「襲われたっていうアクアレイア人、どっちも一命は取り留めたらしいな」
「一人は刺されて、一人は首を絞められたんだっけ? 死人が出なくて何よりだよ」
 闇夜に響いてきた声にカロはぴくりと耳を立てた。身を潜めた木陰から少しだけ顔を覗かせ、市門を照らす篝火のほうに目を向ける。
「ああ、青髪の男はもう普通に歩き回れるみたいだぜ」
「そっかそっか。やっぱイェンスの呪いに当てられたのかなあ。俺たちも気をつけなきゃな」
 番兵の会話を盗み聞きしてカロはなんだと落胆した。折角ブルーノに新しい脳蟲を入れてやらねばと戻ってきたのに、街に忍び込む必要はなさそうだ。
(しぶとい奴め。次に会ったときこそ息の根を止めてやる)
 カロはきつく眉を寄せ、眼光を鋭くした。そんな己とは対照的に隣の少年はほっと胸を撫で下ろす。噛み合わない態度にカロは思わず友人をねめつけた。
「イェンスを呼んだのはお前だろう? 確かに俺はあの男に会おうと考えてはいたが、余計な真似をしてくれたな。俺にはお前の仇討ちより優先すべきことなどないのに」
 低い怒声にたじろいでイーグレットは一歩退く。でも、と言いたげな表情は更にこちらの苛立ちを煽った。
「お前まさか、俺のほうを悪者と思っているんじゃなかろうな? イェンスもイェンスだ。お前が視えたなら俺の味方になってくれればいいものを」
 口をついた不服にも友人はほとんど理解を示してくれない。鼻息荒く「思い出せ、あの女にされたことを。誰の剣がお前の心臓を貫いたか!」とコリフォ島での惨劇を聞かせてみるが、やはり彼にはなんのことかさっぱりわからない様子だった。
 もどかしくて腹立たしい。そんな顔をするなら何故こいつは自分のところに化けて出たのだろう。
 何か未練があるから地上をさまよっているのではないのか。晴らしてほしい無念があるから俺に頼もうとしたのではないのか。それなのに、俺の何がお前を戸惑わせているんだ。
「…………。悪かった、もう言わない……」
 拳を握り、ぽつりと詫びた。愚かな要求をしてしまったと。
 イーグレットが昔の姿をしているのは、殺されたことも覚えていないのは、もう王としての重責に苦しみたくないせいかもしれない。彼はただ楽しかった少年時代に戻りたくて、不要なものを捨て去っただけかもしれない。だったら復讐を考えるのは己一人で十分だ。不遇過ぎた友人に、もう何も背負わせたくなかった。
「……初めてイェンスに会った日のこと、お前が俺を友達だと言ってくれた日のことを覚えているか?」
 この問いにイーグレットは薄灰色の瞳をぱっと輝かせた。二十年前と変わらない、優しい微笑みを浮かべてカロに頷き返す。温かな眼差しにこちらの頬も綻んだ。
「あのとき俺は本当に嬉しかったんだ。荷物以下でしかなかった俺を、お前が意味ある存在にしてくれた。お前に出会わなければ俺は、自分を呪って孤独に生きるしかなかった」
 荒々しい海の男たちに混じり、友人のために、イーグレットを守るためだけに強くなった。他のことはどうでも良かった。こんな邪眼を持って生まれて、友情より尊い何かを得られるとも思えなかった。たとえ命を捨てても失いたくなかったのに、それをルディアは。
「……なんだ? 屈んでほしいのか?」
 ふと手招きに気がついてカロは腰を曲げた。イーグレットは前髪もよけろと指で払う仕草をする。
 ――星みたいだ。
 懐かしい声がした。黄金を宿す右眼を見つめ、音もなく友人が囁く。実際は何も聞こえなかったけれど、思い出の中の声が耳に甦った。私は君のこの目が好きだよと彼が笑う。
 ああそうだ。イーグレット、お前がそう言ってくれたとき、俺にもようやく暗い空に星が見えた気がしたんだ。厚い雲を振り払って、白く輝く満月が。

「うーん? こっちで話し声がしたと思ったんだけどなあ?」

 突然響いた足音にカロはハッと身を伏せた。暗がりから夜道を見やれば武装した複数の男が近づいてくるのが映る。おそらくコーストフォート市の自警団だろう。彼らは逃げた凶悪犯を警戒中に違いない。
 息を殺し、カロは足音が通り過ぎるのを待った。幸い気配は悟られなかったようである。零時の鐘を耳にして男たちはいそいそと市門に引き揚げていった。
「やれやれ、やっと交替か」
「早く家に帰ってゆっくり休みたいぜ」
「おい、お前らちゃんと並べよ! 通れるのは一人ずつだからな!」
 普段は適当な門番が今日はやけに入念に出入りする者をチェックする。奥のほうでは次の巡回に出ると思しき市民らが剣や槍を手に待機していた。
 どうやらコーストフォート市は傷害事件の発生を受け、一時的に都市の守りを強化したらしい。もう一度ルディアを狙うにしても、しばらく街に入り込めなさそうだった。
 チッと小さく舌打ちする。連れがあの深手では、あの女もそう大きく動けはしないだろうが。
(何か手を考えないとな)
 近づいたと思ったらまた遠ざかる。寄せては返す波のように。だが今度こそ。
 ひとまず引き揚げることにして、カロはそっと市門を離れた。八月十一日、深夜遅くのことだった。




 ******




 ――うう、いてえ。
 存外な痛みに呻き声すらあげられず、レイモンドはうずくまる。養父の放り投げた工具がみぞおちに直撃したせいなのに、黄緑色の頭をしたアクアレイア人は謝りもしなかった。ほんのちょっと振り返り、「そんなとこでボーっとしてたら危ないだろ」と迷惑そうにぼやいただけだ。痛がるレイモンドを見ても、ごめんなのひと言も、大丈夫かのひと言もなかった。
 疎まれていると気づいたのは七つになった頃のこと。日常的に暴力があったわけではないが、捨てられかけたことは何度もあった。遊びに行こう、買い物を手伝え、理由をつけては連れ出され、孤児院の前に置き去りにされた。その意味を悟ったのは、愛しげに弟をあやす養父の姿を見たときだった。
 二人の妹とは分け隔てなく育ててくれたし、可愛がってくれた時期もある。だからなかなか察せなかったのだ。養父の関心が完全に失われてしまったこと。彼が男親らしく、小さな家の慎ましい財産をできるだけたくさん跡取り息子に与えたいと考えていたこと。
 一年後、下の弟が生まれるとレイモンドはいっそう肩身が狭くなった。母と祖母は変わらず優しかったけれど、二人は養父や弟妹たちにも優しかったので背中に庇ってはもらえなかった。
 ――どんなときに人が歪むか知っている。最初のそれがいつだったか。

「他人の金で飯食って、礼もないのか。厚かましい」

 刺々しい口ぶりと、静まり返った食卓の空気。今もまだ忘れられない。八歳の誕生日祝いをしてもらっていたことと、養父になんと答えたかも。
「ごめんなさい……」
 レイモンドにはそう返すしかなかった。どうして己が縮こまらねばならないのか、庇護を得るために頭を下げねばならないのか、学校にさえ通えない子供でもわかっていた。孤児院に「うちではアクアレイア人しか引き取れません」と何度も突き返されていたから。
 作り笑いを覚えたのはその頃。おべっかと冗談も上手くなった。養父の仲間の顔を覚えると目いっぱい愛嬌を振りまいた。名前に職業、好きな酒まで覚えられたら彼らが養父に「あれなら種違いでも許せるんじゃないか?」と諭してくれた。それがなんとも頼りない、レイモンドの命綱だった。
 嘘に疲れ、本気で家を出ようと考えたこともある。だが結局、ドアを叩いた救貧院でも同じ現実を突きつけられただけだった。
「君、アクアレイア人じゃないよね? 駄目だよ、ここじゃあ同胞の面倒しか見ないんだ」
 俺だってアクアレイアで生まれたのに。他の国なんか知らないのに。
 憤りを、やりきれなさを、何度飲み込んできただろう。それでも笑っているしかなくて。
 鬱憤を溜め込みすぎた腹が痛い。腹が痛い――。




「…………」
 見知らぬ部屋の柔らかい寝台で目を覚まし、レイモンドは左右に首を傾けた。ずきずきと下腹が脈打っている。鋭い痛みに息を飲み、これのせいであんな夢見たのかと眉をしかめた。
(そうだ俺、カロに刺されて……)
 重い頭をなんとか起こしてルディアを探す。早く彼女が無事なのかこの目で確かめたかった。だが整然とした室内には、緩くうねった黒髪の、少女めいた面立ちの男しか見当たらない。あれっこいつ知ってるぞとレイモンドは窓際の青年に目を凝らした。
「ディラン・ストーン……?」
 海軍軍医の名を呼ぶとディランがこちらを振り返る。「あ、良かった。意識がはっきりしたみたいですね」と微笑んで彼は寝床に寄ってきた。
「こんなところでアクアレイア人の治療に当たるとは思っていませんでしたよ。だいぶ深く刺されていて、危なかったんですからね」
 軽い口調で軍医が言う。「あれから一週間経つんですけど、自覚あります?」と問われ、レイモンドはエッと目を丸くした。ディラン曰く、時々瞼は開いていたが、朦朧として受け答えできる状態ではなかったらしい。「容体が安定するまで起き上がらないほうがいいですよ」とやんわり釘を刺された。
「あんたが助けてくれたのか? なんでまたコーストフォートに?」
 レイモンドの問いかけに軍医は「たまたま遍歴の修行医として滞在中だったんです」と答える。
「うちの父親が、ストーン家の当主として自分が王都に残ればいい、息子にはジーアンの手の届かない場所で力を蓄えてほしいという考えでして。つい先月までセイラリア市にいましたから、あなた本当に運が良かったと思いますよ? イェンス絡みのいざこざと聞いて、私以外の医者は近づこうともしなかったんですから」
 ディランの言葉になるほどと頷く。どうやら彼がいなければ自分は黄泉の国に旅立つところだったらしい。「ありがとな、恩に着るぜ」と手短に礼を述べ、レイモンドは一番知りたい質問を急いだ。
「ブルーノはどうなった? ちゃんと生きてるよな?」
「ああ、あの人なら元気ですよ。ずっとこの診療所で私を手伝ってくださっています」
 返答に心底ほっとする。「何度か包帯を替えてもらったのに全然覚えていないんですか?」と尋ねられ、レイモンドはまたもや目を丸くした。
 包帯を替えてもらったって、まさかルディアにか? 眠っている間にそんな美味しい思いをしていたなんて、なんでおぼろげにでも覚えていないんだ。
 秘かに多大なショックを受ける。そんなレイモンドに気づく様子もなく軍医はにこやかに話を続けた。
「ところであなた方はどうしてコーストフォートに? ブルーノさんは陛下とコリフォ島に向かったと記憶しているんですが、彼がここにいるということは、やはり陛下のご存命は叶わなかったということでしょうか?」
 不意打ちの問いに身を硬くする。ディランは「すみません。私の考えた通りだとすると、ブルーノさんにお聞きするのは申し訳ないかなと思いまして」とイーグレットが誰の手にかかったか察しがついていることを仄めかした。
「…………」
「あ、無理に答えなくていいですよ。今の反応で大体わかっちゃいましたし」
 気遣ってくれているのかくれていないのか、どちらとも取れる満面の笑みを向けられる。軍医はさして興味なさげに「ただそれならどうしてアクアレイアに戻らずに、こんなところにいるのかなと思っただけで」ともっともな疑問を口にした。
「……しょーがねーじゃん。帰りたくないって言うんだし」
 眉間にしわを寄せて呟く。するとディランが「えっ?」と表情を一変させた。
「帰りたくない? 彼がそう言ったんですか?」
 異様な食いつきにレイモンドは少々たじろぐ。「そ、そうだけど」との返答に軍医はますます興奮し、「へええ、ふうん。そうですか、自らの意思で帰りたくないと……」と腕組みしたり頷いたりした。 
(な、なんだ一体?)
 何が琴線に触れたのかわからずに疑問符を浮かべる。彼の喉まで出かかっていた「蟲のくせに巣に戻ることを拒否するなんて面白い……!」という台詞をレイモンドはまだ知る由もなかった。
「とにかく早くブルーノに会わせてくれよ。顔見なきゃ落ち着かねーからさ」
 意味不明なディランの言動は放ってせがむ。軍医は「ええ」と微笑んで病室の外に足を向けた。
「あ、でもその前に一つだけ。あなたこれから半年は安静にしてくださいね。私がチクチク縫ったその傷、次また開いたら今度こそ死にますよ?」
 さらりと述べられた忠告にレイモンドは再度固まる。告げたディランのほうは平常心でにこにこしていた。笑ってする類の話ではなかった気がするのだが、この男はどういう精神構造の持ち主なのだろう。
「冗談……ってわけじゃねーよな?」
「はい、私嘘はつきません。あなたまだ、胸のすぐ上まで墓土に埋もれている状態です」
 怖々と発した問いには屈託のない笑顔を返される。出血量を思い返せば軍医の言葉が決して脅しでないのは知れた。傷は今も高い熱を持ち、全身に倦怠感を及ぼしている。――しかし。
「……悪い。それ誰にも言わねーでくれないか?」
 レイモンドはディランに乞うた。
 カロがこちらの都合を考慮してくれるとは思えない。もしもまたあのロマが襲ってきたら、傷が塞がっていようといまいと武器を取らねばならなかった。ルディアに知られれば「お前は寝ていろ」と一蹴されるに決まっている。縄でベッドに縛りつけられたり、槍を隠されたりしては敵わない。
「いいですよ、わかりました」
 医者とは思えないほど簡単にディランはこちらの要求を聞き入れた。素直に大人しくしているつもりがないことは彼にも読み取れただろうに、自分の患者は絶対に救うという使命感はこの軍医にはないようだ。
(へ、変な奴)
 そう言えばストーン家の跡取り息子は型破りだと有名だったなと思い返す。噂に違わぬ奇人ぶりでディランは嬉しげに呪われた男の名前を口にした。
「ブルーノさんだけでなく、お父様のイェンスさんも急いでお呼びしなくてはいけませんね。随分心配なさっていて、この一週間ずっとうちであなたの回復をご祈祷されていたんですよ? ふふっ、これを機に私もお近づきになれるといいんですが!」
 軍医は北辺の疫病神に並々ならぬ関心があるらしい。やっぱり変な奴だなとレイモンドは引き気味に眺める。
 裸の己の上体にセイウチの牙のお守りが戻されているのに気づくと更にドン引きした。これは港に捨てたはずだが、まさかあいつ、潜って拾い上げてきたのだろうか。
(うう、なんかめちゃくちゃ顔合わせづらいぞ)
 三百万ウェルス貸してもらったことと言い、ルディアを助けてもらったことと言い、でかい借りばかり増やしている気がする。顔を合わせづらいと言えばルディアに対してもそうなのだが。思いの丈をぶちまけてしまったも同然だし。
「ブルーノさーん、お連れさんが意識を取り戻しましたよー」
 悶々とするレイモンドなど気にもかけずにディランは廊下に顔を突き出した。一棟丸ごと彼の下宿らしい診療所に涼やかな声が響き渡る。
 ドタバタと騒々しい足音が駆けてきたのは直後だった。待ち侘びていた人物は間もなく姿を現した。
「……っ! レ、レイモンド!」
 髪を振り乱し、ルディアは大股でレイモンドに迫ってくる。凄まじい形相だ。叱られ慣れたお調子者の直感で「これはどやされるな」と身構えた。予想通り、鼓膜を破る勢いで大きな大きな雷が落とされる。
「このたわけ! 大馬鹿者! 頼みもしないのにこんな大怪我……! 腹より頭を診てもらったほうがいいんじゃないのか!?」
 あんまりな物言いにレイモンドはハハ、と苦笑いを浮かべた。こちらの胸を揺すろうと伸びてきた手が掴む襟のないのに気づいて直前で止まる。ルディアはそのまま膝を折り、枕元に身を屈めて小さく声を詰まらせた。
「……死ぬところだったんだぞ……!」
「……うん、でもまあ、一応なんとか生き延びたし……」
 答えつつ妙な感動を覚える。ああ、姫様だなあと泣き出しそうな青い双眸をしみじみと見上げた。
 心配させてしまったが、守れて良かった。こうしてまた話ができて。本当にディランには感謝しなくては。
 安堵に気が緩むと同時、ぐううと腹の虫が鳴った。そう言えば寝こけている間、胃に何も入れていないのではと思い当たり、更に空腹感が増す。
「あの、なんか食っていい?」
 尋ねるとディランに「おやまあ、元気が出てきましたね」と笑われた。
「ですがまだ固形物はいけませんよ。ブルーノさん、いつもの栄養剤をお願いします」
「? 栄養剤?」
 耳慣れない言葉に首を傾げるレイモンドを置いてルディアが「わかった」と立ち上がる。薬棚に並べられた琥珀色のガラス瓶を一つ手に取り、彼女は中の液体を深い丸皿に移し替えた。
「食事兼内服薬といったところです。もう二、三日はこれで我慢してください。様子を見て麦粥なんかもお出ししていきますので」
 軍医によればこの一週間、同じ処方が続けられていたらしい。外傷に飲み薬なんて聞いたこともないが、新しい治療法の一種だろうか。
「最初にこれを飲ませたときの効果には目を瞠るものがあったぞ。あっと言う間に血色が良くなって生気を取り戻す様がはっきりと窺えた。少ししょっぱいかもしれんが、文句を言わず医者に従え」
 ほう、とレイモンドは瞬きする。ルディアが誉めるからには相当いい薬なのだろう。それなら早速と肘をついて起き上がる。
「いッ……!」
「馬鹿! 腹に力を入れるんじゃない!」
 激痛に汗が滲んだ。ルディアには「いいからお前は動くな!」と怒鳴られたが、頼まれてもしばらく身動きできそうにない。レイモンドは涙目でシーツを握りしめた。
「あはは、気をつけてくださいねー。それでは私、イェンスさんに声をかけてきますので」
 まるきり他人事といった素振りでディランは病室を後にする。治す気があるのかないのか判別の難しい男だ。腕は確かなようだけれど。
「まったくお前はもう……。ほら、さっさと口を開けろ」
「えっ?」
「飲ませてやると言っているんだ。安静にと指示を受けていないのか?」
「いや、それは言われたけど……。えっ? えっ?」
 丸皿を手にベッドの隣に腰かけた姫君を見やって赤くなる。黄色っぽい薬液のスープを匙にすくい、ルディアはそれをレイモンドの唇に押しつけた。
「急いで飲んでむせるなよ」
「んっ、んんっ」
(うわー! なんだこれ!? なんだこれ!?)
 こんなことをしてもらっていいのだろうか。どぎまぎしながら介抱を受ける。
(姫様、嫌々やってるんじゃないよな? 思いきってまだ俺とデートする気があるかどうか聞いてみようかな?)
 薬の味などそっちのけでレイモンドはぐるぐる思考を巡らせた。
「あ、あのさあ」
 意を決し、口を開いたときだった。窓に吊られた鳥籠からヒュウと冷やかす声がしたのは。
「っ!?」
 タイミングの良さにビクンと肩をすくませる。また傷口が引きつりかけて、レイモンドは慌てて全身を弛緩させた。
 なんだなんだと目玉だけ動かして鳥籠を見やる。すると茶色の翼をたたんだ猛禽が面白がるようにピイピイと鳴き声を追加した。
「ああ、あいつはディランの飼っている鷹だ。気にしなくていい」
「お、おお……そっか……」
 空気読んでくれよ鷹、とがっくりする。結局何も聞けないまま丸皿は空っぽになった。
「よし、次は六時間後だ。他に飲むのは水くらいにしておけよ」
 ルディアがサイドテーブルに器を置く。記録帳に摂取時刻を書き込む彼女はいかにも慣れた手つきをしていた。もしかしたら包帯を替えるだけでなく食事の世話もしていてくれたのかもしれない。想像してへへへと口元がにやけた。
「意外と腹膨れたな。どんな調合してんだろ?」
 上機嫌で問いかけるも「さあな」と気のない返事をされる。ルディアも薬の詳細は聞いていないようだ。彼女が愛想に欠けていたのは、答えられない質問をしたせいではなかったようだったが。
「……すまなかった。本来私が一人で対処すべき事態に巻き込んで」
 突然そう詫びられてレイモンドはぎょっとした。見ればルディアが苦しげに表情を歪めている。
「もっと早くにお前と別れておくべきだった。印刷機をアクアレイアになどと考えずに」
「ちょっ、あ、謝るなよ! 全部俺が勝手にやったことなんだから!」
 痛みを堪えてぶんぶん首を振る。責任を感じているらしい彼女にレイモンドは必死で訴えた。
「っつーかカロの注意を引きつけるために一人でウロウロするとか絶対やめてくれよ? んなことしたら傷が開こうが医者が止めようがあんたを追いかけていくからな!」
「いや、それはしない。カロはもうお前を敵と認めてしまった。もしあいつがここにやって来たとき私がいなければ、今度こそあいつはお前を殺してしまうだろう。さすがに私に手をかけた後までお前を狙うまい。だから……」
「こらこらこら!」
 もしやルディアにはあの告白が聞こえていなかったのだろうか。でなければこんな台詞が出てくるとは思えない。自分に彼女を見捨てられるわけないのに何故こうも聞き入れがたいことばかり言うのだろう。これはいけない。これは早々に何か対策を練らなくては。
「しばらくはコーストフォート市がロマの立ち入りを全面的に禁止するらしいから、街を出なければ安全なはずだ。お前の怪我が治るまで私もここでお前を守るし、何も心配することはない」
「そうじゃなくてさあ……!」
 と、そのとき、コンコンとドアをノックする音がした。「入りますねー」との声と同時、ディランが中に戻ってくる。続いて現れた男を見やってレイモンドは気まずさに眉をしかめた。
「あっ、レ、レイモンド……!」
 不眠不休で祈っていたのが即座に知れるやつれっぷりでイェンスが目を潤ませる。軍医が「もう玄関で悪霊除けの呪文を唱えていなくても大丈夫だと思いますよ」と告げると男はぺこぺこ頭を下げた。
「ありがとう、ありがとう。本当になんて礼を言えばいいか」
「ふふふ、どういたしまして」
「治療費はあんたの言い値で払わせてもらうよ。用意に少し手間取るかもしれないが……」
 ディランはにっこり微笑んで「お代の請求はまた後日。できれば私の頼み事を聞いていただく形でお願いしたいんですよね」と手を擦り合わせる。「頼み事? 今あんまり金がないからそれでいいならこっちも助かる」とイェンスは快諾した。
「わあ、とっても嬉しいです! 今後も息子さんの看病、誠心誠意頑張らせてもらいます!」
「ああ、任せたぜ」
 いい医者に巡り会えて良かったとイェンスは胸を撫で下ろす。どうもそちらを向いていられずレイモンドは顔を背けた。
 恩着せがましい。自分の治療費くらい自分の財布から出すというのに。
「……ところですまん、ちょっとこいつらと込み入った話があるんでしばらく席を外してもらえねーか?」
 意味ありげな言葉にぴくんと耳が跳ねた。軍医は上客に取り入る商人のように「ええ、構いませんよ」と二つ返事で了承する。
「ちょうど別室で用事を片付けようかと考えていたところです。どうぞお気の済むまで」
 ディランは頷き、ペットの鷹に「いい子にしていてくださいね」とウィンクを投げて退室した。その足音が上階に遠ざかるとイェンスはこちらに向き直る。
 なんの話をされるかは想像がついていた。この男はカロの昔馴染みであったらしいのだから。

「ブルーノ、お前がイーグレットを殺したというのは本当か?」

 虚を突かれ、ルディアがその場に凍りつく。どうやら彼女はカロとイェンスのやりとりを何も知らないままだったらしい。レイモンドが昏睡状態にあったとき、イェンスは祈祷を、ルディアはディランの手伝いを優先して二人で話す時間を持たなかったようだ。
「……カロがそう言っていた。あいつらは、カロとイーグレットは、若い頃、俺の船に乗ってたんだ」
 イェンスは自分がロマに退いてくれと頼んだこと、その際にカロから凶行の理由を訴えられたことを告げた。ルディアは「そうか……」と呟いて、うつむいたきり押し黙る。
(若い頃あいつの船に乗ってた、か)
 レイモンドはコリフォ島でイーグレットと交わした会話を振り返った。北辺に君と似た男がいる。イーグレットはそう言っていた。あのときはまさか本当に父親のことだなんて思わなかったが。
「…………」
 長く重い沈黙の末、イェンスは再度切り出した。
「事と次第じゃうちの船員の反感まで買いかねない。俺自身イーグレットには世話になったし恩がある。何がどうなってそうなったのか聞かせてほしい」
 カロの話に間違いはないのかと念を押される。誤魔化せないと悟ったのか、ルディアは静かに顔を上げた。
「……ああそうだ、陛下に手を下したのは私だ。一人で決めて、一人で実行に移した。報いを受けるべきなのは私だけで、何も知らなかったレイモンドに非はない」
 きっぱりと言いきる彼女に怒りが湧く。堪らずに「あんただって悪いことはしてねーだろ!?」と叫んだ。
「生きたまま捕まったら何されるかわかんなかった陛下を、せめて王族らしく死なせようとした結果じゃねーか! あんたの気持ちもあの人の気持ちも知らねーで、逆恨みしてんのはカロのほうだよ!」
 あまり大きな声を出したので腹に響いて身をよじる。息を詰めたレイモンドにルディアとイェンスが両側から「大丈夫か?」と呼びかけた。
「……っ、頼むから自分は死ぬべきだなんて考えるなよ……! でなきゃ俺、なんのために……っ!」
 最後まで言葉にできずに歯を食いしばる。落ち着けとなだめられ、ベッドに寝かしつけられた。
 ルディアと自分の言い分が異なることは理解してくれたらしく、イェンスは難しい顔で腕を組む。「実はもう一つ聞きたいことがある」と元々神官であった男は思いがけない疑念を投げかけた。
「お前は本物のブルーノ・ブルータスなのか?」
 空気が固まる。レイモンドもルディアも凍りついてしまい、何を言っているんだとはぐらかすことができなかった。狼狽を隠しきれないレイモンドたちにイェンスは更なる問いを重ねてくる。
「フサルクの入れ替わり蟲。お前の耳から出てきた生き物はそれだろう?」
 確信を持って問われ、たじろいだ。レイモンドは「フサルクの入れ替わり蟲?」と聞いたばかりの言葉を繰り返す。
 なんだそれは。まさか北辺にもアクアレイアと同じ蟲が棲んでいるというのか。
(し、知ってたからあんなにてきぱき脳蟲を身体に戻せたのか?)
 ごくりと息を飲み込んだ。答えあぐねてルディアも黙り込んでいる。
「大昔、まだフスの生きていた頃、北辺海の真ん中に浮かぶフサルク島にだけ存在した伝説の蟲だ。人や動物の骸にとりつき、記憶を保ったまま別の死体に乗り換えられる。……フスもそういう特別な命を持つ一人だった」
 フスって誰だとレイモンドは顔をしかめた。ルディアは知っているようで、「イェンスの守護霊らしい」と雑な説明をしてくれる。
「は、はあ? 守護霊?」
 余計混乱するレイモンドにイェンスは苦く笑ってかぶりを振った。「見せたくなかったんだけどな」とぼやきつつ、元神官はこちらの肩に触れてくる。
「こいつが『視える』ともう誰も俺を普通の人間と思ってくれなくなるからさ。……だけどそんなの、気にした俺が馬鹿だったんだよな」
 さっさとお前に呪いの怖さを教えてやれば良かったとイェンスは眉を歪めた。悔やむ言葉が終わるか終わらないかのうちに、レイモンドは視界に霧状の何かが漂っているのに気づく。半分透けた、刺青の入った男の右手。
「……っ!?」
「それがフスだよ。生贄になるはずだった俺を助けてくれた、大神殿の守り人だ」
 フスは握手でも求めるようにこちらに手を差し伸べてくる。とても応じる気になれず、布団の奥に腕を引っ込めた。ルディアを仰げば首を振られる。どうやら手品の類ではないらしい。
「……フスの時代にはまだ古い神々が生きていた。北辺人がこぞってパトリアの精霊たちに加護を求めるようになったのは、ルスカ神の力もカーモス神の力も衰える一方だからさ。俺たちの神様は死んで悪霊になって久しい。その力が正しく働いていた頃は、フサルク島には色とりどりの髪と目をした人間が溢れ、神殿にもたくさんの蟲が仕えてたっていう話だ」
 イェンス曰く、入れ替わり蟲が一斉に死滅し、赤子という赤子が金髪碧眼で生まれてくるようになった頃、ルスカ族とカーモス族も争い始めたのだそうだ。凍れる大地で生き延びるために、昼神の恩寵を求めるか、夜神を畏れ敬うか、真っ二つに意見が割れて。
「何故お前が失われた神々の力の一片を宿している? 一体お前が何者なのか、カロやイーグレットと何があったのか、本当のことを話してくれないか?」
 真剣な声で乞われ、ルディアはレイモンドと目を見合わせた。部外者に正体を教えられるはずがない。そのはずなのに何故か彼女は迷いを見せる。理由はただちに明らかになった。
「正直に打ち明けてくれねーと俺たちは、いや、皆はきっとお前らを許さない。ただでさえレイモンドは借金の件で恨まれてんだ。下手すりゃスヴァンテたちがここに殴り込みに来かねない。いざっていうときに俺が皆を説得できなきゃレイモンドは……。だから頼む、教えてくれ。カロのことも、イーグレットのことも、皆のことも大事だけど、それでも俺が一番に守りたいのはこの子なんだよ……!」
 懇願に目を瞠る。我が子のためにと必死な男の。
 胸の底から声が聞こえた。それで点数を稼いだつもりかという意地悪い声が。動揺を抑え、レイモンドは冷たい声にしがみつく。こんなことで、これくらいで、ほだされて堪るかと。
「……私はルディア・ドムス・レーギア・アクアレイアだった者だ……」
 ぽつりと落ちた呟きに驚いて顔を上げた。過去形で名乗った彼女は「今までのこと、私が生まれ落ちてからの全て、あなたにお話ししよう」と理解不可能なことを言いだす。
「な、何言っ……」
「お前を巻き添えにするわけにいかないからな。この診療所を動けない以上、イェンスには味方になってもらうべきだ」
「けどそれじゃ、あんたが弱みを晒すことに」
「ああ、しかしこれも運命かもしれない。今ここで、あの人のことだけでなく脳蟲のことまで知る人間に出会うなど」
 彼女はまるで懺悔する罪人のように項垂れた。けれどそれはほんの一瞬で、すぐにまた凛とした目をイェンスに向ける。
「逃げる気は毛頭ない。あの人の娘のふりをした罪は、命をもって償うつもりだ」
 レイモンドの制止を無視してルディアは長い話を始めた。長い、長い、数奇な縁で結ばれた、かりそめの親子の話を。




 ******




 妙だなとアルフレッドはセイラリア市の門前にたむろするロマの集団に目をくれた。昨日から急に黒い肌の者が増え、そろそろカロも戻る頃かと思ったのに、何故か彼の姿だけいつまで経っても見当たらない。追放令でも出されたのかというくらい付近一帯がロマで溢れ返っているにも関わらず、だ。
「おい」
 大樹に隠れてカロを探すアルフレッドに老ロマが声をかけてくる。振り向けばジェレムが眉間のしわを濃くして立っていた。彼には情報収集を頼んでいたのだが、何やら思わしくない事態になっているようだ。
「コーストフォートで刃傷沙汰があったんだと。ロマの仕業とかどうとかで、荷運びしてた連中は全員解雇されたみたいだ」
「えっ!?」
 想定外の展開にアルフレッドは泡を食う。解雇されたということは、こちらに戻ってくる保証がなくなったということではないか。ようやく顔を見て話ができると思っていたのに。
「待っていても無駄かもしれん。今ならまだ街道のどこかですれ違えると思う」
 ジェレムが「とっとと出発するぞ」と告げるとトゥーネもフェイヤもサッと荷物を背負い直した。
「大丈夫、きっと遠くにゃ行ってないよ」
「アルフレッド、渡さなきゃいけない手紙は持った?」
 女たちは芽生えた不安を蹴散らすように肩や太腿を叩いてくる。
「あ、ああ。そうだな、急いでコーストフォートに向かおう」
 とにかく近くまで来ているのは確かなのだ。アルフレッドは気を取り直し、自分の荷物を肩に担いだ。会えなければまた探せばいい。考えるべきことは、できるだけ早く陛下の言葉をカロに伝え、復讐を思い留まらせることである。
 ロマ宛の手紙には何が書いてあるのかほとんど読み取れなかった。だが王女宛の手紙を読めば、悪いことが書かれていないのはわかる。カロにルディアを殺めさせるようなことがあってはならない。主君を守るのは騎士の務めだ。
「コーストフォートまで急げば三日だ。しっかりついてこいよ」
 ジェレムの言葉にフェイヤたちが頷いた。早足で歩き出した老ロマに続き、アルフレッドも森を抜ける街道を進み始める。
 間に合うように今できることをやるしかなかった。カロの怒りがルディアを傷つける前に。第二の悲劇が起きる前に。




 ******




 まったくあのクソ北辺人、一つ難題を解決したと思ったら、また新しい難題を持ち込んでくれて。さすがは世に知れた災厄の申し子だ。さっさとコーストフォートを出て、時代遅れのコグ船ごと海に沈んでしまえばいいのに。
 アミクス商館事務室でウンベルトは盛大に嘆息した。解雇したロマの代わりの労働力をどう確保したものか、ううんと頭を悩ませる。
(夏の稼ぎどきに迷惑な。くそ、そんなに我々の足を引っ張りたいのか?)
 普通の傷害事件なら、一週間もすれば次の犯罪や季節の行事に市民の関心も移っていく。だが下手にイェンスが絡んでいるせいで街に広がった動揺は簡単には消えてくれそうになかった。本当に厄介な男だ。せめて早期にロマを雇い直せるように市民を安心させてやれればいいのだが。
(聞くところ、通り魔的な犯行ではなさそうだし、善良な一般人には無関係な話とわかれば皆も落ち着きを取り戻すと思うのだが……)
 はあ、とまた嘆息する。憶測が憶測を呼び、飛び交う噂はすっかり支離滅裂なものになりはてていた。セイラリア近郊で人面獣を見たという怪談まで入り混じり、例のロマは狼人間に違いないと吹聴する阿呆まで現れる始末である。これでは収拾がつくはずない。
(一体どう対処していくべきか……)
 コンコンと扉がノックされたのはそのときだった。「あのー、ウンベルト様、パーキン・ゴールドワーカーが来てますが……」という部下の声にウンベルトは額を押さえた。頭痛の種というやつはどうして足並みを揃えてやって来るのだろう。こんなときくらい大人しく引っ込んでいてくれればいいのに。
「金の無心なら今は帰れと言っておけ。あの男にはつい一週間前に五千レグネ貸してやったところだ」
「いや、その、どうもその五千レグネを返しにきたらしいんです」
「――は?」
 この世で起こるはずのない現象を耳にしてウンベルトは声を裏返した。五千レグネを返しにきた? パーキンが? あのパーキンがか?
「いやいや、いくら少額とはいえそれはなかろう。だってパーキンだぞ?」
「でも確かに金袋を担いでますよ。五千レグネ以上入ってそうな……」
 ウンベルトにも信じがたかったが、報告する部下のほうも自分の見たものに半信半疑の様子だった。ごくりと唾を飲み込んで「ま、まあ、一応通してやれ」と命じる。
「あんまりです、ウンベルト様! 『だってパーキンだぞ』ってどういう意味ですか!」
 部下のすぐ横にいたらしい金細工師は、許可が与えられるや否や絨毯の上を滑って事務室に飛び込んできた。半泣きでこちらを責めるパーキンを見やってウンベルトは驚きすくみ上がる。
「うわっ、本当に金袋を持ってきている。どうしたんだこれは? 空き巣か? 営利誘拐か?」
「違いますよ! 逆にそんだけ返ってくるはずないと思っててよくまだ俺に金貸してくれましたね!?」
「私は君の人格以外、とりわけアイデアと行動力については高く評価しているからね。それに今度貸したのはアミクスの金じゃなく私の金だ。なら暴れ馬がどこへ行くのか見守るのも一興じゃないか。それで返済にきたということは、五千レグネあれば面白いことができると言っていた件が形になったわけだな?」
「へへへ、仰る通りです! 儲けが出たら更に一割お渡しするって約束でしたけど、二割でも困らないくらいキてますよ! 少なくとも『印刷機などなんの役に立つんだね。手書きのほうが温かみもあるし、同じものが二つとないから価値も高い』とかほざいて俺らをコケにした他のアミクス幹部たちに量産の力を思い知らせてやれるはずですぜ!」
 ほう、とウンベルトは腕を組み直す。もはやこの男にアミクスが巨額の投資をすることはなかろうが、老害どもにひと泡吹かせてやるのは悪くない。
「何をしたのか詳しく説明してもらおうじゃないか」
「これです、これ。こいつを港と市民広場で売りさばいてるとこなんです!」
 パーキンは金袋を床に放り、用務机に八つ切りの亜麻紙を広げた。
「おお、おお!」
 願ってもない印刷物の登場にウンベルトは感嘆の声を上げる。
 このろくでなしもたまにはいい仕事をするではないか。これが出回ってくれれば市にとってありがたいことこのうえない。事件に関わっていないロマへの警戒もやわらぐだろう。
 喜びを露わにするウンベルトにパーキンはどうだと大きく胸を張った。
「こいつが歴史に新たなる一歩を刻む『ゴールドワーカー・タイムス』第一号ですよ!」




 ******




 洗いざらいルディアが話し終えた後の、イェンスの表情は芳しくなかった。「やっぱりスヴァンテたちはカロに同調すると思う」と渋面で彼は呟く。
「王に相応しい死に方とか言われても、あいつら多分わかんねーよ。俺も半分理解できてない。イーグレットが納得ずくだったってことはわかるが」
 示された難色にルディアはそうだなと頷いた。槍兵はなんで半分だけなんだよという顔で父親を睨みつける。
「でもきっと、わからないのは俺たちがアクアレイア人じゃないからだろう。イーグレットの考え方は同じ船で暮らしてた頃から俺らにゃ馴染みの薄いモンだったし、理解できなくて当然だ。あいつが死を受け入れてたっつーなら他人が文句つけることじゃない。……スヴァンテたちは北辺人の考え方でお前らを裁くだろうけどな」
 蛮族めいた風貌とは裏腹に、イェンスは案外客観的に物を見る。理解はできないが尊重はすると言ってくれているように聞こえた。おそらくはルディアを庇うレイモンドのために違いあるまいが。
「……カロが怒っている理由はそれだけではないだろう。あいつは私があの人を裏切って、娘ではなくただのアクアレイア人に成り下がったのが許せないんだ。たとえ陛下が納得ずくであったとしても、王国政府が民衆を生かすためにあの人を犠牲にしたのは事実なのだから」
「…………」
 呟きにイェンスは沈黙を返す。「とりあえず」と頭を掻いて彼は当面の方針を告げた。
「今のところ、お前らを襲ったのがカロだってスヴァンテたちにバレないようにするのが最善策だと思う。ずっと黙ってるってわけにはいかねーが、せめてレイモンドの傷が良くなるまでは」
 息子を案じるイェンスに「ああ、それがいい」と同意する。不誠実かもしれないが、熱くなって向かってこられても対処できない。これ以上レイモンドを危険な目に遭わせたくなかった。その一点に関しては、ルディアとイェンスの意見は一致していた。
「俺さえ口を滑らさなきゃ、まさかカロとお前らが揉めてるなんて夢にも思わねーはずだ。お前の正体についてもしばらくは俺の胸に留めておく」
「礼を言う。ありがとう」
 冷静な対応に感謝を述べる。ずっと唇を尖らせている槍兵も、余計な情報は与えないという方策にケチはつけなかった。
「俺は一旦コグ船に戻るよ。あいつらにも適当に状況説明はしとかなきゃだしな」
「わかった。玄関まで見送ろう」
 寝台脇の丸椅子から立ち上がり、イェンスが廊下に向かう。ルディアも彼の後に続いた。
「じゃあまた、終わったらすぐ見舞いに来るから」
 扉を開いて別れの挨拶をする父親にレイモンドはうんともすんとも返さない。はは、と苦笑いをこぼしてイェンスは病室を出た。そのまま彼はとぼとぼ階段を下り始める。ルディアは近くにディランがうろついていないのを確認するとそっと元神官に問いかけた。
「……なあ、フスはどれくらい脳蟲のことを知っているんだ?」
 肩越しにこちらを見やり、イェンスがきょとんと瞬く。
「俺にフサルク島の昔話をしてくれたのはフスだから、俺より詳しいのは確かだが。どうしたんだ? 何か知りたいことでもあるのか?」
「いや、知りたいことと言うか、その」
「正直こいつは賢すぎてな。俺にはしょっちゅう何言ってるんだかわからなくなるんだよ。フスはフスで俺に合わせて説明を減らす癖があるし、どれくらい知ってるかって言われても言葉にしようがないっつーか」
「そ、そうなのか」
「ああ、だからもうちょっと具体的に聞いてくれると助かる。入れ替わり蟲の何について知りたいんだ?」
 率直な問いにルディアはたじろいだ。――脳蟲はどの程度巣を守ろうとする本能に支配されている? 尋ねたいことははっきりしているのに、どうしても口にできなくて。
「…………アイリーンだったっけ? 脳蟲の研究者。神のしもべで実験なんてよくやるぜ。同じ生き物みてーなのに、こっちとアクアレイアじゃ随分扱いに差があるんだな。こいつはなんでか面白そうにしてっけど」
 イェンスはちらりと右肩に目をやった。守護霊の漂っていそうな辺りに自分も視線を向けてみたが、イェンスに触れていない今は何も見えない。
「……何者なんだ? その男は。脳蟲は死ぬと幽霊になるのか?」
 短い静寂が訪れる。フスが答えてくれているらしく、元神官は宙に書かれた透明な文字を読むように何度か首を動かした。
「『私は幽霊ではないよ。私は方舟の残骸だ。普通の蟲は死んでもこんな風にはならない』――だとさ」
 方舟(アーク)ってのは俺のいた大神殿のご神体だとイェンスが補足する。しかしそれを聞いてもフスがどういう存在なのかはいまいち掴みきれなかった。幽霊ではないとの言葉も、ならば幽霊にしか見えないその姿はなんなのだと新たな疑問を呼び起こす。
「それだけか? 聞きたいことは」
「…………」
 逡巡ののち、ルディアは「ああ」と話を終わらせた。仮にフスが「蟲だって四六時中守るべき巣に気を取られているわけではない。お前はちゃんと父親を思って行動していた」と言ってくれても自分が納得できそうになかった。慰めが欲しいわけでも安心したいわけでもない。であれば聞かないほうがましだ。
 階段を下りきると診察室兼応接間につく。ディランはまだ上で作業中なのかここには姿が見えなかった。戸口にはイェンスが祈祷に用いた呪符やら香やらが散らかったままになっている。「まじないをいじるなよ」と警告しもって彼は診療所の玄関を開いた。
 バサバサと乾いた音を響かせて、何かが風に飛ばされてきたのはそのときだ。ガササッと扉に引っかかったそれを見てルディアは「は?」と目を剥いた。

 ――白昼の惨劇! 容疑者は邪眼のロマ! コーストフォート市議会は警戒強める!

 飛び込んできた文字列を二度見する。パトリア語に長けたイェンスも「な、なんだこれ?」と大判の亜麻紙を手に顔をしかめた。
「『八月十日午後三時半過ぎ、金細工師パーキン・ゴールドワーカー氏の工房で二人の若者がロマの襲撃を受けた。一人はブルーノ・ブルータス、もう一人はレイモンド・オルブライト、どちらもコーストフォート市にやって来たばかりのアクアレイア人だ』……!?」
「わ、私にも読ませてくれ」
 ひったくるように亜麻紙を奪い、何が書かれているのか確かめる。どこかで見た筆跡の、否、どこかで見たフォントの書面に眩暈がした。この整然とした文字の並び、計ったように等しい行間、とどめは左上に印字された『ゴールドワーカー・タイムス』の名前である。どこの疫病神の仕業かはひと目で知れた。その内容は無駄に充実しており、事件現場、被害者の略歴、立ち去ったロマの特徴まで完璧に網羅されている。イェンスがこのオッドアイの男をカロという名で呼んだこと、カロと二人のアクアレイア人には浅からぬ因縁があることも仄めかされており、読んでいて卒倒しそうになった。何故よりによってそこを記載してしまうのだ、あの災厄モミアゲ男は。
「イ……イェンス、工房の持ち主に事情を話したか?」
「あ、ああ。またあの地下倉庫にカロが来たらまずいと思って。左右で目の色の違うロマが来たら俺に知らせてほしいって……。えっ? もしかしてこれ、あのパーキンとかいう奴が書いた!?」
 これはまずい。完全にまずい。ルディアは己の手落ちを悔いた。なんてことだ。こんな形であの馬鹿に足元をすくわれる羽目になるとは。
「あいつの作った印刷機は同じものを何度でも何枚でも刷れるんだ。これ一枚とは到底思えん。ひょっとしたら既に街中に、下手をすれば港にまで出回ってしまっているかも……」
「ええっ!? そ、そんなのスヴァンテたちが見てたらやばいじゃねーか!」
 さっとイェンスが青ざめる。くらくらする額を押さえ、ルディアはともかく今すぐするべきことを告げた。
「私が工房に行ってくるから、そっちは船を頼む!」
 返事も待たず、一も二もなく走り出す。
 本当になんなのだあの男は。どんな凶星の下に生まれたら、ここまで事態を引っ掻き回すことができるのだ。




 ******




 さあ刷れ、やれ刷れ、どんどん刷れ。刷ったら干してインクを乾かせ!
「うわははは、あっと言う間に二百部全部はけちまった! おいネッド、俺のアレキサンダー三号はすげえだろ!」
「はい、親方! 街の皆さん夢中で読んでくれて嬉しいっす!」
 印字したての新聞を一枚ずつ台に並べ、パーキンはくるくる踊る。大ネジを回してプレスをかける一番弟子に「今のが終わったら次はインクの補充だぞ!」と声がけすると、ネッドは「うっす!」と力こぶを盛り上げた。
 疲れ知らずのこの青年は一人で十人分も働く。おまけに筋骨隆々で力仕事もなんのそのだ。おかげで『ゴールドワーカー・タイムス』の増刷は順調に完了に向かっていた。この調子なら夕刻にはまた販売を再開できそうだ。
 まったく笑いが止まらない。これほど大きな反響があるなんて! センセーショナルな事件を起こしてくれて、本当にロマ様々だ!
「おい! パーキンはいるか!?」
 と、ギッコンギッコン騒音轟く地下工房に怒鳴り込みの声が響いた。入口に目をやれば鬼の形相のブルーノに睨まれる。うわ、まずいと焦るパーキンの横で徒弟が「あっ、どうもこんにちは!」と行儀よく挨拶した。それを無視して青髪の剣士はアレキサンダー三号のもとに直行し、今さっき取り出したばかりの組版を豪快に引っ繰り返す。
「ああっ!? まだ印刷残ってたのになんてことするんだよ!?」
「やかましい、口答えするな! こういうことはまず我々に承認を求めるものだろうが!」
 ブルーノは脇に挟んでいた新聞を大きく広げて怒鳴りつけた。ずっと診療所にこもっているくせにもう気づきやがってと陰で舌打ちする。
「ええ!? 親方、草稿は見せて売り出し許可を得てるって言ってたじゃないっすか! あれは嘘だったんっすか!?」
 散らばった文字型を拾いながらネッドも非難の声を上げた。二対一では分が悪い。ここはなんとか上手いこと言い訳しなければ。
「きょ、許可なら取ったと思うけどなあ。レイモンドの容態が悪くてバタバタしてたし、そっちが覚えてねえってだけじゃねえのか?」
 そうだよそう、と押し切ろうとしたが「そんなわけあるか!」と一蹴される。ブルーノは良心に訴えても無駄と悟っているようで、ストレートに力で脅してきた。眼前にレイピアの切っ先を突きつけられ、パーキンはヒッと息を飲む。
「勝手なことをされては困るんだ。出資者を紹介してほしければ大人しくしていろ! わかったら二度とこんなものをバラまくな!」
「うわわッ! は、はい! わかりました、すぐやめます!」
 こくこく頷くとブルーノは鼻息荒く刃を収める。工房内をひと睨みし、剣士は生乾きの新聞を根こそぎ抱えて階段に向かった。
「あっあっ……!」
「お前が面白おかしく書き立てている男は笑って済ませてくれる相手ではない。くれぐれも『大々的に流通させなければ大丈夫』などと考えるなよ?」
 去り際まで一度も表情を緩めることなく鬼神は倉庫を出ていった。バタンと激しく扉が閉まる。カツカツと響く足音もまるで嵐か雷だ。
「っおおこえええ。フフ、だがどうやらツキはまだこっちにあるな」
 パーキンは額の汗を拭い、ドアの隙間から誰もいなくなった階段を見上げた。剣に怯えて震え上がっている一番弟子を振り返り、「急いで組版やり直すぞ」と指示を飛ばす。
「へっへっへ、あいつ白紙の亜麻紙を残していきやがった。これさえありゃあこっちのもんよ」
「お、親方!? 駄目っすよ、大人しくしてろって言われたばっかりじゃないっすか!」
 狼狽するネッドにパーキンはちっちっと指を振る。
「さっきまで刷ってた記事は諦める。だけど俺は、新しい記事を書かないとは言ってねえからなあ」
「ええー!? そ、それって屁理屈じゃ……」
「屁理屈でもなんでも我を通したほうが勝つんだよ! 三日後を目標に第二号の発行準備進めるぞ! 俺が原稿作るから、お前はその辺で聞き込みでもしてネタを集めてこい!」
「え、ええーっ!?」
 ためらう徒弟の尻を蹴り、街に送り出す。第二弾も三百部は見込めそうだなとパーキンはほくそ笑んだ。
 でかい出資額を得るには相応の実績が必要だろう。これまでは先見の明ある者に展望を語るしかなかったが、これからは違う。コーストフォートの話題をさらった『ゴールドワーカー・タイムス』を存分にアピールすることができるのだ。うわははは、うわははははは。




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「なあ、なんだこれ?」
 コグ船に戻ったイェンスを待っていたのは冷めた目つきのスヴァンテと、物言いたげな仲間たちだった。副船長の手にはさっき見たのと同じ大判の亜麻紙が握られている。どうやら全員回し読みは済んだ後らしい。
「あの二人を襲ったのがカロだったっていうのは本当か? ここに書いてある『浅からぬ因縁』ってのはなんのことだ?」
 問われてイェンスは口ごもる。誰か冷静な人間はいないか船上を見回すが、イーグレットの死とレイモンドたちの関わりを知ってなお声を荒げずにいられそうな者はいなかった。先に質問攻めに遭っていたらしいオリヤンもげっそりした表情で「早く皆に説明してやってくれ」とせがんでくる。
「言いたくなきゃそれでもいいぜ? 直接あいつらに聞かせてもらうだけだしな。まあ俺らの知ってるあのカロなら、よっぽどの理由がない限り人を殺そうなんてしないはずだが」
 スヴァンテの中ではどちらが悪いかもう決まっているようだった。他の皆も示す態度は似たり寄ったりで、孤立無援を思い知らされる。
「で? お前から俺らに話すことは何もねえのかよ、イェンス?」
 刺々しい声と視線にイェンスは小さく嘆息した。取り繕っても、ありのまま事実を伝えても、レイモンドへの反発は抑え込めそうにない。誰にも懐かず、親の金で宝石を買い占め、アミクスに航行許可証を奪わせた挙句、老後資金にまで手をつけた。そのうえ昔の仲間と揉めているとあってはいくら擁護の言葉を重ねても無意味である。愛する我が子を守るために、取れる方法はただ一つだけだった。
「……話はする。ただし俺じゃなくてフスが」
 イェンスがそう告げた途端、甲板の空気は一変した。スヴァンテが息を飲み、オリヤンは瞠目し、老いた船員たちは動じて後ずさりする。
 無理もない。長い船上生活で、祭司の導きを求めるほどの危機は稀有だった。最近は特に安定していたし、数年単位でフスの姿を見ていない者もあるだろう。できるならこのまま一生見ないでいたかったはずだ。そうすれば彼との約束が破られる心配もないのだから。
「なっ……、イェンスお前、フスに話をさせるって……」
 冗談だろうとスヴァンテが頬を引きつらせる。血の気の引いている副船長にイェンスは「俺は本気だ」と語気を強めた。
「皆でフスの啓示を仰ぐ。それに従えねーって奴は今日で船を降りてもらう」
 ごくりと皆の喉が鳴る。やれやれと言いたげな祭司の右手に「頼んだぞ」と目配せした。
(俺だって本当はこんなやり方したくねーんだよ)
 元生贄なのも呪われているのも忘れて陽気に過ごしていたい。仲間にも思い出さずにいてほしい。だけど――。
(しょうがねーよな。あの子のために、他にできることねーんだから)
 拳を固め、イェンスは船員たちに輪になって座るように命じた。戸惑いつつも皆指示された通りに腰を下ろす。イェンスは右にスヴァンテ、左にオリヤンを座らせて、自身も甲板にあぐらをかいた。
 全員一斉に手を繋ぐ。全員でフスを『視る』ために。
 ほとんどの者が青ざめていた。ルスカ族の掟を破り、ルスカ神に見放された彼らにとって、フスは唯一すがることのできる存在だから。
 皆怖いのだ。真に神なき民となってしまうのが。イェンスと同じところまで堕ちるのが。
「……『初めに言っておく。カロの一件に関して、武器を取ること、拳を振りかざすことを私は認めない』」
 透けた右手が宙に綴る文章を読み上げる。スヴァンテたちは「そんな」「どうして」とざわついた。
「『今はそれを教えるべきときではない。だがいずれ明かせる日が来るだろう。しばし待て。お前たちが私の言いつけを守るなら、私は最初の約束通り、お前たちの死後その魂を神々のもとへ導こう。けれどお前たちが私の言葉を蔑ろにするのであれば――』」
 最後まで声にせずとも皆に逆らう意思などないのは明らかだった。船員たちは頭を垂れ、固く唇を閉ざしている。思わぬ方面から浴びせられた冷や水に、ともかく興奮は冷めたようだ。カロを探して加勢しようとかレイモンドを締め上げて吐かせようとか言い出しそうな雰囲気はなくなっていた。
「…………」
 両隣から手を離す前に皆の顔を一瞥する。やっぱりこうなっちまうよなあとイェンスは肩をすくめた。
 不満とか、憤りとか、疑いとか、禍根を残しそうな感情はない。皆ただ圧倒されていた。イェンスがどういう人間か、思い出して小さくなっていた。
 カーモス族を討伐するべく初めて仲間が船に集められたときも、これと同じ光景を見たなと思い返す。あの日もフスは自分に力を貸してくれた。皆が結束できるように手伝ってくれた。もしフスがいなければどうなっていたかわからない。わからないけれど。
(……久々だな、この腹の真ん中が冷える感じ)
 生贄を降りたために受けることになった幾重もの呪い。その不幸の最たるは、世界のどこを探しても同じ苦しみを抱く人間がいないということかもしれない。
 イェンスは朱に染まり出した空を見上げた。レイモンドさえ守ってやれればそれでいい。そう胸中に繰り返しながら。




 ******




 くああと大きくあくびして、レイモンドは読み飽きた新聞をベッドの片隅に追いやった。目を覚まして今日で三日目。懸念していたスヴァンテたちの押しかけもなく、時間は至って平穏に流れている。
 入院生活をひと言で表すなら退屈だった。激怒したルディアが持って帰ってきた『ゴールドワーカー・タイムス』はもう何十回読み直したかわからない。熱っぽいのもまだ引かないし、はっきり言って寝るしかなかった。瞼を閉じるとあれこれと考えすぎて嫌なのだが。
(なーんかあいつ、最近元気ないよなあ……)
 覇気に欠けたイェンスの笑い顔が脳裏によぎって眉をしかめる。今日はまだ見舞いにも来ていないし、やはり船でひと騒動あったのだろうか。フスが皆を静めてくれたから大丈夫、とは言っていたけれど。
(あのフスってなんなんだろ。幽霊にしか見えねーのに、自分は幽霊じゃないとか言うし)
 あんなものが実在するということは、呪いの話も祈りの力も本物ということなのだろうか。それともカロに出くわしたのがお守りを捨てた直後だったからそんな気がしてしまうだけか。
「…………」
 しばし考え込んだのち、レイモンドはやめやめと首を振った。確かなのは己のこの目で見たものだけだ。フスの存在は認めるとしても他のことまで信じるには値しない。大体祈ってなんとかなるならイーグレットは助かっていたし、己とてもっと信心深い男になっていただろう。波の乙女アンディーンは「国籍を得るために五十万ウェルス欲しい」というレイモンドの願いを耳にも入れてくれなかったのだ。万策尽きて精霊にすがるしかなかったのに、見捨てられたことはまだ忘れていない。
(まああのときは、俺がアクアレイア人じゃなかったから加護の対象外だったのかもしんねーけど……)
 いやいや、だから不確実な事象に振り回されるのは良くないってばと思考を散らす。さっさと眠ってしまおうとレイモンドは頭から薄い掛け布を被った。
 階段を昇る足音が響いてきたのはそのときだ。浮かれた足取りでそれは病室に近づいた。
「ちょっと、これを見てください! ほら、ほらここ! 私のことが書かれていますよ!」
 テンション高くドアを開けたのは薔薇色の頬をしたディランだ。軍医は新聞らしきものを掲げて中央を指差している。「え!?」と閉じた目を開き、そろりそろりと半身を起こしてレイモンドは持ち込まれた亜麻紙に目をやった。
「『なんとも物好きな余所者ドクターがイェンスの息子を下宿兼診療所に入院させている。周辺住民は恐れをなして親類縁者の家に避難中だ』…………」
 どう見ても『ゴールドワーカー・タイムス』の第二号である。あいつ微塵も反省してないなとレイモンドは口角を引きつらせた。読み込んでみればカロが荷運び人夫として働いていたこと、独白の多い危険人物として有名だったことなどが前回より詳しく記述されている。診療所に関しても、住所や医師の名前こそ明記されていないものの、特定は容易そうだった。
「私、他人を題材に詩を書くことはよくありますが、自分が題材にされるのは初めてです! あはっ! この新聞、記念に残しておかなくては!」
「喜んでる場合かよ……」
「それもそうです! ブルーノさんにも大急ぎで自慢してきますね!」
 記念日に美しい花束を貰った少女のように『ゴールドワーカー・タイムス』を抱きしめて、ディランは屋上で包帯を干すルディアのもとに跳ねていった。数十秒後、金細工師の名を叫ぶ声と、診療所を飛び出す足音が響き渡ったのは言うまでもない。




 ******




 向かいから来る荷運びの列が騒々しいのに気づいたのはコーストフォートの街並みが丘の裾野に見え始めた頃だった。
「おーい、誰か字の読める奴はいないかー」
 そんな呼びかけを耳にしてアルフレッドは頭を上げる。するとやや前方に、大きな亜麻紙を手にした若いパトリア人が見えた。
「この新聞ってのにこないだの、例のロマの事件について書いてあるらしいんだがよー」
 ぴくりと耳を跳ねさせてジェレムと顔を見合わせる。例のロマの事件と聞き、うっすら嫌な予感がした。
 街道もそろそろ終わりが近いのに、アルフレッドたちは依然カロに出会えていなかった。最初はたくさんいたロマも、一日、二日と経つにつれ数が減り、三日目の今朝はただの一人ともすれ違っていない。もしかしてカロはなんらかの形で事件に巻き込まれたのではないか。そう懸念していたところだったのだ。
 ジェレムたちが道端に立ち止まると、アルフレッドは手伝いを求める人夫のもとに駆け寄った。「貸してくれ。俺が読もう」と申し出る。
「おっ!? あんた傭兵かい? こいつはありがてえ」
 差し出された新聞とやらは二枚あった。一枚目には今日の日付、二枚目には三日前の日付が記入されている。どちらも多数の人間の手を渡ってきたようで、かなりしわくちゃになっていた。アルフレッドは丁寧に亜麻紙を伸ばし、初めから音読し始めた。
「『白昼の惨劇! 容疑者は邪眼のロマ!』――じゃ、邪眼のロマ!?」
 一行読んだだけでカロが関係したのが知れる。びっしり文字の書き込まれた亜麻紙を読み進め、アルフレッドは更に驚愕した。
「『八月十日午後三時半過ぎ、金細工師パーキン・ゴールドワーカー氏の工房で二人の若者がロマの襲撃を受けた。一人はブルーノ・ブルータス、もう一人はレイモンド・オルブライト』……!?」
(ひ、姫様! レイモンド!)
 どうやらこちらの心配は杞憂で済まなかったらしい。まさか被害者が主君と友人で、カロが事件を起こした張本人だったとは。なんてことだ。こうなる前に自分が止めねばならなかったのに。
「なあ、他には何が書いてあんだ? そのアクアレイア人たちは確か助かったんだよな?」
「あ、ああ。治療を受けて快方に向かっていると書かれている」
 仕事を放って周囲に群がる荷運びたちにアルフレッドは動揺を消しきれないまま続けた。
「『邪眼のロマは無差別に市民を狙ったわけではなく、この二人と浅からぬ因縁があるらしい。レイモンド・オルブライトの父にして北辺海の呪われし化け物イェンスは、黄金の右眼を持つロマをカロと呼び、再度の襲撃があるかもしれないことを告げた。とはいえ我らがコーストフォート市は既にあらゆるロマを街から追放済みである。この措置が続く限り、凶悪犯に都市再来は叶わぬものと思われる』……」
 いつの間にやらジェレムたちもしれっと人だかりに紛れ、新聞を読み上げるアルフレッドの声に聞き入っていた。一枚目を読み終わり、二枚目も音読する。こちらには奇特な医者がレイモンドを自分の診療所に入院させたこと、荷運び人の証言したカロの人となり、現在市議会で話し合われている容疑者対策などが書かれていた。
「おお、兄ちゃんありがとよ! これでようやく安心して眠れるぜ。あのロマ別に俺らに呪いを撒き散らしに来たわけじゃねえんだな」
 若い人夫はほっと胸を撫で下ろし、折り畳んだ新聞を懐にしまいこむ。荷袋を担ぎ直して小走りに駆けていく彼の背を、まだどこか物足りなさそうな仲間たちが「おい、人相書きとか入ってなかったのかよ」と追いかけていった。
「…………」
 呆然と立ち尽くす。どう動くべきか決めかねて。
 足はすぐにも主君のもとへ参じようとしていた。重傷だという幼馴染も早く見舞ってやりたかった。――だが。
「……この辺は山も低いし森もそう深くねえ。隠れるところなんて限られてる。もし自警団に山狩りなんかされたらまずいぞ」
 ジェレムの舌打ちに振り返る。老ロマはアルフレッドの腕を掴み、「こっちだ」と街道を逸れて歩き出した。
 もたもたしていたら機を逸する可能性が高い。先にルディアの無事を確かめたい気持ちを振り払い、アルフレッドは老人に従った。ジェレムはカロの居所に心当たりがあるらしく、迷いもせず夏草茂る野山へと分け入っていく。
「殺しそこねた相手をもう一度狙う気ならそう街から離れないだろう。ロマが野営しそうな場所なら見当がつく。十中八九そこにいる」
(殺しそこねた相手……)
 穏やかならぬ言葉にごくりと喉が鳴った。トゥーネたちも緊張に息を詰める。
 ジェレムはブナの森を突っ切ってずんずん進んだ。緑の奥から川のせせらぎが聞こえてくる。やがて視界は大きく開け、光を受けた水面が眩しく輝くのが見えた。慎ましい渓流に沿い、ジェレムは低い山を登り始める。
(ちゃんと話し合いできるんだろうか)
 砂利を踏みしめ歩きつつ、アルフレッドは黙考した。カロは実際にルディアやレイモンドを傷つけるほど激しい怒りに囚われているのだ。こちらにも刃を向けてこないとは言いきれなかった。
(もし手紙を渡した後も心を変えてくれなかったら……)
 想像してかぶりを振る。渓谷を吹き抜ける風にぶるりと身を震わせた。
 ジェレムの導く道はだんだんと険しく、歩きにくくなってくる。小さな滝を越えたところで足場はいよいよ悪くなった。
 大岩をぐるりと迂回し、繁茂する草むらを跨ごうとしてアルフレッドはふと立ち止まる。そこに自分たちのものとは違う足跡を見つけて。
「……これは……」
 傍らの老ロマも足を止め、道なき道に刻まれたそれを凝視した。真新しい、大人一人分の足跡。よくよく見れば足跡はほぼまっすぐに、岸辺の茂みの奥のほうへと続いている。
 カロがこの近くにいる。確信に心臓が跳ねた。
「……よし、行こう。なんとしてもこれ以上の報復行為はやめさせないと」
 アルフレッドは意を決し、草むらを歩き出した。だがすぐに誰もついてきていないのに気づいて振り返る。
 見れば女たちは老ロマの足止めを受けていた。痩せぎすの腕に通せんぼされ、フェイヤとトゥーネが戸惑っている。「な、何やってるんだ?」と呼びかけるとジェレムは静かにアルフレッドに向き直り、真摯な眼差しで別れを告げた。
「俺たちが同行するのはここまでだ。カロのところへは一人で行け」
 えっと声を漏らしたのは己だけではなかった。フェイヤも驚いた顔で老人を見上げる。トゥーネのほうは、こうなるだろうと薄々勘付いていた様子だったが。
「な、なんで? どうして? 最後まで一緒に行こうよ。アルフレッド一人でなんて心配だよ」
 ジェレムの脇をすり抜けた少女がアルフレッドの足にぎゅっとしがみついてくる。老ロマは「駄目だ」と首を振り、その理由を言い聞かせた。
「俺たちが一緒だと、いざってときこいつの判断を鈍らせる。親子と呼べない親子でも、カロは血の繋がった息子だからな」
 老人の手がフェイヤを足から引き剥がし、トゥーネのほうへそっと押しやる。「もう少し進んだ先に洞穴があって、多分そこにいる」と彼はこちらに茂みの奥を指し示した。
「心得ているつもりだ。あいつがお前の説得に応じなければ、お前が剣を抜かなきゃならんということは」
「ジェ、ジェレム……」
「あいつがあいつの決めたことを譲らねえんなら、お前もお前の決めたことを貫けばいいさ。それは俺たちの口出しすべき問題じゃない。歌を伝えてほしいとは言ったが、あいつが聞く耳持たなきゃ忘れろ。どんな結果になっても俺はそいつをそのまま受け入れる」
「…………」
 カロと自分たちの間にどんないざこざがあったのか、アルフレッドは彼らに詳しく明かしていない。最初にカロのところへ連れていってくれないか頼んだとき、軽く説明した程度だ。だというのにジェレムは話が通じなかったときのことまで考えていてくれたらしい。
「……すまない……」
 頭を下げたアルフレッドに老ロマはふっと笑った。背中のリュートをこちらに差し出し、穏やかな口調で彼は続ける。
「こいつはお前に渡しておく。楽器がなけりゃドヘタクソな歌が伝わることになっちまうからな」
「はは……。けどいいよ、これはジェレムの商売道具だろ? 俺のリュートは俺がどこかで見繕うから」
「調律もできないくせに遠慮するな。それと困ったことがあればその辺のロマに言え。俺の名前を出せば手伝ってもらえるようにしておく」
「ちょ、ジェレム! 本当にそこまでしてくれなくていい。もしかしたら俺はカロと刃を交えるかもしれないのに」
 固辞は耳に入れてもらえなかった。「お前の剣を売り払っちまったせめてもの罪ほろぼしだ。リュートは買うか拾うかするから気にするな」と結局押しつけられてしまう。
「……アルフレッド、お前ならきっと上手くやれる。頑張れよ」
「じゃあな」と踵を返したジェレムに続き、トゥーネも控えめに手を振った。大人たちの後ろ姿を気にしつつ、フェイヤもこちらの手を握り、「死なないでね。また会いにきてね」と目を滲ませる。
 三人が渓谷を下っていくのを見送って、アルフレッドは唇を引き結んだ。
 どんな結果になってもそれをそのまま受け入れる。味方に戻れるなら味方として、敵になるなら敵として、まみえる覚悟をしなければ。
 冷たい風が吹いていた。夏の暑さをやわらげるありがたい涼風のはずなのに、どうしてか手が震える。




 ******




 ――いつかまた、君と一緒にこの空を眺めたいな。
 濃紺の天にたなびく極彩色のオーロラを瞳に映した彼が囁く。少し名残惜しそうに、けれど先の楽しみにうっすらと微笑んで。
 ああ、もう約束がないと当たり前に見ていた景色を隣で見ることもできないのか。そう考えて無性に寂しくなったのを覚えている。
 最後にオーロラを目にしたのはイーグレットが十九歳の冬だった。二十歳で王国を継ぐことになっていた彼は、翌年にはアクアレイアに戻っていなければならなかった。
 夢のような、なんのしがらみもなく側にいられた時代の終わりを予感して、漠然とした不安があったのは確かだ。それでもまだあの頃は「アクアレイアに帰っても離れ離れになるわけじゃない」「自分たちはいつまでも一番の友人だ」という希望を持てていた。だから自分も、疑いもなく彼にこう返せたのだ。
 ――ああ、いつかきっと二人でまた旅をしよう。イェンスたちのところまで。
 北の果ての岬で月とオーロラを見上げた。薄衣をまとう星々が美しく輝いていた。
 自分たちはいくつ約束して、その中のどれくらい守ることができたのだろう。
 イーグレットが国王になっても側にいる。あの抜け道を使って会いにいく。そんな簡単なことさえ続けられなかった。
 なあ、だけど俺は、ただの一日だってお前を忘れたことなどなかったんだ。なかったんだよ、イーグレット。

「――……」

 誰かの近づく気配にカロはぴくりと瞼を開いた。仮眠を取っている間、昔の夢を見ていたらしい。一瞬感覚が混乱して友人が呼びにきたのかと勘違いした。亡霊が音を立てないことを思い出し、すぐさまナイフに手をかけたが。
(……自警団の連中か?)
 数がいたら面倒だなと洞穴の入口を窺う。だが見えた人影は一つだけだった。追い払えそうな相手かどうか目を凝らせば、向こうもこちらを覗き込んでいるのが窺える。
「――カロ?」
 名前を呼ばれて身構えた。誰か即座に知れたからだ。「俺だよ、アルフレッドだ」と赤髪の騎士は外に出てきてくれないか乞うた。
「…………」
 罠を警戒して息を潜める。あの男もルディアの仲間だ。こちらが再度打って出る前に、先制に訪れたのかもしれない。
「俺以外は誰もいない。お前が何かしてこない限り、剣を抜くつもりもない。……サール宮でアイリーンに会って、大体の話は聞いた。俺はお前に陛下からの手紙を渡したくて来たんだ」
 手紙との言葉に意表を突かれた。お前いつの間にそんなもの、と思わず後ろの少年を振り返る。するとまたしても想定外のことが起こった。あたかも月に引き寄せられる潮のように、突如イーグレットが洞穴の外へ歩き出したのだ。
「お、おい」
 彼を追いかける格好でカロも暗い穴を出た。アルフレッドは王の亡霊に気がつかなかったらしい。姿を現したこちらに対し、「良かった」と安堵の息をつく。そのまま騎士はいつもの集まりの延長のように懐の封筒を取り出そうとした。
「こっちがお前宛ての――」
「どうして俺がここにいるとわかった?」
 台詞を遮って問いかける。眼光鋭くねめつけるカロにアルフレッドはさらりと答えた。
「ジェレムが送ってくれたから」
 ますます事態が飲み込めなくなり、盛大に顔をしかめる。「ジェレムだと?」とすっかり遠ざかっていた男の名前を繰り返した。
「ああ、アクアレイアからここまで彼の一行に仲間入りさせてもらっていた。お前にな、可哀想なことをしたと言っていたよ。金の右眼を悪いものだと信じ込んで、抱かなくていい恨みを抱いてしまったと。……このリュート、見覚えないか? 俺もそこそこ弾けるようになったんだ。お前にロマの、望郷の歌を伝えてほしいと頼まれてな」
「…………?」
 言葉の意味を測りきれずに当惑する。
 望郷の歌を伝えてほしい? ジェレムがそう言ったのか? アクアレイア人を庇うならお前はもうロマじゃないと追い出したのはあいつなのに?
「歌なんかどうだっていい。手紙とやらをさっさとよこせ」
 アルフレッドがルディアの使いでないとわかるとカロはナイフから手を離す。騎士はなお「ジェレムは本当にお前のことを気に病んでいて」としつこかったが「うるさい」と突っぱねた。
 今更父親の話など聞く気はなかった。ロマの誰も、こちらを見ようともしなかったくせに。初めて優しさを教えてくれたのはイーグレットだ。他のことに、しかもあんな薄情な男のことに、かまけている暇はない。
「……手紙はこれだ」
 嘆息とともに差し出された封筒を奪い、中身を取り出す。筆跡は確かに友人のものだった。宛名以外、全て見慣れた暗号で書かれている。
(イーグレット)
 生の声が甦るようで胸が詰まった。そんなカロを案じてか、すぐ隣に少年が寄り添い立つ。
「陛下がアクアレイアから追放される直前に、チャド王子に託されたらしい。お前への手紙とルディア姫への手紙。陛下が最後に言葉を残したかった相手はお前と姫様だったんだ」
 諭すような声の響きに顔を上げた。アルフレッドは「それを読んで、どうか考えを改めてほしい」と勝手な要求を告げてくる。
「俺にはなんて書いてあるのかわからなかったが、お前と姫様が傷つけ合っているのを見たら陛下は悲しまれると思う。なんだったら姫様宛ての手紙のほうも読んでくれて構わない。だから……」
「お前ちょっと黙ってろ」
 鬱陶しいお節介を短く制して数枚に及ぶ便箋を開く。やっと邪魔だと悟ったか、騎士はしばらく口を閉じることにしてくれたようだ。カロは息をするのも忘れ、長い遺書に目を走らせた。
 暗号で書かれていると言っても難しい代物ではない。パトリア文字を使ってロマの言葉を再現しているだけだ。ロマは文字を持たないから、音を記してもロマには読めない。パトリア人には音が読めてもロマの言葉がわからない。更に北辺の神官のみに伝わるフサルク文字を混ぜ込んであるので解読できる人間は非常に限られていた。アクアレイアでは己とイーグレットの二人だけだったと言っていいだろう。
「――……」
 一読を終え、カロは心臓がばくばく跳ねているのに気がついた。――なんだこれは? なんなんだこれは? 動揺と拒絶とが頭をぐるぐる駆け巡る。
(これがイーグレットから俺への遺言だと……?)
 信じられない。信じたくない。どこかで読み間違えたのだと思いたかった。だってこんなのあまりに無慈悲ではないか。
(嘘だ――)
 冷えきった指を無理矢理動かし、カロはもう一度頭から手紙を読み直した。内容は初めに読んだときと一切変わらなかったけれど。

 ……君に手紙を書くのはこれが最後になると思う。君はいつでも私を案じてくれているのに、一緒に逃げようという君の申し出に応えることができなくてすまない。私はコリフォ島へ行く。しかしこれは強制されてのことではなく、自らの意思でだ。どうかアクアレイアの民を恨まないでほしい。
 君には話したいことが山ほどあるのに、果たしていない約束もまだたくさん残っているのに、時間というのは待ってくれないものだね。情勢がもっと落ち着いて、王国に平和が訪れたら、今度こそ君と別れ別れになっていた二十年間のやり直しをするつもりだったんだ。本当だよ。……けれどもはやそれも叶うまい。だからここに一つだけ白状しておく。
 君が「いい夫婦になれ」と言ってくれたのに、私の結婚生活は最初から破綻していた。妻はグレディ家の手先で、私には彼女を変えることができなかった。ルディアが生まれてからも状況は悪くなる一方だったよ。宮中から私の味方はいなくなり、ディアナは儚く世を去って、娘はグレース・グレディの操り人形と化した。何もかもめちゃくちゃにされたのに、私にはグレースを憎む気力も残っていなかった。君をアレイア地方から追いやって以来、私は自分を責めてばかりいたんだ。何を失い、何を奪われても、己の不甲斐なさが悪いと考えることしかできなかった。いつしか何にも逆らわなくなり、自分は無価値だ、王としての資格など――いや、生きる資格さえないと考えるようになっていた。私は孤独だった。君との友情も永久に損なわれた気がした。
 そんな私にある転機が訪れた。ルディアが重い病に倒れたのは私が死を考え始めた頃のことだ。娘を回復させるのに私は必死だったけれど、内心では彼女がいなくなったらまた自分にかかる重圧が増すと怯えていただけかもしれない。私は卑怯な臆病者になっていた。ルディアも少なからずそうなっていた。だがあの子には奇跡が起きたのだ。
 熱が下がって次に目を覚ましたとき、あの子は何も覚えていなかった。私への親愛を示してはいけないとグレースに強く戒められていたのに、あの子は私の手を握り返してくれた。初めて君の右眼を見た、遠い日のことを思い出したよ。私はもう一度立ち上がろうと決心した。今度こそ娘とともにグレディ家と戦おうと。
 それからは毎日、大変だったが張り合いもあったな。記憶の底に沈めていた君との思い出も徐々に甦らせることができるようになった。ルディアは二度とグレースの色に染まらず、君の予言した通り、父親思いに育ってくれた。私は全身全霊であの子を守ってきたつもりだ。できることはなんでもしたし、なんにでも耐えた。くじけそうになったときは、君が名前をくれた娘だろうと自分を奮い立たせて。
 ――カロ、君に頼みがある。

「……ッ」
 その先は読みたくないと無意識に手紙を握り潰した。アルフレッドがぎょっと目を剥き、恐る恐るこちらに目を向けてくる。ぐしゃぐしゃに丸めた便箋を地面に叩きつけようとして、どうしてもできずに唇を噛んだ。そのままその場に動けなくなる。何故、どうしてと責める声ばかり胸にこだまして。
「……おい、もう一通あると言ったな?」
 見せろと凄むとアルフレッドは警戒しつつルディア宛ての手紙を差し出した。通常のパトリア文字で記されたそれに目を通し、全身の震えが過ぎるのを待つ。
 隣にいるイーグレットを振り向くことができなかった。友人の顔を見たら、半狂乱で喚き散らしそうだった。お前はあの女に騙されたんだぞ。脳蟲に娘のふりをされていただけなんだぞと。
(これがお前の未練なのだとしたら俺は――)
「………………」
 止まった思考はなかなか動こうとしなかった。あんまり長く無言でいたので気遣わしげにアルフレッドが覗き込んでくる。
 冷静になる時間が必要だった。何日あれば、何ヶ月あればそうなれるのかは見当もつかなかったが。
「……っ」
 歯を食いしばる。恨むななんて不可能だと立ち尽くした。
 恨まなければ、怒らなければ、あいつらのやり方を認めてしまうことになる。かけがえのない友人の命を自分まで軽んじることになる。そんなこと、自分にできるはずがない。
「……なんて書いてあったんだ? お前への手紙には」
 無遠慮な問いにカロは目尻を吊り上げた。アルフレッドにルディアへの手紙を突き返し、自分宛てのそれは着古した薄いコートのポケットに押し込む。
 知りたいと言われても話す気になれなかった。あまりにも認めがたく、口になどできそうもなく。
 また沈黙。長い沈黙。振り払うべき迷いの分だけ重い。
「……あの女に伝えろ。フスの岬まで来いと」
 かろうじて絞り出せた言葉はそれだけだった。「フスの岬?」と尋ねる騎士に「イェンスに聞けばわかる。二人ともすぐそこの街にいる」と教える。
「カロ、姫様を呼び出してどうする気だ? お前もしかしてまだ」
「決着をつける。あいつの死か、俺の死という形でな」
「カロ! だが陛下はお前に――」
「他人のくせに、あいつの意思を語るのはやめろ!」
 びりびりと空気が揺れた。こちらの剣幕に押されてアルフレッドは声を失う。
「……いいな、フスの岬だ」
 引き留めようとする男の肩を突き飛ばし、渓流のほうへ歩き出した。歩みは次第に逃げるような早足に変わっていく。砂利に滑りそうになりながら、浅瀬の水を跳ねさせながら、川を渡り、ブナの森に分け入って、走って、走って、どうにか振り切ろうとした。イーグレットは喜ばないかもしれないという疑いを。
「ッ……!」
 木の根に足を引っかけて、カロは激しく横転した。緩やかな斜面を転がり、こぶの目立つ老木にぶつかってやっと止まる。
 なんて無様なのだろう。なんて無様なのだろう。
「はあ……っ、はあ……っ」
 息を切らして頭を起こし、今度は心臓が止まりかけた。真っ白な亡霊と目が合って。
「――……」
 そこにいるのが誰なのか、すぐには理解できなかった。理解すれば終わってしまう、そういうものだと見た瞬間にわかったから。
 イーグレットはケープを羽織った少年ではなくなっていた。長い外套に冠を戴いた彼の姿は、カロがジェレムと決裂し、アクアレイアを去った日の姿そのものだった。
「イ……、イーグレット……?」
 若き王はすまなさそうに目を伏せる。やめてくれ、と絶叫しかけた。
 恐れていたことが起こったのだ。彼に許された最後の時間が使い果たされてしまったのだ。
 青年はくるりとこちらに背中を向けて歩き出す。茂みの奥に消えようとする友人をカロは慌てて追いかけた。
 行かせたら二度と会えない。その直感はどうやら正しかったらしい。巨木の向こうに白い影を見失うと、どこを見ても、どんなに目を凝らしても、濃い緑以外何も見えなくなってしまった。
「イーグレット!」
 灌木を踏み荒らし、血眼になってカロはイーグレットを探す。まだ行かないでほしかった。一人にしないでほしかった。たとえ自分が間違っているのだとしても。
「きゃっ……!」
 細い林道に飛び出したとき、生きた人間とぶつかった。薬の入った籠と一緒に痩せた女が引っ繰り返る。
 その顔を見て息を飲んだ。彼女もここまで来ていたのかと。
「……アイリーン……」
 アイリーンはいつも以上にぼろぼろの身なりだった。数日は山を歩き回ったに違いない汗臭さで、服も身体も汚れきっており、頬はげっそりこけている。こちらに気づくとアイリーンはハッとして双眸を潤ませた。
「カ、カロ。わたし、私、あなたのこと探して……っ! コーストフォートで事件があったって聞いて……っ!」
 彼女は遭難したのではなく自分を追ってきたらしい。「生きてて良かった」と涙を流し、アイリーンはカロの胸に飛び込んできた。
「ねえ、もうやめましょうよ! 姫様を殺したってあなた寂しいままじゃない。私が陛下の代わりになるから、陛下の分までずっとあなたを大事にするから、だからもう復讐なんてやめましょうよ……! わ、私なんかじゃ全然駄目かもしれないけど、でも、でも……っ」
 号泣しながら訴えられる。意外な言葉と必死な彼女にしばし呆けた。
「わたし頑張るから、お願いだからここまでにしましょう!? 一緒にどこかに、姫様たちと関係ない国に行って忘れましょうよ! きっとそれが一番いいのよ……!」
 アイリーンはカロが頷くまで離すまいと胸にしがみついてくる。彼女にしては強い力で、強い瞳で。
 気づけばその泣き腫らした瞳に目を奪われていた。それなのにカロは彼女の望む通りに頷いてやれなかった。涙が溢れ続けるのを見ても、ずっとと未来の約束をくれても。
「駄目だ、アイリーン……」
 細い身体をゆっくりと引き剥がす。止まれなくなっている自分に、その愚かさに呆然としながら。
 駄目だともう一度呟いた。心の底に焦げついて離れない悲しみを。
「俺は……、俺には、自分が一番幸せだった頃のことを忘れられない…………」
 視界が滲む。頬が濡れる。アイリーンは崩れ落ちたカロを抱きしめて一緒に泣いてくれたけれど、やはり考えは変えられなかった。
 俺は憎い。イーグレットのためじゃなく、俺が憎い。俺が許せない。たった一人の友人を奪い去ったあの女を、どうしても。
 炎は強くなりすぎた。もう遅いのだ。何もかも。




 ******




 決着をつけるというカロの宣告を思い出し、アルフレッドは静かに重い息をつく。
 歌を伝えるなんて雰囲気ではとてもなかった。手紙を読んで取り乱しはしていたようだが。
(……姫様のところへ行かなきゃな)
 がらんどうの洞穴にロマはもう戻ってきそうにない。再度の説得は諦めて、アルフレッドは渓谷を下り始めた。どこかで出くわすかと思ったがそれもなく、すんなり街道に戻ってしまう。
 荷運びたちは騒々しく塩や木材や毛織物を運んでいた。どこかから「自警団の奴ら、明日山狩りに出るらしいぜ」と明るい声が聞こえてくる。
 フスの岬とかいうところにカロが移ってくれたなら、ひとまず見つかる心配はないだろう。一応ぎりぎりのタイミングで渡すものは渡せたらしい。
(次に会うまでに考え直してくれていればいいんだが……)
 番兵に旅券を提示し、アルフレッドはコーストフォートの市門をくぐった。確か遍歴医師の診療所だったなと知っていそうな人間を探す。
 幸い誰に道を尋ねればいいかは迷わずに済んだ。大きな亜麻紙を熱心に読み込んでいる人々があちらこちらにいたからだ。
「アクアレイア人が入院してる診療所? お、おお、兄ちゃん場所聞いてどうすんだい?」
「怪我をしたのが友達なんだ。様子を見にいってやりたくて」
「と、とと、友達!? ヒエッ……!」
 診療所は有名らしく、住所はすぐに教えてもらえた。そこまで案内してやる猛者はいないだろうから一人で行ってくれということも。
(ああ、これでやっと姫様を側で守れる)
 半年ぶりだ、彼女に会うのは。主君のいない半年は、なんと長い半年だったか。
 アルフレッドは足早にくだんの診療所へと向かった。
 自分の届ける手紙が少しでもルディアの慰めになればいい。そう願わずにはいられなかった。









(20170131)