どうしてと問うと男は悲しげに目を伏せた。
 若草色の双眸が瞼に半ば隠される。少しして顔を上げるとユリシーズは隣席に座すアルフレッドを見つめ返した。

「わからないのか」

 そうだろうなと嘲笑う声は乾いて喉に張りついている。暗い酒場で、いつものようにカウンターで腰を下ろして待っていてくれたのに、ユリシーズは酒を注ごうともしなかった。

「わからなくてもそのうちわかるようになる」

 確信めいた言葉の響きに戸惑いが増す。「最後までわからなくても構わないんだ」と白銀の騎士は続けた。だがその笑みは時折彼が浮かべていた幼い笑顔とかけ離れている。
 深い嘆きが、怒りと混然一体となった悲しみが、青ざめた頬に、強張った唇に、暗い光を灯す瞳に宿っていた。
 取り落としたものをなんとか拾い直そうとアルフレッドは彼を見つめる。

「人生かけて手に入れたもの、すべて捧げても惜しくなかった。それだけだ」

 謎かけのような返答。ユリシーズはもうこちらを見ず、カウンターに残った脚付きグラスを眺めている。
 沼は干上がると悪疫を撒き散らす。なら酒は、飲み干した後に何を放ったのだろう。

「あの女は私と夫婦になると言ったし、お前は私と同じ杯で酒を飲んでくれたのにな」

 ぽつりと独白めいた呟き。
 空の酒杯は最後に使ったままだった。赤い雫はとうに乾ききっていた。
 ゆっくりとユリシーズが立ち上がる。白いマントを翻して。

「どちらが悪い? 一瞬を永遠だと勘違いした人間か、それとも勘違いさせた人間か」

 問いかけに答えられない。空気が喉を絞めるように重くまとわりついてきてどうしても声を出せない。
 何か言わねばならないのに。立ち去ろうとする彼をまだここに引き留めねばならないのに。

「死期が近づくと死者の姿が見えるようになるそうだ」

 無人の酒場を出て行く直前、一度だけユリシーズが振り返った。
 白銀の騎士が告げる。夜の深い闇に飲まれ、頭の見えなくなった騎士が。

「……また会おう。近いうちに」

 ユリシーズは笑っていた。怒りも嘆きも親愛も執着もすべて入り混じる笑みだった。
 音もなく酒場の扉が開かれる。身体が鉛のごとくに重く、腕を伸ばすこともできずにいる間に騎士は暗がりへ消えていく。
 ゴーン、ゴーン、と鐘の音がこだました。
 それで本当に最後だった。



 ******



 目覚めると夢の中よりもっと暗い場所にいた。頭を横に傾けようとしただけなのに、全身に激痛が走って思わずうめき声を上げる。
 縮こまり、痛みが引くのを待つ間に感じたのは寝床の硬さと肌を刺す冷気。うっすらと目を開き、アルフレッドは澱んだ闇に目を凝らした。
 どこだろう。答えは間もなく導き出される。どうにか下ろした爪先が石床に残っていた水溜まりに触れたから。鉄格子の鈍い反射も目に入った。ああここはレーギア宮の半地下牢かとわかるまでにさほど時間は要さなかった。

「起きたのか?」

 誰かに声をかけられる。返事をしようとしたらゲホゴホ咳き込んだ。
 手には何やら黒っぽい塊が付着する。乾いた血が喉に詰まっていたらしい。

「起きたなら尋問室に移動しろ」

 ランタンを掲げて近づいてきたのは神殿騎士らしき青年だった。なぜ海軍と関わりのない独立部隊がと不思議に思うが特に説明はなされない。牢獄の鍵を開く看守は最低限の会話しかしたくなさそうだった。

「来い」

 ふらつく足に力をこめ、一歩ずつ前へ進む。肩にかかっていた布がはらりと落ちたが拾い上げる余裕もない。
 波が入ってくるせいで湿った足元がぴちゃぴちゃと音を立てた。神殿騎士はアルフレッドを先に歩かせ、自分はすぐ後に続いた。
 視界にはほとんど光が入ってこない。窓とも呼べぬ小さな穴からささやかな日差しの恵みがあるだけだ。鳥の鳴き声が聞こえるから今は六時くらいだろうか。夢の終わりに響いた鐘の音から察するに、鐘撞き人の朝の知らせは済んだ後らしかった。
 通路の突き当たりまで来ると監獄塔の螺旋階段を上っていく。二階の景色は見覚えがあった。並ぶ独房。その奥に尋問室。ハイランバオスと共謀した疑いで防衛隊が取り調べを受けたとき連れてこられた場所だった。

「ここで待て」

 指示だけ与えて神殿騎士は扉を閉ざす。小会議室と似た造りの小さな部屋にぽつんと一人取り残され、アルフレッドは重い息をついた。
 昨日起こった出来事を順に思い返していく。己の愚かさが招いた取り返しのつかぬ事態を。
 こびりついて離れない。横たわる騎士の死体。彼の遺した最後の言葉。

(ユリシーズ……)

 と、コンコンとノックの音がしてアルフレッドはびくりと肩を跳ねさせた。返事をする前に尋問室の扉が開き、ランタンを手に十人委員会の面々が入ってくる。

「待たせたのう」

 最初にこちらを見やったのはニコラス老だ。窓のない暗い部屋の、中央の壇を囲む机に一人ずつ着席する。カイルにエイハブ、トリスタン老にドジソンにクララ、元コリフォ島基地司令官であるトレヴァーや、療養院での語学指導を依頼してきたドミニク、それから伯父のブラッドリー。
 何度見ても人数は九人だった。不自然に一つだけできた空席がそこにいない男のことを強烈に意識させる。

「まあ座りなさい」

 余ったその椅子が壇上に回されたが腰かける気にはなれなかった。首を振るアルフレッドに探るような一瞥を投げ、ニコラス・ファーマーが嘆息する。

「……何があったか聞かせてくれるか?」

 捜査の権限は海軍から十人委員会に移ったらしい。昨日のことを洗いざらい打ち明けろと端的に要求される。
 けれど何をどう言えばいいかなどわからなかった。己の不徳ならいくらでも白状するが、蟲の話をどう避ければルディアに迷惑をかけずに済むのか。

「…………」

 必然的に押し黙ることになり、アルフレッドは小さくうつむく。委員会からの心証はそれで一気に悪化した。
 尋問室の空気が重くなっていく。誰もまだ隣の者と囁き合ってもいないのに疑惑が色濃くなったと伝わる。

「アルフレッド」

 伯父の急かす声がつらい。喋らねばどんどん立場が悪くなるぞと案じる声が。
 だが顔は上げられなかった。語れることはあまりにも少なかった。

「……大鐘楼でユリシーズと会う約束をしていたのは事実です」

 小さく呟く。レドリーにもそれだけは言った。待ち合わせの目的もどんな話をしたかも言えなかったけれど。
 相手が十人委員会であろうと同じだった。なかなか二の句を継ごうとしないこちらに焦れてニコラスが「殺したのかね?」と切り込んでくる。

「……話をしているうちに彼が剣を抜き、戦闘状態にはなりましたが……」

 こちらから攻撃はしていない、彼は自分で落ちていった。そう説明することは卑怯でないかという気がした。取りやめたにせよ恐ろしい計画を練っていたのは確かなのだ。
 直接手を下したわけでなくとも潔白とは言いがたい。自己弁護する資格など到底あるとは思えなかった。

「…………」

 再び黙り込んだアルフレッドに委員会の面々が困惑気味に目を見合わせる。しばらくするとニコラスが「なぜ剣を抜くような流れに?」と聞いた。

「それは……」

 本当に、どう答えればいいのか皆目見当もつかない。ブルーノ・ブルータスを罠にかけようとしたと言えばそれもなぜと問われるだろう。部隊内部で色々あったのだと言えばそれもなぜと。どうしたって最後は蟲の話になる。
 一つ虚偽を口にすればすぐに収拾不可能になるのは間違いない。やはり黙るしかなかった。必死の形相のブラッドリーに「話してくれ」と懇願されても。

「……防衛隊の誰かに会わせてはもらえませんか?」

 思い切って尋ねてみたが、ニコラスには首を振られる。老賢人は「おぬしが我々に真実を打ち明け、無実を証明してからじゃ」と当然のひと言を返した。

「証明できなかった場合、俺はどうなるんでしょう?」

 この問いにはニコラスのほうが真顔になって口を閉ざす。短い沈黙ののちに彼は重々しく首を振った。

「……民衆がおぬしをどう思うかわかるじゃろう? 極刑は免れんよ」

 その可能性を考えていなかったわけではないが、はっきり口にされると存外大きな衝撃を受けるものらしい。「そうですか」とだけ答えるとアルフレッドは質問に応じるのをやめた。
 何か言えばルディアや皆に不利益を招くかもしれない。こうなった以上誰も巻き込まないようにするのが己に尽くせる唯一の手立てだった。
 心の中で主君に詫びる。至らぬ騎士ですまないと。



 ******



 暗澹たる心地でブラッドリーは甥っ子を見送った。二時間粘って結局一つも話さなかったも同然の。
 白けた顔の神殿騎士がアルフレッドを連れて尋問室を後にする。中でどんなやり取りをしたか聞いておらずとも委員たちの表情を見れば思わしくない聴取だったのは読み取れたに違いない。

 ――何も喋る気がないのか?
 ――ブルーノかモモかレイモンドかアイリーンになら。

 それが最後の受け答えだった。パタンと扉が閉ざされた後、誰からともなく溜め息が漏れる。

「……彼がやったのだと思うかね?」
「そういう感じはしなかったがな」
「極刑と聞いてもだんまりなんて相当だぞ」
「誰かを庇っているんじゃないか?」

 ざわめきを静めたのはニコラスだった。老賢人はかぶりを振り、「もはや彼が黒か白かは関係ない」と断言する。

「最初の取り調べで明確に供述を拒んだのだ。民は彼こそ犯人だと考えるし、この印象は覆せまい。酌量するべき事情があるならせめて今日明らかにせねばならなかった」

 有罪判決じみた台詞に、気遣わしげな皆の視線に、ブラッドリーは深く椅子に沈み込む。「頼むから話してくれ」「お前の犯行だとしても弁解の余地はあるのだぞ」と何度乞うてもすまなさそうに目を伏せるだけだったアルフレッドを思い出して。

「可愛い甥御かもしれんが、お前さんも肩入れのしすぎは禁物じゃぞ。民衆の過熱は抑えられんし、怒りを制御するためにはぶつける的が必要じゃ」

 賢明な忠告にブラッドリーは力なく項垂れる。
 たとえ諍いがあったにせよあの子は故意に人を傷つけるような人間ではない。そんなことを主張したところでもう意味もなさそうだった。
 混乱を収めるには犯人が必要だ。ブラッドリーとてわかっている。

(なぜこんなことになった?)

 悪い夢でも見ている気分だ。まだ現状を信じられない。
 アルフレッドは、あの子はいい騎士になれるはずだったのに。本当に優れた騎士に。

(なぜ何も打ち明けてくれない?)

 辛抱強く抱え込みがちな子ではあった。こうと決めたら最後までやり遂げる意志の持ち主では。だがそれがこんな形で裏目に出ずともいいではないか。

「一応彼の家族にも話くらいは聞いておくか」

 取り調べの範囲を少しだけ広げることが告げられる。今のままではさすがに情報が少なすぎて判決を下せないからと。
 時間を置いて本人に当たってみようとは誰も言わない。聞き直す意味もないと決めつけてしまっている。ただ一度黙秘したというそれだけで。
 アルフレッドが犯人に仕立て上げられるのはもうほとんど間違いなかった。彼までがユリシーズと同じ冥府に引きずられていくことは。



 ******



 ニコラスが帰宅したのは午前九時を少し回った頃だった。気を揉みながら朝を迎え、騎士は事件に一切関係なかったとの知らせを心待ちにしていたのに、老人の第一声はルディアたちの期待をあっさり打ち砕いた。

「黙秘しておる。防衛隊の誰かにでなければ何も話したくない、とな」

 あまりのことに声を失う。「お手上げじゃよ」と肩をすくめたニコラスは暗にアルフレッドを救うのは諦めろと告げていた。

(も、黙秘だと?)

 愕然とルディアは身を固まらせる。
 それでは騎士は捜査に協力しなかったということか。自分に疑いがかかっているのを承知の上で、なお沈黙を貫いたと。

「一応聞くが、諸君らは何も知らないのだね?」
「え、ええ。我々は」

 なんとかルディアが答えると老人はふうと嘆息する。「では今後も何も知らぬ存ぜぬで通しなさい」との指示を受け、一同はごくりと息を飲み込んだ。

「あの、アルの奴、ほんとに黙ってたんですか?」

 なんでという顔で槍兵が老人に詰め寄る。だが賢人の頭は横に振られただけだった。
 ニコラスはラオタオから騎士の身柄を引き渡され、今朝改めて十人委員会による事情聴取を行ったと言う。アルフレッドは何も喋らぬなら死罪になるぞと突きつけられても黙して語らなかったそうだ。
 わかったのは彼がユリシーズと会う約束をしていたという一事のみ。そこで戦闘状態になったのは確からしい。ユリシーズが腰の剣を抜いたことは。

「…………」

 ルディアはそっと額を押さえた。正直頭がついていかなかった。あまりにも状況が見えなさすぎて。
 口もきけない己の横でモモがついと顔を上げる。

「モモがアル兄に面会ってできないの?」

 恐れ知らずの斧兵はニコラスにそう問うた。同じ部隊の人間でも身内だからで押し通せば印刷業の足を引っ張りはしないだろうと。
 しかし老人は首を縦には振ってくれない。「罪状を考えれば誰との接触も許可できん」と言い切られて話は終わった。

「ひとまず海軍は十人委員会の指揮下に入ったから、ドナ行きの船は出せる。おぬしらも外を歩いて構わんぞ。くれぐれも悪目立ちはせんようにな」

 続いてニコラスは防衛隊の外出禁止令を解く。斧兵には「後で聴取を受けてもらうからブラッドリーの家にいるように」と追加のお達しがあった。
 十人委員会はこれからユリシーズの国葬準備を始めるそうだ。せめて英雄に相応しい弔いをせねば民が慰められまいと彼は言う。
 足早に部屋を去る前に老賢人は今一度レイモンドに説きつけた。

「良いか? くれぐれも罪人を庇い立てしてくれるなよ。せめて中立でいようなどと試みることもしてはならん。アクアレイアを立て直したいと思うなら、おぬしは絶対に嵐の外側にいるのだ……!」

 鬼気迫る表情で念押しされ、槍兵は「は、はい」と震える声で答える。既に夜のうちに彼の相方は号外を刷るべく工房へ戻っていた。センセーショナルに書き立てられた記事の内容を思い返すとルディアの胸も暗く塞ぐ。
 ニコラスはレイモンドの返事を聞くと出て行った。後には押し黙るしかないルディアたちだけが残された。

「…………」

 呆然とする槍兵と、顔をしかめる斧兵と、静かに目を見合わせる。
 黙秘した。防衛隊の誰かでなければ何も話せないと言った。アルフレッドの発言の意味するところは明白だ。

「……黙っているのは蟲が絡んでいるせいだろうな」

 異論反論は出てこない。二人とも苦々しく唇を噛んでいる。
 アクアレイアの蟲についてか、はたまたジーアンの蟲についてか。断定するのは不可能だが、療養院や帝国幹部と関わり深いユリシーズなら何か違和感を覚えていてもおかしくなかった。あるいは蟲そのものを目にする機会があったとしても。

「アルフレッドはおそらく無罪を証明できない。モモ、お前も調査官には何も知らないと答えろ」

 余計なことは口にしないほうがいいとの見解に少女は「わかった」と頷いた。まったくもう、とモモは盛大に溜め息を吐き散らす。

「会って話せないんじゃとりあえず今できることないよね? ママたちが心配だし、モモ伯父さんち行っていい? そこにかかってる黒いケープ借りてって大丈夫かな?」

 ぶかぶかの防寒着を目深に被る斧兵に「ああ、気をつけてな」と応じた。

「私は一度モリスの家に寄る。アイリーンと落ち合って療養院と宮殿にも顔を出しておくよ」
「うん、了解。レイモンドは?」

 問いかけられた槍兵はえっと一瞬喉をつまらせた。動揺を隠しきれない彼にルディアはなるべく優しい声で彼のなすべきことを告げる。

「お前は印刷工房で極力いつも通りに過ごせ。……つらいだろうが、今はそうする以外ない」

 酷いことを言っている。そんなことはわかっていた。
 だがほかに取れる手はないのだ。アクアレイアに生きるすべての人間のために、どうあってもレイモンドだけは守らねばならない。
 アルフレッドを今すぐなんとかしてやることは不可能だった。表に出てきた話のすべてが悪すぎて。

「……行こう。そのうち何か取れる方策が見つかるはずだ」

 立ち尽くす恋人の肩に手を添えた。ひと足先にモモは階段を下りていく。
 歩き出してもレイモンドの額は青いままだった。
「大丈夫だよな?」との不安げな問いに答えることはできなかった。



 ******



 内側に入ってしまえば重い苦悩など消えてなくなると思っていた。
 こんなに苦しい「お前だけは例外だ」を告げられることになるなんて。
 言われるがまま戻ってきた印刷工房でレイモンドは胸の痛みをやり過ごす。
 植字工も印刷工も今朝はとびきり忙しそうに仕事場を駆け回っていた。号外はとうに刷り終わり、インクもほぼほぼ乾いたらしく、束を受け取った販売員が次々と国民広場に飛び出していく。
 己の手にも「レイモンドさんも一部どうぞ」と渡された『ゴールドワーカー・タイムス』があった。息をつめ、記事に目を走らせる。
 パーキンが面白おかしく書きまくると宣言していた割に文章はちゃんとしたものだった。きっと真面目な学生植字工に「亡くなったのがどなたかわかっているんです?」と叱られでもしたのだろう。
 だが終始崩れぬ文面は事件を面白がるよりずっとアルフレッドを冷たく突き放していた。幼馴染の人となりなどどこにも記載されていない。彼が人殺しの罪を犯すなど有り得ないことだとは。

(くそ……っ!)

 会ってもいけない。庇ってもいけない。無関係を装えというニコラスの声が甦って苦しくなる。さんざん助けてもらった恩を返すなら今だろうと思うのに、何もしてはいけないなんて。

 ――アクアレイアの希望と呼べる存在はおぬし一人になってしまった。
 ――できるだけ他人事として扱うんだ。

 ニコラスやルディアの言うこともわかるから尚更心が引き裂かれそうだった。
 感情任せにアルフレッドの弁護に立てばどんな反発があるか知れない。集団はすぐ不快な異分子を弾き出そうとするものだ。たとえそれが全体を台無しにする選択であったとしても。

(アル……)

 獄中の幼馴染を思って拳を握りしめた。
 己まで民衆の恨みを買えばアクアレイアは本当に迷子になる。なんのために大金を稼いで故郷に戻ってきたのだと言い聞かせる。

(姫様……)

 わかっているつもりだった。ルディアが身を置いている世界。
 わかっているつもりになっていただけだった。金さえあればそこの仲間入りできるのだろうと。
 何もわかっていなかった。
 これが彼女と生きるということなのだ。
 こんな決断の連続が。



 ******



 なんだってこんなこそこそ泥棒みたいに歩かなければならないのだ。くそ、くそ、アル兄のバーカ。
 胸中で毒づきながらモモは水路沿いの暗く細い道を行く。まっすぐ伯父の家を目指しても良かったが、やはり気になって自宅の様子を見てきたのがさっきのことだ。
 何も悪くない薬局は押しかけた暇人どもに玄関を破られそうになっていて、慌ててその場を退散した。あれは確実に店の棚や中庭のハーブも無事では済むまい。通報が間に合えばいいのだが。
 嘆息とともに肩を落とす。本当にどこまでも運気の好転せぬ兄だ。これからも騎士としてルディアに仕えると決めたそうだと聞いたときは、やっと元気になってくれるなと胸を撫で下ろしたのに。
 どういう経緯でユリシーズと会う約束などするに至ったのか、どうして剣で斬り合う事態になったのか、さっぱり推測できなかった。会って話ができれば聞き出せそうだけれど、一体どうすればいいのだか。

(部隊の中で会えるチャンスあるとしたらモモだけだと思うんだよねえ)

 レイモンドとルディアに危ない橋を渡らせるわけにはいかない。アイリーンでは不安があるし、やはり己しかいないだろう。
 覚悟はできているもののアルフレッドに会う方法は一つも思いつかなかった。家族でさえ面会を断られるなら見張りの兵士と十人委員会くらいしか兄に会うのは不可能なのではなかろうか。

(伯父さんに頼んでみる? でも多分二人にはさせてくれないだろうしなあ)

 そんなことを考えながら裏道を抜けていくとウォード家の屋敷に到着した。
 いつ来ても大きな家だ。四階まで全部一家の邸宅だし、中庭には小さな井戸までついている。勝手口――つまり運河に面していないほうの入口をコンコン叩くとモモは誰かが気づいてくれるのを待った。

「あっ! 良かった、入って入って」

 名前は呼ばずに従兄弟の一人がこちらを中に入れてくれる。ブラッドリーに似ていない紫髪の次男坊だ。「兄貴は海軍のほう行ってんだけど、帰ってきても顔合わせないように気をつけてね。有り得ねえレベルで気が立ってるから」と教わって思わずうへえと顔を歪めた。
 そうだった。レドリーはユリシーズと幼馴染なのだった。なんてややこしい人間関係だろう。

「モモ!」

 通された客間には母ローズと次兄アンブローズの姿があった。心配していたらしい二人に「良かった」と駆け寄られる。

「無事だったんだな。昨夜はどこに?」
「ニコラス・ファーマーさんのおうちだよ。取り調べがあるからって言われてこっち来たの。後で十人委員会から調査官が派遣されてくると思う」

 モモが告げると次兄は露骨に表情を曇らせた。「そうだよな、そりゃ僕たちも捜査されるよな」と不安げに固まってしまう。
 鋼鉄の薔薇の異名を持つ母のほうは堂々としたものだった。「アルフレッドのことは何か聞いた?」と問われてとりあえず聞き知った情報は打ち明ける。
 ユリシーズと戦ったのは事実らしいこと、たまたま鉢合わせたわけではなく待ち合わせしていたらしいことを伝えるとアンブローズが息を飲んだ。

「あ、あのさあ……」

 次兄は頬を引きつらせて「兄さんずっとおかしかったよな?」と問うてくる。「あー、うん、失恋したっぽいからねー」と返せば薄々勘付いていたと思しき母も「ああ、やっぱりそういうことだったの」と納得した様子を見せた。

「しょ、しょっちゅう朝帰りしてたの二人は知ってた?」
「えっ!?」

 この問いには母娘二人で驚愕する。アンブローズによれば八月の半ば頃からアルフレッドは飲み明かして帰宅する日が増えたそうで、ほかの者には黙っていてくれと頼まれていたとのことだ。

「あの、今思い返したら、あれユリシーズさんと会ってたんじゃないかなって……」
「は、はあー!?」

 予想外のところから予想外の話が出てきてモモは目を瞬かせた。
 いやいや、それはないだろう。ユリシーズがルディアの政敵だということはアルフレッドとて百も承知だ。会っていたなら主君に知らせぬはずがない。

「そ、それはアン兄の考えすぎじゃない?」

 首を振ると次兄は「でもさ」と食い下がった。この不景気で酒の値段は高騰している。給与の減ったアルフレッドがそれでも毎日飲めていたのは金持ちの奢りだったからではともっともらしい仮説が語られた。

「は? っていうか毎日って何?」
「ええと、それはここ一ケ月くらいの話で」
「はあー!?」

 アンブローズは特にこの二日はおかしいを通り越して怖かったと打ち明ける。一週間ほど機嫌のいい日が続いたと思ったら装備品は放り出すし、昼過ぎまで起きてこないし、挙句にロマまで訪ねてくるしと。

「待って、待って、整理させて」

 モモは真剣に頭を抱えた。何がなんやらわからなかった。
 駄目だ、これは、本当に。どうにかして会って話をしなければ。

(アル兄ほんとに何やってんの!? 本物の馬鹿なの!?)

 次兄の話を一つ一つ噛み砕きながらうーんうーんとモモは唸った。
 アルフレッドの無罪を証明するための道は濃い霧に包まれる一方だった。



 ******



 どんな逆風吹く中でも助け船が来てくれることはあるらしい。辻ゴンドラに頼んでルディアが孤島のガラス工房へ向かうと意外な客が訪れていた。

「カ、カロ!?」

 思わず彼の名前を叫べば長身のロマが振り返る。ルディアを見やってカロも一瞬気まずそうな顔をした。
 諦めてくれたとはいえ一年前には命を狙われるほど憎まれた相手だ。どんな挨拶をされるやらとつい身構えてしまう。
 が、こちらの緊張に反してロマは以前の彼と変わらなかった。いつものあの淡々とした口ぶりで、いつも通りにルディアに呼びかけてくる。

「なんだか厄介なことになっているらしいな」

 アイリーンから聞いたぞと彼が言うので「あ、ああ」と頷いた。レンガ積みの溶鉱炉に火を入れようとしていたガラス工も、ガラス工の手伝いをしようとしていた生物学者も、白猫と一緒にこちらを見上げる。
 カロが今までどうしていたかも知りたいが、今はこの突発事態の情報交換が優先だ。ルディアはひとまずアイリーンに街の様子はどうだったのか尋ねる。すると彼女は人々がアルフレッドを疑ってかかっていること、騎士が不可解な行動を取っていたことについて教えてくれた。

「そうか。こっちもニコラスから取り調べの結果は聞いたが、どうも思わしくなくてな」

 十人委員会の老人の話は彼らにもそのまま伝えた。おそらく脳蟲が関わっているという己の見立ても。

「なんとまあ、脳蟲がか。そりゃいかん」
「な、何も話せないはずだわねえ」
「フニャアー!」

 モリスもアイリーンもブルーノもカロも一様に顔をしかめる。騎士が破局に向かっているのは誰の目にも明らかだった。

「このまま黙秘を続ければ有罪判決を受けるのは間違いない。アルフレッドの身柄は十人委員会が預かっているそうだから、海軍に暴行を加えられる可能性はなくなったが……」

 ルディアは重い息をつく。言い渡されるのが死刑では元も子もない。誰とも面会できないということは騎士の罪状はきっと国家反逆罪なのだ。軍と政府のトップにいた男を殺したのだから、そう処理されて当然だった。

「どうにかしてアルフレッドと話す手段を見つけねばならん。入れ知恵なしで立ち回るにはあいつは正直すぎるだろう」

 苦々しく眉を寄せる。モリスたちは言葉もない。アルフレッドの性格をよく知る者ほど彼がまったく不向きな戦場に放り出されたのを痛感していた。
 憂いと心痛の重苦しさは増大する一方だ。そうしたら黙って聞いていたロマが「アルフレッドはどの牢に入れられたんだ?」と尋ねてきた。

「政治犯扱いだし、宮殿の半地下牢にいると思う。それがどうした?」
「半地下牢か。だったら抜け道があるんじゃないか?」

 この発言に「えっ?」「あっ!」と声が上がる。思いがけない光明にルディアも大きく目を瞠った。
 そうか、抜け道。その手があったか。

「隠し通路が牢獄と繋がっていないとは考えにくい。あれは王族が困ったときに使うための代物だしな」

 言うが早くカロは玄関へと歩き出す。「多分見つかる。今日中に探しておいてやる」との申し出に「あ、ありがとう!」とルディアは声を上擦らせた。
 戻ってきてくれただけでも十分なほどなのに、こんな風に手まで差し伸べてくれるなんて。感謝の念が胸に満ちる。

「礼はいい。娘の役に立ちたいとこいつが張り切っているだけだ」

 照れ隠しなのかなんなのか、よくわからないことをぼやいてカロは斜め上を見上げた。すぐに行ってくると言う彼にもう一度謝意を述べる。

「本当に助かる。この借りは後で必ず」
「だからいいと言っているだろう。俺もジェレムもあの男には世話になった。お前が気にすることじゃない」

 色褪せた薄いコートを翻し、ロマは工房を後にした。
 半地下牢は満潮時には膝下まで浸水する。慣例的にその時間は看守も上階に引き揚げるはずだった。

(まだなんとかなるかもしれん。アルフレッドに事情を聞いて、どういう風に陳情するのが最善か伝えられれば)

 窓辺に立ち、頼んだぞとゴンドラを漕ぐカロを見送る。
 己も行かねばならなかった。次の一手を進めるために。
 アクアレイアの王女として、あの人の娘として、この国を守るために。



 ******



 決断とは非常な勇気を必要とする行いだ。だがそれがどんなに恐ろしかろうとも決断から逃れられる生はない。結局は何か選び取らなくてはならないし、選べば腹を決めてしまわねばならないのだろう。

「……というわけで本島は今ゴタついている。ドナ行きの船は出るそうだからお前たちは乗船の最終準備をしておいてくれ」

 剣士のふりをしたお姫様は療養院の患者たちに簡単にアクアレイアの現状を説明した。昨夜はずっと変な鐘が鳴っているし、今日はシルヴィアもまだ姿を見せていないし、何かあったのだろうなとは思っていたが。

(ユリシーズ・リリエンソールが死んだなんて一大事じゃん)

 マルコムは息を飲み、シルヴィアがいつも自慢していた海軍提督の武勇伝を思い返す。記憶のない己でさえなんてことだと陰鬱な気分になるのに、普通のアクアレイア人がどれほど深く英雄の死を嘆いているかは推し測りきれぬものがあった。

「今日はもう、ここはお前たちに任せるぞ」

 言ってルディアは慌ただしく療養院を去っていく。いつもなら患者のもとに残してくれるブルーノとアイリーンまで連れて行ったから本当に大変らしい。
 談話室に集まった蟲たちは常ならぬ彼女の様子に皆不安そうだった。ドナへ向かう直前に部隊の隊長が捕まるなんて大丈夫かと言う表情だ。オーベドなど正直な性分だから早くも懸念を訴え始める。

「お、俺たちまで妙なことにならねえよな? 巻き添え食ったりしねえよな?」

 もう少し言動には気をつけてくれればいいものを。彼は自分と同じ気持ちの仲間を増やそうと無意識に働きかける悪癖があって困る。
 マルコムは「オーベド」と叱るように呼びかけた。
 皆まだ生まれて間もない生物なのだと共通認識ができてから、子供だからと意見を軽んじられることはなくなった。むしろ今は己が患者の中心に立つ機会が増えている。

「俺たちが巻き添え食らわないように立ち回ってくれてんだよ。そんな言い方するなって」

 苦言すればオーベドは大人しく「う、わかった」と引っ込んだ。どれくらいわかったのかは怪しいところだったけれど。
 寄る辺のない自分たちは安全な道を歩めているかすぐに心配になってしまう。そこをシルヴィアにつけ込まれ、彼女の操り人形になったのだ。
 ルディアについていくことも多分大きくは変わらない。選び直した寄生先が当たりか外れか、違いはおそらくそれだけだから。
 だがあの王女はできるだけ公正であろうとしてくれる。シルヴィアのように意のままにこちらを動かそうとするのでなく、マルコムたちがどんな存在で、何ができるか教えてくれた。だからきっとついていく意味はある。

「俺たちはあの人に運命託すって決めたんだ。言われた通り船に乗る支度して待ってよう」

 決断とは非常な勇気を必要とする行いだ。一度選べば腹を決めてしまわねばならない。怖くないと言えば嘘だった。それでも依って立つ場所を勝ち取りに行かねばならない。
 怯えずに生きていきたいなら。



 ******



 人質の交代を迫られると見越してアイリーンを連れて行ったのに、意外にもジーアン側からそういう要求は出てこなかった。
 中庭にでんと陣取る天幕群。その一番広い幕屋の奥に跪き、ルディアはやや疲れた顔の帝国幹部らを見上げる。

「新しい人質なんて要らないわよ! アルフレッドは無罪だし、すぐに牢から出てくるし、人質だってちゃんと続けられるんだから!」

 瞼を腫らしたアニークが女帝の威厳もへったくれもなく騒ぎ立てる。一睡もしていないのが明らかな目元の隈で、この調子で一晩騒がれ続けたなら十将も災難だったなと同情した。
 長椅子に腰かけたのはアニークとファンスウ。足元の絨毯には円を描くようダレエン、ウァーリ、偽ラオタオに偽預言者が膝を立てたり寝かせたり好きな格好で座っている。
 捜査の進展具合については特に何も聞かれなかった。あちらも十人委員会に探りを入れて情報を得ているのだろう。難しい状況だと知っているから女帝も荒れているのである。

「すまないな。こちらの監督不行き届きで」

 ルディアが詫びると複数の溜め息が返された。なんでもいいから早く事態を収拾してくれというアニークの眼差しも。

「アルフレッド君、なんで黙秘なんかしてるわけ?」

 ウァーリの問いに首を振る。

「まるでわからん。面会も無理と言われていてな。困り果てているところだ」

 脳蟲や抜け道の話はおくびにも出さず、渋面で肩をすくめた。「こっちの権限で会えるようにしましょうか?」と提案されるが丁重にお断りする。

「場を設けてもらえれば話は早いがアルフレッドを窮地に追いやることになる。『ジーアンや女帝から圧力がかかった』となれば憤る民も多かろう」

 別の手段を考えると答えたルディアに十将たちは沈黙した。こちらの行動に作為的なものがないか読み取ろうとする冷徹な目に晒される。

「アルフレッドはいつ釈放されるの?」

 と、緊迫した空気も読まずにアニークが問うた。彼女は彼女で必死な様子で「これなら不利な証言しかできずとも命は守ってもらえそうだな」と考える。
 アニークがいてくれて良かった。たとえ囚人に死罪が宣告されても刑が執行されるまでの抑止力になる者がいて。
 命さえあれば死刑台からでも生還できる可能性はある。ユリシーズとて首に刃がかかっていたのだ。やってやれないことはない。

「正直今はなんとも言えない。アルフレッドに何があったのか知りようもない状態だからな。だがドナに送り出す小間使いなら用意できているからそちらは安心してくれ」

 ルディアが偽ラオタオに目を向けると女帝は「今そんなことどうだっていいわよ!」と吠えた。興奮しすぎてぼろぼろと涙を零す彼女の頬にファンスウがそっと手拭を押し当てる。情動激しい孫娘を持て余す祖父のように。
 前からそんな気はしていたが、ジーアンの蟲たちは一つの巨大な家族のようだ。部外者には冷酷になれるのに身内や恩人には甘い。
 ルディアが将の一人ならアニークなどとっくにノウァパトリアに帰している。アクアレイアにはこのうえない助けだが、帝国にとって彼女は余計な真似しかしていないのだから。
 こういう女を許して留めるくらいなのだ。ハイランバオスの裏切りは彼らをさぞかし傷つけたのに違いなかった。

「ふーん。小間使い出荷できるならゆりぴーの埋葬済んだらすぐに出よっか。アルフレッド君と海軍を引き離しておいたほうがアニーク陛下も安心なんじゃね?」

 と、偽ラオタオ――アンバーが出航予定日を告げてくる。葬儀は一日がかりだろうからドナに向かうのは明後日か。「わかった」とルディアは頷いた。
 ドナへ行けば、アクアレイアを離れれば、アンバーともゆっくり話せるはずである。蟲の入れ替え作戦を彼女にも手伝ってもらいたい。

「海軍ってアルフレッドに乱暴した人たちよね? しばらく帰さなくっていいわよ!」

 アニークは眉間に深いしわを刻んで大いなる怒りを表明した。ファンスウやウァーリ、ダレエンはルディアたちのやり取りを無言でじっと見つめている。
 女帝に注がれるそれと違い、偽ラオタオに向けられる眼差しは冷めていた。今はまだ気づかぬふりで立ち上がる。
 彼らの前に膝をつくのはそろそろしまいだ。必ずこの国を取り戻す。

「では明後日、昼前には患者たちを軍港へ連れて行く。アイリーン、療養院へ戻るぞ」
「え、ええ」

 人質にされずに済んでアイリーンは露骨にほっとした顔だった。幕屋を後にし、妙な難癖をつけられる前にさっさと宮殿を引き揚げる。
 ドナでの計画が上手く行くか否かにアクアレイアのすべてがかかっているのだ。目的を果たすまで一瞬たりとも気は抜けない。

「ニャアー! ニャアアー!」

 正門から広場へ出るとほどなく白猫が駆けてきた。妙に慌てふためいた彼の様子にルディアは「?」と首を傾げる。
 ブルーノには大鐘楼での現場検証を見守るように指示していた。嫌な予感に眉をしかめ、猫を抱き上げながら問う。

「どうした? 何があった?」

 答えはすぐに人々のどよめきによってもたらされた。
 そうしてルディアたちはまた騎士が処刑場に近づいたのを知ったのだった。



 ******



「バスタードソードから毒が出た? それは本当か?」

 愕然とブラッドリーは尋ね返す。
 国葬に関する打ち合わせが終わり、小会議室を出たところで入ってきた一報に十人委員会の面々は渋い顔で互いを見合った。
 アンディーン神殿に仕える忠実な騎士の話によれば、トリカブトと思しき毒が塗られていたのは鐘室に置き去りだった片手半剣のほうで、アルフレッドが所持していた装備品ではないらしい。だが加害者と被害者は女帝からまったく同じ剣を賜っていたらしく、どちらがどちらの武器と判定するのは難しいとのことだった。

「……そうか……」

 ほかに答えようもなくブラッドリーは拳を握って立ち尽くす。この話がどう広まるかなど簡単に想像がついた。
 アルフレッドの家は薬局を営んでいるのだ。毒物くらい簡単に入手できると思われる。剣は大鐘楼を降りる前にユリシーズのものと取り替えたに違いないと騒がれるに決まっていた。

(アルフレッド……)

 居ても立ってもいられなかった。どうあっても彼に一切を打ち明けさせねばならなかった。
 子供時代からずっと心にかけてきた甥っ子だ。ともすれば息子たちより将来を期待した。こんなところで、こんなことで失いたくない。

「ニコラス」

 振り返り、老人に呼びかけた声は我ながら痛ましかった。委員たちは静かに顔を背けて聞かぬふりをしてくれる。

「この一度だけじゃぞ」

 何がとはニコラスも口にしない。けれどそれで十分だった。ブラッドリーは急ぎ監獄塔へと向かった。




 カンテラを手に半地下へ下りる。見張り役の神殿騎士に一時休憩を命じるとブラッドリーはまっすぐに甥っ子のいる独房を目指した。
 よほど混み合っていなければ懲罰的な性格のあるこの牢に同時に二人以上の囚人が収監されることはない。暗闇と静寂、不快と孤独が半地下牢の友人だ。
 アルフレッドは足音に気づいて寝台に起き上がっていた。ぼんやりと浮かび上がる包帯の白に灯りをかざし、ブラッドリーは低い声で呼びかける。

「アルフレッド」

 伯父さん、と掠れ声。どう切り出せばいいか悩んで理論も筋道もないような言葉を並べ立てた。「剣から毒が」「お前の仕業でないなら早くそう言ってくれ」「私にお前を信じさせてくれ」と。
 アルフレッドは瞠目していた。「毒なんて出たんですか?」と純粋に驚く彼はやはり無実であるように思える。それなのに己がやったともやっていないとも決して口にしてくれない。

「このままでは計画的な殺人だったと見なされる。大罪人の汚名を着せられ、死の裁きを受けることになってしまう」

 哀切に訴えた。お願いだから話してくれと。
 だが彼は首を振る。名誉より、命より、大切なものがほかにあるとでも言うように。

「すみません……」

 どれだけ差し迫った状況かアルフレッドはわかっていないのではなかろうか。吹き荒れる邪推まみれの噂に対し、今すぐに反論せねばならないのに。
 もどかしさで、苛立ちで、ブラッドリーは思わず拳を振り上げた。
 甲高い金属音が響き渡る。鉄格子を殴りつけた手に痛みが走る。

「これが最後だ……! 何があったか話しなさい、アルフレッド!」

 激昂は意味をなさなかった。騎士はやはり何も言おうとしなかった。
 アルフレッドを叱ったことなどほとんどない。いつだって甥っ子は勤勉で、何に対しても誠実で、言いつけを破ったこともなかったから。
 この子がやったわけがないのだ。
 わかっているのに証明できない。

「すみません……」

 繰り返される謝罪に意気消沈し、ブラッドリーは項垂れた。
 全身から力が抜けてしまったようだ。できることは何もないのだと自覚してふらふら通路を後ずさりする。
 ユリシーズが恨めしかった。あんな死に方をした男が。
 彼ほどの男なら己が死ねばどんな波紋を呼ぶかわかっていたはずだ。だのに剣を抜いたなんて。
 階段を上っているのか下りているのか判然としないままブラッドリーは壁に手をついて歩き続けた。
 離れがたさと無力感にいつまでも足を取られたまま。






 そうかとぽつりひとりごちる。毒など塗られていたのかと。
 首を絞めるのに縄はあってもおかしくないが、毒では死体が使えなくなる。
 決裂したら殺すつもりでいたのだろうか。初めからそんな覚悟で。

 ――わからないのか。

 悲しげに伏せられた目を思い出す。眠りの中で見た彼の。
 わからないよ。何か間違えたのだとしか。

(汚名に死罪か。それはそうだな。そうなるに決まっている)

 死んだのはユリシーズなのだ。アクアレイアが失った英雄は。ただの殺人罪で終わるわけがない。

(ユリシーズ……)

 冷たい壁に身を委ねる。思い出せない酒の味を思い出そうと試みる。
 殺すつもりでいたのならなぜ途中で剣を放り出したのだろう。
 死ぬ必要はなかったろうに、なぜ墜落を選んだのか。
 私のことはどうなるんだと彼は尋ねた。お前にとって私はその程度だったのかと。
 己の何が彼を絶望させたのか、まだ答えには至らなかった。
 わかるのはただ自分がこれからどうなるかだけ。

 ――また会おう。近いうちに。

 ユリシーズの声がする。
 呼ばれている。彼が歩いていった先へ。
 きっと償わねばならない。間違えてしまった分だけ、きっと。









(20191205)