ルディアたちがコーストフォート市に戻ったのは、極夜も明け、日照時間が伸びてきたのを肌に感じる二月初旬のことだった。
 真冬の荒波に揉まれたため、またしても老朽化の進んだボロボロのコグ船が人影まばらな河港に入る。この時期は海側から来る商船が少ないせいか、残雪の光る船着場はごく静かなものだった。
「こりゃ駄目だ。騙し騙し使ってきたが、この船もいよいよ引退だな」
「やっぱりか。随分使い古したもんなあ」
「バラして売っても大した額にはならなさそうだが、処分するしかねーだろうなあ。早いとこ代わりの寝床見つけねーと」
「けどよ、これからはあのパーキンって男が俺らを雇ってくれんだろ? 話はとっくについてんだし、とりあえず皆で工房に顔出しに行きゃいいんじゃねえか?」
 コグ船の点検をしていたイェンスとスヴァンテが甲板から赤レンガの街並みを見やる。威勢を誇示する市庁舎やアミクス商館が目に入っても、二人はもうさして嫌な顔をしなかった。海と別れ、陸に上がる。彼らの新しい生活はこの街で始まるのだから。
「そうだな。そんじゃいっちょ気合い入れて行くか!」
 振り返ったイェンスが「野郎ども、降りるぞ!」と告げる。印刷技師に転身予定の老水夫たちは待ってましたと言わんばかりに歓声を上げて飛び出した。まだまだ一旗揚げる気概は十分ということか、我先にロープを伝う彼らの瞳はまばゆいばかりに輝いている。
 ルディアたちも金細工師の印刷事業がどうなったか確認するべく下船した。カロとの決着がついた今、一日でも早く印刷機をアクアレイアへ持ち帰らねばならない。ジーアンの支配下で、いまだ経済難にあるだろう祖国のために。
「ふうん、皆さんまっすぐパーキンさんのところへ向かわれるんですね。私は一度診療所に戻らせてもらってよろしいでしょうか? この子に新しい身体を用意しないといけませんので」
 と、河港沿いの道を駆け出した一団からハイランバオスが脇に抜け、工房街とは別方面の彼の下宿へ続く通りを指差した。医者の右手には透けた蟲の――彼曰く、あの狐将軍の入ったガラス瓶が握られている。
「…………」
 ルディアはその場に立ち止まり、両脇を固めるアルフレッドとレイモンド、すぐ後ろのアイリーンと目を見合わせた。ハイランバオスにはできるだけ単独行動させたくない。ラオタオまで加わるのなら尚更だ。
「あ、ええと、私が一緒に行ってきます。姫様たちはどうぞ工房に」
 こちらの意を汲み、アイリーンがさっと医者の背後に回った。「見張り役などつけずとも大丈夫ですよ?」とエセ聖人はおどけてみせたが聞かなかったことにする。なんと言われても野放しにできる男ではない。
「やれやれ。あなた方には真実しかお話していませんのに、なかなか信用していただけませんねえ」
 弱りましたと言いながらさほど弱った様子もなく、ハイランバオスは足取り軽く角を曲がり、ひらひらと手を振りながら建物の陰に消えていった。騎士と槍兵が胡散臭げな目つきで見送る。二人とも、再び工房を目指して歩き始めた後も警戒は緩めなかった。
「……どうにも腹の読めない男だな」
「俺あいつキライ! 意味わかんねーことばっか言うんだもん」
 舌まで出したレイモンドをルディアは「こら」とたしなめる。
「気持ちはわかるが少し堪えろ。奴とはしばらく手を組むことになるのだからな」
 苦言を受けてレイモンドは複雑そうに顔を歪めた。この槍兵は自分のせいでハイランバオスの言うことを聞かなければならなくなったと思い込んでいて、余計にあの偽預言者に反発心を抱いているのだ。アルフレッドの溜め息も深く、厄介なものを抱え込んだ実感は否応なく湧き上がった。それでもあのまま何もできずに終わりになるより良かったと思っているが。
 私の言うことをなんでも一つ聞いてくださるのでしたら――。あの日瀕死のレイモンドを前にしてハイランバオスはそう言った。要求は既に飲んでいる。「私を仲間にしてください」という想定外も想定外の要求は。
「力を合わせてアクアレイアを取り戻しましょう、だもんなー。どの口が言うって話だよ」
「ああ、裏で王都陥落の糸を引いていた人間の言葉とは思えない」
 二人の言にルディアも「そうだな」と同意した。本当に、そんなことをしてなんのメリットがあるのか甚だ理解不能だが、ハイランバオスはヘウンバオスからアクアレイアを取り上げる気でいるらしい。それもただ天帝のものでさえなくなればいいようで、ジーアン人を追い払った後あの沼沢地が王国になろうと共和国になろうと彼は一向に構わないらしかった。
(祖国奪還に向けての支援は惜しみません、か……)
 喜色満面で告げられた台詞を思い出し、また頭を悩ませる。あんな男を信用などできるわけがない。とはいえ申し出を断れる立場でもなかったが。
「こっちに都合のいい話ばっかりってのがなんか気持ち悪いんだよな。確かに目的はかぶってんのかもしんねーけど、自分たちのことペラペラ喋りすぎっていうかさ」
 渋面の槍兵に騎士が頷く。「裏の取れた情報以外は話半分で聞いておこう」と用心を促すアルフレッドにルディアもレイモンドも異論はなかった。
 不気味とまでは言わないが、やはりこの同盟はあまりにこちらに利する点が多すぎる。ハイランバオスは帝国の実態をほとんどリークしたのではないかと思うし、蟲の生態についても同じくだった。
 特に驚かされたのは、アークなる人智を超えたクリスタルの存在だ。脳蟲はアークによって生み出されたとか、一定濃度の塩水に触れたときだけ孵化するなどということはアイリーンさえ知らなかった。蟲たちには親玉ともいうべき特別な一体が存在し、フスやコナーがそれに該当するということも。
 この件に関してはフスにも確認を取ったので間違いないと思われる。祭司は「ちょっと教えすぎじゃないか?」と困惑していたほどだった。それでもまだルディアたちは、アークについて何も知らないも同然のようだったが。
「どうかアクアレイアの海とコナーを我が君からお守りください、だっけ? ったくおちょくられてるとしか思えねーよ」
「仲間や国に害をなそうとしているわけだからな。巣を守ろうとするのが脳蟲の本能のはずなのに、解せないどころの話じゃない」
「…………」
 槍兵と騎士の間でルディアは一人考え込む。「いくら寿命が近いからと言って、ここまで方向転換するものだろうか?」と怪しむアルフレッドの声が、脳裏をよぎったハイランバオスの笑い声と重なった。
 ――どんなに骨折りを続けても無駄だと悟ったら、自分のために生きようという気にもなりますよ。
 あの男の生き甲斐は、今はただ天帝の生き様を見届けることにあるらしい。その人生の終幕を自分の命と魂で光り輝かせられたらなお良いと、故郷であるレンムレン湖探しにはひとかけらの未練もないと。
 動機も信念も行動もルディアには皆目理解できなかった。ハイランバオスが正気でものを言っているのかも。
 だが王国の奪還もコナーの保護も頼まれずともやるべきことに違いはない。利用できる駒ならば、ハイランバオスだろうとラオタオだろうと利用してやるのみだった。
 ――そう、やるべきことは山積みなのだ。考えるべきことはもっと。
「俺たちに協力させるだけさせといて、最後は全部持っていくぐらいのことはやりそうだよなー」
「確かにその可能性は高い。裏を掻かれないように奴の動向にはしっかり目を配っておかなければ……」
「おい、そろそろ静かにしろ。人通りが増えてきた」
 ルディアは人差し指を立て、二人の会話を切り上げさせた。広場が近づき、寒風吹きつける大通りにも賑わいが満ちてきている。街中では誰が何を聞いているか知れたものではない。ジーアンの話題など出さないほうが賢明だ。
(敵は我々と型違いの脳蟲か。一筋縄ではいかないだろうな)
 工房に向かい歩きながら、ルディアはこっそりポケットに左手を突っ込んだ。直すだけは直したが返せないまま放置している首飾りを指で探る。少し傷んだ革紐を、まじないの彫られた小さな牙を。
 考えるまでもなく、やればすぐに終わることだ。それなのにまだ自分は見て見ないふりをしている。こんなものはさっさと手放し、他に頭を使わなければならないのに。
 らしくないなと苦笑した。決断を先送りにするなんて。
 それほどに恐れているということだろうか。終わらせてしまうことを、次へ進んでしまうことを。




 またあのお守りに触れている。彼女の指がポケットに寄せられるたび意識がそこに向いてしまう。そんな己の過敏さに落ち着かない気分でアルフレッドは前方に目を逸らした。
 意気揚々と進むイェンスらの後ろ姿は既に遠く、豆粒大になっている。工房の場所は知っているから置いていかれても困りはしないが、少しゆっくり歩きすぎたようだ。ルディアもあまり遅れてはと思ったのか、先程よりも少しだけ歩調を速めた。その左手はもうどこにも触れていない。
 ぶんぶんとかぶりを振り、アルフレッドは薄灰色の空を見上げた。無礼にもほどがある。こんな風にじろじろと主君を観察するなんて。
(気にしすぎだぞ。大体俺がどうこう言うべき話でもないじゃないか)
 ポケットに何が入っているかなど知らなければ良かった。それかルディアがレイモンドにさっさと渡すものを渡してくれていれば。ためらっているように見えるから却って引っかかってしまう。それはそんなに勇気を必要とする行為なのかと。
(本当に、俺が勘繰る話じゃない)
 表面上は平静を装い、アルフレッドは石畳の道を歩いた。工房通りを折れてしばらく行くとトンテンカンテンと工具の音がやかましくなってくる。雑多な響きはどこか懐かしく、耳を傾ければ無心になれた。パーキンの仕事場に着く頃には胸のもやもやもだいぶ静まり、内心ほっと息をつく。
「あのモミアゲ、勝手に借金増やしてねーといいけどな」
「やめろ。会うのが不安になるだろう」
 元々はワイン蔵だという地下倉庫への階段を前に、レイモンドとルディアが足を止めた。パーキン・ゴールドワーカーは本当にどうしようもない男らしく、呼吸するようにトラブルを巻き起こすそうだ。街を離れている間に訴えられて投獄されたかも、いやいや借金取りに追われて蒸発した可能性もある、などと最悪の予想を済ませたうえで二人は地下に降りていく。
 結果から言えば、悪い展開にはまったくなっていなかった。驚かされるのは驚かされたし、金細工師の借金額も増えていたのだが。
「おおっ、レイモンドにブルーノ! ナントカ隊の隊長さんも!」
 最初にアルフレッドの視界に入ったのは床を埋め尽くす大量の文字型だった。整然と箱に収められたそれらで倉庫は足の踏み場もない。中心に座すパーキンも、周囲に活字箱が積み上がっているせいで頭しか確認できなかった。
 見渡す限り文字型、文字型、文字型だ。神話集を一冊刷るだけでもパトリアアルファベットを刻んだ金属活字が十万個以上必要だとは聞いていたが、こうして見るとすさまじい量である。またその出来を一つ一つ入念にチェックする職人にも感嘆を禁じ得なかった。
「こんなに文字型を増やしたのか? 印刷はどこでやってるんだ?」
 ルディアも目を丸くして金細工師に問いかける。用紙類を保管していた棚も、インクを乾かすためのスペースも、全て活字箱に領土を明け渡しているのだ。印刷機自体見当たらないし、彼女の疑問はもっともだった。
「アレキサンダー三号なら上さ! 思ってた以上に護符が売れて、在庫管理にここじゃ手狭になってきたんで建物丸ごと買い取ったんだ。アトリエの連中も別の場所に引っ越したがってたしな」
 文字写りの最終確認をする手は止めず、パーキンが答える。不動産を買えるほど儲かっているというだけで驚きだったのに、金細工師は更に驚きの発言を続けた。
「そんで俺は今、アレキサンダー四号を製作中ってわけ! 折角この街で俺の印刷物が売れに売れてるってのに、何もかも引き払ってアクアレイアを目指すなんて馬鹿のすることだろ!? どうせなら二号店を出してやろうと思ってよ!」
 おお、とレイモンドが称賛の拍手を送る。パーキン曰く、今度の融資は相当な好条件で貸しつけてもらえたらしい。二台目を作る費用にしても、試行錯誤した今までに比べれば格段に安くなるし、数年で完済できる見込みだとのことだった。
「すごいじゃないか。借金は増やしているかもと思っていたが、まさか印刷機まで増やしてくれるとは思ってもいなかったぞ」
「へへっ、ありがとよブルーノ。けど本当にすごいのはここからだぜ! 俺はなあ、今に世界中にゴールドワーカー印刷所を建ててやるのさ!」
 識字率の高いアクアレイアへ行けばもっとでかい仕事ができるとパーキンは目をぎらつかせる。文字型も五十万個は用意するという頼もしい台詞に主君は喜びを隠さなかった。
「それは本当に楽しみだ。早くサールの仲間とも合流してアクアレイアに帰りたいな」
 ルディアの笑顔を見ていたら己の胸まで弾んでくる。アルフレッドはこくりと頷き、「ああ、急いでマルゴーへ向かわなければな」と拳を握った。パーキンが「あ」と間の抜けた声をあげたのはそのときだ。
「そういやそのサールからお客さんが来てる」
 思わぬ言葉にアルフレッドたちは「えっ!?」とどよめいた。しかも客人は三人連れで、パーキンの発行した新聞を頼りにレイモンドとブルーノを訪ねてきたという話である。
「だ、誰だ?」
 ルディアの問いに金細工師は「おっかねえ女の子だよ」と額をサッと青ざめさせた。たったひと言でピンと来て、アルフレッドたちは目を見合わせる。
「お前らが海に出てったすぐ後に来てさ、しばらく帰らないぞっつったら働くから泊めてほしいって。今ちょうど二階でイェンスたちに印刷機の使い方説明してんじゃねえのかな」
「……!」
 脱兎のごとく駆け出したルディアに続き、アルフレッドとレイモンドも地下倉庫を後にした。三人連れというのが引っかかるが、おそらくモモに違いない。残り二人は誰だろう? それにサールでの護衛任務はどうしたのだ?
(よほどの理由がなければモモは持ち場を離れたりしない。宮殿で何かあったんだ)
 階段を一気に上がり、石工の捨てていった元アトリエの扉を開け放つ。広い一間になっている一階では、パーキンの弟子とは思えぬ好青年のネッド・リーが種類ごとに護符を仕分ける梱包作業に追われていた。
「あっ、皆さんおかえりなさい! 長旅お疲れさまでした!」
 妹さんが来てますよと親切な声に教わる。やはり「おっかない女の子」とはモモのことらしい。礼だけ告げてアルフレッドたちは二階へと足を急がせた。
「……でー、パトリア文字の読める人には組版っていう作業をしてもらいたいんだけどー、とりあえず最初は皆アレキサンダー三号を使ったプレスの方法を……」
 耳慣れた、物怖じしない高い声が階上から響いてくる。北辺の荒くれ者らがお行儀良く並んだ向こうに「モモ!」と大きく呼びかけると、妹は短く結んだ二つの髪をぴょこんと跳ねさせ、丸い瞳を大きく瞠った。
「アル兄!? それにレイモンドたちも!」
 インクの塗り方を実演していたと思しき彼女は一旦手を止め、インク壺も床に下ろしてこちらへと駆け寄った。
「なんだ、身内か?」
「アクアレイア人だと思ったらまたお前らのお仲間か」
 中断に気を悪くした風もなくイェンスとスヴァンテが振り返る。兄妹の再会を優先して一歩下がってくれた彼らにモモも「わわっ、ごめんね」と詫びた。
「えーっと、えーっと。皆、ちょっとだけ待っててくれる? ほんとはモモが技術指導の担当なんだけど、大急ぎでアル兄たちに相談しなきゃいけないことがあるの。こっちの都合で本当にごめんね! すぐに代わりの人を連れてくるから!」
 何度も頭を下げてからモモはアルフレッドたちの腕を引いた。どうやら三階に交代要員がいるらしく、妹は作業場の奥の階段に急ぐ。
「モモ、お前なんでコーストフォートに? 任務はどうした? サールで何があったんだ?」
 背後から投げかけたアルフレッドの質問にモモは「後でね」と答えなかった。叱られるのがわかっているとき彼女がしばしばそうするように、ただ現場へと連れられる。
「えっ……!?」
 三階に上がってすぐ、モモ以上に何故ここにいるのか不明な人物二人と目が合った。一人はコーネリア・ファーマー。コナーの妹でアウローラ姫の乳母を任されていた女性だ。もう一人はチャド・ドムス・ドゥクス・マルゴー。服装こそ一般市民のいでたちに変わっているが、公国の第二王子にして我らが主君の夫である。印刷前の組版作りに従事する彼の姿にはルディアもレイモンドも面食らった様子だった。
「ど、どうしてあなたがパーキンのもとで植字工など……」
 糸目の王子にルディアが尋ねる。するとチャドは「久しぶりだねブルーノ君。実はちょっと国にいられなくなってしまったんだ」と残念そうに返事をした。
「国にいられなくなった? 国ってマルゴーのことっすよね? 一体どういうことなんです?」
 続いてレイモンドも問いかける。だが幼馴染のほうは答えてもらえなかった。チャドが口を開く前にニャアと猫の鳴き声が響いたからだ。
「ウニャア、ウニャア」
 見れば随分と毛並みの良い、青い目をした長毛種の白猫が悲しげにこちらを見上げている。ルディアの足元に擦り寄って頼りなく震えるその猫をチャドは優しく抱き上げると「おお、よしよし。泣かないでおくれ、私の可愛い人」といたわり深く頭を撫でた。
(なっ……)
 まさかと頬を引きつらせ、アルフレッドはモモを見やる。妹は肩を落とし、無言のまま首を振った。
「……ッ」
 反射的に大部屋を一瞥したが、六台の作業机と組版の道具以外は何もない。モモとチャドとコーネリアがここにいるなら姿があって然るべきもう一人は、その高貴なる肉体は、どこにも見出されなかった。
「ニャアア、ニャアア」
 哀切な鳴き声にアルフレッドは息を飲む。縮こまった白猫は王子の腕で悲嘆に暮れるばかりだった。
「チャド王子、コーネリアさん、二階の人たちに印刷のやり方を教えてあげてもらっていい? モモたちちょっと今までのこと話し合いたくて」
 沈痛な面持ちでモモが乞う。
「ああ、構わないとも。君たちの身の振り方が決まらないことには私も動きの取りようがないからね」
 快く頷いてチャドはコーネリアに目配せした。突然の来訪者に固まっていた元乳母はやりかけの植字架を気にしつつおずおずと立ち上がる。彼女を階下に促しながらチャドも白猫を作業台に座らせた。
「あなたはここに残るといい。私がいてはしにくい話もあるだろう」
 ただの猫への呼びかけとは思えぬ呼びかけに背筋が冷える。とどめに王子は猫の額に口づけた。たびたび彼が最愛の妻にしていたのと同じように。
「……っ」
 ルディアとレイモンドもぱちくりと白猫を見やる。考えたくない可能性だが、やはりそういうことなのだろうか。この白猫の中にいるのは――。
「カロには会えたの?」
 王子と乳母が立ち去ると妹はやや気まずそうに切り出した。ハッと顔を上げ、アルフレッドはモモに答える。
「あ、ああ。こっちはどうにか片付いたよ。もう心配いらないと思う」
 返答に妹はふうと重い息をついた。「えらいね。アル兄はちゃんと自分の仕事を果たしたんだね」と呟く彼女は珍しく塞ぎ気味だ。
「……何があったんだ?」
 怖々と問いかける。項垂れた白猫が微動だにせず、困惑は深まった。見守るルディアとレイモンドも怪訝に眉をしかめている。モモはくるりと主君のほうに向き直ると、頭が腹にくっつくのではと思うほど深く謝罪した。
「ごめんね姫様。謝って済む問題じゃないのはわかってるんだけど、モモ他になんて言えばいいのか……」
 そのまま彼女はアルフレッドを送り出して以降の顛末を語り始める。モモによれば、公爵家を始めとして宮中は敵だらけだったらしい。ティルダとルースの繋がりも予測できず、『ルディア姫』を守りきることができなかったとモモは悔しげに歯噛みした。
「なっ……」
 愕然と息を飲む。あれだけ猛省していたグレッグ傭兵団から裏切り者が出たことにも驚いたが、それ以上に王女の肉体が失われたというのが衝撃で。
 モモは続けた。遺体の頭は潰れていて、首の骨も折れていたと。置き去りにして逃げる以外の選択肢もなかったと。
(じゃあ姫様は、もう二度と元の自分には……)
 気のきいた台詞などひねり出す余地もないまま振り返る。立ち尽くす主君に「大丈夫か?」と問おうとして、アルフレッドは既に別の手がルディアの肩を支えているのに気がついた。
「……大丈夫だ。モモ、それから?」
 血の気の引いた白い顔を上げ、ルディアが問う。レイモンドも長々と彼女に触れてはいなかったが、案じる視線はいつまでも外さなかった。
 ざわ、と胸の底が騒ぐ。自分が気遣うよりも先に行動していた幼馴染を苦々しく思う理由などないはずなのに。
「そう、それで、崖から落ちたブルーノの本体を助けてくれたのがチャド王子だったの。耳から蟲が出てくるところもばっちり見られてたみたいで、モモも何も説明しないわけにいかなくて」
 妹はブルーノが万一に備えて塩水の入った小瓶をチャドに持たせていたようだと言った。勝手なことをして申し訳ないと詫びるように白猫はますます顔をうつむける。
「今ね、王子は『この猫に愛しい妻の魂が宿っている』って思ってるの。もう暇さえあればブラッシングしたりリボンつけたり、相変わらずのラブラブぶりだよ。口にしたことはないけど新しい身体さえ見つかれば夫婦でどこかに居を構えたい、身分なんか捨ててもいいって考えてるみたい。この頃はブルーノと意思疎通しやすいように、自作の文字表まで持ち歩いてるくらいだし」
 モモはブルーノがルディアの代役であったことは伝えずにいたようだった。この不可思議な線虫はいわば魂の結晶で、王女の肉体は滅びたが精神はここに生きているとの説明で押し通したらしい。何も知らないコーネリアには「王子はショックでおかしくなった」と誤魔化して。
「やっぱこいつがブルーノなんだ?」
 レイモンドが手を伸ばすと作業台の猫は小さく身を震わせた。しょげ返った替え玉に対し、ルディアはしばらく考え込む。
「……そうか、私が王女に戻る日はもう来ないのか」
 ぽつりと漏れた呟きにアルフレッドは思わず声を荒らげていた。
「王国再興を願うならあなたは今もルディア姫だろう!」
 馬鹿なことを言わないでくれと眉根を寄せる。すると彼女は苦笑して「自暴自棄で言ったんじゃない」と首を振った。
「私に与えられていた特権も制約もこれで帳消しになったという話さ。聖王に連なる王家の血も、チャドとの婚姻関係もな」
 ルディアの発言にぎくりとして、アルフレッドは硬直する。言われてみればその通り、彼女はもはや肉体的には「夫のある身」ではないのだった。チャドが縁を保ちたいと望んでいるのもルディアではなくブルーノだ。そして彼女の口ぶりは、あえて伴侶を引き留めようとはしていないように響いた。
「とにかくお前だけでも助かって良かった。長い間、難しい役を務めてくれて礼を言う。ありがとう」
 優しいねぎらいにブルーノは涙目で首を振る。こういうときは責められないほうがつらい。取り返しのつかない事態だけに、アルフレッドにもサール宮を出てきたことが悔やまれた。自分がいれば撃退できた敵だったかもしれないと思うと。
「でもコーストフォートで再会できて不幸中の幸いだったね。王子様連れての逃避行だったもんだから、モモたちマルゴーじゃお尋ね者同然でさ。あちこちで捕まりそうになって本当に大変だったんだから」
「ん? お尋ね者? てことはもしかして、俺たちサールリヴィス河を遡ってマルゴー経由で帰ったりしちゃまずいんじゃね?」
「そうか、そうだな。牢獄にぶち込まれでもしたら厄介だ。予定を変更せねばなるまい。うーむ、オリヤンに相談し直すか」
「オリヤンって誰? モモたちの味方?」
 教えてとせがむモモに、今度はルディアがこれまでの旅路を語る番だった。積もる話は山ほどあり、時間が駆け足で過ぎていく。互いの現状を把握し合う頃には三時の鐘も鳴り終わって、診療所での用事を済ませたアイリーンたちも顔を出した。
「うわっ、ほんとにハイランバオスじゃん」
「おや? また防衛隊の方がいらしたんですか? ふふっ、是非ともよろしくお願いいたします。これから一緒に打倒ジーアンで頑張っていきましょうね!」
 顔面のしわというしわを寄せ、モモは「こいつらも仲間なわけ? ほんとのほんとに?」と医者と医者の連れてきたニタニタ笑いの茶色いムク犬を眺める。ブルーノのほうは姉の無事な姿を見て少しほっとした様子だった。
「また大所帯になってきたな」
 ひいふうみいとルディアが人数を確認する。その横顔はもういつもの彼女と何も変わらない。
 なくなったのに。彼女が彼女であることを証明できる唯一の方法が。
 民衆は王女を死んだと見なすだろう。ならば彼女はこの先どうするつもりでいるのか。
(王国再興を願うならあなたは今もルディア姫だろう……か)
 自分の発した言葉の矛盾にアルフレッドは押し黙る。仮にジーアン軍を撤退させ、王国が再び独立を宣言できるようになったとしても、彼女をルディアと認めるのはほんのわずかの者だけだ。それでも彼女は王族として生きることをやめはしないだろうけれど。




 もう「ルディア」には戻れない。そうわかってもそこまで取り乱していない自分がルディアは少し意外だった。アウローラが仮死状態になった話を聞いたとき、自分の肉体もただでは済むまいと予測していたからだろうか。あるいは肉体にこだわらずとも絆は保てると思えるようになったからか。
 近況を語り合う面々を見渡し、ルディアは槍兵の明るい金髪に目を留めた。カロじゃなくて陛下のことを信じてくれと、必死に聞かせてくれた言葉を思い出す。
 あの人は、娘がどんな姿でいても冷淡な眼差しを向けはしまい。今は自然に信じられた。オーロラの下で見た、あの温かく優しい笑みを。
(それに他にも私を『ルディア』と呼んでくれる者はいるしな)
 肩越しに騎士を振り返る。誰よりも先に主君への忠誠を示してみせた忠義者は、普段通りの実直さで「これからどうする?」と問うてきた。
「とりあえず最短でアクアレイアに帰る手段を整える」
 答えながらルディアは一同に話を聞けと身振りする。「トリナクリア島まではオリヤンの船に乗せてもらって、そこからは別の船でアクアレイアを目指すのがいいと思う」との方針に彼らはふむふむと頷いた。
「はーい! それじゃ帰ってからは?」
 率直なモモの質問には更に率直に「わからん」と返す。
「考えられる限りの可能性を考えてはいるが、現状を見てみなければ印刷機をどう導入するかも判断できん。最優先はとにかく帰国だ。個人的な情報交換は後にして、オリヤンに話をつけに行こう」
 すっかり着慣れた毛皮のコートを翻し、ルディアは足早に階段を歩き出した。他の者も右にならえでついてくる。
 だが二階に降りても亜麻紙商の姿はどこにも見当たらなかった。面白そうに身代わり護符を増刷中のイェンスに聞けば「あいつなら留守中の仕事任せてた商会の連中に会いに行ったぜ」とのことで、あっさり出鼻をくじかれてしまう。
「オリヤンになんか用事か? 今日は忙しいだろうし、明日工房に来るように言っといてやろうか?」
「あ、ああ。頼む」
 ――というわけで、出航日時や船賃の交渉は明日を待たねばならなくなった。イェンスを始め、老水夫たちが和気あいあいと亜麻紙を広げる作業場を一瞥し、ルディアはふうと嘆息する。
「ぼんやりしていても仕方がないな。我々も手伝うか」
 告げるが早くモモが技術指導に戻る。アイリーンとハイランバオスは興味津々で印刷機に張りつき、アルフレッドとレイモンドは懇意にしている水夫のグループに加わった。ルディアはそのいずれでもなく、片隅でインクの濃さを調整中の女のもとへ足を向ける。
(こいつがコーネリア・ファーマーか)
 アルフレッドが話していた、窒息事件が起きるまでアウローラに付きっきりだった乳母。彼女ならコナーの居場所がわかるかもしれない。
「失礼。うちの者からあなたがコナー先生の妹君だと聞いたのだが」
「えっ? あ、は、はい」
 どもりながら応じた女は天才芸術家の兄と違ってどこか自信なさげだった。慇懃に所属とブルーノ・ブルータスの名を名乗ってすぐ、ルディアはコナーと連絡を取る方法がないか尋ねてみる。返答は期待外れのものだったが。
「あの、すみません。兄とはまったく交流と言える交流がないんです。お役に立てずに申し訳ありませんが……」
 噛みつきやしないのにコーネリアはやたらびくびく身を引っ込める。後ろで見ていたモモに耳打ちされたのは、彼女とルースはしばしば逢瀬を重ねた間柄だということだった。なるほど、厳しく責任を追及されるのではと恐れているらしい。言われてみれば元乳母は脇目も振らず、爪の裏側まで真っ黒に汚してインク鍋を掻き回していた。贖罪の方法がなければ現在の仕事に励むしかない。その気持ちはルディアにもわからないではなかった。
 邪魔しては悪いかと早々にコーネリアの側を離れる。続いてルディアが振り返ったのは、抱えた猫を撫でながら新人たちを監督する糸目の王子であった。
「組版以外は単純作業がほとんどだから、人手が増えると捗るね。ふふ、今日は久々にあなたとゆっくりしていられるなあ」
 愛撫を繰り返すチャドに対し、ブルーノはほぼ無抵抗である。その姿はまだ真相を知らずにいる恩人に、他には何もしてやれないのだしと打ちひしがれているように見えた。
「…………」
 声をかけるまでの数秒間、ルディアはブルーノの胸中を思う。我ながら酷な頼みをしたものだと、猫の目にいくらかの思慕を読み取って自責した。あんな境遇に追いやれば苦しめるのは目に見えていたはずなのに。
「ありがとうございました。我々を慮り、先に話をさせていただいて」
 ぺこりと頭を下げたルディアにチャドは「気にすることはない」と穏やかに首を振る。相変わらず彼は完璧な貴公子で、憤慨するとか動転するとかいったこととは縁遠そうだった。
「いえ、あなたには本当に感謝しています。亡命の件でも、モモたちの件でも」
「結果だけ見れば何もできなかったようなものだよ。新しい人生を始める道がまだ残っていることは、ありがたいと思っているけれどね」
 チャドはゆっくり窓辺に移動し、騒々しい工房街を見下ろして呟く。信じてきたものに裏切られ、彼とて傷ついただろうに、声に嘆きの色は薄く、猫の毛をすく長い指は慈しみに満ちていた。
「こうして彼女の魂だけは守れたんだ。他のことは気に病むまいと思っている。彼女がどんな姿になろうと私たちは夫婦だし、夫婦は互いを尊重し、支え合うものだろう? 話が終わるまで待つくらい、どうということでもないよ」
 愛情深い受け答えにブルーノの双眸が震える。つらそうに王子を見上げる彼に気づいてルディアもしばし沈黙した。
 ブルーノを苛んでいるものが何かは想像がつく。心から好意を寄せてくれる相手に嘘をつき続けねばならない苦しみは、己とて経験済みだ。このままにはしておけないなとひとりごちた。背負わせてしまったものを、全て引き取ってやることは難しくても。
「で、君たちはこの先どうするか決まったのかい?」
 ひそめた声でチャドが聞く。ルディアは頷き、「私たちはアクアレイアへ戻ります」と答えた。
「彼女も一緒に?」
「いえ、それはまだ直接聞けては」
 この返答に驚いたのはブルーノだ。白猫は窓の木枠に身を乗り出し、別行動の予定はないですと言いたげに見上げてくる。
「そうか、猫の口は不便なものだからね。良ければこれを使うといい」
 チャドの取り出した簡易文字表をルディアは「いえ、結構です」と受け取らなかった。その代わり、きっちりと意思疎通の可能なことを打ち明ける。
「我々は入れ替われるので、人の口を得るくらい造作ありません」
 えっと声を漏らしたチャドにルディアは続けた。
「私にもアンディーンの加護があって、あの蟲がここに宿っているのです」
 そう頭を指差すと利発な王子が拳を打つ。
「ほう、君も。なるほど、つまり二人の間でなら肉体を交換できるわけか」
 おろおろするブルーノを脇に、ルディアは「そうです」と返事した。聞き耳を立てていたアルフレッドたちも驚きのあまり凍りついている。突然何を言い出すのだと。
「はーい! 皆さんお疲れさまでした! 今日の作業はおしまいでーす!」
 と、そのとき、業務終了を告げにネッドが現れた。健康的な筋肉質の肉体に爽やかな笑顔を乗せた青年は「寝場所とか決めちゃいたいんで四階に上がってくださーい! ちなみに僕たち徒弟は全員雑魚寝でーす!」と呼びかける。
「えっ!? まさかあんた、俺たちと寝食をともにしてくれるのか!?」
「そんなこと言ってくれた北パトリア人初めてだぞ!?」
 感激で動揺するイェンスたちにネッドはへへっと鼻の下を指で掻いた。
「実は僕、イェンスさんの護符には何度か命拾いさせてもらってるんですよね……。だから偏見はありません! むしろ仲良くしたいです!」
 きっぱりと言い切った兄弟子に、はぐれ北辺人たちはまたも胸打たれたようである。誰からともなくネッドを囲み、肩まで組んで「よし、行こう! 一緒に行こう!」と四階へ連れ立っていく。
「しまった、荷物が出しっぱなしだ」
「あっ! 私も!」
 昨日までその四階で寝泊まりしていたらしいチャドとコーネリアが慌てて後を追いかけていくと、二階にはルディアたちだけが残された。「どうしてチャドにあんなことを話したんだ?」と言わんばかりの面々と視線を合わせることはせず、ルディアは窓際のブルーノを振り返る。
「お前、チャドに自分の正体を明かしたいか?」
 問いかけにブルーノは固まった。「話したいのなら話していい」と続けると、うろたえきって二つの目玉をきょろきょろさせる。
「王女の身体がなくなった今、どうしても隠さねばならん秘密でもなくなった。もちろん誰に喋ってもいいというわけではないが、チャドに言うか言わないかくらいお前に決めさせてやれればと思っている」
 告げながら、ルディアの脳裏には北の果てで見た父の幻が甦っていた。自分の口であの人に真実を明かせていたらという思いは、全てが解決した今も苦い後悔として残っている。せめてブルーノにはどちらか選ばせてやりたかった。彼に嘘を強要したのは己なのだから。
「ただ正直であることがいつも幸福を招くとは限らない。一晩じっくり考えて、お前のいいようにしろ。結果がどうあれ責任は私が持つ」
 それだけ言うとルディアは猫に背を向けた。医者とムク犬が興味深そうに、アイリーンは不安げに、アルフレッドとモモとレイモンドは次の言を待つように、じっとこちらを見つめている。
「……アクアレイアに戻ったら忙しくなる。先延ばしにしないほうがいい問題は、一つずつ片付けておこう」
 生きると決めたら現実がはっきりとした形を持って迫ってくるようになった。先延ばしにしないほうがいい問題は、自分も一つ抱えている。
 もう海の上ではないのだ。きっぱりと、伝えるべきことは伝えなければ。




 その夜ブルーノは一睡もできなかった。仲良く床に横になり、いびきの合唱を繰り広げる新入りたちもうるさかったが、それ以上に頭の中がうるさくて。
 話したいのなら話していい。そんな許しが出るなんて考えもしていなかった。自分は秘密を抱えたまま彼の前を去るのだと、ブルーノ・ブルータスに戻るのだと思い込んでいた。
 大部屋の最奥、まだしも踏まれる恐れの少ない壁際で、寝息を立てるチャドの枕元に丸まる。起きているときとあまり差のない糸目の寝顔を見つめながら、ブルーノはどうするべきか思案に暮れた。
 猫の器を与えられ、目覚めた日から胸にあるのは罪悪感のみだ。ルディアの身体を守れなかっただけでなく、本物でもない妻のためにチャドに国まで捨てさせて、と。自分を責めずにはいられなかった。肝心なことは何一つ知らないこの男が、どこまでも優しくしてくれるからなおさら。
(ずっと騙しててごめんなさいって謝っていいのかな)
 そうしたいと願う心とそうしていいのか疑う心が揺れ動く。チャドからしてみれば知りたくないのではなかろうか。骨身を砕いて尽くした相手がルディアではなかったなんて。偽者のために何もかも犠牲にしたなんて。
 ルディアはきっと、自分がルディアのふりを続けても何も言わない。チャドと自分がどこかの街に引っ込んで、二度と表舞台には出てこないと約束すれば快く見逃してくれる。それが多分、一番丸く事を収める方法だ。
 だがそんなこと許されていいはずなかった。何もできなかったくせに、自分だけ戦線離脱して安穏と日々を送ろうだなんて。
(卑怯者もいいところだ)
 かぶりを振り、ブルーノはチャドの首元に顔を埋める。
 わかっていた。今を逃せば一生言えないままなのは。ずっと心苦しく思ってきたことも、自分の本当の名前さえも。
「……眠れないのかい?」
 不意に伸びてきた温かい手に引き寄せられる。夢うつつの王子様は「そこにいては冷えるだろう、お入り」とそっとブランケットをめくった。言われるがまま寄り添ってしまうその理由を、深く考えるのは避ける。
「今日のこと、私に教えてくれるのは後でいい。私はずっとあなたを側で守るから、恐れずに進みたい道を決めなさい」
 本当に、非の打ちどころのない伴侶だ。チャドの優しさに触れるたびに己の至らなさが恥ずかしくなる。一瞬でも打算的な誤魔化しを考えたこと。
(やっぱり明日ちゃんと謝ろう)
 自分はあなたの妻ではないと、彼に言わなければならない。誠実でありたいのなら。本気で悪いと思っているなら。たとえ許してもらえなくても。
(でなきゃきっと、この先の道は続かない)
 目を閉じて心臓の音を聞く。いつまでもそれが途切れぬように。いつまでも、いつまでも、ともに過ごせる夜が巡ってくるように。


 ******


 翌日、祈りながら一夜を明かしたブルーノはルディアに己の決心を告げた。チャドに自分の素性を明かして今までのことを謝罪したいと。
 王女はわかったと頷いて、交代の準備を進めてくれた。チャドとコーネリアが新人指導に出払ったタイミングで、アルフレッドたちの手により三階に水の入った平桶と運搬用ロープが持ち込まれた。
 入れ替わるということは、どちらも一度仮死状態になるということだ。ニコニコ顔のハイランバオスに「仲間同士ではやりにくいのではありませんか? 良ければお手伝いしましょうか?」と問われ、思いきり場が白ける。
「馬っ鹿じゃないの? お願いねって頼むわけないでしょ」
 偽預言者を退けたのはモモだった。度胸のありすぎる斧兵は手にしたロープを左右に引き、その強度を確かめている。
「まあどう考えてもお前が一番適任だろうな」
「うん。すぐ落とすから安心して」
 露ほども委縮せず主君を絞殺にかかるモモもモモだが、平常心で受け入れるルディアもルディアだ。身震いして順番を待つ己とは精神構造が違いすぎる。
 どさりという大きな物音を聞いてすぐ、ブルーノも少女の手にかかって昏倒した。次に目が覚めたのは、床板に敷かれた毛布の上だった。
「…………」
 数度瞬き、ずっしりと重い瞼を開く。上体を起こすとまだ濡れた前髪が額にぺたりと張りついた。
 猫になったルディアのほうは己と違って軽快に跳ねる。それでいて気高さを感じさせる彼女にレイモンドが「おお、確かに姫様だ」と感嘆の息をついた。
「うわあ、ブルーノも一気にブルーノに戻ったね」
 ほぼ二年ぶりの肉体に戸惑うブルーノを見やり、モモが大きな双眸を瞠る。ついつい目深に下ろしてしまう前髪と自信なくすくめた肩がそれらしく見える理由だろう。「改めて見るとやはりまったく別人だな」とこぼすアルフレッドも敢えてどこが王女との差かは言わなかった。
「ニャーア!」
 と、全身を震わせて水滴を払ったルディアが鋭い鳴き声をあげる。どうやら彼女は「早くチャドを連れてきてやれ」と命じているようだ。三階に陣取っていた幼馴染たちはやや心配そうにこちらを見たが、立ち会うのは気が引けたのだろう。「行かないのですか?」と瞬きするハイランバオスの後に続き、やがてぞろぞろ階段を下りていった。
「…………」
 一人になった途端しいんと部屋が静まり返る。ああ、本当にあの人に秘密を打ち明けるのだと緊張が高まった。
 階下では今頃どんなやり取りがなされているのだろう。チャドは妻と話せることを喜んでいるに違いない。文字表を辿るぎこちない会話ではなく、じかに通じ合えるのだねと。
 想像するとなんだか胸が締めつけられた。彼を幸せにする言葉は一つだって言えないのに、ただ冷や水を浴びせるだけかもしれないのに、またぬか喜びをさせたのかと。
 思えばずっとそうだった。自分がチャドにしてきたことは。婚姻という契約を、言うなれば永遠を、ひたむきに貫こうとしている人に「いつか必ず終わりが来るもの」しか返せなかったのだから。
 王女の身体にいる間だけのぬか喜び。その仮初の幸福すら、自分は引っ繰り返そうとしている。
(……本当に言って大丈夫なの?)
 夜のとばりに覆われた頭で大切なことを決めたのを今更になって後悔する。早鐘を打つ心臓が、滴る汗が、馬鹿者めと己を責め立てるようだった。
 言えるのか。あなたの手にした宝石はまがいものだったなんて、本当に。
 傷つけて平気なのか? 欺き続ける覚悟を持つことはできないのか? 墓場まで持っていっても誰も困らない秘密だぞ?
(でも言わないと、謝らないと)
 このままではチャドが『ブルーノ』を見てくれる日は永遠に来ない――。
「ルディア!」
 呼吸を乱し、ノックも忘れて駆け込んできた男をハッと振り返る。顔を見るなり堪えきれなくなってブルーノはその場に崩れ落ちた。
「……っごめんなさい!」
 涙が、嗚咽が、滝のごとく溢れてくる。「ごめんなさい、ずっと、今まで」と繰り返すしかできないこちらにチャドはおろおろと歩み寄った。
「ど、どうしたんだいルディア? 姉上やマルゴーのことはもういいと言っただろう? 何をそんなに泣くことがあるんだい?」
 私は今の生活だって気に入っているよと慰めようとする彼に「違うんです」と首を振る。
「違うんです、ずっと『ルディア姫』じゃなかったんです、僕は――」
 チャドにはどう見えているのだろう。泣き伏して詫びるこの姿が。愛しい女と乖離していくこの姿が。
「今のこれが僕の本当の身体なんです……! 今日までずっと僕は姫様の……、『ルディア姫』のふりを…………」
 声が詰まって話せない。チャドがどんな顔で聞いているか、見上げることもできなかった。
 ああ、自分は自覚していた以上に罪の意識を抱えていたらしい。落ち着いて説明しようと思っていたのに、少しでもわかってもらおうと思っていたのに、とてもそんな風にできない。「必要に迫られて」「仕方なかった」そんな言葉で語ることは。
 まだ昼を過ぎて少ししか経っていないのに目の前が真っ暗だった。ひと言も発さない、身じろぎもしない男がブルーノには酷く恐ろしかった。




 昨日に引き続き、二階の作業場にはなごやかなムードが流れていた。見習い二日目のイェンスたちが大張り切りでこなす一連の工程をルディアはくまなく観察する。
 総勢二十名の水夫たちは効率良く印刷機を回すのにぴったりの人数に思えた。文字の読める者は植字架に一行ずつ文字型を並べて組版を作る。やはり文字の読める者が並びをチェックし、インク係がインクを塗った。仮刷りの後はまた誤字脱字がないかのチェックだ。ここを通った組版はプレス係により本格的な印刷にかけられた。刷り上がった紙はインクが乾くまで棚で干され、使用済みの組版は増刷の見込みがなければバラされる。他には裁断、仕分け係がいた。製本作業は複雑だからかまだ誰も教わっていないようだ。
「インク塗ったり紙並べたりするだけで生きていけるってすごくねえか?」
 これまでとの生活の違いに涙もろい水夫の一人が目を潤ませる。ただ彼らも植字工以外は誰でもできる仕事なのはわかっていて、「とっととパトリア文字を覚えちまわなきゃな」と慢心は見せなかった。
「コーネリアさん。いや、コーネリア先輩! ここの文字はこいつの大文字でいいんですかい?」
「はっ、はい、そうです。その通りです」
「コーネリア先輩! 俺の組版も見てやってつかあさい!」
「はい、ど、どの辺りですか?」
 読み書きに関しては申し分ないコーネリアはあちこちで引っ張りだこである。無骨な海の男たちに元乳母は多少腰が引けていたが、別に嫌ではないらしく、丁寧に出来栄えを見てやっていた。男所帯で青春を空費してきた老水夫たちは若い女性が親切にしてくれるだけで俄然やる気が出るらしい。我も我もと高い意欲を示す彼らにルディアは微笑を噛み殺した。
「そう言えば、今朝オリヤンに声かけといたぜ。落ち着いたらこっちに顔出すと思う」
 不意に男の声が響く。見下ろせば足りない文字型を補充しにきたイェンスが、活字箱の並んだ棚の最上段から作業場を眺めるルディアをじっと見つめていた。了解の代わりに「ニャア」と返す。すると近くで聞いていたモモが「すごいね、モモたち何も言ってないのに誰かわかったの?」と目を丸くした。
「ふふっ、イェンスさんには偉大な祭司がついていらっしゃいますからね」
 何故か得意げにハイランバオスが会話に加わる。偽預言者は頭から無視してモモはイェンスに問いかけた。
「レイモンドのパパはあの超売れ筋の身代わり護符の作者さんなんだよね?」
「ああ、それがどうかしたか?」
 イェンスのほうはいきなりパパなんて名称で呼ばれて少しびっくりしたようだ。だが斧兵は相手が身構えたことなど気にせずいつもの調子で話を続けた。
「レイモンドに小遣いくれって大金せびられたりしてない? 大丈夫?」
「おい、モモ! 何聞いてんだ!」
 植字架の並ぶ一列からすかさずレイモンドの怒声が飛んでくる。「答えなくていいぞ!」と叫ぶ息子に破顔してイェンスは問いかけに答えた。
「ははは、せびられたせびられた。護符売り出す前だったけどな」
「わー、やっぱりー」
「こら! 親父! 余計な情報与えんな!」
 二人はたちまち打ち解けた雰囲気になり、親しげに話し始める。荒々しい日々を生きてきたイェンスと獣じみた一面を持つモモは根底で通じ合うものがあるのか、もう昔からの知り合いのようだ。
「お前らオリヤンの船で帰るのか? 出航できるようになったらすぐ?」
「なるべく早くそうしたいよね。アクアレイアが心配だし」
「そっか、じゃあ賑やかなのも今のうちか」
「うん。レイモンドのパパも、アクアレイアが平和になったら遊びにおいでよ。モモたち案内してあげるから」
 少女の誘いに一瞬イェンスが息を詰める。少しの間を置き、彼は「そうだな」と囁いた。
「いつかまた、そっちにも行けたらいいな」
 声はどこか寂しそうだった。振り返ったレイモンドが視線を落とし、黙ったまま植字架に向き直るのをルディアは一人静かに見守る。
 彼は父親に「絶対来てくれ」なんてことは言わなかった。イェンスには面倒を見ねばならない仲間がいて、簡単には北パトリアを離れられないとわかっているのだ。彼らがもう船を手放すつもりであるのを考えると、なおさら難しい希望だと知れる。二人が親子で過ごす時間をもっとたくさん、できるだけ長く取り戻したいと願っていても。
「バウッ! バーウッ!」
 と、そこに突然ムク犬の声が響いた。階段をコロコロと滑り下りてきた獣は面白そうに足を鳴らし、天井を見上げてバウバウとまた吠える。この犬の正体はラオタオだと聞かされていたため、ルディアには嫌な感じしかしなかった。モモも何かされたと直感したらしく、「あっ! さては覗いてたでしょ!?」と三階を指差して叱る。
「ワフッ、ワフッ」
 ニタニタと犬は笑った。夫婦の会話を盗み聞きするとはなんてデリカシーのない。
「どういう躾をしているんだ?」
 顔をしかめ、作業台から立ち上がったアルフレッドがエセ聖人に詰め寄った。ハイランバオスは足元のムク犬を撫でながら「まあまあ」と騎士をなだめる。そのすぐ横で天井を見上げ、じっと耳を澄ませていたレイモンドが呟いた。
「……ちょっと静かすぎねーか?」
 怪訝顔の槍兵に一同は目を見合わせる。飼い犬の鼻息をふむふむ聞いていた医者に「様子を見てきたほうがいいかもしれませんよ」と助言され、階段脇のアイリーンを見たら、彼女は己を棚上げして「確かにブルーノ一人じゃ説明にもたついてるかも……」などと漏らした。
 すぐさま床に飛び降りてルディアはタッと三階へ駆け出す。フォローが必要なら早い段階で入れてやったほうがいい。猫の姿ではコミュニケーションにも限界があるが、放っておくよりはましだろう。
「わっ! 待って、モモも行く!」
 ルディアの後を追いかけて防衛隊の面々とアイリーンもついてきた。ぴたりと閉ざされた三階ドアの向こうからは不穏なすすり泣きが聞こえてくる。この時点でもう悪い予感しかしなかったが、開けないわけにもいかなかった。結局皆に背中を押されたアルフレッドが戸を叩く。
「……殿下? 入っても構いませんか?」
 問いかけに対する反応はなかった。待てど暮らせど状況は変わらず、仕方がないのでもう一度だけノックして騎士が扉を開け放つ。中ではチャドが呆然と、しゃくりあげるブルーノを見つめて立ち尽くしていた。
「……あの、チャド殿下?」
 怖々と呼びかけた騎士を振り返り、糸目の王子は「よくわからない」と首を傾げる。本当に不思議そうに。
「よくわからない。こちらが元々の姿だとか、ずっと中身は違っていたとか、本物は――本物の王女はあなたのほうだとか…………」
 次第に震えが増していく声。ルディアを捉えた細い目がたちまち歪められるのを見て動揺の深さが知れた。
「王子様、秘密にしててごめんなさい」
 さっとモモが歩み出る。少女はチャドが全てを知ったと悟ると深く深く頭を下げて謝罪した。潔いその態度に貴公子は却って怯む。事実が事実であることをいっそう強く思い知らされて。
 モモはルディアに「入れ替わるところ見せてあげていい?」と問うてきた。ブルーノに目をやれば、彼は両手で顔を覆って小さく縮こまっており、とても話せる状態に見えない。引き継いでやったほうが建設的かと判断し、ルディアは斧兵に頷いた。
 置きっぱなしだった水桶が再び傍らに寄せられる。先刻と同じ手順を踏んでルディアはブルーノと入れ替わった。わななくチャドの目の前で。
「――……」
 わずかな空隙を体感したのち、意識ははっきり目を覚ます。馴染んだ身体で起き上がったルディアはもう彼に臣下の振る舞いは示さなかった。
「こちらの都合で告げられず、今まですまなかった。あなたには迷惑をかけたな」
 ブルーノとは違いすぎる、毅然とした声で詫びる。「待ってくれ」とチャドは乞うた。頭を抱え、同じ台詞を幾度となく繰り返して。
「待ってくれ……」
 真っ青な額が、崩れそうな膝が、見る者の同情を誘う。そのときルディアに少し遅れてブルーノも目覚めたが、チャドは視線をやっただけで白猫を抱こうとはしなかった。そればかりか逃げるように踵を返し、階段へと歩いていく。
「……しばらく一人にしてほしい……」
 足を引きずり、手すりにすがり、ふらふらとチャドは四階に上がった。扉がパタンと閉められる音をルディアたちは無言で聞く。
「……かなりショック受けてるっぽいね」
 モモの呟きにブルーノがびくんと震えた。いたいけな猫の姿で落ち込まれると不憫で目も当てられない。
「お前は命令に従っていただけなのだから気にするな。チャドをたばかったのは私だし、それはチャドだって理解してくれるよ」
 慰めは耳に入らなかったらしく、階段を見上げたままブルーノは完全に硬直している。アイリーンが落ち着かせようと抱いてみても無駄だった。どうしたものかとアルフレッドもレイモンドも途方に暮れる。
 階下からネッドの大声が響いたのはそのときだった。
「皆さーん! オリヤン・マーチャントさんがお越しですよー!」
 待っていた亜麻紙商が訪れたらしい。ルディアはふうと息をつき、頭を下り階段に向ける。ゆっくりブルーノをなだめてやる時間もないようだ。一旦頭を切り替えることにして、ルディアは一階に下りていった。




 正直であることがいつも幸福を招くとは限らない。そう言った彼女の懸念が的中し、すっかり虚脱した幼馴染をちらと見やってアルフレッドは眉を寄せた。
 ブルーノは姉にしがみつき、凍えたように震えている。月並みな励まししか浮かばずに、なんの言葉もかけられなかった。勇気ある行為だったと、せめて称えてやりたいのに。
 一階に着くまでどんよりした重い空気は消えなかった。パーキンの明るい声が漏れてきてようやく少し息をつく。
 金細工師は亜麻紙商と定期取引契約を結ぶべく地下から出てきたようだった。互いに益の多い商売になりそうだと握手する彼らを見るに、話は上手く運んだらしい。二人の側では梱包された護符の荷袋に囲まれて、作業を抜けてきたと思しきイェンスが腕組みしていた。
「やあ、君たち。私に用事があると聞いたがどうしたんだい?」
 傷のある顔をこちらに向けてオリヤンが問う。早速ルディアが歩み出て豪商に切り出した。
「すまない。実はもう一度船に乗せてもらいたいんだ」
 サールリヴィス河が使えなくなった事情を明かすとオリヤンは「そんなことか。構わないよ」とすぐに快諾してくれる。親切な亜麻紙商はトリナクリア島までの費用も気にしなくていいと、なんならこいつに払ってもらえと顎で旧友を示した。
「おお、いいぞ。老後の悩みはなくなったし、今人生で一番羽振りがいいからな!」
 イェンスは上機嫌にからから笑う。ルディアが「そこまで気遣ってもらっては悪い」と固辞しても、北辺人たちは「甘えとけ、甘えとけ」と首を振るのみだった。
「私の船は最新型にしたばかりだから、三月まで待たなくても風さえ良ければ西パトリア海を下れるよ。この冬は予定外に長く滞在してしまったから、商談の事後処理が終わったら早めに出航しようと思っているんだが、それでもいいかい?」
「いや、むしろ助かる。なるべく早くアクアレイアに戻りたいんだ。事後処理にはどれくらいかかる?」
「まあ数日というところかな。君たちはいつでも船に乗り込めるように荷物をまとめておいてくれ」
「承知した」
「こっ、こら待てブルーノ! 承知したじゃねえ!」
 帰国の段取りがつきそうでほっとしたのも束の間、パーキンからストップが入る。なんだどうしたと皆で金細工師を見やれば「アレキサンダー四号が完成するまでまだ三ヶ月、どんだけ早くても二ヶ月はかかるぞ!」とのことだった。
「ええっ!? 先月からずっとやってるのにまだ進捗そんなだったの!?」
 モモの反応に胸をえぐられたパーキンが「ううっ、一人で作ってるんだからしょうがねえだろ」とかろうじて言い返す。
「それに昨日来たばっかりの新入りどもが工房一つ任せて安心できるレベルになるまでは、親方が旅に出るわけにいかねえだろうが」
 確かにそうだとアルフレッドは納得する。実際の指南役はネッドのほうでも責任者は近くにいたほうがいい。イェンスたちの特殊さを考慮すればなおさらだった。
「困ったな。私も早く商船団を帰したいから、二ヶ月も三ヶ月も航海を遅らせられないんだが」
 少なくとも二月中にはコーストフォートを発ちたいと言う亜麻紙商に「無茶ですって」と金細工師が首を振る。
「お前ら旦那様の船で帰るのは諦めろ。アレキサンダー四号が完成したら適当な船乗り継いでアクアレイア目指しゃいいだろ?」
「いかん。それでは国に戻る頃にはまた一年過ぎてしまう」
 船の性能から言ってもオリヤンと帰るのが一番いいと、ルディアは頑として譲らなかった。とはいえ今は金細工師が動けないのも事実である。
「パーキンには印刷機が仕上がり次第アクアレイアに来てもらうんじゃ駄目なのか?」
 アルフレッドがそう尋ねるとルディアは渋面で却下した。
「こいつを一人で来させるなんて不安しかない! 狂気の沙汰だ! ……仕方ないな。アクアレイアへの案内役として一人残すしかないか」
 彼女の発言に思わずごくりと息を飲む。一人だけコーストフォートに残ってもらう。その役目、自分が指名されるのではとアルフレッドはうろたえた。
 ブルーノは猫になっているうえに精神状態も危ういし、アイリーンではやや頼りない。うら若い少女のモモを男やもめの側に置くのはまずい気がする。となるとレイモンドと自分しか選択肢がないわけだが、今は幼馴染より重用してもらえる自信があまり湧いてこなかった。一年前ならそんなこと、微塵も不安に思わなかったろうに。
「レイモンド、頼まれてくれるか?」
 だが意外にも白羽の矢は槍兵のほうに飛んでいった。幼馴染は「なんで俺!? 絶対やだ!」と猛烈に拒否する。今度こそこちらかと身構えたが、ルディアは他の人間に任せる気はないようだった。
「お前が一番パーキンのしょうもなさを知っているだろう。それにできるだけ長く残ったほうがいい理由もある」
 彼女の視線がちらりとイェンスに向けられる。暗にもっと父親といてやれという意味だろう。レイモンドはしばし逡巡したものの、しかし結局首を縦には振らなかった。
「……俺はあんたと一緒に帰るって決めてんだ。一人だけ残るなんて無理だ」
「レイモンド」
 あのなとルディアが説得のために口を開く。口論に発展しそうな予感がしてアルフレッドが間に入ろうとしたときだった。上階から女の声が降ってきたのは。
「あの、もしかしてもうアクアレイアへ戻るのですか?」
 狼狽した様子で問いかけてきたのはコーネリアだ。足早に階段を下りてきた彼女は「あの、私、この街に残ってはいけないでしょうか?」と問いを重ねた。
「えっ、まさかあんたがパーキンを連れて帰ってきてくれるとか?」
 喜色を浮かべたレイモンドだが、そこはすぐに否定される。
「あ、ではなくて……。私この工房で、植字工としてずっと働きたいんです。あの国に戻っても……ただ居づらいだけですから……」
 話しながらコーネリアはどんどん表情を暗くした。モモがふうと息をつき、「そうだね。コーネリアさんにはそのほうがいいかもね」と冷徹な目を向けると元乳母は小さく喉を震わせる。
「すみません……」
「いいよ、別に。まだマルゴー兵にも狙われてるかもしれないし、無理に帰国する必要ないでしょ」
 妹はコーネリアの今後には一切関心なさそうだった。ルディアが「まあ残りたいと言う者に帰れとは言わないが……」と元乳母の希望を認めると、彼女も少し安堵した素振りを見せる。
「色々とご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした……」
 涙混じりの謝罪の意味がよくわからずにアルフレッドは疑問符を浮かべた。補足を求めて隣の妹を窺うが、モモは白けた表情で元乳母を見やるのみである。しばらくして顔を上げるとコーネリアは二階の作業場へ戻っていった。
「…………」
 足音の遠ざかるわずかな間、沈黙が訪れる。静寂を破ったのはレイモンドの低い声だった。
「……一応もっぺん言っとくけど、俺やだからな」
 再度の主張にルディアがやれやれと息をつく。彼女が返事をする前に幼馴染は有無を言わせぬ勢いで畳みかけた。
「そりゃ俺だって名残惜しいけど、あんたとアクアレイアに帰ることのほうがよっぽど大事なんだからな!」
 ぶんぶんと首を振り、唇を尖らせるレイモンドに「お熱いねえ」とパーキンが肩をすくめる。金細工師は締まりない顔で笑いながら「大丈夫、大丈夫」と拳を固めた。
「心配しなくてもちゃーんとアクアレイアまで行くからよ! 俺だってフイにしちゃいけねえチャンスくらいわかってらあ」
 パーキンがそう胸を叩くので居残りメンバーの件はうやむやになる。自分が引き受けることになるかもとヒヤヒヤしていたのでアルフレッドはほっと胸を撫で下ろした。ルディアはどうも、パーキンを一人にするのにまだ抵抗があるようだったが。
(それにしても離れ離れになるような指示を出すなんて、もしかしたら姫様がレイモンドを……というのは俺の勘違いだったのか?)
 主君に目を向け、落ち着いたその横顔をまじまじ眺める。杞憂ならばそれでいい。色恋がルディアを愚かにするとは思わないが、不安の種などないほうが。
「ねえアル兄、レイモンドってあんなに姫様のこと好きだったっけ?」
 幼馴染のほうは疑いようもなく、モモが不思議がるほど昔と変わりつつあるけれど。




「とりあえずまだ二、三日は商館に張りついていないといけないんだが、それ以降はいつでも出発できるように準備を整えておいてくれるかね?」
 そう告げて慌ただしく出ていった多忙な豪商を見送ると、レイモンドたちはすることもないので二階の作業場へ引き揚げた。
 パーキンの工房では朝夕二回しか食事を取らない方針らしく、老水夫たちは休みなくせっせと働いている。レイモンドも手伝いを頼まれている植字架の列にどっかと腰を下ろし、作業の続きを再開した。溢れそうになる溜め息を押し殺しながら。
(ひでーよ姫様、一緒に帰ろうって言ってたのに)
 気を抜くとすぐ口が曲がりそうになる。いや、彼女が自分たち親子のために言ってくれたのはわかっているが。
(基本的に自分以外を優先する人なんだよな)
 いかなるときも国のため、民のため。心の負担をやわらげたいとか、悩みをわかってほしいとか、そんな理由では指一本動かさない。責任は全部かぶろうとするし、他人に寄りかかることもなかった。そういう人だから目を離せないのだ。知らぬ間にまた余計な我慢を始めそうで。
(チャド王子とブルーノのことも、どうするつもりだろ)
 天井を見上げ、眉間に濃いしわを刻む。正直言ってあの貴公子の反応は意外だった。正体が誰であれ愛しい人に変わりはないとブルーノを抱きしめるかと思ったのに。すぐに受け入れられなかったのは、相手が男だったからか、嘘をつかれていたからか。それとも――。
「そこやらかしてるぞ」
「うおっ、ほんとだ」
 隣に座ったイェンスの指摘を受けて嵌め込んだ文字型を抜く。もう一度見本を確認し、カチャンカチャンと高速で正しい活字を並べ直した。くそ、ダサい。考え事などしているから簡単なつづりを間違えるのだ。
「さすが、早いな」
「やめろよ。ポカしたばっかだぞ」
 褒められた気恥ずかしさでそっぽを向く。イェンスは「ほんとに早いって。お前はなんでもよくできるなあ」と手放しの絶賛を続けた。
 こそばゆさにのたうち回りそうになる一方、胸がぎゅっと締めつけられる。三ヶ月くらいなら残ってやるべきなんだろうなと。イェンスはどうしてほしいとも言わないけれど。
「文字ってすげーな。イーグレットはいいものを教えてくれたと思ってたけど、死ぬまで俺らを食わせてくれるもんだとは全然思ってなかったよ」
 感謝しなきゃなと父が呟く。頷きながらレイモンドは記憶の中の温かい笑みを思い出した。これからは一日ずつ遠くなっていくだろう笑みを。
「感謝してるなら長生きしろよ」
 ぽろりと口からこぼれた言葉にイェンスが瞬きする。嬉しそうに「ああ」と返事した父はその後も飽きずにあれこれと話しかけてきた。おかげで終業まで退屈はしなかったが。
「はーい、それじゃ今日はここまででーす!」
 呼びかけにハッと顔を上げる。見ればネッドが今日はもう一階から上がってきていた。
 昨日はもっと遅くまでやっていなかったっけと窓の外を確かめる。空はまだ赤くもなく、日暮れには一時間ほどありそうだった。老水夫たちも不思議そうに、サボり癖などなさそうな兄弟子を見つめている。
「あ、いいんです、いいんです。今日は僕、皆さんとご飯食べに行きたいなと思ってまして」
「へえっ!? メシ!?」
 ネッドの誘いに北辺人たちがどよめいた。その困惑ぶりは昨日の比ではない。「メシってパンとかスープのことだよな?」「同じ鍋からすくうやつだよな?」などといつまで経ってもざわざわしている。
「市門の外に荷運び人夫が利用する居酒屋があるんですよ。見た目はあばら屋っていうか、割とボロボロなんですけど」
 好青年すぎる好青年がにっこりと笑いかけると老水夫らは目を見合わせた。案じているのだ。いくらネッドが一緒でも入店を拒否されるんじゃないかと。
 だが彼らもコーストフォートに住み着くなら工房に引っ込んでいるだけでは駄目だとわかっているようだった。一人、二人と一歩を踏み出そうとする者が現れ始める。
「そ、そうだな。俺らこの街に骨を埋めるかもしれねえんだもんな」
「あ、ああ、居酒屋でメシ食うくらいできなきゃだぜ」
 次第に勇気が増してきたのか「よし、行くか!」と円陣が組まれる。日没と同時に市門が閉まってしまうとのことで、大急ぎで後片付けが行われた。
「なんだ、お前ら来ないのかよ?」
 と、スヴァンテがルディアにぶつくさ言っているのが目に入る。コーネリアだって来るのにと副船長は不満そうだ。
「すまないな。また今度誘ってくれ」
 断りを入れる彼女の傍らには同じく首を振るハートフィールド兄妹がいた。まあ王子様置いていけないよなとレイモンドも外食は断念する。どんな料理が出てくるか、ちょっと見てみたかったけれど。
「じゃあいってきまーす!」
「おー、気をつけてなー」
 意気揚々と工房を後にする一行を見送り、レイモンドたちは玄関を閉めた。ネッドのおかげでイェンスたちも街に溶け込んでいけそうだ。問題は多発するだろうが、あの兄弟子が間に入ってくれるなら将来に希望が持てる。
「さーて、俺たちの夕飯はどうする? 出来合いのを買ってきてもいいし、俺がここの厨房借りても……」
 くるりとターンしようとして、レイモンドは心臓が止まるかと思った。階段の踊り場に、亡霊じみた男がぼうっと突っ立っていたからだ。
「うわあっ!? チャ、チャド王子!?」
 素っ頓狂な叫び声に驚いた様子もなく、生ける屍は「しばらくここを出ようと思う」と告げてくる。その瞬間、今の今まで姉に抱かれて大人しくしていたブルーノが不格好な跳躍を見せた。白猫はチャドの足元に駆け寄るが、王子は何も見えていないかのようにふらふらと階段を下りてくる。
「ここを出てどこへ?」
「……まだ決めていない」
 立ち塞ぐように前へ出たルディアの問いには力なく首が振られた。チャドは取り繕おうともせずに現在の心情を吐露する。
「はっきり言って混乱している。一人になって考えたいんだ。何もこの街から出ようというんじゃない。ただ今は、誰とも一緒にいたくないんだ」
 よく見ればチャドは荷物を背負っておらず、靴も旅向きのそれではなかった。コーストフォートを出ることはないという王子の言葉を信用してか、ルディアがそっと身を引いて玄関までの道を開ける。チャドはそのまま出ていきそうに思えたが、不意に扉を押す手を止めて静かにこちらを振り返った。
「……あなたが私に真実を話す気になったのは、王女の身体がなくなったからか?」
 問いかけにルディアが答える。「ああ、そうだ」ときっぱりと。
「ならばもし何事もなく自分の身体に戻れる状況だったなら、私の知らぬ間にあなた方は入れ替わり、私は深い迷宮に閉じ込められていたわけだね?」
 鋭い問いに一瞬空気が凍りつく。しかしルディアが怯むことはなかった。
「否定はしない。今も別に、あなたに打ち明ける必要があったわけではない。ただブルーノが隠したままでいることを選ばなかったというだけだ」
 返答にしばしチャドが黙り込む。ブルーノに何か言ってくれるかと期待したが、特別な言葉は何もなかった。無言のまま、今度こそ出ていこうとする王子にルディアが再度呼びかける。
「早ければ四日後には、私たちはアクアレイアに向けて発つ」
「……わかった。それまでには私も自分の行き先を決めておくよ」
 弱々しい頷きを残してチャドは工房を後にした。追いかけようとした白猫の眼前で扉を閉めて。
「えっ……ちょ、ちょっと冷たくね?」
 思わずレイモンドは眉をひそめる。昨日まであんなに熱を上げていたくせに、今日は目も合わせないどころかあんな振り切り方をするなんて。
 チャドの態度の豹変ぶりにブルーノは愕然としていた。アルフレッドも困惑気味に閉ざされたドアを見つめる。モモもさすがに気の毒そうに、屈んで猫の背を撫でていた。
「結婚してると思ってた人と結婚してなかったんだもの。動揺してないほうがおかしいわ」
 ぽつりと漏らしたのはアイリーンだ。まあそれは確かにな、とレイモンドもひとりごちる。一夜ならず愛を交わした恋人に「別に付き合っているつもりはなかった」と言われたら、落ち込みは激しいだろう。
「今は驚いてるだけで、冷静になればいつもみたいに話しかけてくれるんじゃないかしら?」
 アイリーンは優しく弟を慰めた。外野から面白そうにこちらを見ている医者とムク犬を睨みつつ、レイモンドもブルーノの側に寄る。
 打ちひしがれた白猫は、しかし誰のいたわりも受けず、薄暗い部屋の片隅によたよたと歩き出した。構わないでくれと言わんばかりのその姿に、皆一斉に溜め息をつく。チャドが安定するまではブルーノも元気にはなれなさそうだ。
「……どうする? モモたちも食事にする?」
「そうだな。買い出しに出かけるか」
 留守番はアイリーンに任せてレイモンドたちは夕市へ赴くことにした。寒いからコートを取ってこなくちゃとモモが徒弟部屋に駆け出し、アルフレッドがすぐ後に続く。背中を見ると追いかけたくなるのかムク犬もダッと飛び出した。ハイランバオス、ルディアも防寒着を取りに階段を上がっていく。
 なんだかなあと晴れない気分でレイモンドも歩き出した。チャドほどの愛妻家が一日であんなことになるなら「好き」って一体なんなのだという気がしてくる。自分のそれが簡単に冷めるとは思えないが、ルディアのほうはどうなのだろうと。
(いや、つっても気持ち確かめたわけじゃねーけどさ)
 数歩前を行くルディアの背中をじっと見つめる。
 触れても怒らなくなった。馬鹿と言われる回数も減ったし、気づけば彼女の視線を感じる。どういう種類の好意かまではわからないけれど、信頼されてはいるはずだ。それが急に、あんな風によそよそしく変わったらと想像しただけで身震いする。
(聞いてみたいっちゃ聞いてみたいけどな……)
 自分のことをどう思っているか。そんな機会が巡ってくればの話ではあるが。
「ぶっ」
 障害物にぶつかって足が止まったのはそのときだ。なんだなんだと顔を上げたら踊り場でルディアが立ち止まっていて、平静そのものの双眸と目が合う。
「レイモンド、明日ヒマか?」
「へ?」
 唐突な問いかけの意味を測りかねて瞬きした。ルディアは至極真面目な顔で「工房を手伝う以外の用事がないなら出かけよう。あの約束、まだだったろう」と言ってくる。
「……へっ?」
 本当にわけがわからず聞き直す。しかし彼女はレイモンドの当惑など知らんぷりで話を続けた。
「コーストフォートにいられるのもあと数日かもしれないからな」
 約束ってまさか、まさか。
 汗がだらだら流れてくる。隙間風は冷たいのに、真っ赤に染まった顔面からだらだらと。
 約束って、まさかあの約束なのか? 本当に?
「デ、デ、デー……?」
 単語をはっきり言い切ることもできないまま問いかけた。彼女は「他に何がある」と呆れ顔でさっさと踵を返してしまう。嬉しさのあまり叫びかけたが、なんとか喉奥に飲み込んだ。
(デ、デートだ……! 姫様とデートだ……!)
 諸々あったここ数日の出来事は早くも吹き飛びかけていた。ルディアのことだからデートという名目で交易関連の視察に付き合わされるだけかもしれないが、そんなことはどうでもいい。どこへ行こう、何をしよう。
 レイモンドは訪れた至上の幸福に胸を弾ませた。コーストフォート万歳、であった。













(20171020)