大鐘楼に残されたバスタードソードから毒が出た――。その知らせを聞いたとき、アニークの中で何かの糸がぷつりと切れた。
 柄頭にアネモネの彫られた剣はアルフレッドとユリシーズどちらが所持していたものか判別できない。事件後に取り替えられた可能性は十分ある。そんな報告を聞かされて。
 二人の騎士に似合うと思って身に着けるよう言ったのだ。揃いの剣を持てば仲良くもなれるだろうと。
 毒が出た? それでは殺意が存在したのか? アニークそっちのけで親睦を深めていた彼らの間に。
 どうしても信じられなくて、どうしても信じたくなくて、気がつけば意識を手放していた。幕屋の長椅子に倒れ込んだ後、目を覚ましたのは寝所のベッドの薄幕の中だった。

「大丈夫?」

 覗き込んでくるのは赤褐色の蠍の目。寝台の傍らに腰を下ろしたウァーリは気遣わしげにアニークを見つめている。

「もう少しゆっくり休んだほうがいいわ」

 寝かしつけようとする彼女にアニークは最初首を振ろうとした。だがすぐに思い直し、「そうね……それもいいわね……」と力なく返答する。首元に毛布を寄せて眠る意を示せばウァーリは椅子から立ち上がった。
 何時間こうしてついていてくれたのだろう。面倒見のいい将軍だ。 
 だが今は誰とも一緒にいたくなかった。すっかり疲れてしまっていた。
 理解できないことばかり続く現状に。

「ちゃんといい子にしてるのよ?」

 お守りから解放された蠍はなお心配げに、しかし足早に中庭へと引き揚げていく。
 一人になるとアニークはゆっくり身を起こした。
 見渡した寝所には己以外誰の姿もない。いつもアルフレッドとユリシーズが並んで腰かけていたソファは日も暮れぬうちから静かに冷えきっていた。
 足音を忍ばせてそちらに近づく。テーブルには焼き菓子の積まれた皿と詩の教本。パディから受け取った新しい手紙もある。
 ああそうだ、昨日はこれの返事を書いていたのだ。でも今日はとてもそんな気分になれない。詩作の続きなどする気には。
 身を屈め、束ねた封筒の一通を抜き取る。そのうち自分からパディに渡しておくからと預かったアルフレッドの。
 封を開けばかさりと乾いた音が響く。便箋には彼らしく丁寧な文字が並んでいた。

(アルフレッド……)

 筆跡を見ただけで涙が溢れそうになる。ユリシーズと一体何があったのか、アニークに知る由はなかった。
 仲違いした様子なんてこれっぽっちもなかったのに。むしろ二人は日に日に信頼を増しているように見えたのに。
 項垂れた頭は自ずと視線を手の中の詩に導いた。アルフレッドがパディの心を慰めようと綴った詩に。
 そうして思わず顔をしかめる。不吉な単語が目の端によぎって。

(処刑場の騎士――)

 予言めいたその語句にぞわりと背筋が粟立った。気がつけばアニークは彼の詩を一行目から読み返していた。

『今激しく燃え上がる一つの炎
 何を見ている? そんな炎を胸に抱いて
 悲しみ 戸惑い 病のごとく癒えぬ苦しみを
 乗り越えたのか それとも飲み込み血肉としたのか
 何を見ている? まっすぐに顔を上げて

 世界からそっぽを向かれた子供にも 物語はそっと寄り添う
 物語から夢見ることを教わって 子供は憧れを追いかける
 憧れからどんなに己が遠くとも 子供は今も追いかけている
 詩人の謳った騎士の背中を 憧れたその人を

 何を見ている? 子供の目は
 子供の目は騎士を見ている 強い炎を胸に抱いて
 いつかその背に届こうと 子供は今も追いかけている

 失意に囚われた語り部が 処刑場に騎士を送っても
 真に純粋なものは 決して失われはしない
 物語には現実を越えていく力がある

 何を見ている? まっすぐに顔を上げて
 子供の目は騎士を見ている
 子供もまた騎士の顔で
 何を見ている? 強い炎を胸に抱いて――』

 ごくりと息を飲んでいた。数日前、初めてこれを目にしたときとはまったく異なる読後感がアニークの胸を騒がせた。
 処刑場の騎士。詩に与えられた主題が最後に書き添えられている。
 これはアルフレッドが物語の騎士たちを称えようと作った詩だ。それ以外の意図はない。
 わかっているのに胸騒ぎはやまなかった。まさに彼が処刑場に送られようとしている今は。
 アニークは凍える手で便箋を封筒にしまった。
 誰でもいい。嘘だと言ってほしかった。
 もうすぐあの扉を叩き、アルフレッドとユリシーズがやって来る。いつもの日常に戻れるのだと、そう信じさせてほしかった。



 ******



 あまりにもあっさり終わった事情聴取に却って不安が増大する。来たときと同じように慇懃にウォード邸を立ち去った調査官を見送ってモモは重い溜め息をついた。
 追及の手が緩すぎるのは情報収集する必要がないからだろう。家族にも話は聞いた。だが何もわからなかった。こうなれば状況から鑑みてアルフレッド・ハートフィールドを犯人と断定するほかない――。そう持っていくだけなら。
 よろしくない。まったくもってよろしくない。早く何か手を打たなければ。

(剣に毒まで塗ってあったとか言われるし、もう……もうー!)

 馬鹿アホ間抜け雑魚アル兄! ここからどうやって巻き返すつもりだ。皆にだって心配かけて。
 次兄など世界の終わりのような顔で客室に崩れ落ちている。心根の強い母もさすがに眉を険しくしていた。当然だ。蟲のことさえ知らないで息子の黙秘を伝えられて動揺しないはずがない。
 どうしよう。どうすればいい。
 悩んでいたら夕刻の鐘が鳴り響いた。今夜はこのまま家族の側にいたほうがいいのだろうか。工房島に向かうことを躊躇するモモのもとに迎えが来たのはそのすぐ後のことだった。

「すまない。うちの斧兵はまだここに?」

 主君の声にモモはハッと顔を上げる。客室を飛び出すと急ぎ表口へと駆けた。
 何か新事実が判明したのか。あるいは実行に移せる策を閃いたのか。
 なんでもいい。この状況を変えてくれるものが欲しかった。袋小路に突破口を生み出してくれるものが。

「ブルーノ! アイリーン!」

 ケープを羽織ったモモが叫ぶとルディアは「来い」と言うように顎を引く。応対してくれた従兄に「ごめん、モモ行ってくるね。ママたちのことよろしく」と頼んで表口のゴンドラに乗り込んだ。まだ危ないよとかなんとか聞こえたが留まっているわけにいかない。これは兄の問題である前に防衛隊の問題であり、アクアレイアの未来を左右する大問題なのだから。
 櫂を掴むとモモは大運河に漕ぎ出した。岸を離れ、喧騒を離れ、闇の深まるほうに向かって小舟を進める。
 しばらくするとルディアがぽつり呟いた。

「カロが街に戻ってきた。十中八九アルフレッドは半地下牢にいると言ったら隠し通路を探してくれてな」
「えっ、カロが?」
「ああ、さっき目当ての入口が見つかったそうだ。王族の私室に通じていたのとは別物らしい」

 満潮の間だけなら潜り込めると主君は言う。「行ってくれるか?」との問いにモモは「行く!」と即答した。
 隠し通路。そうだ、そう言えばそうだった。レーギア宮にはそんな仕込みがあるのだった。

「わかってくれていると思うが、我々は一蓮托生になるわけにいかない。人に見つかったときのために行くならお前一人になる」

 この言葉にもモモはこくりと頷いた。「上手くやるから任せて」と小さく拳を握りしめる。

「よし、それでは日のあるうちにカロから詳しい場所や仕掛けを聞いておいてくれ。決行は潮が満ちてからだ。私たちはガラス工房で待っている」

 大運河を下りきり、国民広場奥のゴンドラ溜まりまで来るとルディアは視線で浮かぶ小舟の一群を示した。そのうちの長身のロマが立つ一艘を。
 無言で櫂を主君に渡してモモは手近な舟にひょいと乗り移る。そのまま空のゴンドラを順に伝ってカロのもとまで辿り着いた。
 振り返ればルディアたちを乗せた舟はもう夕暮れのアクアレイア湾に去っている。何かあっても本当に助けてはもらえないのだとひしひし感じた。

「久しぶり、よろしく」

 ちらとフードをずらしてモモはロマに会釈した。相変わらず表情筋の動かぬ男は「ああ」と短く返事して岸から舟を離れさせた。
 兄に会える。会って話せる。
 何が出てきても驚かないようにしようとだけ心に決める。
 この数時間後、予測を遥かに上回る事態が待ち受けているとはまだ露ほども知らぬまま。



 ******



 ニコラスの訪問があったのは夕刻、書房を閉めたすぐ後のことだ。
 レイモンドが無人の一階店舗に彼を迎えると老人は出し抜けに「明日の新聞は?」と問うてきた。

「や、今日は忙しかったんで、まだパーキンが原稿やってるとこですけど……」

 仮刷りもしていないと首を振ればニコラスは「毒の話は載せたのかね?」と続けて尋ねる。なんだか監視されているようで、もやもやしながら「はい」と答えた。
 片手半剣に触れた鼠が数分で絶命したとは昼過ぎに知った話だ。パーキンがすぐ裏を取りに走ったから事実らしいとも確認している。
 この老人はレイモンドが友人に不利な話題を避けるのではと案じて念押しに来たのだろう。朝にも庇い立てはしないと了承したのに信用のないことだ。

「……あの、せめて『ハートフィールド家の人間は事件に無関係だった』って一文入れていいですか?」

 レイモンドは拳を固めてニコラスに乞うた。表立って味方になってやれないならほかにできることは全部してやりたかった。
 獄中の幼馴染も一家を巻き込んでしまって気に病んでいるだろう。だったら自分がアルフレッドの代わりに彼らを守りたい。

「モモたちにも事情聴取したんでしょう? 何も聞き出せなかったんならいいですよね?」

 ずいと迫れば老賢人はしばし唸って押し黙る。「わかった」と頷いた後に彼の出してきた条件は、レイモンドには少々つらいものだった。

「では同様にブラッドリー・ウォード、レドリー・ウォードも凶行に関係しておらず、公私混同することなく己の仕事に励んでいると付け足すように」

 レドリーの名は知っている。アルフレッドを犯人と決めつけて連行したのが従兄の彼であったことも。元々ユリシーズの補佐を務めていた男だから、今の海軍では繰り上がり式にレドリーが立場を強めているらしい。
 幼馴染を追い込もうとしている連中の筆頭だ。できればその名には触れたくなかった。海軍の乱暴な取り調べを適切な仕事だったと認める記事を書かねばならないなら尚更。
 だがニコラスは中立ぶるなら最低限そこまではしろという顔だ。レドリーを持ち上げておけば印刷業に刃が向くこともないのだからと。

「……わかりました」

 眉を歪めてレイモンドは頷く。老人は「明日の朝また仮刷りの文面を見せてくれ」とだけ告げてこちらに背を向けた。
 足音らしい足音も立てずにニコラスが書房を立ち去ろうとする。老いた細腕が扉を押し開こうとしたそのとき、どうしても堪えがたくてレイモンドは声を張り上げた。

「……あの! アルはどうなっちまうんですか……?」

 返事はない。ただかぶりが振られただけだ。
 それでもなお必死に老人を見つめていたら短いひと言が返された。

「民の求めるままになろう。彼らは誰かが罰されなければ満足せんよ。憎悪が飛び火する前に、我らは炎を消さねばならぬ」

 ニコラスが――否、十人委員会がアルフレッドを始末することで問題に片をつけようとしているのは明白だった。巨大な怒りのやり場を誰に決めたかは。
 扉が開く。夕暮れの国民広場に老人は歩み去る。
 今しがた耳にした言葉の意味を考えて長い時間立ち尽くしていた。

(友達一人助けられずに、俺は一体何やってんだ?)

 ずっと、ずっと、アルフレッドの手を借りてここまで生きてきたくせに。
 俺はこんなところで何を。

「…………」

 苦しくて、苦しすぎて、呆けているしかできなかった。やっと身体が動いたのは、ともかくもルディアのもとへ行かねばと思い至ってからだった。



 ******



 日没。ブルータス整髪店に誰もいなかったからだろう。レイモンドも孤島のガラス工房にやって来た。
 日の暮れた後はよほど櫂漕ぎに親しんできた人間しか湾内を行き来しようとしない。ろくな灯りもないのに航行不能な浅瀬に入ると一大事だからだ。
 普段なら夜は夜なりに火の焚かれている本島も、ユリシーズの葬儀を控えてわずかな篝火しか燃えていないはずだった。

「じゃあモモはアルに会いに行ってくれてんだ?」

 そう言って恋人は少しだけ張りつめた表情を緩める。その顔を見てルディアも口元をやわらげた。

「ああ、別のゴンドラでカロも近くについてくれている。明け方には二人ともここに戻ってくるはずだ」

 無事の帰りを待つ以外今はできることもない。「それまではゆっくり待とう」と休養を勧める。昨日も彼はろくろく眠っていないのだ。倒れやしないか心配だった。
 工房の一階作業場に集まったモリスやブルータス姉弟も心労の大きい槍兵を案じる瞳で見つめている。十数年来の幼馴染と他人のふりなどせねばならないレイモンドの憂悶は察して余りあるものがあった。

「わかった。モリスさん、椅子借りるぜ」

 椅子ではなくて寝台を借りればいいのに槍兵は夜明けまで起きて待っているつもりらしい。「寝ろ」と言っても「寝つけねーから」と首を振られた。事態が好転するまでは休みたくても休むなんてできないと。

「アルの奴、絶対助けてやらないと……」

 レイモンドは仲間内の誰よりも思いつめた様子だった。まるでアルフレッドを救えなければ己は友達失格だとでも言わんばかりだ。さっき少しだけ解けた緊張もまた頬に戻っている。
 騎士のことも、恋人のことも、気がかりで仕方なかった。モモと別れてまだいくらも経っていないのに早く事実を明らかにしてほしいと焦ってしまう。
 ふうと小さく息をつき、ルディアも作業台の丸椅子に腰を下ろした。白猫とモリスとアイリーンも燭台を囲む形で席に座す。今夜はもう誰も横にならないと決めたらしい。

「いいタイミングでカロが来てくれて助かったな」

 せめて明るい話題を提供しようと呟いた。「ええ、本当」と応じたアイリーンがわずか嬉しそうに微笑む。

「明後日にはドナに発てる。連れて帰れるかはわからないが、バジルが元気にやっているかは見てくるよ」

 これからの予定を告げるとガラス工も「良い知らせを待っとるぞ」と頷いた。そうして少しずつ工房の空気が温まっていく。
 努めて気丈に振る舞いながらルディアの心は暗かった。
 今度の件に限っては落としどころを見つけるのが難しそうだ。関わりのない相手なら己でもアルフレッドを犠牲にする道を選んだに違いない。ここに来て黙秘など選ぶ愚か者には国のため死んでもらうしかあるまいと。
 アニークが騎士を守ってくれるにしても民衆の反発は避けがたかった。裁判なんて早ければ一日で済んでしまう。判決が出る前に証言させたほうがいい。
 焦る気持ちはいつまでも消えなかった。このままでは悪いほうへ悪いほうへ転がってしまうという気持ちは。

(一体何があったのだ?)

 なぜユリシーズと会う約束などしていたのか、考えれば考えるほど違和感は大きくなる。毎日サロンで一緒だったにせよ、わざわざ人払いした大鐘楼で、二人きりで会う必要がどこにあったのか。
 剣に毒が塗られていたのも、鞘ごと鐘室に捨て置かれていたのも、すべてがあまりに不可解だ。
 事はそう単純ではない。どうもそんな気がしてならない。

(なんとか道が開けるといいが……)

 作業台に肘をつき、祈るように手を組んだ。
 誰もがじっと黙りこくって朝を待つ。
 長い、長い一夜だった。



 ******



 ひとりぼっちで舟を漕ぎ、どんより暗い水路を行く。おそらくこの国で最も寂しく陰鬱な、監獄運河と呼ばれる水路を。
 宮殿裏の小運河。初代国王がこんなところに隠し通路の出入口を作らせたのは、水路を挟む両側の建物に窓がなく、見咎められる可能性が極めて低かったからだろう。囚人の脱走を阻止するための構造が同時に王族の秘密をも守ってきたのだ。
 監獄塔と宮殿を繋ぐ石橋の下に舟を停めるとモモは身に着けていたケープを大きくゴンドラに広げた。
 こうしておけば貧しい身の上のゴンドラ漕ぎが船上で眠っていると思われる。実際それはそう珍しい光景ではなかった。不景気に次ぐ不景気で家賃が払えず宿なしになった者も多いアクアレイアでは。

(……よし! この壁面装飾をこうしてこうするんだよね?)

 小さなランタンも掲げられない闇の中を手探りで奮闘する。カロに教わった通り石壁の一部を奥に押し込み、うんしょと横穴に滑らせるとモモは出現した抜け道に飛び込んだ。
 ざぶんと波立つ水の音。思ったよりも底が深い。潮が満ちている証拠だ。
 前にルディアの寝所を訪れたときは黴臭くても足が濡れることはなかった。監獄塔に続くこちらの隠し通路は半地下牢と同じ高さにあるために床が低いのかもしれない。
 膝まで水に浸かりながらとにかく一度ずらした壁を元に戻す。作業を終えると一歩ずつ慎重に前進した。
 どこを向いても半地下通路は暗すぎて何も見えない。壁にくっつけた身体のどこかに仕掛け石が引っかかってくれるのを待つ。

(あ、これかな!?)

 十数歩も行くと目当ての出っ張りが見つかった。手元でぐるりと回転させ、重い石を引き抜いて、できた隙間から壁の向こうの様子を窺う。
 牢獄内はごく静かなものだった。こちらと変わらぬ暗闇で、見張り兵のいる様子もない。なんとなく質感の違う鉄格子の存在が感じられるのみだ。

(ここじゃないっぽいな)

 目の前の寝台に誰も眠っていないのを確かめてモモは壁の石を嵌め直した。ゆっくり移動し、また次の出っ張りを探す。
 二つ目の仕掛け石を動かすと横になった人間の頭が目に入った。吹き込んだ隙間風に瞠られた赤い双眸がこちらを向く。すると寝台に横たわっていた兄は驚いて息を飲み込んだ。

「……ッ」

 声を上げそうになったアルフレッドにモモは「シッ!」と指を立てる。それで誰だかわかったらしく、兄は「モモか?」と潜めた声で尋ねてきた。

「うん、そう。今話せる?」

 暗に看守の在不在を問う。固そうな寝台に手をついて上体を起き上がらせるとアルフレッドは「ああ」と答えた。
 仕掛け石は座り直した兄の首元に掌大の空間を生んでくれている。ろくに顔も見えないが、話すだけなら十分な隙間を。

「満潮の間しかいられない。手短に何があったのか教えてくれる?」

 牢は寒くないかとか、腹は減っていないかとか、聞きたいことはいくらでもあったがぐっと堪えた。だが兄のほうは妹の心境などお構いなしで「ほかの皆は? 外は今どうなっている?」などと問うてくる。いいからさっさと話せというのに。

「アル兄以外は皆平気。何かあってもなんとかなるから心配しないで」

 強引に話を切るとモモは「で、何があったの?」と改めて問い直した。皆は平気との言葉に安堵したのかアルフレッドは静かに長い息をつく。

「……すまない。謝らないといけないことが山ほどある」
「そういうの今いいから。時間がないの、早く言って。やってないって証言ができなかったの、蟲が絡んでたからじゃないの?」

 強めに急かせば兄はまた長い息をついた。今度は重く、後悔の色濃く滲んだ溜め息だ。
 苦笑するほかないというようにアルフレッドは苦く笑った。歯切れ悪く兄はなかなか言葉を紡ごうとしなかったが、やがて「実は……」と語り始める。
 最初に教えられたのはシルヴィア・リリエンソールの正体があのグレース・グレディだということだ。彼女を通じてユリシーズはルディアが他人の肉体を借りて生き延びていると知ったのだと。
 ――なるほど事情が読めてきた。そう思えたのはそこまでだった。「この件を俺はずっと誰にも報告できずにいた」との懺悔が始まると、後はもう耳を疑う話しか出てこなかったからだ。
 アルフレッドがユリシーズと酒を交わすようになった経緯、居心地の良さに負けて裏で関係を続けた事実、聞けば聞くほど困惑して「は?」と倒れそうになった。
 レイモンドとルディアの関係を聞くために潰れた酒場に連れ込まれた?
 そこでつい溜め込んでいた悪感情を爆発させてしまった?
 どこの世界にそんな理由で主君の政敵に同情される騎士がいるのだ。いや、現に目の前に、血の繋がった兄として存在するのだが。

「それ以前からユリシーズは俺と女帝陛下の間を取り持ってくれていたんだ。彼女が『アニーク姫』と違うことに、俺は酷く憤っていたから……」

 女帝のサロンで白銀の騎士に焼かせた世話も知れば知るほどくらくらした。はっきり言って敵対派閥に作っていい借りではない。なんだってこう、この兄は、政治的な打算とは異なる道理で動くのだ。

「監視していると思えばいいという言葉にしばらく甘えていた。ユリシーズは軍事機密を流してくれることもあって、いつ会っても優しくて……」

 打ち解けた二人の友情は、あのユリシーズが「王国再独立派になっていい」と言うほど厚いものだったらしい。同じ王女に失恋した同士、響き合うものが確かにあったとアルフレッドは低く呟いた。
 だが結局、揺るぎないと思えたそれは最悪の終わりを迎えたのだ。公国からルディアが帰ってきた日、ユリシーズが味方に加わってくれるぞと告げようとした兄は、先に主君から「お前は別のプリンセスを探せ」と突きつけられた。
 重い衝撃を引きずったままそのことを打ち明けると白銀の騎士は「間違っているのはあの女のほうだ」と激憤したらしい。アルフレッドがこれからも望む騎士でいられるように、一時ルディアの「本体」を封じようと持ちかけてきたのも彼だったと。

「……は、はあ??」

 理解不能すぎてまたもや激しく眩暈がした。さっきから何をのたまっているのだこの馬鹿は。どうせつくならもっとましな嘘をつけ。
 そう思うのに吐露された事情はアンブローズから聞いた話と完全に合致していた。飲み始めた時期、上機嫌だった一週間、荒みきっていた二日間も。
 たまたまロマの老人が家を訪ねてくれていて、なんとか思い留まれたのだと兄は続ける。そうしてルディアを連れて向かうはずだった大鐘楼の最上階に、もういいのだと知らせに行ったらユリシーズが剣を抜いたと。

「……あそこで起きたことについてはどう説明すればいいのかわからないんだ。なぜユリシーズが剣を捨てて地上に落ちていったのか、何度考えてもはっきりこうだと言えなくて……」

 力なくアルフレッドは首を振った。だがそんなもの、身内の自分からすれば火を見るよりも明らかだった。

(か、完全に痴情のもつれじゃん)

 この兄の最も不得手なトラブルだ。奥手なうえにどこまでも鈍く、そのくせあちこちで無自覚に人心を弄ぶ。
 意識的に人脈を広げているレイモンドと違ってアルフレッドは天然で相手を選ぶことをしない。アニークも、十将の二人も、そうして引っかかったのだ。助けてくれたという老ロマも多分そう。まさかユリシーズまで陥落させるとは思いもよらなかったけれど。
 ただ一つ、兄もこれほど暗い情熱をたぎらされるとは想定外であったろう。命を捨ててもルディアのもとに帰すまいと阻まれるとは。

「…………」

 受け止めるには複雑すぎる事態にモモは息を飲んだ。沈黙をどう受け取ったのか、アルフレッドは今一度「すまない」と詫びてくる。

「平静でなかったとは言えどうかしていた。隠れてユリシーズに会うこと自体、裏切り行為とわかっていたのに……」

 言い訳は長くなかった。「何もなかった顔で部隊に戻ろうとしたなんて思えば虫のいい話だ。自分で自分を無罪だとも思えない。俺はどうなってもいいから姫様たちに迷惑がかからないようにしてくれ」と告げられる。
 このままでは極刑だと知っているくせに何を落ち着き払っているのだ。我が兄ながら本当に救いがたい馬鹿者だ。
 黙秘以外にやりようがないはずである。十人委員会に話せる事実など一つもない。危なげな兆候は嗅ぎ取っていたのに深く尋ねなかったことが今更ながら悔やまれた。
 そうこうする間に足元の水が引いてくる。膝下まであった水位がもう踝までしかない。まだ話し足りないが、面倒事を増やす前に行かなくては。

「……しっかり反省してから出てきてよね!」

 声を尖らせ、それだけ言うのがモモの精いっぱいだった。
 馬鹿馬鹿くそ馬鹿。雑魚間抜け。昨日から混乱続きでセンスなしの罵倒しか浮かんでこないし最悪だ。
 仕掛け石を元に戻して隠し通路を引き返す。パシャパシャと水の跳ねる軽い音がこだまする。
 一体全体こんなことルディアにどう伝えればいいのだ。いや、もう、できる限りそのまま喋るしかなかろうが。

(ああ、本当に今世紀最大の大馬鹿!)

 大丈夫なのと聞いたとき、大丈夫だと答えたくせに。まったく少しも大丈夫ではないではないか。

「……っ!」

 繋いでおいたゴンドラに戻るとモモは急いで壁を閉じ、ケープを被って櫂を握った。少し行けば水路に誰も立ち入らないように見張ってくれていたロマが静かに顔を上げる。
 東の空は明るい紺に染まりつつあった。心は少しも晴れぬまま、モモは工房への帰路に就いた。



 ******



 待ちわびた報告に皆一様にぽかんとする。
 誰と誰がどうしたと?
 この数ヶ月、陰で何が起きていたと?
 思考速度が追いつかず、レイモンドはしばし口が塞がらなかった。
 朝日の差し込む作業場はしんと静まり返っている。説明を終えたモモは眉間にしわを寄せ、アイリーンは弟猫とともに瞬きし、カロとモリスは表情険しく目を見合わせた。ルディアでさえあまりのことに絶句している。

「ア、アルフレッドとユリシーズが……?」

 震え声の響きから察するに彼女はまだ事の真相を受け入れられていなかった。ばつ悪そうにこめかみを掻きつつモモが主君に「アル兄さあ、姫様のこと好きだったみたいだから」と補足する。
 明かすつもりはなかったが知っていたという顔だった。少女は「ごめん」と頭を下げる。

「…………」

 工房は再び沈黙に包まれた。全部わかったらわかったで別の困惑でいっぱいになった。
 思い出すのは最後に会ったアルフレッドだ。お前といると惨めで仕方がないと嘆いた。
 あのときから薄々そうではないのかと勘付いていた。己もまたルディア以上に友人を痛めつけてきたのではないのかと。
 好きだった。アルフレッドも彼女のことを。
 いつからだ? いつから幼馴染は黙って耐えていた?

「……どう考えても私が追い込みすぎたせいだな」

 はあ、とルディアが嘆息する。丸椅子の上で肩を落として。
 彼女は騎士を突き放した責任を感じているようだった。「どうにかして檻からあいつを出してやらねば」とぼやいた声に愚行を責める色はない。
 けれど具体的な指針は与えられなかった。「とりあえずお祖母様は捨て置いて構わんだろう。ユリシーズ亡き今すぐには動けんだろうしな」とひと言あったのみだ。アルフレッドをどう救うのか、待てど暮らせど言及はなされなかった。

「なんて記事書けばいい? まだ今日の新聞間に合うかも」

 じれったくて自分から尋ねる。打てる手があるなら早く打ちたかった。
 だがやはりルディアは何も言わない。明晰な彼女でさえどんな筋書きを用意すれば囚人の潔白を示せるか思いつかないというように。
 否、脚本など用意しても無駄だと悟っているのだろう。当のアルフレッドが罰を受ける気でいるのに、誤魔化しなど口にしてくれるわけがないと。

「……新聞では哀悼の意を表明しろ。ユリシーズの葬儀代も一部負担しておけ」

 告げられたのは結局次の保身についてのみだった。頷けなくて唇を噛む己にルディアは強い目を向けてくる。

「こうなればドナでの作戦を成功させて一刻も早くアクアレイアを自由都市にするしかない。大きな祝い事があれば重罪人でも減刑される。前科はつくかもしれないが命の危機は脱するはずだ」

 彼女が言うと最初にモモが「うん」と応じた。

「ドナにはモモも一緒に行くよ。アクアレイアに残ってたって伯父さんとこでコソコソしてるだけだろうし」

 少女も生真面目すぎる兄に期待するのはやめたらしい。外部要因での放免を狙ったほうが話は早いともう頭を切り替えている。

「海軍の船に乗ることになるが、大丈夫か?」
「平気平気! アンバーだっていてくれるもん!」

 笑顔で力こぶを作る斧兵にルディアも気丈に頷いた。

(俺も行きたい。それがアルのためになるなら)

 言葉にしかけた希望はしかし口に出す前にくじかれる。レイモンドには別の任務が与えられた。

「そっちは留守を頼んだぞ」

 彼女はレイモンドを「いつも通り」の生活に閉じ込める。嵐の及ばぬ安全圏に。
 わかっていた。それが正しい選択だと。
 けれど脳裏には幼馴染の荒んだ声と表情が甦る。

 ――良かったな。お前は望むものすべて手に入れた。

 立ち直ったというアルフレッドに会えていたら、最後に見たのがあんな彼でなかったら、こんなに苦しく思わずに済んだのだろうか。

「わかった……」

 レイモンドは唸るように呟いた。
 何もできない。してはいけない。自分一人だけ。
 こんなこと早く終わってほしかった。早くアルフレッドに会って何も知らずにごめんなと詫びたかった。
 いつから我慢させていたのだろう。あんな忠義な男がユリシーズに頼らねばやっていけないと思うほどに。
 元凶は誰だったのか突きつけられて胸が痛い。ルディアを好きになったこと、恋人になろうと努力したこと、間違いじゃなかったはずなのに。
 どうして今、アルフレッドとこんなに隔たっているのだろう。



 ******



 空気取りの穴から明るい日が差している。
 ずっと抱えていた秘密、全部話したら少しだけ胸が軽くなった。ルディアやレイモンドたちには今頃呆れられているだろうが。

(しょうがないな。それだけのことをしでかしたし)

 裏切り行為が露見すればどうなるかはわかっていた。それでもユリシーズに会うのをやめなかったのは自分だし、まともに話し合えないまま彼を死なせてしまったのも自分だ。
 責任は取らねばなるまい。回避などできるものでもない。
 覚悟は既に決まっていた。ただ一つ心残りがあるとすれば、もう側で主君を守れぬことだった。

(姫様――)

 心ばえ正しく立派な騎士なら今もまだ彼女の隣にいられただろうか。
 たとえ手は届かずとも星は燦然と輝いているだけで意味がある。そのことに気づくのが遅すぎた。
 恋慕など実らなくても良かったのだ。あんなに求めた名誉さえ今はどうでもいいと思える。誰のための騎士だったかも。
 伝えるべきことは伝えた。後は黙って死刑台に立てばいい。

(……二十年か。案外短い人生だったな)

 命が惜しいと思うのはまだ何か遺せるものがあるのではと考えてしまうせいだろうか? 主君のために、まだ己にも何かできることがあるのではと。

 ――お前は決して名誉ある騎士にはなれない。

 耳の奥にユリシーズの声が響く。ここにいると海軍や十人委員会というより彼に囚われている気がする。
 側に気配を感じるのはあの騎士も国王弑逆に失敗した後同じ牢獄に繋がれていたからか。
 逃げる気もないが逃げられないという予感のほうが強かった。何かよほどの、それこそ波の乙女の加護でもなければ。
 解けぬ呪いをかけられた。けれど不思議に怒りは湧かない。仕方がないなと思うだけで。
 どうしてと問いはしたが多分もうわかっていた。
 きっと己は彼が一番傷つく方法で心を踏みにじったのだ。
 浮かれていたから。
 今度こそ本物の騎士を目指せると。

「…………」

 看守が階段を下りてくる足音がする。遠くない日に同じ足音が処刑場へ罪人を引っ立てていくのだろう。
 貴族なら斬首、平民なら縛り首だ。曲がりなりにも騎士の称号を賜っていた己はどちらになるか知れないが。
 いずれにしても刑は広場で執行される。観衆集う宮殿前を想像し、死に場所までお揃いになりそうだなと苦笑を浮かべた。

(俺たちは近くなりすぎたのかな、ユリシーズ)

 と、朝の鐘が鳴り響く。通常なら一回、二回、三回と続けて打ち鳴らされるそれが、今朝はなぜか大きく一回。
 理由はすぐに思い至った。これが葬儀の鐘だからだと。
 アクアレイアの全住民が喪に服すなど初代国王の逝去以来ではなかろうか。やはりユリシーズはまごうことなきこの国の英雄だったらしい。
 耳を澄ませ、石の寝台に腰かけたまま目を伏せる。手を組んで胸の中で祈りを捧げる。
 安らかに、なんて語りかける資格もないけれど。
 語りかけたい思いは一つも言葉になってくれないけれど。



 ******



 パトリア聖暦一四四二年十月二十三日早朝、葬送のゴンドラは国営造船所を後にした。舟はこれから半日かけて本島と離島を巡り、アンディーン神殿にて最後の祈祷を受けたのち墓島へ向かう予定である。
 シーシュフォスの頼みで今日の船頭を務めることになったレドリーは怒りと悲しみに胸を張りつめさせていた。黒塗りの舟の黒塗りの船室に横たえられた友の遺骸、彼を囲む哀れな一家を思ってきつく眉を寄せる。
 あまりにも大きな存在が消え去った。ユリシーズはどこにもいないと感じるたびに頭がどうかしそうになる。
 ずっと一緒にやっていくはずだったのに。ずっと同じ海軍で。

(これからどうしたらいいんだ?)

 国営造船所から続く幅広の運河を舟は行く。生活用の小水路に折れ曲がれば家々の窓辺から白い造花が投げられた。
 水の上を弔いの百合が流れていく。広場へ出れば岸辺を埋める人々が無言で祈りを捧げていた。早すぎる英雄の死を悼んで。

(誰がお前の代わりになんてなれるんだ、ユリシーズ)

 幼い頃から友人は同年代の誰より才に抜きん出ていた。海軍でも誰より早く少尉になり、中尉になり、異例の若さで提督にまで上りつめて。
 いつも、いつも、彼がいたから安心できた。未来に希望を感じられた。

(あいつのおかげで俺みたいな半端者も上手くやっていけたんだ)

 いつだってユリシーズはレドリーに手を差し伸べてくれた。彼ほど優秀ではない己は彼の隣に立てることだけが勲章だった。
 海軍は多分もう戦えない。十人委員会が指令を出せても、騙し騙しなんとか持ち堪えたとしても。戦場で踏ん張るためにはそうしなければと皆に思わせる誰かが絶対に必要だから。
 アルフレッドが奪ったのはそういうものだ。アクアレイアに掲げられていた旗をあいつは無残に折ったのだ。
 許せない。女帝やラオタオがどう止めてもこの罪だけは償わせねば。

(もっとちゃんとユリシーズに教えておけば良かった。アルフレッドは昔から人の取り分を奪おうとするんだって)

 子供の頃から溜め込んできた鬱憤が甦る。あいつが家を訪れるようになって父は変わった。アルフレッドとレドリーを比べては秘かに嘆息した。
 ウォード家の鷹紋が入ったバスタードソードも知らない間にあいつのものになっていた。いつか己が腰に帯びるはずだったのに。
 もっとちゃんとあいつのやり方を伝えていれば、気をつけるんだと聞かせていれば、ユリシーズとて警戒を強めていたに違いないのだ。あんな男と二人で会うなど考えもしなかったはずなのだ。

(許せねえ……)

 船首に突っ立っているうちにゴンドラは大運河を上り始める。船尾の漕ぎ手が深々と波間に櫂をくぐらせれば一行は英雄の落ちた塔を横切る。
 明日はドナに、よりによって防衛隊の連中を送っていかねばならないらしい。帝国の要望とあらば拒絶できない情けなさに憎悪はなお燃え盛った。
 海軍などもう辞めてしまってもいいのかもしれない。
 だがその前にあの従弟の死だけはこの目で見届ける。
 もはや口もきけなくなった哀れな友人のために。絶対に。









(20191211)