大鐘楼の鐘が鳴った。ガンガンと何度も何度もけたたましく、開戦でもしたかのごとく。
 異様に激しい音だった。ドナとヴラシィに攻め込まれたときでさえこれほど不安を掻き立てる音は耳にしなかったのではと思う。
 どこかで何か起きたらしい。異常を察してルディアは窓の外を見やる。
 既に日は落ち、街は闇の中だった。さっきまで赤かった西空もすっかり紺に染まっており、路地や運河に目を凝らしても窺えるものは何もない。

「変な鐘ね。どうしたのかしら?」

 背後の声に振り向くとアイリーンも首を伸ばして外の様子を気にかけていた。彼女の隣では夕食の皿をテーブルに並べるモモが「やだなあ、事故でもあったかなあ」と顔をしかめている。足元で毛繕いしていたブルーノも同じくだ。
 確かに妙な鐘だった。止める者を失ったようにその音はまだ続いていた。
 そう、普通なら数度も打てば何を知らせる鐘なのかわかる。何しろ大鐘楼の大鐘は五つもあって鳴らし方も決まっているのだ。それなのに今日の鐘撞き人は正しい鐘の撞き方がわからなくなってしまったようだ。

「…………」

 あまりに長く続く響きにルディアたちは目を見合わせる。まだレイモンドもアルフレッドも戻っていないし探しに出たほうがいいのではなかろうか。そう考えたときだった。ブルータス整髪店のすぐ裏に船室付きのゴンドラが停まるのが見えたのは。
 客が来たと判別できたのは桟橋からまっすぐにカンテラの灯が近づいてきたからだ。黒ローブの人影は迷いもせずに二階居住部の玄関へと上がってきた。
 間もなくコンコンと控えめなノックが響く。あまり良くない類の予感に腰のレイピアを掴みつつルディアは客人を出迎えた。

「在宅中で助かった。実はちと厄介な事態になってな。取り急ぎわしの家まで来てもらえんか?」

 現れたのは十人委員会の重鎮ニコラス・ファーマーだ。思いもよらぬ来訪にルディアがぱちくり瞬くと老人は「すぐ頼む」と強く腕を引いてくる。

「おぬしも、そこの斧兵たちも、何も言わずについてきてくれ。馬鹿者どもがこの店に踏み込むことを思いつく前に」

 ニコラスは何があったか説明しない。「とにかく早く」とこちらを急かすのみだった。
 鬼気迫る声にルディアはごくりと息を飲む。どうやらよほどの大問題が発生したようである。鐘の音はまだ止んでいない。それなのにニコラスが防衛隊を呼びにきた。であればおそらく我々にも関わりのあることなのだろう。

「何があったのです? 移動するならレイモンドとアルフレッドを待ちたいのですが」

 問うと老人は小さく首を横に振った。

「レイモンド・オルブライトとパーキン・ゴールドワーカーには迎えをやった。アルフレッド・ハートフィールドが戻ってくることはない」

 断言されて眉をしかめる。しかし考える猶予は与えられなかった。これ以上時間を浪費できないとばかりにニコラスは早足で外階段を下りていく。

「さっさとせい。でないとおぬしらを守れなくなる」

 状況は飲み込めないままだったが委員会の招集に応じないわけにいかない。「ひとまず行こう」とルディアはモモたちに呼びかけた。夕飯手つかずなのにと不服そうな斧兵と、弟猫を抱くアイリーンと、揃って桟橋へと向かう。
 一体何が起きたのだろう? 疑問は膨れ上がるばかりだ。
 以前一度乗せてもらったゴンドラはこじんまりした船室の扉を開いて待っていた。対面型のソファの一席に身を落ち着け、向かい合う老人を見やる。
 モモとアイリーンが乗り込むとただちに扉が閉ざされて、船頭がゴンドラを漕ぎ出した。鳴り響く鐘の下、舟は暗い水路を進む。

「モモたちになんのご用? パンがカチカチになる前に帰れる?」

 腹を空かせているらしい少女が渋面で老人に尋ねた。ニコラスは返答せず、代わりにそっと瞼を伏せる。
 重い、重い、重い嘆息。
 長い、長い、長い沈黙。
 それだけでただごとでないと知れる。

「……落ち着いて聞いてほしい」

 どれくらい経った頃だろう。痩せた手を組んでニコラスが言ったのは。
 そうして最初の激震がもたらされた。防衛隊発足以来、おそらく最大となる激震が。

「アルフレッド・ハートフィールドがユリシーズ・リリエンソール殺害容疑で捕まった」



 ******



 不測の事態というものは突然やって来るらしい。真っ白になった頭に最初に思い浮かんだのは「嘘だろう?」のひと言だった。だってあの騎士は超のつく真面目男で、人殺しなんて不徳はおろか盗みや恐喝とも無縁だ。どう考えても殺人の容疑者に挙げられるような人間ではない。
 死んだのがユリシーズというのも誤報ではないか疑った。あんな悪運の強い輩は滅多にいない。死刑台から生還したのは後にも先にも彼一人だ。今の彼の立場なら危険は極力避けるだろうし簡単に殺されそうにも思えなかった。
 だがニコラスは海軍がアルフレッドを現行犯逮捕したと言う。信じがたいが現場にいたのは事実らしい。それにしたっておかしな話だ。自分はついさっきまで――完全に日が暮れる少し前まで彼と一緒にいたのだから。




 ここでは詳しく話せないと言う老人に従ってルディアたちは大運河に面する古い館の裏口に降り立った。足音を忍ばせてこそこそとファーマー邸の三階に上がる。キャンバスと石膏像の並ぶ絵画室、整然とした書斎を抜ければ誰かの私室と思しき一室に辿り着く。ドアを開くと不安げな顔の先客たちが所在なく寝台の前に突っ立っていた。

「あっブルーノ! モモさんとアイリーンと猫ちゃんも!」
「良かった、とりあえず合流できて」

 レイモンドもパーキンも無事の再会にほっと安堵の息をつく。一瞬緩んだ頬はしかし、最後に入室したニコラスに気づいて再び固まった。
 二人とも連れてこられた理由については聞き及んでいるようだ。印刷技師がもみあげをひくつかせながら老賢人に問いかける。

「あの、マジなんすか? 隊長さんが海軍にお縄にされたって」

 問われたニコラスは「残念ながら本当じゃ」と骨ばった肩をすくめた。
 老いてなお鋭い目がルディアたちを順に見回す。困惑はしても取り乱した者がいないのを確かめてから老人は詳細の説明を始めた。

「わしもまだ全容を把握できているわけではないが、ユリシーズの遺体はこの目に見てきたよ。大鐘楼の一番上から落ちたらしい。酷い有り様じゃった」

 マントや鎧に白鳥の紋章がなければ誰かわからなかったかもしれないと彼は言う。頭が割れて、顔まで潰れて、正視に堪えぬ状態だったと。
 事件現場がどこであったか耳にしてルディアは思いきり目を瞠った。そこは最後に騎士と待ち合わせた場所だったから。

(巻き込まれたのか? たまたま近くにいたせいで?)

 アルフレッドが事件に関与していたとはルディアにはまだ考えられなかった。何か不運な取り違えが起きて誤解されたのだろうとしか。
 だからニコラスが「アルフレッドは大鐘楼から出てきたところを取り押さえられたそうじゃ」と言ったときもすべてが事実とは思わなかったし「大鐘楼はユリシーズの指示で人払いされていたようでの。二人はそこで密会していたと思われる」と続いたときも誰の話かしばらく悩んだほどだった。
 モモも、アイリーンも、ブルーノも、レイモンドもぽかんとしている。唯一パーキンだけは興味津々で聞いていたが、その態度に透けて見えるのは仲間を案じる心ではなく完全な野次馬根性だった。

「ともかく君らの隊長は海軍に連行された。今取り調べを受けていると思う。わしらもこれから臨時会議を行う予定じゃ」

 街に変事を告げる鐘は――十人委員会を呼ぶ鐘は――今も重く響いていた。それなのになぜかニコラスは動こうとしない。どう考えてもレーギア宮に急ぐべきなのに、まるでまだ大事な話が終わっていないという態度だ。
 否、ルディアにもわかっていた。事の真相がどうであれ非常にまずい展開になっているということは。このしたたかな老人が臨時会議より優先させたことが何かも。

「ユリシーズの死がアクアレイアにどんな混乱をもたらすか、おぬしたちには理解しておいてもらわねばならん」

 我々は英雄を喪ったと暗い声が呟いた。国の頭脳たる十人委員会の一員を、離散しかけた海軍を統率した提督を、人々の輝かしい希望をと。

「民衆は深く悲しむじゃろう。あることないこと噂が飛び交うのは間違いない。本当に殺しかどうかはっきりする前からな。二人とも女帝のサロンの常連で、一方は自由都市派、一方は再独立派だったんじゃ。事件を邪推する材料には事欠くまい」

 ニコラスの未来予想に皆一様に息を飲む。アルフレッドが窮地に立たされていることは誰の頭でも理解できたようだった。
 だが警告の真意まで読み取れたのはルディア一人だけだったらしい。「こんな大事件、すぐに号外出さねえと」と手帳を取り出したパーキンに一同の非難が集中する。

「おいこら、アルをネタにすんじゃねーよ!」
「そ、そんなことしたら噂話がますます盛り上がっちゃうわ」
「もっと正確な情報が入るまで記事にしないほうがいいんじゃないの?」
「ニャア! ニャア!」

 レイモンドもアイリーンもモモもブルーノも印刷技師の手帳を取り上げようとした。ルディアは一歩前に出てそんな仲間たちを制する。パーキンの思った通りに書かせるために。

「新聞にはしたほうがいい。いくらか事実と違っても」

 この発言に皆驚いたようだった。「な、なんで!?」と素っ頓狂な声を上げてレイモンドが振り返る。

「あっ、もしかしてアルは人殺しなんてする奴じゃないって記事書くとか? それなら俺が文章やっても」

 首を振れば善良な恋人はいっそう目を丸くした。苦い思いを堪えてルディアは彼に告げる。

「できるだけ他人事として扱うんだ。……でなければ庇っていると思われる」

 部屋はしんと静まり返った。絶句したレイモンドの、何を言っているんだという視線が胸に突き刺さる。
 だが前言を撤回することはできなかった。それが今、この国のために取れる最善の行動だったから。
 アルフレッドは防衛隊の隊長だ。そしてレイモンドはその部隊に属していた。繋がりを指摘する者は少なからずいるだろう。嘆きに飲まれ、攻撃できるものすべて攻撃しようとする者が。

「ブルーノ・ブルータスの言う通りじゃ。おぬしはこの先何があろうと絶対にアルフレッド・ハートフィールドを擁護するのでないぞ」

 ルディアの戒めを引き取ってニコラスが続ける。老賢人はレイモンドに釘を刺した。政治という名の太い釘を。

「ユリシーズ亡き今、アクアレイアの希望と呼べる存在はおぬし一人になってしまった。煽りを食って共倒れになられると困る」

 え、と乾いた声が漏れる。一番に安全地帯に匿われた男はまだ何を言われているのかわからないという顔をしていた。

「印刷業は生まれたばかり。おぬしが躓けば経済も躓く。おぬしには今のまま、『大衆に支持されるレイモンド・オルブライト』のままいてもらわねばいかんのじゃ」

 ニコラスはこれ以上なくわかりやすくきっぱりと告げる。民に掌を返されて印刷業そのものがそっぽを向かれてはならないと。「けどアルが大変なときに」と食い下がるレイモンドに老人は大きくかぶりを振った。

「正式に無罪となればいつもの付き合いに戻ればいい。それまでは友人だなどと吹聴するな。約束できんならこの家の外には出せん」

 再びレイモンドが声を失う。有無を言わせぬニコラスの双眸に気圧されて。
 ルディアにも異論はなかった。アクアレイアが第一に守らねばならないのは新しい産業だった。恨まれてもアルフレッドとは遠ざけておくしかない。

「よいか? 王都防衛隊は王国解体時に消えた組織。慣例的におぬしらをその名で呼ぶこともあったが以後二度と名乗ってはならん。誰かに何か聞かれたら部隊は解散して久しいと言え。隊長の悪名に引きずられてどんなとばっちりを受けるか知れんからな」

 ニコラスはもはや歯に衣着せようとしなかった。ただ懸命に、レイモンドの保身のために言い含める。可能な限り無関係を装えと。
「了解でっす!」と明るく答えたのはパーキンだった。印刷技師は手を揉んで十人委員会の重鎮に擦り寄る。

「面白おかしく書いちゃっていいってことですよね? 頑張りますねえ!」
「ああ、そうじゃ。任せたぞ」

 そろそろ会議に向かわねばとニコラスは踵を返した。立ち去り際、老賢人はルディアたちを一瞥し、「くれぐれも身辺に気をつけるように」と忠告する。

「よりにもよって一番平静を欠いているのが海軍だ。なんとか舵取りの努力はするが、今夜はここで大人しくしておれ。容疑者の仲間なぞ見かけたら不当に拘束せんとも限らん」

 老人は暗にそうなれば救出できるか不明だと言っていた。わざわざ彼の屋敷に防衛隊員を集めたのはいざというとき簡単に連れて行かせないためだろう。混乱は既に始まっているらしい。

「海軍の押しかけそうなところには先んじて手を回した。ハートフィールド家の者はブラッドリーが保護したはずじゃ。おぬしらの無事も彼に伝えておく」

 手際のいいことでニコラスは打てる手は打ってきてくれたらしい。ルディアの隣でモモが胸を撫で下ろした。
 パタンと扉が閉められる。階下に足音が遠ざかる。部屋に響いた深い溜め息は誰のものともつかなかった。
 ドナ入りまであと数日というところで、まったくなんという事態だ。

「はあーもう、バッカじゃないの!? なんで殺人の容疑者なんかにされてんの!?」

 落ち着いたらまた空腹が甦ってきたらしく斧兵は「モモのパン……、モモのスープ……」とうるうる目を潤ませる。食べそびれた夕飯に気を取られているあたり、彼女は兄の潔白を微塵も疑っていないようだ。

「アルフレッド君、いつ釈放されるのかしら。取り調べなんて災難ね」

 ニャアと答えた白猫を抱いてアイリーンが顔を曇らせる。その彼女より青くなってレイモンドはじっと黙り込んでいた。

「……きっとすぐ戻ってくるよ。事件現場には偶然居合わせただけだと思う。最後に会ったときはもういつものアルフレッドだったしな」

 ここ数日の幼馴染の落ち込みぶりをずっと案じていた男にルディアはそっと言い聞かせる。

「そうそう、あの真面目クンが人の倫理を足蹴にできるわきゃねえんだから、尾ひれつけるなら今のうちってね!」

 などと原稿を書きつけるパーキンでさえ三日もすれば騎士は帰ってくるものと楽観している風だった。
 だがレイモンドには友人を庇うなと言われたことがいささかショックだったらしい。「ああ、そうだな。すぐに戻ってくるよな」と応じる笑顔はどことなくぎこちなかった。
 ニコラスは正式に無罪とわかれば今までと同じに付き合えばいいと言ったがそういう問題ではないのだろう。友情を示すということは。

(……しかし、よりにもよってユリシーズとはな)

 収束までかかりそうだと嘆息する。王国の潰えた後、彼は実質たった一人で人々のあらゆる期待を背負ってきたのだ。顔見知りこそ多いものの新参貴族のレイモンドと由緒正しいリリエンソール家では地盤にも差がありすぎる。この損失を埋めるのに印刷業だけではおそらく不十分だった。
 とにかくアルフレッドには一刻も早く牢を出てきてもらわねば。拘留期間が長くなればジーアン十将にも何を言われるかわからない。

「あの、私、街の様子見てこようかしら」

 と、そのときアイリーンがおずおずと手を挙げた。

「私は部隊の隊員じゃないし、海軍に気をつける必要ないでしょう? モリスさんにも事情を説明しておきたいし、どうせ工房島まで行くんなら事件現場がどんなだったか確かめておこうかしらって」

 こういう場合、何を置いても情報収集から始めようとするルディアのために彼女は自分が行くと申し出てくれる。
 無実は無実と思っているが降って湧いた難局に戸惑っていたのもまた事実。ルディアはありがたく提案を受けることにした。

「ウーニャ! ウニャ!」

 姉が行くなら己もと弟猫が騒ぎ立てる。かくしてブルータス姉弟は夜の街に引き返す運びとなった。

「ありがとうね、気をつけてね」

 感謝をこめてモモがアイリーンの手を握る。レイモンドもカンテラを手渡しながら「頼んだぜ」と声を低めた。

「一応店には近寄るなよ。動けるようになったら我々もモリスの家に向かう」
「ええ、わかったわ。アルフレッド君が関わってないって証拠、探せそうなら探してみる」

 ルディアの指令にアイリーンは小さく拳を握りしめる。そのまま彼女は猫を連れ、来たときと同じようにこそこそと出て行った。
 アルフレッドはなんの罪も犯していない。誤解がとければすぐに解放されるはずだ。
 非日常の不安感に苛まれつつもこのときは皆そう信じていた。不幸にも彼は事件に巻き込まれただけなのだと。
 この一夜が明けるまでは。



 ******



 あまりに長く打たれ続ける鐘の音にウァーリは眉間のしわを濃くする。
 初めのひと撞きが六時の知らせの後だったから、それでもう異常が起きたと知れたのに、まるで慟哭するように大鐘楼は泣くのをやめない。斜め向かいのレーギア宮に住まう身としてはやかましくて仕方なかった。
「ちょっと何があったのかゆりぴーに聞いてくるわ」とラオタオが幕屋を出て早一時間、狐からも駄犬からも続報がなくそろそろ我慢の限界だ。騒音に弱いダレエンなど「これはいつまで続くんだ?」と苛立ちに足を揺すっている。
 そういうわけで今日の帝国幹部の集まりはまったく体をなしていなかった。これ以上耐えても無駄ねと見切りをつけてウァーリは長椅子から立ち上がる。

「あたし表見てくるわ」

 ファンスウも止めはしなかった。こちらがそう言い出さなければ彼のほうがそうせよと命じていたところだろう。「俺も行く」と絨毯に転がっていた狼男も立ち上がり、隣に並ぶ。中庭を歩き出せば大鐘楼などすぐそこだった。




「酷い、酷いわ……」
「一体どうしてこんなことに……」

 鐘の音に混じってすすり泣く声が響く。冷たい秋の夜だというのに広場には黒山の人だかりができていた。
 集まった人々はランタンを手にうつむいている。祈る者もいれば力なく肩を落として呆然とする者もいた。その隙間を縫って歩き、ウァーリは大鐘楼へと近づく。
 聞き取れたアレイア語を繋ぎ合わせて考えるにどうも誰かが死んだらしい。「突き落とされた」とか「殺された」とか物騒な言葉も聞こえた。
 レンガ塔の入口正面まで来ると話し声さえしなくなる。誰もが無言で「彼」を見ていた。いくつもの灯りに照らされた白銀の騎士の無残な死体を。

 ――これだったのだ。尋常でない鐘の音が告げていたのは。

 同心円状にめり込んだ石畳は落下の衝撃の激しさをまざまざと物語っていた。穴には血溜まりができており、そこら中に脳と思しき小塊や肉片が飛び散っている。
 丸みのある甲冑には見覚えがあった。さっきからさんざん囁かれている名前もよく聞くものだった。

(ああ、もう、なんてお悔やみ言おうかしら)

 額に手をやってウァーリは嘆息する。
 アニークの悲しむ顔を想像すると今からつらい。ただでさえあの子は不遇な娘なのに。

(ラオタオがなかなか帰ってこないはずね)

 いつもなんでも報告させていた相手がここにいるのだから現状把握に時間がかかって当然だ。しかもこれが殺人事件だというなら尚更。

「おい、アイリーンだ」

 と、ダレエンがウァーリの肩を掴む。夜目の利く狼男は少し離れた人混みを指差した。
 見ればフード付きケープを纏った血色の悪い女が最前列で骸を眺めて震えている。獣の勘が働いたかダレエンは列を割り、大股で彼女に接近した。

「アイリーン!」
「ひえっ!? あわわ、ダダ、ダ、」

 あっと言う間にアイリーンは細腕を絡め取られる。ダレエンはそのまま彼女を大運河側の広場の縁まで連れ去った。人垣を抜けてきたウァーリがようやく二人に追いつくと同時、強い語調の問いが響く。

「さっきからハートフィールド、ハートフィールドとやたら耳に入ってくる。あの死体はなんなんだ? アルフレッドが関係しているのか?」

 え、とウァーリは群衆を振り返った。そう言えば彼そんな苗字だったわねと漏れ響く会話に耳を澄ませて思い出す。

(え? 待って? 確かユリシーズは突き落とされて殺されたって……)

 今度はダレエンとアイリーンを振り向いた。狼男は戸惑う女に「何か知っているなら話せ」と迫っている。
 彼女の口から出てきたのは信じがたい――本当に信じがたい言葉だった。

「そ、その、アルフレッド君は、犯人だと勘違いされて海軍に連れて行かれたらしいんです」

 涙目で答えたアイリーンに二人で「はあ!?」と声を揃える。
 初めウァーリはルディアの練った撹乱作戦かと疑った。こちらを動揺させた隙に裏で何か進めようとしているのかと。
 だがすぐにそれはないなと思い直す。アクアレイアにとってこのマイナスは大きすぎる。ユリシーズは王女にとっても据えておきたい駒だったはずだし、アルフレッドまで盤から下ろすなど愚の骨頂だ。

「現行犯逮捕だったということなんですが、どうしてアルフレッド君がそんな誤解を受けたのか私たちもわからなくて、困惑しているところでして……」

 どうやら本当に突発的なアクシデントらしい。アイリーンはしどろもどろに「海軍が暴走気味で危険なので、姫様たちも十人委員会のニコラスさんのお宅に身を寄せているんです。少なくとも明日までは出てこられないかと」と現状を語った。
 ウァーリは小さく息を飲む。思ったよりも話が深刻そうではないか。

「とりあえず問題が起きたってことはわかったわ」

 これはこちらも話し合って対応を決めたほうが良さそうだ。行きましょう、と渋面のダレエンの袖を引く。

「待て。もう引き返すのか? まだろくに何も聞いて……」
「あたしたちはあたしたちで独自に調査すればいいでしょ。王女様からの報告はいずれまたあるわよ」

 撹乱作戦の線が消えたわけではない。アイリーンの話ばかり鵜呑みにせずに情報は精査すべきである。
「じゃあね」と脳蟲学者に別れを告げると狼男の腕を掴んだまま歩き出した。いつまでも泣き声の止まない広場をずんずんと進んでいく。
 ユリシーズが死んでアルフレッドが捕まった?
 しかも現行犯逮捕?

(本当に、あの子になんて言えばいいのよ)

 死んだのがアルフレッドのほうでなかったのが不幸中の幸いだ。アニークの悲しみがまだしも少なく、立ち直れそうなほうだったのが。
 今日も今日とて詩作に励んでいるだろう彼女を思って胸を痛める。
 ともあれまずはこの異常事態をファンスウに知らせなくては。






 思わずぺらぺら喋ってしまったが大丈夫だっただろうか。油断すると眩暈で倒れそうになる貧弱な身体に喝を入れ、アイリーンは広場奥のゴンドラ溜まりを目指して歩く。
 想像以上にグロテスクだった墜落死の惨状を目にしたせいで吐き気がした。胃液が喉までせり上がっている。常人よりはああいったものを見慣れていると思ったのに、己もまだまだ修行不足だ。
 ふらつきながら広場の端を進んでいると人垣に隠れていたブルーノが案じてこちらに寄り添ってきた。血の苦手な弟も心なしか青ざめている。よたよたと一人と一匹、覚束ない足取りで歩いた。
 アルフレッドが関わっていない証拠を見つけよう。そう意気込んでここまで来たのにそんなものは一つとして見つからなかった。逆に彼に不利な話ばかり耳にして。
 海軍に連行されるとき、なぜ大鐘楼から出てきたのか彼は答えられなかったそうだ。しかも今日の昼過ぎに何十分もぼんやりと鐘室を見上げる騎士の姿が複数人に目撃されているという。おまけにユリシーズが落下する直前、剣戟の音が響くのを聞いた者まであるのだとか。
 根も葉もない噂話が独り歩きしているだけだろうが、聞けば聞くほど不安になった。一つくらいアルフレッドの関与を否定する話が出てきてくれてもいいのに。
 どうしてあんな勤勉な騎士が疑われねばならないのだろう。アルフレッドはとてもいい子だ。いつも頑張っている彼がこんな事件の犯人のはずがない。

「――アイリーン?」

 と、そのとき、唐突に名前を呼ばれてアイリーンは身をすくませた。まさかまたジーアンの将軍ではなかろうな。びくびくしながら振り返る。渋くて低い声の響いた人だかりを。

「ああっ!? カロ!?」

 広場の一群にロマの姿を見つけてアイリーンは叫んだ。世の中そう悪いことばかりではないようだ。この心許なくて仕方ないときに彼が帰ってきてくれるとは。

「カロ、カロぉ! 大変なのよお!」
「おい落ち着け、アイリーン。くっつくと嬉しそうにする馬鹿がいるんだ」

 掲げたカンテラごと逞しい胸に突進したらそっと肩を押し返された。カロは何やら羽虫を払いでもするような奇妙な仕草をしてみせる。

「大変ってどうしたんだ? そこで大変なことになっている死体なら今見たが」

 どうやらカロも騒ぎを聞きつけて広場までやって来たらしい。死体を見たと言う割にけろりとしているのは生前のユリシーズをまともに覚えていないからだろうか。それともこれが真の耐性というものなのか。

「私たちこれからモリスさんのところへ行こうと思うの。良かったらそっちでゆっくり話さない?」

 今までのことも聞きたいし、と誘えばカロは「わかった」と頷く。フスの岬で別れたときより眼差しは穏やかだ。
 あのときあの決闘の後、カロについて行こうとしたアイリーンに「お前にはまだお前のやるべきことが残っているだろう」と言ってくれたのは彼だった。「ついでに俺の気持ちが落ち着くまであの女を見ていてほしい」と頼んできたのも。
 親友の遺言をカロは果たす気になったのだろうか。だとしたら嬉しい。
 ゴンドラ溜まりで適当な舟を見繕うとアイリーンはブルーノとカロとともにガラス工房へ急いだ。
 そうだ。まだやるべきことがある。いつの日かアクアレイアを取り戻すために、ぐちゃぐちゃの人体を見たくらいでふらついている場合ではないのだ。



 ******



 指揮系統が乱れるとどの部隊の誰がどこにいるのかさえわからなくなるものらしい。宮殿よりもなお広い、数千人の船大工が働く国営造船所でアンバーはチッと盛大に舌打ちした。
 国営造船所内部には海軍専用の軍港がある。各種工房に工廠もある。巨大な門と分厚い壁に守られた建物群は全体で一つの小砦と言えた。
 その中の、どこに容疑者が連れ込まれたのか誰に聞いてもさっぱり掴めず、兵舎やら訓練場やら一つ一つ回る羽目になったのだ。ラオタオなんて酷薄な男を演じている今切れるなというほうが無理だった。

「……お前さあ、ちょっと順番が違うんじゃないの?」

 胸壁の一部をなす火薬塔の一階でようやく目当ての男を見つけ、アンバーはジーアン語で呼びかける。「尋問」に熱中していた愚か者は突如響いた不機嫌な声にびくりと肩を跳ねさせた。

「ゆりぴーが死んだっつーならまず俺に報告だよな? で、こんなとこでお前は一体何してんの?」

 薄暗い小塔の奥へと歩を進める。監視兼ハイランバオス役のウェイシャンも面倒そうについてくる。
 火薬塔とは名ばかりで、倉庫はほぼ空っぽだった。適当に広くて適当に声が外に漏れない場所を選んだらここになったということだろう。正規の尋問手順については踏まえる気がなかったか、はたまた単に知らなかったか。いずれにせよ情報を引き出すためなら容疑者に――現行犯としてしょっ引いた容疑者に――何をしてもいいと考えたのは間違いない。
 血の匂いを嗅ぎ取ってアンバーは顔をしかめた。足元には丸椅子が転がっており、その傍らに意識のない男が一人倒れている。
 剣も鎧も剥ぎ取られた赤髪の騎士。後ろ手に彼の腕を縛った縄は擦り切れて緩み、苛烈な暴行を受けた後なのが窺えた。
 冷めた目で、アルフレッドを囲んでいる海軍兵士たちを見やる。この騒動の中心であるレドリー・ウォードを。

「なんで先に俺に報告に来ないわけ?」

 今度はアレイア語で問うた。帝国の将を恐れるだけの理性を取り戻した少尉は「いや、あの、」と青ざめて言い訳を始める。

「報告は取り調べをしてからと……」

 下手くそすぎる取り繕いに呆れずにいられなかった。ここにたむろする兵の一人を走らせれば問題が発生したとすぐに知らせられたではないか。日頃から使えぬ男と思ってはいたが、ここまで程度が低いとは。

「その取り調べもさ、やっていいって許可してないよな? なんだってお前はお前の勝手な判断で軍の一部を動かしてるわけ?」

 答えろよ、と赤髪の青年に凄む。レドリーは蛇に睨まれた蛙のように全身を硬直させるだけだった。待てど暮らせど返事はない。ついさっきまで無抵抗の容疑者相手にさんざん盛り上がっていたくせに。

「その子さあ、アニーク陛下のお気に入りだから傷物にされると困るんだわ。それくらいお前も知ってるもんだと思ってたけど、言わなきゃわかんなかったかな?」

 ほとんど突き飛ばすようにしてアンバーは棒立ちのレドリーを押しのけた。打撲痕だらけの騎士を担ぎ、気絶するまで殴るなんてと内心で憤る。
 そのまま立ち去ろうとしたら愚か者は更に愚かにアンバーを引き留めた。

「ど、どこに連れて行く気ですか? そいつの容疑はまだ晴れていませんが」

 そんなことをほざくので思わず「は?」と眉を歪める。

「お前まだやる気なの? アルフレッド君は女帝陛下のお気に入りだっつったの聞こえなかった?」
「でも、罪人は罪人です! そいつがユリシーズを殺したのは間違いないのに拘束を解くなんて……!」

 レドリーは「ユリシーズだって女帝陛下のお気に入りだったじゃないですか! アルフレッドだけ特別扱いしないでください!」と訴えた。ジーアンの将軍に対してなかなか勇気ある嘆願だ。
 同時に深い考えがないことも見て取れた。目の前の、自分が納得しがたいと思っている事柄についてしか頭を回せぬ男なのだと。

「あっそう」

 無視しても良かったが、危ういものを感じてアンバーは立ち止まる。見れば小塔の海軍兵士らは全員レドリーと似たような顔をしていた。つまり義務より義憤を優先しそうな顔を。

(こりゃもう『海軍』ではないかもね)

 ただの集団。下部組織である警察も最悪瓦解するかもしれない。
 こうなることを恐れてルディアの敵であるユリシーズを敢えて重んじてきたというのに、今になって要石を外されるとは。
 ともかくこれ以上海軍を刺激はできない。ここはどうにか彼らの不満をやり過ごさねば。

「そんじゃこいつは十人委員会に預けるわ。取り調べなら爺どものが得意だろ。牢屋に入れて、有罪ってことなら罰も受けさせる。それでいいよな?」

 最大限の譲歩に一応反論は返らなかった。放っておいたらまためちゃくちゃな行動を取り始めそうな馬鹿どもにもう一つ指令を与えておく。

「そんなにゆりぴーが大事ならいつまでも見世物にしてないで死体の回収でも行ってくれば?」

 終わったら全員兵舎で待機だと、端的に告げてアンバーは火薬塔を後にした。一向に目覚める気配のないアルフレッドを揺すらぬように気をつけて夜の軍港をひた歩く。
 なんとかせねば。せめてルディアをドナに連れて行くまでは、海軍には海軍の体裁を保ってもらわねばならない。
 シーシュフォスを提督に戻す? いや無理だ。あの男は天帝に退けられた。
 ブラッドリーは? いやこれも駄目か。反発が起きるのは必至だ。
 一番いいのは十人委員会に海軍の指揮権を委ねることだ。だがこれは古龍が頷くかわからない。ファンスウはこの混乱を利用してアクアレイアの軍事力を掌握せんとするかもしれない。

(情に訴えるしかないか)

 アンバーはアニークの寝所に集まろうと決めた。レドリー以上に感情で動くあの女の子を頼るのは、それはそれで恐ろしかったが。
 けれどもう四の五の言っていられない。「ラオタオ」への不信は高まりきっているのだ。持てる力を奪う機会をファンスウは見逃すまい。
 やるしかなかった。ここまでどうにか歩いてきた細い綱を渡りきるために。



 ******



 何が起きたか理解するには盲人には時間がかかった。遺体をこの目に見さえすれば嫌でも理解したに違いないが、現実は現実を突きつけてもくれなかったから。
 娘シルヴィアに伴われて向かったのは二年ぶりの国営造船所。兵舎の一階、仮眠室の寝台に息子は安置されていた。
 耳に入る音がなければ存在は感じ取れない。伸びやかな声や息遣い、甲冑の硬い足音がなければ。

「ユリシーズ……」

 我が子の名を呼び、冷たくなった手を握る。
 手はまだ手とわかる形をしていた。腕も、肩も、広い胸も、体温さえ戻ればすぐにまた動き出すのでないかと思えた。
 首筋に触れようとしたところで誰かの手に止められる。

「……被せた布がずれるので……」

 痛ましい声でレドリー・ウォードがそう告げた。ユリシーズの幼馴染が。

「……そうか……」

 ひと言声を絞り出すのが今のシーシュフォスの精いっぱいだった。
 頭から落ちたのだ。頸椎が無事なはずなかった。頭部は到底口にできぬほど惨い状態なのだろう。
 飲み込みがたい事実を飲み込む。息子はやはり死んだのだと。
 ユリシーズが国家反逆罪に問われたとき、一度は覚悟したことだ。あの頃の気持ちを思い出して再び堪える以外ない。この先ずっと堪えていくしか。

「お兄様……っ」

 シーシュフォスを支えてくれていたシルヴィアが物言わぬ兄にすがりつく。
 目が見えなくて却って良かった。悲しい光景を見ずに済んで。
 座るように勧められた丸椅子に崩れ落ちるように腰かける。
 ユリシーズが死んでしまった。家のことも、国のことも、考えねばならないことが山ほどできたはずなのに、頭は少しも働かなかった。
 もうどこからも身を退くときが来たのかもしれない。盲人は盲人らしく。
 やはり己は最初から何も見えていなかったのだ。何もわかっていなかったのだ。
 うっすら予感はあったのに、自分で育てた息子なのに、歪みに気づかぬふりをした。だからきっとこうなった。
 確信が深まるほどに気も塞ぐ。こんな死に方をするほどの業を、やはりこの子は背負ってしまっていたのだと。
 見過ごした。親として見過ごしてはならないものを。こんな目が、こんな男が、はたしてこれからなんの役に立てるというのか。
 盲人はもう引っ込むべきだ。世に関わるべきではない。
 人の上に立ちながら息子一人正しく育てられなかった虚しさが、無力感が、シーシュフォスにそう囁く。
 ユリシーズが死んでしまった。年取ってから跡継ぎを喪う悲しみに打ちのめされて心は呆ける。ああ、こうして人は老いていくのか。
 光を奪われた視界は暗く、一人では立ち上がれそうになかった。
 世界はどこまでも暗かった。歪みながらも輝いていた白銀の欠けた世界は。







 ――最悪だ。考え得る限り最悪のシナリオだ。

「うう、お兄様……!」

 グレースはユリシーズの亡骸に被さりながらチラと顔布の下を覗く。薄目で遺体の損壊具合を確かめれば顎から上には頭の代わりに丸めた外套が置かれているだけだった。
 せめて五体満足な死体を遺して逝ってくれればいいものを、一番大事な脳を駄目にするなんて。いつかはこの男の権勢ごと肉体を乗っ取ってやるつもりでいたのに、何もかも水の泡だ。

(とにかく今はアルフレッド・ハートフィールドをなんとかしないといけないね)

 舌打ちを堪えてグレースは拳を握る。
 昨夜のユリシーズの様子では心許した男になんでも打ち明けていそうだった。誓いの杯を飲んだくらいで約束が破られることはないと本気で信じていたのである。アルフレッドがグレースの存在を知らされていても不思議ではない。

(『シルヴィア・リリエンソール』の正体がばれたところでルディアたちに何ができるわけでもないだろうが、始末しておくに越したことはない。あの騎士を処刑場送りにすれば防衛隊の名にも傷がつくわけだしね)

 冷徹な計算ののち、グレースは腕をつねって涙を溜めて顔を上げた。

「レドリー様、なぜお兄様がこんなことに……? お兄様に一体何があったのです……?」

 いたいけな少女の顔で問いかける。マリオネットより簡単に操られてくれる男は守秘義務など頭から飛んだ様子で吐き出した。

「すまない。取り調べをするにはしたんだが、アルフレッドの奴ほとんど何も喋らなくて……」
「アルフレッド? 直前までお兄様と一緒にいた騎士ですわね?」

 ああ、とレドリーが頷く。捜査が進展していないと聞いてグレースは胸中でよしと勇んだ。

「大鐘楼で会う約束だったって以外だんまりだ。ユリシーズと何を話したかも言いやしねえ」

 容疑者は上手い言い訳を思いつかなかったらしい。もとより主君を襲撃する目的で待ち合わせていたなんて事実は口が裂けても証言できないはずだった。嘘をつけばぼろが出る。これなら騎士を追い込むのはたやすそうだ。

「やましい事情がないのなら身の潔白を示すためにも話してくださるはずなのでは? まさか本当に噂の通り……」

 水を向ければレドリーは「だと思う」とあっさり己の見解を告げる。海軍の頭がもがれた今、ユリシーズの腹心という立場にあった彼の発言は少なからぬ力を持って波及する。そんなことすら自覚もせずに。

「お兄様とは女帝陛下のサロンでたびたび顔を合わせていたんですのよね? もしやアルフレッド・ハートフィールドは寵愛を独占しようとこんな事件を?」

 既に巷で囁かれている憶測の一つを口にする。するとレドリーは神妙な顔で「かもしれない」と呟いた。

「ユリシーズは帝国自由都市派だし、防衛隊は王国再独立派だ。確執があったのかもって言ってる奴もいる。大鐘楼の人払いをしたのはユリシーズだけど、ひょっとしたらあいつと何か話をつけようとしてたのかも。剣を持ち出されるなんて考えもしないで……」

 つらそうに歯を食いしばり、レドリーは押し黙る。アルフレッドとは従兄弟のはずだが彼に親族を庇う気はなさそうだった。

「本当に最低な野郎だぜ。女帝陛下のお気に入りだからって取り調べも途中で中止にさせられたんだ。せっかく海軍が身柄を拘束してたのにラオタオ将軍が連れて行っちまってさ」
「ええっ!? さ、殺人の容疑者なのにですか!?」

 聞きながらこれにはさすがに驚いた。だがお咎めなしで解放されたわけではなく十人委員会に預けられただけと知ってほっとする。まあこの状況で無罪となればそれはそれで民が黙っていないだろうが。
 しかし私刑よりは正式な死刑のほうがルディアやレイモンドの陣営に打撃を加えられるのは確かだ。もう少し焚きつけておくかとグレースは愚かな青年に語りかけた。

「考えたくありませんが、アニーク陛下の庇護があるからと強気に出たのかもしれませんわね……。罪状は明らかでも刑に処されることはないと……」

 こちらの囁きにレドリーは「有り得るぜ」とますます怒りを燃え立たせる。憎き容疑者の厚顔無恥な思惑を好き勝手に空想し、その空想にまた激怒して、知性や理性、冷静さから彼はどんどん遠ざかった。

「いい子ぶって見せてただけで、これがあいつの本性だったんだ……!」

 激情を抑えようとする素振りもなくレドリーは大声で騎士を罵倒する。
 それを聞けばこれから罪人がどう喧伝されることになるかがよく知れた。

「さすがあのウィルフレッド・ハートフィールドの息子だよ! 見事に父親の血を引いたクズだ!」

 よし、よし、とグレースは口角を上げる。
 ユリシーズを亡くしたリリエンソール家が落ち目になるのは避けられないが、これで防衛隊も道連れだ。誰が奴らにだけ甘い汁を吸わせてやるものか。
 しばらくは水面下に潜って力を蓄えて、いつかまた再起を図ろう。取りつく身体さえあれば蟲はいくらでもやっていけるのだから。



 ******



 一体どんな人間なら落ち着いてこんな話を聞けるのだろう。たちの悪い冗談はやめてくれと拒むようにアニークは書見台で小さく首を震わせる。
 誰が誰を殺したと?
 誰のせいで誰が死んだと?

「……っアルフレッドがユリシーズを突き落とすはずないでしょう!?」

 叫んでも返される声はなかった。ファンスウも、ウァーリも、ダレエンも、報告に来たラオタオとウェイシャンも「あの二人、すごく仲が良いんだから!」とアニークが訴えるのを聞いている。
 夜の寝所に声は空しく響き渡った。誰も何も言ってくれない。起きた事実を否定する言葉を。
 死を悼む鐘の音はいまだ街中に轟いている。ついていけないアニークに悲劇を思い知らせるように。

「あー。とりあえずアルフレッド君は十人委員会に引き渡しといたけど、結構やばいと思うよ」

 と、ラオタオがぼそりと言った。

「やばいってどういう意味?」

 ほとんど息も継がずに尋ねる。若狐は「割とボコボコにされてたからさあ。まあ手当てしてもらえるとは思うけど」と見てきたそのままを伝えた。

「ぼ、ボコボコって……」

 どうしてと問えばラオタオは肩をすくめる。

「ゆりぴーが死んだから、海軍がめちゃくちゃしても止める奴がいないわけ。次の提督任命すれば指揮系統の混乱は収まるだろうけど、人選によっては更に混乱しちゃいそーって感じかな」

 こめかみを掻きつつ狐は「つっても無能しかいないから選びようがないし、選んだら選んだでアルフレッド君に報復しようとするのがわかりきってるし、困ったもんだよ」と続けた。海軍の恨みを買ったせいでアルフレッドは危険に晒されているらしい。

「ど、どうするのがアルフレッドは一番安全なの?」

 いてもたってもいられずに書見台から立ち上がる。寝所の入口に立っていた青年のもとに突進するとラオタオはアニークをどうどうとなだめた。

「ゆりぴーの後任が決まるまでは海軍の指揮権を十人委員会に預けるのが一番じゃないかと思うよ。ファンスウたちさえ良ければ俺もそうしようかなって」

 狐は視線をソファに腰かける老人に移す。古龍はやや冷めた目でラオタオを見つめ返した。
 ふん、と小さな鼻息。「アクアレイアが混乱していたほうがハイランバオスの気を引けるのではないか?」とファンスウが応じる。

「いっそ海軍をジーアン軍に再編してもいいだろう。独自の軍力がなくなれば独立を夢見る者も減じて守りが盤石になる」

 アニークは若狐の顔を見上げた。難しい話ははっきり言ってよくわからない。ファンスウの言うようにジーアン軍が海軍を吸収してしまえばアルフレッドに乱暴させずに済む気はするが、実際のところどうなのだろう。

「うーん、再編は反対だなあ。んなことしたらアルフレッド君が恨まれる一方じゃん? 俺は別にいいけどさ、女帝陛下やウァーリたちはそれでいいわけ?」

 アクアレイアの法規に従い、手順を踏んで釈放まで漕ぎつけねばいつまでも危険と不名誉はつきまとう。まだしも冷静な十人委員会に任せるのが最善だとラオタオは断言した。亡きユリシーズもそこに在籍していたのだし、馬鹿にもわかりやすいだろうと。

「そ、そうね、ラオタオの言う通りだわ」

 アルフレッドがこの街の人間に憎まれるなんて嫌だ。一も二もなくアニークは狐の案に飛びついた。ファンスウには睨まれたがアルフレッドのためである。しばらくサロンは開けぬとしても、せめて無事に過ごしてほしい。

「お願いファンスウ、誰に海軍を指揮させるかなんてジーアンには些細な問題でしょう? これ以上アルフレッドが酷い目に遭わないようにして!」

 ソファの前に膝をつき、アニークは古龍の手を取って乞うた。眉をひそめたファンスウに「お願いよ」と繰り返す。

「あたしもちょっと、恩人を貶めるのは不本意ね」
「だな」

 向かいのソファでウァーリとダレエンもそう言った。心強い援護にアニークは目を潤ませる。
 こうなればファンスウも突っぱねはしなかった。溜め息をついて古龍は次の話を始める。

「まあ良かろう。その気になれば再編はいつでもできることじゃからな。人質のほうはどうする? 騎士の代わりをよこさせるか?」

 この発言にもアニークは噛みつかなければならなかった。

「私はアルフレッドじゃなきゃ嫌よ! 容疑だってすぐに晴れるに決まってるんだから、代わりなんて考えないでよ!」

 至近距離で怒鳴り散らされたファンスウが耳を塞ぐ。

「事故ならともかく殺人なんかじゃ絶対ないから! 二人は本当に仲が良くて、ちょっと羨ましかったくらいで」

 前のめりにそう力説すれば今度はウァーリに「わかったから落ち着いて」と引っぺがされた。

「……ッ」

 鐘がまた打ち鳴らされる。強すぎる衝撃に乱れた心をなお乱すように。
 ユリシーズはいなくなり、アルフレッドも囚われた。
 毎日一緒だったのに、明日もそうだと思っていたのに、これからどうなってしまうのだろう。

「……アルフレッドに会いたい……」

 そう呟けば全員から首を振られた。取り調べが済むまで待てと。
 毎日会えると思っていた。目を合わせてもくれなくても、会話すらまともにできなくても、毎日来てくれていたから。

(アルフレッド……)

 心配で心配で堪らない。酷い怪我をさせられていないだろうか。寒い思いをしていないだろうか。今日だってあんなに顔色が悪かったのに。
 すぐにでも駆けつけたいのにそうできない己がもどかしく、アニークは打ち震えた。騎士の顔を目にするまで不安は消えてくれそうになかった。



 ******



 包帯まみれの青年の身体を横たえ、ブラッドリー・ウォードは重い溜め息を押し殺した。
 レドリーが拳を振り上げてアルフレッドが憂さ晴らしに殴られる。子供時代から二人のいざこざは形を変えていないらしいが、これほど陰鬱な気分でこの甥っ子を眺めるのは今日が初めてだ。

「とりあえず、意識が戻ったら改めて事情聴取じゃな」

 背後で反響した声に振り向くとニコラス・ファーマーやほかの十人委員会の面々は早くも半地下牢を引き揚げようとしていた。これから潮の満ちる時間になるからだ。もたもたしていては膝まで水に浸かってしまう。
 固く瞼を閉ざした騎士は少しも目覚める気配を見せない。牢獄に備えられた石の寝台に十分な高さがあるのを確認し、ブラッドリーは手にしたランタンをそっと壁に吊り下げた。どこにも毛布が見当たらないので自分のマントを肩にかけておいてやる。

「ブラッドリー」

 呼ばれて急いで踵を返した。灯りを手に待ってくれていたニコラスのもとに歩を速める。
 カツンカツンと響く足音に混じって波の音、鐘の音。どうしても耐えがたくなってつい声を震わせてしまう。

「……何かの間違いではないのか?」

 問われた老人は冷静だった。妙な希望は持つなと諭すようにゆっくりと首を振られる。

「海軍での取り調べで黙秘したのは事実だそうじゃぞ。まあ何か喋ろうとした矢先に殴る蹴るの暴行を受けたのやもしれんが……」

 ニコラスは「防衛隊はよく働いてくれているし、わしとしても疑わしいだけで罰したくはないがな」とぼやいた。だが彼は彼個人の裁量でどうこうできる問題でないこともはっきり悟っていたに違いない。

「疑いが晴れなかったときは覚悟しておけよ」

 しわがれた声がそう告げる。切り捨てるものを選ぶ残酷な響きを持って。

「…………」

 ブラッドリーは答えなかった。
 何も答えられなかった。
 真っ暗な半地下に階段を上る足音が響く。波の侵入する音がする。
 そして鐘の音。
 誰かの高笑いじみた鐘の音。
 夜が闇を深めていく。朝が来るなど信じられないほど暗く、深く。









(20191129)