焦がれていた。
 焦がれ、憧れ、身を焼いていた。
 跪き、彼女の前に捧げた剣。貴き乙女が膝をつき、花のかんばせを傾ける。
 ――隊長はあなたに任せます。
 涼やかな声がそう告げたのを思い出す。心ばえ正しく、立派な騎士になってくださいと、最初に与えてくれた命を。
 唇は三度剣に触れた。生まれ変わっても結んだ絆が切れぬように。
 親子の血より、夫婦の愛より、主従の縁はなお強い。
 どちらかが裏切ることのない限り。想い清らかである限り。だから自分は。
(どうしたらいい?)
 自問は続く。永遠のごとく。
 寝苦しい夜の夢の中で。真昼の醒めた思考の中で。
(どうしたらいい?)
 同じ問いかけを繰り返す。深まる闇に、それでも一筋の光を求めて。
(姫様……)
 焦がれていた。
 焦がれ、憧れ、身を焼いていた。いつだって自分は。

 戻りたい。もう一度。
 まっすぐに夢を語れたあの頃に。


 ******


 遠く、遠く、船影が青く霞んでいく。主君らを乗せた帆船は税関岬を離れると波の向こうにたちまち姿を消してしまった。
 これから長くて一ヶ月、少なくとも三週間は別々に過ごすことになる。再会は秋の中頃か。ともかくそれまであの二人とは顔を合わせず済むわけだ。
 束の間訪れた平穏にアルフレッドは息をついた。
 こんな気持ちでルディアを見送る日が来るとは。自嘲に苦く眉を歪める。
「行っちゃったねー」
 隣では背伸びした妹が船の去った方角に目を凝らしていた。その更に隣ではアイリーンが旅人の無事を願って五芒星を切っている。
「……俺たちもそろそろ行くか。また夕方にでも集まろう」
 そう呼びかけるとアルフレッドは外国商船ばかりの港に背を向けた。水夫や荷運び人たちの間を縫って歩き出せば、今日も今日とて墓島に出勤予定のモモとアイリーンも後に続く。患者たちの語学指導を任された彼女らは女帝の相手を務めるだけの己よりよほど多忙になりそうだった。
「あ、そうだアル兄。皆が帰ってくるまではモモがお店に泊まるから、アル兄は家でゆっくり寝ていいよー」
 と、妹がこちらの袖を引っ張って言う。珍しいこともあるもので、主君不在時の夜番はすべてモモが肩代わりしてくれるとの話だった。
「いいのか? まあアイリーンも俺と二人きりより休みやすいか」
 答えつつアルフレッドはほっと胸を撫で下ろす。ほかに誰もいないのに一つ屋根の下で女性と過ごすのは気が引けるなと考えていたところだった。それに夜に時間が空くのは己にとっても都合がいい。
(いや、別に、これ以上頻繁に会って飲む気はないが……)
 誰にともなく言い訳し、一人小さくかぶりを振る。弁明のしきれていなさにアルフレッドは嘆息を押し殺した。
 いつの間にか彼といるのがすっかり当たり前になっている。打ち解けすぎるのは危険だと頭ではわかっているのに。
「気を悪くしないでね、アルフレッド君。私は誰と二人でも少しも構わないのだけど、モモちゃんがしばらく家に帰りたくないらしくって」
「えっ?」
 アイリーンの発言を受けて妹に目をやると、モモは「もう、そんなのアル兄に教えなくていいよお」と頬を膨らませた。
「帰りたくないって、何かあったのか?」
 聞いた以上は捨て置けず、妹に問いかける。昨夜は自分も家にいたが、普段とさして変わった様子はなかったように思うけれど。
「あー、もう、たいしたことじゃないの! ちょっとママと喧嘩しただけ!」
「母さんと?」
 原因はなんだと問えばモモはしばし黙り込んだ。だがこちらが母にも事情を尋ねる可能性を考慮してか、盛大な溜め息とともに口論の内容を白状してくる。
「前ほどお給料貰えてないし、もう姫様もいないんだから次の仕事を探したらって言われてさあ。ほら、レイモンドが印刷業で儲かってるでしょ? ママとしては防衛隊にこだわらなくてもいいんじゃないって思ってるっぽくて」
「ああ、なるほど。そういう話か」
 頷きながら自分も伯父に似たようなことを諭されたなと思い出す。好戦的なモモのことだ。さぞかし派手に母の言に噛みついたに違いない。
「でも今まで通り家にもお金入れてるのに、ママにモモがどんな職選ぶか関係なくない!? 確かに先行き不安ではあるよ? だけどさあ、アル兄には辞めたらなんて言わないくせに、なんでモモにだけ言ってくるわけ!?」
 なるほどと今度こそ深く納得する。妹が怒っているのは間違いなく「己だけ現実を見ろと言われたから」だろう。いかにもモモの嫌がりそうな不公平だ。長年の夢なのだから兄には好きにさせてやれ、なんていうのは。
 申し訳ない気がしたが、謝るのも違う気がして「わかった」とだけ頷いた。モモのほうも怒鳴るのをやめ、はあと小さく肩をすくめる。
「……ま、そういうわけだから。マルゴー組が戻ってきたら家帰るし、心配はしなくていいよ。いい機会だしアル兄も息抜きしたら?」
 一瞬背中に触れた手が思いのほか優しくて苦笑した。息抜きならやりすぎなくらいやっている。事実を知ったらモモはなんと言うだろう。
「あ! すみませーん!」
 ちょうどそのとき渡しのゴンドラが大運河を下ってきて、対岸の国民広場に戻るためにアイリーンが手を上げて呼び止めた。
「へい、毎度!」
 赤の他人の耳がある場所で続ける会話でもなかったので、小舟に乗り込んだその後は自然と皆だんまりになる。静かな波に揺られつつアルフレッドは目を伏せた。
(防衛隊以外の仕事、か)
 ルディアたちのいない間に、いい加減、もう少し冷静にならなくては。今更ほかの生き方を選べるほど自分は器用ではないのだから。


 ******


 風を受け、波の上を滑るように船は進む。沖へ出れば速度はいや増し、足元の揺れも増大した。
 帆船のいいところは船室が快適なところだな、とルディアはひとりごちる。
 見回した部屋は広く、備え付けテーブルも布ハンモックも十分なスペースを取って用意されていた。ニンフィまでは半日ほどで到着するので不要と言えば不要な設備だが、今回はあって良かったようだ。寝床の一つは既に女装の――否、旅装の大女が埋めていた。
「ウァーリさん、平気すか? 馬みたいな揺れるもんに慣れてても船酔いって別なんすねえ」
「ううううう……、ちょっとあたし、本格的に駄目みたい……」
「吐いちゃっていいっすよ。俺ここで桶持ってるんで」
「うう、汚いけどごめんなさいねえ……っ」
 青ざめきったウァーリがハンモックからよろよろと身を乗り出す。窓に寄る余力もない彼女はレイモンドの構えた平桶に胃の中身をぶちまけた。
「うぅええぇええ」
 形容を控えたくなる吐瀉音だ。そっと目を逸らしつつ、朝食は抜いてこいと伝えておくべきだったなと反省する。
 テーブルで読みかけの本を広げる己と違い、レイモンドは小綺麗なハンカチを差し出したり、輪切りのレモンを差し出したり、甲斐甲斐しく客人の世話を焼いていた。
 ああして懐に入るのは染みついた彼の性分だし、とやかく言うつもりはない。つもりはないが、婚約者がほかの女にかまけている図はあまり面白いものでもなかった。なるべく二人を見ないようにルディアは読書に集中する。
「あら、いいわね。こういうときにかじるレモンってさっぱりするわ」
「いっぱいあるんで好きなだけ食べてくれていいっすよ。良かったらもう一枚切りましょうか?」
「やだもう、弱ってるときにあんまり優しくしないでくれるー? お姉さん、そういうのハートに来るタイプだからあ」
 一番高い波は越えたか、キャッキャと楽しげな声が響く。思わず眉間にしわを寄せた。と同時、なだめるように間近でニャアと猫が鳴く。
 見れば椅子の真下からブルーノが首を伸ばしていた。気遣わしげな青い双眸に頬を緩め、小さな頭をくしゃりと撫でる。言外に「そこまで気にしていないから大丈夫だ」と伝えた。
 レイモンドがウァーリに親切なのはどう見ても損得勘定の結果である。この程度の煩悶なら船を降りて半時もすれば綺麗に忘れてしまうだろう。最初から問題にすることではない。
(それよりも今気になるのは……)
 旅立ってきた港の風景を思い出し、ルディアは静かに嘆息した。
 見送りにきたアルフレッドは普段通りの彼だったのに、やはり今までと何か違う気がしてならない。同行を願い出なかったのは人質のほうが危険だと判断してのこととは思うが、赤い瞳のあの暗さは。
(まあ、あいつにも色々あるよな……)
 考えすぎを防ぐべくルディアは本に目を落とした。
 紙の上に紡がれた美しい世界では、騎士と王女が相も変わらず大騒ぎの旅をしている。


 ******


 藪から棒に告げられた「海軍を招集せよ」との命令にユリシーズは瞬きした。一体何を始める気だとラオタオを見上げれば、狐男は幕屋の長椅子に半ば身を投げたまま大仰に肩をすくめる。
「詳しい話は龍爺……あー、ファンスウ将軍から聞いてもらえる? ユリぴー呼んだの俺じゃなくてそっちだからさあ」
 視線に応えてラオタオは顎の先を隣へ向けた。正面に目を戻すと、鼻の下に細い髭を蓄えた老将が筒状に丸めた紙を放ってくる。
「見よ」
 命じられるまま開いてみれば、それはアクアレイア一帯の地図だった。本島だけでなくグラキーレ島やクルージャ岬、アレイア海やパトリア古王国の一部まで詳細に記載されている。
「海軍提督の率直な意見が聞きたい。湾上に小砦を築くならどこかね?」
 そう言ってファンスウは白樺の乗馬鞭を地図に向けた。鞭の先には何箇所か赤色でつけられた印があり、そこが候補地なのだと知れる。
「湾上に小砦、ですか」
 どうして自分がそんなことを尋ねられるのか理解できずにユリシーズは答えあぐねた。
 いずれ彼らが侵攻を再開するつもりなのはわかる。だがいかに海に不慣れな騎馬民族でもジーアン人がアクアレイア人に問うのが解せない。
 アクアレイアは帝国にとって、まだ反逆の可能性が大いに残る土地だろう。再独立派が西パトリアのいずれかの国と結びつきたがっていること、ラオタオが勘付いていないとは思えない。
 あ、とユリシーズは頭の中だけで拳を打つ。そうか、再独立派と自由都市派が存在するのを知っているなら己が問われたのは納得だ。戦禍を避けたい自由都市派の人間なら、西パトリアの介入を妨げるに相応しい防衛ラインを選ぶと読まれているのである。
「……海門の防備を強化するほかは、ここ、ここ、それからこの一帯ですね。潟湖に流れ込む川からの侵入者を阻止できます」
 ユリシーズは地図上のいくつかのポイントを指さした。守りが堅固になればなるほど再独立派の意気はくじける。王国史を利用して周辺諸国に呼びかけることにも慎重になるはずだ。
「湾内であれば物見塔だけの砦でも十分効力を発揮するかと」
 ふむふむとファンスウはユリシーズの言に耳を傾けた。「ではクルージャ砦の補修と並行して建設作業に当たってくれ。完成は一年以内。費用は我々が出す」と新たに申しつけられる。
 どうやら本当にアクアレイアの防衛強化を進めてもいいらしい。ユリシーズは思わず唾を飲み込んだ。彼らとて親切心でやっているのではないだろうが、戦力の維持さえままならぬ現状、軍事費を出してくれるのはありがたいとしか言いようがない。
「あの、ただ、一つだけ問題が」
「何かね?」
「工期に対し、とても手が足りません。予備兵や民間人を使うにしても日当を出してやらないと」
 正直に訴えると古龍が若狐に目配せした。「はいはいはい、俺が懐を痛めればいいんでしょ」とラオタオが投げやりに両手を上げる。

「でもさあユリぴー、金出してやる代わりと言っちゃなんだけど、新しく作る砦はユリぴーがおねだりしたってことにしてくれる?」

 と、付け足された不可解な指示にユリシーズは眉をしかめた。
 一体どういう意味だろう。こちらがねだったことにしろとは。
「はあ、何故また?」
 よほどおかしな顔をしていたのか、狐にくすくす笑われる。「ちょっとねー、お願いされたって形にしないとややこしくなる相手がいてねー」と続けた彼をファンスウがぎろりと睨んだ。
「お喋りが過ぎるぞ、狐っ子」
「はーい。ここらで大人しくしまーす」
 よくわからないがジーアンにはジーアンの事情があるらしい。詳しく聞ける立場でもないのでユリシーズは「わかりました」とだけ返事した。
「では今日はサロンのほうへは遅れると、連絡だけして軍港に向かいます」
 立ち上がり、丸めた地図をファンスウに返す。一礼するとユリシーズは帝国の重鎮が籠る幕屋を後にした。
 中庭を突っ切り、柱廊を歩く。適当な衛兵を捕まえるとアニークへの伝言を託した。
 それにしても妙なタイミングでの着工だ。防衛拠点を増やす予定は前々からあったろうに、今の今まで手をつけなかったのは何故だろう。クルージャ砦ともう一、二箇所くらいなら海軍だけでも回せなくなかったものを。
(まるで今なら誰かの目を誤魔化せるといった風だな)
 ユリシーズは十将とルディアの間に交わされた「軍事的にも経済的にも今後アクアレイアには何もしない」という取り決めを知らない。仮に知っていたとしてもジーアン側の違反行為を非難はしなかっただろうが。
 新たな任務を受けたユリシーズの頭にあったのは「これで自由都市派が一歩リードできるな」ということ、そして「再独立派であろうアルフレッドにどう説明すれば心象を悪くせず済むだろうか」ということだけだった。


 ******


 ああ、世界はなんて歓びに満ちているの。溢れる光にアルタルーペの万年雪も溶けだしそうだ。
 ユリシーズが遅れると聞いても帰らない、ちゃんと目と目を合わせてくれるアルフレッドを見ていたら、それだけでアニークの胸はいっぱいになる。
 幸せだった。こんな幸せは久々だった。もう二度と普通に会話することすら叶わないと思っていたのに。
(言って良かった! 私だって『アニーク』なのよって言って本当に良かった……!)
 感涙にむせぶ己とは対照的に赤髪の騎士はまだどこかぎこちない。ちらりとこちらを窺うように「あの、大丈夫ですか?」などと尋ねてきたりする。
 こくこくと頷いて、にこにこと頬を緩めた。アルフレッドさえいてくれたらほかに望むものはない。彼さえ側にいてくれたら。

「……聞いておられませんでしたね? あれからあのご老人に謝罪なさったのかどうか、お尋ねしているんですが……」

 呆れ返った騎士の声にアニークはハッと正気を取り戻す。あたふたと両腕をばたつかせ、真っ白の頭を振った。
 そうだった。ここ数日色々ありすぎてすっかり記憶から飛んでいたが、己はパディに先日の非礼を詫びねばならないのだった。
「ごっ、ご、ごめんなさい、ファンスウにこってり絞られていたものだから、私、忘れて……っ」
「いえ、なんというか、そんなことだろうなと思っていました」
 失望どころか「あなたには何も期待していないので」という顔を向けられてアニークはひいんと息を飲む。大焦りで「今すぐ! 今すぐ行ってくるわ!」とソファを立ち上がった。
 その勢いが激しすぎてテーブルに膝をぶつける。衝撃に耐えられなかった皿の焼き菓子が雪崩を起こした。あっあっと右往左往するうちにアルフレッドの頬が引きつれる。それから間もなく脱力気味の声が響いた。
「ウァーリに同行してもらう予定だったんですよね? 彼女、とっくに船の上ですが……」
 あっとアニークは足を止める。そうだった。それも頭から飛んでいた。社交的で人当たりのいいウァーリに間に入ってもらおうと思っていたのに。
(ど、どうしよう)
 半端にドアに向かう姿勢のまま固まる。そのとき深い溜め息とともに背後で人の動く気配がした。
「……俺がご一緒します。一応あの場に居合わせていたわけですから」
「ア、アルフレッド!?」
 行きましょう、と騎士が言う。まさか彼がそんな優しい申し出をしてくれるとは思わず、アニークは涙で視界を滲ませた。
「あ、ありがとう、アルフレッド……」
「印刷工房の客人でもありますしね。感謝されることではないです」
 アルフレッドの態度はやはりまだどこか素っ気ない。けれど長い冬に耐えてきたアニークには、十分かつ信じがたい進歩だった。
 衛兵に客室を訪ねる旨を告げ、二人で通路を歩き出す。これから謝罪に赴くというのに、不思議と気は重くなかった。




 自分が自分であることを決定づけているものはなんだろう。
 アニークを見ているとよくわからなくなってくる。
 記憶がなくても彼女は「アニーク」そっくりだ。けれどそっくりというだけで本人と断じていいものか。他人同士でも似るときは似る。やはり二人は別人なのでは。そんなことを考えていたら今度は別の解釈が浮かび始める。
 だが彼女の抱えた核は「アニーク」の願いだろう? 脳の影響も少なくないはず。だったら彼女も「アニーク」と言えるのではないか。「自分自身に生まれ変わったアニーク」だと。
 死を経ない記憶喪失であれば、きっと別人とは思わない。だからこそ奇妙な気がした。
 一体何を失えばその人はその人でなくなるのだろう?
 一体何が残っていれば、その人はその人だと言えるのだろう?
(前の『ルディア姫』を知っていたら、俺はどう感じていたのかな)
 考えても詮無いことを考えているとわかっていた。だがどうしても考えるのを止められない。
(もし姫様が自分は『ルディア』と別人だと考えているとしたら)
 階段を上るとパディの客室はすぐそこだった。女帝に気づいた衛兵が姿勢を正し、指先まで力をこめて敬礼する。
(――いつかあの人の中に『王女をやめる』という選択肢が生まれてしまうんじゃないだろうか)
 王女の器が失われてからずっと胸に巣食っている不安。
 開け放たれた扉の音が一時それを霧散させる。

「これはこれは」

 声とともに花模様の衝立の奥から老詩人が顔を出した。今日のパディはいつになく機嫌良さそうに見える。落ち窪んだ気難しげな双眸も、厳めしい鼻も、張りつめておらず柔らかい。
「ご機嫌麗しゅう、アニーク陛下」
 微笑で迎えられたアニークは緊張を緩めたようだった。「あの、私、この間のことを謝りたくて」とさっそく彼女は本題に入る。
「この間のこと? はて、何かありましたかな」
「ほら、私が物語について質問して、あなたに不愉快な思いをさせてしまったでしょう?」
 ああ、とパディは頷いた。それからすぐに苦笑いで首を振る。
「あの程度、北パトリアにいた頃のパトロンとはしょっちゅうでした。むしろこの田舎詩人が陛下に粗相をしたようで、申し訳ございません。どうか哀れな老いぼれを寛大なお心でお許しください」
 老詩人の返答にアニークは「そうなの? 怒っていないなら良かったわ」と安堵の息をついた。彼女の半歩後ろでアルフレッドも胸を撫で下ろす。大きな揉め事になるやもと案じていたのは思い過ごしだったようだ。
「しかし、いいときにお越しくださいました。実は先程、印刷工房に騎士物語の原稿をすべて渡してきたところで」
「えっ!?」
 驚きに声が裏返る。同時に叫んでいたアニークが「すべてって? 今書けているところまで?」と矢継ぎ早に問いかけた。
「物語の終わりまでです。執念深く小さなほころびを繕い繕いしてきましたが、もはやそんな仕事には意味がないと思いましてな」
 パディは杖を震わせて再び衝立の奥に引っ込む。戻ってきた彼の腕には写しと思しき紙束が抱えられていた。
「献上させていただきます。しかし、その前にアニーク陛下には一つ約束していただきたいのです」
 ちらと覗いたアニークの横顔は眼前にした宝に早くもとろけていた。「これが待ち望んでいた完結編!」と頬まで紅潮させている。今なら詩人に魂でも売り渡しそうだ。少なくとも理性や知性は放棄寸前に思えた。
「わ、わかったわ。何を約束すればいいの?」
 後にして思えば、悪魔に魂を売ったのは彼のほうだったかもしれない。長い詩を手離した男は仄暗い笑みに唇を歪めた。

「この宮殿が最も安全に世の中を静観できるのです。アニーク陛下、ですからどうか、私の気が済むまでは、私をここに置いてくだされ」

 くつくつとパディは笑う。ここではないどこかを見つめて。
 アニークも、アルフレッドも、異様な空気にしばし声を失った。
 この老詩人は何を見守ろうと言うのだろう? 尋ねたところで答えてくれる気はしなかったが。
「……え、ええと。もちろんこれからも大切なお客様としておもてなしさせていただくわ。素晴らしい物語の作者をまだよそへやりたくはないもの」
 女帝の返事にパディは満足したらしかった。間もなく写しがアニークの手に委ねられた。




 その日ユリシーズがサロンを訪ねられたのは夕刻間近になってからだった。
 寝所があまりに静かなので、最初はまた騎士と女帝に何か問題が起こったのかと勘繰った。だが実際は二人ともページを繰るのに必死だっただけのようである。
「ユ……、ユリシーズ……っ」
 泣き出しそうな顔でアニークがこちらを見やる。アルフレッドと並んで何かの紙束を覗き込んでいた彼女は「ユスティティアが、ユスティティアが!」と喚くなり、ふらりソファに倒れ込んだ。
「へ、陛下! 大丈夫ですか!?」
 慌てて女帝のもとへ走る。「だ、大丈夫よ……。ちょっとショックが強すぎただけ……」とアニークは背もたれにすがって身を起こしたが、その青い額からは完全に血の気が引いていた。
 隣の貴婦人を助け起こすこともせず、赤髪の騎士は沈痛な面持ちで半ば呆然としている。彼は彼で「なんてことだ……。何故ユスティティアがこんな目に……」と打ちのめされている様子だった。
「とにかく座って、ユリシーズ。ちょっと気持ちを整理させて」
 よろめきながら女帝が促す。ユリシーズが着席するとアニークは「パディが物語の最後まで原稿の写しをくれたの」と状況を説明してくれた。
「あらすじを話してもいい? それとも先に自分で読みたい?」
 私たちもまだ途中なのだけど、と震え声の補足が入る。
 どうやら二人は騎士物語の展開に激しく動揺しているらしい。ユリシーズは彼らほど熱狂的な読者ではない。「いえ、口頭で結構です」と答えると心構えをすることもなく解説を待った。
「あのね、今ね、ユスティティアがプリンセス・グローリアを殺そうとした罪で捕まっちゃったのよ……!」
 目尻に涙を溜め込んで語るアニークに「はあ」と温度差のある返事をする。なるほどそれは二人には衝撃だったろう。己にとっては取るに足らない非現実だが。
「惨すぎるわ。冤罪なのよ。彼は人に毒を盛るような騎士じゃないのに……!」
 わっと泣き出した女帝の横でアルフレッドも重々しく息をつく。
「陛下、時系列に沿って説明しませんか? 今のお話だけではおそらく惨さが半分も伝わっていません」
 そう赤髪の騎士は続けた。
 ――曰く、ユスティティアとグローリアの旅は突然終わりを迎えたそうだ。以前から不仲だった南北の国家がついに戦争を始めたからである。
 駆け落ちに失敗した王子と姫のいる国だ。恋の道に生きられなかった気の毒なプリンセス・フラギリスは「敵国と内通するおそれがある」として遠い地へ送られることになった。行き先は彼女に仕えるサー・トレランティアの故郷の山国。その旅路の供としてユスティティア一行が選ばれたそうである。
 選ばれたというよりは「どうせなら一緒に帰ろう」と誘われたと言うべきか。山国はグローリアの故郷でもあった。ユスティティアだけでなく、後輩騎士のサー・テネルもトレランティアの門下だった。不自然なことは何もなかった。
 とはいえ読者に気がかりがなかったわけではない。この頃既にサー・テネルとユスティティアの関係は危ういものになりつつあった。修業時代には親友と呼べるほど仲の良かった二人だが、間にプリンセス・グローリアを挟むようになってからは恋敵に変わりつつあったのだ。
 テネルは初め屈託なく善良な人物としてグローリアの前に現れた。明るい彼は二人旅の主従に大いに歓迎された。グローリアは分け隔てなく二人の騎士に接したが、騎士たちはそのうち自分のほうがより特別であることを願うようになっていった。
 テネルはどうも騎士らしくない。従者としては逸脱しすぎた彼の行動を見るにつけ、ユスティティアは困惑した。後輩騎士は愛の歌を捧げることにおよそためらいがないのである。グローリアもグローリアで、面白い冗談ねえと笑うばかりで特に諫めもしなかった。
 このままでは何かが起きる。おそらくあまり良くないことが。そんな予感を読者の胸に着々と育てつつ、一行は旅の始まりの山国に戻った。
 グローリアは生来の奔放さに加え、慈悲と威厳を併せ持つ姫になっていた。
 ユスティティアは主君のために耐えがたきを耐えられる騎士になっていた。
 不穏分子はテネルだけだった。サー・トレランティアは昔と変わらず騎士の鑑のような男で、打ちひしがれたプリンセス・フラギリスはなんの力も持っていなかった。
 悲劇が起きたのは夕食の席。山国の王に招かれた身内だけのささやかな宴。
 最初に倒れたのは王だった。次いで司教と王の母が。グローリアも無事では済まなかった。トレランティアとテネルも椅子ごと倒れ伏した。
 倒れなかったのはフラギリスとユスティティアの二人だけだ。遠国の王女は単に食欲不振だった。ユスティティアの皿には毒が盛られていなかった。
 犯人探しがどういう形で行われたのか、牢獄に囚われていたユスティティアには知りようもない。誰にも会えず、弱りきって、グローリアの無事を一心に祈る一ヶ月が過ぎた朝、トレランティアが面会に来た。
「王は死んだ」と彼が言う。王の母も、司教もと。そうして「お前がやったのだな?」と決めつけた。
 トレランティアの目にはまだ彼の受けた毒が残っているようだった。有無を言わさず連れ出された裁判で、ユスティティアは「テネルとグローリアだけを殺すつもりが誤って全員の皿に毒物を混入させてしまった」とお粗末に過ぎる言いがかりを聞かされた。恋の苦悩を知っていた誰かが裁判官に「若気の至りだ」と囁いたらしかった。
 死刑にならなかったのは回復したグローリアの嘆願があったからだそうだ。彼女だけはユスティティアの無罪を信じてくれていた。だがグローリアの訴えだけでは処刑日を遅らせる程度の役にしか立たなかったに違いない。
 本当にユスティティアの命を救ったのは。彼にのみ与えられた祝福は――。

「……とまあ、今はここで止まっている」

 アルフレッドの要約にまたもアニークが涙していた。鬼気迫る騎士の語りにユリシーズも引きずられて神妙になる。なんだ、今の臨場感は。
「酷いわ、酷いわ、絶対にテネルの陰謀よ!」
 女帝は後輩騎士への不信を隠しもしない。その断定は早計ではと思ったが、架空の毒殺事件に対して余計な見解を述べる気にはならなかった。
 と、ちょうど六時の鐘が鳴る。引き揚げなければならない時間だ。
「アニーク陛下、続きはまた明日にでもいたしましょう。これから少し忙しくなりそうで、私は午後には退散せねばなりませんが」
「うう、わかったわ。とりあえず私は今夜中に最後まで読み切るわね」
「無理はなさらないでください。すこぶる顔色がお悪いですから」
「このまま明日に持ち越すほうが身体に悪いでしょ! ああユスティティア、どうか救われて……!」
 再び紙束を捲りだしたアニークに「では今日は失礼させていただきます」と頭を下げる。女帝の横でアルフレッドも立ち上がり、名残惜しげに挨拶した。
 多分この騎士も物語の行く末が気になって仕方ないのだろう。退室した後もちらちらと寝所を振り向くような仕草をしてみせる。知らん顔では捨て置けず、ユリシーズは嘆息まじりにアルフレッドに呼びかけた。
「……まだ語り足りないか? 良かったら飲みながら聞くぞ?」
 こっちも話しておきたいことがあってなと付け加える。言い訳がましい誘いには数秒ののち返事がなされた。「わかった、後で行くよ」と。
 ああ良かった。これでようやく女狐の愚行を弁明できそうだ。


 ******


 我ながらなんて軽い男だろう。笑ってしまう。これ以上頻繁に会って飲む気はない。そう考えたのはつい今朝のことなのに、夜には酒場に腰を落ち着けているのだから。
(結局俺がここを必要としているんだな)
 当たり前と言えば当たり前の結論にアルフレッドはグラスの酒を飲み干した。口を離したタイミングで隣からワインボトルが回ってくる。受け取って逆さに返すが中身はほぼ空だった。名残の雫がほんの数滴だけ跳ねる。
「ああ、すまん。新しいのを持ってこよう」
 カウンターに手をついて立ち上がったユリシーズはアルフレッドが騎士物語の展開予測をする間、ずっとがぶがぶ飲みっぱなしだったようだ。興味のない話を聞かせてしまったかな、と少し反省する。
 喋りすぎるのはなんでも聞いてくれるからだ。それにお互い、他愛もない話のほうが利害を気にしなくていい。
「そう言えば、話しておきたいことがあるとか言っていなかったか?」
 言外に、それ以上飲むと内容を忘れてしまうのではと問いかける。ほんのり頬を赤くした男は気まずげにこちらを振り返った。
「……妹が迷惑をかけただろう。詫びておかねばと思ったんだ」
 ああ、なんだ、と合点する。やはり療養院絡みの噂はあちらが発信源だったのか。
「防衛隊は彼女に嫌われているみたいだからな。まあ、なんとかやるよ。気にしないでくれ」
 ユリシーズが命じたことでないとわかれば十分だ。政敵なのだし仕方ないとかぶりを振る。「それで済ませるわけにもいかん」と彼は受け付けなかったが。
「二、三、手持ちの情報をやる。重要機密事項というほどのものではないが、何かの足しにはなるだろう」
 ゴト、と新しい酒瓶を置いてユリシーズは席に戻った。断ろうかと逡巡し、結局そのまま聞くことにする。ルディアの役に立てるかも。そう思ったら断れなくなっていた。
「コリフォ島にカーリス軍が居ついたらしい。アクアレイア船と見るや攻撃を仕掛けてくると報告があった」
「えっ」
 驚きにアルフレッドは目を瞠る。
 ユリシーズの言によれば、航行妨害が始まったのはここ最近の話だそうだ。力を取り戻したローガン・ショックリーがアクアレイアを封じ込めにかかっているのだろうと推測が続けられた。
「そうか……。あの共和都市にアレイア海の出口を抑えられたままじゃ厳しいな」
「ジーアンの要人を乗せているときは大人しいのだが、他国の旗がないときはまったく駄目だと。砲撃まで浴びせてくるらしい」
「それでも交易に出ている船はあるんだろう? どうしているんだ? よその商船団にでもくっつかせてもらっているのか?」
「ああ。出国手続きの際にそうしろと推奨はしている。海軍が守ってやれればいいんだが、そうそう自由に動けないからな」
 そうか、とアルフレッドは小さく拳を握りしめた。ままならぬものだ。少しずつ経済復興の兆しが見え始めたところで。
「印刷産業が盛況でも、手にした外貨を使う前に船を沈められたんじゃ意味がない。コリフォ島はこのままにしておけないな」
「私もお前と同意見だ。だが今のところ打つ手がない。根本的な解決が可能になるまで回避策を取るしかなかろう」
 注いだ酒をどれだけ飲んでもユリシーズは冷静だった。二人でいると彼が現海軍提督であるのを忘れがちになるけれど、やはりユリシーズはアクアレイアの中枢を担う男なのだ。なんだかルディアと話しているような錯覚さえ起きてくる。
「もう一つ、ジーアンの動きも気になる。一年以上放置していたクルージャ砦の修復を命じたり、新しい砦の建造を命じたり……戦闘準備をしているとしか思えない」
「せ、戦闘準備!?」
 思わぬ発言にアルフレッドは目を剥いた。
 驚いたのは帝国がどこぞに攻め入ることを考えているからではない。堂々と密約を破ってきたからだ。十将は確かにルディアに約束したのに。経済的にも軍事的にもアクアレイアには何もしないと。
(姫様が旅に出たからか? 今なら文句は言われないと?)
 これは自分が抗議に出向かねばならないのではなかろうか。アルフレッドはきつく眉間にしわを寄せる。
「もしかして、これから忙しくなると言っていたのはそれか?」
「ああ。工事の指揮を執らねばならない。クルージャ砦は修復完了間近だが」
「…………」
 完了間近。ということは、そちらはもっと早いうちから取りかかっていたのだろう。防衛隊に知られないようにこっそりと。
(くそ。舐められている)
 ハイランバオスを売るふりをして交換条件を持ち出したこちらが言えた義理ではないが、彼らとて取り決めを守る気など最初からなかったのではないか。
 それともこういうものなのだろうか。主君のしていた駆け引きは。
「……新しい砦って、どこにどんな砦を造るんだ?」
「小砦をアクアレイア湾内にいくつか。それと海門の守りも強化する」
 ユリシーズは具体的な島の名前を挙げて説明してくれた。単純な造りだから工期はそれほどでもないが、数が多いので民間からも工人を募ると。
「不可解なのは、表向きリリエンソール家の名前でやれと命じられていることだな」
「? どういうことだ?」
「私にもよくわからん。とりあえずジーアン主導でアクアレイアの軍事設備を増強していると思われるのがまずいらしい。砦は私が欲しがったことにしろと言われた」
「…………」
 ユリシーズは「明日あたりまた臨時の十人委員会かな」とぼやいた。酒焼けした声を聞きながらアルフレッドはむっつりと考え込む。
 抗議はしても無駄かもしれない。クルージャ砦の修復は「元々あったものを直しただけ」と言われるだろうし、新しく建造するという小砦群にしろ「海軍からの要望に応じてやっただけ」と開き直られて終わりだろう。一連の動きをルディアがどう見るかも不明である。祖国の防衛力が上がるなら、あえて彼女は止めないかもしれない。
「私から話せるのはこれくらいだ。部隊の名を汚して悪かった」
 ユリシーズは本当に気にしてくれていたようだった。彼が責任を感じているのがひしひし伝わり、逆に申し訳なくなる。情報の価値を思えば得をしたのはこちらなのに。それに彼が、本心からアルフレッドを尊重してくれているのだとわかって妙に嬉しかった。
「あ、そうだ」
 アルフレッドは杯に葡萄酒を注ぎ足しながら白銀の騎士を見やった。さっきクルージャ砦の名前が出たとき、気にかかっていたことを思い出したのだ。
 老いた肺病の歌うたい。彼と旅する女ロマたち。

「クルージャ砦にロマがいなかったか? 女の子と、おばさんと、お爺さんと」

 モリスがジェレムに会わせてくれた日、彼らは岬の砦にいた。帰っているとすれば近辺で暮らしているのではと思うのだが。
「……いや、ロマの話は聞いたことがないな。報告漏れかもしれない。部下にそれとなく尋ねておこう」
 すまなさそうに首を振った後、ユリシーズはそう約束してくれた。
 真面目な話はそこで終わり、酒の肴の談笑はまた毒にも薬にもならないものに変わっていった。


 ******


 翌朝アルフレッドが女帝のもとを訪ねると、アニークは別れたときより青い顔でソファに沈み込んでいた。聞けそうならまずは彼女にジーアンがどういうつもりで約束を反故にしたのか聞いてみようと思ったのだが、見るからに無理のある状態だ。

「すごい終わり方だったの……。一人じゃ受け止めきれないから、早く、早く読んで……」

 アニークは夜までかかって読破した後、朝まで眠れなかったらしい。目の下のくまが酷いことになっている。
 女帝の向かいのソファには既にユリシーズが座していて、彼にしては珍しく真剣に一文一文目を通していた。フィクションには興味薄のこの騎士も最終巻にはさすがに心掴まれたようだ。
「読み終わった分貸してくれ」
「ああ、こっちの山だ」
 物語の写しは二つに分けられていた。一つはユリシーズが抱え込んでおり、もう一つは裏返しでテーブルに置かれている。
 一体どんな終幕が用意されているのだろう。
 唾を飲み、アルフレッドは整えた紙束を表に返した。


『暗い、狭い、塔の中。ユスティティアは幽閉された。
 彼の身柄を引き取ったのは王の中の聖なる王。山国でなく最も古き王国に、騎士の称号を剥奪された青年はいた。
 読者諸君! 私は何から説明しよう? ユスティティアが何者で、どうして命拾いしたか、誰にでも読み取れるように。
 それにはまず彼の生い立ちを語らねばなるまい。ユスティティアはある国の三番目の王子だった。生まれた国は極貧で、次男や三男は王城で安穏と暮らすことが許されていなかった。
 二番目の兄は騎士になり、古き王国で姫に仕えた。
 ユスティティアも同じ国で聖歌を歌った。美しい言葉を用いて詩も書いた。聖なる王はその詩を大変お気に召した。
 透き通った少年の声を失う頃、ユスティティアは騎士となった兄に会った。
 兄は賢く、分別があり、忍耐強く、また忠義にも厚かった。ユスティティアは彼に憧れ、祈りより剣を選び取った。
 己の母に、兄王に、兄騎士に、従妹姫らに毒を盛ったと濡れ衣を着せられ、なおユスティティアが助かったのは聖なる王の覚えめでたき詩童だったからである。
 冷たい石に囲まれて、詩人は詩だけを求められた。思い出だけが彼の詩作を手助けした。
 何年も、何十年も、己がどうしてここにいるのかわからないまま詩人は詩を書き綴った。そうして最後に騎士と姫の物語を生み出した』


(な、なんだって? それじゃあ今までの話は全部、ユスティティアの思い出だったっていうことか?)
 アルフレッドは心臓をどきどきさせながら読み急ぐ。ほんの一行進んだだけで獄中の騎士は五十半ばまで年老いた。
「パトリア騎士物語」の第一巻があらゆる宮廷を席巻したのは十六年前のことである。以降七年かけて最初の物語は完結した。
 ユスティティアがパディ自身をモデルに作られた人物とすれば計算は合う。彼らはぴったり同年代だ。
(それにしてもサー・トレランティアがユスティティアの兄だったなんて意外だ。ここに至るまでそんな描写は一度もなされなかったのに)
 ということは、トレランティアの仕えたプリンセス・フラギリスは古王国の姫だったわけか。彼女は随分な僻地に住んでいた気がするが。
(古王国も広いから、北パトリアに近い領地だったのかな)
 そんなことを考えていたら文章にフラギリスの名が現れる。ユスティティア以上に老いた彼女は「裏切り者を賛美するのはおやめなさい」と吐き捨てた。


『哀れな男。あなたや私を陥れた人間を、何も知らなければこうも美しい目で見つめることができるのですね。あれはただ聖なる王を欺くために見かけだけ立派な騎士であっただけなのに。
 あれは私を人間扱いしませんでした。悲鳴を上げる私の恋を指輪ごと埋めてしまいました。あなたのことも冷たい土に埋めようとしていたのですのよ? 自ら毒をあおってまで!』


 衝撃に目を瞠る。示された黒幕は、アルフレッドにとって最も思い入れ深い騎士だった。どんなに非難されようと主君のために忠義を尽くす、騎士の中の騎士。
(まさか、サー・トレランティアが……!?)
 そこから先は思考しながら読むなんて余裕は微塵も持てなかった。
 フラギリスの手でユスティティアは塔を出され、「真実をその目になさい」と山国に追い立てられた。
 何十年も過ぎていたから何もかも変わっていた。プリンセス・グローリアは山城で床に臥せる日が多く、彼女の寝所は忠実なサー・テネルが守っていた。
 後輩騎士の献身は本物だった。そのことにユスティティアは少なからず動揺した。二人がユスティティアの書いた物語を大切に読んでいて、彼を歓迎してくれたこともユスティティアを揺さぶった。
 フラギリスの話では、山国のどこかにトレランティアがひた隠しにする銀山があるという。王位を狙い、彼が長兄を殺害したのはこの銀山を我が物にするためだったそうだ。
 ユスティティアは探した。見つからないことを祈りながら探した。
 けれども祈りは神に届かなかったらしい。製鉄を生業とする村に辿り着いたとき、ここがそうだと気づいてしまった。
 気づいたその夜、宿に強盗が押し入った。物を盗むだけでなく、身体も盗む人買いだった。
 閉じ込められた納屋の扉を開いたのはサー・テネルだ。
「鉱山で一生を終えたくなければ、ここで起きたことは決して王に話さないでください」
 固く約束させると彼はユスティティアを解放した。
 ユスティティアはふらふらと山国の都へ向かう。国中の塩が集まる白い都だ。
 王になったトレランティアは腕を広げて弟を迎え入れた。にこやかに微笑む彼に寡黙だった騎士時代の面影は残っていなかった。
 トレランティアはユスティティアの帰郷を喜んだ。素晴らしい物語を書いて重い罪を許されたこと、とりわけ彼が兄こそ騎士の手本だと讃えてくれたことを喜んだ。

「ですが兄上」

 ユスティティアはしょげ返る。

「この国に銀山があるかもしれないとお知りになったら、私の物語を読むよりずっと兄上はお喜びになるのでは?」

 トレランティアは「ほう」と目を丸くした。さも初めて耳にしたかのように、「銀山などあるのかね?」と聞き返した。
 その日ユスティティアは夕食を口にしなかった。散歩に出たとき連れ帰った犬に皿のものを食わせたら泡を吹いて倒れたからだ。
 救い出してくれたのはまたしてもサー・テネルだった。彼はユスティティアを船に乗せ、長い河の先にある北国へ送り出した。
 殺したふりをしてくれたのだろう。追手は差し向けられなかった。
 見知らぬ街に落ち着く場所を見つけると、ユスティティアはまた物語を書き始めた。
 詩は魂に染みついていた。悲しみも憎しみも癒されぬまま詩になった。
 ユスティティアはただ書いた。
 美しかった物語の続きを。
 夢の終わりに相応しい悪夢を。

「…………」

 最後の一枚を読み終えるまでに午前は消費し尽くしていた。一足先に終章に辿り着いていたユリシーズが未読のページを凄まじい勢いで繰っている。
 考えがまとまらず、呆然とするアルフレッドにアニークは「どうだった?」と涙目で問う。女帝はトレランティアの豹変ぶりが信じられない、こんな彼は受け入れがたいと悲痛に嘆いた。
(どうだったもこうだったも……)
 嫌な汗を掻いている。拒絶したがっている自分がいる。どうして綺麗な夢のまま、虚構のまま、そっとしておいてくれなかったのかと。

「私、パディのところへ行ってくるわ。せめて救いのある解釈が聞きたいもの……!」

 意を決した顔でアニークが席を立つ。引き留めたのはユリシーズだった。

「救いのある解釈は諦めたほうが賢明かもしれません。――これはおそらく、物語でなく現実にあった話です」

 やっぱり、と息を飲む。足を止めたアニークに白銀の騎士は困惑した表情で続けた。
「今のマルゴー公に代替わりする際に、三人死んだと聞いたことがあります。国を治めていた長男と、母と、司教と……」
「えっ? ……えっ?」
 遠く鐘の音が響いてくる。壁にかかった時計を見やり、ユリシーズは「もう行かなくては。申し訳ございません」と謝罪した。
「アルフレッド、任せたぞ。後でどうなったか聞かせてくれ」
「ああ、わかった」
 足早に去る騎士の後ろ姿を見送る。
「ど、どういうこと……?」
 へなへなとソファに座り込んだアニークにアルフレッドは「行きましょう」と呼びかけた。
「救いのある解釈は聞けないかもしれませんが、何を意図してこの続編を出版しようとしているのかは聞けるかもしれません」
 ただでは済まない。こんな本を世に出せば。たとえパディが正しいにせよ、アクアレイアの印刷工房で刷ってやるわけにいかなかった。
 再独立を目指すなら、いや、そんな条件下になくたって隣国とは良好な関係を保たねばならないのだ。わざわざ喧嘩を売りにはいけない。


 ******


 衝立の奥に踏み込むと老詩人は笑っていた。こんなものが現実に起きた話のはずなかろう。そう言ってほしかったのにパディは疑惑を否定しなかった。
 書き物机に座したままアルフレッドと女帝を見上げ、老いた詩人は憑かれたような二つのぎょろ目を歪めている。

「実際にあったことだからなんだと言うのです? 実際のことを紙に書いてはいけない決まりでもありますか?」

 隣でアニークが押し黙った。本当にこんな酷い目に遭ったのと、潤んだ瞳が同情と動揺に怯む。
「私はサー・トレランティアを愛しておりました。公国が独立に失敗した後、三つになったばかりで私は古王国の人質となりましたが、祖国を恨んだことは一度もありませんでした。あの陰鬱な幽閉時代でさえもです!」
 パディの声に次第に力がこもってくる。しわがれた拳が空を叩くのを、苦い思いで見つめることしかできなかった。初めから彼が真意を打ち明けてくれていれば味方になれたかもしれないのに、と。
「それなのに兄にとって、私は捨て駒に過ぎなかった! 私が名誉を回復し、罪人が報復を受けることの何が間違っておりますか?」
 老詩人の自己弁護には庇いきれない矛盾があった。彼の主張は理解できるが彼のやり方は認められない。
 パディだって己のためにレイモンドを騙したのだ。持ち込んだ原稿は「物語」の続きであると偽って。

「……取り下げることはできませんか? これは、このまま印刷するには危険すぎます。アクアレイアも、あなた自身も」

 聞かないだろうなとわかっていた。物語と心中する気でなかったら書くわけがない話である。
 問いかけたアルフレッドにパディはふんと鼻息を荒げた。
「詩のほかに手に入れたものもない。破滅なんぞ恐れはせんさ」
 返答があったのは当人のことだけである。アルフレッドは「アクアレイアについては?」と詰まり気味に問いを重ねた。
「この国とマルゴーは元々仲良くもなかったろう? こじれて困る人間がおるかね」
 瞬間、脳裏をよぎったのはサールへ向かった主君やブルーノのことだった。
 眉を寄せ、アルフレッドは声を絞り出す。

「……レイモンドとパーキンに出版を取りやめるよう話します。過去の事件の真相が暴露されているとわかったら二人とも考え直すはずです」

 この発言にパディは何故か大笑いした。
 人を馬鹿にした笑いだった。いや、人だけでなく、この世のすべてを。

「止められないよ。私の意思に関係なく、ユスティティアの物語は求められて世に出ていく。私にはわかる」

 だってもう半分見せびらかしたと老詩人はしたり顔だった。
 どんどん気分が悪くなる。室内に満ちた禍々しい気に当てられて。

「知ればいいのだ。騎士なんぞ、世界で最も救いがたい、愚かで下等な連中だとな」

 ――あ、とアルフレッドは瞠目した。同じ台詞を別の場所でも聞いたことを今突然に思い出して。
 北パトリアの商都セイラリア。バスタードソードを探して入店した武器屋。
 そうだ、あのとき会っている。
 腰の曲がった騎士嫌いの老人に。

「騎士なんぞ、腹の底では己のことしか考えちゃおらんのだ……!」

 袖を引かれて振り向いた。涙を浮かべたアニークに「もういいわ。聞きたくない」と首を振られる。
 アルフレッド以上に彼女は混乱していた。パディの口から騎士を貶める言葉が出るのに耐えられないと溢れた涙が語っていた。
「……わかりました、戻りましょう」
 アルフレッドが頷くとアニークは老詩人に別辞を告げる。けれどパディにはそんなもの、もはや雑音でしかないようだった。
「騎士なんぞ、騎士なんぞな……」
 ぶつぶつと唱えられる呪いの詩句に唇を噛んで背を向ける。
 パーキンに会いにいかねばならなかった。ルディアとレイモンドが戻るまで印刷は待てと釘を刺すために。


 ******


 パタンと手にした本を閉じる。「新編・パトリア騎士物語」と書かれた表紙に目をやってティボルト・ドムス・ドゥクス・マルゴーは沈思した。
 用務机の端に書物を追いやっても懸案事項が消えてなくなるわけではない。
 天井を見上げ、無人の執務室で重い息を吐く。
(アクアレイアに作者と思しき詩人が逗留している、か)
 報告とともにもたらされたのは、詩によってまとめられた旧作と新章の追加された本だった。巻末の情報が確かなら、かの国ではそろそろ続編の第一巻が刊行された頃だろう。
 殺し損ねたかもしれないとは思っていた。大人しくしていれば今更追う気もなかったのに。
(自分のしてきたことのつけは回ってくるもんじゃな)
 一体何を書き立てられるのか。何も知らない小僧の視点で。
 豊かな領地を削られただけの戦争が終わったとき、ティボルトは六つの幼い子供だった。兄でさえようやく十になったばかり。その兄が、爵位を奪われた父に代わってマルゴー公の地位を継いだ。
 反逆を阻止するために公爵家はばらばらにされた。サール宮に居残れたのは兄と母だけ。己と父は国内の古い山城に移されて、末の弟は人質として聖王のもとに引き渡された。宮廷には古王国から不遜な司教がやって来た。実質的にマルゴーを支配したのはこの男だった。
 子供時代の記憶はみな逆らえぬ激しさをもってティボルトの胸に迫る。
 いかなるときも父は屈辱を忘れなかった。「お前は必ず古王国からマルゴーを独立させ、我々だけのものにしろ」と再三ティボルトに言い聞かせた。数年が経ち、兄と母が司教になびいたことを知ると、父はますますティボルトだけを真の後継者と見なすようになった。
 銀山が見つかったのはそんな頃だ。埋蔵量の計算などするまでもなく、公国の救世主となり得る恵みを持つとわかった。
 古王国に見つかっては大変だから疫病の噂を流し、道を封鎖し、近隣の村は製鉄業を営んでいると嘘をついた。父は罪人を鉱山で働かせた。それだけでは鉱夫が足りなかったので、山城には人買いが出入りするようになった。
 疲れていたのだろうとは思う。父の悲嘆は理解できても、ともに背負うにはやはり重すぎるものだったから。
 十五歳になった年、ティボルトは騎士としてパトリア古王国の王女に仕えることになった。成人した息子を残してやるほど聖王は慈悲深くなく、反逆国を快く思っていなかった。
「いつか必ず戻ります。まずあの王に私を信用させましょう」
 慰めのように父に言った。言ったからには実行せねばならなかった。
 主人となったのは北の地に住む姫である。この姫は北パトリアの小国と勝手に仲良くやっていて、表面上は大人しいものの裏では聖王に反抗的だった。
 敵国と通じているのは騎士が取り持ったからだなどと勘違いされたくない。ティボルトは姫の問題行動を報告し、己の点数を稼ぐほうを選んだ。
 上手くすれば姫も姫の恋人も公国の味方に加えられたのに、そうしなかったティボルトに聖王は気を良くした。国が豊かというだけで王自身に特筆すべき能はない。彼はころりと騙されて、上機嫌にティボルトを城へと招いた。
 弟の名前が出たのはそのときだ。耳心地良い言葉を編むと聖王は小さな詩人を褒めた。
 会わせてやろうと王宮内の聖堂に連れられたのは翌日。弟は兄や母とは違うのでは? 自分と一緒に父を支えてくれるのでは? 秘かに抱いていた願望はその日あっさり打ち砕かれた。

「陛下、新しい詩ができたところです。お聞きになってくださいますか?」

 温室でぬくぬく育った人間だとひと目で知れた。この世のことでない物語に気を取られ、ほかの一切を放り出しても生きていける、夢の世界の住人だと。
 話せば話すほど虫唾が走った。それなのに弟のほうは自分に懐き、会うたび騎士への憧れを募らせていった。
 聖王は弟に甘かった。人質として預かったことを忘れたのかと思うほど。弟が新しいインクや高価な詩集をねだるのを、ティボルトは臓腑の煮える思いで聞いた。公国のためになりそうな「お願い」は一つとして出なかった。
 弟はやがてティボルトのもとで修業を積みたいと言い出した。引き受けたのは彼を思ってのことではない。祖国の未来のためである。
 ティボルトはいつか帰らねばならなかった。爵位を奪わねばならなかった。呪いのように「独立」「独立」と繰り返して憤死した敗北者を鎮めるために。
 成人から六年後、ティボルトはサール宮の食堂にいた。悪運の強い弟は死罪にならず生き延びたが、誰の企みかは気づかないままだった。
(今更あれがどう騒ごうと毒殺の証拠は残っておらん)
 言いがかりだ、妄想だ、とはねつける図々しさなら持っている。けれど一つだけ憂慮していた。他国に銀山の存在を知られたらどうなるか。
 強欲な聖王は権利を主張するだろう。東に迫る天帝も無視はするまい。
 ふう、と重い息を吐く。
 これが他人の模倣作なら良かったのに。何度読み返しても詩は弟の紡いだ詩だとしか思えない。









(20190422)