運命が激変するような一日も、その瞬間が訪れるまでは普段通りの何食わぬ顔をしている。この日ユリシーズは委員会の議事録にパトリア聖暦一四四三年八月十一日を記した。
 記録係は持ち回りの当番制だ。厳しい守秘義務を課された機関ゆえに書記官などという部外者はいない。事が片付けば破棄される資料なので書くのは概略だけで良かったが、面倒な雑務には違いなかった。そのうえどんな議題であれここ最近は同じ結論にしか至らないのだから、記録の意味を問いたくなっても致し方ないことだろう。
「とにかく金がなさすぎるんじゃ」
 眉間のしわを深くしてトリスタン老が嘆息した。祖国のため、真っ先に私財をなげうった保守派の老人は「もうどこから調達すればいいかもわからん」と大仰にぼやく。
「そうは言っても運河の整備はどうにか手をつけないと」
 続けたのはディランの父、慈善病院を運営するドミニク・ストーンだった。人のよさそうな丸顔を歪め、彼は既にあちこちで水位の変化が観測されている旨を報告する。
「アクアレイア湾に流れ込む川は土や砂まで運んでくる。放っておいたら浅いところから順番に埋まってしまうよ」
「けれどまだそこまで深刻になるレベルではないでしょう? 配給用の国庫の備蓄を確保するほうが先決では」
「おいおい、大型帆船が港に入れなくなったら小麦の輸入も止まるんだぜ? それに一年二年で大きな影響は出ないと言っても保全工事は放置するほど高くつく。今がぎりぎり限界だ。ドミニクの言う通り、夏の終わりにはどぶさらいを始めねえと」
「だから費用は誰が出すのかと言っておるのじゃ! 整備が必要不可欠なことくらい、アクアレイアに住む者なら誰だってわかっとるわい!」
 白熱しだした議論の内容をユリシーズは「運河・水路の全面的な保全工事。要資金捻出」とだけ記した。その一つ上には「失業者の一時救済。要資金捻出」、もう一つ上には「神殿の設備維持。要資金捻出」、一つ前のページにも「要資金捻出」「要資金捻出」「要資金捻出」と、いっそ印を作りたいくらい同じ言葉が並んでいる。
「ユリシーズ、お前はどうだ? リリエンソール家でなんとか工事費の工面はできねえもんかなあ?」
 名指しで話を振られたのでユリシーズは記録用紙から顔を上げた。重い息をつき、神妙な顔で首を振る。
「うちは海軍の面倒を見るという一番大きな負担を抱えているんだぞ。せめて金策の手を尽くしてから尋ねてはもらえないか」
 きっぱり返せば委員会の面々はそうだよなあと肩を落とした。問題だらけで手も金も回っていない現状を改めて痛感する。もう少し外貨を獲得する手段があれば展望も開けてくるのだが。
(ウォード家もオーウェン家もうちがやるとは言わないか)
 ちらと退役軍人たちの謹厳な顔を見やる。暗澹たる空気に満ちた小会議室でブラッドリーとトレヴァーは悩み深げにそれぞれ腕を組んでいた。
 いつもなら何かしら知恵を授けてくれるニコラス老も今日はうつむき、口を閉ざしたままでいる。積もり積もった疲労で額は青ざめて、稀代の天才の父といえども妙案は出てきそうに思えない。
 八方塞がりだ。塩田を広げるだとか、女帝に商人を紹介するだとか、やれることは全部やったがいよいよ手詰まりの感がある。戦時中でさえ怠らなかった運河の保全が不可能になるとは海運国の衰退もここに極まれり、だった。
(やはりうちが出すしかないか?)
 しかし、ううむと考え込む。どこの貴族にも余裕なんてものはない。ほかの者よりましというだけでリリエンソール家とて例外ではなかった。安直に引き受ければ海軍まで共倒れになってしまう。その事態だけは絶対に避けねばならなかった。
(海軍が消滅すれば商船団を組めなくなる。交易都市としてのアクアレイアはおそらく終わりになるだろう。なんとしても、ここはリリエンソール家以外の貴族に踏ん張ってもらわなくては……)
 落ちぶれて商人から漁民に転じた者はごまんといる。彼らを再び東方市場に復活させられるかどうかはひとえに十人委員会にかかっていた。
 埋まらない担当者の空白をユリシーズは睨みつける。少し前までこんな紙、ぐしゃぐしゃに丸めて捨ててやりたいと思えばそうできたのに。
「亜麻紙もすっかり贅沢品だよねえ」
 正面に腰かけていたドミニク・ストーンがぽつりと言った。議事録の片端を握り込むユリシーズの苛立ちを察したように。
「まあだが、国内でも多少生産できるようになってから、ましな値にはなったがな」
「ぼろきれを集めて加工したら紙が作れるなんて知らなかったよね」
「そういう技術がもっとあれば助かるんだけど……」
 本題からはやや逸れた雑談にも皆の本音は透けて見えた。いくら塩田を拡張したところで国内消費に回るだけでは現状維持にしかならない。アクアレイアがこの苦境を脱するためには国外に売りにいける品々を得なければならないのだ。
(だが何がある? 高い関税を支払ってなお利益の見込める香辛料の類には、今の貧しいアクアレイア人では手が出せない)
 ユリシーズはペンを持つ手に力をこめた。
 相変わらず誰からも案は出ない。運河の保全工事はこのまま先送りにされてしまいそうだった。


 ******


 耐えるべきことに耐えられない自分にほとほと嫌気が差す。本来なら人質は人質らしく宮殿で行儀良くしているべきだとわかっているのに。
 ユリシーズが会議に行くと抜けた後、どうしてもアニークと二人で過ごす気になれなくて、アルフレッドは墓島の療養院を手伝いに来ていた。と言っても教科書は完成しつつあり、やることはほぼ残っていなかったのだが。
「はー、やっと十冊分書き写せたあ!」
 痛そうに手を擦りつつモモが最後のページに息を吹きかける。インクが乾くまでもう一晩はかかりそうだが、今日できる仕事はこれで完了したようだった。
「ありがとう、モモちゃん。私のスケッチも描ききれたわ」
 談話室の一角で別のページに延々と絵を入れていたアイリーンが顔を上げる。表紙の準備をしていたルディアも「あとは製本だけだな」と頬をほころばせた。
「そっちはどうだ? まずいところはなかったか?」
 振り返ったついでのように主君に問われる。手にした見本に視線を落とし、アルフレッドは「誤字も脱字もなかったよ」と答えた。
「例の出し方も初心者にわかりやすくなっていると思う。この教科書があれば俺でも教師ができそうだ」
「そうか、良かった。モモとアイリーンが頑張ってくれたおかげだな」
 率直なねぎらいに妹は「えへん!」と胸を張る。アイリーンもはにかんで、青白い顔を朱に染めた。
「本当にすごいよ。この完成度なら使い終わった後で値をつけて売れるんじゃないか? ジーアン語を覚えたい商人はそれこそ山ほどいるだろうし」
 感想を聞いてモモは「でしょー!?」とますます笑顔を輝かせる。「ああ、実は私もそう思う」と手がけたルディアも内容に満足している様子だった。
「だからできればもう二十冊ほど作れればいいなと考えているのだが……」
「ひっ、ひえええっ!?」
 上出来ゆえに飛び出した思わぬ希望に目を剥いたのはアイリーンだ。「そそ、それは確かに名案だけど、二十冊作る前に私の手が壊れちゃうっていうか」と焦る彼女を援護して妹もぶんぶん首を振った。
「モモだって向こう十年はジーアン語書きたくないよ! そういうのは文明の利器に! 印刷機にお願いしよ!」
 必死の形相ですがられた主君が「はは」と明るく笑う。印刷機という語句に今度はアルフレッドが身を強張らせる番だった。パーキンを連れて帰国予定の幼馴染。教科書作成なんてしていて彼を思い出さないはずがない。
 談話室に張り出されていたカレンダーがふと目に留まり、アルフレッドは顔を背けた。去年まで朗らかな気持ちで祝った友人の誕生日。今年は何事もなく終わってほしいと願っている自分がいる。
(また俺は、騎士としても友人としても相応しくないことを)
 見とがめられないように小さくかぶりを振った。ルディアはさしたる動揺もなく槍兵の名を口にしてみせる。
「安心しろ。レイモンドが帰ってくるまで追加分は作らないよ」
 アクアレイアに戻って約二ヶ月過ぎた。主君の中で幼馴染は今どんな位置にあるのだろう。あのお守りはまだ彼女のポケットの中なのだろうか。
「さあ、今日はもう引き揚げるぞ。どうせ明日まで何も触れないんだしな」
 作業用に改良された大棚に乾き待ちの用紙を丁寧に並べるとルディアは戸を閉めて鍵をかけた。こちらを振り返った彼女に「今日はお前が漕いでくれるか?」とゴンドラの操船を頼まれる。
「ああ、もちろん」
「ありがとう。助かるよ」
 屈託ない笑みにほっと息をつき、アルフレッドは療養院の出口へ向かった。
 自分だって頼りにされていないわけではない。ならそれでいいではないか。そんな風に思えたのは、珍しくごった返して騒々しい国民広場へ戻るまでの話だったけれど。
 解決不可能な問題に対し、人間はどこまでも無力である。何かしなければと強い焦りを感じながらも実際にできるのは日常を維持することのみだ。無益でいたいけなその尽力はすべてが崩れ去る瞬間まで続けられる。あたかも延命を乞う祈りのごとく。


 ******


 エメラルド色の潟湖は今日も美しく、空の濃い青と色彩を競い合っていた。療養院を後にするのはいつも夕刻前だから、こんなに明るい日の下を帰るのは久々だ。
 別に今日、特別な用事があって急いだというわけではない。たまたま用事が早く済んだだけのことだ。ここにいれば「祝ってくれよ」と厚かましい要求をしてきそうな男もまだ帰国してはいない。
 広がる海を見つめながらルディアは溜め息を押し殺した。騎士の漕ぐ小舟はまっすぐ本島へ舳先を向け、白い波を立てている。
 大丈夫だ。小さく胸に呟いた。大丈夫。しばらくは首飾りに触れてもないし、名前だって普通に言えると。
 アクアレイアの行く末を考えるとき、思考からレイモンドの存在は消える。そのことを確認しては覚悟を固める。姫として、祖国のために生きて死ぬ覚悟を。
 ユリシーズのことだってそうやって忘れたのだ。同じことをもう一度やればいいだけの話だった。
(いい加減、新しい身体を決めてしまわねばな)
 シルヴィアの妨害もあり、難航していた身体探しは近頃ようやく進展しつつあった。といってもあまり望ましい調査結果は出ていない。入れ替われそうな人間はせいぜい下級貴族止まりで、それさえ今の不景気では平民と大差ないと判明したというだけだ。
 それでも次が決まりさえすれば駒を先へと進められる。いつまでも非合理な感傷に浸ってはいられなかった。ぐずぐずと同じ場所に踏み留まっているわけには。
(何があっても私は王女だ。国のためでなく自分のために相手を選ぶなど有り得ない)
 胸のどこかが痛んでも、無視できる程度の痛みになった。離れて正解だったのだろう。自分はもう冷静で、きっと首飾りも捨てられる。
 寄せては返す波を見つめ、ルディアはそっと目を伏せた。「あれ見てあれ!」とモモが叫んだのはそのときだ。
「あら? また随分大きな船が入ってきたわねえ」
「壮観だな。あの五隻、全部同じ船団か?」
 ルディアはさっと首を伸ばし、税関岬に近づいていく三本マストの大型帆船に目をやった。あんな巨船が入港するなど滅多にない。特にここ最近では。
 どこの船だと旗を見上げ、ぱちくりと瞬きする。両目を擦って二度見した。何故なら船団は五隻ともアクアレイア所属を示す貝殻紋の青い旗を掲げていたからだ。
「誰の船だろうねー!?」
 モモは興味津々でゴンドラの櫂を手に取った。兄だけに漕がせていたのでは船主を見逃すと考えたのか、斧兵は「早く早く! 広場に戻ろう!」と騎士を急かす。
 野次馬根性に火をつけられたのは彼女だけではなかったようで、大鐘楼の麓には既に多くの住民が集まっているのが見えた。ゴンドラ溜まりに舟を舫うとルディアたちも小走りに広場へ向かう。大運河を挟んだ対岸の商港には次々と大型帆船が引き入れられ、活気づく荷運び人らの声が響き渡っていた。
「一体どこの貴族の船だ? 逃げ出した連中が戻ってきたのか?」
 ルディアは先に陣取っていた黒山の人だかりに問いかける。「さあなあ」「皆わからんそうだ」と幾人かが返事をよこした。
「最後の一隻、あの一番でかいのに船主が乗ってると思うんだが……」
 漁民らしい男の言葉は最後まで聞けなかった。わあっという歓声が何もかもさらっていったからだ。
「レイモンドじゃねえか、あれ!?」
 誰かの台詞に目を瞠る。えっと見上げればロープに曳かれてゆっくりと旋回する商船の甲板に金髪の人物が覗き、こちらに手を振るのがわかった。
「えっ? えっ? レイモンドだった!? モモよく見えなかったんだけど!」
 うろたえる斧兵に「わ、私にもよく見えなかった」と返答する。レイモンドの名はそうこうする間に群衆に波及し、異様な熱気を発生させた。
「バッカ、んなわけねえだろ! あいつがあんないい船に乗れるかよ!」
「けどあの背の高さと手の振り方はそれっぽかったろ!?」
「いやいや、似てただけだって! レイモンドは絶対ないって!」
 顔見知りが多いせいか、あちらこちらから槍兵の名が飛んでくる。ごくりと息を飲み、ルディアは帆船の主が入国手続きを終えるのを待った。
 広場を埋める民衆は増えこそすれ帰ろうとする者はいない。そのうち税関岬から船室付きのゴンドラが漕ぎ出てくると人々の好奇心ははち切れんばかりに高まった。
「レイモンドじゃなかったら五十ウェルスだぞ、お前!」
「なんでだよ! じゃあお前、レイモンドだったら俺に五十ウェルスよこせよ!」
 野次馬たちのやりとりについ先刻まで落ち着いていた心臓が逸りだす。本当に彼なのだろうか。わけのわからぬ緊張感に耐えかねて、ルディアは隣の騎士に尋ねた。
「お、お前はレイモンドだと思うか?」
「いや、あれはどこかの貴族の船団と思うが……」
 アルフレッドはやや硬い表情で答える。アイリーンに抱えられたブルーノも無言でうんと頷いた。
 それはそうだ。レイモンドなわけがない。ちらりと一瞬見えたのはいかにも上等な黒の衣装を身に着けた男だった。だが確かに少々似てもいたのである。勘違いかもしれないが、手を振られたのもルディアを見やった直後に思えた。
(もしレイモンドだったらどうする?)
 急激に抑制を失いつつある心臓を掌で押さえつける。どうもしないと自分に強く言い聞かせた。どう生きるべきかもう決めたろうと。
 大丈夫。大丈夫だ。いない間も普通に過ごせた。一人で考えて立ち回れた。だから自分は大丈夫――。
「おい、出てくるぞ!」
 船室付きゴンドラは大鐘楼の脇に止まり、船頭が恭しく扉を開けた。群衆の注目を一身に浴び、若い男が姿を現す。緩んだオールバックの金髪を撫でつけ、窮屈そうに長い手足を折り曲げながら。
 誰かが名前を呼ぶ前に彼がこちらを見つけて笑う。へらへらと締まりない、あの彼らしい表情で。
「よっ! ただいま、皆!」


 *****


 ひとかどの商人らしく見えるように服を新調したのは大当たりだったらしい。軍服風のいでたちと、何より五隻の大型帆船に目を剥いた人々はあれよと言う間にレイモンドを取り囲んだ。
「おいおいお前、どうしたんだその恰好!?」
「さっきの船はお前の船か!?」
 質問攻めに「まあな」と口角を上げて応じる。するとやや遠巻きに見ていた者まで押し寄せて「あんな船どうやって手に入れた!?」と騒ぎ立てた。
「ちょ、ストップストップ! 押すなって! 商売に決まってんだろ!」
 苦笑まじりに腕を広げるジェスチャーをすれば人混みに細い道が作られる。「商売ってなんの!?」としつこい人々を掻き分けてレイモンドは前へ進んだ。
 反対側から仲間たちの来るのが見えて、嬉しさに頬が緩む。半年ぶりの再会だ。人目がなければ「姫様!」と叫んで飛びつきたいくらいだった。
「レイモンド!」
 大鐘楼の見下ろす広場で主君たちと向かい合う。真っ先に名を呼んでくれたルディアはまだブルーノの身体を借りているようで、ひと目見てすぐ彼女だと知れた。
「なんなんだ、あの船団は!?」
 野次馬と同じ質問にふふっと吹き出す。「稼いで買った!」と答えれば彼女は目を丸くした。聴衆も同じくだ。予想通りのどよめきが広場を駆け巡っていく。
「か、稼いだ? あんな船を買えるほどの額をか?」
「ま、ちょっと色々あってな。あとで詳しく説明するよ」
 ルディアの驚いた顔を見て、目標の一つは達成したなとほくそ笑んだ。印象は強ければ強いほどいい。回り回ってきっと彼女のためにもなる。
「とにかくただいま。皆元気そうで良かった!」
 主君の周囲に並び立つ幼馴染たちに笑いかけると彼らからも笑みが返った。「おかえり」のひと言にああ、帰ってきたんだなと実感する。
 だがあまりのんびり感動している暇はなさそうだった。衆目を気にかけつつ早速ルディアが互いの情報を共有し合おうとしてくる。
「ここではなんだし、場所を変えよう。パーキンはまだ船か?」
「あいつならゴンドラだよ。もう一人お客さんがいるんだけど、こんな人混みじゃ降りれねーっつって」
 顎先で小舟を示し、レイモンドは踵を返した。今来た道を皆で戻ろうとしたのだが、そこに唐突に「待っとくれ!」と呼び止める声が響き渡る。
 ざわめく人垣の先を見ればレーギア宮の正門が開いたところだった。門の奥からは黒いローブを着込んだお偉方が足早に駆けてくる。記憶違いでなければそれは十人委員会の制服で、先頭に立つのはかの高名なコナーの父、ニコラス・ファーマーのはずであった。
「大型商船が五隻も入ったと報せがあったが、お前さんの船団か?」
 今日三度目の問いかけにレイモンドはハハと笑う。汗ばむ額を押さえる老人に「うん、そうです」と答えると彼らは驚嘆の息をついた。
「一体全体どうやって……」
 これまた同じ質問だ。どうやら皆抱く疑問は同じらしい。まあ当然か。貧乏臭かった知り合いが突然豪商になって帰ってきたら自分だって経緯を尋ねる。国内の不穏分子に目を光らせている十人委員会ならなおさらだ。
「ん?」
 と、なんでまだ十人委員会があるのだと思い至ってレイモンドは黒ローブの御大尽たちを一瞥した。王族が抜けて人数も減ったはずなのに、数えてみれば彼らはきっかり十人いる。
「んん?」
 その中にブラッドリーやトレヴァーの顔を見つけてレイモンドは瞠目した。しかも最後の十人目は、どうやらあのユリシーズのようである。
「えっ、メンツ変わったんすか? 解散にもなってない?」
 瞬きしながら尋ねるとニコラス老は頷いた。ルディアがそっと「ジーアンに降伏はしたが、基本的な統治は彼らに委ねられているんだ」と教えてくれる。
「おお! そんじゃあアクアレイアはジーアン人じゃなくてアクアレイア人で仕切れてんだ?」
 それは良かった、いいことを聞いたとレイモンドは声を上げて喜んだ。なら自分の計画は十人委員会を通したほうが早く進みそうだと断じる。
「あのー、俺、実は新しい商売を始めまして。その儲けで船団も手に入れたんすけど」
 にこにこと愛想良く手を合わせ、レイモンドはニコラス老の前に歩み出た。いかにして若者がこれだけの財を成したか、好奇心たっぷりに周囲の者が耳をそばだててくる。取り澄ました十人委員会の面々も例外ではなかった。
「アクアレイアで開業するにあたって皆さんに一つお願いしたいことがあるんすよね。悪い話ではまったくないんで、ご興味持っていただけたならちょっと聞いてもらえません?」
 商売の内容には触れぬまま擦り寄ってきたレイモンドに委員会の御大尽らは面食らい、一様に顔をしかめた。胡散臭げな眼差しには慣れている。気にせずレイモンドは続けた。
「そしたらその場で俺の事業の中身についても説明させてもらおうかなと思うんすけど、駄目っすかね?」
 豪華なしつらえの装束を見せつけるようにポーズを取る。少々やりすぎ感のあるウィンクにニコラス老はたじろいだものの、すぐに平静を取り戻したようだった。委員会の重鎮はほかの仲間に目配せして宮殿までの道を開いてくれる。
「うむ。ちょうど今なら会議で全員揃っておる。お前さんがどう一財産築くに至ったか、是非とも聞かせてほしいのう」
「おお! ありがとうございます!」
 まさか今すぐ時間を割いてくれるとは思わず、丁重に礼を述べる。
「おいレイモンド、何を言い出す? どう考えても先にこれまでの擦り合わせだろう!」
 勝手なことをするなとルディアには睨まれたが「いいからいいから」と軽くかわした。「これは俺の商談だから、あんたは横で聞いててよ」と。
 いきなり十人委員会なんて大物が釣れるとはラッキーだ。まあ釣れなくても今日明日には自分から売り込みに行っただろうが。こういうことはタイミングが重要なのだ。向こうから網にかかってくれたのに逃す手はない。
「えーっ、どういう流れなの? モモたちも委員会出なきゃいけないの?」
「わ、私、場違いなところに出るのはちょっと……」
「ウニャアー」
 先にレーギア宮へ戻り始めた委員たちの背中を見やってモモとアイリーンとブルーノが首をきょろきょろさせる。「面倒だったらお前らは来なくていいぜ」と返せば素直なモモは「じゃあ行かない!」と即答した。
「宮廷嫌いなんだよね。ジーアン兵いっぱいいるし」
「へっ、そーなの?」
「そうだよー! ねっアル兄?」
「ああ、まあ、いっぱいになるのは日が暮れてからの話だが……」
「はあー、そうなのかあー」
 街や人は変わらずとも、どうやらすべてが以前のままとはいかないようだ。なるほどなと腕組みし、レイモンドは「一応一緒に来てくれる?」と幼馴染に問いかけた。
「ああ、二人で行くより三人のほうがいい」
 頼もしい友人は二つ返事で了承してくれる。その妹は「モモ先に帰ってるね!」と薄情極まりなかったが。
「あ、悪ィ。モモはあっちのゴンドラ行って、パーキンともう一人のお客さんホテルに案内しといてくんねーか?」
「ええーっ!? なんでモモ!?」
「パーキンに任せたらどんな宿取るかわかんねーだろ! めちゃくちゃ大事な客なんだよ! 一番いいホテル頼むぞ? お駄賃はちゃんとやるから!」
「えええっ、お駄賃って、レイモンドどうしちゃったの? 頭打った?」
「ばーか。出し惜しみは浪費より罪が重いんだよ。あ、それとうちの母ちゃんにも帰ったっつっといて!」
 本当に頼むぞと念を押し、剛腕少女の肩を押す。「わ、私も手伝ってくるわ」と駆け出したアイリーンの申し出がありがたかった。
 二人の後ろ姿はすぐに雑踏に埋もれてしまう。白猫の足音も、遠ざかるのは早かった。
「……レイモンド、お前十人委員会に何を頼むつもりなんだ?」
 怪訝そうに顔をしかめた主君にへへっと笑いかける。
「俺とパーキン、共同経営者になったから。まあ印刷関係の話だよ」
 一瞬ルディアがすごい顔をしたのは気のせいではないだろう。気が狂いでもしない限り誰もパーキンと組もうだなんて考えない。
 慄然とする主君と騎士に「早く早く!」と声をかけ、レイモンドはレーギア宮の門をくぐった。黒ローブの貴族たちは中庭の大階段を上がり、ゆっくりと小会議室へ向かっていた。


 ******


 他人の金を当てにするなど惨めなものだ。それもたった今帰国したばかりの若造の、出所さえ不確かな金を。
 ニコラス老がレイモンド・オルブライトを会議の席に招いた真意は火を見るよりも明らかだった。このしたたかな老人はお願いとやらを請け負う代わりに運河整備の資金を提供させる気なのだ。不甲斐ない話である。名だたる貴族がそうとわかっていて何も言わない。
 ユリシーズは自席に着き、ペンを持つ手に力をこめた。せめてレイモンドが自由都市派の男であれば――否、防衛隊の一員でさえなければ歓迎してやったのに。
 既にして直感が「ろくな展開にならないぞ」と告げていた。緊張感に欠けた口元も、やたらと大きな図体も、亡き王を彷彿とさせる軍服風の装束も、何もかも無性に気に入らない。とりわけ奴が後ろの女を振り返るときの眼差しが。
「えっとー、何から話させてもらおうかなって感じなんすけど……」
 卓と向かい合う演壇に上がったレイモンドは軽い口調で喋りだした。間延びした彼の声が響く以外、小会議室はかつてないほど静まり返っている。
 不気味な沈黙と言ってよかった。まるでモラルを引っ込ませておくために、その他のものも一緒くたに引っ込ませているような。
(いや、実際そうなのだろうな)
 ユリシーズは議事録をつけるべきかどうか迷った。普通に考えて一般庶民がたった一年半かそこらで大型帆船を五隻も手に入れることなどできない。何かあくどい商売で成功して、委員会には口止めを頼むとしか考えられなかった。
 悪事というのは証拠を残さぬように最大限配慮すべきである。だがときにはその逆も有効で、証拠があるから共犯者を裏切れないという面もあった。十人委員会の面々なら清濁併せ呑めるだろうし、ここは何も書かないほうが賢明に思えるが――。
「とりあえずこれ見てもらっていーすか? うちの印刷機で刷った『パトリア騎士物語』です」
 ん? とユリシーズは顔を上げた。いかがわしい粉末や触れたくもない薬液が取り出されるものと思っていたのに、委員らの囲む卓上には簡素な装丁の本だけがある。想定外の物品を置かれ、一同はきょとんと顔を見合わせた。
「活版印刷機っつって、今までの何十倍も早く本を作れる機械があるんすよ。しかも何冊でも同じのが」
 ほう、と食いついたのはニコラスだ。しわくちゃの手で興奮気味に本を掴むと老賢人は目を輝かせた。
「活版印刷機! 噂には聞いとったが、完成しておったのか!」
「あ、ご存知です? ちなみにこの本、船にもう百冊あります! 北パトリアじゃ護符が飛ぶように売れたんすけど、アクアレイアだったらやっぱ騎士物語のほうかなって」
 レイモンドはぺらぺらと印刷機の開発者とどんな仕事をしてきたか語った。あるときは新聞を、あるときは広告を、あるときは神話集をと彼は実に幅広く様々な印刷物を手がけてきたそうである。そのすべてが想像以上の成功を収め、印刷工房一号店は今なお大繁盛しているそうだった。
「そ、そんなに儲かるものなのかね?」
 おずおずと尋ねたのはドミニクだ。非人道的商売ではなさそうで、彼は見るからに安堵している。なんならもっと詳細を知りたいと商売人の顔つきになり始めていた。
「ふっふっふ。まあ厳密には一番稼いだ方法は印刷機じゃないんすよ。機械製のが出回った後って手製にプレミアつくんすよねー。一ヶ月祈りを込めたって触れ込みの特製護符にはびっくりするほど高値がついて、そいつが船に大化けしたって感じです!」
 北辺で護符の需要が高まっていた背景を聞き、委員会の面々は「なるほど」と感嘆した。何故かルディアやアルフレッドまで「そういうことか」と唸っている。
「上手いことその元神官への畏怖を利用したわけだ」
「面白い! うちでも商売繁盛や道中安全の護符を売ればどうかな?」
「いやいや、いかんぞ。北パトリアだからこそ護符は受け入れられたんじゃ。西パトリアや東パトリアでは五芒星の書き順問題が発生する」
 気がつけば全員前のめりだ。印刷見本の騎士物語は次々と委員の手に渡り、美麗な印字にどよめきが起こった。慧眼鋭い一同にはぱらぱら捲ってみただけでそれがどんなに革新的な技術で作られたものか理解できたらしい。
「か、活版印刷機とはどういう構造をしとるんだね? 印刷工房を作るとして、職人は何人くらい、修業は何年くらい必要なものなんだ?」
「アクアレイアで開業するとか言っとったが、お前さんどんな目算で動いとるんじゃ? こっちじゃさすがに護符頼みとはいかんじゃろう?」
 飛び交う質問にレイモンドは一つ一つ丁寧に応じた。曰く、読み書きできる人間なら老若男女問わずすぐにも植字工になれるらしい。プレス機を扱うには大ねじを締める筋力が要求されるが、櫂漕ぎに慣れた者なら問題ないとのことだった。護符の需要はさほどでなくとも航海中退屈を持て余す商人に本は必ず売れるという。少々在庫が残ったところで魚のように腐ることはないし、今のアクアレイアにこれほど向いた商売はないと断言された。
「実はこっちで一から職人育てようと思ってて。とりあえず最初の店は連れて帰ってきた親方とやってくつもりなんすけど、まあ三十人くらい雇えればいいかなって」
「ふむ。三十人か」
「意外と少ないね」
「とりあえず最初はです。ゆくゆくは工房の数自体増やしていきたいんすよ。アクアレイア人に親方できるようになってもらって、欲しいって人には印刷機売って、うちで独占するんじゃなくて」
「ふむふむ」
「なるほど、新しい技術を隠しておく気はないんだね」
 どうやら話が見えてきたなとユリシーズはレイモンドを鋭く睨んだ。回ってきた騎士物語を読むふりをしつつ、彼の要求を推測する。
 おそらくレイモンドの狙いは印刷業で儲けることではなく印刷機業で儲けることだろう。話を聞く限り難解なのは活版印刷機の製造のみだ。新しく商売を始めたい者に高額で売りつければ確実な儲けが出る。本と違ってそれなら売れ残る心配もない。
「けど今はまだ、街の皆に印刷ってもののイメージを持ってもらうところだと思うんすよ。こんなに稼げるんだぞってこと一目瞭然にしようと思ってできるだけでかい船で帰ってきましたけど、実際に本が売れてるところ見ないと誰も手ェ出そうとしないと思うんで」
「まあ、それはそうだの」
「刷ってきた分は早速売ってくつもりなんで、一ヶ月もすりゃ皆やりたいって言いだすと思うんすよね。で、そんときのためにもう次の印刷機作り始めてるんです!」
 思った通りレイモンドはその真意を匂わせ始めた。見かけより知恵の回る男ではないか。大型帆船を五隻も見せれば誰だって浮足立つ。借金をこしらえてでも印刷機を買い取ろうとする馬鹿者も出てくるだろう。
 だがまだ誰も口にしていないだけで、印刷業に高いリスクがあることは明白だった。機材の準備、用紙の準備、インクの準備、これらにかかった高い金は本が売れねば回収されない。利益が出るまで耐えられる潤沢な資金がなければ始められない商売なのだ。無理に手を出せば早晩破産の憂き目に遭う。機械を売りつけるだけの人間には知ったことではなかろうが。
「しかしちと初期投資がかかりすぎるのではないか? 印刷機を買えるほどの人間も今のアクアレイアにどれほどいるか……」
 ニコラス老が嘆息とともに呟いた。老賢人はレイモンドを警戒する素振りを見せ、皆に冷静を取り戻すように促す。が、次に返されたのはまったくもって思いもよらない言葉だった。
「あ、印刷機はレンタルもやりますよ。仰る通り初期投資バカ高いんで、俺もできるだけ入りやすい形整えようと思ってて。うちだけが儲けるんじゃなく、アクアレイア全体を印刷の街にしたいんすよね! これがこの国の産業だって言えるくらいに!」
 小会議室にどよめきが走る。「さ、産業?」「また大きく出たな」とざわめく中で、レイモンドはにこにこと更なる驚きの計画を打ち明けた。
「で、俺が皆さんにお願いしたいのは、ちょっとお祭りやりませんかってことなんすけど」
 悪戯っぽい笑みを浮かべ、レイモンドは「今作ってる印刷機、これはほんとにタダであげようと思うんです」と続ける。「タダで!?」「誰に!?」という驚愕の声に彼は右手の親指と人差し指で円を作った。
「指輪争奪戦の優勝者っす!」
 レイモンドの意図が読めずに混乱する。どうもこの男はただ単純に金儲けがしたいわけではないようだ。何か確固たる目的がある。窮地の祖国を救い得る新技術を持ち帰り、人々の関心を集め、一体何をするつもりなのか――。
「……ああ……」
 深々と息をつき、超のつく保守派のトリスタン老が頭を垂れた。祈るように、跪くように。建国祭の華であった指輪争奪戦。『海への求婚』の儀。それを復活させんとする若者の前にひれ伏し、老臣は目頭を押さえる。
「ルディア姫は本当に、本当に良い部下をお持ちになられた……」
 すべて悟るにはそのひと言で十分だった。レイモンドは、王家の名誉のために動こうとするこの男は、やはり己の敵なのだと。
「ま、そーいうことっすね。姫様と、イーグレット陛下のために、俺にできることしたいんです。この国を勇気づけられるようなこと」
 レイモンドは「へへっ」とはにかみ、一瞬ちらりと青髪の剣士を振り返った。ルディアの瞳が揺れたことに気づいてユリシーズはムッと眉を引きつらせる。
「返事はすぐじゃなくていいっす。指輪争奪戦は九月二十三日にできたらいいなと思ってるんで、印刷業の将来有望さを実感してもらってからで!」
 聞き覚えのある日付に眉間のしわはますます深く濃くなった。九月二十三日は波の乙女の化身と謳われた王女の、ルディアの誕生日ではないか。
 反対だ! そんなことはしなくていい! そう叫びたかったができなかった。小会議室の空気はすっかり「そんな願いならいくらでも叶えよう」「祭りは今のアクアレイアにとってもいいことだ」というものに変わっていた。
「いや、この場で約束するよ。お前さんの希望通り、来月二十三日に『海への求婚』を行うこと。しかし一つだけいいかね?」
「はい! なんすか?」
 ニコラス老は「であれば今年の運河整備はお前さんに任せていいな? 祭りの主催は相応の金を出すもんじゃ」と巧みにレイモンドに持ちかけた。
「ああ、そうっすね。いいっすよ」
 レイモンドのほうも至極あっさりと請け負う。大まかな費用を聞いても少しも動じたところがないのが腹立たしい。
「じゃ、お時間いただいてありがとうございました!」
 恭しくお辞儀して新たな綺羅星は演壇を降りた。アルフレッドとルディアも会釈し、三人はほどなく小会議室を後にする。
 気に入らなかった。何もかも。保全工事くらいうちがやると言えば良かったと悔いるほどに。
 あれは早急に摘むべき芽だ。本能がそう告げていた。


 ******


「あっ、やべ! 本忘れた!」
 そう叫び、大階段を降りきったところでレイモンドが足を止めた。堂々とはしているが少しばかり早口だなと思っていたら、お偉方の面前でさすがの彼もいくらか緊張していたらしい。
「どうする? 小会議室に取りに戻るか?」
 中庭の隅に立ち止まり、赤髪の騎士が問いかけた。降りてきたばかりの階段を見やるアルフレッドに槍兵は「悪ィ、いいか?」と頭を下げる。
「こらこら、極秘の会議中だぞ。忘れ物くらいで邪魔をするな」
 いつもの口調を心がけ、ルディアは早くも駆け上がりかけていた二人を制止した。宮廷における礼儀作法などほとんど知らない若者たちは慌てて回れ右をする。
「えっ、えっ、どーすりゃいいの」
「後日ブラッドリーか誰かの手から戻ってくるだろう。まさか寄付してくれたとは思っていまい」
「ま、まじかー!」
 失態に項垂れるレイモンドを見てルディアは秘かにほっとした。急に大富豪然とした姿で帰国するから中身も相応に変わったのかと案じていたが、抜けたところはそのままのようだ。「後日ってどのくらいだろ? 明日には返ってくるかな?」と不安そうに聞いてくるので「さあな」と目を逸らしつつ答える。
「『パトリア騎士物語』だし、回し読みされて二週間後くらいになるんじゃないか?」
「えええ!? それは困る! あーもうなんで忘れたんだ俺の馬鹿!」
 何か予定があったらしく、レイモンドはがっくり肩を落とした。そんな彼にアルフレッドが「同じものがあと百冊あるんじゃないのか?」と問いかける。
「そうなんだけど、あれはちょっと特別な一冊でさ。濡れたり破れたりしたら困るっつーか……」
「特別な一冊?」
 やっぱり取りに戻ろうかな、と槍兵は未練がましく白亜の大階段を仰いだ。
「こら、駄目だと言ったろうが!」
 触れすぎないように注意しもって袖を引く。すると「だって」と子供じみた駄々をこねられた。
「最後にあの本持ってたのユリシーズじゃなかったか? なんか俺、すんげーキツい目で睨まれてたんだけど、会議終わるまで無事だと思う?」
 何ページかビリッといかれちゃうかもという懸念に対し、ルディアもそれはないのではないかとは言えなかった。騎士物語愛好家のアルフレッドに至っては深刻な面持ちで考え込んでしまう。
「……わかった。俺が取りに行こう。うっかり会議の内容を聞いてしまっても委員の一人の身内だし、まあ許してもらえると思う」
「ア、アル! いいのか!?」
 恩に着るぜと手を握る槍兵に赤髪の騎士は控えめに笑った。そのままこちらにお伺いを立てるようにして振り返るので、ふうと嘆息一つ漏らす。
「あんまり遅いと先に帰るぞ」
「ああ、急いで行ってくるよ」
 ルディアはああもうと舌打ちした。モモかアイリーンにもついてこさせれば良かったと。
 遊牧民の幕屋が並ぶ中庭に人影はなく静かだった。多少は残っているはずの下働きの者たちも人っ子一人見当たらない。間の悪さが嫌になる。二人きりにならないほうがいいのはわかりきっていたのに。
「……へへっ」
 階段にもたれた男が横からこちらを覗いてくる。その空気だけ感じ取りつつルディアは思いきり反対側に顔を背けた。
「なんか中庭、ここだけ天帝宮みたいになってんのな」
「ああ」
「ジーアン兵って夜しかいねーの? 昼間はどこ行ってるわけ?」
「よく知らないが、アクアレイア一帯の水質調査をしているようだ」
「水質調査? 脳蟲のこと調べてんのかな?」
「さあな。アイリーンの研究以上に進展があるとも思えんが」
 当たり障りない――これを当たり障りないものとして分類するのもおかしいが――こんな会話でどれほど時間を稼げるだろう。妙な具合になる前に帰ってきてくれアルフレッドと強く念じる。と同時に、逃げ腰ではいけないと自分を叱りつけもしたが。
「あー……、俺、なんかまずいことしちまったかな?」
 と、レイモンドがためらいがちに尋ねてくる。「何が?」と問えば「えっと、さっきの十人委員会とのやり取り」と口ごもられた。
「いいや、別に? あれはお前の商談なんだろう? 私としても助かる話しか出なかったしな」
「そ、そっか」
 槍兵の声が明るく上擦るのをルディアはなんとか聞かなかったふりをした。なんの変哲もない大理石のタイルの一つを凝視して、神経をぴりぴり張りつめさせる。握り拳が汗を掻いているのに気づかれないように。
「……じゃあなんで、さっきからちっとも俺の顔見てくれないわけ?」
 せっかく久しぶりに会えたのに、としょげられると動揺が舌をもつれさせた。
「べ、別に、そんなことは」
 身じろぎもできないまま口だけ動かす。言っていることとやっていることがばらばらだ。わかっていたがどうしようもなかった。平気な顔で振り返るにはまだ心の準備が必要で。
「この服もしかして似合ってない? 視界に入れたら吹き出すレベルだったりした?」
 頓珍漢な発言に思わず「は?」と顔を上げてしまった。それがいけなかった。顔を見るどころかばっちり目が合い、今度こそ全身がゆで卵みたいに固まってしまう。
「似合ってなかったらはっきり言ってくれ。別のやつ着るし!」
 真剣に迫られて息が止まった。後ずさりという発想も湧かず、胸を反らしてどうにかこうにか距離を取る。
「に、似合ってなくない」
 それだけ言うのが精いっぱいだった。何故か直視できないから具体的にどこがどういいとは言えないが、似合っていないなんてことはないと。
「お、お父様のお召し物、みたいでとても……」
 どんどんか細くなる声とは裏腹に頭の中は騒々しかった。ああ、もう、お前が普段通りの格好でいてくれたらこちらも普通にできるのに、なんなんだその装いは。腕はそんなに逞しかったか? 背もちょっと伸びたんじゃないか? 顔つきだって何か大人びた気がするぞ。そんな声がわんわん響いて。
 離れていたのは不正解だったかもしれない。あんなに毎日、忘れなければと考えるたび思い出していたくせに、眼前にいる男はそれよりも眩しく映る。
(いや、だから、そんなことはどうでもいいんだ)
 ルディアはぎゅっと目をつぶった。己の胸がどう喚こうと、頭で、理性で、道を選ぶとそう決めた。感情や願望は関係ない。嵐に身を投じたら、一体誰がアクアレイアを守るというのだ?
「あのさ、あの首飾りってまだ持っててくれてる……?」
 脈絡なく切り込まれ、ルディアは身を震わせた。持っていると正直に言えばどうなるか。捨てたと嘘を口にすればどうなるか。何も考えられずに黙る。
 意を決して薄目を開けばレモンイエローの双眸に情けない顔をした女が映り込んでいた。瞳を潤ませ、耳まで赤く、これでは期待を持たせずに済むはずがない。
 だが拒まなければならなかった。吊り下げられた天秤に故郷以外は何も載せないと決めた以上。
「あー……、皆には悪いけど、今日この後二人だけで話せねーかな? 俺も色々、新しいこと始める前にあんたに聞いてほしいことあってさ」
「…………」
 提案にルディアは小さく頷いた。もう先送りにすることはできない。こんな体たらくでは、戦うべきときに剣も取れない。早く、早く終わらせなければ。
「へへっ、今日帰れたのラッキーだったな」
 誕生日デートだとレイモンドは無邪気に喜ぶ。そんなつもりじゃないと否定することもできなくて、ルディアは重たく目を伏せた。


 ******


 宮殿のやや奥まった場所にある小会議室へ戻るまでもなく、アルフレッドは本を携えたユリシーズと再会した。白銀の騎士はつかつかと議員用の細い通路を歩いてくる。隣には誰も連れず、不機嫌そうに眉をしかめて。
「ユリシーズ。なんだ、委員会はもう終わったのか?」
 脱いだローブを腕に引っかけた彼を見てアルフレッドはそう尋ねた。夜遅くまで彼らの会議は続くものだと構えていたから拍子抜けする。
「ニコラスが倒れた。大したことはなさそうだが、老体に無理はさせられん。だから今日はお開きだ」
「えっ」
 さっきまで幼馴染の提案を興味深げに聞いていた十人委員会の長老は、今朝から少々具合悪そうにしていたらしい。「心労が一つ減って一気に疲れが出たんだろう」とユリシーズが嘆息する。彼だけ先に退室したのは、急げばこちらの忘れ物を届けられると考えたからだそうだった。
「す、すまない。手間をかけさせた」
 無造作に突き出された騎士物語を受け取るとアルフレッドは念のため中身をパラパラと確認する。見たところ折り曲げられたり破られたりした箇所はなく、ほっと胸を撫で下ろした。
「あの男は?」
「ああ、ブルーノと中庭の大階段にいるよ。大人数で引き返すのも迷惑だろうと思ってな」
 レイモンドを気にした様子のユリシーズにアルフレッドは少々複雑な気分になる。アクアレイアの若き英雄も、堂々たる帰還を果たした幼馴染を無視できない新勢力と認識したようである。何も尋ねてはこないものの、何か探りたい意思があるのか歩き出したアルフレッドのすぐ横に張りついてくる。
「き、今日はこのまま帰るのか? 女帝陛下の部屋へは寄らず?」
「ああ、じきに日も暮れるしな。正門までご一緒しよう」
 取り調べでもされそうでご遠慮願いたかったけれど、断る理由も見つからず、アルフレッドは歯切れ悪く了承した。このところユリシーズにはアニークとの間に入ってもらいっぱなしなのでなおさら嫌だとは言いにくい。レイモンドやルディアのところへ彼を連れていって話がややこしくならねばいいが。
 ユリシーズは見るからに苛立っており、またそれを取り繕う気もなさそうであった。運河整備は素人が軽い気持ちで手を出していい仕事ではないだとか、ものを簡単に考えすぎているんじゃないかとか、こちらに言われても困ることばかり口にする。
 通路を曲がり、いくつか部屋を過ぎるまでユリシーズはそんな調子だった。脳内で「レイモンドだって行き当たりばったりで全部決めているわけじゃないと思うが」と友人を庇いつつ、自然にそう考えられた自分にほっとする。
 自分が本を取りに戻るよと言ったとき、頭の中はまだぐしゃぐしゃだった。弱り顔の幼馴染を見て思わず口にしたけれど、打算じゃないかと不安になった。親切に振る舞っておけば善人に見える。内心ではどんな考えを抱いているか、誰にも知られず隠しておける。そんな無意識が働いたのではないのかと。
 腹の底が冷える感覚が甦り、アルフレッドは眉を歪めた。思考を散らすべくかぶりを振って、大階段へと続く回廊を折れ曲がる。足を切られた獣のごとく動けなくなったのは直後だった。
「――」
 無意識にユリシーズの前に腕を出し、彼が階段を下りてしまうのを妨げる。白銀の騎士は仰け反った後「おい!」と文句をつけてきたが、アルフレッドの視線の先に目をやってたちまちに絶句した。
 見ればわかる。十分だ。いつも気配に敏感な彼女が足音に気づきもしないで頬を真っ赤に染めている。二言三言、レイモンドと言葉を交わし合う間もその熱は引かず、彼女の中にますます深く沈み込んでいくようだった。
「……は?」
 ユリシーズが呟いた。貴族らしい抑制を決定的に欠いた声で。
「あの女、マルゴーの山猿王子と別れたと思ったら、今度はまた別の猿とだと……!?」
 思わぬ罵倒が耳に飛び込み、アルフレッドは「えっ?」と隣を振り返った。今何か、とんでもない言葉を聞いた気がする。よほどの関係者でなければ出てこないような言葉を。
「ま、待て。お前なんて言った? あの女? マルゴーの山猿王子?」
 前者はともかく後者は明らかに特定個人を示していた。聞き捨てならず肩を掴む。白銀の騎士はしまったという顔をして、慌ててこの場から逃げ出そうとした。
「きゅ、急用を思い出した。それではな」
 力任せに腕をほどかれ、もう一方の手を伸ばす。
「待てと言っているだろう! まさかお前、知っているんじゃ――」
 取っ組み合いはそれ以上続かなかった。騒ぎに気づいた主君らが階段下から「アルフレッド? 戻ったのか?」と呼びかけてきたからだ。
「あ、ああ。ちょうど委員会が解散したところで、ユリシーズから本も返してもらって……、ッ!?」
 腕をひねられた痛みに驚いて振り返る。するとユリシーズが「余計なことを喋るんじゃないぞ」と低い声で脅してきた。そんなことをすればもうアニークに『通訳』してやらないからなと鋭い双眸が言っている。
「……っ」
 とりあえずこの場は彼に従うことにして、アルフレッドはこくりと頷いた。問い詰めるのは明日でもできる。無策にここでぶちまけるより、自分もどうせ尋問するなら主君の意向をしっかりと確かめてから尋問したかった。ところが話は思いがけない方向へと転がっていく。
「ありがとな、アル。ところで合流した早々に悪ィんだけど、俺たちちょっと二人で行きたいとこあるんだ。明日まで別行動ってことでいいか?」
「えっ」
 すまなさそうにレイモンドに手を合わせられ、次いでルディアに目をやれば彼女にも「すまない」と詫びられた。
「少々込み入った話があってな。お前も今夜は自由にしてくれ」
「…………」
 すぐには飲み込みがたくとも主君の命なら仕方ない。どこへ行って何をするのか問うのも野暮だし、結局「わかった」と短い返事しかできなかった。
 そんなものあるわけないのに、分厚い見えない壁を感じる。アルフレッドはぐっと膝に力をこめると急ぎ足で階段を下りた。
「じゃあ、これ、渡しておくぞ。騎士物語」
 差し出した布張りの本を受け取って幼馴染はにへらと笑う。それはそのまま半回転してもう一度アルフレッドの手元に戻ってきた。
「最初の一冊はお前にやるって決めてたんだ。貰ってくれよ」
 快活な笑みに心臓が止まりそうになる。アルフレッドが立ち尽くすのを感激と勘違いしてレイモンドはにこやかに続けた。
「もっとすげー土産もあるから楽しみにしてろよな」
 彼は変わった。いいほうへ。それなのに自分はと思うと途端に指先が冷たくなる。比べたって仕方がないのにやめられない。卑屈になる意味もないのに。
「……ありがとう、レイモンド」
 かろうじて礼を告げた。「嬉しいよ」と嘘をついた。嘘だとはっきり自覚した嘘を、初めて、友達に。
「へへ! じゃあまた明日!」
「本当にすまん!」
 レイモンドは手を振りながら、ルディアは片手を顔の前に上げながら、どこかぎこちない足取りで二人は歩み去っていった。正門までは一緒にとさえ言わないで。
「おい」
 後ろから声が降ってくる。振り返れば凄まじい形相のユリシーズが「お前、今から時間はあるな?」と問うてきた。
「聞いていただろ? 朝まで自由行動だ」
 自虐気味に笑って答える。すると返事を聞いた彼がつかつかと階段を下りてきた。
「ならちょっと付き合え。誤魔化すのは無理そうだし、聞きたいことが山ほどできた。ここは賢く情報交換と行こうじゃないか」
 がしっと肩を掴まれて、押されるがまま歩き出す。「はあ?」と顔をしかめたが、白銀の騎士は聞く耳持たず、アルフレッドから手を離そうとしなかった。
 明敏な彼らしくなく、若草色の双眸は怒りとも嫉妬ともつかぬ激情に燃えている。とてもじゃないが否と言える雰囲気ではなかった。
 まあいいか、と早々に抵抗を諦める。こちらにも聞き出しておかねばならぬ話はある。一人でいたって塞ぎ込むだけなのだし、今日くらいこの男についていってもいいだろう。


 ******


 赤い残光が海を染め、暮れゆく空には星屑の散りばめられた紺碧の垂れ幕が下がる。慣れた手つきで黒いゴンドラを漕ぐ若者は、一人だけ祝祭の日のように華やかだ。
 どこへ連れていかれるのだか。己の疑問に己で答える。どこだって構わない。どうせ帰るのは現実だ。夢がどんなに美しかろうとそこに留まることはない、と。
「この辺でいいかな?」
 人気のない葦原に舟を停め、レイモンドは櫂を上げた。本島は遠く、漆黒のシルエットを薄闇に浮かび上がらせている。付近には人家のありそうな小島もなく、正真正銘二人きりだ。
「まあ座ろうぜ」
 促され、ルディアは座席代わりの横木に腰かけた。槍兵も膝の擦れるくらい近くに向かい合って座を占める。
 半年前もこうだったなと思い出す情景だった。季節は違うが二人でボートに乗り込んで、サールリヴィス河を下った。
「おっ、蛍」
 と、レイモンドが生い茂る葦の間できらめく光を指で差す。「一匹だけなんて珍しい」と嬉しそうに目を細めて。
 長い話をするために一番大きなランタンに火を入れた彼も求愛する蛍に似ていた。帰る前に心づもりは済ませてきたのか言葉を濁すこともせず、単刀直入に切り出してくる。
「……で、告白の返事、聞かせてもらいてーんだけど」
 灯火に照らされた顔は薄赤く、希望を抱いた目を曇らせるのが忍びなかった。だがこれ以外の答えはない。舟底に視線を落とし、ルディアは小さく喉を震わせる。
「……すまん……」
 槍兵が見る間に意気消沈するのがわかった。上体を縮ませて「あ、そう……」と彼が呟く。だがレイモンドは即座に身を起こし、果敢に問いを続けてきた。
「そ、そんなすげー身体をゲットする予定なの? ていうかもうした?」
 以前子持ちの妻帯者や聖職者になる可能性もあると示唆したからか、返答を待つ槍兵はおっかなびっくり構えている。ルディアが「いや、まだ次の身体は決まっていない。候補もだ」と打ち明けると、彼は「へえっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「じゃ、じゃあなんで『すまん』っつったわけ?」
 何者に成り代わるのか、未定のままなら振られる必要ないではないか。そう言いたげに槍兵が顔をしかめる。演じ得る限りの素っ気ない口調でルディアは彼を突き放した。
「どのみち私は政治的理由でしか相手を選ぶ気がないのだ。いつ聞かれたって話は同じことだろう」
 レイモンドを見ないために、先程の蛍を目で追う。「いやいや……」と掠れた声が響いたが反応は返さなかった。
 たとえ想い通じ合っていても無理なものは無理なのだ。アクアレイアの王女として、アクアレイアのために生きる。恋情より優先すべき信念がある。それだけは決して変えられない。
「あの、姫様? 睡眠取れてる? 頭ちゃんと起きてるよな……?」
「はあ? どういう意味だ?」
 藪から棒に失礼なことを言われ、ムッと槍兵を睨みつけた。「いや、だって」とレイモンドは顔面を引きつらせる。まさかこんな説明をしなければならないとは思いもしなかったという顔で。そうしてゆっくり、聞き漏らすことのないようにゆっくりと、一番わかりやすい言葉で告げる。
「俺、その『政治的理由』で選んでもらえるようにめちゃくちゃ頑張ってきたつもりなんだけど……?」
「えっ?」
 今度はルディアが言葉を失う番だった。重大な見落としに今更気づいて目を丸くする。あれ、そう言えばこいつ、えらく羽振りが良くなっていたんだっけなと。
「そりゃ確かに稼ぎの大半は親父の護符だし、俺単独の力ではなかったけど、コーストフォートでも人脈作って銀行の融資取りつけて、船も実用性だけじゃなく見栄え重視したやつ買って、服装だってイーグレット陛下意識してさあ! 俺、俺、無い知恵絞って必死に考えたんだけどー!?」
 早口で捲くし立てるレイモンドは半泣きだ。「パーキンとの共同経営も崖から身を投げる覚悟で決めたのに!」と嘆かれるとウッと胸をえぐられる。
「俺ってそんなパッとしない? 見て一発で稼いでるってわかる服着てても? まだそんなに庶民臭い? 救いがたいほど貧乏臭い?」
 槍兵はさめざめと両手で顔面を覆った。なんとかフォローしようとするが、咄嗟に何も浮かばずにルディアは「いや、その」と繰り返す。
「こういうことは全然予想もしていなかったから、その」
 前と同じに接してしまった非礼を詫びる。するとレイモンドはやや落ち着きを取り戻し、すうはあと深呼吸した。
「……わかった。ひとまず今の俺の目標聞いてもらってもいいかな?」
 問われてルディアは「ああ」と頷く。こほんと咳払いしたのちにレイモンドは改めてルディアを見つめ直した。
 どきりとする。変わっていない強い眼に。否、前よりずっと強い情熱を宿す眼に。
「――俺、この国で一番の金持ちになるから。十人委員会に入れるくらい偉くなるから」
 レイモンドは半年前なら冗談だろうと一蹴したに違いない台詞をのたまう。今の彼ならそれが不可能な夢でないのは明らかだった。
 活版印刷機をスムーズに導入するためのデモンストレーション。派手な凱旋から何から、レイモンドの取った行動に何一つ手落ちはない。アクアレイアに希望ありと、見事に印象づけてくれた。
(あれ? ひょっとしてこいつ、ユリシーズの対抗馬になり得る人材なんじゃないのか?)
 冷静な思考が甦り、ルディアはごくりと息を飲んだ。どうしてもこれまでのイメージが先行してレイモンドを一般庶民枠にはめ込んでしまいそうになるが、元々アクアレイアでは納税額で貴族か平民かが決まる。彼が一気に階級階段を駆け上がる可能性は大いにあった。そうなれば確かに『政治的』にも選択肢に入ってくる。生涯をともにする相手として。
(あ、有り得るのか? そんな都合のいいことが)
 信じがたい転換に鼓動はいっそう高鳴った。戸惑うルディアにレイモンドはひたむきな声で訴えてくる。「俺さ、考えたんだ。俺とあんたにとって何が一番いいんだろうって」と。
「今この国に必要なのは金だし、姫様にとってもそうだろ?」
 否定するような話でもなく、ルディアはこくりと頷いた。どれだけあっても足りないくらい金はこれからも必要だ。人々の暮らしを以前の水準まで戻し、独立を勝ち取るための軍資金も用意せねばならない。
「だから俺がめいっぱい稼ぐ。あんたはそれを国のために使えばいい。そんで俺に惚れ直して、できれば結婚とかしてくれたら二人ともハッピーじゃね?」
「け、結……!?」
 とんでもないプロポーズだった。アバウトで、楽天的で、思わず頭を抱えてしまう。だが荒唐無稽とは言えない。まったく実現不可能とは。
「どうだろ?」
 照れくさそうに問いかけられ、ルディアは返答に詰まった。自分が今、論理的に考えられているのかどうかも判別できない。
 印刷業はきっと成功するだろう。国で一番とまでは行かずともレイモンドは一大勢力の中心人物になるはずだ。要件は十分に満たしている。自分が伴侶に求めるような条件は。
(夢でも見ているんじゃないのか? こんなに上手く運ぶはずない)
 そっと手を握られて、思わず槍兵を見つめ返した。商才があることは知っている。広い人脈が彼に有利に働くであろうことも。何も断る理由はない。身体だって、彼がいることを前提に探せばいい。
「レイモン……」
 重ねられた手を握り返す直前、でも、と冷たい声がした。でもユリシーズのときだって、情勢が変わって駄目になったんじゃないのかと。
 己の中から湧いた疑念に凍りつく。気がつけばルディアはレイモンドの腕を振り払っていた。
「……わからない……」
 目を逸らし、顔を歪め、独白のように呟く。何故か急に泣きだしそうになりながら。
 わからないはずがないのに。レイモンドは判断に必要な材料を揃えて帰ってきてくれたのに。
「稼いだ金はお前の金だ。いいと言われても使えないよ……」
 首を横に振るルディアに槍兵は「そっか」と垂れ気味の眉を下げた。しかし説得される気はなかったようで、頼んでもない馬鹿を言いだす。
「じゃあ俺が勝手に使う。姫様のこと支えるために」
「レイモンド!」
 放っておけば甘っちょろい言葉ばかりのたまう男を目で諌めた。レイモンドは「そうしないなら意味ねーから」とまったく取り合わなかったが。
「あのさ姫様、もっぺん聞いていい? 俺って今すぐ振られちゃう感じ?」
 万に一つの可能性もないのか問われ、ルディアは返答に窮した。こんなとき沈黙はいけない。本音を露呈してしまう悪手だ。わかっているのに言葉を絞り出すことができなかった。お前の手を取ることはないと、ばっさり切り捨ててしまうことは。
「……首飾りって今持ってる?」
 穏やかな声に尋ねられ、指先がぴくりと跳ねた。
 早くはっきり言わねばならない。先の見通しが立たないことに期待するのはやめてくれと。もし手を取ってやはり離さねばならなくなったらどうなるか、考えるのも怖いのだ。
 走れなくなっても私はルディアでいられるだろうか? 戦うことができなくなっても?
(捨てられないならせめて返そう。私が持っていては駄目だ)
 そう決めてポケットに左手を突っ込んだ。意を決し、握りしめた小さな牙のお守りを突き出す。
「レイモンド、私は……」
「いいよ。あんたも難しい人だよな」
 軽い溜め息とともに首飾りが受け取られ、意外なまでの物わかり良さに動揺した。返すなと言われると思ったのに、もう一度チャンスを乞われると思ったのに、レイモンドは手にした革紐の継ぎ目など確かめている。
 自分から手離したくせに肩が震え、ルディアは腕に力をこめた。これでいいのだと言い聞かせる。優柔不断になるくらいなら終わらせるべきなのだと。
「あんたの覚悟が決まるまではもう聞かない。けど両想いだと思うから、これくらいはさせてくれる?」
「え?」
 前触れもなく引き寄せられて腰が浮き、危うく膝をつきかけた。見上げればレイモンドがさっき返したお守りをルディアの首にかけようとしている。
「うわっと!」
 咄嗟に彼の肩を突き飛ばした。そうしたらゴンドラがぐらりと奥に傾いた。バランスを失って転倒する。衝撃で船体は更に揺れ、大きな身体が思いきり上に被さった。
「ちょ! 待った待った! 暴れたら転覆する!」
 引き剥がそうとした動きをひと言でぴたと止められる。ルディアはぜえぜえ息を切らし、間近のレイモンドを見上げた。ぐらつく小舟に両手をついた状態で槍兵は揺れの収まりを待っている。
「そ、そんな抵抗しなくても……」
 引っ繰り返るかと思ったとレイモンドは長い息を吐いた。「だって」と力なく呟く。性懲りもなく転がった首飾りに手を伸ばし、ルディアにつけさせようとしてくる男に。
「……外せなくなるじゃないか……」
 やめろと頼んでもレイモンドはやめなかった。もう完全に見抜かれている。上辺だけ、それもなんとか取り繕うのが精いっぱいの体たらくだと。
 革紐が首元で擦れる。長い指に愛しげに髪をすかれる。どうして彼にされるがまま動けないのかわからない。
「姫様はちょっと怖がりだよな」
 低い声が囁いた。信じてみればいいではないかと言うように。
「そんなこと、誰にも言われたことないぞ……」
 答えながら、それは嘘だと知っていた。前にも聞かれた。同じ男に。信じるのが怖いのか、と。
「いーや、怖がりだね。他人を信じきれないの、あんたに会う前の俺みたいだ」
 どうしてこいつはこんなにどんどん変わっていくのだろう。結局いつも同じところに帰り着く自分と違って。
 やめてほしい。期待してしまうから。今度こそずっと一緒にいてくれる相手かもと錯覚してしまうから。
 誰も信じてはいけないよ。そう言って守ってくれた父はもういなくなった。
 わかっている。結局これは政治の問題などでなく、己の精神の問題なのだ。


 ******


 ついてこい、とユリシーズに連れられたのは、国営造船所にほど近い一軒の小さな酒場だった。木樽を模した看板には『ユスティティアのやけ酒』と店名が刻まれている。
 一度でも騎士物語を読んだことのある人間なら、すぐにこれがプリンセス・グローリアの無茶ぶりに堪忍袋の緒が切れた新米騎士の煽った酒を示していると知れるだろう。こんな店がアクアレイアにあったのだなと思いながらドアをくぐる。
「なんだか暗いな。今日は休みなんじゃないのか?」
 無人の店内を見渡してアルフレッドがそう問うと、ユリシーズは「今日はと言うか、ずっと休みだ」と答えた。火の灯ったランタンが彼の手でカウンターに置かれるや、狭い酒場の様子が浮かび上がってくる。見れば備え付けの座席以外、椅子やテーブルはほぼ取り払われ、吊り下げ棚には調理器具どころか皿の一枚も残されていなかった。いや、違う。よくよく見ればカウンターの片隅に葡萄酒の瓶と杯だけはそれなりの数が並んでいる。
「ジーアン軍が来る前に逃げ出した一家の店でな。冬に悪疫が流行ったとき、区内の患者を一時収容するのに使っていた。その後は海軍の管理物件になって――まあつまり、うちで勝手に食べたり飲んだりできる場所ということだ」
 誰も来ないし密談には持ってこいだろう、とユリシーズは言いたいらしい。カウンター用の脚長椅子を親指で示され、アルフレッドはひとまずそこに着席する。ユリシーズは大瓶のワイン一本とグラスを二つ運んできて隣にどっかと腰を下ろした。
「の、飲むのか?」
 いささか困惑して尋ねる。すると彼の、いつも厳しく尖った両目が吊り上げられた。
「しらふでできる話だとでも?」
 ユリシーズは有無を言わさぬ勢いで自分のグラスに酒を注ぎ、ぐいと一気に飲み下す。二杯目もすぐ半分が消え、もう半分は卓に叩きつけられた。
「貴様も飲みたきゃ飲んでいいぞ。立場がどうであれ年下に支払いを請求する気はないから安心しろ」
 どうやらここの酒類はすべて彼が持ち込んだものらしい。アルコールに頼るタイプとはまったく思っていなかったので驚いた。「いや、俺はいい」と断るとユリシーズは「そうか」と二杯目も飲み干す。グラスを下ろした彼の頬は既にうっすら赤味を帯び、その目は怖いほどぎらついていた。
「で、あいつらは…………ルディア姫とあの猿は…………できているのか…………?」
 高そうなガラスの酒杯を掴むユリシーズの手に力がこもる。こもりすぎて腕はわなわな震えていたし、器も壊れそうだった。さっさと答えろと凄む双眸に急かされてアルフレッドは重い息を吐く。
「……わからない。そういう付き合いをしているのかいないのかは」
「はああ!? わからないってお前の部隊の隊員だろう? たったの五人編成なのに何故そんな基本情報を把握できていないんだ!?」
 部隊長としてのなっていなさを責められてアルフレッドはうっと身を縮こまらせた。海軍でもっと大勢の部下を統率してきたユリシーズは「信じられん。交友関係を知らずしてどう適切な配置を行うんだ」と呆れ返っている。
「俺だって、全員で行動していた頃はそれなりに把握できていたよ。でもあの二人は、二人でコリフォ島から逃げて、北パトリアに向かう間に……」
 反論は次第に覇気がなくなっていく。「そうか。そう言えばマルゴーに向かうガレー船から飛び降りてコリフォ島行きに乗り換えた馬鹿がいたな」と白銀の騎士が呟いた。
 忘れがたい、やり直せるならやり直したい光景が甦り、アルフレッドは首を振る。ほとんど話題を変えるためだけにユリシーズに問いかけた。
「そっちはいつからあの人の正体に気づいていたんだ?」
「一年ほど前だ。王家が追放された頃はまだ何も知らなかった」
「何故気づいた? 誰かに入れ知恵されたのか?」
「さてな。貴様があやふやな話しかしないのに、私だけ詳細を答えさせられる義理はない」
 三杯目を注いだ男は控えめにそれを煽る。よりにもよって何故自分がこんな交渉に応じなければならないのか、運命の理不尽に耐えながらアルフレッドは口を開いた。
「……付き合っているかいないかは知らないが、お互いに好き合っているのは間違いないよ」
 ユリシーズの手がぴたりと止まる。主君の元恋人は激しく杯を振り下ろした。
「そういうのをできていると言うんだ、愚か者め!」
 ユリシーズは歯軋りとともに悔しげに地団太を踏む。「あの人に未練があるのか?」と聞けば「あるわけあるか!」と怒鳴りつけられた。
「あの女がしょうもない男と関係を持つと、私の格まで落ちて困るというだけだ!」
「誰もあの人をルディア姫とは知らないのに?」
「私の気持ちの問題だ! とにかく気分が悪くてならん!」
 それを未練があると言うのではないのかと思ったが、口にはせずにしまっておいた。己とて人にどうこう言える立場ではない。揺れる心を持て余し、隊長の義務さえおざなりになる始末なのだから。
 何をやっているのだろう。何をやってきたのだろう。自問はいつも不愉快で受け入れがたい答えに辿り着くだけだった。失望、落胆。忍従の果てに求めるものがあるのかどうかもわからない。
「まったく、あんな間抜け面をした男の台頭を許すとはな!」
 白銀の騎士はがぶがぶと飲みまくった。荒れているのは彼もまた遠い記憶に苛まれているせいだろうか。
「友人をそう悪しざまに言わないでくれ」
 アルフレッドはユリシーズをたしなめた。偽善じゃないかと疑いながら庇うのはつらかったが、悪口を聞き流すことはできなかったから。
 せめて心ばえ正しくありたかった。もう何もかもが手遅れで、自分には何も手にできないとしても。――それなのに。
「ふん、お優しいことだ。貴様とてその友人に失恋の痛手を味わわされたくせに」
 心臓に突然ナイフを突きつけられた気分だった。
 目を瞠る。息を飲む。ぶるぶると両手を震わせて。
「な、にを……」
「図星だろう? まあ貴様はわかりやすかったからな。本当に大した愚図だよ。貴様が隊員をしっかり見張ってマルゴーまで連れていくか、貴様もコリフォ島へ赴いていれば事態は変わっていたかもしれないが、こうなってしまってはな」
 無遠慮な非難は続けられた。どうしてと胸に憤りが湧いてくる。
「好きな女に触れられもせず、仕えるだけで何が楽しい? 挙句自分から女を取り上げた男を庇うなぞ、私には理解できんよ」
 どうしてそんなことを言うんだ。ユリシーズの吐き捨てる台詞に胸の奥底が掻き乱された。
 せっかくずっと言葉にするのを避けてきたのに、己の思いに気づかないふりをしてきたのに、どうして取り返しのつかなくなった今になってそんなことを言うのだと。
「俺だって、あの人についていくと言ったんだ……!」
 血を吐くような絶叫は知らぬ間に口をついていた。汗が滲む。手が震える。
 わかっていた。とうに限界だったのだと。どうせそのうち誰かの前でこんな風にぶちまけていたのだと。
「俺だってどこへでも、どこまででもついていくと――。でもあの人が、姫様が、俺には来るなと言ったのに」
 言葉と一緒に押し込めていた感情が溢れる。突如穿たれた小さな穴は水圧に耐えることができず、どんどん押し広がっていった。
 涙で視界が滲んでもどうすることもできなかった。何をやっているのだろう。情けない。なのにどうしても止められない。言ってはならないようなことまで口から滑り落ちてしまう。
「俺はどうすれば良かったんだ? 先に俺を遠ざけたのは姫様じゃないか! それなのに、残った俺のほうが間違いで、追いかけたレイモンドが正しかったのは何故なんだ……!?」
 はあ、はあ、と息を切らし、アルフレッドは立ち尽くした。いつの間にやら蹴り飛ばしていた丸椅子が床に転がっている。ユリシーズはぽかんと大きく口を開けたままでいた。
 ああ、本当に何をやっているのだろう。主君の敵にこんな話、まともな騎士のすることではない。
「……る……」
 掠れた声が響いたのはそのときだ。ごしごしと涙を拭った目を開けて正面のユリシーズを見れば、彼もまたいやに双眸を潤ませている。
「わかるぞ……! あの女にはそういうところがある……!」
「は?」
 白銀の騎士はむせびながら席を立ち、アルフレッドの椅子を戻した。グラスに残った酒をグイと飲み干すと、彼は自分のだけでなくこちらの杯にも新しい酒を注ぐ。
「突き放すようなことをしておいて、実際はついてきてほしいのだ。だがその本音が本当にわかりにくいし褒められたコミュニケーションでもない! はは、まさか貴様もあの女の悪癖の犠牲者だったとはな!」
 飲め、と葡萄酒を押しつけられた。我々はおそらくもっと語り合うべきだと。
「い、いや、俺は」
「いいから飲め! くよくよ一人で思い悩んでばかりいると道を踏み外す羽目になるぞ!」
 やけに実感のこもった忠告に気圧されてアルフレッドはグラスを手に取る。一杯だけ飲んだら帰ろうと座り直して酒に口をつけた。多分それが次の間違いのもとだった。
「うん?」
 ひと口で喉が熱くなるのを感じ、随分強い酒だなとたじろぐ。隣の男が平気で三杯も四杯も飲んでいるのでもっと軽い飲み物かと思ったのだが。
「美味いだろう。これは私が心やさぐれた日に飲むことにしているとっておきの品なのだ」
 ユリシーズはばんばんと親しげに背中を叩いてくる。まるで昔からの友人のように。
 一杯飲み終える頃にはアルフレッドも誰と話をしているかなどどうでも良くなっていた。ずっと堪えていた苦い思いに頷いてくれる者がいる。それだけで十分だった。









(20181006)