浅く広い緑の湾を横切ってゴンドラの群れが行く。まだ少しぎこちなく櫂を操るのはジーアンから連れてきた蟲兵だ。同乗するのも仲間だけ。手には各々虫眼鏡を握り、今朝は墓島近辺の海域へ向かう。
 海と言ってもアクアレイアを取り巻くそれはさほど高い波を立てない。境界をなす砂洲が防波堤の役目を果たし、内部を穏やかに保つのだ。淡水と海水の入り混じるこの湾を潟湖と呼ぶのはまこと理に適う。アクアレイア湾はまさに巨大な塩の湖で、遠き故郷レンムレン湖を彷彿とさせた。
(ここに棲むのが同じ蟲なら我らの旅も終わりを迎えられたのにな)
 ファンスウは絵画の龍に描かれるような細い口髭に手をやりながら嘆息する。調査を開始して約一ヶ月、成果はあまりに少なかった。五十人も投入して確認できたことと言えば、湾内ならどこにでも脳蟲がいるわけではないということくらいである。アークの手がかりはいまだゼロ。無能の仕事も同然だった。
 それでも地図には事細かに観察の結果と己の見解とを書き込んだ。そのうち何か重大な閃きが降りてくるのを期待して。
「ファンスウ様、ご覧ください。この付近は大量にいるみたいです」
 と、同じ小舟に乗り込んだ同胞の一人がファンスウに呼びかけてくる。彼は手桶にすくった海水をこちらによこして「今までで一番多いのでは?」と興奮気味に付け足した。
「……一、二、三……確かに多いな」
 虫眼鏡を通して手桶を覗き込み、ファンスウは同胞に頷く。潮流の関係か、アクアレイアには『蟲溜まり』とでも呼ぶべき脳蟲の大生息地がいくつか存在するようだった。ほかのゴンドラからも「います、います」と報告が相次ぎ、どうやら墓島一帯は脳蟲たちの楽園らしいと判明する。
 だがやはりわかるのはそこまでだった。脳蟲が一箇所に集まる理由や彼らとアークの関連は相変わらずさっぱりだ。
(推測の材料がなさすぎる)
 脳蟲発見の×印をつけた地図を睨んでファンスウはせめて共通項を探ろうとした。蟲溜まりは今のところ外海寄りの島にのみ見られ、陸沿いの島では一つも見つかっていない。
(塩の濃さか? こうもはっきり生息数が分かれるのは)
 ×印は圧倒的に本島の東、つまり海門から潮水が侵入してくる方面に偏っていた。だがそれにもばらつきはあり、法則らしい法則は見いだせない。
 脳蟲自身が喋ってくれればいいのだがなと背後の島を振り返る。申し訳程度の灌木が生える低い島には無数の墓標と小さな聖堂、高いレンガ壁に囲まれた隔離施設が窺えた。あそこの収容患者はすべて蟲の宿主だ。彼らがアークとは何か知ってくれてさえいれば調査も捗ったのだけれど。
(いや、問いかけられる相手ならいるか)
 療養院で新たな任務に就いているという防衛隊、彼らの連れたアイリーンを思い出し、ファンスウは腕を組み直した。存外大胆な連中だ。国から逃げたと聞いたときは二度と帰ってこないだろうと思ったのに。
(一体何を考えている? 危険を冒して何故戻った?)
 彼らはこちらの正体を知っているはずだ。窮地に陥ったダレエンとウァーリを救い、あなたたちはジーアン人かと尋ねたのは防衛隊の隊長だと聞いている。こう堂々と帰還したからには何か思惑があるのだろう。帰国後すぐに記憶喪失患者の世話を始めたことも引っかかる。彼らに問えばあるいはこの難問を解く糸口を掴めるのかもしれないが――。
「どしたの龍爺? 難しい顔しちゃってさ」
 不意に間近で響いた声にファンスウはハッと顔を上げた。見れば一艘の小舟がすぐ横につけていて、座した狐が案じるようにこちらをじっと見上げている。
「別に難しい顔などしとらんぞ。お前さんがいつもたるんどるだけじゃろう」
「え、ええーっ!? 酷くない!? その言い方!」
「うるさいのう。お喋りなぞしとらんで目と手を動かせ、怠け者め」
 溜め息と小言でかわしてファンスウは兵にゴンドラを進めさせた。ラオタオは聡い男だ。下手な受け答えをして頭の中を悟られたくない。
 ヘウンバオスやほかの仲間はどうか知らないが、ファンスウは彼をまったく信用していなかった。証拠はなくともハイランバオスと繋がっている可能性は十二分にある。そんな男に相談事などできるはずないので昨日のうちに書簡を二通出しておいたのだ。一通はバオゾの天帝に、もう一通はパトリア古王国で探索中の狼と蠍に宛てて。
(防衛隊に接触する必要は間違いなくある。だがそれはこやつのいないところでやりたい)
 捕縛も尋問もラオタオには任せたくなかった。狐が監視の目を盗んで悪さを企む気がしたからだ。昨日彼がアイリーンを見つけたときも、何もせず帰してやるよう促したのはそういう理由からである。
 それに一応防衛隊は身内の命の恩人だった。ダレエンとウァーリ抜きで縄をかけるわけにいかない。二人が戻ってからでなくては。
(挙動次第では急いで捕らえねばと思っていたが、どうも逃げる気はなさそうだしの)
 ファンスウは再び療養院のそびえる扁平な島に目をやった。桟橋に舫われた舟はおそらく防衛隊のものだろう。昨日の今日で普通に出勤しているところを見ると隠れる気さえないのが知れる。
(少々不気味ですらあるな。よほど肝の据わった者がまとめている組織らしい)
 自然な素振りでファンスウは視線を片手の地図に戻した。兵に移動の指示を出しつつ頭の隅で別の思考を巡らせる。防衛隊の目的は何か。彼らはこちらにどんな形で害をもたらすことができるか。
 ラオタオは論外としても、ほかの蟲とも問題を共有できないのが痛かった。ウェイシャンは出来が悪すぎて聖預言者のふりと狐の監視に手いっぱいだし、女帝も頭が足りなさすぎる。そもそもアニークに関しては天帝から彼女の好きにさせてやれ、詮無いことでわずらわせるなと厳命を受けていた。蟲兵たちも完全にこちらの味方という保証はない。程度の差はあれ皆ドナの退役兵たちと同じような、くさくさとした不満を秘して働いているのだ。
(今は従順に見える者も、ずっとそれが続くとは限らん)
 裏切りの余波はファンスウの心にも甚大な悪影響を及ぼしていた。不信とはまったく嫌な根を張るものだ。わずかでも疑う気持ちが生じればたやすく口を閉ざさせる。
(焦って動くことはすまい。それこそ奴の思うつぼじゃ)
 奔放で熱烈な詩人。天帝の片割れはどこで何をしているのやら。
 重い嘆息をファンスウは喉奥に飲み込んだ。墓島から遠ざかると「いました」という兵の声は減っていく。海の色はさっきと同じに見えるのに、何が違っているのだろう。いつから何が変わっていたのだろう。
 緑の潟湖をゴンドラが渡る。幾千の白い波頭が輝きながら砕けていく。


 ******


 ジーアン兵を乗せた舟は墓島に上陸しないらしかった。彼らが場所を変えるのを見てルディアはなんだと拍子抜けする。昨夜も何もなかったし、今日こそしょっぴかれるだろうと考えていたのだが。
(案外相手にされていないな。それともよっぽど忙しいのか?)
 療養院の屋上に干されたシーツの隙間からゴンドラの大群を眺める。王国湾を行くジーアン人たちは何やら熱心に水底をさらっては虫眼鏡で観察していた。脳蟲について知りたいならこちらに聞きにくればいいものを。
(まあいい。捨て置いてくれるならそれはそれで一向に困らん)
 モリスに借りた双眼鏡を下ろしてルディアはくるりと踵を返す。螺旋階段をずんずん下ると西棟一階を占有する談話室の扉を開けた。
「あ、おかえりー」
「裏庭の様子どうだったかしら? ブルーノは大丈夫そうだった?」
 広々とした一室には昨日と同じくモモとアイリーンしかいない。患者たちはシルヴィアに囲われて相変わらず東棟にこもっていた。
 二人の座るテーブルにルディアも腰を落ち着ける。もとは患者に応急処置を施す部屋であったためか、椅子からも机からも染み込んだ消毒液の臭いがして鼻の奥がツンと痛んだ。
「いや、裏庭はよく見えなかった。意外に垣根が茂っていてな」
「なーんだ、じゃあ上り損じゃん」
「そうでもないぞ。もう行ってしまったが、さっきまで近くの海をジーアン兵がうろうろしていた。どうも水質を調べている様子だったな」
「えっ」
 モモとアイリーンが同時に声を引っ繰り返す。窓の外を警戒して斧を掴んだ勇ましい少女にルディアはくつくつ笑いながら呼びかけた。
「身構えずとも平気だよ。行ってしまったと言っただろう」
「で、でもさー」
「こちらにやって来る気配はなかった。いいから作業を再開しよう。どこまで進んだ? 見せてくれ」
 座り直すよう顎で示すと斧兵は渋々丸椅子に腰かける。アイリーンが机上の亜麻紙を回してこちらに見やすくしてくれた。インク壺に立てかけられたペンを取り、余分な黒い雫を落としてルディアは下書きと睨めっこする。
「うん、この図表はわかりやすいな。絵も上手いしこれでいくか」
「ほ、本当? ううう上手いだなんて嬉しいわ」
 スケッチの出来を誉めるとアイリーンが青白い頬を朱に染める。生物の特徴を捉えるのが得意な彼女は思った通りなんでもそこそこ描けるらしい。図中の薬瓶や診療台、カーテンやドアは白黒画ながらどれも何を示すものか識別するのが簡単だった。
「馬とか羊とか天幕とか、見慣れたものならお手本なしでも描けると思うわ。多分だけど」
「よし、じゃあ絵の入るものは全面的にお前に任せるぞ。私とモモは発音表と文法の基本事項をまとめるとしよう」
「はーい、モモ発音表のほう頑張るねー」
 テーブル端の紙束から一枚ずつ亜麻紙を引き抜いて各自作業に取りかかる。ルディアたちは患者と隔絶されている間、ジーアン語の教科書を作って過ごすことに決めていた。嫌がられても煙たがられても指導はせねばならないのだ。患者たちがドナで困らないようにできるだけの準備は整えておきたかった。
(イラスト付きの頻出語句に発音表、ほかに何があれば便利だとレイモンドは言っていたかな)
 コーストフォートで雑談がてら聞いた話を思い返す。存外有益な言をこぼすのだ、あの槍兵は。今まで何度もそれに助けられてきた。遠く離れた今でさえ。
「…………」
 油断していると会話の内容ではなくて彼の声音や表情が甦り、ペンを持つ手がしばしば止まった。見とがめられないように小さく、眉をしかめてかぶりを振る。不要な感情を持つのではないと。
(今考えるべきなのは患者の態度をどう軟化させるかだ。こちらの話を聞く気にさせねば教科書など糞の役にも立たないし、何より彼らのためにならない)
 東棟では昨日に引き続き、反吐の出る洗脳教育が行われていた。シルヴィアは授業と称してリリエンソール家の正義を説き、未来のために帝国自由都市を目指すことがいかに重要か弁舌を振るっているのである。
 窓の外からこっそりと参観したルディアたちは怒りを通り越して呆れたが、制止や抑止はできずにいた。「いい子」でいなければドナ行きになる脳蟲たちは無批判にシルヴィアの価値観を受け入れる。溝は深まる一方だった。
(こんなときあいつがいればな)
 またしてもいない男を脳裏に思い浮かべてしまい、深々と息をつく。彼ならきっと患者たちともすぐに打ち解け合えるのだろう。だが槍兵はいつ帰るのかわからないし、あまり頼りすぎたくもない。
(ブルーノが頑張ってくれているんだ。私は私にできることをして待とう)
 シルヴィアに防衛隊は悪だと吹聴されている現在、まともに患者と関われるのは白猫の彼だけだった。愛らしい姿を最大限利用してブルーノは患者たちの気を引く努力をしてくれている。ないよりましレベルの接点ではあるにせよ。
(今はじっと待つときだ。流れがこちらに来たときに引き寄せられればそれでいい)
 ルディアは順序立てて解説できるように亜麻紙にジーアン語とアレイア語を書き連ねた。これが完成する頃には一度シルヴィアに物申さねばなるまい。


 ******


 焼き魚の香ばしい匂いにふんふん鼻孔を膨らませる。手入れされずに枝葉を伸ばした生垣が暗がりをなす一角でブルーノはニャアとひと鳴きした。
 裏口を見張っていた少年がシッと人差し指を立てる。皿を手にした中年男は――と言ってもここの患者は一歳未満の赤ん坊ばかりなのだが――ちらちらと背後を気にしつつ膝を曲げ、白猫のふわふわの毛を撫でてきた。
「うん、うん。お魚にありつけて嬉しいか。けどちょいと静かにしてくれよな。シルヴィア様は猫の鳴き声が苦手なんだそうだ」
 ナアとできるだけ小さく返事してブルーノは差し出された昼食にかぶりつく。足音を忍ばせて集まった数名の患者たちはそれだけで大いに喜んだ。
「うわあ、食べてる食べてる」
「猫ちゃんって可愛いなあ」
「ああ、可愛い。たまらない」
「こっちの水も飲んでいいぞ。ミルクのほうがいいだなんて贅沢言うなよ」
「うわあ、飲んでる飲んでる……」
 気分はかなり複雑だが、愛嬌さえ振りまいていれば彼らはブルーノを仲間の輪に入れてくれる。目的は人気者になることではなかった。患者たちの内緒話を聞くためにブルーノはここにいる。
「なあ、三十人は絶対ドナに行かなくちゃなんだよな? 皆は誰が選ばれると思う? もし選ばれたらどうしたらいいんだろう」
 こちらの食事が落ち着くと誰からともなく不安が漏れた。彼らが生きるのは狭い世界だ。話題は常に限られたものだった。
「おいおい、お前シルヴィア様のお話ちゃんと聞いてたか? 素行不良は一発アウト、あとは成績順だって説明があったじゃねえか。真面目に勉強してれば妙なとこ連れてかれる心配はねえよ」
「うん。けどさ……」
「けどさ?」
 暗い顔をした少年に目つきの悪い中年男が首をかしげる。「お前は賢いんだし大丈夫だって、マルコム」と力づけられてもマルコムと呼ばれた短髪の少年は思案深げに黙り込んだままだった。
「どうしたんだよ? 何か引っかかってることでもあるのか?」
 ほかの仲間も彼に問う。しばし逡巡したのちにマルコムはぽつりと呟いた。
「本当に成績順になるのかなって思ってさ」
「はあー? お前さっきから何言ってんだ?」
 不可解そうに眉をしかめ、「シルヴィア様の言うことが信じられねえのかよ」と中年男がマルコムに迫る。「やめてってオーベド、顔怖いんだから凄まないで!」と少年は素早く木の陰に逃げ込んだ。
「ちょっと思っただけだから、意味とかないからあんま気にしないで。ってかそろそろ戻って予習したほうが良くない?」
 マルコムは空になったブルーノの皿を掴むとひと足先に裏庭から退散する。予習という言葉が胸に刺さったか、残った面々も仕方なさそうにそれぞれ重い腰を上げた。
「やれやれ、全然のんびりできないな」
「だけどいつ抜き打ち試験されるかわかんないしね」
「猫ちゃん、悪いが俺たちゃ行くよ。明日も魚が欲しかったらお利口にしてるんだぞ」
 またなと手を振って患者たちはこそこそ建物に戻っていく。ぽつんと一人で取り残され、ブルーノは閉ざされた重い扉を見上げた。
 中の様子を覗きにいこうかと思ったが、シルヴィアに追い出される展開しか浮かばないのでやめておく。
 冒険は禁物だ。踏み込みすぎれば失敗する。自分はそんなに上手くやれないということを、きちんと自覚していなくては。
 慎重さが重要だった。優しい人に優しいままでいてほしいなら。
「…………」
 ブルーノはタッと茂みの脇を駆け、ルディアたちのいる西棟に戻った。
 王女の身体を守れなかった償いに、少しでも役に立たねばならない。自分が何を失ったかなんて、もう忘れねばならなかった。


 ******


「まあ、まあ! 素敵じゃない! 二人ともよくお似合いよ!」
 黒い瞳を輝かせ、アニークが掌を重ね合わせる。女帝の威厳など放り出してはしゃぐ彼女に隣の男は「ご要望にお応えできて光栄です」と見え透いた愛想笑いを浮かべた。
「本当にぴったりだわ。まるで双子の剣みたい……」
 陶酔しきった眼差しが己の腰に新たに帯びたバスタードソードにも注がれてアルフレッドはいささか苦笑いする。ユリシーズが献上した剣は――おそらく女帝と同じように騎士物語に傾倒した誰かが作らせたのだろう片手半剣は――柄頭にアネモネの意匠が掘られている以外装飾らしい装飾のない、前時代的な代物だった。
 置物だらけの寝所に立つ白銀の騎士もアルフレッドと揃いの剣を揃いの位置に携えている。だが「鍛冶屋に行ったらちょうど良いのがありましたので」とレーギア宮に剣を持参した張本人にも関わらず、ユリシーズはどこか不服そうだった。
 きっと内心「何故私が防衛隊の隊長なんぞと装備を合わせねばならんのだ」とか考えているのだろう。己が主君の政敵と同じ武具を持つことに多少抵抗を感じているように。
(出所と経緯はさておき、バスタードソードを賜ったのは嬉しいな)
 握りを確かめ、重みを確かめ、アルフレッドはうんと頷く。ブラッドリーのくれた剣が戻ってくるまでこの重量の代替品があれば当面困ることはなさそうだった。感覚を忘れる前に馴染む武器を手にできたのは素直にありがたい。
「感謝いたします、アニーク陛下」
 アルフレッドが跪くと女帝は「いいのよ、そんなの。私があげたかっただけなんだから」と焦った様子で首を振った。
「これからも色々着てもらうつもりなのに、いちいち畏まられたらやりにくくなっちゃうわ」
 続いた台詞に思わず吹き出す。天帝宮で過ごした頃と変わらず彼女は正直で、その天真爛漫さにほっとした。
「何よ、何を笑っているのよ?」
 覇気のないアルフレッドを気遣ってか、昨日からアニークはあれこれ明るく声をかけてくれる。おかげで気持ちは多少なりやわらいでいた。
 置いていかれてむしろ良かったのかもしれない。今の自分にはルディアの側で平常心を保つのが難しい。楽しそうなアニークを見ている間は抱えた苦悶も遠のいた。現実逃避だということは重々承知していたが。
「ねえ、そろそろ読み合わせをしてみない?」
 アルフレッドたちの立ち姿を堪能しきると女帝はそう言って部屋の奥に据えられた書見台を振り返った。角度のついた細い台座には仔牛皮に金の箔押しの豪華本が閉じた状態で置かれている。その手前には柔らかなビロードの椅子がちょこんと三つ並べられていた。
「仰せのままに。今日はこの男もで?」
 慣れた動きでユリシーズが椅子を引く。アニークが中央の一席に座すと彼はその右隣に腰を下ろした。
「そうよ、一人ずつ役を決めて朗読するの。ちょっとしたお芝居みたいにね」
 提案するアニークは早くも満面の笑みである。物語に声がつくというだけで彼女は堪らなく幸せらしい。アルフレッドも騎士物語の登場人物に思い馳せることくらいあるが、彼女の入れ込み具合には敵いそうもなかった。アニークと打ち解けるきっかけになったのがパトリア騎士物語だったのは、今から思うと当然のことかもしれない。
 バオゾでの思い出が甦り、アルフレッドは左端の席に腰かけながら微笑した。もしアニークにサー・トレランティアとなじられることがなかったら彼女ともあれきりだっただろう。何が人との縁を繋ぐかわからないものだ。
「ねえアルフレッド、あなた騎士物語の中でどのプリンセスが一番好き?」
 と、そのとき、思いもよらない質問が飛んできてアルフレッドはぱちくりと目を瞬かせた。それは過去にもなされた問いであり、彼女は答えを知っているはずだったからだ。
「あ、ええと……。そうですね、俺はプリンセス・オプリガーティオが」
「あら! なら彼女の場面をやりましょうか。ちょうど一昨日の続きだし」
 アニークはこちらの返事の歯切れの悪さに気づかずにユリシーズにページを捲らせる。「私がオプリガーティオを、ユリシーズがセドクティオの役をして、アルフレッドが地の文を読めばいい感じじゃない?」と無邪気に指定する彼女に「忘れてしまったのですか?」とはこちらも聞きづらかった。
「それにしてもオプリガーティオは大人気ねえ。知っていた? ユリシーズもオプリガーティオが一番好みだって言うのよ。まあ私も結構好きなプリンセスではあるけど」
 どう答えていいかわからずアルフレッドは「は、はあ」と言葉を濁す。何故ユリシーズの好きなプリンセスは覚えているのに自分のは忘れられてしまったのだろうと釈然としなかった。
 不満というわけではない。アニークらしくない気がしたのだ。こんなに騎士物語が好きなのに、あの熱い語らいを覚えていないなんて。
「ちなみに騎士は誰が一番?」
 問いかけに困惑はますます深まった。アルフレッドが「トレランティアです」と答えると女帝は歓喜に飛び上がってみせる。
「本当!? 私もなの! サー・トレランティアって素晴らしい騎士よね! セドクティオも捨てがたいけど、一番尊敬しているのは彼! 語り尽くせない魅力があるわ!」
 アニークはタペストリーに織られた騎士のどれとどれがトレランティアだと上機嫌で教えてくれる。狐につままれた気分でアルフレッドは女帝の指が示す絵物語に目をやった。
(なんなんだ? 一体どういうことなんだ?)
 ちらとアニークを盗み見る。だが彼女の横顔に不審な点は見当たらなかった。声も仕草も至って平常通りである。
 あんまりつらい出来事があると前後の記憶があやふやになると聞く。もしや天帝宮でよほど酷い目に遭ったのかと想像して胸が痛んだ。ただの思い過ごしならいいのだが。
(天帝は人質として皇女をずっと冷遇していたわけだしな……)
 今そこそこの自由を与えられているからと言って過去何もなかった証明にはならない。アニークにも一人で耐えてきたものがあっただろう。記憶が抜けている程度でごちゃごちゃ言って困らせるまいとアルフレッドは頭を振った。
「ところで読み合わせはどこからになさいますか? この間はセドクティオの恨み節で止まっていたかと思いますが」
 と、ユリシーズが女帝に問う。横道に逸れていた会話はそこで断ち切られ、アニークの視線は開かれた物語の一節に戻された。
「そうそう、あなたが山場でぶっちぎってくれたところね。その少し前からがいいのではない? セドクティオが帰還して、遠国の王子と王女の駆け落ちが失敗したと報告を始めるあたりから」
 オプリガーティオの「遅かったわね」という台詞で苦しい恋の章が始まる。しかしこの日はそれ以上朗読が進むことはなかった。コンコンとドアがノックされ、御用商人が訪れたとの一報が入ったからだ。
「まああ!? 掘り出し物が見つかったのかしら!?」
 すべての予定を後に回して女帝は商人に会うと言う。間を置いて入ってきたのはコットンで肩と胸を膨らませた、出身のわかりやすい優男だった。




 また余計な奴が増えたなと胸中で唾を吐く。手を揉みながら現れたカーリス人の青年を見やってユリシーズは顔をしかめた。
 ベンジー・ベイリアル――しばし帰郷して権力基盤を固め直す必要のあったローガンが女帝の膝元に残していったショックリー商会の若き稼ぎ頭である。アニークがノウァパトリアを発つ際にくっついてきて、今現在はアクアレイア市場を荒らしに荒らしまくっている。どうにかして追い出したい外国人の筆頭だった。
「アニーク陛下、ご機嫌いかがでございますか。素敵なお部屋でお過ごしですから、ご気分の優れない日などなさそうですが」
「まあ、素敵な部屋だなんて」
 わかりやすいおべっかにアニークはにこにこと応じる。「私のところで仕立てさせた騎士物語風のドレスもぴったり馴染んでおりますね」との言葉には頬をゆるゆるに緩めてしまって見ていられないほどだった。
 このアニーク気に入りの御用商人の前ではユリシーズなど吹けば飛ぶような存在でしかない。女帝は着せ替え人形よりも人形用の家具や洋服を持ってくる男のほうに重きを置いているのである。
「私の趣味をいい趣味だと言ってくれるのはあなたくらいよ。タペストリーも甲冑も、こんな素晴らしいのを用意してきた人はほかにいないわ。今日は何が手に入ったの? 早く見せてもらえないかしら」
 わくわくと椅子に座したまま身をくねらせるアニークにベンジーは「どうぞどうぞ、心ゆくまでご覧ください」と恭しく並べた大箱の蓋を取り外していく。女帝は躾のなっていない犬同然に「まあ!」と餌に飛びついた。身を乗り出し、床に膝をつき、はしたないなんてものではない。これがかの東パトリア帝国を統べる女かと思うと頭が痛くなってくる。ヘウンバオスももう少し奥方を教育すればいいものを。
「まあ、まあ、なんだかこれトレランティアの装束に似ていない? 色味とか雰囲気が、あんまり上手く言えないけど」
 アニークは興奮しながらベンジーの持ってきた品を確かめる。中身はなんてことのない、昨日アルフレッドが献上したのと似たり寄ったりの古びたマントやサーコートだった。どうせそこらの困窮したアクアレイア人から買い叩いたものだろう。ユリシーズの推測通りベンジーは「こちらはアクアレイアのある館に眠っていた独立戦争時代の装備で」と講釈を垂れ始める。
「保存状態もいいんですよ。多少色褪せてはおりますが、かびてもほつれてもいませんし」
「独立戦争というと、ちょうど騎士物語の時代だったかしら?」
「ええ、そうです。正確にはちょっとずれますが、大体同じ頃ですね。作者は独立戦争のすぐ後に騎士修行を始めているので」
「まあ、そうなの! 詳しいのねえ」
「いえいえ、好きで調べているうちに覚えてしまったというだけの話で」
「それでもすごいわ。私なんて作者がどんな人かとか騎士物語がいつの時代の話かなんて一度も考えたことなかったもの!」
 アニークが誉めちぎるのをユリシーズは不快な思いで聞き流した。教養ならそれなり以上にあるはずの自分でさえ初めて耳にするようなことをベンジーはぺらぺらと口にする。女帝がそこに魅了されているのはわかっているが、騎士物語に特化した知識などどうすれば獲得できるのかユリシーズには皆目見当もつかなかった。所詮作り事でしかない物語にそこまで情熱を傾けられる意味もわからないし、この話題自体がそもそも己に不向きなのだ。
「ベンジー、あなたが来てくれると本当に嬉しいの。知識が深まると世界ってどんどん広がっていくのよね。あなたが色々教えてくれるおかげで次はあれが欲しい、これが欲しいって自分で決められるようになってきたのよ。これってとても意義あることだわ」
「おやまあ、なんともったいないお言葉を。でしたらもう少しお喋りをさせていただきましょうか。このサーコート、トレランティアのものと似ている理由が実はちゃあんとあるのですよ」
「まああ!? そうなの!?」
 女帝と御用商人の蜜月は当分終わりそうにない。何が「あなたが来てくれると本当に嬉しい」だとユリシーズは陰でこっそり毒づいた。
(いつも散々セドクティオの物真似をさせておいて、こいつが顔を出すと途端にほったらかしだからな)
 くそ、とベンジーを睨みつける。さっさと帰れと念を送ってもふてぶてしいカーリス人には通じていない様子だった。更にそこにもう一人、余計な真似をする馬鹿が増える。
「あら? アルフレッドもサーコート見たいの?」
 書見台の傍らから首を伸ばす赤髪の騎士に気づいてアニークが問いかけた。名前を呼ばれた平民騎士は「あ、いや」と否定しかけて沈黙する。
「……申し訳ありません、アニーク陛下。俺も一緒に拝見させていただいてもよろしいでしょうか?」
 控えめに願い出たアルフレッドに女帝の頬は見る見るうちに紅潮した。
「いっ、いいに決まってるじゃないの! 興味あるのね!? ユリシーズとは違うのね!?」
 新たな仲間が加わってアニークは大喜びだ。「昨日は一日暗かったから、こういうの好きじゃないのかと思ってたわ」と彼女は潤んだ目尻を拭う。
「ユリシーズとは違うのね、とはどういう意味です? 私も懸命にお仕えしているつもりなのですが?」
 後れを取ってはならないとユリシーズも書見台を離れ、商人の広げた大箱の傍らに寄った。「またそんな、セドクティオみたいな言い方して」とアニークが口元をにやつかせる。
 こんなことでポイントを稼げるのだから単純な女だ。架空の騎士になりきる羞恥心とは戦わなければならないが。
「ふふっ」
 そのとき背後で小さな笑い声がした。ユリシーズにだけ聞き取れる低い声で「必死ですね」と囁かれ、一瞬思考が停止する。カーリス訛りのパトリア語は聞き間違いではなかったようだ。振り返ったこちらを見やった男はさも楽しげに歪んだ嘲笑を浮かべていた。
「さあベンジー、サーコートの説明を始めてちょうだい」
 水面下の軋轢に気づきもしない愚鈍な女帝にそう乞われ、「はい、ただいま!」と御用商人は笑顔で応じる。ユリシーズはわなわな震え、頭の中でベンジーを鞭打ち百回の刑に処した。
(こ、こいつ、私に向かって『必死ですね』だと? コットン小太り風情めが調子づきおって!)
 怒りが噴出しないようにユリシーズは爪痕が残るほどきつく拳を握りしめていなくてはならなかった。屈辱に耐えねば栄光は掴めぬものと決まっているが、忍びがたいものは忍びがたい。いずれ必ず粛清してやると心に誓う。
「このサーコート、濃い緑色をしているでしょう? これ、かなり珍しいことなんですよ。アクアレイアでこういう深緑はまず使われませんので」
 ユリシーズの苛立ちなど気にも留めずに御用商人は命じられた説明を始めた。そのことにまたしても苛立つが、女帝の前だと思い直してぐっと堪える。
 成功したければ少ないチャンスをものにしなければならない。くだらぬ男に揺さぶられている場合ではなかった。
「そう言えばそうね。深緑ってここじゃあんまり見かけない色だわ」
 私のドレスはほとんど同じ色だけど、とアニークが古式ゆかしい衣装の裾を軽く摘まむ。ベンジーは「そうなのです。私がその深緑を選んで仕立てさせたのも意図があってのことだったのですよ」と得意げに胸を張った。
「どういうこと? 緑色に何か秘められた意味があるの?」
 聞き手の高い関心に語り手はご満悦だ。が、余裕たっぷりの彼の態度も今日は長く続かなかった。もう一人いた熱心な聞き手が口を挟み始めたからだ。
「深い緑はマルゴー公国を象徴する色なんです、アニーク陛下。プリンセス・グローリアの住む城はアルタルーペの古城がモデルになっているでしょう? 騎士物語の作者はマルゴー人なので、主人公のユスティティアや彼の師匠格であるトレランティアは濃い緑色のサーコートを着ているんですよ」
 はたと室内の時が止まり、赤髪の騎士に注目が集まる。アルフレッドは視線にまったく気づかぬままで己の見解をまとめた。
「パトリア古王国からの独立を目指し、アレイア公とマルゴー公は共同戦線を張っていました。このサーコートが作られたのはおそらく独立戦争が始まった初期の頃だと思います。後期には兵力が分断されて、別々に戦うことになってしまったので。マルゴー兵の着ていたサーコートを取っておいたということは何か恩義があったんでしょうね。見たところ、相当大切にされてきたようですし」
「ま、まあ、まあまあ……」
 案外語ってくれるじゃないのとアニークが目をぎらつかせる。史実のほうはユリシーズも知識の範囲内だったが、熱っぽく「これはきっと本当に、サー・トレランティアがまとっていたのと同じ形のサーコートだと思います」と骨董品を見つめることはできそうになかった。
「アルフレッド、もしかしてあなたもかなり詳しい人? なんだかそんな匂いがするわ」
「えっ、いや俺は」
 騎士の双眸に同志の魂を見取ってか、女帝がずいと隣で膝をつく男に迫る。なんだか潮目が変わってきたな。そう感じたのはベンジーも同じだったらしく、御用商人は急に高圧的な態度に転じる。
「ふ、ふん。そちらの騎士殿はまあまあお勉強なさっているようです。しかし今述べられた程度のことでいい気になられては困りますよ。騎士物語愛好者の間では作者がマルゴーの出だということくらい一般常識ですからね」
 ベンジーは牽制のつもりで言ったのだろう。だがあいにく彼は墓穴を掘っただけだった。「ええと……」と切りだしにくそうに口ごもる平民騎士に手厳しい反撃を食らって。
「あの、一つ訂正したいことが。独立戦争のすぐ後に騎士修行を始めたのは、作者ではなくトレランティアのモデルになった騎士のほうかと……」
 御用商人の濃紺の目が点になる。「そ、そんなわけなかろう!」とうろたえるベンジーに対し、諭す側のアルフレッドは冷静だった。
「誓いの様式や鍛錬の内容を精査すればわかります。ユスティティアの受けた指導は確かにマルゴー騎士のそれに寄っていますが、ベースはパトリア古王国のものと見て間違いありません。おそらく作者は幼い頃に公国を離れているんです。ただ師となった人が生粋のマルゴー人だったので、こういう形で混ざり合ったのだろうなと」
 赤髪の騎士は物語中の具体例を三つほど挙げて説明する。その解説はわかりやすく、無理もなく、なるほどと納得させられるものだった。
「そうだったの……。知らなかったわ……」
「すみません、出しゃばったことを。どうしても気になってしまって」
「いいのよ、いいの! どんどん喋ってほしいくらいよ!」
 感心しきりのアニークにアルフレッドは恐縮しつつ頭を下げた。きらきらと女帝の双眸が輝きを増していく。大箱の前では御用商人が傷ついた名誉を回復しようと躍起になっていた。
「ま、まあ、認識の誤りはあれ、ご覧いただいている品々に問題はありませんから! どうでしょう? お気に召したものはございますか?」
 切り替えの早いベンジーはさっさと己の非を認める。アニークは贔屓の商人を責めることなく「そうね、全部いただくわ」とにこやかに微笑んだ。
「本当にいつも素敵なものをありがとう。三着だし、五百万ウェルスもあれば足りるかしら?」
 女帝の提示にユリシーズはぴくりと眉を引きつらせる。時代遅れのマントとサーコートを丁重に抱え上げ、悪徳商人は「ええ、ええ、十分でございます」といやらしい笑みを浮かべた。
 忌々しい。アニークに金銭感覚がないのをいいことに、いつもいつも大金をせしめおって。本来ならアクアレイア人の懐に入る金だと思うとなおさら腹が立ってくる。さっさと不況を打開せねばならないのに潤うのはカーリスばかりだ。
「五百万って、そんな高いはずないでしょう?」
 驚愕の声が響いたのはそのときだった。女帝の取引にケチをつけるとは豪胆な、と向かいの男を仰ぎ見る。平民騎士は宮廷作法にうといらしく、正面からベンジーを非難した。
「どう値をつけても五万ウェルスが限度なのでは? いつもこんな高額で取引なさっているんですか?」
「騎士物語と同時代のものという付加価値がありますからねえ。アニーク陛下もご納得のうえお買い上げのはずですが、何かいけませんでしたかな?」
 面倒そうに御用商人は切り捨てる。口論を嫌ってアニークも「そうよ、いいのよ」と赤髪の騎士をなだめた。
「別に惜しい額じゃないし、私にとって五百万ウェルスの価値があるのは本当だもの。ありがとう、アルフレッド。大丈夫だから下がっていて」
 一ヶ月前に自分が苦言したときと同じ流れだな、とユリシーズは嘆息する。結局あのときもベンジーの意見が通り、助言は却下されたのだ。
 アニークは他人の考えに染まりやすい。好ましく思っている相手の考えならなおさらだ。だからベンジーみたいな俗物にたやすく言いくるめられてしまう。まったくどうしようもない女だ。
「ですがアニーク陛下、昨日俺にマントを譲ってくれた伯父は、こんな年代品は二束三文でしか売れないと」
 下がっていろと言われたのにアルフレッドは下がらなかった。それどころかますます顔を険しくしてベンジーに問いただす。
「タダ同然で買い取ったものを高値で売りつけているんじゃなかろうな?」
 騎士に凄まれ、悪徳商人は一瞬身体をビクつかせた。だがすぐに「適正価格で商売しているに決まっているでしょう。私は御用商人ですよ!」と言い返す。
「ならいくらで買ったのか教えてくれ。まずはその緑のサーコートから」
「え、えーと、これはですね……」
 おかしなことに彼は具体的な購入額を口にしなかった。商人ならいつも懐に入れている手帳に一、二週間分の出入りくらい記録してあるはずなのに。
 ユリシーズはおろおろしているベンジーと鋭い目つきのアルフレッド、二人を見守る不安げなアニークを一瞥する。もしかして今がベンジーを失脚させる千載一遇の好機なのではなかろうか。そう断じ、ユリシーズは三人の前へ出た。アルフレッドの援護射撃をしてやるために。
「アクアレイア人がアニーク陛下にこういった品々を直接お持ちできればいい話なのですがね。……どうも強欲な御用商人が宮廷から傘下の商人以外を締め出しているようで」
「えっ!?」
 目論み通り「そんなことをしているのか」という顔でアニークがベンジーを見やる。すると御用商人は冷や汗を垂らして弁明した。
「わ、私はセンスのない人間が陛下のもとに大挙して押し寄せないように調整しているだけでございます! 誰も私ほど騎士物語に精通しておりませんし、アニーク陛下の目に適う品か、ただ古いだけのガラクタか区別もつけられないのですから!」
 こう聞いて間抜けな女帝は「確かにそうね」と流されかける。「選別に対する労いとしてお金を払っていると思えば別に」などと言いだすのでユリシーズはずるりと足を滑らせかけた。
 反対にベンジーはほっと安堵の息をつく。落ち着きを取り戻した御用商人は勝ち誇った顔で平民騎士を振り返った。
「そういうわけです。これ以上難癖をつけるのはおやめいただけますかな? もとより私とアニーク陛下の取引にあなたが口を出す権利などございませんし」
「ええ、今まで通りで構わないわよ。ベンジーに任せておけば間違いないってわかっているんですもの。多少高くついたって気にしないわ」
 くそ、と陰で拳を握る。今日こそこのカーリス人に泡を吹かせてやれるかと思ったのに。
 だがまだ勝負は決していないようだった。アルフレッドは「しかし」と強い抗議に出る。女帝にここまで食い下がれる人間は宮廷でもなかなかいないぞと感心するほどに。
「選別役は彼でなくてもいいはずです。俺に騎士物語を教えてくれた人は正直もっと詳しいですし」
「なんですって?」
 ガタッとアニークが立ち上がる。先程アルフレッドに惨敗を喫したベンジーは大慌てで「いやいやそんな、私と競える人間なんて」と首を振った。
「昨日のマントの持ち主がそうです。それにほかにも騎士物語のファンは大勢います。読書会を開いたり、交流会を開いたり、俺も何度かそういう集まりに連れて行ってもらいました。目利きのできる商人なんて探せば山ほど見つかるかと思いますが」
 そんな集会があったのかと未知の世界に目を瞠る。女帝は甲冑に羽織らせた赤いマントを振り返り、「確かにあれは私の感性に突き刺さる献上品だったわね……」と頷いた。
 赤髪の騎士はなお続ける。ひたむきな、良心に訴える真摯な声で。
「こういった品を今まで手放さずにきた人は、きっとあなたと同じようにあの時代の騎士を愛しているんです。彼らにも手を差し伸べてはくれませんか? 一人の商人だけに過大な対価をお与えになるのではなくて」
 アニークは沈黙した。足りない頭でも自分が何を踏みつけているかくらいは理解できたものらしい。もし本当にベンジーが微々たる買い取り額しか払っておらず、故意にレーギア宮からアクアレイア商人を追い払っているとしたら、彼女も同志を不当に扱っていることになるのだ。
 なかなか巧い運び方をするじゃないかとユリシーズは赤髪の騎士を見やった。アルフレッドにアニークを操る意思はなく、本当に正義感だけで物申しているようだったが。
「実際にご自身で『適正価格』をお確かめになってみてはいかがです? 御用商人の数が増えれば語り合う場も増えるかもしれませんし」
 もうひと押しで崩せるなとの読みに違わずアニークは「わかったわ……」とうつむきがちに返答する。ベンジーは「お待ちください!」と粘ったが、「このサーコート、どこの誰から買ったものかだけ教えてくれる?」と問われて完全に黙り込んだ。
「……とりあえず持ってきてくれた品は全部買い取るわ。悪いけど今日はもう帰ってちょうだい」
 女帝の目にはありありと失望の色が浮かんでいる。諦め悪く居残ろうとする青年の首根っこを引っ掴み、ユリシーズは御用商人を控えの間に突き出した。
「ご機嫌麗しゅう、ベンジー殿。それではまたお会いできる日を心待ちにしております」
 そんな日は二度と来ないと確信しつつ、慇懃に別れを述べる。必死だな、と笑ってやっても良かったが、同じレベルまで下がってやる必要は感じなかった。
 女帝という上客を失ったベンジーは顔面蒼白で膝をつく。いずれはアニークの寵愛を盾にドナ市場まで進出する気だったろうに、気の毒なことだ。
 冷淡に扉を閉ざし、ユリシーズは胸中で高笑いした。痛快な気分でいられたのはそこまでだったが。
「ありがとう、アルフレッド。私自分のことしか見えていなかったわ……」
 しょんぼりと肩を落としたアニークが呟く。
「私、視野が広がったって喜んでいたけど全然そんなことなかった。私が気に入るようなものをずっと大事にしてきた人は、私と同じようなものを好きかもなんて、少しも考えたことなかった……」
 これまでの自分を恥じ、猛省する彼女の姿に直感的にまずいと悟る。女帝は平民騎士の手を取ると「本当にありがとう。気づけたのはあなたのおかげよ」と心からの感謝を述べた。
 不吉な予感がむくむく膨らむ。せっかく蠅を追い払っても番犬役が交代したのでは意味がない。アニークの第一の騎士は己でなければ。
(しまった。うっかり目立たせすぎたか)
 ユリシーズはちっとアルフレッドを睨む。赤髪の騎士は握られた手に戸惑いながら「いえ、別に、大したことは言っていないです」と謙遜した。その声に少なからぬ満足感を滲ませて。




 叱られたからこんなにどきどきしているのかしら。
 まだ心臓が早鐘を打っている。彼から手を離せずにいる。
(あんなはっきり主君に物を言えるだなんて、本当にトレランティアみたい)
 そう考えてアニークはすぐに違うと首を振った。トレランティアよりずっと素敵な騎士だからこんなにどきどきしてしまうのだ。決して似ているからではない。
(いえ、それも違う。多分私、彼に似ているからトレランティアを好きだったのよ)
 その考えはすとんとアニークの腑に落ちた。
 蟲は最初に寄生した宿主の心を核に人格を形成する。同じ記憶を有していても性格がばらばらなのはそのためだ。
「アニーク」はきっとアルフレッドを好きだった。片方しかないピアスを特別に感じたのも、騎士物語に夢中だったのも、自分の中に残った「アニーク」がそうさせたのに違いない。
(ああ、私この人を探しにここまで来たんだわ)
 ぐらぐらと揺れる頭で手を離さなくちゃと考えた。向こうからはほどけないのにいつまでもこうしていたらおかしいと。
 ありったけの力を込めて腕を下ろす。それでも視線は逸らせなかった。まだ少し、あともう少し、側で見つめ合っていたくて。
(こんな気持ち、ヘウンバオス様にも抱いたことない)
 ぎゅっと閉じた瞼の裏に夫の顔を思い浮かべる。大っぴらにさえしなければヘウンバオスはおそらく咎めないだろう。あの人はアニークの短い生に同情的だ。きっと最後まで好きなことだけやらせてくれる。
「アクアレイア人にも手を差し伸べてくださいとは言いましたが、これまでのような高額を出す必要はありませんから。アニーク陛下が相応しいと思う値をつけてくださいね」
 アルフレッドはアニークが恥じ入るあまり震えていると勘違いしたらしい。遠慮がちにかけてくる声は柔らかく温かかった。それが耳に心地良くて、つい脳髄をとろかせたまま間抜けな返事をしてしまう。
「ううん、平気よ。ちょっとくらい浪費したって。天帝陛下は私には、とても寛大でいらっしゃるから……」
 騎士物語を愛する仲間にならいくらでも払っていいとアニークは微笑んだ。けれど何故なのかアルフレッドは「え?」と眉間にしわを寄せる。まるで有り得ない聞き間違いでもしたかのように。
(あらっ? わ、私おかしなこと言ったかしら?)
 騎士の渋面にアニークは動揺した。考えても考えてもアルフレッドの表情が何を意味しているのかわからず、おろおろとうろたえる。
「……アニーク陛下。あなたが自由気侭に使うその金も、どこでどうして集められたものなのか一度お考えくださいますか」
 諭されてようやくアニークは自分の発言の愚かさに気がついた。サーコートやマントが誰のもとからやって来るのかさっき学んだばかりなのに、想像力がなさすぎではと自己嫌悪する。この世に突然降って湧いたものなどないのだ。先日手に入れたバスタードソードが彼の持ち物だったように。
「ご、ごめんなさい」
 真っ青になって詫びると騎士はすぐ厳しい顔をやわらげた。「いいんですよ、少しずつで」と励まされ、余計に自分が情けなくなる。
「変えようとしたってなかなか変えられないものはあるでしょう。思考だって訓練です。考えるようにしてみようと意識するところからじゃないですか」
 声はどこまでも穏やかだ。アルフレッドは別に怒ったわけではないらしい。そうとわかってほっとする。
 これからは「どうせもうすぐ死ぬのだし、自分さえ楽しければそれでいい」なんて考えはやめにしよう。多分彼はそんな思考の女は嫌いだ。
 嫌われたくない。せっかく出会えた運命の騎士に。
「本当にごめんなさい。私ももう少し、趣味にばかり没頭しないで皇帝として成長できるよう努力するわ」
 縮こまりながらアニークは生活改善を宣言した。そんな己にアルフレッドはとても優しく頷いてくれる。
 胸の高鳴りは激しくなる一方だった。落ちた穴は奈落の底より深かった。




 一体どういうことだろう、天帝がアニークに寛大とは。
 しょんぼりと肩を落とす女帝にフォローを入れつつアルフレッドは思案する。虐げられているよりいいが、状況が不可解すぎて飲み込めない。ヘウンバオスはアニークを見下していたし、アニークだってヘウンバオスを嫌っていたのに、どうして二人は和解するに至ったのだ?
(結婚して身内になったからなのか? だがそれでも、アニーク姫があの男に甘えたり頼ったりするなんて……)
 さっきの彼女は天帝との確執など綺麗さっぱり忘れてしまったようだった。考えれば考えるほど謎は深まり、混乱する。こうして目の前にいるアニークは天帝宮で過ごした彼女と変わりなく見えるのに。
「やっぱり今日は読み合わせはなしにして、街に出てみようかしら。考えたら私まだアクアレイアを全然視察していないのよね」
 女帝はちらと書見台に目をやると誘惑を振りきるように顔を背けた。反省は本物らしく、アニークはサーコートの放り込まれた大箱さえも通りすぎる。
「うん、うん、そうするわ。私だってプリンセス・オプリガーティオくらいの才女を目指さなきゃ! アルフレッド、ユリシーズ、あなたたちもついてきて街を案内してくれる?」
 目標が定まって女帝はやる気になったようだった。ただちに控えの間の兵が呼ばれ、舟の準備が命じられる。
「外出なさるなら私のゴンドラを持ってこさせましょう。船室がついていますし、安全かつ快適です」
 すかさず申し出たユリシーズにアニークは「ありがとう」と屈託ない笑みを向けた。朗らかな、誰でも心を開きたくなるような笑みだ。
 そんな彼女を見ていたらなんとなく毒気が抜ける。夫との仲を詮索するなど下世話だったなと息をつき、アルフレッドは疑念を頭から追いやった。
「アルフレッド、これからも私に色々教えてちょうだいね。騎士物語と関係のない話でも、私一生懸命聞くから」
「光栄です、アニーク陛下」
 アニークといると気持ちが楽だ。彼女はこちらの言葉を重んじ、素直な心で聞いてくれる。失いかけていた自信を取り戻させてくれる。己の存在にも価値が、何か価値があるのだと。


 時折ふと違和感がもたげることはあったものの、レーギア宮での新たな日々は何事もなく過ぎていった。
 御用商人はあれ以来取り次いでもらえなくなったらしく、代わりにちらほらアクアレイア商人が訪れる。中でも伯父の紹介してくれた貴族はベンジー以上にアニークの気に入りとなったようだ。
 羨むことも、嘆くことも、打ちのめされることもない、平穏な日々だった。とりあえず二週間だけは。










(20180619)