子供の頃から友達はそう多いほうではなかった。どこへ行っても両親の名が先に知れ渡っており、自分自身は好奇の目に晒されながら遠巻きにされるのが常だった。
 昼を過ぎれば学校からは解放されたが不安や憂鬱から解放される瞬間はなく。同じように浮いていたブルーノと、同じ地区に住んでいながら学ぶ席すらないレイモンドと知り合うまでは、名前を呼んでくれる子供など誰もいなかったのではと思う。
 まだうっすらと霧の残った朝の街。階段状の橋を渡り、小広場を通り抜け、歩き慣れた道を行く。店主不在で看板の引っ込められた整髪店へ。
「あ、アル兄。おはよー」
 外階段の上部から降ってきた声にアルフレッドは顔を上げた。見れば厨房のある最上階から盆を持った妹が下りてくるところで「おはよう、今から朝食か?」と少し大きな声で尋ねる。
「うん、話し込んでたらスープ温めるの遅くなっちゃって。アル兄、ちょっとドア開けといてもらえる?」
 両手の塞がったモモのために急いで階段を駆け上がり、アルフレッドは一応一度ノックしてから二階居住部の扉を開いた。「ありがと!」と通過していった妹に続き、二部屋奥のこじんまりした居間へ進む。
「はーい皆、ご飯だよー」
 食卓にはアイリーンとブルーノとルディアが顔を揃えていた。三人は地図を広げ、この二週間で得た情報を整理していた模様である。余白に書き込まれていたのは主として自分たち兄妹が伯父から聞いた交易関連の数値だった。
「ああ、お前も来ていたのか。おはよう」
 アルフレッドの顔を見上げて主君が言う。座るように促され、食卓の一角に座を占めた。パンとスープが回ってこない代わりにアイリーンから「見る?」と地図を渡される。猫の前足が示す先を一瞥すれば今朝の話題の中心はどこであったかすぐに窺えた。
「ドナのことが気にかかるのか?」
「まあな。今のところあそこの現状が一番よくわからんからな」
 ちぎったパンを薄いスープに浸しながらルディアがぼやく。彼女曰く、退役兵をねぎらうことは重要だが、首都から遠く離れたドナでひとまとめにそれを行う意図がさっぱり掴めないらしい。特需はアクアレイアの生命線とも言えるのに、長く続くものなのか断定できないのも気持ち悪いそうだった。
「あの街にはそのうち乗り込むことになるかもしれん。一ヶ月後か一年後かは知らないが」
 淡々と告げられた不確定な予定に頷く。ドナの話はそれで終わり、その後はパンの固さや大きさ、小麦の値段に話題は移り変わっていった。
 アクアレイアに帰還して約半月、防衛隊は朝夕の決まった時間にブルータス整髪店に集まるのが慣例となっていた。不便な立地の工房島でモリスの世話になるのはやめ、ルディアとブルータス姉弟は今この家に住んでいる。護衛役が猫だけではさすがに心許ないので、アルフレッドとモモは日替わりで泊まりに 来ているのだ。昨夜の当番だった妹はぺろりと質素な朝食を平らげ、手際良くテーブルを片付け始めた。
「モモたちは今日も療養院で教科書の草稿してると思うけど、アル兄はどう? 女帝陛下と朗読会?」
「多分そうなる。宮殿を出たらいつも通りゴンドラ溜まりで待ってるよ」
 空いた食器を重ねる手伝いをしつつ答える。朝に一日の打ち合わせを、夕方に一日の報告をするのもすっかり日常の一場面だった。
 ルディアから特別な指示がない限り集まりは即解散となる。一つ屋根の下で休む夜があるとはいえ、寝所は別だし顔を合わさねばならない時間はごく短い。事務的な関わりだけで済むのが今の己にはありがたかった。いつまでもこんな体たらくではいけないという焦りはあったが。
(もう少しすればきっと落ち着く。慣れて普通にできるはずだ)
 ちらりと主君を振り返る。丸めた地図をベルトの隙間に差し込むルディアはこちらの視線にまるで気づいていない様子だ。彼女の手がポケットのどこにも触れていないのを確かめて、そんな自分に苦く笑う。
 そうじゃない。本当に慣れなくてはいけないことは。
(どうなるんだろうな。レイモンドが戻ってきたら)
 想像は上手くできなかった。何年もずっと一緒の幼馴染なのに。
 ルディアはと言えば食堂に立ち寄ったあの日以来、ルディアらしからぬ表情は一度も見せていなかった。白昼夢に惑わされでもしたのかと思う。君主然としたいつもの彼女と接していると。
「アルフレッド、くれぐれも気をつけて行けよ」
 パン籠を手にモモと厨房へ去ろうとしていたルディアがこちらを振り返る。神妙に頷き、アルフレッドも席を立った。宮殿へ向かう自分は少し早めに店を出る。テーブルを拭くアイリーンと毛づくろい中のブルーノに「じゃあ後で」と別れを告げて階段へ向かった。
 くれぐれもと念を押されたのは勤務地の危険さゆえだろう。もしジーアン兵に捕らわれるようなことがあれば躊躇せず己を呼べとルディアには命じられている。
 もちろん最初アルフレッドは断った。騎士に主君を売ることはできないと。だがルディアには何か算段があるようだ。詳しい話はしてくれないが、どうも彼女はラオタオ以外のジーアン幹部と言葉を交わす機会が欲しいと考えているらしい。偽者とはいえ今のラオタオもハイランバオスの味方なのだし、まずは彼と隠密に会うべきではと思うのだけれど。
(進言しても『それはあまりいい手じゃない』と首を振られただけだったな)
 細い階段を下りながらアルフレッドは息をつく。なんでも一人で決められる主君の顔を思い浮かべて。
 彼女はアニークとは違う。自分の頭で考えて、自分で最善を選べる人だ。
 必要なかった。賢くも鋭くもない助言など。
(俺はちゃんとあの人の役に立てているんだろうか……)
 時折不意に怖くなる。自分の働きはルディアにとってどれくらい価値のあるものなのだろうかと。
 アニークはほとんど政治に噛んでいないようで、聞きかじる話は他愛ない、毒にも薬にもならぬ類のものばかりだった。天帝がこれからどう動くつもりかとか、東パトリアはどの都市との交易を重要視しているかとか、そんなことは話題にさえ上らない。初めにルディアに頼まれた有益な情報の入手はこの先も期待できそうになかった。
 ユリシーズの牽制についても微妙なところだ。彼は女帝のお気に入りという立場を利用するのになんのためらいも見せなかった。政治にはノータッチとは言えアニークが実権を持たないわけではない。彼女の要望はあっさり通ることが多いし、私的な買い物にいくら金銭を費やしてもヘウンバオスは本当に何も言わないようだった。そんな彼女の財布の紐をユリシーズが緩めにかかるのは至極当然である。女帝が食いつけば食いつくほど経済効果は高まるのだから彼だって真剣だ。それにどんな大金が動こうと公正な売買ならば咎められない。結果的にアルフレッドはユリシーズの行動を黙認する羽目になっていた。
 もしかしたら自分も彼に追随すべきなのかもしれない。だがアルフレッドは己にそんな立ち振る舞いができるとは思えなかった。誰かに媚びるなど騎士のすることではないし、アニークの尊厳を傷つけるのも嫌だった。ルディアにはそのほうが都合いいのかもしれなくても。
(レイモンドならきっと上手くやってのけるんだろうな)
 我知らず息をつく。気づけば随分歩いていたようでレーギア宮が目と鼻の先だった。以前は広場中ごった返していた気がするのに近頃の人波は緩やかだ。アクアレイア人はどこで商売しているのかと不思議になるほど外国商人ばかりいる。
 危機感は募ったが、それでもアニークを調子良く担ぐなどアルフレッドにはできそうもなかった。騎士の誇りを自ら汚すような真似は。
「――おい」
 誰かに肩を掴まれたのはそのときだ。正門へ向かう足を止められ、なんだと怪訝に振り返る。立っていたのは黒地に金の刺繍がされた豪奢なケープを身にまとう、四十路くらいの男だった。ノウァパトリアでよく見る貴人の服装だ。道に迷った外国人かなと推量しつつアルフレッドは「なんでしょう?」と問いかける。
「久しぶりだな。この間は助かった。改めて礼を言うぞ」
「は?」
 わけがわからず瞬きする。久しぶりと言われても、ぎこちないパトリア語を操る男は見るのも話すのも初めてだった。吊り目がちな双眸や一つに結われた黒髪にも見覚えはない。
 しかし男はアルフレッドを知人の誰かと勘違いしたまま肩に置いた手を離さなかった。それどころか「元気そうで何よりだ。剣も今度のはぴったり合っている」と装備の品評まで始める。
「あの、すみません。人違いでは」
 ないですかと続けようとした台詞はそこでぷつりと途切れた。広場に面したホテルから飛び出してきた大柄な女性が「ほんと馬鹿ね! いきなり声かけてわかるわけないでしょ!?」とジーアン語でつっこんできたからだ。
 こちらの金髪の貴婦人は忘れられようはずもない。アルフレッドは瞠目し、思わず彼女の偽名を叫んだ。
「ハ、ハニーさん!? ……ということはダーリンさん!」
 今一度眼前の男に目をやるとダーリンさんことダレエンは子供のように唇を尖らせる。「一戦交えた者同士通じ合えるものがあると思ったんだ」と主張する連れ合いにハニーさんことウァーリは呆れてロングドレスの肩をすくめた。
「はー、もう。驚かせてごめんなさいね、アルフレッド君。この馬鹿いっつもこの調子で」
「謝るほどのことじゃないよ。二人ともあれから無事に戻ってこられたんだな」
 良かったと呟けばウァーリはうふふと頬をほころばせた。ダレエンも口角を上げ、「再会祝いに後日また手合わせしよう」と誘ってくる。
 相変わらず気さくなコンビだ。いずれ倒すべき敵であることを失念しそうになるくらい。
「二人はしばらくアクアレイアに?」
 尋ねるとウァーリが「ええ」と頷いた。
「二、三日でいなくなるってことはないと思うわ。いつまでいるかはちょっとまだ決まってないけど」
 聞けば二人は龍将軍に呼ばれたそうで、今朝着いたばかりらしい。滞在日数やその間の予定は今からレーギア宮に顔を出して相談するとのことだった。
「そう言えば聞いたわよ。あなたアニーク陛下に仕えているんですって?」
 突然投げ込まれた問いにぎくっと肩を強張らせる。「あ、ああ。外遊の間だけ」となるべく平静に答えつつアルフレッドはやや身構えた。
 仮にも二人はジーアン十将なのだからこちらの動向を把握していて当然だ。それがこうして接触を図ってきたということは、防衛隊の首根っこを押さえるつもりと考えるのが妥当である。
(や、やっぱり投獄されるのか?)
 どきどき弾む胸に手をやる。ルディアには大人しく捕まれと言われているが心配なものは心配だった。何しろレーギア宮の半地下牢は暗いわ臭いわ満潮時に海水が入ってくるわでろくな環境ではないのだ。
 だがいつまでも彼らが縄をかけてくる気配はなかった。そのうちウァーリがぷっと吹き出し、「やあね、何もしないわよ」とこちらの懸念を笑い飛ばす。
「恩人には基本的に親切だから、あたしたち」
「なんだ? 俺たちがお前の背中を刺すとでも思っていたのか?」
 心外だなと嘆くダレエンにアルフレッドは「いやいやいや」と大慌てで首を振った。茶化すだけ茶化して二人は気にも留めない素振りだったが。
「で、日の高いうちはずっと女帝陛下のところにいるのよね?」
「あ、ああ。たまに宮殿を出る日もあるが、大体いつも夕方まで部屋にいる」
 アルフレッドの返答にウァーリはふうんと喉を鳴らす。
「だったら後でお茶くらいできるかしら? 立ち話より座ってゆっくりお喋りしたいし、用が済んだらまた会わない?」
「ああ、それは一向に構わないが……」
「きゃあ! やった! そうと決まればこんなところでちんたらしてらんないわ! アルフレッド君、あたしたちもう行くわね。なるべく早くお爺ちゃんのとこ抜けてくるから!」
 言うが早く彼女はダレエンの腕を掴んで走り出した。振り向きざまに「呼び止めちゃってごめんなさい!」と詫びられて、かろうじて「あ、いや」とだけ返事する。
 二人は顔パスで宮殿に入れるらしく、止める間もなく衛兵の守る門の奥へと消えていった。その光景をぽかんと眺め、どうしたものか小さく唸る。
(また会いましょうって、いつどこでだ……?)
 置き去りのアルフレッドに答えてくれる者はいなかった。仕方なく薄灰色の石畳を踏み、自分もレーギア宮へと向かう。とりあえず夕刻ここに戻ってくるとして、療養院から帰ってくるルディアたちと合流するのにまごつかなければいいけれど。


 ******


 女帝の部屋に来客が訪れたのはじきに三時の鐘も鳴ろうかというおやつどきのことだった。用事がなければ控えの間で待機している衛兵が脚付きソファで菓子を頬張るアニークにぼそぼそと耳打ちし、指示を仰ぐと恭しく引き返していく。
 ユリシーズの隣に座る平民騎士が吹き出したのは直後である。入室してきた二人組を目にするなり、ルディアの赤き忠犬は盛大に咳き込んだ。
「げほっ、げっほ」
 粉々になったタルトの皮が大理石の丸テーブルに舞い落ちる。飲み込もうとした菓子が気管のほうへ入ったらしく、無様な空咳はしばし続いた。
「何をもたもたやっているんだ」
 ティーカップを皿に置き、テーブルの汚れをさっと拭き取り、ユリシーズは平民騎士をねめつける。立ち上がって前を見て、アルフレッドがむせた理由を理解した。二人いた来客のうち一人がどう見ても女物のドレスを着た男だったからだ。
(ごつめの貴婦人……ではないな)
 決して悪くない顔に厚化粧を施したその人物は「はあい、ご機嫌いかが?」と甲高い作り声で挨拶した。ひらひら手を振る彼――いや彼女か――の横では寡黙そうな黒髪の男が片腕を絡められたままになっている。
「ダンご夫妻です! それでは失礼いたします!」
 ぺこりと一礼した衛兵が持ち場に去るのを見送ってユリシーズは再び客人に目をやった。夫妻か、そうか、そうだなとゆっくり状況を噛み砕きながら。
 まあ時々は聞く話だ。驚くほどのことではない。気を取り直し、ユリシーズは未だ座ったままでいる平民騎士の肩を小突いた。
「おい、失礼だぞ」
「す、すまん」
 アルフレッドは存外素直に謝罪する。立ち上がった彼の足元にまたパラパラとタルトのカスが落ちたけれど、さすがにそれを拾えとまでは言えなかった。まったくこんな男が自分の同僚とは情けない。宮廷とは本来もっとスマートな所作が求められる場所なのに、これではせいぜい芝居小屋だ。
 が、この場で作法など気にしているのは己一人だけだったようである。「私のところに寄ってくれるなんて珍しいじゃない」と喜色を示すアニークを始め、同性婚の夫妻も特に気分を害した様子はなかった。
「うふふ、まあたまにはね」
「いいものを食っているじゃないか。我々も興じさせてくれ」
 客人は二人とも女帝と気安く会話ができる仲らしい。ノウァパトリア語でのやり取りを耳にしてユリシーズはそつなく己の席を譲った。女帝と向かい合うソファに夫妻が並んで腰かけたので、平民騎士も脇の小椅子に座り直す。
「アルフレッド、ユリシーズ。こちらダレ……えーと、ダレン・ダンとハンナ・ダンよ。ノウァパトリア宮で親しくしていたお友達なの」
 家柄や経歴に一切触れない紹介に察するものがありすぎて、どう返すべきか少し悩んだ。「ユリシーズ・リリエンソールと申します。どうぞお見知りおきを」と無難に会釈すれば女装妻のほうがにんまり、花でも愛でるかのような笑みを浮かべる。
「んまあ、絵になる男ねえ」
「なかなか腕が立ちそうだ。いい騎士を従えているな」
 ダレンとかいう夫は夫でユリシーズを品定めした。「アルフレッドくらいには剣の扱いに長けていそうだ」と続いた台詞におや、と小さく目を瞠る。
「もしかして知り合い?」
 ぱちくりと瞬きしたのはアニークもだった。問いかけに赤髪の騎士は「ええ、まあ」と説明しにくそうに口ごもる。結局女帝に答えたのは若い騎士に艶麗な流し目を送るハンナだった。
「北パトリアを旅行中に一晩一緒になったのよ。うふ、楽しい夜だったわ」
 ハンナの発した甘い声にぴくりとアニークの耳が跳ねる。ただでさえ幼稚な女帝が乏しい平常心を失うさまは手に取るように伝わった。
「そ、そうなの?」
 隠しきれない動揺を滲ませてアニークがアルフレッドに問う。女帝の執心はいよいよ本物になったらしく、黒い瞳には嫉妬の炎がちらついていた。そんな彼女に気づいているのかいないのか、平民騎士は真正直にこくりと頷く。
「はい。こちらも三人ほど連れがいたので騒々しい一夜でしたよ」
 同行者がいたと聞いてアニークは露骨にほっとした顔を見せた。だがすぐに油断はできないと気づいてか、「わ、若い女の子がいたりした?」と直接的にもほどがある問いを重ねる。
「若い女性ですか? いえ、子供が一人いたくらいですね」
 不思議そうに否定したアルフレッドは何故それを尋ねられたのか全然少しもわかっていない様子だった。この二週間、延々と見せられ続けた呆れるほどの鈍感さにユリシーズはハハと頬を引きつらせる。この男が女帝の好意を無自覚にかわしている間に巻き返しを図りたいから鈍いままで結構なのだが、本当に強烈な勘のなさだ。おそらく誰かに告白された経験が一度もないに違いない。
「ふうん、そう。若い女の子はいなかったの」
 だったらいいわとアニークは今度こそ安堵した口ぶりで言う。女帝が騎士に熱を上げていることを見抜いたのは、やはりと言うか当人よりも部外者のほうが先だった。
「あらあ? 陛下ったら、随分アルフレッド君をお気に召したのねえ」
 冗談めかした口調とは裏腹にハンナの表情は穏やかでない。ひと言で表せば「怖い夫がいるのに火遊びなんてやめてちょうだいよ」という真っ当な不安の表情だった。東パトリア人ならばヘウンバオスとアニークの夫婦円満が長続きするように望むのが当然だろう。両帝国はなんだかんだで互いの国力を強める形で手を取り合うことができたのだから。
「き、きき気に入ったって言うか、アルフレッドがすごいんだもの。騎士物語にも詳しいし、彼自身が素晴らしい騎士だし」
 しどろもどろに返す女帝はハンナの青い額が目に入っていないようだった。お褒めにあずかったアルフレッドも「いや、そんな」と恐縮しつつ赤らめた頬を掻いている。
「ほ、ほほ。で、でもアニーク陛下の気持ちもわかるわ。アルフレッド君って側にいるとなんだか胸がときめくのよね。老若男女問わずモテモテだったし、アクアレイアでも周りが放っておいてくれていないんじゃない?」
 ハンナはこの話題には深く切り込んでおくべきだと断じたらしい。ごくごく自然な流れで彼女は「実はもう恋人がいたりして?」とアルフレッドに誘導をかけた。
 お手つきだと匂わせられればアニークの恋心をつぼみのうちに摘み取れると考えたのだろう。だがあいにくと、彼はハンナの思惑に適切な反応を返せる男ではなかった。
「あんまりからかわないでくれ。もてはやされたためしもないし、恋人だっていやしないよ」
 答えを聞いて色めきだった女帝を見やり、ハンナがうぐっと眉をしかめる。しかし彼女は退かなかった。アニークに浮気を思いとどまらせるべく更に話を掘り下げる。
「でもでも、好きな子くらいはいるでしょ?」
 その一瞬、酷く奇妙な間が空いた。誰の顔を思い浮かべたのか知らないが、アルフレッドはティーカップに伸ばしかけていた手を凍りつかせて息を飲む。
「――いや、いない」
 強張った声でなされた否定は彼が嘘をつき慣れていないことを露呈するだけだった。苦い表情を隠すように紅茶を煽り、アルフレッドは沈黙する。
 無言で恋愛談義の続行を拒む男にハンナもそれ以上の質問はできなかった。ただ一連のやり取りを穏便に終わらせるため、アルフレッドがどうにか選んだのだろう言葉だけが静かに響く。
「騎士たるもの、己の主君がいつも一番であるべきだ。……だからいないよ、そんな相手は」
 垂れ込める重い空気にユリシーズは息を詰めた。なんだこの気まずさは、と救いを求めてテーブルを見回す。幸いどんよりしたムードはすぐに払拭された。着席してからずっとタルトを賞味していた男が顔を上げたからだ。
「なるほどな、それがお前の信条か。いいんじゃないか? 在り方が決まっているなら恋人なんぞいなくても」
 それだけ言うとダレンはまた新しいタルトにかぶりつく。赤髪の騎士は少しほっとしたような顔で息をついた。
「えっ、じゃあ、今は私がアルフレッドの一番ってこと?」
 と、期待に頬を紅潮させたアニークがアルフレッドに問いかける。せっかくやわらいだ雰囲気はここでまた冷めたものに塗り替わった。
「いえ、俺が主君と思っているのはルディア姫だけです」
 激昂されないかひやひやする返答だ。刺すような目も突き放す口ぶりもこの男には珍しかった。
「あ……、そ、そう」
 問うた女帝がろくに言葉も紡げずたじろぐ。「ア、アニーク陛下には天下無敵の伴侶がいるじゃないの」と励ますハンナに合わせ、ユリシーズもアニークを力づけた。
「私でしたらほかのプリンセスはいませんよ、アニーク陛下」
 セドクティオ風の軽薄さで点数を稼ぎつつアルフレッドにちらと目をやる。暗い双眸にかつての己が見えた気がしてユリシーズは顔を背けた。
(ちっ……)
 なんとなくわかってしまった。この男の好きな女。もはや王女でなくなった彼女のために今でもこうして騎士であろうとするのだから、別の相手ではないだろう。憶測が当たっていたとして自分にはなんら関係ないけれど。
「!」
 そのとき突然大鐘楼の鐘が鳴り出し、ユリシーズはびくりと肩を跳ねさせた。見れば古城の形をした壁掛け時計も午後三時を告げており、十人委員会の定例会議が間もなく始まることを知る。
「申し訳ありません。今日はこれでお別れになりそうです」
 立ち上がり、丁重に詫びるとアニークは「行ったらいいわよ。プリンセスはいなくても、あなたには大事な会議があるんだものね」と頬を膨らせた。悪い巡り合わせである。女帝の機嫌が直りきらないこのタイミングで席を立たねばならないとは。
「埋め合わせはのちほど必ずいたします。ダレン殿も、ハンナ殿も、語らいの時間をともにできぬことをお許しください」
 ぺこりとお辞儀し、長いマントを翻してユリシーズは女帝の部屋を退出した。最後にもう一度赤髪の騎士を振り返る。張りつめていた横顔を少しだけ緩め、彼はアニークに何事か話しかけているところだった。
 多分「一番にはできませんが、あなたのことも守りたいと思っていますよ」とかなんとか言っているのだろう。その証拠にユリシーズが扉を閉めるとほぼ同時、女帝の立てた笑い声が漏れ聞こえた。
(ちっ、これ以上差をつけられてはたまらんぞ)
 愛想笑いを引っぺがし、小会議室に向かって歩く。ちょうど今から二週間前、帰還した防衛隊と睨み合った小会議室に。
「…………」
 脳裏をよぎったルディアの顔にユリシーズはかぶりを振った。
 とっくの昔に終わった恋だ。屍はまだ胸に埋もれたままだとしても。
 ――夫婦になることはできずとも、きっと私を支えてください。
 別れの日に聞かされた台詞まで甦って嫌になる。あなたの愛が本物なら、と彼女は言った。これからはただ一人の騎士として尽くしてくれと。
 馬鹿げた願いだ。馬鹿にしている。自分を選んでくれない女に愛など湧きはしないのに。
(一人の騎士として、か)
 叶わぬ恋でもあの男は彼女に仕え続けるのだろうか。女帝からの甘い誘いも断って。
(あんな女、好きでいたって何も報われないのにな)
 自嘲をこめて短く笑う。だが自分にはなんら関係ない話だ。関係のない話だと、このときはそう思っていた。


 ******


「美味い、美味い」とあるだけの菓子を食べ尽くしてもまだのんびりと寛いでいるダレエンたちにアニークはぶすくれた渋面を向ける。早く帰ってくれればアルフレッドと二人きりになれるのに、気のきかない連中だ。
(一体いつまで居座るつもりなのよ? もう夕方になっちゃうじゃない)
 壁掛け時計が午後六時を回りかけているのを見て苛々と爪先を揺らす。二人きりになれたら聞きたかったこと、これでは次週に持ち越しになりそうだ。
(本当に好きな人はいないのって確かめたいだけなんだけどな……)
 やれ北パトリアからの帰り道はどうだったの、連れの老人たちは元気かだの、どうでもいいウァーリの問いを右から左に聞き流しつつ嘆息する。
 さっきのアルフレッドは少し変だった。いつも優しく笑う彼とはまるで別の人みたいで。故人の話などしてしまったからだろうか。もういない彼のお姫様の。
(ルディアって、確かバオゾに着いたその日に自害したのよね?)
 停泊中の船内で、手当ては間に合わなかったと聞いた。一番が死人なら何も恐れることはない。アルフレッドだって嫌々ここへ通っているのではなさそうだし、自分が次のプリンセスに収まることは難しくないはずだ。もし彼に、心に決めた相手が本当にいないなら。
「あ、すみません。俺もそろそろ部隊のほうへ行かないと」
 と、鳴り響いた晩鐘にアルフレッドが立ち上がった。やはり二人だけで話す時間は持てなかったかとアニークはがっくり肩を落とす。
「やーん、もう帰っちゃうの? アクアレイアの美味しいスイーツとか可愛いレースの買えるお店とか聞きたかったのに」
 引き留めようとするウァーリに赤髪の騎士は苦笑気味に首を振った。「俺にもそんな店わからないよ」と返されて蠍の異名を持つ将は「残念だわ。案内してもらおうと思ったのに」と肩をすくめる。
「お前それくらい自分で調べたらどうなんだ?」
「うるっさいわねー。若い子に連れ歩いてもらうのがいいんじゃない!」
「なんだと? 俺というものがありながらか?」
「どうせあんたもついてくるんでしょ」
 漫才を始めた二人にアルフレッドはふふっと楽しげに吹き出した。明るい声で「わかった。次に会ったときのために妹におすすめの店を聞いておくよ」と約束し、彼は扉へ歩き出す。
「それじゃまた。アニーク陛下も、ゆっくりお休みください」
 深々と一礼するとアルフレッドは部屋を去った。呆気なく閉ざされたドアの向こうに足音が消えるとアニークは勢いソファに全身を投げ出す。胸中の不満を丸ごと叩きつけるように。
「もう! もう! 長いわよ! せめてお菓子食べ終わったら引き揚げなさいよ!」
「なんだ? 突然怒り出してどうした?」
 無神経な狼男にそう問われ、またも苛立ちが湧き上がる。蠍は蠍で偉そうに「あなた上手に遊べる子じゃないでしょ? 火傷する前にやめておきなさい」などと諌めてくるし、気に入らない。気に入らなさすぎてどうかしそうだ。
「わかってるってば! ヘウンバオス様に叱られない範囲でやるわよ! 私はあなたたちみたいに長生きしてないんだから、思い通りやらせてよ!」
 声の限りに叫び散らすとウァーリも一応それ以上の苦言は引っ込める。彼女はまだ何か言いたげであったが、アニークのほうが頭から無視した。
 止めようと思って止められるならそれはもはや恋とは呼べない。少なくとも自分には。
「アルフレッドを尾行してきて」
 ぽつりと呟いた命令に「は?」と蠍が声を裏返す。意地も手伝い、アニークはやけくそ半分で渦巻く欲求を口にした。
「気になるんだもの、彼のこと! どんなふうに暮らしているのか、どんな人と親しいのか、本当に誰も好きな人はいないのか――あなたたち私の代わりに見てきてよ!」
 格好の割に常識人のウァーリが「あなたねえ」と呆れきった溜め息をつく。そんな個人的な理由で貴重な人員を割かないでくれと言うのだろう。わかっている。アクアレイアに旅立てる日をじっと待っていたときもそうだった。全体のことを考えて、全体のために我慢しろと彼らは真理のように諭す。お利口に従っている間に死はどんどん迫っているのに。
(私だけよ? 生まれてから二年過ぎていない蟲なんて)
 アニークは唇を噛み、ぎゅっと拳を握りしめた。
 恋くらいしたって別にいいではないか。流星同然の命なら。
「ふむ、尾行か。面白そうだ。やってやろう」
 二対一だと思っていた戦況が逆転したのはそのときだ。狼男の台詞を聞いてアニークはがばりと身を跳ね起こす。
「ちょっ、あんた何言って」
「ファンスウからも防衛隊の処遇は我々に一任すると言われているし、構わんだろう。すぐ出れば追いつける。どのみちこんな当たり障りない再会で終わるはずないのだからな」
 ソファから腰を上げたダレエンにアニークはおそるおそる「行ってくれるの?」と尋ねた。自分から言い出しておいてなんだが本当に要望を聞き入れてもらえるとは微塵も考えていなかったのだ。
「惚れたんだろう? なら仕方ない」
 狼男はさらりと告げて「行くぞ」と蠍の腕を掴む。最初に獣に寄生した蟲は何百年と生きても獣のままだそうだ。「言っとくけど余所者にはこの街かけらも尾行向きじゃないわよ!?」とがなり立てるウァーリを引きずって歩き出したダレエンに躊躇は一切見られなかった。
 ぱたんと再び扉が閉まる。あとはドキドキうるさい心臓をなだめながら結果を待つばかりだった。


 ******


 夏の日は長い。夜の始まりを告げる鐘が響いた後でも未練たらしく影を引く。宮殿を出て見上げた空はまだ十分に明るかった。それでも眩しいほどの日射は昼間に比べてやわらいでおり、胸甲も腕甲も焼かずに済む。
 いつもの通りアルフレッドは国民広場の東へ向かった。大運河に接する小路には多くの船頭がたむろしており、仕事上がりに浴びる安酒の相談をしている。何十艘ものゴンドラが並んで揺れる桟橋まで来て立ち止まると、緑の海に目を凝らして主君を乗せた小舟を探した。待つというほど待つこともなく、小柄な少女の漕ぐそれが左手奥の波間に現れる。
「おーい」
 大きく手を振れば妹からも同じ反応が返された。白猫を抱くアイリーンも、危なげなく立ち乗りしているルディアも変わった様子はない。いいか悪いかはさておいて、あちらは今日ものんびりとした一日だったようである。
 ゴンドラは間もなく空いた木杭に舫われた。舟の浮橋をぴょんぴょん跳ねてモモたちが陸に上がってくる。一人一人に手を貸して、最後にルディアの腕を取った。なるべく何も意識しないようにして。
「すまんな。待たせたか?」
「いや、全然。今日は女帝陛下の面前を下がるのが少し遅くなったから」
 答えながらアルフレッドはモモの後ろを歩き出す。早くも任務を終えた気でいる妹は隣のブルータス姉弟に「ふふっ、夕飯何かなー」などと平和な雑談を持ちかけていた。
 アルフレッドが十将の二人とティータイムをともにしたとわかったらモモはどんな顔をするだろう。話の内容だけでなくタルトの味にも興味を示すことは間違いない。
 ルディアの反応はどうだろうか。でかしたと彼女は喜んでくれるだろうか。それともまた、お前はものをわかっていないなという顔で一瞥されて終わりになるのか。
「……聞いてほしい。重要な報告がある。詳しいことは店に着いてからにするが――」
 意を決し、話を切りだそうとしてアルフレッドは台詞の続きを飲み込んだ。主君に目を向けたそのときに、視界の端の水面に妙に豪奢な装束が映り込んだからだ。
 黒ビロードの短いマントとアーモンドグリーンの旅行用ロングドレス。それはつい先刻まで目の前にしていた組み合わせだった。だが背後を振り返っても二人の姿は見当たらない。連れ立って広場を歩く人々の陰に上手く隠れたものらしい。
 アルフレッドはしばし後方の気配に集中した。ホテルはとっくに通りすぎたし、声をかけてこないのも一定の距離を保とうとするのも怪しすぎる。
「……つけられているみたいだが、どうする?」
 耳打ちするとルディアはぴくりと目を吊り上げて「ジーアン兵か?」と声を低めた。違うと小さく首を振る。兵ではなくて将だ、と。
「北パトリアで会った二人だ。今朝また会って、女帝の部屋にも訪ねてきたんだ」
 簡略すぎる説明だったが主君は概ね理解してくれたらしい。「なるほどな」と面白そうに彼女は笑った。
 前方に視線を戻せばモモとブルータス姉弟が緊張気味に見上げてきている。尾行と聞いて妹などは戦闘モードに切り替わったようだった。
「二人だけか?」
「だと思う。ほかの人間に不審な動きは見られない」
「モモはどうだ?」
「モモも二人だけだと思うよ。なんなら適当な裏道入って確かめる?」
 好戦的な発言に主君は「任せる」と返す。モモはルディアがジーアン幹部と対面する機会が欲しいと言っていたのをちゃんと覚えていたようで、「挟みうちにすれば捕まえやすいんじゃない?」と提案した。
「よし。それでいこう」
 あまり手荒にするなよと釘を刺しつつアルフレッドは妹に頷く。問題はどの裏道を使うかだが、広場を抜けてしばらく過ぎ、小さな橋を二つ渡ったモモが曲がった最初の角で大体の見当はついた。
 生まれた頃から暮らす区画だ。トンネルも袋小路も抜け道も全部頭に入っている。夕飯のメニューについてなごやかにお喋りしもってアルフレッドたちは脇の隘路へぞろぞろ進んだ。
 大人一人がやっと通れる一本道は両側に家屋が張り出す。追跡者には最後尾を歩くアルフレッドの後ろ姿を確認するのがやっとだろう。少なくとも先頭のモモを視認するのは不可能なはずだった。
 薄暗い水路にぶつかるT字路で妹だけが左に折れ、アイリーンとルディアを右に曲がらせる。積み上がった木箱の陰に屈んだ妹が愛用の斧を掴むのを見てアルフレッドも右へ曲がった。
 家々と水路の間の細い道はまだ続く。そろそろとした足音には気づいていたが、あえて後ろは振り返らなかった。もう一つ、水上の迷宮に不慣れな追手の退路を断つためにモモが飛び出してくるまで。
「ダレエンさんとウァーリさんだよね? モモたちに何か用?」
 妹の声に合わせてアルフレッドはその場でばっと身を翻した。剣の柄に指をかけ、速やかに戦闘態勢に移る。背中のルディアとアイリーンも身構えたのが気配でわかった。
「なんだ、やっぱり見つかっていたか」
 顔色一つ変えないでダレエンが肩をすくめる。
「だから尾行向きじゃないって言ったでしょ! ほんっと人の話聞いてないんだから!」
 とウァーリもいつもの調子で相方に突っ込んだ。
 どうやら後をつけてきたのは小手調べだったらしい。多少の焦りも見せない彼らにかえってこちらの緊迫が高まる。
 何もしないと言われたのは自分だけだ。恩人だと明確に彼らに線引きされているのは。
「それで用件は?」
 バスタードソードから手を離さないままアルフレッドは二人に尋ねた。甘味やレースの話ではないだろう。普通の店はもう閉まる時間なのだから。
「あなたたちに聞きたいことがあるのよね」
 どこか人目につかないところでお茶でもどう、とウァーリが誘った。否とは言わせぬ強い目で。
「奇遇だな。私もお前たちに話がある」
 答えたのはルディアである。不敵な笑みを口の端に刻み、彼女は「是非ともうちへ招待させてくれ」と申し出た。
 主君が顎で示す先にはブルータス整髪店の裏口が覗いている。わざわざ敵を陣地に入れるその意味がアルフレッドにはわかりかねたが、ルディアの態度は堂々たるものだった。
(これは姫様の望んだ流れが来ているということなのか?)
 判断しきれず困惑する。アルフレッドやアイリーンがまごついているうちに彼女はさっさと歩きだし、二本指でダレエンたちに手招きした。
 主君の背中を守るため、アルフレッドもさっと駆け出す。煩悶を胸の奥へと追いやりながら。
(姫様はウァーリたちと何を話すつもりなんだ?)
 もどかしさに眉をしかめる。もう少し色々話してくれれば自分も彼女を守りやすくなるのに。ルディアはいつも、肝心なことは何も打ち明けてくれない。


 ******


 念のためアイリーンとブルーノを屋外の見張りに立たせ、ルディアは空っぽの一階店舗でジーアン十将の二人を迎えた。右隣にはアルフレッド、左隣にはモモが各々武器を手に守りを固めてくれている。
 だがルディアに話を物騒な方向へ持っていく気は更々なかった。あくまでも行うのは取引だ。そのためにこうして状況が整うのを待ったのだから。
「茶の一つも出さずに申し訳ない」
 形だけの詫びを告げるとウァーリは「いいわ」とぞんざいに首を振った。話が終わればすぐに立ち去るつもりなのだろう。あるいはひとまとめに危険人物を葬るか。
「どうぞ、まずはそちらから」
 促せば貴婦人もどきが金髪を掻き上げた。二人の間で小難しい話を担当するのはウァーリのほうと決まっているらしく、ダレエンはやや後ろに腕を組んで立っている。
「どうしてアクアレイアへ帰ってきたの?」
 ジーアン軍がいることは知っていたはずでしょう、と女は鋭く問いかけた。もっともな疑問に対し、ルディアはあらかじめ用意していた答えを口にする。
「生まれ故郷の窮状を放ってはおけなかった。それだけさ」
「…………」
 ウァーリもダレエンも納得した様子ではない。当たり前だ。防衛隊の冒した危険は酔狂どころの騒ぎではなかった。まともな神経の持ち主ならば帰国など絶対にしない。そんな命をどぶに捨てるような愚行は。
「あたしたちに見つかれば殺されるかもしれないのに? 今だってそうしようと思えば簡単なのよ。あたしたちの正体を知っている防衛隊は、ジーアンには邪魔者にしかならないもの」
 詰問するウァーリの目はもっと別の理由があるはずだと言っていた。それを無視してルディアは「安心してくれ。蟲の存在を口外する気は微塵もない」とかぶりを振る。
「話があると言ったのも、ただ便宜を図ってもらいたかっただけだ。お互いに監視し合うより利用し合ったほうが早く目的を達成できると思ったのでな」
「目的?」
「そう。良かったよ、確実に交渉できそうな相手が来てくれて」
 にやりと笑えばウァーリとダレエンは警戒を強めた。「回りくどいのは無しにして」と睨む女にルディアは頷く。
「では単刀直入に聞こう。――ハイランバオスの居所を知っている。こちらと取引する気はあるか?」
 問いかけにその場の全員が息を飲んだ。敵国の将軍たちだけでなく、モモもアルフレッドも完全に凍りついている。大方この兄妹は偽預言者との繋がりを知られたら拷問にかけられると考えていたのだろう。そういう可能性もなくはなかったが、やり方次第で潰してしまえる可能性だった。
「もう一度言うぞ。ハイランバオスの情報と引き換えに、我々に便宜を図ってもらいたい。お前たち、あいつを探しているんだろう?」
 驚愕しすぎて声を失ったウァーリに再度こちらの要望を述べる。すると彼女は魚のようにぱくぱく唇を震えさせ、「な、なんであなたたちがそのことを」と詳細な説明を求めた。
「本人の口から聞いた。あいつがジーアンを裏切ったことも、そのとき天帝とどんなやり取りをしたかもな」
 北パトリアで会ったんだ、とルディアは続ける。王国を取り返したいのなら仲間に加えてくれませんかと持ちかけられたことを。
 ウァーリとダレエンは絶句しながら聞いていた。同胞の暗躍ぶりに強く拳を握りしめて。
「協力関係になったはいいが、正直あいつは何がしたいのかわからなさすぎる。天帝に試練を与えたかっただの、絶望がなくては完璧な詩は生まれないだの、ひとかけらも理解できん。無軌道な芸術家より利害の一致不一致で動く商人や政治家のほうが信用できる。我々はお前たちのレンムレン湖探しに一切興味も関心もないし、ハイランバオスの協力があればアクアレイアをどうこうできるとも考えていない。ただこの街に暮らす人間が少しでも豊かであるように力を尽くしたいだけだ。……で、詩人と手を結ぶよりお前たちに情報を売ったほうが合理的と判断したわけさ」
 肩をすくめて「わかってくれたか?」と尋ねるとジーアンの将たちは互いに顔を見合わせた。一瞬不穏な空気が流れ、ダレエンがすっと腰を落とす。彼の構えは明らかに乱戦に備えたものだった。
「馬鹿ね。取引になると思う? そこまで事情を知っているなら捨て置けないし、あいつがどこに隠れているかも今すぐ吐いてもらわなきゃだわ」
 一度では話は通じなかったらしい。まあこうなると思ったとルディアは剣を抜きかけたアルフレッドを制止した。
「それはどうかな。逆さに振っても今は何も出てこないぞ。ハイランバオスの居所がわかるのは正確にはこれからだ。連絡待ちの最中なのでな」
「はあ? 連絡待ち?」
「そう、だからお前たちもしばらくはこちらを泳がせておくしかないわけだ。アクアレイアに我々の姿がなければあの男が困るだろう?」
「……なるほどね、それがあなたの強く出てきた理由ってわけ。だけど表には一人残っていれば十分じゃないかしら? それならあたしたちもアルフレッド君を傷つけずに済ませられるしね」
 ウァーリが一歩こちらに近づく。今度はモモが斧を振りかざそうとしたのでルディアは腕で控えさせた。
「やめておいたほうがいい。ハイランバオスはジーアン内部に味方を残したとはっきり言っていた。それが誰かまでは知らないが、下手な動きをすれば全部悟られてあっさり逃げられるのがオチだぞ」
 第二の造反者の存在を示唆するとウァーリはぴたりと足を止める。まだ誰か千年の絆を台無しにしようとしている愚か者がいるのかと彼女は目を見開いた。
「裏切り者ですって……!?」
「ああ、だから初めに確実に交渉できそうな相手が来て良かったと言ったんだ。実際にあいつと一戦交えたお前たちなら天帝側と言い切れるからな。こんな話を持ちかけた相手がうっかりハイランバオスの仲間だったら大惨事だろう?」
 冷徹な声でルディアは「まだ説明が必要か?」と問う。しばし逡巡したのちにウァーリが「いいえ」と半歩下がるとダレエンも構えを解いた。
「……図ってほしい便宜って?」
 交渉がほぼ成立したことを物語るその問いにルディアは薄く笑みを刻む。
「我々に手出しせず、完全な行動の自由を保障すること。それともう一つ」
 要求は遠慮なしに告げた。何がどこまで通るかはわからなかったが、通ったなら儲けものだと。重要なのは持てるカードをできるだけ上手く切ることだ。それがより優れたカードを手に入れることに繋がる。
「経済面でも軍事面でもアクアレイアに今以上の負荷を与えないでくれ」
「…………」
 ルディアの言葉にウァーリは深く考え込んだ。神妙な面持ちで「わからないわね」と呟かれ、「何がだ?」と問いかける。
「便宜というほど便宜って感じがしないわ。どうして軍隊の撤退や関税の引き下げを求めないの?」
 そんなことかとルディアはやや拍子抜けした。「この街のこれからを考えれば当然だろう」と答えるが、常勝の国の女にはあまりピンと来なかったようだ。
「アクアレイア人は自分の足で立ち上がらなければならない。たとえこの取引で天帝の気まぐれという恩恵を受けられたとして、そんなものはなんの力にもならないまやかしだ。降って湧いた幸運にすがるのではなく、己で己の財産を勝ち得なければ意味がない。だからお前たちは、これ以上アクアレイアに何もしてくれなければそれでいいんだ」
「…………」
 話を受けるか受けないか、ウァーリはなかなか答えなかった。何を悩むことがあるのかしかめ面のままでいる。まだ裏があるのではと疑いたくなる気持ちもわかるが。
「いいだろう。お前の条件、飲んでやることにする」
 答えたのは結局ダレエンのほうだった。「ちょっと!」と眉間にしわを寄せるウァーリを振り切り、男はルディアの正面に歩んでくる。
「ハイランバオス以外には知りようのない話もあった。だから一旦信用する。だがいいな? もし嘘をついていたり、逆にこっちを売るような真似をしたら全員殺すぞ。連絡があったのにそれを誤魔化したときもだ」
「わかっている。そのときは煮るなり焼くなり好きにしろ」
 勝手に是を告げた男に熟慮を重ねていた女は深々と嘆息した。「言っとくけど案件は持ち帰って相談するからそのまま受けるとは限らないわよ」との断りを入れられ、それも織り込み済みだと頷く。
「持ち帰るのはいいが今日の話はあまりぺらぺら喋るんじゃないぞ。なるべく天帝とお前たちの間くらいに留めてくれ」
 ルディアの忠告にウァーリは「どこにハイランバオスの手駒が潜んでいるかわからないって言うんでしょ?」と忌々しげに舌打ちした。「そうだ」と返せば彼女はふんと鼻息を荒げる。かつての仲間への憤りが如実に知れる表情で。
「こっちからも一つ条件いいかしら? どう考えてもあなたたちを完全放置はできないわ。監視はつけない。代わりに一人、人質を取らせてちょうだい」
「ほう?」
 さっき考え込んでいたのはそれかとルディアはウァーリに目をやった。彼女曰く、預かるのはアルフレッドが適任だろうとのことである。
「今までと変わりなく暮らしてくれて構わないわ。たださっきも言った通り、ちょっとでもおかしなことをしたら女帝の部屋に死体が転がることになるから。よく肝に銘じておいて」
 その台詞にルディアはぴくりと耳を跳ねさせた。何か不自然な発言を聞いた気がして眉をしかめる。
(アニークの部屋に死体が転がる? アルフレッドが女帝のお気に入りなのを考えれば、あそここそ一番の安全圏なのではないのか?)
 まさかとルディアは息を飲んだ。考えられる可能性、中でも最も有り得そうな最悪の展開を閃いて。
 そうだとしたら合点が行く。ヘウンバオスが家畜のごとく扱っていた皇女を妻に娶ったことも、二大帝国が夫婦間の摩擦なくやれていることも。
「ひょっとしてアニークは、お前たちの仲間なのか?」
 ルディアが問うとすぐ横でアルフレッドが瞠目した。「えっ?」という騎士の呟きを掻き消してダレエンが「おや、そちらは初耳だったか」と答える。
「あらやだ。知ってたからあの子の部屋にアルフレッド君を通わせてたんじゃなかったの?」
 これにはウァーリも驚いた様子だった。しかし彼女にとって深刻な失言ではなかったらしく、「そうよ、あの子の中身は蟲。あたしたちの大切な同胞よ」と教えてくれる。
「……天帝は最初から入れ替えるつもりで皇女を捕らえていたのだな?」
 いつ殺した、と問えば返事はあっさりなされた。「ノウァパトリアに乗り込む少し前じゃなかったかしら?」「去年の秋頃の話だろう? 直接関わっていないから知らんが」とどうでも良さそうにウァーリとダレエンが尋ね合う。彼らの中では今更な話なのだ。
「とりあえずあたしたちはレーギア宮に報告へ戻るわ。詳細の決定についてはまた日を改めましょう」
 こちらが了承を告げるのも待たず、二人はさっさと店を後にした。おそらくハイランバオスの手の者に勘付かれる前に立ち去りたかったのだろう。彼らも誰が怪しいかくらいは目星がついているのかもしれない。なるべく広範に猜疑を向けてもらうため、あえてラオタオの名は出さなかったが。
「どういうことだ……? アニーク姫が殺された……?」
 と、すぐ横で騎士の掠れた声がした。振り向けば理解が追いつかないという顔でアルフレッドが震えている。
「…………」
 かけてやるべき言葉が見つけられずにルディアはそっと目を伏せた。いつの間にかすっかり暗くなった部屋に重い沈黙が垂れ込める。
「お前のせいじゃない」
 気にするなと肩を叩いてやるのが精いっぱいだった。女帝のような立場ある人間に反抗されてはジーアンもやりにくい、遅かれ早かれこうなっていたんだと慰めてやるだけで。
(こいつが声をかけたとき、アニークには本当に誰かわからなかったんだな)
 アルフレッドは物も言えず、ただ棒立ちになっていた。そうこうするうちに表からアイリーンとブルーノが戻ってきて、店頭に顔を覗かせる。
「あの、皆無事よね? 話はどうなったの?」
 おっかなびっくり様子を窺うアイリーンのもとへ駆け寄り、モモが彼女の袖を引いた。無言の斧兵はアルフレッドから見えないように「二階へ上がろう」と身振りで示す。
(……一人にしてやったほうが親切か)
 嘆息し、ルディアも外階段へ向かった。いつもならすぐ追いかけてくる騎士は石像のように動かなかった。


 ******


 小さな居間の燭台に明かりを灯し、モモはふうと息をつく。色々聞きすぎてこんがらがりそうだった頭はもっと混乱した兄を見てようやく少し落ち着いたようだった。
 何はともあれ明らかにすべき第一のことを明らかにしようと主君を振り向く。常よりもやや強い語調でモモはルディアに詰め寄った。
「あのさあ姫様、本気でハイランバオスと手を切るつもりなの? レイモンドのこと助けてもらう代わりにお願い聞いたんじゃなかったっけ?」
 確かにあのエセ聖人は義理を果たしたい相手ではない。しかし筋が通らないのは嫌だ。返答次第では協力も今日限りだぞと厳しく眉の根を寄せる。
「いや、約束を反故にはしない。今はほかに使えるカードがないからな。当面の安全を確保するのにああ言ったまでだ。ハイランバオスもこの程度の綱渡りなら手を叩いて面白がってくれるだろう」
 あっけらかんとしたルディアの物言いにモモは「ああ、そう」と脱力した。要するにカーリスでローガンと相対したときと同じで、またもハッタリだったわけだ。まったく政治家という生き物は口から生まれたのかと思う。
「こればかりは仕方あるまい。少なくともジーアンの行動を抑止しておかねば印刷機を取り上げられたかもしれんのだから」
 なるほど彼女は先を見越して敵の牽制に出たらしい。それなら自分も文句はないと悪感情を放り捨てる。
「ほんともう、心臓止まるかと思ったよ。それならそうって言ってくれてたら良かったのにさあ」
「すまないな。万が一にも余計な情報が漏れないように話せなかった」
 率直に謝るルディアにモモは小さく肩をすくめた。彼女がだんまりを通したということは、こちらが思う以上に薄い氷の上を渡っていたということだろう。であればもはや責めはすまい。
「ど、どどど、どういう事態になっていたの……?」
 部屋の隅でモモとルディアのやり取りに耳を傾けていたアイリーンが怖々と尋ねてくる。ブルータス姉弟に顛末を話し始めた主君の声を聞きながら、モモは階下の哀れな兄に思いを馳せた。
(宮廷じゃ上手くやれてたみたいなのに、まさか女帝が蟲だったとはね)
 この頃の兄は本当に踏んだり蹴ったりだ。運気というのは一気に下がるものだと聞くが、あんまり不憫で目も当てられない。
(これから毎日つらいだろうなあ)
 人質に「行きたくない」など言わせてもらえるとは思えなかった。もう偽者だとわかってしまったアニークに、馬鹿正直なあの兄はどんな顔をして会うのだろう。
「はあ……」
 ついた溜め息は思いのほか深かった。何も手出しできないのが歯痒い。全部自分の問題なら半日悩めば終わりそうなものなのに、世界というのはそうそう上手く回ってくれないようである。


 ******


 待っていた二人がアニークのもとへ戻ってきたのはとっぷり日が暮れてからだった。書見台から顔を上げ、「随分遅かったじゃない」と厭味をぶつけようとして、入室したのがダレエンとウァーリだけでないのに気づく。
「どうしたの? 十将が三人も集まって」
 きょとんとアニークが問いかけると蟲の中でも古株のファンスウが細い口髭を撫でつけた。
「なに、お前さんに話があっての」
 淡々と、けれど有無を言わせぬ雰囲気で龍爺は歩を詰めてくる。「すまんな。尾行は失敗した」と狼男に詫びられたのが直後だった。
「し、失敗したって」
 ファンスウの前でやめてよとアニークは視線を泳がせる。だが古龍に報告を気にした様子はかけらもなく、何か妙だなと首を傾げた。
 ひょっとして二人がばらしてしまったのだろうか。アニークが夫以外の男に懸想していること。
(えっ、まさか私、これからお説教される?)
 思わず椅子ごと後退すると今度はウァーリに謝罪された。
「ごめんなさいね。天帝からはあなたを巻き込むなって命じられてたんだけど……」
 そう頭を下げられてわけがわからず瞬きする。続いて蠍の口から飛び出したのは叱られるよりもっと厳しい言葉だった。
「アルフレッド君の想い人のこと、結局一度も聞けなかったし、あなたが蟲で本物のアニークじゃないってこと知られちゃったわ」
「なっ……!?」
 たちまち頭が真っ白になる。後をつけてと言っただけでどうしてそんなことになるのか、まったくもって話が見えずにアニークはただ動揺した。
「良いかアニーク、これからお前さんにする話は絶対に他言無用じゃぞ」
 ジーアンにはまだ裏切り者が隠れていると前置きし、表情険しくファンスウは防衛隊と結ぶ取り決めについて説明を始める。彼らが蟲の存在を知っていることも、招かれた宴で天帝を騙そうとしたことも、アニークは初めて耳にする話ばかりだった。
「アルフレッド・ハートフィールドは今後我々の虜囚となる。衛兵にも監視はさせるが、お前さんもしっかり奴を見張ってくれ」
 冷たい汗が背中を伝う。ふらついた拍子に書見台に肘がぶつかり、ばさばさと騎士物語が床に落ちた。
(何よそれ……)
 美しい挿絵には互いの祖国が敵対関係にあると知った王子と王女が悲劇的に描かれている。そんなものに自分を重ねたくないのに。
(なんなのよ……)
 くらくらと眩暈がする。どうしてと息を飲むしかできなかった。









(20180705)