直接言ってほしかった。主君の言葉で、主君の口で。これは決定事項なのだと、抗う余地などどこにもないのだとわかるように。
 ルディアから話してほしかった。大切な秘密を打ち明けられる相手として、彼女の一番の騎士として、その決断を受け止めたかった。――であればきっと自分をこんなに惨めに感じることもなかったはずだ。
「……い、おい」
 肩を揺すられる感覚に薄暗闇が遠ざかる。
「おい、起きろ。アルフレッド。一旦家に帰るんだろう?」
 名指しの呼びかけはたちまち意識を覚醒させた。瞼を開き、アルフレッドは疲れの残る半身を起こす。ぼんやりと霞む視界には気遣わしげな男の顔が映り込んだ。
「……もう朝か? 今何時だ?」
 閉ざされた鎧戸の隙間から零れる光に目をやって尋ねる。寝ぼけた質問にはすぐに「六時の鐘が鳴ったばかりだ」と返答がなされた。
「気分はどうだ?」
「悪くはない。……いや、ちょっと頭が重いかな」
「そこの水でも飲んでおけ。突っ伏して寝るから肩が凝ったんだろう」
 自身も身支度を整えながら白銀の騎士がカウンターを示す。空の酒瓶と杯が乱雑によけられた台の上にはお行儀よく新しいグラスが置かれていた。心配りをありがたく受け取り、アルフレッドはぬるい水を飲み下す。
「今回は暗いうちに帰るつもりをしていたんだがな。すまんが適当に戸締まりを頼む。私は急いで戻らなくては」
 せかせかとマントを羽織るとユリシーズは鈍色に光る鍵を投げてよこした。難なくそれを掴んで頷く。多忙な英雄は間もなく店を立ち去った。
 ひと呼吸置き、アルフレッドも夜通し己を支えてくれていた丸椅子を離れて片付けを始める。勝手知ったるなんとやらでカウンター裏に回るとグラス類を洗い、空瓶をまとめ、残った酒は棚に戻した。一応近所の人間の話し声がしていないのを確かめてからドアを開く。手早く施錠を済ませるとアルフレッドは懐に鍵を押し込み、遅すぎる家路についた。
 もう何度目になるだろう。この「ユスティティアのやけ酒」でこうして朝を迎えるのは。一度目はたまたまだった。二度目からはずるずると、それらしい理由を作って自ら足を運んでいる。
 ユリシーズは監視のつもりでいればいいと言ってくれたが、とてもじゃないがそんな言い訳は通用しないとわかっていた。重要な情報は漏らしていないにせよ主君の敵と通じているのは事実なのだ。明らかな造反。裏切り行為。自覚があるのにやめられない。あそこで飲んでいるときだけは強張った心を緩めて少し楽になれるから。
 皆にばれたらどうなるか。失望の目を想像して背筋が凍らぬわけではない。だがだからこそやめられないのかもしれなかった。己の素行に悩んでいるうちはほかの苦悩を締め出していられるし、こんなだから自分は選ばれなかったのだと納得もできる。なんの非もない人間に害意を向けないためだとしても愚行には違いなかったが。
(時間が経てば少しずつ受け入れていけるんだろうか)
 不甲斐ない自分のことも、幸せな彼らのことも。そんな日はまだ想像するのも難しい。
 入り組んだ路地を抜け、橋を渡り、水面に映る陰気な男の顔を見やる。人とすれ違わないような暗い道を選んで歩く。重い嘆息一つ零し、アルフレッドは自嘲気味に笑った。
(でもその前に俺が駄目になりそうだな。こうも騙し騙しでしか続けられないのだったら)
「ありがとう」とか「良かったな」とか一つ嘘をつくたびに、胸に鋭い痛みを覚える。笑えないのに笑わなくてはいけないとき、自分が自分でなくなる気がする。
 早くどちらかになれたらいいのに。嘘も必要だと割り切るか、偽りない本心から祝福できるようになるか。
 誉れ高き騎士を目指して十二年。こんな試練があるとは思っていなかった。自分がこんな、不義不忠の男になるとは。


 ******


 ローズマリーにミント、オレガノにタイム、フェンネルにパセリに真っ赤なセージ。幾種類ものハーブを育てる薬屋の中庭は広い。アクアレイアにしては珍しい、土の入った本物の庭だ。これがあるからうちはまだ薬局としてやっていけているのである。実入りの大きな香辛料しか取り扱ってこなかった同業者の多くが店を畳む羽目になっても。
「うーん、いいね。いい香りだぞ、お前たち」
 愛し子たちに水をやりつつアンブローズ・ハートフィールドはちらと二階の寝室を見上げた。ハーブ園を広げるために一階倉庫を潰したとき、玉突き的に兄弟二人部屋にされた自室を。
 もう日も昇ったというのに今朝はまだあそこに兄が帰っていない。それが少々気がかりだった。このところ兄の様子がおかしいのも相まって。
 連絡もなく朝帰りするなど以前はなかったことなのに、最近のアルフレッドは三日と開かず酒の臭いを漂わせて帰ってくる。それもモモが宿直でいない日ばかりだ。夜中にこそこそどこの誰と会っているのか知らないが、どうせ今日もふらつきながら帰宅するに違いない。
「!」
 そんなことを考えていたら玄関でもある店舗のほうで足音がした。振り返るとほぼ同時、アルフレッドが中庭に続く扉を開く。
「お、おかえり」
「ああ。ただいま……」
 酒焼けした声にうわ、とドン引きした。もし母がこのガラガラ声を聞いたらどんな顔をするだろう。あの人は酔っ払いが嫌いだから一時間や二時間の説教では済まないかもしれない。たとえ付き合いで嗜む必要はあるにしろ、この家に酒に飲まれる人間はいないと思っているから余計に。
「こんな朝からもう仕事か。俺も何か手伝うか?」
 アルフレッドはぐるりとハーブ園を見渡し、剪定でも採集でも手を貸すぞと言ってくる。酔って帰っても親切なのは嬉しいが、大切な薬草に何かあっては堪らない。アンブローズは「いや、いい、いい」と申し出を断った。
「だが一人でこれだけ手入れするのは大変だろう」
「平気だって。兄さんちょっとしたらまたすぐ宮殿に出向かなきゃでしょ? さっさと水浴びて着替えに行きなよ」
 セージ畑に踏み込まれる前にどうにか酔っ払いを退ける。「そうか」と呟いたアルフレッドが中庭奥の洗濯室に消えるのを見送ってアンブローズはやれやれと息をついた。
(嫌だなあ、ほんとに誰と飲んでるんだろ)
 鼻をつまんで眉をしかめる。息抜きに軽く楽しむ程度なら自分だって文句は言わない。だがこのハーブの香る中でさえ悪臭が気にかかるほど飲んだくれるのは良くないことではないのかと思えた。
 酒は嫌いだ。忘れていたい男のことを思い出す。二度と会わないとわかっていても、どうしても。
 飲んでひとしきり暴れると少しの間だけ優しくなる。あいつはそういう人間だった。その優しさも夕食前だというのに菓子を与えようとして、断られれば怒り狂うという的外れなものだったが。
(口止めされてなきゃモモと母さんに心当たりを聞くんだけどなあ……)
 アルフレッドの深夜不在を知っているのは家族の中で自分だけだ。今は何も言わないでほしいと頼まれているのを無下にできないし、女たちの苛烈な気性を考えれば下手に相談を持ちかけるより黙っていたほうが無難だなとも思う。思うけれど。
(なんか怖いんだよな、最近の兄さん)
 朝帰りが始まってそろそろ一ヶ月が過ぎようとしている。初めはあの堅物もついに夜遊びを覚えたかと驚くだけで終わっていたが、三度四度と続くうちにだんだん見過ごせなくなった。
 アルフレッドは暗い顔で出ていって暗い顔で帰ってくる。その背中が記憶の中の父と重なって映るのだ。深酔いしているからといって兄は決して口が悪くなったりしないし、家のものを壊すこともないのに。
(そんな理由で酒やめろとか言ったらさすがの兄さんも傷つきそう……)
 アンブローズはふうと小さく息を吐く。「父親似」はこの家では禁句だった。不摂生を諫めたいなら別の言い方を考えねば。
(とりあえず今夜は薬湯でも出してやるか。ぐっすり眠れてないから酒なんか飲みたくなるんだよ、きっと)
 うんうんと一人頷く。アンブローズは剪定鋏を持ち直した。パチンパチンと音を鳴らし、切り取ったセージの葉を抱えた籠に放り込んでいく。
「おい、アンブローズ、朝食作ったら一緒に食べるか?」
「あ、うん! 欲しい!」
 洗い替えの服を着て洗濯室を出てきた兄はもう普段の顔だった。冷たい水で顔を洗ってさっぱりしたのか酒はほぼ抜けたようだ。そのことにほっとして、やはりアルコールは取りすぎるべきではないと確信する。
「兄さんさ、母さんたちに見つかる前に夜更かしやめなよ? 飲みすぎは内臓にも悪いんだからね」
 遠回しに健康を案じる言葉を投げかけてみたものの、兄からは「ごめん」としか返ってこなかったけれど。


 ******


 我ながらなんて馬鹿な真似をしたのかと呆れる。悔やんでも悔やみきれない。あれが本音ではあったにせよ、よりによって彼の主君を引き合いに出して騎士の態度を責めるなんて。
 柔らかさのかけらもないアルフレッドの横顔を見やり、アニークはがくりと肩を落とした。あの大失態から一ヶ月、騎士はかたくなになる一方で雪融けの日はあまりに遠い。
(ああ、今日も駄目。私のほうを見てくれる気配なんてまるでないわ)
 向かい合って座したソファでアニークは悲しく目を伏せた。入室して最初の挨拶を済ませるとアルフレッドは途端に貝になってしまう。最近はユリシーズも同僚に甘くなり、無理に間をもたせようとしてくれなくなったので「通訳」ありでも会話が厳しくなっていた。せめて失言を謝りたいのにアルフレッドは隙をくれない。まるで難攻不落の山城だ。
 だがすべての希望が失われたわけではなかった。今日はユリシーズが委員会の臨時会議でいなくなる予定だし、アニークの手元には昨日出版されたばかりの『続パトリア騎士物語・上巻』がある。このチャンスを逃さぬ手はない。
(アルフレッドだって誰かと感想を語り合いたいって思っているはず。何しろプリンセス・グローリア一行に新しい仲間が加わってユスティティアには後輩騎士ができたんですもの! サー・トレランティア絡みのエピソードもぐっと増えたし、彼の国では戦争まで起こりそうで、これから物語がどうなっていくのか――)
「アニーク陛下、大丈夫ですか? 聞こえていらっしゃいますか?」
 と、訝しげなユリシーズの声に問われてアニークはハッと目を開けた。どうやらまた己は己の思考だけで頭をいっぱいにしていたらしい。話しかけられていることに気づかず、彼を無視していたようだ。
「ご、ごめんなさい。何かしら?」
 聞いていなかったと正直に詫びればユリシーズは苦笑いで「いえ、大した話ではないのです。明日の催しをご観戦になる場所を念のため確認しようとしたまでで」と答えた。
「ああ、指輪争奪戦とレガッタね。特別席を用意してくれるんでしょう?」
 気まずさを払拭するべくアニークは覚えているわよアピールをする。白銀の騎士は「お忘れかと焦りました」とやや大仰に胸を撫で下ろした。
「指輪争奪戦のほうは知らないけれど、レガッタのほうは私が優勝者に褒美をあげればいいのよね?」
「ええ、そうです。是非たっぷりとお願いいたします」
「任せてちょうだい。アクアレイアには随分良くしてもらっているもの」
 ユリシーズに応じつつアニークはちらと赤髪の騎士を盗み見る。レガッタの主催などという面倒な役を引き受けたのは、少しでも彼の信頼を取り戻したい、良好な関係を築き直したいと願ってのことだった。アクアレイアのために尽力すればきっとアルフレッドもアニークを見直してくれる。浅い考えなのは百も承知だが、できることがあるならやらずにはいられなかった。
「優勝チームに百万ウェルスじゃインパクトに欠けるかしらって準優勝チームにも五十万ウェルス用意したのよ。足りなければもっと上乗せしても構わないけれど……あなたたちどう思う?」
「そうですね、優勝賞金としては十分かと。ですがもし更に出資していいとのことでしたら、十位入賞くらいまでねぎらってやっていただけるとありがたく存じます」
「わかったわ。十位までね」
 返答したのはユリシーズだけだった。あなたたち、と聞いたのに赤髪の騎士は相変わらずそっぽを向いて何も言わない。どうあっても彼はアニークのすることに関心を払いたくないようだ。すぐ横に腰かけた男が「民衆も喜ぶに違いありません。女帝陛下より直々にとなれば東パトリア帝国との関係にも希望が見えてきますからね。本当にありがとうございます」と感謝を述べても知らん顔だった。見かねたユリシーズが小さく肘でつついたが、言うべきことはないとばかりに一度かぶりを振っただけで。
 対話の余地などあるのだろうか。凍てついた眼差しを見ていると次第に気が滅入ってくる。毎日毎日当たって砕けて、どうせ今日だっていつもと同じ結果になるだけに違いないのに。
(駄目駄目、くじけている暇なんてないんだから!)
 胸の不安を追い払うべくアニークはぶんぶん首を振った。ジーアンの蟲には大した時間が残されていない。移り変わる季節がアルフレッドの心をなだめてくれるのを悠長に待つことはできなかった。
 そうこうする間に臨時会議の開始を告げる鐘が鳴る。大鐘楼のほうから響くゴーン、ゴーンという音に白銀の騎士が立ち上がった。
「申し訳ありません、アニーク陛下。明日の打ち合わせに行ってまいります。今日は準備に追われますので、もう戻ってはこられないかと」
 丁重に頭を垂れて詫びるユリシーズにアニークは「わかったわ」となるべく平静に答える。そら来るぞ。高まる緊張がぶるりと肩を震わせた。
「では俺もそろそろ」
 予想した通りのタイミングでアルフレッドはソファを離れる。同僚に続き、彼は己も女帝の面前を辞そうとした。いつもならここで彼らを見送ってしまうところだが。
「待って、アルフレッド。話したいことがあるの」
 呼び止めると赤髪の騎士は露骨に迷惑そうな顔をする。一歩先で足を止めたユリシーズが心配そうに振り返ったが、アニークは「あなたには会議があるんでしょう? さあもう行って」と余計な口を挟ませなかった。
「…………」
「…………」
 騎士たちはちらと目配せし合う。仕方がないなという風に両者は同時に息をつき、一方だけが「失礼します」と出ていった。
 残された赤髪の騎士と向かい合う。不信感や反発を隠そうともしない男と。意を決し、アニークは「あの」と話を切りだした。
「『続パトリア騎士物語』はもう読んだ? 新刊はレイモンドって人から貰っているのよね?」
 問いかけてからすぐにしまったと後悔する。話す順番を間違えた。まず先日の発言について弁明しなくてはならなかったのに。
「……いえ、まだ読めていません。受け取るだけは受け取りましたが」
 わざわざそんなくだらない用事で引き留めたのかとアルフレッドの眼差しが語っている。それだけでアニークはすっかりたじろいだ。奮い立たせた勇気はしぼみ、喉奥で舌が硬直する。楽しく会話を弾ませるにはどうすればいいか、昨夜は一晩散々悩み抜いたというのに。
「同好の士と語り合いたいだけでしたらほかの者をお呼びください。あなたと近づきになりたい人間は愛好家にも大勢おりますから」
 侮蔑の滲む冷たい声でアルフレッドは吐き捨てた。そのまま彼はアニークが下がっていいとも悪いとも言わないうちに踵を返し、寝所を後にしてしまう。
 扉の閉まる無機質な音がやけに大きく耳に響いた。どうしてこう失敗ばかり繰り返すのか、自分の愚かさが恨めしい。短い命をせめて有意義なものにするべくアクアレイアへ来たはずなのに、アルフレッドに正体がばれてからの日々ときたら。
(馬鹿よね私。いつまでも望みのない相手にこだわって)
 誰もいない室内でアニークは一人立ち尽くす。懸命に集めたコレクションに目をやっても心は少しも晴れなかった。
 いい加減やめにしたい。諦めて終わりにしたい。未来永劫振り向いてくれることなどなさそうな男なのだから。
(そうよ。大体私にはヘウンバオス様がいるじゃない)
 めいっぱいの同情心と家族愛で甘やかしてくれる夫を思い出す。彼や仲間がいるだけで満ち足りていた頃の自分を。
 幸せだった。ヘウンバオスの「子」として生まれてきたことが誇らしかった。記憶を共有していても知能まで同じレベルになれるわけではないが、それでもそれはほかの誰が持つものより、長く、深く、慕わしいものだったから。
 今のアニークは遠い昔に思い馳せることなどない。できなくなってしまったのだ。己の奥底から芽吹いた、決して摘み取れぬ花のために。
(私たち、なんて厄介な生き物なのかしら)
 わかっていた。アルフレッドへの執着が何に起因するものなのか。
 蟲には二つ、どうしても振り回されるものがある。一つは「親」と共有する記憶。もう一つは――。
(だけどアルフレッドだって馬鹿よね。私のこと『アニーク』を騙る悪者だと思い込んでいるんだもの)
 目尻に溜まった涙を拭う。どうなっても構わないから全部ぶちまけてしまいたかった。心に抱えたもの全部。ただの偽者ならこんなに苦しんでいないことを。


 ******


「あら? 今日って十人委員会の日じゃなくない?」
 訝しげな蠍の声にウェイシャンは「ほえ?」と顔を上げる。幕屋の外からはうたた寝を妨げる馬鹿でかい鐘の音が響いていた。鳴り終わってしばらくすると黒ローブの爺どもがバタバタ集まってくるアレだ。だが今日のそれはいつもより時間帯が早い気がした。少なくとも帝国幹部の集まる午前、聖預言者役を仰せつかったウェイシャンが四肢を伸ばして惰眠を貪るこの頃合いに耳にするのは初めてだ。
「ああ、なんか臨時会議するんだって。明日お祭りやりたいって言われててさー」
 蠍に教えてやったのは曲者ラオタオであった。お祭りとかいう楽しげな響きにウェイシャンはがばと身を跳ね起こす。
「お祭り! いいっすね! どんな催しがあるんすか? 競馬とか? あっ、アクアレイアに馬はいないか。けどけど酒は出るんすよね!?」
 急に食いついていったため、ファンスウからもウァーリからも冷たい視線を返された。二人とも「しょうもない話のときだけ元気になって」と言いたげだ。ダレエンだって「ほう、祭りか。いい酒が飲めそうだな」と似たような反応を返しているのに酷い扱われぶりである。
 ちえ、とウェイシャンは再び絨毯に転がった。均整の取れたハイランバオスの肉体をごろりとだらしなく放り出す。
 十将の話は獣脳の自分には少々難しすぎるのだ。ダレエンみたいに齢八百を数えていればついていけるのかもしれないが、生まれて百年そこそこの己では短い時間お行儀良く座っているのが限界である。
「祭り……か。確かにアクアレイアに余計な手出しはせんと約束したが、正直この要求は却下しても良かったのではないのかの? 公言はしとらんが彼らの女神を称えるためのものなんじゃろう? 印刷業を盛り立てようとする動きも抑止できなんだしのう」
 と、何やら責める口ぶりでファンスウがラオタオに問う。古龍の言い回しは特に苦手だ。込められた意味がありすぎて頭が大変なことになる。即座に毒に反応し、制してしまう狐はもっと理解不能だが。
「だって動きはたくさんあったほうがいいじゃん? なんにも起きない死んだ都市にあの人は近づかないよ。さっさと釣り上げなくちゃでしょ?」
 ラオタオが「あの人」と言った瞬間、火のないかまどを囲んで座る十将たちの空気が変わった。張り詰めた静寂にウェイシャンはうへえと舌を出す。
 あの人というのはウェイシャンが今入っている器の持ち主、ハイランバオスのことだろう。いくら馬鹿でもそれくらいわかる。あの裏切り者とアークとかいうクリスタルをファンスウたちは必死に探しているのだから。
「防衛隊が帰ってきて結構経つのにまだ接触がないからさあ、刺激が足りないのかなと思って。ま、アクアレイアは俺の管轄だしなって独断でオッケーしたのがまずかったなら謝るよ」
 いかにも軽くラオタオが詫びる。ファンスウは何も言わず、ちらと険しい目を向けただけだった。代わりにダレエンが「一理あるな」と若狐に同意する。
「ルディアはいずれあちらから連絡が来ると言っていたが、気が乗らなければ永久に詩の続きを書かん男だ。泳がせるにせよ派手にやらんと連絡がないまま終わる可能性は十分ある」
 狼男の意見を聞いてウァーリも「そうね」としみじみ言った。
「あいつ理屈より感情で動くとこあるものねえ。その感情も方向性が全然理解できないし」
 まったく読みにくいったらありゃしない、と蠍が口を尖らせる。そんな彼女に疑問を投げかけるようにファンスウがぽつりと漏らした。
「わしは少し、お前たちとは違う考えをしておるよ」
 注目は一気に古龍に集まる。細いひげを撫でつけながら老人は「これはまだわしの憶測に過ぎないが」と前置きした。
「わしらの寿命はまだ十年、少なくとも数年は保証されているのやもしれん。でなければあやつの行動が遅すぎる。本当に明日をも知れぬ身ならすぐにでも防衛隊を操り動かそうとするはずじゃ。天帝陛下がどう出るかを確かめるためだけにな」
「なるほど」
 それは言えてるとラオタオが拳を打つ。「嘘はつかないけど隠し事はするからなあ、ハイちゃん。引っかけられたかな」と彼は思案深げな様子だった。
「ともかくあやつが再び天帝陛下にまみえることを望んでおるなら猶予は短くないはずじゃ。あの方の気配もない土地で果てていいなど、あやつが思うわけないからの」
 ファンスウはラオタオを一瞥しつつ話をまとめる。この古龍は狐が敵と内通していると疑ってかかっているためウェイシャンに向けてくるより厳しい目で彼を観察することを怠らなかった。監視されている自覚のあるラオタオのほうが余裕ありげに見えるのが皮肉だが。
「うん、そうだね……。あの人が自分の執着を捨てられるはずがない……」
 と、狐にしては珍しく真面目な響きの呟きが返される。しばし遠い目をした後でラオタオはそっと瞼を伏せた。
「俺、最近考えるんだ。ハイちゃんが本当にしたいことってなんなんだろう? ハイちゃんが本当に縛られていることはって……」
 彼は続けた。直近の「親」であるハイランバオスの記憶に苛まれていることをありありと示す弱い声で。
 ウァーリもダレエンもファンスウも何も言えずに押し黙った。ウェイシャンでさえ異様な雰囲気に飲まれかける。
 ラオタオは「ごめん」と詫びた。「あの人がまだ『記憶』に軸足置いてた頃は何考えてるかすぐにわかったんだけど」と。
 蟲には二つの病がある。犬の身体で生まれ落ちたウェイシャンがやっと人語を解するようになった頃、その病の名を教わった。
 一つは記憶。何代にもわたる「親」の記憶。長い長い、蟲の歴史だ。自我が弱いうちはこっちにやられる。直近の「親」が個性的すぎる場合も。
 もう一つは最初の宿主の脳である。獣として目覚めた蟲は人間らしさを獲得するまで長い年月と大変な努力を必要とする。人の身体に入れられた蟲もまた人格や能力は一人目の宿主の影響を受けるのが常だった。
 ラオタオはハイランバオスの裏切った原因が「最初の宿主から継いだ特性」にあると考えているようだ。年齢を重ねれば別人のものとして受け止められるようになる「記憶」と違い、それは魂に根差すものだから。
「まあ、そう、落ち込むことないわよ。同じ記憶を有してたってあたしたち、やっぱり別々の生き物だもの」
 ウァーリが多少遠慮がちにラオタオを慰める。すると狐はけろりといつもの調子に戻って「そうだねー」と肩をすくめた。
「なんかしんみりさせちゃったから話戻していい? 明日なんだけどさ、俺とファンスウとウェイシャンは女帝へーかと同じ特別席用意してくれるんだって。だから一緒にお祭り行けるぜ!」
 おおっとウェイシャンは目を見開く。「マジですか!?」と起き上がるとまたしても古龍と蠍に深い溜め息をつかれた。
「お酒は駄目よ。あなた絶対ハイランバオスやってること忘れちゃうもの」
「えええ!?」
「嗅ぐのも禁止じゃ。不安すぎるわい」
「えええええ!?」
 せっかく息抜きできそうなのになんて惨い命令だ。ウェイシャンはさめざめと泣き伏した。競馬もなし、酒もなし、聖職者だから一夜限りの逢瀬もなしで一体どう祭りを楽しめと言うのだろう。
「そう言えば本国からの報告じゃが……」
 不服を申し立てたかったのに十将たちはもう次の難しい話を始めてしまう。エセ預言者には不貞寝以外なす術なかった。


 ******


 呼ぶと聞いていたからいるのは知っていたが、改めてその存在を目にすると腹立たしいことこのうえない。こいつのせいで一人の騎士が苦しめられているという事実。それは政治的な理由以上にユリシーズの内なる敵意をごうごうと燃え上がらせた。
「ふむ、これで全員揃ったかの。ではさっそく指輪争奪戦の段取りを説明してくれるかね?」
「はーい! っつってもやることは例年の『海への求婚』とそんな変わらないんすけどー」
 小会議室の演壇に立ち、レイモンド・オルブライトは彼が催す儀式の概要について語る。曰く、ジーアン人の目があるため墓島に立ち寄ったり波の乙女に愛を乞うたりするのはやめにしておくが、ほかはなるべく省略せずに行うそうだ。楽隊も雇ったし、群舞を披露してくれる踊り子たちも手配済みだという。彼自身は新造させた小型ガレー船に乗り込み、指輪を海に放る大任を務めるということだった。まったく図々しい男である。少し前まで弱小部隊の一槍兵に過ぎなかった身のくせに。
「まあ大丈夫とは思うんすけど、指輪の取り合いで暴力沙汰になるとまずいんで警備兵乗せたゴンドラは何艘か配備しとく予定です。俺も参加したことあるんでわかるんすけど、結構皆周り見えなくなるんですよねー」
 真剣さの窺えない間延びした声にユリシーズは顔をしかめる。緩んだ口元。尊大な立ち振る舞い。こんな男を選ぶとは王女も落ちたものである。
 気に入らないのはそれだけではなかった。自分以外の委員会の面々は明らかにレイモンドを歓迎していた。本はとにかくよく売れる。作れば作るほど外貨が入る。特に「パトリア騎士物語の続編」は強力なカードだった。聞くところによれば上巻発売日だった昨日は早朝から彼の書店に長蛇の列ができたという。亜麻紙の原料となるぼろきれも高値でやり取りされることが増え、庶民の貴重な収入源となりつつあるようだ。ほかにも稼ぎを奪われるはずだった写字生が印刷工房と足並みを揃えて豪華版騎士物語を販売したり、組合ごと懐柔された版画職人が大判ポスターを売り出したり、小さな成功が相次いでいる。当然のごとくレイモンドの評判は日を追うごとに高まっていた。
「ところでガレー船の漕ぎ手は集まっているのじゃろうな? 小型といえども三十人は必要じゃろう?」
「ああ、平気っすよ! 募集かけたら四隻分は来てくれたくらいです!」
 トリスタンからの問いかけにレイモンドは明るく応じる。やはり彼は今この街で最も勢いのある男らしい。ガレー船を出すのに海軍の手は不要だと伝えてきたときは「ほざくなよ」と思ったが、この短い期間で百名以上の水夫を集められるようになるとは。
(それもすべて民間から、だ。グレースが暴れるはずだな)
 妹の姿をした女狐には「あんな者をのさばらせてはなりません。尻軽の民衆にリリエンソール家の偉大さをもっと知らしめてやらなければ」と口酸っぱく言われていた。だがなかなか状況は厳しそうである。大運河には指輪争奪戦に向け、数日前から場所取りのゴンドラが現れているほどだった。航行の邪魔だというのに水路で泳ぎの練習をする者も後を絶たない。皆それだけ活版印刷機が欲しいのだ。少なくとも明日の勝者が決まるまでは、このレイモンド人気は不動だろうと思われた。
(ま、今のうちにいい気になっておけばいい。私は私でじっくりやるさ)
 ふんとユリシーズはレイモンドを睨む。世の趨勢など些細なことで変化するのが常である。この男の前に躍り出るチャンスを逃さなければそれでいい。
「俺からは大体こんなもんですかねー」
 レイモンドは印刷機の引き渡しや職人の紹介は明後日に回すこと、もし問題が起きたときは委員会に相談したい旨を告げると演壇を降り、壁際に下がった。
 続いてニコラスが呼んだのはユリシーズだ。「ではお前さんも『海への求婚』のすぐ後に開催するレガッタの流れを確認してくれるかの」との要請を受け、ユリシーズは「ええ」と自席を立ち上がった。
「レガッタもコースの変更などはありません。例年と違うのは優勝チームから十位入賞チームまで、主催のアニーク陛下に賞金を授与していただく点です。私がお願いしたところただちにご快諾くださり、予定の倍は出資していただけそうでした。リリエンソール家の働きかけで東方交易の正常化に一歩近づいたこと、人々も喜んでくれるでしょう」
 視界の端でレイモンドが口をすぼめたのがわかる。晴れ舞台に思いきり対抗イベントをぶつけてこられたのだ。愉快ではないだろう。
 だが彼の幼馴染はもっと不愉快な毎日を強いられているのである。この程度で態度に出すなど片腹痛いなんてものではなかった。
「そうそう、女帝陛下及びジーアン十将のラオタオ殿、ファンスウ殿、それとハイランバオス殿にお乗りいただく大型ゴンドラですが、漕ぎ手を担う海軍の二名のほか、私とアルフレッド・ハートフィールドが護衛として同乗する予定です」
 ユリシーズはちらとレイモンドを見やって告げる。成金男はがらりと表情を変え、今度は間抜けな垂れ目をぱちくり瞬かせた。彼には意味が掴めなかったらしい。誰の目にも「特別席」とわかるそこに防衛隊隊長を乗せる意味が。
「ほう、そうか。まあ普段から二人でアニーク陛下のお相手を務めてもらっているからのう……?」
 常に冷静沈着なニコラス・ファーマーもユリシーズの言に目を瞠る。ほかの面々も同様にざわめいた。何しろ帝国自由都市派のユリシーズが王国再独立派に違いない防衛隊に名誉の分け前をくれてやろうとしているのだから。
 この件を伝えたとき、グレースからも「護衛なら海軍だけで十分でしょう。何故ですの?」と追及を受けた。だが本当のことなど答えられるはずがない。華々しく民衆の前に立つであろうレイモンドの陰で、落ち込むに決まっているアルフレッドをどうしても放っておけないからだなどと。
 女狐には「アニーク陛下が三人一緒でなければ嫌だと渋るものでな」と嘘をついた。リリエンソール家が東方と強い繋がりを持つこと示すには多少の難点にも目をつぶらねばならん、と。だが実際はこれくらいなら彼がルディア陣営の人間であることを差し引いてもぎりぎり味方してやれそうだと考えただけである。レーギア宮に引きこもっている今はアルフレッドが女帝のお気に入りと知る者は少ない。しかし祭りとなれば必ず大勢の目に映る。レイモンドだけでなく、彼の名だってもっと知られてもいいではないか。そう考えてしまったのだ。
「貴賓用ゴンドラで指輪争奪戦を見物したら、我々はレガッタのゴールである真珠橋に向かいます。着順に銀行証書を渡していく形式です。レガッタが終了次第、同じゴンドラで宮殿に引き返します」
 できるだけ涼しい顔でユリシーズは「特別席のことは我々にお任せを。女帝陛下のご機嫌取りもジーアン人とのやり取りも一番慣れていますので」と締めくくった。誰からも異論は出ず「では詳細は現場の担当者と打ち合わせるか」と臨時会議は解散の運びとなる。
 ユリシーズはふうと小さく息をついた。身の内で二つの感情がせめぎ合う。馬鹿げたことをしているんじゃないかという思いと、いいやこれでいいのだという思いが。
 席を離れた委員たちはすぐさまレイモンドを囲んだ。新しい印刷機について、彼自身の近況について、聞きたいことが山とあるらしい。その脇を通り抜け、足早に小会議室を立ち去った。
(本当はあの成金を完膚なきまでにやりこめてしまいたいのだが、そんなことをしたらアルフレッドは喜ぶどころか本気で心痛めそうだしな)
 深々と嘆息する。お人好しにもほどがある騎士の顔を思い浮かべて。
 アルフレッドはどれだけ酔っても決して人を悪く言わない。それらしいことを口にしたのは一度だけ、ルディアに対する疑念を抑えられなかった一度だけだ。彼はいつも己の不出来を嘆く。どうしていれば良かったのか、欠けていたのはなんだったのかと。落ち度があるのはあの女のほうだろうとユリシーズがいくら諭しても。
 ルディアには向けられた好意を小さく見積もる悪癖がある。長続きすることを信じない。それで自分も苦労したのだ。彼女の心を射止めてからも。
「…………」
 甦りかけた情景を、かぶりを振って霧散させた。とにかく今は明日のことだと海軍の待機する国営造船所へ向かう。
 大鐘楼を崩壊させ、国王暗殺を狙ったのはほんの二年前である。まさか自分がレガッタを開催する側になるとはな、とユリシーズはひとりごちた。


 ******


 ブロンズ製の扉が開く重い音にルディアは静かに顔を上げる。表の貼り紙をよく読まなかったと思しき客に「騎士物語なら昨日完売したぞ」と告げようとして「なんだ、会議はもうおしまいか? おかえり」と言い直した。
「おお、今日はあんたが店番なんだな。パーキンや皆は? 国営造船所のほう行ったのか?」
「ああ、今のうちに近くでガレー船を見たいと言ってな。明日は漕ぎ手になる奴以外、私とパーキンしか乗らないだろう? 職人総出でもぬけの殻だ」
 無人の工房を振り返り、ルディアは小さく肩をすくめる。騎士物語の続刊が出た翌日とあって売り物はほぼ残っておらず、店内は静かなものだった。客足もまばらで、時々中まで入ってくる者がいても目当ての本がないと知るやすぐ出ていく。暇すぎて見本用の騎士物語を開いていたほどだ。
「で、どうだった? 委員会の臨時会議は」
「それがさー、一つ腑に落ちないことがあって……」
 レイモンドは渋面で腕を組む。名だたる貴族と関わるようになったからか、皆が彼をその一員として扱うからか、軍服風に仕立てた衣装も今ではしっくり槍兵に馴染んでいた。背負った槍だけはいかにも安物で雰囲気にそぐわないが、ルディアから支給された最初の武器を彼は手放したくないらしく、上等な革のホルダーをつけて大事にしてくれている。そういうものが視界に入ると自然に胸が温まった。
「レガッタが女帝主催だってのは前にアルから聞いてた通りだったんだけど、東方のお偉方が乗る観戦用ゴンドラにアルも護衛として乗り込むみたいで」
「ふむ?」
 レイモンドの報告にルディアは怪訝に首を傾げた。聞けばそのゴンドラにはユリシーズも同乗するらしい。「あいつがアルを自分と同格扱いなんてちょっと気持ち悪くね? なんにも得がないじゃん」と槍兵は不可解そうだった。
「それは確かに妙だな。レガッタ開催はどう考えても我々への当てつけなのに、アルフレッドを隣に置いていたらコネの宣伝効果が半減だ」
 ルディアはうーんと考え込む。ユリシーズは帝国自由都市派としてジーアンや東パトリアの上層部と親しいところをアピールするつもりだったのではないのだろうか。安全のために海軍だけで防備を固めると言い張れば疎外するのは簡単だ。てっきり明日のアルフレッドは目立たぬ裏方に追いやられると思っていたのに。
「まあ多分、アニークが駄々をこねたのだろう。アルフレッドがいないなんてイヤ、とか言って」
「あー。主催には逆らえねーもんな」
「一応警戒はしておこう。何か思惑があるのかもしれない。まさか塩を送っただけなんてことはあるまい」
 ほかに変わったことはないか尋ねる。レイモンドは「会議では特になかったかな?」と斜めを見上げて返事した。ルディアもまた「そうか」と返す。
 至って普通のやり取りだ。断らなければ、忘れなければと思い悩んでいた頃に比べ、不毛な思考にエネルギーを吸われなくなった今は随分と楽になった。決断して正解だったのだと思える。あのままくよくよしていたら肝心な場面で判断を誤る愚鈍になっていたかもしれない。
「お前も今から国営造船所に向かうのか? 気をつけて行けよ」
「あんたは行かねーの? 今日は閉めちゃえばいいじゃん。店番してても誰も来ねーだろ、これは」
 そう言ってレイモンドはカウンターの向こうからルディアの腕を握ってきた。たちまち心拍数が上がり、対応がしどろもどろになる。
「だ、誰も来ないわけではないが、まあ、閉めていいなら私も行くかな」
「うんうん! あ、けどちょっと待って。出かける前に見せたいものがあるんだった」
 こっちこっちと手招きすると槍兵は店の奥の階段室に歩いていった。慌ててカウンターを出てルディアも後を追いかける。ドアを閉めると彼は中から鍵をかけた。なんだか妙に念入りだ。見せたいものとはなんだろう。
 階段脇の狭い通路でレイモンドはルディアを振り向いた。なんとも楽しげな笑みを浮かべて。恭しく跪かれたのは直後である。そうして彼はポケットの奥の光るものをそっとこちらに差し出してきた。
「じゃーん! 波の乙女の婚約指輪でーす!」
 精巧な金の環にルディアは目を奪われる。彫り込まれた守護精霊の祈る姿に。それは二年前に手にしたものとそっくりだった。指輪は王家追放の際、ほかの美術品と一緒に失われたと思っていたのに。
「記憶頼りのデザインの割によくできてると思わねー? これ全部パーキンがやってくれたんだけどさ、あいつほんとに金細工職人だったんだなー」
 どうやら指輪はレイモンドが新しく作ってくれたらしい。槍兵はルディアの左手を取ると「はめてもいい?」と乞うてくる。アンディーンの名を出せない代わりにこれで箔をつけさせてくれと。
「か、構わんが、ブルーノの指にはちょっと小さいんじゃないか?」
 どぎまぎしつつそう答えた。レイモンドはお構いなしにグローブを脱がせ、薬指にリングを通してきたけれど。
「…………」
 予想に違わず波の乙女をかたどったそれは第二関節でつっかえた。それでも槍兵は満足したようで、ルディアの左手を包む両手に優しい力をこめて囁く。
「なんか運命感じるよな。俺が最初にあんたにあげたの指輪だったの……」
 自分で言っていて照れたのかレイモンドは「いや、あげてはねーか! 買い取ってもらったんだっけか!」と真っ赤になって立ち上がった。
 二年前の情景が懐かしく思い返される。初めて自分の正体を知った日のこと。あれから色々あったけれど、彼は変わらずルディアの側にいてくれる。
「結局お前の給料を倍にしてやれなかったのだし、私も買い取れてはいないぞ。お前がくれて、私は受け取ったということにしておいてもいいだろう」
 指先を握り返してそう告げた。レイモンドは一瞬目を瞠り、感激した様子でルディアを広い胸に抱き寄せてくる。
「……本物贈るときはちゃんとぴったりのやつ作る……」
 ゆっくりと左手を持ち上げられ、不格好にはまった指輪ごと口づけられた。なされるがまま髪を撫でられ、背を撫でられ、じわり頬を熱くする。
(しまった。ちょっと喜ばせすぎた)
 先程の己の言動を反省する。毎回同じパターンだ。二人きりだといつもこうなる。陶酔した目に見つめられ、抱きしめられるのが嫌なわけではないけれど。
(うう、浮つきすぎじゃないか怖い……)
 断らなければ、忘れなければで悩むことはなくなったが、今のルディアには別の強固な悩みが生まれつつあった。普通に会話しているときはなんでもない。皆といるときもなんでもない。ただレイモンドと婚約者として過ごすときだけ異常に自信がなくなるのである。自分がどんどん馬鹿になっているような気がして。
 ユリシーズと付き合っていた頃、はたしてこんな風だったろうか? こんなに頭がふわふわしたり、くらくらしたり、身動きも取れないなんてことあっただろうか?
(どうして少し触られたくらいで動揺するんだ? いつまでたっても慣れないし、このままでは取り返しのつかない重大なミスをしそうな気がする……)
 体温を感じていると離れがたい。一分なんてもう数えてもいなかった。次が見つかれば返す身体だから抱擁以外に恋人らしいことなど一切していないが、その線引きがなかったら今頃どうなっていたかと思う。
(駄目だ。さすがに逸脱しすぎだ)
 心を奮い、ルディアはレイモンドを押し返した。「も、もう行くぞ」と耳まで赤いまま店に戻り、カウンターの片づけを始める。
「窓の鎧戸閉めてきゃいい?」
 返事も聞かずに施錠する男は上機嫌だった。彼はこちらが動じるほど「姫様待って、めちゃくちゃ可愛い」などとぬかして喜びがちである。何が可愛いだ馬鹿、と内心毒づきたくもなった。なけなしの理性を集めても十分な冷静さを保てずに、こちらは不安で仕方ないというのに。
「よーし、そんじゃ俺たちのガレー船を見にいこー!」
 手早く店じまいをするとレイモンドはルディアの手を引いて工房を後にした。書店の面する国民広場。明日はここが彼を見にくる人で溢れる。
(頼もしくなったなあ)
 猫背をやめた槍兵を見やって感嘆の息をついた。二年前は支払った給料分の信用しかしなかった相手とは思えない。
 二年後も、その二年後も、同じようにいてくれるだろうか。婚姻はどこまで未来を保証してくれるだろう。
(こいつは本当に私なんかでいいのかな。普通の人間とはあまりに違う生き物なのに)
 恋とは悩みを無限に増やすものらしい。考えすぎをやめるためにルディアは小さく首を振った。
 広場の人混みを縫って歩く。雑踏を行く人々の中には既に仮面を身につけた気の早い者もいた。
 久方ぶりの祭りを控え、群衆はどこかそわそわしている。だがそこには不信を煽るエセ預言者もいなければ大鐘楼の入口を封じる兵士もいなかった。塔が一つ崩壊しそうな事故の予兆もどこにもない。
 明日はきっと何事もなく終わるだろう。問題はその次である。印刷業と王国再独立派をどう結びつけていくか、そろそろ明確なビジョンを持って動きださなくては。
 機運は高まりつつあった。同時に人々の興奮も。
 精霊アンディーンに捧ぐ指輪の儀。明日また、そこから新しいアクアレイアを始めるのだ。


 ******


 海の上ではどうしようもないことが起きる。逆風をものともせずに漕ぎ進むガレー船でも嵐に櫂を折られてしまえば何もできない。
 穏やかに見える海域が冥府の入口となることもある。ゆったりとした潮流がそこに踏み込んだ帆船を巨岩の腹へいざなうのだ。海が凪ぎ、脱出できるだけの風が吹かねばその船は終わりである。船体は無残に砕かれ、荷も人も波間へ放り出されてしまう。
 海へ出るすべての者に祈る神が必要だ。加護と恩寵を一心にこいねがう存在が。
 波の乙女は偉大である。彼女はあらゆる水辺にいる。
 波の乙女は冷たく優しい。ある者は救い、ある者は救わない。
 初めて仕えることになった主君はそんな女神の化身だと謳われていた。

「どーしたのアルフレッド君? 浮かない顔しちゃってさあ」

 馴れ馴れしい呼びかけにアルフレッドは「いえ、別に。いつも通りですが」とジーアン語で返事する。帝国の食えない狐は疑わしげにこちらの顔をずいと覗き「ふうん、そう?」と立てた片膝に肘をついた。
「腹でも痛いのかと思っちゃった。ま、大丈夫ならいいや」
 いけない、いけない。ぼんやりしている場合ではない。気の抜けない状況で個人的思考に囚われていた己を叱り、アルフレッドは身を引き締め直す。今日相手にしなければならないのはいつもの女帝だけではないのだ。中身の知れぬラオタオに偽者の聖預言者、天帝の忠臣ファンスウも同じ舟にいるのだから、もっとしっかりしなければ。
 大運河の開けた河口で金塗りのゴンドラが揺れる。指輪争奪戦の様子がよく見えるように、また向かいの国民広場に集まった民衆が彼らをよく拝めるように、東方の重要人物を乗せた舟は税関岬の少し先に停泊していた。
 ここからは後々まで語られるだろう風景が一望できる。二年前の事件以来、基礎を広場に移した大鐘楼の麓には半裸どころか下着姿の参戦者たちがずらりと肩を並べていた。自家用ゴンドラを持つ者はもっと有利な水面でスタートを待ち構えている。殺気立つ彼らのすぐ後ろには海の女神が誰に微笑むか固唾を飲んで見守る人々が群れていた。
 信じがたいほどの人出である。王国が健在だった頃、いやそれ以上に祭りの空気が昂揚しているのがわかる。そしてこの場を作り上げたのはついに真価を発揮した幼馴染にほかならないのだった。
 ちくりと胸を刺す痛みを無視してアルフレッドは舟に目を戻す。ジーアンの蟲たちは水辺の祭事は初めてらしく、物珍しげに辺りを眺め回していた。傍らではユリシーズがアニークにレガッタの見どころを説明している。ゴンドラを漕ぐのが使い走りの海軍だからかラオタオは微塵の警戒心もなく皿の菓子などつまんでいた。
「おっ、船だ」
 と、狐が右舷に首を伸ばす。同時に広場のざわめきが「おお!」「来たぞ!」というどよめきに変わった。
「ほう。あれがレイモンド・オルブライトか」
 奥の座席に腰かけた老将ファンスウも興味深げに顔を上げる。アルフレッドは身が固まるのを感じつつ、なお無理やりにアクアレイア湾を振り返った。
 百足のような平べったい船影が映る。広場では楽の音が響きだしたがそれはすぐ大歓声に掻き消された。舞い踊る娘たちを愛でてやる者もいない。人々の関心は甲板で手を振る金髪の青年にのみ向けられている。

「活版印刷機が欲しいかー!」

 河口まで辿り着いたレイモンドの第一声には荘厳さもへったくれもなかった。しかし観衆からは割れんばかりの「おおー!」という絶叫が返される。

「ちょっと初期投資がいるけど大丈夫かー!?」

 この問いには軽く笑いが起きた。参加者の一人が「貰ってから考えるー!」と杜撰すぎる計画を叫ぶと今度はレイモンドのほうが吹き出す。「やっぱそうだよなー!」と幼馴染は快活すぎるほど快活に応じた。

「ほんとは資金潤沢なほうが向いてる商売なんだけどー! モノがなくっちゃ始まらねーよ! 工房持ちたい奴のことはなるべく援助してやるぞー! 後ろでニヤニヤ見てるお前ら、服脱ぐんなら今のうちだぜー!」

 どよめきが広場を駆け抜ける。今の言葉で「印刷機だけ手に入ってもな」と見物に回っていた者たちにも火がついたようだった。
「えっ!? 嘘!? 工房開く面倒まで見てもらえるの!?」
「職人の世話だけじゃなかったのか!?」
 そう言って複数の人間が慌てて仮面と衣装を投げる。一人駆けだせば残りの者も釣られて岸辺に押しかけた。最初から温まっていた広場は更に熱を持ち、早くも本日最高潮の一場面が出来上がる。
「よーし! そんじゃ準備はいいなー!?」
 アルフレッドはひたすらに眩しい幼馴染を見やって目を細めた。彼の側には目立ち過ぎぬよう一歩引いたルディアがいて、前へ出たそうなパーキンを無言で押さえつけている。
 今日のためにわざわざ新造したというガレー船は小ぶりだった。それは黄金で塗られてもいなければ美しい彫り物で飾られてもいない。けれどそこに立つレイモンドは間違いなくアクアレイアの新たなる王だった。人々の熱狂が、彼を見つめるルディアの目が、そうなのだと証拠づけている。
「俺たちの、アクアレイアの未来に幸多きことを!」
 懐から取り出した金の指輪に口づけるとレイモンドはそれを海に放り投げた。今までの「海への求婚」と同じく大鐘楼の五つ鐘がけたたましく打ち鳴らされ、ドボンドボンとあちこちから人が水中に飛び込んでいく。
「うわっ、波がこんなとこまで!」
 煽りを食らったゴンドラが大きく揺れてラオタオが船縁に掴まった。同じく体勢を崩したアニークが横から倒れ込んできたのをアルフレッドは嘆息とともに起き上がらせる。
「ご、ごめんなさい。ありがとう」
「いえ」
 ごく短い返事だけして河口のガレー船を見やった。指輪の沈んだ辺りでは人々がめちゃくちゃに揉み合っている。水底の泥が跳ね上げられ、一帯は黒く濁り、誰が栄光を掴んだのかもわからない。
 見失った指輪を探して人だかりはややばらけた。息をつぎ、水に潜りを繰り返して右往左往する老若男女。その中に一人、じわじわとガレー船に近づいていく者がある。水を掻くのに何故だか固い握り拳で、大事なものを離すまいとしているのが窺えた。
「取った! 取ったぞーッ!」
 喫水の浅いガレー船に這い上がると幸運を得た男は勝利の雄叫びを上げた。注目はすぐ彼に集まり、手中の指輪が確認される。
「おおお! 決まったな! 印刷機を手に入れたのはこいつだーッ!」
 レイモンドが英雄の腕を高々と持ち上げると盛大な拍手が巻き起こった。海に残された敗北者たちはぽかんと目を丸くして、終わったことを悟った者からがっくりとうなだれる。
「おめでとう! おめでとう! これから一緒に印刷業を盛り上げていこうな!」
「は、はい! ご指導よろしくお願いします!」
 ぺこぺこと頭を下げられる幼馴染にかつての立場の弱さは感じ取れなかった。蔑まれ、軽んじられる子供だったのは同じなのに、彼は望んだものすべて手に入れたのだ。富も、名誉も、人望も、クズではない父親も、切り分けることのできない愛も。
「さ、ほかの皆は岸に戻って残念賞受け取ってくれ! 泣くのは早いぞー!」
 レイモンドはまた傷心の者に対するフォローも忘れなかった。今までの彼がそうであったように、禍根を残さず実に鮮やかに幕を引く。
 岸辺では印刷工房の職人が参加者たちをねぎらっていた。びしょ濡れの彼らには一枚ずつ記念カードが手渡されているようだ。多分先日刷ると言っていた騎士物語の人物秘話が記されたものだろう。考えて売れば金になる、考えなくてもコレクターが全種類集めるために探してくれると言っていた。
 レイモンドの商才は本物だ。金とは切っても切り離せない人生だったから、種々様々な発想が次から次に湧いてくるのだ。称賛したい気持ちはある。だがその前にありありとつけられた差で気が沈んだ。
 ぼんやりしているときではない。わかっているのに記憶を辿るのをやめられない。
 いつも自分が先に立ち、彼はついてくるほうだった。いつも自分が彼を助け、彼は感謝するほうだった。もうそんな過去は薄っぺらな自尊心を守る役にさえ立たない。

 ――隊長はあなたに任せます。心ばえ正しく、立派な騎士になってください。

 初めて呼ばれた宮廷で、初めて間近に見上げた王女を思い出す。しなやかな美しさを持った人。彼女が剣に祝福をくれ、アルフレッドは騎士になった。
 嬉しくて、誇らしくて、なんでもできるような気がした。真摯であれば夢は叶うと信じられた。
 どうしたら取り戻せるのだろう。あの頃のまっすぐな気持ちを。誓っても、誓っても、同じ穴にまた滑り落ちる。
「ああ、レガッタに出場するゴンドラが移動を始めましたね。我々もそろそろ真珠橋に向かいましょうか」
 ユリシーズが顔を上げ、大運河の上流から一列になってやってくるゴンドラを振り返った。白銀の騎士の合図で舟はゆっくり動きだす。
 今日の勝者を乗せたガレー船も同じタイミングで国営造船所に戻り始めた。主君や友人と遠ざかってほっとした自分に苦笑する。
 誰が騎士と呼べるのだろうか。こんな風になってしまった人間を。


 ******


 清々しいほど頭に何も入ってこなくて笑ってしまう。レガッタがいつ始まり、いつ優勝チームが決まったのか、主催のくせに少しも見ていなかった。どうせ名ばかりの主催だし、アルフレッドが出ていないなら誰が一位になろうとどうでもいいけれど。
 アニークはちらと左隣に立つ赤髪の騎士を盗み見る。ルディアのことばかり気にかけて、今もうわの空の男を。
 十将たちをゴンドラに残し、アニークは二人の騎士と真珠橋に上がっていた。ここで花撒きに囲まれて入賞者に褒美をやるのが今日の仕事だ。露ほどの興味もないが、一応真面目に女帝らしい凛とした態度を保つ。何故ってあまり適当だとアルフレッドに嫌われるからだ。気を張らずともこれ以上嫌われるほうが難しいのではと思うほど彼には嫌われてしまっているが。
(本当に馬鹿みたい)
 アルフレッドはアニークの横にいることで「あの騎士は誰?」「偉い人かな?」と話題をさらっていることにまったく気づいていない様子だった。ガレー船にルディアの姿を見つけてから、遠い心が更に遠くなった気がする。誰のためにアニークがこんな祭りに出たかなど彼は少しも考えてくれそうにない。
(もういいわ。さっさとレーギア宮に帰りましょ……)
 ユリシーズが十位チームの代表に最後の銀行証書を渡すとアニークは「よくやりましたね。素晴らしい健闘でしたよ」と微笑んだ。実際には見てもいないレースだが、大運河を見下ろしても真っ暗にしか映らないのだから仕方ない。アニークの目に焼きつく色は赤だけだった。
「申し訳ありません、アニーク陛下。私はレガッタの後始末がありますので、宮殿にはアルフレッドとお戻りいただけますか?」
 と、最低限の役目を終えたアニークにユリシーズが詫びてくる。帰りは同行できないとは最初に聞いていた話だ。「わかっているわ」と頷いて赤髪の騎士を振り返った。
「……では参りましょうか」
 アルフレッドはさも気乗りしないと言いたげにエスコートの手を差し出してくる。その逞しい腕に指を添え、白い石橋を歩き出した。
(人の目があるときはちょっと譲歩してくれるのよね)
 なんとも憎らしい男だ。アニーク自身に構う価値はないと考えていることがありありと伝わってくる。それでも話しかけたいと、笑ってくれはしないかと希望を持ってしまう自分はもっとどうかと思うけれど。
 仮に今声をかけても素っ気なく返されるだけだろう。意味などない。彼には何も届かない。己ではなく「アニーク」の言葉でもなければ。
(片方のピアスに赤い花……か)
 彼女が騎士に贈ったもの。贈ろうとしたもの。どうしてそれを選んだのか、わかってしまうから嫌になる。胸の内にある願望は決して消えないものなのだと確信が深まるだけで。
「おつかれさーん、アニーク陛下!」
 物思いにふける間に短い散歩は終わりを迎えた。アニークたちはゴンドラの舫われた桟橋に戻ってくる。ラオタオやウェイシャンは思いのほかレガッタを楽しんだらしく「水上競馬って感じしなかった?」「いや、すごかった。すごく良いものでした」と興奮気味だった。ファンスウはそんな二人を物言いたげに睨んでいたが。
「すまない。レーギア宮へやってもらえるか」
 ゴンドラにアニークを座らせたアルフレッドがそう頼むと船尾の兵が冷めた双眸をちらりと動かす。是も否も告げずに彼はロープをまとめ、櫂の先で桟橋を押し、舟を岸から離れさせた。
 ゴンドラは大運河の片隅を滑っていく。向かいから落胆気味に漕いでくるのは負けでいいからゴールだけはしようという舟だろう。なんとも健気で思わず手など振ってしまう。アニークに気づいた彼らは複雑そうに頭を下げた。
 レガッタの参加者は三十チームや四十チームではなかったようだ。実に多くの哀れな小舟とすれ違う。中には宮殿に引き返すアニークを見て着岸し、そのまま解散してしまう者たちもいた。
(帰るのが早すぎたかしら。そりゃ私が逆走してきたらやる気も失くしちゃうわよね)
 ユリシーズはアニークがあまりにつまらなさそうにしていたから帰っていいと促してくれたのだろう。よく考えずに即決してしまったなと反省した。道理でアルフレッドがエスコートを渋ったわけだ。
(また失敗だわ。きっと今日も呆れられてる……)
 溜め息ももう出ない。何をやっても空回りすぎて。どうすればアルフレッドと普通に話せるようになるのだろう。それともそんな望みさえ己には許されていないのか。
 帰り着いた広場では大道芸が行われ、小さな露店がぽつぽつ出ていた。仮面の男女が手を取り合って楽しげに踊る。声を合わせて高らかに歌う。
 あんな風に素顔を隠して出会えたらどんなにいいかと羨ましかった。せめてこの女帝の身体を脱ぎ捨てることができたらと。明日死ぬかもしれないのに、どうしてもっと思うままに生きられないのだろう。
「女帝陛下がお通りだ! 道を開けろ!」
 貴族専用の桟橋にゴンドラが取りつくと周辺警備に当たっていた海軍兵士が広場の一部を一時通行止めにした。祭りの時間がいびつに凍りつく中を居心地悪く通り抜ける。
 門番がレーギア宮の門を開けた。中庭まで来るとラオタオたちが幕屋に戻り、アルフレッドと二人になった。
 騎士はずっとだんまりでアニークの部屋へ向かう。送り届けたらすぐに帰るに違いない。その展開はあまりにも簡単に推測できた。
 意外な客人に出くわしたのはそのときだ。控えの間の一隅で、ジーアン兵の奇異の目に見守られつつ、その老人は厚い紙束をめくっていた。曲がった背中がのたりと動く。鋭い眼光がアニークを捉える。
「今日は外が騒がしく、ちいとも進みませんでな」
 続きを持ってきましたよ、としわがれた声が言った。先日出版した分の続きに当たる章でございます、と。
「ま、まあ! あの続き!?」
 パディの差し出してきた原稿を受け取ってアニークは手を震わせた。なんという僥倖だろう。今ここで彼が新しいお話を携えてきてくれるなんて。
 これは今度こそチャンスかもしれない。騎士物語の作者を交えての会話ならアルフレッドもその気になってくれるかも。
「ありがとう、じっくり読ませていただくわ。でも、あの、その前にちょっとお伺いしていいかしら?」
 アニークは急ぎ寝所のドアを開かせ、パディとアルフレッドを中へ促した。客人の手前、渋々ながら騎士も室内に足を踏み入れる。「座ってね」と勧めてもパディが着席を固辞するので三人とも突っ立ったままだったが。
「何をお尋ねになりたいのです? アニーク陛下」
 帰りたそうにちらちらと後ろのドアを振り向きながら老人が問う。ひとまず預かった原稿を書見台に置き、アニークは答えた。
「あの、作者のあなたが一番重要だと思っている人物は誰かしら? やっぱり主人公のユスティティア? それともプリンセス・グローリア?」
 これはパディには想定外の質問であったらしい。老人はきょとんと目を丸くして「重要だと思っている人物?」と尋ね返してくる。
「そう、物語の鍵となる人物よ。この人がいなければお話が成り立たないっていう、そんな重要な人物」
 口にしたのは咄嗟の思いつきである。だがアルフレッドがぴくりと耳を跳ねさせたのをアニークは見逃さなかった。
 感想を語り合う同志なら自分のほかにもいるだろう。しかし原作者の言葉が聞けるのはアニークのもとでだけだ。これは行けると秘かに拳を握りしめる。
「お話が成り立たない……?」
 が、世の中はそれほど甘くできてはいないらしい。くつくつとおかしそうに笑いだしたパディが「酷なことをお聞きなさる!」と吠えた瞬間、アニークの目論見は崩れ去った。
「酷なことを……! まったくもって酷なことを……!」
 病的に同じ言葉が繰り返される。パディはうつむき、痩せた肩を痙攣させ、しばらくずっと白い頭を掻いていた。おそるおそる腕を伸ばしたアルフレッドが「あの」と声をかけると弾かれたように顔を上げ、忌々しげに舌打ちする。

「サー・トレランティアでございますよ。私を突き動かしているのは」

 もういいでしょうと毒のある声で告げ、老人は身を翻した。止める間もなく彼は出ていく。よろよろと杖にすがって。
 パタンと扉が閉じた後もアニークは動けなかった。アルフレッドも同じくだ。それほどにパディの豹変ぶりが衝撃だった。仕事狂いだが温厚な人物と思っていたのに。
 ただし今日に限っては、困惑もそう悪いものではなかったのかもしれない。形はどうあれアニークはやっと騎士と話をする機会を得られたのだから。


 ******


「び、びっくりしたわね」
 まだどこか肝を冷やした様子で女帝は言った。どう収拾をつけるつもりだと書見台の傍らに立つアニークを見やり、アルフレッドは顔をしかめる。まさかああいう難のある人だったとは己も思わなかったけれど、余計な刺激を与えたのはアニークだ。相手が相手だし、彼女がパディになんと詫びるのか聞かないうちはこの部屋を出られなかった。
「落ち着いた頃に訪ねてみて、大丈夫か聞いてみるわ」
「…………」
 今一つ信頼できない発言にアルフレッドは眉間のしわを深くする。アニークのことだ。火に油を注いで続編発行の話ごと白紙にしないか不安だった。自分から来訪するという点についても疑問が残る。嫌なことは後回しにする性格のくせに、行くと言って本当に行くのだろうか。今はまだ時期が悪いとぐずぐずして結局うやむやになるのではないか。
「謝罪の言葉は思いついているんですか?」
「えっ……いえ、それはその場で様子を見ながらかしらって」
 考えなしも考えなしの反応に呆れてしまう。つい強く「また同じように機嫌を損ねたらどうなさるおつもりです?」と問い詰めた。
「えっと……。そ、そうね。誰かについてきてもらうわ。私一人だと不安だし……」
 ウァーリとか、と場慣れしていて人当たりも良さそうな将の名が挙げられる。彼女にしては真っ当な人選だ。これならまあ、とアルフレッドは「状況をよく説明してくださいね」と念押しするに留めた。
 はあ、と大きく嘆息する。もう行こう。ここにいたって疲れるだけだ。そう断じ、別れの挨拶を述べようとする。だがアルフレッドが何か口にするよりもアニークの喋りだすほうが早かった。
「それにしてもパディのお気に入りも私たちと同じサー・トレランティアとは思わなかったわね。続編で急に出番が増えたから気になっていたのだけれど、やっぱり彼の身に何か起こるのかしら?」
 様々な意味で理解に苦しむ台詞を聞いた気がしてしばらく思考が停止する。いやいやとアルフレッドは頬を引きつらせた。
 老人の口ぶりはお気に入りなんて毛色のものだったろうか。トレランティアについて語られる文章はいつも憧れに満ちているから作者にとって特別なのは確かだが、さっきのはそうなごやかな回答でなかったように感じるが。
 それに「私たちと同じ」とはなんだ。情熱に優劣をつけるなどおこがましい行為だけれど、彼女にだけは同列に語って欲しくない。あのひそやかな天帝宮でセドクティオこそ一番だとはしゃいでいたのと同じ口で。
 言いたいことは色々あったが喉奥にぐっと飲み込んだ。アルフレッドは一つだけ、話を打ち切るためだけに言葉を選ぶ。
「語り合いならほかの者としてくださいと申し上げたはずですが」
 応じる気はないと吐き捨てた。踵を返し、そのまま立ち去ろうとする。だが後ろから必死な声に呼び止められた。
「私はあなたと話したいのよ、アルフレッド!」
 アニークは哀切に訴えた。この間のことは謝る、できるだけ気に障らぬよう努力する、だからここにいてくれと。そのすべてがわずらわしく、厚かましいとしか思えず、冷たく突き放す以外なくなる。
「俺があなたと話したくないんです。どうしてもご自分の都合を押しつけたいならそうせよとお命じになられたらいかがですか?」
 権力を振りかざして脅せばいい。言外にそう伝えた。彼女ほど高位の人間であれば簡単なはずだ。防衛隊に粗相を働かれたと言って責任を負わせるだけでいくらでもこちらの行動を操れる。やり方を変えればいいのだ。善意や好意の力に頼るのをやめて。
「そんな命令、あなたにできるわけないじゃない……!」
 返された声は震えていた。アニークの黒い双眸には薄い水膜が張っていた。彼女はぎゅっと胸を押さえ、受けた侮辱に耐えている。
 そこまで非道になれる女だと思うの。涙を溜めた黒い瞳がアルフレッドに音もなく問いかけた。少し言い過ぎたかもしれない。アニークを前にしていると自分はどうも攻撃的になるらしいから。
 ユリシーズの言うように自分は彼女をいたぶっているのだろうか? そんなつもりはないけれど、次々湧いてくる暗い感情に戸惑う。
 棘のある言葉で傷つけて、泣くまで責めて。そうやって報復した気になっているのか。救えなかったあの人の。
「……っ」
 涙を堪えるアニークは「自分のお姫様なら許すの」とアルフレッドを責めたときと同じ顔をしていた。ルディアには意地悪なこと言わないくせに。彼女がそう憤っているのがわかる。
 だが実際にアニークの口をついたのはアルフレッドには思いもよらない言葉だった。しとどに頬を湿らせて、もう耐えがたいと叫ぶように彼女が尋ねる。
「あなたは『アニーク』が嫌いなの……?」
 問いの意味が最初はよくわからなかった。それがどちらのアニークを指しているのか。
 わからなかったのでアルフレッドはいくらか慎重に答えた。間違っても亡き皇女を貶めることのないように。
「アニーク姫のことでしたら親しみを感じておりました。ですがあなたは……」
「私だって『アニーク』よ! どうしてそれがわからないの?」
 女帝は書見台を離れ、ふらふらこちらに近づいてくる。何を言いだすのかと思えばとアルフレッドは大仰に溜め息をついた。
「姫が一番お好きだった騎士はサー・セドクティオです。それだけでもあなたとは違うとはっきりわかるのに、一体何が同じなんです?」
 戯言に付き合っているほど暇ではない。踵を返し、アルフレッドはアニークに背を向けた。彼女はなお別れの口上を述べさせてくれなかったが。
「トレランティアを好きになったのはあなたに似ているからじゃない……!」
 後ろから腕を掴まれ、思わず強く振り払う。よろめき一歩退いたアニークは手酷い拒絶に目を見開いた。
 零れ落ちる大粒の涙。それは流星のごとくきらめく。

「蟲は最初の宿主が強く残した思いを核に人格を作るのよ……」

 ぽつりと彼女が呟いた。溺れる者が最後の息を吐きだすような弱々しさで。
 初めて耳にした話にアルフレッドは瞠目する。けれどまだ瞠目以上のことは何もできなかった。
「あなたのこと知れば知るほど『そうだったのね』って思ったわ。『アニーク』はあなたを好きだったんだって。私の中の絶対に捨てられないところに彼女の気持ちが残っているのにどうしてあなたは私を別人だなんて言うの? あなたに否定されたら私は――『アニーク』はどうしたらいいの?」
 そこまで告げるとアニークは顔を覆って泣き崩れる。膝をつき、さめざめと。呆然とするアルフレッドの傍らで。
 彼女になんと言われたのか、とてもすぐには飲み込めなかった。とてもすぐには。
「…………」
 アニークはもう涙するのみである。長い時間、アルフレッドはその場に立ち尽くしていた。


 ******


「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 通りすがる人々がぺこぺこ頭を下げていく。
「ごきげんよう、シルヴィア様」
 仮面姿の人々が祭りの後の小さな宴を楽しむ広場をグレースは素顔のままで擦り抜けた。肘には大きなバスケット二つ。中からほんのり甘い香りが漂っている。
 レーギア宮の正面では「兄」が警備の海軍兵士らの再配置を指示していた。レガッタの片付けが終わったので次の仕事を始めたのだ。その男臭い輪の中にグレースはひょいと潜り込んだ。
「お兄様、お疲れ様ですわ。朝からずっとでお腹が空いていらっしゃるのではなくて? 私、療養院の皆さんとこしらえたお菓子など持ってまいったのですけれど」
 お一ついかがとパイの一切れを示せばユリシーズは一瞬白けた目を向けて、それからすぐに本物の妹にするように「ありがとう、助かるよ」と微笑んだ。彼もまた姑息であることを厭わない男である。リリエンソール家の仲の良さ、民に愛される家族像を演出するためだけに白銀の騎士はグレースを褒めた。
「さすが私の妹だ。これから夜通し働くお前たちの分まで差し入れを用意してくれたらしいぞ」
「えっ」
「我々もいただいて良いのですか!?」
「シルヴィア様の手作りパイを!?」
「もちろんですわ。そのためにたくさん作ってきたんですもの」
 若い娘の可憐さを存分に振りまきながらグレースは籠を差し出す。二つとも奪い合うように持っていかれ、ぺろりと平らげられてしまった。
 兵士たちは誰も彼も満足そうだ。「いや、夜勤もたまにはいいことがありますね」と人畜無害な顔で彼らは笑い合った。
「ありがとな、シルヴィア。美味かったぜ」
「お気に召したなら何よりです、レドリー様」
 ほかの者よりも馴れ馴れしく礼を告げてくる赤髪の男にグレースは愛想良く笑いかけてやる。ユリシーズの幼馴染で時々家に来るというだけでリードした気になっている彼に「こいつはシンプルに阿呆だね」と腹の中で毒づいた。
 だが考える頭のない人間ほど単純な裏工作には利用しやすい。不自然な運びにならないように気をつけながらグレースは「皆さんに喜んでいただけて本当に良かった。明日療養院で今の様子を伝えてあげれば患者たちも少しは元気になるでしょう」と会話を誘導した。
「あれっ? 記憶喪失病の患者って身体はピンピンしてんじゃなかった?」
 狙い通りに獲物は針にかかってくれる。「ええ……、実はそれが」といくらか言葉を濁しつつグレースはレドリーに答えた。
「あの療養院から三十名、小間使いとしてドナに送り出さなければならなくて。皆怯えておりますの。防衛隊に無理やり連れて行かれるのは自分になるんじゃないかって」
「え!? 防衛隊!?」
 十数名はいる兵士たちが一斉にざわめいたのを見てグレースはほくそ笑む。「どこかからそういう任務を請け負ってきたようでして……」とぼやけば彼らは勝手に部隊のメンバーは誰だったか考え始めた。
「防衛隊って、確か五人くらいのルディア姫直属部隊だったよな?」
「レイモンドとか、今日アニーク陛下の護衛やってたあいつとかそうじゃないか?」
 これであとは放っておけば大衆の耳に入るだろう。名や顔は知られてからのほうが汚しやすいのだ。嘘もそれが一部だけなら露見しにくい。噂が広まる頃にはもう潔癖を証明するのは難しくなっているだろう。
(金持ちの悪口は庶民の大好物だからねえ)
 この程度の横槍では印刷業の勢いを減じることは不可能かもしれない。だが少なくともレイモンド・オルブライトを完璧な成功者のまま君臨させることはなくなるはずだ。
「お前たち、そろそろ交代の時間になるぞ。口ばかり動かしていないで持ち場へ向かえ!」
 と、ユリシーズが神妙に囁き合う兵士たちを散らした。もう少し実が熟してからもげばいいものを、ここぞの場面でせっかちな男である。
 まあいい。今日やるべきことは果たした。あとは明日、防衛隊の名でドナに送る三十名を通達するのみである。
「お兄様、お仕事頑張ってくださいましね。私は先に家に帰っておりますわ」
 グレースはにこりと笑って手を振った。空になったバスケットを肘にかけ、悠々と来た道を引き返す。
 アクアレイアが帝国自由都市として完全な自治権を獲得するには王国再独立派など存在してはならなかった。連中を闇に葬り、リリエンソール家がこの街の真の支配者となったとき、ユリシーズごとその権力を我が物としてやろう。栄光の日が訪れるまではパイ焼きでも小僧の相手でもしてやる。
「ごきげんよう」
 グレースはにこやかに国民広場を通り抜けた。そこらの者よりよほど分厚い仮面をつけて。









(20181207)