フスの天候予測はよく当たる。三日ほど待てば出られるだろうと霊妙な右手が告げた通り、ルディアたちはパトリア聖暦一四四二年二月十四日、北東の風吹くコーストフォートの河港に集まった。
 冬は大抵どの船もドックに引っ張り上げられて、船底にこびりついた藻類の除去や防水剤の塗り直しなどの修繕を受ける。この日も広い港にはオリヤンの船団くらいしか見当たらなかった。商売人の影もなく、うすら寂しい光景だ。だがせっかく見送りにきてくれた北辺人一行が無遠慮な衆目に晒されるよりはずっといい。常より高い、黒々とした波の打ち寄せる桟橋でルディアは彼らに向き直った。
「ありがとう。何から何まで本当に世話になったな」
 丁重な一礼に「よしてくれ、水臭い」とイェンスが熊頭を横に振る。
「こっちだってお前らにはいくら感謝しても足りねーんだ。新しい職のこともだし、レイモンドのことだって」
 そう言って彼は隣の息子に目をやった。槍兵は旅立つルディアの隣でなく、留まる北辺人たちの列にはみ出さないで並んでいる。船が出たらすぐに工房へ戻るためか、厚手の毛皮のコートのほかは軽装だ。
 レイモンドを残していくと伝えたとき、まだ我が子と一緒にいさせてくれるのかとイェンスは涙ぐんだ。もちろん彼が謝意を表明してくれたのはそれだけでもあるまい。半年前には想像もできなかった笑みは、親子の仲を取り持った赤髪の騎士にも向けられていた。
「何もかもお前らのおかげだよ、本当に」
 ありがとうなとイェンスが繰り返す。尽きない感謝の気持ちを込めて。
 彼にとっても、レイモンドにとっても、ルディアにとっても、人生の転機となった半年だった。長い忍耐と劇的な変化。アルフレッドが来なければ事態はもっと悪い方向へ進んでいたかもしれない。収まるところにすべてが収まり、本当に良かった。
「叶うならイーグレットと一晩飲み明かしたかったぜ。話したいことは山ほどあるし、きっと盛り上がったのにな」
 残念そうにイェンスが肩をすくめる。もう一度父に会えたら。その空想にはルディアも惹かれるところがあった。
 けれどすぐに考えるのをやめる。再会なら自分は果たした。あの人の優しい背中とも、温かな言葉の数々とも。これ以上を望むのは強欲というものだ。
「そういやあいつ、ヒゲ生やしたんだな。髪も伸びてたし、体つきもがっしりして、すっかり一人前の王様って感じだったぜ」
 そのときふと思い出したように元神官が呟いた。何故イェンスが父の風貌を知っているのだとルディアはぱちくり瞬きする。レイモンドかアルフレッドが話したのだろうか。それにしては実際にあの人と会ってきたかのような口ぶりだが。
「ああ、俺は視えてたんだよ。あの夜俺たちのちょうど真上にオーロラが出たとき、カロを止めるあいつの姿がさ」
 戸惑うルディアにイェンスは霊感鋭い自身の双眸を指差して笑う。彼曰く、イーグレットが娘を守ろうとしたからこそ、本当にルディアを受け入れられたとのことだ。
「……元気でな。カロをがっかりさせねーように、しょうもないことで死ぬんじゃねーぞ」
 元神官はそう言ってルディアに右手を差し出した。握手はしないほうがいいと及び腰だったのが嘘みたいに。
 ごく自然に頬が緩む。それにあの幻と邂逅した人間が自分とカロだけでないことも嬉しかった。イェンスが見たと言うのなら、あのときあの人が側にいてくれたこと、もっとはっきり信じられる。
「父があなたに出会わせてくれたのだと思う。どうか末永くお達者で」
 心をこめて手を取るとイェンスはこちらの腕をぐいと引き、老いてはいるが逞しい胸にそっとルディアを抱き寄せた。「イーグレットの娘なら俺の娘も同然だ。困ったときはいつでも頼れよ」との言葉に目頭が熱くなる。まるで本物の父親に肩を抱かれているようで。
「その言葉だけで勇気が出るよ。じゃあなイェンス。スヴァンテたちもきっとまた、いつかどこかで」
 イェンスから身を離し、ルディアは空中で左右に揺れるフスの右手と北辺人たちに別れを告げた。出航準備の整った帆船からは既に「おーい」とオリヤンの呼ぶ声が響いている。そろそろ船に乗り込まねばならない。
「アル、モモ、姫様のこと頼んだぜ」
 小走りに前へ出てきたレイモンドが騎士と斧兵に念を押す。兄妹は拳を掲げ、任せておけと頷いた。
「そっちも風邪引かないようにね」
「ちゃんと親孝行するんだぞ」
 握り拳を突き合わせ、三人は短いさよならを済ませる。ルディアが「行こう」と促すと桟橋に立ち止まっていた他の面々も歩き出した。
「わあーっ! 素敵な船ですねえ!」
 ハイランバオスとムク犬が先頭切って甲板に上がる。アイリーンにブルーノ、モモにアルフレッドが一人ずつその後に続いた。
 最後に踵を返したのはルディアだ。が、縄梯子に片足をかけたところで「あっ! ちょっと待って!」と声がかかる。なんとなくそうなる予感はしていたが、案の定引き留めてきたのはレイモンドだった。
「あのさ、やっぱりこれあんたが持っててくれねーか?」
 藪から棒に先日渡した首飾りを握らされ、ルディアはえっと瞠目する。不要になったのだろうかとおずおず顔を見上げたが、そういう意味ではないらしい。レイモンドは「離れてる間も俺のこと思い出し……いやっ、違う違う、今のは違う。忘れてくれ」と咳払いして説明を始めた。
「次に会ったとき、言葉で返事が貰えるかどうかわかんないだろ? あんたが俺とは絶対ないって思ったら捨ててほしい。だけどちょっとでも可能性があるうちはポケットに入れといてほしいんだ」
 迷惑じゃなかったら、と子犬のような眼差しで見つめられる。突き返すべきだと思ったのに、何故か咄嗟にそうできなかった。多分手を、お守りと一緒に握られたままだったから。
「……直してくれてすげー嬉しかった。だからなるべく、俺のところに戻ってきたらいいなって思ってる」
 熱を帯びた低い声。聞き慣れなくてざわざわする。早く船に上がらなければならないのに、もたもたしている場合ではないのに、神経毒でも盛られたように動けない。
「まあそれは、あくまで俺の希望なんだけどさ」
 名残惜しそうに、離れがたそうに、革紐の結び目を撫でていたレイモンドの指が引っ込められるまで、ルディアはひと言も口をきけなかった。
 強い危機感を覚える。己のこんな現状に。
「どんな返事でも平気だから」と言いたげな男を見上げ、ルディアは小さく眉をしかめた。彼の謙虚さが嘘だとは思わないが、剥がれやすい塗装であるのは間違いない。
 人間は欲深だ。その気はなくてもいつの間にか、他人の権利さえ自分の権利だと思い込んでしまう。
(こいつ自分が残された理由をまるでわかっていないな)
 つきかけた溜め息を飲み込んでルディアはお守りの首飾りを懐に押し込んだ。冷却期間を置きたいと、もっとわかりやすく伝えたほうが良かっただろうか。上限つきの恋などしないほうがお互いのためだと。
(なんのためにわざわざ私が『ルディア』として生きていくことを宣言したと思っているんだ)
 自分には守るべき国がある。今すぐにではなくたって、レイモンドも結局はユリシーズと同じ道を辿るかもしれない。それなのにあんまり一途に振る舞わないでほしかった。拒む台詞を考えるだけで両手では足りない夜が必要なのに。
「……パーキンのこと、任せたぞ」
「ああ、首根っこ引っ掴んでもアクアレイアに連れてくよ。あんたも道中気をつけて」
 揺れる心はひた隠し、事務的にやり取りを終えて縄梯子を掴み直す。甲板に上がると待ち構えていたアルフレッドが船縁を越える手を貸してくれた。
「よーし、全員位置についたな? 錨を上げろー!」
 出航の号令でにわかに船上が活気づく。オリヤンお抱えの水夫らは右へ左へ忙しく駆け回った。
 ついさっきルディアが使った縄梯子も巻き取られ、甲板の隅に投げられる。行き来不可能となった桟橋を見下ろせば、こちらを見つめるレイモンドと目が合った。
「なるべくさっさと追いかけるから、俺のこと待っててくれよな!」
 五枚もの帆に風を受け、船は早くも進みだしていた。懸命に手を振る槍兵があっという間に後方に遠ざかる。また会おうぜと叫ぶ北辺人たちの声も、呆気ないほど遠く、遠く。
(なんて速度だ。これから真冬の海に出ようというのに)
 耳元で風が吠える。ごうごうと猛々しく、軽い板なら吹き飛ばしそうに。
 けれどどんなに煽られようと最新技術で建造されたオリヤンの大型船はびくともしなかった。イェンスたちのコグ船は少しでも航路を逸れれば難破必至の大揺れであったのだが。
(まさかこれほど頑丈な船だったとはな)
 時代が進歩しているのを感じる。近い将来、海が凍るほど北方の港でもない限り、季節を問わず一年中どこでも交易できる日が来るだろう。そればかりか今までより遠隔の地へ旅する商人、新たな交易路も出現してくるに違いない。アクアレイアだけこの波に乗り遅れるわけにいかなかった。
(待っていてくれと頼まれても、止まれないんだ、レイモンド)
 ルディアはポケットの更に深くに首飾りを追いやった。他のことにかまけている余裕はない。己のなそうとしている難事の大きさを考えれば。
 アクアレイアを取り戻す。そして二度と誰にも踏み荒らさせはしない。
 今はそれ以外の雑念は封じてしまわねばならなかった。たとえそれがどんなに抗いがたい引力を持つものだとしても。




 幼馴染が麦粒ほどに小さくなり、河口の奥のコーストフォートが完全に見えなくなって、アルフレッドはようやくふうと小さな息を吐きだした。いつかのように「やっぱ俺、あっちに乗るわ!」とレイモンドが追いかけてくるのではないか、代わりに自分が船を降ろされるのではないかと内心気が気でなかったのだ。
 オリヤンと今後の予定を話し合う主君にも後ろ髪を引かれるような素振りは見られず、少しずつ胸のつかえが取れてくる。そんな己をどうかと思う気持ちも膨らみつつあったが。
「オリヤンさんの船、すごくおっきいね。ガラス工房が六つくらい入りそう!」
「最新型の帆船ってこんなところまできてるのねえ」
 傍らでモモとアイリーンが商船を見回す。頑健さや積載量の多さにはしゃぐ女たちとは対照的に、ブルーノは姉の腕で依然打ちひしがれていた。目新しいはずの造船技術にかけらの興味も示さずに、虚ろに下を向いている。
 当たり前に側にいた相手と別れて平常心を保てずにいるのは主君よりむしろこの幼馴染のほうだった。王女のふりをする間にブルーノは並々ならぬ愛着をチャドに抱いてしまったらしく、食べ物もほとんど喉を通らない状態が続いている。
 気がかりだが、できることは何もなかった。慰めの言葉もかけ尽くし、あとは時間が解決してくれるのを待つくらいしか。
「ああ、ごめんなさいね、ブルーノ。すぐに船室で休ませてあげるわね」
 アルフレッドの視線に気づいてアイリーンがオリヤンを振り返る。どの客室を使えばいいか船主の指示を仰いだブルータス姉弟は、間もなく下甲板のほうへ消えていった。
「こんな立派な船を買っちゃうなんて、オリヤンさんってすごいんだねー」
 モモは二人にはついていかず、ルディアと亜麻紙商の間に入って称賛の声をあげている。孫娘でも相手にしている気になるのか、オリヤンは細い目を更に細くして妹に応じた。
「ありがとう。しかし本当はこんな船、私には分不相応なんだ。トリナクリアでは金銭の相続が血縁者にしか認められていないからね。こうして時々大きな不動産にしては素寒貧になっているのさ」
 早く帰って商品を売ってしまわないと破産の危機だと亜麻紙商が笑う。それでこんなに慌てて航海に出たのかと納得した。オリヤンは自身の窮乏も顧みず、カロとルディアの決着を見届けてくれたらしい。
「ほう。そっちでは船が不動産扱いになるのか。奥方はとうの昔に亡くなっているのだろう? 誰に財産を譲る気なんだ?」
 他国の相続法に関心が向いたか、ルディアが亜麻紙商に尋ねる。オリヤンは「ここの水夫や寄る辺のない亜麻紙職人たちに、家の代わりになるものくらいは残したくてね」と遥か南東――リマニの方角に目をやった。
 オリヤンはジーアン帝国が東パトリア帝国の南半分に食指を伸ばしたとき、「天帝に支配されるより見知らぬ土地へ逃げたほうがましだ」とトリナクリア島にやって来た職人一族を保護したらしい。それから本格的に亜麻紙の商いに乗り出して成功を収めたそうだ。アルフレッドはオリヤンの豪邸も、褐色肌の職人たちも見たことがないが、彼の屋敷に逗留していたルディアは「なるほど」と合点した様子だった。
「そう、当時は東パトリア帝国内でしか用いられていなかった技術が結構流出したんだよ。逆に天帝の懐に囲い込まれたものも多いと思うがね。ジーアンに連れ去られたという君たちの仲間が無事に戻ってきたら、何か面白い技を習得しているかもしれないよ」
「面白い技か。バジルなら確実に身につけているだろうがな……」
 ルディアとモモが深々と嘆息する。アルフレッドも肩をすくめずにはいられなかった。
 ジーアンの首都、それも天帝宮に囚われているだろう彼を助け出すのは骨の折れそうな話である。なんとか自力で帰国してくれればいいが、ひとりぼっちでは期待もできまい。
「おやおや? 今どなたか天帝と仰いましたか?」
 と、そこに目を輝かせたハイランバオスがムク犬連れで寄ってくる。さっきまで船首近くできゃっきゃと海を眺めていたのになかなかの地獄耳だ。
「ちょうどいい。天帝宮に集められた職人がどういった扱いを受けているのか教えてくれ」
 さして動じたふうもなくルディアがエセ預言者に尋ねる。ハイランバオスの返答によれば、「監視の目さえ気にならなければ素敵な暮らしを送れますよ! 三食昼寝つきで二十四時間仕事に没頭し放題! 東西南北の名だたる研究者、技術者と情報交換できますし、持とうと思えば弟子だって持てます! 外界に関心のない隠者タイプからはこの世の楽園だと言われていますね!」とのことだった。
「五年くらいほっといて大丈夫なんじゃない?」
「こら! モモ!」
 妹のあんまりすぎる言いように思わず声を張り上げてしまう。アルフレッドが「いくらなんでもバジルが可哀想だろう!」と叱るとモモは「うわ、アル兄聞いてたの?」と引き気味に眉をしかめた。
「そりゃモモも元気で帰ってきてほしいとは思ってるけどさー、バジルのために時間も戦力も割いてられないのは事実だし……」
「事実だとしても言い方というものがだな……」
 あれだけ自分を好意的に見てくれる相手になんて冷たい態度だろう。いや、そもそもモモは身内に対しても容赦ないが。
(バジルがモモを好きなのはバジルの勝手だと考えているんだろうな)
 恋心を向けられたからといって同じだけの恋慕を返してやる義理はないと。反論する余地もない正論ではあるけれど。
 まったく人の世は尽くした分だけ報われるようにはできていない。積年の愛も努力も認められるのはほんのひと握りだ。
(だからって諦めてしまったら、本当に振り向いてもらえなくなる――)
 無意識にルディアに目をやって、アルフレッドはぶんぶんとかぶりを振った。自分のいない間にレイモンドが主君の中で特別な人間になったように、槍兵のいない間に自分も差を縮めなければ。そんな浅ましい発想がもたげてくるのが信じられず、憂鬱は深まった。
 すぐ側ではハイランバオスがムク犬と戯れながら「ジーアンのこと、もっとお話ししましょうか?」などと言ってルディアに頬を近づけている。この油断ならない男が同乗している船において、味方が一人減っていることを嘆くならまだしも、自分がほっとしているだなんて思いたくなかった。
(関係ない。レイモンドと姫様がどうでも)
 自分は自分の忠誠を貫くだけ。そうすれば望む信頼はきっと得られる。彼女はいつだって臣下の働きをしっかり見てくれているではないか。
 重用される騎士でありたいが寵愛を求めているわけではない。そうだろうと強く己に問いかける。胸のざわめきが静まるまで。
「ジーアンか。それより今はアークについて聞かせてほしいな」
 苦悩するアルフレッドに勘付いた様子もなく、ルディアがハイランバオスを促す。すると彼は「これ以上は秘密です」と人差し指を立てて首を横に振った。
「だってあんまり喋ってしまっては面白くないでしょう?」
 仲間にしろとは言われたものの、ハイランバオスが真の意味で仲間入りする日は来なさそうだ。どこまでも愉快犯といったふうの男にアルフレッドは眉をしかめる。
(姫様の身に危険が及ばないように、もっとしっかりしなければ……)
 誰にも見られないように剣の柄を握る手に力をこめた。どんなときも主君を支える。それだけが歩むべき騎士の道だ。
(今はとにかく、王国やジーアンやアークのことを考えよう)
 蟲を生み出す神秘のクリスタル。アレイアのアークを管理するのはコナー・ファーマーだとハイランバオスは言う。バジルの救出もアクアレイアの奪還もなさねばならぬ大仕事だが、コナーの保護もその一つだろう。
 天帝の魔手が伸びる前にどうにか彼を探し出さなくては。一体あの天才は、今頃どこで何をしているのだろうか。


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 三軒隣の家の子のだと思っていた赤ん坊のぐずり声が、ベッドを並べた隣室からけたたましい泣き声として響き始めたその瞬間、なけなしの集中力は弾け飛んだ。画材と本と原稿をろくな分類もせず詰め込んだ棚だらけの狭い書斎でコナーはふうと顔を上げる。今日の作業はここまでのようだ。
「すみませんねえ、うるさくしちゃって」
 椅子の上で伸びをするこちらの気配が伝わったのか、赤子を抱いた中年女がドアを開いて詫びてくる。ノックもなしで済ませられるほど気心の知れた――かれこれ一世紀近い付き合いの――彼女はコナーの筆が止まっているのに目を留めて、「この子を散歩にでも連れ出せりゃいいんですが」と肩をすくめた。
「いや、いいさ。どうせ今日は大して気乗りもしていなかった」
 雪深い山中の、冷えきった隙間風に凍えきっていた指先を、自分の息で温めながら首を振る。書き物机にはアクアレイア史が草稿のまま放り出してあった。以前一度書いたものはジーアンに置いてきてしまったので、改めて書き直しているのだ。
 まったく同じものを再度出力するだけならば労というほど労ではない。実際完成度は八割超というところまで来ていた。だが難しいのはここからだ。
 歴史書が書き上がれば間違いなく政治利用されるだろう。滅びたのは王国の名前だけで、アクアレイア人の精神も肉体もジーアン人のそれに置き換わったわけではない。地理的には西パトリアに属するあの一帯が、この先動乱の地となる可能性は高かった。
(この子もまた王家再興の切り札というわけだ)
 コナーは丸椅子から立ち上がり、女のあやす赤子の茶色い巻き毛を撫でる。アウローラの器は既にマルゴー人の乳児のものに換えてあった。聖パトリアの尊い血を引く肉体はアークに収め、空っぽのままで育てている。必要となればもとの宿主に中身を移すこともあろう。これからの数百年も、アクアレイアが東西交易の中継点でいられるように。
(しかしすべてはジーアンの出方次第だな)
 東西世界の軍事的均衡は崩壊してしまっている。ジーアンが再び西方へ侵攻を始めれば止められる国はあるまい。誰かが西パトリア諸国の王に悪知恵でも貸さない限り。
「…………」
 一人だけそういうことをやりそうな男を思い出し、その読めなさに苦笑とも微笑ともつかぬ笑みを浮かべる。「どうしたんです?」と女に問われ、コナーは「いいや」と小さな王女から手を離した。
 アークの使命は人類の文明を発展させること。平和が近道なら平和を、争いが近道なら争いを、状況に応じて使い分けるのみである。
 時代の潮流が渦巻いている。世界はただ一つの強国に同化するべきか、或いは多様性という名のバランスを保つべきか、見極めるのが己の仕事だ。人々を守護し、導く者が現れるその日まで。
(いい加減あの男も動き出すだろう。さて、そのとき私はどうしようかな?)
 小さな机のすぐ上に貼りつけてある世界地図を振り返る。ここ数年、世界を揺るがす震源地であったバオゾを見やり、コナーは静かに口角を上げた。


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 忌まわしき裏切りの日からちょうど一年。何事もなく目覚めた身体にただの一つも不具合がないことを確認し、ヘウンバオスは拳を固く握りしめた。
 天蓋の下には波打つ綾織の絨毯。二重に掛けられた分厚い毛布を跳ねのけてパトリア風の寝台を降りる。無駄に広い部屋を突っ切り、控えの間へのドアを開けたら二人いた衛兵の両方が引っ繰り返った。
「ヘ、ヘウンバオス様!?」
「お待ちください! どちらへお行きになるのですか!?」
 つかつかと無言のままに宮殿内を歩き続ける。伸びるに任せた髪を揺らし、薄汚れた錦の衣を引きずって。
 目当ての人物は当人が「しばらくここにおります」と宣言した書庫で書物の山に埋もれていた。前触れもなく現れたヘウンバオスをひと目見るなり古老の瞳が瞠られる。さすがにジーアン十将の一角は腰など抜かしはしなかったが。
「久々に顔を見た気がするぞ、ファンスウ」
 龍爺とあだ名される老人にガラガラの声で呼びかける。ファンスウは椅子を降り、その場にさっと片膝をついた。薄い黒髪に覆われた知恵者の頭を見やりつつ、ヘウンバオスはきっぱりと告げる。
「一年の間、この身に異変は起こらなかった。だからもうあと十年は、やはり何も起こらないと信じる。……でなければ我々は死を迎える前に死んだも同然だろう?」
 耳にした言葉に古龍が肩を震わせた。「きっと戻ってこられると信じて待っておりました……!」などと目頭を押さえられ、「感激されるほどのいわれはない」と嘆息する。
 いつ来るかわからない終わりに対し、腹を決めるのに一年もかかった。それほどに千年の誤謬は重かった。永遠が閉ざされたものであることはもっと。
「世話をかけてすまなかったな。身なりは今日中に整える。だがその前に二つ聞かせてくれ。ハイランバオスは今どこだ? アークが何かはわかったか?」
 矢継ぎ早に問いかけるとファンスウは渋面でディラン・ストーンの足取りが北パトリアで途絶えたこと、ダレエンとウァーリが負傷して戻ってきたことを話した。彼らはいつでも動けるようにアクアレイアで待機中だそうだ。要するに片割れはまんまと逃げおおせたらしい。
「なるほどな。わざわざ私に敵対すると告げて出ていったくらいだ。簡単には捕らえさせてくれないか」
「体たらくを晒して面目ない」
「構わんさ。この一年、一番情けなかったのはどう考えても私だろう。それでアークのほうはどうだ?」
「そちらもただいま解明中でございます。正体まではとても掴めておりません」
「ごく些細なことでもいい。何か判明したことはないのか?」
 この質問には多少詳しい回答が返された。古龍は聖櫃の登場する神話や民話を集められるだけ集めてくれたらしく、その成果が語られる。
「調べた中で最も有力な情報は大パトリア帝国時代の話です。伝承によれば、昔は色とりどりの頭をした人々が大パトリアの都に住んでいたのだと。しかし国力が衰え始めた頃から黒か茶色、せいぜい赤毛の子供しか生まれなくなり、帝国の分裂を招く一因になったとか……。なお分裂の際、東パトリアの指導者が聖櫃を奪って逃げた先が今のノウァパトリアだと伝えられております」
 ぴくりと両耳を跳ねさせてヘウンバオスはファンスウを見やる。「ではノウァパトリアにアークがあるかもしれないのか?」と問うと古龍は盛大な溜め息をついた。
「どっこい古代には馬鹿げた聖櫃信仰がありましてな。アークは砕かれ、粉薬にされ、ある長命な皇帝に飲みきられてしまったと複数の資料が伝えておるのです」
「何? アークが飲みきられただと?」
 驚いて尋ね返すと老人がこくりと頷く。ファンスウによれば「色とりどりの頭をした住人が暮らす街」の伝承は余所にも二つ三つあったらしいが、いずれも今はありふれた髪色の人間しか生まれておらず、アークという名が登場したのも大パトリア帝国に関するものだけだったそうだ。
「一応ノウァパトリア宮をくまなく捜索させておりますが……。アークが出てくることはまずないでしょうな」
「ああ、私も同感だ。そんなところで見つかる程度のものならあれが放置しておくまい。……と思わせておいてやはり出てくるかもしれないのがあの疫病神の面倒なところだが」
 腕を組み直し、仕入れた情報を頭の中で素早くまとめる。取れそうな方策は少なかった。だが選択肢が増えるのを待っている余裕はない。できることには片っ端から手をつけていかなくては。
(同胞たちはどれだけ私のもとに留まってくれているのだろう? 力を貸してほしいなどと泣きつくつもりは毛頭ないが、人員不足は手痛いな)
 頭を振って弱気を散らす。叱咤のつもりでヘウンバオスはぴしゃりと己の頬を打った。一歩でも二歩でも進んでから文句を言え。お前はまだ何一つなしていないではないか。
「大パトリア帝国にも色とりどりの頭をした住人がいたと言ったな? まずはそれと脳蟲、アークにどこまで関連があるか調べるぞ。至急調査団を結成し、アクアレイアに派遣しろ」
「はっ!」
 仰せのままにと古龍が言う。水を得た魚のごとく必要な物資を羅列し始めた彼に任せておけば手配は問題なさそうだった。アクアレイアの徹底調査。光明を見いだせるとしたらそれしかないと、ファンスウにもわかっているのだ。
(他にも蟲が存在するのだ。我々と同じ形をした蟲も世界のどこかに生息しているやもしれん)
 彼らなら自分たちを快く迎えてくれるのではないか。であればそこをレンムレン湖と呼んでも差し支えないのではないか。
(脳蟲の巣たる条件が明確になれば、そういう水辺を探しやすくなるはずだ。我々に残された時間を効率良く利用して――)
 それでももし第二の故郷が見つからなければアクアレイアをレンムレン湖に作り変えてしまえばいい。我々とは似ても似つかぬ先住民など追い払って。
(まがいものでも宝は宝。あの地は誰にも渡さんぞ……!)
 アクアレイアはバオゾから遠い。陸続きのドナやヴラシィとも違い、間にはアレイア海が挟まっている。速やかに守りを固めなければ。
「調査があらかた終わり次第、西方に版図を広げる。アクアレイアを囲む形でだ」
 戦争続行の意志を示すとファンスウは深く頷いた。天帝再起の一報は、瞬く間にバオゾ中の蟲たちの知るところとなる。


 ******


 ――やばい、やばいぞ。すごいものができてしまった。
 高鳴る鼓動を抑えつつバジルはごくりと息を飲む。あんまり手汗が滲むので仕上がったばかりの新作を落として壊してしまいそうだった。慎重に枠を持ち直し、高く掲げて出来映えに見とれる。
 天帝宮のアトリエで生活をともにする職人たちに教わったのは透明ガラスの新製法。ある特定の木灰を原料に混ぜ込むことで不純物を分離させ、くすみも色も除去してしまうという驚きのやり方だ。そして今回、その板ガラスの片面に試しに水銀を広げてみたら、すさまじいまでにくっきりと世界を映す『鏡』が誕生したわけである。この一年、目覚ましい進歩を遂げている自覚はあったが、またしても己は技術者としてレベルアップしてしまったらしい。
「はあ、すごい……。磨いた銅板なんかより輪郭がずっとはっきりしてる……。なんだこれは? 寝てる間に天使が水銀をいい感じに固めてくれたんじゃないのか……?」
 一点の曇りもないガラス鏡は美しいとしか言いようがなかった。向かい合う己の顔は気持ち悪いほどにやついていたが、自制心より喜びが勝る。三つ編みを翻し、バジルは割り当ての個室から奥宮の中庭に飛び出した。
「はああ、すごいすごい! この鏡は世界に革命をもたらしますよ! これは誰かに自慢したっていいですよねえ!?」
 興奮過剰なひとり言を呟きながら大股で柱廊を歩む。ここの通路は大部屋、小部屋、各アトリエと大多数の生活空間に面しているので騒ぐのはマナー違反だが、到底我慢できなかった。だってすごいものができたらすごいと叫びたいではないか。万歳してそこら中を走り回りたいではないか。
「タルバさん! タルバさーん!」
 それでもできるだけ控えめな声でバジルは衛兵の名を呼んだ。天帝宮の奥庭と奥宮を繋ぐ細いトンネルの出入口で、見張りに立つ年若いジーアン兵が顔を上げる。
「よう、どした?」
 こちらを見やって青年は表情を明るくした。遊牧民らしい羊毛の帽子、模様の入った立襟の装束、少し黄色がかった肌、三白眼気味の双眸は短い髪と同じ暗めの亜麻色で、どこからどう見ても典型的なジーアン人だ。だが彼は最初にバジルをこのアトリエに放り込んだ恐ろしげな大男たちと違い、職人の技能に並々ならぬ関心を持って接してくれる、半ばこちらの仲間のような存在だった。
「その顔はまた面白いモン作ってきたな?」
「ふふふ、これを見てください!」
 バジルは得意満面で背中に隠していた鏡を差し出す。吊り目を瞠り、タルバは「うわっ!」と仰け反った。
「か、鏡? びっくりさせんなよ、俺がもう一人増えたのかと思っただろ!」
 青年はバジルの持つ四角鏡をまじまじ見つめる。銅や錫を磨いたものでないことは彼にもひと目でわかったらしい。ほおおと感嘆の息をつかれる。
「こういう宝は見覚えがないな。献上すれば女帝陛下のお気に召すんじゃないか?」
 奥宮における最上級の誉め言葉を頂戴し、バジルは「いや、そんな」と鼻の下を指で掻いた。見え見えの謙遜を咎めもせず、タルバは「これなら天帝陛下にお見せしたって恥ずかしくないぜ」と続ける。
「お前の作るモンはすごいよ。この間のレースガラスも貴人方に大好評だったんだぞ。よく次々とアイデアが湧き出すな?」
「いやいやいや、他に何もすることがないので捗ってるだけですよ。この程度、大したことじゃありませんって」
 さすがにこそばゆくなってきてバジルはぶんぶん首を振る。しかしタルバは職人という存在への憧憬を隠そうとしなかった。
「俺も何かを生み出す技術を習得しとくんだったなあ。何年生きてたって結局何も残せないなら最初からいなかったのと同じなんだ」
 声に混じった寂しげな響きにややたじろぐ。青年の顔を見上げると、快活な目が陰っているのに気づかぬわけにいかなかった。
 詳しいことは知らないが、現在タルバは人生の岐路に立っていて、天帝宮で働き続けることに迷いがあるそうだ。バジルは彼に兵士だって名誉ある職だと言うのだけれど、いつも曖昧に首を振られる。
 ――辞めるなら少しでも時間のあるうちに辞めたほうがいいんだよ。仲間も皆そうしてる。でもまだ俺、どっちがいいのかわかんなくて。生まれてきたの無駄だったって思いたくないから、せめて子供でも欲しいって思うんだけど、世話になった人たちを置いていくのは踏ん切りがつかなくて……。
 タルバがそれ以上語ろうとしないのでバジルも深く聞けずにいる。ただ彼が軍を抜けてしまうと話し相手がいなくなるのがつらかった。
 天帝宮にはアクアレイア人が一人もおらず、学者も職人も通常は地域ごとのコミュニティから出てこないためバジルは一人になりやすいのだ。別にいじめられているわけではないし、時には共同研究もするけれど、しかしやはり一番話しやすいのは年頃も近く気さくなタルバなのである。
「どうする? その鏡、俺が女帝陛下のところに持ってこうか?」
「あ、いえ、これはまだ記録を取りきれていないので……」
「おいタルバ、伝令だ」
 と、そこにあまり見かけたことのないジーアン兵が駆け込んでくる。さっと鏡を背後にやるとバジルはすぐ側の彫像の陰に退いた。
「珍しいな。何かあったのか?」
「何かあったどころじゃない。実は今さっき……」
 異国の友人はやって来た男と何やらごにょごにょ話し込み始める。「えっ!? ヘウンバオス様が!?」と気になる声が響いてきて、つい耳が大きくなった。
(ヘウンバオスがなんだって?)
 天帝の名前に反応し、無意識に前のめりになる。そんなバジルを人相の悪い兵士が「おい」と睨んだ。
「ヒッ! す、すみません! 盗み聞きするつもりでは」
 震え上がるバジルに対し、男はぞんざいに首を振る。兵士の口から出てきたのは「職人ども、大急ぎで虫眼鏡を百本作れ」という想定外の注文だった。
「へえっ!? む、虫眼鏡を百本!?」
 面食らって尋ね返す。そんなものを何に使うのだと瞬きしていたら「余計なことは考えずにさっさとしろ! これは天帝陛下のご命令だ!」と叱られた。更に男は「バジル・グリーンウッド。お前はいつアトリエを出ろと言われても出られるようにしておけよ」などと名指しで告げてくる。虫眼鏡の発注は奥宮全体への通達らしいがこちらは個人に与えられた指令なのが引っかかった。
「な、な、なんでです……?」
 なんだか嫌な予感がする。おっかなびっくり理由を問う。問いかけに対する返答は、あまりに無慈悲なものだった。
「お前はラオタオ様のいるドナへ移ってもらうことになっている」
「ラ……っ!?」
 一気に目の前が暗くなる。聞き間違いだと思いたかった。狐目の酷薄な男と廃墟同然だったドナの記憶が甦り、愕然と立ち尽くす。その間に伝令の兵士は足早に細いトンネルを引き返していった。
「なっ……なっ……、なんでよりによってラオタオ……様のところなんですかあああ!?」
 半泣きでバジルはタルバにすがりつく。だがあいにく彼も天帝の思惑までは聞かされていないらしく、明瞭な答えは返ってこなかった。
「た、多分お前がここの職人連中で一番腕がいいからだと思うけど……。ドナってことは、退役兵のための贅沢品をお前に作らせたいんじゃないか?」
 あの綺麗なレースガラスとか、と青年が人差し指を立てる。苦心して工法を編み出した作品が己を窮地に追いやるなんてとバジルはさめざめ泣き伏せた。こんなことならもっと大人しく目立たないようにしていれば良かった。
「そんな嫌かよ? めちゃくちゃ怯えてんじゃねえか」
「嫌に決まってますよ! ジ、ジーアン人のあなたに言うのもなんですけど、あの人ちょっと加虐趣味がきついじゃないですか……!?」
「あ、ああー、まあな」
 バジルの必死の訴えにタルバはしばらく考え込む。真剣な表情で何を悩んでいたのかはわからないが、顔を上げた彼の「よし、決めた」という声には強い力がこめられていた。
「俺も衛兵引退してお前と一緒にドナへ行くぞ!」
「へええっ!?」
 思いがけない提案にバジルは目を丸くする。自分としては彼がいてくれれば頼もしいが、タルバはそれでいいのだろうか。
「ほ、本当に退役する気なんです? 簡単にそんなこと決めちゃ駄目ですよ! きっとお給料いいんでしょう? 宮廷勤めの兵士と言えば、普通は一生安泰で、女の子にもモテモテで」
「ははっ! お前はいい奴だな、バジル。けど俺も、この一年考え抜いたことなんだ」
 ドナへ行くよとタルバが言う。一抹の後ろめたさの滲む声で、それでも心を変えるつもりはなさそうに。
「向こうに着いたらガラス作りを教えてほしい。深くは話せないんだけどさ、実は俺、もうすぐ死んじまうかもしれなくて……。だけど何か残したいんだ。一つでも多く、自分の生きた証を」
 真摯に「頼む」と乞われてバジルは口ごもった。ガラス作りくらいいつでも好きなだけ教えるけれど、もうすぐ死ぬとはどういう意味だ?
「……何か悪い病気なんです?」
「そんな感じだ。まあお前にはうつらないよ」
 タルバは笑ってバジルを安心させようとする。恵まれたジーアン人の若者と思い込んでいた自分が急に恥ずかしくなった。重い事情の一つもなく上級兵士が下級職人に憧れるはずなかったのに。
「……僕に任せてください! 四ヶ月、いや三ヶ月で一人前のガラス工にしてみせます!」
 握り拳で胸を叩くとタルバがふふっと吹き出した。
「ありがとう。やっぱりお前、いい奴だな」
 くしゃくしゃの笑顔から憂いが消えてほっとする。死病ではあるが肉体的な苦痛はないと聞き、少しだけ胸を撫で下ろした。
「お医者さん紹介しましょうか? 友達の実家が薬屋で、ツテが使えると思うんですけど」
「いや、いいよ。気持ちだけ貰っとく」
 断られてから医療は東のほうが進んでいることを思い出して縮こまる。何かできたらいいのにともどかしい気持ちでタルバを見上げた。アクアレイア人の自分がジーアン人と馴れ合いすぎるのは危険ではないかと感じながら。
(いやでもタルバさんはいい人だし……)
 軍を抜けるなら戦場で殺し合いになる可能性は低いだろう。だったら彼とは本当の友達になれるかもしれない。
「さあ、とっとと荷物をまとめろよ。ドナだったらアクアレイアは対岸だし、ラオタオ様のご機嫌次第で家に帰れるかもしれないぜ!」
「うわわっ!」
 思いきり肩を押されてつんのめった。転倒しかけたバジルを見やってタルバはいたずらっぽく笑う。
「虫眼鏡の件は俺が皆に伝えといてやるよ」
 そうだった、至急の納品があるのだったと思い出し、バジルは慌てて自分のアトリエへ駆け戻った。彼の言うように一時帰国のチャンスが巡ってくるかもしれないし、しっかり準備しておかなければ。
(帰れなくてもモモたちに連絡くらいはできるかも)
 そう考えると頑張る勇気が湧いてくる。バジルはよし、と拳を握った。
(ラオタオは怖いけど、僕は戦い抜いてみせるぞ。モモ、見ていてくださいね……!)
 思い浮かべた愛しい少女は妄想でさえ「なんでモモがバジルなんか見てないといけないの」と言いたげだったが、気にせず荷造りを進める。現実の彼女は更につれないかもしれないが、それでもやはりもう一度会いたかった。たとえ永遠の片想いだとしても。


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「ええっ、あの素敵なレース柄の器を作る職人をドナへやるですって!?」
 寝耳に水の報告にまどろんでいた緋色のソファから飛び上がる。驚愕はすぐさま立腹に変わり、女帝らしい威厳ある態度など忘れさせた。
「ヘウンバオス様はそうやって、退役兵の機嫌ばかり取るのね!? 私のことなどちっとも気にかけてくださらないのだから!」
 怒り任せに掴んだクッションを思いきり床に叩きつける。伝令ついでに立ち寄ってくれた衛兵はうわっと身を屈め、気の毒そうにアニークを見上げた。
 彼のこの表情が今の自分のすべてを物語っている。閉じ込められた籠の鳥。そのうえ半ば捨てられた。
(酷い、酷いわ、ヘウンバオス様。あのレースガラスの繊細な模様を辿るのは日々のせめてもの気晴らしだったのよ)
 意思を持つ存在となり、二年にもならない己を憐れんでくれたのは嘘だったのかと泣けてくる。あの方を思えばこそ側近くに留まったのに、どうしてドナで遊び暮らす連中ばかりがいい目を見て、こちらは旅行の願いさえ聞き届けてもらえないのだろう。死ぬ前に一度でいいから西パトリアの地を踏んでみたい。それ以外の望みは今まで一つも言わずにきたのに。
(こんな我慢を強いられるくらいなら私もさっさと抜ければ良かった)
 天帝から分裂した蟲であるというプライドが、弱りきった夫に対する同情心がアニークを天帝宮に引き留めた。だが砂城はもはや崩れかけている。
(ヘウンバオス様が最後に来てくれたのはいつ? 薔薇水を振りかけてあの方を待った夜は……)
 次々と減っていく同胞の召使い。ただの人間に囲まれて生活するのはいつもどこか気が張った。心細さに寄り添ってくれたのはサー・トレランティアだけである。いかなるときも主君のために行動する堅物騎士。
 アニークはソファ脇の書見台を振り返り、騎士物語を手に取るときつく胸に抱きしめた。もう何度読み返したことだろう。これだけが今の自分の生き甲斐だ。
(サー・トレランティアの見たものを私も見たい。たったそれだけのことじゃないの)
 抑え込んできた不平不満はもはや爆発寸前だった。一年前の自分なら「願いを叶えてくだされば、残りの人生はすべてヘウンバオス様に捧げます」くらい誓っただろうが、今は嘘でも言えそうにない。たとえ根っこが同じでも、私の人生の花も実も私にしか育てられない大切なものだ。
(つぼみのまま死んでいくのが可哀想だと仰るなら、快く見送ってくださればいいのに)
 短い一生をせめて納得いくように過ごしたい。あの方はそれをわがままだと言うのだろうか。千年も夢という名のわがままに仲間を付き合わせてきたのは他でもないヘウンバオスなのに?
(別にあの方をなじりたいわけじゃないけど……)
 さして大きいとも思えぬ願いを断られ続けるのはつらい。女帝の身体で旅に出るのが駄目なら別の身体と交換すると言えば「今は必要最低限の手も足りんのだ」と十将たちに却下されるし、待てば待つほど後回しにされるばかりではないか。
「……もういいわ、私だってもう勝手にやるわ……!」
 荒んだアニークの宣言に衛兵は「ええっ!?」と声を引っ繰り返した。彼は目を白黒させてアニークをたしなめる。
「女帝陛下、いくらなんでもそれはまずいです。ただでさえ大変なときなのに思いつきで勝手な行動をされては……」
「何がまずいの? アクアレイアはジーアン領よ? 自分の伴侶の国なのに、皇帝が自由に出歩けないはずないでしょう」
「はあ!? ま、まさか国外に出るおつもりで!?」
「そうよ! そのおつもりよ!」
 絶対に西パトリアへ行ってやる。そして物語に出てくるような騎士を探し、誠心誠意己に仕えさせるのだ。このまま何もせずに終わるなど耐えられない。憧れの世界を見ないで終わるなど。
「アニーク、ここか?」
 そのとき聞き知った声がして、アニークの専用図書室に美しい青年が入ってきた。豊かな金髪を結い垂らし、豪奢な毛織の装束を身に着けた男が。
「ヘ、ヘウンバオス様!?」
 晩春からついぞ見かけなかった天帝の来訪にアニークは仰天する。夕暮れの燃え立つ赤さを思わせる双眸と目が合うと、石化したように動けなくなった。
(ま、まさかさっきの話、聞かれてたんじゃ……)
 冷汗が頬を伝う。しかし懸念はただちに払拭された。荒れた室内を見回してヘウンバオスが告げたのは「今まですまなかったな」という謝罪の言葉だったからだ。
「えっ……」
 にわかに胸が高揚する。ついに自分にも順番が巡ってきたのだという予感は今度こそ裏切られなかった。アニークの夫は、父なるその人は、同胞の願いを忘れずにいてくれたのだ。
「ファンスウに船の用意をさせている。調査団と一緒にお前もアクアレイアへ行くといい」
 調査団とはなんのことかアニークにはわからなかったが、行っていいというひと言だけで歓喜には十分だった。アクアレイアに旅立てる。まだ見ぬ騎士に会いに行ける。そう思っただけで踊り出しそうになる。
「ありがとう、ヘウンバオス様!」
 抱きついて感謝を示すアニークにヘウンバオスは頬をほころばせた。「元気になってくれて嬉しい」と額をすり寄せる。「お前を笑顔にできて嬉しい」と彼も囁く。
 暗鬱に陥りがちな心が今日はどこまでも晴れやかだった。この先に待つ嵐の気配など微塵も感じさせないほどに。


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 早馬から受け取った書状を狐男がうんざり顔でユリシーズに投げてきたのは天帝が動き始めたおよそ半月後のことだった。
「やれやれ、今度は女帝とそのお供たちをお迎えに上がれだと」
 ジーアン語で書かれた指令をアレイア語で説明しながらラオタオが嘆息する。彼は帝国上層部に足として使われるのが不満らしい。つい今しがたこのドナの砦まで船で送り届けさせた相手を前に、なんともご立派な文句である。
「女帝というとアニーク陛下で?」
 尋ねるとラオタオは前々からアニークがアクアレイアに来たがっていたことを教えてくれた。そう言えば防衛隊の隊長がバオゾ滞在中に仲良くなったとか聞いたなと思い出す。まったく馬鹿女の使い走りとはと胸中で舌打ちした。
 しかしノウァパトリアまで船団を出す口実ができたのは良いことだ。商船にかけられる関税よりも軍船にかけられる関税のほうがはるかに安いし、通行税に至っては無料である。これは現在の、痛手の上に痛手を被ったアクアレイアにはありがたい話だった。
(この冬流行った疫病は酷かったからな。長らく栄養状態が悪かったせいで、ばたばた患者が死んでいった)
 暖かくなってきたこともあり、死者はもうほぼ出ていないが、街に蔓延する暗いムードはどうにもしがたい。耐えがたきを耐え忍んでいる民衆にはできるだけ吉報を持ち帰ってやりたかった。
(何かもっと、大きな希望を持てるようになればいいのだが……)
 首の皮一枚で繋がっているような状態をそう何年も続けられない。どうにか再開に漕ぎつけた交易もジーアンに儲けの大半を持っていかれている状態だ。早く抜本的な打開策を講じてやらねば――。
「そんじゃユリぴー、出航準備お願いね」
「はっ」
 ラオタオに一礼し、将軍用の執務室を後にする。衛兵控室を一歩出れば酒の匂いがそこかしこから漂った。
 野獣どもは昼間から浴びるほど飲んだくれているらしい。享楽に満ちたこの砦で一番まともに過ごせるのがラオタオの部屋だとは笑えない冗談だった。
「あっ、ごめんなさい!」
 螺旋階段を下ろうとしてユリシーズは幼い少女とぶつかりかける。発育不良の細腕に重たげな酒瓶が二本も抱えられていて、我知らず眉をひそめた。
「こちらこそすまない。怪我はなかったか?」
「ええ、ユリシーズ様で良かった。ジーアン兵の誰かだったらどうしようかと思いました」
 少女はこちらの顔を見て安堵を示すと足早に宴会場へ駆け去っていく。彼女の消えた中庭から響いてくる下品な喘ぎと笑い声がいっそう胸をむかつかせた。
 どこのボンボンどもか知らないが、ドナは今、働きも戦いもしないジーアン人の巣窟となり、退廃の一途を辿っている。彼らの世話に従事するのは地元の女子供たちだ。上客を求めてアクアレイアの娼婦まで海を越えてくる始末で、放埓を押しとどめるものは何もない。厳格な家庭で育ったユリシーズには到底信じられない暮らしがここではまかり通っていた。
 とはいえドナが一大消費地と化したおかげで特需が発生中だというのもまた事実。抜け目ない商人たちは今のアクアレイアではなかなか売れない高級品をこぞってドナで売りさばくようになっていた。
(今の間になんとかアクアレイア人が生き残る道を模索せねばな)
 自分が祖国の期待を一身に背負う存在だという自覚はある。王家は追われ、大多数の貴族も逃げ出し、海軍はいつ解散させられるかわからない。ラオタオのお気に入りとして側付きに抜擢されたユリシーズに国の命運は託されていると言っても過言ではなかった。
(守るのだ。あの女にできなかったことを私はやり遂げてやる)
「…………」
 思い出すルディアの顔は強張っていて、ふんと小さくかぶりを振った。感傷を振り切るように大股で港へ向かう。
 自分は二度と恋などしない。あんな愚かな恋は二度と。


 ******


 城壁の縁を流れる川越しに、一生帰らぬはずだった都を見上げて息をつく。小高い山の頂に威容を示す宮殿は周辺で採れる岩塩と同じ色。夕日の照り返しを受けて、日中は白い壁が今は薔薇色に燃えている。
 以前なら美しいと見とれただろう光景を無感動にただ眺め、チャドは迎えが来るのを待った。城門塔は「第二王子がお戻りだぞ」とてんやわんやの大騒ぎだ。
 すぐに通してくれるかと思ったのに、彼らは自分をまるで異国の客人のように扱う。一報を耳にしたティルダが石橋を渡ってくるまでチャドは衛兵たちの詰め所に留め置かれた。
「チャド! ああ、本当にチャドなのね?」
「ただいま戻りました。円満に別れてきましたので、例のアクアレイア人たちに追手を差し向ける必要はありません」
 そう伝えると姉は「ええ、ええ、わかったわ」とやつれた顔にほっと安堵の笑みを浮かべる。
「戻ってくれてありがとう。あなたなら自分の犯した過ちに気づいてくれると信じていました」
 無事で良かったと抱きしめてくる彼女の涙は本物だろうが、本当にこちらの話を「わかった」のかはわからなかった。さも清らかに振る舞いながら、裏に回ればまた真逆の命令を出すかもしれない。出さないかもしれない。それは己の関与できることではない。権限もない。
「お父様と三人で、まずはよく話し合いましょう」
 指導者然としたティルダに手を引かれても意外に嫌悪は湧かなかった。その代わり何も感じることができない虚無の深さに少し驚く。自分ははたしてどこに怒りを置き忘れてきたのだろう?
 城門をくぐる姉の背中をじっと見つめる。隙だらけなのは刺されてもいいと思ってくれているからなのか、刺されはしまいとたかをくくっているからなのか。
 姉はよく、わきまえなければなりませんとチャドを諭した。人間には生まれや能力、そのほか様々な要因によって望めるものの上限が定められているのだと。星まで手は届かないし、海の底までもぐることが不可能なように、心にも行いにもはみだしてはいけない線がありますと。
 ――あなたは公爵家の男です。もしあなたがその境界を踏み越えてしまえば罰を受けるのはあなただけじゃない。あなたはマルゴーという国の名前と運命を背負っているの。それだけは忘れないでね。
 聡明な姉。いつも正しかった姉。きっとこれで良かったのだ。
 愛したものは可憐で儚い幻だった。最初から存在しない人だった。
(本物の恋だと思ったのに)
 泣きながら「ごめんなさい」と床に額を擦りつけた彼に、自分は手を伸ばせなかった。境界を踏み越えることができなかったのだ。国のためだともっともらしい理由をつけて、誓いは無効だったなどとほざいて、本当は――。
(私には、あの子が自分の知らない人間に見えたんだ)
 愛とは一体なんだったのか。愛とは我が身を滅ぼすとしても、想う人のもとへと向かう心のことではなかったのか。
 橋を渡り、二重になった城壁の奥へと進む。堅固な境界線に再び囲まれる。
 サールリヴィスの豊かな流れは今日も北へと岩塩を運んでいた。自らに任じられた尊い仕事を、ただ粛々と。









(20171220)