ずっと欲しかったものがある。それは優しく温かで、決して自分を裏切らぬもの。例えば安全な寝床のように瞼を閉じて落ち着ける場所。己が何者かさえ忘れて本音で語り合える相手。
 物心ついた頃にはそれらはすべて遠くにあった。あるいは最初から自分には与えられなかったのかもしれない。どこへ行っても、何をしていても、部屋に一人でいるときでさえ自分は「リリエンソール家の跡取り息子」だった。違う生き物になることは許されておらず、また想像の余地もなかった。
 重荷に感じていたわけではない。幸か不幸か生まれついての能力は高かった。ほかの子供が早々に手の抜き方を学ぶ務めもユリシーズには難なくこなせた。
 ただ窮屈ではあったのだろう。期待された通りに優秀な跡継ぎでいることが苦ではなくとも。
 だから惹かれた。可憐で淑やかな「理想の姫」として現れた彼女に。
 自分たちは似ていると思ったから。

「まあ、なんて嬉しいお誘いでしょう。ですが私、グレースお祖母様にお伺いしてみませんと……」

 初めて耳にしたその声は花びらが零れるように甘かった。思わず振り向いたユリシーズに隣の父が「ルディア王女だ」と教えてくれる。じきに成人となる娘を、王も近頃ようやく夜会に出させる気になったのだと。
 豊かな髪と青いドレス。若い貴族に囲まれて微笑む彼女はさながら波の乙女アンディーンだった。泡の上を歩くにも似た身のこなし。繊細かつたおやかな双眸。まだ十四の少女だというのに何も欠けたところがない。
 お前もご挨拶なさいと言われ、促されるまま彼女を目の前にした。そのときには直感していたように思う。自分たちはきっと恋に落ちるだろうと。
 あれは十八歳の冬。航海に出られぬ間、人々が親しく近づき合う季節。宮廷でも貴族の館でも夜会は頻繁に催された。ユリシーズはたびたびルディアと顔を合わせた。
 美しい人。真珠貝から生まれたのかと見まがうほど。どんなにホールが混み合っていても彼女の姿はすぐ見つけられた。するとルディアも目聡くこちらを振り返り、優しく笑いかけてくれる。
「またお会いしましたわね。なんだか最近どこへ行ってもあなたのお顔を見ているような気がします。海軍にも社交熱心な方はいらっしゃるのね」
「社交熱心と申しますか、父が頑固な性格で、世話になった方がおいでになるのに自分が家に引っ込んでいるわけにいかないとうるさいのです。付き添いのために毎回予定を潰される息子の身にもなってほしいものですよ」
心臓が跳ねるのを隠してユリシーズは平静に振る舞う。他愛のない言葉でも交わせれば一日嬉しかった。
「あら、意外に苦労人ですこと。けれど想像がつきませんわ。いつもなんでも涼しい顔でそつなくおやりになられるから」
「鍛えられているだけです。でもこの頃はそう大変とは感じませんよ。その、つまり、来ればこうしてあなたにお目にかかれますので……」
 涼しい顔でそつなくと評されたばかりなのに、どもってしまって赤面する。ただの挨拶に感情を込めすぎだ。この程度の社交辞令、誰でも言えて当然なのに。
「あ、いや、ええと。そのですね、お声をかけていただいて光栄の至りですと言いたくて」
 正しくやり直そうとして余計に坂を滑っていく。そんな自分に彼女は笑ったようだった。いつものように柔らかなだけの笑みではなく、つい吹き出した感のある声で。

「あなた正直な方ですのね、ユリシーズ」

 急速に距離は縮まった。それは二人の目が合うたびに秘めた好意が伝わったからというだけでなく、接近を阻む政治的障害がほとんどなかったおかげでもあった。
 当時のグレース・グレディが支配していたのは宮廷内部のみである。元老院や評議会への彼女の影響は強かったが、海軍に対してはさほどでもなかった。特にリリエンソール家は軍人家系でグレディ家に擦り寄る理由がない。不正を嫌う父に至っては「王女をあの女狐の傀儡にするくらいならお前が王配として国に尽くせ」と言ってくるほどだった。
 その気にはなっていたと思う。父の後押しは常に道行きの正しさを証明するものだったし、自分自身も己以上に相応しい相手はいないと感じていた。何を聞いても最後には「お祖母様にお伺いしてみませんと」とうつむくルディアが気の毒で、側で守ってやりたかった。弱々しくあることが彼女の処世術なのだと気づいてからはもっと違う愛を抱くようになったけれど。
「老人は先に逝きます。すぐではなくとも必ず私たちの時代が来ます」
 あれはどういう文脈で告げた言葉だっただろう。彼女の手を取り、大理石の広間をくるくる踊りながら、ほかの誰にも聞こえない声で囁いた。ルディアは少しの逡巡の後、強い瞳でこう返した。
「私もそう思います」
 人形ではない。人形のように大人しくしているだけで、彼女には彼女の意思がある。それがわかったとき嬉しかった。運命の相手を映す鏡を前にした気分だった。
 いつ見てもルディアは清廉な微笑を浮かべ、慎み深く一歩引いている。彼女が「完璧な王女」であるほどユリシーズの胸は高鳴った。何故そうだったのかはっきり悟る。彼女のどこに惹かれたのか。
 ルディアの示す美と従順は高い能力と長年の努力に支えられた作りものだ。同種の仮面をつけた人間は数多く存在するが、彼女のそれにはほころびがない。自分と同じことを同じレベルでやれる人間にユリシーズは初めて出会ったのである。与えられた義務のために己を殺しきれる人間に。
 理解し合えるのではと思った。否、理解し合いたいと願った。互いの労苦をいたわり合い、喜びを分かち合えたらと。
 恋は春を迎える前に花開き、深く、深く根を下ろした。

「婚約していただけますか」

 新年、晴れて成人となったルディアに告げた求婚。三日後赤い顔で頷かれ、ユリシーズは王女の恋人に昇格した。グレース・グレディの妨害がなかったのはユリシーズが海軍を抜けてまで政界入りはしないと考えられたこと、従順な孫娘が刃向かう可能性は低いと思われたことが理由だろう。なんならあの女狐はルディアを利用して海軍を掌握する算段だったのかもしれない。
 舞台裏での権謀術数はともかく、交際は順風満帆だった。人生に絶頂というものがあるならあの時期のことに違いなかった。
 春、ユリシーズは東方に発った。今まで以上に働いて成果を出し、少尉から中尉に昇進した。己が海軍の出世街道を行くことは将来彼女の役に立つ。そう考えると何をするにも身が入った。今まで責任感だけでやっていたことが急に輝きを持ち始めた。
 海軍提督の座にはしばらく父がいるだろう。息子にはことさら厳しい男だが応えられれば評価はしてくれる。ユリシーズはいかなるときも努力を惜しまず研鑽した。ルディアと結婚するまでにできるだけ高い地位にありたかった。
 王家と海軍が結びつけばグレディ家と拮抗する勢力になる。そうすれば恋人は呪縛から解き放たれるはずだった。知りたかった。本当の彼女がどんな考えの持ち主なのか。どんなことに怒りを覚え、どんな風に立ち向かうのか。
 離れ離れの夏が過ぎ、秋の終わりに祖国へ帰る。恋人は何通も届いた手紙の礼を言い、ユリシーズの大躍進を祝ってくれた。
「驚きました。もう中尉なんてやはりとても優秀ですのね。リリエンソール家はいつの時代も頼もしい存在ですわ」
「あなたがいてくださるからですよ。大切な人に己の不出来で恥をかかせられませんから」
「まあ、そんな心配はないでしょう。むしろ私があなたに見損なわれぬように気をつけなくてはならないくらいですのに」
 ルディアはユリシーズと二人のときも「慎ましい姫」でいるのをやめない。それが少しユリシーズには寂しかった。ユリシーズが好きになったのは彼女のつけた仮面のほうだと誤解されていることも。
 わかっているのに。決してか弱い女ではないこと。わかっていて愛しているのに彼女に伝える術がない。
 グレースの生きているうちはどうしようもなかった。不用意に「ご安心を、私とグレディ家にはなんの繋がりもありませんから本音で話し合いましょう」などと言えば警戒させるのは目に見えている。こればっかりは時間が解決してくれるのを待つしかなかった。素顔なら彼女と同じ朝を迎えたときに見られるだろう。そう考えてユリシーズは逸る心を慰めた。
 そうこうする間にまた冬が来て、閉ざされた都でのひそやかな日々が始まる。傍らで聞くルディアの声は心地良かった。騎士物語の顛末を語る彼女の言葉の端々に稀な知性が滲んでいる。視野の広さも、勇敢さも、ユリシーズには手に取るように感じられた。
 はたして彼女はどんな君主になるだろう。想像するのは楽しかった。輝きに満ちた未来を。二人で歩んでいく道を。
 浮かれていた。高い山の頂で、そこから落ちたらどんなに痛いか知りもせず。転落したことのある者なら考え及んでいたのかもしれない。あのときの痛みがこれくらいだったから、今度の痛みはこれくらいかと。
 挫折を経験していれば、報われなかった努力に泣いたことがあれば、抱いた望みを諦める術を知っていれば、何か違っていたのだろうか。
 春が来て、またユリシーズは東方に旅立った。ジーアン帝国の不穏な西進は続いていた。それでもまだアクアレイアは平和だった。
 秋の終わり、待ち焦がれていた人に会う。けれどゆっくりはできなかった。その冬ついに馬の蹄がアレイア海東岸に踏み込んだからだ。
 ドナが落ち、ヴラシィが落ち、政情は激変した。ジーアン軍はアルタルーペの山々に退けられたがまたいつ牙を剥いてくるか知れなかった。王都の人々は震え上がり、わかりやすく戦力を求めた。
 増強すべきは海の兵士か陸の兵士か。民の意見は二つに割れたがユリシーズは悩むこともしなかった。ジーアン軍は船を持たない。仮にドナやヴラシィの船を使って乗り込まれても海戦ならこちらは百戦錬磨である。追い払える自信があった。戦う覚悟もできていた。ルディアもきっと海軍を――ユリシーズを信じていると疑ってもいなかった。

「マルゴー公国の第二王子と結婚することになりました……」

わかってくださいと彼女が言う。アクアレイアを守るためだと苦しげに。
 言葉の意味がわからずにユリシーズは立ち呆けた。とてもではないが恋人に対する仕打ちに思えなかった。
 彼女は一体何をわかれと言うのだろう? 政略結婚を受け入れれば傭兵以外に正規兵も借りられるようになることか? 商船団を守らねばならぬ海軍より彼らを迎えたほうが経済的だということか?
 愚かしい独断だ。よしんばそれが最善であれ、どうして成した後に告げる? すべて一人で決めた後に。勝手に終わりにした後に。
「私は心を捧げたのに、あなたはそんな無慈悲な真似をなさるのですか!」
 初めて人前で声を荒げた。自分が何者であるか忘れ、最初にぶつけた言葉がこれとは皮肉だった。
 愛していたのに。信じていたのに。困難な選択なら二人で決めたかったのに。

「夫婦になることはできずとも、きっと私を支えてください……」

 震え声でそう乞う彼女を見ていたらだんだんわからなくなってくる。弱いと見せかけていた通り、やはり弱い女だったのか。だから断れなかったのかと。けれど。
 ――私もそう思います。
 あの眼差しが甦る。必ず次の時代が来ると頷いた、強く賢い女のそれが。
 何もかも無駄だった。心開いてくれる日を辛抱強く待ったことも。いつかのために今からと海軍で奔走したことも。
 何も手に入れられなかった。関わった時間の長さだけ、思慕した心の大きさだけ徒労感が押し寄せる。相談さえしてくれなかった。その事実はユリシーズを深く傷つけた。
 ただ一つ残ったのは「白銀の騎士」の称号。ルディアは多分結婚してからもユリシーズに騎士として仕えてほしかったのだろう。だがそれは枯れた恋の根を腐らせるだけだった。
 騎士の務めは耐えること。誇り高くあれと彼らは暗い感情を抑制される。
 初めは仕方なかったと思おうと努力した。でも無理だった。忘れようとするたびに脳裏にルディアの姿がちらつき、ユリシーズを苛んだ。そのくせ誰にも鬱屈を打ち明けられず、渦巻く愛憎を持て余した。悲しみを吐き出せていればそれが怒りに変わることも、もっと醜悪な執着に転じることもなかっただろうに。
「なあユリシーズ、元気出せって」
 励ましてくれた友人がいなかったわけではない。けれど彼らはユリシーズが烈火のごとき憤りを溜め込んでいると知るやぎょっとして「らしくないぞ」となだめてきた。「お前はどんな大変なことも一番に乗り越えてきたじゃないか。きっともっとぴったりの女がすぐに見つかるよ」と。代わりがいるような女であればこれほど苦しんでいないというのに。
 誰も本気で聞く気はないのだとわかるまで大した時間は必要なかった。皆に愛され憧れられる「ユリシーズ・リリエンソール」の仮面を直したいだけで、それを被った人間にはまるで関心がないのだと。
 ルディアもそうだったのかもしれない。わかり合えると思っていたのは自分一人で、結局は。
 初めはきっと誰かを喜ばせたかったのだ。父や母が褒めてくれれば嬉しくて外しそこねた仮面だった。枠からはみ出た人格はなかったことにされてきたが、それでもルディアと破局するまで問題は起きていなかった。
 本音と建前が乖離していないときなら期待に応えるのは苦痛ではない。だがユリシーズには笑うのが難しくなっていた。品行方正でいることが馬鹿らしくなっていた。
 欲しいものはもう手に入らないのに寛容ぶって何になる? どうして自分がこんな苦渋を飲まねばならない? 誠心誠意恋人を想い、尽くしてきたはずの自分が。
 痛む心は己が被害者であることをあまりに強く認識させる。同じだけの痛みを味わわせることは正当な報復ではないのかと感じた。こちらにはなんの非もなく、すべて彼女が一方的に取り決めたことなのだから。
 いつしかルディアに思い知らせてやりたいと願うようになっていた。手離すべき憎悪だとわかっていたのに攻撃的な妄想を来る日も来る日も繰り返した。――そうしてあの日が訪れた。
「我が君はジーアン帝国に敵対しない新政権を求めています。さあ、あなたと私とグレディ家で結託しましょう」
 一度手を取ればあとは転がり落ちるだけだ。まだためらいはあったものの、やり返したい気持ちが勝った。仮面の下で暴れるものを理性では抑えられなくなっていた。
 道徳心が働いたのも最初だけ。酔うために飲むことを覚えると良心は次第に麻痺した。ふと己の来た道を振り返るような一瞬も、ユリシーズには何も考えられなかった。ただ早く、早く楽になりたかった。
 今ならわかる。あの頃の自分に必要だったもの。今も必要としているもの。

「俺はどうすれば良かったんだ? 先に俺を遠ざけたのは姫様じゃないか!」

 理不尽を堪えきれずに騎士が泣く。同じ怒りがユリシーズの中にもあった。胸の奥でまだくすぶっていた。消えてしまいたいのにとむせぶように。
 浴びるほど飲んで、嘆いて、喚いて、騒いで。一晩過ぎたらやけに胸が軽くなっていた。アルフレッドを慰めてやると己の痛みもやわらいだ。
 ああそうか。こんなことで良かったのか。こんなことで良かったのだ。傷の舐め合いと他人は笑うかもしれないが。
 ずっと欲しかったものがある。それは優しく温かで、決して自分を裏切らぬもの。例えば安全な寝床のように瞼を閉じて落ち着ける場所。己が何者かさえ忘れて本音で語り合える相手。
 今度こそ手に入れられるかもしれない。互いに素顔を晒して付き合っているのだから。
 今度こそ、この息苦しさを捨ててしまえるかもしれない。間違えた道を引き返して。









(20181231)