――私だって『アニーク』よ。そう言って大泣きした彼女を呆然と見つめるアルフレッドに「帰れ」と告げたのは女帝の寝所を守る衛兵たちだった。彼らはジーアンの内情を知る側、天帝より分かれた蟲の一匹であるらしく「今日のことは他言無用だぞ」と忌々しげに舌打ちされる。
 頼まれたって口外なんてできるわけない。というか頭は混乱したままだった。
 誰が誰を好いていたって? 誰の気持ちが彼女の中に残っているって?
 考えれば考えるほどわけがわからなくなってくる。偽者なんじゃなかったのかと。
 追い立てられるようにしてレーギア宮を去った翌朝、アルフレッドは門番に呼び止められた。聞けば今度はダレエンとウァーリが呼んでいるという。
 十中八九昨日の口止めの続きだろう。予測に違わず二人の将は客室を訪れたアルフレッドにひとまずの謝罪を述べてきた。

「ごめんなさいねえ。あの子生まれて間もないもんだから、まだ分別が足りてなくて」
「アルフレッドは女の恋慕を利用して何か企める男ではないと言ったんだが、ファンスウがやかましくてな」

 どうやら自分がアニークのもとを追い出された後、ひと悶着あったらしい。
 それもそうだ。大国の女帝が属国の騎士に不貞の愛を口走ったのだから騒ぎにもなろう。己も今朝はルディアに一連の報告をしながら信じがたい気持ちでいっぱいだった。主君や妹は「何を今更」と呆れた顔をしていたが。

「で、誰にも言ってないわよね? 女の子の切なる胸の内を」

 ウァーリに睨みを利かされてアルフレッドはうっとたじろぐ。小声で「仲間以外には」と返すと彼女は表情を険しくした。
 己とて何も面白おかしく打ち明けたわけではない。ただやはり、アニークがパディを怒らせたかもしれないことは主君の耳に入れておかねばならなかったし、新たに知った蟲の性質についても同様だった。
 そうなると当然彼女の告白についても言及せざるを得なかったのだ。己の胸だけに秘しておけるものならば、きっとルディアには話していない。
「……まあいいわ。あなたにも報告義務はあるわよね。でもこれ以上話を広めないでちょうだいよ?」
「当たり前だ。誰に言えるんだこんなこと」
 眉根を寄せて返しつつ、アルフレッドはふとユリシーズの顔を思い出した。だが「なんでもかんでも喋っていいわけないだろう」とすぐに打ち消す。
 彼とて祖国の蟲に関する知見はあってもジーアンに巣食う蟲に関しては未知のはず。相談できるわけがなかった。これからどんな風にアニークと関わっていけばいいかなど。
「……。蟲が一人目の宿主の残した思いを核に人格を作るというのは本当なのか?」
 ぽつりとアルフレッドは尋ねた。向かい合い、腰かけたソファで腕組みしていたウァーリが「ええ」と諦めた口ぶりで認める。
「第六世代が生まれた頃に、そうじゃないかって言われ始めたの。私なんかはもっと前から確信を持っていたけどね」
 彼女は「どんな肉体に入っていても女の恰好でなきゃ落ち着かないのは最初の宿主のせいだと思う」と続けた。
「よっぽど女になりたかったんでしょうね。それも華やかで美しい」
 そう言われるとウァーリが隠密行動には不向きなスタイルを貫くのにも納得が行く。アニークは、自分の中の絶対に捨てられないところに『アニーク』の気持ちが残っていると言った。それが事実ならウァーリのこだわりも捨てられないものなのだろう。どんなに荷厄介だとしても。
「アクアレイアの脳蟲も俺たちと同じじゃないのか? 最初が人間だった奴と獣だった奴とでは明らかに知能に差があるはずだ。巣にした脳の影響を受けていないはずがない」
 と、己の頭を指さしたダレエンも会話に混ざってくる。横から「ちょっと」と小突かれても放縦な彼はどこ吹く風だ。
「隠していたってどうせばれる。こんなことは、それなりの観察眼さえ持っていればな」
 ダレエンはあっさりと「狼だった俺が人になるには長い時間がかかった」と打ち明けた。こちらもなるほどと頷ける話である。確かに彼の攻撃スタイルは狼の狩りを彷彿とさせた。
「あ、あんたねえ……」
 真正直なダレエンの横でウァーリがガクンと崩れ落ちる。
 彼女のほうは知られたくなかったに違いない。最初の宿主や残された思いが何かなど容易に見抜けはしないだろうが、わかればそれは行動を読む手がかりとなる。場合によっては急所にも、だ。
「…………」
 アルフレッドは脳裏にアニークの泣き顔を思い起こした。
 言えばいくらか関係改善に役立っただろうことを、あの瞬間まで堪えていたのだ。嘘をついたとは考えにくい。ウァーリたちの反応も彼女の訴えが真実であることを裏付けていた。
 ――どうやら本当に認めなくてはならないようだ。完全な偽者とは言えないのだと。彼女の中で確かに『アニーク』は生きているのだと。
 だが今後女帝にどう接していくべきかの答えは導き出せなかった。主君には「別に今まで通りでよかろう」と言われているが、ルディアは己がアニークに冷たく当たっていたことを知らない。人質の義務を忘れたわけではないものの、面と向かって半日過ごすのはいささか気が重かった。
「……あの、アニーク陛下はあの後どうなさったので?」
 慎重にアルフレッドは問いかける。ひょっとしたら彼女のもとに通う話自体なくなるのではと感じていた。こちらにその気はまったくないが、不埒な行いがなされると危ぶまれている可能性は高いのだ。
「あー……、あの後っていうか、今もまだファンスウに叱られてるのよねえ」
「最長記録の説教になりそうでな。アルフレッド、お前今日は帰っていいぞ。これからのことはまた明日門番にでも聞いてくれ」
 不測の事態の収拾はジーアン側でもまだつけられていないらしかった。拍子抜けして「わかった」と答える。この分では今頃ユリシーズも寝所の前を追い返されていそうである。
 立ち上がり、退席したアルフレッドはそのままレーギア宮も後にした。
 続いて足を向けたのはパトリア石のピアスを埋めた碑文もない墓だった。


 ******


 人と建物の寄せ集まる本島では生ぬるく感じる風も、小さな島では爽やかで心地良い。そんな快さとは裏腹の思いを抱え、アルフレッドは一束だけの赤いセージを墓前に捧げる。
 祈りを終えたら誰にも会わずに黙って帰るつもりだった。近頃のルディアは療養院より印刷工房にいる日のほうが多いけれど、ユリシーズと酒を飲むようになって以来、モモやブルーノやアイリーンとも顔を合わせづらくなっていたから。
 仲間と一緒でないほうが心休まるなど良くない傾向に違いない。けれど今はほかにどうしようもなかった。物言わぬ死人の前ですら苦しくなってしまうのだ。生きた人間の前で平静を取り繕うのは耐えがたい苦行だった。
(アニーク姫……)
 アルフレッドは両手を組み、撤去された独立記念碑の土台の前に跪く。
 祈りに来たというよりも許しを乞いに来たようだ。気づかなくてすみません、と。
 記憶の中のアニークと今のアニークはよく似ていた。初めは本人だと信じて疑わなかったほどに。齟齬があっても理由をつけて納得できた。それくらい、彼女は昔と変わらぬ性格を維持していた。
 だが性格が同じなら魂も同じだなどと言えるだろうか? 彼女は一度死んだのに、その人生が続いていると言えるだろうか? いくら『アニーク』の思いが心に刻みつけられていたとしても。
(……皇女と女帝はやはり別人だ……)
 何度考え直しても出てくる答えは一つだった。
 一人目と二人目は違う。決定的に何かが違う。だって生は、死という断絶を跳び越えることができない。

 ――自分のお姫様なら許すの!?

 不意に頭に響いた声にアルフレッドは苦々しく唇を噛んだ。断罪されている気分になってかぶりを振る。
 受け止めきれずに煩悶を繰り返すのは、別の姫には別の結論を与えたがっているからだ。一人目と二人目は同じ。ルディアに対してはそう言うに決まっているから。
(あの人には本物であってほしいんだな、俺は)
 身勝手さに笑ってしまう。主君が真実『ルディア』の魂を持つのなら国より大事なものなど作れはしないはず。そんな風に考えているのだ。己は陰で彼女を裏切っているくせに。
(……。もう行こう……)
 力なく伏せていた顔を上げ、アルフレッドは立ち上がった。次に会ったときどんな態度でアニークの前に立つべきか。答えはまだ出せないまま。

「アルフレッド?」

 遠くから呼びかけられたのはそのときだった。耳慣れた主君の声にびくりと肩をすくませる。
 振り返ればハーブのそよぐ低い丘にルディアが一人で立っていて、「何故ここに? 女帝はどうした?」とこちらに歩み始めていた。
「あ、いや、明日改めて来いと言われて」
「そうなのか。こっちは『指輪の儀』の勝者に印刷機を引き渡してきたところだ。今レイモンドが面倒を見てやっている」
 ちょっと気になる噂があって墓島へ来た、と彼女は言う。槍兵を置いてくるくらいだから何か重要なことなのだろう。
「噂って? 問題でも起きたのか?」
 動揺をはぐらかすように問いかける。するとルディアは「いや、その話は後でいい。それよりお前、アニークに会わせてもらえなかったのか?」と案ずる顔で質問を返してきた。
「ああ、ええと……。いつも通り宮殿には行ったんだが、ウァーリとダレエンに呼ばれてな」
 まるで言い訳するようにアルフレッドは自分がここにいる理由を説明した。二人の将とのやり取りを聞き、主君は「なるほど」と考え込む。
 全体、一人で考えて一人で決めてしまう人だ。支えたいと思っても出る幕がないこともしばしばで、内心を明かしてももらえない。
 いつも、いつも、出会ったときからそうだった。この人はいつも。
「……ないとは思うが出禁になったときのことも考慮しておかねばか。人質の交代を要求されるかもしれん」
 よく回る頭でルディアはあらゆる展開を予測する。
 一人目の『ルディア』も生きていればこんな風に成長していたのだろうか。
 一人目の『ルディア』ならレイモンドと恋には落ちなかったのだろうか。
 そんなことを考えてアルフレッドは目を伏せた。
 意味のない空想だ。過去にもしもを持ち込んだところで今が変わるわけではない。相変わらず主君の前には騎士失格の男が一人いるだけだった。
 逃げ出したかった。今すぐここから消えていなくなりたかった。
 だが自分にはそれもできない。アニークのようになりふり構わず思いの丈をぶちまけることも。
 代わりのように掠れた声が口をついた。
「あなたにも――」
 独白めいたその台詞。「え?」とルディアが尋ね返す。

「あなたにもあるのか? 心の中に、捨てることのできない核が」

 聞いてどうしたかったのだろう。自分でもよくわからない。
 ただ彼女が本物の王女だという確証が欲しかっただけかもしれない。一人目と二人目は同じだと思えたほうが、まだしも救いがある気がしたから。
「…………」
 ルディアはしばし青い双眸を瞠っていた。やがて視線が下に逸らされ、唇が柔らかく緩められる。

「……あるよ。どうしても他人を信じられない」

 返答は優しげな彼女の表情におよそ不釣り合いだった。一度では飲み込めず、今度はアルフレッドが瞠目する。今しがたの言葉の意味を測りかねて。
「単純に疑り深い性分なのだと思っていたが、お前の問いで今わかった。私の核はこれなのだな。道理で芯に染みついて離れないわけだ」
 ルディアの言葉もどこかひとり言めいていた。諦めの入り混じるその声に、アルフレッドは思わず幼馴染の名を発してしまう。
「まさか。あなたにはレイモンドがいるだろう?」
 だが彼女は「信じている」とは言わなかった。ただ寂しげに、「信じたいとは思っているよ」と遠くに目をやっただけだった。
「…………」
 声を失う。レイモンドですら無条件の信頼を勝ち取ってはいないのかと。
 だとしたら自分など、どうやって辿り着けばいい? 彼女の心の一番深くに。

「そろそろ療養院へ行こう。今の話、お前の胸にしまっておいてくれよ」

 主君はけろりとした顔で短いマントを翻した。思いがけず生まれた二人だけの秘密にどきりと馬鹿な心臓が跳ねる。
 結局ルディアがどこまで「本物」に近いのか窺い知ることはできなかった。
 誤魔化そうと思えばきっと誤魔化せたのに、どうして彼女はすんなり答えてくれたのだろう。


 ******


 最初の宿主の残した思いが人格の核になる――。よもやまさか、こんな形で自分自身の問題と向き合わされるとは考えていなかった。
「簡単に他人を信用するな」「裏切りに遭う可能性を常に考慮しておけ」と己を律する力が働きすぎるのは父の教育の結果だろうと思っていたのに。
 ――誰も信じてはいけないよ。
 それが一番古い記憶。ずっと解くことのできない戒め。
 前の『ルディア』は幼かった。祖母の計略にかかって反抗できない操り人形にされていた。死の間際、彼女が「信じられる人などいない」「側にいてくれるのは父だけだ」と思ったとして不思議ではない。
 絶望は『ルディア』の脳を染めたのだ。そうして今はしこりのように己の内に留まっている。
(変えられない本質だから変わらなかっただけだとは、なんとも馬鹿馬鹿しいオチだな)
 療養院への短い道を歩きながらルディアは悲しく眉を寄せた。
 際限のない疑い。一瞬乗り越えられた気がしても、いつしか以前の考え方に戻っている。未来は不確定なものだと臆病な理性が囁けば、好意の有無に関係なく「いつか去る者」と決めつけるのだ。
 薄々その自覚はあった。レイモンドにさえ「いつまで続いてくれるのかな」と怯えを消しきれないのだから。
 信じていると信じていた、あの騎士のことだってどこまで本気だったのか。大事な相談は一つも持ちかけなかったくせに、己の不信には目を瞑り、彼には奉仕と忠誠を求めた。造反を導いて当然だ。
(ユリシーズ……)
 伏せた瞼の裏側にまだ温和だった頃の元恋人を思い浮かべる。不正を嫌い、秩序を重んじ、いつだってまっすぐだった。
 彼の憎しみはルディアが思うよりずっと根深く強いのだろう。政治的思惑もあるとはいえ、悪質なデマでもって亡き王女の直属部隊を貶めようとするほどなのだから――。

「だから違うってばあ! ドナ行きになる人選んだの、モモたちじゃないって言ってるじゃん!」

 扉の向こうから響いた声にルディアはノックの手を止めた。普段は患者たちの寄りつかない談話室に十人どころではない気配がする。
 隣のアルフレッドを見上げると彼もまた怪訝に眉をしかめていた。溜め息を飲み、中で起きている異常が何か教えてやる。
「……小耳に挟んだ噂通りだ。世間では我々が同胞を売ったことになっている」
「はあ!?」
「防衛隊は後腐れのないように身寄りのない患者ばかり三十人ドナ送りにしたのだと。その三十人が誰なのかまったく心当たりがないので確認に来たのだがな」
 漏れ聞こえてくる口論を遮断するべくルディアは強めにノックした。返事も待たずにドアを開く。するとモモとアイリーンを囲んでいた患者たちが一斉にこちらを振り向いた。

「シルヴィア・リリエンソールに間引かれたのはお前たちか?」

 問いかけに三十人の目が吊り上がる。元々いきり立っていた患者たちは憤激を隠しもしなかった。
「何ほざいてやがる! 俺たちを名指ししたのはあんたらだろう!」
「そうだそうだ、シルヴィア様は助けられずにごめんなさいと僕たちのために泣いてくださっていたんだぞ!」
「この嘘つきの悪魔ども!」
 なるほどと大体の状況を把握する。つまり彼らはシルヴィアに心酔しており、それゆえころりと騙されたのだ。「成績順に残留者を決める」と言っていた彼女の方針と「身寄りのない患者が選ばれた」という結果にずれが生じているからますます防衛隊の暗躍があったように思えるのだろう。
 が、そんなことは己にとっては些末事に過ぎなかった。
「誰が決めたかなどどうでもいい。重要なのはお前たちに決まったということだ」
 ルディアは「座れ」と顎先で周囲に散らばった椅子を示す。患者たちは睨むばかりで動こうとしなかったので再度「座れ」と語気を強めた。
「こうなった以上シルヴィア・リリエンソールがお前たちを引き受けることはない。さっさと座って講義を受ける準備をしろ。アイリーンから教科書を受け取れ」
 この台詞が彼らにどう受け止められるかはわかっていた。国や防衛隊の迷惑にならぬよう少しでも退役兵に媚びる努力をしろと、不信に満ちた耳にはそう聞こえたろう。
 だがそれもどうでもいい。今なすべき最優先は彼らに学習を始めさせることだった。
 あの偽のラオタオから要望を受けて数ヶ月、いかに防衛隊を泳がせる必要があるとはいえ、これ以上待ってもらえる保証はない。取りかかれるなら今すぐにでも取りかからねばならなかった。言語という最低限の武装を間に合わせるために。
「どう足掻いてもドナに行くのはお前たちなんだ。ジーアン語も覚えずにどう扱ってもらう気でいる? 一つでも学べ。自分を守る術を増やせ。私の言っている意味が本当にわからないのか?」
 なお微動だにしない患者らをルディアは強く睨み据えた。彼らは一様に拳を固め、悔しげに歯噛みしている。眼差しは「あんたらが撤回してくれりゃ済む話だ」とでも言いたげだ。これが決定事項だとまだ信じたくないらしい。

「……あの! 俺に教科書ください!」

 と、人垣の中から小柄な少年が歩み出てルディアの正面に駆け寄った。
 思わぬ離反者に患者たちがどよめく。「何言ってんだマルコム!」と男の怒声が響き渡った。
「止めないでよ、オーベド。……なんとなくこうなるだろうなって思ってた。でも誰も、嘘つくなとか言って聞いてくれなかったじゃん! 俺はこの人たちにジーアン語教えてもらう。皆みたいに文句言って時間無駄にできないよ!」
 マルコムと呼ばれた草色の髪の少年はルディアの背中に回り込んだ。表情にいくらか怯えが見え隠れするものの、どうやら彼は無知でいたほうが恐ろしい事態を招くと理解できているらしい。
「アイリーン」
 名を呼ぶと彼女はハッと大棚のひきだしを開けにいった。間もなく十六冊のジーアン語教本が運び出されてくる。
「教科書は一冊を二人で使用する。出来のいい奴と組めれば勉学は捗るだろうな。誰かマルコムとペアになりたい者は?」
 今までの生活に戻りたいという無言の要求は無視してルディアは話を進めた。
 問いかけに患者たちはざわめく。マルコムが抜けたことで動揺した集団内部には明らかな迷いが生じていた。
「わ、私、マルコムがやるなら……!」
 一人の女が走り出る。患者からはまた非難の声が上がったが、「だって本当にマルコムの心配してた通りになってるじゃない!」との反論に言い返せる者はいなかった。それどころか次々と「もうシルヴィア様のところに戻れないなら俺も」「あたしも、こんなの嫌だけど」と分裂が進む。
「おい、皆、おいって……!」
 最後まで残ったのはオーベドとかいういかつい顔の小男だった。心の底からシルヴィアを信じていたのか、安全圏でなくなった現実を受け入れがたいのか、途方に暮れた様子で彼は立ち尽くす。
「もうお前一人だぞ」
「……っ」
 呼びかけてもオーベドはなんの返答もしなかった。選びさえしなければ暗い未来が訪れることはないとでも言うように、ただ歯噛みして動かなかった。
 沈むとわかっている船の上でも海に飛び込めない者はいる。少しの間を置き、ルディアは患者たち全員を見回して告げた。

「……ドナに送り出すことにはなるが、必ず我々が迎えにいく。それを可能にするためにもジーアン語習得に励んでくれ」

 傍らにいたマルコムに「あいつのことはお前に頼めるか?」と問う。少年はオーベドに目をやりながらおずおず頷き、探るようにこちらを見上げた。
「あ、あの、迎えにってなんで……」
「お前たちを見捨てられない理由がある。いずれ話そう」
 そこまで言うとルディアは「ほら、席につけ。アイリーンはジーアンで十年暮らした女だから、しっかり学ばせてもらえよ」と患者たちを促した。
 どうにかその気にさせられたようで、不安げな顔を覗かせつつも彼らは静かに自分の席を探し始める。モモやアルフレッドも補助に回り、しどろもどろのアイリーンを手伝ってくれた。
 ウニャア、と談話室の片隅で愛らしい鳴き声が響く。それからようやく患者たちの間にもほっとした空気が流れ始めた。


 ******


 印刷工房に来客があったのは、指輪争奪戦の優勝者に印刷機を渡してやってひと通りの講釈を終えたすぐ後だった。
「少しばかり話したいことがあるんじゃがの」
 そう言ってニコラス老はレイモンドを夕暮れ前のざわめく街に連れ出した。
 乗せられたのはファーマー家の部屋付きゴンドラだ。密談にはもってこいの、喧騒から切り離された空間である。
 ゆったりしたソファに座し、レイモンドは向かい合う老人の言葉を待った。
 わざわざこちらが一人のときを狙って声をかけてきたのだ。何かよほど重大な用件に違いない。人目を避けてもまだ切り出すのをためらうほどの。

「――倅から手紙がきた」

 ニコラスが口を開いたのは市街地を離れてしばらくした頃だった。やっぱりそういう話かとレイモンドは口元を引き締める。
 十人委員会の最重要機密。コナーの居場所が――彼の保護する最後の王族、アウローラ姫の所在が判明したのである。
「今は一人でサールにおるらしい。このことを防衛隊のほかの面々にも伝えてほしいんじゃ」
「は、はい!」
 一も二もなくレイモンドは頷いた。あの画家に送る使者は防衛隊から出すと会議で決まっている。いよいよアークに近づくときが来たのである。
「マルゴーを出る気はさらさらないようでの。姫の現状を確認したら王国史の原稿だけ持っていってくれないかと言うとったわ。こんなときにのらりくらりと、まったく誰に似たのやら」
 老人は盛大に嘆息した。ニコラスは既に伝書鳩に「防衛隊の誰かを遣らせる」と返事を持たせてくれたらしい。
 コナーの伝書鳩は変わっていて、記憶する餌場がなくても相当な距離を往復できるそうだった。伝書鳩というのは普通、片道の通信以外不可能なものなのに。
 なんだか脳蟲の絡んでいそうな話だとレイモンドは息を飲んだ。あの稀代の万能人こそがアークそのものだという聖預言者の発言が真実味を帯びてくる。
「えと、原稿ってそのまま受け取っちゃっていいんすか? 後でまた修正とか出てくるんじゃ?」
 緊張を散らすべくレイモンドは問いかけた。
 印刷機にかけてから問題が発覚するのはよろしくない。刷るとすれば間違いなく己の工房になるはずなので先に確かめておきたかった。
「使えるか使えないかも見てみんことにはわからんわい。とりあえず諸君らは現物を預かってくれればいい」
 レイモンドは「わっかりました。防衛隊にお任せを!」と力強く胸を叩く。対するニコラスは何故なのか重い溜め息を繰り返すのみだったが。

「……王国史を発行するべきかどうかは十人委員会でも意見が分かれておる。自由都市派はいたずらに民を惑わすだけだと反発的じゃし、再独立派はこれぞ切り札と信じて疑わん。争いの火種となる可能性が高くてのう」

 不意に古老の鋭い視線がレイモンドに投げかけられた。「防衛隊は再独立派と睨んでおるが」と前置きし、ニコラスはずばり切り込んでくる。

「お前さん自身はどちらなんじゃ? 自由都市派か、再独立派か」

 これは『印刷商レイモンド・オルブライト』への質問だ。瞬時にそれを理解してレイモンドは押し黙った。
 わかっている。自覚している。己はもはや防衛隊の一兵士という立場にないこと。アクアレイアの将来を左右する、そういう力を手にしていると。
「……正直言って、どっちもあんま現実的じゃないっすよね」
 慎重に言葉を選んで口にした。ニコラスは賢い。適当に答えたのではきっと納得してくれない。
「ドナが自由都市なのって退役兵の街だからでしょ? じゃあ自治権の永続を認めてもらうのに大量の退役兵が押し寄せていいのかっつったら良くないじゃないですか。かと言って再独立目指すにしても先立つもんがなさすぎますよね。パトリア古王国に借り作ると後がややこしそうですし」
 レイモンドの返答に老人はふむと喉を鳴らした。
「つまり中立ということかね?」
 問われて「いえ、違います」と首を振る。
「俺にわかるのって金儲けのことだけなんすよ。だから俺は稼ぐことだけ考えます。そんでそういう大きいことは、大きいことがわかる人間に任せたらいいって思ってます」
 ニコラスの細い目がわずか瞬いた。老人はやれやれと言うように「ブルーノ・ブルータスか」と呟く。
「妙な男だ。ただの理髪師の息子とは思えん頭の使い方をする」
「へへっ、そうでしょ? ブルーノの進む道が俺の進む道だって決めてあるんです。答えになってないかもですけど」
 いや、と今度はニコラスがかぶりを振った。しわがれた指を組み、ソファに深く沈み込んで。
「あれは本当に妙な男だ。どうしてか、わしは彼を見ていると初代国王夫妻のことを思い出すよ。若者が浮かされるのもわからなくない……」


 ******


 昨夜からこんこんと言い聞かせてきた言葉はついに娘の心に馴染まなかったようである。「何百年も生きてきたあなたに何がわかるのよ!」「ドナの蟲たちは自分の好きに暮らしているのに」と突っぱねられ、あえなくこちらが折れる羽目になる。
「……では明日からもあの男をこの部屋に招くと言うのだな?」
「そうよ。たとえ敵と思われていても会えなくなるよりずっといいわ!」
 嘆息とともにファンスウは痛むこめかみを押さえた。
 己とてアニークの短い生を不憫に思わなくはない。しかし今は同胞のため、我慢を覚えてほしいのが本音だった。ヘウンバオス直々に「できるだけあれの好きにさせてやれ」と言い渡されていなければなんとしても彼女を黙らせたに違いない。
「ジーアンが不利になるようなことは絶対しない。約束するわ。だからお願いよ、ファンスウ……!」
 アルフレッドが好きなのとアニークは悲痛に訴えた。大粒の涙が頬を濡らすのを見るのも一体これで何度目か。
 根負けだ。彼女の機嫌をあまりに損ねて主君に恨まれたくはなかった。結局は身内に甘いあの男が必要以上に己を責めるのも目に見えている。
 はあ、とファンスウは息をついた。自分がこうまで時間をかけて説得に至れなかった女は彼女が初めてだ。
「……わかった。じゃがほかの指示には従ってもらうぞ」
「!? ファンスウ!?」
 がばりと顔を上げた女帝にファンスウはせめて眉をしかめる。そうして少し思案して、今アニークに刺すことのできる一番太い釘を選んだ。
「お前さんが我々をたばかったり、あの男を庇ったりすれば、骸は二つ転がることになるからな」
 恋にのぼせた娘にこんな戒めがどこまで通用するものか。「ありがとう!」と飛びついてきたアニークの身を引き剥がし、ファンスウは曇る心を押し隠した。
「くれぐれもいいように使われるのではないぞ?」
 念を押す言葉の意味がなさすぎて虚しい。彼女はもう使える駒には戻せまい。
(ドナの連中と同じだな。邪魔にならぬよう飼い殺しだ)
 近頃の蟲たちは皆ますます冷静さを欠いている。期日のわからぬ余命宣告を受けて以来、症状は悪化の一途を辿るのみだった。
 天帝は再び立ったのに、命尽きるまでいくらか時間もありそうなのに、胸に巣食った焦りが消えない。それは己とて例外ではなく。
 まともに思考できている者が今どれだけいるのだろう?
 この綻びが大きな穴にならねばいいが。


 ******


 矢間の隙間から沈みかけた夕日を見やり、ユリシーズは「今日はこの辺りにしておこう。皆、戻るぞ」と呼びかけた。そのひと言でクルージャ砦の修復に当たっていた工兵たちがわらわらと集まってくる。
「全員ただちに軍港へ向かえ。停泊中の巡視船の出航準備が整い次第、本島に帰還する」
 指示を与えると右に倣えで彼らは駆け出す。きびきびとした背中を見送り、ユリシーズは一人小さく息をついた。
 何故だかよくわからないが、今日のサロンはなしだと言われて女帝に目通りできなかった。ならば本来の職務をと久々に現場に来てみれば仕事はほとんど片付いており、出るほどの幕もなく。自分が顔を見せたことで兵たちの士気は上がったようだが、なんとも味気ない一日だった。
「ユリシーズ! ……提督!」
 と、砦内の狭い通路を歩き出したユリシーズに耳慣れた声がかけられる。
 いまだにしょっちゅうこちらの立場を忘れてくれる幼馴染はアルフレッドとよく似た色の、しかし似ても似つかぬ垂れ目を細めて隣に並んだ。
「やっぱお前がいるのといないのじゃ空気が違うなあ! 普段は誰もこんなにウキウキそわそわ働いてくれねえもん!」
 ユリシーズ不在の間、目となり手となり働いてくれているレドリーはどこか誇らしげに告げる。
 いくつになっても子供っぽさの抜けない男だ。その気楽な脳みそが時々少し羨ましい。この砦にいて彼は一つの不穏さも感じていないらしいのだから。
(私にさえ任せておけば大丈夫、とでも考えているんだろうな)
 せめてディランが残っていればともう一人の友人を思い出す。彼は彼で情緒に問題のある人間だったが、少なくとも頭は良かった。
 言っておくべきなのだろうか。ジーアンは西パトリアに侵攻するつもりかもしれないと。
 先のドナ・ヴラシィとの戦争で破壊された砦の修復はアクアレイアの防衛上必要なことではあった。帝国が再建の金を出してくれたのはありがたい。だがジーアン人がアクアレイア人と同じ目線でこの砦の存在価値を測っているとはユリシーズには思えなかった。
 彼らはアクアレイア湾の測量もしているようだし、何か始めるつもりなのは明らかだ。現時点では帝国に従うほかないこともまた明らかだったが。
「コリフォ島にはカーリス軍が居座っちまったし、せめて本国の守りは厳重にしとかなきゃだよなあ」
 ぴく、と揺れた指先を握り込む。幼馴染の発言に、今はこちらのほうが厄介かもしれないなとユリシーズはひとりごちた。
 アレイア海の出入口にあるコリフォ島。その基地の主人が入れ替わって二年が経つ。レドリーの話によれば、この頃アクアレイア船が島の側を通るとき、高確率でカーリス軍の攻撃を受けるのだそうだ。
 共和都市内の揉め事を収めたローガンがいよいよ本格的にアクアレイア潰しに乗り出したと見て間違いない。頭の痛い問題だった。

「……ユリシーズ? おーい、さっきから返事がないけど聞いてるか?」

 そろりと覗き込んでくる顔にハッとして「ああ、すまん」と謝罪する。少々思考にふけりすぎていたようだ。レドリーが拗ねて唇を尖らせている。
「考えなくちゃいけないことが多いのはわかってるけどさ、たまには相談してくれたっていいんだぜ?」
 親切な申し出に「ありがとう」とだけ微笑み返した。この友人に相談できる話など飲み屋の注文くらいである。なんでも打ち明けられる相手なら、本当に良かったのだが。
 重責に耐えられる人間でないのは知っていた。想定外のミスを犯されるより一人で悩んだほうがましだ。半分も見えずとも目になってくれるだけ、半分も動けずとも手足になってくれるだけ、及第点と思わなくては。
(よくよく他人を信用しないな、私も)
 ふっと自嘲の笑みが漏れる。随分と薄情な人間になってしまった。
(いや、だが……)
 脳裏に別の、赤髪の男がよぎる。彼になら話してみてもいいかもしれない。報告という形でルディアにも情報は渡るだろうが、伏せたところで彼女はそのうち自力で掴むに違いないのだから。
(おかしな話だ。お互いに仲間より、敵と承知の男といて安心しているなんてな)
 今日は顔を見られなかった。グレース・グレディのせいで防衛隊の悪い噂が出回ってしまっているのを早く弁解したかったのに。
 詫びとして差し出すものがクルージャ砦とコリフォ島の情報では彼は不満に思うだろうか。
 そんな計算をしている自分がおかしくて、ユリシーズは少し笑った。


 ******


 帰国以来ずっと待っていた一報にルディアは「そうか」と深く頷く。

「……旅支度をせねばならないな。問題はどう十将の目を欺くかだが」

 ブルータス整髪店の小さな居間に息を飲む音が続いた。モモもアイリーンもアルフレッドも、テーブルの上のブルーノも、報告をした当のレイモンドさえ揃って張りつめた面持ちをしている。
 コナーの保護はハイランバオスたっての頼みだ。必死になってアークが何か知ろうとしているジーアンに悟られるわけにいかなかった。
 だがウァーリたちがそう易々と防衛隊を国外に出してくれるとも思えない。化かし合いを制さねば旅は始まりもしなさそうだった。
「とにかくまずマルゴーへ赴く不自然でない理由を考えよう」
 夕食の卓を囲む面々に告げる。よりによってサールとは、とは皆同じ気持ちのようだ。
 あの都にはおそらくモモは立ち入れない。寄りつけば公爵家の裏側を知る者として狙われる可能性が高かった。
 危険度で言えばアルフレッドも同等だ。顔を知られているハートフィールド兄妹は同行できないものとして考えなくてはならなかった。
 アイリーンにも患者たちの教師役を務めてもらわねばならないし、動けるのはルディアとレイモンドだけということになりそうである。
「不自然でない理由、か。やっぱ俺の商談かな? マルゴーでも印刷広めたいんでって」
 まず一つ、槍兵から無難な提案がなされる。しかしこれは即座にモモに却下された。
「いや、それは不自然でしょ。なんでアクアレイアにもっと工房増やしてからじゃないのって突っ込まれたらどうするの?」
 もっともな言い分にレイモンドがうっとたじろぐ。
「た、確かに。うちで作った本どうですかって売り込みに行くほど在庫余ってもないしなー」
 この線はダメかと槍兵は項垂れた。が、切り替え素早くレイモンドはすぐに次のアイデアを口にする。
「あっ、じゃあチャド王子に会いたいとかは? アウローラ姫がどうしてるか、あの人にも伝えなきゃだろ?」
「けどそれ公言できない話だよね?」
「そこは俺もわかってるって。だからこう、表向きの理由を作ってさ。防衛隊なら王子に会うのは不自然じゃないんだし」
「表向きの理由が作れたとしても、チャド王子の名前なんか出したら公爵家に警戒されると思うけどなー。そもそもアクアレイア人と王子を接触させたがらないかもだし」
 さすがにあの山国で騒動の渦中にいただけあり、モモの意見は的確だ。だがチャドに会いに行くという案そのものは使えるという予感がした。
 こちらの事情に通じていて、話もできる男である。予期せぬ事態が起こったとき力を借りられるかもしれない。会って損はなさそうだ。
 が、肝心の「表向きの理由」はルディアにも思いつかなかった。離婚は既に成立しているし、十人委員会とて今更彼に用などあるまい。
「チャドに会えれば一番安泰なんだがな……」
 ぼやくように呟いた。すると思わぬところから思わぬ言葉が返ってくる。

「……理由なら、多分作れる」

 声の主は人差し指を唇に当てて考え込むアルフレッドだった。「本当か?」と瞠目し、ルディアは騎士に問いかける。
「ああ。パトリア騎士物語の作者はマルゴー出身と言われているんだ。名前は捨てたという話だが、愛好家の推測が正しければあの人は公爵家と深い関わりがあると思う」
 貴族階級だったことは確かだとアルフレッドは断言した。
 隣の貧乏公国では貴族そのものが珍しい。世代的にマルゴー公とは顔見知りかもと言われれば、いかに騎士物語に関心の薄い己にもサール宮に潜り込む道は見えた。
「……なるほど。公爵に接見するついでにチャドや先生に会えばいいのか」
 合点したルディアを見やってモモが「なになに? どういうこと?」と騒ぎ出す。レイモンドやアイリーンたちにも話が見えていないようで、詳しい説明を求められた。
「商談だよ。マルゴー公に商談を持ちかければいいんだ。騎士物語の作者を餌にしてな」
「ええ!?」
「著名人をもてなせば宮廷の格が上がる。世界最高の詩人が故郷を同じくするというなら是が非でも招きたがるはずだ」
「いや、けど、それはパディがなんて言うか」
 仕事狂いの老人を思い出してか慌ててレイモンドが首を振る。パディがすぐにここを動いてくれるとはルディアも考えていなかった。「大丈夫だ」と静かな声音で槍兵を落ち着かせる。
「本人を連れていく必要はない。アニークの外遊が終わってあのサロンが解散になったらマルゴーへ渡るよう勧めておく、くらいの話でいいのだ」
「ええっ!? いいの?」
「パトロンになるには公爵がパディを頷かせねばならんからな。優先的に手紙を渡してやるだとか、間を取り持つ手伝いをするだとか、お前にもその程度のことしかできん。とはいえ見返りはそこそこ期待できるはずだ」
「あー、あー。なんとなく読めてきたぞ……」
 金借りるほうの商談か、とレイモンドは声を低めた。口角を上げ、「ご明察」と答えてやる。
「筋書きはこうだ。お前は確かに豪商になって帰ってきたが、印刷機をタダでやったり運河の整備に手を出したり、少々金を使いすぎた。そんなとき自分の連れてきた詩人がマルゴーの出だと知る。パディがサール宮の客となるように働きかければマルゴー公の融資を受けられるかもしれない。そこでお前は工房で刷った騎士物語を手土産にサールへと旅立つわけだ」
「上手く行くかなー? 十将に『お前の懐事情なんて知るか』って言われたら終わりじゃね?」
「十人委員会から特命を受けたと言えばいいさ。今のアクアレイアは何をしても金が欲しいのだから、別におかしな話ではない。というかこちらから委員会に根回ししておくべきだな。先生のことも、王女のことも、かけらも気取られないように」
 夜のうちにニコラスと話せるか尋ねるとレイモンドは「わかった」とすぐに立ち上がった。食事もそこそこにもう出かけてくれるらしい。
 その横で「ほえー」とモモが感嘆の息をつく。
「アル兄やるじゃん。毎日サロンで美味しいおやつ食べてるだけあるね」
 などと斧兵は褒めているのかいないのか微妙な賛辞を騎士に送った。
「いや、今回は同行できそうにないから、これくらいはな」
 ――そのときだった。ルディアの意識が奇妙な違和感を捉えたのは。
(ん?)
 言語化できない感覚に我知らず面を上げる。斜め奥に腰かけたアルフレッドに目をやったのも考えあってのことではなかった。
 申し訳なさそうな騎士を見て、何か変だと齟齬を覚える。生真面目に過ぎる眼差しも、普段の彼と違わないのになんだか別の男に見えた。
(ああそうだ。こういうときのこいつはいつも、状況がどうあれ自分もついていきたいと願い出ていたはずなんだ)
 思い至ったその瞬間、ざわりと大きく心臓が騒ぐ。だがそれはほんの刹那の出来事だった。

「えーっと、使者になるのは俺と姫様でいいんだよな!?」

 ドアノブに手をかけたレイモンドが肩越しに尋ねてくる。ハッと振り向き、ルディアは槍兵の確認に応じた。
「ああ、それでい……」
 頷きかけた己の肩に、ずしんと重い何かが飛び乗ってきたのはそのときだ。
「ニャア! ニャアア!」
 肩口でブルーノが悲痛な鳴き声を繰り返す。テーブルに着地した白猫が爪でガリガリ削った跡など見なくともなんと書いてあるのか知れた。
「……こいつもだそうだ。王子から預かっていた猫を返すとでも言えば、接見のいい口実になるだろう」
「オッケー!」
 親指を立て、明るく軽やかに槍兵は居間を後にする。モモとアイリーンは口々に「良かったね!」「頑張るのよ!」とブルーノに声援を送った。
 これでどうにかジーアンへの言い訳は立ちそうだ。礼を言おうとルディアは再びアルフレッドに向き直った。
「――」
 伏せられた騎士の目が暗く濁って映ったのは、己の見間違いだろうか。
 無意識に息を飲んでいたこちらに気づいてアルフレッドが顔を上げる。そのときにはもう彼はいつも通りだった。
「……どうかしたか?」
「あ、いや、明日は私もお前と宮殿へ出向くから、そのつもりでなと」
「ああ、わかった」
 騎士はあっさりルディアから顔を背ける。
 礼を言いそびれたことを思い出したのは随分経ってからだった。


 ******


「……ふうん、それでサールまで行って帰ってくる許可が欲しいってわけね」
 あらかたの説明を聞き終えてウァーリは長椅子に足を組み直した。
 騎士と王女が連れ立って現れたのは今朝のこと。急にファンスウの側付きが呼びにきたから何事かと思ったら、ここの豪胆なお姫様が幕屋に腰を下ろしていたのだ。
 古龍も若狐も狼男もそれぞれにルディアたちを注視している。ウェイシャンだけは隅っこで聖預言者らしく背筋を伸ばす努力をしていたが、見ている者は誰もいなかった。
 小さな竈を挟んで二対四、空気は静かに張りつめている。
 肘掛に寄りかかったラオタオが「どうすんの」という目でこちらを見上げた。防衛隊の処遇は自分とダレエンに任されている。認めるか認めないか決めろと言っているのだろう。
 己としてはあまり彼らを外に出したくはなかった。だが動きがなさすぎてもハイランバオスを釣り上げられないという狐の見解も頭には残っている。どうするのが正解なのか悩ましい。
 突っ立っているダレエンに聞けば感覚だけで「いいんじゃないか?」と言いそうだし、当てにできなかった。ここは自分が決断せねばならなさそうだ。
(行かせるにしてもそのまま行かせられないわよねえ)
 ちら、と隣に腰かけたファンスウを見やる。古龍の双眸は一番深く防衛隊を疑っていた。彼らの説明には一つもあやふやな点がなく、そこが却って怪しいと感じているに違いない。
 ウァーリも同じだ。十中八九ルディアたちには裏の目的があると見ていた。
 が、いかんせん難しいのは防衛隊の向かう先がマルゴーというところである。国外ではこちらも打つ手が絞られた。
 当然だが大っぴらに兵は動かせない。見るからにジーアン人である蟲兵たちをお供に据えるのも変だろう。自分かダレエンか偵察向きの動物か、監視役になれるのはそのくらいだ。
 仮に彼らがハイランバオスと接触を図ったとして今回は捕らえられないかもしれなかった。ならば最初から尻尾だけを掴むつもりで動いたほうが上策ではなかろうか。人質のほかにも仲間を残していく以上、ルディアたちとて取れる行動には制限がかかるはずである。
 第一これがハイランバオス絡みの動向だとも限らない。防衛隊の狙いが一体なんなのか、まずそこを見定めなければ。
「……わかったわ。その代わり、あたしも連れていってもらうわよ。さすがにこっちの目の届かない場所で自由にはさせられないから」
 この返答は予測の範囲内だったのだろう。ルディアは「ああ、余計な手間をかけさせてすまない」と涼しい顔で詫びてきた。
「ついていくのか? 俺も一緒か?」
 そう尋ねてくるダレエンにウァーリは「いいえ、今回はあたしだけ」と首を振る。
「そっちはアルフレッド君たちをしっかり見ててちょうだいね」
 お姫様を牽制するために鋭く告げた。
 もしかするとルディアたちが陽動で、残った者がハイランバオスと密会する可能性もある。目は各所で光らせておかねばならなかった。
「出発はいつ?」
 ウァーリの問いにルディアは「明朝。風が悪くとも発つ」と答える。委員会に急かされているのか、こちらに入念な準備の時間を与えまいとしているのかは読み切れない表情で。
「明日同じ時刻に迎えにくる。それでいいか?」
「ええ。支度しておくわ」
 話は終わったとばかりにお姫様が立ち上がる。ファンスウも、ラオタオも、特に彼女を止めることなく洗練された所作をじっと眺めていた。
 赤髪の騎士も腰を上げ、一礼すると主君の背中を守るように出て行く。
 二人の足音が遠のくと最初に狐が口を開いた。

「――一人じゃ見張りきれないでしょ? 俺の鷹、良ければ貸すよ?」

 これがこの男の申し出でなければ喜んで頷いていたのだが。
 ウァーリが断るまでもなく、古龍が「おぬしは余計なことをせんでいい」と若狐を睨みつけた。その威圧にたじろぎもせず青年はおどけて笑う。
「ええー? 俺ってそこまで信用ない? 監視は普通に二重にしとくべきだと思ったんだけどなー」
「だとしてもわしの兵の中から出す。お前さんは器だけ用意してくれ」
「あはは、それ、やめといたほうがいいよ。マルゴーって弓使う奴多いんだ。不慣れな蟲に尾行させたら最悪戻ってこないかも」
 嫌な可能性をちらつかされ、ファンスウがほんの一瞬押し黙った。その一瞬を嘲るようにラオタオが「ま、気乗りしないなら俺はいいけどね?」と提案を引っ込める。
「なあ、ちょっとお姫様追いかけていい? 一つ突っつくの忘れてた」
 長椅子を離れようとする若狐をウァーリは咄嗟に引き留めた。二の腕を掴み、「なんの用よ?」と問いただせば悪びれない声が返る。

「ドナに増やす小間使いの件、今どうなってんのかなってさ」

 こちらはこちらで完璧な回答だ。嘘だろう、とは決めつけられない。
「ウェイシャン」
 ファンスウが犬っころの名前を呼ぶ。「はい! はい!」と大急ぎで偽預言者は狐の隣に駆けつけた。
 仕方なしに手を離す。ラオタオは悪童の顔で傍らをすり抜けていく。
 信じきることができれば頼もしい男なのに。

「……気をつけて行くのじゃぞ、ウァーリ」

 狐たちの気配が消えるとファンスウが忠告をよこした。「手がかりを掴めれば上々だ」との言葉から彼もウァーリと似た考えであるのが知れる。

「深追いは避けろ。お前に何かあったときは恩人だろうと容赦しないが、すぐには助けにいけないところで一人になるのだと忘れるな」

 当たり前と言えば当たり前のダレエンの助言に苦笑を浮かべた。うすら寒さを感じるのは前回殺されかけたことが尾を引いているからだろうか。
 アルフレッドは善良だったがルディアはどうかわからない。ハイランバオスを売るというのが彼女の真意であるかどうかも。
 こちらのほうが防衛隊より圧倒的優位にいることは確かだが、油断はしないようにしよう。


 ******


 どうやら上手く運んだようだとアルフレッドは胸を撫で下ろす。
 ウァーリが同行するというのは気がかりだが、ウァーリ一人で済んだことは良かったと喜ぶべきだろう。これでダレエンまで一緒だったら監視の目を盗むのがもっと困難になっていたはずだ。
「アルフレッド、お前これからどうするんだ?」
 問われてアルフレッドは柱廊に立ち止まった。いつもなら「人質として顔を見せるだけは見せた」と帰るところだが、今日はこのまま女帝のもとへ行ってみるつもりだった。
 アニークのサロンには今まで通りに出入りしていいと言われている。それが良いことなのか悪いことなのかは判別が難しかったが。
「……女帝陛下のところで過ごすよ。その前にあなたを門まで送っていくが」
 主君に告げると「送らなくていいと言うのに」と小さく眉をしかめられる。
「何があるかわからないだろう」
 言った矢先、背後に近づく誰かに気づいて振り向いた。

「やっほー、お二人さん!」

 ほら、と反射的に身構える。傍らの主君も全身に緊張を戻して声の主に顔を向けた。
「やー、一つ聞きたいことがあってさあ、追いかけてきちゃった」
 ハイランバオスの息がかかった偽の狐。自らラオタオを名乗る男が馴れ馴れしく近寄ってくる。おまけに彼の後ろには同じく正体不明の聖預言者が控えていた。
 どちらかというと今はこの二人のほうがウァーリたちより薄気味悪い存在だ。どの程度こちらのことを把握しているかも不明だし、出方が読めない。
 何よりアルフレッドには、ラオタオが本物のラオタオにしか見えないことが不気味で仕方なかった。
(あの毛むくじゃらの犬のほうが偽者だった、なんてことはないと思うが)
 そんな思い違いをさせてもハイランバオスに得はない。騙してなんの意味があるのか疑問だ。だからこそ「どうしてここまで似ているのだろう」と警戒心がもたげてくるのかもしれないが。
「聞きたいこと?」
 ルディアが狐に問い返す。彼女の声音は落ち着いていたが、危ない綱渡りをしているのが現状だ。虚勢は既に見抜かれていそうに思えた。
「そう。いつ新入り君たちをドナに連れてきてくれるのかなって」
 酷薄な、それでいて面白がるような双眸が主君を見つめる。「ね、教えて?」と斜めに頭を傾けた男は獲物を前にした狩人のようだった。
 背筋の凍るこの感じ、やはりラオタオ本人としか思えない。蟲は分裂する際に記憶を共有するそうだが、近しい誰かが中に入っているのだろうか。
「……言葉を覚えねば役には立たない。もう一ヶ月ほど待ってくれ」
 ルディアの返答はへつらうものでもはぐらかすものでもなく、現実的なものだった。
 脳蟲の言語習得は早い。寄生からおよそ半年で人間らしく振る舞えるようになる。教本を用いれば第二言語が身につくまでに長い時間はかかるまい。主君の示した一ヶ月という期限はそれでもギリギリという気がしたが。
 狐は「ふうん」と鼻を鳴らした。底の底まで探るような三日月の目が怖い。
 だがひとまず、彼は追撃の手を緩めることにしてくれたらしかった。詮索はせず、にこやかに「一ヶ月ね」と笑いかけてくる。
「それまでにはサールから戻ってきてる予定なわけだ」
 意味深に狐はうんうん頷いた。「早くドナにも来てほしいな」と芝居がかった囁きが続く。

「じゃ、旅の幸運を祈ってるよ」

 最後に彼は己の懐に手を差し入れ、異な餞別を渡してきた。
 やたらに広がった何かの羽根。葉っぱにも似た茶色いそれを押しつけられ、ルディアがぱちくり瞬きする。
「あっはっは! じゃあまたねー!」
 大きな笑い声を上げて狐は幕屋に引き返した。彼を追いかけた偽預言者との「今やったのはなんですか?」「あれはそのへんで拾ったゴミ!」という不愉快な会話を響かせて。
 どうやらおちょくられたらしい。下賜されたものならこちらに捨てることはできない。防衛隊の低い立場をわざわざ思い知らせてくれたのだ。
「……まあいい、行こう。とりあえず旅立たせてはもらえるらしい」
 まだ少し後ろを気にしつつルディアが踏み出す。正門まで彼女を送り届けると、アルフレッドは意を決めて女帝の部屋へと歩き出した。




 まだ認めたわけではない。まだ一人目と二人目が同じだと認めたわけでは。
 それでもアルフレッドにはもう今の彼女を別人となじることもできなかった。皇女の想いは生きていて、女帝が死なない限り朽ち果てることもない。
 どうすればいいかはわからないが、冷たく拒むのは終わりにしようと思っていた。どのみち何か応えられる身分でもないのだ。会って話をするだけなら、きっとそんなに難しくないはずだ。

「遅くなり、申し訳ありません。アルフレッド・ハートフィールド、ただいま参りました」

 挨拶の後、まっすぐアニークを見上げた自分に彼女は大きく目を瞠った。
 射抜かれたように固まって、声も出せず、呼吸も忘れ。けれど確かな喜びを潤む瞳に滲ませて。
 笑えはしていなかったと思う。ただ目はどこにも逸らさなかった。アニークの中で一人目の彼女がこちらを見ているはずだから。
 先に来ていたユリシーズも瞬きしながら振り返る。どういう心境の変化だと彼は純粋に驚いていた。
「通訳」はこの日を境に完全に不要となった。
 そうして己の吐く息も、前よりは少しだけ、それでもどうにか少しだけ楽になったのだった。









(20190405)