遠くで誰かの叫ぶ声がする。激しくぶつかり合う物音と野次馬たちのはやし立てる声。時折響く悲鳴に切迫感はなく、ああこれは模擬試合をしているのだと聴覚だけで十分に知れる。
(朝っぱらからカンカンガチャガチャうるせえなあ。こっちはようやく夜勤が明けて、さっき寝床に就いたとこだぞ?)
 捕らえようとしても捕えきれない眠気を払い、レドリーはもそもそとベッドから這い上がった。誰が騒いでやがるんだと窓から中庭を見下ろせば、苦手も苦手なピンク髪の頭がぴょこぴょこ跳ねているのが映る。模造武器を振り回す少女と目が合う前にレドリーは反射的に身を伏せた。
「な、なんでモモがいるんだよ……!」
 青ざめて息を飲み、カーテンの陰に隠れて再度中庭の様子を窺う。斧を手にした狂犬を相手取るのは二人の弟。だが二人とも、それでも海軍の予備兵かと嘆きたくなる押されっぷりだ。すばしっこいモモの動きに翻弄されて瞬く間にのされていく。
「モ、モモちゃんまた強くなってない!?」
「ちょっと待って! ちょっと休憩! 五分後に再開しよう!」
 完膚なきまでに叩きのめされた弟たちがひれ伏しながら一時休戦を訴えた。少女は一人涼しい顔で「いいよー、その間にモモお水飲んでるね」と貯水槽の白い縁石に腰かける。
 防衛隊が帰ってきたという話は昨日父に聞いていた。だから別に従妹である彼女の来訪に驚いてはいないけれど、なんだってこんな早朝からとは思わなくない。親戚だからって少々非常識だぞと。
(というかモモが来てるってことは、あいつもうちに来てるんじゃ)
 弟たちとは違う赤髪を探してレドリーは階下に目を走らせた。だが忌々しいその姿は中庭には見当たらない。こんなときは使用人と一緒になって観戦していそうな父もである。
 なんとなくピンと来て、レドリーは忍び足で自室を出た。そのまま弟たちの部屋を抜け、骨董品陳列室を兼ねた短い通路を進む。書斎のドアにそっと耳を張りつけると、予想に違わず中ではアルフレッドとブラッドリーが話し込んでいるところだった。
「……そうか、それで剣が新しくなっていたわけだな」
「はい。せめて似たようなバスタードソードを持ちたかったんですが、組合の利益が薄いとかで北パトリアでは売っていなくて」
 すみませんと謝罪する従弟の声はいつになく暗い。思いもよらぬやりとりにレドリーはぱちくり目を瞬かせた。なんだって? 聞き間違いでなければ今、アルフレッドが武器を新調したとほざいた気がしたが。
(待て待て、あいつが持ってたのってうちの紋章が入った剣だろ?)
 本来なら己が受け継ぐはずだった、由緒正しいバスタードソード。義理堅さだけは一級の従弟がそれを手放したなど信じがたい。一体こいつに何があったと瞠目する。
 だがいくら耳を澄ませても詳しい経緯は語られなかった。報告はもう済んだ後らしく、若き騎士を力づける父の低い声だけが響く。
「そう気に病まなくていい。縁あらばまた手元に戻ってくることもあるだろう。こうして正直に打ち明けてくれたこと、私は誇らしく思うぞ」
 瞬間的に膨らんだ反発心に顔を歪めた。舌打ちを堪えてレドリーはぎゅっと拳を握りしめる。厳格で知られるブラッドリーもお気に入りの優等生には甘々だ。大切な武器の管理を怠るとは何事かとたまには叱ってやればいいのに。
(昔っから親父はこうだ。俺が何かやらかしたときは言い訳の一つもさせちゃくれなかったくせに、誇らしいなんてよく言うぜ)
 いつもいつもアルフレッドだけが誉められて、レドリーは努力が足りないと首を振られる。未曽有の大不況に見舞われたアクアレイアでなんとか東方との交易を続けている今さえもだ。どんなにレドリーが父の政治活動のためと必死で資金繰りしても、ブラッドリーはウォード家を継げもしない甥っ子にばかり目をかける。
(ふん。アルフレッドなんか全然大したことないのにな)
 二十五歳にも満たない若さで海軍の頂点に立つ幼馴染を思い浮かべて憤りをやり過ごす。ユリシーズが祖国の未来を背負って生きていることに比べたら、従順なだけのアルフレッドなど才覚と呼べる何かが備わっているのか疑わしいくらいだった。
 しかも彼の所属していた防衛隊はとうに解散扱いなのだ。仕えるべき王家もいなくなったのだから、表舞台からさっさと消えてほしかった。いけ好かない年下の従弟に立身出世の道が残されていると考えるとそれだけで苛々してくる。こんなふうについ会話を盗み聞きしてしまうのも、いい加減最後にしたかった。
「お前のことはアニーク陛下も気にかけてくださっていたぞ。防衛隊には一体どんな功績があるのかと熱心に尋ねておいでだった」
 だがしかし、希望は儚く打ち砕かれる。父の発言にレドリーはぴくりと耳を跳ねさせた。目を瞠り、息を詰め、気配に勘付かれないように頬までぴったりドアに押しつける。書斎から漏れ聞こえたのは更に腹立たしいやり取りだった。
「えっ? アニーク陛下がですか?」
「ああ。しきりにお前に会いたがっておられたよ。謁見するなら今日の午前にでも行ったほうがいいんじゃないか?」
 アルフレッドが女帝の目に留まった。そんなことを耳にしてはとても冷静でいられなかった。何故なら国中の兵という兵を見て回ったあの騎士物語狂いのお気に召したのは、今までずっとユリシーズ一人だけだったのだから。
(お、俺なんか『髪の色はいいんだけど……』って溜め息つかれたんだぞ!? なんでアルフレッドには会いたがるんだよ!)
 自分が垂れ目で従弟が吊り目なこと以外容姿には大差ないのに納得いかない。何故、どうしてこいつばかりとレドリーはギリギリ歯軋りした。
「で、でも伯父さん。さすがに昨日の今日ではちょっと……。献上品の一つも用意できていませんし」
 すぐ挨拶に行けと勧めるブラッドリーに対し、アルフレッドは慌てた口調で無理だと告げる。従弟曰く、女帝には相応の返礼をしなければならないそうだ。どんな品が喜ばれるのか教えてほしいとアルフレッドは律儀に乞うた。
「だったらちょうどいいのがある。こちらへ来なさい」
 近づいてくる足音にハッとして側の台座の裏に回る。レドリーが身を隠すと同時、ドアが開いて書斎から父と従弟が歩み出た。
「質に入れてもいくらにもならない古いマントなんだがな。あの方のお好きな騎士物語と同じ時代のものなのだ。色々とコレクションして楽しんでおられるようだから、良い機会が巡ってきたら差し上げようと思っていたんだ」
 ブラッドリーはレドリーの向かいに立つブロンズ像に手を伸ばし、留め具を外してマントを脱がせる。それは刺繍や縫い取りで飾られた権威のための衣装ではなく、暖かくて長いだけの、極めて簡素な戦士のための防寒具だった。
 古いという言葉通りに赤い布地は色褪せている。今この時代にこんな装束を喜んで身に着ける貴族はどこにもいまい。だがそれでも、女帝のために取っておいた年代品を簡単に与える父がレドリーには信じられなかった。
(なんだよ、そんなのがあるなら俺に持っていかせろよ。そうすりゃ俺だってユリシーズの隣に立てるかもしれないのに)
 感情を御しきれない。二人の間に飛び出してわあわあと吠え立てたくなる。そんなことをしたって悪者にされるのはこちらだとわかっているのでやらないが。
「いいんですか? ありがとうございます、伯父さん」
 当たり前に受け取るアルフレッドもアルフレッドだ。ウォード家のためには長男のレドリーが女帝と繋がりを持つほうがいいのでは、と彼は提言するべきなのに。
 縄張りが侵される。取り分を持っていかれる。いつまでこんな理不尽に耐えなくてはならないのだろう。
「……アルフレッド、お前は今までルディア姫によく尽くしたな」
 と、そのとき唐突に父が切りだした。室内に流れる空気が変わった気がしてレドリーは瞬きする。違和感を覚えたのは自分だけではなかったようだ。急になんだという顔でアルフレッドもブラッドリーの痩せた顔を見つめ返した。
「二人目の主君を持つことは恥ではない。まだ気持ちの整理などついていないかもしれないが、先のことも少し考えてみるといい。お前を望んでくれる人は必ずいるはずだ」
 続く言葉でなんの話かようやく悟る。要するに、父はアルフレッドに新しい奉公先を探せと言っているわけだ。このまま埋もれさせるにはお前はもったいない男だと。
「伯父さん……」
 アルフレッドは瞠目し、首を振ったようだった。そのささやかな拒絶の意味を読み取れるほどレドリーはこの従弟について知らない。知らないが、だからといって好意的に解釈できるものでもなかった。
(俺は全然、そんなふうに親父に誉めてもらったことなんてないのに)
 いつかユリシーズに父親の愚痴をこぼしたら、彼は笑って自分の家も同じだと言ったっけ。甘やかされて腑抜けになるよりいいではないかと。我々は軍人なのだし、戦って誉れを得ればいいだろうと。
「俺は、俺はずっとあの人の騎士でいるつもりです! 十人委員会がまだ俺を防衛隊の隊長と考えてくれているなら、なおさら他の主君なんて」
 荒れた声にハッと記憶から引き戻される。台座の陰から二人を覗けば珍しく興奮した様子で従弟が父に食ってかかっていた。
「いや、すまん。私が少々急ぎすぎた。悪かったな、気にしないでくれ」
 詫びるブラッドリーにアルフレッドは肩を震わせ、小さく小さく息をつく。気まずさを払拭するように父は窓辺に足を向け、中庭に目を落とした。
「声がやんだと思ったら、どうやらモモが飽きたらしい。そろそろ朝食の時間かな」
 話題は無難なものに切り替わる。だがそれも長々とは続かなかった。
「……みたいですね。俺たちはおいとましたほうが良さそうです」
 朝早くからありがとうございましたと模範的な礼を述べる従弟と連れ立ち、父は展示室を後にする。ややもせず中庭へ続く階段を下る足音が響いた。
「……くそっ」
 薄着になった騎士像を見上げてレドリーは眉をしかめる。気分が悪い。胸がむかつく。いつになったらアルフレッドは視界から消えてくれるのだろう。
 起きているのがばれないうちにレドリーは自室へ引き返した。ベッドに潜り込みながら、下でひと仕事片付けてから寝るのだったと後悔する。そうすれば大嫌いな従弟たちを門前払いにできていたのに、本当に間が悪い。


 ******


「なんだその大荷物は? 一体お前は療養院に何を持ち込むつもりなんだ」
 呆れた声でルディアに問われ、アルフレッドは「す、すまない」と謝罪する。両手に抱えた銀縁の大箱には先程の古いマントが入っていた。できれば自宅に置いてきたかったのだが、九時の鐘が鳴ったので待ち合わせを優先したのだ。
「これはその、伯父さんから、アニーク陛下に献上する用にと譲られて」
 しどろもどろにアルフレッドは大鐘楼の脇に集まった仲間たちになりゆきを説明する。相談もなくブラッドリーを訪ねたこと、何か言われるかと思ったがルディアからの苦言はなかった。抱え込んだ贈り物に関しても「わざわざ持ち帰る必要はあるまい」と首を振られる。
「ブラッドリーの言う通り、返礼の品ができたならさっさとアニークを訪ねたほうがいいだろうな。ゴンドラに積んで濡れても困るし」
 先にレーギア宮へ行こうと主君はあっさり予定変更を告げた。自分の行動のためになんだか申し訳なくなってくる。これから療養院へ向かうことは前日に決まっていたのだから、伯父に会うのは後回しにすれば良かった。ルディアの顔を見る前に心を落ち着けたかったという理由はあったにせよ。
「本当に悪い。アニーク陛下にお会いするのは俺の私用も同然なのに」
「謝るほどのことじゃないさ。それに私も東方の情報はできるだけ手に入れておきたいからな。かえって好都合だ」
 大鐘楼の斜め向かいに鎮座する宮殿を見上げた彼女に嘘はなさそうでほっとする。確かに今のアニークとなら対面して得られるものは少なくないだろう。国民広場を歩き出したルディアに従い、アルフレッドも一歩踏み出す。隣には「あー、良かった! かさばる箱持って帰るの手伝わされなくて!」と上機嫌な妹が続いた。
「ご、ごめんなさい。ちょっと待ってもらえるかしら」
 一同を引き留めたのはアイリーンだ。弟猫を抱く彼女は「宮廷なんて私には不相応だし、皆がそっちに行ってる間にやりたいことがあるのだけど」と申告してくる。
「やりたいこと?」
 ルディアが問えば彼女は「ええ」と頷いた。
「私たちの家、誰も住んでなかったでしょう? 新しい人が入る前に借りられないかしらと思って……」
 どうやらアイリーンは借家の持ち主を訪ねてみるつもりらしい。一瞬案じる顔を見せたルディアに、彼女はちゃんとわかっていると穏やかに首を振る。
「父さんや母さんが戻ってくるかもと考えてるわけじゃないの。ただ私たちの育った場所を私たちのために残しておきたくて……。つらくても忘れちゃ駄目なことが、きっとあそこにあるはずだから」
 逃げないことを決めた目でアイリーンはそう告げた。「防衛隊も本島に拠点があれば便利じゃない?」と明るく問われ、主君は「まあな」と頬を掻く。
 カロの一件を乗り越えて、アイリーンは少し強くなったようだ。晴れやかな彼女の笑みにルディアもふっと口元を緩める。
「わかった。お前たちの好きにしろ。できそうなら今日にでも契約してこい」
 主君はこの姉弟に関してあれこれと気を回すのはやめにしたらしい。行けと命じる代わりに手で払う仕草を見せる彼女にアイリーンがぺこりとお辞儀し、街のほうへと歩き始める。
「用が済んだら戻ってくるんだぞ! 危ないところへ行かないようにな!」
「だ、大丈夫よぉー!」
 心温まる二人のやり取りを見守りながら、アルフレッドの内面は何故なのか冷える一方だった。昨日ルディアと、幼馴染の家を出てからどこかおかしい。すぐに良くなると思った病がどんどん悪くなっている。
 レイモンドの母親にさよならを告げた後、アルフレッドはブルータス整髪店にアイリーンたちを迎えにいったはずだった。それなのに記憶がろくに残っていない。どれだけぼんやりしていたのかと自分で呆れるほどである。モリスの工房にきちんとルディアを送ったのか、どうやって家に帰ったのか、何も思い出せなかった。軒先で揺れるランタンに照らされた彼女の微笑み以外は何も。レイモンドが関わるときだけ覗かせる、見たことのない別人の顔――。
「おい、我々も行くぞ。何をぼさっとしているんだ?」
 アルフレッドと名指しされ、ハッと声の主を振り返る。怪訝そうにこちらを見やるルディアの隣に追いつけば「女帝の前ではしっかりしてくれよ」と主君は肩をすくめた。
「ああ、すまない。気をつける」
 この間まで、彼女が普段通りなら自分も普段通りだった。そう振る舞うことができた。でも今は、彼女の前で自分が無理をしているとわかる。
(いや、違う。おかしいのは姫様のせいじゃない。きっと伯父さんに変なことを言われたせいだ)
 二人目の主君を持つことは恥ではないなんて。ブラッドリーは「ルディア」が死んだと思っているから仕方のないことだけれど。
(俺は姫様についていく。二度と側から離れない)
 つらいことがあったとき、ブラッドリーに会えばいつも悩みなど忘れられた。だが今回に限っては己が甘えすぎていたようだ。もっとしっかりしなくては。騎士の務めを果たすために。
(だけどどんなに頑張っても、姫様はもう俺のことなんて見てくれないんじゃないだろうか)
 自問に小さくかぶりを振る。それは答えを出すことも、考えることもしてはならない問いかけだった。なけなしの自尊心を守るために。


 ******


 美しい菓子箱に似た、今は亡き王の館。レーギア宮の門を守るジーアン兵はアルフレッド・ハートフィールドの名を聞くと「ああ、うかがっております」と丁重に中へ通してくれた。帝国側にも防衛隊がハイランバオスの肉体を利用していた事実は知られているはずなのに、そんな様子はおくびにも出さない。
 あるいはこの門番は、蟲とはまったく無関係の一般兵なのかもしれなかった。ハイランバオスは「本当に身内と呼べる仲間なんて、何十万という兵士の中で千人程度しかおりません」と話していたから。
(蟲の存在を認識しているのは蟲自身と俺たちだけ、か)
 案内人に続いて回廊を進みつつ、アルフレッドはちらとルディアを振り返る。防衛隊はジーアン兵に捕縛される可能性が高いが、対策もせず帰還して大丈夫なのかとは随分前にぶつけた疑問だ。彼女はひと言「捕らわれたら捕らわれたときだ。まあ任せろ、どうにかなる」と返しただけだった。己としては主君の言葉を信じるのみだが、四つも五つも天幕の張られた中庭を歩いていると少し緊張する。遊牧民の兵たちはどこかに出かけているようで、彼らの家はどれも空っぽだったけれど。
「女帝陛下はこちらです。訪問についてお伝えしますので、今しばらく前室でお待ちください」
 回廊を通りすぎ、いくつかの部屋を抜け、待てと言われた衛兵用の控え室でアルフレッドは眉をしかめた。よりにもよって何故ここなのかと溜め息をつきたくなる。確かに女帝が滞在するには相応しい部屋だけれど。
「うっわ……」
 衛兵に聞こえないようにひそめられた妹の声も引き気味だ。元はルディアの寝所だった一室を今はアニークがホテル代わりに使っているのだ。通い慣れた自分たちにはやりきれないものがあった。
(やっぱり俺一人で来るんだった)
 主君の胸中を思って今更後悔する。いくらルディアが平然と宮殿内の様子を観察しているように見えても、変化した情勢の厳しさに落胆していないわけがない。彼女はきっと見くびるなと怒るのだろうが。
「お待たせいたしました。どうぞ」
 存外すぐに顔を出した案内人は扉を開いてアルフレッドたちを中へと促した。まず返礼の品を持った自分が、次いでルディアが、最後にモモが古巣へ入る。だがしかし、視界に広がる光景は以前と似ても似つかぬものだった。
 壁は一面タペストリーに覆われて、天井には真新しいフレスコ画が描かれている。整然と並ぶのは古めかしい甲冑の数々。書見台には手の込んだ飾り文字でつづられた騎士物語が置かれていた。よくよく見れば天井画もタペストリーに織られた絵も「パトリア騎士物語」の一幕を抜き出したもののようだ。趣味の世界にどっぷり浸かった空間で唯一昔の名残が見られたのは、天蓋のついた柔らかな寝台のみだった。
「ああっ、来てくれたのね! アルフレッド!」
「アニークひ……、陛下、またお会いできて光栄です」
 甲冑に負けず劣らず時代を感じる深緑のドレスを翻し、アニークが書見台の前の椅子から立ち上がる。昨日とは打って変わって親しい態度にアルフレッドはほっと胸を撫で下ろした。あの冷淡さはやはり表向きのものだったらしい。陰鬱な気持ちは一時遠のき、アニークの笑顔に頬をほころばせる。心許した人との再会はどんなときでも嬉しいものだ。思わしくない状況に落ち込むことが多ければなおさら。
「おい、貴様ら。女帝陛下の面前だぞ」
 と、そこに冷水を浴びせるような鋭い声が飛んできてアルフレッドはびくりと肩をすくませた。声の主を見やれば書見台のすぐ側に、険しい顔で腕を組む青年騎士の姿が映る。
(えっ……!?)
 ユリシーズ、と出かかった声を引っ込めた。何故この部屋に彼がいるのだと考える暇もなく、驕った口に命令を下される。
「わからなかったか? 跪けと言っているんだ」
 高圧的な物言いに少々気分を害したが、命じられた内容は至極真っ当なものだった。相手は東パトリアの皇帝だ。ここは宮廷で、作法は守らねばならない。
「……失礼いたしました。アニーク陛下、どうかお許しを」
 贈り物を脇に下ろしてアルフレッドは片膝をつく。見ればルディアとモモはとっくに女帝に頭を垂れていた。この部屋でこんな恭順を示すのはさぞ屈辱的だろうに。
「ちょっとユリシーズ、そんなにきつく言わなくていいでしょ。アルフレッド、顔を上げて。ごめんなさい、気を悪くしないでね」
 大焦りでアニークが詫びてくれても複雑な気持ちは消えなかった。ここでは今、確かに彼女のほうが数段も上の立場で、ルディアは所詮無力な民の一人に過ぎないのだと。
「あの、何故、ジーアン兵に混じって彼が……?」
 少しでも使える情報を得ようとアルフレッドはアニークに問う。事も無げに彼女は「外遊中の側付きとして選んだの! 彼、サー・セドクティオみたいで素敵でしょう?」と答えた。
「は、はあ。サー・セドクティオに」
 どんな顔で頷けばいいか悩ましい見解だ。とりあえずユリシーズは一時的に海軍を離れているようである。思いつきでアクアレイア人を振り回せるくらいにはアニークにも権限があるらしく、そこは少し安心した。天帝の道具として搾取されているのではと長いこと案じていたから。
「その、あなたのこともいいなって思ってるのよ? サー・トレランティアの若い頃って感じがして」
 アニークはなんとなく照れくさそうに、もじもじしながらそう言った。
「はは、前にも一度、俺をトレランティアの名でお呼びでしたね。今度はいい意味であれば嬉しいです」
 彼女の眼差しやかけられた言葉が意味することに一切気づかずアルフレッドは持参した土産を差し出す。「騎士物語と同じ時代のマントだそうです。ピアスのお礼になっていればいいんですが」と説明を添えるとアニークは喜色満面で飛びついた。
「アルフレッド! あなたってわかってるわね! 早速見せてもらってもいいかしら!?」
「これはもうアニーク陛下のものですから、どうぞお好きになさってください」
 高貴な女性らしからぬはしゃぎぶりでアニークは大箱の前に膝をつく。自ら銀縁の蓋を開けた女帝は中を見るなり甲高い歓声を上げた。
「まああ! 挿絵通りの赤いマント!」
 頬を上気させて贈り物を抱きしめる彼女をなんとも微笑ましく眺める。だが次のアニークの言葉でアルフレッドはややたじろいだ。
「ねえ、あなたちょっと着てみてくれない? ものすごく似合うと思うのよね……!」
「えっ!? 俺がですか!?」
 やれやれと書見台の向こう側でユリシーズが盛大に嘆息する。献上品に袖を通すなど無礼千万とどやされるかと思ったのに、白銀の騎士はとりたてて何も言わなかった。その理由はすぐに判明する。
「ユリシーズにも時々鎧を着替えてもらうの。私のドレスだってほら、物語に出てきそうでしょ? 人数が増えればもっとそれっぽい雰囲気になるわ!」
「と、時々着替えてもらっているって」
 それは周囲に不穏な誤解を与えるのではと冷や汗を垂らす。全身鎧は着付けに人の手が不可欠なので、逆にセーフかもしれないが。
(でもこんな、外に衛兵がいるといってもベッドの置いてある部屋で……)
 兵に用事をさせている隙にユリシーズが不埒な真似をしないとも限らない。何しろ一度は国王暗殺を試みた男なのだ。アルフレッドはアニークの無防備さがだんだん心配になってきた。
「マントなら時間もかからないでしょう? ねっ、お願い!」
「で、では、僭越ながら」
 女帝の手からマントを受け取り、自分の短いマントの上にばさりと羽織る。立ち上がって「これでいいですか?」と尋ねるとアニークはまるで神殿巫女がするように胸の前で両手を組んだ。
「いい……! すっごくいい……! ねえあなた、あなたも私の側付きとして仕えない!? 外遊の間だけで構わないから!」
「えええっ!?」
 突然何を言い出すのだと目玉を剥く。アルフレッドは迅速に、しかし丁重に固辞の意を示した。
「いえ、俺は、申し訳ないですが請け負った任務があるので」
 ルディアとモモの視線が怖くて振り返れない。さっきからちっとも情報収集になっていない気がする。これ以上話がわけのわからない方向に転ばぬようにアルフレッドは手早くマントを脱ごうとした。だが「待ってちょうだい!」と女帝にストップをかけられる。
「任務って皇帝の相手より大切なこと……?」
 うう、と返答が喉に詰まった。権力を振りかざされると断りにくい。自分とアニークの間柄なら悪く取られはしないだろうが。
「すみません。俺は部隊の隊長なので……」
「ユリシーズだって海軍提督よ? 副官に任せられないの?」
「ふ、副官にですか」
 どうせがまれてもアルフレッドにルディアと離れる気はなかった。守るべき主君の赴く場所へ自分も行くと決めていた。期間限定と言われても女帝の膝元でのんびりしているわけにいかない。騎士の務めを放棄するわけには。
「申し訳ありませんが……」
 少人数の部隊なのでと首を振る。希望に添えれば良かったが、身体は二つに分けられないので仕方がない。アニークも無理強いはできないと感じたのか、それ以上強くは押してこなかった。
「わかったわ……。じゃあマントを返してもらう前に、一つだけいい?」
 女帝は涙目でスカートを摘まみ、寝台の向こうへ歩む。並んだ甲冑の一つを指差すと彼女は「あなたがこの剣を掲げるところを見せてほしいの」と言った。
「どの剣です?」
 普通の女性に、まして高貴な家柄の姫に本格的な武器類は重すぎてまず持てない。アルフレッドはマントを引きずらないように気をつけながらアニークのもとへ近づいた。ベッドの陰になっていて肝心の剣はよく見えないが、彼女のコレクションが品揃え豊かなことは一瞥で窺える。本当に騎士物語が好きなのだなと長年のファンである自分が唸らされるくらいだった。
「この片手半剣よ。昨日とある商人から買ったばかりなんだけど、もう今までで一番のお気に入りなの!」
 示されたバスタードソードを見やってアルフレッドは息を飲む。失くしたと思っていた伯父からの成人祝いが、我が身の一部である剣が、そこに立てかけられていた。緋色の鞘も、鷹の紋章も、失ったときと変わらぬままに。
「これは、俺の……」
 思わず口にしてしまった言葉にアニークが「えっ?」と顔を上げた。こちらの様子がおかしいことに気づいたユリシーズやルディアたちも「?」と視線を投げかけてくる。
「あ、いえ、少し前に紛失した俺の剣なんです。行商人に売られたことまではわかっていたんですが、巡り巡ってあなたの手元に届くなんて……」
「紛失したって、探していたの?」
「ええ。買い戻せるならいくら出しても惜しくないと思っています。その……、アニーク陛下にそういったご意思がおありなら、になりますが」
 室内に微妙な空気が流れ始める。遠回しに「売ってほしい」と頼んでいるのを女帝はどう受け止めたのだろう。バスタードソードとアルフレッドを交互に見つめて彼女は難しい顔をした。
「大事な剣なら下賜してあげたいところだけど、私もこれ、手放したくないのよね……」
 まだ一日しか眺め回してないし、とアニークは未練たっぷりに剣を見やる。ややあって提案された取引は、彼女の圧倒的優位を考えれば破格と言える代物だった。
「ねえ、やっぱりあなたしばらく私に仕えない? そうしたらノウァパトリアに旅立つ日に、剣はあなたへ贈らせてもらうわ」
「……!」
 先刻と違い、すぐに否を告げられなかったアルフレッドに女帝は「どう?」と畳みかけてくる。
「いや、俺は……」
 姫様の側を離れるわけにいかない。狼狽する未熟な心を叱咤して、なんとか首を横に振った。
「アニーク陛下、できないできないと言っている人間と交渉しても時間の無駄ですよ」
 ユリシーズの冷たい言葉にかえって安堵させられる。肩を落とすアニークに罪悪感は募ったけれど、不可能なものは不可能だった。
 本当にどうかしている。天秤に乗せる必要もない問題だ。剣は確かに惜しいけれど、主君とは比べるべくもない。
「いいんじゃないか? 療養院で患者の指導に当たるくらい、我々二人で十分だろう。隊長殿は女帝陛下の身辺警護をしてはどうか」
 アニークを支援する声は思わぬ方向から飛んできた。まだ片膝をついたままのルディアを振り向き、「何を言うんだ」と慌てふためく。
「俺は単独行動をしてまで剣を取り戻したいなんて」
 そう反論を続けるもルディアは無視して取り合わない。「えっ、えっ、二人で十分な仕事って本当?」と目を輝かせるアニークに「ええ、仲間は他にもおりますし」などと答える。
「ほおう、十人委員会の与えた任務がたった二人で十分か」
「十分だろう? 才気あふれる海軍提督殿の妹君もおられるのだから」
 突っかかってきたユリシーズを主君は見事にぶった切った。だが拍手を送るには状況も心境も複雑だ。アルフレッドは「待ってくれ!」と声を荒らげた。
「俺は部隊を率いる身なんだぞ? 勝手に決めるのはやめてくれ!」
「そうか、納得いかないか。では説得の時間をいただこうかな。アニーク陛下、一度下がってもよろしいですか?」
 勝手に決めるなと言っているのにルディアは勝手に話を進める。強引すぎると文句をつける暇もない。
「まあ、あなたアルフレッドを説き伏せてくれるの? どうぞどうぞ、お願いするわね」
 上機嫌に承諾する女帝に恭しく一礼し、主君はその場に立ち上がった。説得なんてしたって無意味なだけなのに、こちらの考えは変わらないのに、知ったことかと言わんばかりだ。
「剣がなくたって俺は騎士として」
 訴えようとした言葉は途中でぷつりと切れた。こちらの腕を掴んだルディアの双眸がうっすら怒っていたからだ。
「アルフレッド、モモ、バルコニーで少し話そう」
 静かだが有無を言わせぬ響きの声に面食らう。そのままずるずる、なし崩しに、アルフレッドは部屋の外へと連れ出された。




 聞いていない、とルディアが青い目を吊り上げる。彼女が何に怒っているか察しがつくと、アルフレッドには「悪い」とうつむくしかできなくなった。
 広場を見下ろす中二階のバルコニーには強い風が吹いている。通行人からは丸見えであるが通路自体に人影はなく、ルディアはすっかり防衛隊員の仮面をかぶるのをやめていた。
「大金を積んでも取り戻したいくらい大事な剣なら何故言わない? 大方私に手紙を届ける旅の途中で何かあったんだろう。おかしいとは思っていたんだ。折れたわけでもない剣をお前が手放したなんて」
 主君はもうアルフレッドが彼女のために耐えた試練があったことに勘付いている様子だった。具体的にはどんなことかわからずとも、それが決して小さな献身ではなかったことを。
「すまない……」
 帰国してからなんだかルディアに謝ってばかりだ。一つ一つは別段大した話ではないのに、積み重なって気が滅入る。自分たちが通じ合っていないことの証明を自ら行っているようで。
 消沈するアルフレッドを見やってルディアがふうと嘆息する。あまり責めても仕方ないと判断してか、彼女はさっさとこの詰問を終わらせにかかった。
「まあいい、また折を見て話せ。幸いお前の愛剣は手元に返ってきそうだしな」
 最後の言葉に反応してアルフレッドはがばりと顔を上げる。
「何を言うんだ。俺はあなたの側にいる。アニーク陛下の要望に応える気などかけらもない」
 再三の主張を繰り返すも主君は眉をしかめるだけだった。剣より大事なものがある。そんな思いはどうしてなのか受け取ってくれない。
「お前がアニークといてくれると助かるんだ。今の私は十人委員会に席もない、剣一本買い戻す財力もないただの一般市民に過ぎない。どんな形でもジーアンや東パトリアの中枢に近いところに情報源を持てるなら願ったりなんだ」
「……!」
「それにユリシーズのあの態度を見ただろう? あいつがあそこにいるということはアニークを政治的に利用する腹積もりということだ。お前と女帝が接近しすぎないように牽制までしてくるのだから間違いない。だからアルフレッド、療養院での任務は私たちに任せ、お前はユリシーズを監視してくれないか? 可能ならアニークからも天帝や東パトリアの情報を引き出してほしい。これはお前にしかできないことだし、我々に必要なことだ」
 女帝の側に控える利点を諭されて、アルフレッドは反論を喉に詰まらせた。黙って見守る妹をちらと覗けば「まあ姫様の言う通りだよね」という顔をしている。
 現実的な問題の前には己の望みなど片意地でしかないことは自分が一番よくわかっていた。ルディアの判断のほうが正しく、この指令には頷くべきだと。
(でもそれでも、もう離れないと誓ったのに)
 自分自身とした約束を破ることには耐えがたい痛みが伴う。何かがねじれて戻らなくなってしまう。痛いまま、苦しいまま、これ以上傷を増やしたくないのに。
「そういうことなら……、わかった……」
 嫌だと喚く心を胸底に押し込めて了承の意を告げた。脳裏には何故か主君にマルゴーへ行けと命じられた日のことが浮かぶ。俺はまた「はい」と言うしかないのかと。また間違えるしかないのかと。
「頼んだぞ、アルフレッド」
 さあ戻ろうとルディアが促す。けれどアルフレッドには歩き出すことができなかった。胸に湧き上がった一つの疑問が解消されるまでは、まだ。
「女帝の側付きをしている間は俺に騎士の称号を失わせずにいられる、なんて考えていないよな?」
 今度はルディアが足を止める番だった。すぐ脇を通りすぎかけていた彼女はくるりとこちらを振り向くと「それもある」と真正直に打ち明ける。お前は夢を叶えてくれ、無名の騎士で終わらないでくれと本心を示してくれたあの日と同じに。
「……騎士というのは極めて概念的な存在だ。昔はただ騎乗して戦う者をそう呼んだが、『パトリア騎士物語』の出現以降は鋼の忠誠心を持って主君に尽くす気高き者として語られるようになった。厄介なのはそれが他人に呼んでもらう肩書きだということだ。主君もなし、剣もなしでは誰もお前を騎士と思わない。私はな、お前の道を途切れさせたくないんだよ、アルフレッド」
 声は真摯だ。彼女は本気で言っている。心からアルフレッドの夢を応援してくれている。だがそうとわかればわかるほど堪らなく惨めになった。
 ルディアの思いやりは的外れだ。自分が本当に欲しいものはそこにはない。
「誰になんと言われようと、人からどう見えようと、俺の主君はあなただけだ……」
 苦く、苦く、溺れる者が吐き出す最後の息のごとく訴える。「わかっているよ、ありがとう」と彼女は笑むが、どこまでわかってくれているかは疑わしいものがあった。
 けれど最初に彼女に勘違いさせたのは誰だっただろう。ハートフィールドの名を栄えあるものにしたいのだと、名誉欲をさらけだしたのは。騎士の称号に対する執着をありありと見せ続けたのは。
「ねえ、話終わった? そろそろ行かなきゃあの女帝様、アル兄のこと探しにくるんじゃない?」
 宮殿内に続く通路の暗がりをちらりと見やってモモが急かす。「ああ、行こう」と歩き出した主君に続いて足は引き返し始めたものの、耳の奥にはルディアの言葉がしつこくこびりついていた。
 彼女が何を言いたいか、そんなものは考えずとも明らかだ。今のルディアについていっても永遠に「王女に仕える騎士」にはなれない。先のことも考えろと、彼女は伯父と同じ助言をしているのだ。
(要らないと言われたわけじゃない。俺の力は必要とされている)
 すがるように与えられた命令を思い出す。東方の動きに目を配ること、政敵の監視をすること。ルディアはただアルフレッドが望むなら別の主君を得てもいいと言っただけで、こちらを邪魔に思っているわけではない。
(俺は姫様の騎士でいる。だけどもし、あの人にそうあることを拒まれたら、俺はどうしたらいいんだろう)
 ぐるぐると思考が回る。病はもはや進行するのみと思えた。


 ******


 レーギア宮を後にして、小一時間前と同じに大鐘楼の脇に戻ってきたモモはふうと短い息をついた。どうもやっぱりカチっとはまっていない気がして仕方ない。否、もう気がするとかのレベルではなくカチっとはまっていなかった。
「アイリーンはまだらしいな。少し待たねばならないか」
 広場を見渡す主君には兄をやきもきさせている自覚などないようだ。あればあったで話がもっとややこしくなるので言わないが、黙っているのもストレスだなあとげんなりする。
(けどどう考えてもモモの口出す問題じゃないんだよねえ)
 小さなグループで色恋沙汰が発生するとロクなことにならないと嘆いた偉人は誰だったか。意識的にか無意識にか首飾りをしまい込んだポケットに触れるルディアの手を横目に見ながらモモはもう一つ溜め息を重ねた。
 彼女は決して優柔不断な人間ではない。しかしレイモンドの一件に関しては決断を遅らせすぎだと評価せざるを得なかった。
(次の身体が決まったらお守りは捨てる、なんなら斧で叩き割ってくれていいって言ってたけど、それって本当にデッドラインじゃないのかなあ)
 カーリスで一度は船に戻った兄が飛び出していった後、ルディアと交わしたやり取りを思い出す。レイモンドのこと好きなのと、そう尋ねたら黙り込んだ。なんでよりによってあの馬鹿を、と呆れたら、そこまで言うほど馬鹿でもないと庇われた。断るつもりだときっぱり宣言したくせに。
(とりあえず姫様とレイモンドの話が落ち着かないと、アル兄も落ち着かないのが続きそう……)
 心配なのは主君よりむしろ兄だった。まだしも平静に動けているルディアと違い、アルフレッドは現実を受け止めきれていない。だから簡単に動揺する。
「はあ……」
 三度目の嘆息を聞きとがめ、ルディアがこちらを振り向いた。「どうした? 腹でも痛いのか?」との問いには「うん、ちょっとね」と半笑いで返事する。
 なんて面倒くさいのだろう。ジーアンから王国を奪い返すことだけを考えて行動したいこのときに、他人の恋愛問題に気を配らねばならないとは。
(でも本当、黙って見てるしかないんだよね)
 兄の苦悩をルディアに伝えることはできない。根っからの善人であるあの男は、主君を困らせるくらいなら胸に秘すことを選ぶに違いないのだから。
 それにアルフレッドがルディアに横恋慕しているかもというのも自分の勝手な憶測だった。なら下手につつかないほうが賢明だ。少なくとも兄のほうから苦しいと言ってくるまでは。
「あっれー? アイリーンちゃんだけじゃなく、防衛隊も帰ってたんだー」
 と、そのとき、海のほうから身の毛のよだつジーアン語が響いた。今は本人ではないとわかっていても気持ち悪いものは気持ち悪い。できるだけなんでもない顔でモモは背後を振り返る。列をなすゴンドラが軍馬のように下ってくる大運河を。その先頭でへらへら笑う狐目の男を。
「ひっさしぶりじゃん。元気だった?」
 ラオタオは――否、ラオタオもどきはゴンドラに二人の人物を乗せていた。一人は顔面蒼白でガタガタ震えるアイリーン。どうやら彼女は見つかって舟に連れ込まれたらしい。もう一人は「ハイランバオス」だ。今は誰が中に入っているのか知らないが、鼻から下を顔布で覆った正真正銘の偽預言者はモモにもルディアにも一瞥さえくれなかった。
「ちょっとそこで待っててよ。すぐアイリーンちゃん連れていくから」
 水上を滑る舟の舳先に腰かけたラオタオもどきが楽しげに笑う。続いて通り過ぎていった十数艘のゴンドラにはジーアン兵がぎっしりと、最後尾には風格ある龍髭の老人が座しており、その全員が例外なく防衛隊に警戒的な眼差しを投げかけた。
(うわっ、あのお爺ちゃんって多分ジーアン十将の一人だよね?)
 息を飲み、モモは隣のルディアを見上げる。まずい展開なのではと彼女からの指示を待つが、主君は黙して動かなかった。逃げるタイミングを窺う様子もまったくなく、広場の奥のゴンドラ溜まりからラオタオもどきとニセニセ預言者、アイリーンの三人が歩いてくると儀礼的に頭を下げ、モモにも同じようにさせる。
「大鐘楼に用があるって言うから送ってきたんだけどさあ、仲間と待ち合わせだったわけね」
 行きなよと背中を押されたアイリーンがよろけてルディアの肩にぶつかった。どういうつもりかまったく読めない表情でラオタオもどきはねっとりこちらを観察する。遠慮を知らぬ双眸に上から下まで眺められ、気分が悪いどころではなかった。
「良かったら今度皆でドナまで遊びにきなよ。今だったらバジル君もいるし、歓迎するぜ? 帰りたくなくなるくらい」
 弓兵の名に主君の耳がぴくりと跳ねる。思いがけない誘いにルディアは強気なジーアン語で答えた。
「機会に恵まれれば、是非」
 返事を聞いたラオタオもどきは満足げに踵を返す。レーギア宮へと向かう彼の後ろには無言を貫くニセニセ預言者が続き、ゴンドラから上がってきた他のジーアン兵たちも門の奥に一人また一人と消えていった。
「うう……。本当にごめんなさい。実家は借り直せたんだけど、帰りにあの人たちに出くわしちゃって」
 広場から一団がいなくなるやアイリーンが己の不運さを詫びる。嘆く彼女の懐ではずっと隠れていたらしいブルーノが慰めるような鳴き声を上げていた。
「どうするの? 完全に目つけられちゃってる感じだったけど」
 見逃がしてくれてないでしょあれは、とモモはルディアを振り返る。すると主君は「これでいい」と意外な返答をよこした。
「これでいいって、なんとかなるわけ?」
「なんとかできねばお前たちを率いて戦う資格などあるまい。まあ案ずるな、私にも考えがある。今は今すべきことをしよう」
 療養院に向かうべく辻ゴンドラを捕まえるルディアに臆したところは見られない。大丈夫だという確信を持って彼女は動いているようだ。主君がなんとかなると言うなら自分もとやかくは言うまい。どんな考えか具体的に説明しないのも時期じゃないとか何か理由があるのだろう。
 モモは数冊の本を押し込んだ鞄を肩に持ち直し、岸に寄ってきたゴンドラに乗り込んだ。今すべきなのは十人委員会に任された仕事を果たすこと。そして実績をしっかり次に繋げることだ。
 独立問題に経済問題、更には恋愛問題と、降りかかる困難は留まるところを知らない。だが止まりたくないと思えるうちは心の刃を研ぎ澄ませておこうとモモは唇を引き結んだ。無慈悲にも試練は二つや三つ程度では終わらなかったのだけれども。


 ******


 ざわ、と空気が凍りつく。敵を見る目で睨まれる。
 猜疑に満ちた療養院は和気あいあいと過ごした昨日とはまるで別世界だった。ルディアが扉を開くと同時、患者たちは一斉に会話を止めて席を立つ。
 談話室のあちこちで怯えたように身を寄せ合う彼らは誰もこちらに近づこうとしなかった。顔には嫌悪が張りついて、全身は固く強張っている。明らかにそれは弱者が敵対者に示す反応だった。
「ど、どうしたの? モモ約束通り騎士物語持ってきたんだけど……」
 瞠目した斧兵が尋ねても患者からの返事はない。その代わり、中央通路からやって来た少女が「あら、こんにちは」と刺々しい声で挨拶してくる。
「少しほっとしましたわ。売国奴が今日はお一人少ないのですね」
 シルヴィア・リリエンソールの言い様にルディアはぱちくり目を瞬かせた。拒絶的な態度なら昨日も示されたが、今日のそれは比較にならない過激さだ。売国奴など、厭味の範疇を越えている。
「な、何それ!? モモたちそんなんじゃありませんけど!?」
 怒ったモモが食ってかかるとシルヴィアはふんと鼻を鳴らした。「あなた方の目的はとっくにわかっていますのよ」と彼女は冷たく言い放つ。
「お兄様から聞きましたの。防衛隊の皆さんは私の患者にジーアン語を教えるために来たんですってね?」
 シルヴィアがそう言うや、患者たちは素早く彼女の後ろに逃げ込んだ。「善人ぶって油断させるなんて」「俺たちをドナに売るつもりだったとはな」と彼らは口々に防衛隊を罵倒する。ドミニク・ストーンに任された依頼の内容は完全に筒抜けのようだった。
(あの男、十人委員会の守秘義務を軽んじて妹に何を話しているのだ!)
 愕然と拳を震わせるルディアにシルヴィアは「ほら、何も否定できないではありませんか!」と鼻息を荒くする。ところが少女はたちまち元気を失って、今度はめそめそ泣き始めた。
「ああ、ああ……。すべて私の思い違いであればどんなに良かったか。上からの命令である以上、いつかは私があなたたちの中からドナ行きになる三十名を選ばなければならないのですね。ああ、なんて悲しい、残酷なことです」
 振り返り、患者たちと向かい合ったシルヴィアは白いハンカチを涙で濡らす。彼女の発言にうろたえたのは当の記憶喪失者たちだった。
「ぼ、僕はジーアン語なんて習いませんよ!?」
「そうです! もう少し良くなったら皆とアクアレイアで働くんです!」
 血の気の引いた顔で訴える彼らに対し、少女は「いいえ」と残念そうに首を振る。
「おそらく私にもあなたたちにも拒否権はないのです。どんなに嫌だと言ったところで時が来れば防衛隊はあなたたちを引きずっていくでしょう。そうね、でも……」
 芝居がかった仕草でシルヴィアは患者たちに腕を広げた。そうしてあまりに信じがたい、卑劣な台詞を口にする。
「もしあなたたちが心清く、私の愛する兄を敬い、賢く優しい人間になる努力をするならリリエンソール家が全力で守りましょう! だけど悪い子はドナに行ってもらいますよ? 悪い子はアクアレイアにいる資格がありませんから。 ね、皆、いい子でいてね? 私の言うことをよく聞いて、ずっとアクアレイアにいてちょうだいね?」
 なんて悪質な脅迫だ。シルヴィアは彼女や彼女の家にとって都合の良い者でなければ切り捨てると言っているのだ。それなのに今まで少女の世話になってきた患者たちは露ほどの疑いも持たず「わかりました!」「僕きっと正しい人間になります!」などとシルヴィアに誓ってみせる。
(お、お祖母様と同じやり口の女がこんなところにもいたとは……)
 無害な花のような顔をして、随分な腹黒ではないか。やはりあの男の妹だ。
「では皆さん、こんな方々は放っておいて行きましょう。あちらの棟で仲良く楽しくお勉強しましょうね」
「はい、シルヴィア様!」
 脳蟲たちはもはや防衛隊を悪の代行者としか見なさなかった。目も合わさず、言葉も交わさず、頼んだ本を受け取りもせず、彼らはシルヴィアを囲んで西棟から東棟へと移動する。
 ついていける雰囲気ではなかった。ルディアたちは椅子の散らかる談話室に取り残された。
「……ど、どうすんのこれ……?」
 さすがのモモもひくひく頬を引きつらせている。あわよくば記憶喪失患者の記録を取ろうと狙っていたらしいアイリーンの嘆きも深かった。
「ミャア! ミャア!」
 猫なら敵視されまいと考えてかブルーノが床に降りる。そのまま彼はドアの隙間をくぐって中央通路を駆け出した。
「……仕方ない。一度やり方を考え直そう」
 そう言いながらどこか安堵している自分にルディアは胸中で溜め息をつく。次の身体を選ぶとか、まだそんな段階ではなさそうだ、なんて。
 患者のいない病棟は静かだった。何も思いわずらわず眠れた頃の夜のように。


 ******


(あの女、十人委員会の依頼を軽んじて余計な真似をしてくれおって!)
 湧き上がる怒りを堪え、ユリシーズはイライラと足を揺する。眉間のしわはさっきから濃くなる一方で、苛立ちは永遠に続くかに思われた。
「ああっ……! やっぱりすごく決まってるわ……!」
 ユリシーズの着せてやった甲冑の上に先刻のマントをつけたアルフレッドは「ええと、その、お褒めにあずかり光栄です」とさして嬉しくなさそうに礼を言う。着付けなど本来見習いのやる仕事だ。それをわざわざ手伝ってやったのだから、女帝に対して作り笑いくらいしろと怒鳴りつけてやりたかった。
「新しい任務が入らなきゃずっと通ってくれるのよね? 本当に嬉しい! 今最高に幸せよ! 物語を読み合わせたり、作中の料理や飲み物を再現したり、してみたかったことが山ほどあるの! 付き合ってちょうだいね!」
 一人だけ頬を赤くしてアニークがキャッキャとはしゃいでいる。自分が彼女のサロンに加わったときより遥かに喜ばしそうに。
「ああ、見れば見るほど素敵だわ。だけど剣は、あなたにはこんな細いのよりさっきのバスタードソードのほうが合ってるわねえ。肩も腕もとっても逞しいのだもの!」
 先程からアルフレッドを誉めちぎる言葉しか聞いていない気がするのだが、そんな眉毛の太い男のどこが琴線に触れたのだろう。わからない。女帝の好みが全然少しもわからない。
「そうだ! ユリシーズとあなたでお揃いの剣を作るのはどう!? あなたの剣は返すのが遅くなるし、二人ともバスタードソードの使い手だし、並んだらすごく映えるんじゃない!?」
 アニークの示した恐るべきアイデアにユリシーズは戦慄する。どうしてこう次から次へとしょうもないことを考えつくのだ、この馬鹿女は。
「お揃い……ですか……」
「そうよ、お揃いよ! 同じ騎士として仲良くしてほしいし、いいでしょう?」
「は、はあ……。アニーク陛下がそう仰るなら……」
(もっと強く拒まないか、この軟弱者!)
 いつにも増して熱狂した女帝の暴走は止まらなかった。あっという間に鎧やマントもひと揃えすることが決まり、知らず乾いた笑みが漏れる。
(辛抱だ。辛抱するのだ。ここでこの女に気に入られておけば、関税引き下げを訴える際に確実に通しやすくできるのだからな)
 ユリシーズはなるべく優しく柔和な声で「今日にでも鍛冶屋を手配しておきましょう」と申し出た。「あら、珍しいわねユリシーズ。あなたいつも衣装遊びは嫌がるのに」とアニークが目を丸くする。
「嫌がっても聞き入れてくださらないと学びましたからね」
「ああっ! その言い方、サー・セドクティオっぽい! サー・セドクティオっぽいわ!」
 機嫌を取るのは簡単だが、自分まで馬鹿になった気がしてしまうのが問題だ。しかもこれからは寵愛という名の限られたパイを奪い合う敵とも戦わなければならないのである。
「立派な装備を仕立てましょうね、アルフレッド」
 アニークはにこにこと赤髪の騎士に微笑みかけた。好意に満ちたその双眸を横目に見やり、ユリシーズは胸中で舌打ちする。
(ちっ。防衛隊ごときに何かできるとも思わんが、それでもあの女の腹心だ。警戒はしておかんとな)
 どうして自分がルディアの騎士と同僚になどならなくてはならないのだろう。しかも揃いの剣に鎧とは。
 主君に置いていかれた男は女帝の前でさえ気もそぞろで、ユリシーズ以上に陰鬱な思いを持て余しているようだったけれど。









(20180525)