ディラン・ストーンの下宿兼診療所は四階からなる都市型住宅である。屋上には日当たりのいい物干し場が、四階には排煙を考慮した厨房や浴室が、三階には半ば実験室と化した寝室が、二階には入院患者のための病室が、一階には応接間を兼ねた診察室がある。その広く雑然とした診察室にドンドンと大きな音が響いたのは、ルディアが乾いた包帯を棚に戻しているときだった。
「すまない。ここにブルーノ・ブルータスとレイモンド・オルブライトがいると聞いてきたんだが」
 聞き覚えのある声に目を瞠る。すぐさま開いた玄関に立っていたのは燃えるような赤い髪の男だった。まっすぐで、力強い眼差しをした。
「ア、アルフレッド!?」
 ルディアが名前を叫ぶや否や、心底ほっとした顔で騎士は胸を撫で下ろした。
「悪かった。すっかり遅くなってしまって」
 相変わらず堅物らしくアルフレッドが謝罪する。
「お、お前、どうしてここに」
「コリフォ島で何があったのかアイリーンが教えてくれてな。俺はカロを追いかけて、さっきこの街に着いたところだ」
「何? カロを追いかけて?」
「ああ、少しだが話をしてきた。あいつから伝言も預かっている」
 思わぬ返事に「は?」と眉間にしわが寄る。
「話をしたって、まさか直接会ったのか?」
 ルディアが問うとしばらくぶりの騎士はこくりと頷いた。コリフォ島で何があったか聞いていたならあの男に近づく危険は容易に理解できただろうに。
「他にも山ほど報告したいことがあるんだ。レイモンドも一緒にいいか?」
「まったくお前という奴は……!」
 くらくらする額を押さえ、ルディアは呆れたと項垂れた。
「防衛隊が解散したこと、まだわかっていないらしい」
「俺の主君は後にも先にも一人だけだよ。部隊がどうとか関係ない」
 のたまわれた台詞に苦く笑う。本当に馬鹿な男だ。自分はもはや、王女でも『ルディア』でもないというのに。
「ところでレイモンドの容態はどうなんだ? 『ゴールドワーカー・タイムス』には快方に向かっていると書かれていたが」
 アルフレッドは例の新聞を見てこちらの所在を知ったらしかった。幼馴染を案じる彼に手招きしてルディアは奥の階段に続くドアを開く。
 とにかく来てしまったものは仕方ない。報告は聞いておかねばなるまいし、帰れと諭すのはそれからだ。
「話すくらいは平気だよ。絶対安静だからあまり興奮させるんじゃないぞ」
 お利口に頷いた騎士を連れ、ルディアは病室に上がった。だが釘を刺すべきは見舞い人ではなく患者本人だったようだ。突然の幼馴染の登場に槍兵は制す間もなく跳び起きた。
「えっ!? ア、アル!?」
「良かった。思ったより元気そうだ」
「ちょ、おまっ、サールにいるんじゃなかったのかよ!?」
 レイモンドは嬉しげに友人を迎える。確実に味方と呼べる戦力が増えて安堵した様子だ。そんな槍兵の枕元に近づき、アルフレッドはいつも通り真面目な口調で返答した。
「ああ、モモに頼んで俺だけ護衛を抜けさせてもらったんだ。とりあえず色々と話さなきゃならないことがあるから、順番に聞いてくれないか?」
「お、おう。わかった」
 再会の喜びを味わうのもそこそこにアルフレッドは「俺たちがサールの街に着いたのは二月二十六日の深夜で……」と語り出す。チャドとブルーノは無事に宮殿入りしたこと。バジルはジーアンに連れ去られてしまったが、モモとは合流できたこと。コナーがアウローラを預かってくれていること。サール宮を訪ねたアイリーンとモリスがコリフォ島での顛末を報せてくれたこと。騎士はよどみなく説明した。王の最期がどんな風に伝えられたかだけは、慎重に言葉を選んでいたが。
「……本当にすまなかった。最初から俺もついていけば、せめてあなたに刃を抜かせることはなかったのに……」
 沈痛な面持ちで騎士が詫びる。眉を歪め、「お前が気にすることじゃない」とルディアは小さくかぶりを振った。
(……こいつも私を責めないんだな……)
 がっかりしたような、ほっとしたような気分で目を伏せる。
 他に道はなかったと、仕方ない選択だったと、彼やレイモンドにはどうしてそう思えるのだろう。娘としての情があれば、あのときもう少しだけためらうことができていれば、カロの手であの人を逃がすのも不可能ではなかったのに。
 己には後悔しかない。もしカロの来るのがあと半日遅ければ、明らかに救援が間に合っていなければ、自分にも仕方がなかったと割りきることができたのだろうか。
「そう言えばアイリーンは一緒じゃないのか?」
 身を挺して弟の肉体を守ろうとした女の姿を思い出し、騎士に問う。するとアルフレッドは難しい顔をして「ああ、実は彼女は『独自にハイランバオスを追跡する』と書置きを残していなくなってな……」と答えた。
「ハイランバオス?」
 藪から棒に飛び出した聖預言者の名にルディアはレイモンドと首を傾げる。ハイランバオスというのはアンバーに任せたあの身体のことだろうか。以前はグレース・グレディが入っていた。
「なんと言うか、その、驚かないで聞いてほしい」
 アルフレッドは気遣わしげに声を低める。それから少しの間を置いて、彼はジーアン帝国に関する衝撃の事実を口にした。
「天帝も、その弟も、十将も、ジーアン帝国の重要人物は全員脳蟲なんだそうだ。ハイランバオスは数年前からアクアレイアに入り込んでいて、天帝に情報を――今の聖預言者は偽者だという情報を流していたらしい」
 あまりにも想定外な報告に脳内が真っ白になる。「は?」と頬を引きつらせたルディアに騎士は「王国湾の脳蟲とは異なる形状をしているんだが、他の特徴は一致する点が多いとアイリーンは……」と続けた。
 ちょっと待て。なんだそれは。どういうことだ。
 考えようとするが思考が上手く働かない。先に声を荒らげたのは順応の早いレイモンドだった。
「ええっ!? そんじゃ俺らがバオゾに天帝の誕生日祝いに行ったときはもう中身別人だってバレてたわけ!?」
「そういうことになるだろうな……」
 そのとき不意に、騎士の返答に被さって窓辺で笑い声が響いた。キッキッと琥珀色の翼を揺らし、鷹が鳥籠の中を転げる。一瞬そちらに気を取られかけたがルディアは努めて平静にアルフレッドに問い直した。
「それは確かな情報なのか?」
「ああ、アイリーンはハイランバオスの仲間にならないか誘われたが断ったと言っていた。ハイランバオスがなりすましていたアクアレイア人は海軍の――」
 騎士の台詞はそこで途切れた。コンコンとノックの音が割り込んだためだ。

「レイモンドさーん、そろそろお薬の時間ですよー」

 扉を開き、現れた男を見るなりアルフレッドが息を飲む。騎士は即座に身を翻し、背中にルディアたちを庇った。
「お、おい。どうしたんだ?」
 問いかけに返されたのは目配せだ。それも危険を告げる類の。
 見れば騎士の手は剣の柄を握りしめている。礼儀正しいこの男の、同郷人に対する態度とは思えなかった。
「あれっ? あなたはもしや、防衛隊の隊長さんでは? あなたまでこの街においでとは奇遇ですね! 今日はレイモンドさんのお見舞いに?」
 にこやかに話しかけてくるディランに対し、アルフレッドは警戒を解かない。その反応に何か察するところでもあったのか、軍医はくすりと面白そうに目を細めた。
「……ひょっとして今、私の話でもしてました?」
 問いかけと同時、猛禽がけたたましく騒ぎ出す。アルフレッドは剣を抜き、背後のルディアたちに叫んだ。
「気をつけろ、こいつがハイランバオスだ!」
 えっと思う間もなく騎士は軍医に飛びかかる。斬られはしないと読んでいたようで、刃が迫ってもディランは避ける素振りさえ見せなかった。それどころか喉元で静止した切っ先をつつき、涼しい顔で笑ってみせる。
「ふふふ、バレるならアイリーンが戻ったときかと思っていたんですがねえ。まあ落ち着いて、危ないものはしまってください」
 ほら、私丸腰でしょうと軽装の軍医は空いた両手をぶらぶらさせた。なお剣を立てたまま視線を外さぬアルフレッドにディラン――否、ハイランバオスは微笑で応じる。
「収めてもらえないのでしたら、レイモンドさんの治療はこれにて終了ということになりますけど」
 はっとしてルディアは騎士を諌めた。
「アルフレッド!」
 鋭い呼びかけにアルフレッドは用心しつつ武器を下ろす。
「ええと、確かアルフレッドさんはブルーノ王女を守ってサールに向かわれたんでしたね。そこで君主の死を知って飛び出してきたというところでしょうか。イーグレット王の訃報を伝えたのがアイリーンで、そのときついでに私の正体やジーアンの内情も知ることになった――そんな感じで合ってます?」
 ハイランバオスはまるでその目で見てきたように正確に状況を言い当てた。元よりこうした事実が露見するのは時間の問題と踏んでいたらしく、どう対処すべきか迷うルディアたちを気にも留めず、悠然と彼は薬棚まで歩いていく。
「あ、私のことならお構いなく。どうぞ話の続きをなさってください。どうせアイリーンがラオタオから聞きかじったことの繰り返しでしょう? なんなら私からジーアンの蟲がどんな蟲かご説明いたしましょうか?」
 軍医の声は平常と少しも変わりなかった。白い手はいつも通りにひきだしを開き、栄養剤の小瓶を取り出す。
 気にするなと言われても気にならないはずがない。ルディアたちはスープ皿に薬液を広げるハイランバオスを見やったまま黙り込んだ。
 微動だにできないこちらを振り向き、聖預言者がにこりと微笑む。そうして彼は聞くとも聞かぬとも答えぬうちからペラペラとお喋りを始めた。
「私たちは砂漠の湖で生まれたんですよ。いわゆるオアシスというやつです。青い湖畔には柳が茂り、その傍らに寄り添って日干しレンガの家々がどこまでもどこまでも続いていました――」
 とても遠いところです、と詩のひとひらに似た囁きがこぼれる。この世から消えて久しく、今では痕跡を探し当てるのも困難なくらいだと。
 レンムレン湖。それが彼らの古い故郷の名前らしい。ハイランバオスはそこが物忘れの湖と呼ばれていたことや、川の流れが変わってしまって涸れ果てたこと、自分たちがジーアン族を乗っ取って同じ湖を探し続けてきたことなどをあけすけに語った。
 すんなりと飲み込めなかったのは、ハイランバオスの語り口があまりに芝居がかっていたせいだろう。出てくるのも何百年も昔の話ばかりなので、なおのこと物語じみていた。それでも話がここ最近の事柄に移る頃には、これが現実なのだと思い知るしかなくなっていたが。
「初めてアイリーンの研究ノートを見たときは胸が高鳴りましたねえ。我々はもう千年も失われた故郷を求めてさまよっていましたから。ああ、軍を用いず難攻不落のアクアレイアを降伏させた我が君の見事な手腕、思い出すだに震えがきます……! 王国の皆さんにはお気の毒ですが、あれは近年稀に見る深謀遠慮の妙計でした。無駄な犠牲は一切出さず、目的の獲物ばかりか東パトリア帝国までも手に入れたわけですから! あなた方もさぞ驚いたことでしょう。まさか天帝が実弟との約束を反故にするなんて、と!」
 なんだこいつ。頬を赤くしたハイランバオスにルディアはむっと眉を寄せる。しかし迂闊に怒りを口にすることはできなかった。この男はまだレイモンドの心臓を握っているのである。
「ふふ、黙っていたお詫びと言ってはなんですが、一ついいことを教えてさしあげましょう。実は私、色々あって今はジーアンに追われる身なんです。ですのでそう警戒なさる必要はありませんよ。あなた方と敵対する気もありませんし」
「ジーアンに追われる身?」
 どういうことだと顔をしかめる。聖預言者はあっさりと「我が君を裏切ったので」と暴露した。
「私、追手から逃げて北パトリアまで来たんです。本当ですよ。私が引っ掻き回したせいでジーアンは未曽有の混乱に見舞われていて、十将もてんやわんやしているみたいです」
 アルフレッドに目をやると小さな頷きが返される。騎士は小声で「おそらく事実だ」と囁いた。どうやら彼には思い当たる節があるらしい。
「何故ヘウンバオスを? 待遇に不満でもあったのか?」
「そんなことまで打ち明ける義理はありません。お好きに想像してください」
 それもそうだと口をつぐむ。引き下がったルディアにハイランバオスは指を立てて提案した。
「というわけで、私のことはどこにでもいるただの軍医として捨て置いてくれませんか? どうせしばらく同じ屋根の下で暮らすんですし、それがお互いのためだと思うんです。まあ気になるようでしたら、監視くらいはしてもらって構いませんから」
「た、ただの軍医として……?」
「ええ、ただの軍医として!」
 勝手に話を終わらせると聖預言者はスープ皿を手に槍兵のベッドに近づいた。「それじゃアーンしてください」と開口を求められ、レイモンドは素早く口元を掛布で覆う。
「いやいやいや、お前がハイランバオスだって聞いた直後に飲みにくいだろ」
「ええっ? でもお薬の時間ですし」
「あ、後で飲むから置いといてくれよ。ほら、そこの台の上に」
「もう、約束ですよ? 私、イェンスさんにあなたのことくれぐれもよろしくって頼まれているんですからね!」
 栄養剤を追いやってレイモンドはふうと息をついた。効果てきめんの薬だが、今となっては怪しげな液体にしか見えない。拒みたくなるのも無理はなかった。
「あ、そうそう、イェンスさんと言えば」
 と、ハイランバオスは続けてルディアを振り返った。
「彼にはフサルクの入れ替わり蟲、それと守護霊フスについて、治療費代わりに話してもらおうと考えているんです。特にフス――祭司の『本体』がどこにあるのか」
「……!」
 こいつと眉間のしわを濃くする。入れ替わり蟲の話はもちろん、フスの話も軍医の前ではしていない。盗み聞きさせていたなとルディアは肩越しに鳥籠を睨んだ。小さな容疑者はどこ吹く風で窓の外など眺めていたが。
「おや? 噂をすればなんとやら。イェンスさんが面会においでみたいですね。急いで玄関を開けてさしあげなくては!」
 表通りに向かって鷹が鳴き声を上げるのを聞いてハイランバオスはくるりとターンする。そのまま彼がスキップで一階に下りていくと、ルディアは残った二人と目を見合わせた。
 頭の整理はまだ誰も追いついていない様子だ。レイモンドも、アルフレッドも、これ以上ない困惑の表情を浮かべている。
「……なんなのあいつ? マジでハイランバオスなの?」
 引きつった笑みを浮かべ、槍兵は開けっ放しのドアに目をやった。「俺あんな奴の治療なんか受けてたのかよ」とぼやくのでシッと人差し指を立てる。
「滅多なことを喋るんじゃない」
 顎で猛禽の存在を示すとレイモンドはハッと舌を引っ込めた。緊迫感のある静寂が病室を包む。なんとも言えない重い空気を破ったのは、遠慮がちな騎士の声だった。
「……ところでイェンスという人は、お前の親父さん……なんだよな? 新聞にはそこまで書いていなかったんだが、どこでどうやって会ったんだ?」
 おずおずとしたアルフレッドの問いかけに別の気まずさが発生する。槍兵は酷く答えにくそうに視線を斜め下に逸らした。
「あー、その、会ったっつーか無理矢理引き合わされたっつーか……」
「無理矢理引き合わされた? 一体誰に?」
「オリヤンさんって俺の知り合い。コリフォ島出てすぐ俺ら、トリナクリア島に漂着してさ」
 二人の会話はあまり長く続かなかった。階下から「レイモンドさんのご友人がいらしてるんですよ!」とはしゃいだ声が響いてきたせいだ。
 間を置かず現れたイェンスの風貌に、アルフレッドは少なからず驚いた様子だった。顔に刺青をすることも、熊の頭がついたまま毛皮をマントにすることも、アクアレイアではないことだ。しかもイェンスは顔も身体も傷だらけで、どう見ても堅気の人間ではなかった。幼馴染によく似ているが、同時に似ても似つかない男を前に騎士はごくりと息を飲む。
「こちらアクアレイアからお越しのアルフレッド・ハートフィールドさんです」
 ハイランバオスの紹介に、何故お前が間に入ると言いたげにアルフレッドは太い眉を引きつらせた。だがすぐに咳払いで調子を取り戻し、「アルフレッドだ。レイモンドとは小さい頃から親しくさせてもらっている」とイェンスに右手を差し出す。
「あ、いや、俺は握手は」
 ためらう元神官にルディアは「握ってやってくれ。そのほうが話も早い」とかぶりを振った。イェンスはなお背後の軍医を気にかけていたが、そちらにも気遣い無用の声をかける。
「医者のことなら気にするな。今までここでした会話、全部聞かれていたようだからな」
「ふふっ、すみません」
「??」
 状況を掴みきれず、イェンスはぱちくりと瞬きした。ルディアが彼を促すと節くれた手が「じゃあ、とりあえず」とおっかなびっくり騎士の手を握る。
「アルフレッド、イェンスの右肩を見てみろ」
「え? ……えっ!?」
 握手したままアルフレッドは背を反らした。何もないはずの一点を見つめ、硬直した騎士の姿にハイランバオスが目を輝かせる。
「私も! 私も祭司フスを拝見したいです!」
「別に構わねーけどお前ら怖くは……」
「うわーっ! すごい! この右手が祭司の右手なんですね!?」
 アルフレッドは説明を求めて青い顔を向けてきた。あっちもこっちも難解な話ばかりだなとルディアは小さく嘆息する。
「……とりあえず、今の状況を整理するところから始めよう。アルフレッド、イェンスにはもう脳蟲についても私の正体についても話してある。お前がカロから預かってきた伝言、差し支えなければ彼にも聞かせてやってほしい」
「えっ!?」
 真面目さゆえにまだ手を離せないでいたアルフレッドがまじまじイェンスを見上げる。「なんだ、こいつも入れ替わり蟲を知ってるのか」とイェンスのほうは納得顔で頷いた。
「ふふっ、なんだか楽しそうな話題ですねえ。私も同席していいですか?」
 と、ハイランバオスがわざとらしく上目遣いで尋ねてくる。ルディアはふうと溜め息をつき、おざなりに返事した。
「その鷹を連れて出ていけと言ってもさっきの脅しを繰り返すだけだろう? 勝手にしてくれ」
「ご明察です。それでは年寄りは膝をかけさせていただきますね」
 皆さんも良かったら、と医者は丸椅子を回してくる。その一つにルディアが座すと握手を終えた騎士たちもそれぞれ腰を落ち着けた。
 早速イェンスがアルフレッドに「伝言預かったってお前、カロに会ったのか?」と尋ねる。騎士はカロの異母兄にジェレムというロマを紹介してもらい、彼の助力でカロの居場所を突き止めたことを説明した。
「あいつは俺に、姫様にフスの岬へ来いと伝えろと」
「なんだって? フスの岬?」
「失礼だが、あなたはカロとはどういう関係なんだ?」
 ルディアが口を開く前にイェンスが騎士に答える。「あいつとイーグレットがまだ十五、六の頃、おんなじ船で家族みてーに暮らしてたんだよ」と。
「イーグレットは俺たちに生きていくための知恵をくれた。カロは歌とか踊りとか、ずっと楽しめるものをいっぱい残してくれた。全部で四年くらいかな。イーグレットを送ってアクアレイアで別れるまで、俺たちゃ仲良くやってたんだ」
 沈痛な表情でイェンスは目を伏せた。こじれつつある関係に胸を痛めているのだろう。「そうか、フスの岬か……」と重い呟きが床に落ちた。
「それってどこにあるんです?」
 フスの名前に釣られてか、ハイランバオスが横から尋ねる。すると元神官は冗談のような返事を口にした。
「――世界の果て」
 答えたイェンスに茶化したつもりはないらしい。北辺の地の最北辺、大地の尽きるところだと教えてくれる。
「あの岬にはカーモス神を祀る深い洞窟がある。ガキの頃、俺が閉じ込められてた場所だ。昔からちょくちょく墓参りに行ってたんだよ。あそこで死ぬはずだった俺の」
 イェンスの言葉に食いついたのはハイランバオスだ。軍医は丸い大きな瞳を輝かせ、「なるほど?」と前のめりになる。
「イェンスさん、その岬の洞窟に私を連れていってもらえませんか? それをレイモンドさんの治療費とさせていただきたく思います」
「えっ? あ、あんなところになんの用だ? まあ別に、あんたが行きたいっつーなら連れてってやるけど……」
「わあ、嬉しいです! ありがとうございます! それさえ確約してくだされば他のことはどうだって構いません!」
 ハイランバオスは小躍りしながら立ち上がった。フスの岬に行きたがる目的は不明だが、心から喜んでいるらしく、鷹のための大きな鳥籠まで跳ねるように駆けていく。
「やりましたね、ここまで来た甲斐がありました! さあさあ、あなたも出てきてください。すぐにでも今後のことを相談しなくては! さて皆さん、お話の途中ですが、我々は失礼させていただきます。ごゆっくりなさってください! それではごきげんよう!」
 詩人はこちらが口を挟む隙もなく、鷹を伴って病室を飛び出ていった。ついさっきまで居座る気満々でいたくせに、ころりと変わった態度と勢いに呆気に取られる。
 ろくでもないことを企んでいそうだし、追いかけるべきか逡巡したが、問いつめたところで煙に巻かれるのは目に見えた。ならこちらもさっさと話を進めようとルディアは浮かせた腰を戻す。
 と、そのとき、向かいのイェンスと目が合った。
「……フスの岬でカロは最後にするつもりだろう。お前はどうする? 行く気はあるのか?」
 問いかけにルディアは即答する。
「もちろん行く。いや、行かねばならない」
 イェンスはわかったと頷いた。
「トナカイと、トナカイを家畜にして暮らすわずかな者しか訪れることもない北の果てだ。ここらの人間で場所がわかって、辿り着けるとなると俺たちしかいない。必然的にもう一度俺らの船に乗ることになるが、いいか?」
「フスの岬までかかる日数は?」
「真冬でも一ヶ月半あれば十分。カロは徒歩だろうし、多分三ヶ月以上かかるだろうな。十月中旬、二ヶ月後にコーストフォートを出りゃ頃合いだ」
「そうか。頼んで大丈夫か?」
 ルディアの問いにイェンスはしばし黙り込んだ。あいつら嫌がるだろうなあ、と元神官はどこか切なそうに呟く。
「俺も説得はしてやるが、お前が直接頭下げにこなきゃだぜ。この頃あいつらには我慢させすぎてるしな。船動かすならできるだけ納得させてやりたいんだ」
「元よりそのつもりだ。いつ行けばいい?」
「……そうだな、明日の朝にでも。お前が来るってことだけは先に伝えとくよ。来たばっかりで悪いが、今日はこのまま船に戻るぜ」
 そう言うとイェンスはのっそりと熊の頭を揺らして立ち上がった。「重ね重ねすまない」と詫びるルディアに彼は「お前のためじゃない」と肩をすくめる。
「良かったな。大変なときに友達が来てくれて」
 イェンスは寝台を振り返り、柔らかい眼差しを向けた。渋面の息子に悪態をつかれる前に元神官は階段のほうへ歩いていく。その足音が遠ざかり、階下に聞こえなくなると、ぼそりと槍兵が呟いた。
「……行かなくていいんじゃねーの? そんな何ヶ月もかかるほど遠いところなら、このままサールに逃げちまえば」
 そう来るだろうなと思った。わかりやすいレイモンドにルディアは苦笑いを浮かべる。
「お前とアルフレッドはそうしろ。行くのは私一人でいい」
 何を言っているんだという顔で騎士がこちらを見つめてくる。レイモンドは顔を真っ赤にして怒り、「だからその、命をもって償うとかいう考え方やめろよ!」と叫んだ。
「逃げたって同じだ。どのみちカロは私を探し回る。お前みたいな怪我人を、悪くすれば死人を増やしながらな」
「だけどさあ……!」
 熱くなりすぎ、槍兵はうっと身を引きつらせた。「傷に障るぞ。大人しくしていろ」とたしなめる。つらそうに歪んだ双眸が睨んできても見ないふりして。
「今のは一体どういうことだ? まさかとは思うが、あなたはカロに殺されてやろうと……」
 アルフレッドはアルフレッドでルディアが死を考えていると知って動揺したようだった。また長い説教をされそうだなと嘆息する。だが懐から白い封筒を取り出した騎士が告げたのは、まったく予期せぬ言葉だった。
「……俺がカロを追っていたのは、陛下からあいつへの手紙を渡すためだったんだ。暗号で書かれていたから内容はわからないが、読み終わってカロは何か考え込んでいる風だった。こっちはあなた宛ての手紙だ。結論を出すのは陛下の考えを知ってからにしてくれないか?」
 えっとルディアは目を瞠る。アルフレッドはイーグレットが手紙をチャドに託したため、自分もブルーノもサール宮まで気づかなかったのだと話した。
「すまない。すぐに渡せば良かった。何しろ話すことが多すぎて」
「お、おい、早く読もうぜ」
 レイモンドが割り込んできて急かす。差し出された手紙を受け取り、震える指で中身を抜いた。そっと開いた二枚の便箋には、懐かしく見覚えのある字が記されていた。

 ――ルディアへ。
 別れの言葉は直接伝えられそうにないので、この手紙をチャド王子に預けることにした。お前の意見も聞かず、一方的に亡命の手はずを整えてすまない。だがお前やアウローラをコリフォ島に連れていくことは断じてしたくなかったのだ。ジーアンはまだ王権放棄のほかには何も言及していない。この先も続く長い人生を小さな島で過ごすのは私一人で十分だろう。お前はこのまま自由になりなさい。王国のことも、血筋のことも、全部忘れてしまっていい。お前はもはや、お前が何者であるかに縛られずとも構わないのだ。これからは自分のために生き、幸せを掴みなさい。
 私はお前の意思を尊重する。お前が平穏を望むにせよ、激動に身を投じるにせよ、私の存在がお前の足枷とならないように努めるつもりだ。私自身は最後までアクアレイアの王である己を忘れずに生きようと思う。
 お前の耳には様々な形で私の状況が伝わるだろう。だがお前が思い悩む必要はない。たとえ冠を失っても王の道を歩み続けると決めたのは私なのだから。
 ……ルディア、私はお前に随分寂しい思いをさせてきたね。許してほしいと詫びることもできないほどだ。お前は素直で賢くて、私の告げた言葉の意味をいつもよく考えてくれた。私が誰も信じてはいけないと言ったことも、お前は悪く受け取らないで正しく読み取ってくれていた。
 今それを撤回したい。今更何をと思うかもしれないが、私はとても後悔している。お前に愛さえ信じるに値しないと教えたこと。
 お前は心根の強い子だ。きっと私とは違う道を行ける。……だからルディア、ひとりぼっちにならないでくれ。お前がこれからどこでどんな風に生きるのだとしても、必ずお前に寄り添ってくれる誰かがいるはずだ。その誰かが、お前と喜びをともにしてくれることを願っている。何かを諦めて生きるには、お前はまだ若すぎるのだから。
 愛している。私のたった一人の娘よ。どうか幸せになっておくれ。
 ――イーグレット。

「…………」
 重い息を吐いた後、ルディアが便箋を畳み直すと、槍兵が「俺も見たい」とせがんできた。手渡してやればレイモンドは熱心に読み込み始める。再び顔を上げた彼は「ほら!」と瞳を明るくした。
「やっぱ陛下も言ってんじゃん。あんたに生きて幸せになれって!」
「ああ、カロもあなたも少し冷静になったほうがいい。考えを改めるべきだ」
 頷けと言わんばかりの二人に曖昧に笑う。何を諭されてもまったく聞く気になれなかった。
「……少し一人で考える時間をくれないか? どうも今日は、一度に色々聞きすぎたみたいだ」
 息苦しさに耐えかねて乞うたルディアに二人は心配そうな目を向けてきた。
「報告をしすぎたのは確かだが、この診療所であなたを一人にさせるのは……」
 もっともな苦言を呈するアルフレッドに「ハイランバオスなら平気だろう。意図があって我々を助けたのだから、現状危害を加えてくることはあるまい」と己の見解を伝える。
「アルフレッド、お前はレイモンドについていてやってくれ。私は上で用事を片付けてくる。レイモンド、お前はその間に王都で別れてからの話をこいつにしておいてくれないか?」
 二人はやや戸惑いがちに頼まれ事を引き受けた。槍兵から手紙を引き取ると、案じる視線を振り切ってルディアはくるりと踵を返す。
 病室を出て一歩、一歩と、重い足を引きずりながら階段を上がった。厨房のある最上階まで。
(……馬鹿だな二人とも)
 愛情に満ちた遺書を抱き、皮肉な笑みを浮かべる。一体どう考えを改めろと言うのだろう。冷静になればなるほど嘘の重さがのしかかるのに。
(これは私に宛てられた手紙じゃない。『ルディア』に宛てられた手紙じゃないか)




 静まり返った病室でレイモンドと目を見合わせる。
「……ずっとあんな調子なのか?」
 問いかけると寝台の幼馴染は眉をしかめて頷いた。
「トリナクリアにいた頃よりは落ち着いてるけど、決意固めちまった感じだな。……カロの好きにさせてやろうって」
 穏やかでない返答に息を飲む。アルフレッドが「全部聞かせてくれ」と頼むとレイモンドはぽつりぽつりとこれまでのことを話し始めた。いつもへらへら笑っている唇が、痛ましい惨劇を、耳を覆いたくなる嘆きを紡ぐ。なりゆきで助けた相手がローガン・ショックリーの息子だったと聞いたときは絶句した。あまりにも無情な巡り合わせに。
「……本当は仇討ちしてやりたかったけど、自分は娘の資格を失ったからとか言うんだよ。陛下の娘は姫様しかいねーのにさ」
「やはり悔やんでいるんだな? 陛下を手にかけたこと……」
 レイモンドは奥歯を噛み、ぎゅっと敷布を握りしめた。重い沈黙がまざまざと語る。王女の心に根差した深い悔恨を。
「……なるべくカロに出くわさねーようにしてたんだけどな。結局見つかってこのざまだ。姫様全然身を守るって気がねーし、お前が来てくれて良かったよ」
 カロとの騒動やその後の経緯を話しながら幼馴染は下腹部を擦った。見れば患部はほとんど腸の真上である。そんなところをナイフで刺されてよく生きていたなと驚いた。
 とは言え当分動けないことに変わりはない。レイモンドは「本当に助かったぜ」と繰り返した。
「一応イェンスはカロじゃなくてこっちの味方についてくれたけど、万が一のときに姫様を守ってくれそうにねーからな」
「そう言えば、見た目の割には話のできそうな人だったな。実際のところどうなんだ? 握手しているときに見えた幻はなんだ? お前や姫様もあれを見たのか?」
 矢継ぎ早の問いかけに幼馴染は額を押さえる。謎の右手がフスという古代の祭司のものであることはすぐに教えてもらえたが、イェンスの人柄についてはしばし黙りこくられた。
「……どうって聞かれても、見たまんまだよ。理解したくもねー異文化の野蛮人だ」
 レイモンドの口ぶりから読み取れたのは、彼が父親を嫌ったままということだけだ。これ以上聞くのも悪い気がして「そうか」と話を終わらせる。診療所の玄関が開く音がしたのはそのときだった。
「こんにちはー、ネッドでーす」
「パーキンですぅ」
「ブルーノさんはおられますかー?」
 出し抜けにこだました男たちの声に幼馴染を振り返る。レイモンドは「ああ、通して大丈夫な連中だ」と言ってから「……たまに大丈夫じゃねーけど、まあ大丈夫」と難解な台詞を付け足した。
「そのうちアクアレイアに来てもらうことになるだろうし、紹介しとくよ」
 病室に上がってきた二人の男はすぐアルフレッドに気がついた。
「あれっ? 初めまして!」
 筋骨隆々の肉体に不釣り合いなベビーフェイスを乗せた若者が爽やかに挨拶してくる。「そっちがネッドな」と幼馴染が名を告げた。
「どちら様です? へへ、俺らはブルーノさんに新聞の発行許可をいただきに来たんですけどもぉ」
 問うてきたのは頭に大きなたんこぶをこしらえた四十絡みのモミアゲ男だ。アルフレッドが応じる前にレイモンドの冷めた声が響く。
「そっちはパーキン。あんま真面目に相手すんなよ。いつもロクなことしねーから」
「ちょっ! おま、折角見舞い品持ってきてやったのにそりゃねえだろ!?」
「お前のは見舞い品じゃなくて賄賂じゃねーかよ! 言っとくけど、新聞出したいなら他のネタ探してこなきゃ頷いてもらえねーぞ」
「普通のネタじゃ売れねえんだよ! わかれって!」
 怒鳴る男の手にした籠をちらりと覗けば焼き菓子の下に銀貨が詰まっているのが見える。何やら揉め事の渦中にあるらしき幼馴染は「ブルーノのところに行きたきゃ背中斬られる覚悟しろよ? アルは意外と容赦してくれねーからな?」とパーキンとやらに釘を刺した。
「アルさんと仰るんですか? 俺はネッドって言います! 年頃、同じくらいですね! どうぞよろしくお願いします!」
「アルフレッド・ハートフィールドだ。レイモンドと同じ王都防衛隊出身で、僭越ながら隊長を務めていた」
「ヒエッ、た、隊長!? そ、それじゃさぞかし腕に覚えが……。あっ、私はパーキン・ゴールドワーカーと申します。このコーストフォートで金細工師をしておりまして、最近は印刷機の開発・運用に力を尽くしているところございます!」
 金細工師はペコペコとわかりやすい恭順を示す。レイモンドが真面目に相手をするなと言った理由はただちに理解できた。
「そのうちアクアレイアに来てもらうっていうのはどういうことだ?」
 問いかけに幼馴染は「えーっと、産業開発?」と聞き慣れない言葉を返す。なんだそれはと疑問符を浮かべたアルフレッドにこれでもかと印刷機の有用性を解説してくれたのは愛想笑いの金細工師だった。
「……ふうん、なるほどな。おかげで俺はこの街に仲間がいるとわかったわけか」
「そうです、そうです、我々の刷った新聞はお役に立ったでしょう!」
「ああ、だが取り扱い方によっては害になる可能性も十分ある。もっと平和なニュースを載せたらどうなんだ?」
「いや、ですから、刺激的なほうがどっさり売れるんですってば!」
 パーキンはがっくり肩を落とす――ふりをして、籠の銀貨をアルフレッドにちらつかせた。きっとルディアへの口添えを期待しているのだろう。こちらが金銭報酬に毛ほどの興味も示さないのを見て取ると彼はあからさまな舌打ちをした。
「お前ほんと人として最低だな……」
「うるせー! なんの見返りもねえのに笑顔振りまいてばっかいられっかよ! いいからブルーノにうんって言わせやがれ!」
 レイモンドのツッコミに金細工師は大人げなく罵声を浴びせる。嘆息を一つこぼし、アルフレッドは開きっぱなしのドアに目をやった。
 これだけ騒がしくしているのにルディアが下りてくる気配はない。パーキンの呼ぶ声は上階にも響き渡っていそうなものだが。
(……一人で何を考えているんだろうな……)
 思い出したのはアウローラが生まれた頃のこと。自分は偽者だからと語った王女だった。赤子を抱き上げ、溢れた涙に狼狽していた。
「アル、俺のことならほっといていいぜ。しばらくこいつらの相手してるし」
 ルディアを気にするこちらに気づいてレイモンドが呼びかけてくる。幼馴染も彼女に対し、放っておけない何かを感じている風だった。行ってくれと目で合図される。
 小さく頷き、アルフレッドは病室を後にした。薄暗い階段を見上げ、そっと一歩目を踏み出す。
 まだルディアには、一つ話せていないことがあった。悲嘆を増やすだけかもしれないが、報告しないわけにもいかない。
(俺のするべきことは、いついかなるときも姫様の側を離れないことだ)
 大切なことはもうわかっている。あとはそれを騎士として実践できるかどうかだった。




 めらめらとかまどで燃える火を見つめる。薬瓶を煮沸するのに湯ができるのを待ちながら、ルディアは先刻の手紙を取り出した。
 なんて優しく、なんて無意味な一通だろう。差出人も受取人もとうにいない。こめられた想いの行き場はどこにも失われている。
(私が自分は脳蟲だと言い出せなかったせいだ……)
 イーグレットがこんなものに最後の時間を割いたのは。偽者の娘などに心を砕いてしまったのは――。
 堪らなくなって首を振る。衝動的にルディアは手紙を火にくべようとした。背後で響いたノックの音に寸前で留められたけれど。
「すまない、まだ報告が残っているんだ。入ってもいいか?」
 アルフレッドの呼びかけにルディアはハッと顔を上げた。「ああ、構わない」と応じると赤髪の騎士が扉を開く。アルフレッドは入ってくるなり「あなたが家事までしているのか?」とかまどの炎に目を丸くした。
「湯を沸かしているだけだ。消毒には熱湯がいいそうでな」
「ああ、レイモンドの。そうか、主君直々に介抱してもらえるとは臣下冥利に尽きるな」
 だからもう主君でも臣下でもないというのに。苦笑しつつ「報告というのは?」と尋ねる。するとアルフレッドは気まずそうに目を伏せた。
「実はアウローラ姫のことでな……」
「何? アウローラの?」
「ああ。さっきも少し話したが、アルタルーペを越える際に一晩――おそらく数時間程度、窒息で仮死状態になったらしい。モモの話ではコナー先生の治療で息を吹き返したそうだ。ただそれは、耳に海水のような液体を入れるという治療法だったらしくて」
「……!?」
 思わぬ台詞に瞠目する。声を震わせ「それは脳蟲を入れられたということか?」と聞き返すと、騎士はわからないという風に首を振った。
「モモも今のは脳蟲か、と率直に尋ねたそうだ。しかしコナー先生は、これは君の知っている蟲とは別物だと答えたらしくて」
「…………」
 アルフレッドは更に詳細に当時の状況を説明した。平静に聞こうとするが、なかなか頭が追いついてくれない。今日はもう、ディランがハイランバオスだとか、ジーアン帝国も蟲だらけだとか、イーグレットが書き残していた手紙だとか、飲み込むだけで精いっぱいのことばかり聞いているのに、このうえまだ苦しまなければならないとは。
「……そうか……」
 ルディアにはそれしか言えなかった。コナーが脳蟲のことを知っているとは初耳だが、彼なら何をどこまで知っていようと不思議ではない。だがそうかと言って脳蟲とは別物だという師の言葉を鵜呑みにもできなかった。アウローラは一度仮死状態になり、脳蟲と思しき何かを入れられた。今わかることはそれだけだ。妙な希望は持たないほうがいい。
(もしあの子まで私と同じ方法で命を繋がれたのだとしたら……)
 ぎゅっと冷たい拳を握る。
 正統な後継者など、もはやどこにも存在しないのかもしれない。自分の守りたかったものは。
「いずれにしても、今後アウローラをどう扱っていくか決めるのは私ではなくアクアレイア政府だ。国政に口を出す権利は私にはない。継承権は放棄したし、そもそも偽者だったわけだしな」
 ルディアの返事にアルフレッドは驚いたらしかった。「姫様」と咎めるような、たしなめるような声に呼ばれる。
「アクアレイアに戻る気もないんだ。……帰っていいと思えない。そんな人間に何を言う資格がある? だからもう、アウローラのことはチャドと十人委員会に任せるよ」
「…………」
 暗い厨房にぱちぱちと薪の弾ける音が響く。アルフレッドはかぶりを振って彼らしく誠実な説得を始めた。
「……あなたが陛下にしたことは間違いじゃない。確かにカロは陛下のために動いていたかもしれないが、あなただって陛下と同じ未来を見据えて努力してきたんじゃないか。その手紙を読んで何も思わなかったのか? 父親の望みを知っても考えは変わらないのか?」
「私はずっとあの人を騙し続けてきた。名付け親にさえもう娘とは認めないと言われたのに、あの人を父などと呼べるはずがない。フスの岬でカロに会って、それで終わりだ。お前もさっさと次の奉公先を――」
 台詞は最後まで言えなかった。激高したアルフレッドに遮られたせいだ。
「それでも俺にとってはあなたがルディア・ドムス・レーギア・アクアレイアだ! 俺には他の主君はいないし、欲しいとも思わない!」
 叫んでから声が大きすぎると気づいたようで、アルフレッドは慌てて口元を押さえた。呼吸を整え、気を静めてから騎士は続きを仕切り直す。
「……フスの岬には俺も行く。俺はあなたの騎士だから、あなたを守らなきゃならない」
「アルフレッド」
 不要だと断ろうとしたルディアに彼は首を振った。
「主君を見捨てて何が騎士だ。もう決めたんだよ、どこまでもあなたについていくと」
 強い眼差しがルディアを見据える。どんな答えが返ってくるか、半ば承知で頑固な騎士に問いかけた。
「レイモンドみたいな怪我では済まないとしてもか?」
「ああ、そうだ」
 即答に思わず吹き出す。「わかったよ」とルディアが告げるとアルフレッドはえっと目を丸くした。
「そこまで言うならこちらもその心づもりをしておく。お前の好きにしろ」
「い、いいのか?」
 もっと徹底的に拒絶されると考えていたらしく、騎士は拍子抜けした様子だ。その阿呆面に口角を上げ、ルディアは軽く肩をすくめた。
「だってお前は私と同じで言い出したら聞かないじゃないか。大体お前が騎士でありたいと願うのを止めるほうが野暮だろう」
 本当はレイモンドをアクアレイアに連れて帰ってほしかったんだがと言えばアルフレッドは複雑な表情で黙り込む。ちょうどそのときポコポコと煮えた湯にあぶくが立って、途切れた会話も立ち消えた。
「おっと、そろそろ消毒に入らなければ」
 調理台に置きっぱなしの薬瓶を振り返り、手紙を懐に片付ける。ルディアがかまどの前に立つと「貸してくれ、俺がやろう」と騎士の腕が伸びてきた。
「大丈夫か?」
「慣れてるよ。薬屋生まれの薬屋育ちだぞ」
「そうか、そうだったな」
 アルフレッドは手際良く小瓶を鍋に放り込んでは熱湯から引き上げる。その横で薬瓶の水気を拭きとりながら、ルディアはふと気になっていたことを思い出した。
「ところでお前、なんでリュートなんか担いでいるんだ?」
「ああ、これか。これは貰ったというか、借りているというか」
「それにいつもの剣はどうした? あのウォード家の紋章が入った」
「ええと、あれはまあ……。色々あって手放したんだよ。大したことじゃないんだが」
 大したことじゃないと言いつつ騎士はそれ以上語ろうとしない。引っかかるものはあったがルディアも無理に問いただす気にはなれなかった。「ふうん」と小さな相槌だけを床に落とす。
「さて、それじゃ俺はそろそろレイモンドのところに戻るよ。これ、乾かして薬棚の前に置いておけばいいか?」
 アルフレッドは薬瓶を並べた盆を持ち上げると詮索を避けるようにして戸口に向かった。
「ああ、頼む」
 両手の塞がった騎士のため、階段に続く扉を開けてやる。
 そうして再び一人で閉じこもろうとしたときだった。真摯な赤い双眸に振り返られたのは。
「……忘れないでくれ。モモもブルーノもあなたの帰りを待っている。俺たちにはまだあなたが必要だ」
 アルフレッドは「みすみすあなたを死なせはしない。俺はもう一度あいつを説得してみようと思う」と続けた。約束の場所で会うまで三ヶ月もかかるなら、カロにも対話の余地が生まれているかもしれないと。
「アルフレッド」
「あなたはずっと『ルディア』としてアクアレイアを守ってきた。その時間は嘘じゃないし、消えることもない。そうだろう?」
「………………」
 沈黙に求める返事がすぐには得られないのを悟り、騎士は小さく嘆息した。長期戦は覚悟の上か、「また話そう」と呟いて階段を下りていく。
 ああ、やはり彼はいい騎士だ。どんなに落ちぶれた主君でも言葉を尽くして励ましてくれる。自分が本物の王女なら、きっと彼を本物の騎士にしてやれたに違いない。
 なあアルフレッド、お前は私の正体を知ったとき、アイリーンに拷問めいた尋問をしたのを非難したな。お前が叱ってくれたこと、私は結構嬉しかったんだ。ユリシーズとは上手くいかなかったけれど、お前や防衛隊の誰かなら信じられるようになるかもと期待した。
 ……でも駄目だった。私は結局いつも一人で考えて、いつも一人で決断して、いつも一人で間違えて――だからやはり、責任も一人で取らなくてはならないだろう。お前が一人で、私の意思など無関係に、騎士の本分を貫こうと決めたように。
 我々は本当に似た者同士だ。強情で、わがままで、そんなところ似なくてもいいのに。
 ついてくるのはいい。守ってくれるのも構わない。折角留めてやったのに、お前はこうして来てしまったし、もはや私には止められまい。
 だがお前の剣がカロを貫いたとしても無駄だぞ。あの人と、あの人の大切な友人の亡骸を踏みつけてまで私は図太く生きられない。それにあの男も、私を殺したその後まで、長く生きようとはしない気がする。
(あいつと私は、多分同じ火に焼かれて死ぬんだ)
 かまどの灰を集め終わるとルディアはそっと小窓を見上げた。茜色に染まり始めた空にまだ月はない。優しく淡い白い月は。




 戻ってきた幼馴染のなんとも歯痒そうな顔を見て、レイモンドは小さく息を吐きこぼした。ルディアの心に良い変化はなかったようだ。気を落とすまいとする騎士の双眸がありありと語っている。
「パーキンたちは? 帰ったのか?」
 静かな病室を見回してアルフレッドがそう尋ねた。
「ああ、刺激的な内容じゃなきゃ駄目だっつーならいっそスケベ層狙えば? って言ったら飛んで帰ったよ」
 こちらの返答に騎士は「なるほど」と少し笑う。だが穏やかな空気はすぐに霧散した。
「こっちはあんまり芳しくなかった。一応フスの岬に同行する約束だけは取りつけたが……」
「えっ!? 姫様お前についてきていいっつったの!?」
 予想外の台詞にレイモンドは目を瞠る。
(俺には逃げろとか大人しくしてろとかしか言わねーのに?)
 出かかった不服はなんとか飲み込んだ。アルフレッドはそんなレイモンドの様子に気づくことなく深々と嘆息する。
「ああ、しかしできればカロに会う前に考え直させなければな……」
「お、おう。そうだな」
 邪念など感じさせない呟きに一瞬でも些細なことを気にした己が恥ずかしくなった。ああそうだ。元々姫様はアルフレッドを評価していたのだし、対応が違って当たり前ではないか。
(馬鹿みたいな比べ合いしてる場合じゃねーぞ。姫様が一人で行くよりアルと行くほうが絶対いいんだ。今は少しでも生き残る可能性上げてかねーと……)
「その皿は空いているのか? 薬瓶を置いたら洗い場に下げてこようか」
 と、アルフレッドが寝台脇のスープ皿に目をやって尋ねてくる。
「おっ、おお? わ、悪ィな」
 レイモンドは咄嗟にぎこちない笑みを作った。実はどうしても飲みたくなくて栄養剤はパーキンにやってしまったのだ。夕食抜きにはなるけれど、今日はどうせもう寝るだけだ。朝には麦粥も出るし、空腹など多少我慢すれば済む。
 それに薬がなくてももう平気なのではという思いもあった。出血は止まっているし、養生していればハイランバオスの手など借りずとも完治できるような気がする。人質同然の扱いを受け、お荷物になるのはごめんだった。自然治癒でどうにかなるならそれに越したことはない。
「じゃあちょっと行ってくる。戻ったら改めて今後のことを話し合おう」
 幼馴染はてきぱきと室内を片付けて出ていった。
 アルフレッドを頼もしいと感じるほど、身動きの取れない己がもどかしくて仕方なくなる。今の自分に何ができる、ルディアに何をしてやれると。
(良かったな、大変なときに友達が来てくれて……か)
 かけられた声のむしゃくしゃする温かさを思い出し、レイモンドは唇を突き出した。裏のない言葉だとわかっているのに、否、だからこそ受け入れがたい。どうしていつも大事なことは遅すぎて間に合わないのだろう。




 ******




 篝火に照らされた深夜の川面に真っ黒い大きな影がいくつもゆらゆら揺れている。ディータスから連れてきた、海峡越え目当ての商船だ。長いこと彼らはいい小遣い稼ぎをさせてくれた。こちらが航行許可証をアミクスに返上したと知るが早く、あっさり関係を断たれてしまったが。
 彼らは魔の海峡に彼らだけで挑むらしい。新興商人というのは果敢な生き物だ。あの勢いなら本当に、独力で新航路を確立してしまうかもしれなかった。そうなれば許可証を取り戻したところで以前と同じ副業はできまい。
「これからどう食っていきゃいいのかなあ」
 船縁に背を預け、イェンスは右肩に問いかけた。白い手は焦らず待てという旨の古いことわざを闇に書く。魚はもう近くに来ていて、釣り上げるのを待つばかりだと。
「……それってあんたにゃどうすりゃいいか見えってるってこと?」
 頷く代わりに右手は人差し指をお辞儀させた。ああそうとイェンスは星空を見上げ、軽くない息を吐く。
「時々あんたは意地悪だよな。知ってるくせに肝心なことは教えちゃくれない」
 思わずついた悪態にフスは笑ったようだった。あまりに常識からかけ離れた知は、それが優れたものであっても君を不幸にしかねない。そう返されて口をつぐむ。
(わかってるさ。フスにはフスの考えがあるって)
 感謝はしきれないほどしている。歯向かうつもりも毛頭ない。けれどこの、切っても切れない存在といてもひとりぼっちを痛感する日はつらかった。
 心の一番深いところで誰ともわかり合えたことがない。人間は皆そんなものだとフスは言うかもしれないが。
(それでも皆は死ねば同じところに還れる。迎えてくれる神様さえいないのは俺だけだ。この魂がどこへ行くのかわからないのは……)
 せめて生きている間くらい孤独を忘れる瞬間が欲しい。そう願うのはおかしなことではないだろう。
「…………」
 無人の甲板を一瞥し、イェンスは眉を寄せた。脳裏に蘇ったのはスヴァンテたちの、憤激と恐怖の入り混じった表情だ。もう一度あのアクアレイア人たちをこの船に乗せてやりたいと告げたときの。
 ――あんたが何言ってんのかわかんねえよ。
 耳の底に残った声に嘆息する。スヴァンテたちの精いっぱいの反発に、自分は何も言ってやれなかった。いいように使われて悔しくないのかと問われても。
 命じればきっと彼らは従ってくれる。フスの岬に行くだけなら簡単だ。我が子の命を守るために、あの王女を死地へ送り出すことは。――だが。
(本当にもう、限界が来ちまったのかもしんねーな)
 いつもなら誰かしら騒いでいるコグ船が、今夜はじっと息を潜めている。
 客人の去った後、日常は戻ってくるのか、右手は語ろうとしなかった。




 ******




「おい、アルフレッド。やっぱりお前残ってくれ。レイモンドがこれでは一人にできん」
 病室の入口で心配そうにルディアが振り向く。レイモンドは吐き気を堪え、彼女の指示に足を止めかけた幼馴染に「いいって! お前は姫様と行けって!」と吠えた。
「しかしな、お前その熱で……」
「あんたが一人であの船に話つけに行くほうがよっぽど心臓に悪いっつーの。アルがいたって良くなるわけでもねーんだし、余計な気ィ回さないでくれよ」
 ぶり返した痛みのせいで口調をやわらげる余裕もない。睨むように見上げてしまってくそ、と内心舌打ちした。
(一回薬飲まなかっただけでこれかよ)
 ずきずきする腹を押さえ、レイモンドは寝台に身を丸める。なおルディアがアルフレッドを待機させようとするので思わず怒鳴りつけそうになった。幸いそんな真似はせずに済んだが。
「そうですよ、レイモンドさんには私がついておりますから大丈夫です。安心して港でもどこでも行ってきてください!」
 自信たっぷりに胸を叩くのはハイランバオスだ。階段下から現れた胡散臭さ満点の男にレイモンドたちは一様に顔をしかめた。
「フスの岬にご一緒させてもらうのに、まだ彼に死なれては困りますからね。しっかり看病しておきますので本当に大丈夫ですよ?」
 引っかかる言い回しだが、当面の安全は保障されているらしい。
「ほ、ほら、こいつもこう言ってるし平気だって」
 熱と痛みに目を回しながらレイモンドはなんとかそれだけ主張した。
 気が立っているに違いないあのコグ船の水夫たちのもとへ、ルディア一人をやるわけにいかない。わかってるよなと視線でアルフレッドに問えば幼馴染はこくりと頷いた。
「ちょっと不安だが、レイモンドのことは任せてもう出よう。あまり待たせると心象が悪い。船に乗せてもらえなくなるかもしれない」
 騎士に促され、ルディアは渋々病室を出る。入れ替わりで入ってきた軍医がドアを閉めると「すまない、なるべく早く戻る」との謝罪と足音が響いた。
 やっと行ったかと息をつく。限界を感じてレイモンドは寝台に沈み込んだ。
(うう、痛ぇ……)
 傷が開いたのではと思うほど痛みはどんどん酷くなってくる。昨日まで経過は順調だったのに。
「レイモンドさん、ちゃんとお薬飲みました?」
 にこやかに問われ、ぎくりと肩を強張らせた。レイモンドは動揺を隠しつつ「の、飲んだと思う」と目を逸らす。そんな己をハイランバオスは面白そうに見下ろした。
「ふうん、そうですか。じゃあやっぱり次に栄養剤を処方するのは昼過ぎですね。それまでは痛くても頑張ってくださいね!」
 しまったと思う間もなく非道な医師は手にした薬を棚に戻す。鼻歌混じりに記録を書きつける麗しの青年にこの野郎、と拳を握った。
「……なあ、あんたの出してくるあの栄養剤ってなんなんだ? アルに聞いてもわかんねーって言ってたぞ」
「あはっ! それは秘密です。教えたら吐いちゃうかもしれませんもん」
「ちょっと待て、吐くようなもんが入ってんのか……?」
 駄目だ、頭が回らない。何から作られた薬なのか考えようとするけれど、脈打つ傷に思考は容易に散らされた。
(いってえ…………)
 眉根を寄せて歯を食いしばる。脂汗が滴り落ちる。すぐ側で「仕方ないですねえ」と声がした。
「死にはしないでしょうけど、放っておいても恨まれそうですし、ひと口だけですよ?」
 薄く開いた視界に木の匙が映る。口に含んだ液体を飲み込むと、滲んだ汗が少しだけ引いた。
「…………」
「おやすみなさい、レイモンドさん。それでは私は他に仕事がありますので」
 鷹の羽音と人の気配が遠ざかる。痛みも熱もうやむやになる感覚に飲まれ、レイモンドはそのまま眠りに落ちていった。




 ******




 訪れたコグ船は、これから戦争にでも向かうのかという殺伐とした雰囲気に満ちていた。甲板に上がってきたルディアたちを一瞥し、北辺の老水夫たちがギロリと目を尖らせる。
 憎まれていることがひと目でわかる眼差しだった。遠巻きにこちらを見やる彼らの中に表情を緩める者は誰もいない。いつも仲裁に徹してくれるオリヤンでさえ今日は無言のまま身を硬くしていた。
「よう、来たか」
 イェンスの声に船縁を仰ぐ。船長は無益な衝突を起こさないためにか甲板の中央に歩いてきて、殺気立った仲間を背中で牽制した。
「悪いが全部話しちまったぞ。お前がどこの誰かってことも、どうしてカロに狙われてるかも、俺の知ってることは全部」
 申告にルディアは頷く。
「ありがとう。どのみち自分でも話さなければと思っていた」
 礼を述べると再びスヴァンテたちに向き直った。威圧的に睨むのをやめない彼らと対峙する。
「知らなかったこととは言え、私のような人間をここまで船に乗せてしまい、さぞや気分を害しただろう。……すまない。まずそれを詫びさせてもらう」
 謝罪に彼らは沈黙した。無反応ではないにせよ、疑いの濃い、見極めようとする視線に晒される。
「……本当なんだな? お前がアクアレイアの王女で、イーグレットを殺った張本人だってのは」
 脳蟲のことも彼らは聞き及んでいるらしい。スヴァンテに問われ、「そうだ」とルディアは肯定を返した。
「カロに報復を宣言されたのがそのときだ。この身体が借り物でなかったら、私ももっと早く彼に殺されていたと思う。……今私は、カロにフスの岬へ来いと呼び出されている。私の中身だけを殺す手はずが整ったんだろう。逃げようなどとは考えていないが行き方がわからない。どうか我々をその岬まで送ってほしい」
「…………」
 スヴァンテは背後の仲間を振り返った。頷きで交渉役を一任され、副船長は厳めしくルディアの双眸を見据える。
「……入れ替わり蟲の話は正直まだ半信半疑だ。だがイェンスやフスがそうだっつうならそうなんだろう。けどよ、他にもわかんねえことだらけだぜ。どうしてイーグレットを殺す必要があった? 敵だったわけでもねえのに、あんないい奴をなんで……!」
「……それは……」
 言い訳になる気がして、ルディアにはその問いに答えることができなかった。いつまでも答えないこちらに水夫らが苛立ち始める。庇う格好で前に出たのは隣に控えた騎士だった。
「陛下がそう望んだからだ。他に理由なんてない」
 突然割り込んできた赤髪の男にスヴァンテは顔をしかめる。「申し遅れてすまない。俺はアルフレッド・ハートフィールドという者だ」と騎士は水夫たちに一礼した。
「俺はイーグレット陛下の遺書を届けるべく旅をしてきた。内容も、半分だけだが知っている。そこには最後まで王として生きるという覚悟が綴られていた。王であるということは、他国の兵の手に落ちて名誉を汚されるより高潔な死を選ぶということに他ならない。この人は――ルディア姫は、陛下の心を汲んで実行しただけだ。つらい役目を自ら引き受けて」
 遺書という言葉に船上がどよめく。イェンスも目を丸くして「なんだそりゃ? 聞いてねーぞ」とすぐに読ませるように言った。
「すまんな。昨日お前が帰ってから渡されたんだ」
 そう詫びてルディアは懐の手紙を差し出す。封筒も便箋もあれよという間に散り散りになり、めちゃくちゃな順番で回し読まれた。しばらくののち、眉をしかめて切り出したのはスヴァンテだった。
「……これが本当にあいつの遺書で、あいつが死を望んだからって俺らが納得行かねえことに変わりはねえよ。覚悟があったからなんなんだ? 殺してくれって頼まれて、マジで仲間を殺す奴がどこにいる? 死んでほしくなかったら生き延びてくれって説得すんのが普通だろ。だけどお前は、思い留まれたはずなのに思い留まらなかったんじゃねえのか!」
 違うなら反論しろと副船長に凄まれる。改めて彼の年を考えると、ちょうどカロやイーグレットと同世代で、深い親交があったのだろうと推測できた。
 本物の知友に責められると心苦しい。責められなくても心苦しいが、やはり己には嘆く資格もないのだと思い知らされる。
「……承知している。全て私の思い上がりが招いた結果だと」
 アルフレッドの言うことは気にしないでくれ、と告げるとスヴァンテはまた眉間のしわを深くした。
「フスの岬で私は私の罪を清算するつもりだ。カロには復讐の権利があるし、命は命で贖わねばなるまい。だから――」
「嫌だぜ俺は。イーグレットを殺した奴の言葉なんて信じられるか!」
 こちらの台詞を遮ってスヴァンテは忌々しげに吐き捨てる。興奮した口からは更に思いがけない言葉が飛び出した。
「さも無抵抗でやられます、みたく言ってるが、嘘じゃねえって保証はねえ。お前フスの岬で今度こそカロをやっつけようとしてるんじゃねえか? なんで俺らが、わざわざカロを危ない目に遭わせなきゃなんねえんだよ!」
「……!」
 副船長に同意して老水夫たちは残らずルディアを睨みつける。決心を頭から否定されるとは思わず、ごくりと息を飲み込んだ。
 愕然とする。かけらも信用されていないとはこういうことかと。
「ロマの血讐なら知ってる。昼だろうと夜だろうとロマは殺すと誓った相手をどこまでもつけ狙う。そのときがいつ来るか、せいぜい怯えて暮らしゃいいんだ。その恐怖も込みで血讐なんだからな!」
 スヴァンテたちは指定の場所に赴けばルディアに余計な準備を整えさせると考えているらしかった。見当違いな警戒に頭を抱えそうになる。
 しかしカロに危害を加えないと断言することもできなかった。アルフレッドを連れていく以上、彼が剣を抜く可能性はゼロではないのだ。最後まで騎士でありたいと願う彼に、それくらい叶えさせてやりたいと考えていたけれど。
「なんだったら今ここで、俺が足の一本二本へし折ってやる。動けねえ身体にしてからならフスの岬でもどこでも捨ててきてやるぜ」
 拳を鳴らすスヴァンテに騎士が身構える。そこにすかさずイェンスが止めに入った。足を揃えて踏み出した仲間たちを押し返し、元神官はやめろと叫ぶ。
「スヴァンテ、皆、落ち着けって。フスに手ェ出すなって言われてるだろ!」
 呼びかけが一瞬彼らを押し留める。しかしスヴァンテは命令に従いきれない様子だった。
「恩人が殺されてるんだぞ!? それでもフスは駄目だって言うのかよ!」
 なんでだよ、と怒りで声が震えている。彼の抗議はもっともだった。本来は彼らの味方に立ち、憤りを代弁すべきイェンスがまるで正反対のことをするのだから。
「大事な蓄えも航行許可証も持っていかれて、挙句にイーグレットまで……! あんたがなんで怒らねえのか俺にはちっともわかんねえよ!」
 絶叫が耳をつんざく。船上はしんと静まり返り、ただスヴァンテの荒い鼻息だけが響いた。
 案内役は頼めないかもしれないな。胸中に呟いてルディアは小さく息を吐く。
 レイモンドにも、イェンスたちにも、迷惑ばかり押しつけている自分に嫌気がした。けじめをつけることさえ一人でできないなんて。
「あなた方がカロを案じる気持ちはわかる。しかしやはり、決闘の申し込みを無視するというのは――」
 と、そのとき、アルフレッドが神妙な声で呟いた。腕を組み、指を顎にかけ、何やら深く考え込んで。
「こちらとしても積極的に戦いたくはないが、さすがに行くのは行かないと。会ってもう一度話もしたいし、せめて道筋だけでも教えてもらえると……」
「おい、てめえ何ふざけたこと言ってやがる」
 スヴァンテが噛みつくとアルフレッドは「え?」と顔を上げた。きょとんと瞬きしているあたり、何故非難されたのか少しもわかっていない様子だ。話をややこしくしてくれるなよと念じつつルディアは二人のやり取りを見守った。
「何が決闘の申し込みだ。カロがこいつにしようとしてんのは復讐だろ!」
 目を吊り上げて否定され、騎士はますます目を丸くする。「いや、確かに報復を兼ねての決闘だが」と答えた彼にスヴァンテは眉間のしわをなおのこと濃くした。
「報復と決闘はまったく別物だ! 決闘は対等な人間同士がやることだって、アクアレイア人はんなことも知らねえのか? イーグレットの仇討ちしようとしてるカロが、仇に自分と同じだけの正当性を認めるわけねえだろうが!」
 怒号はびりびり空気を揺らした。老水夫たちは憤慨しきってアルフレッドに吠え立てる。そうだそうだ、これが決闘のはずがあるかと。
「そう言われても……。だったらカロはどうして俺たちだけで行けない場所に姫様を呼び出したんだ?」
 戸惑いつつも、物怖じしない騎士は彼らに聞き返した。「んなこと知るか!」と一蹴したスヴァンテの横でイェンスが目を瞠る。元神官は右手に遺書を握りしめ、アルフレッドを振り返った。
「……おい、この手紙、もしかしてカロも読んだのか?」
 投げかけられた問いに騎士が頷き返す。
「ああ、カロ宛てにもう一通あったのも渡したよ。暗号だらけでなんて書いてあったかまではわからないんだが、読み終わってしばらく考え込んでいたな。それから急に決着をつける、自分が死ぬか姫様が死ぬかだと言い出して」
 返事を聞いてイェンスは「……そうか、そういうことだったか」と呟いた。何がそういうことなのかわからずに顔をしかめる。スヴァンテたちもイェンスの反応が飲み込めないようで、怪訝に眉をひそめていた。
「俺も妙だと思ってたんだ。復讐の標的がコーストフォートから動けないのは明らかなのに、なんでフスの岬なんだろうって。けどこれが決闘なら話は簡単だ。――あいつ俺らに立会人を頼んだんだよ」
 どよめきが走る。「あんたまで寝ぼけたことを言わないでくれ」とスヴァンテは不快感を露わにした。だがイェンスは前言を取り下げない。
「何かしら心境の変化があったんだろう。カロはイーグレットの嫌がることをできる人間じゃない。遺書を読んで、どうしていいかわからなくなったんじゃねーか? 勝ったほうが正しいってのが決闘の大前提だ。あいつなりに大義を確かめようとしてるんだと思う」
「馬鹿馬鹿しい! 現に血讐の巻き添え食らってあんたの息子は床に伏せてるってのに」
「カロが報復を続行するつもりなら、俺らのもとには伝言じゃなく赤髪の死体が届いてた。三ヶ月もかかる場所を指定したのはあいつなんだ。それはまだ、あいつが迷う時間を必要としてるってことじゃねーのか」
「……………………」
 コグ船の水夫たちは一様に黙り込んだ。数人が船長に抗議の声を上げたものの、なら他にどう説明するんだと迫られて口を閉ざす。最後まで食い下がったのは、ここでもやはりスヴァンテだった。
「……仮にあんたの憶測通りだったとして、こいつらが信用ならねえってのはまた別の話だろ。もしカロが卑怯な手段で殺されたらどうするんだ?」
 こちらを向いた矛先にルディアは喉を詰まらせる。スヴァンテはカロが望むなら決闘を見届けるのはやぶさかでないとしながらも、アクアレイア人を船に乗せることは頑として認めようとしなかった。レイモンドの借金も、ルディアの罪も、植えつけた不信の種を芽吹かせて根まで張らせたようである。
「さっきも言ったがこちらにカロをどうこうする気はない。剣を抜くとすれば姫様を守るときだけだ」
 が、合流したてのアルフレッドにはこの空気の微妙さを読むのは難しいらしかった。今までの経緯はレイモンドから聞いているはずなのに、耳を閉ざした相手にも正面から語りかける。
「俺たちとカロは仲間だった。今でも俺はそう思っているし、傷つけ合ったり殺し合ったりしたくない。なるべく話し合いで解決を試みようと考えている」
「だから! こっちはお前らの言葉にハイそうですかって頷けねえんだよ! 仲間だったってことも、剣を抜く気はねえってことも、なんの証明もできねえだろうが! フスの岬に送ってほしけりゃ最低でも片脚は折らせてもら――」
「証明か。証明ならできると思う」
 意外な返答にスヴァンテは面食らい、掴みかかろうとしていた手を止めた。何をする気だとルディアもアルフレッドを仰ぐ。すると彼は古びたリュートを背中から下ろし、「歌を伝えなきゃいけないから、カロに死なれるのは困る」と言った。
「う、歌ぁ?」
「ああ。ロマが墓標の代わりにしている望郷の歌だ。ここまで一緒に旅をしてきた老ロマに頼まれたんだよ。あいつ最後まで歌えないから教えてやってくれないかって」
 望郷の歌と聞いて甲板にどよめきが走る。スヴァンテはたじろぎ、イェンスとオリヤンは目を見合わせて息を飲んだ。
「……確かにそれはいつもカロが途中でやめちまってた歌だがよ……。お前、歌えるのか?」
 イェンスの問いかけにアルフレッドは苦笑を返す。
「いや、俺は弾けるだけなんだ。……その、ちょっと音痴でな」
 それでもいい、弾いてみてくれとせがまれて騎士は両手のグローブを脱いだ。節くれた指が弦にかかる。するとすぐにどこかで聴いたメロディが流れ始めた。

 ――ルールーライライ、ルールーライライ……。

 耳の奥に明るい声が甦る。コリフォ島のあばら家で、箒を片手に歌っていたあの人の。
 ルディアは言葉を失った。こんな形で幻に出会うと思っていなかったから。
 美しい調べがコグ船を包み込む。指が震え、足が震え、気を抜けば崩れ落ちそうだった。もはや呼んではならぬのに、お父様、と呼びそうになって。
「…………」
 いつしかスヴァンテや老水夫たちも思い出に引き込まれ、険を洗われたようだった。演奏が終わっても誰もひと言も口にできず、アルフレッド一人だけ少々気まずそうに一同を見やっている。
「この曲をカロに伝えるまで俺は死ねないしあいつも殺せない。もちろん姫様を殺させるわけにもいかない。……わかってもらえただろうか?」
 イェンスが副船長を肘で小突くと黙り込んでいたスヴァンテが顔を歪めた。他の仲間も騎士に動じた眼差しを送っており、最初の拒絶的な態度が揺らいでいるのが見て取れる。
「ロマが大事にしてきた歌だ。卑怯者なら教えてもらえるはずがない。そいつの言葉、俺は信用できると思うぜ」
 イェンスの呼びかけに水夫たちはたじろいだ。アルフレッドもリュートを肩に担ぎ直し、もう一度真摯に訴える。
「俺たちが仲間に戻れる道はまだ残っているはずなんだ。陛下だって、こんな終わりを迎えるために犠牲になったんじゃないと思う。生き残った人たちに、陛下が望んでいたことは……」
 ルディアはそっと目を伏せた。
 自分が本物の王女だったら、騎士の言葉をどう受け止めていただろう。そう言ってくれてありがとうと、あの人の志を継いでカロとともに進みたいと涙を流していただろうか。
「……わかったよ。だが俺たちはあくまで中立、フスの岬まで運んでやるだけだ。そいつらが大事な息子の仲間だからって肩持つような真似しないでくれよ、イェンス」
 嫌々ながら承諾したスヴァンテにイェンスが「ああ、わかった」と約束する。見届ける者として彼が立ち位置を明確にすると、老水夫らもそれならばと頷き合った。
 どうやら送ってはもらえそうだ。ルディアはふうと息をつく。これでやっと終わりにできると。
 イェンスは決闘だと言ったけれど、ルディアにはまだ疑わしい。仮にカロが王の英断を認める気になったとして、下手人への殺意まで手放してしまうとは思えなかった。だって自分が偽者なのは、娘のふりをしてきた罪人なのは事実なのだから。
(なんでもいい。あの男の気の済むようにさせてやれるなら……)
 他に贖罪の方法を知らない。カロに――そしてあの人に償う方法を。
「よし、それじゃあ後はこっちで段取りつけるよ。お前らは診療所に戻っててくれ」
 甲板に相談の輪を作る仲間から離れ、イェンスがルディアとアルフレッドに告げた。船縁の縄梯子まで客人を見送ると、元神官は騎士に囁く。
「……ありがとうな。正直もっと最悪な展開になると思ってた。レイモンドがこれ以上恨まれなくて良かったよ」
 その台詞にアルフレッドがぴくりと足を止めた。イェンスを振り返り、彼にしては珍しく試すような口ぶりで幼馴染の父に問いかける。
「恨まれていたらどうしたんだ?」
 不意を打たれて男は一瞬瞠目した。だがすぐに、苦い微笑でかぶりを振る。
「そうだなあ、仲間とはこれっきりになってたかもな。……あの子には余計なお世話だって毒づかれただろうけど……」
 アルフレッドは「そうか」とだけ呟いて船縁に手をかけた。ルディアも船を降りようと片足を手すりに上げる。
「あ、待て待て。まだ遺書を返してねー」
 イェンスは慌てて封筒を差し出した。けれどルディアはその手をそっと押し返す。
「それは私の持つべきものではない。すまないが、預かっていてくれないか?」
 騎士の目が険しくなったのに気づかなかったわけではないが、振り返らずに知らんふりを決め込んだ。イェンスは無理に手紙を渡そうとはせず「わかった」と引っ込めてくれる。
「……不愉快だろう頼み事を引き受けてもらって感謝する。できるだけ迷惑をかけないように努めるよ」
 一礼し、ルディアはコグ船を立ち去った。桟橋にはうるさいほどの波の音とカモメの鳴き声が響いていた。




 雑踏を突っ切って歩くルディアの背中が痛ましく、アルフレッドは唇を噛む。騒々しい船着場を抜け、大通りに入っても彼女はこちらを振り向かなかった。まるで話しかけるなと言うように。
「おい」
 そんな無言のアピールに焦燥を覚えながら大股でついていく。声をかけても無反応で、仕方なしに腕を伸ばした。
「おい、手紙は良かったのか?」
 散々無視してくれたくせに、肩を掴めばルディアはあっさり顔を上げる。
「言っただろう、私の持つべきものではないと」
 それだけ返すと彼女は再びスタスタと歩き出した。
 らしくなさに閉口する。傷ついていることは百も承知だが。
「あれは確かにあなたに宛てられた手紙だよ。何故それを否定する?」
 問いかけてもルディアは答えようとしなかった。ただ黙々と診療所に続く道を歩き続ける。
「今のあなたは委縮してしまっている。いつもの自信はどこへ行ったんだ? さっきのコグ船の連中にも言い返そうとしていなかったし……」
 ――自分は娘の資格を失ったからとか言うんだよ。
 ――私はずっとあの人を騙し続けてきた。
 幼馴染や王女自身の言葉がよぎり、アルフレッドはぎゅっと拳を握りしめた。
 もしかして、ルディアが本当に悔やんでいるのはイーグレットを殺したことではないのかもしれない。でなければカロが決闘を選んだことにもう少し安堵したっていいはずだ。
(偽者だということがそんなに許しがたいのか)
 かける言葉が見つからず、成す術なく背中を見つめる。
 そうかなと後ろ姿が語っていた。私はいつも自信がなかった。だから自分は何者なのかという問いから逃げ回ってばかりいた気がするよと。
 半年離れていたけれど、彼女の心は手に取るように理解できた。立場や役割というものに誰より厳しい人だから、逸脱してしまった自分を責めずにいられないのだろう。たとえそれが代役を懸命に果たそうとした結果であっても。
「……すまない。往来でする話じゃなかった」
 理性がアルフレッドを抑止する。こちらを見やったルディアは優しい笑みを浮かべていた。
「構わんさ。それより早くレイモンドのところへ戻ろう。怪我人のくせに意外と大人しくしてくれないからな」
 彼女がこれでは幼馴染も無茶をするようになるわけだ。腑に落ちて嘆息する。
 せめてルディアがひとりきりでなくて良かった。誰かが彼女といてくれて。
「最初に聞いたときは驚いたけどな。まさかあいつが主君のために腹に穴まで開けるなんて」
 アルフレッドが隣に並ぶとルディアは小さく肩をすくめた。「私も逃げろとは言ったんだが」とつらそうに目を伏せられて慌てて首を振る。
「非難しているんじゃない、よくやってくれたと誉めているんだ。本当に意外だよ、あいつ怪我や病気には人一倍気をつけていたし」
「そうなのか?」
「ああ、八つの頃に流行り病で死にかけてな。まだ国籍がなかったから病院で診てもらえなくて大変だったんだ。アクアレイア人になってからも資本は身体一つだからと言って」
 そうだったのかと彼女が呟く。
「だとすれば父親への恨みが消えなくて当然か。言わないだけできっと他にも切実に経済支援を欲したことがあるのだろうな」
 ルディアは自分が親子の出会うきっかけになってしまったと悔いているようだった。そんな彼女を見ていられず、アルフレッドは別のところに話を逸らす。
「それにしてもイェンスはどうして子供を捨てたんだろう。レイモンドのこと、とても気にかけているように見えるのに」
 純粋に疑問で首をひねった。するとルディアがえっと目を丸くする。
「レイモンドから聞いていないのか? イェンスには事情があって、我が子と会ったり名前を知ったりできなかったそうだぞ」
「えっ? いや、そんな話は全然」
 首を振るアルフレッドに彼女は「あいつ妙なところで秘密主義だな」と嘆息した。それからイェンスの生い立ちやアミクスとの軋轢、仲間の反感を買ってまで貸してくれた三百万ウェルスのことを教えてくれる。「本来ならもっと礼を尽くさねばならない相手なんだが」とぼやくルディアは微妙な板挟みの立場にあって苦しそうだった。
 呪いのこと、フスのこと、一つ知るたび「ああそうか」「そうだったのか」と謎が解けていく。話に耳を傾けながら思い出したのは老ロマの涙、それと悪党の罵詈雑言だった。
「そうか……。レイモンドの親父さんは、あいつをずっと思ってくれていたんだな……」
 道の先には診療所の緑の屋根が見え始めていた。
 どうしてこう上手くいかない親子ばかりなのだろう。側にいるなら、愛情が確かなら、心通じ合えればいいのに。




 ******




 ごめんねえ。そう呟いて母が泣く。酷く申し訳なさそうに。
 ごめんねえ。そう呟いて祖母も泣く。レイモンドは病院に連れていってあげられないのと。
 夏のアクアレイアは病む。高熱にうなされた患者で施療院のベッドは埋まり、中には死に至る者もいた。つい先日同じ病で養父がこの世を去ったばかりだ。ああ俺も死ぬのかな。朦朧とする頭の隅で考えた。
 三日おきに発熱するので三日熱と人は言う。それが三度続くので、三度熱と呼ばれることもある。四度目がないのはその頃には衰弱しきって死ぬからだ。レイモンドが火のような熱をぶり返したのはこの日でちょうど三度目だった。
 苦しみを紛らわそうと寝返りを打ち、すぐにまた苦しくなる。節々が痛み、手足はむくみ、呼吸は次第に浅くなった。食事も睡眠も満足に取れない。ただ縮こまり、倦怠と灼熱が過ぎるのを待つのみだ。
 もし自分が王国民なら格安で医者に診てもらえたらしい。薬代が払えずとも、ツケにしてもらうとか、少しずつ返していくとかできたらしい。
 家族の誰も外国人を救えるほどの大金は持っていなかった。母も、祖母も、弟妹も、必死に看病してくれたけれど、病魔はそれを嘲笑うだけだった。
(なんで俺、アクアレイア人じゃねーのかな……。この国で生まれて、この国で育って、他の土地なんか知らねーのに……)
 弱々しく母の手を握り返す。恨めしいのはいつも己の外見と、こんな境遇を与えて消えた男だった。手厚い制度に守られた普通の王国民であれば、医者にかかって治る者がほとんどなのに。
(駄目だなこりゃ……助からねーわ……)
 小さな子供の頭でも限界が知れる。水を飲むこともままならず、死の気配は近づいた。
 養父が死んでほっとした罰が当たったんだろうか。これでもうあいつの顔色を窺わずに済むと。でも俺だって、できれば仲良くしたかったんだ。
 痛い。熱い。苦しい。誰か。
(誰か――)
 濁る視界に救いを求め、むなしく視線をさまよわせた。
 誰も来るはずがない。父の来るはずがない。生まれる前から我が子を捨てた男なんか。
 いよいよ終わりか。震えながら目を伏せた。震えながら。絶望しながら。
「――おばさん! レイモンドは!?」
 そのとき誰かの声がして、一瞬意識が覚醒した。ちらりと目玉を動かせば、大事そうに何かを抱えたアルフレッドの姿が映る。
「まだ生きてるな? 待っていた船がさっきようやく着いたんだ」
 がさがさと包みを開き、少年は自ら調合したという粉薬を差し出した。「うちじゃお金を払えないわ」と焦る母に構うことなく薬屋の息子は匙に黒い粉末をすくう。
「……高いんじゃねーの……」
「気にしてる場合か。いいんだよ、出世払いで返してくれれば。母さんも十年待つと言ってくれたから」
 匙は多少強引に口の中に突っ込まれた。途端、舌いっぱいに恐ろしい苦みが広がる。
「……ッ!?」
 激烈な味に驚いてレイモンドは飛び上がった。関節痛も倦怠感も忘れるほどの凄まじさだ。
 アルフレッドは悶え苦しむレイモンドを見て喜んだ。まずさがわかる体力が残っていて良かったと安堵の息まで漏らされる。
「もう大丈夫だな。じきに熱も引いてくるよ」
「お、おう……。ありがとな……」
 震えながら寝台に突っ伏し直す。心優しい友人は容態が落ち着くまでずっと側にいてくれた。
 アルフレッドはいい奴だ。いつも、いつでも、親身になって助けてくれる。こいつが友達で本当に良かった。――本当に。


「う……っ」
 寝苦しさに寝台の中で身じろぎする。全身に回った熱から逃れたくて寝返りを打てば、引きつった腹の傷がじくじくと痛みを訴えた。
 しばし眉間に力をこめて息を詰める。何もできない子供のように。
 眠ったらまた夢を見そうで、レイモンドは思考にかかるもやに抗った。身体が弱っているせいか、この間から昔のことばかり思い出す。昔の、つらい記憶ばかり。
(姫様……)
 病室はしんとして、目を閉じていても彼女がいないのが知れた。まだ幼馴染と一緒にあのコグ船にいるのだろうと。
(アル……)
 いつも窮地に駆けつけてくれる友人は、今度もまた助けにきてくれた。それをありがたく思うのは本当なのに、何故胸の奥がざわつくのだろう。あいつと自分は違うということ、もう割りきったはずなのに。
 重い瞼を開ける力はどうしても出なかった。身を起こす力はどうしても。
 深い穴に落ちていく。大切なものを飲み込んできた心の底の深い穴に。


「――え? 国籍取得の条件が変わる?」
 顔を上げ、尋ね返したレイモンドに幼馴染は深刻な表情で頷いた。伯父さんが話していたと彼は言う。居住年数十五年以上で申請できるのは今年限りで、来年からは居住年数が二十五年に満たない場合アクアレイア国籍を買うことはできないらしいと。
「は? えっ? ちょっと待ってくれよ」
 磨いていた食器を放り出し、レイモンドはカウンターを出た。みすぼらしい小さな食堂の片隅で母と祖母が目を見合わせる。そんな、どうしてという囁きはいっそう気を焦らせた。
「年末までに五十万ウェルス貯まりそうか?」
「貯まるわけねーだろ! まだ三万にも届いてねーんだぞ!」
 その夏はレイモンドが念願の十五歳になった夏だった。成人して、ガキの頃より多少まともに稼げるようになって、やっとアクアレイア人に一歩近づけたと思ったのに。
 帳簿を確かめてみたけれど、二万弱がレイモンドの全財産だった。これでもこの年の航海で前年の三倍以上に増やしたのだ。まだ正式な商人として商船に乗ることはできずとも、荷の積載枠は買えるようになったから。来年は今の倍に、再来年はその倍に、そうすれば五年後には目標額に届くはずだった。
 王国民としてスタートを切るのが二十歳と二十五歳では全然違う。貴族なら二十五歳ともなれば大評議会に入れるし、平民だって組合で役職を貰ったり、居留区に小さな店を構えたりするようになる。ただでさえ遅れを取っているというのにこれ以上待ちたくなかった。これ以上、心許ない年月を過ごすのは。
「そうだよな……。アクアレイア人だって上級市民でもなきゃ四ヶ月で五十万ウェルスはな……」
 アルフレッドが低い声で呟く。幼馴染の示した懸念は更にレイモンドを狼狽させた。
「ジーアンという遊牧民の帝国が恐るべき速度で西に版図を広げている。伯父さんの見方では、今後東方交易に甚大な悪影響を及ぼすだろうとのことだった。アクアレイア商人を保護するために、王国政府はこれからもっと外国人が国籍を取得しにくい条件を付加していくかもしれない。やっと二十五歳になっても今度は百万、二百万ウェルスが必要という話になっているかも……」
「な……っ」
 ありそうな予測に絶句する。であれば何がなんでも今年中に五十万ウェルス用意しなくてはならないではないか。
 こうして人生で最も忙しく、情けなかった日々が幕を開けた。貯められないなら借りるしかない。レイモンドは王都中の金貸しに頭を下げて回った。だが外国人の、それも貧しい私生児を相手にする物好きはいない。ゴンドラ漕ぎとして雇ってくれていた親方も、さすがにそんな大金は出せないと首を振った。友人知人も同じくだ。一万ウェルスだけでもと乞うレイモンドに彼らの多くが煩わしさや侮蔑の念を隠さなかった。
 現実なんてこんなものだ。王国民が余所者を輪に加えてくれるのは、こちらが何か楽しみを提供できる間だけ。厄介事を持ち込んだ途端、他人の顔で突き放される。そんなのは昔から知っていたことだけれど。

「どうする? 伯父さんに工面を頼んでみるか?」

 見かねたアルフレッドにそう問われ、正直なところ心は揺れた。だがすぐに「いいって、お前にばっか迷惑かけらんねーよ」と断る。幼馴染には三日熱の薬代さえ返せていないのだ。もう借りは増やしたくなかった。それに国籍取得に関しては彼の手助けなしでやろうと決めていたのだ。
 学校に通えなかった自分に読み書きや計算を教えてくれたのはアルフレッドだ。航海の話、商売の話、王国の法律の話、レイモンドに必要な知識を与えてくれたのは。だからと言っていつまでも彼を当てにはできない。己ももう成人した男である。自分の金だけで国籍を買うのは無理でも、せめてアルフレッドに頼ることなくやり遂げたかった。
「だがレイモンド……」
「本当にいいって。まだ時間あるし、母ちゃんが家の手伝いはいいって言ってくれたから仕事増やせたし。頑張ってるとこ見せりゃいくらか貸してくれる人も出てくんじゃねーかと思うんだ」
 まだやれる。アルフレッドにそう言いながら己にも言い聞かせる。「そんじゃ稼ぎにいってくるわ!」と広場を駆け出したレイモンドを幼馴染は心配そうに見つめていた。
 酷い言葉を耳にしたのはそれと同じ日。少しでも金を増やそうと、毎日毎日早朝から深夜まで働き詰めで、その日もレイモンドは汗ぐっしょりでゴンドラを漕いでいた。国民広場で客を拾って商港に運ぼうとしたときだ。不意打ちで聞き知った声が響いてきたのは。
「――レイモンドと付き合えばって? 冗談やめてよ、あいつ外国人じゃない。国籍取ろうと頑張ってるけど年末には法律変わっちゃうでしょう? 将来性がなさすぎるわよ」
 通り過ぎた岸辺をそっと振り返る。声の主は食堂によく来てくれる女友達のようだった。つい先日、あなたがアクアレイア人になれるように応援してると励ましてくれた。けれど今は、アクアレイア人の仲間にまるで真逆の話をしている。
「今より仲良くするつもりないわ。喧嘩する理由もないっていうだけね」
 疲れていつもより猫背だったから、彼女はこちらに気づかなかったのだろう。気にしたって仕方がない。レイモンドはかぶりを振って櫂を握った。
 つらいのは今の台詞を忘れるわけにもいかないことだ。彼らにとって自分はどういう位置づけの人間なのか。それがわかっていないと世渡りできないし、無自覚に傷つけられる。
 実際彼女の言葉を気に病んでいる暇はなかった。レイモンドはいくつも仕事を掛け持ちしながら金を貸してくれる相手を探さなくてはならなかった。秋の初めにはもう何人もの知り合いから避けられるようになっていたけれど。
 心から気の毒がってくれる人がいなかったわけではない。金銭ではなく短期労働の紹介とか、差し入れとか、形で示される同情も多々あった。そんなことでは届かないほど五十万ウェルスが遠すぎただけで。
 足早に秋は通り過ぎ、非情な冬がやって来る。十二月の半ばになってもまだ展望は開けていなかった。蓄積したのは疲労だけで、家族の慰めに応じる余力もなかったことを覚えている。
 アンディーン神殿の側を通りがかるたび金が欲しいと祈願した。神頼みしかできない自分を笑いながら。
 遠巻きにされているのは肌で感じた。顔の広さが災いして「あいつに関わると借金を申し込まれるぞ」と有名になっているようだった。
(もう駄目かもしんねーな)
 ゴンドラ溜まりに小舟を戻してとぼとぼと帰路につく。国籍を取ろうとか、輪の中に入りたいとか、望んだのが間違いだったのかもしれなかった。私生児は私生児らしくおこぼれやお情けだけに預かっていれば。
 だけど自分の願ったことは、そんなに大それたことだったんだろうか。商売のためにアクアレイア国籍を欲しがる外国商人と違い、自分にはこの国だけが故郷と呼べる場所なのに。

「レイモンド、伯父さんに五十万ウェルス借りてきた。……どうしても黙って見ていられなくてな。余計なお世話とは思ったが……」

 銀行証書を持参して家を訪ねた幼馴染に、俺はどんな風に「ありがとう」と言ったのだっけ。思い出そうとしても何故か思い出せない。
 覚えているのは彼の顔を直視できなかったこと。お前にばかり頼れないと、自分でなんとかしてみせると言ったくせに、結局また土壇場で助けてもらって。
 アルフレッドはいい奴だ。だけど時々度が過ぎる。恩を恩として受け取れる範囲を超えてしまう。感謝が負い目に変わったら、負い目が劣等感に変わったら、もはや対等な関係ではなくなってしまうのに。
「……ごめんなアル。できるだけ早く返すから……」
 あの金を受け取ったとき、失ったものがある。レイモンドには無力な自分を慰めることができなかった。傷ついた心に上手く言い訳することが。
 父親がクズなのは同じでも、アルフレッドと自分はあまりに差がありすぎる。見下されているだなんて感じたことはないけれど、命を救ってもらった恩は、五十万ウェルスもの負債は、どうしたってレイモンドを卑屈にさせた。
(なんで俺だけこんなに皆と違うんだ)
 アルフレッドが羨ましかった。父親のことで後ろ指をさされてもまっすぐに生きている彼が。その気になれば輪に入れてもらえる、純粋なアクアレイア人の彼が。
「おめでとう、レイモンド」
 祝福の言葉に無理をして笑う。無理をして、本心を誤魔化すように。今までアルフレッドとだけは本音で会話できていたのに。
 晴れて王国民として認められ、生活が安定すると、レイモンドを避けていた人々は何事もなかった顔で声をかけてくるようになった。そんな連中を笑顔で許さねばならなかったこともレイモンドを苦しめた。
 自分はアクアレイア人になったのではない。アクアレイア人もどきになっただけだ。そう気がつくのにさして時間はかからなかった。賃金は上がっても、根本的な孤独は変わっていなかった。――否、もっと悪くなったと言える。
 金への執着が強くなった。さっさと借金を返したかったからだろう。けれど薬代の支払いが済んでも、五十万ウェルスを返し終えても、執着は変わらずに残った。
 アルフレッドにも腹の底を打ち明けられないままでいた。こいつはやっぱり骨の髄からアクアレイア人だからな。そう思ったら当たり障りのない軽口しか叩けなくなっていた。それでもまだ幼馴染とは父親への憤りという共感で繋がれていたけれど。
 寂しい人間に育ったと思う。母親には愛されてきたし、友人や知人にだって恵まれたはずなのに。
 もう金以外の何かを信じられる気がしなかった。親切だった人たちに感謝はしても、自分が彼らのために身を削ることはできそうもなかった。
 仕方がない。なるべくしてこうなったのだ。そう言って諦めることに慣れていった。
 せめてアルフレッドみたいに夢を持てたら違ったのかもしれない。自分にも何かができると信じられたら。望めば叶うと信じられたら。だけど俺にはどうしたって――。
(姫様……)
 夢とうつつの境目で彼女を呼ぶ。まとわりついてくる過去を振り切りたくて手を伸ばす。
(姫様、俺は……)
 目覚めは唐突に訪れた。遠慮を知らない伸びやかな詩人の声が「お薬の時間ですよ!」と記憶の幕を引っ張り下ろした。




「さあレイモンドさん、起きてください!」
「……ッ!」
 揺さぶられ、下腹部に駆けた激痛に飛び上がる。殺す気かよと医者を睨めばハイランバオスはにこにこと栄養剤の入った皿を差し出した。
「あなたのおかげでいいデータが取れそうです。ふふふ、たっぷり飲んでくださいね!」
 脂汗を垂らしつつレイモンドはなんとか上半身を起き上がらせる。この男に手ずから薬を与えられるなどできれば勘弁願いたい。多少前後にふらついたが気力で皿と匙を受け取り、待っていた薬を口に運んだ。
「データってなんのだよ……」
「それはもちろんこの栄養剤についてのです。実は生きた人間に投与するの、初めてだったんですよねえ。まあ回復の速度も効果の程度も私の予想した通りでしたが」
 明るく不安な話をされて、ただでさえ塩っぽいスープが一段とまずくなる。なんだ生きた人間にって。だったら死んだ人間になら投与したことがあるのか。
「うーん、やはり極めて即効性が高いですね。ほらほら、もう汗が引いてきてらっしゃいますよ」
 ハイランバオスの指摘を受けてレイモンドはこめかみを拭った。さっきまでべっとり濡れていたそこは確かに既に乾き始めている。気がつけば傷の痛みもなくなっているし、本当にわけのわからない薬だ。
「……あのさ、これ真面目に飲んでたら二、三ヶ月後にはそこそこ動けるようになってる?」
「動けるように? そうですね、なっているんじゃないですか? 最初に申し上げた通り、動きすぎて傷が開いたら二度と動けなくなりますけど」
 聖預言者の返答にレイモンドは「そっか」と呟いた。ズズ、とスープを飲み干して空になった器を返す。
 動けるようになるのならルディアのために戦わなくては。心はもう決まっていた。
「あ、どなたか帰ってこられたみたいですよ」
 と、玄関の開く音を耳にしてハイランバオスが振り返る。階段を上ってきたアルフレッドたちと入れ替わりに「では私は自分の部屋に戻りますね」と軍医は出ていった。蟲入りだと判明してから鳥籠に戻らず、主人の周囲をバサバサ飛んでいる琥珀の鷹もそれに倣う。
「レイモンド、具合はどうだ? 起き上がれるほど良くなったのか?」
 開口一番に尋ねられ、レイモンドは「うん」と王女に微笑んだ。
「まだちょっとだりーけど、薬も飲んだしもう大丈夫」
「そうか。こっちはフスの岬まで送ってもらえることになったよ。今イェンスが出航の予定を立ててくれている」
 そう聞いて、やはりサールには向かわないのかと落胆する。必要なことなのだろうが、項垂れずにはいられなかった。
「あーあ、またあいつの船に乗るの確定か」
 スヴァンテたちには思いきり煙たがられるに違いない。罵詈雑言も覚悟しておかなければ。
「何を言っている。お前はここに残るんだぞ」
 半分予測済みだった台詞が降ってきたのはそのときだ。「なんで」と眉をしかめたこちらにルディアは強い語調で返してくる。
「なんでじゃない。その傷で動かせるわけないだろう?」
「ハイランバオスは二、三ヶ月すりゃ動けるようになるっつってたぜ」
「それでも駄目だ。お前はコーストフォートで印刷機をアクアレイアに届ける手はずを整えてくれ。わかったら……」
「んなもんフスの岬から帰った後でやりゃいいだろ? アルは連れていくくせに、俺が駄目なのはなんでなんだよ?」
「お、おい。二人とも」
 次第に激しさを増すやり取りにアルフレッドが慌てて仲裁に入ろうとする。しかしルディアは止めようとする騎士の腕を振り払って怒鳴りつけた。
「アルフレッドがいるのだから、お前はいらないと言っているんだ!」
 一瞬空気が凍りつく。「よしんば多少動けるようになったとして、病み上がりでどう役に立つつもりだ」と問われ、レイモンドはぐっと唇を噛みしめた。
(本ッ当にこのお姫様は……!)
 わかっている。こういう物言いをするときの彼女は本心を隠しているのだと。トリナクリア島でもそうだった。わざと怒らせて嫌われようとして、こちらのことを慮って。
「……無茶はしないって約束してもか?」
「…………」
 問いかけに今度はルディアが黙り込む。だが彼女も強情だった。
「イェンスとてお前を同行させたくあるまい。ここでしっかり療養して……」
 言うに事欠いたルディアが引っ張り出してきた名前にムッとする。腹に響くのも構わず、レイモンドは大きく声を張り上げた。
「あんな奴どうだっていいんだよ! 俺はただ、あんたの心配をしてるんだ!」
 彼女ばかりかあの男にまで反対されたら本当に置いていかれるかもしれない。そんなのはごめんだった。やっと自分の守りたいものを見つけたのに、金より大事なものと出会えたのに、ルディアを失くすくらいなら自分は――。
「俺もレイモンドは一緒に行くべきだと思う」
 助け舟は思わぬ人物から出された。寝台脇の幼馴染を見上げ、レイモンドは目を丸くする。怪我の重さを考えれば薬屋の彼が賛成してくれるわけがないと思っていたのだ。
「おお、アル!? お前もそう言っ……」
 だが次の瞬間喜びは掻き消えた。にわかには信じがたい言葉を吐かれたからだ。
「もう少し、こいつを父親の側にいさせてやってほしいんだ」
 頭の中はたちまち真っ白になった。「は?」と思わず荒っぽい声で聞き返す。お前は何を言っているんだと。
「なあレイモンド、お前と親父さんには多少誤解や行き違いがあるんじゃないか? 俺の目にはあの人がとてもいい人に見える」
「……??」
 本当に何を言っているのだろう。全然意味がわからない。確か自分は、昨日こいつに説明したはずなのだが。イェンスは理解したくもない異文化の野蛮人だと。
「今からでも遅くはない。あの人ともっと話をしてみたらどうだ?」
「…………」
 わなわなと肩が震える。握り拳を振り上げそうになってレイモンドはかぶりを振った。
(なんでそんなこと言うんだよ……!)
 彼とて父親には苦労させられてきたはずなのに。何も言わずともそれだけは互いに理解できていたはずなのに。
「あんなのでも父親でしょう」とお前に説教するお節介を、俺はいつでも追い払ってきただろう。それなのにお前は俺の背中を刺すような真似をするのか。俺がどれだけ苦しい思いをしてきたか、お前は隣で見てきたんじゃないのかよ。
「いい人だったらなんなんだ……?」
 怒りは抑え込もうとするほど膨らんだ。どうしても受け流せずに、幼馴染の真面目な顔を睨みつける。
「あいつの事情も考えてやれってか? 行きずりの女と子供作ったのも、そのままそこに置き去りにしたのも、あいつが考えなしでしたことなのに?」
 アルフレッドは反論されると承知で発言したらしかった。「それはそうだが、しかしな」と言いくるめようとするのを怒声で遮る。
「しかしなじゃねーよ! 今までほったらかしにしてきたことを全部水に流せってのか!? 散々我慢させられたのに、まだ俺が我慢するべきだって!?」
「イェンスのほうにも埋め合わせする意思はあるんだろう? 三百万ウェルス貸してくれたと聞いたぞ。お前のために長年財を蓄えてきたとも」
「だったらその埋め合わせが終わってから言えよ! 言っとくが、俺は借りた金きっちり返済してみせるぞ。それにあいつの蓄えだって……! なんで俺が、必要なときに受け取れなかった金に感謝しなきゃなんねーんだ!?」
 強い拒絶を示すレイモンドに幼馴染は考え込む。なお説得の言葉を探そうとするので堪らずに首を振った。
「お前さ、もし俺が八つのとき、あのまま病気で死んでても同じように考えたわけ? 俺が今でも国籍を買えてなくて、ひでー生活してても『そんな事情があったなら仕方ないな』とか言ってたわけ?」
「レイモンド、それは話が飛躍して……」
「何が飛躍だよ! お前が言ってんのはそういうことだろ!? 俺はただ運が良かっただけだ。たまたまお前に会えたからここまで生き延びられただけだ。それなのに――」
 言葉はもう止まらなかった。胸の底から溢れて溢れて、息も上手く吸えなくなって、溺れているように錯覚する。
「俺だって、あいつが無理して三百万ウェルス出してくれたことはわかってる。そのせいで仲間とぎくしゃくしてることも。けどそれとこれとは話が別だろ? いい人だったら全部チャラになるのかよ? あいつのこと許せねー俺のほうが間違ってるって言うのかよ? あいつのせいで、父親が何もしてくれなかったせいで苦しんできた十八年を、よりによってなんでお前にそんなに軽く扱われなきゃなんねーんだよ!」
 ぜえ、ぜえ、と息を切らす。さっきまで言い争っていたルディアが心配そうに覗き込んでくる。いたわり深く肩を支えてくれる手に泣きそうになりながら顔を上げた。――半ば開いたドアの外に人影を見つけたのはそのときだった。




 興奮しきって立ち上がりそうな勢いのレイモンドをなだめようと身を屈める。汗を拭ってやろうとして、ルディアは槍兵が固まったのに気がついた。
 見開かれた双眸の、視線の先を振り返る。視界に映ったのは置物じみた熊の頭付きの毛皮だった。

「あ……、すまん。スヴァンテたちが、乗せるなら医者もさっさと見せにこいってうるせーから……」

 いつからそこにいたのだろう。イェンスは気まずそうに階段に目を逸らす。動揺する間に軍医が「あれっ? イェンスさん、どうかなさいましたか?」と降りてきて、もう何か言える雰囲気ではなくなってしまった。
「あ、先生。今からちょいと船に来てくんねーか? 皆に顔見せしてほしくてさ」
「いいですよ。ちょうど用事が片付いたところです。早速参りましょうか」
 遠慮がちに「邪魔して悪かったな」と告げてイェンスが踵を返す。ルディアには黙って見送るしかできなかった。
 今の会話を弁解すればレイモンドをもっと傷つける。もう嫌だった。崇高な生き様を求めているわけでもない、ただ哀れな女を見捨てられなかっただけの人間を苦しめるのは。
 足音が遠ざかる。玄関の閉まる音がして、それ以上何も聞こえなくなる。
 槍兵はじっと動かないままだった。無人の通路に目をやったまま。
「レイモンド」
 顔をしかめて振り返った幼馴染に彼は無言で首を振る。長い息を吐いた後、槍兵はぽつりと呟いた。
「……俺わかったよ。血が繋がってるだけじゃ親子にはなれないんだって」
 苦しそうに歪められた、真摯な眼差しがルディアを見つめる。喉を震わせて「わかったんだ」とレイモンドは続けた。
「親子として過ごした時間がなけりゃ親子にはなれないんだって……」
 自分のことを話しながら、彼はもう自分のことなど忘れているように見えた。いけないと思ったが間に合わない。レイモンドはまたも抱えた苦痛を放りだし、ルディアの心配を始めてしまう。
「あんたは俺たちとは違う。あんたと陛下はちゃんと本物の親子だよ。ずっと側にいて支え合ってきたんだから……! カロがなんて言ったって、あんたはアクアレイアの王女ルディアで、イーグレット陛下の娘だよ……!」
 訴えにルディアは深くうつむいた。静かに「違う」と否定する。
「私はもう『ルディア』じゃない。私はあの人を騙し続けた偽者だ。もうその名前を、あの人の娘を名乗るわけにいかない」
 コリフォ島を出たときから変わらない結論。何度も何度も繰り返してきた。
 あの日をやり直すことはできない。罪をなかったことにはできない。なら己に許された道は一つだけだった。
「復讐だろうと、決闘だろうと、消えるべきは偽者の私のほうだ」
 決意の固さは彼とてわかっているはずである。いつもレイモンドはルディアの頑なさに折れて、一旦身を引いてきたのだから。
 しかし今日の彼は違った。アルフレッドとあんな衝突をしたせいか、躍起になってこちらの主張を撥ねつけようとする。
「――いい加減にしろ! 陛下があんたの正体を知って、『娘じゃない』なんて言い出す人かよ!? なんであの人を信じられないんだ!?」
「……っ」
 一喝は、前触れもなく最も痛いところを突いた。あの人を信じられないのか。誰も信じられないのか。重ねてそう問われた気がして。
 怯んだルディアに槍兵はずいと頭を寄せる。薄黄色の丸い瞳に無様な己が、激しい熱が、交互に映って顔を逸らした。
 わかっている。いつも自分が必要以上に離別や造反を案じてきたこと。それが取り返しのつかない過ちの元凶となったこと。「誰も信じてはいけない」と、そう教えたのはあの人だけれど。
「ほんのちょっとしか一緒にいられなかったけど、俺だって陛下がどんな人かくらいわかる。あの人が、あんたがどんなにお互いを大切にしてきたか……!」
 声の強さにたじろいだ。断言を受け入れるわけにいかなくて、なんとか否定の材料を探す。
「……王家にとって血は重要だ。パトリアの正統な血を引いていることが王位継承の条件だったのだから……」
「陛下がんなこと気にしたと思うのか? あんたに幸せになってほしいって、手紙に書いてあったあの言葉は、血が繋がってなきゃ出てこなかったもんだと思うのかよ!?」
 まっすぐに尋ねられ、ルディアは何も言えなかった。続く問いを封じ込めるために物理的な距離を取るしか。そうして耳を塞ぐしか。けれど。
「カロには陛下の半分しか見えてない。あいつはあんたといるときのあの人を見ようとしてねーんだ……! なあ、頼むからカロの言うことに惑わされないでくれよ! カロじゃなくて陛下の声を聞いてくれよ……!」
 手首を掴まれ、寝台に引きとめられる。レイモンドは「あの手紙にちゃんと書いてあったじゃねーか」とわななく指に力をこめた。
「――だけど私は言えなかった! あの人に、どうしても自分の正体を明かせなかった……!」
 逃れたくて腕を引く。必死で叫ぶ。言い負かさなければならなかった。死にに行くと決めたのだから。他に償いはできないのだから。
「それは自分から諦めたということだろう? 娘と認めてもらうことを。あの人の娘であることを。今更私にルディアとして生きる資格は……」
「そうやって楽になろうとするんじゃねーよ!」
 怒鳴り声が鼓膜を震わせる。あんたのそれは逃避だと、真正面から突きつけられて困惑した。逃げずにフスの岬に向かおうとしているのに。せめて自分の責任を果たそうとしているのに。
「……何を言って……」
 呆然と見つめ返すルディアにレイモンドは「だってそうだろ」と眉を歪めた。イェンスに会ったときよりも苦しそうに、腹に穴が開いたときよりも痛そうに。
「でなきゃなんで陛下が聞いたら悲しむことばっか言うんだ? 正体を明かせなかったからなんだってんだよ? あの人だったらそんなこと、笑って許してくれるだろ……!」
「――――」
 そのとき突然、眼前にコリフォ島での情景が甦った。最後の日々を穏やかに、安らかに、笑顔で過ごしていたイーグレットの姿が。
(あ……)
 歌を歌って昔話をしてくれた。ルディアの話が出たときは、こちらが照れるほど得意げで、嬉しそうで。介錯を頼むときすら静かな笑みを浮かべていて。
 ――落ち着いて。取り乱さずともわかっているよ。あの子は優しい娘だし、こんな父でも大切にしてくれた。ちゃんとわかっているから大丈夫だ。
 剣を握り、平静を欠いた己にかけられた言葉をまだ覚えている。今の今まで思い返すこともなかった言葉。見えないように、聞かないように蓋をした。
「……っ」
 ルディアは咄嗟に、力任せにレイモンドを押し返した。
 これ以上思い出してはいけなかった。振り向いて、幻にすがるようなことがあっては。
「……自分に都合のいい夢ばかり見られないよ。私があの人を殺したのは事実なんだ。もうカロにも、認められることはないだろう」
 乱暴に突き飛ばしたせいでレイモンドは傷が痛むようだった。左手首を掴む力が弱まった隙に身を離す。けれど彼は、ルディアを逃がしてくれなかった。
「だからカロは関係ねーって言ってるだろ。なんなら俺があいつに言ってやる。あんたが陛下の娘じゃないなんて言葉は陛下が真っ先に否定するって!」
 今度は右手を握られて、かぶりを振るしかできなくなった。
 言葉が喉を出てこない。誰も、何も、自分自身さえ信じられなくなったのに、本当のことなんてわかるはずがなかった。あの人が自分を受け入れてくれたかどうかなんて。
 叶うなら言ってほしい。秘密を秘密のままにしたことも、カロに会わせられなかったことも、許しているとあの人に。お前は何も間違っていないと言ってほしかった。
 だけどもう叶わない。あの人には二度と会えない。会えたとしても、聞けたとしても、私はきっとその言葉すら疑うのだ。
「……姫様さあ、陛下のこと信じるの怖い?」
 レイモンドの問いかけにルディアは答えられなかった。ただ下を向き、時間が過ぎてくれるのを待つ。彼が諦めてくれるのを。
 なあレイモンド、全部自分のせいなんだ。生きてきたように死ぬことが人のさだめなのだとしたら。私はいつも心のどこかであらゆる人間を見限っていた。敵だらけの宮中を出ても、なお仲間を信じきれなかった。
 次期女王としていつ何が起きても動じぬように。半分それを言い訳にして、私はいつも、いつもお前たちの心が離れていってもいいように身構えていたんだよ。ときにはそうなる前に自ら次の行き先を示して。
 それでもお前は私を一人にできないとコリフォ島まで来てくれたのに、私はお前を信じなかった。全部黙って、全部一人で片付けた。――怖かったんだ。信じてみてもし違ったら、その痛みに耐えられないと思ったから。私はもう、お前たちを好きになってしまっていたから。
 私はそんな小さな人間だ。いや、人間ですらない。こうなってしまった今、信じるなんて勇気は持てそうにないんだよ。どう生きていけばいいかも自分で決められなくなったから、その選択をカロに委ねてしまいたいんだ。
(ああ、なんだ。私は本当にただ逃げ回っていただけなんだな……)
 なんて不甲斐ないのだろう。やはりあの人の娘には、立派に死んだあの人の娘には相応しくない。
「……離してくれ……」
 顔を上げられぬままで乞う。だがレイモンドはいっそう強く手を握りしめるだけだった。熱い手で。熱い目で。そうしてよくわからないことを――、本当にわけのわからないことを口走る。
「信じるの怖いなら、俺が一緒に陛下を信じる。もしあんたが不安になっても陛下を信じていられるように、俺が一緒に、ずっと一緒に信じるからさあ……」
 槍兵は必死にルディアに呼びかける。一人で生きようとしなくていいと言うように、一緒に、一緒にと繰り返して。
「だからあんたも陛下のことを信じてくれよ……!」
 レイモンドのその声は、また幻を連れてきた。思い出すまいとしたあの人の最後の言葉が、「君で良かったのかもしれない」という優しい声が、胸の深くに甦ってたちまち動けなくなってしまう。
 ――どうしてか、君は時々娘と重なって見えるのだ。あの子の代わりに答えてはくれないか? 私の決断をルディアはどう思っているだろう? 王として、父として、誇ってくれると思うかね?
 幻が消え去っても視界はまだぐしゃぐしゃで、自分が泣いているのを知る。拭っても拭っても涙は止まらず、頬ばかりか顎まで濡れた。
「……もうやめろ……」
 嗚咽まじりに訴えた。ここまできて私を迷わせないでくれと。
 あんたが死ぬなら俺も死ぬなどとほざいたり、痩せ我慢をして憎い父親の船に乗ったり、頼んでもいない借金をこしらえたり、腹を刺されて死にかけたり、起き上がってもまだ私を守る気でいたり。
 もうたくさんだ。何度も何度も突き放したのに、いつだって終わりにできたくせに、何故お前は。
「……お前に言われたら本当に信じそうになる……」
 一緒になんて、考えもしなかったことを、何故私は。




 頼りなく肩を震わせて啜り泣くルディアを見上げ、レイモンドは濡れた頬に手を伸ばした。
 彼女が揺れているのを感じる。何かが胸に響いたのを。
「……帰ろうぜ。カロの奴一発ぶん殴って、アクアレイアに」
 ルディアはまだ頷かない。唇を噛み、肩を震わせ、じっと呼びかけに耐えている。
「俺さ、あんたのおかげで初めてあの国に生まれて良かったと思えたんだよ。……だからもう、あんたのいないアクアレイアじゃ意味ねーし、あんたと一緒に帰りてーんだ」
 説得の言葉も尽きて、レイモンドは黙り込んだ。ルディアはルディアで涙に唇を塞がれて、沈黙が舞い降りる。
 ただ彼女のかじかむ右手を握り続けた。伝わるものがあるように、深くまで届くように。彼女からその指を握り返されるまで。
「……私に逃げるのをやめろと言うなら、お前も逃げるのをやめるんだろうな?」
 問いの意味を掴みきれずに「えっ?」と聞き返す。ルディアはその場に立ち上がり、病室のドアを振り返った。
「イェンスのことだ。お前だってこのままでは駄目だとわかっているだろう? フスの岬まで一緒に行くなら尚更な」
「お、俺も行っていいのか!?」
「イェンスときっちり話し合えるなら、だ。お前はお前であのコグ船の連中に頭を下げねばならんだろう」
 うっと思わず息を飲む。それは確かにそうなのだが。
(ったくアルが余計なこと言うから……)
 レイモンドは恨めしく幼馴染をねめつけた。すると視線に気づいた彼が複雑そうに肩をすくめる。
「――」
 ついぞ見覚えのない表情にレイモンドは面食らった。「あれっ、ひょっとしてなんかあった?」と尋ねればアルフレッドは苦笑気味に「まあな」と答える。
「……アルタルーペを越えるとき、ウィルフレッドに会ったんだ。盗賊に身を落としていてな。捕まえて周辺住民に引き渡した」
「へっ」
 予想外の出来事にレイモンドは声を引っ繰り返した。幼馴染は「相変わらずクズだったよ」と諦めに似た嘆息をこぼす。
「他にも色々こじれた親子を見てきたから、お前のところはまだやり直せるんじゃないかと期待してしまった。……お前の気持ちも考えずにすまなかったな」
 騎士は肩越しに担いだリュートに目をやった。それにどんな意味があるのかレイモンドはまだ知らなかった。
「ああ、きっとやり直せるさ。お前たちは二人とも生きて話ができるのだからな」
 ルディアにそう言われると頷くしかなくなってしまう。しかし了解の返事をするのは至難の業だった。生きて話ができると言ったって、冷静にではないのだから。
「で、どうするんだ?」
 王女の問いにレイモンドは押し黙る。「私はこれからのこと、考え直してみる気になったがな」と告げられて、更にそれどころではなくなった。
「ひ、姫様それじゃアクアレイアに!?」
「まだ帰るとは言っていない。……しかし帰れたらいいなと思う。お前たちと一緒に」
「お、おおお!」
「姫様……!」
 喜びに沸いたのも束の間、「それでお前はどうするんだ?」とルディアの視線が再び突き刺さる。うぐっと仰け反り、しばし思い悩んだのち、レイモンドはおずおずと幼馴染に救援を求めた。
「……あのさ、アル。あいつが嫌な奴じゃねーのは俺もわかってんだよ。でもどうしても駄目なんだ。だからお前、俺の代わりにあいつと喋ってくんねーか? 俺じゃ何言えばいいかわかんねーし、お前が間に入ってくれよ」
 全部任せるからと言えばアルフレッドは嬉しそうに「わかった」と応じる。いつものあのお人好しの顔で。怒らせても仕方ないようなことを山ほど言った後なのに。
「なら善は急げだな。今からまたコグ船に行ってくるよ」
 短いマントを翻した幼馴染の後ろ姿は頼もしかった。死に瀕したレイモンドのもとに薬を持って駆けつけてくれた、あの幼い日と変わらず。




 ******




 それではよろしくお願いしますとお辞儀して医者が雑踏に消えるのを見送る。すぐ甲板に上がる気になれなくて、イェンスは桟橋で一人溜め息をついた。
(いい人だったら全部チャラになるのかよ、か)
 血を吐くような言葉の数々を思い出し、憂鬱になる。その通りだよなと頷くしかできないのがつらかった。ちょっと金を出したくらいではなんの足しにもならないのだ。たかだか三百万ウェルス程度では。それがはっきり示されて、却って良かったではないか。あの子に妙な期待を抱き、負担に思わせるよりもずっと。
(親父だなんて一生呼んでもらえそうにねーなあ)
 苦笑いで川面を見つめる。嘆息も何もかも飲み込んで水は海へと流れていく。
 そろそろ船に戻らなきゃなと縄梯子に足をかけたときだった。誰かに名前を呼ばれたのは。
「イェンス!」
 振り返れば息子の幼馴染だという赤髪の青年が駆けてくる。驚きに引っ繰り返りそうになって、イェンスは慌てて背筋を正した。
「な、な、なんだ?」
 アルフレッドは側に寄るなり「さっきはすまない」と詫びる。どうやら気を回して港まで来てくれたらしいが素直には喜べなかった。一体何を言われるのだろうとビクつきすぎ、つい虚勢を張ってしまう。
「さ、さっきのことだったら気にしてねーぞ? レイモンドに嫌われてんのはわかってたことだしな!」
 作り笑いで誤魔化してからイェンスはしまったと固まった。嫌われているとわかっているならもう会わないでやってくれ。そう言われたら反論しにくいと気がついて。
「あっ、えっ、えーと」
 迷惑だとかふざけるなとか言われる前に取り繕おうと必死で頭を働かせる。呆れたフスが落ち着けと言っているのに気づきもせず。
「あ……あのさ。わかってるから、出しゃばりすぎない範囲で俺にできることさせてほしいんだ。俺はほんのちょっと前まであの子に会いにいく勇気もなくて、オリヤンが連れてきてくれてなきゃ多分ずっと会わないままで、身の上もこんなだし、何が父親らしいことかも知らねーし、でも、でもさ……」
 口をつくまま言葉を並べた。我ながら言い訳じみているなと感じながら。
 きっとレイモンドはこういう狡さを嗅ぎ取って嫌になるのだろう。自分でもわかっている。自分でも、だけど。
「だけどあの子の顔を見たらそんなの全部吹き飛ぶんだ。レイモンドが生きて幸せでいてくれるなら、それがアクアレイアでも俺の知らない場所でもいい。あの子が何も返してくれなくたって構わない。俺は元々何も残せるはずのない人間だったんだから……」
 赤髪の騎士は黙って聞いてくれていた。こちらの話が途切れると、「あいつはあなたを嫌な奴じゃないと言っていたよ」と教えてくれる。
「えっ……」
 目を瞠るイェンスにアルフレッドは信じられない言葉を続けた。
「レイモンドがあんな風なのは、あなたを認めているからだと思う。憎みたいのに憎めなくなって苦しいんだと」
 実はあいつの代理で来たと告げられてイェンスは更に驚いた。レイモンドに、友人を介す形ではあっても話し合う意思があることに。
「聞きたいことがあれば言ってくれ。あいつ自分の話をほとんどしていないんじゃないか? レイモンドとは七つの頃から一緒だし、大抵のことは知ってるんだ。あなたにはちょっと、耳の痛い苦労話が多くなるかもしれないが」
「…………」
 突然開けた視界に戸惑いながらイェンスは「教えてほしい」と頼み込んだ。レイモンドのことならなんでも、これほど恨まれている理由だけでもと。
 アルフレッドは頷いてゆっくりと語り始める。それはイェンスが祈ることで退けたと思っていた、我が子にまでは及ばなかったと思っていた、あの呪いの話だった。




 ******




 診療所にアルフレッドが帰ってきたのはとっぷりと日が暮れてからだった。幼馴染の後ろには熊皮のマントを羽織った金髪の男がついてきていて、申し訳なさそうに背中を丸めて縮こまっている。
「話したいことがあるそうなんだが、いいか?」
 騎士の問いにレイモンドはたじろぎながら頷いた。物も言わずに枕元でうつむいたイェンスを見上げ、唇を曲げる。
 あれからルディアと少しだけ、この男の話をした。「お前が父親に望んでいることはなんだと聞かれたぞ。考えてみたらどうだ」と勧められ、寝ながら多少は頭を使ってみたけれど。
「レイモンド、ごめんな……」
 藪から棒に謝罪され、レイモンドは困惑する。一体何が「ごめん」なのだと毒づきたくなって眉をしかめた。
(父親に望んでることか……)
 昔はただ会いにきて、苦境から助け出してほしかった。稼げるようになってからは、一生忘れていてほしかった。今はどうなのかわからない。わからないまま別れたら、ずっと苦しむのだろうなとわかるだけで。
「金のことで、何もしてやらなかったことで恨まれてるんだと思ってた。でも……」
 イェンスは弱々しく首を振る。その目頭が腫れているのに気がついて、泣くような話してたのかよと眉根を寄せた。
「……でも?」
 尋ねると男はこちらに手を伸ばす。結局それは引っ込められ、力を落としたイェンスは震えながらその場に膝をついた。
「……アクアレイアでお前の母親が声をかけてくれたとき、俺、嬉しくて浮かれたんだ。仮面のおかげで初めて普通の人間に、他の奴らと同じ存在になれた気がした」
 少々頭の足りない母は、フスの右手も変わった仮装だと勘違いしたらしい。夢みたいな夜だったと懺悔の声は続く。
「だけど俺はそのせいで、お前に俺と同じ思いを味わわせてきたんだな。呪いから守るつもりで、俺はお前を、あんな大勢の中にひとりぼっちで置き去りにしたんだな…………」
 切れ切れにごめんと詫びてイェンスは泣き伏した。いい年の大人のくせに、顔を覆って、肩を震わせてさめざめと。
 なんだか皆よく泣く日だ。そう呆れつつ自分は拳を握って堪える。
 わかってみれば事はいつも単純なのだ。こんなことで良かったのかと間抜けな自分に少し笑う。
「――もういいよ」
 言葉は自然に紡がれた。もういいんだと、今はきっとひとりぼっちではないのだから。
「俺もごめんな。まだあんたに、ありがとうって言えてなくて……」
 わだかまりが全て解けたわけではなく、イェンスの目を見て礼を言うことはできなかった。だが通路に目をやれば、いつの間にか上階から降りてきていたルディアがアルフレッドとニヤニヤこちらを眺めていて、気恥ずかしいようなこそばゆいような気分になる。
 もう俺がアクアレイア人もどきに逆戻りすることはないだろう。久しぶりに晴れやかな心地で微笑むとルディアも頬をほころばせた。
 きっと彼女も大丈夫だ。一緒にあの生まれ故郷に、アクアレイアに帰れる日が来る。カロさえ思い直してくれれば。
 最後の難題はまだ立ちはだかったままだった。イェンスの告げた出航予定日は約二ヶ月後、十月十一日とのことだった。









(20170331)