五感を一つ失うと、他の感覚が冴えるというのはどうやら事実であるらしい。天帝の一太刀によって見えなくなった目に代わり、鋭敏になった耳を澄ませてシーシュフォス・リリエンソールは顔を上げた。
「……とこのようなわけでございまして、東方交易再開の目途が立つまでの間、貴殿のご助言とご配慮をいただきたく……」
 家長宛てに届いた手紙を読み上げる娘の声。そのたおやかな響きに混じって甲冑の足音が近づいてくる。どうやら二週間ぶりに多忙な息子が帰宅したようだ。コンコンと仕事部屋のドアがノックされると同時、介添えのため用務机の傍らについていた娘もぴたりと声を止めた。
「ただいま戻りました、父上」
 扉が開いても盲の目に輝きあふれる青年の姿は映らない。だが声の張りからユリシーズが立派に務めを果たしてきたことは窺えた。王は死に、祖国は敵の手に落ちた、こんな状況ではそれだけが心の救いである。今や名実ともに海軍の頂点に立つ愛息にシーシュフォスは問いかけた。
「で、ドナの様子はどうだった?」
「前回と変わりなしです。多数のジーアン退役兵が安逸な生活を貪っています。嗜好品その他の特需はもうしばらく続くかと」
「そうか……。今後も警戒は怠りなくな」
「はっ! 承知しております」
 ではこれで、と踵を返したユリシーズに「お兄様、しっかりお休みくださいましね」とシルヴィアがいたわりの声をかける。この気立ての優しい末娘は、昨冬の流行り病に幼友達を次々と奪われて以来、可哀想なほど心配性になっていた。普段は慈善活動に一日中忙しくしているのに、ユリシーズが帰るや否や兄につきっきりになる。今も盲人に手紙を読むという所用がなければ私室まで追いかけてあれこれと心配りしていただろう。
 怖いのだ。病気や事故で兄まで亡くすこと以上に、アクアレイアに残された最後の望みが潰えはしないかと。
 王国が滅びた日、押し寄せるだろうジーアン軍を恐れて多くの貴族が国外に逃れた。留まった者も少なくはなかったが、十人委員会という最低限の体制を保持できた政府と違い、海軍の空洞化は深刻だった。
 人員が減ったことよりも痛手だったのはトップの不在だ。シーシュフォスに提督職への復帰は認められていなかったし、ブラッドリーも太腿に受けた傷の予後が悪く、士官クラスがごっそり抜けて混乱した指揮系統を立て直せる人間は一人としていなかった。それでも兵士たちが烏合の衆にならなかったのは、彼らが皆同じ旗印を頼りに集まったからである。
 早くから「ハイランバオスは信用ならない」「あの男は傀儡政権を樹立せんと画策した」と訴えていたユリシーズは王国民の注目と信頼に値した。もう誰も彼を国王暗殺未遂事件の重罪人などとは言わない。むしろ救国の英雄と目し、実際にそうなってくれるように強い期待をかけている。
「お兄様、無理をしてお倒れになられないと良いのですが。お兄様の代わりは誰にもできないのですから……」
 ぽつりとこぼれたシルヴィアの声には、やはり兄を案じる以上に国を案じる響きがあった。
「大丈夫だ。あれもそう軟弱な男ではない」
 家長らしい落ち着きを持って答えつつ、シーシュフォスは内心の懸念を押し殺す。
 息子が皆の精神的支柱となっていること。父親として誇らしく感じる気持ちに嘘はない。だが時々、本当に海軍トップの座など明け渡して良かったのかと不安に駆られた。我が子ということを差し引いてもユリシーズは才気煥発で、求心力も頭抜けて高く、ジーアンの支配を受ける民衆はすがれる存在を求めていると頭ではわかっていても。
 息子の罪は消えたわけではない。主君に対する背信の事実が消えたわけでは。シーシュフォスにはその一点がどうしても気がかりでならなかった。
 武勇に優れたリリエンソール家の跡取りとして、ユリシーズには十分すぎるほど十分な教育を与えたつもりだ。日々の鍛錬だけでなく、教養の面でも道徳の面でも指南に手を抜いた覚えはない。何よりも努力を惜しまぬ息子の評価は内外問わず高かった。だがそれでも、ユリシーズは騎士の道から外れたのだ。名誉ある武人になりたいと語ったのと同じ口が、十年後には反逆の大罪を告白した。
 あれ以来、シーシュフォスにはユリシーズがわからない。腹の底では一体何を考えているのか。
 間違いのない人生を歩ませていると思っていた。手塩にかけて育てたのだし、自分に似た男に成長しただろうと。だがあの頃から既に己は盲人だったのではないか。そんな気がして心が揺れる。
 今のところユリシーズは危機を脱せぬ祖国のために身を粉にして働いていた。食えないジーアンの狐将軍の下で、如才なく立ち回りながら。
 息子がどんな眼差しでアクアレイアを見つめているか、わかれば不安も多少やわらぐのであろう。けれどそれは叶わぬ願いだ。
 記憶の中のユリシーズは大勢の友人に囲まれて快活に笑っている。自主謹慎した関係で牢獄へは一度も出向かなかったから、暗い独房で過ごした我が子がどんなだったかシーシュフォスは何も知らない。今更それを見ておくのだったと思うのは、どこかで歪ませたかもしれぬ息子の心根を信じきれていないからだろうか。
(あの子を囲む輪の中に、騎士道を思い出させてくれる友がいてくれればいいのだが)
 重い息を飲み、シルヴィアに手紙の続きを読むように告げる。暗い視界にはユリシーズの、いつも人より大人びていた温かな笑みが浮かんでいた。
 あれがあの子の素顔だと信じていたい。いつまでも。









(20170929)