るべく船室にこもってくれたが。
 とは言え船上が針のむしろであることに変わりはなかった。防衛隊に対する海軍の敵意は決定的で、ちょっとやそっとでは薄れそうにない。
 禍根は残したくないが、誰にもどうにもできないレベルに達してしまったという気がした。ガレー船を漕ぐ水平たちの疎ましげな目を見ていると。
 国営造船所の門を越え、船が軍港に錨を下ろすとルディアたちは即座に甲板から降ろされた。一刻も早く立ち去れと言わんばかりの空気に押されて街路へ出る。
 日は沈みかかっていた。レーギア宮に寄るべきか悩んで国民広場へ向かう。
 衛兵の守る宮殿正門は素通りした。そのまま広場の南端へ歩き、印刷工房の重いドアを押し開く。
 一階の書房は店じまいした後だった。職人たちも引き揚げたのか人気がない。無人というわけではなく、上階では足音がしていたが。

「レイモンド?」

 建物の主人に声をかけると長身の影が振り返る。階段を上ってきたルディアたちを目に留めて槍兵は喉を詰まらせた。

「ああ、皆、無事に帰ってきたんだな。良かった」

 懸命に力をこめようとした声に却って余裕のなさを知る。また何かあったのかと彼の向かう書棚を見やれば今日のものと思しき新聞が目に入った。
 視線に気づいたレイモンドが一部を脇に挟み込む。槍兵は奥部屋を気にする素振りを見せながらルディアたちに囁いた。

「まだパーキンたち残ってるし、モリスさんのとこ行こうぜ」

 言外に「ここで込み入った話はできない」と示されて促されるまま再び階段を下りていく。レイモンドは三日前よりなお蒼白で、普段の彼らしい明るさはすっかり鳴りを潜めていた。
 工房を出て逆戻りした国民広場の端から端へまた歩く。陰鬱を取り繕う余力もなく槍兵はゴンドラ溜まりの舟貸しの元へ急いだ。
 ――異なものを見咎めたのはそのときだ。
 夕刻にしては人の多い雑踏を進んでいたら、大鐘楼の麓に細い鉄柱が立っているのに気づいてルディアは足を止めた。
 さっき通ったときはなかったから今運ばれてきたものだろう。鈍く光る二本の柱の周囲には物言いたげな老若男女の人だかりができていた。
 知っている黒鉄だ。それも酷く嫌な場面で見た。
 あれは本来アンディーン神殿の奥の間に納められているもののはず。罪人を吊るすのに使用されるとき以外は。

「も、もしかして有罪確定しちゃったの?」

 ケープのフードを被り直したモモが問う。先頭を歩き始めた槍兵は「いいや」と首を横に振った。

「まだ裁判は始まってねー。多分女帝への抗議だと思う」

 貸しゴンドラの一艘に乗り込むとレイモンドはすぐに新聞を投げよこした。ランタンの乏しい灯りを掲げてルディアは見出しに目を凝らす。書かれていたのは「容疑の騎士、東パトリア皇帝に保護される」という引っ繰り返りそうな一文だった。

「は、はあ……!?」

 がばりとルディアは顔を上げる。船尾で櫂を握るレイモンドを仰ぎ、「まさか牢から出したのか?」と問えば渋面と溜め息が返された。同じく見出しを目にしたモモとアイリーンも驚愕に息を飲む。

「な、なんで!? どう考えても逆効果じゃん! 贔屓だなんだって騒がれて余計アル兄の立場が」
「俺だってそう伝えたよ! けどアルが高熱出したとかで、どうしても放っておけなかったって。半地下牢みたいな不衛生なとこに置いといたら治るもんも治らないって……!」

 極刑を回避しようとして獄中で死んだのでは意味がない。だからアニークは保護の名目で罪人をレーギア宮に移したそうだ。海軍が不当に負わせた怪我が治るまでの間と制限は設けたらしいが。

「…………」

 はあ、とルディアは嘆息した。アニークもアニークなりに考えてくれているのだろうが、いかんせんやり方がまずすぎる。これでまたハートフィールドの名に傷がつくことになってしまった。

(いや、責めるのはよそう。元はと言えば私のせいだ)

 ルディアは静かにかぶりを振る。
 工房島を目指す間、レイモンドはぽつぽつと留守中の出来事を語ってくれた。
 お役御免となった監獄塔の看守は神殿警護に戻ったらしい。冬に流行った病と言い、ユリシーズの墜落死と言い、「こう大きな不幸が続くのはやはり乙女の聖なる像がカーリス人に奪われたままだからではないか」と彼はぼやいているそうだ。
 神殿騎士たちは大切な祭壇に黄金馬像など祀られた一件でユリシーズに良い感情を持っていない。それが今回見張り兵に選ばれた一番の理由だろう。
 だが彼らがアルフレッドに好意的というわけでもなかった。信心深い彼らはアクアレイアを去らぬ混乱を「女神に見放されつつある」と解釈したようだ。そしてその考えは急速に広まっているとのことである。

「神殿から鉄柱引っ張り出してきたのは海軍の予備兵だと思う。東パトリアがどう出てもアルのこと許さねーぞって意思表示なんだろな。
 神殿騎士が倉開けちまったのはアンディーンが生け贄を望むなら仕方ない、これ以上の祟りが怖いってとこじゃねーか」

 口ぶりは淡々としていたが、レイモンドが心痛の極みにあるのは明白だった。
 慰め一つ思いつかずに押し黙る。なんとかするから安心しろなど言える状況ではなかった。順調にジーアン乗っ取りが進んでもやはりまだアルフレッドの死刑執行が早い気がする。
 モモもアイリーンも難しい顔をしていた。ドナではすべて上手く行ったのに何も成し遂げられていない錯覚すらする。打開策らしい打開策も閃かない現状では。
 そうこうする間に舟は孤島に到着し、ルディアたちはみしみしと軋む桟橋に降り立った。小高い丘の上にある一軒家を目指して歩く。扉を叩けば「どうぞ」と温和な老人の声が響いた。

「おお、帰ってきたんじゃな」

 玄関を開いてすぐの作業場には初老のガラス工だけでなくカロの姿もあった。モリスは防衛隊の帰還を心待ちにしていたようで、いつになくそわそわとしている。

「バジルは元気そうだったよ。大過なく暮らしていた」

 最初にひと言告げてやるとモリスは「おお……!」と崩れ落ちた。五芒星を宙に描いて守護精霊に感謝を捧げるガラス工にカロが支えの手を差し出す。
 弓兵と一番話し込んでいたモモが「全然なんにも変わってなかったよ!」とドナでの詳しい顛末を伝えるとモリスの安堵はなお深まった。隣で聞いていたレイモンドも報告にほっと肩の力を抜く。

「そっか。そっちは作戦成功したんだな」

 少しは希望が湧いたらしく槍兵は頬を綻ばせた。だがルディアが「自由都市としてアクアレイアが完全自治権を得るにはまだ年単位でかかると思う」との見解を述べると途端に表情を曇らせる。
 誰にでもわかることだった。それでは遅きに失すると。今はほかに選べる道がないにしても。

「…………」

 しばし重い沈黙が垂れ込める。このままではアルフレッドを助けられないのではないか。誰も口にはしなかったが胸の不安は同じだった。
 静寂を破ったのはカロである。良くも悪くも空気など読まない彼はいつもと少しも変わらぬ調子で切り出した。

「そう言えばさっきこんなものを見つけたぞ」

 そうロマが差し出してきたのは一枚の便箋だった。カロ曰く、アイリーンの代わりに湿気取りでもしてやるかと歩を踏み入れた洞窟で、研究ノートの束が重なる机上に伏せられていたらしい。

「どこのどいつが置いていったのかわからんが、お前たち宛てじゃないのか?」

 手渡された便箋にルディアは素早く目を走らせた。
 差出人こそ書かれてはいなかったが、一行読んだだけで知れる。これがあのペテン師からの招待状であるということ。

『お久しぶりです! お元気にしておられますか? そろそろお会いしたいなと思ってご連絡差し上げました!
 私は今コリフォ島を訪れています。ここにはしばらく滞在する予定ですのであなた方も是非おいでください!
 そうそう、コリフォ島にはローガン・ショックリーと例のアンディーン像も来ているんですよ。あの騒動の後、やはり双子神ジェイナスを重んじようとの意見が増えてカーリスには置いておけなくなったみたいですね。あは!
 もし聖像を取り返したいのであれば私も助力は惜しみませんよ。カーリスを叩けばアクアレイアの結束が強まりますからね!
 それではお待ちしております。
 パトリア聖暦一四四二年十月十日、コリフォ島にて』

 日付はおよそ半月前のものである。であればコリフォ島に着いてすぐ出した文だろう。これがここに届くということは、あの男はアクアレイアに伝達用の配下を潜り込ませているということだった。

「――……」

 計ったようなタイミングでの一報にルディアはしばし考え込む。文面に目を通したほかの面々も眉をひそめて互いに顔を見合わせた。

「うーん、コリフォ島って結構遠いわよね……」
「どうするの姫様? また十将に適当な言い訳して会いに行くの?」

 斧兵の問いにルディアは「いや」と首を振る。

「ファンスウたちには接触があったことを知らせる。そのうえでコリフォ島に向かう」

 きっぱり告げると女たちはどよめいた。ハイランバオスという切り札をもう使ってしまうつもりかと問いたげな眼差しに見つめられる。

「上手くすれば一気に事を進められるかもしれん。それにコリフォ島にあるというアンディーン像――、なんとしても今取り戻したい」

 語気を強めたルディアに真っ先に反応したのはレイモンドだった。

「俺! 俺も行っていいか!?」

 聖像の奪還にどんな意味があるのか察して槍兵は己に船を出させてほしいと主張する。

「もし俺がアンディーン像を持って帰れたら街を上げてのお祭りだよな!? そしたらアルの刑軽くしてやれるかも……!」

 アクアレイアが帝国自由都市になるよりこのほうが断然早い。行って帰ってくるのにも一ケ月あれば十分だ。一ケ月ならアニークがなんとか騎士を民衆の手から守り抜いてくれるだろう。

「中立貫けなんて言わねーよな? 俺がアルの肩持ってもアンディーン像さえあればお釣りが来るくらいだろ?」

 これ以上他人のふりはできないとレイモンドが訴える。心を決めてしまった彼にルディアも「ああ」と深く頷いた。

「波の乙女を救った男に文句をつけるアクアレイア人はいない。死罪だろうと帳消しだ。海軍の船に頼れば手柄を横取りされかねないし、お前が来てくれ、レイモンド」

 数日ぶりに見る恋人の明るい笑顔に自然こちらの頬も緩む。「なるほどねえ」「確かにそれが一番手っ取り早いかも」と感心するアイリーンとモモに「明日ファンスウに話をつけに行こう」と告げた。

「すぐに出航できるように全員準備を整えておけ。もうあと五日で十一月だ。航海シーズンが終わる前にアクアレイアに戻ってきたい」

 船団の主となる槍兵が「わかった」と力強く返答する。その真剣な眼差しにルディアも唇を引き結んだ。
 聖像奪還にハイランバオスとの会合。どちらも扱いの難しそうな話である。
 だがこれは大きなチャンスだ。一手に引き寄せられそうなこの流れ、なんとしてもここで掴まなければならない。
 己を信じてついてきてくれた皆のためにも。名を成すべき騎士のためにも。



 ******



 翌朝、船の手配をするために抜けたレイモンドを見送ってルディアは宮殿に足を向けた。今回は帰還報告の形を取るためモモとアイリーンも同行だ。三人一緒に中庭の一番大きな幕屋を訪ねる。
 目当ての人物は揃っていた。長椅子の中央にファンスウが、左にダレエン、右にウァーリが腰を下ろし、厳しい顔でこちらを見下ろす。片膝をついた姿勢でルディアは彼らに切り出した。

「小間使いは三十人ともドナに届けた。届けてきたが――」

 台詞の途中でちらと龍髭の老人を見やる。「あの大騒ぎはなんだったんだ?」と尋ねれば古龍のほうも「大騒ぎとは?」ととぼけてみせた。

「退役兵がラオタオを囲んであっと言う間にのしてしまった。中身も無事では済まなかったように見えたが」
「ああ、どうもひと悶着あったらしいの。気にするな。お前たちには関わりのない話じゃ」

 ばっさりと切り捨てられてルディアは小さく眉を寄せる。もう少し何か出るかと思ったが、ファンスウは余計な情報を与えてはくれなかった。
 が、仕込みとしては十分だ。「ラオタオ」は退役兵に捕まった。防衛隊もその一部始終を目撃した。十将がそう思い込んでくれればいい。

「で、お前たちはわざわざそんなことを聞きにきたのか?」

 問いかけにルディアはにやりと口角を上げる。

「お待ちかねのものが届いたのでな」

 告げながら懐から例の便箋を取り出した。「ハイランバオスからだ」と言えば幕屋の空気が一変する。ダレエンもウァーリも飛び上がり、まじまじこちらを見つめ返した。

「おそらくあいつもアクアレイアに手駒を残しているのだろう。我々が懇意にしている老人の家にこれ一枚だけ置かれていた。私はレイモンドの船で指定の島に向かうつもりだが、そちらはどうする?」
「…………!」

 返答はすぐにはなされない。ファンスウたちはしっかり文を読み込んだのちルディアに言った。

「コリフォ島へ赴くのは我々だけでいいだろう。あやつの居場所さえわかれば包囲は可能なのだからな」
「それはどうかな? 今もあの男がディラン・ストーンの身に宿っているとは限らない。首に縄をかけたければ我々の会話中、不意を突くのが良策では?」

 ファンスウはあまりルディアを関与させたくないようだったが、提案を却下できるほど自信過剰にもなれなかったようである。

「……何が望みだ?」

 交渉に応じる姿勢に薄く笑う。

「そこに書いてある聖像をアクアレイアに持ち帰りたい」

 端的に答えれば古龍は「どんな意味がある? いくらアクアレイア人が結束を固めたところでジーアンの属国以上のものになれはせんのだぞ?」と冷たく問い返した。

「アンディーンは重要な信仰の対象だ。民の心の安寧のために取り戻したい。それに聖像を神殿に納められればアルフレッドを大罪人から罪人に格下げするくらいはできる」

 この説明に食いついたのはウァーリである。「大罪人から罪人に?」と問うてきた彼女にルディアはこくりと頷いた。
 戴冠や王位継承者の結婚、滅多にはない祝い事には特例恩赦がつきもので、穢れの最たる死は遠ざけられ、罪人は刑を軽減されるのだと補足する。すると今度はダレエンが「ほう」と関心を強めた。

「アニークが聞けば喜ぶな。いいんじゃないか? 聖像の一つや二つ。俺たちもできるだけ確実にハイランバオスを捕まえたいわけだしな」

 アルフレッドの名を出せば釣られてくれるのはアニークだけでないようだ。やれやれと肩をすくめたファンスウが「まあいい。その程度の希望ならな」と応じるのを耳にして内心よしと拳を握った。
 これで十将を船に乗せ、自然な形でドナに寄港できるはず。そうしたら砦で一人ずつ彼らの首を絞められる。ジーアン上層部の知恵と器をこちらのものにできるのだ。
 が、ルディアがしめしめとほくそ笑めたのはそこまでだった。ファンスウがダレエンとウァーリに「それでは留守は任せたぞ」と言ったのを皮切りに話が微妙な方向へ逸れだしたからだ。

「コリフォ島にはこちらの兵も連れていく。お前たちの船に百人乗せられるか? あのレイモンドとかいう男なら三、四隻大きいのを持っとるだろう」

 そんなに武装されては困るとも言えず、「わ、わかった」と承諾する。百人も勘弁してくれという気持ちでいっぱいだったがなんとか喉奥に飲み込んだ。
 さすがにそんな人数を連れ回されては手出しがしにくい。記憶と身体を奪うためには隙を窺うしかなかろうが。
 ともあれ今はコリフォ島に向かうのが先決だ。刻一刻とアルフレッドの命は燃え尽きんとしているのだから。

「では今日明日中に支度を済ませておいてくれ。風に恵まれればすぐに発つ」

 片膝をついていた絨毯から立ち上がり、ルディアは辞去の一礼をした。話はあっさりと片付き、特に引き留められもしない。
 鷹がジーアンの鷹でないこと、もうバレていると思う――。
 アンバーはそう言ったけれど、この接見ではファンスウたちが何をどこまで掴んでいるかは読めなかった。ハイランバオスを捕らえるために百名も兵士を投入するあたり、アークに関する情報はまだ漏れていないように思うが。

「行くぞ。モモ、アイリーン」

 足早にルディアは宮殿を後にした。冷静に、冷静に、と逸る己に言い聞かせながら。
 詰めを誤れば何もかも水の泡だ。一つ一つ慎重に駒を進めねばならない。
 思惑に勘付かれないように。「接合」という真の切り札を、決して悟らせないように――。



 ******



 もう一度目を覚ましたら今度は人影がこちらを覗き込んでいた。部屋の中も明るくて、今が朝であるのを知る。

「アニーク陛下……」

 掠れ声で呼びかけると女帝は安堵と心配の入り混じる顔で身を屈めた。

「どうして俺があなたの寝床に……?」

 問いかけにアニークは「怪我が原因で熱を出したの。肺炎になりかけていたのよ? 覚えていない?」と眉をしかめて問い返す。完治するまでここにいてもらうから、と彼女は厳めしく命じた。

「いや、ですが、俺がこんなところでぬくぬくとしていたら部隊の皆に迷惑が」

 反論は深い嘆息に遮られる。アニークは「病人をあんな寒い牢に戻すなんて非道な真似できるはずないでしょう!」と烈火のごとく声を荒げた。

「し、しかし、静養するにしてもさすがに王族の寝所では……」

 そう遠慮を伝えると「慣れた部屋のほうが落ち着くじゃない?」と気遣いを示される。彼女はどこで眠っているのか尋ねたら夜間はイーグレットの私室を使っているそうだった。

「はあ……」

 返答に困惑を滲ませつつアルフレッドは室内を見回す。感謝はするが明らかにやりすぎだ。己の名誉はこれ以上地に落ちようがないけれど、仲間や家族の被る難を思うと忍びない。

「早く良くなってちょうだいね」

 情け深い黒い双眸がこちらを見つめる。自覚は薄いがまだ熱があるらしい。喋っていないでもう寝ろと瞼に掌を添わされた。
 看病など不要だと固辞しようとして少し咳き込む。アニークはそっと毛布を引き上げて肩にかけ直してくれた。
 本当に分不相応だ。優しくされる資格もないのに。

「ゆっくり休んで。私ずっとついているから……」

 囁きは子守唄のようだった。
 アニークはユリシーズと何があったのかも聞かない。問われたところで何も答えられないけれど。
 刑はいつ決まるのだろう。
 ルディアはどうしているのだろう。
 思考はいつしか混濁し、闇の彼方へ遠ざかった。
 ――夢を見る。誰かの笑う声がする。
 人々のざわめきが、打ち鳴らされる鐘の音が聴こえる。
 真っ黒な鉄の柱の立つ音が。



 ******



 斧兵が「モモ残ろうかな」と言い出したのはブルータス整髪店に帰る途中のことだった。なぜとルディアが問う前にモモは自ら語り始める。「アル兄の側に誰もいないのはまずい気がするんだよね」と。

「話聞いてる限り本人は今の状態受け入れちゃってるでしょ? そりゃ女帝の寵愛パワーで守ってもらえるとは思うけど、執行日が確定したって言われたら自分から出て行きそうじゃん?」

 確かになと納得する。真面目に過ぎる男だから自分はどうなっても構わないという言葉に嘘はないだろう。なんとかしてやるから待っていろと抑える役は必要そうだ。

「カロにお願いしてもいいけど、事情に通じてるモモのほうが適任かなって」
「そうねえ、そのほうが良さそうだわねえ」

 アイリーンも不安げにレーギア宮を振り返る。国民広場はとうに抜け、一行は人の少ない細い路地に入っていた。
 建物の間に覗く宝石箱に似た宮殿をなんとも言えない心地で眺める。モモの指摘した通り騎士は己に非があることを認めているのだ。民衆が押しかけでもしたらアニークの庇護下などすぐに抜け出すに違いなかった。いざというとき制止できる誰かは残すのが賢明だ。

「ママたちも心配だし、駄目かな?」
「いや。こっちは我々だけでなんとかする。お前はアルフレッドを頼む」

 騎士がレーギア宮にいるなら抜け道を使って会う機会を持てるかもしれない。状況がどう転んでもモモなら自分の判断で最善の行動を取ってくれるだろう。

「本当はモモも皆と行きたいけど……バジルたちによろしくね」

 出立準備は手伝うよ、と斧兵は歩を速める。早く彼女が以前のようにフードなど被らず出歩けるようになればいい。

(いや、きっとそうしてみせる。『防衛隊』がアンディーン像を取り返したのであればハートフィールド家の立場も回復させられるはずだ)

 今度戻ってくるときはバジルもブルーノもアンバーも連れて帰ってこよう。全員揃ってアルフレッドを迎えに行こうと胸に誓う。
 そうしたら「馬鹿なやつ」と言ってやらねば。
 こんなになるまで耐えなくたって良かったのにと。
 何も知らずにすまなかったと。



 ******



 コリフォ島へ行くからしばらく帰らない――。
 最初にそう聞かされたときの感想はフーン程度のものだった。「オトモダチが大変なのに?」との疑問は湧いたがレイモンドにも何か考えがあるのだろう。不在の間印刷工房は任せたぞとの頼みに「ああ」と返事する。

「多分一ケ月くらいかかると思う。ブルーノもアイリーンも一緒だし、なんかあったらモモに相談してくれ。あいつも今は身内のことで手一杯かもしんねーけど」

 そのひと言にパーキンはぴくりと耳を跳ねさせた。
 あの二人も連れて行くのか? 街に残るのはお嬢ちゃんだけか?
 頭は瞬時に好機の訪れを理解する。が、しかし、己にも我欲を顔に出さずにおく程度の分別は備わっていた。揉み手でレイモンドに擦り寄ってご機嫌取りを始めそうになるのをぐっと堪え、「ふーん、そっか。了解了解」とできるだけ淡白に頷く。

「ま、気をつけて行けよ。工房のことは親方の俺が守っててやっからさ!」

 パーキンがにこやかに笑むとこの数日ずっと神妙な面持ちをしている相方は「ありがとな」と礼を述べた。今日中に水夫を集めてしまわねばならないとかでレイモンドは早々に作業場を後にする。こみ上げてくる笑いを殺しきれずにフヒヒッと鼻息が漏れた。
 三、四日の留守ならばたいしたことはできないが、一ケ月なら話はまったく違ってくる。しょぼい仕事は一旦置いて、版画工房に預けておいた「あれ」を引き取りに行くとしよう。写字生どもにも大急ぎで植字架を作らせなくては。

(この大チャンスを見逃しちゃあパーキン・ゴールドワーカーじゃないぜ! 刷るなと言われた騎士物語最終巻、刷って大儲けしようじゃねえか!)

 めらめらと燃える金銭欲にパーキンは拳を握った。隣国マルゴーとの関係が悪くなろうと知ったことか。『パトリア騎士物語』を待つ読者はまだかまだかと毎日のように訴えてくるのだ。
 それに街で持ちきりの話題も新刊発売の勢いに多少押し流されてくれるかもしれない。なんだか大変な目に遭っているアルフレッドにとってもこれは良い援護射撃のはずだ。
 よし刷るぞ、刷りまくるぞとパーキンは雄叫びを上げた。
 とは言えまずは小うるさいのが旅立つまで大人しくしていなければ。どんな名案も具体的な行動に移せねば昨日の夢と大差ないのだ。
 早く船が出ますように。刷り上がった本が全部売れるまでレイモンドたちが帰国してきませんように。
 胸中で女神に祈るパーキンの足取りは軽やかだった。



 ******



「やったね! これで全員捕まえられたよ!」

 嬉しげな預言者の声が広々とした寝所に響く。
 ハイランバオスの身を纏うブルーノの手には小さなガラス瓶。中にはさっき首を絞めた退役兵の「本体」がふよふよと泳いでいる。
 素直に喜びきれないままバジルは「やりましたねえ」と作り笑いを浮かべた。付き合いの長いブルーノや演技の達人であるアンバーに本心がバレていないか胃をキリキリさせながら。

「よし、それじゃ後はドナにジーアンのお偉方が来るのを待てばいいだけね」

 やりきった顔の狐はまだこちらの空々しさに気がついていない様子である。否、勘付いてはいるのかもしれない。だがバジルの頭にある考えがそう愚かなものだとは思っていないに違いなかった。
 ジーアン人に交わって過ごしてきた彼女でもジーアン人への同情心はかけらも持っていないのだ。わかるはずない。バジルが本気でタルバをなんとかしてやりたいと思っていること。

(……やっぱり二人には言えないなあ)

 てきぱきと蟲入りの小瓶を片づけるブルーノとアンバーを見やってバジルは秘かに嘆息した。目の前の二人だけじゃない。ルディアだって、モモだって、皆アクアレイアのために戦っているのだ。
 ジーアンさえ余計な戦を仕掛けてこなければ王国は今も平和だった。敵兵に救いの手を差しのべるなどとんでもない。そんなことは己にもわかっている。わかってはいるけれど。

(明日突然タルバさんが死んじゃっても、僕、後悔しないだろうか)

 自問は重く胸に沈む。答えはきっと否だった。

(ブルーノさんたちに協力を頼めないなら僕が一人でやらなくちゃ――)

 決まりきらない心は「でもそんなことをしていいのか?」という別の良心に揺らがされる。
 尽きかけた寿命を延ばしてタルバを救いたい。それだけのことにどうしても踏みきれない。だってこれはどう考えても取ってはならない行動だから。
 だからルディアにも聞かなかった。彼に「接合」を試せないかと。そのうえで彼を捨て置いてやれないかと。そんな願い、聞く前から頷いてもらえないとわかっていたから。

(でもタルバさんはあんないい人で、いつも僕を守ってくれたのに)

 堂々巡りする思考にバジルは小さくかぶりを振る。
 ジーアンの蟲と接合させた脳蟲は記憶の量に圧倒されて皆自分を退役兵だと思い込んでいる。だったらタルバも紛れ込んだ他者の記憶を夢か幻と錯覚してくれるのではないか? 接合の後、何事もなかったように日常に戻れるのではないか?
 希望は瞬く星のようにバジルの頭上を去らなかった。
 蟲を封じた小瓶がすべて片付いても、工房に引き揚げていいと言われても。いつまでも、いつまでも。



 ******



 銀に光るオリーブの葉が風に揺られ、小波に似た音を奏でる。
 樹冠の切れ目、高台から見下ろす海はきらきらと眩しい。
 鼻歌を口ずさみながらハイランバオスは緑の丘を見渡した。夏には蛍が舞うという島の名所に今はほかの客はいない。

「再会が楽しみですねえ」

 誰にともなく呟いて薄雲たなびく秋空を見上げた。
 晴天に通信用の渡り鳥を放ったのは半月ほど前のことだ。
 詩人の直感が告げている。もうすぐ面白いことになると。

「あの方は私に気づいてくださるでしょうか?」

 くすくすと零れた笑みは風にさらわれて散っていった。
 もうすぐだ。きっともうすぐ千年の悲願が叶う。
 瞼を伏せてハイランバオスは浮かぶ幻に手を伸ばす。
 一つも覚えていないのに忘れがたいあの背中。
 もうすぐあそこに届くのだ。









(20200201)