「わかった、わかった! わかったからその斧を引っ込めてくれ!」
 ひいひいと情けない声を上げ、印刷技師が壁に張りつく。逃げ場を失くしたモミアゲ男はすっかり青ざめ、今にも振りかぶられそうな妹の双頭斧に脂汗を流していた。
「面倒な事態になりそうだから印刷は待ってくれ」と伝えたのはつい一週間前の話である。それなのにこの男はアルフレッドの忠告を無視して最終巻の植字を開始していたのだ。この頃は大人しくなったと思っていたのに、パーキンはやはりパーキンであったらしい。

「ほんっとしょうもないことするよねえ」

 研ぎ澄まされた刃よりなお鋭くモモはパーキンに睨みを利かせた。
 抜き打ちで工房にガサ入れしたほうがいいと提案したのは彼女である。人間の善性を信じていない妹には、儲け話がお流れになるかもと知ったパーキンが素直に従うはずないとお見通しだったようだ。
「指の一本でも落としとく? 業務には支障ないでしょ」
「イヤアアア! すみません、すみません! もうしませんからあああ!」
 どこかで聞いたような脅しにアルフレッドは苦笑する。モモが「原稿も写しも全部渡して」と命じると印刷技師は悲しげに腕の中の紙束を差し出した。
「これだけ?」
「は、はい。原稿は前に預けましたんで……」
「本当にこれだけなの? 嘘だったら爪剥ぐよ?」
「は、はいっ」
「言っとくけど、モモは有言実行だからね」
 ぎらりと眼光がひらめくとパーキンは息を飲む。至近距離から放たれる殺意に負けて「そ、そういやもう一つ写しがあったかなー!」と彼は目を泳がせた。
「へええ?」
 芯まで凍りつきそうな声に印刷技師の額はますます青ざめる。ほどなくして鍵のかかった大棚から写しの束が取り出された。
 内容はアルフレッドが確認する。ざっと見たところ抜けている章はなさそうだったので、肩越しにこちらを見やる妹に目配せして頷いた。
「じゃあこれはモモたちが責任持って預かっとくから」
 解放宣言と同時にモモは斧を引っ込める。安堵でへなへな脱力し、パーキンが床に座り込んだ。
 が、彼は油断するには早すぎたようである。直後ドゴンと激しい音が轟いて砂埃が舞い上がった。

「勝手に刷っちゃだめだよ? わかった?」

 片足を壁にめり込ませ、両眼を見開いたモモが笑う。顔の真横に空いた穴を恐る恐る振り返り、怯えきった印刷技師はこくこくと頷いた。
 まったく頼もしい限りである。自分にはここまで過激な振舞いはできない。できないからこそ舐められて、一度の忠告で話を終わらせられないのかもしれないが。
「…………」
 なんとなく、急に新砦の建設を始めた十将のことが思い浮かんだ。
 ルディアやレイモンドがいれば、きっとパーキンの暴走も抑止できたのだ。二人のようにわかりやすい力が己にあれば。
 つきかけた嘆息を飲み込む。
 自分にしかできないこともあるはずだ。胸中に呟いてアルフレッドは黄昏の印刷工房を後にした。


 ******


 暗闇が忍び寄ってくる。そろそろ灯りをつけなければと思うのに、重い腰を上げられない。
 アニークはぱらりと紙束を捲った。読み込みすぎた騎士物語の最終章は端が擦り切れ始めている。
 五日経っても、六日経っても、まだこれが現実のことだとは思えなかった。パディの言葉、パディの表情、パディの態度。思い出しては胸の空虚の埋め方を悩んでいる。
 寝所のテーブルにはアルフレッドが持ってきてくれたほかの物語や詩の本が積んであった。気晴らしに手を出してはみたものの、閉じた途端にまた溜め息で嫌になる。
 夢中になれない。パディの騎士物語ほど。
 そうして深く思い知るのだ。自分がずっとユスティティアたちに励まされてきたことに。
(もう考えないようにしたいのに……)
 気づいたらまた分厚い紙束を繰っている己に呆れた。もうこの本が前向きな楽しさを与えてくれることはないのに何をやっているのだか。
 ちらとテーブルのもう半分に目をやれば小難しいマルゴーの歴史書がでんと場所を取っている。アルフレッドに借りた本よりも宮殿の書庫から持ってきたこちらのほうが読み込んだのだからどうかしている。
 理解したいというのだろうか。過酷な運命に歪まされたあの老人を。
(……私はずっと自分が一番不幸だと思って生きてきたのよね……)
 閉ざされた蟲たちの世界で、自分が一番。でもそれは本当に狭い世界での話でしかなかったのだ。
(私がパディにできること、何かないのかしら……?)
 苦しんでいる。他人に希望を与えられる存在でさえ。
 今初めて、自分は自分以外の誰かを心から憐れんでいる――。


 ******


 山というのはなんてすぐ真っ暗になるのだろう。さっきまで明るかった太陽が今はすっかり稜線の彼方に隠れ、一帯は闇に包まれている。集落に着くのがもう十五分遅ければ泊めてもらえる民家を探すのもひと苦労だったに違いない。
 借り受けた小さな空き家でレイモンドは幸運に感謝した。ニンフィを起点にサールを目指すのに最難所と言われる峠を越えたのがつい昨日のことである。休息は十分取りつつ進んできたが、さすがにそろそろ皆の顔にも色濃い疲労が窺えた。
 愛しい婚約者は不慣れな山歩きにくたびれきった足を投げ、土間に置かれた竈の熱で温まっている。白猫も細い階段の端に陣取り、ころりと背中を丸めていた。ウァーリも早々に床に入り、健やかな寝息を立てている。今夜の彼女はレイモンドの整えた二階の寝所から降りてくることはないだろう。

「それ飲んだら俺たちも休む? 藁ベッドだし、寝心地は良くないかもだけど」

 ヤギのミルクを飲んでいたルディアに問うと「ああ」と短い返事があった。張りつめた横顔をじっと見つめる。彼女は何か考え込んでいる風だった。
 なんとなく、アウローラのことかなと思う。急ぎ足で通りすぎてきた峠村。あそこが赤子の受難の地であったこと、彼女が思い出さなかったはずがない。だから己も一泊するなら次の村でと旅程を調整したのだし。
(基本的に弱音吐かねーんだよな、姫様)
 一人で背負ったつもりのことほど心の奥にしまい込む。ウァーリの同行する今は迂闊にアウローラの名を出せないのもあるだろうが、それにしたって。
(……支えになれてんのかな、俺)
 喉まで出かかった嘆息を飲み込み、恋人の隣に腰を落ち着ける。
 アクアレイアを発って以来、レイモンドはルディアに触れることすらできていなかった。一番に慈しみたい相手が側にいるというのに気づけばウァーリの相手ばかりで、いや、ジーアン十将がどんな人間か知っておくのも大事なことには違いないのだが。
 ルディアが無理をしていないか気になって仕方ない。優しく抱きしめて彼女を癒してやりたかった。早く二人きりにと願うのは、己の切なさを慰めるためでもあるのだろうが。

「……レイモンド、お前これが何かわかるか?」

 と、ルディアが腰のポシェットから羽根のようなものを取り出す。藪から棒の問いかけにレイモンドは「へ?」とぱちくり瞬きした。
「見覚えはあるんだが、どこで見たのかまったく思い出せなくてな」
 そう言ってルディアは指先で摘まんだ茶色の羽毛をはためかせた。言われてみれば知っているような気がするが、はっきりどこでとは思い出せない。人の顔ならともかく鳥の羽根など専門外もいいところだ。
「わかんねー。気になるなら帰ってからアイリーンに聞いてみる?」
 生物全般に関心の深い彼女なら答えられるかもしれない。提案すると恋人は頷き、ポシェットに羽根を片付けた。
「んなもんどこで拾ってきたの?」
「拾ったんじゃない。押しつけられたんだ」
 ラオタオに、と続いた台詞にレイモンドは瞠目する。聞けば旅の出立許可を貰いにレーギア宮に出向いた際、餞別だと渡されたゴミらしい。
「最初はただの嫌がらせだと気に留めていなかったのだが、じわじわ気になり始めてな」
「お、おお。そいつは確かに気になるな」
 煮ても焼いても食えなさそうな狐の顔を思い出し、レイモンドは頷いた。
 変な話だが、今アクアレイアにいるラオタオはどうも別人に見えないことがずっと引っかかっていた。ハイランバオスの言を信じるならあの若狐はムク犬に入ってエセ聖人と行動をともにしているはずなのに、なんだかずっと近くで監視されている気がするのだ。
 おそらくルディアにも似た感覚があるのだろう。だから意図不明なあの男の行動に懐疑の目を向けている。これはただの嫌がらせではないのでは、と。
「ま、今は考えてもしょうがなくね? もう寝ようぜ」
 放っておいたら一晩中頭を働かせていそうな恋人に呼びかけた。「そうだな」と返した彼女に微笑んでゆっくりと立ち上がる。
 レイモンドは空のカップを受け取って流しに運んだ。ルディアはランタンに明かりを灯し、竈の火に砂をかける。それから二人で奥の間に入った。

「…………」

 入口で一瞬彼女が立ち止まったのは気のせいではないだろう。その理由ならレイモンドは先に知っていた。寝床の支度は己の役目だったから。
「えと、シーツ一枚しか借りれなくて」
 言い訳のように説明する。邪念あってのことではなく、寝具が不足していたためにベッドは一つしか用意できなかったのだと。
 ウァーリには備え付けの寝台を回したので、レイモンドはルディアと自分に即席ベッドをこしらえていた。集めた藁束に布を被せただけというシンプルな代物だが、床で寝るよりよほどいい。できれば己も彼女の隣で眠りたい。
「あー、や、やっぱまずいかな?」
 びくびくしながらご意向を窺う。ルディアはふうと呆れ混じりの息をつき、「たかが隣で寝るだけだろう?」と適当な床にランタンを置いた。
 ひと昔前なら本当に、言葉通りの意味しかなかったのだろう。けれど二人の関係が進んだ今、彼女の声に動揺が滲んでいるのをレイモンドは感じ取らずにいられなかった。
「う、うん! じゃあ寝るかー!」
 かく言う己もかなりどぎまぎしてしまっている。何か起こるはずもないのに、可能性があるというだけで期待するのが人間という生き物らしい。
 横になったルディアの上から毛布代わりのケープやマントを重ねられるだけ重ねる。それが終わると己もベッドに身を横たえ、同じ布の層に潜り込んだ。
 沈んだ身体にちくちくと藁が刺さる。だが気になったのは最初だけで、頭はすぐに恋人の体温や息遣いでいっぱいになった。
 お利口に振る舞うならおやすみと告げるべきだったに違いない。ほかならぬ想い人の横で、レイモンドはとてもそんな優等生にはなれなかったが。
「……姫様……」
 そっと身を寄せ、探るように手を握る。嫌がる仕草は返されなかった。髪やこめかみに唇を落としてもルディアはこちらを睨みさえしない。
 否、彼女も諫めようとはしていたのかもしれなかった。久しぶりだったからつい許しすぎたというだけで。
(うう、一週間ぶりの姫様だ)
 一度触れたら抑えなど利かず、背中から腕を回してしまった。衝動のままに抱きしめる。暗闇と静寂が互いの鼓動を否応なしに意識させるのに、抱擁までしかしない約束なのがつらい。
「レイモンド」
 腕の中で彼女が小さく身じろぎした。そろそろ離れてくれと言いたげな青い双眸が見上げてくる。説得力のない熱っぽい目が。
 すぐに反応できなかったのは心のどこかで「キスするくらい良くない?」と考えていたからだろう。ブルーノは王女の身体でもっとすごいこともしているのだ。彼女が遠慮する必要なんてどこにある、と。
 しかしルディアにはやはりこれ以上先に進む気がないようだった。近づけた唇は指先にやんわり押し返され、温もりが後ずさりする。
「……返す身体だ。言っただろう?」
 諭されるともう不埒な真似はできなかった。片手だけ彼女の側に残したまま大人しく引き下がる。
(ううう、ほんとに隣で寝るだけかあ……!)
 ルディアの嫌がることはしない。しないと心に決めている。
 それでもやはり残念なものは残念だったが。




 翌朝レイモンドは思い切って、ルディアとウァーリが村の浴場を借りている間にずばりブルーノに聞いてみることにした。

「お前さあ、自分の身体どこまでだったら使われても平気とかある? 例えば俺が姫様にキスとかするのはアウト? セーフ?」

 問いかけに白猫は階段の上でしばし硬直していたが、「いずれ返す身体だからって首振られること多いんだよ」と続けると急にウニャアと鳴き声を上げる。そうして彼はいやに静かにこちらへ歩み寄ってきた。
 そのときレイモンドは土間にいて、竈の灰を掃き出しているところだった。足元の土はよく踏み固められており、ブルーノが文字を書くにはちょうどいい。なんの気なしに爪の動きを目で追って「えっ」とレイモンドは狼狽した。

 ――自分のじゃない身体に愛着持っちゃうと後でつらいからじゃない?

 猫の青い目がこちらを仰ぐ。肉体どころか仮初の配偶者にまで愛着を持ってしまった幼馴染の返答は、身を凍らせるには十分だった。
 ああそうか。自分はルディアがどこの誰に入っていたって全然気にならないけれど、彼女のほうはそうではないのか。新しい器を得るまで堪えてほしいとこだわるのは。
「ごめん。無神経なこと言った」
 謝るとブルーノはなんでもないように首を振る。猫の爪がカリカリと「僕の身体は姫様の思うようにすればいい。でも多分、先に次を見つけたほうが姫様にはいいと思うよ」と綴った。
 浅薄すぎた己の思考にレイモンドはがくりと肩を落とす。ブルーノのほうがよほどルディアをわかっている。
(いや、そもそも姫様がもっと本音を話してくれりゃいいんだけどさ……)
 あの性格は一朝一夕でどうこうなるものではなかろう。嫌がることをしないだけでは駄目そうだなと嘆息した。
 本当に支えになりたいなら、ルディアには姫としての苦悩どころか蟲としての苦悩まであるのだということ、己はよくよく心得ておかなくては。


 ******


 こんな僻地でこんないい湯を味わえるとは思ってもみなかった。広々とした石の浴槽を埋める温水にウァーリはうっとり息を吐く。
 舐めると少し塩っぽいのはアルタルーペで採掘される岩塩の影響か。塩泉というだけで遠い故郷が思い起こされ、なんだか愛しくなってくる。
「マルゴーって水に恵まれてるのねえ」
 湯気で曇った視界の奥に目をやれば「これだけの高峰だからな」と青い頭が振り返った。同じ湯に浸かる彼女はいくつもの河の水源がアルタルーペにあることを教えてくれる。
「ふうん。サールリヴィス河もそうなの」
 世間話に応じるように返しつつウァーリは脳裏に地図を描いた。
 マルゴーはジーアンがいまだ攻略の手がかりを掴めずにいる国である。前回は急峻な山々に騎馬軍の進行を阻まれ、一時休戦と相成った。だが山脈を迂回してもあの大河が公国の北を囲って流れているのなら別ルートで強襲するのも難しいのではなかろうか。
(天帝陛下はマルゴーを欲しがってるのよねえ)
 土地そのものに関心があるわけではない。アクアレイアの守りを盤石にするために柵が必要というだけだ。どうしてもレンムレン湖が見つからないようであれば、ヘウンバオスはあの国を第二の故郷にするつもりでいるのだから。
(この旅でなるべくたくさん公国の情報を仕入れましょ)
 ちら、とウァーリは四肢を緩めるルディアを見やる。今のところ彼女のほうも目立っておかしな動きはない。しかし油断は禁物だった。何しろルディアはあのハイランバオスに選ばれた駒なのだから。

「……ねえ、あなた男の身体に違和感ないの?」

 彼女自身を知るためにウァーリは問いを投げかける。一応は年頃のお姫様のはずなのに、ルディアの返事は素っ気なかった。

「別に? こっちのほうが力もあるし、体力もあるし、月のものに悩まされる心配もなくて楽でいい」

 思わず「あ、そう」と肩をすくめる。化粧して着飾りたいとか髪を伸ばして華やかに結いたいとか彼女にそんな欲望はなさそうだ。もしかしたら本当に国のことしか頭にないタイプかもしれない。
「でもそれじゃ、好きな子ができたらどうするのよ? 男の身体のままでいいわけ?」
「なんで私がそんなことを答えねばならん」
 言い分はもっともだったがウァーリは質問を取り下げなかった。単純によその蟲が精神と肉体の性別をどう捉えているか興味深かったこともあり、返事を渋るルディアにもう一歩踏み込んでみる。
「アルフレッド君とかどうなの? 付き合いたいって思ったことないの?」
「さっきからなんの話だ!?」
 ざば、と温水が波立った。「のぼせたのか? もう出たほうがいいんじゃないか?」と顔をしかめ、彼女はさっさと浴槽を跨いでしまう。
「アルフレッドとどうこうなりたいのはそっちの女帝陛下だろう」
 迷惑そうに嘆息するとルディアは浴室を出ていった。
 なるほどそこは脈なしかと気の毒な騎士を思い浮かべる。二人が恋愛関係にでもあれば釘を刺すのに利用できるかと思ったのに。
 やはり監視を怠らず、地道に情報を集めていくしかないようだ。裏切り者を捕まえてアークが何かを吐かせるためには。
 一歩遅れて湯船を出るとウァーリは浴室の小窓を見上げた。と、近くの枝で休んでいた鷹の一羽が窓辺にすいと飛んでくる。
「……レイモンド君たちはどうだった? 村人と接触したりしてないわね?」
 頷く代わりに鷹はピュイイと二度鳴いた。
 信用しきれぬと言いながら結局三羽借りたのだ。ルディアたちを見張るだけでなくマルゴーの内実も十分に探らねばなるまい。
 濡れた髪を軽く絞り、ウァーリも浴室を後にした。
 公国の首都サールはもう三日ほどの距離に迫っていた。


 ******


 放たれた幾羽もの鷹が悠々と中庭を舞う。堂々たる翼を広げ、風を切って。その中心で腕を伸ばして戯れる青年を見やり、ファンスウは薄目を凝らした。どうにも正体を見せぬ狐を。
 十羽いた鷹が今は七羽に減っている。「監視以外に偵察の役目もあるでしょ」とラオタオが言葉巧みにウァーリに供をつけさせたからだ。
 そのことが己の中でまだしつこく引っかかっていた。もしかするとこの狐は別の意図があって仲間の補佐を申し出たのではないか、と。

「ラオタオ、ドナから書簡が届いとる。目を通せ」

 極力なんでもない風を装い、ファンスウは若狐に呼びかけた。折りたたんだ書を受け取った青年は内容を確かめるなり「うへえ」と盛大に眉をしかめる。相変わらずどこまでが本心なのか読めぬ態度で。
「これさあ、俺、一旦あっち戻らないとじゃね?」
「そうじゃろうな。ウヤが名指しで助けを求めとるのだし」
 退役兵らの監視役に任じた部下から届いたのは「そろそろ抑えが利きそうにないです」という訴えだった。長らく総督の姿がないせいでゴジャや取り巻き連中がどんどん横暴になっており、ウヤは一人で困り果てているそうだ。半日だけでもラオタオに帰ってもらえないかと彼は哀切に懇願していた。
「文面を見るに、しばらく滞在してやったほうが良かろうな。一週間から十日くらいか」
 具体的な日数を示すとラオタオは「うーん」と唸る。腕組みして悩む彼には一瞥もくれず、ファンスウは話を続けた。
「退役兵に暴走されると厄介だ。一両日中には出ろ」
「ええー!? そんなすぐー!?」
 ラオタオは不服そうに顔を歪める。何か都合が悪いのか問えば「小間使いにするアクアレイア人、まだ連れていけないじゃん」との返事があった。何度も往復しなきゃならないのは面倒だとぼやく狐は穿った目で観察せねば単に怠惰な男に見える。しかしやはりファンスウは勘繰りをやめる気になれなかった。
(万に一つも出し抜かれぬためには行動範囲を狭めておいたほうがいい)
 このタイミングでラオタオをアクアレイアから遠ざける理由ができたのは、もちろんただの偶然ではない。ウヤの手紙はファンスウが命じて出させたものである。
 鷹の貸し借りですら控えさせたいほどだったのに、今は狐に変にちょこまか動かれたくない。少なくともルディアたちがマルゴーから帰るまではどこかで大人しくさせておきたかった。
「船の手配はユリシーズ以外の者にさせるのじゃぞ。あれには砦の建設と女帝の相手があるのだからな」
「はい、はい、仰せのままに」
 ファンスウの言いつけにラオタオは投げやりに頷く。最も重用している男と引き離しても口答えしない彼を見てようやく少し己の胸も落ち着いた。
「ユリぴーが駄目となるとレドリーかあ。あー、めんどくさ。あいつ使えないんだよなあ」
 ひとしきり億劫がると狐はピュウと口笛を吹き、放していた鷹を呼び戻す。よく訓練された彼らは順に専用の幕屋へと戻っていった。

「なんかあったらドナまであいつら飛ばしてよ。そしたらすぐ駆けつけるから」

 実際に連絡する気があるかどうかはさておいてファンスウは「わかった」と了承する。どうすれば黒か白かを断定することができるだろうと頭の隅で考えながら。
(いっそ首を絞めてしまうか? 瓶の中なら動きようがないからな)
 ひらめきはかぶりを振って即散らした。いくらなんでもそれはほかの十将の反発を招くと。
(結局我々は現状維持しか選べぬわけか)
 苦い思いで狐を見やる。首に縄をつけられているはずのラオタオは、鷹よりもよほど自由に己の幕屋に戻っていった。


 ******


 ユリシーズ・リリエンソールは苛立っていた。先日からどっと忙しくなったせいではない。堪える以外どうしようもない屈辱をたびたび味わわされるせいである。
 ユリシーズは十八時の鐘により解散となったサロンを出てレーギア宮の柱廊を歩いているところだった。隣にはいつものようにアルフレッドの姿があり、最初はごくごく平穏な空気が流れていたのである。
 今や朗らかな談笑は途切れ、甲冑の足音も止まった。
 原因は明らかだ。前方に見える影。偏屈なあの老人。彼がユリシーズの気分を台無しにさせるのである。
「…………」
 名高い詩人に敬意を表してユリシーズたちはすれ違わんとするパディに道を開けた。今日こそは絡まれる前に宮殿を出たかったのに運がない。もうこの男の面当てに付き合わされるのはこりごりなのに。

「権力者のご機嫌取りは楽しいか? 今も昔も本当にお前たちは変わらんな」

 一縷の望みを抱いてこのまま通りすぎてくれることを願ったが、無駄だったようだ。腰は曲がり、杖なしには歩けもせず、ずっとうつむいているくせに、詩人の眼は決してこちらを見逃さない。
「汚い蠅だ。いや、蠅以下だな。意地汚さをおべっかで隠さないだけ蠅のほうがまだ上等だ」
 侮蔑的な物言いにたちまち心は乱された。パディはユリシーズたちの務めを承知のうえで堂々と吐き捨てる。
「忠誠心など持ち合わせてもいないのだろう? あったとしてもすぐに銀貨と交換だ。本物か偽物かにこだわらなければ名誉だって金で手に入るのだから、ああ、ああ、騎士というのは実に楽な商売だ!」
 唇を噛み、ユリシーズは拳を固めた。アニークのもとに通うのは確かに計算あってのことだが、こうも悪意に満ちた偏見で断言されるのは不愉快だ。
 女帝に対するものでなくても忠誠心なら持っている。国に仕える志なくては今のアクアレイアで貴族など名乗れない。
(このくそ詩人……っ)
 が、言い返したところで何にもならないことはわかっていた。もはや騎士に対する憎しみを隠しもしないパディだが、彼はあくまでアニークの客、無礼を咎められる相手ではない。たとえ不正義の誹りを受けようと、杖で脛を打たれようと、こちらが引き下がるしかなかった。

「……お早く心痛が癒えるように祈っています」

 よせばいいのにアルフレッドが一礼する。歩み出そうとしていた詩人はそこで再び立ち止まった。

「は! 私にまで小汚い尻尾を振るか!」

 罵倒の声が示すのは拒絶と否定にほかならない。一度曲がった針金は元には戻らないのだろう。慰めは完全に無効だった。パディはアルフレッドの言葉の意図をかけらも理解しなかった。
「騎士というのはこれだから……、これだから……」
 ぶつぶつと呟きながら老詩人が通りすぎる。推敲という仕事を手離した彼に部屋で大人しくしていてもらうにはどうするべきか、ユリシーズは大真面目に思案を始めた。

「……お前たち……」

 と、パディが立ち止まる。老詩人は険しい眉の下の双眸をこれ以上ないほど鋭くし、乾ききった口を開いた。

「あれを書いたのはお前たちか?」

 質問の意味がわからずアルフレッドを振り返る。なんのことを聞かれているのか彼にも心当たりがないようで、騎士は控えめに首を傾げた。
「違うならいい」
 説明らしい説明もなく老詩人は再びこちらに背を向ける。通路の奥にパディが消えるとユリシーズは思いきり眉間のしわを深くした。
「……わけがわからん。日増しに錯乱していっていないか?」
「いや、今日はましなほうだと思うが」
 アルフレッドが「俺一人のときはもっと酷い」とこぼすのを鼻持ちならない気分で聞く。よく耐えられるなと素直に感心した。
 騎士物語の発行を邪魔されたからか、パディは彼を目の敵にしているらしい。それもユリシーズには気に入らないことだった。アルフレッドは忠義がないと非難されるような騎士ではないのに。
「ユリシーズ」
 苦笑混じりの呼びかけにハッとユリシーズは顔を上げる。むかつきが態度に出すぎていたようで、温和な声にたしなめられた。
「あんな風に恨まなければやっていけないほど悲惨な境遇にあったことは確かなんだ。会うたびにこき下ろされるのはつらいが、なるべく気にしないようにしよう」
「……お前がそう言うなら」
 思うことはまだ色々あったがぐっと喉奥に飲み込む。
 マルゴー公との確執に我々は無関係ではないかとか、言われっぱなしになるとわかっていて八つ当たりの標的にされたくないぞとか、反発はぐるぐる頭を巡っていたけれど、さすがに愛読者の前で作者を罵ることはできない。
 ユリシーズは肩で大きく息をついた。目尻を尖らせ、「今夜は飲むぞ」と隣の男に圧をかける。
「わかった。夕飯が終わったら行くよ」
 返答に概ね満足し、ユリシーズは柱廊を歩き出した。
 信じる者に裏切られた騎士の末路があの狂人かと苦い思いを抱きながら。


 ******


「だからなあ、アニーク陛下がもっと毅然とした態度を取ってくださればいい話なのだ! お前だってそう思うだろう!?」
 鼻息を荒げるユリシーズにアルフレッドは曖昧な笑みを浮かべる。素面では飲み込める不満も酔えば口から出やすくなるものらしい。そろそろボトル一本空けようかというユリシーズは先程から同じ文句しか言わなかった。
「まあ、アニーク陛下は俺以上に騎士物語に入れ込んでいたから、難しそうだな」
「だからと言って宮廷内であんな不遜を許すのか!?」
 寵遇を笠に着て好き放題の客人にユリシーズは憤慨しきりだ。けれどそれもやむを得ないことに思えた。毎日のようにああして突っかかってこられては。
 パディは時間を持て余しているのか近頃しょっちゅう城内を徘徊している。以前は姿を見かけること自体稀だったのに、今は中庭でも通路でも頻繁に彼に出くわした。そうして痛烈な罵詈雑言を浴びせかけられるのだ。騎士が日向を歩くなとでも言わんばかりに。
「おそらくそれほど問題視されていないんだろう。衛兵や下働きの者たちには何も言わないそうだから」
 変わり者だが面倒のない老人だと思われていると教えてやるとユリシーズが面食らう。整った顔の愕然ぶりは、こんな話題でなければまあ見ものだった。
「要するに嫌悪の対象は騎士のみで、あの宮殿では私とお前だけということか……」
 はあ、と溜め息がこだまする。何かしら諦めの境地に至ったようで、白銀の騎士は話題の切り口を転じた。

「マルゴー公はどう出ると思う?」

 追加の酒を呷る彼の横でアルフレッドは考え込む。ユリシーズが聞いているのは何も知らずにサールへ向かったルディアやレイモンドのことだろう。仲間が無事に帰ってくるか、アルフレッドも心配していた。
「一応何もしてこないとは思う。最終巻の内容がわかるまでは、公爵も自分は何も知りませんという顔でいるんじゃないかな」
 サール宮で何度か会った好々爺を思い返す。亡命してきたアクアレイア王家を葬り去ろうとしたのは彼と公女ティルダだった。表面上友好的でも信用するのは難しい相手だ。ルディアたちもそこは承知で旅立ったわけだが。
「アクアレイアでは続編の印刷が進んでいることになっている。レイモンドをどうこうしても出版は止められないと悟ったら、血生臭いことは避けるんじゃないか? やましいところがありますと言っているようなものだしな」
「ふむ、それもそうだ」
 ユリシーズはルディアたちの安否よりアクアレイアとマルゴーの関係がどうなるかを気にしている風だった。サールでレイモンドに何かあれば民衆は騒ぐだろう。そうなれば小さな揉め事で収まらないのはアルフレッドの頭でも想像がついた。
「しかしパディがレーギア宮に留まる限り、マルゴー公から敵視を受けるのは避けられまいな」
 最終巻の発行をするしないに関わらずそういう展開になってしまったと白銀の騎士がぼやく。今度はアルフレッドが頷く番だった。
 パディと公爵の仲はもはや修復不可能だ。ユスティティアは一番の憧れに、一番手酷く裏切られたのだ。主君と仰いだグローリアとも引き離され、何十年も孤独の檻で。
 アニークも老詩人に同情している。仮に公爵がパディを渡せと言ってきても彼女が手離さないだろう。
「……あれから何度か読み返したが、どんどんやりきれなくなるよ。彼は本物の詩人なんだな。込められた感情はどろどろなのに、言葉はとても綺麗なんだ」
 そんな呟きを落としたのは己も酔っていたからだろうか。
 憎悪というのは愛を残しているときが最も激しく燃え上がるのかもしれない。トレランティアを語るユスティティアの台詞には尊敬の念が満ちていて、それもパディには真実だったと伝わるのが痛ましい。
 ほかの場面も悲しくはあるが美しくて。特にユスティティアがグローリアに「いつかあなたの名を己の剣に賜りたかった」と明かす夜の一幕は。
 グローリアは随分長く沈黙した。「それはもうサー・テネルにやったのよ」という彼女の返事を、どんな気持ちでパディは綴ったのだろう。

「無様な男だ」

 ぽつりと隣で響いた声にアルフレッドは薄目を開く。こちらの感傷が彼にも及んでしまったのか、見ればユリシーズは重苦しく表情を歪めていた。
「己の痛みに振り回されて、報復だけに囚われている。進めば進むほど愛した女から遠ざかっているのは自覚しているだろうに」
 白銀の騎士が誰を瞼に浮かべてそう言ったのかは知らない。酔った頭はそれを考えるより先にグローリアに思いを馳せた。
 惨劇の中に突如放り出された王女。何故か彼女がルディアと重なる。自分の父に手をかけた彼女と。
 テネルがグローリアの愛を受ける第一の騎士となったこと。ユスティティアは衝撃を受けていたが、彼女にしてみれば当然の帰結だったのではなかろうか。
 だってテネルはいつだって自分の気持ちを率直に伝え、側を離れなかったのだから。ユスティティアを失ったグローリアが嘆きの中にいるときも、体内に残った毒が彼女の健康を蝕んで暗い城に引きこもるしかなくなったときも。
(……姫様もレイモンドがいなければ一人でさすらうところだった)
 無意識に拳を握り込んでいた。
 これは自分の物語でもあるのかもしれない。突然にそう感じる。
 嫉妬も憎悪も普遍的な人間の感情だ。ユスティティアはどちらにも苛まれ、どちらからも逃げきることができなかった。そうして彼は騎士を呪った。
 なら自分はどうなのだろう。滑り落ちかけているこの道に、踏みとどまっていられるだろうか。


 ******


 意外なほどすぐマルゴー公は謁見を許可してくれた。数日は待たされるものと構えていたのに、名前と用件を告げただけでサール宮の門が開かれて。
(密使とでも思われたか? 執務室に通されるとは)
 ぐるりと目玉だけ動かしてルディアは室内を見回す。天井にはパトリア神話の英雄画。タペストリーのかかった壁には太い蝋燭が何本も燃えている。足元には分厚い絨毯が敷かれており、石造りの城の冷気をやわらげていた。部屋の中央には政務用の大きな机。その奥で指を組み、ビロード張りの椅子に座したティボルト・ドムス・ドゥクス・マルゴーが微笑んだ。
「おお、よく来てくれたのう。印刷商のレイモンド・オルブライト!」
 噂は耳に入っておるぞと公爵はにこやかにレイモンドを見つめる。旅装束のケープを脱ぎ、凛々しく身を整え直した彼は「光栄です」と一礼した。
「実は今日は公爵殿にお願いがありまして……」
 商売人らしくレイモンドはさっそく融資の相談を始める。騎士物語の作者と知り合った経緯や続編の刊行予定など、説明は快調になされた。
「ふむ、ふむ、東パトリアの女帝が遇する詩人とはやはり彼のことだったか」
 ティボルトは興味深く話に耳を傾けている。成否はどうあれ表向きの用事は片付きそうだなとルディアは小さく息をついた。
 ここまで来れば適当な理由をつけてチャドに会えばいいだけだ。彼に目通りできさえすれば邪魔者は排除できる。こちらが何もしなくてもチャドのほうが防衛隊以外の人間を遠ざけようとするに違いないからだ。
 元夫にはアウローラが生存している可能性を伝えてある。娘が今どうなっているか知りたければ彼は内密に会話できる場を設けねばならない。期待通りに動いてくれるはずだった。
 ルディアはちらりと隣のウァーリに目をやった。大女は水も漏らさぬ姿勢でレイモンドと公爵のやり取りを注視している。
 この商談がカモフラージュだとばれる心配はしていないが、振舞いには細心の注意を払わねばなるまい。こちらの本命がコナーだと悟られる事態になれば何もかも水の泡だ。
「ほほう、これが先日出版された続編の上巻か。いや、嬉しいね。わしも相当読み込んだのだよ。新章の追加された再編版なぞ毎日手離せなくってな」
 やや上擦ったティボルトの声にルディアは視線を正面に戻す。見れば公爵は献上された本の一冊を手に取ってぱらぱら中身を確かめていた。
「続編はどんな内容なのだね? 君は物語がどう終わるのか、もちろん知っておるのだろう?」
 騎士物語の読者にしては珍しく、ティボルトは先に結末を知りたがる。
「すみません。俺もラストは知らないんです。本当に完成したって言えるまで誰にも見せたくないって言われて」
 そう首を振るレイモンドを公爵は妙に渋い顔で見つめた。
「なるほど、君でもまだ知らぬのか。……なるほど、なるほど」
 何か変な雰囲気だ。ティボルトは続編の表紙を眺めて急に黙り込んでしまう。だがこちらにはその原因がさっぱり掴めない。
 しばし沈思に浸ったのち、公爵は強張っていた口元を緩めた。続いて老人が告げたのは思いもかけない言葉だった。

「それでは単なる融資ではなく、物語の出版権自体わしに買い取らせてくれんかね?」

 意表を突かれたレイモンドが「へっ!?」と声を裏返らせる。ルディアにも公爵の発言は欲を出しすぎなように思えた。
「しゅ、出版権て『パトリア騎士物語』の印刷にかかる費用全部持つってことですか!?」
 大焦りの質問にティボルトは「そうじゃ」と頷く。どころか「君にも儲けの算段があっただろう。印刷費の二十倍支払う」とまで言い出してレイモンドは更に焦った返事をする羽目になった。
「いや、いや、それは無理です! こっちも写字生との契約とか色々あって、権利を売り払うのはさすがに!」
 迷いなく申し出を固辞した彼に公爵は唇をすぼめる。だがすんなり承諾してもらえるとはティボルトも考えていなかったようで、しつこく迫ってくることはなかった。ただ酷く残念そうに「まあそうだわのう」と嘆かれたけれど。
「え、ええと、マルゴー公……?」
「気にせんでくれ。言ってみただけじゃ。マルゴーにも活版印刷の風が吹けばと思ったまでのことよ」
 あっさり前言を撤回すると公爵は嘆息とともに椅子に深く座り直した。古狸と綽名されるほど抜け目ない男なのに、今日の彼はどうも態度がちぐはぐだ。無理に作り笑いをしている。そんな感さえ窺える。
 違和感の理由はティボルト自身が明かしてくれた。

「……かつてこのサール宮でも騎士物語の作者をもてなしたことがあってな。昔と変わらぬよしみを持てぬか考えてしまったんじゃ。アクアレイアに滞在中と知って以来、どうにかしてもう一度会いたいと思い募る一方でのう」

 最初にすんなり通してくれたのはそういう理由だったらしい。アルフレッドの予想通り、ティボルトとパディは旧知の仲であったのだ。
「アニーク陛下がお帰りになられたら、次はマルゴーで羽を伸ばすのもいいんじゃないかとお勧めしておきますよ」
 レイモンドの台詞に公爵は「うむ、頼んだぞ」と頷く。便宜を図ってくれるならと思ったか、ティボルトは破顔して交渉の返答をよこした。
「融資の件は喜んで引き受けよう。『パトリア騎士物語』にほかならぬマルゴーが金を惜しんではいい笑い者じゃからな」
「……! ありがとうございます!」
 とんとん拍子で話が決まり、レイモンドも嬉しそうだ。明るい顔でこちらをちらちら振り返る彼にルディアも微笑を禁じ得なかった。
「代わりと言ってはなんなのじゃが……」
 と、ティボルトが再度レイモンドに呼びかける。
「あの詩人に手紙を届けてくれんかの? 今すぐ帰る予定ではないじゃろ? サールを発つ前に宮殿に寄ってほしい」
 それまでに一筆したためておくからと公爵は言った。断る理由があるはずもなく「はい! お安い御用です!」と快諾の声が響く。
「うむ、ではまた後日な」
 これで表向きの用事はおしまいだ。恭しく辞去を告げるレイモンドに続き、ルディアもその場に立ち上がった。

「あ、そうだ。もう一つお願いがあるんでした。チャド王子が飼っておられた猫を連れてきてるんですけど、王子に直接お返ししても大丈夫です?」

 ――唐突に追加された用件に公爵の眉がぴくりと跳ねた。レイモンドはさもついでのように言ったのに、やはり警戒を招いたらしい。「ほう? チャドにも会いたいと申すか」と冷徹な声が返ってくる。
 レイモンドが防衛隊の一員であることは公爵も把握済みなのかもしれない。細められた双眸は明らかにルディアたちを疑っていた。アクアレイア人が王子に会って何を企んでいるのかと。
 この流れは良くないな、とルディアは後ろに置いていた編み籠を引き寄せた。中に白猫の入った蓋付きバスケットだ。レイモンドに目配せし、「お手元に届けられれば十分だろう」となるべく平静な声で言う。

「あー、いや、駄目なら会えなくていいんです! お元気かなって気になってただけなんで!」

 ルディアの手から籠を受け取るとレイモンドはそれをそのままティボルトに差し出した。会わなくても問題ないと聞き、古狸に笑みが戻る。
「おお、そうか、アクアレイア人の君が息子を案じてくれておったとは嬉しい限り。良い、良い、あれも部屋で退屈しておろう。是非会ってやってくれ」
 レイモンドの手に猫が押し戻されたのを見てルディアは内心ガッツポーズを決めた。あとはどうにかチャドにウァーリを追い払ってもらい、師の泊まる宿を訪ねればいいだけだ。
「はい、それじゃお言葉に甘えて、少しお邪魔させていただきます」
 今度こそレイモンドは公爵の面前を辞した。執務室を出る際に侍従の一人が案内役として付けられる。
「ふうん、次は王子様に会うのね」
 ぽそりと呟いたウァーリの目は鋭さを失わぬままだったが、疑惑を持つには至っていないように見えた。猫を返すとは事前に説明していたから、不自然な行動だとは思われなかったようである。
 すべては順調に進んでいた。当初描いた道筋から大きく外れることもなく、至って順風満帆に。


 ******


 宮殿にアクアレイア人が来ているようだと耳打ちしたのはグレッグだった。それから間もなく衛兵がチャドの私室の扉を叩き、よく知った名を告げてきて。
「レイモンド・オルブライト殿、ブルーノ・ブルータス殿、ハンナ・ダン殿が殿下にお目にかかりたいそうです」
 最後の一人は誰なのかわからなかったが、防衛隊の槍兵と本物のルディアが揃って訪ねてきたことの意味ならば理解できた。彼らと自分は一つだけ接点を残しており、そのことでいつか連絡すると予告もされていたのだから。
(アウローラがどうなったか伝えにきてくれたのか?)
 死んだと思っていた娘。愛しい乳飲み子の眠たげな顔を思い出し、チャドは衛兵に「通せ」と命じた。いささかの緊張と動揺を誤魔化しながら。

「お久しぶりです。チャド王子」

 入室してきた三名のうち、金髪の青年が最初に長身を折り曲げた。わざわざ手土産を用意してくれたのか、彼の腕には大きな編み籠が抱えられている。
 隣を見ればルディアがぺこりとお辞儀した。相変わらず彼女の精神は逞しく、他国の宮殿にいるというのに少しも臆したところがない。
 ハンナ・ダンとやらはやはり知らない人物だった。頑健そうな肉体も、厚い化粧で覆われた顔面も、一度見れば忘れるほうが難しそうだったので、初めて会う淑女なのは間違いなさそうだ。
「ここで君たちに会えるとは思わなかった。一体またどうしてサールに?」
 尋ねつつチャドはルディアたちに着席を勧める。部屋には四人掛けの円卓があり、それなりに座り心地の良い椅子が備えてあった。
「あ、俺たちはマルゴー公に印刷工房への融資をお願いに来たんすよ。それでまあ、王子にもお会いしとかなきゃなって」
「ああ、なるほど。騎士物語を発行しているのは君たちだったな。驚いたよ。まさかいきなり城に来るとは思わなかったから」
 客人たちが各々腰を落ち着けるとチャドも余った座席にかける。控えていたグレッグに顎と視線で指示を送り、卓上のチェスボードを片付けさせた。
 逆らいこそしないものの元傭兵団長の目は複雑そうだ。彼の右腕を殺したのが防衛隊の少女であったのを考えれば致し方ないことだけれど。
「あれっ? グレッグのおっさん?」
 と、お仕着せの軍服姿のグレッグに気づき、防衛隊の槍兵がぱちくりと瞬きした。傭兵団と交流の深かったレイモンドは「あんた宮仕えになったの?」と知人の鞍替えに仰天している。
「……そっちは随分ご立派になったみてえだな」
 上等の服に身を包んだ客人にグレッグは半ば吐き捨てるように答えた。直情的に眉を歪めてそれ以上は口を閉ざした従臣に代わり、チャドがレイモンドに説明する。グレッグ傭兵団は解散し、今はほんの十数名がチャドの護衛として雇われているに過ぎないのだと。
「え、そうなんすか」
 グレッグが公爵家からの裏の依頼を断ったこと、そのため傭兵団を維持するのが難しくなったことについては言わなかった。槍兵の後ろで黙ったまま話を聞いているルディアには多少なり察しがついたに違いないが。チャドが拾った団員は皆マルゴーの闇を知ってしまった者であり、いつでも口封じできる場所に留め置かれているだけであること。
「うちは副団長のおかげでやれてたようなモンだからよ」
 乾いた笑いにハッとレイモンドが瞠目する。ルースがどうやって死んだのか思い出したらしい槍兵は言葉を失くして固まった。
 常ならば明るい二人が黙り込むと部屋の空気が急速に重くなる。気まずさを散らすようにチャドは無理やり話題を転じた。
「そうだ、そちらのご婦人は? アクアレイアの方だろうか? レーギア宮にいた頃はお目にかからなかったように思うが」
 柔和に笑んで大柄な美女を振り返る。視線を向けられたハンナは落ち着いた声で「申し遅れましたわ」と謝罪した。
「私、東パトリア帝国の商人でハンナ・ダンという者です。騎士物語に憧れてマルゴーまでついてこさせていただきましたの。どうぞお見知りおきを」
 自己紹介から推測するに、彼女は印刷工房の上客といったところだろうか。防衛隊の同伴者だし、少しは彼らの事情にも通じているのかもしれない。
 求められた握手に応じ、チャドは右手を差し出した。挨拶や世間話などどうでもいいから早く娘のことが知りたいともどかしく感じつつ。
 アウローラは平穏無事に暮らしているのか、五体満足でいるのか。聞きたいことは山ほどあった。本当に命が助かったのかも。
 だがハンナの前で娘の名を出していいかがわからなかった。亡命に関与したグレッグはともかく、彼女は本当にただの客である可能性のほうが高い。それにアクアレイア人でないなら秘密を守ってくれる保証もなかった。
 思案ののち、チャドは「なるほど。騎士物語の始まりの地であるマルゴーをご覧になられにきたわけだ」と話を繋げた。
「であれば街より森のほうがそれらしい雰囲気を楽しめるのでは? これから狩りにでも行こうかと考えていたのだが、ご一緒にいかがだろう? もちろん防衛隊の諸君も」
 ひとまず城は出たほうが良さそうだなと断じて皆を外に誘う。提案は正解であったらしく、ルディアが「光栄の至りです。お受けさせていただきます」と仰々しく一礼した。
 やはりハンナは純然たる部外者であるのかもしれない。狩りの場なら彼女の相手はほかの者にさせ、ルディアとだけ密談する機会も作りやすいだろう。
 よし、とチャドは立ち上がった。待機中の護衛にも支度させるべくグレッグに声をかける。――否、かけようとした。

「あ、その前に一ついいっすか? あの、王子に返したほうがいいのかなって連れてきてるやつがいるんですけど」
「え?」

 槍兵が編み籠の蓋を開けたのはそのときだった。
 ニャアと猫の声が響いたと同時、雷に打たれたように立ちすくむ。
「…………」
 四角いバスケットから顔を覗かせていたのは長毛の白猫だった。透き通った青い瞳の。
 彼も来ていたなんて知らないから、すっかり虚をつかれてしまった。息することさえ忘れるほどに。
「こいつも狩りのお供させてもらっていいすかね?」
 問われてチャドはまたうろたえた。忘れようとしている相手を目の前にして、是とも否とも答えられない。
「あ、ああ、いいとも」
 それでもなんとか声を絞り出したのはグレッグとハンナの目があったからだ。何故そんなに動じているのか問われなどしたら、もっと動じることになるのは明らかだったから。
「……グレッグ、籠はお前が持ってくれるか?」
 自分では彼に近づけず、傍らの男に命じた。可愛い猫なのに撫でもしないのか不思議そうに見られたので、「咳が出ることがあるんだよ。」と言い訳する。
「あら、猫に触るとお手がおかゆくなられたり?」
 気の毒そうにハンナが言った。どこか観察するような目つきで。
「ああ、だが狩りに支障はないよ。鹿や山鳩は平気だからね」
 そう言ってチャドは客人に離席を促した。
 日頃からほかの慰めにほとんど手を出していないこともあり、狩猟の準備はすぐに整った。


 ******


 マルゴーもこれまでとは多少事情が変わったらしい。「アクアレイア人は一人で乗りこなせないだろう」とチャドと相乗りになった馬上でルディアは揺れる森の景色を振り返った。
 王子のほかに猟犬と馬を与えられているのは八人。そのうち一人はウァーリだが、残りはグレッグをはじめとした傭兵団の猛者だった。彼らの荷物を背に歩く若者たちも戦場で働く姿を見た覚えがある。
 列の後ろで戸惑いがちにこちらを見やる少年は確かドブという名だったか。彼はモモと親しかったから、心裂かれる思いをしたのは想像に難くなかった。
(前にも増してマルゴーとは微妙だな)
 敵にはなれぬ隣国なのに仲良くなれる兆しもない。政治上の関係には個人の親交も重大な影響を与えるというのに。
 アクアレイア人の相手はしたくないという心理の表れなのだろう。チャドの護衛は大半がウァーリを囲んでわいわい進んでいた。レイモンドが兵の一人と二人乗りする馬には近づく者もいたけれど、ルディアの側には誰も寄らない。今だけは却って都合がいいほどに。
「……例の件はどうなった?」
 手綱を操る糸目の王子が振り返り、肩越しに問うてくる。
「これから進展する予定なんだが監視の女が厄介でな」
 唇を読まれぬように気をつけてルディアは貴公子に答えた。
「ジーアンの回し者だ。できれば数日、せめて半日引き離せないか?」
「……!」
 手早く用件を伝える。あとあと合流できるなら荒っぽい手段でも構わないと付け加えるとチャドは「わかった」と了承した。
 話の早い男で助かる。ハンナ・ダンが障害となると知るや、彼はもう意識を切り替えてしまった。おまけに「今日中になんとかしよう」と心強い返事までくれる。
 一行が今日の狩場に到着したのは昼過ぎのことだった。サールの東に広がる森は管理が行き届いているようで、天を突くマルゴー杉がそこらに生えている割に明るい。切り株の数はもっと多く、樵の仕事ぶりが窺えた。

「あんまり森が暗すぎるとな、昼でも人さらいが出るのだ」

 暗に人身売買が横行していることを匂わせて「首都だというのに嘆かわしいよ」とチャドが重い溜め息をつく。
「やだ、マルゴーってそんなのが出るんです?」
 会話に混じった声の主は護衛の輪を抜けてきたウァーリで、彼女はさすがの手綱さばきを披露してルディアたちの隣に並んだ。
 内緒話はここまでか、と潔く諦める。必要最低限の打ち合わせはできたし、あとはチャドに任せるしかない。鞍の後ろでルディアはしばし寛がせてもらうことにする。
「昔から多いのだ。君たちは道中何事もなかったかい?」
「ええ、行きはなんともありませんでしたわ」
「それは良かった。帰りも問題ないことを祈るよ」
 態度を変えずにウァーリに接するチャドを見て、やはり彼も宮廷人なのだなと思った。もっとも彼が腹の内を見せなくなったのは最近の変化かもしれないが。
「騎士物語には人さらいが出るなんて書いていないから驚いたかな? あれの作者はマルゴー贔屓の描写ばかりするからね」
「まあ、そうなんです? やっぱり物語そのままではないんですのねえ」
 雑談を交わす二人を横目にルディアは後方を振り返る。ウァーリがこちらに来たからか、護衛たちは切り拓かれた森の道をとろとろとばらけ気味についてきていた。レイモンドは乗せてもらった馬を下り、腕にブルーノを抱き上げて周囲の兵士と何事か話しながら歩いている。
 白猫と目が合ってルディアはわずか顔を伏せた。せっかく連れてきてやったが、ブルーノはまた一緒にアクアレイアに帰ることになるかもしれない。もしチャドが彼を受け入れてくれるならサールに残してやりたいけれど。
(蟲の姿や生態を拒絶されたわけではないのに、ままならぬものだな)
 チャドが認められずにいるのは結婚相手が別人だったという事実だ。いや、別人だと認めたからこそ彼は去っていったのだろう。だがこのまま、はっきりした別れの言葉もないままでは、ブルーノとて諦めがつくまい。

「あ、兎!」

 と、列後方で少年の叫ぶ声がした。それより先に飛び出していた猟犬たちが低い茂みに殺到する。
 チャドが弓を構えるのは早かった。追い立てられた獲物が道に転がってきたその瞬間、彼の矢は灰色兎を地面に縫いとめてしまった。
「んまあ、お見事!」
 ウァーリが感嘆の声を上げる。「毎日これしかしていないからね」と自虐的に笑うチャドに彼女はぶんぶんかぶりを振った。
「逆に素晴らしいですわ! 東方では優れた射手ほどもてますし!」
 どうやら今ので騎馬民族の血が騒いだらしい。ウァーリは自身も弓を借り、狩りの前線に参戦した。
 しばらくの間、昼下がりの森には真剣かつなごやかな、良いムードが流れていた。元傭兵団員らも最初はかたくなだったのが、レイモンドの作る輪にドブが加わり、グレッグまでもが引き寄せられると笑い声が響くようになって。
 稀有な資質の持ち主だなと改めて思う。どんな難局でもいつの間にか人の心に入り込んで、どうにか乗り切ってしまうのだから。

「――」

 不意に何かの視線を感じ、ルディアは視線を高く上げた。見れば一羽の鷹が近くの枝から飛び立つところで、翼を広げた姿がやけに目に焼きつく。

「……殿下、あれは落とせませんか?」

 ルディアは前の鞍に跨るチャドの袖を引いて尋ねた。振り向いた彼は糸目を細めて上空を見上げ、「鷹は駄目だな。猟を禁じられている」と首を振る。
 刑罰の対象ならば仕方ない。諦めて遠ざかる鳥を見送った。ハイランバオスの連れていた鷹とよく似ていたので嫌な感じがしたのだが。
(まあいい。それより今はウァーリだ)
 チャドは一体どんな方法で彼女を排してくれるのだろう。とりあえず、先程護衛の一人が何やら申しつけられて、街へ引き返したのは見たけれど。


 ******


 事件が起きたのは森と街を繋ぐ堅牢な石橋の上だった。久々の狩りを終え、充実した気分で通り抜けようとした街門でウァーリは「おい」と武骨な兵士に呼び止められた。
「おい、貴様! この手配書の男だろう!」
 パトリア語には随分慣れたがマルゴー訛りにはまだ慣れない。聞き間違いをしただろうかと訝りながら振り返る。
「手配書の男?」
 前方に回り込まれ、ウァーリは慌てて手綱を引いた。乗っていた馬が止まるとほかの兵士にも取り囲まれる。通行料の徴収を目的とした石塔関所の一階に一気に緊迫感が満ちた。
「そうだ。先日発生した人さらい事件の犯人目撃情報を見ろ! 金髪、右頬に泣きぼくろ、女装した外国人の男とある! どう見ても貴様のことだろう!? よくぬけぬけと公国の首都に現れたな!」
 似顔絵すらついていない手配書とやらを掲げられ、「ええ!?」とウァーリは困惑した。脈絡もなくかけられた嫌疑に「待って待って、人違いよ!」と声を張り上げる。まごつく間に前後の門に格子が落とされ、内部に閉じ込められてしまった。
「……っ!」
 フォローを求めて振り返るとルディアもレイモンドもぽかんと目を丸くしている。状況が掴めないのは二人とも同じらしい。チャドも護衛らも突発事態に対応しきれず、戸惑う馬をなだめるに留まっていた。
「とにかく降りろ! 人違いか調べるのはそれからだ! 旅券や身分証明書、出せるものは全部出してもらうぞ!」
 乱暴に腕を引っ張られ、ウァーリは無理やり下馬させられた。こんな屈辱は一体何十年ぶりだろう。あまりのことに頭が白む。
「ま、待て! どこへ連れていく!」
 この段になってようやくチャドが門番を制止した。「私の客だぞ」と不愉快を露わにする彼に関所の兵士らは見え透いた愛想笑いで応対する。
「これはこれは、チャド王子。いやあ、申し訳ございませんな。我々も任務でございまして」
「疑わしきを見逃せばティルダ様のお叱りを受けてしまいます。きちんと取り調べしたうえで、もしこちらの早とちりと判明すればただちに解放いたしますから」
 王子の機嫌を取る気など微塵も見せない彼らにウァーリは絶句した。公爵家の一員でもチャドは地位が低いのか、兵士を黙らせることすらできない。
「ま、身元確かな客人ということであれば、丁重な扱いを心がけましょう」
 連れていけ、との声と同時に肩を掴まれ、ウァーリは咄嗟に身をよじった。レディが嫌がっているというのに伸びてくる手はどれも粗雑で尊大だ。
「ちょっと! 離しなさいよ!」
 抵抗は無意味だった。あれよと言う間に腕を捕らわれ、縄で縛られ、一行と引き離されてしまう。
「お、おい、取り調べって何するんだ?」
 焦ったようなレイモンドの声が背後で響いていた。強引に引きずられた螺旋階段の先に簡易牢と思しき独房が見えて眩暈がする。
(何? なんなの? どういうこと!?)
 直感的に知れたのは「はめられた」ということだった。どんな画策があったのかは不明だが、一緒に旅をしてきたルディアとレイモンドが無事で自分だけ捕まるなど有り得ない。しかもこの石橋は行きにだって通ったし、そのときは何も言われなかったのに。

「さあ、こちらでお待ちください。毛布は一枚三十ウェルス、ランタンは一つ五十ウェルス、灯芯と油は一日分が二十ウェルス! 火をお貸しするくらいの親切心は皆持ち合わせておりますよ!」

 門番はにこにこと獄中の有料サービスを案内した。放り込まれた狭い牢屋でウァーリはなるほどと合点する。
 要するに巻き込まれたのは彼らの小遣い稼ぎなのだ。難癖をつけて投獄し、いくらかの「滞在費」を巻き上げる。それでもルディアやレイモンドが標的に選ばれなかったことは解せないが。
(ああ、もう! 油断はしてなかったつもりなのに!)
 こんな形でやり込められるとは情けない。帰ったらいい笑い者だ。
(いつの間にここまで落とし穴掘ったのよ……!)
 こうなれば次の展開は目に見えた。「マルゴー公に掛け合って誤解を解くからそれまでなんとか堪えてくれ」とルディアが面会に来るに違いない。表面上はどう考えても彼女が十将に恩を売る形になるはずである。忌々しい。まったくもって忌々しい。
 思った通り十数分後、騒ぎの落ち着いた階下から数人の足音が響いてきた。チャドとルディアとレイモンドが看守に小金を握らせつつ鉄格子の前に立つ。
「すまん。取り調べの終わらないうちは釈放できないとの一点張りでな。二日もあれば出してやれると思うんだが、しばらく我慢してもらえるか?」
 想像したのとそう変わらない台詞に頬が引きつった。王女は申し訳なさそうに「なるべく急ぐ。本当に悪い」と続ける。内心では監視の目が解けたことを力いっぱい喜んでいるだろうに。
「ウァーリさん。これ、何かの足しになれば。こういうとこでも金さえあれば不便はしねーはずだから」
 レイモンドは銀貨の詰まった小袋を渡してきた。せめてこの愛嬌ある青年のほうは心から案じてくれているのだと思いたい。でなければ今度からレモンを見るたび泣いてしまう。
「客人を災難に遭わせるなど面目ない。とにかくすぐに対応するから安心して待っていてほしい」
 チャドの謝罪にウァーリは頷くほかなかった。悲しいが囚われの身となった己にはそれ以外の選択肢などないのである。
(く、悔しい。これ絶対隠れてこそこそ何かする気よね?)
 きつくルディアを睨んでも返ってくる反応はなかった。彼女はあくまで偶発的なトラブルとして通す気なのか真面目くさった顔のままでいる。
「くれぐれも大人しくな。では我々は街に戻る」
 くるりとこちらに背を向けて三人は立ち去った。カンカンと塔にこだまする足音に思いきり眉をしかめる。
 ラオタオに鷹を借りていて良かったとウァーリは拳を握りしめた。本当に、一人だったら今頃怒りでどうかなっていたかもしれない。
(頼んだわよ。あたしの代わりにあの子たちを見張ってちょうだいね……!)
 石塔の壁面に並ぶ小窓に大きな翼が横切ったのを確かめる。彼らの飼い主についてはまだ半信半疑だったけれど。


 ******


 冤罪誤認逮捕というまさかの大技を披露した男は意外なほど落ち着いて石塔を後にした。荒っぽい手段でも構わないと告げたのはこちらだが、温厚篤実を絵に描いた彼が無実の女を獄に繋ぐとは思いもよらず、ルディアのほうはまだ少し瞠目したままでいる。
「彼女の待遇が劣悪なものにならないように私は一旦城へ戻ることにするよ。狩りの後始末もあるし、話が進んだらまた訪ねてくれるかい?」
 そう言ってチャドは愛馬に跨った。
 話が進んだら、というのはウァーリではなくアウローラの件だろう。実の娘のためでなかったらさすがに彼もこんな手段は用いなかったに違いない。
「わかりました。そのように」
 答えつつ「そういえば必要なら芝居もできるタイプだったな」と思い出す。穏やかな物腰が内に秘めた激しさをぼやけさせてしまうけれど、チャドは元々。
 護衛とともに石橋を去る彼を見送り、ルディアは胸中で礼を述べた。難題があっさり解決したおかげでしばらく自由に動けそうだ。サールまで来た一番の目的はどうやら果たせそうである。

「よし、先生のもとへ向かうぞ」

 隣に立つレイモンドと彼の抱えた白猫を見上げ、ルディアは告げた。槍兵は待っていましたと言わんばかりに拳を固める。
「いよいよだな! 宿の名前は『金の鹿』だぜ!」
 先導役のつもりなのか、レイモンドは橋の続きの通りを颯爽と歩き出した。
「それにしてもウァーリさんが人さらいと勘違いされるなんて、マルゴーって前からそういうとこザルじゃねー? たまたま俺らには都合のいい展開だったけど、しっかりしてほしいよな」
 などと言われて思わず吹き出す。そうだろうとは思っていたが、彼はやはり真相に気がついていなかったらしい。
「いや、あれはチャドが手を回してくれたのだ」
「えっ!? そうなの!?」
 ルディアの返答に槍兵が声を裏返す。と同時、「フミャア!?」と猫まで狼狽した。
「ああ、見張られていると伝えただけで迅速に対応してくれたよ。ああいった策を弄するとは私も少し驚いたが」
「へ、へええ……」
「ウニャア……」
 ブルーノまでわかっていなかったところを見るに、二人ともチャドが他人を陥れるとはまるで考えになかったようだ。人徳とはこういう形で表れるのかと納得する。
「助力に報いるためにもアウローラの状態ははっきりさせんとな。父親として彼にも関わる権利があろう」
 言ってルディアは歩を速めた。娘の名前にブルーノもレイモンドも唇を引き結ぶ。
 重要なのは小さな王女のことだけではない。師に問わなければならないことは山ほどあった。アークのことも、ハイランバオスとの関係も。
(おそらくそれが、アクアレイアがジーアンに持てる最大の切り札になる)
 歩んでいた道は間もなく石畳の大通りと交わった。山の女神の聖堂や広場に至る大きな道だ。
 ホテル「金の鹿」は労せずして見つかった。貴族の館を彷彿とさせる高級宿の軒先で、吊り下げられた名前そのままの看板がゆらゆらと頼りない午後の光を反射していた。
(ここにあの人が来ている)
 いや増す緊張を振り払うよう力をこめ、ルディアは宿の玄関を開いた。


 ******


 時代の動く瞬間を今だと感じるときがある。アクアレイアの商人がこぞって東方進出を果たしたときも、ジーアン軍が本格的な西方侵略を始めたときも、胸には同じ昂揚があった。
 歴史というのは似たり寄ったりの道筋を辿るものなのかもしれない。大陸の形状にせよ、人間の性向にせよ、過去と大差ないのであれば。
 テーブルに騎士物語を開いたままコナーはしばし思索にふける。活版印刷の誕生を広く世に知らしめる、金字塔たるその一冊を。
 そう、本だ。ついに本が大量生産される時代に入ったのだ。
 これでアークの使命は一つ果たされたことになる。印刷技術の普及によって今までよりずっと早く科学は進歩するだろう。訪れるべき未来に向かって。
(私の書いたアクアレイア史も、ひょっとすると世界中で読まれることになりそうだな)
 我ながら面白い時期に原稿を完成させたものである。イーグレットが生きていたら出版をやめただろうか、それともやめなかっただろうか。
 と、コンコンと扉をノックする音が響いた。宿の者ではなさそうだ。彼らは朝にその日の用事を聞きにくるだけだから。
「先生、いらっしゃいますか?」
 続いた問いに待ち人の訪れを知る。「どうぞ」と返せば扉が開き、見知った顔が二つ並んだ。
 ブルーノ・ブルータスにレイモンド・オルブライト。彼らとジーアンの首都へ旅したのは二年前の話である。あの頃よりも二人とも立派な青年に成長したようだ。足元には何やら可愛げな白猫まで連れている。

「やあ、待っていたよ」

 コナーは初め、原稿を渡したらそれで終わりのつもりだった。アウローラがすくすく育っていることくらいは話さねばかと思っていたが、隠れ里がどこにあるのか教える気はなかったし、見送りさせる気もなかった。物わかりのいい防衛隊ならしつこくせずに大人しく帰るだろうと踏んでいたのだ。
 気が変わったのは予想外の人間から予想外の名前を聞いたからだった。
 分別ある彼にしては珍しく、ブルーノは挨拶もせずに切り出す。

「コナー先生、ハイランバオスに聞きました。あなたがアークの管理者だと」

 第一声は明らかに、こちらの関心を引くために発されたものだった。どこでそれをと問う前に「北パトリアで会ったんです」と明敏な口が告げる。
「おや、おや、それはまた……」
 どう反応したものかコナーはしばし逡巡した。あの男もなかなか大胆なことをしてくれる。ヘウンバオスだけでなくアクアレイアの民にまでアークの存在を伝えるとは。
 まったく困った疑似アークだ。確かに彼の考えも斬新奇抜で刺激的ではあるけれど。

「あなたに教えてほしいのです。ハイランバオスがアークを守れと言った真意を。それがジーアンやアクアレイアとどう関わってくるのかを」

 強い目でブルーノが問うてくる。ただごとならぬ必死さで。
 だがそれは頼まれたからと明かせる類の秘密ではない。笑ったままでコナーは返した。
「私にも黙秘権というものがあるよ」
 試すように要望をかわせば彼は小さく唇を噛んだ。だが諦める様子はなく、なお強い眼差しを向けてくる。
(さて、ここはどう切り抜けたものか)
 防衛隊が蟲に関する知識を有しているのは前々から承知していた。バオゾに偽の聖預言者を連れていったのは彼らだし、アウローラの蘇生を乞うたモモ・ハートフィールドも脳蟲という語句を用いて赤子の精神を案じた。事によれば彼らの中に蟲が数匹混ざっていてもおかしくないとは考えていたのだ。
 しかしこれは、ブルーノの続けたこの言葉は、完全に想定の埒外だった。

「どうしても知らねばならないのです! 私はルディア・ドムス・レーギア・アクアレイアだから……!」

 あの国を守るのが務めです、とひたむきな声が訴える。それは確かにかつての教え子の声にほかならず。
 ああ、と唐突に理解した。また何か大きなものが動き始めようとしているのだと。

「ルディア姫であられましたか……」

 コナーはほうと息をつき、立ち上がって目の前に立つ青年を見つめた。王女であると言われれば品位と知性は疑うべくもない。たちまちこれまで交わした会話や彼女の振舞い、あらゆる情報が統合され、なるほどと大きく頷いた。
 ハイランバオスもつくづく運のいい男だ。天帝にぶつけるにはこれ以上ないだろう敵を、こうして見つけてしまうのだから。
(なんとまあ、面白い)
 気が変わったのは予想外の人間から予想外の名前を聞いたからだった。何か起きるぞという直感がコナーから慎重さを遠ざけた。
(己が蟲だと自覚している帝や姫が、それも型の異なる蟲が、同時に存在したことがあったか?)
 詩人然り、画家然り、芸術家が世界を回せばこうなるのがさだめであろう。人類という巨大な生き物は選別も分類もしがたいうねりに突き動かされているのが常だし、芸術家とはそのうねりに惹かれてしまう生き物なのだから。

「……そこまでお求めならアークをご覧になられますか? ご案内いたしますよ」

 にこりと笑んで手を差し伸べる。新しい試験管を取り出す科学者のように。
 ルディアは静かに目を瞠り、こちらを見つめ返していた。









(20190514)