頭が痛い。激しく痛い。こめかみに太い釘でも打たれたようだ。少しの振動でも頭部全体に響くので、アルフレッドは極力首を振らないように静かに壁にもたれていた。全身に冷水を浴びてきたし、酒の臭いは消せたと思うが、この強烈な二日酔いだけはいかんともしがたい。
 原因が昨夜の深酒にあることは明らかだった。一部記憶が飛んでいて、己が何を喋ったかはっきり覚えていないことも苦痛に拍車をかけている。個人的な思い煩いに関してはともかく、秘しておくべき主君や仲間の事情までうっかり漏らしてはいないはずだが。
「おーい姫様、朝ご飯できてるよー!」
 ブルータス整髪店にはいつもの通りいつもの面々が集っていた。泊まり込み当番だった妹は兄の朝帰りなど露知らず、肩にブルーノを乗せたアイリーンとパンやスープを並べている。
 呼ばれて居間に現れたルディアは珍しく寝不足とわかる顔をしていた。目元には薄くクマができ、頭もどこか重たげで、身支度は整っているがしゃっきりとはしていない。
 彼女は壁際のアルフレッドに気がつくと「昨日はすまなかったな」と詫びてきた。謝罪から読み取れるものは何もない。あれから二人がどうなったのか、予測させてくれるような何かは。それで却って余計なことを尋ねてしまう。
「込み入った話とやらは大丈夫だったのか?」
「あ、ああ」
 ルディアは気まずげに目を逸らし、追及を逃れるように食卓に着いた。パンをかじりだされては邪魔になるかと何も聞けない。聞けば聞いたで平静を失うくせに、なんて馬鹿げた問いだろう。
「ちょっとまだ色々説明しにくくてな……。心配をかけてすまない」
 背中に張りつく視線を気にして彼女はアルフレッドを振り返った。思案深げな眼差しに頭痛も忘れて首を振る。
「いや、いいんだ」
 何が「いいんだ」なのかは自分でもわかっていなかった。ただ彼女が黙してやり過ごすのではなくて打ち明ける意思を見せてくれたことにわずか安堵する。どんなにレイモンドの比重が増しても軽視されてはいないのだと。
 己もさっさと釈明せねばならなかった。ユリシーズに誘われて夜通し二人で飲んでいたこと。
(大丈夫。ちゃんと弁解できるはずだ)
 結果的には言いにくいほど打ち解けた場になってしまったが、ついていったそもそもの理由は彼が主君の正体に勘付いていたからである。そこさえ話せばルディアも納得してくれるだろう。
「姫様、あの……」
 パタパタと騒がしい足音が近づいてきたのはそのときだった。何を言う暇もなく居間の木扉が開け放たれ、「おっはよー! みんなー!」と底抜けに明るい声がこだまする。
「おはよー、レイモンド」
「ウニャアー」
「あらあら、朝から元気だことねえ」
 テーブルを囲むモモたちがやって来た幼馴染に挨拶を返した。レイモンドは今日も装い華やかで、湿気漂う食堂が生家とは思えぬ貴公子ぶりである。
「アル、おはよ! 姫様も!」
「あ、ああ。おはよう」
 反応がやや遅れたのは、懐に仕舞い込んだ騎士物語を開いてもいないことを思い出したからだった。感想を求められたらなんと言おうと構えるが、幼馴染はアルフレッドを通り越して一直線に主君のもとへ駆けていく。
「へへ、昨日はぐっすり眠れた?」
「……普通だ。別に、いつも通りだよ」
 椅子の背もたれに肘をついて顔を寄せるレイモンドに対し、ルディアの返事は淡白だった。だが彼を見て泳いだ目は、伏せられた顔に差す薄紅は、一つの事実をまざまざと物語っていた。即ち二人の間には、彼らを別つ悲しみの類はもたらされなかったという事実を。
 アルフレッドは我知らず息を飲む。その音を掻き消すように「聞いたわよ」とアイリーンがレイモンドに笑いかけた。
「手書きの護符で大儲けしたんですって? 水路の保全工事もレイモンド君が全面的に請け負ったとか」
「おお、そうそう。だけどまだまだこれからだぜ! アクアレイアを立て直すためにもっともっと稼ぐからな!」
 拳を握って幼馴染は力強く誓う。アニークに商談一つ持ちかけられない己が途端に無能に思えてきてアルフレッドは黙り込んだ。
 早く主君にユリシーズの件を伝えなければならないのに、とてもじゃないが言い出せない。今ここで、レイモンドの前で、失敗したかもしれないとは。
(俺は馬鹿か? 酔っ払って口を滑らせた可能性があるのに、体面を気にしている場合か?)
 内心で自分を責めても舌はもつれたままだった。皆の関心は久々に合流した仲間のほうへ向けられていて、アルフレッドの沈黙には気づく者もない。
「こっちの話はもう聞いたの?」
 モモが尋ねるとレイモンドが頷いた。幼馴染曰く「まあ大体、昨日のうちに姫様から」らしい。
「今日はパーキンと新しい工房に機材入れて挨拶回りする予定だし、自分の目でも街の現状確かめるよ。でなきゃ雰囲気掴めねーしな」
 面倒臭い、給金は出るのかとぼやいていた頃が嘘のように友人は勤勉だった。既にコーストフォート市で印刷事業を成功させただけあって語り口も頼もしい。レイモンドには実績があるのだった。揺るぎがたい実績が。
「モモ、ブルーノ、アイリーン。私も二、三日レイモンドのほうに付き添うが構わないか?」
 と、ルディアが向かい合って食事を取る療養院組に尋ねた。「えっ! 姫様も来てくれんの?」と幼馴染は嬉しそうだ。
「アクアレイアが生まれ変われるかどうか、最初が肝心だからな。押しつけてすまないがモモたちは製本作業の残りを頼む」
 当たり前の指示なのに、傷ついている己を自覚してアルフレッドはかぶりを振った。頭の芯がずきずき痛む。堪えきれずにこめかみを引っ掻いた。
(新事業が行動の中心に据えられるのはわかっていたことじゃないか。姫様はずっとアクアレイア固有の産業を求めてきたんだから)
 わかっている。わかっているのに飲み込みきれない。理屈を無視する暴悪な力が働いて。
「うん、わかった。なるべく早く終わらせてモモたちもそっち手伝えるように頑張るよ!」
 モモのガッツポーズにルディアが「任せたぞ」と頷いた。間を置かず「あ、そうだ」とレイモンドが問いを重ねる。
「モモ、昨日頼んだお客さんってどこのホテルに案内してくれた?」
「『真珠館アリアドネ』だよー」
 国民広場にでんと構える高級ホテルの名を耳にして友人は財布を取り出す。「ありがとな、助かったぜ。言い値でいいぞ」と礼を述べる彼に「マジ?」と引きつつモモは銀貨を受け取った。
「そんだけでいいの?」
「レイモンドから貰いすぎるの気持ち悪いもん。一枚でいいって」
「気持ち悪いー!? 労働に対する正当な対価だぞー!?」
 そんなやり取りの間にルディアはスープを飲み干して座席から立ち上がる。後片付けをアイリーンに頼むと主君は「行こう」とレイモンドの袖を引っ張り、外階段に歩き出した。
「あ……」
 呼び止めようとして声が詰まる。どう話せばいいのだろう。なんと伝えれば誤解されずに済むだろう。昨夜はずっとユリシーズにあなたのことで励ましてもらっていたなんて。
「あっ、そうだ。アルにも言っとくことあるんだった」
 居間のドアを引く直前、幼馴染が振り返る。
「昼過ぎにレーギア宮にビッグゲストを連れてくからさ、女帝陛下によろしく言っといてくんねー?」
 お前もきっと驚くぞ、と屈託なく彼は笑った。なんの惑いも疑いもない顔で。
 自分も同じように笑えていたかはわからない。わからないまま「わかった」とだけは返したが。
 ややもせず二人は街へ出ていった。言いそびれた分余計に報告しづらくなると気づいたのは随分経ってからだった。


 ******


 自国人を相手にするのではないからか、ある程度外国人の出入りが回復して以来、宿泊系の商売は多少持ち直したようである。大鐘楼を間近に仰ぐ一等地に離宮のような顔で立つ老舗ホテルを前にしてルディアは腕を組み直した。
 レイモンドが連れてきた客は少々気難しいらしく、外で待っていてくれないかと頼まれた。行き交う東方商人や西方商人の数を数えて未来に思い馳せるのにも飽きた頃、装飾過多な大扉が開かれる。
「よっすブルーノ、久しぶり!」
 手を上げてウィンクするのは世紀の風雲児、パーキン・ゴールドワーカーであった。レイモンドと同程度に金は持っているだろうに、彼の服装は半年前と変わりない。「アクアレイアへようこそ」と歓迎の意を示しつつ、この男だけはしっかり縄にくくりつけておかなくてはなと肝に銘じる。
 もう一人の客人はどこにも姿が見えなかった。金細工師――否、印刷技師と連れ立って階段を下りてきたレイモンドが「宮殿に出向くのはいいが、昼までは部屋にこもって仕事の続きをさせてもらうってさ」と説明してくれる。
「っとに働き者の爺さんだよな。ありゃ絶対なんかに憑りつかれてるぞ」
「けどそんくらい没頭してくれるほうがこっちとしても安心じゃん? あんたと違って借金も作らねーし」
 なんだと、とパーキンがレイモンドに拳を当てる振りをした。笑ってかわす槍兵はすっかり打ち解け合った様子だ。
 パーキンの言う「働き者の爺さん」がどういう来歴の何者なのか、道すがらレイモンドに教わったルディアは呆けるしかなかった。何をどうしたらそんな人物と繋がりを持てるのかまったく不思議で仕方ない。これほどビッグゲストの名に相応しいビッグゲストはいなかった。アクアレイアのこの先を考えればなおのこと。
「私も早めに挨拶しておきたかったんだが、仕方ないな」
「ま、とりあえず新天地に向かおうぜ。アクアレイア初の印刷工房だ!」
 レイモンドは浮かれた足取りで歩き出す。工房予定地は同じ広場の入口付近にあるそうで、徒歩で数分の距離だった。が、しかし、人混みを行く目ざとい自国人らに見つかって「レイモンドじゃねえか!」と呼び止められる。
「おい、聞いたぞ。昨日は凱旋だったんだって?」
「商売始めたって一体なんの商売だよ!」
「儲かってんだろ? 俺たちにも商談のチャンス回してくれよ! なっ?」
 わらわらと人は増え、あれよと言う間に三重もの壁ができた。取り囲まれて擦り寄られてもレイモンドは嫌な顔一つ見せず「明日にも開店するからどんな商売か楽しみにしててよ」と返す。「そういや俺、確かお前に五千ウェルスほど貸してたよな?」などという厚かましい冗談にも彼はにこにこ変わらぬ笑顔で対応した。
「バーカ。何言ってんだ、借りてねーっつの。あんたどんだけ頼んでも貸してくれたことなかったろ?」
「へへへ、駄目かあ。よく覚えてらあ」
「当たり前だ。俺はこのアクアレイアじゃブラッドリー・ウォードさんにしか借金したことないんだからな!」
 槍兵の台詞にルディアは秘かに顔をしかめる。そこにははっきり、群がってくる連中に対する牽制が見て取れた。成功者の周辺には汚らしい蠅まで飛んでくるものだ。今のはおそらく、適当なでっち上げで小銭をちょろまかすことはできないぞと釘を刺したのだろう。
「へえ、借金はたった一回きり? レイモンド、お前案外堅実にやってたんだなあ」
 目論見の失敗した男が気まずげに引き下がる。ほかの者もお裾分けの期待は持たぬが無難と断じたか、やや腰が引け気味になった。
 残ったのは真面目に商いについて知ろうとする者と、更に厚顔な者である。「気になって眠れねえからヒント頼む! ほんとになんの商売なんだ!?」と迫る商人たちを押しのけ、その男はしゃあしゃあと言い放った。
「貧乏人の救済は金持ちの義務だろう? なあ、実入りがなくて困ってんだ。あんな船団持ってんだから十ウェルス、いや五ウェルスで構わないから恵んでくれよ」
 群れの中から手を突き出した痩せぎすの男に最初に反応したのはパーキンだ。
「おおー、ご高説だねえ!」
 称賛とも厭味ともつかぬ口ぶりで印刷技師は手を叩いた。それを横から目で制し、レイモンドが一歩前へ出る。サイズの合わない古着をまとった中年男は「少額の要求で、嘘もないので施してもらえる」と信じきった表情でまだ水をすくうような両手を正面に持ち上げていた。
「悪ィけどさ、そういうのって一人やりだすと皆やりだしてキリねーから」
 レイモンドはきっぱりと――冷淡なほどきっぱりと拒絶する。それは正しい判断だったが、同時に誤りでもあった。大勢の愚か者に囲まれたこの場では、どんな文句が返ってくるかあまりに明白だったから。
「……っ! あんた五ウェルスぽっちをけちるのか!? ハッ! さすがもと貧乏人だな! 金の価値がわかってらあ!」
 施しを受けられる算段でいた男は悪しざまに槍兵を罵る。人垣をなしていた群衆もまたざわめいた。なんだ貴族の真似事は見た目だけのことだったかと。が、彼らの落胆に対してレイモンドは意外な反論をしてみせる。
「ケチってはねーよ。次々に十ウェルスや五ウェルス欲しいって来られても、いちいち仕事の手止めてらんねーっつってんの。昨日救貧院に大口の寄付したから、今日食うものにも困ってんならそっち頼ってくれないか? 俺の寄付金で収容人数や援助の種類増やせそうっつってたし」
 そう聞くや否や、人だかりから何人かが駆け出した。直接レイモンドに金の無心をしてきた中年男も「あっ! 待てよ!」と大慌てで後を追う。
 上手いあしらいにルディアはほうと感嘆した。槍兵は貧民に大金を見せたらどうなるか想定済みだったようで、「義務ならちゃんと果たしてるのにケチとか言うのやめてほしいぜ」とにこやかに肩をすくめている。
「なあレイモンド、いつまでこんなとこで油売ってるつもりだ? 早く俺らの新事業に取りかかろうぜ!」
 と、人壁に穴ができた隙に輪を抜け出していたパーキンが声を張った。痺れを切らして足踏みする印刷技師に槍兵が大きく頷く。
「つーことで、開店準備で忙しいからこの辺で! 皆、良かったらまた明日、このくらいの時間に広場に来てくれよ!」
 解散を促され、人々は雑踏に散っていった。石造りの立派な建物が立ち並ぶ国民広場をルディアたちは再び歩き出す。
「寄付なんていつ行ったんだ?」
 純粋に疑問で問いかけた。昨日は二人で宵の口まで一緒にいたのに。
「夜に家帰ったらさ、十人委員会のお偉いさんが来てたんだよ。あのニコラスって爺さんが。そんで些末な問題に手を煩わされたくなければ今すぐ救貧院に金を入れるのをお勧めするって言われて」
「ニコラスが?」
 あの大老の訪問を受けるとは、レイモンドに向けられた注目は本物らしい。喜ばしく思う一方、己の不出来を思い返して反省した。そのくらいの助言なら自分にだってできたのに、昨日はまったく頭が回っていなかったなと。
「そう。まあ本題は全然別のことだったんだけどさ。印刷工房をどこに作るか決めてあるのかって聞かれて、もしまだなら購入してほしい物件があるんだがって」
 それがあれ、と槍兵は四階建ての石造建築を指さした。精霊の舞い踊る壮麗なファサードが広場の風景に芸術的価値を加える一軒を。
「真珠橋か国民広場で悩んでたけど、いい立地だし即決した! ここなら絶対目立つしな!」
 白壁に埋め込まれた豪華絢爛の列柱にパーキンが「おおお!」と唸る。昨夜のうちに鍵は受け取り済みだったようで、レイモンドは数段の階段を上がると重たげなブロンズ製の扉を開いた。
「うおおおー! 広いしなかなか綺麗じゃねえか!」
 きゃっきゃと印刷技師がはしゃぐ。空っぽの屋内には壁を飾る控えめな彫刻と手の込んだ窓枠が残るだけで、あとは格調高い大理石の床が広がっていた。奥部屋に階段を見つけ、レイモンドを先頭に二階、三階、四階と見て回る。
「予定通り一階は店舗だな。二階に印刷機入れて、三階は徒弟住ませて、四階は俺様がいただく!」
「うわ、あんたワンフロア占領する気かよ」
 俺が買ったんだぞと槍兵が噛みつくとパーキンはワッハッハと笑い飛ばした。二人とも勝利を確信しているからか「三号店はお前の好きにすればどうだ?」と気の早い話をする。
「本はいいよな。話し言葉は北パトリアとアクアレイアでも食い違うところがあるが、正式な書き言葉はみーんな同じ古パトリア語だ。東パトリアの奴らでさえ西パトリアの本が読める! 国ごとに刷り直す手間なぞありゃしない!」
「そのうち出してもいいとは思ってるけどな、話し言葉で書かれた本も。ま、しばらく先の話にはなるか」
 何はともあれこの書店付き工房を軌道に乗せるのが先決だ、と経営者たちの意見は一致した。早速商港に留めている印刷機やその他の荷物を運び入れようと彼らは我先に走り出す。階段を下る二人の背中を追いかけながらルディアは静かに口角を上げた。
 栄光は約束されたも同然だ。どんな値段で吹っかけたって騎士物語は売れるだろう。何故なら彼らが持ち帰ってきたその本には、誰も知らない「続き」がついているのだから。


 ******


 ぱらりとページを捲る音が響いた後、寝所には再び静寂が訪れる。騎士物語を読み込む女帝の目は真剣だ。彼女は書見台に張りつき、一度も顔を上げようとしない。
 少し離れたソファからアルフレッドはそんなアニークを一瞥した。昨日街に帰ってきた話題の男が印刷工房を開く予定で、機械で刷られた騎士物語の一冊がこの懐にあると知ると、彼女は早くも「読んでみたい」と言い出したのだ。
 逆らえる立場ではないのでレイモンドのくれた本は一時的に召し上げられていた。初めの数ページに目を通し、「これって随分編集されているのね。大筋に関係ない話は載っていないみたい」と呟いたきり女帝はずっと無言である。
 内容が省かれていても面白いのは面白いらしく、アニークの表情には静かな興奮が見て取れた。ときに微笑み、ときに震え、夢中になって彼女はページを繰っていく。
「……しばらくゆっくりできそうだな」
 と、右隣に腰かけた白銀の騎士にひそひそ声で話しかけられた。今日も今日とて「通訳」を務めてくれたユリシーズの面差しは、昨日までのそれに比べて柔和である。
「ああ、そうだな。頭痛も引かないし助かるよ」
 答えながらアルフレッドは妙な気まずさを覚えた。昨夜はそう、なんというか、互いに醜態を見せ合ってしまったので目を見て話すのが困難だった。己は己で情けなく何度も落涙してしまうし、ユリシーズはユリシーズでもらい泣きにハンカチを湿らせて。
「酷い話だ。お前は少しも悪くないぞ。一生懸命やっているお前に気づかないあの女が悪いんだ」――そう言ってもらってほっとしたのを覚えている。ほっとしたから気まずさが拭いきれないのだとも思うが。
「あー……お前、昼過ぎにレイモンドたちが宮廷に来ると言っていたが、私のことはもう話したのか?」
 ユリシーズは切り出しにくそうに掌で口元を覆って尋ねてきた。その問いにうっと喉を詰まらせる。しかしどうにか「いや、その、まだ何も」と答えると彼はびっくりして肩を跳ねさせた。
「は? な、何故だ?」
「け、今朝はちょっとバタバタしていて言いそびれた。それだけだ」
 主君の正体を知られたことは必ず仲間に伝えると、言葉にはせず目で語る。ユリシーズは瞠目したままじっとこちらを見つめ返した。それから彼は何やら口をもごもごさせ、小さく声を掠れさせる。
「……まあ、なんだ、話したらひと言もらえるか。知らずにまたお前を飲みに連れ出そうとしたら、私が馬鹿みたいだからな」
 言われて初めてアルフレッドは気がついた。ルディアにこの報告を終えればああいった時間は持てないのだということに。当然だ。ユリシーズはただの敵とは違うのだ。ルディアの騎士である自分が私的な付き合いをしていいはずがない。
「ああ、わかった」
 戸惑いながらアルフレッドは頷いた。次の機会を望む程度にはユリシーズも昨日は楽しかったらしい。そういえば「人前で泣くなんて子供のとき以来だ」と照れくさそうに鼻を掻いていた。最後のほうは笑い方までどこか幼くなっていて。
 そうか、あれは本来有り得ない偶然の産物だったか。二度目があるとは微塵も思っていなかったが、二度とないとわかってしまうと惜しい気がする。それならせめて礼を言ってもいいだろうかと逡巡した。あのひととき、胸のつかえが取れたことは真実だから。
「……ありがとう。昨日は話を聞いてもらって助かった。あのまま抱え込んでいたら良くない暴発をしていたと思う」
 率直な感謝を受けてユリシーズはしばらく目を丸くしていた。若草色の瞳に何か、今までの彼とは異なる新しい波が打った気がする。だがその波の正体を見極める前にコンコンとノックの音が割り込んだ。
「アニーク陛下、お目通りを願う客人です」
 衛兵のジーアン語が響く。時計を見れば一時を少し回ったところで、今朝方言っていた通り幼馴染が来たのだとわかった。


 自信のある男というのはひと目でそうと知れるものだ。ルディアとパーキン、一人の小柄な老人を連れて入室してきたレイモンドを振り返り、アルフレッドはソファの陰でどきりと指を跳ねさせた。
 書見台のアニークがすくっとその場に立ち上がる。彼女が読み終えていない本から目を離すなど珍しい。きっとここへやって来たのがその本をこしらえた一行だからだろう。予測に違わずアニークは「あなたたちね、アルフレッドのお友達だっていう印刷商は」といかにも興味深そうに客人たちを眺め回した。
「……! あ、あら、あなたは確か」
 物見高い視線がルディアを見つけて止まる。「またお会いできて光栄です」と一礼する青髪の剣士に女帝の頬が引きつった。だがすぐにアニークは気を取り直し、ほかの面々に笑いかける。
「い、今ちょうどこの本読ませてもらっていたの。不思議に思う点がいくつかあるんだけど、質問していいかしら?」
 しおりを挟んだ本を手に取り、女帝はレイモンドたちに手招きした。大喜びで踊り出たのはパーキンだ。「お初にお目にかかりますう、アニーク陛下!」ともみあげ男は大仰に跪いた。
「私はパーキン・ゴールドワーカー! 北パトリアはコーストフォート市から参りました、印刷技師でございます! こちらはレイモンド・オルブライト! 私の共同経営者でございます! ブルーノのことはもうご存知のようでしたね?」
「え、ええ。防衛隊とは前に会ったことがあるから」
 話を逸らすようにしてアニークはぱらりと広げた騎士物語の目次を指した。アルフレッドも初めて目にするその内容は、先程彼女が言っていた通り相当に手が加えられている。『パトリア騎士物語』は章ごとの分冊が最もよく出回っているが、合わせれば全三巻の大作だ。目次にはその主だったエピソードだけが名を連ねていた。
「あなたたちの作った本は全体をとても短くまとめているのね? 要点だけをかいつまんだ抜粋本は私も何度か読んだことがあるわ。でもこれは、削除ではなく詩に置き換えて省略する大胆なやり方で……。こういうのは初めて見たし、驚いたの。詩の一節一節が新しくて、懐かしくて、味わい深くて……。まるで全然別の物語を読んでいる気分。それなのに、これぞ『パトリア騎士物語』と感じさせるのよ。どうやってこんな素晴らしいものが作れたの?」
 アニークは早口に問いかける。熱のこもった声と眼差しにパーキンがにやりと笑った。
「ええ、まあ、そうですねえ。お答えしたいのはやまやまですが、いやはや、なんと申し上げればいいか……」
 もったいぶる男に女帝は「あなたたちの本でしょう?」と渋面を作る。早く秘密を知りたくて焦れた彼女は目を吊り上げた。
 アルフレッドは女帝の抱えた騎士道小説にちらと目をやる。アニークの絶賛に少々、いや、かなり興味をそそられてしまったのだ。
 詩とは一体どんな詩だろう。別の物語を読んでいる気分とは? 待てば今日にも本は返ってくるだろうが、だんだんと気になってくる。
「そりゃ作者本人の詩だからですよ」
 と、そこに、入口近くで頭を垂れていた幼馴染の得意げな声が響いた。
「作者本人?」
 アニークが彼を見るのとほぼ同時、アルフレッドも一字一句変わらぬ問いを投げてしまう。虚構には興味なしのユリシーズさえソファから腰を浮かせた。
 レイモンドはにっと白い歯を覗かせる。幼馴染の傍らではぎょろついた目の老人が杖にすがり、まっすぐアニークを見上げていた。睨まれたと誤解してもおかしくないほど厳しい眼光を宿して。
「昔の名前は捨てちまって、今はパディとだけ名乗ってるそうです。正真正銘『パトリア騎士物語』の生みの親ですよ」
 レイモンドの紹介にアニークは仰け反った。アルフレッドと、ユリシーズも同じくだ。思わず席を立ち上がり、背筋を正して一礼する。
「うっ、生みの親?」
 尋ねた女帝は半ば膝から崩れかけていた。愛してやまぬ物語の、その作者と突然面会させられたのだ。動転しても無理はなかろう。
「読んでくださったならおわかりいただけると思うんですけど、文体っていうんですか? 詩の技法っていうんですか? それが完全にもとの話と同じですよね」
 レイモンドはパディとどこでどのようにして出会ったか語り始める。曰く、老人は五年ほど前から北パトリアのセイラリア市で暮らしていたそうだった。コーストフォート市で活版印刷機なるものが誕生したと知った彼は自ら工房のドアを叩いてくれたらしい。「あの物語の続きを出版する気はないか?」と。
「つ、つ、続きー!?」
 アニークはもう泡を吹いて倒れそうだ。アルフレッドも気づけば息を止めていた。「お前もきっと驚くぞ」と宣言されてはいたけれど、まさかこういうことだったとは。
「さようでございますアニーク陛下! 実は今回刷った本、最後にちょろっと新章が載せてありまして! 続編の刊行は各所でこの本が噂になったのち大々的にやっていこうかなと!」
 レイモンドだけに話させてなるかとパーキンが両腕を広げる。今まさに己が手にしている本に未知のエピソードが記されていると知った女帝は「えっえっ」と狼狽と歓喜の滲む声を上げた。
「まだいくらか文の見直しはしておりますが、話はほぼ仕上がっております。そう長くお待たせせずにお目にかけることができるかと」
 初めて老人が口を開く。尖った鼻やこけた頬、厳めしい相貌の印象とは裏腹に物腰は柔らかで、お人好しなユスティティアを彷彿とさせた。たったひと言で芯から嬉しくなってしまい、アルフレッドは少年のように胸ときめかせる。
 パディは詩人に相応しく良く通る声をしていた。ノウァパトリア語も堪能で騎士階級でも特に高い身分にあったことが窺える。瞳は典型的なマルゴー人の焦げ茶色だ。年齢も愛好家が推定した六十代半ばに見えた。
 ああ、本当に本物なのだろうか。いや、それは本を読めばわかることだ。
「あの、ご、ご迷惑でなければ私のお客様として遇させてほしいのだけれど、駄目かしら?」
 問いかけるアニークの声が裏返る。「静かに仕事ができますなら」とパディは答えた。
「もちろん邪魔なんて絶対しないわ! その、その代わり、書き上げたお話を一番に読ませてほしいのだけど」
 老作家がこくりと頷く。目を輝かせた女帝はただちに衛兵を呼び、最高の客に相応しい最高の部屋を用意するように命じた。
「カッパン印刷機? だったかしら? あなたたちの事業にもできる限り協力するわね。『パトリア騎士物語』は絶対に、もっともっと多くの人々に読まれるべき本だもの!」
 アニークはレイモンドたちにも力強く支援を約束する。もとよりそのつもりだったのか、上客を横取りされても幼馴染たちは不満の一つも言わなかった。逆にもてなし代が浮いて助かったというところか。ついでに女帝に恩も売れ、三人はしたり顔である。
 アニークは上擦った声で「本当に、困ったことがあればなんでも言ってね」と申し出た。うっかりパーキンやレイモンドに熱烈な抱擁をしても不思議ではない高揚ぶりだ。そんな彼女をちくりと刺すように「大丈夫です。ジーアンによる搾取を未然に防いでいただければ十分ですよ」とルディアが返した。
 経済面でも軍事面でもアクアレイアに今以上の負荷を与えないでくれ――。主君が十将に出した条件の一つである。交渉の場に同席していた女帝もそれを思い出したか「あ、ええ、もちろんよ」とぎこちなく了承した。
 そのときである。この歴史的謁見に区切りをつける鐘が打ち鳴らされたのは。
 ゴーン、ゴーンと荘厳な音が響く。大鐘楼の五つ鐘は高らかにアクアレイアの中枢たる頭脳を呼び立てていた。
「申し訳ありません。私はそろそろ」
 ユリシーズが女帝に向かい、そう詫びる。彼はこれから仕切り直しとなった会議に参加しなくてはならないのだ。途中退席の心苦しさを色々と言い訳した後、白銀の騎士は部屋を出ていった。一瞬ルディアに冷たい視線を投げかけて。
「ふむ、私も早く仕事に戻りたいですな。書き物机と灯りさえあれば部屋などどこでも結構ですので」
 羨ましげにユリシーズを見送り、パディがぼやく。アニークはすぐにさっきの衛兵を呼びつけ、今度は「今すぐ用意できる部屋にこの方を案内なさい」と言いつけた。
「すぐと言っても下男下女が使うような部屋じゃ駄目よ! お客様用の部屋でなきゃ!」
 二転三転する命令に戸惑いながらジーアン兵が「はあ」と頷く。ともかくも老作家を連れ、衛兵は厳かに寝所を去った。
「それじゃ俺らもおいとまするか。アニーク陛下、ご厚意の数々痛み入ります。感謝とお近づきのしるしに、どうぞこちらをお納めください」
 レイモンドはそつなく女帝の前に歩み出て、昨日アルフレッドにくれたのと同じ本を献上する。アニークは感激に目を潤ませ、耳まで紅潮させながら丁重にそれを受け取った。
「頑張ってね、本当に頑張って」
「ええ、必ず第二の騎士物語ブームを起こしてみせます」
 差し出された手を握り返し、幼馴染は深々と一礼する。
「アニーク陛下! わ、私ともお近づきのしるしに握手を、握手を」
 高貴な女性に触れようと腕を伸ばすパーキンをレイモンドとルディアが抑え込み、力づくで連れ出すと、室内は急にしんとなった。だがアニークの興奮は人が減ったくらいでは少しも冷めなかったらしい。彼女はまるでこの二ヶ月のいざこざなどなかったような浮かれぶりでアルフレッドに話しかけてきた。
「ねえ、すごいわね、作者本人に会えるなんて! しかも続編よ、続編!」
 同じ喜びを感じているのに上手くアニークを見ることができず、そっと視線を横に逸らす。拒絶的な反応にめげることなく彼女はしつこくアルフレッドに迫ってきた。
「先に読んで知っていたんじゃなかったの? 教えてくれれば良かったのに」
 自分も早くここを去ろう。そう決めて踵を返す。
「……一行も目を通していなかったので、まったく存じませんでした。続きをお読みになりたいでしょうし、俺はこれで」
 できるだけ言葉少なにアルフレッドは扉へ急いだ。けれどアニークは類稀な幸福を分かち合いたいと望んでいるようで、袖を掴んで引き留めてくる。
「待って! ねえ、だったら一緒に読みましょう? こんなに嬉しいこと二度とないかもしれないじゃない! 今日だけでもお祝いしない?」
「俺はあなたと馴れ合うつもりはありません。いつまでも『アニーク』の名を騙り続けるあなたとは」
 力任せに腕をほどいた。今までならそれで引き下がってくれていたアニークが、その瞬間顔色を変えた。
「何よ、それ」
 絞り出された声が震える。彼女は小刻みに肩を揺らし、さすがに我慢も限界だという表情を見せた。
「あなたどうして私にだけ憎しみをぶつけるの?」
 アニークの目がちらと壁に向けられる。先程までルディアが立っていた辺りに。
 この二ヶ月、彼女の中でどんな苦悩や葛藤があったのかアルフレッドは何も知らない。知ろうと思ったこともなかった。苦しみがあったとしても、それはわざわざ取り合うようなものではないと。だって彼女は偽者だから。
「ルディアだって『ルディア』の名前をずっと騙ってきたんじゃない! 私のことは許さないのに自分のお姫様なら許すの!?」
 ハッと大きく目を瞠る。息を飲んだアルフレッドを見てアニークもすぐ我に返った。
「……ごめんなさい。いいわ、今日、帰っても」
 おののく手で騎士物語の一冊がそっと返却される。思考する余裕などなく、気がつけばアルフレッドは女帝の面前を辞去していた。

 ――私のことは許さないのに自分のお姫様なら許すの!?

 深々と心臓に突き刺さる。予想もしなかったその言葉が。
 咄嗟に否定できなかった。己の中にそんな卑劣な考えはないと。


 ******


 宮殿を出たルディアたちが最初にしたのは両側からパーキンを強めに小突くことだった。「お前な、権力者に擦り寄るのは構わんが程度というものを考えろ」「そうだぞ、俺は今あんたと一蓮托生なんだぞ。頼むからもっと真人間ぶってくれ」と睨みをきかせて言い含める。
「ええーっ? 別にあんくらいイイだろォ? あっちも俺らと仲良くしたそうだったわけだしさー」
 印刷技師は不服そうに頬を膨らませたが言い訳は聞かなかった。彼の場合、ごますりに品がないから問題なのだ。相手は大国の女帝だとわかったうえでの行動とは思えない。軽々しく肉体に接触しようとするなんて。
「何が無礼かわからん間は何もしようとするんじゃない。言っておくが、お前絶対に単独で女帝に会おうとか試みるなよ? そのときは私も剣を抜くからな?」
 ルディアがレイピアの柄に手をかけるとパーキンは「ひえっ」と反り返る。その肩をがっしり掴んだレイモンドも「そうだぜパーキン、俺だって国際問題になる前にお前を強制退場させるほうを選ぶからな」と低い声で圧力をかけた。
「酷ぇなお前ら、俺は事が上手く運ぶようにやってるだけだっつーのにさあ」
「それが信用ならないんだ!」
 声を揃えて怒鳴りつける。と、少々騒ぎすぎたのかレーギア宮の門番がちらとこちらに目を向けた。帽子の下の鷹の目が不審げに歪められる。彼らを刺激しないようにルディアたちはそそくさと国民広場を歩き出した。
「……とにかくだ、接見だの交渉だのは全部レイモンドに任せろ。いいな?」
「へいへい、わかりましたよっと。確かにそっち方面は共同経営者様をお迎えしてから絶好調ですしねー」
 反省したのかしていないのかわからない口ぶりにルディアは深く嘆息する。おそらく後者なのだろう。やはりこいつには余計な真似をする暇や機会を与えないのが賢明だなと確信する。だがパーキンも「レイモンドにやらせておけば上手くいく」と認識してはいるらしく、ならばと今度は真逆の横暴をのたまい始めた。
「そんじゃこの後の挨拶回りはレイモンド様に一任させてもらいましょうか。俺はアクアレイアの慣例とか? 常識とか? てんでわかってないですしー」
 肩をすくめて印刷技師は責任を放り出す。先に一人で工房に戻って開店準備を進めると言う彼にルディアたちは「はあ?」と声を尖らせた。
「お前なあ。近所の者に顔を見せるくらいはしておいたほうが円滑に……」
「俺は技術担当だもーん。徒弟を育てられたらそれでいいんだもーん」
「いやまあ、そりゃそーだけどさ」
 呆れた男だ。直接儲けに繋がらぬ地盤固めなど興味はないと言わんばかりにパーキンは耳を塞いでしまう。おまけに完全な不意打ちで「っていうかお前らも二人っきりのがいいんじゃねえの?」などとからかわれ、ルディアは思わず息を飲み込んだ。
「なっ……おま、何を言っ」
「いいっていいって、誤魔化すなって。リマニで会った頃からずっとべったりだったもんなあ。気配り上手なおじさんはさっさと引っ込んじまうから、後は若い者同士爽やかに楽しんでくれい!」
 ちょうどそのとき印刷工房の正面に差しかかり、パーキンは止める間もなく建物に駆け込んでいった。
 見てわかるくらい態度に出ているのだろうかと立ち呆ける。極力いつも通りを意識し、視界に槍兵を入れすぎないよう気をつけていたのだが。
「しょうがねーな、あのオッサンは」
 ぼやきつつレイモンドが「行こうぜ」と背を押してくる。彼の横顔は薄赤く染まり、眉間にはあからさまに不要な力がこめられていた。
「あ、ああ」
 ぎくしゃくと返答する。昨夜あれから何か進展があったわけでもないのに、首飾りがポケットから位置を変えただけなのに、気を抜くとすぐ思考が乱れてままならなくなる。もっとしっかりしなくては。そう己を叱咤してルディアはずんずん広場の端へ歩き出した。
「最初はどこへ行くんだ?」
 半歩遅れでついてくる男に問いかける。槍兵は「とりあえずアカデミーかな」と街の南西部を仰いだ。
 大運河に二分されたアクアレイアの北側にはレーギア宮やアンディーン神殿、国民広場、新たにそこに建て直された大鐘楼などがある。南側には一番大きな商港と税関が河口を占めるほか、学術施設が点在していた。
 レイモンドは写字生を取りまとめている代表者に会いたいらしい。写本作りの担い手である彼らは大抵本業として学者か学生をしている。印刷機の進出により真っ先に職を奪われるであろう人々に事業の話をしておくことはなるほど必要不可欠に思えた。
「揉めそうだな。策はあるのか?」
「ああ、とりあえず写字生には優先的に植字工になってもらえるようにしようと思ってる」
「それはいいが、雇用数が失業数にとても追いつかないんじゃないのか?」
「わかってるって。だからほら、手書きプレミア作戦だよ」
 悪戯っぽく槍兵が笑う。ルディアの前に踊り出たレイモンドは陽光を浴びてきらめく大運河に渡しの船を見つけて大きく手を振った。
「さっ、頑張るぞー! 俺たちとアクアレイアのために!」
 本当に変わったなと思う。金勘定が得意なのは相変わらずだが、その根底にあるものは。
 目まぐるしく変化するからこんなにも惹かれるのだろうか。自分自身はどうしても変われないから。『ルディア』にしがみつこうとしてしまうから。
 わからない。だけどきっと、理由は一つではないのだろう。


 ******


「アル兄ー! 糊付け始められそうだからそろそろこっち来てー!」
 遠くから呼ぶ妹の声に深く閉じていた目を開けた。潮風吹き渡る静かな墓地でアルフレッドはゆっくりと立ち上がる。
 見渡せば赤に白に紫の花。陽光を浴びてきらめく草葉。苦痛から逃れたくてここへ来た。生きた人間のもとでは到底安らえなくて。
(自分のお姫様なら許すの、か)
 言葉はまだぐるぐると小さな頭を回っていた。己の中の何かが変質するような、漠然とした予感があって。
 だがアルフレッドには主君とアニークが同じとはどうしても思えなかった。ルディアが王女として生きる道を選んだのは事実でも、二人の境遇が似通ったものだとは。
 病死した肉体を受け継いだルディアに対し、アニークは皇女を殺して人生を乗っ取ったのだ。二人の差は歴然としており、同列に扱うなど愚の骨頂としか言いようがなかった。脳に棲みつく寄生虫であるという一点が同じなだけだ。その生き様は比べるべくもない。
 確固たる結論を得てほっと息をつき、アルフレッドはパトリア石のピアスを埋めた土の上に赤いセージの花を捧げた。
 もし『アニーク』が生きていたら今の自分に果たしてなんと言っただろう。サー・トレランティアでもそんなことで考え込んだりしないわと、おかしそうに吹き出しただろうか。
「アル兄ー? 何やってんのー?」
 門閉めちゃうよと妹が急かす。高いレンガ壁にもたれたモモは訝しげな目でこちらを見やった。
 アルフレッドは急ぎ足で療養院の敷地へ戻る。門をくぐり、前庭に入ろうとしたときだった。「あのさあ」と彼女にしては珍しい歯切れ悪さで切り出されたのは。
「……大丈夫なの?」
 何がとはモモは言わない。だが少なからぬ憂慮の滲む双眸が何を問うているのかはなんとなく察せられた。
 妹にはわかっているのだ。戦の準備もさせてもらえずアルフレッドが負けたこと。
「……大丈夫だよ。心配いらない」
 弱音を吐いても良かったろうにアルフレッドは言わないほうを選んでしまう。愚かさを自覚しながら妹の横を擦り抜けた。モモは小さく嘆息し、黙って門の錠を下ろす。
「信じるからね、その言葉」
 念を押す声に頷いた。
 ――大丈夫。大丈夫だ。慣れてしまえば。時間が過ぎれば。
 苦い酒杯も飲み干せる。それで彼女の、ルディアの側にいられるなら。


 ******


 ああ、とても気分がいい。胸を張って堂々と「向いている」と言える仕事をするのは本当に気持ちがいい。
 最初は印刷機そのものが気に入らない、我々を地獄に突き落として楽しいかと罵詈雑言の嵐だった写字生たち。彼らと円満に協力体制を築くことができ、レイモンドは大いに満足であった。
 提示したのは騎士物語続編の豪華版制作依頼だ。世に出るまで絶対に内容を口外しない、作業は印刷工房のみで行うという条件のもと、売上の八割は彼らの懐に収めることを約束した。
 写本はどうせ出回るから、先に写字生を取り込んでおけば無用な憎み合いを避けられる。彼らはレイモンドに感謝すらしていた。印刷本と同時に発行することができれば王侯貴族に手製本を買ってもらえるかもしれないと。
「すごかったな。見事な取引手腕だった。場を収めるのは昔からお前の得意とするところだが、私の出る幕などこれっぽっちもなかったよ」
 手放しの絶賛にレイモンドは頬を緩める。こじんまりした講堂を出て一番にルディアは「利害関係の調整はとかく面倒が起きやすいのによくやってくれた」とねぎらってくれた。
「いやー、照れるぜ。まっこれもコーストフォートで鍛えられたおかげだな!」
 暗に写字生問題は北パトリアで経験済みだったことを伝える。聡明な彼女はそれですぐピンと来て「ということはこれから赴く版画工房の職人たちとも?」と尋ねてきた。
「そうそう、版画工房の職人たちとも」
 レイモンドは苦笑いで工房街へ続く太鼓橋を渡る。かのコーストフォート市においては、彼らとは写字生よりも壮絶な争いを繰り広げた。宗教画や芝居のチラシを刷るのが仕事の木版工もまた印刷工とは競合する。護符くらい我々にだって作れると鼻息荒げて北パトリアの版画職人は偽の護符を刷ったのだ。
 揉めに揉め、最後はイェンスが霊妙な右腕を振りかざす羽目になった。以後は詐欺に手を出す不届き者はいなくなったが、あんな解決方法はアクアレイアでは通用しないし、やりたくもない。ゆえにレイモンドは最初から図画担当の職人を連れて帰ってこなかったのだ。ここは現地で木版工を雇うに限ると。
(たとえ事業が成功しても、恨み買ってたら意味ねーからな)
 印刷業をアクアレイアの産業として確立するにはできるだけ煽りを食らって潰される可能性のある人々に手を差し伸べておかねばならない。反発心は敵を生む。敵になれば簡単には元の関係に戻れないのだ。それは王女の望むところではないはずだった。
「手助けが必要か?」
「いや、いいよ。あんたは俺の横で見てて」
 それで十分とレイモンドは隣を歩くルディアを見つめる。彼女の力になれている自分が嬉しかった。不安になった夜もあるが、頑張って良かったなと。
(へへっ、いいとこ見せるぞー)
 細い水路をいくつか越えて本島の外縁へ近づくと、工房街に来たことを実感する騒音が響き始めた。カンカンカンだのトントントンだの至るところで一定のリズムが繰り返されている。だがレイモンドが出入りしていた頃に比べると騒音には覇気がなかった。看板の下ろされた店も目立つ。人通りも少なくて、目にする人間は軒先にぼんやり座り込む者ばかりだった。
「仕事がないから配給を待っているんだろう」
 ぼそりとルディアに耳打ちされる。配給と言ったって与えられるのは小麦粉だけだ。やることがないならせめて目の前の水路に釣糸でも垂らせばいいのにそんな気力はないらしい。考えれば一つくらいできることが見つかるだろうに。
(うーん、イヤな雰囲気だな。工房街全体がこんな感じなのか?)
 四方からまとわりついてくる陰気な視線にレイモンドは顔をしかめた。歩を止めたらその瞬間に「金をくれ」と絡まれそうでだんだんと早足になる。家屋の作るトンネルをくぐり、目指す工房へ急いだ。
 版画職人のガヴァンとは昔からの知り合いだ。子供の頃、何度か彼の工房で遊ばせてもらったことがあるし、自慢の版木を触らせてもらったこともある。関係はまあ良好と言えた。だからといって「うちで雇われてくれ」という要望にガヴァンが素直に応じてくれるかは不明だが。
 職人とは強力かつ排他的な絆で結ばれた生き物だ。比較的新参者を拒まない学生や学者たちとはまったく違う理屈で動く。生粋の商人ほどは利害の一致を重視もしない。「自分たち」と「それ以外」の境界が明確で、外の者には無理解・不寛容が常だった。
 グリーンウッド家がそのいい例だ。あれほど有能な親子なのに、彼らはどの地区の工房街にも住むことを許されていない。バジルなど「実は僕、あんまり街のこと教えてもらえないんですよねー」とぶっちゃけトークをしていたほどだ。
 少し前まで彼らが何故そんな扱いを受けているのか不思議だった。だが最近ようやくその謎が解けた。モリスの父がロマだからだ。たったそれだけのことで親子は孤島に追いやられているのである。腕利きの職人として誰もが二人を認めているにもかかわらず。
 独自の物差しを持つ工房街の人間に「それ以外」の自分の話をどこまで真剣に聞いてもらえるか、正直言ってレイモンドにも自信はなかった。だが好きな女の見ている前でヘマはできない。難しくともやるしかなかった。
「……あのさ、これが上手くいったらちょっとご褒美くれる?」
「え?」
 並んで歩けば腕の触れ合う狭いトンネルで声を低める。少し構えたルディアに「ご褒美?」と聞き返され、レイモンドは神妙に頷いた。
「次が踏ん張りどころだと思うから、気合い入れたくて。駄目かな?」
 身を屈め、いっそう近づきながら問う。「一方的に貢がれると気が引けるって言ってたじゃん?」と顔を覗けばルディアはもごもご口ごもった。
「ま、まあ、それはそうだが」
「じゃあお願い! できねーことは言わねーし!」
 掌を合わせて頼む。すると彼女は沈黙ののち「わ、わかった」と同意した。
 やったと拳を握りしめる。これならなんでもできそうだ。戸惑うルディアの赤い顔を見ていたら報酬を先払いしてもらった気分になるが。
「よし、そんじゃ乗り込むぜ!」
 もう目と鼻の先だった目的地へ小走りに駆け出す。波の乙女を彫った版木の嵌め込まれたドアの前に立つとレイモンドは力をこめてノックした。
「へいへい、どうぞ」
 屋内からぶっきらぼうな男の低い声が返される。
 レイモンドはドアノブを引いた。すべては我が手に掴めると信じて。


 最初の声のやさぐれ具合はどこへやら、こちらを見やって親方はすぐ陰鬱な表情を引っ込めた。
「おお!? レイモンドじゃねえか!」
 そう言って大きな作業台に片肘をついていた強面の男が立ち上がる。親しみをこめてレイモンドも「久しぶり、ガヴァンさん。元気そうで良かった!」と挨拶した。
「聞いたぞお前、えらくでかい船で帰ったきたらしいなあ?」
「ああ、まあな」
「そっちは友達か? 一体どうして今日は俺の工房なんかに?」
 矢継ぎ早にガヴァンは問いを重ねてくる。脂ぎった額の下のよく動く双眸は来訪者の身なりや風貌を眺め回してやっと止まった。
「こいつはブルーノ・ブルータス。今日は付き添いで来てくれたんだ」
「ブルーノね。俺はガヴァンだ、どうもよろしく」
 気さくな部類ではない親方がにこやかに手を差し出すのを見てレイモンドはやや驚く。以前なら貴族でもない若造の名など流し聞きして終わっただろうに、ルディアと握手を交わすガヴァンはまるで本物の好々爺だ。
(や、やっぱ金の力ってすげーんだな)
 親方が「レイモンドの友達」に粗相のないよう気を配ってくれたのは明らかだった。大なり小なり皆これまでと違う態度で接してくるが、頑固親父として恐れられる彼までこんな調子だと背筋が寒くなってくる。
「で、俺になんの用なんだレイモンド? ひょっとして――ああ、いや、俺に言わせてくれ。ひょっとして版画の注文に来てくれたのか?」
 期待に瞳を輝かせて初老の男はレイモンドを見上げた。彼の問いに頷くべきか首を振るべきか少し悩み、結局間を置くことに決める。
「あ、暇そうだなとは思ったけど本当に暇なんだ?」
 引き気味の苦笑を浮かべてレイモンドは屋内を見渡した。ガヴァンの住居兼工房は哀れを誘うほどがらんとしている。どの棚にも作業台にも最低限の仕事用具以外置いておらず、数人いるはずの徒弟たちも誰一人姿が見えなかった。納品待ちの完成品はおろか削りかけの版木すらない。正真正銘の開店休業中である。
「そう思うんならチラシでもポスターでも依頼してくれ! こちとらもう一年以上ろくすっぽ働けてねえんだ!」
 デリケートな問題に触れたらしく、親方は涙混じりに吠え立てた。冷やかしならとっとと帰れと叩き出されそうな雰囲気だ。
 頭を働かせるまでもなく、今のアクアレイアで版画業が立ち行かない理由は知れた。皆もっと別のものに金を使うか、使わずに蓄えているのである。金を持っている外国人はわざわざこの街で紙にインクを刷るような用事がないし、依頼など舞い込んでくるはずがなかった。
「いや、まあ、仕事頼もうと俺もここまで来たんだけどさ」
 興奮したガヴァンの肩をそっと押し返し、レイモンドはまあまあと作業台の横の丸椅子に親方を座らせた。仕事と聞いて彼は大きく目を瞠る。「本当か? 本当に依頼? 大口のか?」と砂漠で泉を発見した遭難者のようにガヴァンは口をぱくぱくさせた。
「うん、大口。けど落ち着いて聞いてほしいんだ。多分これガヴァンさんにはショッキングな話だと思うから」
 自分自身も丸椅子の一つに腰かけながらレイモンドは心労で禿げ上がった男と向き合う。側ではルディアが腕組みして、壁にもたれてこちらを見ていた。
「ショッキング?」
 訝る声に「ああ」と頷く。外側からの提案を彼がどの程度受け入れてくれるか。意を決し、この道四十年の版画職人に切り出した。
「ガヴァンさん、俺のために工房畳んでくれねーか?」
「は、はあーーーーー!?!?」
 予想を上回る大音量でガヴァンは叫ぶ。レイモンドは咄嗟に守った両耳から手を下ろすと「この俺に工房やめろたあ一体どういう了見だ!?」と真っ赤になって説明を求める親方にこう告げた。
「実は俺、今すげーものを二つ持ってて。活版印刷機と『パトリア騎士物語』の新作原稿なんだけど」
「はっ……!? はああ!? かっ、きっ!?」
 驚きのあまりガヴァンは言葉を失ってしまう。「か、かかか、活版印刷機って活版印刷機か!?」と至極当然のことを問われ、逆にこちらが返答に窮した。
「そうそう、金属活字を使った大型の印刷機な」
「な、なんてことだ……。あれを完成させた人間がついに出やがったっていうのか……!」
 台詞から察するに、彼は活版印刷機について多少なり知識があるらしい。
「知ってんの?」
 尋ねると「昔作ろうとしたんだよ」との返答があった。
「けどどうしても文字型の幅と高さが均一にならなくて無理だった。そうか、お前それでこんな見違えるほど金持ちになったんだな……」
 呆然と突っ立っていたガヴァンが座り直すのを見てレイモンドも口元を引き締める。印刷機の有用性をわかっているなら話は早い。これは一気に説得可能なのではと思えた。
「そうなんだよ。でもアクアレイアで構える予定の工房にはまだ一人しか職人が入ってなくてさ。ガヴァンさんの力を貸してくんねーかな? うちに来れば新しく銅板だって覚えられるぜ! あんたとあんたのとこの木版工、まとめて引き取らせてくれ!」
 レイモンドはがばりと思いきり頭を下げる。親方はしばし答えず、息を飲む音だけが響いた。
 口にするまでもないことだが、このまま版画工房を続けていても食べていくのは難しい。騎士物語が国外に売れ、アクアレイアに外貨が入ってくるようになり、大勢の商人が交易を再開できるようになるまで版画の内需が増えることはないだろう。だが今ここで印刷工房に組み込まれれば一足飛びに儲けを手にできる。仕事がないと嘆く必要はなくなるのだ。
「活版印刷機の稼働する工房か……。レイモンド、そこでは全部で何人くらい版画職人を雇ってくれるんだ?」
「五、六人かな。ガヴァンさんのとこって確かそんなもんだろ?」
「五、六人……。五、六人か……」
 答えた途端ガヴァンは眉間のしわを濃くした。なんだそれっぽっちかよ、と言わんばかりの表情だ。そうしてひとしきり考え込むと頑固者の親方は小さく左右に首を振った。
「それじゃうんとは言えねえな。悪いが木版工以外の奴を当たってくれ」
「え、ええー!? なんでだよ!?」
 レイモンドは顔を背けた熟練工の腕を掴む。半ば以上理由は想像できていたが、話を終わらせないために問いかけた。
「なんでも何も、版画工房はほかにもあるんだ! 俺たちだけ抜け駆けしたと思われるようなことできるかよ!」
 ガヴァンはこちらの手を振り払う。やっぱりかと態度には出さず落胆した。これなのだ。互助意識の強い連中の悪いところは。順風のときはいいが、逆風になるとこうして守りに入りすぎてしまう。
(ふん。けどこれは、ちゃんと対策を考えてきたぜ)
 レイモンドは石像のごとく心を閉ざす男に「そういうことなら安心してくれ」と続けた。自分だって無駄に何年も「それ以外」として苦しめられてきたわけではない。手を差し伸べるときは一斉であれば問題ないことくらい知っているのだ。
「さっき騎士物語の新作原稿持ってるって言っただろ? 実はさ、文字だけの印刷本以外にも、挿絵付きの印刷本と、完全手書きの豪華本を同時に売ろうと思ってんだ。で、挿絵本の売上は半分あんたたち版画職人のために使いたいなって考えてて」
 そこまで言うと再びガヴァンがこちらを見やる。「何? 俺たちのために使うだと?」と不審げな彼になるべく快活に笑いかけた。
「ああ、印刷工房だって一つや二つで終わる気ねーよ! 店が増えたら順番に雇ってくから待っててくれ! 必要な技術は待機中に習得できるようにするし、その間も全員に給料出るなら文句ないだろ? 何年かして、やっぱり独立した版画工房持ちたいってなってもそれはそれで応援するしさ」
 これだけ譲歩すれば十分だろうとレイモンドは腕を広げる。アクアレイアに生きてきて、今提示された条件の破格さを理解できない人間はいまい。最後のひと押しに「ちなみに給与額はこうな」と具体的な数字を伝えるとガヴァンはごくりと生唾を飲んだ。だがそれでも、いや好条件が過ぎたからか、頑固親父は疑心暗鬼に陥ってしまう。

「活版印刷機がすげえのはわかるがよお、俺たち全員を救えるほど上手くいく気はさすがにしねえよ……」

 ぶるぶると、震えているのか首を振っているのか見分けのつかない仕草で彼は低く呻いた。「大体『パトリア騎士物語』の新作だっつうが愛好家の偽物とかじゃねえのかあ? 原作にない場面、五回ぐらい刷ったことあるぞ俺」などとあらぬ嫌疑をかけられて、慌てて「本物だって!」と否定する。
「船団の話聞いただろ!? 本当に儲かるから! 年内にはもう一つ、確実に店舗増やせるから!」
 北パトリアでの成功談をどれだけ話しても無駄だった。一時パーキンの下につくことになっても親方の地位は捨てなくていい、徒弟はあんたの徒弟のままだと説得しても駄目だった。ガヴァンは「世の中そんなに甘くねえよ」「商売が行き詰まったとき、待機中の職人を本当に見捨てないって誓えるのか?」「銅板だって覚えたところで使わず終わるかもしれねえぞ」としつこく不安を吐露し続ける。一種異常とも思えるほどに。
「俺たちはどん底を見てきたんだ。もっと手堅くやりてえのよ。レイモンド、すまんが本当にほかを探してくれねえか? お前のとこの工房から挿絵の依頼を受けるのは構わんからよ……」
 親方はよたよたと立ち上がり、レイモンドたちを出口のほうへ促した。単独で仕事を受けるほうが抜け駆けと取られそうなものなのに、ガヴァンは何故かそのことには無頓着である。
 帰れと強く肩を押され、レイモンドは唇を噛んだ。せっかく印刷工と木版工が対立しなくて済むように考えたのに、木版工が勝者と敗者に分かれないように考えたのに、このままでは全部めちゃくちゃになってしまう。

「……他人に期待するのが怖いか?」

 と、そのとき、成り行きを見守っていたルディアが尋ねた。しょんぼりと肩を落とした老齢の版画職人を見つめ、物憂げな掠れ声で。
「あなたはさっきどん底を見たと言った。だから不安定な未来に賭けるより、安全とわかっている過去の自分を取り戻すほうを選びたいのか?」
「…………」
 彼女の問いにガヴァンはしばし沈黙した。トントントン、カンカンカン、と静寂に遠くの木槌の音が響く。
「……そうなんだろうな。けどどうしようもねえ」
 諦めきったその声にルディアはそっと目を伏せた。何か感じるものがあったのか、彼女は己の胸甲を引っ掻く。
 やがてルディアは再びガヴァンに向き直った。今度はいかなる暗雲をも吹き飛ばす、決然とした王女の顔で。
「歩むのをやめたときから道は消えていく。この国もそうだ。何もしなければ潟はたやすく土砂に埋もれる。だから」
 だから、と語気を強めて彼女が言う。迷いを振り払おうとするように。恐れを蹴散らそうとするように。「一歩だけ踏み出してみないか?」と。
「明日の十時、国民広場に来るといい。きっとこいつを信じてみたくなる」
 そう言ってルディアは柔らかに微笑んだ。彼女が知らせたのは印刷工房一階の開店予定時刻である。実際に書店に並んだ本やその売れ行きを見れば雰囲気は掴めるだろうということらしい。レイモンドも「そうしてくれよ!」と名案に飛びついた。
「ほかの版画職人も一緒にさ! 俺の店見てみてくれ!」
 両手を握るとガヴァンは気圧され、「わ、わかった」と頷いた。見に行くだけだぞと念を押されるが足さえ向かわせればこちらのものだ。
「絶対だぜ!? 来なかったら承知しねーぞ!?」
「わかったっつってんだろ!」
 肩越しにルディアと目を見合わせる。悪くない展開にレイモンドは心からの笑みを浮かべた。


 ******


「やっぱあんたはすげーなー! いやー、どうなることかとハラハラしたけどおかげでチャンス繋がったぜ!」
 軽い足取りで路地を歩く槍兵を横目に見やり、ルディアは複雑な息をつく。版画工房を出てきてからレイモンドはずっとこの調子で、もう何度同じ言葉で褒められたか数えきれないくらいだった。
 こう熱烈に称えられるとどんな顔でいればいいかもわからない。パーキンにからかわれた後だし、自分が喜びすぎていないか気になった。それでルディアは「もうその辺にしておけ」とつっけんどんな物言いをしてしまう。
「別にそこまで言われるほどのことはしていないだろう、私は」
「いや、けど横で見ててとか言っといて結局助けてもらっちまったし。あー、俺がダサかっただけっつったらそうなんだけど、ハハ」
 思いもしなかった方向に解釈され、ルディアは「いや、そういう意味では」と弁明した。ぽりぽりと頬を掻きつつ槍兵は「これからもっと頑張るからさ、その、がっかりしないでくれよな?」とすがるような目を向けてくる。どうも彼は独力で問題を解決して頼りがいのある面を見せようと考えていたらしく、うっすらと気落ちしているのが見て取れた。
「何を言うんだ。事前にお前が考えていた計画あってのことだろう。ガヴァンとて魅力的な条件だったからこそ明日の約束をする気になったんだ」
 偽りのない本心を伝える。するとレイモンドはたちまち元気を取り戻した。
「えっほんと? 俺も今回の功労者に入ってていいの?」
 槍兵は頬を赤らめて問うてくる。その真意にはかけらも気づかずルディアはこくりと頷いた。
「ほとんどお前の功績だよ。私など何かしたうちに入らない」
 答えながら己の発言に誤りがないか検証する。贔屓目で高評価を下しているのではないはずだった。前々からレイモンドの能力には一目置いてきたのだし、これくらいの称賛はきっと普通のことである。
(うん、そうだな。別にどこもおかしくはない)
 胸中で大きく頷く。隣の女の挙動不審に勘付いた様子もなく、槍兵は上機嫌で水路の脇の細い道をずんずんと進んでいった。
「もう皆帰ってっかなー?」
「どうだろうな。さっき六時の鐘が鳴ったところだからな」
 他愛の無い話をしながらブルータス整髪店を目指す。そう、益体もない話をしていた。俺もいっぺんジーアン語の教科書がどんなのか見てみたいだとか、リリエンソール家は妹までとんだ食わせ者なんだなとか。
 だから店に帰り着いたとき、空っぽの薄暗い店内に誰の気配もしないことがわかったとき、予告なく手を握られて驚いたのだ。急に熱っぽい眼差しを向けられて。

「あのさ、ちょっと気が早いんだけど、今日の話絶対まとめるから抱きしめていい?」

 レイモンドの指にぎゅっと力がこめられる。今されるとは思っていなかった報酬の要求にルディアは頭が真っ白になった。咄嗟に何も答えられず、かちんこちんに固まってしまう。
「そ、れは……」
 必死で紡いだその声も待ちきれなかった槍兵の肩に吸い込まれた。ぐいっと引き寄せられたと思ったら、背中に腕を回されて、後ろ髪を撫でられて。
 思考はすべて弾け飛んだ。何が起きているのか理解が追いつかず、布越しに伝わってくる他人の体温にただうろたえる。心臓の音はどちらのものか判別がつかなかった。膝が震えて、息が止まって、何も言えない。何もできない。
 それでもどうにか理性を手繰り寄せ、ルディアはレイモンドを突き飛ばした。
「……っこういうことは、恋人とか婚約者のすることだろう!」
 抗議にしては遅すぎるのはわかっていたが、ほかにどうしようもなく叫ぶ。そうして返された反応にルディアはもっとどうしようもなくなった。
「えっ? 俺たちそうじゃねーの?」
 再び脳内が純白に染まる。レイモンドはひとかけらの疑いもなく「お守り首にかけてくれてるし、俺が暫定婚約者だろ?」などとのたまった。
「えっ違った!? まだそこまでの資格なかった!?」
 青ざめられるとどうすればいいかわからなくなる。「いや、その、それは」としどろもどろに無意味な言葉を発した後、結局ルディアは黙り込んだ。
 そうだとひと言返すだけ、お前は恋人でも婚約者でもないと言えばいいだけ。それなのに口が動かない。そんな簡単なことができない。
「……私の覚悟が決まるまで、聞かずにいてくれるんじゃなかったのか?」
 かろうじて訴えられたのはそれだけだった。レイモンドには「俺からあんたにアピールしないとは言ってねーし」と棄却されて終わったが。
「暫定でいいんだけど、駄目?」
 優しく肩に手を置かれ、正面から覗き込まれる。そうやって見つめられると本当に何もできなくなるからやめてほしい。やたらぐいぐい押してくるくせに槍兵の表情にも余裕などなくて、流されてしまいそうになる。
 レイモンドはルディアから目を逸らさなかった。薄いレモン色の瞳には昨日にも増して赤い顔の自分が映り込んでいる。その像が次第にこちらに近づいてくるのをどこか呆然と眺めていた。本当の本当に、これ以上はいけないという至近距離に迫るまで。
「……ちょ、調子に乗るな馬鹿ッ!」
 思いきり喉を押し返され、レイモンドは蛙じみた悲鳴を上げる。後ずさりでルディアが間合いを確保すると槍兵は涙目で空を掻いた。
「なんでだよー!? 今のは行っていいムードだっただろー!?」
「持ち主のいる身体だぞ! お前にとっても幼馴染だろう!?」
 友人の肉体に触れる抵抗はないのかと糾弾する。だが彼にとって入れ物など大した問題ではないらしく、「俺にはずっとあんたが可愛い女の子に見えてるよ」と歯の浮く台詞を返された。
「な、何を言っ……」
 鼓動が早すぎてくらくらする。汗が吹き出して止まらない。せっかく安全な距離を取ったのに、槍兵が長い足で踏み込んでくるから台無しだ。
「姫様さあ」
 またぎゅっと手を握られた。向かい合って見下ろされ、ごくりと大きく息を飲む。レイモンドは少しの遠慮を残しつつ、しかし勝利を確信した顔で問うてきた。

「もし誰かに返す身体じゃなかったら、今のはキスしてくれてたってこと?」

 ドアの開く音に気がついていなかったのは一生の不覚だ。不意に暗い店内に西日が差し込み、ルディアは背後を振り返った。
 逆光を受けた騎士と目が合う。よく見えなかったが、多分合っていたと思う。
「……ッ」
 声も出せずにレイモンドの脇を抜け、脱兎のごとく奥の倉庫に逃げ込んだ。勢いよくドアを閉めてから後悔する。これでは何かありましたと主張しているようなものではないか、と。
 ずるずるその場にへたり込んだ。心臓はまだうるさくがなり立てていた。
 耳を澄ませば槍兵があれこれ取り繕うのが聞こえる。「俺たちも今帰ってきたところ」とか「急に腹でも痛くなったかな?」とか苦しすぎる言い訳が。
(私は一体どうしたんだ?)
 救いがたい愚かさに溜め息が出た。温かな腕に抱かれたとき、離れがたいと思ってしまった。冷静になどなれなかった。
(このままでは本当にいかん。覚悟を決めてしまわないと)
 人には偉そうに説教したのだ。新しい道を進むのか、よく知った道に戻るのか、自分も選ばなければならない。何が最善なのかはもうはっきりとしているのだから。


 翌日の印刷工房開業はすさまじいまでの大反響だった。東の商人も西の商人も物珍しげに寄ってきて、あの騎士物語に新章が追加されていることを知ると奪い合うように本を我が物にしていった。
 印刷工募集の貼り紙に応募が殺到したことは言うまでもない。先駆けて工房入りした写字生ら植字工に引き続き、夕方には版画職人の中でも特に力量ある親方六名がパーキンの下につくことになった。
 騎士物語以外の本も売れ行きは好調で、レイモンド・オルブライトはわずか二日でアクアレイア中知らぬ者のない成功者となったのである。


 ******


 キイイと甲高い声を上げてハンカチを噛む妹にユリシーズは嘆息した。人の部屋で朝っぱらから鬱陶しいことこのうえない。本物の妹なら許してやらないこともないが、シルヴィアの中に居座っているのは年老いた女狐だ。表面上の優しさすら見せてやる気にならず、「絹が傷む」と小言を告げた。
「お兄様、あなた悔しくはありませんの!? 昨日から街中例の成金猿の話題で持ちきりですのよ!?」
 可憐な少女に身を扮したグレース・グレディは頼みもしないのに「例の成金猿の話題」とやらを詳細に説明してくれる。彼が騎士物語の作者をアニークに紹介したことは既に知れ渡っているようだった。ほかには救貧院にいくら寄付をしたかとか、写字生や版画職人をいくらで一括採用したかとか、昨日一日で達成した売上はいくらだったかとか、運河の保全工事の件まで含めると偉業を数えるのに片手では足りなさそうである。
「私が最も懸念しているのは、あの男が指輪の儀を復活させるとほざいていることですわ……!」
 グレースはぎりりとハンカチを引き裂く。「栄光を掴んだ者には富を生み出す印刷機を!」との謳い文句でレイモンド発案の祭りが評判になっていることはユリシーズも知っていた。まったく厄介な男が現れたものである。天然なのか狙ってなのかは不明だが、あの男が群衆に好かれる術を知っているのは間違いない。金の稼ぎ方以上にばらまき方が秀逸だ。己の勢力の広げ方も。
「とにかく早急に手を打たなければ。お兄様、おわかりですわね?」
 ユリシーズは「わかっている」と眉をしかめた。このまま好きにさせる気はない。明らかな再独立派であるあの男に。
「そろそろ出かける時間ですので私はもう行きますが、くれぐれもよくお考えになってください。指輪争奪戦のインパクトに勝つためにはゴンドラレガッタでも主催なさるのがよろしいかと思いますわよ」
 命令に近い助言を残してグレースは部屋を出ていった。壁にかかった時計を見やり、ユリシーズも身支度を始める。
 下男を呼び、胸甲をつけさせる間ぼんやりと一昨日のことを思い出していた。アルフレッドとレイモンドは十年来の幼馴染だそうである。そのうち一人だけ飛び抜けた金持ちになり、王女ともいい仲とすると、彼も心中穏やかではないのではなかろうか。
(レガッタか。主催するのはいい手だが、アルフレッドに活躍の場をやったりしたら本末転倒だろうな)
 彼もルディア陣営の一員なのに、案じている己に戸惑う。
 たった一晩杯を交わしただけ。それだけの間柄だ。どうなろうと構うほどの相手ではない。
 けれど多分、初めてだった。他人に対して「こいつは自分と似た者同士かもしれない」なんて感傷を抱いたのは。
(……そう言えば、昨日もルディアに私のことを報告したとは言われなかったな)
 レイモンドのせいで国民広場が一日騒がしかったから、また話しそびれたのだろうか。真面目な男だから伝えたら教えてほしいとの約束を無視することはないと思うが。
 このままずっと黙っていてほしいなどと考えてしまい少し笑う。もう一度、しがらみから解き放たれて本音で話してみたい、と。
 だがそれは、きっと望めぬ未来だろう。あの男とて今日か明日には何もかも主君に打ち明けたと言ってくるはずだ。そうしたらあんな一夜の思い出は時の流れに飲み込まれ、儚く消え去るに違いない。
 マントの形が整うとユリシーズは家を出た。結局その日も、その次の日も、アルフレッドが報告の完了を告げてくることはなかったのだが。


 ******


 今日はなんだかいつも以上にシルヴィアが恐ろしい。いつも通りに歴史書を開き、教鞭をとっているだけなのに、いやに殺気立って見える。
 一番大きな病室からベッドをどけて椅子を入れた、ただ一日シルヴィアの話を聞いてシルヴィアのご機嫌を取るためにある教室には、感情を抑え込んだ声が響いていた。少女を囲む患者たちは自分の頭で考えることもせず、ふむふむと彼女の言に頷いている。
「いいですこと? 本当に頼りになるのはリリエンソール家を継ぐ我が兄だけです。嘘か本当かわからない世迷言を書いた本を、人も選ばず売りつけるなど有り得ない商売ですわ。あなたたちは決して騙されないように!」
 マルコムはふうと小さく息を吐いた。周りの誰にも聞きとがめられぬように注意深く。
 外の話はよく理解できないが、シルヴィアが荒れているのはレイモンドとかいう若者がインサツキなる悪魔の発明を街に持ち込んだかららしい。「印刷工房で雇ってもらえることになったので息子を迎えにきました!」と患者の家族がやってきて、仲間の一人がイチ抜けしたのは今朝のこと。シルヴィアは優しい笑顔で見送ったが、マルコムにはその笑みが怖くてならなかった。
「レイモンドってのは最低の男ですね。金儲けと人気取りしか頭にないみたいだな」
「そんなあくどい奴が名を連ねているなんて、僕はますます防衛隊が信じられなくなりましたよ!」
 皆は口々にシルヴィアに同意を示す。彼女が言っていることだって嘘か本当かわからないのに指摘する者は誰もいない。患者たちはシルヴィアが絶対的に正しいのだと心から信じきってしまっていた。
 幸せな頭で本当に羨ましい。マルコムには彼女がどんなにいたわり深い声をかけてくれても、出来がいいと褒めてくれても、「素行と成績の悪い者からドナ行きにする」という彼女の言葉を信じることができなかった。泣いて頼んでもこの中の三十人は確実に受難の地へと追いやられるのである。だとしたら家庭の事情で療養院に置かれている者よりも、面倒を見てくれる身内がいないため退院できない者のほうが切り捨てられやすいと思えた。
 現に今日、両親が面会にきた仲間は安全地帯に脱出したのである。危ないのは身寄りもなく金もない、自分のような者なのは確かだった。命綱に繋がっている人間が選ばれるのはおそらくその次だろう。
「……ふう、少し喋りすぎてしまったわ。十五分ほど休憩にしましょうか」
 いかに防衛隊が胡散臭い連中か説いていたシルヴィアは熱が入りすぎたのか膝の上の本を閉じると喉を潤しに席を立った。彼女が扉を閉じた途端、教室の空気がほっと緩む。平和な雑談に勤しむ彼らを置いてマルコムはこそりと裏庭へ向かった。
 最近はオーベドともパメラともヒックとも話す気になれない。胸中に抱えた不安を誰一人わかってくれそうにないからだ。前に少しだけ懸念を伝えたときは「妙なこと言って皆を動揺させるな」とオーベドに叱られた。これ以上彼を刺激したらシルヴィアを疑っていると密告されるおそれがある。九割九分ドナへやられるとわかっていても、自分から道を狭める愚行は避けたかった。
 マルコムは早足で通路を進み、裏庭へ出るドアを押し開ける。会いたかった友達は茂みの陰で待っていてくれた。
「ニャア!」
 足音に気づいて青い目をした白猫が顔を上げる。唯一本音を打ち明けられる存在を前に、安堵の心地で膝をついた。
「ナー?」
 利口な猫は元気のないマルコムを案じるように鳴いてみせる。今朝の出来事を洗いざらいぶちまけて、やっといくらか気が晴れた。人間の言っていることが猫にどこまでわかるのか馬鹿らしくなるときもあるが、ブルーは――自分が勝手にそう呼んでいる名前だが――ちゃんとマルコムの立場を理解してくれているように思える。それでついつい喋りすぎてしまうわけなのだが。
「算術も歴史も大事なことだと思うけど、本当は俺、早くジーアン語習いたいんだよ」
 抑えた声でぽつりと呟く。ブルーは少し驚いた顔でこちらを見上げた。
「三十人の枠の中に入っちまうの目に見えてるのに、なんにも準備できないのつらいんだ。けど防衛隊の人たちと話してるとこ見つかったら皆から裏切り者呼ばわりされるのわかりきってるし……」
 はあ、と大きく嘆息する。談話室の大棚に教科書らしきものが片付けられているのは知っていた。せめてあれが手に入ればと思うが、手に入ったら今度は隠し場所に困るだろう。結局今は何もしないのが最善なのだ。
「ウニャア……」
 白猫はぺろぺろと発育不良のマルコムの腕を舐めてくる。慰めるようなその仕草に頬を緩め、「もう戻るよ」と別れを告げた。
 すぐそこなのになんて遠い。本島も、談話室も、皆の心も。足掻くことさえできないなら、ほかの患者たちと同じく盲目的でありたかった。
 ああ、せめてドナの街が想像よりはましなところでありますように。


 ******


 二階まで突き抜ける大ドーム型溶鉱炉の傍らでバジルはほう、と息をついた。仕上げ室から下りてきたジーアン人の手に収まった、透き通る緑のゴブレットを目に留めて。
「今度のは上手く行きましたねえ! 歪みもないし、厚みもかなり均一です!」
「だろ? 完成品を溶かして作り直す日々はそろそろ終わりにできるかな!」
 天帝宮の元衛兵、タルバはニッと口角を上げた。初めて出荷できるレベルの工芸品を仕上げられて若者は満足そうだ。
 二人は今、ドナの郊外の工房で共同生活を営んでいた。贅沢三昧の退役兵に贅沢品の代表であるガラス食器や装飾品を上納するためである。バオゾを発てと命じられたときはもはやこれまでかと思ったが、同行してくれた彼のおかげでそれなりに快適に生活できていた。相変わらず自由は少なくアクアレイアに帰ることはできないが、皆が側にいると思うと以前より心強い。
「俺もお前みたいにレースガラス作れるようになるかなあ?」
「うーん、タルバさんにはまだちょっと難しいかもしれません。筋はいいですがいかんせん駆け出しですので」
 師匠ぶったことを言っても青年は少しもへそを曲げなかった。「そっか、まだ難しいか」と納得し、今後も研鑽に励むと意気込む。アクアレイアを支配したジーアン帝国の人間なのに、彼は常々バジルに敬意を払ってくれていた。
 安心して暮らせるのはドナに巣食う脅威からタルバが守ってくれるからだ。彼はバジルが退役兵と接触しないで済むように一人で納品をこなしてくれるし、無礼にも異を唱えてくれる。それに今はラオタオもアクアレイアに行ったきりで、無茶振りされる心配もなかった。
(あの人にはこのままずっとドナに帰らないでほしいなあ)
 そうすれば自分たちは伸び伸びとガラス作りに集中できる。アクアレイアの人々は嫌がるかもしれないが、聞いた限りでは性悪狐も滞在中の十将の相手で忙しく、祖国に迷惑をかけているわけではなさそうなので許されたい。
「さあ、明後日の納品に向けて頑張りましょう! ラストスパートです!」
 バジルはタルバに呼びかけた。元気に見えるが死病を患っているという青年が「おうよ!」と威勢よく答える。そのまま二人で溶鉱炉を高温にするための薪を取りに出た。ゴブレットは己が預かり、手拭に包んで小袋にしまう。
「あの、これ、僕が記念にいただいていいですか?」
「えっ、そんな普通のやつなのに?」
「普通なんかじゃありませんよ! タルバさんの処女作じゃないですか!」
「ええっ、いいけど、な、なんかちょっと恥ずかしいな」
 照れくさそうに彼は鼻の下を掻いた。そんなタルバを目にするのは初めてで、感情というものはどこの国の誰であれ関係ないなと実感する。妙な話だ。完全に負けてからのほうがわかり合う余地が生まれるなんて。
「ありがとうな、バジル。大事な技法をジーアン人の俺なんかに教えてくれてさ」
「いえいえ! 感謝するのはむしろこっちのほうですから!」
 材木を積んである裏庭に回りつつ二人でぺこぺこ頭を下げ合う。どちらからともなくプッと吹き出し、夏空に笑い声を響かせた。
「よーし、それじゃ往復開始だ! 運ぶぞー!」
 体格のいいタルバはひょいと両脇に薪束を抱える。長弓の稽古で鍛えた腕でバジルも負けじと薪を持ち上げた。
 タルバは忘れ去られたくないと言う。世界に自分の足跡を残さねば死んでも死にきれないと言う。その願いを叶える力を貸したかった。たとえこの行動が褒められたものでないとしても。だってせっかく友達になれた人なのだから。









(20181023)