己の出る幕はなさそうだ。それがルディアに対して受けた第一印象だった。
 初めて彼女と会ったのはレーギア宮で開かれた二国合同会議でのこと。迫りくるジーアン軍に対抗するため同盟強化の必要を説いた父がルディアと我が子の縁談を提案したところ、彼女自身が「お受けします」と返事した。
 凛とした声の響きを覚えている。冷徹に将来を見通す二つの目も。この人の夫になれば、自分は一生日陰で過ごすことになるだろう。漠然とそう予感した。
 わかっていたのだ。部屋住みの次男では政略結婚の駒としてしか祖国の役に立てないのは。アクアレイアに婿入りしても大した地位は望めまい。子を作ること以外、王国は余所者に何も認めようとしないはずだ。
 そんな鬱々とした思いを抱いて迎えた挙式当日のことは、もっとよく覚えている。美しく着飾った彼女を。「マルゴー人の伴侶なんて」と憤る民衆を前に、真っ青になって震える彼女を。
 ――ああ、私が彼女を支えなければ。
 唐突に、神聖な啓示のように、高鳴る胸に恋は住み着いた。あの幸福の瞬間を幾度反芻したことだろう。目立たず大人しく歩むことを強いられた暗い道に一筋の光が差した。諦めかけていた後半生に愛という意義を見いだした。
 夫婦は永遠に一つである。よしんばそれがどんな形の結びつきであろうとも。誓いは厳粛な契約であり、死が二人を分かつまで、己には伴侶を守り、慈しむことが許された。故郷を捨てるなどという選択ができたのは、自分には夫たる者の義務があると言い訳が立ったからだ。自国より配偶者が大事でも、なんら間違った話ではないと。
 今その約束は失われた。愛したものは、一瞬我が手に留まっていた幻に過ぎなかった。彼女には――否、彼には戻るべき肉体があり、彼の生きてきた人生がある。どう考えても本来は己の妻になり得た人ではない。婚姻はルディアとなされたのであって、彼のほうが横入りしたのは明らかだった。
(私はなんだったんだろうな)
 一人になれればどこでもいいと入った宿の、安っぽい傾いたベッドで寝返りを打つ。
 部外者だという自覚はあった。どこまでいっても自分はマルゴーの第二王子で、ある程度は秘密を持たれても仕方がないと。だがそれでも。
(あんまりじゃないか、こんなのは……)
 欺かれるのが己の宿命なのだろうか。姉や父の行いを、やっと「マルゴーのためだった」と飲み込めるようになったばかりで、今度は「アクアレイアにもアクアレイアの事情があった」と飲み下さねばならないのか。
(違う。政治的判断などどうでもいい。私の心にのしかかっているのはもっと……)
 起き上がる気力も湧かず、思考の闇に沈んでいく。思い出すのは控えめな、泣き出しそうな笑い顔だった。
 酷い話だ。あの子のほうはいつか終わりが来ることを知っていて、自分だけが愛の不滅を信じていたなんて。
 ずっと他人行儀だった。触れてもどこかすまなさそうで。
 今はわかる。どうしていつも何も求めようとしなかったのか。
(これからどうする? 今まで通り彼らに同行できるのか?)
 同じ問いかけを繰り返す。頭の中でぐるぐると。答えなどわかりきっているのに、別の光を見いだそうとして。
 正当な結婚でなかったなら、契約は無に帰すだけだ。以前と同じマルゴー人に、部屋住みの次男に戻るだけ。その現実を受け入れがたくてチャドはぐっと唇を噛んだ。
 輝く星を手に入れたと思ったのに、あっさりこぼれ落ちていく。こんなにもあっさりと。


 ******


 昨夜からどうもレイモンドの様子がおかしい。露で湿った鎧戸を開き、早朝の淡い光を作業場に採り込みながらアルフレッドはちらと幼馴染を盗み見た。
 やはり友人は不自然にそわそわしている。亜麻紙を運ぶネッドに恋人との仲はどうかと立ち入った話題を持ちかけたり、周辺の名所を尋ねたり、そうかと思えばオールバックの金髪に櫛を当てて服の埃を払い始めたり、とにかく動きが忙しない。一体全体なんなのだろう。暇なら印刷機のカバーを外して仕事を始める手伝いをしてほしいのだが。
「おい、レイモン……」
 そう思って声をかけようとした矢先、ちょうど徒弟部屋のほうからルディアが階段を下りてきた。「じゃあ頼んだぞ」と肩越しに呼びかける主君のすぐ後ろには「はーい!」と返事の良い妹が並ぶ。
 モモは普段着だがルディアはコートを着込んでいて、外出するつもりなのが窺えた。更に主君はもう一着、側付き用と思しき揃いの毛皮を抱えている。
「アルフレッド、私はこれから市内外の視察に出向く」
 お呼びがかかったと思ったのに、コートを手渡されたのは自分ではなく奥にいた幼馴染だった。レイモンドは嬉しそうに、だが意外でもなさそうに防寒着に袖を通す。やや呆け気味のこちらにはまだかけらも気がついていない様子で主君は続けた。
「このままだとサールリヴィス河を使わずに帰りそうだろう? あの交易路をろくすっぽ見ないで出発するなど有り得ない。今日はこいつに漕ぎ手になってもらって、ついでにコーストフォートの重要施設も拝んでくる」
 なるほどルディアは小舟に乗るための付き人を必要としているらしい。
「だったら俺も行こうか?」
 人数の多いほうが楽だろうと申し出てみたが、彼女は「いや、こいつ一人で十分だ」と軽くかわした。
「お前たちはブルーノの側にいてやれ」
「……!」
 傷心の友人の名を出されてはこちらも頷く以外ない。アルフレッドは歯切れ悪くならないように気をつけながら「わかった」と了承した。別に二人きりで行く必要はないんじゃないか。そう口が滑りそうになるのはなんとか堪えて。
「あれっ? お前らどっか行くの?」
 と、そのとき頭上でイェンスの声が響いた。階段を仰ぎ見れば新入り徒弟の北辺人たちが今日も印刷に励むべく連れ立って下りてくるところで、たちまち彼らの輪に囲まれる。
「ああ、俺とこの人だけ」
 昂揚した身振りで主君を示すレイモンドにイェンスは「おおっ?」と色めき立った。ルディアと息子を交互に眺め、「そうかそうか、頑張れよ」と意味深な頷きを繰り返す。
 台詞に滲む冷やかしめいた応援の意図については考えたくなかった。二人は至極真面目な用事で出かけるのだと、アルフレッドは誰より己に言い聞かせる。そんなものは付け焼刃の対応でしかなかったが。
「そろそろ行こう、レイモンド」
「おう、じゃーな皆!」
 買えたらお土産買ってくると言う幼馴染にモモが「パイ! ケーキ! 焼き菓子!」と注文する。「そんなに持てるか!」と眉をしかめながらもレイモンドの笑みは終始崩れなかった。上機嫌に、鼻歌混じりに、幼馴染は階段を下りるルディアにくっついていなくなる。取り残された気分でアルフレッドは二人の背中を見送った。
(……早く植字を始めよう。働いていればそのうち気にならなくなるはずだ)
 嘆息を飲み込んで踵を返す。それなのに、他意のないひと言に後ろから胸を刺される。
「船乗りさんは割合どっちもいけるって聞きますけど、あの二人ってやっぱり付き合ってるんです?」
「はあー!?」
 まさかと答えたのはモモだった。
「んなわけないじゃん! 絶対ないない!」
 妹は引きつった顔の前でぶんぶん手を振って否定する。だが尋ねたネッドは「だっておすすめのデートコース聞かれたんですよ? 少なくともレイモンドさんは意識してるんじゃないですか?」と拳を握って反論した。
 他人の色恋に無関心でいられないのが古今東西の人間の性らしい。徒弟たちの注目は一斉にアルフレッドに集まった。一番仲がいいのだから、何か聞いているだろうという顔だ。
「いや……単に視察だと思う」
 それだけ答え、アルフレッドはさっさと話を切り上げた。否、切り上げようとした。腕組みしたイェンスの漏らした台詞で話は即座に蒸し返されたが。
「俺はデートだと思うぞ? そんな約束してたらしいし」
 マジかと作業場がどよめく。北辺人たちはルディアの正体を知っているので、イェンスの息子とイーグレットの娘がと喜ばしげだ。
「すげえな。なんかこう、運命的だな」
 感嘆するスヴァンテにアルフレッドは一人心を曇らせた。運命なんて言葉を持ち出さないでほしい。どんな努力も太刀打ちできない力があるなどあまりに虚しいではないか。
「ええーっ? デ、デートの約束ってほんとにぃ?」
 なお疑わしげにモモが尋ねる。妹はイェンスの発言がまったく信じられないらしく、詳しい説明を求めた。
「や、その、レイモンドの奴、最初は俺の船に乗るのが本気で嫌だったみたいでな。コーストフォートまで我慢する代わりにご褒美としてデートしてくれって頼んでたらしい」
「なーんだ、レイモンドが一方的に言ってるだけじゃん。びっくりしたあ」
 モモはみるみる脱力し、「本当に付き合ってたらどうしようかと思ったよ」とほっと胸を撫で下ろした。アルフレッドのほうはまだ、安心にはほど遠い胸中だったが。
「いやいや、けどひょっとしたら上手く行くかも」
「だからないって。モモが聞いたニュアンスだと完全に仕事目的だったもん。確かにレイモンドに話したいことがあるから二人で行きたいとは言ってたけどさあ」
「えっ!?」
 無意識に大きな声が出てしまい、皆を振り返らせてしまう。アルフレッドは誤魔化すように咳払いをし、「話したいこと?」と問い直した。
「うん、昨日レイモンドには新しい印刷機が完成するまでコーストフォートに残ってほしいって言ってたじゃん? もう一回説得する気なんじゃない?」
 モモはルディアから直接そうと聞いたわけではないようだ。だが「でなきゃ残り少ない時間はパパと過ごせって言うでしょ」との推測は納得のいくものであった。彼女が例のお守りを、特別な意味があるらしいそれを、今もポケットに隠していることを思い出しさえしなければ。
「その話まだ引っ張ってたのか? 親のことなんか気にせずに、若者は青春を楽しみゃいいのにな」
 誰が汝の明日在ることを知らんだぞ、とイェンスはアレイア語で歌う。彼は明らかに息子の幸福、今日の成功を願っていた。
 祝福するべき親子愛の発露に気が重くなる。咎める要素を一つも見つけられなくて。
「はいはい。お喋りはこのくらいにして、皆いい加減手を動かそうねー」
 話に飽きたらしいモモに促され、徒弟たちはそれぞれの担当場所に分散した。アルフレッドも流されるまま植字架の前に腰を下ろす。
(あの人からレイモンドに話したいこと……)
 ぶんぶんとかぶりを振り、思い煩いから逃れた。
 あと何百回同じことを繰り返したら自分は悟れるのだろうか。こんなことは他人が口を挟む問題ではないと。騎士は黙って主君についていくだけだと。


 ******


 北パトリアでは冬は滅多に晴れることがない。しかし今日は薄雲の向こうに青空も太陽も覗き、吹く風も幾分か柔らかかった。寒いのは寒いのでデートに絶好の日和とは言えないが、季節を考えれば上出来だろう。
「いい天気で良かったな」
 印刷工房を出てすぐにレイモンドはルディアに話しかけた。陳腐な台詞にも彼女はにこやかに頷いてくれる。昔なら「見ればわかる」と一蹴されていたに違いないのに。
(うう、夢みてーだ。こんな日が来るなんて)
 二人並んで通りを歩く。手を繋ぎたかったが、いくらなんでも気が早すぎるかと伸ばしかけた腕を引っ込めた。怪しい動きに勘付かれなかったかちらりとルディアを確かめる。幸い彼女はこちらの頭部に目を向けていて、ささやかな空回りには気づいていないようだった。
「……悪いな。こういうときは多少めかしてくるものだとは思うんだが、何をどうすればいいかわからなくて」
「へっ」
 どうやらルディアは熱の入ったオールバックに申し訳なさを感じたらしい。いつも通りの身支度しかしてこなかったと詫びられる。
「いいって、いいって! どうせ風でぐちゃぐちゃになるんだし!」
 慌ててレイモンドは整えたばかりの髪を掻き乱した。本当にデートだと認識してくれていることにどぎまぎして、自分が何をしているかもわからない状態のまま。
「え、えっと、サールリヴィス河を見たいんだっけ!? ボート貸してくれるとこ探さねーとな!?」
 緊張をはぐらかすためについ声を張り上げてしまう。彼女のほうはよくよく落ち着き払っていて、いつもより穏やかなほどなのに。
「ちょっとやかましいぞ、お前。そんなに叫んだら近所迷惑だろう」
 渋面でたしなめられてやっと少し冷静になれた。俺の馬鹿、滑り続けて一日終えるつもりかと。
「こ、漕ぐのはこっちに任せてくれ。ゴンドラで慣れてるし」
 なんとか体面を保とうと告げた台詞にルディアは「ありがとう」と微笑む。この顔を独り占めできるだけで自分はもう満足だ。心臓をどきどきさせながらレイモンドは河岸の貸船屋を目指した。割と歩いたはずなのに、着くまであっという間だった。




 サールリヴィスはアルタルーペの高峰に水源を持ち、マルゴーを経て大平原を突っ切って、北パトリア海に至る大河だ。他にも交易に使われる河はあるがこれほど流域の広いものはない。勤勉なお姫様が見たがるのも当然だった。
 向こう岸が遠く霞む河口の小屋で二人乗りの一番小さな舟を借りる。
「早いねえ。隣村にでも用事かい?」
 気さくに話しかけてくる船主に「そんなとこ」と返してレイモンドはオールを握った。ルディアが横木に腰を下ろすと桟橋で縄がほどかれる。すると小舟は流れに従い、ゆったりと後退し始めた。
「よし、そんじゃ行きますか」
 帰りは楽ができそうだなと思いつつ、水に逆らい、上流へとボートを漕ぐ。ざば、ざば、と一定のリズムで響く水音と、時折岸辺から届く鳥のさえずり。それ以外は静かなもので、二人きりなのを強く感じた。
 ルディアの視線は河岸に並ぶ各種商館に釘付けになっている。アクアレイアのように水面から直接生えたような建物はないが、その豪勢さは大運河沿いの邸宅群を思い起こさせるのに十分だった。
 何を思って彼女はこの光景を眺めているのだろう。故郷と比較し、多方面で考察を深めているに違いないが、今の自分にその内容を推測する余力はない。
「えっと、姫様。今日のデ……いや、予定って細かく決めてあったりする?」
 デートプランと口にするのが恥ずかしくて言い直す。彼女はサールリヴィスさえ見られれば目的の八割は達成との考えらしく、「いや、大まかにしか考えていない」と返事した。
「どこか行きたいところがあるのか?」
「や、そういうわけじゃねーんだけど。遅くなっても大丈夫なのかなって」
「別に構わん。市門が閉じて帰れなくなる前に街に戻ってさえいれば特に問題ないだろう」
 どうやら丸一日一緒にいられるらしいとわかって内心ガッツポーズを決める。しかも彼女の口ぶりでは、コーストフォート市内でなら日没後もしばらく付き合ってくれそうだ。
 これはすさまじいチャンスなんじゃと櫂を握る手が震えた。大それたことを期待していたわけではないが、可能性があるだけで人はテンションが上がってしまうものである。
 俄然やる気が湧いてきて、レイモンドは力んで小舟を漕ぎ出した。櫂の形が地元と違って少し扱いにくいけれど、景色はぐんぐん後ろに遠ざかっていく。大張り切りのレイモンドにルディアがくすりと笑みをこぼした。
「疲れたら交代するぞ? 遠慮なく言えよ?」
「全然平気! つーかこれ、二本あるし座って漕いだほうがいいのかな?」
 ゴンドラレースでのイーグレットとカロを思い出し、水中からオールを引き抜く。ルディアと席を代わってもらって後ろ向きの座り漕ぎを始めるとボートは更に楽に進んだ。
「おお、こりゃいいや」
 肩越しに進行方向を確かめながら腕を回す。「ふうん、速いな」との声に頭を身体の向きに戻してレイモンドはウッと小さく仰け反った。
(ひ、姫様がすぐ目の前に)
 当たり前だが立って漕ぐより座って漕ぐほうが互いの距離は近くなる。膝は今にも触れそうだし、向かい合っているから表情もはっきり読み取れた。
 真っ赤になってレイモンドは半身をひねる。いつもならなんてことないが、デートと思うとこの近さは心臓に悪い。殺人的だ。
「と、ところで舟でどこまで行く?」
 鼓動を落ち着かせるために無難な話題をひねり出す。ルディアは懐から取り出した北パトリアの地図を開き、「隣村まででいいんじゃないか? 昼頃に着くようだし、そこで腹ごなしもできると思う」と答えた。
「あれっ? そんな地図持ってたっけ? いつの間に買ったんだ?」
「これはパーキンの私物を借りた。買うと地図は高いだろう」
 極貧だからな私はとルディアが軽く肩をすくめる。冗談めかした自虐だったが金がないのは事実である。レイモンドは苦笑いで貧乏王女を慰めた。
「今はまあ、ちょっと財布が軽い気がするかもしんねーけど、そのうちきっとなんとかなるって。印刷業は儲かってんだし」
「だがいくら儲かっても私の懐が温まるわけではないからな。アクアレイアに戻ったら、いの一番に金策に奔走せねばならんかもしれん」
 軽い口調とは裏腹に台詞の響きは深刻だ。確かに金がなければできることはほとんどない。王国奪還など美しい夢に終わってしまうだろう。
「うーん。親父の身代わり護符みたいに二者協同でヒットが出せたら俺らにもでかい見返りあるんだろうけどなー」
 こういうのはどうだろうとレイモンドは思い浮かんだアイデアを話す。読み書きできない人間にも売れる商品の開発だ。たとえばパトリアアルファベットの発音表だとか、よく使う語句一覧だとか。単語が読めれば文法がわからなくても日常生活の助けになるし、他の護符も売りやすくなる。今現在イェンスの護符は縁結びを祈願したものも、無病息災を祈願したものも、身代わり護符と混同されて「一枚でいい」と言われることが多々あるそうだが、効能が明確になれば一人が二種類、三種類と買ってくれるようになるかもしれない。
「ほう、なるほど。文字表は確かに需要がありそうだ」
 ルディアはこの案に感心した様子だった。単にレイモンドが子供の頃あれば便利だったのにと思うものを口にしただけだったのだが。
「あとさ、身代わり護符も『これのおかげでこんなピンチを切り抜けました』って体験談をチラシに載せたらもっと売り上げ伸びるんじゃね?」
「ほう? お前の発想、面白いな。庶民目線というかなんというか……私には到底思いつかん」
 誉められて照れて頭を掻く。こんな話ならいくらでもできるぞとレイモンドは『海へ出る者の心得』や『ためになる雑学集』の提案をした。どちらも船客と船乗りがターゲットで、海上で過ごす長い時間を潰すのを前提とした本だ。堅苦しい書物ではなく、前者なら「金曜日に出航した船は難破しやすい」とか「海神の加護を授かりやすいのは八月生まれのブルネット」とかまことしやかに囁かれる噂を載せる。後者なら「カード遊びの気まずくならない断り方」や「船に酔ったら取るべき行動」といったところだ。
 本と言えば重厚かつ学術的な歴史書や神話集のことだと考えていたルディアには、この大衆的緩さはなかなかの衝撃だったらしかった。青い双眸を大きく瞠り、「確かに船上で読むにはちょうど良さそうな軽さだ」と頷く。
「お前、実はこの方面の才能があるのかもしれないな。イェンスに頼んで護符を量産しようと言い出したのもお前だったし……」
「へへっ。あれはまあ、まぐれ当たりかなって感じだけど」
「そんなことはないと思うぞ。ちなみにアクアレイアで印刷機が本格的に稼働し始めたら何が一番売れると思う?」
「そうだなー。線だけきっちり引いてあって、あとは全部空欄になってる帳簿とか?」
「ああ! それは実用性が高い……!」
 会話が弾んでいることをレイモンドは秘かに喜ぶ。色気のかけらもない話題だが、こんなに真剣にルディアが聞いてくれるならなんだって構うものか。
 レイモンドはニコニコと舟を漕ぎ続けた。気がつけば瀟洒な赤レンガの建物は視界の奥に遠ざかり、両岸には木漏れ日輝く美しい森が広がっていた。




 満面の笑みを浮かべ、槍兵はたわいないお喋りを続ける。こみ上げるやるせなさを抑えながらルディアは彼に合わせて笑った。
 こんな子供だましの逢瀬が嬉しくてしょうがないらしく、レイモンドは空や水辺の美しさをしきりに称えつつボートを進める。いつ見ても締まりない顔の男だが、今日はとりわけ楽しそうだ。心から幸福を味わってくれているのが手に取るように伝わってくる。
(これを渡したらどうなるかな)
 ありそうなリアクションを考えながらルディアはポケットの膨らみに触れた。もっと瞳を輝かせ、はちきれんばかりの笑顔を見せるだろうか。それともただ仰天して、あんぐり口を開くだけだろうか。
 なんにせよ喜んで受け取ってくれるはずだ。お守りを渡した後でレイモンドにしなければならない話は、彼を酷く落胆させるに違いないが。
 嘆息を飲み込んでルディアは川面に目を向ける。視線を追ってレイモンドも周囲の光景を見回した。
「一、二、三……俺ら以外も行き来してる船結構多くね? まだ冬なのに」
「サールリヴィスは年間を通して水量が安定しているし、ちょっとの寒さでは凍らんからな。季節に関係なく商売に精を出せるのだろう」
 ほら、とルディアは川上から連続して流れてくる無人のイカダ群を指差す。最後のイカダには男が一人乗っていたが、他はロープで雑に結ばれているだけで荷も何も積まれていない。
「なんだあれ?」
 不思議がる槍兵に「おそらく上流の人間だ。ああして下流まで材木を運んで、売り払ったら徒歩で村まで帰るんだ」と教えてやると、「なるほどな」と感嘆の声が上がった。
「アクアレイアでも建国当初はああやってマルゴー杉を大量に送ってもらっていたらしいぞ」
「マジか。今でもやってくれりゃいいのにな」
「間に住んでいるパトリア人にちょろまかされるようになってから、ニンフィまで船で買いつけにいくようになったんだ」
「あー、パトリア古王国か。あそこはほんっとセコい真似ばっかしてくるよなー」
 イカダの列が通りすぎると今度は細身の中型帆船とすれ違う。グリフィンが翼を広げる緑地の旗はマルゴーの公用商人のものだった。それだけで塩を満載した船だとわかる。
 岩塩が公国の主要産物であることはレイモンドも知っていたようだ。船影を見送りながら槍兵は「サールって塩って意味で合ってるっけ?」と呟いた。
「ああ、そうだ。昔からアルタルーペで採れる塩は全部サールに集められて、北パトリアに高値で輸出されてきた。サール公の宮殿は舐めるとしょっぱいと噂されるほどだ」
「へえー」
 答えながら、ルディアは近年新しく開発された岩塩採掘の手法を思い出す。岩塩窟に水を流し、たっぷりと塩気を含んだその水を回収して乾かして、塩の結晶を得るというやり方だ。それまで地道に掘り出していた岩塩を簡単に手に入れられるようになったので、公爵はよほど潤っているはずである。その証拠に緑の旗の帆船は五隻、六隻に留まらなかった。
 だがマルゴーは不思議と豊かになる兆しがない。傭兵たちは依然苦しい生活を強いられており、どこに儲けが消えているのか謎だった。
(そう言えば、今の岩塩採掘方法を考案したのはコナー先生だったな)
 一定濃度の塩水が脳蟲を孵化させるんです――エセ預言者の声が耳に甦り、ルディアは腕を組み直した。そのままついとレイモンドからも目を逸らす。
 コーストフォートを旅立ったら、アクアレイアに帰ったら、直面しなければならないのは現実だ。のんびりとボート遊びに興じている時間はない。けれど一体どんな言葉で、自分はそれを彼に伝えればいいのだろう?
「姫様、風冷たくない?」
 寒けりゃコート使っていいよと槍兵が優しく笑う。己の態度のわかりやすさなどこれっぽっちも気に留めていない口ぶりで。
「いいよ、着ていろ。風邪を引くぞ」
 極力なんでもないふうにルディアは首を横に振った。
 感謝している。その気持ちに嘘はないのに、望むものは返せないとわかっているのが心苦しい。
 せめて今日という一日を、少しでも穏やかに過ごしてから宣告の時が訪れてほしかった。このまぶしげに細められた両の目が、まだ夢を見ていられるように。


 ******


「もーっ! アル兄また間違ってるじゃん! これで今日何回目!?」
 やり直しと突き返された植字架をアルフレッドはまじまじ見つめる。どこが修正すべき箇所なのか一瞥では発見できず、それがますます作業監督である妹をげんなりさせた。
「集中力なさすぎじゃない? 気がついたら手止まってるし、文字型戻す場所ずらしちゃうし、見本は違うページごっちゃにするし、挙句に窓の外ぼーっと眺めてインク壺蹴っ飛ばすしさあ」
 モモの指摘が耳に痛い。アルフレッドは居た堪れない気分で「すまない」と項垂れた。だが反省の色を見せたところで容赦してくれないのが彼女である。「手伝いっていうか、ほぼ邪魔になってるから。アル兄そんなに外が気になるなら散歩でもしておいでよ」と戦力外通告を出される。
 このポカ連発では仕方ない。アルフレッドは深々と息をつき、「わかった」とコートを取りに四階へ向かった。モモの言うように気分転換に出かけたほうが良さそうだ。もう少し頭を切り替えて戻ってこなくては。
(どうして俺はこんなに動揺しているんだ?)
 視察でもデートでもどちらでもいいではないか。既に散々言い聞かせてきた言葉をまた積み重ね、効果のなさを思い知る。
 認めなければならなかった。自分が焦りを抱いていること。
(でも何故だ? 俺は姫様の寵愛を受けたいなんて思ったことは一度もないぞ?)
 主君にとって一番の騎士でありたい。忠誠を認めてほしい。そう願うことはあっても、主従の一線を踏み越えようとしたことは。
「はあ…………」
 解決できない悩みを持て余しつつアルフレッドは壁際の階段を上った。徒弟部屋に辿り着くと数回のノックをしてからドアを開く。
「ウニャ……」
 中には小さな先客がいた。先日までチャドが使っていた毛布の上で横になり、じっと動かずにいる猫が。
「ブルーノ、一緒に街に行かないか?」
 そう声をかけてみるが力なく首を振られる。起き上がる余力もないのか友人は寝そべったままだった。
 無理に連れ出しても意味がないなと防寒着を着込んですぐにアルフレッドは徒弟部屋を後にする。去り際に「食事くらい取るんだぞ?」と呼びかけるのが精いっぱいだった。ルディアには側にいてやれと命じられたが、実際にできることは少ない。
(せめて殿下がどの宿にいるかわかればブルーノも気が休まるかな?)
 どうせあてどなくぶらつくだけだし、探してみてもいいかもしれない。それなら己の無益な散歩も多少意義あるものになる。
(宿屋が並んでいそうなのは河沿いか……)
 ルディアとレイモンドが向かった先だと気づくのに数秒もかからなかった。もっともらしい理由をつけて自分が行きたいだけではないか。否定しきれない疑念を振り切り、アルフレッドは歩き出す。
 工房を出て見上げた空はうっすら曇り始めていた。冷え込んできたら二人も早く帰ってくるかななどと考えてしまい、ぶんぶんと思考を散らす。
 らしくない。本当に。
 溜め息を一つこぼし、足早にアルフレッドは河港へ向かった。大抵の都会がそうであるように、コーストフォートの街もまた、旅人の苦悩になんら関心を示さなかった。




 探そうとしていた男は案外あっさり見つかった。海へと注ぐサールリヴィスの、河港を守る石積み堤防にぽつんと佇んでいたからだ。チャドは今にも水底深く倒れ込みそうに見え、アルフレッドは慌てて彼のもとへすっ飛んだ。
「殿下!」
 敬称を叫んでからしまったと口を覆う。幸い周囲に人気はなく、誰にも聞きとがめられなかったようだ。振り返った王子は抑揚のない声で「君か」と呟き、その細い目をこちらの足元に向けた。
「一人かい?」
 そう問われ、ブルーノがいるかいないか確かめたのだと察する。
「あ、はい。俺だけです」
 たまたま港に用があってと言い訳したが、チャドに信じた様子はなかった。しかしこちらを突っぱねることはせず、黙って隣に並ばせてくれる。
 王子の視線はまたすぐに流れる大河へ戻された。昨夜はこの辺りに泊まっていたのか尋ねたかったが、どう切り出すか迷って結局沈黙する。
 張りつめた横顔には気安く語りかけることのできない何かがあった。拒絶だとか、虚脱だとか、そういったものではなく、もっと別の、悲壮感に近い何かが。
「ここにいると岩塩運びの船がよく見えるんだ」
 ぽつりとチャドが呟いた。河岸に船を舫わせて、その先の商館に重い荷袋を担ぎ込む水夫を遠く眺めながら。
 河川航行用の船は小さい。大型船の停泊場である河港まで彼らがやって来ることはまずない。だがこうしてまめまめしい働きぶりを観察するにはこの距離からでも十分だった。
「私がこうして悩む間も彼らは懸命に生きている。なんだかそれが申し訳ない気がしてね……」
 チャドは重い息を吐いた。
 サールリヴィスを下ってくる岩塩商はすべてマルゴー人である。同胞の姿に彼が何を感じたのかはわからない。ただ王子の心が想い人よりも故郷のほうに突き動かされていることはなんとなく察せられた。
「立場ある人間が弱さを見せるのは良くないことだな」
 自嘲気味に貴公子が笑う。「どうするべきかはわかっているんだ」と。
「ブルーノはいい奴です」
「もちろんだとも。あの子に失望などしていないよ」
 アルフレッドが咄嗟に幼馴染を庇うと肯定的な返事があった。だがチャドは「いつだってあの子は本当に優しかった」と囁くのと同じ口で、「でも彼は私の伴侶ではない」と告げる。
「……何度考え直しても同じ結論に達するんだ。私が結婚したのは誰なのか? 私と結婚することを選んだのは誰なのか?」
 あの子じゃない、とチャドは繰り返した。悲痛さの滲む声で、決してあの子ではなかったのだと。
「長い夢を見ていた。そう思うことにした。私はマルゴーに帰らねばならない。公爵家の一員として、祖国に対する責任を果たすために」
 決断を口にして、やっと心が固まったというふうに、彼は深く、ゆっくりと頷く。
「ですがその、愛しておられるのでは?」
 アルフレッドの問いかけにチャドは高貴な人間らしい返事をよこした。
「今まで私が妻を第一にできたのは、結婚という神聖な誓いがあったからだ。君も騎士ならわかるだろう? 正式な誓いがどれほど強力な大義名分となってくれるか。夫婦だからと言い訳できなくなった以上、身を引く以外に道はないのだ」
「殿下、しかし……」
「一国の王子が庶民に懸想して国を捨てるなど許されない。君の主君は己の恋を叶えるために民に背を向けるような女か?」
 夫婦ではなく他人だったということはそういうことだとチャドが言う。胸の奥底に何をしまい込んでいようとも、そんなことはもっと大きな義務の前には意味を失うのだと。
「望めばともにいることはできるのかもしれないが、自分を納得させられそうにない。……目が覚めた。だからマルゴーに帰るよ」
 苦しげな声がそう告げた。アルフレッドは何も言えず、踵を返したチャドを見つめる。
「今夜にでも挨拶に行く。ルディア姫にひと言もなく立ち去るわけにいかないからね」
 宿を聞く意味はもうあまりなさそうだった。アルフレッドは遠ざかる背中を見やり、ぎゅっと拳を握り締めた。
 ――俺は卑怯だ。役割をわきまえた王族なら、己の相手に平民など選ばないと聞いてほっとしている。
「…………」
 かぶりを振ってアルフレッドは来た道を引き返し始めた。ともかくチャドがブルーノを恨んではいないこと、教えてやれば少しは幼馴染を元気づけられるだろう。騙すような形になってしまったが、気に病みすぎる必要はないと。
 的外れな考えをしていることには露ほども気づかず、アルフレッドは冷たい風に吹かれながら工房街へ逆戻りした。見上げた空には先刻よりもどんよりと重い雲が垂れ込めていた。


 ******


「さっぶ! なんだこれ!」
 急に冷え込みすぎだろとレイモンドは眉をしかめてコートの襟を引き寄せる。隣村まで辿り着き、ボートを降りた時点では肌が少々汗ばんでいたから寒風も心地良かったが、昼食を終えて小料理店を出た現在はそんなもの温もりを奪う悪魔でしかなかった。
「午後は雪になりそうだな」
 曇天を見上げるルディアとともに小舟を繋いだ桟橋へ急ぐ。触れる外気は身が切れそうなほど冷たかった。太陽が再び顔を出してくれることを祈りつつ、こじんまりしたボートに乗り込む。風は水面に小波を立てるくらい強いものになっていたから、ルディアが足を滑らさないようにそっと手を差し伸べた。
「危ねーだろ? ほら」
 一瞬彼女は躊躇して見えたが、すぐに王女らしい気品ある仕草でエスコートの手を取り返す。ふわりと地上を離れた足は、間もなくレイモンドのすぐ側に降り立った。
「ううっ、水の上は更に寒い。もう一杯あったかいスープ飲むんだった」
 二の腕を擦りつつ横木に腰を落ち着ける。ロープを外せば小舟は河の流れに乗ってひとりでに走り出した。
 掌の感触が消えてしまうのが惜しくてなかなかオールを持つ気になれない。ルディアも特に急かさなかった。漕げばそれだけ早く風のない場所に行けるが、二人きりの静かな時間も終わってしまう。都会の喧騒だってまあ悪いものではないけれど。
 ふーっと吐き出した霧状の息を見つめる。これだけ寒けりゃ不自然じゃないよなとレイモンドは再び手を――今度は両手を差し出した。
「つ、繋いでたほうがあったかくね?」
 多少どもったのは気にしないことにする。返ってきたのは「ポケットにでも入れておけ」というつれない言葉と嘆息だった。せっかく勇気を奮い立たせて言ったのに。
「いや、その、そろそろデートっぽいことしたいなっていうか」
 めげずにレイモンドは食い下がる。こんな機会は二度と来ないかもしれないのだ。そう思ったら出した手も簡単に引っ込められなかった。
 ルディアはしばし逡巡したのち、しょうがないなという顔で右手だけこちらに投げてくる。名状しがたい感動とともにレイモンドはその手をぎゅっと包み込んだ。
「…………」
「…………」
 たちまち体温が上昇し、あれ、あれ、と困惑する。さっきはスマートに舟に案内できていたのに、今は一気に膨らんだ緊張で全身が固まり、心臓も破れてしまいそうだった。
 ルディアを見ればどこか居心地悪そうに目を逸らす。その反応はどう見ても嫌悪を示すものでなく、照れ隠しのそれであった。
「……っ!」
 目を奪われる。薄赤く染まった頬に。悪態をつけない唇に。
 もっと踏み込んでみていいんじゃないか? そんな予感がレイモンドの背中を押した。
「あ、あのさ……」
 だがレイモンドは二の句を継がせてもらえなかった。まだ草も生え揃わない岸辺を眺めるルディアの呟きに阻まれて。
「地元民はやはり寒さに強いな」
 視線の先に目をやれば、小さな村の小さな丘に数人の少女が集まっていた。娘たちはひっきりなしにお喋りしつつ、雪が降る前に片付けようと色とりどりの旗や造花、祭り装束と思しき晴れ着を繕っている。
「もうじき春か。新しい季節の訪れを祝う風習はどこにでもあるらしい」
 ルディアがカーニバルを思い出して言っているのはすぐに知れた。航海禁止の長い冬が明けるのを、船乗りは皆心待ちにしている。一年で一番盛り上がる一週間だ。飲めや食えや、歌えや踊れやのどんちゃん騒ぎ。仮面で普段の己を隠し、代わりに真実をさらけ出す。
「今年はうちの祭りには間に合わねーだろなー」
 今すぐ出航したとして一ヶ月弱ではアクアレイアに帰り着かない。残念だとレイモンドが肩をすくめるとルディアは「そもそも祝祭などやれる状況にないだろう」と現実的な予測を告げた。
「来年も、再来年も、カーニバルなど夢のまた夢かもしれん」
 どこまでも冷静な彼女が悲しい。なんとか気分を盛り上げようとレイモンドは「でもさ、先のことはわかんねーじゃん?」と問い返した。
「アクアレイアを立て直して、ジーアン兵を追っ払うのに、そりゃ一年や二年じゃすまねーかもしんねーけど。俺も一緒に頑張るしさ」
 ぎゅっと両手に力をこめる。ルディアは熱弁にたじろいだ様子で「悲観しているわけではないよ。私だって全力を尽くすつもりだ」と苦笑した。
「じゃあもっと明るい話しようぜ。カーニバルが復活したら何したい? 俺、今までは美味いもんが食えりゃなんでも良かったけど、今度はちょいと派手に仮装したいな。ビシっとかっこいいやつ!」
「きちんとすると金がかかるぞ。財布の紐を緩められる自信はあるのか?」
「うっ、確かに。いやいや、でもやっぱみすぼらしい恰好はできねーわ。俺、王女様にダンス申し込みてーんだもん」
 こちらの台詞にルディアが大きく目を瞠る。そのまま微動だにしなくなった彼女にレイモンドはおずおずと尋ね直した。
「……駄目かな?」
 軽口や冗談の類でないのは声のトーンで伝わったはずだ。構わないと言ってくれることを期待してじっと見つめる。だがルディアは沈黙を守るのみだった。
「ほら、その、無礼講じゃん? 仮面もつけるし誰が誰かなんてわかんねーし。親父も母ちゃんに踊らないかって誘われたのがなれそめだったとか言ってて」
 イェンスの名を出すとまた彼女の態度が変わる。「いつの間にかそんな話までするようになったんだな」と柔らかく微笑まれ、ギュンと胸がときめいた。
「い、いや、そうじゃなくて、今は俺と踊ってくれるかって話を……」
 軌道修正を試みたものの、ルディアのほうはこのまま父の話に持ち込みたいらしく「お前たちが和解して私も嬉しい。会えて良かったな」と続けられる。なんだか彼女がダンスの返事を誤魔化したがっているように見えて、思わず声を張り上げた。
「俺は! 俺は親父にも会えて良かったと思ってるけど……、それよりもっとあんたに会えて良かったって思ってるよ」
 またしてもボートに流れる時が止まる。うんともすんとも答えないルディアを見ていたら段々と不安になった。
 自分でも気づかない間に困らせるようなことを言ってしまったのだろうか。確かに少し、ぐいぐい迫りすぎた感はあるけれど。
(つーかこれ、どっちかっつーと昨日の話蒸し返される流れなんじゃ……)
 予想に違わず彼女は「でもイェンスとは、別れてしまえば次にいつ会えるかわからないだろう?」と尋ねてくる。次はどんなことを言われるか、ここまで来たら簡単に想像がついた。
「お前、やっぱり印刷機が完成するまでこの街にいてくれないか?」
 問いかけにレイモンドはがっくりと肩を落とす。デートの真なる目的は視察ではなく説得にあったらしい。道理であのタイミングで声をかけられたわけである。
「……嫌だって言っただろ」
 これでもかというくらい眉をしかめて返事をした。けれど彼女も譲らない。「こんなに早く父親と離れて本当に後悔しないか?」とまるで懇願するように訴えてくる。
「俺はさあ、あんたと一緒にいたいんだよ……!」
 何故そこを無視するのか、もどかしさで胸が焦げつきそうだった。うつむき、歯を食いしばる。握っていた手に力をこめたらルディアをうろたえさせたようだ。「どうしても?」と問う声に引き下がる響きが滲む。
「……すまない。気を悪くさせてしまったな」
 話を持ち出した当人にもうやめようと打ち切られると途端に罪悪感が湧いた。たった一人の父親なのに、惚れた女の頼みなのに、お前は頷いてやれないのかと。
(でも今更、何ヶ月も離れ離れで過ごすなんていやだ。姫様だって同じように思ってくれてるから無理強いしてこねーんじゃねーのか?)
 それとも内心煙たがられているのだろうか。愛を訴えられたところでダンスの相手にもできないと。
「…………」
 信頼を得ているという自信がぐらつく。黙り込んで目を伏せられると彼女が何を考えているか少しも読み取れなくなった。
 全部自分に都合のいい勘違いだったんじゃないか。そんな疑念に囚われる。
「姫様、俺……」
 焦燥に駆られるまま何を口走ろうとしたのだか。レイモンドが横木から腰を浮かせるその前に、ルディアがするりと手を離した。一瞬で冷えた温度に狼狽し、瞠目して息を飲む。
「レイモンド」
 重大な決意を秘めた眼差しで彼女はじっとこちらを見据えた。ずっとコートのポケットにしまわれていた左手が右手に代わって突き出される。ルディアは何やら見覚えのある海獣の小さな牙を握り込んでいた。
「あれっ? これって俺のお守りじゃ」
 新しく貰ったのはつけてるよなと首の裏に指をやる。革紐の感触を確かめると同時、「私が拾って直したんだ」と彼女が言った。
「ずっと返そう返そうと思ってはいたんだが、お前には本当に助けられたから……。きっちり礼をしなければと考えていたら遅くなった。すまない」
「えっ、えっ、姫様が自分で?」
 びっくりして声が裏返る。受け取ったアザラシの牙の首飾りは以前より少し短くなっていたものの、問題なく身に着けられた。革紐の切れた部分は刺繍糸で縫い合わされており、あのルディアが針仕事をしたのかと度肝を抜かれる。簡単な修繕と言えば簡単な修繕だが、布に比べて皮革は固く、針が通りにくいのに。
「あ、ありがとう」
 感激して礼を言うと「こっちの台詞だ」と返された。
「お前のおかげで私はもう一度ルディアになれた。もう自分が何者か、悩んで立ち止まることはないだろう。身体はなくなってしまったが、そこまで動じてはいないんだ。これからも私はあの人の娘として、アクアレイアの王女として生きていく」
 彼女らしい前向きな言葉に嬉しくなる。レイモンドは「俺だって!」と張り合うように力説した。
「俺だって、あんたのおかげでアクアレイア人になれたんだ。ずっとどっかで自分だけ皆と違うって感じてた。でもやっと、そんなことどうだっていいって思えるようになったんだ」
 首から下げたお守りを握ってルディアの青い瞳を見つめる。わざわざこんなプレゼントを用意してきてくれたのだから、特別な好意を感じないではいられなかった。
 自信がまた舞い戻る。近づきたい気持ちがぐんと膨れ上がる。
「私は何もしていないよ。お前にしてもらったことばっかりだ。レイモンド、本当にありがとう」
 改めて感謝を述べられる。彼女の謙遜にレイモンドは「んなことねーって」とかぶりを振った。
 川面を風が吹き抜ける。飛び散った細かな飛沫はきらきら光り、ルディアをいっそうまばゆくした。
「俺はあんたを守らなきゃって、思って初めて本物のアクアレイア人になれたんだ。あんたのことを、本気で好きになったから……!」
 思いの丈をぶちまけることに抵抗はなかった。どうせもう彼女には知られているに違いないのだ。カロの襲撃を受けたときうっかり口にしてしまったし、その後も言葉にしなかっただけで、隠そうとはしてこなかったのだから。
 現にルディアは告白を受けても意外に感じてはいない様子だった。ただ少し困ったような表情が気にかかる。
「レイモンド……」
 意を決し、レイモンドは昨日の考えを実行に移すことにした。悪い結果にはならないはずだと握り込んだお守りを信じて問いかける。
「姫様はさ、俺のことどう思ってる?」
 聞かせてほしい。緊張で息切れしながらそう乞うた。これまではそれどころではなかったかもしれないけれどと。これからもそれどころではないかもしれないけれどと。
「…………」
 こうなったら後には引けない。ちゃんと返事を貰うまでボートの上で何時間でも粘るつもりだった。この時点でレイモンドは、ルディアが早々にこの恋愛問題に終止符を打とうとしていたことにまったく気づいていなかった。
 拳を握り、気まずそうに船底を見つめていた王女が顔を上げる。何故そんなつらそうにこちらを見るのかわからずにレイモンドはうろたえた。カロの件も片付いて、晴れてアクアレイアへ帰ろうという段になって、どこにまだ苦悩の種があるというのか。
「……私はお前の気持ちには応えられないぞ」
 低いがはっきりした声に突き放されて硬直する。これ以上は目を合わせては話せないとでも言うように彼女はまたうつむいた。
「アクアレイアに戻ったら、私は新しい肉体を探す。アクアレイアを守るのに有用な、より利点の多い肉体をだ。男か女かもわからない。若者か年寄りかもわからない。妻帯者の可能性もあるし、聖職者の可能性もある。いずれにせよ言えるのは、私にとって婚姻は政治の手段ということだ。お前が何を望んでも私がしてやれることはない」
 それが王族の生き方だし、自分はルディア以外になる気はないと彼女が言う。きっぱりと、レイモンドを説き伏せようとするように。
 ぽかんとルディアのつむじを見下ろして、レイモンドは瞬きを繰り返した。想定外の返事ではあったが、それよりむしろ彼女の誤解に驚いて。
「えっと……姫様? 俺別に付き合ってほしいとか言うつもりではなかったんだけど……?」
 仮にも相手は王女様で、結婚歴のある一児の母なわけだしと言外に含める。そもそもルディアが恋愛だけに生きられない立場であるのは百も承知だ。
「は?」
「いや、だから、気持ちだけ知りたかったっていうか」
 怪訝な顔で覗き込まれてややたじろぐ。好きな人の胸の内を明らかにしたいというのはそんなにおかしな欲求だろうか。なんの進展もないとしても、己がどの位置にいるかくらいはっきりさせておきたいではないか。それは確かに、結婚は無理だと明言されてショックはショックだったけれど。
「なんて言われても平気だから、教えてくれよ。全然特別なんかじゃないとか、意識したこともないとか、それならそれでしつこくしねーし、俺だってあんたを困らせたいわけじゃねーから」
 ルディアの戸惑いが目に見えて、慌ててレイモンドは言葉を継ぎ足す。なんとか彼女に理解してもらいたかった。自分が求めているものは、今は一つだけなのだと。
「俺ほんとに、姫様に何かしてほしいとかじゃないんだって。生まれて初めて好きになった人に、どう思われてるのか知りたいっつーだけなんだ。ふられても俺は、ユリシーズみたいにはならねーし」
 恨んだり裏切ったりしないと約束する。信じることに臆病な彼女がどこまで本当だと思ってくれるかわからないが、できるだけ真摯に。
「姫様は俺のこと好き? 好きじゃない?」
 嘘偽りない答えが聞きたくてまっすぐにルディアを見つめた。期待外れでも構わなかった。そんなことで消えてしまうような儚い想いではないから。
「……私はお前のことなんて……」
 なんともという台詞の途中で震えすぎた声が詰まる。ぐちゃぐちゃに歪んだ顔を背け、ルディアはぐっと拳を固めた。
 初めて見る表情だ。こんなときはもっと、実に多くの仮面をつけかえながら話してきたくせに、今はそのどれも手に取れずにいるように見える。
「どうして私の気持ちなんて無意味なことを言わせようとする?」
 強い語調で責められる。「お前にしてやれることは何もない。それで十分答えになっているだろう」と。
「いや、なってねーから聞いてんだって」
 いいことでも悪いことでも、はっきり言うべきことならルディアははっきり言う女だ。それなのにこんなに言いよどむということは、初めから隠すつもりでいたことなのだろう。
(ああ、姫様やっぱり……)
 頭に浮かんだ考えが愚かな自惚れでなければいい。次はどんな人間になるか知れない、希望を持たせられないのなら秘しておこうとしてくれたのだという考えが。
(この人も俺のこと――)
 頼りない膝の上でわなないていた両手を掴み、引き寄せる。今にも泣きだしそうな顔で彼女は「お前には言わないし言いたくない」と首を振った。言ってしまったら互いに傷つくだけではないかと諭すように。
 誤魔化しきれていないルディアに思わず吹き出しそうになる。指を絡めても振りほどかれなかった二本の腕はもっとわかりやすく多弁だった。
 嘘も言えず、黙り込むしかないくらいには大切に思われているのだ。それがわかって本当に嬉しい。
「じゃあいいや。今は聞くのやめとくよ」
 急に追及の手を止めたので意表を突かれたルディアが目を丸くする。
「俺ちょっと色々考え直すわ。あんたの頼み事も引き受ける。印刷機ができてから、パーキン連れてアクアレイア目指すよ」
 そう続けると更に驚き、ぽかんとこちらを見つめ返した。
「その代わりさ、向こうで再会したときに今日の返事を聞かせてほしいんだ。アクアレイアに帰ってみなきゃ、あんたの次の身体がどんなかとか、政略結婚が必要かとかわかんねーだろ? だったら俺に可能性があるかないかも未確定じゃん」
「そ、それはそうだが……」
「なっ、だからこの話はまた今度! 日暮れまでまだまだたっぷり時間あるし、今日はデートを楽しもうぜ!」
 ルディアの両手を温めながら明るく告げる。呆気に取られる想い人にできるだけ屈託なく笑いかけた。彼女がまたごちゃごちゃと帰国後の心配を始めないように。
(くそっ! 俺なんて馬鹿だったんだ。全然のんびりしてる場合じゃなかったじゃねーか)
 レイモンドは胸中で激しく自己非難する。前より心を通い合わせられるようになったくらいでいい気になって、何を寝ぼけていたのだか。自分が離れ離れなんて嫌だと駄々をこねているうちに、ルディアはうんと先のことまで考えていたというのに。
 確かに彼女と付き合いたいとか結婚したいとか大それた願望はまだ自分の頭にはなかった。だがそれでは駄目だ。一生彼女についていくなら、ずっと支えになるつもりなら、こちらも将来を見越して動けるようにならなくては。
(でなきゃ本当に政治で再婚しちまうぞ、この人)
 他の誰かにルディアが攫われるところを黙って見ているなどできない。そうなる前になんとかしたければ自分が王女の隣に並んで見劣りしないレベルまで成長するしかなかった。それはおそらく、ルディアにくっついて後を追いかけ回すだけでは不可能なことだ。
(金だ。とにかく金を稼ぐんだ)
 脳をフル回転させて目標金額を試算する。
 今どんな状態なのかは知らないが、アクアレイアはあくまでも商人の国だ。有力者というのはつまり金持ちのことで、貴族になりたいとかあの子と仲良くしたいとか、大抵のことは大金を積めばなんとかなった。それに今ルディアは文無しなのである。自分の稼ぎが大きければ大きいほど彼女の助けになるはずだ。
(明日から一分一秒も無駄にできねーぞ。俺もっと、ほんとに真面目に頑張らねーと)
 ルディアは国を取り戻すという大きな目的を果たそうとしているのだから。彼女に見合う大人物に自分もなるのだ。




 なんだこれは。どうしてこんな展開になった? 一日デートに付き合って、それで終わりにするつもりだったのに。個人的な感情には蓋をして、この先はすっぱりと王国のために生きていこうと決めていたのに。
「姫様、舟返したらどこに行く? 美味いパイ焼いてくれる店聞いたんだけど、そこ寄ってみる?」
 にこやかに尋ねてくる槍兵に困惑したままおずおずと頷く。いつでも自分が一番不安に思っていることをねじ伏せてくれる男に。
 レイモンドは「俺はユリシーズみたいにはならない」と言った。それこそがルディアの最も恐れていた事態だった。心底から信じられると思った人間を、傷つけて、また失ってしまうのは。
 だけどこんなこと、いいのだろうか。所詮自分はアクアレイアのためにしか生きられない脳蟲なのに、思い続けてもらってもいいのだろうか。
(レイモンドのためには私のことなどさっさと忘れさせたほうが……)
 繋いだ指を撫でられて、思考がたちまち吹き飛ばされる。視線が合うと槍兵は熱っぽく囁いた。
「俺、姫様の口から好きだって聞けるように頑張る。だからさ、ちょっとだけ待っててくれよな」
 手が、耳が、全身が、見る間に赤く染まるのがわかる。
 失敗だったかもしれない。いざとなれば本心なんていくらでも誤魔化せると考えたのは。
「お前がどんなに努力しても、時勢というものがあるんだぞ」
 かじかむ声でそれだけ言うのがルディアにできる限界だった。レイモンドは「わかってるよ」と取り合ってくれなかったけれど。


 ******


 結局ルディアたちが印刷工房に帰ったのはとっぷり日が暮れてからだった。玄関を開けたら徒弟たちがいない代わりに一階で旅装のチャドが待っていて、余韻に浸る暇もなく現実に立ち返らされる。
「マルゴーに戻ることにした。河の旅なら季節も昼夜も関係ないし、今夜発つ」
 告げられた言葉は特に意外ではなかった。自分がチャドでもそうしたと思う。果たすべき義務を個人の幸福よりも重く感じているなら。
「本来は妻であるあなたを支援しなければならないのだろうが……すまない。とてもそこまでできそうになくてね」
「構わんさ。ずっと正体を伏せてきたんだ。急に伴侶と思えというほうが無茶だろう」
 やり取りは穏やかで、チャドは騙されてきたことを怒っているふうでもない。彼もまた宮廷人だ。やむにやまれぬ事情を汲んでくれたのに違いない。
「では私はこれで」
 軽い会釈とともにチャドが玄関へ踏み出す。その背を見上げて瞳を震わせる猫に気づいてルディアは貴公子を呼び止めた。
「待ってくれ」
「うん? なんだい?」
 振り返った元配偶者に「一つ言い忘れていた」と告げる。
「アウローラがまだ生きている可能性がある。今はまだ詳しい話はできないが、いずれこの件であなたに連絡することがあるかもしれない」
「アウローラが? ……わかった、心しておこう」
 こくりと頷き、今度こそチャドは出ていった。猫の鳴き声に未練を示すこともなく。
(やはりそうだ。チャドでさえ婚姻の相手でもなければ国より優先することはないのだ)
 同情と謝罪の意を込め、ルディアはブルーノを抱き上げる。
「すまなかったな。本当に、つらい役目を担わせて」
 聞いているのかいないのか、白猫は呆然とするのみで、アイリーンやモモの心配そうな眼差しにも気づいていない様子であったが。
「何度も言うが、チャド王子はお前のことをいつも優しかったと仰っていたぞ。きっとこれで良かったんだ。お前の誠実さは伝わったさ」
 アルフレッドがそう幼馴染を慰める。だがこれもブルーノには効果なかったようである。白猫は消沈し、ただじっと黙りこくった。そうしていないと心がばらばらに砕けそうでもあるかのように。
 コーストフォートでの日々は足早に過ぎていった。ルディアたちはこの三日後、再び海に出ることになる。









(20171110)