女が喜ぶものと言えば、花に人形、ドレスに宝石、あとは健気な心尽くしと昔から決まっている。夜遅くまで長引いた会議を抜けられず、結局アニークのもとへ戻れないまま帰宅した翌日、詫びの代わりにユリシーズは普段より少々早くレーギア宮を訪れた。贈り物でも用意できればなお良かったが、身一つで急ぎ参じたというのもいじらしい努力には違いない。さてどんな言葉をかけてやるかと策を練りつつ中庭の柱廊を行く。
 おや、と目を瞠ったのはいくつかの部屋を過ぎ、控えの間に足を踏み入れたときだった。女帝の警護はいつも同じ衛兵が務めていたのに、見れば顔ぶれが一新している。己の記憶違いでなければ、長い曲剣を携えた三名のジーアン兵はファンスウ将軍配下の武装兵であり、こんな宮殿奥にまで入ってきたことは一度もなかったはずだった。
(なんだ? 何かあったのか?)
 怪訝に眉をしかめたところで「誰だ?」と低い声に問われる。眼光鋭く一瞥され、思わずごくりと息を飲んだ。
「ユリシーズ・リリエンソールです。アクアレイアご滞在中、アニーク陛下にお仕えするよう指示されております」
 ジーアン語での問いかけに、この一年で会得した同じ言語で返答する。遊牧民の装束を着た兵士たちは「ああ、ラオタオ将軍のお気に入りか」と納得顔で頷き合った。
 通っていいということなのか、一番偉そうな高帽の男に顎で寝所を示される。開かれた扉の奥へと進み、ユリシーズはぱちくり瞬きした。
 ――いないのだ。一人のときは書見台にかじりついているのが常のアニークが。
「アニーク陛下? ユリシーズ・リリエンソール、参上しましたが」
 きょろりと室内を見回す。すると探していた人物はベッドの脇に並べられた甲冑の陰からこそりと姿を現した。
「な、なんだ。あなただったのね」
 あからさまにホッとした顔で女帝はゆっくり立ち上がる。けれど彼女は何故かくれんぼなどしていたのか、その理由は話そうとしなかった。
 地味に見えて豪奢なドレスのスカートを摘まみ、こちらへ近づいてくる間も女帝はやけに扉のほうを気にかける。黒い瞳は怯えたように揺れ惑い、彼女に何かあったのは一目瞭然だった。
「どうなさったのです? 衛兵が無礼でも?」
「い、いえ、そういうわけではないのだけど……」
 ならどういうわけなのか、説明を待つユリシーズに女帝はやはり応じない。顔を伏せられ、背を向けられてはあまりしつこく問うこともできなかった。
「…………」
 なけなしの睡眠時間を彼女のために削ったのに、沈黙のまま時計の針だけが進んでいく。衛兵が原因でないとすれば昨日の夫妻か? はたまたもっと別の誰かか。挙動不審の背景を読み取ろうとしてユリシーズは頭をひねった。
「!」
 そうこうするうちに平民騎士も出勤してきたようである。不意打ちで響いたノックにアニークが肩を跳ねさせた。女帝は一瞬ユリシーズの後ろに隠れようとしたが、間に合わずに部屋の中央に踏みとどまる。
「……お、おはよう、アルフレッド」
 不格好に上体を傾けたまま彼女は騎士を振り返った。及び腰の視線を追ってアルフレッドの顔を見やり、ユリシーズはぎょっとする。不信や不満、敵対的な感情を強く滲ませた双眸に。
「……おはようございます」
 にこりともせず平民騎士はおざなりな挨拶を済ませた。いくら高貴の出ではなくとも看過しがたい振る舞いだ。女帝相手に、首をはねられたいのかとしか思えない。
 だがアニークはアルフレッドの不敬を許した。どころか「ま、まあ座って」とソファに彼を促して、テーブルの菓子を勧めさえする。
(な……なんなんだ、この空気は……?)
 無言で着席した騎士の隣にユリシーズも腰を下ろした。だが待てど暮らせど朗らかな談笑は始まらない。いつも鬱陶しいくらい騎士物語がああでこうでと盛り上がってくれるくせに、今日のアルフレッドはまるで氷の彫像だった。
「……あの、外、暑かったんじゃない? 喉が渇いていたら飲んでね?」
 アニークはなんとか騎士の機嫌を取ろうと紅茶の盆を引き寄せる。ちらりと視線を向けた以外、彼の反応は絶無だったが。
 話したくない。顔も見たくない。かたくなに斜め下の絨毯から目を離さないアルフレッドの全身がそう訴えかけていた。気まずさに耐えかね、アニークも次第に口数を減らしていく。
(喧嘩したのか? 昨日私が退出してから)
 どうやら問題は二人の間で起きたらしい。降って湧いた幸運にユリシーズは緩みかけた頬を押さえた。この二週間、待ち望んだ好機が巡ってきたようだ。なんという馬鹿者だ。女帝の寵愛を受けながら自らそれをふいにするとは!
(平民はどこまで行っても平民というわけだな。宮廷においては手に入れたと思ったものでも呆気なく失うと理解できていなかったらしい)
 一人秘かにほくそ笑み、ユリシーズはアニークの様子を窺った。哀れな娘はしょんぼりと肩を落とし、打つ手を見つけられずにいる。取り入るなら今しかなかった。
「なんだか今日は部屋の中に明るい光が入ってきませんね。いかがでしょう? 日光浴がてら内海の島に花でも愛でに参りませんか?」
 気分転換の散策に誘うとアニークはためらいがちに顔を上げる。針のむしろで一日過ごしたくはあるまい。しばらく待つと狙い通りに彼女は頷き、「そうね……、そうしようかしら」と呟いた。
「アルフレッドも来てくれるわよね……?」
 断られたら引き下がりそうな弱々しさで女帝が赤髪の騎士に問う。遠慮がちなアニークに対し、「選べる自由なんてないでしょう」と答えたアルフレッドはどこまでも冷たかった。
(こ、こいつ、怖いもの知らずか……?)
 冷や汗が頬を伝う。一体どんないざこざがあれば半日でこうも険悪になれるのだろう。宮中から獄中まで経験してきた己にも皆目見当がつかない。昨日は確かに危うい場面もあったけれど、それとてすぐに解消されたはずなのに。
「で、ではまあ、ゴンドラを用意いたしましょうか」
「え、ええ、お願いね」
 ソファから立ち上がり、ユリシーズは衛兵に昼過ぎまで出かける旨を伝えに行く。昨日までの兵士たちと違い、彼らはなかなか外出許可をくれなかったが、アニークが「大丈夫だから」と強く諭すと肩をすくめて道を開けた。
(よし、いいぞ。運は私に向いてきている)
 先導となり、自家用ゴンドラを停めた宮殿脇の小運河へと歩き出す。あとは小舟に女帝を乗せ、思いきり甘やかしてやるだけだった。
(女というのは傷ついたとき優しくしてくれた男にころっと行くものだからな。待っていろ、貴様の天下も今日限りだ!)
 高笑いを堪えてユリシーズはしんがりのアルフレッドを振り返る。陰鬱な目をした騎士は糸で縛られた人形のように黙ってついてくるのみだった。


 ******


 どうしよう。どうしたらいいのだろう。
 ぐるぐると回る思考にふらつきそうになりながらアニークは船室の薄い壁に寄りかかる。心地良い揺れと流れる景色が楽しい舟遊びのはずなのに、今日は到底柔らかなソファで寛ぐ気になどなれなかった。
 こちらを見ようともしない騎士の気配をすぐ側に感じつつゴンドラの小さな窓に覗く世界に目を凝らす。何を見ても心に平穏をもたらしてくれるものなどありはしなかったが。
 ――あなたが蟲で本物のアニークじゃないってこと知られちゃったわ。
 舟に乗り込んでからずっと、頭の中では昨晩のウァーリの言葉が響いていた。アルフレッドに正体がバレた、彼にとってジーアンは敵でしかないという。
(どうしてこんなことになったの)
 やりきれなくて膝に置いた手を震わせる。ただ好きな人のことをもっとよく知りたかっただけなのに、人質になんてするつもりではなかったのに。
 悔やんでも悔やみきれない。短くとも幸せな生を望んだ結果がこれなんて。 
(アルフレッド、怖い顔してる……)
 彼の怒りはもっともだった。いかに優しい男だろうと自分の首に鎖をかけた相手にまで笑顔でいられるはずがない。ましてや彼は蟲がどんな生き物かも、本物の「アニーク」のことも知っているのだ。騙されたと思い込んでも仕方がなかった。
(言わなくちゃ。私は十将の考えなんて知らなかったって。あなたを陥れようとしたわけじゃないって)
 宮殿外を散策するなら二人きりで話す時間が取れるかもしれない。どうにか弁明したかった。怒りを解いてほしかった。
 このままではつらすぎる。今まで仲良くやってきたのだ。これからも仲良くできるはずである。たとえ祖国が敵同士でも、思いさえ通じ合えれば。
「……か、アニーク陛下!」
「えっ!? あっ、何?」
 と、耳元で名を呼ばれ、心臓を押さえつつ振り返る。見ればゴンドラは杭に舫われ、いつの間にやら桟橋のたもとに停泊していた。
「アニーク陛下、乗り降りの際は危険ですから私にお掴まりください」
「あ、ああ、ありがとう」
 考え事をしているうちに目的地に着いていたらしい。恭しく手を差し伸べてきたユリシーズに腕を引かれ、アニークはゴンドラにしつらえられた小部屋を出た。途端陽光が燦々と降りそそぎ、存外な眩しさに目を細める。
「まあ……。アクアレイアにもこんなところがあったのね」
 青空のもと降り立ったのは全景が一望できるごく小さな島だった。奥には森を模したと思しき低い茂みが連なっており、その少し手前には白や紫、赤色の小さな花々が咲いている。
「ここは一体どういうところなの?」
 尋ねるとユリシーズは「遊園です。貴族が鴨や海鳥の狩りをするのに使っていた人工島ですよ。あの辺りの花畑は政府所有のハーブ園ですね」と答えた。いつになく明るくにこやかに、白銀の騎士はアニークに笑いかけてくる。
「のんびりするにはいい場所でしょう。花束など作ってお楽しみになられてはいかがです?」
「…………」
 アニークは今一度ぐるりと島を見渡した。リリエンソール家のゴンドラ漕ぎを除けばここには三人だけらしい。とりあえずファンスウの部下に会話を盗み聞きされる心配はなさそうだ。
「そうね、そんなのも良さそうね」
 意を決し、歩を踏み出す。アルフレッドがゴンドラから出てくるのを肩越しに確かめてから。
「セージは蜜蜂の好む花ですので、十分にお気をつけを。お手を痛めないように摘むのは私がやりましょう」
 細く短い小道を進み、花畑に到着するとユリシーズが振り返った。腰の高さまでまっすぐ育ち、一つの茎に十も二十も小花をつけたハーブに彼の手が添えられる。申し出に頷くとアニークは「花も葉もできるだけ綺麗なのをお願いね」と頼んだ。なるべく手間をかけてもらうために。
「腕いっぱいになるくらい欲しいわ。摘み終わるまで私はちょっと、その辺をぶらぶらしてくるから」
 告げるや否やそそくさとユリシーズの傍らを退散する。視界の端には花畑の片隅で赤いセージを見つめて佇むアルフレッドが映っていた。
 上手く話ができるだろうか。信頼を取り戻せるだろうか。
(大丈夫、大丈夫よ)
 自分を励ましながら騎士に駆け寄った。大事に着てきたドレスの裾が固い茎や葉に引っかかり、糸がほつれるのも構わず。


 ******


 馴染み深い薬草の群れに身を置いて、小さな丸い葉の強い香りに包まれる。けれど癒しや安らぎは一向にもたらされず、気は滅入るばかりだった。「セージを庭に植えている者がどうして死ぬことができようか」とことわざになるほどこのハーブは薬効に富むものなのに。
 アルフレッドは小指の先ほどの可憐な小花のいくつかに目を落とす。脳裏をよぎったのは妹の台詞だった。ピアスと一緒に本当は赤い花を渡すはずだった、という。
 ポケットに右手を入れる。パトリア石を包んだハンカチにそっと指先を触れさせる。
 今でもまだ信じられない。彼女がもういないなんて。
「アルフレッド!」
 と、呼び声に顔を上げるとアニークがこちらへ駆けてくるところだった。偽の女帝は邪魔な草を無造作に掻き分け、ハーブ園を荒らしながら進んでくる。
「薬草を駄目にするおつもりですか」
 穏やかに諭す気になどなれず、冷めた声で注意した。すると彼女はその場に固まり、「ご、ごめんなさい」と即座に反省の意を示す。
「途中までは道を走ってきたんだけど……。そ、そうよね、植物が可哀想よね……」
 しどろもどろに詫びる彼女から目を背け、アルフレッドは嘆息した。本当に思慮深さとは縁遠い君主である。ハーブの価値も需要も何一つわかっていないのではなかろうか。アクアレイア人の困窮についても。
「あの、私、あなたに謝りたくて」
 アニークは足元の草を踏まないように気をつけながら近づいてきた。
「謝る?」
 何をと突き放す口調で返せばまた彼女の身体が強張る。それでも今度は隣に来るまで歩みを止めはしなかった。大きな黒い瞳を震わせ、アニークは必死の形相で訴える。
「私があなたを罠にかけたって誤解しているんじゃないかと思って……。でも違うの。防衛隊のことも、あなたとウァーリたちのことも、何も知らずに声をかけたの。思い描いていた理想の騎士にそっくりだったから、だから」
 彼女はどうも今回の件に自分は関与していないと言いたいらしい。だがそれくらい、わざわざ言葉にされずともアルフレッドにもわかっていた。防衛隊を捕らえるために演技をしろと言われたって、アニークには技量が伴わなかっただろう。最初から裏があったなら接触はもっと不自然だったはずだ。
 彼女は勘違いをしている。騙されたから自分は怒っているのだと。
「……俺に赤い花を贈ると言ってくださったのを覚えていますか?」
「えっ」
 突然の問いにアニークは自己弁護の舌を止め、戸惑いながらアルフレッドを見つめ返した。
「いえ……それは私じゃなく『アニーク』が言ったことだと思うわ」
 聞くまでもないことを聞いている。ピアスも花も感謝の品だとモモは言っていたのだから、彼女が知っているわけがない。
 わかっていたが確かめずにはいられなかった。今のアニークは天帝宮で同じ時を過ごした「アニーク姫」とはまったく別の生き物なのだと。
「ごめんなさい、覚えていなくて……」
 あなたにも嘘をついてしまったと女帝はしおらしく頭を下げる。けれど彼女の殊勝さは利己心の裏返しで、たちまち化けの皮が剥がれた。
「でも私、あなたの味方よ。ウァーリたちがどう言おうとあなたを害させたりしない。信じてほしいの。あなたとは笑って一緒にいたいから――」
 拳を振り上げる代わりに足元の土を蹴る。自分の楽しみしか頭にない彼女に腹が立って仕方なかった。この期に及んで他人の胸中を慮れない彼女が。
「友人を殺して成り代わっているあなたの前で、どう笑えと仰るんです?」
「……っ」
 怒りまかせに吐き出した言葉はアニークの喉を詰まらせた。たじろぐ彼女にアルフレッドは堰を切って溢れた感情をぶつける。
「人質として、これからも宮殿には出向きます。ですが今までと同じになんて期待は持たないでもらえますか? 顔を見るだけで苦しいんです。二度と俺に馬鹿げた要求をなさらないでください」
 気持ちの整理が追いつかない。もっと強く、もっと赤裸々な憎しみを露わにしてしまいそうになる。
 バスタードソードを掴もうとして、それが己のものでないのを思い出した。ポケットのハンカチを掴み、ピアスごと掌に握り込む。
「……先に舟に戻っています」
 逃げるようにしてアルフレッドはアニークのもとを離れた。でなければ何を言い出すか、自分でもわからなかったから。
(どうかしているんじゃないのか? 疑いもせず、二週間も本物と信じ込むだなんて)
 愚かしいにもほどがある。仇に形見の礼をするとは、死んだ彼女に合わせる顔がない。せめて自分が一番に彼女の正体に気づかなくてはならなかったのに。
(失敗ばかりだ。大事なとき、いつも俺は)
 ゴンドラは退屈そうな舟漕ぎと仲良く波に揺られていた。桟橋へと引き返すアルフレッドの後を追う者はいなかった。


 ******


 草花の陰に身を屈め、平民騎士が遠ざかるのを見届ける。ユリシーズが花を束ねるセージ畑の入口では、一人取り残されたアニークが呆然と立ち尽くしていた。
 可哀想に、華奢な背中は凍えたように震えている。アルフレッドとの関係は修復できずに終わったらしい。
 ここが狙いどころだな。胸中に呟いて、ユリシーズは色とりどりのセージを腕に歩き出した。
(女帝の心遣いをわかろうとしないあの男を非難しつつ、自分は彼女の優しさに胸打たれたとでも語るのが上策かな。誰しも己の支払い分は受け取る権利があると考えるものなのだから)
 島にはもう二人きり。船頭は味方だし、邪魔者は船室に引っ込んだ。真摯な素振りで彼女の意見に同調し、いたわり深い言葉をかければチェックメイトだ。今日からは自分がサロンの主人となる。
「アニーク陛下、ご命令通りに花束を――」
 だがしかし、先回りして用意した台詞はそこですべて吹き飛んだ。アニークが泣いていたからだ。黒曜石の瞳から大粒の涙をこぼして。
「……っ!?」
 驚きのあまり抱えたハーブを取り落とす。空いた手を出したり引っ込めたりしながらユリシーズは女帝に問うた。
「あいつですか!? 謝らせますか!?」
 動転しつつ平民騎士の乗り込んだゴンドラを指差す。すると彼女は力なく首を振った。
「……っ、いいの、アル……レッドは……、悪くない、から……っ」
 嗚咽まじりの声が絞り出されると同時、滝のごとく涙があふれる。丸い染みはドレスを水玉模様に変えた。けれどなおしゃくり上げる声は止まらない。
(これはまずい。確実にまずいぞ)
 直感が肝を冷やさせた。こじれ方が尋常でない。本当に、彼らに何があったのだ?
(くそ、昨日が会議の日でさえなければ)
 軽い口論、痴情のもつれといったものではなさそうだ。やらかしたのはどうやらアニークのほうらしいが、だとしても平民騎士の対応は悪手と言わざるを得なかった。
(泣かせるか? 普通女帝をそこまで心理的に追い込むか?)
 信じがたい。よもやまさかこれほどの潔癖、これほどの石頭とは。
「あの……差し出がましいようですが、あの男と何があったので?」
 怖々とした問いかけにアニークは泣きじゃくるだけで答えなかった。小舟に戻ったアルフレッドが出てくる気配もまるでないし、さっぱり状況が掴めない。
「あなたのことが心配なのです。どうかお答えいただけませんか?」
 多少粘るも反応は同じだった。仕方なく頬を拭うハンカチだけを彼女に差し出す。
(何をしてくれているのだ、あの馬鹿者は……! 女帝の不興を買ったところで百害あって一利なしだろうが……!)
 だんだん腹が立ってきてユリシーズは握った拳を震わせた。貴様は誰のために女帝の部屋に通っている。貴様の主の、ルディアのためではないのかと。
(いかん、いかん。このままでは私まで巻き添えを食らうかもしれん)
 今はまだアニークもアルフレッドを擁護しているが、女の怒りというものはいつどんな形で暴発するか知れたものではない。それがどの方向に噴出するか誰にも保証はできなかった。
(なんとかせねば国益に関わるぞ。どうする私? どう切り抜ける?)
 泣き止まないアニークのつむじを見下ろして途方に暮れる。
 選択の幅は狭かった。そのうえ自分が得をできそうな案は一つも思い浮かばなかった。


 ******


 さっきは少し言いすぎたかもしれないな。そんな反省の念は一度も湧かないままに散策はお開きとなった。ユリシーズがアニークを元気づける声以外誰の囁きも響かずに、ゴンドラの小さな船室は重々しい空気で満たされる。
 だがアルフレッドにはどうしても棘を折る気になれなかった。作り笑いなど不可能だ。ほんのわずか取り繕うのも困難を極めるというのに。
 ただ同じ空間で過ごすだけ。置物同然に座っているだけ。譲歩できるとしてそこまでである。殺された皇女のことを考えれば。
 短い船旅は沈黙のうちに終わりを告げた。女帝をエスコートするユリシーズの後に続き、己も城の正門へ向かう。
「アルフレッド・ハートフィールドだな?」
 門番が呼び止めてきたのは宮殿に入ろうとしたときだった。「お前に客がある。あちらの衛兵についていけ」と高圧的に告げられた台詞に少し先を歩いていたアニークたちが振り返る。
「アルフレッドにお客様って誰?」
「これはこれは、女帝陛下。ダン夫妻ですよ。この男に何か大切なお話があるとかで」
「!」
 呼んでいるのが例の二人とあっては出向かないわけにいかなかった。なんにせよ寝所に戻るよりは気が楽だ。「わかった、すぐ行く」と了承する。
「今日はもうご一緒できないかもしれません」
 接見が長時間に及ぶ可能性を示唆すると女帝は大人しく頷いた。
「わかったわ。……気をつけてね、アルフレッド」
 忠告には返答せず、無言でこちらを睨むユリシーズのすぐ脇を通りすぎる。案内役の兵についてアルフレッドは中庭に向かい、大階段から二階へ上がった。後ろは一度も見なかった。
 衛兵曰く、ダン夫妻はレーギア宮の賓客となったらしい。客室の一つが彼ら専用の部屋となり、王侯並みの厚遇を受けているそうだ。
 粗相するなよと言われたが、そうできる自信はなかった。あの二人もやはり敵には違いないのだから。
「ごめんなさいねえ、アルフレッド君。わざわざ抜けてもらっちゃって」
「昼飯を食い損ねてはいないだろうな? なんだったらテーブルの上のものは好きなだけ食べるといいぞ」
 二階奥の広い客間でアルフレッドを迎えたウァーリとダレエンは、こちらが拍子抜けするくらい今までと変わりなかった。紅茶が注がれ、菓子が出され、普通の客のようにもてなされる。あっけらかんとしたものだ。昨日は人質などという穏やかならぬ条件を持ち出してきたくせに。
「いや、食事はいいよ。それより話って?」
 どう接していいかわからず、ともかくも用件を尋ねる。二人はファンスウが天帝代理として取引に応じる約束をしたこと、これ以降防衛隊は害のない限り捨て置かれること、有事の際はダレエンとウァーリが処分を任されたことなどを教えてくれた。
「で、そのうえでお爺ちゃんがもう一つ聞きたいそうなの。『アーク』とやらがなんなのか、ハイランバオスが何か言っていなかったかって」
 話しつつ立ち上がったウァーリがテーブルの椅子を引く。座れと言うようにダレエンも顎を向けたが首を振った。
 そう簡単に警戒は解けない。罪もない若い娘の身体を奪える程度には彼らは非情になれるのだ。手合わせをし、宴を楽しみ、打ち解けた間柄だと信用することはもうできなかった。
「独断では返答しかねる。明日まで待ってくれないか?」
「ええ、いいわ。あの青い髪の子に聞くんでしょう?」
 思いのほかさらりと承知される。まるで最初から話を通すべき相手は別だとわかっていた風である。昨日もほとんどルディアが交渉の主導権を握っていたから当然と言えば当然だが。
「明日の朝あの子をレーギア宮に連れてきて。今日話したかったのはそれだけよ」
「……わかった」
 できるだけ隊長らしく頷くが、ルディアが重要人物であると隠せているかは不明だった。己が彼女の盾となり、ジーアンの目から守れているのか。
「このまま用件を伝えに墓島へ赴いても?」
「あら、女帝の部屋には戻らないってこと? まあ別に、一日一度は顔見せてくれていれば構わないけど」
 監禁する気も軟禁する気もないからか、拘束はある程度まで緩めてもらえるらしかった。息をつき、「じゃあ行くよ」と踵を返す。
 客室の扉はダレエンが開けてくれた。控えめに会釈だけして通り過ぎる。
 部屋を後にし、中庭を突っ切り、正門を出て空を見上げた。なんだかな、とひとりごちる。
 罰が当たったのだろうか。主君の側を離れてほっとしたりしたから。
 どこにいても息が詰まる。胸の奥のもやが晴れない。


 ******


「そうか、わかった。明日だな」
 主君は主君であっさりと、こうなることを予期していたかのような面持ちで頷いた。「宮殿まで顔出せってかー。モモも一緒に行こうか?」と同じテーブルで作業していた妹が尋ねるが、彼女は首を横に振る。
「いや、こっちは大丈夫だ。お前はアイリーンたちを頼む」
 療養院の談話室は定例報告で聞いた通りがらんとしていた。アルフレッドが前回訪問したときは患者たちも友好的であったのだが、今は一人の姿もない。アイリーンがスケッチを描くために陣取った机と、モモとルディアが教科書の草稿を広げる机以外はしばらく使われた形跡もなかった。
「きゅ、宮廷のことは力になれなくてごめんなさい。気をつけてね」
「他人の身体で無茶はしないよ。心配しないでくれ」
 すぐ横のテーブルから心配そうに見つめてくるアイリーンにルディアが笑う。主君の借りている肉体の持ち主は諜報活動中だそうで不在だった。今はまだ猫くらいしか敵陣に潜り込めないらしい。身動きの取れなさはこちらも同じかと溜め息が出る。
「何か手伝えることはあるか?」
 することもないので尋ねると、ルディアは「うん? そうだな」と談話室を見渡した。だが教科書作りの役割分担はとうの昔に終わっており、今日だけの助っ人に改めて作業の概略を説明するのは面倒なようだった。
 思案したのち主君は「ちょっと表へ出よう」と立ち上がる。「やらなければと思いつつ放置していたことがある」と彼女は続けた。
「いい機会かもしれないな。お前付き合ってくれないか?」
 そう言うやルディアは玄関に歩き出す。アルフレッドは何と問うこともせず、黙って彼女に従った。来いと言われれば行くのが騎士の務めだった。
「アルフレッド、こっちだ、こっち」
 主君が足を運んだのはレンガ壁に囲まれた療養院の敷地外、美しい王国湾を前面に臨む広大な墓所だった。撤去された独立記念碑の周囲には古いものから新しいものまで数多の墓標が連なっている。大きいのは名を成した英雄や議員の墓、小さいのは慎ましやかに生きて死んだ人々の墓という風に。
 吹き抜けていく潮風にアルフレッドは目を閉じた。肺一杯に海の匂いを吸い込んで、ゆっくりと瞼を開く。
 おそらく院にハーブ園があるからだろう。なだらかな丘に目を向けるとここでもセージが赤白紫に咲いていた。誰かの落とした種が偶然根付いたか、香り高い薬草は墓石の隙間を縫うように点々と咲き誇る。
 ――ピアスと一緒に赤い花を。
 そう言ってくれた亡き人を思い出さずにはいられなかった。二度と咲くことのない花を。
「あんまりひっそり死んでいくと、誰にも弔われないだろう」
 少し離れて響いた声に顔を上げる。見ればルディアは土台だけ残されていた記念碑の前に跪き、手ずから土を掘っていた。彼女の作った二つの穴は深くもなければ広くもない。だが懐から取り出した一通の手紙を埋めるだけなら十分な大きさだった。
「その封筒、イーグレット陛下の遺言じゃないのか?」
「大事なことは伝わったさ。王の署名が入っているし、残しておいて人の手に渡ると厄介だ。遺体もなし、遺品もなしでは墓という気もしないしな」
 ルディアはそっと手紙に土を被せていく。躊躇なくそうできるということは彼女の中で決着済みということだろう。であれば己も言うことはない。
「…………」
 秘かな葬儀をアルフレッドは沈黙とともに見守った。ルディアがもう一通の手紙を取り出すまで。
「? そっちは誰の墓なんだ?」
「『ルディア』だよ。本物の、人間の王女の」
 娘に宛てて書かれたそれを彼女は丁寧に埋葬した。
 罪滅ぼしのつもりだろうか。せめて注がれた愛情を分かち合おうと振る舞うのは。
「放っておいたら死んだことさえ誰にも気づかれないからな」
 片膝をつき、指を組み、祈り始めたルディアに合わせてアルフレッドも頭を垂れた。同じ姿勢で黙祷する。守りきれなかった王家のために。
 主君は長々祈っていた。これまでのすべてを受け入れ、これからのすべてを掴もうとするかのように。
 ああ、この人はずっと「姫様」でいてくれるだろうか。血の正統性を失っても、ほかの生き方を選ぶ誘惑に屈することなく。自分をずっと彼女の「騎士」でいさせてくれればいいけれど。
「……俺も一つ、墓を掘っても構わないか?」
 祈り終わるとアルフレッドは静かに尋ねた。そのつもりで付き合えと言ったに違いないルディアは「ここに」と記念碑の傍らを指す。
 必要な穴は彼女がこしらえたものよりずっと小さかった。ハンカチに挟んだ片方だけのピアスを摘まみ、一番深いところへ置く。青にも緑にも艶めく石は間もなく暗い土に飲まれた。今度は自分が、長く、長く、祈る番だった。
「……つらい役回りをさせてすまないな」
 立ち上がった主君がぽつりと詫びる。「なんなら代わるぞ」との台詞には即座に首を横に振った。
「一度受けた任務を途中で放り出せない。人質なんて物騒な立場に甘んじねばならないとしたらなおさらだ」
 頑として聞き入れない態度を示すとルディアはふっと頬を緩める。「難儀な奴だ」と笑った後で彼女は柔らかく目を伏せた。
「変わらないな、アルフレッド。そのうちきっと、お前は人に知られた騎士になるよ」
 何故なのか、落ち着いた声の響きは以前彼女としたやり取りを思い出させた。お前は無名の騎士のまま終わらないでくれと、優しい言葉に惑わされた。
 ルディアはとても誠実だから決して他人を縛らない。どんなに重大な役割を与えても、最後には「逃げていいぞ」と手を放す。
 誠実だから不確定な未来の約束もくれない。プリンセス・オプリガーティオのように「ずっと私の騎士でいてね」とはどうしても言ってくれない。彼女がそう命じてくれればこの心は嵐の夜にも憩えるのに。
「私にしてほしいことはあるか?」
「――え?」
 藪から棒の問いかけにアルフレッドは瞠目した。心を読まれでもしたのかとまじまじルディアを見つめ返す。が、無意識に胸中の思いが表れていたわけでなく、彼女はまったく無関係の考えから話を切り出したようだった。
「前にレイモンドに言われたんだ。頑張る代わりに褒美が欲しいとな。望みがあればお前もそれくらい主張していいんだぞ?」
 給金も払わず危険な目に遭わせているのだし、と主君は言う。瞬発的に口をついた言葉は半分本当で半分嘘だった。
「見返りが欲しくてやっているんじゃない」
 荒らげた声にルディアはやれやれと肩をすくめる。「お前らしい返事だ」と、満足そうに彼女は笑った。
 強い風が吹き抜けていく。もう一度だけセージの花咲く墓前に手を合わせ、アルフレッドたちは療養院に引き返した。


 ******


「ええーっ?」という不満の声にぎろりと目尻を吊り上げる。だが少々怯えるふりこそすれ、狐っ子は龍の逆鱗に触れることなどまるで憚らぬ様子だった。
「それじゃ明日はダレエンとウァーリだけで防衛隊に会うのかー。いいなあ、いいなあ、俺も尋問したかったなー」
 ゴンドラに足を投げ出し、あぐらを掻いた爪先をもてあそびつつラオタオが喚く。一日の調査を終え、夕暮れの潟湖を渡る舟の上でファンスウは深く息をついた。
「あくまでも尋問じゃぞ。拷問ではないからな」
「わかってるって、アルフレッド・なんたらが二人の恩人だからだろ? けど俺だってたまにはいつもと違う刺激が欲しかったんだってー」
「なあウェイシャン?」と寝転がった姿勢のままラオタオが隣の預言者に呼びかける。締まらない表情を顔布で隠したウェイシャンが「はえ?」と間抜けな返事をすると狐は馴れ馴れしく駄犬の袖を引っ張った。
「だからー、毎日毎日調査ばっかでほんと退屈だよなってー」
 監視役を懐柔しようとする気配を嗅ぎ取り、ファンスウは鞘を掴んで狐の手を打つ。
「いてッ!」
 仰け反ったラオタオは「何すんだよう」と涙目で抗議した。
「おぬしはわしの言うことを聞いて大人しくしておれ。疑いは晴れたわけではないのだからな」
 叱りつけるも食えない男は右から左に受け流す。ひょっと投げ返されたのは手厳しい反論だった。
「けど実際、海調べてるだけじゃなんにも判明してないよね? アークのこと、ウァーリたちの甘っちょろいやり方で聞き出せるわけ?」
 的確に痛いところを突かれて黙る。しかし今はあの二人に任せるほかはない。裏切り者の可能性が極めて高いラオタオを情報源と接させるのは愚策だったし、しばらくはこの男を直接自分の監視下に置きたかった。命の恩人に手を出して十将内の均衡を崩すのも無益だ。結局ダレエンとウァーリを動かすのが最善なわけである。
「やると買って出たのだから信用するさ。おぬしも自由に振る舞いたくば身の潔白を証明せい。記憶喪失患者を集めてどうする気だ? わしはまだなんにも聞いとらんがの」
 独自に十人委員会とコンタクトを取っていること、知っているぞと仄めかす。しかし狐は悪びれもせず「調査に進展ないんだし、実験台が必要でしょ?」と酷薄に笑った。
 こういうときのラオタオの笑みは彼の「親」とよく似ている。興をそそらぬ対象に、あの詩人もまた冷たかった。
「ま、疲れたから帰ろ帰ろー。俺が聞いて問題ないなら尋問の結果教えてね」
 改めて舟底に寝そべり、狐は悠々と足を組む。
 太陽は西方に沈みつつあった。波乱も、嘆きも、夜はすべてを飲み込んで、そうしてまた朝が来る。


 ******


 神様はどうして蟲をこんな生き物にしたのだろう。ヘウンバオスはどうして自分をアニークに選んだのだろう。
 こんなに悲しいことがあるなんて考えてもみなかった。西パトリアに、騎士物語を生み出した地に行きさえすれば、たとえ短い生涯でも幸福でいられると信じたのに。
 胸の痛みがどうしても消えてくれない。言葉は心臓に深く突き刺さったまま、忘れることさえできなかった。
「わ、私だって、好きでこの身体に入っているんじゃないわよぉ……っ。お、皇女だって、殺したのはヘウンバオス様なのに、私が全部、悪いみたいなぁっ……!」
 あふれ続ける涙はアニークのハンカチをぐちゃぐちゃに濡らす。堪えようとしても慟哭はやまず、壊れた涙腺の治癒する兆しも感じ取れなかった。
「ま、まあまあ、アルフレッド君も少しすれば落ち着いてくれるわよ。悪い子じゃないし、今は冷静さに欠けているだけだと思うわ」
 二人掛けのソファで泣きじゃくるアニークをなだめるためにウァーリが手を伸ばしてくる。かっとなってそれをはねのけ、大声で怒鳴り散らした。
「少しすればってどのくらいよ!? あ、明日死んじゃうかもしれないのに、もしアルフレッドに嫌われたままだったら私……っ、私……っ!」
 感情の高ぶりのまま、わっと蠍の膝に泣き伏せる。隣に腰かけたウァーリは優しく頭を撫でてくれたが、具体的な解決策は一つも示してくれなかった。
「もういやぁ……! アルフレッドにあんな目で見られるくらいなら、こんな身体捨てちゃいたい……! お願いだから誰かと交代させてよぉ……!」
 しくしくと泣きつくも曖昧に返事を濁される。手の足りぬ今、そうほいほい中身の移し替えなどできないというわけだ。アクアレイア行きを渋られ続けたときとまったく同じ反応である。アニークの境遇を哀れがるふりをして、結局彼らはアニークの個人的な願いよりジーアン全体を優先するのだ。
 誰も自分の味方ではない。仲間のくせに誰も親身になってくれない。なんて不幸、なんて報われなさだろう。
「そろそろ寝所に戻ったほうがいいんじゃないのか?」
 と、そのとき、小椅子の上で片膝を立て、愛用ナイフの鋭さを確かめていたダレエンが言った。こんな状態の自分を追い出すつもりかと憤慨するが、そういう意図ではなかったらしい。客室のドアを見やって狼は続ける。
「今日の朝、アルフレッドがまた来ることになっている。あいつとの揉め事は避けたいんだろう?」
 言われて「えっ」とアニークは眉をしかめた。また自分の知らない間に話が進むところだったのか。それで余計に嫌われたら一体どうしてくれる気だと。
「私も立ち会う。別に構わないわよね?」
 ウァーリの腕を掴んで問うと蠍は「ええっ!?」とうろたえた。しかし断固拒むほどの理由はなかったようで、「お願い!」と頼み込めば「仕方ないわねえ」と了承してくれる。
「あたしたちは交渉のために防衛隊を呼んだんだから、邪魔しちゃ駄目よ」
「ええ、もちろんじっとしているわ!」
 同じ部屋にいさえすれば、話が悪い方向へ転がりかけても事前に止められるかもしれない。昨日より上手く弁解できるかもしれない。
 アニークはよし、と己を奮い立たせた。
(そうよ、彼にわかってもらわなくちゃ。『アニーク』じゃなく私自身を認めてもらうの。もう一度笑顔を向けてもらうために)
 ぎゅっと拳を握りしめる。ノックの音が響いたのは決意が固まりきる寸前のことだった。
「アルフレッド・ハートフィールドとブルーノ・ブルータスです」
 衛兵が二人の青年を客室に通し、足早に去っていく。室内を見渡した赤髪の騎士はすぐアニークに気がついた。ただしその目は一段と冷え込み、侮蔑的な色さえ滲ませていたが。
「――」
 たちまち勇気は枯れしぼみ、拳も力を失くしてしまう。おはようと、たったひと声かけることさえできなかった。
 あ、私、敵なんだ。彼にとっては仇以外の何者でもないんだ……。
 痛いほどの実感は無力な言葉など発させようともしなかった。どんな海より深い溝が二人の間にぱっくり口を開いていた。


 ******


 ふうんと客室を一瞥し、ルディアは中央にしつらえられた角テーブルに目を留める。小椅子には上着を脱いで軽装のダレエン。ソファには一部の隙もなく身を整えたウァーリが深く腰かけている。今日は女帝も同席するようで座席はすべてジーアン人で埋まっていた。座れと促されることも、挨拶を求められることもなく、会話は最初から本題に入る。
「詳細はアルフレッド君に聞いてくれたかしら?」
 進行役は赤い唇を微笑ませたウァーリが務めるものらしい。「ああ」と答えてルディアは一歩奥へ進む。
「こちらの出した要求を飲んでくれたことも聞いた。まずはその礼を言おう。――だが」
 きっぱりとした態度で「アークについて答えるのは最初の取引になかった話だな」と告げるとウァーリは小さく眉を寄せた。怒らせる前にルディアは口元をやわらげる。
「答えたくないとは言っていない。そちらが一つ付け足すのなら我々にも一つ条件を加えさせてほしいというだけさ」
「……なるほどね。まあいいわ、言ってみて」
 肩をすくめ、彼女は話の続きを催促した。
「ドナのことを教えてくれ」
 そう要望したルディアに対し、ウァーリは多少の警戒心を示しつつ「ドナの何が知りたいの? それは何故?」と問い返してくる。
「調べ済みだとは思うが、我々はいずれドナで下働きに回される記憶喪失患者の語学指導をしている。彼らが実際どのように扱われるのか、ドナがどういう状態なのか、患者たちのために知っておきたい」
 説明に嘘はなかった。経済的、戦略的な理由からもドナの実情は可能な限り把握しておかねばならなかったが、表向きの理由ならこの程度で十分である。
「……。ラオタオの管轄だから正確なことは言えないけど……」
 ウァーリも少しくらいならと譲歩の姿勢を見せてくれた。逡巡ののち、彼女は慎重に喋り出す。
「やってもらうのは退役兵の世話でしょうね。あそこはジーアン人が第二の生を満喫するための街だもの」
「ジーアンでは退役兵にいつもそんなに手厚いのか? 帝国自由都市などと、ご大層な自治権まで与えてやったと耳にしたが」
 鋭く問うとウァーリはやや顔を歪めた。女の勘でも働いたか、無愛想に眉をしかめて睨んでくる。
「いえ、それは今回が初めてよ」
 冷徹な声に怯むことなくルディアは更に問いを重ねた。己の推測の正しさを立証するために。
「ハイランバオスは自分の裏切りをきっかけに帝国内でひと悶着起きたはずだと言っていた。つまりドナの退役兵は、天帝から離反した蟲の集団ということでいいわけかな?」
 入れ知恵があったことを匂わせる。すると彼女は面食らい、いよいよ表情を険しくした。
「離反ではないわ」と凄まれる。適当に誤魔化すのは諦めたらしく、代わりにウァーリは威圧的になった。そんなポーズは端から無視するだけだったが。
「なるほど。しかし戦力ではないわけだ。寿命が近いと知って享楽に逃避した連中、といったところか」
 指摘は図星だったようで、大いに相手の機嫌を損ねる。「……っ! もう十分でしょ!」と彼女は強引に話を切り、次は自分たちの番だと身を乗り出した。
「さあ、あなたも話してちょうだい。アークについて知っていること」
 ドナに出入りする商人や現地の様子についても聞きたかったのに、と小さく嘆息する。そちらはおいおい調べていくしかないようだ。情報獲得に見切りをつけ、ルディアは将軍に応じた。
「アークとは蟲を生み出すクリスタルのことだ。それ以上のことは私も聞いていない」
 今度は臆面もなく嘘をつく。コナーとアークの関係についてはどんな微小な関わりも漏らすつもりは毛頭なかった。
 アレイアのアーク。それがアクアレイアに棲む蟲たちの母体なのだとしたら、天帝やハイランバオスの思惑に関係なく、きっと守らなければならない。
「蟲を生み出すクリスタル?」
「詳しくは知らん。とりあえず、一つではなく複数存在するようだな。北辺に『フサルクの入れ替わり蟲』という伝説が残っている。その昔、フサルク島の神殿では方舟型のクリスタルが崇められていたそうだよ」
 古パトリア語においては聖櫃だけでなく方舟もアークと言うと教えてやる。するとウァーリは目を瞠り、静かに息を飲み込んだ。
「こういう髪をした人間はアークの働いている場所でしか生まれてこないとも聞いたな」
 前髪をいじりもって続ける。何かひらめきを得たらしく、彼女はダレエンと目を見合わせた。
「それじゃレンムレン湖にもアークが存在したということ? ひょっとして、ハイランバオスはあたしたちにそれを探せと言いたいのかしら……?」
 数秒の沈黙の後、ダレエンが「お前たちのアークはどこにある?」と尋ねてくる。首を横に振り、ルディアは「知らん」と端的に答えた。
「ずっとこの国に住んでいるが、そんなクリスタルの話は聞いたこともない」
 これは事実だ。レーギア宮でもアンディーン神殿でもアークと思しき宝など一度も見かけたことはなかった。とうの昔に誰かが持ち出したのかもしれない。それこそコナー本人が。
「もういいか? 逆さに振っても我々からは何も出てこんぞ。あの男、大事なことは結局ほとんど喋らずに消えたからな」
 必要ならアイリーンのノートを貸してやろうかと申し出る。無用な親切には触れもせず、ウァーリは「もう一つ聞かせて」と迫った。
「ハイランバオスは何故あなたたちに仲間にしてくれなんて言ったのかしら? 防衛隊は蟲の存在を知っていたから確かに話は早かったでしょうけど、こんな状況のアクアレイアに帰ると普通思わないでしょう?」
 なんらかの確信を持った口ぶりで問いかけられる。平然とした調子は崩さず、ルディアは彼女の疑問に答えた。
「ああ、それは私が脳蟲だからだろう。蟲に備わった本能で、無理をしてでも巣を取り返そうとすると考えたのではないか?」
 なりゆきを見守っていたアルフレッドがぴくりと指先を震わせる。何を言うのだと諌める目に見つめられたが気づかなかったふりをした。ある程度事実を混ぜねばあちらを納得させられない。カードの出し惜しみはできなかった。
「――えっ、あなた蟲だったの?」
 と、そのとき、緊迫した室内に無邪気なまでの問いかけが響いた。尋ねたのはアニークである。純粋に驚いた顔で女帝はまじまじこちらを眺めた。
「ご存知ありませんでしたか? アイリーン・ブルータスの弟は、幼少期に姉の手で頭に蟲を入れられたと」
 ジーアンの上層部なら知っていてもおかしくないのに妙だなと首を傾げる。するとウァーリが割り込んできて「大人しくしなさいって言ったでしょ!」と彼女を叱りつけた。
 アニークはしゅんとソファの奥に下がる。追加の質問は誰からも出なさそうだったのでルディアは退出することにした。目的を果たした以上長居は無用だ。難癖をつけられぬうちに敵地を脱してしまいたい。
「話は全部終わったか? では私はこれで失礼させてもらう」
 このまま宮殿に残る予定のアルフレッドを置いて踵を返す。外へ出るドアを開こうとしたときだった。背中を掠めるようにして鋭い刃が飛んできたのは。
「……ッ!?」
 ルディアが武器を取るより早く、赤髪の騎士がすっ飛んでくる。剣を構えた彼は背中にルディアを庇い、「何をする!?」と猛々しい怒号を響かせた。
 すぐ側に落ちたナイフをちらりと見やる。どこにも当たりはしなかったが、追撃のないのが不自然だった。否、おそらく最初から一撃だけのつもりだったのだろう。狼のごとき双眸に映るアルフレッドの位置取りを見れば将の真意は読み取れた。
「お前、ルディアだな?」
 全身で自分を守ろうとする騎士越しにこちらを眺めてダレエンが問う。違うとは否定できなかった。座したまま動かぬウァーリの落ち着きぶりから察するに、二人は答えを確信していたようだったから。
「巷の噂でどうもここの王女様は脳蟲の宿主だったみたいとは考えていたの。ほら、病人を生き返らせるおまじない。あれってルディア王女にちなんでいたんでしょう?」
 ソファで足を組みかえながらウァーリが告げる。他にも色々引っかかることはあったと彼女は続けた。
「あなたたちは過去に一度、バオゾに偽の聖預言者を連れ込んで有利な約束を取り付けようと画策している。防衛隊は王女直属部隊だったそうだし、指示を出したのは彼女だろうと思っていたわけ。王女自身が脳蟲だから大胆な奇策を実行に移せたに違いない、とね。――ところがラオタオに献上された姫君からは蟲が出てこなかった。おかしいじゃない?」
 まだこの国のどこかにルディアはいる。そう見抜かれていたらしい。交渉を重ねればいずれ勘付かれるかもしれないなとは考えていたが、存外に早かった。さすがはジーアン十将である。
「ま、アルフレッドがそれだけ殺気立って守ろうとする相手が主君でないならなんなのだという話だな」
 もう攻撃の意思はないと伝える素振りでダレエンは空の両手を広げた。正直すぎる反応を示したことを悔いるようにアルフレッドが唇を噛む。
「ああ、そうだ。私がルディア・ドムス・レーギア・アクアレイアだ」
 改めて名前を告げると将軍たちは黙って見つめ返してきた。アルフレッドに剣を下ろさせ、まっすぐ彼らに向き直る。こうなれば妙な疑いを持たれぬように堂々と。
「ハイランバオスが私に近づいたのは私が王女だからだろうな。あいつは天帝からアクアレイアを取り上げたいと言っていた。普通の脳蟲をけしかけるより、私を手伝ったほうがジーアンの脅威になると考えたのだろう。残念ながら私は現実主義だから、王国再興は不可能と断じてお前たちに情報を横流しする道を選んだわけだが」
 猜疑に満ちた目が向けられる。頭の中を見透かそうとするようにウァーリは問いを投げかけてきた。
「お姫様の肉体はどうしたの?」
「安全な場所に逃がそうとしたが無くなった。だから国を取り返すのは諦めたんだ」
 肉体があっても諦めただろうがな、と付け加える。ジーアン帝国に比べればアクアレイアがいかに小さな都市国家かは彼女たちのほうが断然詳しかった。
「……わかったわ。とりあえずあなたが要注意人物だってことだけは」
 権力中枢に近い人間を宿主にした脳蟲ほど巣に対して強い執着を持つ傾向があることはウァーリたちも把握済みらしい。しかしひとまずこの場は解放してもらえそうだった。「手荒なことしてごめんなさい。また話しましょ」と将軍は退室していい旨を告げる。
「では失敬」
 今度こそ墓島へ向かうべくドアを開けた。刃を向けられたことにまだ動じているアルフレッドが「門まで送る」とついてきたのを断って。
「平気だよ。送るなら女帝陛下を部屋までだろう?」
「だが……!」
 宮殿内にはジーアン兵がうようよいるんだぞと言いたげに騎士は顔を歪めたが、いらぬ世話だと首を振った。あまり大層に王女扱いしてくれるなと。
「ブルーノ・ブルータスは一人で行けると言っている。わかったな?」
 客室にアルフレッドを押し留め、扉を閉める。胡散臭そうに睨んでくる兵士の間を擦り抜けてルディアは正門へ歩き出した。宮殿を出るまでは決して気を緩めぬように。


 ******


 彼女が部屋を立ち去ると、急に空気が塗り替わった。肺を押し潰されそうな圧迫感は消え、代わりに心臓がざわめきだす。
 無言で目を見合わせるダレエンとウァーリの傍ら、アニークはごくりと息を飲んだ。――王女ルディア。あんな毅然とした人がアルフレッドのプリンセスなのか。
(私と全然違う人だったわ……)
 ショックを受けている己に気がつき、アニークは胸を押さえる。
 賢そうで、強そうだった。十将と対等に話し、腰には剣を差し、一人で平気だと歩いていった。いつも正しいことを言うアルフレッドを駄々っ子のようにたしなめていた。
(私とは全然違う……)
 あれがアルフレッドの一番大切にしている人。
 言葉にすると途端に息が苦しくなる。血相を変えて彼女を庇った騎士の姿を思い出して。理解などしたくなかった。彼はあの姫のものなのだと。
「アニーク陛下。あたしたち、ちょっとファンスウを探してくるわね」
 と、おもむろにウァーリがソファから立ち上がる。ナイフを拾ったダレエンもビロードの上着を羽織って客室から出ようとしていた。
 ここは無人になるので寝所へ帰れということらしい。怖々とアルフレッドを見上げると、アニークは「わ、私たちも行きましょうか」と笑顔を作った。
「…………」
 さっきまでルディアに見せていたのとは雲泥の差の冷たい横顔が振り返る。赤髪の騎士は一応「ええ」と頷いたが、眼差しはもうこちらへは向かなかった。
 弁解の言葉など結局一つもひらめかない。何か言えたところできっと無駄な足掻きなのだろうとしか思えなかった。
 私は彼に憎まれている。私では彼のお姫様になれない。


 ******


 さて一体、待てと言われてはたして何分経過しただろう。アニークの様子が気がかりで、今日も早めに出てきたというのに肝心の女帝はいっかな姿を見せなかった。
 普段の出勤時刻で考えても時計の針は三十分近く進んでいる。ユリシーズは少々苛立ちを覚えながら二杯目の紅茶を飲み干した。
「ああ……、もう着いていたの、ユリシーズ……。ごめんなさいね、待たせてしまって……」
 待ち人が戻ってきたのは三度目のおかわりをしたときだ。女帝と連れ立って平民騎士が入室してくるのを見てユリシーズは目を丸くした。一瞬「なんだ、仲直りしたのか?」と思ったが、どうやらそうではなかったらしい。彼の態度は昨日と変わらずふてぶてしく、席に着くなり女帝から目を背けてしまう。
 状態はむしろ悪化の一途を辿っているようだった。アニークは昨日より更に生気がなく、今にも卒倒しそうである。アルフレッドのほうも壁を睨みつけたまま微動だにしなかった。
「え、ええと……、今朝はどちらへおいでだったので?」
 明るい話題を探してユリシーズは女帝に尋ねる。
「ああ……ダン夫妻のところよ。宮殿に二人の部屋を用意したから……」
 虚ろな返事をよこしたきりアニークは黙り込んだ。二の句が告げられることはなく、話に花など咲きはしない。昨日と同じに彼女は項垂れ、ただつらそうに指先を握り込んでいる。
「あの、朗読でもいたしましょうか? 騎士物語のお好きな章を」
 なんとか女帝を喜ばせようと提案するも、これもやはり効果なかった。覇気のない声で「今はいいわ……」とやんわり断られて終わる。
 ユリシーズが気を揉む間、アルフレッドは我関せずと言わんばかりにそっぽを向いたきりでいた。これほどアニークを弱らせて何も感じないのかと呆れる。この女が「いいの、悪いのは私なのよ」と思ってくれているうちに関係を修復できねば大問題に発展するのは明らかなのに。
(……だ、駄目だ。とばっちりで悲惨な目に遭う未来しか想像できん)
 ただでさえ規模縮小している東方交易が完全に駄目になるか、或いは女帝が再びカーリスの強欲どもに肩入れするようになるか。想像してキリキリと胃が痛む。
 何を考えているのだとアルフレッドの肩を掴んで揺さぶりたかった。というかもう、そうせねばならないレベルに達している。今日のサロンが解散したらこいつと少し話をしよう。そうだ、そうしよう。
 と、そのとき、コンコンと扉をノックする音がして、無愛想な衛兵が商人の来訪を告げた。女帝の部屋に直接顔を出せるのはご贔屓の骨董品商だけである。これはアニークも元気が出るに違いないとユリシーズはガッツポーズで彼女に笑いかけた。
「良かったですね! 騎士物語にまつわる品が手に入るかもしれませんよ!」
「え……?」
 が、いつもなら飛び上がってはしゃぐ彼女が今日はまともな返事もしない。まさか目利きの掘り出し物を手に取る気力もないのかと息を飲んだ。
「……ごめんなさい。なんだか私、具合が悪いみたいで……」
 アニークは衛兵に商人を帰すよう命じ、ゆっくりと立ち上がった。どうするのかと思ったら女帝はよたよた天蓋付きのベッドに向かって歩いていく。
「ごめんなさいね、二人とも。来てくれたばかりで悪いけど、今日はもう休むわ……」
 本当にごめんなさい、と涙を溜めて彼女は詫びた。まるで何かほかのことの許しを乞いでもするかのように。
「…………」
 横になると言われればこちらは引き揚げるしかない。ユリシーズが「わかりました。ご自愛なさってください」と挨拶すると隣の男も心のこもらない声で「どうぞお身体を大切に」と立ち上がった。
 無礼千万な平民騎士は足早に部屋を去っていく。ユリシーズは恭しく辞去を述べたのち、急ぎ彼を追いかけた。
「おい待て、貴様! アルフレッド・ハートフィールド!」
 柱廊へ出ようとしていた赤髪の騎士を呼び止める。返事も待たず腕を掴み、「ちょっと来い」と引っ張った。
「なんだ? 俺に何か用か?」
 アルフレッドは怪訝げに眉をしかめる。それ以上に濃いしわを眉間に刻んでユリシーズは「そうだ」と語気を荒らげた。怒っているのは伝わったらしく、少しして「わかった」と頷かれる。
「小会議室へ行くぞ。あそこなら誰も来ない」
 向かったのは委員会の招集日でもない限り常に無人の一室だった。かつかつと踵を鳴らして階段を上がる。昔に比べて宮廷内の兵や召使いは激減していたが、それでも話が話だけに立ち聞きされる可能性は潰しておきたかった。
「……で、なんだ?」
 小会議室の扉を閉めるなりふてぶてしく尋ねられる。のっけからなんて腹の立つ男だろう。問題を起こしている自覚くらいあるだろうに。
 ユリシーズは騎士を睨んだ。どんな馬鹿でも確実に理解できるように、猟犬のごとく吠え立てた。
「女帝と上手くやる気がないなら明日から来るな! 貴様がいると東パトリアとの関係が悪くなる!」
 いくらアニークが緩くとも遊びの場ではないことを強調する。しかし道理のわからぬ平民騎士は「それはできない」と仏頂面で首を振るのみだった。このうえ「明日からも今まで通り顔を出す」と、度しがたいことをほざいてくれる。
「だったら態度を改めろ! 貴様はなあ、女帝への侮辱、帝国に対する挑戦と受け取られても仕方のない行動を取っているんだぞ!」
 反骨精神だけは立派な新兵を諭すように言い聞かせる。殺気立つユリシーズを目の前にしてもアルフレッドは素直に「はい」とは言わなかったが。
「現状それも難しい」
「難しいからなんだというのだ? 貴様わがままを通せる立場か?」
「こっちにも事情があるんだ」
「なら洗いざらい話せ。アニーク陛下と何があった?」
「…………」
 質問には長い沈黙が返された。答える気などさらさらなさそうで辟易する。事の重大さをこの男はまったく理解していないのだ。仮に女帝がアルフレッドを庇い続けてくれたとしても、話が東パトリアやジーアン上層部の耳に入ればただでは済まない。「アクアレイアの騎士が無礼を働いたこと」は誰にどう政治利用されてもおかしくない国家の弱みとなり得るのに。
「話せ」
 せっつくと平民騎士は嫌がった。いきさつを打ち明ける義理などないというわけだ。どうやら彼はこちらを同胞と見なしてはいないらしい。
「じゃあ女帝をいたぶるのをやめろ。もっと好ましくもてなせ」
 煮えたぎる血を鎮めながら極力冷静に命じた。やはりアルフレッドは「はい」とは答えなかったけれど。
「俺はいたぶってなんて……」
 あまりの物わかりの悪さに苛立ちが頂点に達する。ユリシーズは平民騎士の左耳を掴むと真正面から怒鳴り飛ばした。
「いい加減にしろ! 貴様ルディアの騎士だろう!? あの女が守ろうとしたアクアレイアを貴様が台無しにするつもりか!?」
 浅薄な反論など聞きたくもない。畳みかけるようにがなり続ける。
「せっかく女帝がアクアレイアに金を落としてくれるようになったんだぞ! それなのにギスギスしたままノウァパトリアへ帰してどうする!? 貴様の肩にも私の肩にも国の命運がかかっているんだ! 甘ったれるな!」
 ひと息にそこまで叫ぶとユリシーズはアルフレッドを突き飛ばした。どしんと壁に背中をつき、平民騎士は目を瞠る。
「ちっ……」
 ユリシーズは盛大に舌打ちした。柄でもないことを口にしたと。しかもこれから、もっと柄でもないことを言わなければならないのである。
 今の己にできる譲歩、見いだせる妥協点。最後通告としてそれをわなないている騎士に伝える。
「……私とて貴様らに力添えなどしたくはない。だがこの状態を放置するよりずっとましだ。とにかく明日は普通にしろ、女帝を構え。多少なら間に入って取り持ってやるから」
「…………」
 アルフレッドは押し黙り、しばし唇を噛んでいた。だがついに愚かな意地を放り捨て、「善処する……」と喉を震わせる。
 ほっと息をつき、ユリシーズは全身の力を緩めた。「その言葉忘れるなよ」と念を押し、小会議室のドアに手をかける。
「じゃあな」
 部屋を出る前に振り返ったアルフレッドの顔面は蒼白だった。思った以上に主君の名前を持ち出されたのが効いたらしい。なんてわかりやすい男だろう。
(ルディアの騎士、か)
 自分もかつてはそう呼ばれた。だが今は人々の憧れを受ける者として騎士の称号を保ち続けているに過ぎない。
 もはや新たな主君を探すこともないだろう。誰かに仕えるという生き方は、肉体的にも精神的にも不自由なものなのだから。


 ******


 人間世界の営みが上手く回っていようといまいと海はいつだって知らん顔だ。墓島に向かうゴンドラの上、低い波にゆらりゆらりと揺られながらルディアはエメラルドグリーンの潟湖を見渡す。
 太陽の光を吸って輝く水面。晴れ渡る青い空。点在する島々に小さな平舟で行き来する漁民。そういったものを眺めてようやく脈打つ鼓動が鎮まってくる。
(毎回毎回、綱渡りもいいところだな)
 ふうと短く息をついた。交渉はいつ一方的な命令に変じるかわからないが、とりあえず今のところはカードの切り方を間違わずにやれているらしい。
 ただし油断は禁物だった。忘れてはならない。潰そうと思えば簡単に潰せる相手だから見逃されているに過ぎないと。
(私の名前に言及したのは牽制のつもりだろうな)
 コリフォ島に追放されたのは偽者だったとばれてしまった。これでこちらは一つ弱みを握られたことになる。もうアクアレイアには何もしないと約束した手前、あちらも騒ぐ気はないのだろうが。
(ラオタオに献上された姫君からは蟲が出てこなかった……か)
 ウァーリの台詞を思い返して目を伏せる。彼女の発言はなんらかの形で王女の代役が死亡したことを物語っていた。明るく献身的だった、あの侍女はもう帰らないらしい。
「…………」
 失ったものの多さに改めて気が沈む。ジャクリーンにイーグレット、自身の肉体、そしてもしかすると娘までも。
 すべてを無傷で守るなど不可能なのは百も承知だ。けれど無力を嘆かずにはいられなかった。自分にもっと力があればと。
「お客さーん、じきに墓島到着だよー」
 と、辻ゴンドラの船頭が船尾から声をかけてくる。頭だけ振り向けば、櫂を握った中年男が卑屈な笑みを浮かべていた。
「療養院に何しに行くんだい? 見舞か? それともシルヴィア様のお手伝いか? いいねえ、リリエンソール家とお近づきになれるなんて」
 俺ももっといい仕事に就いてこんな暮らし抜け出したいよと船頭はかぶりを振る。彼のシャツはよれよれで、商売道具のゴンドラはタールが剥げかかっており、ありありと生活苦が見て取れた。
「別に近づきになってはいないが」
 そう否定するも船頭は「いやいや、んなことないでしょ」と思い込みだけで話を続ける。
「こっちもねえ、いずれユリシーズ様がなんとかしてくださると信じちゃいるが、たまの贅沢もできないってのがつらくてねえ」
 同情を引こうとする口ぶりに察せるものがありすぎてルディアはやれやれと嘆息した。要するに渡し賃にいくらか上乗せさせたいのだろう。近頃は客から金をせびるためにわざと沖のほうへ出て「財布を渡さなきゃ岸には帰してやらないぜ」などと脅すゴンドラ漕ぎもいると聞く。わざとらしく腰に帯びた剣に手を回しながらルディアは「なるほど」と返答した。
「それはお気の毒に。今夜の一杯は奢らせてもらうよ」
 最初に提示された額に多少色をつけてやるので彼は満足したらしい。一連の会話が始まってから不自然に停止していた舟は再び墓島へ漕ぎ出した。
(衣食足りてなんとやら、だな)
 今のアクアレイアにはこんな輩が一人や二人ではないのだろう。そう考えて肩を落とす。早くなんとかしなくてはならない。
 十分に生きていけると思えれば愚かな行為は減じるはずだ。だが今の自分や防衛隊ではいかんともしがたい難問だった。
 力がないのだ。民衆に示すことのできる、わかりやすい頼もしさが。
 そういう意味ではユリシーズに十歩も二十歩も後れを取っていた。このままでは本当に、アクアレイアはジーアン領の一部として落ち着くことになるかもしれない。
 せめて対抗馬がいればと思う。アウローラの存在は王国再興の切り札だが、国外には知られていない姫だけに表舞台へ出す時期は慎重に選ばなくてはならなかった。
 彼女のほかにもう一人、象徴的な人物が必要なのだ。アクアレイアの人々をまとめ、再独立という夢を追わせられる英傑が。
「はいよ、そんじゃ五十ウェルスいただきますね!」
 考え事をする間に舟は桟橋についていた。飲み代込みでも高すぎるぞと言いたいのを我慢して支払いを済ませる。
 上機嫌の船頭と別れ、ルディアは低い丘を上がった。お近づきどころか顔も見せてくれない女の支配する療養院へと。
(さて、いつになったら我々は患者に会わせてもらえるのかな)
 レンガ塀に囲まれた建物にいつもと変わった様子はない。門を開けても誰も出てこず、シルヴィアたちは今日も東棟にこもったきりだった。これでドナにやる患者を選び、ジーアン語を教えねばならないのだから荷が重い。
(墓島は墓島で、ドナはドナで蟲の巣窟か……)
 談話室に直行しながら頭の隅で考える。あの偽ラオタオはどういうつもりでおいでよなどと誘ったのか。バジルがいると餌まで撒いて。
(考えることだらけだな)
 焦るんじゃないと自分をなだめる。すると今度は無意識にポケットを探ろうとする己に気がつき、また別の溜め息が出た。
 次の身体をどうするか、何一つ決められないのは何故だろう。人望ある貴族のリストから特にこれという目星もつけられていないのは。
(いや、単にユリシーズと競えそうな逸材が見つからんだけだ)
 無理矢理にかぶりを振り、ルディアは西棟のドアを叩いた。今はやれることをこなしていくだけ。そう自分に言い聞かせて。


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「じゃあレイモンド君、気をつけて行くんだよ!」
「ああ、オリヤンさんも元気でな! ほんとに色々ありがとう!」
 五枚もの帆を張って、錨を上げ、出航せんとする船の上から大きく手を振る。日焼けした水夫と荷運び人でごった返す港では見送りの友人が眩しそうに目を細めていた。
 船倉には餞別にと贈られた大量の亜麻紙。今頃はパーキンが小躍りしながら積荷に頬ずりしていることだろう。ほかの荷もマーチャント商会の好意で安く買い上げることができた。持つべきものは金持ちの友達だなと改めて実感する。
「そのうちちゃんとお礼するからー!」
 届くかはわからなかったがレイモンドは懸命に声を張り上げた。帆船は風を受け、ぐんぐん入江から遠ざかっていく。
 オリヤン曰く、ルディアたちがリマニの港を発ったのはおよそ二ヶ月半前だそうだ。季節もいいし、この船なら八月中旬の誕生日には帰国できているかもしれない。
(約束通り、ちゃんと印刷機届けるからな)
 懐の記念コインを取り出すとレイモンドは情熱の燃えたぎるまま口づけた。喜んでくれそうな土産なら山ほどある。早く会いたい。会ってあの日の返事が聞きたい。
(姫様もう新しい身体見つけたかな?)
 お守りはまだ彼女の手元に残されているだろうか。たとえ残っていなくとも思い直してもらえるといいが。
 悲観的な予測は何故か一つも浮かばなかった。背に追い風を感じていた。
 白波を切り裂くように船は走る。同じ型、同じアクアレイア旗を掲げた四隻の仲間とともに。


 ******


 アルフレッド・ハートフィールドを叱責した翌日、ユリシーズは普段になく緊張した足取りで女帝の部屋に赴いた。
 はたして今日はどうなることやら。己や国の命運が泥船に乗せられていると思うとあまり生きた心地がしない。
「おはようございます、アニーク陛下」
「……ああ、おはようユリシーズ……」
 目の下にくまをこしらえた哀れな女に朝の挨拶を済ませると、少ししてから扉がノックされた。どうやら問題の男が現れたらしい。それだけでアニークは腰が引け、ソファに座り込んだまま半分うつむいてしまう。
「おはようございます。アルフレッド・ハートフィールド、参じました」
「おっ、おはよう、アルフレッド」
 入室してきたアルフレッドはひとまず言葉は普通に発した。だが相変わらず表情筋は固まりきって、双眸の刺々しさも抜けていない。善処するとほざいたくせに自分の席に腰かけたあとはウンともスンとも言わなかった。
(こ、こいつ……っ)
 やはり平民は平民か。国の大事より己の小事を優先するか。
 わなわなとユリシーズは拳を震わす。こうなれば頼れるものは自分一人だ。独力でこの危機を乗り越えねばと立ち上がった。
「アニーク陛下、今日こそは騎士物語を読みましょう! そうしましょう! 憂鬱から逃避するには物語に没頭するのが一番です!」
「でもユリシーズ、私……」
「お試しになられてやはり気分が滅入ったままなら読むのをやめればいいではありませんか! どの騎士もどの姫もきっとあなたに力を分けてくださいますよ!」
 強引を承知でアニークに手を差し伸べる。断る気力も湧かないと見え、女帝はおずおず掌を握り返した。
 書見台へ移動しつつ「貴様も来い」とアルフレッドに合図する。平民騎士はのそりと後ろをついてきて、書見台を囲む小椅子の片端に座を占めた。
「…………」
「…………」
 重苦しい静寂が垂れ込める。率先して書見台の前に腰を下ろしたため、章を選ぶ役になったユリシーズは「頼むから二人とも何か喋ってくれ」と念じた。
 なんなのだこの板挟みは。どうして何もしていない自分が一番気を回さねばならんのだ。
「……ユリシーズ、どの話を朗読するんだ?」
 ぼそりと低い声が響いたのはそのときだ。
 顔を上げるとアルフレッドが目を逸らす。なんとも居心地悪そうに。
 不躾なその態度に物申したい気持ちが湧いたがなんとか堪え、ユリシーズは平民騎士の問いに答えた。
「そうだな。まあ、サー・トレランティアがユスティティアに稽古をつける話から始めようかと思っているが……。アニーク陛下、いかがでしょう?」
 なるべく間を持たせられそうな長い章を探して告げる。是非を問われた女帝は女帝でぐるぐる目を回しもって頷いた。
「そ、それはいいわね。あの、アルフレッドも好きな場面だと思うし。ねっ?」
「…………」
 同意を求められた騎士は応じない。ただむっつりと唇を尖らせ、眉間にしわなぞ寄せている。内心殺意を覚えながらユリシーズは必死に喉を震わせた。
「……好きな場面なのか? お前の?」
 これには少し間を置いて「ああ、サー・トレランティアの台詞が多い場面は好きだ」と返ってくる。どうやらこの強情っ張りはユリシーズを介さない限りアニークと話したくないらしい。いや、この場合ユリシーズを通してなら話す気になったというべきか。
「……さ、サー・トレランティアの出番が多いといいそうです。アニーク陛下」
「ならそれで行きましょう、ユリシーズ! ……あっ。あの、念のために違う章でなくて大丈夫か聞いてもらえる?」
 こそりと声をひそめられたが女帝の声は平民騎士の耳にも入っていただろう。しかしあくまでアルフレッドは聞こえなかったふりを貫く。聞こえなかったということにすれば彼は返事をせずに済むのだ。
(なるほど賢い、とでも言うと思ったか!?)
 ふざけおってとはらわたは煮えたが、意思疎通の手段を見つけたアニークは元気を取り戻したようだった。それでいいのかと全力で突っ込みたい気持ちを抑える。やっとの思いで手繰り寄せたアリアドネの糸を自ら断ち切ることなどできない。心の中で「人を通訳にするんじゃない!」と叫ぶのがユリシーズの精いっぱいだった。
「……で、アルフレッド、さっき言った章の朗読でいいのだな?」
「ああ、問題ない」
「問題ないそうです、アニーク陛下……」
「ありがとう、ユリシーズ。じゃあ朗読をお願いするわね」
 なんなのだ、この板挟みは。私に何をやらせるのだ。
 話し相手を交互に替え、全体の会話を成立させる。この奇怪な光景はその後もしばらく続くことになる。









(20180731)