入れ込みすぎている自覚がなかったわけではない。過去の己と重ねすぎだ、これは危険な同一視だと。
それでも彼が苦しそうだと胸を痛めずにいられなかった。彼と自分はあまりに似すぎて捨て置くことができなかった。
歯車はどこから狂い始めていたのだろう。笑って明るい世界に帰れるものと思っていたのに気づけばまた彼と一緒に暗がりにいる。
けれど多分、場所はどこでも良かったのだ。彼さえ隣にいてくれるなら。
暗がりには暗がりの正しさがある。あの女とて正道だけを歩んできたのではないだろう。なら何をされても文句は言えないはずだった。少なくとも彼女の償うべき分は。
怒りは強くユリシーズの胸を燃え立たせた。同情が火に油を注いだ。
利も損ももはやどうでもいい。あの女に思い知らせてやれるなら。同じ悲憤を彼と乗り越えていけるなら、ほかのことはもうどうでも。
ずっと欲しかったものがある。それは優しく温かで、決して自分を裏切らぬもの。例えば安全な寝床のように瞼を閉じて落ち着ける場所。己が何者かさえ忘れて本音で語り合える相手。
やっと手に入れた本物を、己は今度こそ守らなくてはならなかった。
******
東の空が白んできたのを見上げて小さく眉をしかめる。いまだ一つの物音も立てぬ地上に目を戻し、レイモンドは嘆息した。
薬局を営む幼馴染の家の前で、今か今かと友人の帰りを待って早一晩。あの堅物がこんな時間までどこをうろついているのだか考えるだに不安になる。
まさかそこらの水路に浮かんではいないだろうなと最悪の可能性まで脳裏をよぎってかぶりを振った。街に変事があればすぐ鐘を打つ大鐘楼が静かなので今のところそれはなさそうだが。
滅多なことでは痛まない胃がじくじくするのを手で押さえ、きょろきょろと周囲を見渡す。小運河脇の細い路地にも橋の上にも望む姿は見当たらず、吐く息は重くなるばかりだった。
早く帰ってきてくれと切に祈る。このすれ違いが手遅れの断絶などになる前にと。
(お前は別に私のために騎士でいたいわけじゃないだろう、か……)
アルフレッドが「一人になりたい」と出て行った後、ルディアに聞いた話は酷なものだった。確かに彼が後ろ指を差されまいとして騎士を志したのは事実だが、さすがに「主君は誰でも同じ」はないだろう。一面的にはそれが真実であったとしても。
(めちゃめちゃ真に受けたんだろうな、アル)
溜め息は無限に湧いて出た。我が恋人のしでかしたことながら今回は庇うのも難しい。
己と違って真面目な友人には受け流すなど不可能だったろう。理想と現実のギャップに愕然としている彼は想像にかたくなかった。
(っとにもー! 本人にそういう話するかな!? ショック受けるに決まってんじゃん!)
今更言っても詮無いこととわかっているが、ついルディアを責めてしまう。もっと上手いやり方がいくらでもあったのに、わざわざ一番傷つく言葉で突き放さずとも良かったのではないのかと。
アルフレッドについてこなくていいと言った彼女の心理が理解できないわけではないのだ。ギブアンドテイクが成り立つうちは連れて行くのがどこだろうと罪悪感を持たずにいられる。だが現状、防衛隊には以前と同じ水準の給与も支払われていなかった。ただでさえ申し訳なく思っているところにバオゾ行きが不名誉を伴うとなればほかの主君を探すよう諭したくなるのは当然だ。相手があの騎士道一直線男でさえなければレイモンドもとやかくは言わなかったに違いない。
ルディアは重大なミスをした。アルフレッドだけは何があっても彼女の騎士でいさせてやらねばならなかったのに。
レイモンドが金だけを頼りに生きてきたように、彼は騎士として正しい己を拠り所に生きてきたのだから。
(あー! 完全にしくじった!)
帰国前にもっとしっかり話し合っておくべきだった。一人で混乱しているに違いない幼馴染が心配で堪らない。こんなとき彼が行きそうなブラッドリーの屋敷にも来ていないとの話だし、今頃どこでどうしているのか。
(姫様に突き放し癖があるのは知ってたはずなのに……)
はあ、と大きく肩を落とす。
足音が響いてきたのはそのときだった。
「……!」
顔を上げてレイモンドはぎょっとする。階段状の小さな橋を渡ってこちらに近づく男があまりにも尋常でなくて。
朝日に透ける赤い髪は間違いなく幼馴染のものだった。だが短い前髪の下に覗く陰鬱な双眸は。
「アル……」
初めアルフレッドはレイモンドをちらと一瞥しただけで無視して家に入ろうとした。薬局の入口に鍵がかかっていなければ問答無用で通り抜けられていただろう。ドアノブを掴む手を引き剥がし、「アル!」と再度呼びかける。
「……なんでこんなところにいる? 姫様の側にいなくていいのか?」
冷え冷えとした問いかけにレイモンドはなんとか声を絞り出した。
「夜番ならモモに任せてきた。俺、姫様に話聞いて、お前のこと心配で」
「心配?」
切り返す声に親しみも温もりも感じ取れずに動揺する。眼差しは荒みきっており、口の端の笑みだけが浮いていた。
ひと目見て酔っているのがわかる顔。酒臭い呼気。呂律は回っていたものの足元は覚束なく、彼がいつもの彼でないのは明らかだ。
信じられない。酒に溺れて理性を失くした父親を誰よりも軽蔑した幼馴染がこんなになるまで飲むなんて。
「そうだよ。お前きっと誤解してるって思ったから……」
レイモンドは真摯に己の考えを伝えた。
ルディアはアルフレッドを重んじるからこそ損をさせたくなかったのだと。忠誠に見合う報酬を与えてやれないのが心苦しくて主君を替えろと告げただけだと。
「姫様はお前のこといい加減な騎士だと思ってるわけじゃ――」
ない、と言い切る前に歪んだ視線で制される。さもおかしげに彼は笑った。
「だが実際、俺があの人のための騎士じゃないから遠ざけられたわけだろう?」
ポケットを探ってアルフレッドは鍵を取り出す。こちらを見もせず、結論を変えようともせず、話は済んだと言わんばかりだ。扉の奥に逃げ込もうとする友人にレイモンドは唇を噛んだ。
「あのなアル、姫様は……!」
引き留めようとした腕を強く振り払われる。それでも手首を離さなかったらアルフレッドはきつくこちらを睨み上げた。
「俺に対する気遣いだろうとそうでなかろうと『ついてくるな』と拒まれたのは事実なんだ。……よくわかったよ。姫様にはお前がいれば十分なんだと」
苦々しげに吐き捨てられる。険のある幼馴染の口ぶりにレイモンドはわずか怯んだ。
幼い頃から敵意には敏感だ。それを察せねば生きていけなかったから。
今確かに友人の目に見知ったものを読み取って、衝撃のあまり声を失くした。
理解できない。どうして彼にそんな顔を向けられるのか。ずっと、ずっと、励まし合ってきた仲なのに。
「良かったな。お前は望むものすべて手に入れた。金も、人望も、あの人も。さぞいい気分なんだろう? 他人を気にかける余裕が持てるくらいには」
かろうじて「何言ってんだ……?」と問い返した。そんな言葉を吐くなんてアルフレッドらしくない。攻撃的な、否定的な、そんな目つきと物言いは。
だが冷笑はやまなかった。「馬鹿な奴だと放っておけばいいのに」と幼馴染は肩をすくめる。
「アル、お前……」
どうしたんだと尋ねることはできなかった。その前に彼のほうが話を切ってしまったから。
「もう構わないでくれ、レイモンド」
先程とは打って変わって小さな声に懇願される。およそ騎士に似つかわしくない弱々しさで。
こいつはこんな人間だったろうか。こんな卑屈に目を逸らすような。
「お前といると、何も手にできなかった自分が惨めで仕方なくなる」
アルフレッドは泣きだしそうな顔でそう告げた。名誉も、恋も、父親らしい父親も、これだけはと願った主従の絆さえ、と。
想定外の台詞にレイモンドはたじろぐ。一瞬の隙に手をほどかれ、肩を強く突き飛ばされた。中から鍵が閉められて、後には己だけが残される。
「……アル……」
落ちた呟きを拾う者はいなかった。
どうしてもっと、ルディアとも、アルフレッドとも、しっかり話をしておかなかったのだろう。
避けられた穴に墜落した。後悔は募る一方だった。
******
手甲を、胸甲を、腰の剣を、乱雑に放って寝台に突っ伏す。
何も考えたくなくて、何も考えられなくて、部屋の隅からおっかなびっくりこちらを眺める弟にも気づかぬふりを決め込んだ。
「ど……、どうしたの? 兄さん?」
安眠を妨害されたはずなのにアルフレッドを案じる声には刺々しさのかけらもない。しばらく無言でやり過ごせばアンブローズは諦めの息をつき、今日の仕事を始めるべくして出て行った。
遠ざかる足音に耳を澄ませて目を伏せる。
ああ、ついに、愚かな己は上辺さえ取り繕えなくなったらしい。レイモンドにもあんなことを言うつもりではなかったのに。
醜い本音をぶつけられ、彼も戸惑ったことだろう。妬ましいという言葉こそ使わなかったが羨望は十二分に伝わったはずだ。お前ばかりがどうしてという厚顔無恥な憤りも。
友達のはずなのに出会わなければ良かったなどと思ってしまう。同じ部隊に誘わなければ、国籍を得るための金など用意してやらなければと。
ずっと堪えていた反動か、狭量な嘆きはとめどなく溢れ出た。そのすべてが本当はアルフレッドがどんな人間だったかを如実に物語っていた。
何が正しい騎士だと笑う。どこがどう正しいつもりだったのだと。
もうわからない。自分がどんな風に歩いていたかさえ。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。底の底まで泥を掻かれ、目を背けてきたもの全部まざまざと見せつけられて。
――騎士なんぞ、世界で最も救いがたい、愚かで下等な連中だ。
パディの言葉が甦る。
自分もその下等な連中の一人だったと思い知る。
騎士の務めを果たせていると自負していたときだって、己はただ己を高尚に見せかけたかっただけなのだ。
選ばれるはずがない。虚栄心とプライドの区別もつかぬ男など。
(なんて無様なんだろう)
おかしかった。
こんなになってもまだ騎士をやめたがっていない自分が。
己のためでしかなかったとわかってなお続けたがっている自分が。
(今更引き返せないだけだ。ほかには何も追い求めてこなかったから)
人生すべてを否定され、空っぽになってしまうのを恐れている。歩み続けてさえいれば得られるものがまだあるのではないか。性懲りもなくそんな希望にすがっているのだ。
(ユリシーズの言ったよう、これから姫様を一番にできればいい。そうすれば俺はまた俺の憧れた騎士を目指せる)
やり直せるはずだった。
ルディアさえ失わなければ。
「…………」
なんて浅ましい考えだろう。分別のなさに笑えてくる。
主君なしでは、一人では、騎士は決して騎士になれない。
その不幸を今更になって理解する。自分を嫌いになるために始めたことではなかったのに。
それでも諦めはつかなかった。ほかに欲しいものなどなかった。
――主君の過ちを正すのも騎士の役目だ。
王女は道を誤ろうとしている。白銀の騎士は言う。ルディアを止められるとしたらアルフレッド以外にいないと。
ごろりと仰向けに転がった。手を開き、宙で首を絞める真似をする。
(できるんだろうか。本当に)
苦しげに呻く彼女の顔は何故か思い描けなかった。
腕を下ろすとほぼ同時、アルフレッドは虚ろな眠りに落ちていった。
******
半日遅れで帰還した鷹の報告にウァーリは「は?」と顔を歪める。おかしなものは何も見ていない、不審な動きは一切なかったと言い張る彼らについ声を荒らげた。
「み、見てないってことはないでしょ! 四日も空白があったのよ!?」
くちばしで文字表をつつく三羽は三羽とも「ルディアたちは当初の申告通り公爵を訪ね、商談をしただけだった」と主張を変えない。その途端、帝国幹部の集まる幕屋は異様な空気に包まれた。
「ほおう、何もなかったか」
まったく納得していない顔でファンスウが細い口髭を撫でつける。古龍の隣では無言のダレエンがついと若狐に目をやった。
皆と同じに竈を囲んで胡坐を掻き、ラオタオは「あちゃー」と舌など出してみせる。
「……こりゃどうも出し抜かれたっぽいねー?」
彼の問いはこの場の全員に向けられていた。見かけだけの聖預言者は早くも思考を放棄していたが、ウァーリもファンスウもダレエンも思うところは同じである。特に古龍は「どの口がほざくか」という態度をもはや隠さなかった。
「お前さんの鷹が隠し事をしている可能性はないのかの?」
疑いは一笑に付される。「居残り組の密会を見逃した可能性も高いけど?」とラオタオは挑発的だ。暗にお前の手抜かりだろうと指摘され、狼男はぴくりと眉を吊り上げた。
「こっちはしっかり見張っていた。状況から考えて、落ち度があったとしたらお前の部下だろう」
「でも誰もなんにも見てないって言うんだもん」
「それが変だって言ってるのよ。一羽ずつ尋問したほうがいいんじゃない? ハイランバオスになびいたのかもしれないわよ」
ウァーリの言にダレエンも「そうだな」と頷く。三羽の鷹は嫌がる素振りで羽を畳み、トットットッと狐の傍らに固まった。
「へえ、ちょっと胡散臭いってだけで同胞を拷問にかけるつもり? んなことしたら一気に無駄な疑心暗鬼が広がっちゃうんじゃない?」
相変わらず嫌な脅しをかけてくる男だ。伸ばしかけていた腕を思わず止めたウァーリにラオタオはくすりと笑う。他人など知ったことではないダレエンは鷹の首根っこを掴んで一羽捕らえてしまったが。
「話が進まんよりはいい。潔白とわかったときは同じだけやり返させてやる」
ピイピイと翼を広げて鷹は暴れた。しかし動物歴の長さでは帝国随一の彼に敵うはずもなく、逃亡は一向に成功しない。
頭と脚を押さえ込まれ、偵察兵はなす術もなさそうだった。難を逃れた二羽もおろおろと羽ばたきを繰り返す。
「これ! 放してやれ!」
止めたのはファンスウだ。「狐っ子の言う通り、猜疑心に取り憑かれれば結局我らは破綻する。疑わしいだけでは傷つけていい理由にならん」と古龍は尋問を諦めさせる。不服げに唇を尖らせてダレエンは鷹を解放した。
「さっすが龍爺、頼りになるう!」
「その代わりこやつらはわしが預かるぞ。監視には二度と使うな」
すかさずファンスウはラオタオに命じる。有無を言わさぬ威圧的な口ぶりにひとまず狐も「わ、わかった」と頷いた。
「残り七羽もだ。いいな?」
「えええ!? 残りも!? な、なんで!?」
古龍は「わからんとは言わせん」と応じない。わざと焦っているようにしか見えない青年を一瞥し、ウァーリは秘かに嘆息した。
ラオタオの信用ならなさはこれで確定した気がする。サールで獄に囚われたタイミングを考えると王女一行に何もなかったとは到底考えられなかった。
彼らが嘘をついているのだ。最初から「怪しい動きはなかった」と言わせるために狐は鷹を同行させたに違いない。
(龍爺がなんて言っても心のどこかで仲間だって信じてたのに……)
苦楽をともにしてきた同胞を裏切り者などと断じたくはない。けれど背信を否定するのは難しかった。これだけルディアに大々的に動かれてなんの収穫もなかったなんて言われては。
「いい加減苛々してきたな」
ダレエンの呟きにぎゅっと拳を握りしめる。あの酔狂な詩人にやられ通しで情けなく感じているのは彼だけではない。
本当に早く尻尾を捕まえなければ。生じた亀裂がこれ以上深まる前に。
******
目が覚めたら随分部屋が明るくて、今が昼過ぎなのに気づく。
どうやら朝の打ち合わせはすっぽかしてしまったらしい。だというのに焦りも後ろめたさもなく、なんだか奇妙な心地がした。
心が麻痺してしまったか、まあいいか程度にしか感じていない自分がいる。任務放棄など初めてだ。これからはルディアを一番にするのではなかったのかと少し呆れた。
(まあ起きられなかったのは仕方ない。時間を戻せるわけでもないしな)
アルフレッドは外靴のまま乗り上げていた寝台から足を下ろした。寝る前に散らかした装備を跨いで水差しの水を飲む。
今日くらい不真面目でもいいじゃないかと思うのは、多分もう何をしたって望むものにはなれないと確信しているせいだろう。この先は少しでもましそうに見えるまがいものを拾って生きていくだけなのだと。
歩くのも億劫だったがなんとか身支度を整えて家を出た。宮殿に足を向けたのは人質役をこなさねばという義務感があったからではなく、誰が優しくしてくれる人間か知っていたからに違いなかった。
「アルフレッド! 遅かったわね?」
心配したのよとアニークが言う。いつも正午の鐘が鳴ると一旦寝所から引き揚げるユリシーズの姿もあり、ほっと胸を撫で下ろした。
「定例会議が始まる前に会えて良かった。どこかで倒れているんじゃないかと冷や冷やしたぞ」
白銀の騎士が見上げた時計は午後三時の少し前を示している。ああそうか、十人委員会があるから残っていたのかと合点した。注がれる眼差しのいたわり深さから察するに、それだけでもなさそうだったが。
レイモンドにはわずらわしさしか感じなかったのに、ユリシーズには素直に感謝の念が湧く。己の心がどちらに寄っているかなど考えるまでもない。
アニークに対しても、ルディアといるよりよほど安心できる気がした。かと言って彼女を次の主君にと思えるわけではなかったけれど。
「さあ座って。あなたを待っている間に私また詩を書いたのよ」
促されるままアルフレッドはソファに腰かける。
パディの心が癒しきれぬものであるのは明らかなのにアニークはまだめげていないらしい。昨日の今日でよくやるなと女帝の熱意に感心した。
「またですか? 飽きませんね」
口からぽろりと零れた言葉が存外に冷淡で、アルフレッドはどきりとする。
どうやら己はあの老詩人をも恨み始めているらしい。知りたくもない真実を白日のもとに晒され、天の一番高かった星を落とされて。
「うーん。騎士物語を読み返していると、やらなくちゃってじっとしていられなくなるのよね」
こちらの変調には気づかず、アニークがそう言った。特に初期のエピソードは胸をわくわくさせて読んだのを思い出すからと。
「ユスティティアとグローリアに出会わなければ、私、自分の境遇に絶望してもっといじけていたかもしれないわ。一番苦しかったとき、私を支えてくれたものを作ってくれたのがパディだもの。少しでも寄り添えるなら寄り添いたい。私の詩にそれができるなら」
インクで汚れた褐色の指が封筒を開く。できあがったばかりだという彼女の詩は温もりに満ち、どこまでもひたむきだった。
羨ましくなる誠実さだ。自分にもあると信じた偽物とはまったく違う。
「それにこれは私がしているというよりもパディの積み重ねてきたものが彼に返っているだけなのよ」
更にアニークは己の手柄を手離すようなことを言う。成したことはどれほど時が流れても巡り巡って自分を助けてくれるのだと、ジーアンの蟲たちの長い記憶を思わせる声で。
「…………」
どんな顔で聞けばいいのかわからずにアルフレッドは目を伏せた。
きっと彼女の言う通りなのだろう。自分のしてきたことが自分に返ってくるというなら今の惨状も納得だ。
偽物ばかり積み上げてきて瓦解した。自覚したなら去ればいいのにしつこくかけらを漁っている。どこかに本物がまぎれてはいなかったかと。
三時の鐘が響いたのはそのときだった。
「申し訳ありません、アニーク陛下。私はこれで」
辞去を告げ、ユリシーズが名残惜しげに席を立つ。こちらの肩に手を添えた彼が「夜またな」と耳打ちするのにアルフレッドは頷いた。
まだすべて終わったわけではないと言い聞かせる。まだ道は続いていると。
「ねえアルフレッド」
寝所に二人きりになるとアニークは詩を書いた便箋を畳んだ。それを封筒に戻しつつ彼女は優しい声で囁く。
「あなたにもいつかお返しするわ。あなたが私にくれた分と同じだけ」
どうしてか何も答えられなかった。「ありがとうございます」とか「楽しみにしています」とか返しようはいくらでもあったのに。
他人事じみていた。
自分がアニークに何か与えた覚えもなかった。
「というかその前に剣を返さなくちゃよね」
苦笑いで女帝は壁に飾ったバスタードソードを振り仰ぐ。ウォード家の鷹の紋章が刻まれた、伯父からの贈り物を。
そう言えば彼女に預けたままだったなと思い出す。今はあの片手半剣よりも白銀の騎士と揃いで持つひと振りのほうがしっくりと身に馴染んでいた。
「どうする? 私が東パトリアに帰るときに返すつもりだったけど、別にもう持っていっても構わないわよ?」
問いかけにアルフレッドは首を振る。昔と同じ剣を持っても昔と同じ無垢な気持ちでは喜べないとわかっていたから。
ルディアが祝福をくれた剣。口づけを授け、騎士のものだと認めてくれた。
あのとき主君に心を捧げると確かに誓ったはずなのに。
「……いえ、まだしばらく、あなたの手元に置いておいてください」
腰に手をやり、アネモネの意匠の彫られた柄頭にそっと触れる。
まだすべて終わったわけではない。
胸中で繰り返す。たった一つ残された呪文のように。
******
小会議室に現れたレイモンドとルディアを見やり、ユリシーズは力いっぱい眉を歪めた。来るだろうと予測はついていたけれど、実際二人の姿を目にすると名状しがたい不快感がこみ上げる。
よく平然と振る舞える。自分たちの所業が一人の騎士をどれほど痛めつけているかなどどうだっていいのだろう。いつも切り捨てる側に立つ彼女は特に。
舌打ちを堪えて斜め下に顔を背けた。さっさと旅の報告を済ませて消えろと念を送る。
あまりにも胸糞悪い。同じ空気を吸っているだけで吐き気がする。
「えーっと、結果から言うと融資の取り付けには成功しました。使うのも怖いんで、しばらく寝かせとこうかなとは思ってますけど」
こちらの胸中に気づくことなく印刷商はサール宮でのやり取りを説明する。謁見は穏やかに終わったと聞いて一同の緊張がやや緩んだ。
委員会の面々は騎士物語の結末に多大な問題ありと把握済みである。詩客の存在が今すぐ外交上の障害を生む可能性は低そうで皆安堵した様子だ。
「一応これも見せときますね」
続いてレイモンドはマルゴー公から受け取ったパディ宛の手紙を提出した。手から手に便箋が渡り、ユリシーズにも回覧の順番がやってくる。
確認した文面は「ずっと探していた詩人の噂を聞きつけて嬉しく思っている。是非またサール宮を訪ねてほしい」という至って普通のものだった。最終巻の内容を知る人間にはぞっとする脅迫文でしかなかったが。
「パディ殿には読ませんほうが良かろうな。見張っているぞと宣告されているようなものだ」
ニコラス・ファーマーが小さく呟く。女帝の賓客を刺激しないように手紙は一旦彼が預かる運びとなった。
「お前さん、くれぐれも続刊をあのまま印刷するのでないぞ」
「わ、わかってますって。パーキンにも今朝またちゃんと釘刺しておきましたから」
最重鎮たる老人は目を鋭くして壇上のレイモンドを見上げる。対する印刷商の締まりなさにユリシーズの苛立ちは膨れ上がる一方だった。
涼しい顔で槍兵の隣に立つルディアにはもはや憎悪しかない。今までの執着にはわずかな情も混じっていたが、それも完全に消え失せた。アルフレッドが彼女を望んでいなければこの世から葬り去る方法を考えていたに違いない。
「こちらが王国史の原稿です」
次にルディアから分厚い紙束が差し出された。王女はしっかり読み通した後らしく「民の目には触れさせぬほうがよろしいかと」と進言する。
「ほう?」
老人たちの視線にはかけらも動じずルディアは続けた。
「世に出せば独立の機運は高まるでしょうが、国内が再独立派と自由都市派に分かれている今は単に溝を深めるだけです。アクアレイア全体の方針が定まるまで厳重に封印し、ここぞというときに出すのでなければなかったことにするべきかと」
分裂が進めば余計に国は疲弊するとの主張にニコラスは「わかった」と頷く。
「参考意見の一つとして覚えておこう。後はこちらで検討する」
手振りで退室を促され、二人はぺこりと一礼した。やっと出て行ってくれるらしい。
だがユリシーズの安息はまだ訪れなかった。これでまともな呼吸ができると安んじたのも束の間、今度はドミニク・ストーンが彼らを呼び止める。
「あっ、ちょっと待ってほしい! ドナに送る小間使いの件はどうなっているかな?」
去りかけていたルディアたちが振り返る。答えたのは王女のほうだ。その日を迎える前に己がどうなる運命かも知らず、彼女は期日を口にした。
「ただいま最終準備を整えているところです。問題なければ一週間以内に出立します」
ユリシーズはごくりと息を飲む。思っていたよりルディアはすぐに動き出すつもりらしい。
(一週間――いや、事によってはもっと早いぞ)
頭の中で計算を始める。
船はおそらく海軍が出すことになるだろう。ドナへ赴く程度なら一日あれば支度できる。
ラオタオは今日にも出航命令を下すかもしれない。ならば最短で明後日だ。あまり悠長にしている余裕はなさそうだった。
「おお、良かった良かった。ちくちくせっつかれていたから、実は気が気じゃなかったんだよ」
防衛隊に患者の語学指導を頼んでいたドミニクはほっと表情をやわらげる。
「では我々は失礼します」と閉ざされた扉を見やり、ユリシーズは一人秘かに拳を握った。
急がなくては。
アクアレイアを出られる前に決着をつけねばならない。
******
印刷工房に向かうレイモンドと別れ、ルディアが墓島の療養院に着いたのはそろそろ太陽が西に傾きだそうかという頃だった。
いつもならひと足先にブルータス整髪店に戻っているところだが、今日だけはそうもいかない。患者たちの側についていてやらねばならぬ理由があった。
――マルコムたちに蟲の存在を知らしめたのは今朝のこと。彼らはぽかんと目を瞠るばかりで初めは少しも信じようとしなかった。ブルーノの「実演」を見せてやってもまだ現実味がなさそうで。
昼前にはじわじわと自分たちがどういう生き物か理解し始めたようだったが、どの程度受け入れられたかは不明である。彼らの困惑を考えれば今夜はモモやアイリーンたちと院に泊まり込んでやるのが良策だった。
「だいぶ落ち着いたみたい。ショックで泣いてた子も泣きやんだよー」
談話室の扉から顔を覗かせた斧兵の報告に安堵する。「そうか」とルディアは安堵に頬をほころばせた。
アクアレイアの未来は彼らにかかっている。一歩目を踏み出してくれたことに心から感謝した。
モモによれば「退役兵と入れ替われば安全」という話が最も効いたようだ。己の生態よりドナ行きを悲観しなくて良くなったのが大きいらしい。
重大な役を与えられて喜ぶ者も多いという。巣のためになると聞けば働こうという気になるのが蟲の特性かもしれない。ともかくも入れ替え作戦は実行に移せそうだった。
あとは現地でどう動くかの問題だ。誰と誰を接合させるかは即時判断せねばなるまい。アンバーやバジルとも上手く連携できればいいが。
「ねえ姫様、今のうちにちょっといい?」
と、声を潜めてモモがこそこそ尋ねてくる。患者たちが大人しくしている間に話がしたいと彼女が言った。
なんのことかなど聞くまでもない。朝の打ち合わせでも彼女はずっと食卓の空席を気にかけていたのだから。
「……わかった」
小さく頷くとルディアは談話室を離れた。療養院を出て墓地に向かえば斧兵はてくてく後をついてくる。
モモの表情は普段と変わらない。だが今はどんな恨み言を吐かれても不思議ではなかった。彼女の兄を追い込んだのは己だし、言いたいことの一つや二つあるだろう。
セージの揺れる墓所にはややもせず到着した。振り返ったルディアを見上げ、さっそくモモが問うてくる。
「あのさ、アル兄ってレーギア宮には行ってたの?」
やはり出てきた男の名前に苦笑いで「多分な」と答えた。
「中庭を通ったときもジーアンの連中には特に何も言われなかったし、女帝のところには顔を出していると思う。一応薬局にも寄ってからきたが、そっちは弟しかいなかった」
斧兵は「そっか」と返す。
「それならいいけど……。いや、良くはないか」
独り言めいたぼやきの後、しばし沈黙が流れた。
時間が経つにつれて静けさが重くなる。一陣の風が緑草を薙いだ後、モモはぽつりと呟いた。
「今回は立ち直れないかもしれないね」
責めるでも嘆くでもないシンプルな現状認識に胸が痛む。今朝レイモンドが「駄目だった」と告げてきたときより痛みは増している気がした。
こうなることは予期して告げた別れだったのに狼狽するなどおこがましい。たとえ言わずにおいたとしても破綻はいずれ訪れたのだ。だったらきっと早いほうが良かった。
何度自分に言い聞かせても苦い思いは消えなかったが。
「何かしてやれることがあると思うか?」
独りよがりな問いかけを斧兵は「ないんじゃない?」とばっさり切る。肩をすくめて彼女は続けた。アルフレッドとはまた別のまっすぐさで。
「姫様は国のためにやるって決めたんでしょ? アル兄一人のために退けないじゃん。だったら後はアル兄の問題だよ」
撤回する気がないなら余計な真似はよせというもっともな返答に押し黙る。ぐうの音も出ぬほどモモの言う通りだった。
「姫様に何かできるとしたら、アル兄がどんな結論出してきても認めてあげるくらいじゃないの? 聞き入れるか聞き入れないかは置いといてさ」
ぶれることを知らぬ少女に「そうだな」と頷く。どうやら彼女はルディアの決意が揺らいでいないか確かめたかっただけらしい。ついでにドナでの難局を乗り越えるべく少しでも気がかりを減らそうとしてくれたようである。
「モモ、惰性では兵士続けないからね。忘れないで」
言外にしっかりしろと告げ、斧兵は「先に戻ってる」と踵を返した。
十月の冷たい風に吹かれながらルディアは緑の墓地を見渡す。
――どうしても他人を信じられない。
アルフレッドにそう伝えたのもここだった。
あのときも自分は彼の心を遠ざけようとしていたのだ。待っていてもお前を信じる日など来ないぞと。
「ルディアのため」でなかったことが不満だったわけではない。ただもう彼の人生を搾取する一方なのが耐えがたかった。
己のほうに覚悟がないのだ。アルフレッドの追いかけてきた夢の責任を負う覚悟が。
(あいつなら誰からも重用されるだろうしな……)
暮れかけてきた空を見上げる。
恋人でもない男に一生を捧げろなどと言えなかった。
******
「腹を決めろ」と迫られてアルフレッドは息を飲む。夜の酒場、カウンターに並んだ騎士は低い声で決行の日を告げてきた。
「――明日だ」
瞬間、指先まで凍りつく。心臓は跳び上がり、背には汗が滴った。瞠目して見つめ返せば若草色の双眸がたじろぐ男を映しだす。
「早すぎないか?」
かろうじてそれだけ問うとユリシーズは「時間がない」と首を振った。
「一週間以内にドナへ発つそうだ。ラオタオが急げと言えば船はすぐにも出るだろう。明日中にやるしかない」
今日の委員会で聞いたと言われれば情報の正確さを疑うわけにいかなかった。
ドナ入りすればルディアはもうアクアレイアに戻ってこないかもしれない。少なくとも接触は今より困難になるはずだった。
彼女の率いる蟲たちに「接合」を済まされるのも問題だ。こちらでジーアン乗っ取りを進めるならこちらの用意した蟲に記憶を移さねばならなかった。
「アルフレッド」
手を握られ、自分が震えているのに気づく。白銀の騎士はもう一度「時間がない。腹を決めろ」と説きつけた。
ぐるぐると仲間の顔や主君の顔が脳裏を巡る。かぶりを振って幻影を意識の外に追いやった。
「……わかった」
王家を再興するためだ。そのほうが彼女のためにもアクアレイアのためにもなる。間違っているのはルディアだという声にすがって頷いた。
「どうすればいい? この酒場に呼び出せばいいのか?」
尋ねるとユリシーズは「ここはちょっとな」と難色を示す。
「あの女は勘が鋭い。酒場などに何故と警戒されるかもしれん。取り逃がせば面倒なことになる」
「じゃあどこに? ほかにいい場所なんてあるか?」
首を絞めるわけだろう、とは口に出せなかった。あまりに野蛮なそんな言葉は。
「いつも待ち合わせに使うのはどこだ? それが一番怪しまれない」
問われてアルフレッドは考える。ブルーノの家は論外だろう。ほかの面々の出入りもある。ガラス工房はもっと駄目だ。主人のモリスが家を空けない。
「……大鐘楼の前、かな」
ぽつりと答えると白銀の騎士が「なるほど」と笑った。
一度崩壊した後に広場内に建て直された望楼。アクアレイア人なら誰であれ目印にする建物である。
「お誂え向きだ。そこにしよう」
ユリシーズは夕方から人払いしておくことを約束した。頂上なら逃げるのは難しい、午後六時の鐘が鳴ったら鐘室まで連れてきてくれと囁かれる。
「必要なものは私がすべて揃えておく。お前は何も案じるな」
白銀の騎士はアルフレッドの手を握り直して力をこめた。落ち着かせるよう優しい響きの言葉が何度も重ねられる。大丈夫、二人でやれば上手く行くと。
「今日は一杯だけにしておこう」
立ち上がった彼は一番いい酒と一番いいグラスを手に戻ってきた。注がれたワインは血と見まがうばかりに濃い。
誓いを立てろと言うのだろう。半分まで一人で飲むとユリシーズは残り半分をアルフレッドの前に差し出す。
一滴も飲まぬうちから眩暈がしていた。酔っていたといえば初めから酔っていたようなものだが。
「…………」
ごくり、ごくりと喉を鳴らした。
異様なほど舌が痺れ、どんな味かは最後までわからなかった。
******
一体全体この男は何をのたまっているのだろう。まったく状況がわからずにグレースは大量の疑問符を浮かべる。
夜も更けきったリリエンソール邸で白銀の騎士は鳥籠の小さな扉を開こうとしていた。小鳥はグレースが自室で飼っている蟲入りインコだ。ユリシーズはその首を絞めて中身をよこせというのである。
「もう一度お願いしますわ。お兄様、今なんて仰いましたの?」
「だから明日、アルフレッドに協力してルディアの『本体』を封じるから脳蟲を一匹貸せと頼んでいるのだ」
二本の指で額を押さえてグレースは唸る。なんだかそこのベッドで寝直したほうがいい気がした。これはおそらく夢の続きを見ているのだ。きっとそうに違いない。
「借りていくぞ」
「ああもう、お待ち! このうすら馬鹿!」
乱暴に小鳥を掴もうとした男を鳥籠から引き離す。可哀想なアナステシアスは小さな身体を震わせて止まり木の陰で怯えていた。
「何がどうなってそうなったんだい?」
理解に苦しみすぎてつい妹のふりを忘れる。百歩譲って「ルディアの『本体』を封じる」はわからなくもない。あの生意気な小娘を渡り鳥か猫にでも変えて飼い殺しにしてやれば胸もすくだろう。だが「アルフレッドに協力して」とはどういうことだ。
「…………」
「黙っていないで説明なさいな、お兄様」
壁掛け燭台の灯火だけが揺れる寝室で白銀の騎士と向かい合う。しばし渋面を浮かべたのちユリシーズは「アルフレッドはルディアに首を切られたのだ」と忌々しげに返答した。
「首を切られた? 防衛隊が解散にでもなったのかい?」
「そうではない。もう仕えなくていいと言い渡されたのはあの男だけだ」
「????」
今一つ飲み込めずに小首を傾げる。
ユリシーズ曰く、王女の身体を失くしたルディアは前々からアルフレッドにほかの主君を求めるように水を向けていたらしい。それが先日ついにはっきり「次のグローリアを探してくれ」と突きつけてきたそうだ。
赤髪の騎士は傷つき、深く動揺しているという。そこまで聞いてグレースもようやくいくらか合点した。
「ああ、だからアルフレッドを味方に引き込もうというわけ。あの子は女帝の気に入りだものねえ」
この発言に対するユリシーズの反応はなかった。相槌を打つでもなく、答えあぐねるような素振りに「?」と不信感がもたげる。
グレースは騎士の表情を注視した。いくら眺めても何をそんなに思いつめた目をしているのかはわからなかったが。
「……まあそんなところだ」
ユリシーズはなんだか奥歯にものの挟まった言い方をする。どういう経緯で蟲の話を共有するに至ったかには触れもしないし、怪しいなと直感した。もう少し遠回しにつついてみたほうが良さそうだ。
「でもあの騎士、随分な忠義者ではなかったこと? 主君に手をかけるような真似ができるのかしら?」
問いかけに白銀の騎士は眉間のしわを深くする。声を荒げて彼は答えた。
「部隊内で色恋の揉め事もあったと言えばわかるか?」
なるほどとグレースは頷く。半分は若者たちにはありがちな話だという納得で、半分は話を進めるための演技だった。
「で、どうしてお兄様が彼らの事情をご存知ですの?」
問いを重ねればユリシーズが口を開く。これで二人の騎士が秘密を教え合う間柄になった理由がわかるだろう。
グレースの予測は概ね正しかった。出てきた答えは想像の埒外だったが。
「この数ヶ月、毎晩のように一緒に飲んでいたからな」
思わず「は?」と眉を引きつらせる。斜め上からの豪速パンチに驚きすぎて思考が一時停止する。
毎晩のように一緒に飲んでいた? 一体誰と? まさかアルフレッドとか?
ストレスが溜まると隠れ家で一人酔いどれているのは知っていたが、よもや男を――しかも政敵の腹心を連れ込んでよろしくやっていたというのか?
「なっ、なっ、何を考え……っ」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。いくら宮廷で毎日顔を突き合わせているからといって簡単に胸襟を開いていい相手ではない。そんなことも言われなければわからないほどのお坊ちゃんだったとは。
こちらの非難をねじ伏せるように白銀の騎士は鋭く睨みつけてくる。右手をずいと差し出してユリシーズは厚かましく要求を繰り返した。
「ルディアを欠いて防衛隊が腑抜けになれば貴様も願ったりだろう? 詳しいことは急襲が成功したら教えてやる。だからともかく蟲を貸せ」
本当になんなのだ。この男は一体何を考えているのだ。
グレースは痛むこめかみに指を添わせた。確かに王国再独立派の彼らが退場してくれれば自由都市派はやりやすくなる。ルディアを捕らえる絶好の機会というなら邪魔だてする理由はない。理由はないが――。
「……貸すのは貸してやるけれど、もう少し慎重になるべきでないかい?」
問いかけながら聞き知った情報を頭の中で整理する。わかるのは、おそらくユリシーズが利害ではなく感情で動いているということだった。
ろくな説明をしないのは屁理屈をこねる冷静さも損なっているからだ。何があったか知らないが、彼の視野は極端に狭まってしまっている。
ルディアが絡んでいるせいかもしれない。まったくこの坊やも成長しないのだから。
「慎重に? 十分慎重なつもりだが?」
自信過剰にも反論などしてみせるユリシーズにグレースは鼻で笑い返した。
「とてもそうは見えないよ。私にはアルフレッドが信用できる男かも心配だね。自分の手を汚したことなんてなさそうな顔をしているじゃないか。ぎりぎりになって怖気づきやしないかい?」
ぎろりと激しくねめつけられる。よほどあの騎士に熱を上げているらしく、ユリシーズは強い語調で否定し返した。
「アルフレッドはそんなことはしない。誓いの杯も飲み干してくれた」
こちらのあずかり知らぬ間にどれほど厚い友情を育んでいたのだか。のぼせきった少女の相手をするようで辟易する。
はあと大きく嘆息し、グレースは再度忠告を行った。
「――わかっていないね、お兄様。もしアルフレッドがやっぱりこんなことはできないと言い出したら、誰の立場が一番悪くなると思っているんだい?」
指摘を受けてユリシーズは初めて落とし穴の存在に気がついたようである。ハッと瞠目したきり白銀の騎士は押し黙る。
「もう動き出している話なんだろう? 取りやめにはできないし、取りやめになれば相応の代償を支払うことになる。これはそういう種類の奸計だ。だから慎重にとは言ってもやめろとは言っていない」
グレースはできるだけ穏やかな声で語りかけた。
計画は綿密に練り、実行は速やかに。他人に漏れる可能性は徹底的に潰しておくのが陰謀の基本である。彼はその最後の詰めが甘かった。
「アルフレッドがルディアを裏切れなかったときは始末しなきゃいけないよ。でないとルディアに何を報告されるか知れない」
ごくりと息を飲む音が響く。
暗殺まがいの襲撃を共謀するくらいだ。脳蟲のこと以外にも色々とまずい話をしたことは間違いない。その程度の推察は青ざめた額を見れば簡単だった。
ユリシーズは不安を払うようにかぶりを振る。「アルフレッドは大丈夫だ」となお強がる彼にグレースは囁いた。
「そう。でも一応心づもりはしておきなさい。――剣をお出し。トリカブトの毒を塗ってあげるから」
差し出した手は乱暴にはねつけられたがそんなことに怯む己ではない。強情に拒もうとする男に「蟲を貸してほしいんだろう?」と迫った。
「使わずに済めばそれでいい。どんなことにも備えは必要というだけさ」
問答の末、ユリシーズは渋々鞘から剣を抜いた。アネモネの意匠が彫られた柄頭のほかは飾り気のないバスタードソードだ。
グレースは蝋燭の明かりを頼りに毒と蟲を用意した。すべてが終わる頃には外は明るくなっていた。
******
意を決して整髪店の扉を開けるとルディアたちの姿はなく、居間のテーブルには「今夜は皆で療養院に泊まっている。朝の定例報告はない」という書置きだけが残されていた。
拍子抜けしてアルフレッドは息をつく。どんな風に「午後六時の鐘が鳴る頃大鐘楼まで来てほしい」と伝えたものか散々頭を悩ませたのに。
ほっとしたような、重荷を早く手離したいような、複雑な気分で店を出た。嫌になるほど空は晴れ、秋の薄雲がひっそりと風に流れている。
レーギア宮でもいつも通りとはいかなかった。サロンに入るなりアニークに「どうしたの!? 昨日より顔色悪いわよ!?」と慌てられ、「帰って寝ていたほうがいいわ」と危うく回れ右させられるところで。
せめてユリシーズが来るまではと粘ったものの、白銀の騎士は一向に現れる気配がなかった。大鐘楼の人払い工作に手間取っているのかもしれない。彼の顔を見れば少しは気も落ち着くかと思ったのだが。
結局ユリシーズは正午を過ぎても訪ねてこず、アニークの「早く休んで」に押し負けてアルフレッドは女帝の寝所から追い払われた。
ターバンを巻いた東方商人と肩の膨らんだ西方商人が行き交う広場で溜め息をつく。
本当はこのまままっすぐ療養院に向かうべきなのだろう。だが足はなかなかゴンドラ溜まりに進もうとせず、アルフレッドはアンディーン神殿と大鐘楼の間で完全に停止した。
波に揉まれる岩礁のごとく雑踏に立つ。赤レンガの塔を仰いで。
「…………」
乙女像を戴いた緑の瓦の方形屋根。その下の列柱アーチが連なる鐘室。目にしていると言い知れぬ憂鬱に囚われる。
ルディアの首を絞めること。まだ悩んでいる自分がいた。そうするしか道はないとわかっていても。
(主君を正すのも騎士の役目――)
頭の中でユリシーズの声が響く。お前なら本物の騎士になれるという囁きは、長い時間をかけて魂に染みついた強迫的な願いを眠らせてくれなかった。
それに多分、彼の言っていることは正しい。アクアレイアには王家がないと駄目なのだ。交易相手の東方にばかり重きを置くこの国が西パトリアの一員と認められてきたのは聖王と縁続きの王が治めていたからだ。アウローラが冠を得なくては西方との関係は悪化の一途を辿るだろう。一旦は自由都市を目指すにしても、最終的には王国として再独立を果たさねばなるまい。
だがそれをルディアに直接提言する気にはなれなかった。そんなこと彼女は承知済みだと思ったし、そのうえで王家再興の選択肢を捨てたのだと思った。
だってルディアにはヘウンバオスに成り代わるよりも娘に成り代わることのほうがつらいのだ。どうしてもほかを選べないなら彼女はきっと「アウローラ」を名乗れるが、選べるうちは選ぼうとしないに違いない。
聞く耳を持ってもらえないなら訴えるだけ無駄だった。下手をすれば警戒を抱かせておしまいだ。いつものように正面からはぶつかれない。いつものようにと思っても、やり方を忘れてしまった自分にはもう不可能だけれど。
「あのー、そこで露店出したいんですけど……」
どれくらいぼんやり突っ立っていたのだろう。訝る男の声に呼びかけられ、アルフレッドはハッと塔から目を下ろした。
見れば五十絡みのアクアレイア商人が大荷物で棒立ちになっている。鞄からはみ出た紙類から察するに売り物は版画らしい。騎士物語の挿絵や次巻の内容を予測した絵はよく売れるそうだから、外国商人の多い広場に足を運んできたのだろう。
「あ、すみません」
ひと言詫びてアルフレッドはその場を退いた。見えざる力に流されるように歩き出す。そうしてしまえば広場脇のゴンドラ溜まりはすぐそこだった。
「ご入用かい?」
客を見つけた船守は右手を突き出して貸し賃を要求してくる。まだ乗りたくないなどと言えるはずもなく金を払い、渡された櫂を握った。通い慣れた墓島へ向かうのに思考力は必要なかった。
重い、重い、水を掻く。肝心なことは何一つ考えられぬままで。
名高い騎士になりたかった。恥じることなく生きたかった。それはそんなに悪い願い事だったのだろうか?
――一人遊びなら一人ですべきでないのかね?
パディの言葉が耳に痛い。
だがそれ以上に「お前は次のグローリアを探してくれ」というルディアの声が痛かった。
どうすれば本物になれるのだろう? 欲しているのは物語の姫でなく確かに彼女のはずなのに。
呆けている間に舟は墓島に着いていた。波に洗われた桟橋にゴンドラを舫い、鉛のごとき足を引きずって歩き出す。
一歩ごとに近づいてくる療養院の高い壁がぐにゃぐにゃと歪んで見えて頭を振った。
どうやって中に入ったのかは覚えていない。気がつくとアルフレッドは東棟と西棟を繋ぐ渡り廊下に立っており、眼前にはルディアが足を止めていた。
「アルフレッド……」
息を飲む彼女の腕にはたくさんの革袋が抱えられている。ドナに旅立つ患者たちが各々の荷を詰めるためのものに違いない。
手伝おうかと聞こうとして聞けなかった。もういいと言われた自分がそんな申し出をしていいかわからなかった。
開いてしまったこの距離も、いつか縮まる日が来るのか。
――わからない。来ると信じることしかできない。
「夕方の鐘が鳴る頃に大鐘楼に来てくれないか」
切り出せるか案じていた言葉は意外にあっさり音になって口を出た。
彼女は小さく瞬きして「大鐘楼?」と問い返す。
「少しゆっくり話がしたい。……駄目か?」
心臓がばくばくと暴れるのを悟られぬように指先を握り込んだ。目を伏せてルディアはしばし逡巡したが、やがて静かに顔を上げる。
「わかった」
はっきりした返答にアルフレッドはひそかに安堵の息をついた。ひとまずは怪しまれずに済んだらしい。簡単に行きすぎてそれはそれで怖かったが。
「じゃあ、後で」
頷かれた途端目を合わせていられなくなって後退した。まっすぐに注がれる視線から逃げるように踵を返す。
だから呼び止める声が響いたときは心臓が止まるかと思った。
「アルフレッド!」
振り返るまでの一瞬が、永遠とも思えるほどに長くて。
誤魔化せるかどうかなんてことを一番に心配した己が酷くやりきれない。
「今からでもいいぞ。どうする?」
問いかけにアルフレッドはなんとか首を振った。両手いっぱいの革袋に目をやって「仕事を優先してくれ」と答える。
上手く喋れていただろうか。歩き出しても今度は何も言われない。
前庭を過ぎ、療養院の敷地を出ると少しずつ早足になった。桟橋が見える頃には駆け足になっていて、舟に乗り込むやロープもまとめきらないまま本島に引き返す。
いつも苦もなく操れる櫂があちらこちらに引っかかって戻るには倍の時間がかかった。
疲れたのか吐き気がする。だが家で休む気にはなれなかった。どこかで食事をする気にも、広場でぶらぶらしている気にも。
仕方なく帰路に就く。午後六時までの何時間かを潰すべく遠回りに遠回りを重ねて。
迷いたければどこまでも迷える街だった。薬局の看板が見える頃には西空がやや陰り始めていた。
高い建物に囲まれた路地は日中でも薄暗い。細い水路と階段状の小さな橋。馴染んだ光景を見渡してアルフレッドは嘆息する。
母や弟と会話するのも億劫だし、帰宅はしないつもりだった。
このまま通り過ぎてしまおう。ルディアもじきに大鐘楼へ向かうはずだ。
そう思ったのに運悪くカンテラを持ったアンブローズが玄関を開けたところに出くわしてしまう。
「あっ! 兄さん!」
弟はアルフレッドの姿を認めて胸を撫で下ろした。探しにいこうとしていたのだと言われたら「どうしたんだ?」と問わないわけにはいかなかった。
アンブローズは小さな目玉を左右にやって近所の家を気にかけながら手招きする。「早く入って」と小声で急かされ、屋内へと引っ張り込まれた。
おっとりした彼にしては珍しく切迫した様子だ。「兄さんにお客さんが来ててさ」と弟は説明する。
「けど置物みたいに中庭で座ってるだけだし、お茶出しても全然口つけてくれないし、とにかくなんとかしてくれない?」
捲くし立てられた言葉にアルフレッドは首を傾げる。誰かが訪ねてくる予定などなかったし、客間ではなく中庭に陣取るような人間に心当たりもなかったからだ。
「なんだそれ? 本当に俺の客か?」
「そうだよ! 『アルフレッドに会わせてくれ』って来たんだもん!」
どこの誰とも言わないまま弟は中庭に続く扉を開けた。
誰にも会いたくないという暗い気持ちはその一瞬、遥か彼方に消え去った。
最初に視界に飛び込んだのは放浪生活でよれよれになった薄いコート。次は褐色の肌。骨の浮いた細い首には貨幣で拵えた一重の輪が提げられている。
「――ジェレム!?」
名を呼ぶと白髪の老ロマが立ち上がる。
黒々とした瞳に光を灯らせて。
「よう、アルフレッド」
客人が頬をほころばせたのを見てアンブローズは「じゃ、後は任せたね」とさっさと店舗に引っ込んだ。来たのがロマではいくら接客慣れした弟でも対応がわからず戸惑ったことだろう。
「悪ィな、突然」
ジェレムは以前よりかれてしまった痛ましい声で詫びてきた。それからここを訪ねてきた理由を告げる。背中のリュートにしわくちゃの手をやりながら。
「――やっと歌を伝えられた。どうしても礼が言いたくて来ちまった」
******
ジェレムが家にいるなんて変な感じだ。相変わらず痩せぎすで人相の悪さもそのままだったが、険しかった目つきは随分柔らかくなり、彼の背負ってきた一番重い荷物はもう残っていないのが知れた。
歌を伝えられたということは無事にカロとは会えたのだろう。最北の地での決闘の後、カロは「ジェレムに直接聞く」とアルフレッドの覚えた旋律を奏でさせてくれなかった。あのとき彼に預けたリュートが今ジェレムの手にあるということは、二人の間で望ましいやり取りが行われたに違いない。
老ロマは照れくさそうにはにかんでいる。その表情を見ていたら彼と初めて会った日のことや北パトリアへの旅の情景が思い出された。
最初は道案内を渋られ、カロを探すのを手伝ってほしいなら親指をよこせと迫られた。何度も置いて行かれそうになり、山越えでは剣まで売られて。
盗賊から庇ってくれたのに、と怒ってくれたのはトゥーネだった。それからフェイヤが大泣きしながらごめんなさいと告げにきて、そして。
かたくなだったジェレムの心が解けたのはパトリア人とロマの混血児を父母どちらが引き取るか話し合った夜のこと。黄金の眼に災いを招く力などないと知り、老ロマは涙した。
もつれていたカロとの関係は修復に至ったのだろうか。今更親子に戻れないとジェレムは諦めていたけれど。
「……ありがとうな。お前のおかげであいつにも俺たちの歌い継いできた望郷の歌を教えてやれた」
改めて礼をされるとむずがゆく、アルフレッドはかぶりを振る。
「たいしたことはしていないよ」
そう返せばジェレムはこちら以上に強く首を振った。
「お前から邪視は迷信だと聞かされなきゃ俺はひねくれたままだった。本当に何もかもお前のおかげだ、アルフレッド」
ロマの感謝は率直で、だんだんと居た堪れなくなってくる。そこまで言ってもらえるほどの人間ではないのにと卑屈な憂いが心にもたげた。
「いや、迷信と知っているのは別に俺だけでもないしな」
気がつけばアルフレッドは自嘲気味に肩をすくめて笑っていた。老ロマから目を逸らし、すぐ脇の花壇を見やる。やんわり賛辞を拒むこちらに彼はむっと細い眉を吊り上げた。
「だが俺が出会ったのはお前だろう? 人さらいからフェイヤを助けてくれたのもほかの奴じゃない」
謙遜屋めと悪態をつかれる。しかしジェレムの不機嫌は長く続かず、すぐにまたアルフレッドは近況など尋ねられた。
「あれから元気にやってたのか? フェイヤもトゥーネもしょっちゅうお前を気にしてるぞ。今日は連れてこなかったが」
「そういえば別行動なんだな。ジーアン兵もうろついているし、女性連れでは危ないか」
答えたくない気持ちが働いて咄嗟に問いを流してしまう。
誇れる近況など一つもない。逸れた話に何言うでもなく老ロマは「まあそれもあるが」と呟いた。
「三人もいると目立つだろう? アクアレイアじゃロマは厄介者なわけだし」
どうやら彼はアルフレッドに迷惑をかけるまいと考えていたらしい。「厄介者って」と思わず眉間にしわを寄せる。
ジェレムは笑っただけだった。「俺の気にしすぎならいいんだ」と彼は話題を元に戻した。
「で、今は苦労なくやれてんのか? 土産話がなかったら怒るってフェイヤに口酸っぱく言われててな。なんでもいいから聞かせてくれよ」
無垢な子供の名を出されると黙っているのがつらくなる。こんなことがあるから誰にも会いたくなかったのだとアルフレッドは胸中で嘆息した。
話したくない。話せることなど何もない。
「…………」
プランターを見つめたまま黙り込む己をジェレムが覗き込む。さすがに沈黙が長すぎたらしく、老ロマは「どうした?」と気遣わしげに目を上げた。
「お前、なんか様子が違うな。前に剣を売り払っちまったときと同じような顔になってるぞ。街に戻ってから何かあったのか?」
ためらいもなく切り込まれ、アルフレッドは眉根を寄せる。我が身に起きた難事の数々をつらつらと語れるならばこれほど苦しんでいなかった。
剣を売り払われたときと同じような顔をしているという言葉にも追い打ちをかけられる。
よぎったのは山賊に身をやつした父の姿だ。もはや人から奪うことしか考えられなくなってしまった。
あのときも、騎士の証である剣を失くしたときも、苦い思いなら味わった。だが今この胸を腐食させている痛みは。
「……ああ、フェイヤの喜びそうなことなら一つあったよ。俺の剣、どうにか手元に戻ってきそうだ。流れてきたのを買ってくれた人がいてな。あの子気に病んでいただろう?」
ちぐはぐな呟きにジェレムはやや顔をしかめたようだった。「そりゃフェイヤは喜ぶに違いないが……」と歯切れの悪い言葉が返る。
せっかく訪ねてきてくれたのにまともに相手をできそうにない。どう言えばさっさと帰ってくれるだろうかと恩知らずな算段までしてしまう。
「…………」
老ロマはしばし黙ってこちらを見ていた。喋りたくない思いは汲んでくれたのか、それ以上具体性のある質問はしてこない。
代わりにジェレムは中庭のタイルの上にどっかりと腰を下ろして膝を立てた。何を思ったか地べたにリュートを横たえて彼は突拍子もないことを言い出す。
「――わかった。そこに座れ、アルフレッド。俺がリュート占いをしてやる」
思わぬ誘いにアルフレッドは「は?」と間抜けな声を上げた。
リュート占い? なんだそれは?
初めて耳にする占術に困惑する。一方老ロマは至極真面目な顔をして「ほら、早く」と手招きした。顎先でしつこいほどに促され、最後はむんずと力任せに腕を取られる。
「いや、あの、ジェレム、俺は占いなんて」
「いいからいいから。最初は皆そう言うんだよ」
リュートを挟んで庭に座し、強引な老人と向かい合う。
一体ジェレムは何を考えているのだろう? 始まる前から「ロマの占いって確か全部詐欺だよな?」とも聞けず、アルフレッドは対応に悩んだ。
「好きな弦を選んで弾きな。これは音の響きを聴く占いなんだ」
偽占い師は一応それらしきことを口にする。したくもない話をしなくて済むならとアルフレッドは辞退を諦め、タイル張りの床に座り直した。
八弦の真ん中二つを選んで爪弾く。
響いたのはボーンと重く跳ねる低音だ。耳と手の懐かしい感触にしばし思考するのを忘れる。
「――……」
音は少しの反響を残して掻き消えた。
伏せていた瞼を開き、老ロマはしたり顔で結果を告げた。
「なるほどな。今のは嘆きと苦悩の音だ。最近生活に困り事があるか、誰かと揉めるかしただろう」
困惑はますます深まった。事実を言い当てられたからではない。ジェレムがペテンを隠す気もなかったからだ。
「後悔している。ままならない運命に対する怒りや、自分自身への失望もある。それから懐疑。いや、猜疑かもしれない」
話が進んでも内容は変わらず、どんな顔で聞けばいいのかわからなくなってしまう。誰にでも当てはまりそうなことをもっともらしく囁くのが財布の紐を緩めるコツだと明かしたのはほかならぬロマたちなのに。
困り事の一つや二つ誰にだってあるだろう。困っていれば後悔していて当然だし、怒りや失望を抱く可能性も高い。人との揉め事ならなおさらだ。
ジェレムの直感が鋭いから見透かされたとはこれっぽっちも思わなかった。タネの割れた手品で彼は何がしたいのだ?
「お前今、インチキな占いしやがってと思ったな?」
ぎくりと身を強張らせ、アルフレッドはぶんぶんと首を横に振る。「そこまでは思っていない」と弁解すれば老ロマは静かに黒い目を伏せた。
「――これに騙される奴が多いのは、誰の人生にも苦しみや悲しみがあるからだぞ」
苦難の道を歩んできた一人の男がそう告げる。
まるで何かの神託のごとく。
ジェレムの深い眼差しは「お前だって地上の哀れな旅人だ」と告げていた。ときに無力に打ち震え、道の途上で立ち尽くす。
「……なんかでかいもん抱えてるんだろ? 励ますくらいさせてくれよ。これでも俺はお前のためならなんでもする気でいるんだからな」
老ロマはリュートを腕に持ち直す。自然な仕草で奏でられた一節が綺麗で、アルフレッドは黙り込んだ。
――ジェレムはきっとわかっている。言葉にせずともこの胸を穿つ苦しみを感じ取ってくれている。
だって彼の音楽は優しい。
「別に言わなくたっていいさ。言えないことも背負わなきゃならないのが人生だ。歩くほど靴は汚れるし、踵だって擦り減ってく」
でも、と老ロマは空を見上げた。もう随分薄赤く染まってきた空を。
「――苦しいぞ。何十年も重荷に潰されてばかりいるのは」
実感のこもった言葉がアルフレッドに投げかけられる。
ジェレムは再び弦に指をかけ、穏やかな音色を奏でだした。
長い人生を生きてきた男なのだ。改めてそう思った。惑乱が過ぎ去るまでは耐えるしかないと知っている男なのだと。
寄り添うようなリュートの響きが胸にしみる。少しだけ話してみたい気持ちになる。それでもやはり打ち明けられることなど何もなかったけれど。
「…………」
やがて演奏はぴたりとやんだ。途切れなく続いていた慰めの調べはわずかな余韻だけを残して風に溶けた。
悲哀を湛えた双眸がこちらにそっと向けられる。同じ轍を踏ませまいとする先人がアルフレッドに微笑みかける。
「迷ったときは自分を騙すな。俺に言えるのはそれだけだ」
お節介はここまでにしておくと決めたのか、老ロマはもう忠告めいたことは言わなかった。アルフレッドの状況をどこまで理解しているのか「ま、お前は大丈夫と思うがな」と笑うだけだ。
何も言えず、一緒になって笑うこともできず、ただジェレムを見つめ返す。おそらくは己の過去の反省を聞かせてくれただけの男を。
「……信じたくないものを信じようとするとどっか狂ってくるんだろう。俺はきっと正直にカロのあの眼を美しいと言うべきだった。そうしたら誰かに責任を押しつけたりせず納得ずくで生きられたんだ」
老いたロマは歌を習いにきた息子とどんな話をしたのだろう。漠然と、許しを乞いはしなかったのだろうなと思う。ジェレムは本来潔い男だから。
己はどうだと苦悶した。迷う前から自身も主君も欺き続けてきた己は。
嘆きと苦悩、後悔、怒り、自分自身に対する失望、懐疑と猜疑。
ジェレムを苦しめてきたものが何かアルフレッドにはよくわかった。自分が同じような道で打ちひしがれていることも。
でもどうすればいいかわからない。どうすれば今の自分を受け入れることができるのか。
正しい道を歩けていると思えたから己を認めてやれたのだ。自身に流れる血の半分に憎悪を覚えながらでも。
戻れない。すべてになんの意味もなかったと悟る前には。
「アルフレッド、ありがとう。お前のおかげで間違いだらけの俺の道も最後にあいつと繋がった」
何度礼を言っても足りぬとジェレムは感謝を繰り返す。こんな喜びが待っているなど考えもしていなかったと。
別の世界の出来事のようにアルフレッドはそれを聞いていた。
筋張った手が己にそっと差し出されるまで。
「――お前の道が俺に繋がってくれていて良かった」
膝の上に置いていた手に老ロマの指が触れる。
掠れ声で彼は続けた。感極まった目を潤ませ、「もういつ死んでも悔いはない。俺は俺自身を取り戻せた」と。
「――」
――唐突に。本当に唐突に、アルフレッドはルディアを追ってコリフォ島に行けなかった日のことを思い出した。
最初にはっきり「間違えた」と感じた日。「やり直したい」と願った日。
あらぬ方向に道が歪みだしたのはあの日からだと思っていたのに。
あのときレイモンドと一緒にガレー船を飛び降りていたらジェレムたちには出会わなかった。出会わなければ彼はまだ迷信の濃霧に包まれ、カロを呪っていたかもしれない。
だとしたら意味があったのだろうか?
間違えたまま走り続けてきた意味が。
「…………」
アルフレッドは静かに震えた。全身が何かの予感にわなないていた。
何故だろう。目が開かれていく気がするのは。
腕に、足に、力が戻ってくる気がするのは。
重ねた指に熱をこめ、老ロマは歌うように続ける。
「一緒に旅ができて良かった。どこにいても、何をしていても、ずっとお前の幸運を祈っているよ。――実の息子を想うみたいに」
アルフレッドは息を飲んだ。目の奥で光がはじけたような気がした。
震える声で問い返す。温かな双眸を見つめて。
「……実の息子を想うみたいに?」
そうして彼の返事を待った。
「ああ。お前だってもう俺の息子みたいなもんさ」
あの歌を教えたんだから、とジェレムが言う。親から子供に歌い継いでいくあの歌を、と。
瞬間、押し寄せた感情の高波がアルフレッドの喉を詰まらせた。
言葉が出ない。
何も言えない。
熱い目にただ涙の膜が張るだけで。
どうして泣いているのかは自分でもわからなかった。
遠回りした道で、まっすぐではなかった道で、拾えたものがあったと知って安堵したのかもしれない。
ジェレムはまるで本物の父親のように笑う。本物よりも本物らしく。
「何があったか知らねえが、お前ならきっと大丈夫だ。何か間違えたとしても誰かがお前を助けてくれる。お前が俺を助けてくれたみたいにな」
拭っても拭っても雫は溢れて伝い落ちた。
二十年分の辛苦も我慢も押し流すようだった。
「間違えたっていいんだよ。怖いのは自分を歪めちまうことだ。それがわかるまで俺はこんなにかかっちまったが――」
ずっと、ずっと欲しかったものがやっと手に入った気がする。
本物ではない。半分の血が入れ替わるわけでもない。
だがそんなことはどうでも良かった。ジェレムの言葉が嬉しかった。
「ああ、ちょっといい顔になったな」
顔を上げたアルフレッドに老ロマは頬をほころばせる。ぽんとこちらの肩を叩くとジェレムはその場に立ち上がった。
「さて、さすがにそろそろ戻らなきゃだ」
差し伸べられた手に掴まり、アルフレッドも腰を上げる。
空は赤い。日が暮れるまでもうすぐだ。「またな」と別れを告げたジェレムはロマらしくあっさりしていた。
「――今夜はお前のために歌うよ。聴こえなくても覚えててくれ。お前の夜が明けるまで、俺たちがきっと側にいる」
それだけ言うと彼はくるりと踵を返した。一度さえ振り返らずにジェレムは中庭を去っていく。
アルフレッドは老ロマの後ろ姿を見つめながらアニークの言葉を思い返していた。
――成したことはどれほど時が流れても、巡り巡って自分を助けてくれるのよ。
彼女の言った通りだった。
正しくなくても、偽物でも、何かはきっと変えていける。
(大丈夫だ。自分の気持ちさえちゃんとしていれば)
アルフレッドはぐっと拳を握りしめる。
主君の側を離れたくないと願うことは、ただの自分のわがままではないのかと思っていた。けれどもう迷わない。
鐘つき人はじきに大鐘を打つだろう。
己ももう行かなくては。
******
日没が迫り、人影の少なくなった広場で騎士を待ちながら、ずっと考え事をしていた。先刻のモモの言葉について、あるいは今朝のレイモンドの溜め息について。
ああいう通告をするなら先に相談してくれと恋人は初めてルディアに苦言を呈した。一人で決めるのに慣れているのかもしれないが、一人で決めないこともそろそろ覚えてほしいと。
もっともだと思う反面無理だなと諦めている自分もいる。レイモンドが強く言わなかったのは彼にもわかっているからだろう。根本的にルディアには人を信じられないということが。
それならまだモモの「姫様にできることはアル兄がどんな結論出してきても認めてあげるくらいじゃない?」という言葉のほうが飲み込めた。それでさえ「聞き入れるか聞き入れないかは置いといて」という条件付きだったけれど。
「――すまない。待たせたか?」
ルディアを呼び出した男は午後六時を少し過ぎてから現れた。走ってきたのか軽く息が弾んでいる。顔色はいいのか悪いのかわからなかった。斜陽が彼を赤々と照らしていたから。
「悪いな。来客があって遅れた」
アルフレッドの声音は普段と変わりなく聞こえる。とはいえある種の緊張は孕んでいたが。
「いや、たいして待ってはいないよ」
答えると彼は「そうか」と息をついた。危惧していたように取り乱した様子はない。むしろ落ち着いて吹っ切れた感がある。
昼間に会ったときはもっと悲壮さを漂わせていたから意外だった。話し合いの場ももっと選ばねばならないかと思ったのに。
「…………」
沈黙の間に宿や船や家に帰ろうとする人々がルディアたちの脇を通り過ぎていく。昼間の喧騒が嘘のように周辺は静まり返っていた。広場にはもう数えるほどの人間しかおらず、街は巨大な夜の影に沈みつつある。
アルフレッドが切り出すのは早かった。どこに捨ててきたのかは知らないが、騎士の中にためらいはもうないらしい。
「……俺はまだやめたくない」
端的な言葉で決意が伝えられる。次はルディアが「そうか」と頷く番だった。
難儀な主君に難儀な騎士だと嘆息する。何も与えてやれないのは心苦しいと言っているのに。
どうすれば頑固なお前にも伝わるのかな、アルフレッド。
「レイモンドに叱られたよ」
ルディアはぽつりと呟いた。向かい合う男に言い聞かせるように。
突然出てきた槍兵の名に騎士はきょとんと首を傾げる。「叱られたって?」と聞き返す彼に苦笑いを浮かべて答えた。
「私には悪い癖があるらしい。大事なものほど急に遠くにやろうとする、自分が関わらなくても平気だと、むしろそのほうがいいと思い込んで安心しようとすると言われた」
彼もよくよく人を見ている。言われて確かにそうだと思った。
ユリシーズと別れたときも、名乗れないままイーグレットに手をかけたときも、自分はただ怖かったのだ。
レイモンドのことさえ強く引き留める気持ちを持てない。彼にほかの幸せがあると知ればそちらを取れと言ってしまうに違いなかった。
だが悲しいかな、それが己の宿命だ。生きている限り同じ過ちを繰り返す。
「私の側に居続けるということは、こうして何度も傷つけられるということだぞ?」
ルディアは騎士に問いかけた。
理不尽じゃないかと言外に告げる。ただでさえ偏った献身なのに。
彼にはもっと相応しい主君に仕えてほしかった。名誉を与えられぬばかりか己の性向を変えられもしない、こんな人でなしにではなくて。
「今は良くてもそのうちきっと嫌になる。私がお前を『信の置ける男だ』などと思う日は永遠に来ない。それでも本当にやめないのか?」
もう躊躇はしなかった。己の抱えた一番の弱さを晒すのに。
自分から先に遠ざけようとするのは失望を恐れるからだ。国のためとかお前のためとか取り繕って、浅い傷で済ませたがる卑怯者なだけなのだ。
自分自身を見限られるのに耐えられないから。
終わりにされるより終わりにするほうが楽だから。
たまたま私だっただけ。それならほかを選び直したほうがいい。グローリアでも、オプリガーティオでも、彼女こそと思うプリンセスを。
――だって私はやはりまがいものだろう。
「後になって悔いるお前を見ることになるのは忍びない。なあアルフレッド、本当に私なんかにこだわらなくていいんだぞ?」
ルディアの問いに静かに騎士が瞠目する。
暮れなずむ太陽の赤い光を受けながら、彼は初めて腑に落ちたという表情を見せた。
ああ、と小さく呼気が震える。「やっと何が言いたかったかわかった」と。
「俺がどこまでやれるかをあなたが勝手に決めないでくれ」
自分の人生に満足できるかどうかは自分に責任のあることだ。
そう騎士が言う。それはあなたに持たせる荷物ではないと。
なんとも彼らしい結論だった。「そうか」としか答えようのないほどに。
「それならお前の好きにしろ」
私でなくてもいいくせに、とはもう言わなかった。決めたことは譲らぬ男であるのはよく知っている。
我々はやはり似た者同士なのだろう。彼も己も結局は一人で決断してしまう。
だがそれでもいいのかもしれない。
ほころびだらけの主君と騎士でも物語を紡げるなら。
******
夕刻の鐘が鳴ったきり大鐘楼はしんと静まり返っていた。いつもは数人いる兵士も、鐘つき人も誰もいない。方形屋根の下の鐘室にユリシーズが一人佇むのみである。
暮れゆく西空を眺めつつ赤い光に目を細めた。
四つのアーチと三本の柱に切り取られた夕景は心に迫るものがある。大鐘楼という場所の特別さを思えばなおさらだった。
どうも己の運命はいつもここで決まるようだ。
壊したのも、囚われたのも、もう一度やり直そうと誓ったのも、すべて同じ塔だった。そして今日また一つの未来が定まろうとしている。
はたして上手く行くだろうか。不安はちくりとユリシーズの胸を刺した。
――アルフレッドがルディアを裏切れなかったときは始末しなきゃいけないよ。
振り払っても振り払ってもしつこく耳に響く台詞に眉をしかめる。
大丈夫だ、彼は約束を守る男だと胸中で繰り返した。
アルフレッドが己の手を汚した経験がないのは確かだろう。だが別に、我々はルディアを殺したり犯したりするわけではない。行いはむしろ正義と言っていいほどだった。
できないなどと尻込みするとは考えにくい。あの男とてほかに選ぶ道がないから頷いたのに。
はあ、とユリシーズは嘆息した。
まったく嫌なことを言う女だ。リリエンソール家の権威にただ乗りしている分際で。いつまでたってもグレディ家の当主気分でいるのだから。
「…………」
思考の乱れを自覚してユリシーズはかぶりを振った。落ち着けと自分に言い聞かせる。
気持ちが乱れるのは今日サロンでアルフレッドに会えなかったせいだ。宮殿に着いたときにはアニークが彼を帰してしまっていたから。
騎士の決意がいかほどかもう一度この目で確かめていればこんな不安は感じなくて済んだのに、ついていない。
だがそれもあと少しの辛抱である。残り火のごとき太陽はもうほとんど沈みかけているし、間もなく彼も王女を連れてこの鐘室に現れるだろう。
「……!」
予測に違わずそのときコツコツと遠くから足音が響いてきた。大鐘楼の頂に至る、最後の螺旋階段を上ってくる足音が。
来た、と獲物に飛びかかる態勢に移ったのも束の間、ユリシーズは異なことに気づく。足音が一人分しかしないのである。
まさかと冷汗は垂らしたが、この時点ではまだ友人を信じていた。
だが鐘室に姿を見せたのはやはりアルフレッド一人だけで、ルディアの気配はどこにもない。
「ア、アルフレッド……?」
呼びかけた騎士の顔は逆光でよく見えなかった。
どもりながらも努めて平静にユリシーズは問いかける。
「ど、どうした? あの女を呼び出すのに失敗したのか?」
声はわずかに震えていた。その震えを誤魔化すためにわざと明るいトーンで尋ねた。
それならそれで一向に構わない。そうだと言ってくれと祈る。
横向きに振られた首に希望は儚く砕かれたが。
「いや、さっき下で会って話してきた。あの人には先に帰ってもらったよ」
「??? どうしてだ? 人払いならしてあっただろう?」
理解できずに混乱してくる。
下で会って話してきた? 先に帰ってもらった? 彼は何を言っている?
「ありがとう、ユリシーズ。今まであれこれ気を揉んでくれて」
アルフレッドは立ち尽くすユリシーズのすぐ側にそっと近づいた。そうして何やら意を決めた、晴れやかな顔を向けてくる。
でも、と続いた声に眩暈がした。なんの茶番だと頭が受け入れまいとする。
まさか自分の意思で王女を連れてこなかったというのか? そうできたのにしなかったと?
誰も芝居の続行など許可していないのに赤髪の騎士は演技をやめない。早く冗談だと言ってほしいのに、台詞の続きなぞ披露してくる。
「このやり方じゃ俺は前に進めないって思ったんだ」
ユリシーズは声を失くした。呼吸をするのも忘れて喉を詰まらせた。
形容しがたい嫌な予感がじわじわと胸を押し潰す。
やっとの思いで口にしたのは「やめてどうするのだ?」というすがる響きの問いかけだった。
「あの女はお前の忠義を偽物だと思っているんだぞ? わからせてやらなくてどうする?」
しばし考え込んだのち、アルフレッドは「別の方法を考えるよ」と笑った。もっと自分らしいやり方があるはずだとのたまう彼に全身が震えてくる。
「……騎士として主君を正すのは?」
「あの人が間違っていると思ったときは直接言う」
「あの女が聞くとは思えん」
「姫様が心を決めたならついていくしかできないな」
一体全体彼はどうしてしまったのだ? わからなさすぎて思考が止まりそうになる。
どうしてそんな風に笑える? どうしてあの女を受け入れられる?
見くびられているのがわかっていないのではなかろうか。自分が軽く扱われ、二の次、三の次にされているということが。
(ついていくしかできないだと? あの女に振り落とされかけて呆然自失していたくせに?)
疑念は次第に怒りの色を帯びていった。理性ではもう止められなかった。
くすぶっている火種なら心に山ほど抱えているのだ。ひとたび燃え始めれば火勢は強まる以外にない。
(何故いつまでもあんな女の好きにさせる? あんな冷徹非道な女の!)
憤怒はユリシーズからあらゆる知性と品性を剥ぎ取った。気づかぬ間に視界を歪めて世界の見え方を捻じ曲げた。
(主君だから? 騎士だから? だからなんだ!?)
信じられない。アルフレッドが彼女を許していることが。
傷つけられたのはお前じゃないか、被害者は我々だぞと叫びたくなる。
ルディアは自分の騎士を大切にしなかった。最初は与えると言っていたものを最後まで与えなかった。立派な詐欺だ。契約違反だ。
(別の方法を考える? このやり方では前に進めない? 二人なら大丈夫だと私が散々力づけてやったのに?)
己のほうがよほどアルフレッドのためを考えて行動している。だというのに彼は愚昧な主君の愚昧な意思を優先するというのだろうか。ユリシーズよりもルディアのことを。
――でないとルディアに何を報告されるか知れない。
グレースの台詞の続きが甦る。
ぞっとした。今の彼は主君になんでも打ち明けてしまう気がした。
ユリシーズはもうあんな女の味方になるつもりはない。傀儡にして使役するのでなかったら仲間のふりもできそうになかった。
次にまたアルフレッドが「あの人の騎士に戻る」と言い出したらどうすればいいのだろう? 譲歩など絶対に不可能だ。
「――私のことはどうなるんだ?」
気がつけばユリシーズはそう赤髪の騎士に迫っていた。質問の意図を勘違いした男は変わらぬ微笑のまま返す。
「今回のことは俺の気の迷いだ。誰にも何も言う気はないよ」
伝わらないもどかしさに歯噛みした。「違う」と強く首を振る。
「お前にとって私はその程度なのか? ルディアより、お前の仲間の誰よりも私はお前を案じているのに私と交わした約束のほうを反故にするのか?」
え、と小さく声がした。想定外の言葉に驚く彼の声が。
無性にそれが腹立たしい。示したはずの思いが半分も伝わっていなくて。
彼のために描いた未来図を放り棄てたとにこやかに告げられて、どうして私が喜ぶなどと思ったのだ?
「ユリシーズ!?」
狼狽した男の視線の先を追ってユリシーズは己が剣を抜いたことを知った。だがすぐに刃を振り上げるまではいかない。まだ怒りを抑えようとする分別がかろうじて残っていた。
「ど、どうしたんだ? ちょっと落ち着け!」
斜めに後ずさりしながらアルフレッドはにじり寄るユリシーズに呼びかける。
なだめようとする声は火に油を注ぐだけだった。わかってくれていなかったと思い知るだけだったから。
「落ち着けだと? 二人で決めて誓いまで立てた約束を一方的に破っておいて何をほざく!? 損も得も私は考えなかったのに! お前のこと以外何も!」
それなのにお前はと吠える。
間近で金属の擦れ合う硬い音がした。ふと見れば避けきれないと断じてか、アルフレッドも腰の剣を抜いている。
またしても怒りが加速した。武器を向ければ誰だって身を守ろうとして当然なのに、何故かそのときは拒絶されたようにしか感じられなかった。
「やめろ、ユリシーズ!」
防戦一方のアルフレッドに何度叫ばれても止められない。激情のままに切り結び、手にした剣を振り回した。
その反面、内心では後悔が湧き起こる。
ああ、何をしているのだろう。こんなことになったからには彼は二度と私を信じてくれないに違いない。
助けてやろうとしただけなのに。守りたかっただけなのに。
(どうしてだ? どうしてこんな風になった?)
怒りの後に訪れた嘆きはもっと悪い感情を引き起こした。何もかもおしまいだとユリシーズは恐慌状態に陥った。
(こうなれば確実に仕留めなければ――)
そうだ。殺せば見ないでいい。あの女に跪くアルフレッドの姿など。
得られなかった宝石をほかの人間に奪われるなど断じて認められなかった。それが憎むべき敵にならなおさら。
毒の刃が皮膚を裂くように顔を狙って切りつける。しかし平静でないことも手伝って切っ先はなかなかアルフレッドに当たらなかった。
掠るだけで死に至るのがトリカブトの強毒なのに剣は柱や床ばかり引っ掻く。列柱の間から突き落とそうと試みてもことごとくかわされた。
「ユリシーズ、話はちゃんと聞くから剣を置いてくれ!」
ガキンとまた剣戟の音。ユリシーズは執念深く攻撃を続けた。赤髪の騎士はその刃を上手く打ち払いつつ説得を繰り返す。
「お前には感謝している! 俺にこれからどうしたいと聞いてくれたのはお前じゃないか! 俺の答えを受け入れてくれないのか!?」
わかっていない。わかっていないとユリシーズは怒りを燃やした。
己とて「やめた」ではなく「やめたい」という相談ならば聞く耳を持てた。話し合う余地もあった。だがアルフレッドが告げたのは。
「――お前が私を無視して一人で決めるからだろう!?」
この絶叫の悲痛さを彼は理解しなかったらしい。「それはもう待ち合わせ時間になるところだったから」と苦しい言い訳がなされる。
彼がしたのは「あの人には先に帰ってもらった」という完全な事後報告だ。ユリシーズが真に許せないのはただその一点であった。
――マルゴー公国の第二王子と結婚することになりました。
忘れられない痛みが胸を圧迫する。
ただひと言で良かったのに、たったひと言で良かったのに、どうして勝手に終わりにする?
「……ッ!」
燃え立つ炎はそれを向けるべき相手を区別しなかった。ルディアへの怒りとアルフレッドへの怒りはごちゃ混ぜになって噴き上がっていた。
そうだ。これはかつて抱いたのと同じ怒りだ。
心を捧げて尽くしたのに軽んじられて捨てられた。ほかの誰かを選ばれた。
アルフレッドとて同じことをされて苦しんだのではなかったのか。
「剣を置いてくれ、ユリシーズ! 俺みたいな騎士になりたいと言ってくれたのはなんだったんだ!?」
揃いの剣で刃を受け止めた彼が苦々しく叫ぶ。必死なその表情が何故なのか在りし日のルディアと重なった。
夫婦にはなれずともきっと自分を支えてほしいと言ったとき、彼女はもっと粛々としていたはずなのに、それなのにどうして二人が同じように見えるのかよくわからない。わからないまま幻影はますます騎士に近づいた。
剣を振る。
薄気味悪い心臓のざわめきを振り払うように強く。
(早く、早く殺さなければ)
わけのわからない焦燥がユリシーズを突き動かした。
このままではもっと無情な惨劇が待っているような。残酷極まりない悲劇が口を開けているような。そんな気がして堪らない。
(早くしろ! もう戯言を吐かせるな!)
剣はまた空を切った。毒は騎士の赤髪にさえ触れなかった。
きちんと鍛錬を積んできた男なのだ。だから簡単に屠れない。
汗が散る。焦りが刃を鈍らせる。
(早く――)
直感は正しかった。地獄はもうすぐそこだった。
切っ先を弾いたアルフレッドが叫ぶ。ユリシーズに向かって叫ぶ。
「お前も騎士ならわかってくれ! 俺はまだ、俺の夢を汚せない……!」
その瞬間、雷に打たれたような衝撃が身を貫いた。
気づいてはいけないことに気づいてしまい、半ば呆然と立ち尽くす。
ユリシーズは目を瞠った。唇を震わせて固まった。
遠い日に聞いた言葉が甦る。今聞いたのとまったく同じ響きの言葉が。
――わかってください。私たちのアクアレイアを守るためなのです。
ユリシーズは剣を握ったままよろめいた。
過去と現在は今や完全に重なり合い、暗い未来を暗示していた。
絶望に立ちくらむ。知りたくなかったと双眸を歪める。
この男も同じなのだ。己の決意が第一で、いつも前しか見ていない。心から想ってくれる誰かを足蹴にしても一人で進んでいってしまう。
(こいつは私に似ていたんじゃない……)
嘆きが全身を満たしていく。
目の前に立つ騎士は今や哀れな同類には見えなかった。
どうしてもっと早く気づけなかったのだろう。
心を開いた後になってまた傷つけられるなんて。
手に入れた後になってまた同じように失うなんて。
この男は。アルフレッドは――。
(こいつはルディアに似ていたんだ)
だから惹かれた。だから裏切りを許せなかった。
どうしても。
「――」
は、と乾いた笑いが漏れた。しゃくりあげたような間抜けな声が。
笑うしかあるまい。苦しんで苦しんで人の道を踏み外した、やっとやり直す希望を持てた矢先に掴まされたのがこんな無慈悲な真実では。
「は、は、ははははは!」
ユリシーズは身をよじらせて哄笑した。
明らかに常軌を逸したこちらの様子を心配そうに窺いながらアルフレッドは二歩、三歩と距離を開いていく。
(なんだ私は? 一体何をやっている?)
あれだけ大層に喜んだくせに、結局また偽物だったとは。
一人じゃないと思ったのに。この友情は本物だと思ったのに。
もしや最初から本物など存在しなかったのではないか。
この悪い夢の中には。
「あはははは……」
ユリシーズは声がかれるまで笑い続けた。
声がかれても正気には戻れなかった。
おかしくておかしくて仕方ない。
運命はなんて残酷な喜劇を用意するのだろう?
あの女を忘れるためにしたことも、この男と生きていくためにしたことも、何一つ己を幸福にしなかった!
すべて無意味な空回りだったのだ。何もかもすべて。
「……ユリシーズ?」
からんと剣が音を立てる。
バスタードソードを放り捨てたこちらを見やって赤髪の騎士は瞠目した。
「良かった、話し合う気になっ――」
少しほっとしたその顔にベルトごと鞘を投げつける。アルフレッドは小さく叫んで半歩下がった。
「??」
彼の気が逸れている間にユリシーズは鐘室を囲む低い縁石の上に立つ。すぐ脇の列柱に手を添え、今日という日の最後の光を身に浴びて。
街はもう闇の中だ。西空にほんのわずか暮れ残りの赤が掠れているのみで。それも間もなく消えていく。
(もういい……)
ユリシーズは虚ろな視線を正面に戻した。赤髪の騎士はぱちくりと瞬きし、不思議そうにこちらを見ている。
敗北者の気持ちなど彼には永久に理解できないに違いない。
あの女が自分の捨てた男などさっさと忘れてしまったように。
(三人目を見つけても、四人目を見つけても、きっと結末はこうなのだ)
やっとわかった。私が求めるような人間は私を見てはくれないのだと。
そして私はその齟齬を笑って許せる人間ではない。
それだけのことだった。
「アルフレッド・ハートフィールド」
ゆっくりと口を開く。詩を諳んじるようにゆっくりと。
長かった悪夢の終わりに相応しい、新たな悪夢の始まりに相応しい、呪いの言葉を彼に送る。
ありがとう。私に夢を語ってくれて。
楽しかったよ。どこにも行けなくなるほどに。
だからこれからもう一度だけやり直そう。
「――お前は決して名誉ある騎士にはなれない」
笑ったのか、泣いたのか。
どちらでももうどうでも良かった。
上体を少し反らせばバランスは容易に崩れる。爪先が縁石を離れてしまえば地上に着くまで誰の手も届かなかった。
上向きの風がユリシーズを包み込むように撫でていく。
遠のく星に目を閉じて、最後は何も見なかった。
――ああ、やはり罪人は罪人だ。
******
何が起きたのかわからないまま何かのひしゃげた音を聞いた。
伸ばした腕の先には誰の影もない。ただ整然と三本の柱が並んでいる。
血の気の引いた身体はその場に一時立ちすくんだ。震える膝をどうにか鼓舞してアルフレッドはアーチを描く列柱の間から「下」を確認する。
だが夜の闇は濃く、詳しい様子はまったくと言っていいほどわからなかった。
わかるのは人々の騒ぐ声がどんどん大きくなっていること。カンテラの光があちこちから集まりつつあることだけだった。
「……ッ」
もつれる足を急がせてアルフレッドは五つ鐘の下の階段を駆け下りる。
無事でいるとは思えない。けれど望みも捨てきれなかった。
頭の中は疑問符だらけだ。自分から落ちていったように見えた。自分から、何もかも投げてしまったように。
(ユリシーズ……!)
十八階分の階段を下りきると大扉を押し開く。誰が呼んだのか現場には既に海軍の姿があった。誰も彼も大わらわだ。「提督が!」「衛生兵を!」と広場は騒然となっている。
息はあるのか。意識はあるのか。忙しない心臓を押さえつつアルフレッドは歩を踏み出した。――否、踏み出そうとした。
そのときである。人だかりの中の一人が訝しげに眉をひそめてこちらを振り返ったのは。
「アルフレッド……?」
それは横たわる騎士のすぐ側に膝をつき、わなないていたレドリーだった。蒼白な従兄に「なんでお前が大鐘楼から出てくるんだ?」ともっともな疑問をぶつけられ、アルフレッドは答えられずに黙り込む。
この段になってアルフレッドはようやく自分が人には言えない用事で鐘室に上がっていたのを思い出した。
しかも海軍の人間は今日この塔が人払いされていたと全員承知のはずである。血溜まりの中、歪んだ白銀の甲冑にすがる兵士らが何を思ったか、推測はそう難しくなかった。
(ユリシーズ……)
ちらと見やった指先はぴくりとも動かない。応急処置さえ諦められた騎士の骸は無言の祈りを受けている。
立ち上がった軍人たちはぐるりとアルフレッドを囲んだ。
敵意の視線が突き刺さる。悲憤と憎悪の眼差しが。
いつもの不機嫌の比ではなくレドリーは攻撃的に問いかけた。
「お前がユリシーズを殺したのか……?」
冷たい風が吹き抜ける。
夜がすべてを飲み込んでいく。
(20190629)