拍子抜けするほどあっさりと入国手続は終わった。どんな形でジーアン兵が絡んでくるかわからないと構えていたのに、商港でも税関でもルディアたちを留めたのは勤勉なるアクアレイアの役人たちだけだった。
 以前と同じに積載物がチェックされ、旅先で伝染病にかからなかったか尋問される。外見でアクアレイア人と判別できるルディアたちは、ほかの外国人のように煩雑な書類記入も不要だった。すべてがまったく滞りなく、王国時代と変わることなく動いている。拘束されたのは十五分ほどで、連れ帰った亜麻紙職人三名の旅券が通るとルディアたちはただちに自由の身となった。
「ああ、帰ってきたのねえ」
 青く澄んだ初夏の空、その天を突く大鐘楼を見上げてアイリーンが三白眼を細める。大運河の河口に伸びた税関岬から一望した街は穏やかで、住人たちに過度な緊張は見られなかった。人々は貯水槽の周囲に集まってお喋りしたり、ゴンドラで釣りに出かけたり、ごく普通にそれぞれの暮らしを営んでいる。
(ふむ。生活らしい生活はできているみたいだな)
 ジーアン兵による搾取や虐待などは起きていないようでホッとした。女子供も老人ものんびり往来を行き交っており、表面上は治安の悪化も見られない。
「どうする? まずどこへ行く?」
 と、隣の騎士に尋ねられる。「とりあえずニコラス・ファーマーの家へ行こう」とルディアは答えた。
「乳母につけてくれた娘のことを伝えねばならんし、コナーから連絡が入っていないかどうかも知りたい。それに彼らの世話を頼みたいからな」
 ルディアが褐色肌の亜麻紙職人たちを見やるとハートフィールド兄妹が頷く。ニコラス老は十人委員会の重鎮で、コナー・ファーマーの父親だ。どうせ接触を図るなら早いほうが良かった。
「私たちはモリスさんに無事を知らせにガラス工房へ向かうわ。心配してると思うから」
 白猫ブルーノを抱いたアイリーンが王国湾を振り返る。別行動の許可を願う彼女に「わかった」と短く返し、ルディアはモモとアルフレッド、亜麻紙職人たちを連れて時間貸しのゴンドラに乗り込んだ。
「よし、出すぞ」
 頼むまでもなくアルフレッドが櫂を持つ。間もなく小舟は流れに逆らい、広々とした水の通りを滑り始めた。
(さて、いよいよこれからだな)
 ルディアは唇を引き結び、陽光を照り返す大運河を見回す。緩やかにうねりながらアクアレイアの街を貫くこの大水路は都市の大動脈であり、住人の困窮度を映す鏡だ。飛沫を上げる商船の少なさにルディアは眉を険しくした。ただ船はゼロというわけではない。塩や魚、地産の商品の売買はある程度なされているようだった。完全にいなくなったかもと恐れていた買いつけの西パトリア商人の姿も散見される。彼らはジーアンの一部となったアクアレイアから撤退すると考えていたのに、どこの世界にも怖いもの知らずはいるらしい。
 天帝は「アクアレイアに外国人立ち入るべからず」との命令は発さなかったらしかった。頭にターバンを巻きつけたノウァパトリア商人など昔より増えたのではと感じるほどだ。もっとも彼らの運んできた香辛料に手を出せる地元民は少なく、胡椒河岸をうろつく買い手はジーアン兵や西パトリア商人ばかりのようであったが。
「商売してるの、なんかよその人ばっかりじゃない?」
「ああ、そうだな」
 ハートフィールド兄妹も異常を察して顔をしかめる。ルディアは立膝に肘をつき、通りすぎる風景を睨んで黙考した。
 ノウァパトリアにせよ、アクアレイアにせよ、商人とはモノが集まるところに集まる生き物だ。これまではアクアレイア人がノウァパトリアで買ってきた交易品をアクアレイアに持ち帰り、西パトリア人に売るのが当たり前だった。だがノウァパトリアの商人が直接アクアレイアにやって来て直接西パトリア人に交易品を売るとなると、アクアレイア人の関与する隙がない。定期商船団を組めれば物量で圧倒できるからいいが、今のアクアレイア人の財力では眼前で行われる取引を歯軋りしながら見守るしかないのではなかろうか。
(やはりアクアレイアには新産業が必要だ)
 冷えきった懐を、また戦えるように潤してくれるものが。東方交易は儲けもでかいが初期投資の額も大きいのだ。だが最初の金さえ出せるようになれば、一人また一人と立ち直っていけるはずである。
(本来はその手助けをしてやるのが貴族の役目なんだがな……)
 真珠橋を越えた先のファーマー邸に着くまでに見た、空き家となった館の数は片手で数えきれなかった。外国商人に買われたらしい建物を含めれば、逃亡貴族の痕跡は二十を越えたのではと思う。
 頭の痛い事態だった。これでは彼らの担ってきた海軍も、評議会も、ろくに成り立っていないのではなかろうか。




 貴族の屋敷は通常広い運河沿いにあり、ほとんどが個人商館を兼ねている。一階には船を横付けできる桟橋、石造りの頑丈な倉庫、商談のための応接間が設けられ、二階より上が居住部となっていることが多い。仕事の場と団欒の場を分けているのが中庭で、回廊奥の階段から大人たちのやり取りを覗き見するのがアクアレイアの令息令嬢の英才教育であった。
 ファーマー家の間取りもこれと似たもので、ルディアたちはどこかがらんとした応接間で当主を待つ。アポなしの訪問だったが老婦人は「今日はもうじき帰ってきますので」と快く一行を中に入れてくれた。浅黒い肌をした同行者についても「紹介したい職人です」のひと言で済んだくらいだ。世代的にはロマと誤解して嫌がってもおかしくないのに、老婦人はこういった面会希望者には慣れているふうだった。
「ここの絵、外しちゃったんだね」
 と、部屋を見回していたモモが呟く。アルフレッドが不思議そうに「えっ? お前来たことあるのか?」と問いかけると「そうじゃないよ。額縁外した痕があるじゃん。売り払ったのかなあ」と少女は穏やかでない台詞を述べた。
 だろうなとルディアも湿気で傷んだ壁紙に目を向ける。ファーマー家でさえこんなやりくりをしなければならない状態にあるのだ。もっと貧しい者たちはどうなっていることやらと嘆息は尽きなかった。
「おお、おお、久しぶりだの、防衛隊諸君。どこぞで野垂れ死んだかと案じておったぞ」
 ニコラス老が現れたのは昼過ぎで、老人は少々疲れ気味の様子だった。さっと椅子から立ち上がり、ルディアたちも挨拶の礼をする。
「遅くなって申し訳ありません。これまでのこと、ご報告に伺いました。それと旅先で知り合った者が我々に亜麻紙職人を三名貸してくれましたので」
「ほう、亜麻紙職人とな?」
 職人たちが会釈するとニコラスはルディアを見やって説明の続きを求めた。彼らの出自やアクアレイア人に技能を授けるつもりであること、紙はぼろきれからも作れ、困窮にあえぐ者の救済措置になるかもしれないことを伝えると、ニコラスはほうほうと頷く。
「ありがたいのう。見ての通りアクアレイアは貧しくなってしまってな。値のつくものが売れるなら助かる者も多かろうて」
「こちらへ連れてくれば適切な環境を整えてくださると思いましたので」
「ああ、早速工房なり人なり用意しよう。おおい、婆さんや、この方々を客室でもてなして差し上げてくれい!」
 ニコラス老は素早すぎるほど素早い対応をしてくれた。船上で覚えた片言のアレイア語で亜麻紙職人たちは防衛隊に別れを告げる。
 これで少しずつアクアレイアにも紙作りが広まっていくだろう。レイモンドが新しい印刷機を持って帰ってくる頃には、困らないくらいの紙が生産されているはずだ。
「――」
 一瞬よぎった明るい顔を散らすようにかぶりを振る。「で、ここからは内密の話なのですが」とルディアがニコラスを振り返ると、老人は「うむ、わかっておる。イーグレット陛下のことじゃろう」と細い顎で勝手口に続く扉を示した。
「内緒話は箱の中でじゃ。それにこれから定例会議の時間での」
「定例会議? ということは、十人委員会は機能しているのですね?」
 ルディアの問いにニコラスは「一応な」と渋い顔で答える。老人曰く、評議会は事実上解散となり、数の減った王国海軍も今はラオタオお抱えの護衛船団と化しているそうだ。予測が当たり、ルディアは無言で眉をしかめた。
「二百人いた元老院も今ではたった五十人じゃ。この五十人が評議会の分まで行政を担当してくれておる。じゃが厳しいな。貴族でも満足な金を持っている者はほとんどおらん。どうにか凌いではおるが、このままではいずれ元老院も解散の憂き目に遭おう」
「元老院に残っているのが五十人……ですか」
 最悪ではないにせよ、崖っぷちにあることを思い知らされて声を失う。
 政治が貴族のものなのは、それが無給の名誉職であるからだ。言い換えれば政治をする暇と金のある者だけが政治に携わる資格を維持できるわけである。
 経済的なダメージが、今は人的ダメージにまで広がっている。このままでは元老院の解散だけでも済むまいと苦い思いで唇を噛んだ。
「っと、いかんいかん。鐘が鳴り始めたわい」
 そのとき外からゴーン、ゴーンと大きな音が響いてきて、ルディアは目玉をひん剥いた。この打ち方は十人委員会の招集の合図である。これから定例会議の時間とは聞いたが、まさか鐘で呼び出しがあるとは思わなかったのだ。
「秘密裏に集まっているのではないのですか!?」
 驚いて問うと老賢人は「いや、相変わらずレーギア宮の小会議室に集まっておるよ」と答えた。
「どういうわけかジーアン人はあの重い関税以外、我々に以前と同じ暮らしを許してくれているんじゃ。彼らのやることに関しては確かに治外法権じゃが、アクアレイアのことはほぼアクアレイア人のみで決められるし、過大な要求も抑圧もない。連中は我々と関わるつもりがないのかと思うほどでな」
 ニコラスは裏の水路に通じる勝手口を開いてこちらを振り返る。急いでくれと促され、ルディアたちは船室付きの豪華なゴンドラに次々と乗り込んだ。
「わあ、すごい! ソファがついてる!」
 はしゃぐモモにアルフレッドがシッと人差し指を立てる。対面型の座席の奥に腰を落ち着け、ルディアは中を一瞥した。なるほどここなら密談に相応しい。外界とは水と壁によって切り離されるし、漕ぎ手が信用に足る者なら安心して話ができる。
「よっこらせ」
 最後にニコラスが小さな部屋の扉を閉めて内側から鍵をかけた。
「お前たちの報告は委員会の面々とともに聞くとしよう。それより先に伝えておきたいことがある。実は今、東パトリアの女帝がレーギア宮に滞在しとるんじゃ」
「ええっ!? アニークひ、あ、いや、皇帝陛下が?」
 半ば身を乗り出したアルフレッドに今度はモモがシッと人差し指を立てた。ニコラスの言うことには、女帝の外遊に付き添ってジーアンの名高い龍将軍も来ているらしい。日頃から頻繁に顔を出すラオタオも一般のジーアン兵も中庭に天幕を張っているそうで、粗相のないようになとのことだった。
「知っておるかね? ドナがジーアン退役兵の放埓極まりない街になったこと。彼らが贅沢をしてくれるおかげで我々はなんとか食い繋いでおるが、このままでは絶対にいかん。このままでは……」
 老賢人は眉間にしわを寄せてぼやく。レーギア宮に向かう間、ニコラス老はアクアレイアの現状をあれこれと教えてくれた。収入の途絶えた多くの人間が食べていくために自らドナへ渡ったらしい。高級娼婦など退役兵の街ができた一週間後にはアクアレイアから姿を消してしまったそうだ。アンディーン像は奪われるし、奇病は流行るし散々だと老人は嘆く。更に聞けば、もともと東方様式であった大神殿には東方の神が祀られたらしかった。――それ即ち、天帝ヘウンバオスを象徴する黄金の軍馬の像が。
「ええっ!? ジーアン人、好き放題やってるじゃん! アクアレイアのこと全然放っといてくれてないじゃん!」
 話が違うとモモが叫ぶ。許しがたいという表情でアルフレッドも拳を握った。
「それが馬像を据えたのはジーアン人でなく、アクアレイア人なのじゃよ」
「ええっ!?」
 船内がどよめく。ニコラスは嘆息とともにアクアレイアが現在二つの派閥に分かれつつあることを打ち明けた。
「十人委員会でも意見は真っ二つに分かれておる。我々はジーアン帝国からの独立を願っているが、彼らはジーアン帝国内の都市として力をつけ、自治権の永続を認めてもらおうとしているのじゃ」
「えええっ!?」
 再びゴンドラが揺れた。永久自治権の獲得。それはルディアの頭にもなくはなかった考えだが、ニコラスの口ぶりでは結構な一大勢力のようで、そのことに少し驚く。
「帝国自由都市――ジーアンに属しはするが、必ずしも天帝の命令に従う必要なく、自由に自分たちを治めていいと認められた都市のことじゃ。実はドナがその第一号でな」
「……!」
 目と鼻の先に富と自由を謳歌する街がある。それがアクアレイア人に「無理に再独立を目指さなくていいんじゃないか?」と思わせている要因のようだ。なるほどな、とルディアは深く息をついた。なんのためにそんな街を作ったのかは解せないが、また厄介なものができたらしい。
「独立派と自由都市派か……」
 すぐ横でアルフレッドが息を飲んだ。二派に別れ、醜く争うカーリスを見てきただけに、故郷がそんな有り様と聞いた騎士は複雑そうだ。
「とはいえ独立派も自由都市派も今すぐに何かできるわけではないからのう。とりあえずまだ、十人委員会の結託が乱れるような事態にはなっておらんよ」
 そう聞いて少しホッとする。ルディアは老練な政治家諸氏を思い返しつつ、ふと頭にもたげた疑問を口にした。
「ところで十人委員会は、まだ十人という単位を保っているのですか? 陛下や王女、クリスタル・グレディの抜けた穴を埋めた者が?」
 この問いに返された答えは三度目の激震をもたらした。加えて「彼」が自由都市派の筆頭だという事実を聞かされ、どこまでも私の行く手を阻む男だなと笑えてくる。
 新しく十人委員会に任じられたのは三名。コリフォ島基地の司令官であったトレヴァー・オーウェン、同じく元海軍中将ブラッドリー・ウォード、そして最後の一名は――。


 ******


「ずっと、ずっと、あなたをお慕いしておりました。そう言えればどんなにかこの胸が楽になるかわからない。それなのにあなたは私に杯の酒をこぼすなと仰るのですね。ああ、あなたへの愛が憎しみに変わりそうです。どうして一番側にいる私に一番酷いことをなさるのですか、我が姫よ!」
「ああっ! いい、いいわ、サー・セドクティオ! その台詞たまらないわ、本当に最高よ!」
「そうですか、では私はそろそろ大事な会議が始まりますので」
 パタンと書見台の騎士物語を閉じ、ユリシーズはワガママ女帝にお辞儀する。そのまま退席しようとしたのに、空気の読めない大馬鹿女はユリシーズの白いマントをぐいと後ろから引っ張った。
「こ、ここでひと区切りにしちゃう!? あなた空気読めないの!?」
 ものすごい山場じゃないのとアニークがさっきまでユリシーズの座していた椅子を指差す。座って続きを朗読しろということだろう。これ見よがしに嘆息できたらどんなにかこの胸が楽になるかわからない。内心で皮肉を呟きながらユリシーズは「私にも仕事があるのですよ」と訴えた。
「うう、あなたの整った顔、サー・セドクティオのイメージにぴったりだから全部の台詞を読んでほしいのに……」
「私のいない間は商人でも呼んで時間をお潰しください。またあなたのお好きそうなのが来ていましたよ。騎士の中の騎士の剣、是非とも女帝陛下にご覧になっていただきたいとか言って」
「騎士の中の騎士の剣、ですって!?」
 色めき立ってアニークが衛兵に控えの間の商人を呼んでこさせる。ふうと息をつき、ユリシーズは今度こそ女帝の間を退こうとした。
「まあ! 片手半剣だわ! セドクティオ、じゃなくてユリシーズ! あなたの剣と同じじゃない!?」
 辞去しようとしているのにまったくの無視でおいでおいでされる。仕方なく女帝の傍らに寄れば、愛想笑いの下級商人が「いい品でしょう」と黄色い歯を覗かせた。
(ちっ、みすぼらしいなりで宮廷に上がりおって)
 こんな者にまでアニークの騎士物語趣味が伝わっているのかとうんざりする。最初にこの女が「素敵な騎士……! まるで本の中から出てきたみたい!」とユリシーズを外遊中の側付きにしたいと言い出したときは、ラオタオより上の者の考えを知るチャンスかと思ったのに。
「ん? この剣の紋章は……」
 と、バスタードソードの柄に入った鷹の意匠に目を留める。鈍い赤色の鞘もどことなく見覚えがあった。
(鷹の紋章と言えばウォード家の……)
 ゴーン、ゴーンとそのとき大鐘楼で二度目の鐘が鳴り響いた。女帝の部屋に使いを送るのは失礼と考えた委員会の面々が、鐘を突かせてユリシーズに早く来いとせっついているのだ。
「申し訳ありません。一旦下がらせていただきます」
 ユリシーズは一礼すると部屋を出て、小走りに小会議室へと向かった。そこに新たな波乱の種が顔を出しているとも知らず。


 ******


 一番遅れて入室してきたユリシーズがぎょっと目を剥く。だがすぐ彼は気を取り直し、与えられた己の席に腰を下ろした。
 三十歳という資格年齢に達していない彼が十人委員会にその名を連ねるのは、ユリシーズがアクアレイアの最後の希望と呼ばれているからにほかならない。また現在、彼が海軍を率いてラオタオ――中身は違うが――に仕えていることも大きいようだった。
 ルディアはちらと元婚約者を盗み見る。人望に軍事力に発言力。ジーアンが真上にいるから振る舞いには気をつけなければならないが、彼の手中に王家の望んでいたすべてが集まったのはなんとも皮肉な話だった。さすが一度は自分が結婚を考えた男なだけはある。
「では始めてもらおうか」
 着席したメンバーを見回し、ニコラスが防衛隊に促した。待機していた壁際から一歩前に出てルディアは報告を開始する。
 イーグレットの過ごしたコリフォ島での日々。王の残した最後の言葉。王がどれほど国民を案じていたか。どれほど見事に己の運命を受け入れたか。遺言を聞き届けた者としてルディアは粛々と語った。覚悟の深さや誠実さを伝えるのに脚色は不要だった。
「都合のいいように王国史に記してくれと仰っておいででした。残された者が生きやすいようにと。あの方は、最後まで確かにアクアレイアの王でした」
 顛末を語り終えると委員会の面々は一様に嘆息する。「よくよく心得ておいでじゃったのう」とイーグレット否定派であったはずのトリスタン老が呟いた。「王国史を陛下の死で締めくくれば、あらゆる国の民が感涙にむせぶだろうね」と言ったのは外交を得意とするカイル・チェンバレンだ。この中年紳士は独立派の一角らしく、王国史を使って西パトリア諸国を動かし、ジーアン軍に対抗しようと考えているふうだった。
「しかしよ、王国史の執筆を依頼されてたコナーは今どこにいるかわからんのだろう? アウローラ姫を保護したと暗号文だけは届いたが……」
 造船所の総指揮を執る角刈りのエイハブが顔をしかめる。
「連絡があったので?」
 瞬きしてルディアが問うと「一方的にな」とニコラスが続けた。
「こんなときじゃというのに愚息はフラフラしておるようでの、ちっとも家に帰ってこん」
「まあまあ、きっと帰りたくても帰ってこられないんですよ。天帝に随分気に入られていたようですし、ジーアン兵に見つかったらバオゾに連れ戻されるのかもしれません」
 ドミニク・ストーンの発言にルディアはお前の息子もな、と声には出さずに肩をすくめる。まさか愛する我が子がハイランバオスに乗っ取られているなど思いもしていないだろう彼は、息子がファンを公言していた芸術家の親不孝を庇った。
「あの、アウローラ姫はお元気なのですか?」
 と、ニコラスの愚痴を遮ってアルフレッドが挙手をする。騎士はルディアが娘の安否を気がかりにしていると思って聞いてくれたようだ。ちらりとこちらに向けられた視線には彼らしい配慮が感じられた。
「健康状態は良好だそうじゃ。連れて帰るか迎えに来てもらうかは改めて連絡するとあった」
「王女の亡命に関しては我々のほかには防衛隊しかあずかり知らぬこと、また諸君らに協力を頼むことがあるやもしれぬ」
「はい、もとよりそのつもりです」
 トリスタン老に頷いたアルフレッドを見やってルディアも頷く。委員会から防衛隊に任務を回してくれるならコナーとは近いうちに会えるかもしれない。ハイランバオスにも彼を守れと言われている。アークなる存在であるらしい師に、ルディアも色々と聞きたいことが溜まっていた。
(アークが脳蟲を生み出している。ならその目的は一体なんだ? あの人が昔言っていた、理想の王を探しているということと何か関係があるのか?)
 ほかの問題で頭を埋めて、娘のことは努めて気にするまいとする。モモの話を聞いた限りでは死んで脳蟲を入れられた可能性が高いのだ。もう当たり前に己の後継者と見ていいのかもわからなかった。もし本当に身体だけしか残っていないとしたら、そのときは――。
「報告はそれだけか?」
 不意の問いかけにルディアはハッと顔を上げた。刺々しいユリシーズの目がこちらをじっと睨んでいる。
「いや、コリフォ島を出た後に巻き込まれたカーリス共和都市に関する事件が二つほど。それに亡命後のルディア姫についても……」
「わかった、早くしてもらえるか」
 語調は荒げずユリシーズが慇懃に急かす。どうも彼は防衛隊がいるのが不快でならないらしく、さっさと出ていってほしいようだ。
 ルディアは「では」と仕切り直し、淡々と報告を続けた。トリナクリア島でラザラスの行っていた悪事の数々、カーリスで実施されたアンディーン神殿の竣工式、そこでラザラス一派が返り討ちに遭ったことなど伝えると、委員会の面々は「またローガンが勢いづくかもしれないな」と一様に顔をしかめる。
「しかし『海への求婚』は女神に対する理解に欠けたものでした。守護精霊を失って嘆いているだろう多くの民にとって、竣工式が血生臭い難事に彩られたのは不幸中の幸いだったのではないでしょうか」
 視線でユリシーズを牽制しながらそう述べる。ジーアンへの点数稼ぎで黄金馬像を祭壇に据えた男はムッと眉間にしわを寄せた。
「やはりアンディーンはアクアレイア人の心の支えですから」
 ルディアの言葉に白銀の騎士が卓を叩く。敵愾心露わに彼は反論を始めた。
「だとしても女神が経済的、物質的、現実的な力になってくれるわけではない。我々はやはり我々の力で活路を見出さねばならん。精霊に頼っているようでは駄目なのだ」
「だがジーアンに尻尾を振っていれば救われるわけでもあるまい? 波の乙女はアクアレイア人の心のよりどころ、いずれ独立の機運が高まった際には象徴的存在になるかもしれないぞ?」
 ちょうどいい、反応を見て誰が独立派で誰が自由都市派かを知るいい機会だ。あえてきわどい単語を用い、ルディアはユリシーズを挑発した。こちらの思惑を知ってか知らずか、白銀の騎士はぱくりと針に食いついてくれる。
「独立だと? ふん、王族にべったりの防衛隊は帝国自由都市よりもそちらに傾いたか。継承権放棄のサインをしていないアウローラ姫を擁立し、王家再興でも目指す気か?」
「そんなことまで言っていない。現時点で判断できる話でもない。私はただ、アクアレイアの民にはアンディーンが必要だと考えているだけだ」
「アンディーンが? すがりつける旗印がの間違いではないのかな?」
 ばちばちと火花を散らす。ユリシーズは民心を一つにするには自分がいれば十分とでも言いたげだった。ほかにも銀行家のドジソンや、アカデミーの学長クララ、エイハブやドミニクが大なり小なり彼に賛同の意を示す。顔ぶれから察するに、自由都市派は西方より財も知も富む東方との付き合いを続けたい者の集まりらしい。
 一方独立派と思しき面々は、自由都市派ほど論理的でも活発でもなかった。理由はトレヴァー・オーウェンの顔を見ればわかる。彼らの多くがジーアンに対する反発、不信、恨みなどから自由都市派に回れないだけなのだ。その証拠にユリシーズの「再独立が成ったとして、その後はどうやって食べていくのだ? アンディーンが王国湾で小麦を栽培できるようにでもしてくれるのか?」との質問に答えられた者はいなかった。
「いやいや、しかし防衛隊の言うことも一理あるぞい。聖像を持っていかれた途端に死病が流行りだしたからのう……。波の乙女に見捨てられたかと皆不安がっておったろう? 心の傷が癒えるなら良いことではないか」
「カーリスで行われた竣工式の話を聞けば、アンディーンはまだ我々とともにあると考える者は増えそうだな。パニックを起こして奇行に走る人間もいなくなるだろう」
 並の乙女に祈っても事態は変わらないと主張する自由都市派はさておいて、ニコラス老やブラッドリーはひとまず吉報を喜んだ。アクアレイアを蹂躙した悪疫は相当酷いものだったらしい。怪我で海軍を引退して、体力の落ちていたブラッドリーなど「二度ほど冥府の門をくぐりかけた」と苦笑していた。
「この冬は息つく間もなく次々と災難が襲ってきたよね。やっと死人が出なくなったと思ったら患者が記憶喪失になったりさ」
 と、そのとき、カイルの口から思わぬ発言が飛び出してルディアは怪訝に眉を寄せた。
「記憶喪失?」
「街で話を聞けばわかることじゃ。死の淵から多くの患者が甦ったが、皆綺麗に何もかも忘れていたんじゃよ。自分が誰かも家族のことも、昨日まで普通に話しておったアレイア語もな」
 答えてくれたのはニコラスだ。彼の返事にルディアは更に驚愕した。
「アレイア語まで……!?」
 思わずハートフィールド兄妹と目を見合わせる。死んだと思われた人間が、記憶をなくして息を吹き返す。同じ話をよく知っていた。ほかでもない己自身が。
(の、脳蟲……!?)
 ごくりと息を飲み込んだ。だが何がどうなっているのか深く考える暇もなく、話は次に進んでいく。
「そうだ! 君たち確かジーアン語話せるよね? タダでとは言わないから、施設で療養中の患者にジーアン語を教えてやってくれないかい?」
 尋ねてきたのは軍医家系で大病院を運営しているドミニク・ストーンだった。突然の依頼に「え?」とルディアが瞬き返すと、ドミニクは「実はラオタオにドナで下働きする人間がもっと欲しいって言われててさ」と頭を掻く。
「記憶喪失の患者ならジーアンにも悪い印象ないじゃん? なんて言われるとどうにも断れなくってね……」
 言葉を濁すドミニクに代わり、ニコラスも「頼まれてくれると助かる。右も左もわからん彼らをそのままドナへやるのはさすがに不憫でな」と言う。
 実際に自分の目で確かめるのが状況把握には一番か。そう考えてルディアは「はい、では引き受けさせてもらいます」と了解した。「ありがとう! 助かるよ!」と早速ドミニクが住所やら紹介状やらをしたためてくれる。
「で、もう一つ、亡命後のルディア姫についてとは? 予定が詰まっているのだから、さっさとしてくれ」
 十人委員会に最後の報告をしたのは当事者であるモモだった。サール宮にはアクアレイア人の滞在を快く思わない勢力があり、王女は刺客に襲われて命を落とすことになったと、コーネリアはその責任を感じて北パトリアに留まったと、悔しげに少女が語る。
「ルディア」の訃報自体はマルゴーの使者が事故だと伝えに訪れていたそうで、委員会の面々に驚いた様子はなかった。ただユリシーズが面白くなさそうに腕を組み、「山猿なんぞと結婚するからそうなるのだ」とぼやく。公国に抗議文を送るとか、コーネリアに迎えをやるとか、そんな話題は一切出ずに、この話はしまいになった。もうその程度の関心なのだ。継承権を放棄済みの王女のことなど。
「そういえば、ジャクリーンはどうなりましたか」
 ずっと引っかかっていたことを尋ねる。だが返答は芳しくなかった。会議中もほとんど発言していなかったトレヴァーが――ジャクリーンを溺愛していた彼女の父が――つらそうにうつむき、じっと押し黙ってしまう。
「安否不明だ。バオゾに停泊中、船内で首を吊った状態で発見されたが、治療のためとラオタオに連れていかれて以降一度も見かけていない」
 ユリシーズの説明にトレヴァーはやつれた肩を震わせた。「そうか」と答えることしかできず、ルディアは重ねて問うのをやめる。
 まだ話し合わねばならない議題が山ほどあるからと防衛隊は小会議室の外に出された。収穫は多かったが、すべてが望ましい実とは言えない。
「とりあえず、アイリーンたちと合流して記憶喪失患者が収容されているとかいう病院だな」
「はーい」
「わかった」
 短く息をつき、ルディアは足を踏み出した。ハートフィールド兄妹も頷いて後をついてくる。
「んん?」
 一行の歩みを止めたのは続きの間の扉の奥から小会議室の様子を窺う怪しげな人影だった。なんだあれはとルディアが顔をしかめた矢先、アルフレッドが不審人物に向かって駆け出す。
 だが騎士の反応は敵に対するそれではなかった。大いに頬をほころばせ、彼は久方ぶりの再会を喜んだ。
「アニーク姫!」




 両脇についていた護衛兵が剣の柄に右手をかけて身構える。その刃を抜くに至らなかったのは、近づいてきた青年がただちに膝をつき、恭しく頭を垂れたからだ。
「お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
 誰、とアニークは額に汗する。お久しぶりの相手らしいがあいにくこちらに彼と知り合った覚えはない。こんな赤髪の若い騎士は話すのも見るのも初めてだ。
(誰? 誰なの?)
 大弱りできょろきょろ周囲を見回すが、蟲でもなんでもないただのジーアン兵はアニークに耳打ちなどしてくれない。自分でこの場を切り抜けるほか術はなかった。
(ど、どうしよう……。きっと『アニーク』の顔見知りよね。私のこと姫って呼んだし)
 ああ、もう、ノウァパトリア宮でならともかくアクアレイアに来てまで未知の知人と出くわすなんてついていない。ユリシーズに早く物語の続きを読んでほしくて小会議室まで足を延ばしてみただけなのに、こんな面倒なことになるなら部屋で大人しくしておけば良かった。
 どうしよう。赤色のつむじを見ながら考え込む。宿主の記憶がないと困るのはこんなときだ。正しい対応が全然まったくわからない。
(あんまり身分高そうな人じゃないし、女帝に自ら声をかけるなんて無礼者、とか言って手打ちにしちゃおうかしら)
 宮廷内で作法をわきまえなかったんだもの、自業自得よねと口を開く。だが結局、アニークが騎士の非礼を責めることはなかった。
「あの、ところで後日また改めて、お礼に伺っても構いませんか?」
 ――そう顔を上げて問うた男があまりにドスンと来たからだ。
(サ……っ、サ……っ、サー・トレランティア!?)
 生真面目そうな太い眉、その下のまっすぐな眼差し。物語中随一の推し騎士の若かりし頃はこんな男だったに違いないといういかにもないでたち。一気に体温が上昇し、困るだの困らないだのどうでも良くなる。
(何!? 誰!? カッコイイ!)
 さっきまでとはまったく別の切実さでアニークは彼の名前を知りたくなった。なんなら趣味や好きな食べ物、愛読書や座右の銘まで知りたくなった。
「ど、どちらさまだったかしら? お礼ってなんのこと?」
 忘れちゃったわねという素振りで尋ねる。すると騎士はなんだか面食らった顔をした。
「あ、ええと、俺はもと王都防衛隊、隊長のアルフレッド・ハートフィールドなんですが……」
 微妙な空気にドギマギしながら「そう、そうだったわね」と応じる。どうも迂闊な発言をしたらしく、彼はアニークを変に感じた様子である。
(ああッ、忘れちゃうような関係じゃなかったってこと!? やらかしたわ。ううー、なんとか好意的に解釈してくれればいいけど……)
 渦巻く不安の嵐の中、アニークは表面上は平静になんとか会話を続ける。
「お礼を言われるようなこと、あなたにして差し上げたかしら?」
 こうなったらできるだけツンと澄まして女帝然としているしかない。これは公の顔なのだ、使い分けをしているのだと示せば相手のほうが勝手にあれこれ想像して納得してくれるはずである。今までも困ったときはこの手でどうにか乗りきってきた。今回も乗りきれると信じよう。
「覚えておられませんか? コナー・ファーマーに託して、俺にパトリア石のピアスを賜ってくださったでしょう。分不相応ではありますが、この通り今も大切に持ち歩いています」
 アルフレッドと名乗る騎士は懐に手を差し込み、柔らかい布に包んだ小さな貴石をアニークの前に示した。明るい青緑の美しい球体。己の片耳で輝くものとそっくり同じその石に、びっくりしすぎて息を飲む。
(こ、この片方だけでもお気に入りの私のピアスを半分あげちゃうような相手だったの!?)
 道理でさっきから鼓動が静まらないはずだ。きっと「アニーク」もこの男に熱を上げていたに違いない。だってユリシーズと同じくらい、いや、彼よりももっとずっと思い描いていた理想の騎士に近いのだもの。
「そ……、そうね。お礼に来たいと言うのなら、いつでも訪ねてくるといいわ。アルフレッド・ハートフィールドと名乗れば通すように伝えておきます。ではまたね」
 ボロが出ないうちにアニークはそそくさと退散した。ドレスの裾をしとやかに引きずり、護衛兵をわらわら伴い、中庭の柱廊をカツカツと引き返す。
(アルフレッド! なんて素敵な騎士かしら! すごいわ、さすが騎士物語を生み出した西パトリアね!? あんなドンピシャな人に出会えるなんて!)
 心は新たに芽生えた欲望でいっぱいになっていた。なんとしても彼を自分に仕えさせたい。側に置いて騎士物語を朗読させたい。それ以外のことは何も、何も考えられなかった。
(王都防衛隊とか言ったわね。早速どんな組織か調べなくちゃ。『アニーク』と彼がどんな関係だったかも……!)
 騎士物語風に仕立てたドレスの陰で拳を握る。身体の芯が熱かった。天帝と過ごした初夜が霞むほど。足取りは軽く、まるで満天の星のもと、ダンスでも踊っているような気分だった。


 ******


「さっきのはちょっとヒヤヒヤさせられたぞ」
 ルディアの小言にアルフレッドは「す、すまない……」と縮こまる。妹にも「人前であんな話したら向こうだって困るじゃん」となじられて、ゴンドラの端で肩をすぼめた。風にそよぐ葦原までがアルフレッドに呆れているようだ。
 アニークに名乗り直さねばならなかったのが少しショックで、ガラス工房に向かう小舟に乗り込んですぐ「なんだか前と雰囲気が違ったな」とこぼしたら、二人から返ってきたのが「当たり前」との見解だった。
「天帝宮で孤立無援だったときと比べるな。あの女は今や東パトリア帝国皇帝という権力者なのだからな」
「婚前に仲良くしてた男がいるなんて、普通聞かれたくないでしょ。天帝の妃なんだよ?」
 軽率を戒める言葉にどんどん肩身が狭くなる。アルフレッドには頭を下げるほかなかった。
(だけどそれなら、本当に忘れられていたわけじゃないんだな)
 口には出さずにホッとする。バオゾで過ごしたあのひとときが、アニークにとって価値なきものに成り下がったとしたら悲しいと沈んでいたのだ。自分の働きは無意味でなかったと信じたい。
「まあ顔色は悪くなさそうで良かったんじゃない? 固いオレンジ食べるしかなかった頃はやつれてたもんね」
 モモの台詞にうんと頷く。アニークに関しては夫のことなど色々と心配だが、ひとまず健康上の問題はなさそうで安心した。やはり人間、元気でなければ何もできない。伯父も酷く痩せていたが、動けるまでに回復して良かった。
(時間ができたらウォード家を訪ねて、バスタードソードのことを言っておかないとな)
 あの人はもう気づいているだろうか。腰に帯びた剣がひと回り小さくなっていることに。紛失したとは言いにくいが、鍛錬が軽く済む武器に持ち替えたと思われたくない。きちんと説明に赴かなければ。
「あ、そうだ。アル兄、女帝陛下に謝っといてくれないかな。モモさ、コナー先生に『ピアスは赤い花と一緒に渡してくれ』って頼まれてたんだけど、あの時期そんなの咲いてなくって」
「ああ、わかった。伝えておくよ」
 妹は「ありがとね!」と礼を述べた。そうこうする間にアルフレッドの漕ぐゴンドラは工房島に近づいていく。窓からこちらが見えたのか、桟橋に舳先を寄せる頃にはアイリーンもブルーノもモリスとともに出てきていて、青白い顔をますます青くさせていた。
「たた、大変よ! アクアレイアで記憶喪失病っていうのが流行ってるんですって! そ、それがどう考えても脳蟲としか思えないの。いいい、急いで街に調べにいかなきゃ」
「その話ならついさっき十人委員会で聞いてきた。防衛隊が患者の語学教育を任されたんだ。ちょうど今から療養施設に向かう予定だ。乗ってくれ」
「ええっ!?」
「早く早く! 船の上で説明するから!」
 モモがアイリーンの腕を引っ張ってゴンドラに乗せる。ブルーノも軽やかにジャンプして桟橋から小舟の横木に飛び移った。
「相変わらず忙しいのう」
 食事の支度をして待っているから頑張っての、とモリスが手を振る。親切な老人にアルフレッドは「ありがとう! ジェレムたちとは上手くいったよ!」と声を張り上げた。
「アイリーンから聞いたぞい! こっちこそ礼を言う!」
 レンズが光って眼鏡の奥は見えないが、モリスの声は嬉しそうだ。ここに彼の愛息がいれば心の曇りは一切なくなっていただろう。
(早くバジルも助けてやらなきゃな)
 やることが山積みだ。本当に、余計なことに頭を使う暇がない。ぐっと櫂を握り直し、アルフレッドは潟湖に佇むアクアレイア本島を見つめた。
 吹き抜ける初夏の風。燦然とした光もまた王国が王国でなくなる前と同じに街を明るく照らしている。
 できることをやっていこう。それがきっと、自分や主君のためになる。


 ******


 十人委員会に行ってくれと頼まれた施設は本島から少し離れた墓島にあった。ハイランバオスの肉体に入ったばかりのアンバーがアイリーンからジーアン語を学んでいた頃、防衛隊が兵舎代わりにしていた聖堂がある島だ。
 ここには王国の独立記念碑も建てられていたのだが、今は撤去されていた。十中八九ローガンの仕業だろう。いちいち怒るのにも飽きて、ルディアはふうと嘆息した。
「突然すまない、ここの責任者はどなただ?」
 部隊を代表してアルフレッドが療養院の門を叩く。高い壁に囲まれたレンガ造りの建物は、立地も含めて明らかに隔離を目的の一つとしていた。王国湾の島々にはこういった施設が珍しくない。湿地帯は病気が蔓延しやすいからだ。
「はい、どちら様でしょう?」
 一千人は収容できそうなH字型の療養院を出てきたのは、まだ十代と思しき良家の令嬢だった。会ったことはないはずだが、どこかで見た顔をしている。誰だと思案し、ハッとした。髪の色や眉の感じがユリシーズと似ているのだ。
「俺たちは元王都防衛隊だ。十人委員会の命令でこちらの患者に言葉を教えにやって来た。中を案内してもらっていいか?」
 アルフレッドはジーアン語をとは言わなかった。ルディアが口止めしたのである。記憶がなくとも世話しているのがアクアレイアの人間ならジーアン人を恐れている可能性は高い。本当の用件は様子を見てから伝えようと言い含めていた。
「まあ、そうですの。私はシルヴィア・リリエンソール、命の別状なくなった方々が日常生活を送れるように支援させていただいております」
 似ていると思ったのは錯覚ではなかったらしい。妹か、とルディアは清楚を絵に描いたような麗しき少女を一瞥した。確かあの家は女が三人、男は年長のユリシーズだけだったはずである。血縁者がこんなふうに慈善活動に従事していれば、彼の人気が上がるのも頷けた。
「どうぞこちらへ。あまり患者を興奮させないようにお願いしますわね」
 シルヴィアは蜂蜜色のふんわりした金髪と上質なスカートを翻し、ルディアたちを招き入れる。説明によれば熱病も記憶喪失病も今はほぼ終息し、ここが最後の特別療養施設とのことだった。
「常識も何もかも一から取り戻さねばなりませんから、街に戻れるまでに大体皆さん半年ほどかかるんです。今お預かりしている方々は記憶を失って三ヶ月ほどでしょうか。意思疎通に困るほどではありませんのよ。患者同士で言葉を教え合いますし、私一人でも楽にお相手できるくらいで」
 彼女の台詞には何故防衛隊などという場違いな集団がここへ来るのだという疑念がありありと見て取れた。兄が投獄されるに至ったきっかけを作った敵と認識されているのかもしれない。とりあえず歓迎されていないのは確かなようだ。
「お嬢様!」
「シルヴィア様!」
 中央通路で繋がった二つの病棟の西側へ足を踏み入れる。と、二百名はいるだろう患者がわらわら寄ってきた。少女の言っていた通り、彼らはアレイア語なら普通に喋ることができるようだ。特にたどたどしくもない口調で「おや? そちらの方たちは?」と尋ねられ、ルディアたちは順番に自己紹介をした。
「アルフレッド・ハートフィールドだ」
「モモ・ハートフィールド!」
「ア、アイリーン・ブルータスよ」
「ブルーノ・ブルータスだ。我々はお前たちの言語習得を手助けするべく派遣された。口頭での会話はできるようだが、文字のほうはどうだ?」
「おお、俺たちの教師になってくれる方ですか!」
 老若男女様々な患者たちは嬉しそうに歓声を上げた。早速モモが彼らの輪に飛び込んで「皆ここで毎日どんなことしてるの?」とリサーチを始める。「これは猫ではないですか?」「なんて愛らしい!」「見せて見せて!」とブルーノも揉みくちゃだ。
 直接的な患者の観察はモモとブルータス姉弟に任せることにして、ルディアはアルフレッドと一緒にシルヴィアの横についた。多少警戒され気味だったがそれはこちらも同じことだ。あとでユリシーズに報告されることも視野に入れ、無難かつ簡潔に切りだす。
「実は我々はアクアレイアに戻ってきたばかりでな。この奇病について詳しく聞かせてくれないか?」
 率直な問いかけに少女は「詳しくも何も、わからないことだらけですわ」と肩をすくめた。あまり言葉を交わしたくないという言外のアピールは無視して「わかっていることだけでいい」と迫る。
「最初に高熱が出るんだろう? 普通はそのまま死んでしまうと思うんだが、何か特効薬のようなものがあったのか? 記憶喪失はその副作用とか」
 アルフレッドも真摯な表情で彼女に尋ねた。
「…………」
 しばし黙り込んだのち、シルヴィアは「最初はいつもの冬の病だったんです、でも……」と小さく呟く。
「でも?」
「……病人の食事配給も滞るくらいでしたから、この冬は本当に大勢の方々が亡くなられたのですわ。私の友達も何人も……。それで多分、悲しんだ誰かがおまじないとして始めたこととは思うのですが」
「おまじない??」
 少女の説明が要領を得ず、ルディアは眉をしかめた。だがシルヴィアの次の言葉でたちまちすべてを理解する。
「ルディア姫がお小さかった頃、重い病にかかって危篤状態になられたことはご存知でしょう? あのとき王女は耳の中に何かの薬液を入れられて、一命を取り留めたそうです。藁にもすがる思いで誰かが真似したのではないでしょうか。波の乙女の慈悲が宿っていると信じ、私たちが呼吸もできなくなった患者に施したのは、王国湾の海水でしたけれど……」
 やはりかと息を飲む。患者は一度死んでいるのだ。そして偶然に、まったくの偶然に新しい生を与えられた。脳蟲など存在も知らぬ民の手によって。
「薬効があるとわかると皆お守りのように海水を持ち歩くようになりました。いよいよ打つ手がなくなったら耳に注いでもらうためです。ほかに薬らしい薬はありませんの。不可思議な話ではありますが」
 知っているのはそれだけですとシルヴィアはさっさと話を終わらせた。まだ記憶喪失者の症状や回復の過程についてなど、共有できる情報はいくらだってあるだろうにツンとそっぽを向いてしまう。
 が、とりあえずその辺りは詰問する必要がなかった。患者の頭に入っているのが脳蟲ならルディアたちのほうがよほど詳しい。聞き出すべき情報としては十分だった。そんなことより気にかかるのは――。
(偽ラオタオがわざわざ記憶喪失者を指定してドナに呼び寄せようとしているのは、意図があってのことだろうな)
 ちっと胸中で舌打ちする。何が狙いか知らないが、用心するに越したことはない。今の「ラオタオ」はハイランバオスの味方だそうだが、アクアレイアに都合良く動いてくれるとは限らないのだ。
「そっかー、皆結構文字も読めるんだ! それじゃモモ、明日は家から何冊か本持ってくるね!」
 明るい声で斧兵が早くも明日の約束をしている。患者たちは「本? 本ってどんな!?」「騎士物語はありますか!?」と嬉しそうだった。ブルータス姉弟を囲むグループも、猫の生態について感心なほど熱心にメモを取っている。
 生まれたての無垢な生命。まだ自分は自分の人生の続きを生きているのだと信じきっている。
(新しい器、この中から探すべきかもしれないな)
 ルディアは似たようなシャツに似たようなベストを羽織った患者たちに目をやった。彼らの中に適役がおらずとも、過去の患者リストを辿れば一人か二人は好条件の人材が見つかるだろう。ただそれは、どうにも気乗りしない行為であった。
(奪えるのか? まだ確固とした自我を持たない彼らから、依って立つための肉体を……)
「シルヴィア様、シルヴィア様! 明日モモさんにご本をお借りしていいですか?」
「ええ、もちろんいいですよ。だけど破いたり汚したりしないように気をつけましょうね。お行儀の悪い子にはお仕置きが待っていますよ」
「はい! 大丈夫です、僕たちいい子にしています!」
 患者たちは老いも若きも異様に子供じみて映る。彼らに対し、シルヴィアが母親のように接するのも言い知れぬ不気味さが感じられた。そんな思いを抱くことが既に傲慢なのかもしれないけれど。


 ******


 墓島の療養施設を出たのは夕刻。二時間ほどの滞在だったがルディアたちはそれぞれに患者と打ち解け、また明日と言って別れた。しばらくは請け負った仕事をしつつ情報を集め、今後の出方を考える日々になりそうだ。コナーから第二報が来るのも待たねばならない。
「ねえねえ、今からどうする?」
 ゴンドラの櫂を手にモモが聞く。帰りの漕ぎ手を担う彼女は妙に急いでいるふうだった。
「何もないなら家に帰ってママたちにただいましたいんだけど」
 なんやかんやで各方面に気配りを忘れない斧兵はちらと実家方面を見やる。そういうことかとルディアは快く頷いた。
「そうだな、それじゃ今日は解散しよう。明朝九時の鐘が鳴ったら大鐘楼前に集合だ。何事もなければ療養院へ直行する」
「了解!」
 国民広場のすぐ横のゴンドラ溜まりに小舟を舫い、ルディアたちは本島へと上がる。
「バイバイ皆! 帰ろ、アル兄!」
 マントを引っ張ってモモは騎士を急かしたが、アルフレッドは「すまん」と首を横に振った。
「先に帰っておいてくれ。俺は最後まできっちり送り届けるから」
 誰をとは言わず、騎士はルディアを振り返る。
「ええーっ? じゃあモモも残るよぉ」
 多少不満げに走り出した足を止めた少女にルディアは「いいぞ、お前はこのまま帰って」と手で払う仕草をした。
「こいつは言い出したら聞かないからな。飲み物でも用意して待っていてやれ」
「わあい、じゃそうするね! アル兄、また後でね!」
 実家の夕飯が楽しみだという内容の鼻歌を口ずさみつつモモは広場を駆けていく。さて、とルディアはブルータス姉弟と向かい合った。
「私も一応『ブルータス家』に顔を出しに行くが、お前たちはどうする?」
 尋ねたのはアイリーンが親に勘当された身だからだ。今までは実家を避けてきた彼女だが、さすがに今回は家族の安否を確かめたい様子だった。白い拳を固く握り、彼女は決意を口にする。
「い……一緒に帰るわ! 見つかって叩き出されないようにこっそりとだけど……っ」
 白猫も神妙にニャアと鳴く。「では行くか」とルディアは再びゴンドラの縄を解いた。




 ブルータス整髪店。そう書かれた看板は、夕暮れの光を浴びて赤々と輝いていた。窓から覗く細長い店舗は暗く、しんと静まり返っていて、人が暮らしていないのが入る前から見て取れる。
 こっそりと言っていたのにアイリーンのドアの開け方は激しかった。髪結いの客でごった返しになっていたアンディーン祭の日が幻に思えるくらい、中はすっからかんである。軋む床板と舞い上がる埃、壁の棚以外何もない。
「……!」
 外壁に沿った階段を駆け上がるブルーノを追い、ルディアとアルフレッドも二階へ走った。そこも完全な空き家であり、家財道具はほとんど何も残されていない。ただアイリーンとブルーノの私物を除いては。
「……病気になったんじゃないと思うわ。家を出ていっただけみたい」
 いつの間にか同じ部屋に上がってきていたアイリーンが呟く。
「貴族も大勢逃げたらしいからな。ジーアン兵に殺されると考えたんだろう」
 アルフレッドが姉弟を慰めるように言うと、彼女は「ううん」と否定した。
「その可能性もなくはないけど、違うと思う。熱病を癒すのに耳の穴に海水を入れたってシルヴィアさんが言ってたでしょう? ……父が耐えられなかったんだと思うの。だってあの人は……」
 あの人は拒絶した人だから、とアイリーンの声が震える。ブルータス姉弟の父、理髪師であり外科医でもあるコンラッドは「ルディア」の耳に薬液を注ぎ、王女を救ったと功労賞まで賜った人物だ。
 姉弟はあまり多くを語らないが、どうも彼は息子の異変に気づいていたようである。自分の育てている子供が、自分の愛する子供ではないかもしれないということに。
「…………」
 アイリーンはブルーノを抱き上げてそのまま胸に押しつけた。涙もなく、声もなく。
 言葉にしなくともわかる。彼らは親に捨てられたのだ。帰る家という唯一の接点を、手紙の一つもないままに、知らない間に放棄された。その意味を理解して立ち尽くしている。
「――……」
 埃っぽい、湿った空気を嗅ぎながらルディアは静かに瞼を伏せた。励ましてやりたくても、言えることは何もなかった。孤独も、罪も、自分で引き受けるしかない。掴んだ手を離さないでいてくれる誰かに巡り会えるまで。
「ごめんなさい。少し二人にしてもらっていいかしら……?」
 考えるまでもなくルディアは頷く。
「わかった。その間にもう一件用事があるのを済ませてくるよ。ここにいるのがつらければ、国民広場で待っていてくれ」
 行こうと騎士の肩を押す。アルフレッドも何も言わず、すぐに階段のほうへ引き返した。


 ******


「もう一件用事って?」
 尋ねた騎士を振り返らずにルディアは告げる。
「悪いがレイモンドの家まで漕いでくれないか?」
 それだけ言うとアルフレッドはああ、と合点したようだった。
「俺たちだけ帰ってきているのを見たら家族が心配するものな。レイモンドは遅れて帰還すると伝えに行くんだな?」
 櫂を手にした彼が少しどもった気がして顔を見上げる。だがアルフレッドは既にこちらに背を向けて、細い水路を漕ぎだしていた。
 辺りは薄い闇に包まれ、遠くの赤い光だけが視界の隅でちらちら蠢く。引きずり込まれそうな色をした海が、たぷんたぷんと音を立てていた。
 訪れたオルブライト家の食堂は遠目にもきちんと明かりが灯っており、窓に人影が動いていて安堵する。アルフレッドは近くの桟橋にゴンドラを停めると慣れた様子で鈴のついた表口を開いた。
「あらー、アルフレッド君! まあまあ、ブルーノ君も!」
 垂れ目の女将がカウンターで騎士とルディアを出迎える。レイモンドの母親は、息子と同じ砕けた笑い方の人だった。しかし瞳の色は濃く、オレンジ色をした髪も疑う余地なくアクアレイア人のそれである。目元がわずかに似ている以外はまるきり赤の他人のようだった。
「うちの子と一緒にマルゴーへ行ったんじゃなかったの?」
 尋ねる彼女にアルフレッドが「デイジーさん、実は」とレイモンドが結局はコリフォ島へ行ったことを教える。なんやかんやで北パトリアまで行く羽目になったとか、父親にも会ったとか、そんな話は省かれた。騎士はただ「俺たちはひと足早く帰ってきたけど、あいつもそのうち帰ってくるから」ということだけ伝える。土産話は直接聞いたほうがいいだろうとルディアも余計な説明は控えた。
「わざわざ教えにきてくれるなんて、優しい子たちだねえ。お礼に晩御飯でも食べていってと言いたいところなんだけど、今日の食材は使いきっちゃってて」
 申し訳なさそうに詫びられる。咄嗟に「いや、タダ飯を食べにきたわけでは」と首を振ったルディアを見て彼女はからからと笑った。
「デイジーさんたちは元気でやっているのか?」
 狭い食堂を見渡してアルフレッドが近況を尋ねる。案ずる台詞にデイジーは頼もしい笑顔で答えた。
「うちはね、神様に守られてるのかってくらい皆元気だよ! もともとが貧乏だからそんなに生活も変わってなくてね。お客さんに出す魚は養魚場で獲れるもんばっかりだし、質素倹約してればなんてことはね」
 そう聞いてルディアは胸を撫で下ろす。高齢の祖母を含めて病にかかった者もなく、誰かが無病息災を祈ってくれていたのかと思うくらいだったと彼女は話した。
(イェンスかな)
 なんとなくそんな気がして熊皮を羽織った彼を思い出す。イェンスの霊力にどれほどのご利益があるものかルディア自身は半信半疑だが、彼のおかげかもしれないと考えることに害はない。
 ポケットの上からお守りに触れた。これからもこの一家が災いから守られているように。
「だけどあの子がアクアレイアに戻ってくる気があっただなんて嬉しいねえ」
「え?」
 なんの気なしに呟かれた言葉にルディアはきょとんと目を瞠った。デイジーもまた何気ない会話のひとひらとして続ける。
「あの子は誰とでもすぐ仲良くなるけどさ、冷めたところがあったから。この国の外で稼ぐ手段を見つけたら、もう戻ってこないんじゃないかって思ってたんだよ」
 母親の予感も当てにならないね、と快活に彼女は笑った。「あたしの死に際にしようって考えてたのに、父親の残したお守り渡すの早すぎたかも」との台詞には心の中で首を振る。
 彼女は一番いいタイミングでレイモンドに道しるべをくれた。そしてそれは、槍兵だけでなくルディアも救ってくれたのだ。
「また来るよ。困ったことがあったら言ってくれ。できるだけ力になる」
 ルディアが言おうとしたことをアルフレッドがごく自然に口にする。騎士にしてみれば幼少時から出入りしている食堂だ。当然の気遣いだったに違いない。
「片付けで忙しい時間に失礼した」
 ぺこりと一礼してルディアも食堂を後にした。そんなに時間は経っていないように思うのに、外はもう真っ暗になっていた。
「ありがとう、アルフレッド」
 今更ながらルディアはレイモンドの家に行くことだけ考えていて、何をどう話すか頭になかったことを自覚する。アルフレッドが必要なことを大体喋ってくれて助かった。そういう意味で言った「ありがとう」だった。
「……感謝されるほどのことじゃない」
 騎士は酷く戸惑ったようにかぶりを振る。自分がどんな顔で礼を言ったか、ルディアは想像だにしていなかった。アルフレッドがどんな思いでルディアを見つめていたのかも。
 回り始める。いびつに噛み合ったいくつもの歯車が、みしみしと音を立てて。


 ******


 女帝のお遊びから解放されてやっと自宅へ戻ってくると、玄関を開いてすぐの廊下で妹が待ち構えていた。
「今日療養院に王都防衛隊の方々がお見えになりましたの。十人委員会に派遣されたとのことでしたので、お兄様とお話したくて」
「ああ、ドミニク・ストーンの出した指示だ。しばらく面倒を見てやってくれ。連中をのさばらせない程度にな」
 答えながらユリシーズは中庭を抜け、階段を上がり、奥にある自室へ向かう。「シルヴィア」はしずしずと一歩後ろをついてきた。召使いの目がないことを確認し、音もなく二人で室内へ滑り込む。見られたところで心優しい妹が兄をねぎらっているとしか思われないだろうが。
「――王都防衛隊のブルーノ、本当にあれがルディア姫なのだな?」
「ええ、間違いありません。私をアレイアハイイロガンに封じていたのが憎きあのルディアです」
 かつて宮廷を支配していた女狐は、後ろ手にドアを閉めながら愛らしい顔に不似合いな薄笑いを浮かべた。
「そのご様子ではお兄様もあの者たちにお会いしたようですわね?」
「やめろ、必要もないのに兄などと。反吐が出る」
 眉をしかめて吐き捨てるとグレース・グレディが物言いたげに肩をすくめる。拾ってやったのはこちらだというのに、調子に乗って不愉快な女だ。どいつもこいつも、本当に女には振り回される。
「お気をつけあそばせ。あの子たちはきっと帝国自由都市を目指そうなどとは考えもしないはずですから」
 鋭く彼女を睨みつけ、言われずともわかっていると視線で答えた。グレースは巧みな話術でユリシーズを操ろうとしてくるが、そうはいかない。今の彼女の主人は自分だ。
 人語を解する野生の鳥が窓辺に降り立ったのは昨夏。病死した妹の耳に海水を注げば甦らせることができると教えてくれたその鳥は、まんまと人の肉体を得た。御しきれば利になる相手だ。手を切るつもりは更々ないが、近頃日増しに態度が大きくなっているのが気に食わない。
「昔愛した女だからとほだされないでくださいましね? 若い男は往々にしてつまらぬ移り気で身の破滅を招くのですから」
「休ませる気があるのなら黙っていろ。せめて夜食の一つでも持ってこい」
 先程よりもきつく睨む。グレースは「だって十人委員会でのお話を聞かせてくださらないから、不安になってつい」と微笑した。何もかもわかったような顔をして、腹の立つ。
 十人委員会がジーアン語を習得している防衛隊に患者の指導を依頼したことを話しながら、ユリシーズはルディアの横顔を思い出していた。もうずっと、ニンフィに左遷されていた頃から彼女はブルーノの身体をまとっていたらしい。言われてみれば防衛隊の中心はいつも彼女だったなと思う。
(誰がほだされるものか)
 ルディアが今後どう足掻こうと王家はもはや過去のものだ。アクアレイアを救えるのは、この国に必要なのは、彼女ではなく自分のほうである。
 証明しろと言うなら証明してやろう。あの女が敗北を認めたら、そうしたら自分は、長く足を捕らわれていた沼を出て先へ進める。そんな気がする。









(20180504)