その日一通の文が届いた。届けたのは鷹ではなくて薄灰色の雁である。
 秋の曇り空の下、海を臨む無人の望楼でウヤは手紙を握り潰した。
 これは仲間にも見られてはならぬ――否、仲間だからこそ見られてはならぬ通信だ。密命を受けてウヤが退役兵に紛れている事実を知るのは古龍と天帝の二人だけなのだから。

(ついにこのときが来たのか)

 狐狩りを実行せよとのファンスウの指令に口元を引き締める。ドナに来る前、こっそりと耳打ちされていた話だ。いよいよ彼を捨て置けなくなったそのときは「退役兵の暴走」という形でラオタオを始末すると。
 裏切りの確たる証拠が出たわけではないだろう。だがもはや制限つきの自由さえ許容するのは不可能になった。若狐の挙動不審がそういうレベルに達したということだ。
 それでも彼を同胞と信じたい仲間の反発をかわすには同じ蟲である退役兵をぶつけるのが一番いい。そしてゴジャを煽るのに己以上の適役はいなかった。

(このためにラオタオとの間に溝を作らせていたのだしね)

 何食わぬ顔で望楼を下り、怠け者どもが酒と快楽を貪る中庭に引き返すと、ウヤはゴジャの不貞寝する幕屋へ向かった。図体ばかり大きな息子は長椅子にだらしなく手足を放り、素焼きの壺から直接酒を飲んでいる。
 近頃のゴジャは一瞬たりとも素面でいられない様子だった。先日ラオタオにこってり絞られて以来見るからに彼は不機嫌だ。少し水を向けてやれば簡単に動き出してくれそうだった。

「ゴジャ、さっきアクアレイアから連絡がありました。どうやら明日また狐が砦に帰ってくるようです」

 報告にゴジャが「何?」と面を上げる。極力淡々と「新しい小間使いたちを連れてくる予定だそうで。もっとも彼らの所有権は我々にはなさそうですが」と告げれば息子は汚らしい無精ひげの顔をしかめた。

「あの野郎、俺たちをのさばらせないように見張りでもさせる気か?」

 舌打ちと同時、酒壺が床に叩きつけられる。不快な音を響かせて飛び散った破片と液にウヤは内心嘆息した。
 己の記憶を受け継ぐ蟲にこの程度の知性しか備わっていないとは嘆かわしい。しかしまあ、付け入りやすそうな被害妄想ではあった。けしかけるのに慎重に言葉を選ぶ必要もなさそうだ。

「……ゴジャ、ちょっといいですか?」

 わざとらしく声を潜めてウヤは酔っ払いの足元に腰かけた。常ならぬ空気を察してゴジャが「?」と半身を起こす。

「前々から頭にあったことなんですが。この機会に我々でラオタオを捕まえてしまいませんかね?」
「えっ?」

 提案に彼はぱちくり瞬きした。お前は何を言い出すのだという顔でまじまじ見つめ返される。
 想定通りの反応だ。ウヤはわずかに身を乗り出し、戸惑う息子にこう続けた。「どうもファンスウは彼を持て余しているように思うんです」と。

「天帝陛下が一度はお許しになったとは言え、あの男とハイランバオスが裏で繋がったままだという可能性は高いでしょう? 我々がラオタオを捕らえれば龍爺は助かるんじゃないですかね。ひょっとしたら本当にドナを退役兵だけの街にしてくれるかも」

 甘言に説得力を持たせるためにウヤは現在の十将の微妙な関係に言及した。
 ファンスウは明らかに狐を疑っているけれど、穏健派の将軍たちが「怪しいだけでは罰せまい」と主張したため監視をつけるしかできなかった。性悪狐を表舞台から引きずりおろせば彼に猜疑を抱く面々から感謝されるはずである。仮に狙いが外れたとしても狐の「本体」を回収すれば帝国幹部と交渉しやすくなるのは確かだし、やってみる価値はあるのでないか――と。

「我々には命綱が必要です。そうでしょう? いつ天帝陛下のお気が変わってドナを取り潰すと言い出すかわからないわけですから」
「……!」

 最初は及び腰だったゴジャも次第にその気になり始めたようである。「それはまあ、確かにな」と同意する兆しが見えた。
 元々彼の心には今の生活を続けていくのは難しいかもという不安、軽々しく帝国に反旗を翻した後悔が巣食っているのだ。希望をちらつかせて揺らがせるのはたやすかった。

「あなたがドナの頭として十分な実力を発揮できれば皆の心もあなたにぐっと惹きつけられるに違いありません」

 これが最後のひと押しとなり、「わかった」と了承の意が告げられる。砦の外に安寧と幸福を求めて出ていった仲間たちに未練のある証拠だった。
 まったく愚かだ。袋小路に入り込んだ馬鹿者ほど正しさの証明を欲しがるのだから。

「よし。ラオタオが帰ってくるのは明日だな? 今夜中に砦の連中に知らせるぞ」

 進み出したら後に引けないのがゴジャという男の性分である。これで上手く事が運ぶなとウヤは一人ほくそ笑んだ。
 酒と騒ぎがあるばかりでつまらぬ一年を過ごしてしまった。
 だがようやく、退屈な子守からも解放されそうである。



 ******



 いよいよだ。生き残りを賭けた勝負の大一番が迫っている。
 潮風を受けて進むガレー船の甲板でアンバーは小さく指を握り込んだ。
 海軍の青年たちが漕ぐ船はアレイア海を東進し、まっすぐドナへと向かっている。晴天が荒れそうな兆しはない。この風向きなら日没までに港入りできるだろう。西から東に吹く風を受け、白い帆は目いっぱい膨らんでいる。
 気がかりなのはドナに着いてからのことだった。あの砦で何が待つかは既に察しがついていたから。

(随分あっさり送り出してくれたものねえ)

 一瞬ぶるりと走った悪寒を散らすべくアンバーはかぶりを振った。
 震えるなどらしくない。けれどもやはり、さすがに緊張しているらしい。
 気分はあのときと似ていた。死を覚悟して駝鳥の下半身を晒し、ニンフィの聖堂に降り立ったあのときと。
 死神の鎌が首にかかっているのを感じる。だがその刃が振り下ろされる前に逃れてみせる。舞台の準備はぎりぎり間に合ったのだから。

(本当にぎりぎりだったけど……)

 腕組みは解かずに船上を見渡した。船尾に立って右舷左舷を埋める漕ぎ手を眺めれば彼らの意欲がとみに低下しているのが知れる。
 誰も彼も不安げだ。ユリシーズのいなくなった海軍に希望などない。帝国のいいように使い潰されて終わりだと、そんな空気に満ちている。
 総崩れになるのはもはや時間の問題だった。このまま誰もあの英雄の跡目を継げねば最初の一人が抜けた途端残りも全員逃げ出すに違いない。
 一応にせよ彼らがまとまって見えるのはジーアンへの恐怖心があるからだ。海軍を抜けたいなどと申し出たらどんな目に遭うかわからない。そんな保身が緩やかに彼らを結びつけているだけ。働きに期待など持てなかった。
 それでも今のアンバーにとっては貴重な盾の一つである。この先は身を守るためになるべく彼らと離れぬほうがいいだろう。
 ドナへ渡ればおそらく命を狙われる。推測が外れる気はしなかった。
 ルディア一行を見張らせるべくマルゴーへ飛ばした三羽の鷹。彼らに満足な報告をさせなかったことが十将の――とりわけファンスウの疑いを深めている。アンバーに多大な恩恵と枷を与えた狐の知見は「俺が龍爺なら面倒事は退役兵に押しつけるね」と言っていた。
 ラオタオの記憶を継ぎ、彼の思考体系に慣れた自分を頼もしくも恐ろしくも思う。以前の己ならきっと、やり過ごしながら助けを待つ以外の方法を考えもしなかった。立ち向かう勇気はあっても出し抜く知恵はなかったから。
 千年を生きる蟲の歴史。確かにそれは己の一部となりつつある。

「はーあ……」

 と、すぐ横で漏れた大きな溜め息に思考が現実に引き戻された。振り返って見てみれば聖預言者代理を務めるウェイシャンが慌てて姿勢を正すところで、不自然に反らされた胸と偉ぶろうと頑張った顔に思わず吹き出してしまう。

「あはは。ちょっとくらい気ィ抜いてたっていいんだぜ? ここにゃうるさい連中の目もないんだし」

 耳打ちすればウェイシャンは「そおですか?」といくらかほっとしたように目元を緩めた。肩の力どころか全身の力を抜いてへにゃへにゃ座り込んだ彼は咎める者がいないと知るや立膝に肘などついて項垂れる。

「いやあ、この任務、毎日ほんと疲れるんすよね。しかもこれからドナでしょ? 楽しそうな退役兵を目の前に俺は仕事かと思うと憂鬱で憂鬱で……」

 偽預言者は半べそで「一杯くらい飲みたいな」とささやかな希望を呟いた。
 どうやら彼は本気で嘆いているらしい。いつでもどこでもハイランバオスのふりをして聖人ぶらねばならないのに、務めなど放り出したいと言わんばかりだ。
 こういう駄犬が己の監視役にあてがわれたのも油断を誘うためなのだろう。不穏な動きを見せないか確かめるのに抜け道を用意するのは基本である。思惑が明らかだったから今までは本格的な懐柔を避けてきた。
 だがもうそれも不要な気遣いかもしれない。勝負のかけどきが近づいていることを思えば。

「飲んだらいいじゃん。俺だって飲むし、『身内』だけの宴なら『ハイちゃん』が酔っ払っててもなんの問題もないだろ?」
「えっ」

 さすがにそれはファンスウに怒られるんじゃと戸惑うウェイシャンはいつも通りと言えばいつも通りの彼だった。会議中、幕屋の隅でごろ寝する以外何もできない男に古龍が同胞の暗殺指令を下すとも思えない。ならば彼は安全か。そう断じるとアンバーはにこやかにウェイシャンに笑いかけた。

「黙っててやるって。たまには羽目も外さないとな!」

 監視役としてキナ臭いものを嗅ぎ取ってか、単に酒の誘惑に負けてか、駄犬は「ま、まあ、息抜きも大事っすよね」と頷く。じゅるりと響いた舌なめずりから察するに後者の可能性が高そうだ。
 だが彼もまたファンスウの手駒であることを忘れてはならない。己の喉元に突きつけられた刃の一つであることを。
 何がどう転ぶか知れないのだ。すべてが終わってみるまでは。

「…………」

 アンバーはちらと船首を仰ぎ見た。ガレー船のわずかな余地に身を寄せ合う三十名の小間使いと、彼らを守るようにして立つルディアたちを。

(モモちゃん……)

 海軍にどんな目で見られるか承知で船に乗り込んできた堂々たる少女の姿に勇気を貰う。友達のために、自分のために、祖国のために、この化かし合いを制さねばならない。
 対抗策は決まっていた。もとより打つ手は一つしかないのだ。
 どうにかして小間使いらの脳に巣食う蟲たちを退役兵に移し替える。
 この先は本当に、一歩も踏み間違えられなかった。



 ******



 なんだかいつもと砦内の様子が違う。無視できぬほど大きくなった違和感にタルバは秘かに顔をしかめた。
 今日は暇を持て余した退役兵がただの一人も建築現場に来なかった。迷宮の完成を待つ同胞が、早朝から夕闇迫るこの時間まで一人もだ。
 おかげで作業は捗ったし、バジルも心安らかに過ごせたようだが嫌な感じの胸騒ぎは消えなかった。どうもゴジャたちが良からぬことを企んでいるような気がして。

(俺の考えすぎならいいんだが)

 出来上がりつつある鏡の間を見渡して息をつく。本当はもっと嬉しい気分で自分たちの作品を眺めたいのに。
 肌に感じる空気が急速に塗り替わっている。
 仲間と協力して事を起こすとき、今とよく似た静寂が漂っていた気がする。潜り込んだ街の人間のふりをして中から城門を開いたときも、国境を守る兵の一団と入れ替わって夜中に奇襲を仕掛けたときも。
 己の与り知らぬところで何か始まろうとしているのではないか。
 そんな懸念が頭から離れない。

「そう言えばラオタオ将軍が今日にも帰還するそうね。道理で中庭が静かだと思ったわ」

 向かい合って重い鏡を運ぶケイトの発言に疑いはますます強まった。
 狐が砦に帰ってくる。それなら退役兵たちの常ならぬ挙動も納得だ。同時に何か起こるかもという予感も確たる輪郭を持ち始める。
 同じ第十世代の蟲でも生まれたときから幹部扱いのラオタオは嫉妬と羨望の的だった。享楽に浸ってなお死の不安から逃れ得ず、自棄を起こした退役兵が何かしでかしたとして不思議ではない。

(ちょっと気をつけたほうがいいかもな)

 タルバは胸中でひとりごちた。
 全体ゴジャたちは冷静さを欠きすぎだ。一時的にでも彼らがドナの支配権を握るような事態になればまたバジルを危険に晒すかもしれない。
 そうでなくても友人はラオタオに惨い仕打ちを受けたのだ。今度こそ自分が盾となり、難事から守ってやらねばならなかった。

「えっ!? ラオタオ将軍が戻ってくるんですか!?」

 それなのにこちらの会話に加わってきたガラス職人の声が明るく、タルバはぱちくり瞬きした。思わず顔を見合わせたケイトも同じような表情である。
 組み上がった複雑な迷路の奥、仕掛けを熟知した足取りで現場監督は小走りに駆けてきた。先日までの青ざめぶりはなんだったのだと思うほど生き生きとした表情で。

「グッドタイミングじゃないですか!? 明日にはこの迷宮も完成に至れそうですし、是非とも踏破に挑戦していただきたいですね!」

 周辺の水銀鏡に映り込む何十という緑の瞳が一斉に輝く。
 ――お前あの人が怖くないのか?
 そう問おうとしたときだった。灯台の鐘が鳴ったのは。

「ラ、ラオタオ様だわ!」

 下働きの誰かが叫ぶや鏡の間に集まっていた召使い全員がどよめく。
 どうやら今日の工事はこれでしまいのようだ。頑張れば夜が更ける前に片をつけられそうだったのに、誰も彼も持ち場を放り出してしまう。
 だが砦の主の帰還とあっては致し方あるまい。狐を迎えるためにばたばたと走り出した彼らを追い、タルバたちも急ぎ中庭へと向かった。



 ******



 前回訪れたときよりもドナの港はしっかり整備されていた。二年前には藻が溜まり、瓦礫の積み上がっていた埠頭が今は澄んだ波に洗われている。閑散としてはいるが、働く者もいるようだ。人の戻った灯台で大鐘を打つ音が響くとほっとした。

(良かった。これなら水夫さえ集まればまたやっていけそうだ)

 ガレー船を降りたルディアは更に詳しく現地の様子を観察した。激しい戦火に焦げついた門や税関以外、過去あった戦闘を想起させるものはない。停泊中の商船には大型のものもあり、女子供と老人しか残されなかったこの街でよくここまで湾港機能を回復させたなと感心した。それが一体誰の成果か考えると暗澹たる心地になったが。

(退役兵とアクアレイア商人を結びつけ、特需を独占できるように根回ししたのはユリシーズなのだろうな)

 風にはためく貝殻紋のアクアレイア旗を見やってルディアは息をつく。広い港にほかの所属を示す船は一隻も見られなかった。
 祖国の生命線である交易をどうにか維持せんとあの男もまた奔走したのだ。往年の力を失った海軍を率いて商船を保護するのは骨の折れる仕事だったろうに。
 ユリシーズの抜けた穴は大きい。前を行くレドリーたちの虚ろな背中を目にしていると否応なく思い知らされる。国力が回復し、もっと多くの人材が再び立てるようになるまで王国海軍はもはや海軍足り得ない、と。

(本来ならユリシーズに代わって兵を掌握すべきレドリーがあの消沈ぶりでは仕方ないが……)

 ガレー船に乗り込んだ防衛隊にぶつくさ文句をつける以外、気力のかけらも見せなかった彼を思い出して嘆息する。結局レドリーが海軍を暴走させたのは一日足らずのことだった。「なんでお前らなんか乗せてやらなきゃいけないんだ」という不満の声もアンバーのひと睨みに押さえ込まれて。
 彼の力ではその程度が限界なのだ。少なくともユリシーズの遺志を継ごう、己が海軍を背負って立とうという気概はない。アルフレッドと同じ色の双眸が映し出すのも深い怨恨のみである。

(しかしこの状態の兵たちを船に残さず連れ歩くとは思わなかったな)

 視線を列の中央に移す。偽預言者の隣を歩くアンバーはまだ「ラオタオ」の仮面を取ろうとしていなかった。合流は早ければ早いほどいいのにそうしないのは何か理由があるのだろう。大勢の部外者で周りを固めていたい理由が。

(ひとまず今は黙ってついていくしかないか)

 声をかけるのは諦めて大人しく隊列の後に続く。
 小高い丘に聳える石の砦までは長い坂を上らなければならなかった。ちらと後ろを振り返り、遅れている者がいないか確かめる。
 患者たちは皆張りつめた面持ちをしていた。気の弱いオーベドだけでなく、いつも落ち着いたマルコムも、本当に上手く行くのか心配だという表情だ。
 彼らはまだ信じきれていないのだ。「ラオタオ」の中身がこちらの味方であるということ。駝鳥の羽根一枚渡されたきりろくな言葉も交わせていない現状、信じろと言うほうに無理があるのはわかっているが。そのうえ「ラオタオ」はいかにも裏のありそうな態度を見せる男なのだから。

(裏のありそうな、か……)

 ジーアン側でも狐が背信を疑われているのは間違いなかった。「ラオタオ」の傍らに常に偽預言者の姿があるのは監視されているからだ。こちらが想定する以上にアンバーは危地に立たされているのかもしれない。役に立ちそうもない海軍を連れ回すのも、見せかけだけでも威嚇せねばならない相手がいるのかもしれなかった。

(しかし考えものだな。どうやって入れ替え作戦に手をつけるべきか)

 アンバーと個人的な話をする機会が巡ってくればいいが、彼女の協力なしで事を進めねばならない可能性も高そうだ。「接合」についてもアンバーが自身に起きた現象に自覚的とは限らない。

(アルフレッドのために早くドナを落とさねばならんのに……)

 焦るなとルディアは小さくかぶりを振る。ついさっき街に着いたばかりではないか。
 何はなくとも初めはドナの実情を把握するところからである。騎士を救おうと思うならもっと冷静でいなければ。
 近づいてきた城門を見上げ、ルディアは唇を引き結んだ。下ろされた跳ね橋を渡って海軍や「ラオタオ」たちが砦内へと入っていく。もう一度患者たちを振り返り、ルディアは彼らに頷いた。
 記憶を共有する「接合」は型の異なる蟲同士の接触によって起きる。つまり退役兵と入れ替わるにはまず双方の「中身」を取り出す必要があるということだ。
 敵に悟られないように罠にかける方法は現場で考えねばならない。ここでもまた危ない橋を渡ることになりそうだった。
 見上げれば西の空が薄赤く染まり始めている。無言のままルディアは敵地に足を踏み入れた。



 ******



 どうやら長き苦難の日々は終わりに近づきつつあるようだ。ああ、かつて己の人生にこれほどの喜びに満ちた瞬間があっただろうか。愛、光、夢、希望、尊く美しい感情が胸に溢れ、つんとした痛みとともに鼻の奥へとせり上がってくる。
 なんとかドナに防衛隊を連れてくる――その言葉通り砦に戻ってきてくれたアンバーを見やってバジルは涙ぐんだ。アルフレッドとレイモンドの姿はないが、中庭に並ぶ海軍兵のすぐ前には安否を案じていたルディアとアイリーン、そして何より焦がれてやまないモモがいる。
 ピンク色の髪にも目にも褪せたところは一つもない。可愛くて強くて最高ないつものモモだ。視界に彼女を映すだけで心は震え、目頭が熱くなった。
 ああ、今日まで希望をなくさず生き延びてきて本当に良かった。特に大変な目に遭ったわけでもないけれど、無事に再会の日を迎えられて。
 モモ! モモ! 会いたかった! えーん会いたかったよー!

「今回は皆いい子にしてたかなー!?」

 感涙に咽ぶバジルをよそに狐らしく人を食った口ぶりでアンバーが退役兵に問いかける。白けた顔のゴジャたちは誰も返事をしなかった。前回はあんなにラオタオに怯えていたのにどうしたのかと不思議に思う。
 だが今はそんなことよりモモである。アンバーと差し向かうように集まった退役兵らの後方でバジルはえいっえいっと背伸びした。声は出さずに「ここにいますよ!」と猛アピールする。
 だが悲しいかな王女一行がこちらに気づく様子はなかった。屈強な男たちが五十人近くたむろして壁を作っているのである。目に留まらなくて当然だ。

(えーん、モモーッ!)

 念を飛ばしても運命の糸が結ばれていないのではと思うほど通じない。幸いもどかしさに苦しむ時間は短くて済んだ。さっそくアンバーがバジルに話題を向けてくれたからだ。

「なんだよ皆ノリ悪いなー。バジル君は? 鏡の迷宮はできたわけ?」

 名を呼ばれたなら飛び出す理由は十分だろう。バジルはすぐさま兵士の壁を通り越し、王女一行の前へと駆けた。緊張気味に立っていた彼女らはこちらを見るなりパッと表情を明るくする。

「め、迷宮は明日完成予定です! すごいのが出来上がりそうなので楽しみにしていてください!」

 アンバーに答えつつバジルもモモたちと顔を見合わせた。
 三人ともさして変わりなく健康そうだ。見てわかる大きな怪我や傷もない。
 視線を交わせば言葉などなくとも互いの安堵が伝わった。無事で良かったと綻んだ頬が告げている。

「……っ!」

 珍しく想い人の嬉しげな笑顔がこちらに向けられて感激のあまり立ったまま失神するところだった。
 ああ、ああ、本物のモモだ。本当に本物のモモなのだ。

「ふーん、なるほど明日ね。それじゃ今日のお楽しみはやっぱ酒盛りだな!」

 迷宮の完成度を尋ねてきたアンバーはもうバジルへの興味など失ったように振る舞う。どういう段取りで部隊に合流させてくれるつもりなのか不明だが、彼女は隣の偽預言者に馴れ馴れしく寄りかかると「久々に羽伸ばそっか!」と持ちかけた。

「ゴジャたちも一緒に飲むだろ? どうせ毎日飲んでんだし」

 夜通し中庭でたっぷり騒ごうという狐の呼びかけに退役兵たちが面食らう。そんな誘いを受けるとは思ってもみなかったらしく、ゴジャもウヤも戸惑いを隠しきれない様子だった。

「は、はあ? なんで俺たちが……」
「えーっ! だってハイちゃんが飲みたいってご所望なんだぜ? 当然一緒に飲むよなあ?」

 脅しめいた文句に退役兵たちがまたざわつく。
 しばらくして返答したのはウヤである。いつも理知的な態度を崩さぬ黒髪の青年は断れば面倒な事態になると断じてか「はあ、まあ、我々は構いませんが……」と了承した。

「おい、ウヤ」

 不服げに顔をしかめたゴジャも無言のウヤに首を振られて押し黙る。目と目で会話する彼らの間には微妙な空気が流れていた。まるで「ここはラオタオの好きにさせましょう」とでも打ち合わせているかのようだ。
 何かまた違和感がもたげたが、ジーアン人の事情に疎い己には何が変なのか今一つ掴めない。そうこうするうち話は次の段階へ進んだ。

「よーし、それじゃ今日からここで働く小間使いは酒と料理をどんどん運んでこい! 長生きしたけりゃくれぐれもつまみ食いなんかするなよ? それからアイリーンちゃんたちは、今夜はバジル君の工房に泊まってね。朝になったら鏡の迷宮見にきてよ! 完成したらすぐに遊びたいからさ!」

 どうやら仲間と一緒になれそうで心が浮き立つ。いつの間にやら構え気味に横に立っていたタルバも無茶振りされずにほっと胸を撫で下ろしていた。

(小間使いって姫様の後ろにいる人たちかな?)

 縮こまっているアクアレイア人の一団に目を向ける。無理やりドナに連れてこられた人々なのか、青ざめた彼らはルディアの励ましを受けて一人また一人と主館のほうへ歩いていった。

「…………」

 見守るしかできない光景に胸を痛めつつバジルは主君らににじり寄る。狐に扮したアンバーが偽預言者を中心に車座を作り、がぶがぶと飲み始めるともう我慢できず皆に手を差しのべた。

「い、行きましょう……! とりあえずここじゃ喜ぶにも喜びきれませんから……!」

 大好きな少女に抱きつきたい衝動を堪えて中庭の出口を示す。ルディアたちもこくりと頷き、静かに移動を開始した。
 視線を感じてふと振り返れば酒器や酒壺を運ぶケイトが「良かったわね」という顔でこちらを見つめている。ありがたさに涙腺が緩んだが、まだわんわん泣き崩れるわけにいかない。
 ともかく早く主君にアンバーの件を伝えねばならなかった。どうして彼女がラオタオに成り代わっているのかさっぱりわからないけれど、知らせてくれと直々に頼まれたのだから。
 皆にも聞きたいことは山ほどある。王国はどうなったのか、部隊全員無事でいるのか。いや、もう、モモに会えただけで今日は胸いっぱいだけれども。

(えーん、嬉しいよーッ)

 仲間がすぐ側にいてくれるとはなんて心強いのだろう。大きな大きな喜びに今なら空まで飛べそうだった。



 ******



 ああ良かった。嫌なことばかり続いたから、ひとまずバジルは元気そうで。騎馬民族の衣装など着ているが、五体満足だし背も少し伸びているし、笑顔は見慣れたニタニタぶりで、ニンフィへ発つ直前に別れたときの彼のままだ。
 吉報を聞けばきっとモリスもひと心地つけるだろう。不安を口に出すことはなかったが、あのガラス工はずっと気を揉んでいたのだから。
 だが一つ手放しでは喜べないこともあった。砦を出てからもくっついてくるジーアン人がいるのである。三白眼で背の高い、退役兵らしき青年が。

(もー! 誰これー!?)

 ちらちらと互いに警戒の眼差しを向けつつモモたちは長い坂を下った。
 なんなのだろう、この男。どこまでついてくる気なのだろう。こうぴったり張りつかれては邪魔になって仕方がない。早く情報を擦り合わせて作戦準備に入りたいのに。
 無言で青年を見つめるルディアとアイリーンも同じ考えのようだった。彼が何者か判明するまで迂闊なことは喋れない。坂の傾斜が緩やかになり、人気のない黄昏の小広場に辿り着くまでなんとも言えぬ静けさが続いた。

「ぶはっ」

 最初に沈黙を破ったのはバジルが息を吐いた音だ。なんだどうしたと弓兵を見やれば彼の頬は熱い涙に濡れていた。

「ここまで来たら大丈夫ですよね!? うわーんモモーッ!」

 泣きながら腕を広げて突進してきた少年を「うわっ」と軽やかなステップでかわす。つんのめってバランスを崩したバジルは一人で勝手にすっ転んだ。

「あでっ!」

 石畳に受け止められた弓兵は「にっ、二年ぶりなのに酷くないです!?」と情けない顔でこちらを見上げる。不平を垂れる割に口元を緩ませて。
 本当に相変わらずで嘆息した。彼の中に心変わりという概念はないようだ。

「モモはハグとかする派じゃないもん。まあとりあえず、怪我とか病気はしてなさそうで安心したよ」

 薄めに伝えた安堵はそれでもバジルを喜ばせたらしい。「エヘヘヘヘ」という不気味な笑みにさり気なく一歩距離を取る。

「バジル、平気か?」

 と、こちらのやり取りを眺めていた青年が弓兵に駆け寄って手を差し伸べた。彼の口から出てきたのがジーアン語でなくアレイア語で、思わずぱちくり瞬きする。
 助け起こされたバジルのほうも「すみません」と信頼しきった様子で青年の腕を借りていた。漂う空気の親密さにモモはおやと首を傾げる。
 この感じ、捕虜と兵士の関係ではない。少なくとも搾取する者とされる者の関係には見えなかった。

「あ、そうだ。まずは皆にあなたを紹介しないといけませんね」

 直感の正しさを証明するようにバジルが笑顔で拳を打つ。振り返った弓兵は照れくさそうに傍らのジーアン人について説明した。

「この人はタルバさん。天帝宮にいたときからの友人で、僕の初弟子です」

 ――友人。初弟子。
 思わぬ言葉にしばしぽかんと口を開いた。
 バジルはにこにこ、本当ににこにこ、罪のない顔でタルバがいかに勤勉か、いかに頼もしい男か、感謝を交えて熱弁する。相手がどこの国の何者かなんて気にも留めていない様子で。

「僕が今日まで生き延びられたのは全部タルバさんのおかげです! 本当に、何から何までお世話になって……」

 緩みきったその顔面に握り拳を叩きこまなかった己を褒めてほしい。
 どうしてこう、あっちにもこっちにも敵と味方の区別がつかない大馬鹿者がいるのだろう? 情が湧くのは自然現象だとしても線引きしてくれ線引きをと叫びたくなる。

「いや、そんなにたいしたことはしてねえって。それよりバジル、この子って前に話してくれてた故郷の女の子だよな?」

 同じく照れくさそうなタルバにバジルはこくこく頷いた。「そうです、彼女がモモです!」との返答を得て青年はパッと瞳を輝かせる。

「そうか、やっぱりそうだったか。よろしく。会えて光栄だ」

 西方式に握手を求めてくる彼は普通に見れば礼儀正しい好青年だ。出会った場所や状況が違えば快くその手を握り返せただろう。
 だが今はどんな笑顔を向けられても疑わしいだけだった。
 ドナに住む退役兵は全員蟲だと聞いている。二年前、防衛隊が天帝を騙そうとバオゾに偽の預言者を連れ込んだことは蟲兵なら皆知っているはずだった。
 それなのにあまりに友好的すぎる。まさかこちらの所属がわからぬわけでもあるまいし。

「……えーっと、モモ・ハートフィールドです」

 迷いつつモモは一応の敬意を示してジーアン語で挨拶した。握手を交わすとタルバはにこやかに微笑む。同じ調子で彼は次々にルディアやアイリーンにも歓迎の意を示した。

「俺たちの暮らしてる工房は街の外縁部にあるんだ。今日は是非もてなさせてくれ」

 二人は郊外の一軒家で共同生活をしているらしい。なるほどずっと同行してくるわけである。
 だがそうなると込み入った話をするのは難しそうだった。まさかジーアンの蟲に「接合」の話を聞かれるわけにいかない。どうするかなとモモはルディアに目配せした。
 主君は「頼んだぞ」と言うようにこちらに軽く顎を突き出す。ここはやはり己の出番かとモモはバジルに呼びかけた。

「あのさ、その工房に着いたらちょっと二人になれないかな? モモ話したいことがあるんだよね」

 頭の不憫な弓兵は「ええっ」と赤くなってうろたえる。不快な類の勘違いに訂正したさが募ったが、なんとか喉奥に飲み込んだ。

「じ、実は僕からも伝えたいことがありまして……!」

 バジルの妙に熱っぽい声にタルバがヒュウと口笛を吹く。頑張れと力づけるような青年の身振りにハハと乾いた笑みが浮かんだ。

(モモたち全然そういう関係じゃないけど……)

 ともあれこれで内密の話もできそうだ。バジルに状況を伝える間、タルバはルディアたちが引き留めておいてくれるだろう。
 再び歩き出した弓兵たちに続いてモモも歩き出した。
 アンバーが苦心して整えてくれた舞台なのだ。絶対に失敗はできなかった。



 ******



 ルディアたちの通された工房は静かだった。もう日も暮れて暗くなったせいもあろうが、三階建ての一軒家を取り巻く工房街そのものに人が少ないのだと感じる。
 バジルの案内で彼の仮住まいに到着するまでの間、火の灯る家は五軒に一軒ほどだった。すれ違ったのもほとんど女。一人だけ壮健な男がいたが、あれは砦暮らしをやめた善良なジーアン人らしい。弓兵は退役兵の半数以上がドナの女と新しく家庭を持ったこと、話の通じぬ者ばかりが砦に居残っていること、特にゴジャとウヤという退役兵が発言権の強いことなど教えてくれた。
 バジルの弟子――工房に着くなり夕食の支度を始めてくれたタルバとかいう若者も親切なジーアン人の一人だそうだ。なんでも職人としてドナで働くように要請された弓兵が「ラオタオ怖いよぉ」と怯えていたら「俺が一緒に行ってやる」と天帝宮勤めをあっさり辞めてくれたらしい。
 横暴な退役兵から何度も庇ってもらったそうで、感謝の思いは強いようだ。ジーアンが蟲の帝国と知る由もなかったバジルには初弟子への警戒心など微塵も持っていなさそうだった。

「それじゃそっちはお任せしますね」
「ああ、行ってきな」

 バジルはタルバにひと声かけるとモモを連れ、工房奥に備わった細い階段を上がっていく。軽い足音は天井のほうへ消えていった。
 しばらく二人は下りてこないだろう。話すべき経緯は膨大だし、我々が何をしにドナへ来たのか伝えるだけで小一時間は必要だ。ずっと大局の外側にいたバジルの理解がさっさと追いつけばいいのだが。

(とりあえずこの男に会話を盗み聞きされんように気をつけねばな)

 ルディアは厨房でまめまめしく働くタルバをちらと見やる。若く逞しくまだ十分に戦えそうな退役兵は鼻歌混じりに湯を沸かしていた。
 工房は作業場と居住部が隣接しており、適度に工具が散らかっていて非常にバジルらしい住処だ。特に存在感があるのは二階の床にまで達している巨大なレンガ積み溶鉱炉で、煙突と壁の厚みが火力の高さを窺わせた。
 熱源はなるべく近づけたほうが効率的だからだろう。小さな厨房はそのすぐ裏側に位置している。開けっ放しの入口から白い湯気がゆらゆらと流れてくるのが窺えた。

「適当に座っててくれ。皿に並べて出すだけだから」

 手伝おうとした雰囲気を察してかタルバがこちらを振り返る。ただの好青年にしか見えない彼に「わかった」と頷いてルディアは屋内を見回した。
 状況から判断してこの男が蟲であるのは間違いない。しかし防衛隊についてどこまでの情報を持っているかは不明だ。
 自ら天帝のもとを去った退役兵は十将から準造反者と見なされているはずである。であれば彼らに外部の動きは伝わっていない可能性が高い。
 つまり彼らの認識は「防衛隊はアクアレイアに蟲が住むことこそ知っているが、ジーアンにも同じ蟲がいるとは知らない」で止まっているということだ。その証拠に向けられた広い背中は隙だらけだった。
 食卓を兼ねているらしい作業台の丸椅子を引き、腰かける。こちらに倣ってアイリーンも左隣に着席した。
 テーブルは図面を広げる余地だけ残して用途不明の様々な器具に占領されている。そして残った小空間もほどなく晩餐に埋められた。

「お待ちどう! 好きなだけ食べてくれて構わないぜ!」

 タルバが運んできたのは羊の臓物煮込みや具入りの蒸しパン、それと草原でよく飲まれている白濁色の馬乳酒だった。湯を沸かしていたのは蒸気で料理を温め直すためだったようだ。杯に注がれた馬乳酒以外、どの皿からもほかほかと湯気が立っている。

「バジルたち呼んできたほうがいいかな?」
「いや、そっとしておいてやろう。感動の再会を邪魔しては悪い」

 階段を振り向いたタルバにルディアはさり気なく待ったをかけた。「冷めると味が落ちるし」とかなんとか言われるかと思ったが、存外素直に青年は「それもそうだな」と頷く。

「あの子がモモで、あんたがブルーノで、あんたがアイリーン、だっけ?」

 会えて光栄だ、と彼は道すがら聞いたのと同じ台詞を繰り返した。眩しげに細められた目に嘘はなさそうだが油断はできない。ジーアンには食えない輩が多すぎる。彼がそうでないとは言えない。

「こちらこそ、バジルが世話になったようで感謝する」

 礼を述べるとタルバは「いや、良くしてもらってるのは俺のほうだから」とぶんぶん首を振った。温かいうちに食べろと勧められ、ひとまず蒸しパンから手をつけさせてもらう。
 西方式のドナのテーブルで東方風の食事を取るのも妙な感じだ。異文化交流の盛んな地ではしばしば様式の混合が起きるが、どうやらここでも同じ現象がひっそり進行しているらしい。卓上に放置された走り書きのメモに目をやればジーアン語とアレイア語の混ざったおかしな文章が散見され、ガラス工たちが互いの文化を摂取しながら暮らしているのが窺えた。

(しかしこうして退役兵が一人だけ郊外の家にいてくれるのはありがたいな)

 態度にはおくびにも出さず、タルバの首を絞める方法を考える。二対一ではまだ分が悪い。逃げられる可能性がある。たらふく飲ませて酔っ払わせ、上の二人が戻ってから襲うのが賢明だろう。
 布張りの幕屋と違い、ここなら多少叫ばれても外に漏れることはあるまい。本格的な作戦行動に移る前に「接合」の経過や結果を観察しておきたかった。記憶の共有がどの程度意識の混濁をもたらすのか。
 患者たちは砦に残してきたけれど、ブルーノの「本体」はガラス瓶に封じて懐に入れてある。今夜ここでやってやれないことはない。

「なあ、ところであんたたちはバジルを連れて帰るのか?」

 と、視線を上階に向けながら青年が問うてくる。彼にとって防衛隊の訪問は突然のものだったらしく、こちらの目的を測りかねている様子だった。

「いや、我々はラオタオ将軍に命じられてドナで働く小間使いを世話しただけだ。バジルのことは解放するともしないとも聞いていない」

 報酬代わりに会わせてもらえただけだと思うと伝えるとタルバは「なんだ」と目に見えてがっかりする。落胆の理由はすぐに彼の口から語られた。

「あ、いや、バジルと一緒に暮らすのは楽しいんだけど、やっぱり帰りたそうだからさ。あいつのお迎えだったら良かったのになって」

 はあ、と深く溜め息がつかれる。臓物煮込みに串を刺す手もぴたりと止まり、食卓には重苦しい空気が垂れ込めた。
 どうやらタルバは心から残念がってくれたようだ。しばし沈黙を挟んだ後、ぽつりと小さな呟きが落ちる。

「……あいつは俺の恩人なんだ。だから俺は、できる限りのことをしようって思ってる」

 青年の声は真摯だった。思わず聞き入ってしまうほどには。
 ――恩人。ジーアン人がぞんざいにできないものの一つである。ルディアはふむ、と項垂れたタルバを一瞥した。

「俺みたいな退役兵以外にはドナは危なすぎるんだ。砦の連中は気が立ってるし、ラオタオだって捕虜をまともには扱わない。帰れるなら故郷に帰ったほうがいい。でなきゃまた、何があるかわからないから……」

 何か後悔でもあるのか彼はテーブルの上で固く拳を握っている。「俺から直接ラオタオに頼んでもいい。バジルを家に帰してやれって」とタルバは続けた。

「そ、それだとあなたが安くない代償を払うことになるんじゃない?」

 長らく帝国住まいだったアイリーンが仰天して口を挟む。対するジーアンの青年は百も承知という顔だった。
 苦々しげに彼は打ち明ける。守ろうとして守り切れなかったこと。狐の毒牙にかかった恩人を自分は救えなかったのだと。

「あいつ平気そうにしてるけど、ラオタオに酷い折檻されたっぽくて――」

 むせかけたのをなんとか堪えてルディアは真剣な表情を保った。それは多分大丈夫だったと思うぞと心の中で返事する。
 だがタルバの勘違いを正してやるわけにもいかない。ルディアはアイリーンと二人、親方を案じる健気な弟子を見守った。

「バジルは俺の願いを聞いてガラス作りを教えてくれた。本当なら門外不出になりそうな新しい技術まで。俺はもうすぐ死んじまうけど、そうなる前に恩に報いなきゃならない。だから……!」

 白熱し出した青年にアイリーンが「待って、待って」と言い聞かせる。

「思いの丈はわかったけど、早まっちゃ駄目よ。将軍の持ち物なのよ?」

 暗に彼女は命を取られるか奴隷に落とされるかわからないぞと告げていた。中身がアンバーであることを考えれば事はもっと穏便に運ぶだろうが、それはそれで狐らしくないと疑われてしまう。ルディアとしてもバジルの帰還はまだ考えていなかった。

「もうすぐ死ぬとはどういうことだ?」

 話題を逸らして落ち着かせるべく問いを投げる。タルバが蟲であるかどうか確かめる絶好の機会でもあった。すると青年は予測に違わず「ここの退役兵は皆死病を患ってんだよ」と声を震わせた。

「…………」

 衝撃を受けたふりをしてルディアはしばし黙り込む。これで彼は蟲確定だ。誤って普通の人間を殺してしまう可能性はなくなった。ただこれだけ人がいいと、バジルが彼を利用するのを嫌がるかもしれないが。

「……俺は満足してるんだ。ゴジャに無理難題言われたときは腹も立ったけど、鏡の迷宮が出来上がっていくの見てたら『ああ、俺たちすごいもの作ってる』って思えたし、あんな大作遺せるならほかはもういいかなって」

 タルバは早くバジルを自由にしてやりたいと言う。思いつめた様子の青年にルディアは静かに首を振った。

「気持ちはありがたいが、今はアクアレイアも微妙な時期でな。バジルはまだ引き取ってやれないんだ」
「えっ?」

 こちらの台詞に三白眼が瞠られる。慎重に言葉を選び、ルディアは防衛隊の隊長が殺人容疑をかけられていることや、ジーアンのコネで弓兵が帰国すれば国民感情を刺激すること、そうなればバジルも気に病むだろうことを説明した。

「……そ、そうなのか……」

 一応タルバは納得してくれたらしい。ラオタオに掛け合うという前言は撤回してくれる。
 代わりに彼はすっかりしょげ返ってしまった。温かかった料理もすべて熱を失い、時間が止まったようになる。

「……鏡の迷宮というのは? さっきラオタオ将軍もそんなことを話していたようだったが」

 問えばタルバは顔を上げ、わずかながら誇らしさの滲む響きで返答した。

「名前の通りさ。明日その目で見りゃわかるよ」

 驚かせたいという思いからか詳しい説明は省かれる。その後は食卓で交わすのに相応しい、他愛無い話しか出なかった。
 階段を下りる二人分の足音が響いてきたのは食事の終わる頃である。弟子が蟲だと聞いたのだろう。弓兵はわかりやすく青ざめており、引きつった笑みはなんともぎこちないものだった。

「バジル」

 四つしかない席を客人に譲るためにタルバがサッと立ち上がる。首を絞めて肉体と記憶を奪うかルディアが思案するうちに彼はバジルにこう告げた。

「よく考えたらこの工房、四人までしか寝るとこないだろ? 俺、今夜は砦でケイトの手伝いでもしてくるよ。ゴジャたちの様子も気になるし」

 どうやらタルバは退役兵の巣へ戻る気らしい。「あっ、は、はい。そうですか」とどもりつつ弓兵も了解する。

「すみません、あの、気遣っていただいて」
「いいって、このくらいなんでもねえ。じゃあ明日、鏡の間でな」

 一瞬モモに目をやった後、タルバはバジルに何事が耳打ちして出ていった。直後に吹かれた口笛から察するに「あの子と上手くやるんだぞ」とでも言ったのだろう。
 都合良く仲間だけになれるとは運がいい。
 念のため近辺に不審な獣や人間がいないか確認しながら戸締りし、ルディアは弓兵を振り返った。

「どこまで聞いた?」

 多分に衝撃を引きずった声でバジルは「た、退役兵の中身の話と明日の予定については」と答える。更に彼はアンバーが秘密裏に正体を告げてきたことも明かしてくれた。

「……! そうか、やはり彼女も独自に動いてくれていたか」

 十分だ。後は弓兵からドナの情報を得れば動きを決められる。
 さあ反撃開始だとルディアは唇を引き結んだ。
 早い段階でバジルとの合流が果たせたのは大きい。朝が来ればアンバーともマルコムたちとも手を取り合えるだろう。
 何事もなければ入れ替わり作戦はスムーズに遂行できるはずである。
 そう、何事もなければ――。



 ******



 くそ、と胸中で舌打ちする。あの駄犬、自分が狐の監視役だと忘れているのではなかろうな。
 締まりない口元を隠すための顔布まで放り出し、気持ち良く酔いどれているウェイシャンを遠目に見やってウヤは眉間にしわを寄せた。鼻歌混じりに隣のラオタオと肩を組み、偽預言者はご機嫌で上体を傾けている。
 いくら彼が古龍から何も聞かされていないとは言えこうのびのび寛がれると腹立たしい。戦力外なら戦力外で構わないから大人しくしていろと言うのに。

(いや、八つ当たりしても埒が明かないな。ここは策を立て直さねば)

 焚火を囲んで大きな輪になる五十余名の退役兵に埋もれつつ、討つべき敵とその周辺を観察する。
 へべれけになったウェイシャンがラオタオに張りついているのはいいとして、問題は中庭をぐるりと取り巻く海軍兵士たちだった。狐狩りを始めれば駄犬はすぐにも逃げ出すだろうが彼らは警護の任務を果たすに違いない。腰に帯びた剣がなまくらでない限り、こちらの倍はいる軍人を相手になどできなかった。
 まったくいい肩透かしだ。目当ての男が帰ってきたらただちに取り押さえるつもりだったのに。
 ゴジャたちもわかっているから眉をしかめてちびちび飲んでいるのだろう。どうにか連中を追い払う方法を考えねば本命にまで手が届かない。

(なるべく砦の中だけで話を終わらせたかったが……)

 クイ、と隣の男の羽織った毛皮の外套を引っ張る。こちらを向いたゴジャに小声で「今夜の決行は諦めるしかありませんね」と伝えると「どうすんだ」としかめ面で尋ねられた。

「将を射るにはまずなんとやらですよ。――明日船着き場に火をつけましょう。自分たちの船に燃え移らないように邪魔者はまとめてそちらに向かうはず」

 なるほどな、と拳が打たれる。
 今夜は日も落ち、酔いの回り始めた者も多い。放火するにしろ明るくなってからのほうが良かろう。この街に留まる以上、若狐とて檻の中には違いないのだから。

「明日九時の鐘が鳴ったら始めます。あの男が客の相手をしている間に」

 海軍兵士や小間使いに聞きとがめられぬようにさらりと告げる。不安からの解放を望むゴジャは一も二もなく頷いた。
 念のため「標的はあくまで狐一匹だけですよ」と釘を刺しておく。防衛隊やアイリーンのほうはまだハイランバオスをおびき寄せるべく泳がせておかねばならない。過剰な暴走は古龍も望んではいないだろう。

「わかってらあ、大丈夫だ」

 返答にウヤは「頼みますね」と微笑んだ。
 さあ、気を引き締めてかからなければ。
 この荒馬を乗りこなし、私は父(ファンスウ)のもとへ帰るのだ。



 ******



「あら、どうしたの? 帰ったんじゃなかったの?」

 驚きの滲む女の声に振り向くと、中庭から空の食器を回収してきたケイトが鳶色の目をぱちくりさせて立っていた。忘れ物でもしたのかと問いたげな彼女に首を振り、タルバは一番重そうな酒壺をひょいと奪い取る。

「宴会大変だろうから戻ってきた。何か手伝おうと思って」

 笑いかければドナの娘は「まあ、わざわざそんなのいいのに」と恐縮した。その態度にこちらを気遣う素振りはあれども拒絶する素振りはない。
 砦で働く下男下女たちの間でタルバの定位置は彼らの隣と決まりつつある。今もケイトは帰宅したはずの己がここにいることに戸惑いはしても、タルバが主館の陰に隠れて退役兵を眺めていたことに驚いてはいなかった。
 彼女に告げたのは半分本当で半分嘘だ。日中様子のおかしかった同胞たちが気になったから、というのが砦に戻ってきた一番の理由である。不測の事態が起きたとき、しっかり恩人を守れるように。

(けどちょっと考えすぎだったかな。皆普通に飲んでるみたいだ)

 ラオタオを迎えたとき、ゴジャたちが妙にピリピリしていたのは前回大きな雷を落とされたせいかもしれない。小言らしい小言も受けず、輪を作って酒を酌み交わす今は誰も暴れ出しそうに見えなかった。
 狐も楽しげにウェイシャンとがぶがぶ飲みまくっている。否、あれは飲ませまくっているの間違いか。彼らの酌を務める新人小間使いは右に注いでは左に注ぎ、左に注いでは右に注ぎ、総じて忙しそうだった。

「男手も多いし、簡単なジーアン語ならわかるみたいで助かったわ」

 同じ光景に目をやりながらケイトが言う。新しく連れてこられた奴隷たちは及び腰ながら意外にてきぱき働いてくれているらしい。「良かった」とタルバが零すと彼女はついとこちらを見上げた。
 返事も相槌もないのでおかしなアレイア語だったかな、と不安になる。もう一度、今度は「新入りの教育係まで押しつけられたら大変だろ? だからさ」と言い直した。するとケイトが微笑を浮かべて首を振る。

「今は前ほど大変じゃないわよ」

 あなたが来てくれるようになったから、と続いた台詞に瞬きした。
 ケイト曰く、タルバが小間使いたちと迷宮作りに勤しむようになって以来、ほかの退役兵たちも徐々に遠慮を見せるようになったそうだ。殴られることも唾を吐きかけられることも、ないとは言わないが格段に減ったらしい。根本的に何か変わったわけではなく、鳴りを潜めているだけだとしても、ここで働くしか生きる術のないドナ人にはありがたい平穏だと彼女は語った。

「だからちょっとくらい仕事が増えても大丈夫。少なくとも鏡の迷宮の工事が終わるまではね」

 明日じゃないかとタルバはむっと顔をしかめる。それ以降は大丈夫じゃないだろうと。

「工事終わっても毎日来るぞ。細かい修理はいるんだし」

 いくつも傷跡の残る顔をこちらに向けてケイトは「ありがとう」と囁いた。感謝というよりまるで詫びでもするように。
 誰に対する罪悪感があるのかはわからない。ドナ人がジーアン人を頼ることにどういう葛藤があるのかも。タルバはただ気にしなくていいのにな、と思うだけだ。結局どれも自分がしたくてしているだけのことなのだから。

「そろそろ行かなきゃ」

 と、ケイトが歩き出す。主館の裏口へ向かう彼女にタルバも続いた。
 鏡の迷宮建設が間接的にでも彼女の一助となったなら、やはりあれは作って良かったなと思う。ほとんどバジルの功績とはいえ作品と呼べる作品ができ、それをケイトとも一緒に手がけることができて。

(最後にいい思い出ができた)

 もうじき死ぬとわかったとき、最初に欲しいと願ったのは子供だった。だが今は、いつ倒れるかも知れぬ身で惚れた女に苦労させたくないと思う。勝手な希望を託されたって我が子にもいい迷惑だと。
 できることをやりきって死ねればいい。肉体や記憶が滅びても遺せるものはあるはずだから。絶えた命の代わりに続いていくものが。

(……あいつらにも何か見つかればいいのにな)

 中庭を去る直前、赤々と燃える焚火を囲むゴジャたちをちらりと見やった。確かな繋がりを持ちながら随分遠く感じるようになってしまった兄弟を。
 千年も駆けた蟲たちに、救いは本当にないのだろうか。



 ******



 二年の空白を埋めるための長い話が終わった後、寝床の毛布に包まって枕に額を押しつけても頭は休まらないままだった。安堵に続いて訪れた混乱は思考の糸を簡単には結ばせてくれない。突きつけられた事実にまだ己は呆然とするのみだ。
 身じろぎもできず、バジルは小さく息をつめた。頭が追いつかないどころの話ではない。
 一体どういうことなのだ。ドナが蟲の巣窟とは。

(ええと、そもそもの始まりはヘウンバオスがレンムレン湖というオアシスをもう一度探し出そうとしたことだっけ……?)

 今日聞き知った情報を一つ一つ時系列に並べ直して整理する。
 天帝が最初からアンバー演じる聖預言者が偽者だと知っていたこと。本物のハイランバオスはディラン・ストーンとして防衛隊と同じ船に乗っていたこと。ジーアン帝国はアクアレイアを落とすつもりで西進を続けていたこと。けれどアクアレイア湾は彼らの求めていた故郷とは違ったこと――。
 預言者の裏切り。道を別った蟲たち。現状把握には一晩かかりそうだった。このうえ祖国ではアルフレッドが囚われの身だというのだから。

(か、考える問題がありすぎる……)

 離れていた時間の長さを考えれば当然だが、それにしたって情報量が桁外れである。皆に比べて己は随分安穏と過ごしていたようだ。イーグレットの最期やマルゴー公国での顛末を思い返すと申し訳なさで心が痛んだ。
 逃げられる状況でなかったとはいえ己は何をしていたのだろう。せめて明日は今まで何もできなかった分、しっかり役に立たなくては。

(退役兵にアクアレイアの脳蟲を入れる――か)

 バジルは静かに寝返りを打つ。すぐ側の寝台で眠る仲間を起こさないように。
 主君の提示した戦略はとても素晴らしいものだと思う。金も血も無駄にせず都を取り返せるのならこんなにいいことはない。
 諸手を挙げて大賛成のはずなのに気分はどうしても晴れなかった。口にこそ出さなかったけれど「じゃあやっぱりタルバさんとは敵になるのか」と思うと乗り気になれなくて。
 世話になっている相手だし、ガラス作りに精を出しているだけの人畜無害な男だし、彼には手出ししないでほしい。そう頼んだらルディアは「わかった」と頷いてくれた。
 よほどのことがない限り直接彼に刃を向ける事態にはならないだろう。だがだからと言って気の重さが薄れるわけではない。もし本当に退役兵が天帝から分裂した蟲ならば、自分はタルバの肉親に手をかけようとしているも同然なのだから。
 ルディアは言った。入れ替えた蟲は瓶に封じてジーアンと交渉する際の人質にすると。「接合」が両者に記憶を共有させるものである以上、ジーアンの蟲に別の肉体を与えることはできないと。つまり作戦が成功すれば退役兵は瓶の中を泳ぐだけの自我なき存在に成り果てるということだ。

(でも確か、『接合』すれば寿命が百年延びるって……)

 もうすぐ死ぬんだと告げた友人の顔を思い出す。どうにか彼を救えないか、抜け道を探ろうとした己を自覚してバジルはぶんぶんかぶりを振った。

(ダメダメ、今は明日のことだけを考えるんだ)

 砦のジーアン人たちを一人ずつ確保する方法。鏡の迷路を使えばきっと簡単だ。
 一人ずつ遊ぶのを想定して作っているからこちらはゴールで待ち構えているだけでいい。物陰に隠れておいて、多勢に無勢で首を絞め、片が付いたら次の退役兵を呼ぶ。これを三十回繰り返す。
 抜け殻となった小間使いの身体は処遇に困るかもしれないが、入れ替えさえ済んでしまえばなんとでも言い訳はきく。ラオタオの拷問部屋に置いておくのでもアクアレイアから持ち込んだ別の脳蟲を入れておくのでも構わない。諸々の騒動に巻き込まぬようにタルバには入口で案内役でもしてもらって。

(ゴジャの中身が取り替えられたら砦はきっともっと落ち着く。それはドナの人たちにとっていいことのはずだよね……?)

 今度会ったらケイトの力になるのだと決めていた。誓いを果たせるとしたら間違いなく今だった。
 知らぬ間に震えていた指先を握り込む。
 どうして友人の間にも敵や味方なんて区切りがあるのだろう。



 ******



 潮の香りの風に紛れてミャア、ミャア、と声がする。海の広がる西方から、心地良い音楽のように。
 ドナで迎える朝は意外に静かだった。街外れの工房に響くのは猫に似た海鳥の鳴き声だけ。日が昇っても通りを歩く住人は少ない。
 アンバーとの約束通り再訪した砦にも活気らしい活気はなかった。夜通しの宴を終えた退役兵は各々の幕屋で眠りに就いているようだ。中庭を通過する際に絡まれたら厄介だなと案じていたが、ルディアたちが足止めを食らう心配はなさそうだった。

(やはりこちらの情報は彼らに渡っていないらしい。『ラオタオ』のおまけ程度に見なしてくれているようだ)

 それならそれで都合がいい。内心薄笑みを浮かべつつ幕屋の群れを通り抜け、ルディアは中庭の一角に鎮座する主館の扉を押し開く。砦唯一の居住空間は街のどこよりも人の気配に溢れていた。
 ドナ人らしき小間使いたちがホールの掃除に励む横を弓兵が慣れた足取りで歩いていく。ホール脇の階段を上り始めたバジルに続き、ルディアたちも上階へ向かった。
 細い通路を進む途中、布を被せた薄板を運ぶ下女たちに追い抜かれる。それが鏡だと気づいたのは目的地に辿り着く頃だった。

「あっ、あれです。あそこが鏡の迷宮ですよ!」

 バジルの指が示す先には一見なんの変哲もない木製の扉があった。変わった点があるとすれば扉の前に海軍兵士がずらりと並んでいたことだろう。付近に砦の主人がいるのは誰の目にも明らかだった。

「はん、やっとおでましか」

 睡眠不足の露わな顔でレドリーがこちらを睨む。
 極力刺激しないように「将軍は?」と尋ねると海軍少尉――今の階級は不明だが――は無愛想に顎を扉のほうへ向けた。
 どうやらアンバーは中で待っているようだ。さっそくルディアは扉をノックしようとする。が、伸ばした指は寸前で不躾な声に止められた。

「お前ら粗相なんてしてくれるなよ? ラオタオ将軍は今、二日酔いの預言者殿を奥の寝室で看病してる。用が済んだらとっとと出ていけ」

 これくらいは正当な主張だとでも言うようにレドリーは「これ以上防衛隊の不始末を押しつけられるのはごめんだぜ」と吐き捨てる。どう反応したものか少し悩んでルディアはひと言だけ返した。

「大丈夫だ。わきまえている」

 従弟によく似た赤髪の少尉はこちらの返事をせせら笑う。もっと面倒な因縁をつけられる前にルディアはさっさとこの場を離れることにした。

「あ、ノックはいりませんよ。中もまだ最後の大仕上げでバタバタしていると思いますし」

 と、木扉を叩こうとした矢先、今度はバジルが割り込んでくる。弓兵は重い扉を肩でぐいと押し開けた。――するとそこには見たこともない異様な光景が広がっていたのだった。




 なるほど確かに鏡の迷宮はひと言で表せないほど稀有な創作物だった。昨夜タルバが「見ればわかる」と告げた意味をようやくルディアも理解する。
 扉を開けてすぐ正面に置かれていたのは一枚の大きな姿見。のっけから己の像と対面させられ、モモやアイリーンも面食らった様子だった。
 薄暗い室内を埋め尽くす水銀鏡――これはバジルが開発したものらしい――は表面を磨いただけの銅鏡とは比較にならぬ明瞭さで周囲の光景を映し出している。鏡と聞いて当初想像したものと今目の前にあるそれは次元の異なる代物だった。鏡は普通ぼんやりと曇っていて、これほどはっきり輪郭を描くなんてことは不可能なのだ。

(うっ……!)

 慣れぬ視界に立ち眩み、ルディアはぎゅっと瞼を閉じた。薄目を開けて己を囲む幾多の鏡を見回せば更に足元が覚束なくなる。
 ブルーノの青い頭がそこかしこで存在を主張して、道の先に己を映さぬ鏡があるとほっとした。腕や足を動かせば鏡の中の自分まで釣られて落ち着かない。好奇心旺盛なアイリーンや怖いもの知らずのモモは「まあ」とか「おー」とか「詳しい製法が知りたいわ」とか「こんなにしっかり自分の顔見るの初めて」とか目をきらきらさせていたが。
 バジルによれば最初この迷路は主館の一階ホールに建設されていたらしい。それをアンバーが三階の私室に作り直させたそうである。
 思惑はおそらくこちらと似たり寄ったりなのだろう。記憶喪失患者の身柄をしつこく求めてきたことも、退役兵を分断し得る迷宮を管理下に置こうとしたことも、同じ目的を暗示している。
 彼女もまた考えたのだ。アクアレイアの脳蟲に退役兵のふりをさせようと。

(早く直接話をしたいな)

 逸る心を抑えてルディアは先頭を行くバジルに続いた。寝室にはゴールからしか入れない構造になっているらしく、到着にはまだかかりそうである。
 悪酔いしないようになるべく鏡面を見ないで歩く。それでも鮮明すぎる像は大いに視覚を惑わしたけれど。

(しかしものすごい技術だ)

 合わせ鏡は多重に像を映し合い、存在しない奥行まで錯覚させた。床と天井のほかは鏡に挟まれた通路ばかりで角を曲がるたびに方向感覚を失っていく。どれが鏡に映る仲間でどれが本物の人間なのか判別も難しいほどだ。
 迷路自体も複雑だった。道が分かれている以外にも段差があり、くぐらねばならぬ穴があり、作り手の性格が出た様々な趣向が凝らされている。勘の鈍い者が一人で攻略しようとすれば何十分とかかるのではなかろうか。

(アクアレイアにも同じ遊具があれば――いや、この水銀鏡が数枚あるだけで諸外国から注文が殺到するぞ)

 そっくりそのままの姿を映す鏡を見やって改めて驚嘆する。科学の最先端であるジーアンにたった二年暮らしただけでこんなものを考えつくとは恐るべき才能だ。
 構造が頭に入っているらしいバジルはすいすい先へ進んだ。先程通ったのとまったく同じに見える道でも弓兵は迷いなく最短距離を選択する。
 複雑に反射し合う鏡には時折内部でせかせかと働く小間使いの姿が映った。設計図を片手に彼らを指揮するタルバの背中も垣間見える。アクアレイアから連れてきた患者たちも先達に混じって汗しているようだ。

「あっ、ゴールが見えましたよ」

 と、バジルが正面の姿見を指差す。どう見てもそこは行き止まりの袋小路であったのだが、弓兵は事もなげに奥の鏡をスライドした。するとたちまち道が開かれ、寝所の入口が出現する。

「ええー……? それは迷路としてどうなの……?」

 斧兵の突っ込みにバジルは「いや! 違うんです! これには理由があるんです!」と大慌てで言い訳した。

「こうしておかないと『先越されてムカつく』とか『あいつズルをしたんじゃないか』とか文句つけてくる人がいるんですよ!」

 そう聞いてなるほどと納得する。誰をゴールさせて誰をゴールさせないか、運営側で調整可能にしておけば対人トラブルを回避できるというわけだ。
 通り過ぎるとき確かめると仕掛け鏡は死角から操作できるようになっていた。退役兵を遊ばせる際は物陰に隠れた弓兵が姿見を出したり引っ込めたりするのだろう。上手いこと考えたものである。

「ふう、着きましたよ。それじゃノックしますね」

 寝室の扉を前にバジルがこちらを振り返る。アイリーンが息を飲み、モモが頬を熱くする横でルディアは小さく頷いた。
 いよいよだ。このドアの向こうにアンバーがいる。
 コンコンと弓兵が硬質な音を響かせると中から「はあい」と間延びした狐の声が返された。

「あ、バジル・グリーンウッドです。そろそろ工事が終わりそうなので報告に参りました!」

 名乗ればただちに入室するよう促される。扉に鍵はかかっておらず、バジルが押すとすぐ開いた。普通一人はいるだろう衛兵の気配もない。

「あ、皆揃ってる? 待ってたよー」

 西方式の天蓋付きベッドが一つと東方風の長椅子が一つ、いくつかの衝立とキャビネット。必要な調度品がある以外広い寝室はがらんとしていた。
 腕を広げて女優は歓迎の意を告げる。その傍らには具合の悪そうな偽預言者がかろうじてといった様相で立っていた。

「バジル君、昨夜はぐっすり眠れた? 防衛隊の皆もありがとね。出来のいい小間使い三十人も増やしてくれて」

 隣の男に構うことなくアンバーは礼を述べてくる。「おかげでドナも空気一新できそうだ」と意味ありげな微笑みが浮かべられた。
 ルディアは静かに懐から雌ダチョウの羽根を取り出す。それを元の持ち主に差し出しながらなんでもないように呟いた。

「『接合』の話は彼らにも伝えてある。心構えは皆できているよ」

 アンバーはわずか瞠目し、「そりゃ段取りが早くて助かる」と口笛を吹く。

「じゃあ最初に何するかも説明はいらないわけ?」
「ああ、心得ているつもりだ。この状況ならやることは一つしかないとな」

 ほとんど同時に偽預言者に目をやった。二日酔いの半病人はそこでようやく違和感を覚えたらしい。「え?」と間の抜けた声が響く。
 アンバーが防衛隊と接触を図れなかったのは彼女が監視されていたからだ。ならば退役兵を相手取る前にその目を塞いでおかねばなるまい。実験台にする一人目も必要だったからちょうど良かった。捕らえて中身を取り出すには。

「えっ?」

 入口は既にバジルとアイリーンが固めていた。武器こそ構えていなかったがモモも臨戦態勢である。

「えっ? 何?」

 注意を引くためルディアは腰のレイピアを抜いた。狙い通り偽預言者は一瞬こちらに気を取られ、命取りとなる隙を生む。標的の背後に回ったアンバーはあれよと言う間に偽預言者の喉を絞めた。

「……ッ!?」

 何が起きたのかわからないという顔のまま実験台はもがき暴れる。剣を鞘に戻してルディアもアンバーに加勢した。
 呼吸を阻む狐の腕を剥がそうと必死な両腕を上から押さえ込んで無効化する。前後から頸動脈を圧迫された偽預言者は青ざめながら身をひねった。
 が、こちらに飛んできた蹴りは途中でモモに捕まって足全体を捩じられる。痛みに抵抗が弱まった隙を突き、掴んだ手首を返してしまえば制圧はたやすく完了した。

「っ……」

 本調子でない身体ではそれ以上どうすることもできなかったらしい。やがてがくんと偽預言者は項垂れて、だらりと四肢を垂れ下がらせた。
 目配せすればアイリーンが駆けてくる。「水差しはキャビネット、洗面用具はひきだし」とアンバーから的確な指示が飛ばされた。

「こっちの蟲は目から出るの。うん、そう、顔が浸かってれば問題ない」

 念のために後ろ手に腕を拘束したまま聖預言者のご尊顔を水桶に突っ込む。ふよふよと袋状の見慣れぬ蟲が泳ぎ出したのを確認してルディアはそっと手を放した。
 続いて一度ハイランバオスの身体を下げ、ガラス瓶に入れてきたブルーノを水中に投じる。
 型違いの蟲の接触で起きるという「接合」はすぐに始まった。

「…………」

 固唾を飲んで皆が見守る。蟲と蟲は磁石が引き合うようにぐんぐん接近し、ぴったりとくっつくとそのまま離れなくなった。まるで糊づけでもされたかのようだ。丸みのある袋形のジーアンの蟲と、線形で繊毛の生えたアクアレイアの脳蟲が、寄り添い合って水桶の中を漂っている。
 見た目上のわかりやすい変化はない。いや、あると言えば一つだけあった。半透明の蟲の内部でドクン、ドクンと波打っていた球状の何かが二つに割れ、接触部から半分ずつ交換されたのだ。
 まさか卵ではないだろう。どちらかと言えばそれは蟲にとっての脳や心臓に当たるものに見えた。あるいは核と名付けてもいいような。

「……終わったわね」

 アンバーの囁きと同時、くっつき合っていた蟲たちが離れる。袋虫のほうをガラス瓶に封じるとルディアは再び聖預言者の頭を水桶に浸らせた。
 これでハイランバオスには「ジーアンの蟲の記憶を持ったブルーノ」が宿るはずである。アンバーが偽預言者を酔わせて弱らせてくれていたおかげで話が早く済んで良かった。相変わらず彼女はよく気がつく。

「さっきまでハイランバオスに入ってたのはどんな奴なの?」

 モモの問いに女優が答える。

「本当に仕方なく代役をやらせてたって感じの駄犬ね」

 返答を聞いてルディアはううむと眉根を寄せた。どうせなら帝国幹部の持つ情報が欲しかったところだ。贅沢も言っていられないが。

「う、うん……」

 と、ぴくりと聖預言者が身じろぎする。くぐもった声を響かせて端正な顔が上を向いた。

「気がついたのね、ブルーノ君。皆がわかる?」

 そっとブルーノを助け起こしてアンバーが問いかける。しばらく彼は「え? あれ?」とぐるぐる目を回していたが、やがて焦点が定まると今度は不審げにルディアたちを一瞥した。

「……えっ? えっ?」
「大丈夫よ、ブルーノ君。混乱するのは直近の記憶が整理されていないせい。皆の顔を見て。誰が誰だかわかるわね?」

 接合の経験者だと窺わせる物言いでアンバーはブルーノに呼びかける。不安いっぱいに目を泳がせていた彼も少しずつ己の置かれた状況を把握したのか「せ、接合、成功したんだ?」と長い息を吐き出した。

「……うん、うん。この人はラオタオのこと監視していたウェイシャンだね? 僕はブルーノ・ブルータス」
「そう、正解!」

 落ち着いて話し始めたブルーノにほっと安堵の空気が満ちる。「記憶の区別、ちゃんとつくよ」との申告にルディアは「よし」と拳を握った。

「これで後は迷宮のゴールまで辿り着いた退役兵を一人ずつやっちゃえばいいだけね!」

 沸き立つアンバーもやはりこちらと同じ考えだったらしい。彼女はもう狐を演じるのはやめにして嬉しげに微笑みかけてきた。
 やっと正体を明かせた喜びと手を取り合える安心感で瞳は光に溢れている。
 大丈夫。きっと何もかも上手く行く。言葉もろくに交わしていないのに心は早くも通じ合った。

「ア、アンバー……!」

 我慢できなくなった斧兵が彼女の胸に飛び込んでいく。「来てくれてありがとねえ」とアンバーは少女をよしよし抱きとめた。

「あの、その絵面、僕の心臓に悪いのでほどほどでお願いします」

 扉の側から見守っていたバジルが控えめに水を差す。また少し緊張がほどけ、皆の顔が綻んだ。

「それにしてもさすがは姫様。記憶喪失患者にどう脳蟲や接合の説明をするか悩んでたけど、滞りなくドナ乗っ取りを進められるわね」
「患者たちを寝室に入れて構わないか? ブルーノが無事入れ替わりできたとわかれば彼らも力づくだろう」
「ええ、呼んできましょう。迷路の工事も終わっている頃でしょうし」

 そう言ってアンバーが部屋を出ようとしたときだった。港のほうから甲高い鐘の音が響いてきたのは。

「?」

 カンカンカンと急ぎ気味の警鐘が鳴る。
 正午にはまだ早い。なんの知らせだと首を傾げた。
 灯台守と砦の海軍兵士の間で手旗信号でも交わされたのだろう。ややあって今度は迷宮の入口から複数人のどよめきが聞こえた。

「何かあったー!?」

 狐の声でアンバーが尋ねる。するとレドリーらしき男がこれに返事した。

「港で火事が起きたそうです! 船に燃え移らないように俺たちも行ってきていいですか!?」

 ――港で火事。思わぬ知らせにルディアは大きく目を瞠る。
 どう考えても人手を割くべき非常事態だ。忌々しげに舌打ちするとアンバーは「わかった、行ってきて」と了承した。ドタバタと忙しなく足音が遠ざかると彼女は眉間に深いしわを刻む。

「始まったわね」

 何がだと問えばアンバーは手短に帝国幹部内で「ラオタオ」は捨て置けない危険人物と見なされている現状を語った。マルゴーへ向かったルディア一行を見張らせていた子飼いの鷹にろくな報告をさせなかったから、と。

「……!」

 どうやらアンバーは「ラオタオ」として粛清を受けようとしているらしい。古龍にそそのかされた退役兵が武器を手にもうすぐここへ来ると思うと穏やかならぬ推測が告げられる。
 思った以上にアンバーは逼迫した状態にあったようだ。口角に浮かべられた笑みには彼女らしくない焦りの色が滲んでいる。

「案ずるな。後はすべて私に任せろ」

 これだけ心強い駒が揃っているのに指揮官の己がしくじるわけにいかない。ルディアは室内を見回すと素早く各々に指示を下した。

「アンバー、無関係なドナ人は本来の持ち場に戻せ。マルコムたちは大急ぎでこの部屋に。
 バジル、できるだけ一人ずつ退役兵を迎え撃てるように仕掛け鏡を動かせるか? それとタルバを巻き込みたくないなら入口から離れるなと言っておけ。
 ブルーノは偽者の預言者らしく立っていろ。モモとアイリーンは衝立の裏に待機だ」

 一気に高まった緊迫感にごくりと息を飲む音が響く。
 大丈夫だ。自信を持ってルディアは皆を配置につかせた。「接合」のことも、今しがた聖預言者がこちらの味方に転じたことも、退役兵たちは知る由もない。優位に立っているのはこちらだ。
 落としてみせる。
 蟲たちの巣食うこの砦を。



 ******



 主館から飛び出してきた海軍兵士の一団はこちらを振り返りもせずに砦の門を後にした。まさか港に油を撒いた犯人が中庭で寛いでいるとは夢にも思わぬ急ぎぶりでアクアレイア人たちは晴空の下を駆けていく。
 さあこれで若狐の鎧は剥がれた。手勢を残していたとしてせいぜい二、三人だろう。口角を上げ、ウヤは傍らの息子を促す。

「行きましょう」

 背中を叩けばゴジャはこくりと頷いた。いけ好かない男をぶちのめす機会とあって既に血はたぎりにたぎっている様子だ。彼の周囲に集まった同胞たちも全員似たような目つきをしている。
 結局蟲の継ぐ知恵は何度も何度も参照し、己の血肉としなければ意味のないものなのだ。生まれたときに一度見たきりで頭の奥に押しやれば開かぬ書庫と変わらない。それなのに己を特別と思い込むからこうして簡単に乗せられる。

「ついてこい、てめえら!」

 ゴジャの号令に愚か者たちが威勢のいい吠え声で応えた。退役兵は誰も彼も軽装だが、それでも腰の曲刀だけは良いものを帯びている。可能ならラオタオの肉体は無傷で再利用したいところだが、逃げられるくらいなら容れ物の生死などどうでもいい。ウヤもぎゅっと曲刀の柄を握りしめた。
 集団の先頭、ゴジャの隣を守りつつ中庭を突っ切って主館の扉を開け放つ。踏み込む足を止める者はない。吹き抜けの広間から迷わず上階へと続く壁際の階段に向かった。
 昨日ラオタオが己で話した通りならあの男は鏡の迷路で防衛隊と遊んでいるはずである。強襲を受ければひとたまりもないだろう。何しろこちらの戦力は彼らの十倍、五十名を超えるのだ。若狐の「本体」を回収するのに小一時間もかかるまい。
 が、しかし、ウヤの立てた袋叩き計画は意外な形で頓挫した。思いもよらぬ伏兵が――それも身内である蟲の中から現れたのだ。

「おお、お前ら、迷宮が完成したって聞いて集まったのか?」

 そう言って手を振ってきたのはガラス工に弟子入りしているタルバだった。若者は嬉々として作品の解説を始めようとしたものの、一同が殺気立っているのに気づいて怪訝げに眉根を寄せる。

「おい、ラオタオの野郎はどこだ?」

 威圧的なゴジャの問いにタルバは表面上冷静に答えた。

「奥の寝室でバジルたちと一緒だけど……どうしたんだ?」

 タルバはほかの退役兵と違ってあの緑髪のアクアレイア人に恩義など感じている。騒がれると後々面倒だ。極力怪しまれないようにウヤはにこりと笑みを返した。

「何、ちょっと話がありましてね。我々の待遇について直談判したいんです」

 呼び出してもらえないかと頼めば彼は首を横に振った。曰く、ラオタオは今体調不良のウェイシャンを介抱していて部屋を出られないそうだ。あの駄犬、と頬が引きつりかけるのを堪えて「おや、そうですか」と答える。

「体調不良とは心配です。しかし困りましたねえ。一日引っ込んでいるつもりなのでしょうか」

 急ぎたい旨を匂わせるもタルバはやはり呼び出しを承諾しない。にべもなく「そうなんじゃないか?」と返されただけだった。あまりもたもたしていたら海軍兵士どもが火を消して戻ってきてしまう。どうしたものかとウヤは思考を巡らせた。

「まどろっこしい。出てこねえなら押し入りゃいい話だろ。邪魔なもんは全部ぶっ壊してよ」

 と、ゴジャが忌々しげに双眸を歪めて扉の奥、進むべき道を塞ぐ何百枚もの鏡の城を振り仰ぐ。
 傲岸不遜なその言葉に耳を跳ねさせたのはタルバだった。

「――は? 今なんつった?」

 ああもう、馬鹿が。どうしてわざわざ怒らせる物言いをするのだ。
 嘆く間もなく空気は一触即発のものに変わった。ゴジャに同調して同胞たちまでタルバを睨む。標的は狐一匹と言ったのに。

「どけよ。てめえにゃ関係ねえ」
「関係なくねえ。この迷宮を作ったのは俺たちだぞ? しかもお前がそうしろって頼んだんじゃねえか」
「いいから引っ込めっつってんだよ!」
「魂こめて作ったもんをぶっ壊すなんて言われて引っ込める奴がいるか!」

 なんだか雲行きが怪しくなってきた。一歩引いて見守りながらウヤは眉間にしわを寄せる。
 胸倉を掴まれても一切怯えたところを見せず、タルバはゴジャを睨み据えていた。必要ならこの若者はまた己を斬ってから行けと凄むのだろう。

「ラオタオに会いたきゃここを抜けていけばいい。ただし一人ずつ迷路としてだ。お前らの頼みで作った以上、お前らだって俺たちに相応の敬意を払うべきだろう? これは俺が死ぬ前に、この世に何か残したいと思って形にしてきたものなんだよ……!」

 退役兵に吠える男は梃子でも動かなさそうだ。タルバ一人くらい無視しても良かったが、ドナに不穏の種が残るとファンスウにもうしばらく残ってくれと頼まれる羽目になるかもしれない。早く古龍のもとへ帰りたいし、危なそうな芽は先に摘んでおきたかった。
 仕方ないなと前へ出る。今にも曲刀を振るいそうな息子の耳元に「一人ずつ行って、向こうに十人ほど集まったら襲いかかればいいでしょう」と囁いた。

「ここであんまり争うと耳に入って警戒されるかもしれません」

 忠告にゴジャは舌打ちと了承を返す。タルバを強く睨んだ後、息子は仲間を振り返り「まず俺が行く。その次はウヤだ」と指示を出した。乱暴狼藉の気配が去り、タルバもひとまずほっとした様子だ。

「お前らも順番に来い。こんな迷路、その辺の道と変わらないってとこ見せてやれ」

 荒々しい声で告げるとゴジャは逞しく大柄な身体を折り曲げて迷宮に入っていった。
 ふう、と小さく息をつき、ウヤは残った面々を一列に並ばせる。誰より後は嫌だとかなんだとか駄々をこねられないうちに「最優先事項が何かはわかっていますね?」と小さな声で釘を刺した。荒くれどもを落ち着かせると反抗期の門番を振り返る。

「ゴジャがゴールしたかどうかはどうすればわかるんです?」

 ウヤの問いにタルバは片端が迷宮内部に続いているベルを引っ張った。若狐のほうから呼び出してくるときは鈴が鳴らされる仕掛けらしい。続いて今度はタルバがこちらに質問を投げてくる。

「ラオタオに直談判したいことって?」
「何、物騒な話ではありませんよ。ドナにはなかなか外の情報が入ってこないでしょう? もう少し我々にも帝国の現状を伝えてほしいと思いましてね」

 誤魔化し半分の返答だったが嘘ではなかった。自分たちの知らぬ間に周りが敵だらけになっているのではという懸念は全員の心にある。少なくともタルバにも「ほかの蟲は与えられた任務をこなしているのに自分はドナで遊んでいていいのか」という後ろめたさはあるはずだった。

「そうか、わかった」

 三白眼は緩められないままだったが、ひとまず追及の手は止まる。呼び鈴が最初の合図を送ってくるまで長い沈黙が続いた。
 建設時から薄々そんな気はしていたが、迷宮は相当手の込んだものらしい。ゴジャが寝室に到着したという知らせは一向にもたらされなかった。
 すぐにも敵と相見えるつもりでいた退役兵は苛立ちを募らせてくるし、中でゴジャが癇癪を起こしていないかも心配で、次第に落ち着かなくなってくる。チリンチリンと涼やかな音が鳴り始めたときは安堵の息をついたほどだ。

「よし、では次は私が」

 ともかくもウヤは鏡で埋め尽くされた部屋に向かった。
 一歩踏み込めばそこは奇妙奇天烈の空間で、どちらを向いても己と目が合う異様さに立ち眩む。
 無数の虚像。細切れの世界。すべて認識しようとすると頭の奥が痛くなる。
 平衡感覚が狂い始めるのがわかった。鏡は斜めに立てかけられているものもあり、平らな床まで歪んで映る。

(余興としては面白いのだろうがな……)

 頭がおかしくならないようになるべく天井を見上げて進んだ。前進しているか後退しているかはこれでおおよその見当がつく。それでも途中で気分が悪くなったけれど。
 目指す寝所に近づくには段差を乗り越え、横道を抜け、断続的に襲ってくる眩暈に耐えねばならなかった。
 どうにか重い木扉の前に辿り着き、ほっと胸を撫で下ろす。後続の者のために目印でも置いてくれば良かったなと思いながらノックしたドアを押し開けた。

「おっ、もう来たの? すんごい早かったね」

 広い寝室には砦の主人であるラオタオと不真面目な監視役のウェイシャン、先にゴールしたゴジャが並んで立っていた。消火の手伝いに行ったのか防衛隊の姿はない。
 思ったよりも流れる空気は険悪でなかった。臥せっていると聞いていた駄犬も額こそ青かったものの背筋はいつもより伸びていたほどで。
 不思議に思いつつウヤはゴジャに目を向ける。息子は無骨な腕を持ち上げ、ちょいちょいとこちらに手招きした。

「ウヤ」

 なんとも言えぬ何かが一瞬ウヤの足を留まらせる。
 ゴジャはいつもこんな声音で己を呼んでいただろうか? 大嫌いな狐を前に平静なのも珍しい。
 だがともかくウヤは歩を踏み出した。彼は彼なりにラオタオを油断させようと談笑していたのかもしれない。ならば少しは利口になってくれたのだろう。

「――え?」

 足払いをかけられたのは直後だった。盛大に尻もちをつき、引っ繰り返った視界に「!?」と瞠目する。
 対応不能な異常事態はまだ続いた。若狐に腕を取られ、息子に思いきりのしかかられ、そのうえ喉を存外な力で絞め上げられて、何が起きたのかすぐには理解できなかった。

 ――どうしてゴジャがラオタオと一緒に襲いかかってくるのだ?

 もがいたが、後手に回ってしまったために抵抗らしい抵抗はできなかった。
 思考が結論を導く前に世界は無慈悲に暗転した。



 ******



「あっ! こいつ! こいつがファンスウと繋がってるみたいです!」

 額を押さえて起き上がったマルコムの叫びにルディアは「!」と瞠目した。
 二人目で大当たりとはついている。黒髪を一つに結んだ理知的なジーアン人を皆で囲み、逸る気持ちを抑えて「何を知っている?」と問う。
 蟲の記憶共有は頭の中に本棚が一つ増えるような感覚らしい。最初の数分は混乱しても、己がどちらに紐づけられた記憶を参照しているか次第にわかってくるそうだ。
「退役兵の中では一番頭の働く奴よ」とアンバーが言うので接合相手を利発な少年に決めたのは正しい選択だったらしい。療養院でも患者らの中心となってくれていたマルコムは、古龍が退役兵をどう操ってラオタオを襲わせるつもりだったか、ウヤ自身はその要望にどう応えたか淀みなく説明した。

「……なるほど。それでは狐の『本体』を強奪するのに成功したと嘘をつけば連中は満足して中庭に戻るわけだな?」

 事態を収束させるには目論見が成功したと思わせるのが一番手っ取り早そうだ。数で勝る退役兵を全員は入れ替えられないし、ある程度で切り上げるのが今後のためにもいいだろう。
 ルディアはよし、と水桶を囲む仲間たちに告げた。

「捕獲はもう八人ほどにしよう。その後はラオタオを陥れたふりをする」
「八人だけでいいんですか?」

 疑問の声は防衛隊やアイリーンからではなく、衝立裏で出番を待つ患者たちから発せられた。ルディアは「ああ」と頷いてこれからの方針をわかりやすく伝えてやる。

「まずこの場を不自然でない形で落ち着かせるのが第一だ。新入り小間使いがいきなり全員消えても目立つし、十将と入れ替わる者を残しておきたい」

 退役兵十人がかりでラオタオを押さえ込み、首を絞めて「本体」を回収し、肉体は頂戴したという筋書きにすればウヤとゴジャが同胞に持ちかけていた話とも相違はない。入れ替えなかった退役兵には袋虫を閉じ込めたガラス瓶でも見せておけばいいだろう。狐は我らの手に落ちたと勘違いしてくれるはずだ。

「なるほど。私が一時的にこの身体を離れて『ラオタオは空っぽになった』と思わせれば更に信憑性が増すわね」

 相変わらず理解の早いアンバーが拳を打つと防衛隊のほかの面々もこくこくと頷いた。

「じゃあまずはあと八人、退役兵を部屋に引き込めばいいの?」
「そうしたらハイランバオスに入った僕と、ゴジャに入ったオーベドさんと、ウヤに入ったマルコム君と、ラオタオに入ったアンバーさんで不意打ちすると」
「わ、私と姫様は皆と一緒に衝立の裏に隠れていて、大変そうなら手伝うのでいいのよね?」
「ああ、各自所定の位置につけ。そろそろ次を呼ばせるぞ」

 患者たちがマルコムの空いた身体を抱えて衝立の裏に引っ込むとルディアは壁に垂れ下がった紐をぐいと引っ張った。
 遠くでベルの鳴る音がする。これでまたバジルが獲物を誘導してくれるはずである。
 拍子抜けするほどあっさりと敵は罠にかかり続けた。途中待つのを嫌がった退役兵が数人で迷宮に押し入るなどのトラブルもあったが、仕掛け鏡が彼らをほどよく分断し、あれよと言う間に計十体の入れ替わりが完了した。
 幸先がいい。これならきっとダレエンやウァーリ、ファンスウやほかの十将も早い段階で乗っ取れる。

(待っていろよ、アルフレッド)

 瞼の裏に赤髪の騎士の姿を浮かべてルディアは小さく指を握った。
 アクアレイアが帝国自由都市として永続自治権を獲得するのに数年は必要なことを考えれば祝祭の減刑に期待するにはこれでも遅すぎるほどである。
 本当に、早く打つ手を思いついてやらなければ。



 ******



 ルディアから「ありがとう、終わったよ」と礼を述べられたのは退役兵らがまだ四十名近く入口付近で待機しているときだった。

「えっ? もうですか?」

 驚いてバジルが寝室を振り向くと「とりあえずな。残りは適当に誤魔化す」とひそひそ声で告げられる。
 出入りの調整役だった己は中で何が起きていたのか直接は目にしていない。わかるのは主君がドナでの目的を果たしたらしいことだけだ。「後で詳しく説明するが」と前置きしてルディアはバジルにこう続けた。

「今から迷宮に入れる退役兵にはラオタオの肉体とウヤの『本体』を見せる。二つ並べて置いておけば囚われたのは狐のほうだと思い込むだろう? まずは連中に『これでラオタオは終わった』と誤認させる」

 主君によればゴジャもウヤも元々騒ぎを大きくする気ではなかったらしい。なのでラオタオ襲撃はひっそりと行われ、居合わせた防衛隊も「無事に故郷に帰りたきゃ余計な口をきくな」と脅されたことにするという話だった。
 表向きドナでは何も起きていない、タルバに何か聞かれても知らんふりしろとの命令にバジルは秘かに息をつめる。必要な嘘とわかっていても胸の痛みは消しきれなかった。

「細かい調整はこっちでやる。事が済んだらお前はいつも通り過ごせ」
「わ、わかりました」

 了解を伝えるとルディアはすぐに室内に引っ込む。ややあって次の退役兵を呼ぶベルが鳴り、迷宮の扉が開く音がした。
 その後も計画は滞りなく進んだようだ。寝所は静かなものだった。
 何も知らない退役兵は勇み足で鏡の奥から現れて一人また一人と本物の迷宮に飲み込まれる。誰が「接合」なんて事象に気がつけるだろう? 自分たちの仲間がよその蟲と記憶を共有し、宿主から追い出される災難に遭ったなんて。

「……はあ……」

 バジルは嘆息を飲み込んだ。タルバ以外のジーアン人などいなくなったほうがいいはずなのに、してやったりと思えない。
 このまま行けばそのうちタルバを陥れる日が来ることになるのではなかろうか。よしんばそんな日が来ないとしても、友人の命は尽きようとしているのである。「接合」が記憶だけでなく寿命をも分け与えるものならば彼もその恩恵にあずからせたい。できれば部隊の皆には内緒で。

(うう、これからどうしよう……)

 バジルは秘かに途方に暮れた。タルバに何も打ち明けられなさそうなことも心をますます重くする。何か良い道が見つかればいいのに。


 順番待ちをしていた退役兵全員が寝所に集まるとまた新たな動きがあった。ウヤとゴジャ――既に中身はアクアレイアの脳蟲だが――が彼らを率いて出てきたのだ。
 一列になった退役兵たちは笑い声を立てながら迷宮の入口へ逆戻りしていく。最初に迷路を踏破した十人が誰だったか覚えておらねば誰がアクアレイア人で誰がジーアン人か区別はつかなかっただろう。
 一団が去ると今度は新入り小間使いたちがおずおずと現れた。彼らも主君に「時が来るまで小間使いらしくしていろ」と命じられたらしい。手伝うことはあるか問われ、厨房に下りるように勧める。
 ルディアたちはなかなか部屋から出てこなかった。きっと今後の段取りでも確認しているのだろう。
 流れを掴んだ彼女がここで手を緩めるはずがない。ドナはこのまま少しずつ塗り替えられるに違いなかった。

(タルバさん……)

 誰かが鏡の間のドアをそっと開いた音がする。迷わない歩きぶりから察するに迷宮奥の様子を覗きにきてくれた友人だろう。
 退役兵が戻ってきても小間使いが戻ってきても防衛隊が戻らないので案じて入口を離れたようだ。彼を寝室に入れるわけにいかないから、バジルは静かに仕掛け鏡を閉ざしてスタート地点へと向かった。

「ああ、良かった。無事だったか」

 途中出くわしたタルバが笑顔で息をつく。「何もなかったか?」との問いには視線を泳がせながらでしか応じることができなかった。

「何がです? 別に何もありませんでしたよ?」

 こちらの嘘に気づかなかったのかタルバは「ならいいんだ。なんか昨日から砦の連中、様子がおかしかったからさ」と続ける。真摯な瞳に見つめられると苦しくて、我知らず目を伏せていた。死にかけているのは自分のくせに他人の心配ばかりするのはやめてほしい。
 黙っているしかないのだろうか。
 何もしてやれないのだろうか。
 鉛を飲み込んだようなこの心地はしばらく続きそうだった。



 ******



 己のあずかり知らぬところでとんでもない異状が起きている。ファンスウにわかったことはそれだけだった。
 一体何がどうなっているのだろう。
 少しも予想しなかった事態に息を飲む。
 人払いさせた宮殿の奥、今はもう使われていない文官用の政務室で、思考もまとまらないまま一人立ち尽くした。
 考えても考えても生じた謎の答えはかけらも見いだせない。

(どうしてラオタオの鷹からアクアレイアの蟲が出てくる……?)

 若狐を追い払い、蠍と狼の目を盗んで「尋問」しようとしたマルゴー帰りの三羽とも、話を聞くため人の身体に移そうとしたらこうである。もしやと思いラオタオの配下であった残り七羽も首を絞めたらやはり脳蟲が出てきた。
 元々入っていたはずの同胞たちはどうなった?
 なぜ今まで誰も気づかなかったのだ?
 足元に累々と引っ繰り返った鷹たちを見ても不可解さは増すばかりである。だが一つ、若狐が裏切り者であることだけは確信した。気づかぬ間にあの男に過度な自由を許していたことも。

(これはじっくり話を聞きだす必要がありそうだのう)

 脳蟲を泳がせている水桶に目をやってファンスウは怜悧な双眸を光らせた。
 ダレエンもウァーリも拷問の対象が身内でなければ止めはすまい。逆に己も同席させろと言ってくるに違いなかった。
 ラオタオを疑いたくなさそうだった十将の何人かも観念してくれるだろう。滞っていた諸問題が、これでようやく少しは前進するはずである。









(20200122)