『愛を知らずに生きてきた者が愛を怖れるのは当然です。私たちは新奇なもの、異質なものに少しの警戒も持たないでしょうか?』
『私にとって愛とは海です。あまりに広く底が知れない。泳ぎ方がわからねば溺れ死ぬしかありません。あの尊く美しいものもまた、確かに人を殺すのですよ』
 子供の頃、アルフレッドが貸してくれた騎士物語で聡明な王女の語っていた言葉を思い出す。あれはなんの場面だったかな。どこかの国の王子と姫が恋の病に苦しみぬいて駆け落ちの約束なんぞしたようだと耳にした、プリンセス・オプリガーティオの台詞だったか。
 目を閉じて仄明るい薄闇にこもっていると古いものから新しいものまで様々な記憶が甦る。そうだ、あれは主君への秘めたる愛を初めて口にしようとしたサー・セドクティオに釘を刺すための言葉だった。お前は馬鹿な真似などせず、いつまでも私の騎士でいてちょうだいと。
 宮廷の恋はいつだって上手くいかない。作り話の中でさえ愛し合う者たちは引き裂かれ、手も伸ばせず、苦い杯を飲んでいる。
(……猫の姿でも大丈夫だったから、元の身体に戻ってもあの人は変わらないって思い上がってたのかなあ)
 嘘をついていたことも許してもらえると。身分違いでもマルゴーに帰らないなら関係ないと。謝りたいという気持ちの裏に慢心があったのではないか。彼ならきっと自分を受け入れてくれるという。
(結局僕はあの人の幸せを台無しにしただけだった)
 どうして後ろめたさに耐えることができなかったのだろう。こうなる可能性はルディアが示唆してくれていたのに、己の弱さに悲しくなる。
 チャドの中の『ルディア』を守ってやれば良かった。それはそんなに自分とかけ離れた幻想でもなかったのだから。
「ねえブルーノ、お水くらい飲みなよー」
 心配そうな少女の声にうっすらと瞼を開く。風はまだ冷たいが、パトリア海を照らす四月の陽光は眩しい。痛む目をぎゅっとつぶって甲板に背を丸め直す。
「何か口に入れないともたないよー?」
 力なくニャアとひと鳴きしてブルーノは友人の思いやりを退けた。溜め息のすぐ後でモモの足音が遠ざかる。
(ごめんねモモちゃん。姉さんも、姫様も……)
 アクアレイアに戻ったら無理にでも元気を出すから許してほしい。今はまだこの愚か者を捨て置いてほしい。
 何もする気になれないのだ。呼吸すらわずらわしく、いっそ海に飛び込んでしまいたくなる。それで楽になれるのは自分一人だけなのに。
(馬鹿だなあ、本当に)
 分不相応な祝福を欲しがって何もかも失った。あの人を深く傷つけた。
 時が過ぎればチャドがマルゴーへ帰ったこと、受け止められるようになるのだろうか。海峡とともに冬は去り、温かな春が巡ってきたけれど。
(なんでこんなに寒いんだろう)
 いつも撫でてくれていた手がない。ふた月過ぎてもそれに慣れない。
 深い痛みを伴うとしても一緒に前へ進みたかった。せめて彼は、そんな自分の思いだけでも信じていてくれるだろうか。




 困ったなあと眉をしかめる。昔からブルーノは湿っぽい性格をしているが、他人に迷惑をかけるようないじけ方はしなかったのに。純情人間が失恋すると鬱々引きずる羽目になるらしい。どれだけ手酷く扱っても次の瞬間にはけろりとしているバジルを見習わせたいくらいだ。
(これ以上こじらさなきゃいいけど)
 ふうと小さく息をつき、モモはアイリーンのいる客室のドアをノックした。今日は波が穏やかなので、弟を案じて睡眠が不足しがちな彼女を休ませていたのである。
「ごめん、モモじゃ駄目だった。アイリーンがお水と食事持ってってあげて」
 布ハンモックを覗き込み、痩せぎすの女に呼びかける。しかし寝ぼけた彼女はフニャフニャ言うだけで一向に目を覚まさなかった。ロープを強く揺さぶるも「駄目よ、カロ……まだ外が明るいわ……」などと幸せそうな寝言をもらす始末である。
「うわっ……」
 上擦った声にドン引きして思わず眉間にしわを寄せた。不穏な空気を察してか、直後にハッとアイリーンが跳ね起きる。
「お、おお、おはようモモちゃん!?」
 慌てふためくアイリーンは茹でダコのように真っ赤だった。ハンモックから落っこちて額を打つというわかりやすい狼狽ぶりに突っ込む気も起きず、モモはやれやれと片手を差し出す。
「はい、立てる? ブルーノが飲んでくれなかったから、お水ここに置いとくね」
 長居するとアイリーンがあちこち引っ繰り返しそうなので、水筒だけ残してさっさと部屋を引き揚げた。
 そうか、姉のほうは知らない間にあのロマとまとまっていたか。王国滅亡の前後で実に色々なことが変わったのだなと改めて実感する。
(変わらないのは毎日の稽古だけ、か。まあそういうもんだよね)
 手合わせの相手を求めてモモは甲板に戻った。船上をぐるりと見渡して主君を探す。ルディアはすぐに見つかったが声をかけやすい雰囲気ではなかった。彼女は船縁で海を見つめ、じっと物思いに耽っていた。後ろを通りすぎる水夫はいても構おうとする者はいない。人を寄せつけぬ後ろ姿にモモはまたしても眉をしかめた。
(うーん、誘っても楽しくなさそうだなー。今日は姫様に頼むのやめとこ)
 早々と撤退を決め、踵を返す。主君と少し距離を置いて素振り中の兄もいたけれど、そちらはもっと声をかける気にならなかった。
 近頃のアルフレッドにはどうも闘志を燃やしきれない。いつ見ても「悩んでいます」と顔に書いてあるし、注意散漫もいいところなのだ。今の兄からなら一本どころか十本でも百本でも取れそうだった。
 まったく情けない男である。主君がちょっとデートっぽいことをしただけで調子を落としてしまうなんて。伯父が聞いたらどんな顔をするだろう。
(なんか皆して変な感じ。モモたちこのままアクアレイアに戻って大丈夫なのかなー)
 上手く言葉にできないが、何か噛み合っていない気がして仕方ない。以前は齟齬など感じたこともなかったのに。
(どんな状況でもモモはモモのやるべきことをやるだけだけどさあ……)
 手合わせが無理なら走り込みでもするかと屈伸を始める。
 風も波も緩やかで空は気持ちのいい青だ。それでも船は、海の上にある限り常に揺れている。何故か今はそんな当たり前のことが気にかかる。




「……九十八! 九十九! 百!」
 日課の素振りをやりきってアルフレッドは剣を下ろした。ふうと息を吐き、頬を伝う汗をぬぐう。吹き抜ける風に身を晒せば湿った皮膚はただちに乾いた。巡る血潮とほどよい疲労。不快感をもたらすものは一切何もないはずなのに、今日も心は晴れてくれない。
 ちらりとルディアを盗み見てアルフレッドはすぐにまた目を逸らした。彼女はこちらに背中を向けて船尾近くの船縁にもたれかかっている。
 ハイランバオスが妙な真似をしないように、アルフレッドはなるべく主君の側を離れないことに決めていた。出航から約二ヶ月、現在のところ偽預言者に不審な動きは見られない。
 ルディアもまた普段通りの彼女だった。隣にレイモンドがいなくとも、不意に槍兵の名が話題に上ることがあっても。ただそれは、彼女が今日この甲板に立つまでの話だったが。
「…………」
 アルフレッドは再びルディアに目をやった。もうかれこれ一時間ほど彼女はああしてぼんやり海を眺めている。頭を休めるなんてことまずしない人だから心配だった。何を考えているのだろう、何が気がかりなのだろうと。
(次の寄港地がカーリス共和都市だからか?)
 思い当たるのはそれだけだった。あの街にはローガン・ショックリーがいる。イーグレットを死に追いやった黒幕が。
(心をなだめているのかもしれない。怒りで判断を誤らないように)
 だとしたら助けにならねばと拳を握る。剣を鞘に片付けるとアルフレッドは不自然にならないように気をつけながら主君に近づいた。
「ひめさ……」
 小声で呼びかけたその瞬間、ルディアがパッと身を翻す。何かを隠すように左手がポケットに突っ込まれたのに気がついてアルフレッドは瞬きした。
「……それ、まだレイモンドに渡せていなかったのか?」
 端から垂れた革紐を見やって問うと彼女は「いや、渡すのは渡したんだが」と口ごもる。それ以上説明がないので事情はさっぱり飲み込めなかった。が、レイモンドが別れ際にルディアを呼び止めていたことを思い出し、あのときに返されたのかなと思い至る。要らないと言われたとは考えにくいから、つまりこの首飾りは――。
 想像に動じた己を誤魔化す術がわからずに沈黙する。立ち入ったことを尋ねそうになってアルフレッドは唾を飲んだ。ひょっとして想い通じ合ったのか、なんて。
「ああ、こんなところにいらっしゃいましたか」
 と、そのとき帆柱の向こうから偽預言者とムク犬が現れた。アルフレッドは反射的に主君を守るように立つ。
「何か用か?」
 問うたルディアの声に先程までの気まずさは滲んでいなかった。空気が塗り替わったことに、とにもかくにも安堵する。
「ご挨拶をしておこうと思いまして」
 ハイランバオスは恭しく頭を下げた。曰く、カーリスに到着次第、彼は船を降りるつもりだそうである。
「アクアレイアまで来ないのか?」
「この身体のまま戻ったら即見つかって牢獄行きではないですか。王国再興のためには根回しも必要でしょうし、しばらく古王国に留まる予定ですよ。なに、心配ご無用です! 各地に仲間を潜り込ませていますから!」
 エセ聖人はパトリア古王国内に複数の味方がいることを仄めかす。ルディアが「わかった」と頷くと彼はにこやかに微笑んだ。
「アクアレイアはラオタオの管轄です。本物のラオタオは今ここにおりますが、ラオタオのふりをしてくれている蟲も敵ではありませんからご安心を」
「ふむ。ジーアンの連中はラオタオが別人になっているのを知らないのだな? なんという名の蟲が将軍役を務めているんだ?」
 ハイランバオスは返事の代わりにそっと人差し指を立てる。教えるつもりはないらしい。食えない詩人にルディアもやや顔をしかめた。やはり協力体制を築く気など更々ないのではないか。本当に、何が仲間だと言いたくなる。
「アンバーがどこでどうしているかもそろそろ話してほしいんだがな」
 めげずにルディアは要求を重ねた。ラオタオがアンバーとアイリーンを一時捕縛したことはわかっているぞという顔だ。しかしこれにもハイランバオスはチッチと人差し指を振ってみせた。
「彼女は私の人質ですから、ちょっとお教えできませんね」
 不穏な回答にアルフレッドはルディアと目を見合わせる。これ以上聞き出すのは得策でないと断じてか主君は嘆息で話を区切った。
「お前が古王国にいる間、連絡はどうやって取ればいい?」
「必要になれば私からいたします。あなた方はアクアレイアでのんびりお待ちください」
 慇懃無礼にもハイランバオスはこちらを一段低く見ていることを隠さない。結局すべて彼の都合で事を運ぶつもりなのだ。少なくともルディアにも自分を利用させてやろうという計らいは皆無だった。
「ではでは王都奪還、頑張っていきましょうねっ!」
 白々しくウィンクするエセ聖人の周囲をムク犬が楽しげに走り回る。文句をぶつける気も起きず、アルフレッドは黙って彼らを見送った。
 ハイランバオスが立ち去るとルディアも船室で寝てくると言い出す。いつの間にか首飾りの革紐はポケットの奥に見えなくなっていて、何か聞ける雰囲気ではなくなっていた。
「お前も適当に休めよ。帰国後は忙しくなるぞ」
 波の音に、船の軋みに、彼女の足音が掻き消される。後ろ姿から目を逸らすことができないままアルフレッドは甲板にじっと立ち尽くした。




 掌に硬い感触を握り込む。薄暗い通路を一人歩きながら、ルディアは小さく息を吐いた。
(また捨てられなかったか)
 ものの数秒で終わることなのに何をやっているのだろう。迷うなど己らしくない。指に絡む革紐がまるで蜘蛛の糸のようだった。振りほどいたと思わせてべっとり張りついたままでいる。
(どうせ駄目になるのなら、一度に全部終わらせたほうがいいのにな)
 少しでも可能性が残っているうちはと言った男の顔を思い出し、ルディアは薄く瞼を伏せた。それがいかに頼りない希望かは自分のほうがわかっていた。
 この先より重要になるのは献身的な支えではない。もっと現実的な力だ。そしてどう考えてもレイモンドにルディアの求める政治力はなかった。
(次の港はカーリスか)
 前回のほんの短い滞在の記憶が脳裏をよぎる。あんたが死ぬなら俺も死ぬと耳の奥で熱い声が響く。
 真剣に言っているのはわかったが、真実だとは思ってもいなかった。本当に死にかけてまで彼が自分を守ってくれるとは。
 ポケットの首飾りをぎゅっと握る。刻まれたまじないを親指の腹でなぞって眉根を寄せる。
 レイモンドが腹に大穴を開けたあの頃から、彼のことを考えるときそれまでなかった感情が混じり始めた。気づかぬように気づかぬように気をつけていたけれど、自分はとっくの昔にもう――。
(早く捨ててしまわないと)
 手が届きそうに見えたって叶わないものはある。レイモンドにも己自身にも希望など残すべきではない。頭では明らかなことが実行となるとどうしてこうも難しいのか。
 いっそ波がさらってくれればいいのにと馬鹿げたことを考えて自嘲する。
 やはり最初に突き返すべきだった。忘れるために離れたのに、こんなものを持っていたら結局毎日思い出してしまう。


 ******


「ジュリアン! ジュリアーン! 明日の衣装に袖は通したのか!? 丈直しがあれば午後中にせねばいかんのだぞ! おおーい、ジュリアーン!」
 広い自邸の一階で父のがなり声が響く。暗澹たる心地でそれを聞きながら、ジュリアン・ショックリーは今しがた座ったばかりの椅子から立ち上がった。
「叫ばなくとも聞こえています、お父様! 丈ならとっくに合わせてとっくに脱ぎました!」
 引きこもるには不向きな自室の扉を開け、顔だけ廊下に出して答える。だがあいにく、余計な会話をしたくないというこちらの意図は汲み取られず、父は吹き抜けの広間からドスンドスンと足音を立てて階段を上ってきた。その肩や胴回りは平常の五割増しのコットンでパンパンに膨れ上がっており、縫いつけられた宝石や金糸銀糸がこれでもかときらめいて思いきり眉をしかめてしまう。
「……また派手なお召し物をしつらえで」
「明日は大切な日だからな、いくらやってもやりすぎるということはない!」
 お前だって親子揃いの仕立てで嬉しかろうとローガンはゴマすり笑顔で手を揉んだ。見え透いたご機嫌取りの台詞など頭から無視してジュリアンは大仰に嘆息する。
「……もう今日はこれ以上することないですよね? その大切な明日に備えて僕は散歩でもしてきます。この頃は家にいると心が休まりませんので」
 つっけんどんな物言いに父が怯んだ隙を突き、自室から通路へと滑り出た。引き留められる前に涙目の父の脇を擦り抜ける。「ではお父様、ごきげんよう」と挨拶の文言だけは丁寧に。
 細い手すり越しに見やった階下では当主と跡取り息子のやり取りにハラハラする召使いたちの姿があった。広間を行き交う誰も皆レースやリボン、薄絹の婚礼衣装を整えるのに忙しそうだ。例の日が間近に迫っていることを痛感して胸が悪くなる。父の愚行を止める力が自分にあれば良かったのに。
 政敵に一人息子を誘拐され、アクアレイア人に借りを作った――。一年前、ただの一事でショックリー家の名声は地に落ちた。元はと言えば油断していた己のせいで起きた事件だ。父の威光を取り戻すためならなんでも手伝うつもりだった。だがそれでも、これはあまりに酷い挽回策だと思う。恩知らずの――否、恥知らずの仕打ちだと。だからどうしても父への態度は辛辣になった。父はそれを一過性の反抗期だと思い込みたいようだったが。
「ジュ、ジュリアン! 出かけるのなら護衛連れでな! ラザラス一派が街に戻っているという噂がある!」
 と、大玄関を出ようとしたジュリアンの背に愛情深い忠告が投げかけられる。振り向けば青ざめたローガンが広間の私兵に早口で指示を与えていた。
「ラザラス一派が? わかりました」
 こちらが答えるより早く、長い巻き髪を一つに結った女騎士がジュリアンに歩み寄る。若いながら腕の立つ、時に難しい使者の役目もこなしてみせる父の気に入りだ。
 彼女が一緒に来てくれるなら大勢のお供を連れて練り歩く必要はない。一礼した寡黙な女騎士とともにジュリアンは居心地の悪い我が家を後にした。
「……はあ……」
 見上げれば青い空。海まで続く下り坂に軒を並べる家々には赤や黄色の春の花。降りそそぐ陽光と吹く風の快さに悲しくなって肩を落とす。
 活気づく通りを歩けば歩くほど己の不甲斐なさを感じずにはいられなかった。街行く人々は老若男女貴賤を問わず、ジュリアンに気づくと嬉しそうにお辞儀してくる。
 彼らのきらきらした眼差しがつらかった。カーリス市民にとってこれは祝福すべき出来事で、父の権威を大いに高める勝利なのだと思い知らされて。
「おや、ジュリアンお坊ちゃん!」
「ローガン殿はお元気にしておられますかな?」
「いやあ、明日は素晴らしい一日になりそうですね!」
 愛想笑いを浮かべつつ適当に手を振って誤魔化す。早足で喧騒を逃れるが、声をかけてくる人間は絶えなかった。話題も明日のセレモニー一色だ。誰もが父をほめそやす。「あれだけの実力と財産をお持ちなのだ、さぞや見事な女神のお披露目となるでしょう!」と。
 心底うんざりしてしまう。何がおめでたいものか! 恩人の国の守護精霊を無理矢理奪ってくるなんて!
(ああ、ブルーノさんやレイモンドさんになんてお詫びすればいいんだ……)
 無限に溜め息がこぼれる。現在ショックリー邸では、六十年もの長きに渡りアクアレイアを加護してきた波の乙女ことアンディーンの聖なる像が厳重保管されていた。
 明日の竣工式が終われば女神は正式にカーリスのものとなる。ライバル都市も今度こそ終わりだと市民は大いに盛り上がることだろう。だがジュリアンは罪悪感で居た堪れなくなるばかりだった。
(本当に信じられないよ。助けた子供がカーリス人でも、親の仇の息子でも、あの人たちは非道な真似はしなかったのに)
 気がかりなのはそれだけではなかった。多くの民は加護が増えることを単純に喜んでいるが、「今まで祀ってきた双子神ジェイナスを大切にしたほうがいいのでは」との声を聞かないわけではない。確かにアンディーンのほうが神格は上なのだけれど、ジェイナスの熱心な信奉者たちの間では「これならラザラスに市政を任せたほうが良かった」と話す者もいるらしく、ジュリアンの不安を煽った。
 父は「そういう連中もアンディーンが素晴らしい恩恵をもたらしてくれるとわかれば黙るさ。神格が上がるということは、宗教面でも聖王にグンと近づくということだぞ。カーリスの発言権はいよいよ強まるではないか!」と言う。それはそうかもしれないが、そんな理屈ではぬぐいきれない胸騒ぎがするのもまた事実だった。もしアンディーンを迎えた直後に嵐で難破する船でも出たらジェイナス信者が言わんこっちゃないと騒ぎ出すのは目に見えている。疑いが飛び火すれば人々は簡単に――。
「ジュリアン様、こちらへ」
 と、そのとき、三歩後ろについてきていた女騎士がジュリアンの肩を掴んだ。もう一方の彼女の手は腰から下げた剣の柄に伸びている。突如高まった緊迫に息を飲み、ジュリアンはそっと辺りを見渡した。
 女騎士が鋭い視線で睨みつける路地裏に目を留める。するとどこか見覚えのある二人の男がサッとこちらに背を向けた。薄汚れた衣類に身を包んでいるが、肩布の余り方を見れば元は上等のお仕着せだったのがわかる。ああいうものを売るでも仕立て直すでもなく着古しているのがどういう派閥の人間かも。
「……あいつらリマニで見た気がする」
 呟くと女騎士は「ラザラス一派が潜伏しているという噂は確かなようですね」と答えた。
「竣工式が終わるまで不要な外出は控えましょう」
 助言に従い、ジュリアンはただちに来た道を戻り始める。短い散歩だったなと少なからず落胆しながら。




 子供は完全にガードされていて誘拐は試みるのも不可能だった。街へやっていた配下のそんな報告にラザラスはふうむと足を組み直す。
「あれの息子はもう十四のはずだろう? 成人前の男子にローガンは過保護なことよ」
 ところどころ革のめくれたソファに深く腰かけて宿敵の精神的甘さを嘆いた。あんな男を頭に据えた市民にも失望しかない。民衆とはしばしば誤った判断を下す生き物だが。
「どうなさいます?」
「このままじゃ我々の返り咲く日はいつになるか……!」
 薄暗く埃っぽい隠れ家に下男らの切実な訴えが響く。過去の栄華を忘れられない彼らにラザラスは快活に呼びかけた。
「案ずるな。人質なしでも計画に支障はないさ。予定通り竣工式に乗り込んで奴の顔にもアンディーンの神威にもめちゃくちゃに泥を塗ってやろうではないか」
 準備はこの通りできているのだからと屋内に積まれた箱を顎で示す。鼻腔を刺激する芳香にラザラスはほくそ笑んだ。
「おお! やはり決行なさるので!」
「そうこなくては!」
 士気を取り戻した下男らに「明日は頼むぞ」と支配者らしく呼びかける。
 耐え忍んだ苦汁の日々ともそろそろお別れだ。いつまでもローガンごときをのさばらせておく自分ではない。明日すべてを引っ繰り返し、カーリスにあるべき秩序を取り戻してやろう。


 ******


 停泊地が近づいて、にわかに船上が慌ただしくなる。切り立つ険しい山々を背負い、青く深い入江を抱いた階段状の白い街。あれがカーリス共和都市かとアルフレッドは目を細めた。
 カーリス商人なら大抵どこの港にもいるが、彼らの本拠地を見るのはこれが初めてだ。断崖によって防護され、海に対してのみ開かれた天然の要害。地形だけ見れば過去に防衛隊が勤務していたニンフィとよく似ている。だが規模は段違いだった。遠目にもカーリスはアクアレイアに引けを取らない海洋都市であるのがわかる。
「この辺りの海域からは人さらいに注意してほしい。ラザラス一派の海賊行為が今も続いているかもしれない」
 オリヤンの「くれぐれも人気のない海岸に近寄ったりしないように」という呼びかけに、甲板に集まっていた仲間たちが頷いた。危うく家族を奴隷として売り飛ばされるところだった人形芝居一座の話やカーリスで起きた内部抗争の話はアルフレッドも聞いている。十分に警戒せねばと唇を引き結んだ。
「港に着いたらまずは情報収集だな。カーリス人ならアクアレイアの窮状には詳しかろう」
 多少の皮肉をこめてルディアが近づく共和都市を見やる。腕組みした主君にアイリーンがおずおずと尋ねた。
「アクアレイア人がカーリスをうろついたりして大丈夫かしら?」
 大丈夫、と強気に胸を叩いたのはモモだ。
「アイリーンとブルーノは船に残ってなよ。モモたちだけで行ったほうが何かあったとき対処しやすいし」
「ううっ、そう言われるとつらいけど、その通りね」
 非力を自覚しているアイリーンは申し訳なさそうに頭を下げた。無理に同行してもらうより、ここに姿のない白猫と一緒にいてくれたほうがありがたい。アルフレッドが促すまでもなく「そうしてくれ」とルディアも命じる。
「じゃあモモとアル兄と姫様で潜入捜査だね!」
 久々の任務らしい任務に妹はめらめら瞳を燃え立たせた。このところ彼女はよほど窮屈な思いをしていたようで、敵地に赴くというのになんだか嬉しげだ。
「君たちだけでは色々と不都合もあろう。カーリスなら顔がきくし、私もお供させてもらうよ」
「本当か? それは助かる」
 願ってもないオリヤンの申し出に主君が謝意を表明する。どうやらメンツは決まったらしい。アルフレッドはそっとルディアの横につき、馴染みきらない剣の握りを確かめた。
「ここで皆さんとお別れとは寂しくなります。よよよ」
「バウバウッ!」
 名残惜しそうに泣き真似してみせるハイランバオスとムク犬は無視して各自準備を整える。間もなくオリヤンの新型帆船は共和都市の賑わう港へと入っていった。




「おい、竣工式って何時からだった!? 正午からじゃなかったか!?」
「バッカお前、それで焦って仕事片付けてたのかよ! 三時三時、三時の鐘!」
「なーんだ。皆そわそわしてっから、てっきりもう始まるのかと思ったぜ」
「ハハハ! まあ俺もそわそわはしてるがな!」
「乙女像ってどんなかな? めちゃくちゃキレイなんだろなあ」
 通りすぎていくざわめきが妙に耳に引っかかる。竣工式? 乙女像? 一体なんの話だろう。
 髪色を隠すフードを直すふりをしてアルフレッドはちらと辺りを盗み見た。港区域を闊歩するのはカーリス訛りの男たち。漁夫も水夫も商人も荷運び人も皆一様に街の中腹を見上げてはキラキラと目を輝かせている。
「お祭りでもあるのかな? でも今日って精霊祭の日じゃないよね?」
 同じく埠頭を見回したモモが不思議そうに呟いた。人々が浮き足立っているように感じられるのは自分だけではないらしい。連れ合いの中で一番おかしな男まで「確かに少し変ですね」と言い出すほどで、大きな催しの前なのはまず間違いなさそうだった。
 リマニ商館に続く道を歩きながらアルフレッドは注意深く周囲を観察する。よくよく見ればカーリス市民の眼差しには期待と不安、歓迎と躊躇が交錯しており、謎は更に深まった。そんな複雑な心境で彼らが待つのはなんなのだろう。
「――おい、今アンディーンと聞こえなかったか?」
 前を行くルディアが怪訝な顔つきで振り返ったのはそのときだった。情報が集まる場所と言えば商館、ハイランバオスにも古王国内を移動するための手形が必要だろうと言っていたはずなのに、オリヤンを留めて完全に立ち止まる。
「えっ? アンディーン?」
 何故こんなところで祖国の守護精霊の名が出るのだとアルフレッドは眉根を寄せた。「いいから」と静かにするようジェスチャーする主君にならい、今一度喧騒に耳を澄ませる。
「まさか四大精霊の一柱が我々の女神になるとはねえ」
「ローガンがここまでやってくれるとは嬉しい誤算だぜ!」
「音に聞こえたアクアレイアの大神殿も聖像がなきゃ虚しい飾りよ」
 漏れ聞こえてきた声の断片を繋ぎ合わせ、アルフレッドは絶句した。もしや乙女像というのは波の乙女の、アンディーンのことなのか。
「……っ!」
 ルディアの目配せに頷いて路傍に高く積み上げられた荷箱の陰に腰を下ろす。すぐ側では身なりのいい商人たちが雑談に興じていた。情報なら正確なものを有していそうな高級商人の一団が。
「竣工を急がせたのはローガンの偉いところだね」
「ああ、これがラザラスなら五年がかりで馬鹿でかい御堂を建ててからだった」
「わしらには絢爛豪華な神殿よりもアンディーンが確かにわしらの女になったという既成事実のほうが重要じゃからな」
「そうそう、いつ聖王様に謁見してもいいように、ですね」
「まったく午後のセレモニーが楽しみでしょうがないわい!」
 うわっはっはと高笑いしてコットン増し増しの豪商たちが去っていく。総合すると、アクアレイアの大神殿に納められていたアンディーン像がローガンによって奪われ、本日三時に執り行われる新神殿の竣工式後は波の乙女が公式にカーリスの守護精霊になるということらしかった。
「はあああ!? なんなのそれ!?」
 わなわなと肩を震わせてモモが切れる。倫理観の欠如を嫌う妹は「カーリスほんと無理! 十秒以内に消滅して!」と怒り心頭だった。「よその聖域に手を出すとは……」とオリヤンも唖然としている。
「毎度毎度、的確に嫌なところを突いてくる男だな。守護精霊不在はまずいぞ。西パトリア諸国との繋がりがますます希薄になる」
 アクアレイアが文化的にもジーアン帝国に同化したと見なされれば再独立を訴えても周辺国が応じてくれなくなってしまう。そう呟いてルディアは眉間に濃いしわを寄せた。考え込む彼女にアルフレッドはできるだけ落ち着いた声で呼びかける。
「……対策を練ろう。今からでもできることがあるかも」
 祖国のためにも主君のためにも見過ごせる事態ではなかった。それに自分もモモと同じで、どうもこの街のやり方が好きになれない。
「人の女を横取りするってのは最高に気分がいいなァ!」
 広い港のあちこちでカーリス人のはしゃぐ声が響いていた。彼らは儀式には少し早いが見物の場所取りがてら新しい神殿へ詣でないかと相談し合っている。
「モモたちも殴り込みに行く!?」
 今にも斧を振り回し始めそうな妹をどうどうとなだめると、すぐ側でフフッと笑いが起きた。見ればムク犬と偽預言者が、観劇でもするかのように渋面のルディアに熱い視線を送っている。
「面白いことになってきましたし、もうしばらくご一緒してもいいですか?」
 見世物じゃないぞと断りたくとも拒絶できる立場にはない。「妙な真似はするなよ」と釘を刺した主君に続き、アルフレッドも荷箱の陰から立ち上がった。
「どうするんだ?」
「どうするも何も情報が足りん。とりあえず何ができるか考えるために、その神殿とやらに行ってみよう」




 祖国の大神殿が十年の歳月をかけて完成したものということを踏まえれば、カーリスの市民広場に建てられた新アンディーン神殿の慎ましさは納得のいく代物だった。神殿というよりは小聖堂、それよりもまだ祠に近い。大理石の床は小さな家ほどの敷地しか覆わず、円柱の数もたった四本。格式を重んじてか、壁がないため祭壇は吹きさらしになっている。
 急ごしらえで済ませたのはおそらく今後建て増す予定だからだろう。サイズはともかく凝った造りで、梁の帯状装飾や破風部分では貝や魚群のレリーフが黄金色に輝いていた。
「こら、悪ガキ! そっちは立ち入り禁止だ!」
 野太い怒声にアルフレッドは一瞬肩をすくませる。自分に言われたわけではないとわかっていても、こんな場所では冷や汗ものだ。フードを目深にかぶり直し、はぐれないように主君との距離を詰める。
「ここからだとよく見えんな」
「というか何も置いてないんじゃないか?」
 竣工式が間近なためか広場には中央に道を通す形でロープが張られていた。衛兵の守る祭壇にも聖像はまだ祀られておらず、アンディーン像はどこか別の場所で保管されているようである。代わりにと言ってはなんだが、神殿前には多くの露店が立ち並び、気の早い参拝客たちで賑わっていた。
「はあ……、これがアクアレイアのお祭りなら最高だったんだけど」
 げんなりした顔で妹が焼き菓子販売人を睨む。売り子が背中にくくりつけた旗にはでかでかと「アンディーナラズベリーパイ」と書かれていた。見回して確認できるのは他に「アンディーナパン」「アンディーナワイン」「スペシャルアンディーナジュース」などである。アンディーナリリーを模したブローチが売られているのはまあわかるが、大半の商品は波の乙女に無関係だった。
「名前だけあやかった土産物など眺めていてもしょうがない。その辺の衛兵に聖像の所在と式典の段取りを聞こう」
「待て、あなたが行くつもりか? アクアレイア人とばれるとまずい。ここは俺に任せてくれ」
 颯爽と歩き出したルディアを慌てて引き留める。主君にも妹にも「王国人とばれずに聞き込みなんてお前にできるのか?」という顔で見られたが、濃紺や薄桃色の出身明らかな髪色の二人にそんな役を振れるはずなかった。自分の手には余るというならせめてオリヤンに依頼しようと振り返る。が、亜麻紙商に声をかける前にこの問題はあっさり解決した。
「皆さん、いいことを聞いてまいりましたよ! アンディーン像は竣工式までショックリー家で厳重管理されているそうです! 今日の儀式もラザラス派を警戒して手短に済ませるようですね。なんでも女神に愛を誓い、聖像に指輪をはめるのだとか!」
 嬉々として屈辱的なセレモニーの内容を語るハイランバオスは宿主の黒髪と相まって到底アクアレイア人には見えなかった。このエセ聖人めと思わず頬を引きつらせる。彼ならば怪しまれずに色々と聞き出せたに違いない。おかげで危ない橋は渡らずに済んだが、しかし腑に落ちないものは腑に落ちなかった。
「は? 聖像に指輪をはめる?」
 またしてもモモが切れかかる。許しがたいと感じているのはアルフレッドも同じだった。略奪婚だという以上に、海から遠く隔たった広場でそんな儀式を行える神経が理解できなくて。
 波の乙女を敬うなら挙式は船上ですべきである。彼女を陸に縛りつけることはないと、一方のみが一方の主人になることは決してないと、そう誓わねば愛の証明にならないはずだ。
「ほおう、『海への求婚』改悪版か。いい度胸だ」
 あまりの展開にルディアもクククと笑い出す。彼女がこういった反応を示すのは多大な怒りをたぎらせているときだ。推測に違わず主君は極めて好戦的な次の一手を知らしめた。
「この混雑では竣工式が始まれば手出しできん。うだうだ考えるのはやめだ、直接あの男に会うぞ」
 正面突破を告げられてアルフレッドは青ざめた。冗談だろうと見つめ返すが身を翻した彼女の足は怯むことなく貴族街へと進んでいく。
「オリヤン、ローガンの自宅はわかるか? 案内してくれ」
「し、知ってはいるが、大丈夫かね?」
「危険でも行かねばならんときはある。まあ大丈夫だ、なんとかするさ」
 ルディアらしい豪胆さにモモがヒュウと口笛を鳴らした。ハイランバオスもラオタオも他人事だと思ってキャッキャと楽しそうだ。
 いつも通りの主君だと安堵すべきか、無茶するなよと案ずるべきか迷いつつアルフレッドは駆け足で彼女を追いかけた。以前と変わらず力強く、凛として見える後ろ姿を。


 ******

 招かれざる客が訪れたのは昼過ぎ、ローガンが愛息とともに身支度を終えた直後だった。重用する女騎士がすまし顔を少し乱して現れて「あの、オリヤン殿といつぞやのアクアレイア人です」と耳打ちする。
「何ッ!? アクアレイア人だと!?」
 そこで狼狽しなければまだ良かったのだが、なんとも間が悪かった。行進用の台座に乗せた乙女像を見上げて悦に浸っていたものだから、不意打ちすぎてつい大声を出してしまったのだ。
「え!? 来客ってもしかしてあの方々ですか!」
 喜色満面でジュリアンが顔を上げる。さっきまでむっつりと頬を膨らませていたくせに。
「儀式の前だぞ! 追い返せ!」
 会わせたくない気持ちが勝り、そう命じるが、「お父様!」とどやされて結局黙らざるを得なくなる。
「我が子の命の恩人に随分な態度だな」
 広間に響いた不遜な声にローガンはきつく眉根を寄せた。振り返れば大玄関には忌々しいアクアレイア人どもの色彩豊かな頭が四つも並んでいる。前より増えているではないかと隠しもせずに舌打ちした。
「ふん、何が恩人だ。お前たちへの借りならパーキンの印刷機を返してやった時点でチャラになっとるわ!」
「お父様!」
 金の袖を振り上げてジュリアンがこちらを睨む。相応の礼を尽くしてくれと息子は無言で訴えた。だが長年煮え湯を飲まされてきたアクアレイア人相手にへりくだるなどできるはずない。この場で縄にかけないだけで感謝してほしいくらいだった。
「で、一体なんのご用ですかな? 商談なら後日にしていただけませんかね。実は大切な式典の直前で、こう見えて忙しいのですよ」
 青髪の剣士も赤髪の騎士もピンク髪の少女も黒髪の美青年も無視して最奥に立つ亜麻紙商に話しかける。馴染みの豪商は人当たりのいい笑みで「いやあ」と薄いこめかみを掻いた。遠回しに迷惑だと伝えているのに帰る気はなさそうだ。この男もアクアレイア人の味方かとうんざりする。
「なんの用かだと? わかっていて聞くのはよせ。趣味の悪い婚礼衣装を着せおって、貴様こそ女神をなんだと思っているのだ」
 勝手に家に上がってきた非常識な客人は勝手に広間をつかつか進んで聖像を彩るレースやリボンを引っ張った。ともすると絹のヴェールを裂かれそうで、大慌てで止めに入る。
「こ、こら! 触るな!」
 制止はすぐに聞き入れられたが向けられる殺気は増すばかりだった。青髪の剣士――確かブルーノと言ったか――は侮蔑も露わに冷たく言い放つ。
「公開処刑も同然だな。仮に生きたまま捕らわれていれば、陛下もこんな目に遭わされていたわけか」
 無意識にローガンは息を飲んでいた。耳から毒でも流し込まれたかのようにたちまち背筋が凍りつく。
「き、貴様、私に竣工式を取りやめろと言いたいのか!?」
 かぶりを振ってローガンは声を張り上げた。こんな若造に気圧されるなんて共和都市を率いる者には許されない小心だ。ラザラス一派を黙らせておくためにも、これ以上アクアレイア人に隙は見せられない。
「別に? ただ私は、アンディーンは二股をかけられて大人しくしているような女ではないと警告しに来てやっただけだ。ああ、ジェイナスは双子神だから三股ということになるのかな?」
 暗に旧来の守護精霊で満足できない馬鹿者めと罵られ、頭に血が上ってくる。水面下でラザラスたちが「このままではジェイナスの怒りに触れる」とデマを流しているようだと耳にしたばかりだったから、なおさら苛立ちが募った。
「聞き苦しい負け惜しみを。波の乙女を寝取られてそんなに悔しかったのか? そうかそうか! アンディーンは我々カーリス人が貞淑な妻に躾けてやるから安心するといい! 神殿も、アクアレイアのものよりずっと素晴らしい神の家にしてみせよう!」
 さあ帰れと顎で促す。だが青髪の剣士は依然として聖像の前を退かなかった。それどころか愚者の強欲を嘲笑う口ぶりでローガンを煽ってくる。
「アンディーンがカーリスに加護や恩寵を与える気になるとは思えんが。まあせいぜい嫌われないように努力するんだな。知っているか? この石像の内部にはご神体である真球のブルーパールが埋め込まれている。扱いを誤れば一族郎党子々孫々に至るまで災いが降りかかるぞ」
「なっ」
 瞠目し、ローガンはアンディーン像を見上げた。ブルーパールなんて宝石は聞いたことがない。もちろんご神体の話も初耳だ。
「嘘をつけ! 脅かして女神を取り戻そうとしたってそうはいかんぞ! 大体なんで貴様が神殿縁起にも書いていないようなことを知っている!?」
「イーグレット陛下が仰っていたからだ。コリフォ島で、我々とともに最後の時間をお過ごしであられたときにな」
「な……っ!?」
 そうだったか、カーリス兵がアクアレイア王を生け捕りにしそこなったのはこいつのせいかと拳を握る。あの時期にコリフォ島にいたのなら、流れ流れてリマニでラザラスとやり合ったのも納得だった。
「数ある宝石類の中でも真珠は特に柔らかく傷つきやすい。聖像のどこに埋め込まれているかまでは知らんから、うっかり腕など折らんように気をつけろよ? 王家が重んじていた式典時の作法も教えてやれなくてすまないな」
 不敵に笑んでブルーノはフードのついた薄いマントを翻した。なんという腹の立つ男だ。竣工式の中止を要求するのではなく「お前たちはアンディーンの崇め方を知らない」と突きつけることで儀式の失敗を予告するとは。
「知ったことか! カーリスにはカーリスのやり方がある! 帰れ帰れ!」
 息子の前であるのも忘れ、ぶんぶんと腕でアクアレイア人どもを振り払う。もはや一刻たりとも相手をしていたくなかった。敵の戯れ言に付き合ってなどいたら耳が腐る。
 タタッと屋敷の奥のほうから軽い足音が響いてきたのはそのときだ。そちらに目をやり、ローガンは「ヒィッ!」と仰け反った。
「い、犬じゃないか! なんてものを連れてきてるんだ!」
 恐怖する人間を面白がるように茶毛の大きなムク犬が寄ってくる。至近距離まで近づくと無礼な犬は「バウッ!」と意地悪く吠え立てた。
「帰れ! もう本当に帰ってくれ!」
「言われなくても! こんなところに長居したら剣を抜きたくなってくる!」
 ブルーノが出口に向かうと他の客人もぞろぞろと帰り出す。やっと難事から解放されると胸を撫で下ろしたのも束の間、今度は身内の裏切りに遭った。
「あの、レイモンドさんはどちらに? 新聞で読んだんですが、予後は大丈夫だったんでしょうか?」
 立ち去りかけた剣士の腕をおずおず引いてジュリアンが尋ねる。ブルーノはパーキンの印刷物が、ローガンがずっと目をつけていた新技術による通信が、これほど遠い街まで届いていたことに驚きながら愛息に答えた。
「あいつなら北パトリアでぴんぴんしている。心配いらない」
 喜びにジュリアンが頬をほころばせる。一方でローガンは、ますます鼻持ちならなくなるのみだった。
 イーグレットをカーリス人の手で始末できなかったのも、印刷機を我が手にできなかったのも、この猪口才な剣士のせいだ。あんなに可愛くて素直だったジュリアンが「父が失礼をしてすみません」などとアクアレイア人に陳謝するようになってしまったのも。
「ジュリアン! そんな奴らの見送りなんぞせんでいい!」
 玄関扉を開けようとした息子を無理矢理引きはがす。不満げな目で睨まれたが、人に見られて悪い噂を立てられるよりよほど良かった。ショックリー家の跡取りがアクアレイア人と懇意にしていると思われたらクーデターものだ。
 パタンと大玄関の閉じる音を聞いてようやっと息をつく。嫌なタイミングで訪れおってとローガンは唇を噛んだ。あの剣士の顔を見たら、本当に竣工式が失敗に終わる気がしてきたではないか。


 ******


 貴族街にそびえ立つ白亜の館を後にすると、静かに成り行きを見守っていたモモが「ご神体なんてあったんだねー。全然知らなかった」とこぼした。咄嗟の演技に騙されたのはローガンだけではなかったらしい。付近に人通りがないことを確かめてからルディアは「いいや」と首を振る。
「はったりだよ。いずれ聖像を取り返すまで丁重に扱わせるための方便だ」
「ええっ!? 嘘だったの!? モモ信じちゃったじゃん!」
「ああ言っておけばパフォーマンスに使うにしろ用途が限られてくるだろう。盗まれたり壊されたりしたら今以上に厄介な事態になるからな」
 今できる最大限の努力はした。それでも嫌がらせ程度の対応しか取れないというのがつらいところだが、たった数名ではどうしようもない。ローガンの目を盗んで牛五頭分の重さの像を船まで運ぶなんて芸当は考える前から不可能と知れた。胸糞悪いがアンディーンはカーリスに預けておくしかない。
「ひと通り中を見てきてくれたんだよな? どうだった?」
 隣の騎士がムク犬に問う。ハイランバオスの通訳によれば私兵の数は二百を超え、いずれも気合いの入った重装備とのことだった。
「やはり連中によほどの大問題が起きないと……いや、起きてもアンディーン像をどうこうするのは難しいな」
 深々とついた嘆息にハートフィールド兄妹が目を見合わせる。二人とも心底歯がゆそうだった。
 生まれたときから当たり前に側にあった大神殿。そこに何も置かれていないなんて信じがたい。だが現実に聖像はショックリー邸の広間にあった。あれが今からカーリスの所有物になるなど虫唾が走る。王国民の精神的損害を考えるとなおさら気が滅入った。祈りも、祭りも、すべてあの乙女に捧げられてきたというのに。
「殺しましょうか?」
 と、そのとき、詩人の口から物騒な言葉が飛び出した。
「え?」
 聞き間違いかと尋ね返す。振り向いたルディアに偽預言者は顔色一つ変えるでもなく、いつもの薔薇色の笑みを浮かべた。
「あの男、殺しましょうか? 少なくとも儀式は延期になりますよ?」
 あまりにさらりと提案するのでその場は水を打ったように静まり返った。
 惰性で進んでいた足が止まる。不釣り合いなほど青い空が不穏な男を見下ろしている。
「あなたが手を汚すことはありません。カーリスに潜り込ませている私の仲間にやらせましょう。どうなさいます?」
「…………」
 しばし逡巡したのちにルディアは「……いや、いい。何もするな」と断った。期待した返答と違ったか、ハイランバオスがつまらなさそうに肩をすくめる。
「そうですか。まあ突然殺せますよと言われても、頼もうかなとは言いづらいものがありますよね。我が君ならサクッとやっちゃえますけども」
 緩くうねる黒髪で手遊びしながら詩人はそううそぶいた。天帝と比べるのは勝手だが、こちらにはこちらの事情がある。遊牧民とは考えも異なる。そんな意を込めて切り返す。
「道徳的なためらいで不要と言ったわけではない。ラザラスがここのトップになるよりはローガンのほうが数倍マシというだけだ。トリナクリアとカーリスの結びつきが強まればアクアレイアがやりにくくなるからな」
 なるほどと頷いてハイランバオスは指を離した。
「そういうことなら詩的盛り上がりに欠けても仕方ありません。素敵な場面に巡り会えそうな予感がしたんですけれど……。暗殺も襲撃もなさらないなら我々はこの辺りでおいとまさせてもらいましょうか。ではまた後日、近いうちに!」
「ワンワンッ」
 偽預言者とムク犬はこちらが別れを告げる間もなく去っていく。ガラガラと貴族街を行く屋根付き馬車の陰に隠れ、二人はすぐに見えなくなった。
「どうするね? 一旦船に戻るかい?」
 坂の下、遠く眼下に広がる港を示してオリヤンが問う。商館へ足を延ばしてもカーリス人は一人もいまい。彼らは今頃わらわらと市民広場に集まっているはずだ。
「いや、このまま竣工式へ行こう。屈辱的でも現状把握は正確にせねばならん」
 必要な情報はそこですべて得られるだろうとルディアは皮肉交じりに笑った。波の乙女の輿入れだ。カーリス人がアクアレイアの悪口を肴にしていないわけがない。
「ほんっと腹立つ。カーリス全焼してくれないかな?」
「こら、モモ、声が大きい」
「アル兄だってお祭りに出ていい顔してないじゃん!」
 ハートフィールド兄妹が憤りを制御しようと奮闘するのを横目にルディアは長い息を吐いた。左手は無意識にポケットのお守りを探る。頼ってはいけないとわかっているのに。
(アクアレイアのこと以外考えるな)
 落ち着くために目を伏せた。残響は振り払いきれなかったけれど。


 ******


 高らかな鐘の音がごった返しの円形広場に三時を告げる。待ち望んだ儀式の始まりが訪れたと知ると、民衆は騒ぐのをやめ、花売りもパイ売りも大道芸人も見物客の一人となった。ひそひそとさざ波めいた囁き声が吹く風に運ばれる。カーリス市民の聴覚は次第に近づく車輪の音に釘付けだ。
「おお、来たぞ!」
「どれ? どれが女神アンディーン?」
 観衆の前に愛らしい子供らが花を撒き撒き現れると広場は一斉に沸き立った。手前の男に肘をぶつけられそうになり、ルディアはおっとと身をかわす。
 どんどん増えるカーリス人に押される形でルディアたちは広場のほぼ中央に立っていた。右手前方に目をやればこじんまりとした新アンディーン神殿が、正面に目をやれば何列かの人垣の奥に今日の花道が窺える。
 竣工式など名ばかりなのはすぐ知れた。花撒きが先導を務めるのは一般的に結婚式のみである。アクアレイアでのアンディーン祭が求婚に留まるのに対し、ローガンはその先へ踏み込もうというのだ。最初からわかっていたことだが、実際目にすると想像以上に反吐が出た。本当に短絡的にこのパフォーマンスを選んだのだなと。
 ルディアの胸中とは対照的に、花籠を空にした子供たちは誇らしげに神殿へ歩く。恍惚とした笑顔のまま彼らは空っぽの祭壇を囲み、恭しく膝をついた。
 次に広場に現れたのは新郎新婦を乗せた車だ。重たげに、実にゆっくり進むそれを幾本もの縄で引くのは逞しく麗しい青年たち。意外にも聖像の左、花婿の席に座すのはローガンではなくジュリアンだった。少年は唇を曲げ、少しも嬉しくなさそうに晴れた空を睨んでいる。
 ローガンはというと黄金の車から少し遅れて歩いていた。身辺を武装した兵に固めさせ、王様気取りで手なぞ振っている。大切そうに抱いているのが女神にはめる指輪だろう。どんな財宝を贈っても意味がないのに愚かなことだ。
(そう、まったく意味がない。こんな中身の伴わぬ儀式は)
 ルディアは虚飾に満ちた行列をねめつけた。アンディーンの本性はあんな石の像でなく、どこまでも広がる海である。アクアレイア人は彼女の姿を聖像に彫刻こそすれ、海に面した大神殿より遠く引き離すことはしなかった。求婚も、いつだって海そのものにしてきたのだ。たとえ精霊祭の日にどんな嵐が来ようとも。
(アクアレイアに戻ったら詳細に知らせてやろう。カーリス人は結婚ごっこですっかり満足していたと。アンディーンの心にかなうような行為は一度だって見られなかったと)
 耳に入った噂では、聖像を奪われたアクアレイアでは疫病が猛威を振るい、多数の死者を出したという。貴族は他国に逃げ散じ、残った海軍も若狐に顎で使われ、女たちはドナに住まうジーアン退役兵どもに媚びへつらって暮らしていると。
 竣工式の様子を聞けば祖国の民もいくらか安堵するはずだ。だからきちんとこの目で見届けねばならない。くだらない、低俗下劣なこのお遊びを。
「アンディーン! アンディーン!」
「アンディーン! アンディーン!」
 拍手喝采の中を行く乙女像に「何か」が投げつけられたのは、金箔塗りの車がちょうどルディアたちの前にやって来たときだった。
 丸い何かが視界を横切って飛んでいった。次に見えたのはべっとりと台座についた赤い色。辺りに散った残骸から、それが先刻まで広場で販売されていたラズベリーパイだと察するのに大した時間はかからなかった。
 パイは次々に飛んでくる。異変に民衆がどよめき始める。飛距離が足りずにルディアの頭に落っこちてきたパイもあったが、アルフレッドが庇ってくれて事なきを得た。
(まさかハイランバオスの仕業か!?)
 一瞬別れたエセ聖人を疑ったが、すぐにそうでないことに気がつく。パイを投げた男の一人が目に入り、去年の記憶が甦ったのだ。あいつリマニで倒したごろつきだと。
「気をつけろ、何かおかしい。ラザラスの手下が紛れ込んでいる」
 すぐさまルディアは仲間に注意を促した。パイ投げはやまず、あちらこちらで人々がラズベリーソースまみれになっている。
 聖像もジュリアンも汚れて真っ赤だ。怒ったローガンが「やめさせろ!」と護衛に怒鳴った。悪戯者の取り締まりに向かった兵は三割ほどであっただろうか。だがそれでも、生じた隙は十分だった。
「かかれ!」
 誰かの、おそらくラザラスの声が響く。一斉に剣を構える音がして、悲鳴が広場にこだました。
「ローガン様!」
「のわああああッ!」
 あっという間に広場はラザラス派とローガン派の揉み合う戦場へと変わる。一般市民は押し合いへし合い逃げ惑った。その波に飲まれ、たちまちのうちにルディアは仲間を見失う。
「姫様!」
「モモ! アルフレッド! オリヤン!」
 どこだと叫ぶが見回して探す余裕はない。突き飛ばされずに踏みとどまるので精いっぱいだった。甘酸っぱいラズベリーの香りが漂う中、激しい剣戟の音が響く。ふと気がつけば刃の閃きは目と鼻の先であった。
「おのれラザラス! これほど味方を増やしていたとは!」
「我らの双子神に後ろ足で砂をかけたローガンに未来はない! ジェイナスの守る扉は閉ざされた!」
 切り結ぶ兵士たちは辺り構わず剣技を放つ。とばっちりを避けて横飛びするも「貴様、ラザラスの手の者か!」と別の兵士に切っ先を向けられた。
「こっちだ!」
 すんでのところで誰かの腕が伸びてきて、人波に引き込まれる。見上げるとアルフレッドが「ここにいたら帯剣しているというだけで巻き添えを食らうぞ!」とルディアの手首を掴み直した。
「モモとオリヤンは!?」
「さっき二人で逃げるのが見えた! 俺たちも行こう!」
 土煙が舞い上がる。逃げ道を探す人々が進路を塞ぎ、肝心なものが何も見えない。
 まったく酷い混乱だ。右も左もわからないままルディアは広場をひた走った。痛いほど力をこめる忠実な騎士に手を引かれ。


 ******


 港へ向かうはずの道が崖の一端に突き当たる。どうやら通りを一本間違えてしまったらしい。海は見えるが埠頭は遠く、折り返して下っていくような細い脇道も見当たらない。
「……すまん、戻ろう。こっちじゃなかった」
 踵を返し、アルフレッドは土地勘のなさを詫びた。大パニックの市民広場を抜けてきたはいいものの、カーリス人の街で迷子では状況が好転したとは言えない。さっさと安全圏であるオリヤンの船に帰らなければ。
「走りすぎて疲れた。少し休んでからにしないか」
 ここまで来れば平気だろうと主君は無人の岬にどっかりと腰を下ろした。街の外縁らしい断崖には緑が茂り、涼しい木陰ができている。そうそう人の訪れそうな場所ではないし、まあ大丈夫かとアルフレッドも息をついた。念のため右手は剣から離さなかったが。
「死んだかな」
 ぽつりとルディアが問いかける。「わからない」とアルフレッドは率直に首を振った。
 最後に見たときローガンは甲冑騎士の真ん中で威勢良く指示を出していた。ジュリアンも車中に身を伏せていたし、凶刃は届かなかったのではと思う。
「生きている可能性のほうが高いんじゃないか?」
「やはりか。ラザラスの奴、再起を焦って自滅したな」
 カーリスの内乱もこれでほぼ終局かとルディアが嘆息する。彼女としては今しばらく身内同士で争っていてほしかったようだ。共和都市の攻撃対象がまたアクアレイアに移らないように。
「多分すぐローガン派による残党狩りが始まる。我々はもう街をうろつかないほうがいい」
 アルフレッドはこくりと頷く。気の立っているカーリス人がアクアレイア人を見つけて穏便な対応をしてくれるとは思えなかった。主君の言う通り、出航まで大人しくしているのが賢明だ。
「息は整ったか?」
 船へ急ごうとアルフレッドはルディアに手を差し伸べる。その腕を取って身を起こし、彼女はぶふっと唐突に吹き出した。
「ど、どうした?」
「ふふっ、お前、頭がすごいことになっているぞ」
 言われて左手で髪を触るとベタっとしたものがくっつく。ルディアを庇って被弾したラズベリーパイだ。走って逃げるうちに大半は落ちていたが、ソースはまだしつこくこめかみに絡まっていた。
「保護色だから気づかなかった。ほら、これで拭け」
 珍しい出し物を楽しむ顔で彼女が言う。頬を赤く染め、アルフレッドは差し出されたハンカチを受け取った。
「す、すまない。洗って返す」
 主君の前でみっともない。そそくさと汚れをぬぐい、「じゃあ行こう」と呼びかける。するとまたしても盛大に腹を抱えられた。
「今度は髪が真横に跳ねたぞ。笑わせてくれるな」
 堪えきれないと言うようにルディアが肩を震わせる。そんなにおかしな髪型になっているのだろうか。自分では見えないからわからない。
「これで直ったか?」
 こめかみを撫でつけながら尋ねると主君は屈託ない笑みでこちらに長い指を伸ばした。ほんの一瞬、なんの他意もない手が触れて、また離れる。
「よし、では行くか」
 腕を取りたい衝動とアルフレッドは戦わなければならなかった。さっきまではそうする理由があったけれど、今はない。
(……レイモンドなら、理由なんて考えないで動くんだろうか)
 半歩後ろに張りついたまま、手は剣以外に触れなかった。触れられるわけがなかった。


 ******


「あっ! 良かった、二人とも無事みたい!」
 亜麻紙商の大型船に兄と主君が連れ立って戻ってきたのをモモは安堵の目で見下ろす。オリヤンと自分も今しがたやっとの思いで生還したばかりで、探しに出るべきかここで待つべきか思案していたのだ。
「そっちも五体満足なようで何よりだ」
 オリヤンの投げた縄梯子を上ってきたルディアが言う。アルフレッドも肩の荷が下りたというふうに全身を脱力させた。
「髪を洗いたいんだが、水桶を借りていいだろうか?」
「ああ、いいとも。そこの溜め水を使うといい」
「うわっ、頭べたべた! アル兄きたない! そこ座って!」
 フードを下ろした兄を見てモモは眉間にしわを寄せる。綺麗好きの自分にはカーリス人のやり方が二重に信じられなかった。美味しい美味しいスイーツをこんなことに使うなんて。
「食べ物を粗末にするなって親に教わらなかったのかな!?」
「モモ、痛い。もっとそっと拭いてくれ」
 あぐらを掻いて甲板に座すアルフレッドの石頭を濡れ布巾でごしごし擦る。何か文句が聞こえたような気がしたが、力は落とさず頭皮をぬぐった。
「モモ、頼む! 髪が抜ける!」
「ハゲたらハゲたときでしょ! これじゃハンモックに虫が湧くよ!」
「あっはっは! それは困る、しっかり汚れを落としてもらえ」
 騒々しい若者たちに微笑ましげな視線を向け、オリヤンが「大丈夫そうだね」と頷く。荷揚げ関係の仕事をさばいてくるという亜麻紙商を見送ると、モモは再び清掃活動に戻った。
「あいたたた……。まだ頭がひりひりするぞ」
「ダニに刺されたら痛いしかゆいしもっと大変じゃん! モモにありがとうは?」
「うう、あ、ありがとう……」
「オッケー、行って良し!」
「はは、良かったなアルフレッド」
 それまで明るく兄妹のやり取りを見守っていたルディアが顔色を変えたのは、べたつきの取れたアルフレッドが立ち上がってすぐだった。
 ポケットに手を入れて蒼白になった主君を仰ぎ、モモは「?」と首を傾げる。ルディアはすぐに反対側のポケットも探ったが、何も見つからなかったようで、今度は目を皿のようにして足元を見回し始めた。
「姫様? どうしたの?」
 見上げたルディアの額にはじわりと汗が滲んでいる。縄梯子をかけた船縁に駆け寄り、桟橋に目を凝らす彼女はいつ船を飛び出してもおかしくなさそうに見えた。
「何か落とし物でもした? 船の外には行かないほうがいいと思うけど……」
 残党狩りやってるだろうしと付け加える。わかっているからルディアも足を留めているのだとは思うが。
「あのお守りか?」
 モモの知らぬ事情を察したらしい兄が主君に問う。固まったまま返事がないのが十分な返事だったようで、アルフレッドは「俺が行く」と汚れたフードをかぶり直した。
「アルフレッド!」
「日が沈むまでに見つからなければ戻ってくる。あなたは船を出ないでくれ」
 告げるや否や兄は縄梯子を伝い、猛スピードで桟橋を駆けていく。何故止めないのだと瞠目し、モモはルディアを振り返った。普段の彼女なら行かなくていいと命じるはずだ。今はあまりに危険すぎると。
「お守りってなんの話?」
 上手く言葉にできないが、何か噛み合っていない気がして仕方ない。以前は齟齬など感じたこともなかったのに。
「いや、実は……」
 ルディアは話しづらそうで、まだどこか上の空だった。このまま祖国に帰還して本当に大丈夫かと思うほど。


 ******


 先刻ルディアがハンカチを貸してくれた崖の木陰に小さな牙は落ちていた。そっと地面に跪き、首飾りを拾おうとして手を止める。もし見つからなかったと言えばどうなるだろうと考えて。
「…………」
 くだらない空想だ。落ち込んだ彼女を思い浮かべる前に雑念を振り払う。
 革紐を掴んでアルフレッドはポケットにお守りを押し込んだ。幸い残党狩りの手はまだこの辺りまで伸びておらず、岬は静穏そのものである。トラブルに巻き込まれる前に港へ戻れそうだった。
(姫様……)
 見たことのない顔をしていた。人前で取り乱すなど滅多にない人なのに。
 勇ましく、逞しく、常に前を見据えている。それが自分の知るルディアだ。ほかの彼女はほとんど知らない。強くあろうとする彼女しか。
 海へと足を急がせながら、アルフレッドは初めてルディアに謁見したときのことを思い出していた。防衛隊の結成が決まり、彼女に臣下の忠誠を誓った日のことだ。
 ――隊長はあなたに任せます。心ばえ正しく、立派な騎士になってください。
 伯父から貰った片手半剣に美しい王女が口づけを授けてくれた。それだけで胸がいっぱいになったのを覚えている。素晴らしい人が俺を騎士にしてくれた、彼女に仕えている限り俺は騎士を名乗っていいのだと。
 何故色褪せて思えるのだろう。本物の宝石の輝きを前に、宝物だったガラスビーズがつまらなく見えるように。もっといいものを賜った者がいたとしても自分には関係ないと、どうして納得できないのだろう。
 帰り道は短かった。絡まった心の糸がほどけないままアルフレッドは主君の待つ船へと上がった。
「どうだった?」
 傾き始めた太陽が作る濃い影でルディアの顔がよく見えない。「あったよ」とできるだけ平静にお守りを渡せば彼女は小さく息を飲んだ。
「……すまない。手間をかけさせた……」
 うつむいたルディアの目の端が光って見えたのは錯覚か。
 嘆息し、肩をすくめたモモが無言で船室に引き揚げる。アルフレッドはただぼんやりと王女の前に立っていた。或いは何か褒美があるかもと期待を抱いていたのかもしれない。


 出航許可が下りたのは一週間後のことだった。封鎖の解けたカーリス港を後にして船はトリナクリア島へ向かう。
 リマニでオリヤンと別れると別の船に乗り換えた。アルフレッドたちは六月下旬、アクアレイアに到着することとなる。









(20180421)