ああ、風よ、頼むから今すぐ凪いでくれ。さもなくば嵐を連れてきて、一晩でも二晩でも、そこらの入江にこの船を足止めしてくれ――。
「……はあ……」
 船長室の前面の窓に目をやってイェンスは力なく息をついた。空は憎いほど澄み渡り、雲の一つも浮かんでいない。帆の受ける順風も、こちらの胸中など素知らぬふりでコグ船を北に運んでいた。
 信じられない。もう一ヶ月経つなんて。明日こそ、明日こそはを繰り返して、結局少しも心を通わせられなかったなんて。
「ごっそーさん。そんじゃ俺ら、船降りる支度あるから」
 そう言ってレイモンドがスプーンを置く。部屋を出ようと立ち上がった息子にイェンスは慌てて声をかけた。
「お、おかわりはどうだ? スープもパンもまだいっぱいあるんだぞ」
「もう満腹だよ。腹減ったら街で食べるし、今はいい」
「そ、そうか。街で食べるか」
 オウム返しにレイモンドの言葉を繰り返し、がっくりと肩を落とす。別れの地、コーストフォートは目と鼻の先に迫っていた。おそらくこれが親子で取る最後の昼食になるだろう。それなのにレイモンドはさっさと行かせろと言わんばかりだ。イェンスにできたのは「その、なんだ、サールへ向かう川船はもう決まってるのか?」と会話を引き延ばすことだけだった。
「いや、それはコーストフォートに着いてから考えるつもりだけど」
「だ、だったらまだ、川の深いうちはこの船で送っていっても構わねーよな? そうすりゃお前らも旅費を浮かせられるだろうし」
「悪ィけど、コーストフォートからはパーキンって金細工師が一緒になんだよ。あいつあんたのことめちゃくちゃ怖がってるし、無理だと思う」
「そっ、それなら送別会! 送別会くらいさせてくれるか!?」
「送別会? ……はあ、まあ別に、あんたの好きにすりゃいいんじゃねーの」
 素っ気ない返事だけしてレイモンドはドアに手をかける。ブルーノがスープを飲み干したのを確認すると息子はひと足早く船長室を出ていった。
「ごちそうさま。それでは私もこれで」
 ハンカチで口元を拭うと青髪の剣士も立ち上がる。イェンスは藁にもすがる思いで彼の腕を引っ掴んだ。
「な、なんだ?」
「……っ! ブルーノ、頼みがある!」
 必死だった。このまま終わりたくなかった。折角生きて出会えたのに、全然何もしてやれていない。あんなわずかな宝石を買い与えた程度では自分が納得できなかった。レイモンドとて決して満足していないだろう。不足が埋まっていないから彼の眼差しは冷たいままなのだ。イェンスにだってそれくらい理解できる。
「教えてくれ。どうすればあの子を喜ばせてやれるんだ? レイモンドは父親にどうしてほしいと望んでるんだ?」
 恥も外聞もない問いにブルーノはやや言葉を詰まらせた。
「……すまない。我々はここ一、二年の付き合いでな。あまり立ち入ったことまでは」
 やんわりと首を振られ、成す術なく項垂れる。ブルーノは礼儀正しく「これまでの親切の数々には感謝している」と頭を下げて出ていった。いつもの通り、イェンスとレイモンドの仲を取り持とうとはしてくれない。
 扉が閉まるやスヴァンテの短い嘆息が響いた。「やっぱ舐められてんだよ」と副船長はパンをちぎりつつ眉間のしわを深くする。
「お前のしてきた我慢とか苦労とか、わかってねえから感謝も湧いてこないんじゃねえのか? いっそ聞かせてやったらどうだ? この間、あいつが気軽に散財してくれた百三十万レグネだって、お前の汗と涙の結晶なんだぞって」
「よせよ。そんなもん口にすることじゃねーだろ」
「けど今のままじゃ、あの馬鹿お前のすごさをわかろうともしねえじゃねえか。ご機嫌取りなんかやめちまって、言うこと聞けねえんなら海に放り込んでやるっつってやればいいと思うがな。横で見ててイライラしてくるぜ」
「…………」
 憤慨気味のスヴァンテにイェンスは小さく息を吐く。まとまりを欠いた味方を結束させるには脅しも有効な手立てだろう。けれど自分がなりたいのは親子なのだ。スヴァンテの言うやり方で願いが叶うとは思えなかった。
(……何も望まないのが正解だったのかもしれないな)
 好ましい反応を返してもらおうと考えたことがそもそも間違いだったのかも。呪われた血を受け継がせた分際で。
(俺なんかと関わらないほうが、レイモンドにとってよっぽど……)
 ふと背中に気配を感じ、頭だけ振り返った。見れば半分透けた手がイェンスを力づけるように右肩に添えられている。フスは人差し指を立て、「なるようになるさ」と宙に書いた。ありがたい祭司の言葉にそっと目を伏せる。
(そうだな。きっと、なるようにしかならないんだ)
 まだ一緒にいたかったけれど。もっと何かしてやりたかったけれど。せめて彼のために貯めた金の残りくらいは受け取ってくれるだろうか。




 ******




 ようやくこの気まずい船ともお別れか。甲板でほっと息をつき、ルディアは河口の西岸に広がる美しい街並みを見渡した。
 北パトリア商業都市同盟アミクス――その第二席を占める自治都市コーストフォート。大河サールリヴィスによって内陸と深く結ばれたこの街は南方から岩塩や木材や毛織物、北方からタラやマス、トナカイの毛皮、鯨油やセイウチの牙と、様々な交易品が集まることで知られている。アミクスの盟主は同盟を発足させたセイラリア市だが、交通の便に関してはコーストフォートの圧勝と言えた。もっともここに到着した荷は大半が陸路でセイラリアに送られるので商業都市としての規模に大差はないと聞くけれど。
(ん? 何か雰囲気がおかしいな)
 ルディアが不穏なざわめきに気づいたのはコグ船が大きな河港の埠頭に差しかかったときだった。活気あふれる船着場で忙しなく働く水夫の一人がこちらを指差したと思ったら、その周囲の者たちも次々に仕事の手を止め、不安げに固まってしまったのだ。彼らは一様に顔を歪めていた。まるで「なんであいつの船が入ってくるんだ」と言うように。
(……これはあまり歓迎されていないのかな?)
 イェンスの額にあるのと同じ、生贄の紋様が織られた旗を振り仰ぐ。人々が青くなって見上げているのは間違いなくこの旗で、彼らに忌避されているのは間違いなくイェンスであった。
 ふむ、とルディアは近づく河港を一瞥する。着岸拒否の手信号は出されないまでも、市民の示す拒絶反応は強い。ある者は破邪の五芒星を切り、ある者は大慌てで自分の船を遠ざけ、近づいてくるなという意思がまざまざと伝わった。冷遇には慣れっこなのか、毛皮商一行は悠然と桟橋に取りついたが。
 嫌悪の視線が高圧的かつ露骨なのは、コーストフォートが長く権勢を誇ってきた街だからだろう。そういう土地は良かれ悪かれ保守的だ。これまでに立ち寄ったのは全てアミクス非加盟の新興交易都市だったから空気も開放的だったのだ。
(しかし一応イェンスは、アミクスの成員だったはずだが)
 ルディアは毛皮商が聖女パトリシアの護送を任されていたことを思い返す。あれだけ大々的に使われていれば一般市民も彼が同盟者と知っていて当然だ。なのになおこの反応とは。
(まあ邪険にされて当然か。北辺人がパトリア人の組織に紛れているのだし、おまけに彼は得体の知れない亡霊を連れ歩いているのだからな)
 ルディアはちらりと仲間に着岸指示を出すイェンスを盗み見た。なんにせよもうじき関係なくなる話だ。船を降りればレイモンドは二度と船には戻らないだろう。やりたいならやればいいと送別会を認めはしたが、出席するとは槍兵も言っていない。
(アルフレッドなら上手く間に入ってやれたのかもな)
 ふうと嘆息一つ落とし、ルディアは船縁に近づいた。下船準備の整った甲板から縄梯子が放られる。薄手のケープのフードを被り、無遠慮な衆目を避けて、そこだけ人波の引いた桟橋に降り立った。
「二人とも、夕方には帰ってこいよ!」
 送別会の案内をするイェンスに槍兵が形だけ手を振り返す。そのまま二人で隣の桟橋に移動した。
 呆気ないさよならだ。しかしこれで良かったのだろう。レイモンドはやっと少し肩の力が抜けたらしく、「デートの約束覚えてる?」などとニヤニヤ尋ねてくる。いつもなら小突くところだが、今日は「わざわざ言われなくても覚えている」と肩をすくめるだけにした。久々に締まりない顔を見て、こちらもほっとしたのかもしれない。
「へっへっへ、どうする? どこ行く? まだ明るいし、用事済ませた後でもたっぷり時間あるぜ」
「明日でなくて構わないのか? 一日待てば八月十一日だろう?」
「んー、とっとと出発してーからな。川辺の旅だし、明日コーストフォートを出られたら誕生日は夜に蛍見れそうじゃん? あっ、なんなら今晩日付変わるまでぶらぶらする? 今なら財布も潤ってるしさ、美味そうな店ハシゴして。鐘が鳴ったら乾杯とかして!」
 発言から察するに、やはり送別会に出る気は微塵もなさそうだ。レイモンドはこのまま姿を消すつもりに違いない。コーストフォートは大都市だし、多分見つからずに逃げられるだろう。イェンスも敢えて追いかけてはくるまい。
(良かった。これでもうこいつに変な我慢をさせずに済みそうだ)
 意外だな、と改めて感じる。防衛隊の中ではレイモンドが一番仕事を仕事と割りきっているように見えたのに、こんなところまで無償で――否、心を切り売りしてまでついてきてくれている。あんたが死んだら俺も死ぬ、なんて台詞をのたまって。どこまで本気か知らないけれど。
「……とりあえずさっさと用事を片付けてしまおう。パーキン一人では印刷機を運べないだろう」
 ルディアは先に入港を終えていた亜麻紙商の船に向かった。大型帆船は早くも荷揚げを開始しており、例のアレキサンダー三号も布にくるまれ、ロープをかけられ、そろりそろりと甲板から下ろされている。
 地上で搬出を待ち受けているのはパーキンとオリヤンだった。ルディアたちもサッと手助けに入る。大事な大事な印刷機に故障など起きては大変だ。
「おお、二人とも無事だったか! いやー、あのコグ船に乗ってよく五体満足でいられたな! 生きて再会できて嬉しいぜ!」
 しばらくぶりに会う金細工師は何故か雨用マントを羽織り、目深にフードを下げていた。空は青く、風もからりと乾いていて、そんなもの必要なさそうな天気なのに。しかも自分で大きな声を出しておいて「おっといけねえ」と挙動不審に周囲を警戒する。
 ルディアは隣のレイモンドと目を見合わせた。槍兵はどこか呆れた口ぶりでパーキンに問う。
「もしかしてそれ、顔隠してんの?」
「ぎくっ!」
「ぎくっじゃねーよ。この街あんたの生まれ故郷なんだろ? なーにコソコソ……」
 苦言を呈するレイモンドにパーキンは「馬鹿野郎! だからやべえんだろうが!」と小さな声で怒鳴り返した。どうやらこのろくでなしは昔から人に迷惑ばかりかけて生きてきたようだ。面倒に巻き込まれやしないだろうなと一抹の不安がよぎる。
「ま、道中平和であることを君たちの神々に祈ろう」
 そんなルディアの胸中を読んでオリヤンが呟いた。亜麻紙商もパーキン自身にトラブル回避や善行を期待するのはやめたようだ。
「そんじゃ予定通り、行きますか!」
 金細工師が印刷機を乗せた荷車を引き始めたのでルディアたちも彼に続いて歩き出す。港の雑踏を横切って一行は街に入った。
 さて、ここからマルゴー公国の首都サールを目指す前に、一つ立ち寄らねばならない場所があった。金細工師パーキン・ゴールドワーカーの工房だ。彼はアレキサンダー三号を聖王に売り込みに赴く際、一番弟子に留守を任せたのだという。本格的に印刷事業を始めるなら連れていきたい男だそうだ。なんでも他の徒弟が素行不良過ぎる親方に愛想を尽かして逃げ出す中、唯一残った若者で、インクの調合や機械のメンテナンスにも通じているらしい。
「そいつもお前みてーな適当人間なんじゃないだろな」
 話を聞いて疑わしげにレイモンドが目を細める。
「いやいや、ネッドは素直で真面目な犬っころさ。親方には真心こめて尽くすもんだと思い込んでてな! 力は強いし粗食に耐えるし文句もぼやいたことがねえし、最高のどれ――ゴホン! あー、最高の助手ってやつなんだ!」
「…………」
 本当にこの男は、と槍兵ともども呆れ返った。後ろで荷車を支えるオリヤンも白い目でパーキンを見つめる。
「つーかオリヤンさん、別にあんたまで来る必要ないんだぜ? 印刷機、俺らで十分運べそうだし」
 と、レイモンドが亜麻紙商に告げた。言外に「自分の船に帰ったらどうだ?」と言っているのは明らかだ。だがオリヤンは「いや、私にも手伝わせてくれ。どうせだし用事が済んだら一緒にイェンスのところへ帰ろう」と笑顔でかわす。本当に食えない男である。ここでも彼は旧友優先でレイモンドを逃がしてやる気はないらしい。
(まあオリヤン一人なら撒けないこともないだろう。頃合いを見計らって対処するか)
 胸中に呟き、ルディアはにぎやかな街を見上げる。赤レンガの時計塔が三時の鐘を打っていた。瀟洒な街並みに相応しい、こじゃれた都会っ子たちが帽子を押さえて駆けていく。彩色タイルの敷き詰められた長い坂道をルディアたちは慎ましく歩いた。
 荷運び人の姿が目立つのは市門から港に直結する通りだからだろうか。ぼろをまとった労働者に混じって黒い肌がちらつく。見知らぬロマとすれ違うたび心臓がどきりと跳ねた。レイモンドも辺りが気にかかる様子だ。
(カロ――)
 不意に吹き抜けた強い風がルディアのフードを取り払った。別にそのままで良かったのに、槍兵はアクアレイア人と知れる髪色を隠そうと即座にケープを被せ直してくる。
 ピリピリした緊張が指先から伝わった。お前が気にすることではないと諭すのも憚られるくらい。
(どうしてこいつはいつまでも私の側にいるんだろうな)
 同情心や義務感で自分が損をできる人間でもないくせに、どうして。
 思考を打ち消すようにルディアは小さくかぶりを振った。考えても仕方ないことだ。結論は変わらない。ブルーノに身体を返したら、カロの気の済むようにさせる。たとえレイモンドがどう言おうと。
(私はあの国に帰れない)
 資格がない。何者としてあの海を眺めればいいかもわからない――。
「あ、そこそこ! あのティアラの看板がかかってるとこが俺の工房!」
 パーキンの声にルディアはハッと目を開く。見ればとっくに中央広場を通り過ぎ、大通りから一本逸れた工房街に入っていた。
「ティアラの看板? んなもんどこに出てるんだ?」
「すぐ目の前にあるだろ! ほら、そこの鍛冶屋のすぐ横の!」
「はあ? 鍛冶屋の横は石工のアトリエじゃねーか」
「だからほら、その間だって!」
 示された指の先を見やってルディアたちはえっと目を丸くした。言うまでもなく金細工には金が用いられる。材料からして高価だし、その顧客も王侯貴族の場合がほとんどだ。パーキンのことだからそこまで立派な工房を構えているとは考えていなかったが、しかしまさか、金細工師の仕事場がここまで貧相になれるとも予想だにしていなかった。
「いや、お前これ倉庫じゃん……?」
 地下へと続く階段の前でレイモンドがささやかにつっこむ。ティアラの看板がかかっていたのは鉄を打つ音が響く鍛冶屋と、のみを入れる音が響く石工のアトリエに挟まれた、やかましく狭く暗い空間だった。
「色々あって最初の工房は手離したんだよ……」
 うつむいたパーキンが哀愁を漂わせる。色々というのが借金絡みの問題なのは聞かずとも知れた。
「中は結構広いんだぜ? 倉庫っつってもいい感じのワイン蔵がついてるし、地下だから蝋燭代はかさむけどな」
 砂の溜まった階段を数段降りると金細工師は壁の棚からランタンを取り出す。「入口開けっからアレキサンダーを運んでくれるか?」との彼の要望に頷いてルディアたちは荷車の印刷機を下ろした。
 ブドウ圧搾機を改造したアレキサンダー三号はレイモンドの背丈ほど高い。壁にぶつけないように気をつけながら、えっちらおっちら階段を進む。
「それにしても本気なのだね。パーキンをアクアレイアの富豪に紹介してやるというのは」
 と、オリヤンがルディアに話しかけた。
「魅力的な新技術ではあるからな。軌道に乗ればマーチャント商会の亜麻紙も飛ぶように売れるぞ。他人の投資で大儲けだ」
「それはいい。新しい船を二隻も買って今ちょっと貧乏なんだ。楽しみにしておこう」
 当たり障りない会話のつもりだったのだが、ルディアの台詞を聞いて槍兵がやや表情を曇らせる。亜麻紙の流通経路を確保するのに今後もオリヤンとは縁を切れないと考えたのかもしれない。
 関わりたくないのなら関わらなくていいんだぞ。そう言ってやりたかったが口にすることはできなかった。さすがにオリヤン本人の前では伝えにくい。
「あ、あれっ!?」
 素っ頓狂な声が上がったのはそのときだった。ひと足先にドアを開け、工房に入ったパーキンがあちらこちらにランタンをかざしている。駆け回る灯火に金細工師の動揺を見取ってルディアたちは歩を早めた。
「どうした、パーキン? 何があった?」
「な、なくなってんだよ! 工房の家財がごっそり、仕事の道具も、ネッドの野郎も」
「えっ?」
 ひとまず印刷機を床に据え、工房内をぐるりと見渡す。パーキンの言う通り、地下倉庫はほとんど空っぽに近かった。机や棚があったと思しき場所には塵が積もり、丸椅子の一つも残されていない。ただ奥の小さなワイン蔵に錠前と鍵がぶら下がっているのみだった。
「おいおい、最後の弟子にも逃げられたんじゃねーの?」
「んなわけあるか! き、きっとちょっと出かけてるだけだ!」
 パーキンはそう主張したが、見れば見るほど長く出入りした者のない様子で埃っぽさにルディアは堪らずくしゃみする。
「……これは見捨てられた説が濃厚だな」
 ぼそりと囁けばオリヤンも静かに同意を示した。
「そもそも彼に弟子がいたという事実が私には驚きだよ。妄想の人物ではないんだね?」
「やめてくださいよ、もう! んなこと言われると不安になるでしょ!」
 パーキンの涙声が反響する。すると表でそれを聞きつけた者がいたようで、「誰かいるのか?」と問う声が降ってきた。げっと漏らして金細工師は槍兵の陰に身を隠す。だがそんな努力は無駄だった。階段を降りてきた男はパーキンを見つけるなり「ああーっ!」と大声で騒ぎ立てた。
「おおい、皆! パーキンだ! あのクソ野郎が帰ってやがるぞ!」
「なんだって!? パーキンだって!?」
「おっかさん、ひきだしの借用書出してくれ!」
「今度こそ十万レグネ返してもらわにゃ!」
 騒ぎは連鎖反応的に広がり、工房はあれよと言う間に人で埋まる。顔ぶれは老若男女様々いたが、目の血走った者ばかりだった。どうやら全員パーキンに貸しか恨みがあるらしい。中には金細工師のせいで恋人と引き裂かれた女までいるようだった。
「あんたねえッ! あんたがアミクスから借りた大金を返すために、あたしのネッドは毎日毎日奴隷みたく働かされてんだよ!? さっさとアミクスに払うもん払いなさいよ!」
「ええっ!? あいつ留守番サボってやがると思ったらそんなことになってたのか!?」
「そうよ! あんたに教わった技術を売れば解放してやるって言われたのにさ、義理堅くインク作りの秘密守って今日も彫り物してるんだから! あんないい人に尻拭いさせて、良心が痛まないの!?」
「へ、へへへ。いや、けど、もうじきまとまった金ができる予定で……」
「あんたいっつもそう言うけど、本当にまとまった金持ってきたためしがないじゃない! いいから早くアミクスに行くわよ! あんたとネッドを交換してもらわなきゃ!」
 いきり立つ屈強な婦人がパーキンの手首を掴む。そのまま彼女は金細工師を引きずって階段へと歩き出した。
「ちょっ、ア、アミクスでネッドと交換してもらうって!?」
「うるさいわねッ! あんたの借金なんだから、あんたが返すのが筋ってもんでしょ!」
「お、俺これからアクアレイアで新事業の出資者に会わせてもらう予定してんだけど!?」
「ホラ吹くんじゃないわよ! あんたの出資者になろうなんて人間がこの世に存在するもんですか!」
「ヒエエエ! お助けえええ! レ、レイモンド! ブルーノさん!」
 パーキンは半泣きで救助を求める。ルディアは深々と嘆息し、揉み合う二人に近づいた。やはりこの男と一緒にいてトラブルを避けられるわけがなかったらしい。
「すまんがパトロンの話は本当で――」
「うおおおおおっ!」
 パーキンがクズの本領を発揮したのはルディアが女に声をかけ、彼女の注意が逸れたその瞬間だった。金細工師は若い娘に全力の体当たりを食らわせて腕を振りほどく。小悪党は自由を取り戻すや否や一瞬たりとも躊躇せずダッシュで路上に逃げ出した。
「ちょっ、ま、待ちなさいよゴミ男!」
 いっそ天晴な逃げっぷりだ。入口付近に陣取っていた男たちを巧みにかわし、金細工師は階段を駆け上がる。だがもう一歩のところで幸運に見放されるのが彼の宿命であるらしい。「パーキンだって!? あのパーキンが帰っているのか!?」と現れた男と衝突し、金細工師は再び地下まで転がり落ちてきた。
「あっ、ウンベルトの旦那」
 身なりのいい中年紳士の名が呼ばれる。この街では名の知れた有力者らしく、集まっていた人々はさっと姿勢を正した。
「何? ウンベルト?」
 ぼそりと呟き、顔をしかめたのはオリヤンだ。どうも彼には得意な男でないようで、亜麻紙商はそっと輪の後方に引っ込む。
 頬髭を撫でつけた中年紳士は「ああ、会いたかったよ!」とパーキンに手を差し伸べた。ヒエッと声を裏返し、金細工師は尻餅のまま後ずさりする。
 どうも二人はいい関係ではなさそうだ。パーキンの目の泳ぎ方から察するに、相当な負債を抱えた相手と見える。そしてルディアのこの推測はすぐに事実だと証明された。
「君への融資の返済期限、とっくに切れているのはもちろん知っているだろうね?」
「あっ、はい。へへへ、旦那様には随分長々とお待ちいただいて申し訳――」
「謝ってほしいんじゃない。私はただね、君が私の顔に塗りたくってくれた泥を拭いてほしいんだ」
「あっ……へへ……。ハイ、へへっ……」
「けなげで哀れな君の弟子が『お借りしたお金は一生かかっても必ずアミクスにお返しします』と言ってくれているんだがねえ、残念ながら一介の職人には一生かけても返せる額ではないのだよ。このままでは私も君の事業を推薦した立場がないし、どうするつもりか聞きたくてねえ?」
「ど、ど、どうって言うと……?」
 男はどうやらアミクスの幹部らしい。歯切れの悪いパーキンの胸倉を掴み、「返せるのか返せないのかどっちなんだ!」と激昂する。至近距離で凄まれた金細工師はヒッとその場にひれ伏した。
「返せます! 返せます!」
 震え声の返答がほうほうの体で繰り返される。するとウンベルトはにこやかな笑みを浮かべ、優しげにパーキンの手を取った。
「返せる? それは良かった。では早速商館に支払いに来てくれるかね?」
 鮮やかに逃げ道が塞がれる。だが金細工師の財布にはいくらも入っていないはずだった。どこから金を捻出するつもりだろうと見守っていると、パーキンは汗のしたたる汚い顔に精いっぱいの愛想笑いを浮かべて言った。
「あっ、えっと……その、返せるんですけど今すぐにってわけではなくて……。その、あの、もう一年、なんとか待っていただけたらなって……」
「それは前回も前々回もぜんぜんぜん回もぜんぜんぜんぜん回も聞いたのだが!?」
「いや、ほんとに! ほんとのほんとに一年後なら返せそうなんですって!」
「温厚な私もそろそろ我慢の限界だよ! いっそ君を人買いに売りつけたほうがまだ金になるのではないかな!? これ以上は待てる気がしないし、本当にそうさせてもらおうか!?」
「ひええーッ! お、落ち着いてください旦那様! 人身売買は法的にアウトです!」
「借金踏み倒しも法的にアウトだ! わかっているのか君は!」
 ウンベルトはぜいぜいと荒くなった呼吸を整える。しばしの間を置き、彼は「まあいい」と本題を切り出した。
「私も昔馴染の君をあまり酷い目に遭わせたくない。しかしね、借りたものはきちんと返してくれなくては。金がないなら成果物で構わんのだ。それを作り出す技術でもいい。一文無しの君にだって提供できるものがあるだろう?」
「……は? えっ、成果物? 技術?」
 ウンベルトの言葉が飲み込めず、パーキンはきょとんと瞬きする。つまりだ、と男はわかりやすく補足した。
「君の開発した印刷機と君の一番弟子の雇用権。この二つをアミクスに譲ってくれるなら借金はなかったことにしてやろう――そう言っている。どうだね、なかなかいい話だと思わないかい?」
 驚いたのはルディアたちだ。印刷機をよこせだと、と提案に顔をしかめる。
「ちょ、待った待った! パーキンは俺らとも約束があんだよ。あんたに全部持っていかれるのは困る」
 咄嗟に飛び出した槍兵に男はムッと細い眉を吊り上げた。
「なんだね君は? 急に話に割り込んできて」
「だから、パーキンはこれから俺らと出資者のもとに向かうんだって。そいつの言った通り一年後ならある程度の金はできてると思うから……」
「ほう? 新しい財布が見つかったか? だがこちらの知ったことではないな。行きたければ負債をすっきり清算して旅立てばいいだけだ。さっきも言ったがこれ以上は待てんのだよ。この男が借りた金を返すことはないと私は悟った! 誰がなんと言おうとも、弟子と印刷機はアミクスに提出してもらう!」
「え、ええーっ! ネ、ネッドはともかくアレキサンダー三号はちょっと……」
 ウンベルトの差し押さえ命令にパーキンも抵抗の姿勢を示す。しかし悟りの境地に達した男は金細工師の訴えになど聞く耳を持たなかった。
「印刷機を取られたくなかったら今日中に借金を返済しろ! 文句があるなら裁判だ!」
「きょ、今日中って!? ウンベルトの旦那、生き急ぎすぎじゃないですか!?」
 法廷で勝てるはずのないパーキンが喚き立てる。参考までに「いくら借りたんだ?」と尋ねたルディアに返されたのは、目の前が暗くなる数字だった。
「えーっと、その……パ、パトリア金貨一万枚?」
「パ、パトリア金貨一万枚!?!?」
 ――くらくらする。ローガン・ショックリーへの債務は帳消しにしてやったのに、まだそんな大物が残っていたとは。五十万ウェルスまでなら助けてやるかと宝石袋を開きかけていたレイモンドも手を止めた。ウンベルトは穏やかな声で「肩代わりできないなら口出ししないでもらおう」と告げる。反論できる者は誰一人いなかった。
 パトリア金貨一万枚――つまり一千万ウェルス。この辺りの通貨で言えば、二千六百万レグネだ。聖堂が一つ建てられそうではないか。船だって乗員つきで一、二隻、大型帆船を新造できるかもしれない。
 ここに来てなんという展開だ。目聡く印刷機を見つけたウンベルトは「おお! これが可愛いアレキサンダー三号か! 主人の代わりにこれからよーく働いてくれよ」と頬ずりしてみせる。
 情けない。本当に情けない。少しはあの人の愛したアクアレイアのために何か役に立ってから死ねるかと思ったのに、レイモンドにも無用の苦労をさせたのに、こんなことで、こんなところで諦めなくてはならないとは。
「……オリヤン。返済期限を一年として、いくらまでなら私に貸せる?」
「なっ!? ブ、ブルーノ君、パーキンを助けてやるつもりかね?」
 ルディアの問いに亜麻紙商が声を裏返す。それでも律儀にオリヤンは「二百……、いや二百五十万ウェルスまでならなんとか」と答えた。金持ちのくせに辛口なのは設備投資で一時的に蓄えが減っているからだろう。そんな事情など知らぬパーキンは「ヒエーン! 一千万くらいぽんとお願いしますよォ!」とオリヤンに泣きついた。
「おや? その道化じみた顔の傷はひょっとして……。パーキン、なんだってそんな男と一緒にいるんだい? まさかイェンスにまで借金したとか言わないだろうね?」
 あからさまに侮蔑のこもったウンベルトの眼差しが亜麻紙商に向けられる。オリヤンが引っ込んだのはやはりそういう理由かとルディアは秘かに眉をしかめた。厄介者のイェンス一派とアミクスの重鎮が仲良しこよしのはずがない。これ以上話がこじれなければいいが。
「イェンスに借金!? いやいや、さすがの俺もそれはありませんって!」
 金細工師は大焦りでウンベルトの邪推を否定した。ギャラリーと化した人々は突然飛び出したイェンスの名にざわついている。彼らは生来呪いを受けた者を見る目でパーキンを見やり、「疫病神と疫病神ってお互い引き寄せ合うんだな……」「俺はいつかそうなるんじゃないかと思ってたぜ」などと囁き合った。
「いやいや、だから誤解だって! たまたま拾ってもらった相手がイェンスの元右腕とせがれだったっていうだけで、俺とイェンスに直接の関係は」
「何? イェンスのせがれ?」
「ええ、この背の高い金髪のがそうですよ!」
「ちょっ、おまっ……」
 なんだかまた妙な流れになってきた。ウンベルトはパーキンの手に引っ張り出された槍兵の顔をまじまじと覗き込む。彼はイェンスとも面識があるらしく、よく似た風貌のレイモンドに多少ならず驚いた様子だった。
「これは確かに、毛皮を着せて髪を伸ばせばそっくりになりそうだ。しかし奴に子供がいるなんて話は聞いたこともないぞ。君、本当にイェンスの息子なのかね?」
 問われて槍兵は答え淀んだ。事実そうでも簡単に頷けないことはある。他人の心情に鈍感な金細工師は「嘘じゃないです! こいつコーストフォートまでイェンスの船で来たんですよ! アクアレイア育ちなもんで、今まで噂にならなかったんじゃないですか?」とあっさり暴露してくれたが。
「ほう、アクアレイア育ち? なるほど、なるほど」
 ウンベルトは嫌な感じの笑みを浮かべる。唇に人差し指を当て、彼はしばし黙考した。
「ふむ、今日の私は幸運に恵まれているようだ。君、お父上ならパトリア金貨一万枚――君のところで言う一千万ウェルス、出せるんじゃないのかね?」
「えっ?」
「ちょうど他にもイェンスと話をつけたいことがある。もし君が彼にパーキンの借金返済を頼むなら私も同行して交渉するが、どうだろう?」
 思わぬ問いにレイモンドはたじろいだ。当然だ。そんな大きな借りを作れば付き合いも長引くことになる。やっと終わりにできそうなのに受け入れられる提案ではなかった。
「あ、あいつに肩代わりを頼む……?」
 だというのにレイモンドは何故かすぐに断らない。それどころかウンベルトに「金が払えりゃ印刷機も弟子もこっちのもんってことでいいのか?」などと尋ねる。
「レイモンド!」
 思わずルディアは戸口の槍兵に駆け寄った。これ以上お前が耐え忍ぶことはないと首を振る。
 だがレイモンドはこちらを無視して話を進めた。「もちろんネッドはこの工房に送り返すとも! アミクスとしても即金のほうが好ましいしね」との返答に拳を固め、勝手に決断してしまう。
「……わかった。一千万ウェルス出してもらえねーか、あいつに聞いてみる」
 腕を引き、「レイモンド!」と諌めたルディアに槍兵は「いいんだ」と笑った。
「とにかくアクアレイアにアレキサンダー三号を持って帰らなくちゃだろ?」
「だからそれはお前に負担をかけてまで果たすことでは」
「果たすことだよ。あんた印刷機の他に、明るい未来の話したことねーじゃんか」
 本当にいいんだと押し切られる。食い下がろうとしたけれど「恩に着ます! レイモンド様ぁ!」と突進してきたパーキンに跳ね飛ばされ、ルディアは一歩後退した。
 ウンベルトはにこにこと「善は急げだ。早速行こう」と槍兵を急かす。少額請求に訪れていた者たちや一番弟子の恋人は日を改めるよう中年紳士に促され、一人また一人と引き揚げていった。
「……私も行こう。おそらくイェンス一人では足りない」
 眉間を押さえてオリヤンが深々と嘆息する。亜麻紙商は金の工面をするためにひと足先に工房を後にした。
「君も来たまえ、一番の当事者ではないか」
「ええっ!? イ、イェンスの船にですか!? ごじょうだ……グエエッ!」
 首根っこを掴まれたパーキンもウンベルトに引きずられていく。「の、喉絞めないでくださいよォ!」と哀願する声は次第に地上に遠ざかった。
 ほんの一瞬、ランタンの灯りが燃える薄暗闇にルディアとレイモンドは二人きりになる。陽光差し込む階段を仰いで槍兵は微笑んだ。
「……じゃあちょっと行ってくるわ。あんたは印刷機の番を頼む」
「いや、私も一緒に」
「いいからあんたはここでデートの行き先でも考えといてくれって。……額が額だし、頭下げることになるだろうし、見られたくねーんだよ」
 困り顔で告げられて「だったらお前も行くな」と睨む。もはや主従でもないのにそんな献身は不要だと。
「今ならオリヤンの目もないし、イェンスに会わずにコーストフォートを出発できる」
「……戻ってきたらぱーっとやろうぜ。この五十万ウェルス、大して残らねーかもだけど」
 レイモンドは最後まで笑顔を崩さなかった。止める間もなくルディアを振り切り、階段を駆け上がっていってしまう。
 ――馬鹿者が。
 苦々しく舌打ちし、唇を噛む。どうしてなんて、本当は考えるまでもないのかもしれない。




 ******




 待ち侘びていた男の名前が耳に入ったのはコーストフォートの市門をくぐる直前だった。
「おい、聞いたか? イェンスが来てるらしいぜ」
 しかめ面でそう話す若い男を振り返り、カロはその場に足を止める。荷運びの列が滞り、あちこちから文句が飛んできたけれど、そんなことはどうだって良かった。
「そりゃマジか? おっそろしいなあ」
「俺らがセイラリアから戻る前に消えてくれるといいんだが」
 そう声を潜める人夫のもとへつかつかと歩み寄り、「イェンスがなんだと?」と問いかける。
「うわっ、な、なんだよお前」
「今イェンスの話をしていただろう」
「あ? ああ、港にあいつのコグ船が入ったんだ。商売しにきたって感じでもないらしくて、薄気味悪ィなって皆で……」
 終わりまで聞かずにカロは担いでいた大袋を下ろした。目の前の青年にそれを押しつけ、商都に向かう労働者の群れと反対方向に歩き出す。
「お、おい! 仕事ほったらかしてどこ行くんだ!? 俺にこの荷物運べってのかよ!?」
 引きとめる声は耳に入らなかった。ようやくあの男に会える。そう思ったら居ても立ってもいられなかった。
「喜べイーグレット。これでお前の仇に一歩近づくぞ」
 少し遅れてついてくる若い友人に笑いかける。イーグレットはなんのことかわからないという顔で首を傾げた。
「覚えていないのか? お前を死に追いやった、薄情なアクアレイア人だ」
 尋ねると少年はいっそうきょとんと目を丸くする。どうも本気でルディアに何をされたか忘れているらしい。仕事はいいのかと問うようにイーグレットはしきりに市門を振り返った。
「……安心しろ。たとえお前に思い出せなくとも、俺が必ずお前の無念を晴らしてやる」
 河港へ続く大通りを急ぐ。東西に長い街なので、イェンスに会えるまで少し時間を食いそうだった。だがそれも、ここまでの月日を思えば微々たるものだ。
「地の果てまででも追い詰めて、きっとこの手で殺してやるからな」
 物騒な言葉に少年はびくりと華奢な肩をすくませた。更に足を早めたカロをイーグレットは懸命に追ってくる。伸ばされた手が何度も己を擦り抜けていたことにカロは少しも気がついていなかった。
 前しか見ていなかった。憎い女の幻しか。
 後戻りできぬ道を進んでいく。胸の炎に急き立てられて、ただ前へ。




「えっ?」
 見知った男とすれ違った気がしてアイリーンは人波を振り返った。ぐるりと一帯を見渡すもその姿は既になく、見間違いだろうかと悩む。
「…………」
 目を凝らしてもやはり彼はどこにもいない。賑わう街にはめいめいの生活を送る人々が西へ東へ行き交うのみである。
 今は頼まれた買い物の途中だ。早くパンと薬を買いにいかなければ。下宿で腹をすかせたハイランバオスが待っていることを思い出し、無理矢理前に向き直った。この街も随分ロマが多いから、彼を見た気がしてしまっただけだろう。きっとそうに違いない。
(……でもなんだか引っかかるわ)
 のろのろと雑踏の隙間を縫いながらアイリーンは胸を押さえた。
 アクアレイアを去ったカロはサールに行かなかったようだった。北パトリアにはイーグレットと共通の知人がいると聞いたことがあるし、案外本当に近くにいるのかもしれない。もしばったり出会っても、どうしていいかわからないが。
(友達甲斐がないわね、私)
 今だって、すぐに名前を呼べば良かったのにそうしなかった。考え直させる自信がなくて逃げている。剥き出しの憎悪と対峙するのが恐ろしくて。
(こんなの友達って言えるのかしら?)
 彼はいつも味方でいてくれたのに、自分はそうなれていない。嘆き、呪い、苦しむ彼の力に少しもなれていない。
 ブルーノに脳蟲を寄生させた十五の歳、アイリーンは父に家を追い出された。北へ北へと流れたけれど根を生やせず、アクアレイアに逃げ帰ったのは三年後。そのときモリスがカロの話をしてくれた。「今は遥か東の国で、お前さんと同じようにひとりぼっちでいるはずだ」と。
 ジーアンで彼を見たときすぐにわかった。生物学的な見地からオッドアイについて語るとおかしそうに吹き出された。寂しい夜は故郷の歌を歌ってくれた。実物を見もしないうちから蟲の存在を信じてくれた。グレースの悪事を止める手伝いをしてくれた。いつも、いつも、見捨てずに支えてくれた。それなのに自分は。
(でも私、姫様に剣を向けるなんて……)
 何度も何度もかぶりを振る。気づけばパン屋の軒先を通り過ぎていて慌てて道を引き返した。
(私、こんなところまで来て何をしてるの?)
 ハイランバオスの小間使いをするために皆と離れてきたのではない。己の罪を少しでも償うために旅立ったのだ。それなのに、今度こそ変わらなければと思ったのに。
 本当に、何をやっているのだろう。




 ******




 自分でもらしくないことをしていると思う。ちょっと格好つけすぎたかなとレイモンドは苦笑した。
 あの男に頭を下げるなど本当にできるのか、想像してもまるで現実感がない。胸にあるのは、結局誰かを当てにせざるを得ない自分に対する不甲斐なさだけだった。
「おお? なんだ、早かったな?」
 桟橋に戻ってきたレイモンドを見下ろしてイェンスが口元を綻ばせる。薄い水色の双眸は後方に控えたウンベルトを捉えてはたと停止した。スヴァンテや他の乗組員も縄梯子を放ると同時、招かれざる客に気づく。
「どうも、どうも」
 艶めく頬髭を撫でつけてウンベルトはにこやかにお辞儀した。そんなことで気まずさは拭いきれなかったけれど。
 レイモンドがアミクス幹部を連れてきたことで、なごやかに送別会の支度をしていたコグ船の空気は一変した。どういうことだと怪訝げな視線が飛び交う。ウンベルトに続き、パーキン、オリヤンまで甲板に上がってくると、イェンスが船長らしく説明を求めた。
「なんの用だ、ウンベルト? 珍しいじゃねーか。あんたが俺の船に顔を出すなんて」
「いや、別に大したことではないんだ。ご子息と少々込み入った話があってね」
 男の発言にぴくりとイェンスの片眉が動く。老水夫たちは警戒を強め、腰に結わえた短い斧に手をかけた。ウンベルトは怖気づいた様子もなくパーキンを前方に突き出す。そのまま彼はすくみ上がるモミアゲ男を紹介した。
「こいつはパーキン・ゴールドワーカー。この街の金細工職人だ。実は彼、我々アミクスに借金をしていてね。しかも期日が過ぎたのに、その金を返せないと言うのだよ」
「? それがどうしたってんだ?」
 イェンスは眉間にしわを寄せて問う。赤の他人が誰にいくら借りていようと自分たちには関係ないだろうという顔だ。
「ふふ、実はね、彼は君の息子の仲間らしい。私がパーキンの財産を取り上げようとしたら、そいつは困ると止められてしまったんだよ。代わりに金を用意してくれるって言うんでこうしてついてきたわけさ」
「なっ……!? ほ、本当か?」
 コグ船は大いにどよめく。ばつの悪さに目を逸らしつつレイモンドは「ああ」と頷いた。
「どうしてもアクアレイアに持って帰らなきゃならねーもんが差し押さえられちまいそうなんだ。だからなんとか、こっちで払ってやれたらと思ってる」
「そ、そうなのか。……ここに戻ってきたってことは、この間の宝石だけじゃ足りなかったんだな? な、仲間の借金ってのはいくらなんだ?」
 イェンスは怖々と問うてきた。ここで誤魔化しても仕方ない。レイモンドはできるだけ平静に「い、一千万ウェルス……」と答える。
「はああ!? 一千万ウェルス!?」
 思った通りコグ船の男たちは目を剥いた。「一千万ウェルスって何レグネだ?」「に、二千六百万レグネ!?」「そんな金どこにあるんだよ!」と甲板は大騒ぎになる。
「二百五十万……いや、三百万ウェルスなら私も出せるんだが」
 そうオリヤンが申し出ても怒号は一向に収まらなかった。
「そのどうしても持って帰らなきゃなんねえものってなんなんだ!?」
 スヴァンテに問われ、レイモンドは返答に窮する。印刷機の話なんてしても理解を得られると思えなかったからだ。
 だがそれでも話さなければ筋が通るまい。慎重に言葉を選び、レイモンドはアレキサンダー三号について説明を試みた。
「本とか護符とかを刷る機械だよ。手で書くより手間も時間もかからねーし、一度にたくさん作れるんだ」
 案の定イェンスたちはぱちくりと瞬きする。その重要性も、金の匂いも嗅ぎつけられず、彼らはいっそう顔を渋くした。
「おいおい、わけのわからねえこと言わねえでくれるか? 本とか護符とかを刷る機械? それがなんの役に立つってんだよ」
 スヴァンテは話にならないと首を振った。「財産差し押さえっても奴隷として売られるわけじゃねえんだろ? だったら他人に頼らずに、こつこつ真面目に返していけばどうだ?」と至極真っ当な意見をのたまわれる。
「それじゃ駄目だから言ってんだろ」
 もどかしさを堪えてレイモンドは続けた。
「今のアクアレイアには必要なもんなんだよ。また同じもの作ろうと思ったらもっと金がかかるんだ。だから……」
「いや、アクアレイアが大変だって話は俺らもオリヤンから聞いたがよ、それなら持って帰るべきなのは食糧とか毛皮とか生活に必要なものなんじゃねえの? やっぱ意味がわかんねえよ」
「……っ」
 この男とは話していても埒が明かない。意を決し、レイモンドはイェンスに向き直る。先見の明のない相手を理屈で説き伏せるなんて不可能だ。なら情に訴えるしか道はない。
(ほんと金持ってないっつーのは屈辱的だよな)
 やりたいこともできないし、やりたくないことをやらずにいることも許されない。ただ思い知らされるだけだ。立場の弱さや人生のままならなさを。
 頼み事などしたくなかった。援助の一つもしてくれなかった父親に、助けてくれなんて言いたくなかった。
 だがそれでルディアの力になれるなら、そうするしかないではないか。
「貸してくれねーか、一千万ウェルス」
 拳を握り、この通りだと頭を下げる。なるべく早く返すからとレイモンドは一時の貸し借りであることを強調した。
「…………」
 イェンスは是とも否とも答えない。腕を組んだまま黙り込み、顔を上げないレイモンドを見つめてくる。
 老水夫たちはそんな船長をひやひやと眺めていた。彼らが「断れ、断れ」と念じているのはレイモンドにもわかっていた。
「……スヴァンテ、帳面見せてくれ。俺のと船のと両方だ」
 イェンスは副船長を船長室に走らせる。届けられた分厚い帳簿にしばし無言で目をやった後、男は残念そうに呟いた。
「……皆の老後の蓄えまで合わせても二百五十万ウェルスがやっとだ。お前の五十万ウェルスと、オリヤンの三百万ウェルスを入れてもまだ四百万ウェルス足りない。なんとかしてやりたいのは山々だが……」
 イェンスが開いて見せてくれた帳簿からは何度確かめても同じ計算結果しか出てこなかった。ダメ元でパーキンに「四百万ウェルス出せるか?」と聞いてみるが「持ってるわけねえだろ!」と怒鳴られる。聖女のサイン入り神話集を売っても四百万には届かないだろう。万事休すだ。これ以上どうしようもない。
「ふふっ、なるほどねえ。君、思ったより小金を貯めているじゃないか」
 忍び笑いを漏らしたのは傍らで顛末を見守っていたウンベルトだった。「君がこちらの条件を飲むなら四百万ウェルスくらいおまけしてやってもいいが?」とアミクス幹部は得意げに髪を掻き上げる。
「えっ!?」
「お、おまけって本当ですか旦那様!?」
 目を潤ませるパーキンにウンベルトは「もちろん。だがイェンス次第だよ」と頷いた。
「……一応聞くが、どんな条件だ?」
 手練手管のオーラ漂う紳士の狙いはどうやらこちらの後出しする条件のほうにあったらしい。ウンベルトには最初からイェンスに一千万ウェルス出せないことがわかっていたようだった。ダシにされたなと直感したが、レイモンドは何か言える立場になかった。大人しく彼の言う条件とやらに耳を傾ける。
「この際だからはっきりと言わせてもらおう。イェンス、君たちのアミクスに対する重大な背信行為、それをただちにやめてもらいたい」
 意外な言い渡しにレイモンドはえっと瞠目した。
(ア、アミクスに対する重大な背信行為?)
 なんだそれはとコグ船の船乗りたちを一瞥する。戸惑うレイモンドとは対照的に、イェンスはさしたる動揺も見せず、もっと言えば多少ふてぶてしく尋ね返した。
「なんのことだ?」
「とぼけたって無駄だ。北パトリア海と北辺海の荒れ狂う海峡を、妙な力で君の船――いや、君の船団だけは易々と越えていける。君がアミクスを通さずに、新興都市の成金どもを我々の縄張りたる北辺海に招き入れているのはわかっているんだよ。そんなことをされては都市同盟の存続に関わる! 君たちはそれで割のいい臨時収入を得ているのかもしれないが、全体のためには百害あって一利なしだ。私の言っている意味がわかるかね?」
「えっ、えっ、どういうこと?」
 まったく話についていけず、レイモンドはウンベルトに尋ねた。「どういうも何も!」と怒り心頭で彼は答える。
「君はアクアレイアから来たのだったね。よろしい、ならば我らがアミクスの窮状を説明してさしあげよう! 北パトリア商業都市同盟は北パトリア海及び北辺海沿岸に位置する交易都市の総称だ。我々は二百年もの昔から助け合い、支え合い、独自の交易路を確立し、損も得も分け合ってきた。ただこの交易路というのが曲者でね、北パトリア海から北辺海に入る際、凄まじい霧と暴風と潮流で幾百という船を葬り去ってきた魔の海峡を通らなくてはならないのだよ。あまりに多くの命が失われたため、アミクスは同盟発足の年、この海峡の航行を禁じた。代わりにコーストフォート市とセイラリア市を結ぶ街道を整備したのだ。こうして我々は陸路で積み荷を運ぶことになり、危険な海峡を回避するようになったわけだ。ところがイェンスは違った! この男には神がかった力があって、魔の海峡も真冬の海も物ともしない。彼がアミクスに登録した頃はまだカーモス族の残党が北辺の各所に息を潜めていたから、我々はイェンスの船にだけは特別に魔の海峡の航行許可証を発行した。今もその証書は有効だ。そして君のお父上は、そいつを利用してとんでもない悪事を働いているのさ!」
 息つく間もなく捲くし立てられ、レイモンドはぽかんと目を丸くする。更にウンベルトはイェンスの悪事についても語り始めた。
「時代は移り、航海術が発達し、船そのものも昔に比べて頑強になった。それはいいことだと思う。しかしアミクスには災難な面もあった。西パトリア海の商人どもが台頭してきて我々の勢力圏を侵すようになったのだ。奴らは一向にアミクスに従わず、陸路で関税を払うこともせず、魔の海峡を通って北辺海にやって来る! 何故そんなことが可能なのか? 調査して突き止めたのは君のお父上が一枚噛んでいるということさ。なんとこの男は我々に秘密であの海峡の案内料を取っていたんだ! 信じられるか? 彼だってアミクスの一員なのにだぞ? 今まで我々が西パトリア海に売りにいっていた商品は西パトリア海の商人どもが売りさばくようになってしまった! 西パトリア海で買いつけていた商品も同じ運命を辿った! 北辺海に織物を運んでも、もう以前の半値でしか売れやしない! それもこれもイェンスの進んだ航路を成金どもが覚えてしまったせいだ! このまま連中を放置すればアミクスの権威はどんどん失墜することになるだろう。もしかすると同盟内部にも海峡を渡って交易する者が現れるかもしれん。そうなったらどうなると思う? サールリヴィス川のある我が市はともかく、陸路の関税が収益の七割に及ぶセイラリアはおしまいだ! 本当にアミクスがなくなって、秩序も何もかも失われてしまうかもしれないのだよ!」
「お、おお」
 それは確かに一大事だ。ぜえぜえと肩で息をするウンベルトにレイモンドはこくこくと頷く。
 そうか、それでディータスの街を出てからついてくる船が増えたわけだな。こいつらもなかなか悪どい小遣い稼ぎをするではないか。
「許可証には『イェンス一行の航行を認める』って書いてある。俺たちゃ別に決まりを破ってはねーよ」
 ところが犯行を指摘された本人は反省のはの字さえ見せなかった。耳の穴をほじりながらイェンスはいけしゃあしゃあと言い放つ。開き直ったその態度にレイモンドは開いた口が塞がらなかった。
「今までアミクスが俺らに何をしてくれた? パトリア文字の読めなかった頃は二束三文で毛皮買い叩いてくれてよ、今だって同盟の設備もほとんど使わせねーくせに。ささやかな儲けに目くじら立てて、騒ぐときだけは大袈裟に騒ぎやがって。アミクスが俺らにも相応の年金を用意してくれるんなら俺らだって本業の毛皮売りだけでやってけるんだぜ?」
 何を言っているのだこの男は。呪いだなんだと忌み嫌われている身の上で、それでも商売ができるのは、結局アミクスに属しているからではないか。だというのにどうして組織と対立するようなことを言うのだ。
(――ああそうか。こいつは一人じゃないからか)
 己との明確な差に思い至って腑に落ちた。イェンスには仲間がいる。たとえ同盟から追放されても一応は食っていけるのだろうし、アミクスはアミクスで海賊避けの用心棒に使えるイェンスを手離したくないに違いない。なんの力も持たないガキが、百戦錬磨の商人の国で命を繋いでいたのとはまったく事情が異なるのだ。この男は、きっと今まで他人のお情けにすがることなどなかったに違いない。
(…………)
 胸がざわつく。冷たい汗が脇を濡らした。
「君の言い分などどうでもいい」
 ウンベルトの冷めた声にはっと我を取り戻す。
「私が聞きたいのは同盟に許可証を返上する意思があるかないかだ。君がそうしてくれるなら返済は六百万ウェルスで勘弁してやろう」
 どうするね、と問いかけるアミクスの重鎮にイェンスはちっと舌打ちした。スヴァンテがしゃしゃり出てきて「金も証書も渡すわけねえだろ。老後の生活がかかってんだぞ!」と吠える。
(だけどオリヤンさんから仕送り受け取ってるんだろ?)
 冷静な声が脳裏に響いた。六百万ウェルス出したって、急に生活が立ち行かなくなるわけではない。船や積み荷を差し出せとまでは言われていないし、店を構えた昔の仲間もきっと助けてくれるんだろうと。
(なら俺に、貸してくれたっていいじゃねーか)
 一千万ウェルスじゃない。六百万ウェルスでもない。宝石の分を入れたって、たった三百万ウェルスだ。しかも航行許可証は、自分たちの浅慮が理由で没収されるも同然だ。
(こいつなんて言うのかな)
 レイモンドは難しい顔でうつむくイェンスを見やる。出すと言うのか、出さないと言うのか、固唾を飲んで見守った。
 もしもできないと言われたら。それは無理だと言われたら。俺は。俺は――。
「……銀行証書と航行許可証を取ってくる」
 踵を返し、イェンスは船長室に向かった。後ろでオリヤンが盛大に溜め息をつき、懐から三百万ウェルスの証書を取り出す。船員たちは顔面蒼白で「おい、嘘だろ!?」「だって蓄え全部だぞ!?」と絶叫した。
「イェンス! 待て、この馬鹿野郎!」
 慌てて駆け出したスヴァンテが船長の後を追っていく。だがイェンスは考えを変えずに戻ってきたようだった。
「ほら、持ってけよ」
「おおっ! ほっほっほ、いやあ、これでようやく海峡問題の対策が立てられそうだ!」
 目的を果たしおおせたウンベルトは飛び上がって喜ぶ。レイモンドから宝石を、オリヤンから三百万ウェルスを受け取ると、彼は上機嫌でパーキンに手を差し伸べた。
「さあパーキン、この借用書を受け取りたまえ! ついでにアミクス商館まで一緒に徒弟を迎えにいってやろうじゃないか!」
「うおお! あ、あんなにでっかい負債がさっぱりと……! 皆様ありがとうございました! 本当にありがとうございました!」
 ぺこぺこと感謝の礼を捧げると金細工師は風のごとく縄梯子に足をかける。「ネッドと合流したら工房に戻るから!」とだけ告げてパーキンはそそくさとコグ船を降りていった。ウンベルトもやはり許可証を返してくれと言われる前に退散する。部外者がいなくなると甲板は一気に険悪なムードに包まれた。
「……何考えてんの、お前?」
 スヴァンテがイェンスに詰め寄る。
「自分が何したかわかってんのか?」
 マントの襟ぐりを掴まれたイェンスは「わかってるよ」と長い息を吐いた。
「また貯め直す。責任は俺が取る。それでいいだろ」
 スヴァンテの鼻息は荒い。当然次の矛先はレイモンドに向けられた。
「ふざけんなよてめえ、俺らの船めちゃくちゃにしやがって」
 眉を吊り上げ、耳の先まで赤くしてスヴァンテはこちらに凄む。イェンスにたしなめられても副船長は聞かなかった。
「だからいい金ヅルだと思われてんじゃねえのかっつったんだ! 俺の言った通りじゃねえか! すっからかんになるまで搾り取られやがって!」
 スヴァンテは激しく怒鳴り散らす。その物言いにカチンときて、レイモンドは思わず口答えしてしまった。
「返すって言っただろ。搾り取るってなんだよ?」
「お前みたいな奴から返ってくると思えねえだろ! つけ上がりやがってクソガキが!」
「は? 自分で言ったことくらいちゃんと守るけど?」
「ま、まあまあ、二人とも落ち着いて!」
 すっ飛んできたオリヤンに後ろから肩を掴まれる。スヴァンテも振り上げた拳をイェンスに抑え込まれていた。乗組員の大半はスヴァンテと同じ気持ちのようだ。船長の手前、加勢こそしないものの嫌な目つきでレイモンドを睨んでくる。
「大体返すとか言って、航行許可証はどうしてくれるんだ? 俺らには貴重な収入源だったんだぞ?」
「そんなもん収入源にしてるあんたらが非常識なんだよ。アミクスが構成員を守るのは、構成員がアミクスを守るからだろ? 少なくともアクアレイアじゃ国や組織はそういうもんだって大切にされてたぜ。アミクスが何をしてくれたとかほざく前に、あんたらがアミクスにもっと貢献しなけりゃならなかったんじゃねーの?」
「ああ!? 最初から俺らを見下してた連中に、なんで俺らが擦り寄らなきゃなんねえんだよ!」
「同じじゃねーんだし立場違って当たり前だろうが! パトリア人の同盟に、北辺人が入れてもらっていきなり対等に扱われるかよ! どうせ気に食わねえ奴らだとか言って仲良くやろうとか協力しようとか考えもしなかったんだろ? 似た者同士で傷舐め合ってりゃ寂しくはねーもんな!」
「んだとてめえ!」
 激昂したスヴァンテがイェンスを振り切って突進してくる。オリヤンが邪魔で避けきれず、拳はこめかみを掠めていった。
 鋭い痛みに眉をしかめる。爪が触れたのか頬が少し切れていた。
「……見た目はイェンスそっくりでも、てめえは俺らと根本的に違うんだってよくわかったぜ。アミクスの肩を持つんだな? 俺たちゃ奴らに散々煮え湯を飲まされてきたのに」
「煮え湯飲まされたら全部敵かよ。世渡りヘタクソすぎなんじゃねーの? 金出してくれたことには感謝してるけど、あんたたちとは一生わかりあえそうにねーわ」
 至近距離での睨み合いに火花が飛ぶ。しかし不意に緊迫が緩み、唇を噛んだスヴァンテが苦々しく吐き捨てた。
「感謝してるっつうならよぉ、一度くらいイェンスのこと親父って呼んでやれよ……!」
「……!」
 思いがけない言葉に面食らう。スヴァンテを羽交い締めにしていたイェンスも、目を丸くして腕を解いた。
「…………」
 瞠目したままレイモンドは後ずさりする。ほんの一瞬、期待の滲んだ双眸がこちらを見やり、かぶりを振った。
「スヴァンテ、何言ってんだ。レイモンドも、気にしなくていいぞ。んなもん頼まれて口にするようなことじゃねーからな」
 呼んでほしい。顔にはそう書いてあった。わかりやすいくらいはっきりと。
 また胸がざわついて、目の前が暗くなって、上手く呼吸ができなくなった。親父って、と腹の底で嘲笑う。
 理性では――いつも正しい勘定のできる理性では、三百万ウェルスの対価にそれくらい払ってやれと、支払うべきだとわかっていた。
 同時に凄まじい反発が胸の奥から湧き起こる。たかが三百万ウェルスごときでと声がする。
「……なんだよそれ? 気遣いのつもりか? あんたにそういうことされるとすげームカつくんだけど」
 半分笑って告げた言葉にイェンスの眼差しが揺れた。
 首の紐に指をかける。セイウチの牙のぶら下がった、時代遅れの首飾りを服の下から引っ張り出す。
「――こんなことくらいで何かしてやった気になれる人間を、父親なんて思うかよ!」
 引きちぎったお守りを船の外に投げ捨てて、レイモンドは甲板を飛び降りた。どうやって桟橋に着地したのか、どこをどう走って港を出たのか、ろくに認識もできぬまま大通りを駆け抜ける。
 もういい。もうどうだっていい。ひとまずにせよ金の問題は解決したのだ。今日はもう、眠りにつくまで一切何も考えたくない。
(そうだ、姫様とデートするんだ)
 一緒に楽しい時間を過ごして、潰れるまで飲んで騒ごう。それくらいの金はまだ残っている。何もかも忘れてしまえ。ああだけど、うっかり使ってしまわないように、去年貰った記念硬貨だけは別にしておかなければ。
「……ッ!?」
 急に誰かに腕を掴まれ、レイモンドは思いきり前につんのめった。全速力で走っていたからとても止まれなかったのだ。
「なんだよ! 花も焼き菓子も買わねーぞ!」
 振り返って血の気が引く。広場の露店の客引きだろうと思ったのに、そこにいたのは最も会ってはならない男だった。深い闇を宿す漆黒の左眼と、不吉を告げる黄金の右眼に見据えられ、数分前の出来事が全部頭から吹き飛ぶ。

「見つけた」

 車が通りがかったのは幸運だったとしか言いようがない。二頭馬車の進路に立っていたレイモンドとカロはちょうど真ん中で分断され、一も二もなく逃げ出した。砂煙が、人混みが、目隠ししてくれている隙に。
 道は頭に入っていた。何度も後ろを振り返りながら駆け抜けた。
(最悪だ)
 まだ皆と合流できていないのに。今は自分一人しかいないのに。
(なんでこんなところにいるんだよ……!)
 姫様に知らせなければ。なんとか彼女を安全な場所に移さなければ。
 けれどルディアが素直に街を出てくれるだろうか。自分からカロに会おうと言い出しはしないだろうか。
(考えろ俺!)
 どうすればいい。どうすればあの人を守れる。全力疾走しながら出した答えは「とにかくあいつと姫様を接触させない」だった。
 レイモンドは工房街をひた走る。錆びついたティアラの看板は道の先に見え始めていた。




 転がり落ちるようにして地下へと続く階段を駆け下りる。何もない地下倉庫に、ルディアの姿が見えなくて焦った。燭台のろうそくが燃えていたので中にいるのはすぐわかったが。
「レイモンド、大丈夫だったか?」
 奥のワイン蔵から顔を出してルディアが尋ねる。どうやら彼女はアレキサンダー三号を施錠できる小房に移動させていたようだ。これ幸いとレイモンドはルディアに駆け寄った。
「話は一応片付いたけど、ちょっと面倒なことになっちまった。蔵の鍵は?」
「鍵ならこれだ。面倒なこととは?」
 差し出されたものを奪い取り、間髪入れず彼女を奥へと突き飛ばす。唐突な暴力行為に反応できず、ルディアが尻餅をついている間にレイモンドはワイン蔵を出て外から急いで鍵をかけた。
「!? レ、レイモンド!?」
 驚いた彼女が頑丈な扉に取りつく。格子のはまった小窓を挟んで「ごめんな」と誤った。
「しばらくそこに隠れててくれ。あいつをなんとかしたらまた呼びにくるから」
 勘のいいルディアにはそのひと言で何があったかわかったらしい。わななく声で「カロに会ったのか?」と問われる。沈黙で答えて背中を向けた。
「レイモンド! おい、レイモンド!」
 金切り声の響く中、地下倉庫のドアを開ける。とにかくカロに見つかる前にコーストフォートを出なければならなかった。速やかに船を手配し、パーキンとその徒弟にも別の街で落ち合おうと伝えなければ。
(大丈夫、後ろには誰もついてきてなかった。大丈夫だ)
 心臓をなだめ、そろりそろりと階段を上がる。まっすぐな階段の、長方形に切り取られた出口に色あせたコートがなびいたのはそのときだ。
 血が凍る。逆光でろくに見えないのに、冷たく燃える炎のような眼光は見て取れて。
 もう少しだけルディアと話してから外に出れば良かった。そうすればあの男も無人の階段を一瞥し、さっさと他の場所を探しにいったに違いない。嘆いたところで今更だが。
「…………」
 かつん、かつん。無機質な足音を響かせてカロが地下へと降りてくる。
 背中の槍に手を回したが、穂先を向ける覚悟はまだ持てていなかった。友人が歌っていたという歌を、楽しそうに口ずさむイーグレットの姿がまざまざと思い出されて。カロのほうはとっくにそんな甘さとは決別していたというのに。
「……そこにいるんだな?」
 どけ、と顎で促される。首を横に振ると殺気立った双眸に見据えられた。
「さっさとどけ」
 同じ台詞が繰り返される。レイモンドはやはり首を横に振り、「陛下は絶対、復讐なんて望んでない」と呟いた。
 ロマは眉一つ動かさない。ついと斜めに逸らされた彼の視線が何を見たのかレイモンドにはわからなかった。わかったのは、あんな言葉ではカロの決意が少しも揺らがなかったという事実だけだ。
「あいつは優しい男だった」
 浅黒い手がベルトにかかった二本のナイフの片方を握る。さすがにこちらも槍を構えてごくりと息を飲み込んだ。
「あいつは優しかったから、恩知らずの同胞を責めることもしなかった」
 戦いになる。予感ではなく確信を持つ。カロは強い。初めてこの男と会ったとき、アルフレッドもモモも簡単に投げ飛ばされた。
 戦いたくない。自分たちは敵だったわけじゃない。それにもし、ここで止められなければルディアは――。
「だから俺が、あいつの代わりにあいつを殺したアクアレイア人を殺す」
 迷いなく告げられた言葉に唇を噛む。
「それがあんたの友達の大事に育てた娘でもかよ……!?」
 レイモンドの訴えにカロは冷たく声を重ねた。「娘のはずがないだろう」と。
 瞬間、目にも留まらぬ速さで腹を蹴りつけられた。鞘から抜かれたナイフに注意を逸らした一瞬の隙に、槍の柄と両腕の間を縫って。吹っ飛ばされた身体はそのまま扉を破り、工房の床に転がった。
「……ッ!」
 ゲホゴホと咽るこちらを横目に悠然とロマが踏み込んでくる。倉庫内を一瞥し、ワイン蔵に仇敵を認めてカロは「そこか」と呟いた。
「出てこい。息の根を止めてやる」
 そうはいくかとレイモンドは痛みを堪えて立ち上がる。再度槍を構え直し、止まりそうもない背中に告げた。
「姫様に手出しはさせねー。俺が相手になってやる」
「レイモンド! 馬鹿、何をしているんだ!」
 格子を掴んでルディアは激しく蔵の扉をガタガタ揺らす。彼女が自分の意思とは無関係に出られないのだと悟ると、カロはくるりとこちらを振り向いた。
「お前が鍵を持っているのか?」
「さあな。たとえ持ってたとしても今のあんたにゃ渡さねーよ」
「邪魔をするならお前も敵だ」
「こっちの台詞だぜ。姫様におかしな真似してみろ。その腕切り落としてやるからな」
 戦いたくない。だがこうなっては仕方ない。イーグレットの親友に武器など向けたくないけれど、その親友が愛娘の命を奪おうとしているのだ。己のためにも、ルディアのためにも、イーグレットのためにも退くわけにいかなかった。
「あんた自分が陛下の守ろうとしたものをめちゃくちゃにしようとしてるってわかってんのか?」
 レイモンドの問いかけにカロの動きが一瞬止まる。どういうことだと怪訝に眉を寄せるので、「なんのためにあの人が一人でコリフォ島に行ったと思ってんだよ?」と付け足した。
「あの人は、自分以外の誰も傷つけまいとしてたんだ。それも誰かに押しつけられてじゃなく、自分の意思でだ。確かに姫様は陛下の介錯したかもしんねーよ。けどあのとき陛下はもう、そこに誰もいなくてもアクアレイアの王として死のうって決めてたんじゃねーか! 友達のくせにそんなこともわかんねーのかよ!?」
 必死にカロを説き伏せる。ルディアに矛先を向けさせないために。だが返されたのは悲憤に満ちた言葉だった。
「そのアクアレイアの王というのが問題だ。冠や玉座があいつをあの国に縛りつけた。もしイーグレットが自由なら、きっとずっと俺と旅を続けていたろうに。あいつはアクアレイアのために尽くしたが、アクアレイアはあいつに少しも報いなかった。俺にはそれが許せない。国のためとかほざいてイーグレットの人生を食い潰した、血の一滴まで搾り尽くした――。その女は、俺の友人をいいようにした連中の筆頭だろうが!」
 ルディアが息を飲むのがわかった。カロはナイフを逆手に持ち、戦闘態勢に移る。
「だからそれもひっくるめて陛下は納得済みだったんじゃねーかよ!」
 叫んでもロマは聞かなかった。おそらくルディアもまともに聞いてはいないだろう。怒りと嘆きと罪悪感が二人の耳を塞いでいた。これでは説得など夢のまた夢だ。
「レイモンド!」
 閃く刃を跳びかわす。ナイフを叩き落とそうと狙うがロマの動きは敏捷で、寧ろこちらが彼の猛攻を凌ぐのに精いっぱいだった。振りかぶった柄は逞しい腕に弾かれて、また足技が飛んでくる。横っ面に爪先がめり込み、石床に叩きつけられた。
「……ッ!」
「レイモンド! 馬鹿! さっさと鍵を渡してやれ!」
 ルディアに怒号を浴びせられる。これだけ大声で騒いでいるのに近所の者が覗きにくる気配がないのは上階の石工と隣の鍛冶屋がトントンカンカンと仕事に打ち込んでいるせいだろう。第三者が気づいて介入してくれれば事態に収拾をつけられそうなのに、まったく期待できそうにない。
(いや、だけどもうじきパーキンが弟子連れて帰ってくるはずだ)
 それまでなんとか持ち堪えればきっとカロを追い返せる。
 諦めない。俺が守る。そう決めた。――だから。
「うおらッ!」
 鍵を得るべく近づいてきたカロを振り払い、床に半分膝を残した恰好で起き上がる。頬に残る痛みにも、口の中に広がる鉄臭さにも構わず槍を振り回した。
 天井が低いせいで攻撃はどうしても単調になる。拳や蹴りに何度となく打ちのめされ、叩き伏せられ、あれよという間に打撲と裂傷だらけになる。
 実力差にはやはり埋めがたいものがあった。カロはまだ痣の一つも作ってはいなかった。
「レイモンド! もうやめろ! 私なんかを守らなくていい!」
 次第にボロボロになっていく己にルディアが必死で呼びかける。彼女は扉に体当たりしたが、丈夫なワイン蔵はその程度ではびくともしなかった。
(パーキンの奴、いい工房持ってんじゃねーか)
 防御万全のルディアを見やって口角を上げる。痣だらけになりながら薄笑いを浮かべるレイモンドにカロは苛立った様子で眉をしかめた。
「いい加減に鍵をよこせ。俺もそう気を長くしていられない」
「渡さねーっつったろ。俺だって半端な気持ちでここに立ってるわけじゃない」
 睨み合う。譲れない、どうしても失えないもののために。
 一生金だけ大切にして生きていくのだと思っていた。自分はこのまま、王国人になりきれないまま、羨ましさや寂しさからは目を逸らし、へらへら笑って、猫背も治らないままで。
 金さえあれば何もかも手に入るなんて考えたことはない。だが金さえあればもっと楽に生きられるとは思っていたし、稼ぐのも貯め込むのも好きだった。あればあるほど、それがちゃんとした金ならもっと安心できた。
 今はわかる。もしルディアに出会わなければ、一億ウェルスあったって自分は幸せになどなれなかったと。
「何故退かない? お前は最後までイーグレットを逃がそうとしていた。お前はこの女とは違うはずだ」
「……そうだな。できれば俺もあの人には生き延びてほしかったよ。けど姫様も、同じように願ってたこと知ってるからな」
 にわかにカロの目が厳しくなる。ふっと笑って腰を落とし、槍の穂先をロマに向けた。
 一生金だけ大切にして生きていくのだと思っていた。本気でそう考えていたのに、まさか自分が他人のために一千万ウェルスも借金することになるなんて。皆が聞いたらどんな顔をするだろう。モモには熱を測られそうだ。
 アクアレイアに生まれて良かった。ルディアに出会えて本当に良かった。俺はもう昔の俺じゃない。俺はもう、人並みに幸福でいるために、人生に開いた大穴を金で埋めようとしなくていいんだ。
「つまり降参する気はないんだな?」
 静かにカロが問うてくる。威圧的な眼差しに挑発的な笑みを返した。
「惚れた女残して誰が逃げられるかよ」
 ああ、口が滑ったな。そう思ったがルディアの反応を気にかけている余裕はなかった。殺気を増したカロが「そうか」と二本目のナイフを抜いたからだ。
(――来る)
 直感と同時、カロは懐に飛び込んできた。槍のひと突きは紙一重でかわされ、回り込まれた左側面に思いきって肘を打つも足払いをかけられる。レイモンドはバランスを崩してその場に転倒しかかった。よろめいた身体の、がら空きの半身を襲ったのは鋭いナイフの刃だった。
「っ……!」
 鮮血が噴く。殴られたり蹴られたりしたのとはまったく異なる冷たい痛みが左下腹を痺れさせた。
(なんだこれ)
 切られた? 刺された?
 尋常でない出血がレイモンドにその答えを示していた。瞬く間に上衣も下衣も朱に染まる。刃が臓腑に達しているのは明らかだった。
(なんだこれ……っ)
 こんなに痛いもんなのかと傷を押さえてうずくまる。膝をついたレイモンドの前にカロはゆらりと立ち塞いだ。
「レイモンド!」
 ルディアの叫ぶ声がする。なお凶器を握りしめ、追撃を加えようとするロマに彼女は喉が裂けそうなほど大きな声を張り上げた。
「やめろ、カロ! 私のしたことにそいつは一切関与していない! もう何もしないでくれ!」
 歪む視界に血の滴ったナイフが映る。格子窓のルディアを振り返り、淡々とした口ぶりでカロは告げた。
「ロマの世界にもたった一つだけ法がある。血讐(ベリコステ)と呼ばれる法だ」
 石工か鍛冶屋か知らないが、カンカンと響く雑音がうるさい。何をもたもたしているのかパーキンはまだ戻りそうになかった。早くカロをなんとかせねばルディアが危ないというのに。
「ロマとロマの間で殺しが起きたとき、殺されたロマの家族が殺人者、或いはその血縁の誰かを殺す。そういう報復が暗に認められている」
 痛みを堪え、膝をついたままそっと槍を握り直す。カロの目はまだルディアのほうに向けられていた。
「俺とイーグレットに血の縁はないが、同じ報復が認められてもいいだろう。お前は俺の友人を殺したために自分の仲間を殺される。それだけの話だ」
 非情な言葉に空気が凍る。ルディアが愕然と目を瞠る。カロが振り向くその前に、レイモンドは握りしめた槍を投げた。なけなしの力を振り絞ったそれは、あっさり避けられてしまったが。
「……逃げろ! 早く! レイモンド!」
 扉を揺らしてルディアが叫ぶ。ついぞ聞いた覚えがないほど彼女の声は逼迫していた。
 間合いを取ろうと後ずさりするが胸倉を掴み上げられる。傷の上から強かに殴られ、逆流した血を吐いた。
「がはっ……!」
「鍵はこれか」
 懐を勝手に漁り、目的のものを見つけるとカロはレイモンドを投げ捨てる。痙攣する身体を無理矢理ねじり、手を伸ばそうとしたが無駄だった。つい先程閉めたばかりの扉がギイと開かれる。
「待ってくれ。私はどこにも逃げないから、先にレイモンドを医者に――」
 嘆願はぷつりと途切れた。ルディアの足が浮いているのが目に入った。カロが彼女の首を絞め上げているのだ。
(ひ、姫様…………)
 受けた傷は深く、まだ出血が止まらない。早く助けを呼ばなければ。誰でもいいから早く誰かを。
(姫様……)
 しなければならないことはわかるのに、腕も足もまったく言うことを聞いてくれない。歯を食いしばり、壁に寄りかかり、眩暈を堪えてレイモンドは立ち上がった。よろけながら目指した階段は途方もないほど遠かった。




 ******




 生まれる前から息子をずっと守ってきた首飾りが波間に沈んで見えなくなり、嫌な予感が胸をよぎった。コグ船からレイモンドが飛び出すや、噴出した皆の不満で甲板はまた大騒ぎになったけれど、とてもじゃないがイェンスに文句を聞いてやる余裕はない。事と次第を説明しろと求められ、仲間にぐるりと取り囲まれたオリヤンを尻目に大急ぎで桟橋に駆け降りた。
 若さが羨ましくなるスピードで遠ざかるレイモンドをともかくも追いかける。アミクスの街で船を離れることは滅多にないから「うわ、イェンス!?」「ひっ、来るなあ!」と市民はたちまちパニックを起こした。混み合う大通りなのに、進行方向を塞ぐ者たちは我先に逃げていく。ありがたいやら悲しいやら胸中は複雑だった。それでもなかなか息子は見つけられなかったが。
(くそ、どこ行ったんだ?)
 早く側に行かなくては。生贄を求めるカーモス神に食指を伸ばされるその前に。取り返しのつかないことになる前に。
(しくじったな。無理にでもオリヤンを引っ張ってくるんだった)
 自分一人ではレイモンドがどこへ行ったのかわからない。確かあの金細工師は工房に戻ると言っていたが。
「おい、フス、俺はどこに行けばいい?」
 海でも陸でも困ったときは大抵道を示してくれる祭司の右手に問いかける。だが彼も千里眼の持ち主ではない。刺青の入った指は固く握られたままだった。
「……っ!」
 もどかしさに気が触れそうになる。胸騒ぎはどんどん酷くなっていった。
 ああ、もっと強く言い聞かせておけば良かった。お前は本当に危険な身の上なんだぞと。あの子に何かあったらどうすればいい。心配で胸が張り裂けそうだ。
「……!?」
 人影が躍り出たのはそのときだった。この暑いのに、黒いケープを着込んだ白い少年が、音もなくふわりと石畳に舞い降りる。
 正直目を疑った。それはこの世に、こんな若い姿でいるはずのない男だったから。
「イ、イーグレット……!?」
 亡霊は懸命に何かを捲くし立てた。だが声は少しも聞こえない。反応の薄いイェンスに焦れ、いいから来てくれと急き立てるように彼は大きく手招きした。心なしかその額は汗ばんでいるように見える。
 思いがけない人物は、思いがけない場面にイェンスを導いた。大通りを一本逸れた工房街の中ほどの、人目につかない暗い穴。湿っぽい地下へと続く階段をイーグレットが先導する。先へ進むほど濃い血の臭いが漂った。悪い予感は現実のものになりつつあった。
「レイモンド!」
 壁にすがり、ほとんど倒れかけている我が子の名を呼ぶ。駆け寄ろうとすると目線で逆方向を示された。
 振り返ればブルーノが背の高いロマに首を絞められている。腕も足も力なく垂れ下がり、顔色は紫で、意識は残っていそうにない。ひと目で危険な状態と知れた。
「お前がやったのか!?」
 薄汚いコートの男に掴みかかる。どうしてイーグレットが自分の前に現れたのか、イェンスはそのときその理由を知った。
「――……」
 カロ、と呟くと同時、相手もオッドアイを丸くする。
「イェンス? まさかそっちから来てくれるとは」
「な、なんでお前ここに……。一体何して…………」
 呆然とするイェンスにフスの手がブルーノの首に食い込む指を示す。ハッとして「その子を離せ」と声を荒げた。
「俺の息子の友達だ。何があったか知らないが、これ以上はお前でも許さねーぞ」
「息子? 友達? ……なんだ、おかしな縁があったものだな」
 逞しく成長したロマはやや驚いた表情でイェンスとレイモンドを見比べる。解放されたブルーノがどさりと音を立てて床に転がった。ただちに呼吸と脈を確かめるが、剣士はもうほとんど死体と変わらなさそうだ。
「イェンス、こいつはイーグレットの仇だ。こいつがコリフォ島に追放されたイーグレットにとどめを刺した」
「何?」
「俺はこいつに報いを受けさせねばならない。イーグレットの友人として」
「…………」
 カロは窒息させただけでは飽き足らず、もっと念入りに殺そうと言っているようだった。まだ蘇生の可能性があるからかもしれない。だがそれなら、自分はブルーノを助けてやらねば。レイモンドの父親として。
「……カロ、一旦退け。今はお前の話をゆっくり聞いていられない」
「俺に退けだと? まさかイェンス、そいつらに味方するつもりか?」
「なんの判断もできねーからには二人の手当てが優先だ。だから行け!」
 頼むから昔のよしみで頷いてくれと祈る。カロは眉間に深いしわを寄せた後、「死体はいじくり回すなよ」とだけ告げて地下倉庫を出ていった。
 まだあどけなさの残るイーグレットがぺこりと頭を下げてロマを追っていく。何がどうなっているのだか理解は及ばぬままだった。イェンスはこのうえ更に理解不能な我が子の行動を目の当たりにするのだが。
「ば、馬鹿! 何やってんだ! 医者呼んでくるまで大人しくしてろ!」
 下腹からだらだらと血を流したレイモンドがブルーノの横に膝をつく。心臓が止まっているのを確かめると息子は苦痛に呻きながらこちらを仰いだ。
「い……医者は後だ。水を、今すぐ水を汲んできてくれ」
「は、はあ!?」
 脂汗を浮かべて何を言っているのか、さっぱり意味がわからない。「いいから早く!」とレイモンドは怒号を響かせた。
「っ……!」
「お、おい、平気か!?」
「……っ平気、だから、早く、」
 激痛に喘ぐ息子をなんとか横たえようとする。だがレイモンドは残り少ない力で必死に抵抗した。水を汲んできてくれの一点張りで、自分の止血をしようともしない。
「駄目だ、とにかく手当てが先だ。すぐに医者を連れてくるから――」
「水だっつってんだろ! 頼むから行ってくれよ! 俺に親父って呼ばせたいならこれ以上あんたを恨ませないでくれ!」
 血の混じる咳をしてレイモンドが苦しげにのたうつ。こんな息子を放って水など汲みにいけるわけがなく、恨まれたって医者が先だと立ち上がった。
 と、そのとき、イェンスはフスの右手が何かを指差していることに気づいた。示された先に目をやれば、ブルーノの耳からもぞもぞ這い出す「何か」が映る。
(え……?)
 それは確かに生き物だった。透明な、うぞうぞとした繊毛を持つ線虫だった。生贄として洞窟の奥に閉じ込められていた少年時代、戯れにフスが夢に見せてくれた。
(な、なんでフサルクの入れ替わり蟲が……)
 右手がイェンスの肩をつつく。祭司は明らかに急げと言っていた。
「……」
 小さく頷き、階段を駆け上がる。イェンスはすぐ隣の鍛冶屋の扉を叩いた。
「水だ、水を分けてくれ! それと今すぐ腕利きの医者を連れてきてくれ!」




 ちっぽけな掌に、もっとちっぽけな彼女を受け止め、どうすればいいと絶望する。水は多分もう間に合わない。脳蟲は乾いたら死ぬとアイリーンが言っていたのに、この地下倉庫には海水も真水も何もなかった。
 どうにか戻ってくれやしないか耳に近づけてみるけれど、ルディアの動きは次第に弱々しくなってくる。早くも表面が黒ずみ始めた気がしてレイモンドはかぶりを振った。
(いやだ……)
 いやだ、死なせない。そんなこと絶対にさせるものか。
 朦朧とする頭が名案を思いついたわけではない。ただ少しでも湿り気のあるものを与えたかっただけだった。
(姫様……)
 傷口にルディアを押しつけてうずくまる。意識はまだ手離せなかった。彼女をブルーノの肉体に戻すまでは。
「はあ……っ、はあ……っ」
 腕が震える。肩がわななく。だんだん力が抜けてくる。
 唇を噛み、レイモンドはイェンスが戻るのを待った。あいつどうして工房の場所がわかったのかな。カロとも顔見知りだったなんて。思考を続けることでなんとか姿勢を保つ。手の中の彼女が生きているのか死んでいるのか確かめる勇気はなかった。
(姫様、姫様、ひめさま、ひめさま…………)
 そのうち一つのこと以外考えられなくなってくる。怒った顔や悲しそうな顔が瞼の裏に浮かんでは消えた。
 もう一度ルディアの笑顔が見たい。そんな願いとは裏腹に、掌に溜めた血を何度もこぼしそうになる。こんなところで終わりたくないのに。

「レイモンド!」

 水を張った平桶を抱えてイェンスが戻ったとき、レイモンドには目を上げるくらいしかできなかった。なんとか脳蟲の扱いを伝えようとするけれど、声は掠れて音にならない。
 イェンスは何も言わずにこちらの腕を掴んで水中に突っ込んだ。赤い血が霧のように広がって、蟲はぶるりと身を震わせる。それからすぐに彼女は何事もなく泳ぎ始めた。
(よ……、よかっ……、)
 レイモンドは安堵のあまり崩れ落ちる。続いてイェンスはブルーノの上体を起こさせ、平桶に頭を沈ませた。
「フス、次は? もう何もしなくていいのか?」
 誰もいないはずなのに、そんな声が頭上で響く。
「レイモンド、安心しろ。ブルーノは大丈夫だ」
 顔を上げられなかったから何も見えなかったけれど、どうやら蟲は帰るべき巣に帰ったらしい。イェンスが「よくやったな、よく頑張った」とねぎらってくる。
「医者も呼んでもらってるからな。もうちょっとの辛抱だからな」
 そっと床に横たえられ、頭まで撫でられて辟易したが、悪態をつく元気などなかった。なんとか目玉を動かして、赤みの差したルディアの頬を確かめる。
(良かった…………)
 その直後、世界は色を失って、レイモンドは白濁の底に落ちていった。




 ******




「大変だ、大変だ! 工房街で人が刺されたぞ!」
 物騒な大声が聞こえてきたのは頼まれていた買い物を終えた帰り道だった。「どうもロマの仕業らしい」と騒ぎの続きが耳に飛び込み、アイリーンはえっと瞠目する。
(ロ、ロマが人を刺した? 人ってコーストフォート市民?)
 先程カロを見かけた気がしたせいもあり、酷く心がざわめいた。興味深げに集まってきた人々に話を広める男の側へとアイリーンも吸い寄せられる。
「凶器はこんな刃渡りのナイフだったとか! まだそこら辺をウロウロしてるかもしれねえから、お嬢さん方は気をつけなよ!」
 群衆からは「ええっ!? 怖い!」「捕まってないの?」と悲鳴が上がった。逃げたロマの特徴は男も把握していないらしく、あちらこちらで勝手な憶測が始まる。
「そういや俺、最近変なロマを見かけたな」
「もしかして片目を前髪で隠した奴か? 半分だけ金の眼をした」
 荷運び人らしい男たちの囁きにアイリーンは声を失った。動揺のあまり足がよろけて通行人にぶつかり、「ぼけっとしてんじゃねえ!」と怒鳴られてしまう。
(やっぱりさっきのカロだったんだわ)
 考えるより先に足が走り出していた。大通りを東に、ハイランバオスの下宿とは逆方向に全速力で駆けていく。
 コーストフォート市のロマは大抵東の市門周辺をうろついている。今行けばまだ会えるかもしれなかった。会ってどうするかなど、何も考えていなかったけれど。
 事件を起こしたのがカロだとは限らない。だが彼が疑われやすいロマの中で特に疑われやすい容姿をしているのは確かだった。
 探さなければ。助けなければ。その衝動がアイリーンを走らせた。
(一人にしちゃ駄目だったのよ)
 どんなに強く、どんなに孤独に慣れた人でも。いや、だからこそ。
(人任せにしていたら本当に、あの人いつか姫様を殺してしまうかもしれない)
 パンと薬の入った籠を抱えただけでアイリーンは市門を飛び出した。カロに会ってどうするか、何を話すか、頭は空っぽのままだった。




 ******




 先生、先生と悲鳴じみた呼び声が表で響き、ハイランバオスは顔を上げる。続いて下宿の玄関を破壊しそうな勢いでドアをノックされ、やれやれと書き物机のノートを閉じた。
 折角脳蟲の研究記録をつけていたのに無粋な邪魔をして。これだから医者をいつでも持ち出せる救急箱だと考えている人間は。
「急患ですか? この時間なら市民病院がまだやっていますよ?」
 言外に市民は市民病院へどうぞと応対する。上がり込まれては迷惑なので、扉さえ開けなかった。
「ディラン先生、駄目なんです! どうも刺された人間がイェンスと関係あるらしくって、誰も診たがらないんですよ! それにこの街の住民じゃなくて、先生と同じアクアレイア人だそうで」
「えっ?」
 なんだ今の盛りだくさんの情報は。刺されたのはイェンスの関係者? そのうえアクアレイア人だと?
 ハイランバオスはおもむろに玄関を開き、自分を呼びに駆けつけたお人好しの中年女に問いかけた。
「どこにいるんですか急患は? 担架で運んできていないんですか?」
「それがもう、動かせないくらいの重傷で、とにかく早く先生をって」
 人死にが出そうな状況に女は狼狽しきっている。それでも比較的正確に伝言ゲームは行われたようだった。
「あはっ、なんだか面白そうなことになってきましたねえ!」
 さっと身を翻し、ハイランバオスは机の上の革鞄を引っ掴む。助けられればイェンスに恩を売れるし、彼との繋がりも持てることだろう。助けられずともアクアレイア人の死体なら実験にはもってこいだ。
「行きましょう! さあ、私を案内してください!」
 喜々としてハイランバオスは部屋を出た。中年女は涙を浮かべ、「工房街です、パーキン・ゴールドワーカーの金細工工房です」と近道らしい裏通りを駆けていく。
(ちょうど『新薬』の効果を試したかったところです。瀕死の重傷だなんて、いい被験者になってくれそうじゃないですか!)
 ああ、やはり運命は己に味方してくれている。確信を抱き、ハイランバオスはほくそ笑んだ。赤レンガの家屋が連なるうららかな街には、陰惨な傷害事件発生を告げるけたたましい警鐘が鳴り響いていた。









(20170110)