白い帆に目いっぱい風を受け、コグ船は北へと走る。航海は順調だ。この風ならば次の港にも予定通り着くだろう。
 甲板に立ったイェンスは横たわる海を見つめ、よし、と右手を握り込んだ。コーストフォート市にレイモンドを送り届けるまで残された時間は約一ヶ月。親子で過ごせる時間は一秒も無駄にできない。腹を決め、船尾でぼんやりしている彼に近づく。風より読めない気分の持ち主は、今は比較的落ち着いているように見えた。
(大丈夫、普通に話しかけりゃいいんだ。大丈夫、大丈夫)
 ディータスで宝石を買い与えて以来、レイモンドの態度はまた一変していた。にこにこ笑うのをやめて、低い声でぼそぼそと喋る。もちろん視線はほとんど合わない。スヴァンテはそれを「十分金をせしめたからだろ」と否定的に受け取っていたが、イェンスにはレイモンドが落ち込んでいるような気がして仕方なかった。前と違い、話しかければ返事はするし、無用な無視や反発はしないからだ。食事以外の時間にも船内をぶらつくようになった。とはいえ彼が水夫と交流を持とうとすることはなかったが。
「ブルーノはどうしたんだ? お前らいつも一緒なのに」
 船縁に肘をつき、一人で遠くを眺めるレイモンドに声をかける。すると息子は「いつも一緒じゃ向こうも気ィつかうだろ」と寂しげに目を伏せた。
 意外な返答にイェンスは瞬きする。もしかして彼の笑顔が引っ込んだ原因は己ではなくブルーノにあるのだろうか。てっきり自分でも知らぬ間にガッカリさせるようなことをしたものと思い込んでいたのだが。
「ど、どうしたんだ? 喧嘩でもしたか?」
「してねーよ」
 きつく睨まれて一歩下がる。少し喋ってくれるようになったとはいえ、踏み込もうとすると拒絶されるのは変わらないらしい。イェンスはとほほと秘かに肩を落とした。
「ところでさあ」
 ブルーノの話題を打ち消すためか、珍しく息子のほうから話を広げてくる。レイモンドは白く泡立つ波の向こうに視線をやって問いかけた。
「なんか船団の船増えてねえ?」
 目聡い質問にイェンスは「ああ」と応じる。そういえば彼にはまだこの船の副業について教えていなかった。いい機会だし、話しておいてもいいだろう。
 イェンス一行は毛皮商人の一団であるとアミクスには登録されている。だが毛皮の売買だけでは老後に十分備えられないし、不仲なアミクスともいつ決裂するか知れない。そういうわけで時々実入りの大きいアルバイトに手を出しているのである。
「俺らの後にくっついてきてる連中は――」
「船なんて増えちゃいねえよ! ありゃ全部俺らとは無関係の赤の他人だ! こいつの近くをウロウロしてりゃ海賊に襲われる心配がねえもんだから、ああして勝手に群がってくるんだよ!」
 と、藪から棒に割り込んできたスヴァンテが無理矢理話を終わらせてしまう。「おい」と眉間にしわを寄せるイェンスには構わず、副船長は「ちょっと船長借りてくぜ」とこちらの腕を強く引っ張ってレイモンドから遠ざけた。
「おい、なんだよ? 折角二人で喋ってたのに……」
「いいから来いって、急ぎの用事だ!」
 スヴァンテは強引に船長室へと突き進む。扉を閉めるなり「お前なあ、信用できるかどうかもわからない相手になんでもかんでも話すんじゃねえよ!」と叱られてイェンスはムッと唇を尖らせた。
「信用って、息子だぞ」
 反論するもただちに溜め息を被せてこられる。「どこからアミクスに漏れるかわかんねえだろ?」との言葉には「とっくにバレバレだっての」とやり返した。しかしスヴァンテは「それでも明言すんのは避けとけ」と慎重だ。
「これはお前個人じゃなくて俺ら全体の問題だぞ。わかってんのか?」
「…………」
「お前の息子はまだ『お客さん』なんだ。少なくとも俺たちにとってはな」
「…………」
 正論すぎて言い返せない。黙り込むイェンスにスヴァンテは「わかったか? わかったら行ってよし」とどちらが年上かわからない台詞を吐く。渋々ながら頷けば扉は再び開け放たれた。
(なんだよ『お客さん』って……。最初は皆『イェンスの息子なら俺らの息子も同然だ』って言ってくれたのに)
 すっきりしない胸を抱えてイェンスはレイモンドのもとへ引き返した。もう客室に戻ってしまったかもと思ったが、一人船尾に佇む息子を見つけてホッとする。
「レイモンド!」
 名前を呼んでも反応は薄い。しかしそんなことにはへこたれず、次の街には何日後に着く予定だとか、特産品は王侯貴族が好んで羽織る豪奢な毛織物だとか、興味を持ってくれそうな話を捲くし立てた。
 けれどディータスではあんなに熱心に耳を傾けてくれたレイモンドなのに、今回はかけらの関心もなさそうだ。「欲しい物ないのか?」と尋ねても「この間買ってもらった分だけでいいや」と淡白に返すだけで。
「……遠慮しなくていいんだぞ? 財布にはまだ余裕あるんだし」
 イェンスは焦燥まじりに促した。金をかけてやるほかに、どんなことが父親らしい行為なのかわからないから必死だった。そんなこちらの心境を知ってか知らずかレイモンドは小さく首を横に振る。
「んなこと言ってたらまたあの副船長がすっ飛んでくるんじゃねーの」
 皮肉な笑みは彼が船内の微妙な空気に勘付いていることを告げていた。
「あ、いや」
 思わず言葉を濁したイェンスに、レイモンドは「もう行けば? 俺も一人でぼーっとしてたいし」とこぼす。それは今までの拒絶に比べれば遥かに穏やかなものであったが、響きが柔らかいだけに受け入れるしか術がなく、イェンスはそっとその場を追い払われた。
「……えと、そんじゃまた、晩飯のときにな?」
「ああ、じゃあな」
「…………」
 後ろ髪を引かれつつ船尾を離れる。足取りは重く、いつまでも背後の息子が気にかかった。
 愕然としてしまう。飛び越えられない溝の深さに。
 それでも近づく方法はあるはずだと、雪解けの日はきっと来ると信じているけれど。



 これでいいんだよなと嘆息し、レイモンドは海を見つめた。金銭を要求せず、邪険にもあしらわず、淡々と受け流していれば彼女に余計な心配をさせないで済むんだよなと。
(お前はいつも、金にはもっと敬意を払っていただろう――か)
 ルディアの言葉を思い出すにつけ複雑な気分になる。彼女の指摘は正しいが、それは間違いでもあったから。
 あんな男の懐から出た銀行証書を汗水流して得た給金と同じに扱えるわけがない。それが宝石に変わろうと、どぶ水に流されようと、どうでも良かった。使われるべきときに使われなかった養育費など。
(大体どんな商売で貯めた金かもわかんねーしな)
 レイモンドはコグ船の後方を行く十数隻もの帆船を見やる。アミクスの旗を掲げるのはイェンスの船だけで、他は全部ディータスの成金どもの船だった。敢えて突っ込む気もないが、不自然なことこのうえない。これだけの船が一斉に港を発つなんて、まるで初めから示し合わせていたようではないか。
(まあ別に、俺らにゃ関係ねー話だ)
 かぶりを振って思考を散らす。冷静さを欠いている自覚はあった。ルディアの言う通り、いつもの自分らしくないと。
 だからもう、なるべく何も考えないと決めたのだ。私怨に振り回されて一番大事なことを見失ってしまわないように。命を狙われ、自分自身も死ぬつもりでいるルディアのことを、今はとにかく守りきらなくてはならない。些末な己の事情など二の次だ。
(この船降りたら姫様がデートしてくれるって言ってたし、頑張るぞ)
 大丈夫、それならお釣りがくるくらいだとささくれた心をなだめる。
 コーストフォートに着いたら一日だけ楽しんで、サールリヴィス川を遡って、サールで皆と合流して。そうしたら今度は皆でルディアを説き伏せにかかろう。自分は偽者だ、甘んじて死を受け入れる、などとのたまう彼女を。
(アルたち今頃どうしてるかな。アイリーンと、カロの奴も……)
 白い雲のたなびく空に目を細め、レイモンドは深々と息をついた。
 カロが刃を収めてくれればいいのだが、どうすればあの男は思いとどまってくれるだろう。素直に勝負したのでは絶対に勝てない。ルディアに戦意がない以上、皆と一緒になるまではなんとか遭遇を避けなければ――。




 ****




「ああっ! 待って、待って、外に出ちゃ駄目よぉ!」
 どこの誰とも知れない中年男性の顔をした羊を畜舎に連れ戻し、アイリーンはほっと胸を撫で下ろした。「ごめんねえ、お日様の下に出たいだろうけど我慢してねえ」と謝るが「めええ」と答える人面羊に理解した様子はない。彼の脳は人間のそれではなく、顔だけがつぎはぎされた状態なのだ。
「やっぱり家畜小屋に繋ぐんじゃなくて、穀物倉庫の檻に戻してあげたほうがいいのかしら……」
 小窓から覗くレンガ塔を見上げ、アイリーンは重い息を吐く。あそこは暗いし、あまり身動きもできないし、飼育環境的には最悪なのでなるべく使いたくないのだけれど。
「でもあなたたち、うっかり人に見られたら殺されちゃうかもしれないものね……」
 畜舎をぐるりと一瞥し、残酷な光景に胸を痛める。この廃村の牧場跡には脚だけ牧羊犬のヤギだとか、上半身がメスで下半身がオスの牛だとか、尻尾が蛇の犬だとか、頭と身体の模様が異なる猫だとか、山ほどキメラが溢れていた。
 おぞましく哀れな化け物を生み出したのはハイランバオスだ。どんな目的があってのことか知らないが、あの聖者は一帯に人が寄りつかないのをいいことに非道な生物実験を繰り返しているのである。
「……だけど全部私に丸投げしたきりで、あの人どこへ行ったのかしら……」
 魔獣の鳴きやまぬ騒がしい畜舎にぽつりとこぼす。問題の男は廃村から姿を消し、どこへ行ったかまたわからなくなっていた。
 アイリーンがハイランバオスの足取りを掴んだのは半月前、七月初旬のことである。数日後にはディラン・ストーンになりすましていた彼を見つけ出したものの「よくこの隠れ家に来てくださいました!」と逆に歓迎されてしまって今に至る。聖預言者曰く、ちょうど脳蟲の世話に長けた人間が欲しかったそうだ。
 今度こそあの人にアクアレイアを狙った真意を問おうと思っていたのに何をやっているのだろう。ここに来てから餌やりと水やりと干し草運びと畜舎清掃に忙殺されて、研究ノートも読み込めていない。あの人が脳蟲を使ってどんなことができるか調べているのは明らかなのに。
「はあ……」
 吐き出した溜め息は深かった。金輪際あの人には従わない。崇めもしないし感謝もしない。そう決めたはずなのに、現実は上手く行かなくて。
(だけどハイランバオス様――いえ、ハイランバオスが戻ってくるまでこの子たちを放っておけないものね……)
 食べ物をくれと口を突き出す動物たちに順番に飼料を与えて回る。こういう弱さを見抜かれて、いいように使われているのだとわかっていてもどうしようもなかった。元はと言えばバオス教の救貧院でも実験をやめられなかった己が悪い。脳蟲の存在さえ知られなければ、彼らとてキメラに生まれつくことなどなかったのだから。
(そうよ、全部私が悪いのよ……)
 ぐすんと大きく鼻を啜る。すると宙を舞う藁を吸い込んで激しく咽た。脳蟲たちは「おいおい、どうした」「大丈夫かよ?」「頼りないなあ」と言いたげにアイリーンを見つめてくる。
 堪らなかった。アイリーンの間抜けさには気づけても、自分たちの置かれた環境の異常さには気づけない彼らが。以前と何も変わっていない情けない自分が。
 どうしたらいいのだろう。どうしたらカロやルディアに償うことができるのだろう。今ですら個人的な興味でキメラたちに惹きつけられている愚か者なのに。
(こんなんじゃまたあの人に『変わらなくていいんですよ』って惑わされるわ)
 付け込まれてしまう。そのままの自分でいいのだという甘い言葉に。
(それでずっと逃げ回ってきたんじゃない。あの街もこの街も自分には居場所がないって決めつけて、諦めて、挙句の果てにあんな宗教に引っかかって)
 もういい加減にしなくては。もしまたハイランバオスの手を取ってしまったら、自分はきっと永遠にこのままだ。




 ******




 同じ頃、苦悩する女のことなど露知らず、ハイランバオスは北辺海の中央に浮かぶフサルク島の廃墟と化した大神殿の奥にいた。
 石材にはさほど恵まれていない土地なのに、灰色の列柱は高く厳めしい。船をかたどった祭壇も、素朴ではあるが力に満ちて、かつてここに集った人々の勇ましさを想起させた。
 神像という神像が破壊されているのは威容を傷つけるためだろう。広範囲に及ぶ焦げ跡は聖殿がかつて敵対部族の襲撃に遭った事実をまざまざと物語っていた。
「ううん、やはり見つかりませんねえ……」
 祭壇に安置されているはずの聖櫃を探し、ハイランバオスは奥の間を回る。しかし何度見ても、どこを見ても、アークは影も形もなかった。空っぽの船形祭壇の周囲には干乾びて割れた装飾水路が無残な姿を晒すのみである。
「まったくコナーも人が悪いです。知っていたなら教えてくださればいいものを」
 実地調査に入る前に現地での聞き込みは済ませていた。だから聖殿がもぬけの殻だということは承知の上で来たのだが、それにしても酷い話だ。アークがなければ遺跡の価値など無いに等しい。折角レンムレン湖の情報を得られると思ったのに、とんだ無駄足ではないか。
「となると今後どうしましょう。ひとまず脳蟲実験は続けるとして……」
 むうんと頭を悩ませながらもう一度見渡した大神殿は、植物に侵食されてはいるが、土に還るほど激しく風化はしていなかった。地元ルスカ族によれば、聖域が放棄されたのはほんの四、五十年前のことだという。
『ご神体』と最高祭司になるはずだった少年がカーモス族の手に落ちて、彼がルスカ神に疎まれる存在となったため、神官たちは呪われた地を離れることに決めたらしい。聖櫃がどこへ持ち去られたのか手がかりは何もなし。否、それを知っているだろう人間は一人だけ判明していたが、会って話すのは難しそうだった。
 北辺人がこぞって恐れるイェンスという毛皮商人。彼が生贄時代の話を聞かせてくれればカーモス族がアークをどこに捨てたのか推測できるかもしれない。残骸とはいえ探し出す意味はあるはずだ。古き故郷、レンムレン湖にもあったであろう蟲産みの聖櫃が、一体どこに埋もれたのか類推する材料として。
「ふむ。人事を尽くして天命を待つほかありませんかね。運命が私の味方なら進むべき道はきっと開かれるでしょう」
 ハイランバオスは大きく頷いて踵を返した。これ以上こんな場所に用はないと指笛を吹き鳴らす。
「引き揚げますよ!」
 ピュウ、とお利口な返事をしたのは琥珀の瞳と翼を持つ狩猟用の鷹だった。厚手の革手袋をはめた腕に硬い足をちょこんと乗せ、鷹は次なる指示を待つ。
「ふふ、折角ですし少し寄り道して帰りますか? アイリーンに任せておけば半月は安泰でしょうから」
 ピイピイという疑問の声にハイランバオスは微笑を浮かべた。そんなに長く彼女を放っておいていいのかと案じているらしい。
「大丈夫、廃村のすぐ側までは戻りますよ。セイラリアで調べものがしたいんです。あの商都の大学なら、北辺人の抗争についてパトリア側の資料が残っているかなと思って」
 この返答に鷹も納得したようだ。ピュウピュウと喉を鳴らすと琥珀の猛禽は船着場を目指して飛び立った。と同時、聴覚が別の鳥の羽音を捉える。
「…………」
 しばし目と耳を研ぎ澄ませたのち、ハイランバオスは陽光を受けて照り輝く森の大神殿を後にした。いまだ同胞の裏切りに動じているらしい古い仲間の、尾行の下手くそさに笑い出しそうになりながら。




 *******




 パトリア聖暦一四四一年七月二十九日、アイリーンに遅れること約三週間、アルフレッドもパトリア圏最北部――商都セイラリアに到着した。
 大きな街だがどこぞの国の都というわけではない。セイラリア市はパトリア聖王に認可された自治都市だ。北パトリア商業都市同盟アミクスの盟主であり、北辺海、北パトリア海の交易都市に絶大な影響力を持っている。それで普通、この辺りで商都と言えばセイラリア市を指すのである。
「えーと、武器屋、武器屋……武器屋の看板は――と」
 赤レンガの美しい街並みをきょろきょろと見回しながらアルフレッドは往来を歩く。人の多さは往年のアクアレイアに負けず劣らずで、ちょっと油断するとすぐ誰かと肩をぶつけそうになった。都市の住人だけでなく、よその商人や船乗りや荷運び人まで闊歩しているのだから仕方ないと言えば仕方ない。混雑を顧みず馬車を走らせていく御仁にはもう少し容赦してほしいところだが。
「おっ、あったあった」
 きらびやかな市庁舎を遠く仰ぐ一角に目当ての看板を見つけ、アルフレッドは小走りに駆けた。いつまでも帯びているのが模造剣では心許ない。ジェレムたちが市門の外で情報収集に当たってくれている間に新しい剣を購入しておきたかった。名高い商都セイラリアなら何かいいものが見つかるだろう。
「こんにちは、やってるかな?」
 都会にありがちな高層集合建築のドアを開くと、やや手狭な店の奥で「はい、いらっしゃい」と声がした。庶民的な店構えとは対照的に品揃えは豊富なようだ。薪割り斧から貴族御用達の馬上槍、安価なダガーに儀礼剣まで並べられた店内を一瞥する。
「おや? お客さん、もしかしてアクアレイアのお人かい?」
 カウンターから顔を覗かせた中年店主はにこやかに問いかけてきた。モモやルディアの髪色と違い、アルフレッドの赤髪は一応他国人としても通じる色だ。よくわかったなと感心しながら頷く。
「ああ、そうだ。バスタードソードを探しているんだが、この店にあるだろうか?」
 アルフレッドが肯定すると店主は嬉しげな歓声を上げた。
「いや、よく来てくれたねえ。お国が災難に遭った後、セイラリアにも何人かお金持ちが落ち延びてきたんだよ。北パトリアで商売をやり直すとか言って、親戚の店が随分ひいきにしてもらってねえ。西や南に向かった人たちも気前が良くって!」
 なるほどと合点する。その亡命者たちは商都にごっそり金を落としていったらしい。露骨に尻尾を振ってくる店主にアルフレッドは苦笑いで応じる。
「で、バスタードソードはどうなんだ? 置いてあるのか?」
「ああ! バスタードソードね! ごめんよ、片手半剣の類は取り扱ってないんだよ」
 なんだとアルフレッドは肩を落とした。これだけ愛想良ければ売り物もさぞ期待できそうだと思ったのに。
「邪魔をしたな。それじゃ俺はこれで」
「ああっ! お客さん、待って待って! 他の店に行ってもないから! 片手半剣は組合が除外するって決めちまった武器だから!」
 必死な声に引きとめられ、アルフレッドはその場に固まる。「組合が除外?」と振り返ると店主はこくこく頷いた。
「あんな修練第一の重い剣はなかなか買い手がつかないし、たとえ売れたって鍛冶師にごっそり持っていかれて組合の利が薄いからね。刀剣鍛冶に直接依頼するなら作れなくもないだろうが、完成は三ヶ月後とかになっちまうよ?」
「さ……三ヶ月か……」
 それは待てないなと唸る。代替品はないか棚に視線を戻したアルフレッドに気づき、店主は「ご予算をおうかがいしても?」と手を擦り合わせた。
「銀行証書が使えるならこれくらいだ」
 金額を提示した瞬間、はちきれんばかりの笑顔を向けられる。頬を朱に染め、小躍りしながら店主は「秘蔵のひと振りをお持ちします!」と奥の階段を駆け上がっていった。間もなく階上から「貴族の若様がお越しだぞ! 早くアレをお出ししてくれ!」と声が響いてくる。
 何か誤解されたらしいが、アルフレッドは剣ならいくら出しても惜しくないというだけで貴族でも豪商でもない。出せると言った金だって防衛隊の給料や家業の手伝いでこつこつ増やした貯蓄分だけだ。ぽんと五十万ウェルスなどと言われたら誰でも勘違いする可能性はあるが。
 どすんばたんと二階を引っ繰り返した後、店主は厳かに箱に入ったサーベルを持って降りてきた。入れ物だけ見ても金の縁取り、繊細な蔦模様が美しい。鏡面のごとき刀身にはパトリア文字で知らない名前が彫り込まれていた。どうやら元は別の持ち主がいたらしい。
「中古品か、なんて仰らないでくださいね? こいつは我々セイラリア市民の誇る騎士が使っていた剣なんです。手入れは欠かしておりませんし、切れ味も抜群ですよ。この店で、いやセイラリアで一番の名剣です!」
 自信たっぷりの紹介にアルフレッドは「へえ」と呟く。確かに刃こぼれ一つしておらず、柄までよく磨かれて、剣は大事にされていた。握りや重みはどうだろうかとアルフレッドはサーベルを手に取る。
「うん。悪くないな」
 軽く持ち上げ、前後に振ったり斜めに切り上げたり、色々動作を試してみる。これだという劇的なしっくり感はないものの、口にした通り悪くはなかった。バスタードソードの半分もなさそうな軽さは少々引っかかったが。
「おやまあ、よくお似合いで! サーベルは癖のない剣ですし、お手にもすぐに馴染みますよ! ちょいと目のきく悪党なら得物を見ただけで退散すること請け合いです! 女の子たちも、お客様の凛々しい姿を見たら黄色い声をあげちゃいますねえ、憎いですねえ!」
「はは……」
 よく口の回る店主はアルフレッドを誉めそやし、イチ押し商品を売り込んだ。セールストークを真に受けたわけではないが、値段に見合った価値は十分ありそうだ。これに決めてもいいなと財布を開きかける。
 ――そのときだった。しわがれた、突き刺すような鋭い声が響いたのは。
「くだらない。名剣を持ったからって人間まで良くなるもんかね。剣への畏怖を己への畏怖と思い込んで、持つ前より阿呆になるのがオチってもんだ」
 突然浴びせられた冷淡な言葉にアルフレッドは瞠目した。見ればいつの間に入ってきたのか背中の曲がった老人がすぐ隣に立っている。
 口はもつれた白い髭に埋もれ、尖った鼻には人生の苦渋が滲む。世をすねた不機嫌な眉の下には落ちくぼんだ暗い瞳。その淀んだ眼差しは批判できる対象を求めてそこら中を這い回るようだった。
 何者だと身構えると同時、店主が「この野郎!」と怒鳴りつける。
「立派な騎士様がおいでくださってるってのに、まーた営業妨害か! 今すぐ出ていけ! じゃないと警察に突き出すぞ!」
 穏やかでない怒号に老人はフンと鼻を鳴らした。浮浪者じみた黒のケープを翻し、闖入者は出口に向かう。
「立派だと? 物乞いにも劣る奴らが? 騎士なんぞ、世界で最も救いがたい、愚かで下等な連中だ」
 ――そんな苛烈な捨て台詞を残して。
「……な、なんなんだ? 今のご老人は?」
 思わず店主に尋ねると「ここらでは有名な変人ですよ」と荒れた声が返ってくる。
「絵描きだか詩人だか知りませんが、皆は毒吐き爺さんって呼んでます。有力なパトロンが何人もいるみたいで、牢獄にぶち込んでやってもひと晩明ければ出てきちまう。あいつは騎士嫌いなもんで、私は特に目の敵にされて困ってるんですよ」
 店主は己の不運を嘆き、アルフレッドに同情を求めた。「厭味なんて気にせず買ってくださいますよね?」と潤んだ目で見上げられ、返答に窮してしまう。
 先程の老人、ジェレム並みに偏屈そうな――もとい、手強そうな人物だった。だが名剣を持ったところで使い手が変わるわけではない、勘違いでうぬぼれるという言葉は真理を突いている。浮ついた気持ちで選んだのではないけれど、今一度検討し直したほうが良さそうだった。
「すまないが、もっと重量のある剣も見せてもらえないか? そっちのほうが慣れているし、失くした剣が見つかったとき困らないと思うから」
 店主おすすめのサーベルを返却するとアルフレッドは別の剣を探し始める。結局選んだのはなんの変哲もない片手剣だった。幅広の刃は硬く丈夫で、重いと言えそうな重さもある。
 店主には良ければ二本目を、と追いすがられたがなんとか断って店を出た。通りをぐるりと見渡してみたが、あの老人は既に近くにはいないようだった。




 ******




 正午の鐘が鳴り響く。もうジェレムたちとの待ち合わせの時間である。堅牢な市門をくぐり、アルフレッドは歩を早めた。
 セイラリアは市壁の外まで賑やかだ。通行税を払いたくない日雇い労働者や零細商人が門前にスラムもどきの下町を形成しているのである。ここではちらほらロマの姿も見受けられた。彼らは芸や音楽を披露するだけでなく、荷運びや水汲みなど日常の雑務も請け負っているようだ。普通の街で見かけるよりも数が多く、これならカロを見かけた誰かがいそうだった。
(有力な手がかりが得られるかもな)
 掘っ立て小屋やテントの並ぶ、ごみごみとした空間を抜け、アルフレッドは待ち合わせ場所に急ぐ。市壁沿いの樹木疎らな林には人目を忍ぶジェレムたちの姿が見えた。
「悪い、待たせた」
 詫びる声に老ロマがくるりと振り返る。思いがけず真剣な目に見据えられ、アルフレッドは知らず息を飲み込んだ。
「カロの居場所がわかったぞ」
 予想以上の急展開だ。「本当か?」と驚いて尋ね返す。
「ああ、もう半月もすりゃ会えるはずだ」
 ジェレム曰く、カロは現在セイラリア市とコーストフォート市を行き来する運搬人として日銭を稼いでいるとのことだった。
 セイラリアは河川港を持ち、その本流は北辺海に通じている。他方コーストフォートは北パトリア海に面する港湾都市だ。本来なら積み荷など船に乗せたまま海峡を越えればいい話なのだが、生憎その航路はアミクスが航海を禁じるほど危険なため、二つの都市を結ぶ陸路は常に人夫と警備兵でいっぱいらしい。カロの他にも多数のロマが雇われており、ジェレムはその一人から話を聞いたそうだった。
「あいつの組はこの間コーストフォートから戻ってきて、昨日またセイラリアを発ったんだと。すぐに追いかけてもいいが、コーストフォートでどの倉庫に回されてるかわからねえし、こっちに戻るのを待つほうが賢明だろう」
 もっともな助言にアルフレッドは「そうだな」と頷く。声は少し震えていた。
 ルディアのためになんとしてもカロを説得しなければ。イーグレットの手紙をしまった懐に手をやり、ぎゅっと拳を握りしめる。
(半月後か。ちょうどレイモンドの誕生日くらいだな)
 主君と一緒にいるはずの幼馴染。レイモンドならどこへ逃げてもルディアを飢えさせることはないだろうが、兵が一人では戦力的に不安である。二人にも早く会えればいいけれど。
「アルフレッドの探してる人、見つかりそうならそろそろお別れ?」
 と、寂しげにフェイヤが袖を引いてくる。切ない問いにアルフレッドはうっと詰まった。「まだしばらくは一緒だよ」と答えたものの「うん」と呟く少女の声に覇気はない。
「別れをつらく思うのは楽しい時間を過ごした証だ。最後の最後まで楽しんで、笑って手を振れ。それが一番ロマらしい」
「ジェレムの言う通りだよ。大体生きてりゃいつだって会えるんだ、湿っぽくなる必要ないさね」
 大人たちに励まされ、少女は「うん」と顔を上げた。すっかり元気になったフェイヤは「それじゃ近くに寝起きできそうな場所を探そっか!」と足踏みを始める。
「アルフレッド、街の宿屋に泊まりたいとか言わないよね?」
「言わないよ。今までずっと俺だけベッドで眠ったりしなかっただろう?」
 満足そうに微笑んでフェイヤは腕に飛びついてきた。他人に見られたら目を剥かれそうだと苦笑する。ジェレムも同じことを考えたらしく、「この辺りじゃ気が休まりそうにねえな」と林の向こうに目をやった。
 市門付近には商売人や人夫に混じって酒臭いのや血の気の多そうな荒くれがたむろしていた。「なんでロマとパトリア人が仲良くしてんだ?」と難癖をつけられては堪らない。一人ではジェレムたちを守るにも限界があるし、なるべくトラブルは避けたかった。
「この道をまっすぐ行ったところに誰も住んでない村がある。ちょっと歩くがセイラリアに張りついてなきゃ駄目ってこともないだろう。場所を変えるぞ」
 老ロマの提案で一行は東方向に歩き出した。聞いた感じの地理情報では商都から小一時間ほどかかりそうだ。
「なんで誰も住んでないんだ?」
「去年の冬に流行り病でほとんど死んだらしくてな。生き残りも誰も戻ろうとしないんだとさ。カロのことを教えてくれたロマが言ってた」
「え、疫病の蔓延した廃村って……」
 そのロマは近づくなという意味で教えてくれたのではなかろうか。大丈夫だとは思うが一応「気にならないのか?」と尋ねる。するとジェレムはあっけらかんとした口ぶりで答えた。
「いい薬師がいるんだから平気だろ」
 トゥーネとフェイヤにも「そうだね」と口を揃えられ、アルフレッドはぱちくりと瞬きする。心を開けばどこまでも信じてくれるのがロマという生き物だそうだが、ここまで手放しでいられるとそれはそれで問題だ。
「あ、あのな、薬を飲んでも治らない病気だってあるんだぞ?」
「危ない場所だと思ったら離れようと言ってくれるじゃないか。だったら別に同じことだ」
「うんうん、ジェレムの言う通りさ」
「私たち、アルフレッドがいてくれれば人さらいも病気も怖くないよ!」
「…………」
 諭そうとして赤くなる。イーグレットがカロとの友情を大切にしてきた理由がわかる気がした。このまっすぐで素直な好意の表明は、こういうのは、本当に敵わない。




 ******




 一時間後、アルフレッドたちはくだんの廃村に到着した。人々の生活の痕跡だけが残る地は、元々誰も住んでいない山奥や無人島よりうすら寂しい。牧場と畑と果樹園と、小さな森の点在する牧歌的な村落には生温い風が吹きつけていた。野盗よりは野獣に気をつけたほうが良さそうだなと警戒しつつ、一行は適当な空き家を探した。
 トゥーネが気に入ったと上がり込んだのは切妻屋根の一軒家だ。家畜小屋と穀物貯蔵庫が住まいと一体化した大きな家で、中には寝床に使えそうな綺麗な藁が残されていた。白い木の骨組みと、隙間を埋める赤レンガの色合いが実に愛らしい。フェイヤもここがいいと言うのでただちに荷物が下ろされた。
 食料はアルフレッドが街で買い込んだものだけで二、三日回せそうだった。井戸もあったが伝染病に見舞われた村で生水を飲めるはずがなく、一度沸かすことにする。アルフレッドは外に出て薪を集めて火を起こした。すると珍しい状況にすっかりはしゃいだ女たちが炎の周りで踊り出した。
「こら、フェイヤ! トゥーネもそういう火じゃないぞ」
「わかってるよ! でも誰もいないんだもの! 存分に踊らなくちゃって気がしない!?」
「こんな村のど真ん中でロマがのびのびできるなんてねえ!」
 小言に耳を貸す風もなく、二人は長いスカートを花のように開かせる。くるくる回ってステップを早め、すれ違いざま手を叩き、実に楽しげに笑い合った。解放感に満ちたダンスを見ていたら注意する気も失せてきて、アルフレッドは焚き火の前に腰を下ろす。
「鍋に水を張ってきたぞ……って、なんだあいつら、もう盛り上がってやがるのか?」
 農家の奥から出てきたジェレムが踊り子たちに目をやった。年長者らしく気が早いぞと叱ってくれるかと思ったら、老ロマは鍋を火にかけるが早く背中のリュートに手を回す。しかもそれをぐいぐいとアルフレッドに押しつけた。
「音楽がなけりゃ始まらんだろう。俺が歌うからお前は弾け」
 三対一ではもう逆らえない。大人しく楽器を受け取って「何をご所望だ?」と尋ねる。ジェレムがリクエストしてきたのは最近フェイヤがご執心の『酒神と烈女のゴンドラ』だった。わだかまりがなくなって、アクアレイア人の歌も楽しめるようになったらしい。
(まあいいか、たまには昼間から騒ぐのも)
 息をつき、気持ちをさっと切り替える。奏でたメロディに老ロマは澱みなく渋い歌声を乗せた。

 来たれ、我が軽舸に 誰が汝の明日在ることを知らん
 青春は麗し されど川のごとく過ぎ去る
 愉しみたければ今すぐに 今日は再び巡らぬものを

 触れよ、我が唇に 誰が汝の明日在ることを知らん
 青春は短し されど星のごとく輝く
 愉しみたければ今すぐに 今日は再び巡らぬものを

 燃えよ、我が灯火よ 誰が汝の明日在ることを知らん
 青春は尊し されど夢のごとくうつろう
 愉しみたければ今すぐに 今日は再び巡らぬものを


 フェイヤはもう大喜びで跳ね回り、妖精の羽を得たかのごとく踊りまくった。そんな彼女にトゥーネも上機嫌で付き合っている。ジェレムはしばらく同じ節を繰り返していたが、今のところ喉を傷めず歌えている風だった。
「ねえ、ロマの歌は? 私皆で歌いたいな! 全部ちゃんと覚えられたし!」
 少女の提案に老ロマはわかったと頷く。全力を出せば宴はそこでしまいだと承知しているはずなのに、彼らはこだわりなく声を合わせる準備をした。無理するな、などと制しても水を差すだけだろう。弦に指をかけ、アルフレッドも黙って開始の合図を待つ。
「ライライライ、ライライライ……」
 一瞬静まり返った空気を破り、哀切な声が響き渡った。ライライライ、ライライライと言語的意味などない音が、それゆえに強烈な感情をこめて歌われる。
 圧倒され、呆けそうになりながらアルフレッドは厳かにリュートを爪弾いた。トゥーネもフェイヤも声を添え、焚き火を囲んで歌の輪が出来上がる。
 ――オレンジの実る国へ行こう。そこが我らの住んでいた国。きっといつか一緒に帰ろう。友よ、我が子よ、愛する人よ。
 ロマにもロマ語はあやふやになってしまったが、そんな歌詞だそうである。願えど叶わぬ望郷の歌。国の名前さえ忘れた彼らの故郷はもはや歌の中にしかない。だから歌い継ぐことが絆の証明を果たすのだ。
 どうしたらジェレムみたいに歌えるの、と以前フェイヤが聞いていた。この歌にたくさん思い出があるだけだ、というのが彼の返事だった。かつて同じ歌を口ずさんだ仲間の顔が、老ロマの瞼にはいつも浮かんでくるらしい。
 声は最後まで衰えなかった。ライライライ、とジェレムは歌を締めくくり、それからほんの少し咳き込んだ。

「まあ、まああ……! なんていい歌……!」

 耳慣れぬ声がしたのはアルフレッドがリュートを下ろした直後である。瞬時に身構え立ち上がると、畦道のブナの陰から旅装束の大柄な女が現れた。
「感動したわ、すごいのねあなたたち!? 何故か塩湖のほとりに住んでいた頃の記憶が甦って、涙が止まらなくなっちゃった……!」
 女は高そうな絹のハンカチで目尻を拭う。その節くれた長い指、ごつい体格に既視感を覚え、アルフレッドは「うん?」と目を凝らした。
「あら? 赤髪のあなた、どこかで会ったかしら」
 向こうもこちらに見覚えがあるようだ。まじまじと見つめ合い、あっと声を上げる。
「確かフエラリウスの街で……!」
「ああ、あたしにぶつかってきた可愛い子!」
 彼女も――彼かもしれないが――合点したらしい。人の顔を頭に入れるのはレイモンドほど得意でないが、この女性はインパクトがあったので覚えている。
「やーん、また会えて嬉しいわ! あたしたち、ひょっとして運命に導かれているのかしら!?」
 恍惚顔で擦り寄ってこられ、思わず一歩後ずさりした。フェイヤとトゥーネが立ち塞ぐと女は「あらま、ごめんなさい」とおどけて身を引く。軽いなりに空気は読めるようである。
「お前たち、この村の人間か? 少し聞きたいことがあるんだが」
 また新しい声が響いてアルフレッドは振り返った。どうやら今日の彼女には連れがいたらしい。三十そこそこの、鋭い目つきをした俊敏そうな男がこちらに近づいていた。未知なる人間を前にして、彼は犬か狼みたいにフンフン鼻をひくつかせている。
「いや、俺たちはしばらくここに泊まろうかと。着いたのもついさっきで」
 ロマを見て、普通村の人間かどうか尋ねるだろうか。訝りつつアルフレッドは問いに答える。男の重ねた質問は更に奇妙なものだった。
「そうか。この辺りで人の顔をした獣など見かけなかったか? 噂でもいい、知っていることがあれば教えてくれ」
「は、はあ? 人の顔をした獣?」
 なんだそれは。確かそれもフエラリウスの街で話題になっていた気がするが、まさかこの男はあんな怪談を信じてここまで足を延ばしたのだろうか。いや、他人の信じているものを否定する気はないけれど、距離も相当だっただろうに色々な意味ですごい男だ。
「化け物の話だったらセイラリアで耳にしたぞ? ロマの中にも遭遇した奴がいるらしい」
「えっ!? ええっ!?」
 ジェレムの耳打ちに更に驚愕する。彼の聞いた話によれば、この近くを通りがかったロマの一団が人面羊に追われたそうだ。老けた中年の顔をしており、怖いほど可愛くなかったとのことである。
「じ、実際に見た人がいるのか……」
 隠す理由もないのでそのまま男に伝えると、彼は「やはり怪物は近辺にいると見て間違いない。もう少し粘るぞ」と連れの女に訴えた。だが彼女はあまり乗り気でなさそうだ。
「あんたねえ、旅の目的見失ってんじゃないわよ。一日だけねって約束だったでしょ?」
「何を言う。俺が寝るまでが金曜日だ」
「ちょっとちょっと、いつまで探す気!? ほんと勘弁してくれない!?」
 金切り声に男はそっと耳を塞ぐ。アルフレッドは純粋に不思議で「化け物を探してどうするつもりなんだ?」と尋ねた。
「無論、戦って勝つ」
 武闘派も武闘派の返答に目をしばたかせる。彼なりの冗談かなと思ったら、どうやら本気で言ったらしい。
「ごめんなさいね! こいつ生まれたときからアホの子で!」
 詫びる女にアルフレッドは「いや」と首を横に振った。男は田園を眺めて飄々としている。そのしなやかな肉体と腰の短刀に隙のなさを見て取って、ふむとアルフレッドは一考した。
「腕には覚えが?」
「ああ。戦うのは好きだからな」
「だったら見つかるかわからない化け物とじゃなく、俺と手合わせしてもらえないか? このところ単調な一人稽古しかできていなくて困っていたんだ」
「ほう? 手合わせ?」
 こちらの誘いに男はにやりと振り返る。女のほうは「もう!」と頭を抱えていたけれど、「とにかく明日出発だからね!」とどやして引き下がった。
「名前は?」
「アルフレッド・ハートフィールド。そちらは?」
「ダ……」
「ダ、ダーリンとハニーよ! 本名はごめんあそばせ! ちょっとわけありの旅だから!」
 男に答えさせまいと女がその後ろ頭をはたく。わけありというと駆け落ちか何かだろうか。どう見ても男同士だし、明かせぬ事情があるのかもしれない。出身なども尋ねないほうが良さそうだ。
「わ、わかった。それじゃあダーリンさん、頼む」
 アルフレッドは焚き火に土を被せると戦えそうな広い場所を求めて移動した。お茶目な愛称で呼ばれても男はまったく動じていない。見習いたい精神力だ。ハニーさんやロマたちもわらわら後をついてくる。
 手合わせの場は農家の裏の庭になった。家畜を放すのに使っていたスペースらしく、いい具合に均されて、白い柵に囲まれている。
 模造剣を抜こうとしたらダーリンさんに「真剣を使え」と止められた。相当自信があるらしく、軽く手足を伸ばす彼は怪我の心配などこれっぽっちもしていない様子だ。
「アルフレッド、頑張って!」
「負けるんじゃないよ!」
 女性陣の声援にいささか気恥ずかしくなる。しかしダーリンさんと対峙した瞬間、雑念は全て消し飛んだ。
 始めと言ったのはハニーさんか。その声がまだ地に落ちきらぬうちに眼前でふわりと風が起こった。
(速い)
 息つく間もなく距離を詰められ、胸当ての上から掌底を食らう。衝撃は緩和されているはずなのに、一瞬呼吸ができなくなった。
「ッ……!」
 追撃に備えて剣を立てるがダーリンさんはすぐにはこちらに向かってこない。間合いを測り直すように最初の位置まで下がってこちらの様子を窺う。短刀を抜く気はないらしく、両の拳は握られたままだった。
「……今度はこっちから行くぞ!」
 想定した以上にできる。後手に回ると対応しきれないと断じ、アルフレッドは思いきって踏み込んだ。振りかぶった剣は易々と避けられる。だがそこまでは計算のうちだ。右手だけ柄から離して肘で相手の脇を狙う。
「!」
 しかしこれも難なくかわされた。ダーリンさんはアルフレッドの肩を掴むと曲芸的な宙返りをしてみせる。こちらが振り返るタイミングに合わせて蹴りを放つのも忘れなかった。
「ぐうっ!」
 腰を真横から蹴り飛ばされ、体勢を崩す。けれどまたもダーリンさんは畳みかけてこようとしなかった。安全圏まで退避して、一旦敵の状態を見極める。
(意外だな。モモと似た速攻タイプかと思ったのに)
 やりにくい。いちいち攻撃を区切られると流れの中で生まれる勝機が生まれなくなってしまう。実力に差があるときは尚更その小さなチャンスを掴まねばならないのに。
「そういえば勝敗の条件を決めてなかったな。先に両膝をついたほうが負けということでいいか?」
 問いかけに「ああ」と答える。答えた途端ダーリンさんは矢のような速度で向かってきた。
(くそっ、どうする!?)
 構え直す猶予を与えられても初撃を受けきれなければ意味がない。腕でも足でも服の裾でもどこでもいいから捕まえて、素早い動きを封じなくては。
(よし、こうだ!)
 戦略を決めるとアルフレッドは地面に剣を刺して両手を広げた。それを見たダーリンさんは寸でのところで身をかわす。掴みかかったアルフレッドの腕はむなしく標的を擦り抜けた。
「うわっ!」
 前屈みになった背中を掌で押され、危うく転倒しそうになる。片膝はついたが持ち直し、背後を振り向いたところで顔面に膝が入った。
「――」
 視界にきらきら星が瞬く。そんな中で、我ながらよく腕を伸ばしたなと思う。捕らえたと思ったのは一瞬で、剣を掴み直す前に振りきられてしまったが。
「なかなか骨があるじゃないか」
 ふっと笑って彼は再び初期位置についた。やはりこのまま、アルフレッドの体力を少しずつ削って仕留めにかかるつもりらしい。狼めいた攻撃スタイルだ。致命的な重傷は与えないものの、さっと仕掛けてさっと逃げる。そして勝利を確実にしていく。
 しばらくは持ち堪えたが、結局ダーリンさんのペースを崩せずに敗北した。ショックだったのは新しい片手剣を短刀の鞘で受け止められてしまったことだ。これがバスタードソードなら、その重量で確実に粉砕できていただろうに。
「……ありがとう。やはり俺にはもっと鍛錬が必要だ。あなたのその戦い方、とても勉強になったよ」
「俺も久々に運動らしい運動ができた。礼を言う」
 手合わせが終わり、お互いに握手を交わした後、ダーリンさんはひと言だけ付け足した。「次はお前が今の武器に慣れた頃にやりたいな」と。




「アアー! 最っ高……! 男が男に立ち向かう姿ってやっぱりイイわ、グッとくるわ……!」
 へとへとの身体を引きずって歩くアルフレッドにウァーリは割れんばかりの拍手を送る。寄り道ばっかりするんだからと憤慨していたことも忘れて感動に胸を震わせた。
 アルフレッドは頑張った。あのバカ狼によく食らいついていた。何度痛打を浴びせられてもやけを起こさず、最後まで闘志を失くさずに。
「なんていい子なの!? ああ、手元に置いて育ててあげたい!」
 涙の溢れる目頭にハンカチをぐっと押しつける。こんな光景を見せられて、誰が素面でいられるだろう。勢いウァーリは行商人から買ったワインの大瓶を開けて「飲みましょう! あたしの奢りよ!」とアルフレッド一行を誘った。騎士もロマたちもぽかんとしていたが、構わずダレエンに「ほら、早くグラス探してきて!」と叫ぶ。どうして俺が、などとくだらない疑問を持たない狼男はパッと一軒家に入っていった。ほどなくして人数分のカップを抱えた連れが戻ってくる。
「あ、あの、ハニーさん?」
「残念だったわねえ、アルフレッド君! でもね、あたしやり方次第では全然こいつに勝てると思うわ! 基本的にこいつ前と近くしか見えてないのよ! 昔からそうなの! それであたしがいつもフォローに回されて」
「いや、ハニーさん、飲むって皆も一緒にか?」
「当たり前でしょ!? 小さくたって水で薄めりゃ飲めるわよねえ!?」
 問いかけたロマの少女はびくりと長い三つ編みを跳ねさせる。次いでまとめ役と思しき老人に酒をついだ杯を差し出すと、困惑も露わに彼はアルフレッドと顔を見合わせた。
「……ま、まあじゃあ、これも何かの縁ということで」
 騎士の言葉に頷いて老ロマが酒杯を受け取る。中年の女ロマもダレエンから酌を受けた。
「驚いたな。ジェレムたちと旅に出てそろそろ四ヵ月になるが、飲もうなんて言われたのは初めてだ」
 ジェレムというのが老人の名前らしい。アルフレッドは他の二人もトゥーネとフェイヤだと紹介してくれた。
 ああなるほど、ロマへの偏見があるんじゃないかと疑ったのねと納得する。様々な民族を目にしてきて、実際にその一員として暮らしもした己としては、人間など似たり寄ったりと知っているからなんとも思わないけれど。
「んふふ、あたし楽しければそれでいい女だから、細かいことわかんなーい」
 にっこり笑ってウァーリはアルフレッドに酒をついだ。騎士の太腿にしがみついている女の子にも「水割り作りに行こっか!」と笑顔を向ける。
「酒盛りするなら人面獣を探しにいけんな」
「しょうがないから一日延ばしてあげるわよ。これでお互い息抜きできて平等じゃない?」
 しわの寄ったダレエンの眉間を指でつつけば「ならばよし」と返事があった。焚き火の脇に置かれた鍋はいい感じに冷めており、フェイヤにもすぐ小ぶりの杯が回される。
「はーい、それじゃアルフレッド君の健闘にカンパーイ!」
「そこは俺の勝利じゃないのか」
「うるっさいわね、若いコに譲るってこと知らないの?」
「だが勝ったのは俺だろう」
「お酒はあたしのお酒でしょ!」
「ハ、ハニーさん……」
 日も暮れぬうちに小さな酒宴は始まった。最初は所在なさげにしていたロマたちも酒が回ると気が抜けて、少しずつ手やら口やら動きだす。
 旅を住み処とする民族は例外なく音楽好きだ。ロマしかり、草原の民しかりである。ウァーリが即興詩を吟じ、ダレエンが手拍子を打つのを聴くと、彼らはむずむずし始めた。どうしても血が騒ぐのだろう。老ロマの指がリュートの弦を弾くまで三曲とかからなかった。
 夢心地の旋律が奏でられているのに人が歌わない道理はない。女たちもまたウァーリと競って美声を空に響かせた。最後にはそれぞれの歌が混ざり合い、大合唱になっていたほどだ。
 楽しくなって立ち上がり、ウァーリはアルフレッドの手を取った。思う存分回りに回り、今度はフェイヤに手招きする。視線を合わせ、呼吸を合わせ、手と手が触れれば自然と心は近づいた。トゥーネやジェレムとも肩を組み、半ば強引に踊りに引き込む。物怖じしない、開けっ広げなウァーリに対し、ロマは徐々に警戒を緩めた。
 非常識はダレエンも同じである。いつの間にか彼はアルフレッドのすぐ横に陣取って、今までどんな強敵に出会ったかなど武勇伝を聞き出していた。そのうち彼は老ロマにも似たような問いを投げ、男だけで盛り上がり始める。
 それならこちらも女だけで集まろうとウァーリはトゥーネたちに呼びかけた。間もなく小さな輪が生まれ、話に花が咲き始める。酒はどんどん減っていき、笑い声はいや増した。トゥーネの意外な男性遍歴にフェイヤが大きな愛らしい目を白黒させる。昔は美女だったのだろう女ロマは過激な過去を面白おかしく語り続けた。
 ――そんなこんなで気づけば夜も更けていた。話し込むウァーリとトゥーネのもとに「そろそろお開きにしよう」とアルフレッドが告げにくる。トゥーネの手を握りつつ、ウァーリの膝に丸まって眠るフェイヤを見つけ、赤髪の騎士は仰天した。
「も、もうそんなに仲良くなったのか?」
 感心しきった彼の態度にウァーリはおほほと笑みを浮かべる。「年の功よ」と前髪を掻き上げ、余裕のウィンクを決めた。この翌日、今度はこちらが度肝を抜かれることになるとも知らず。




 ******




 いい夜を過ごした翌日はいい朝が来るものと昔から決まっている。すっかりアルフレッド一行と打ち解けたウァーリとダレエンは、久々に大人数での和気あいあいとした食事のひとときを楽しんだ。
 利害抜きの関係は安楽でいい。陽気に慈しみ合うことができる。排他的だと言われるロマなのに「どうせしばらくこの村にいるし、私たちも化け物を探すの手伝おうか?」とフェイヤに尋ねられたときはほっこりしてしまった。バカ狼はいつも通りのマイペースで「それは助かる。しかし俺より先に手を出すなよ」などと応じていたが。
 少し遅めの朝食の後、ウァーリたちは二人一組になって村を回ることにした。ジェレムとトゥーネは留守番だ。彼らは頭が痛いそうで、しばらく横になっていたいらしい。
「昨日のうちに村の南半分は調べたのよ」
 ウァーリが伝えるとダレエンも続ける。
「果樹園に林檎の木が植わっているだけで目ぼしいものはなかったがな」
 そう聞いてなるほどとフェイヤたちが頷いた。
「それじゃ今日は北半分だね」
「ああ、俺とフェイヤはあっちの粉ひき小屋のほうに回ろうか」
 北西に広がる田園跡を指差してアルフレッドが言う。「だったらあたしたちはあっちね」とウァーリは北東のブナ林と牧場跡を振り返った。ダレエンも「何か見つけたらすぐに大声で呼んでくれ」と頼む。
「病気が流行ったのは冬だそうだから一応もう平気とは思うが、変なものには触らないようにな! くれぐれも気をつけて!」
 騎士と小さなお姫様とは一軒家の前で別れた。心から案じてくれる真摯な声に「ハーイ!」と返し、ウァーリは二人と反対方向へ歩き出す。
「ホントいい子だわ、アルフレッド君。ますます近習にしたさが募っちゃう」
「うむ。十年はしっかりとした鍛錬を続けてきている感じがするな。今の剣は短すぎるのか軽すぎるのか身体に合っていないようだが、本来はもう一段上の実力の持ち主だろう」
 ダレエンがそんな高評価を下すとは珍しい。ウァーリは「まあ」と瞬きする。
「けどこの身体じゃジーアンには誘えないのよねえ。あーん、なんてもったいない!」
 などと話していると、晴れた空に一羽の鷲が旋回するのが目に入った。偵察に先行させていた部下だ。あの鋭く曲がった黒いくちばしは間違いない。
「あら? どうしたのかしら。あたしたちが着くまでセイラリアにいるようにって言ったのに」
「聞いたほうが早い。おい、降りてこい!」
 ダレエンが高く腕を差し出すと、気づいた鷲が舞い降りてくる。ウァーリはジーアン語の文字表を取り出し、猛禽の爪に順番に示させた。
「この村……、牧場……、ハイランバオス……!?」
 聖預言者の名を読み上げた途端、狼男の目つきが変わる。報告によれば、彼はセイラリアの大学図書館に何日か入り浸ったのち、つい先程この北の牧場にある畜舎に入っていったそうである。
「……!」
 ウァーリはダレエンと目を見合わせた。まさか人面獣より先にあの男と遭遇することになるとは。「急ぐぞ」と狼男が走り出し、ウァーリもその後に続いた。
(ハイランバオス……!)
 いまだにそれを敵の名前と認識しきれないでいるのは己だけなのだろうか。ジーアン帝国は裏切り者に容赦しないが、蟲の中から離反者が出たのは今回が初めてだ。
 千年間、自分たちはただの人間にならあっさりと冷酷になれた。しかし真の同胞に対してはどうだろう。疑わしいとされたラオタオでさえそのまま十将に据え置かれているくらいである。皆まだ半信半疑なのでないかと思う。
(見極めなくちゃ。本当にもうハイランバオスにあたしたちのもとへ帰る気はないのか)
 突きつけられた敵対宣言も、尽きかけている寿命の話も、冗談ですと言ってほしかった。いつもの余興の演出で、ちょっとやりすぎちゃいましたねと。
 そうでなければ崩れてしまう。何百年と信じてきた固い絆が断ち切れたら、ジーアンはばらばらになってしまう。
(確かめなくちゃ何も進まない。わかってるつもりだけど、やっぱり気が重いわね)
 先延ばしにもできないが、いい方向には転がるまいと感じているだけに尚更。この直感が正しくないことを祈るしかできない。
(普通じゃないわよ。あの人を輝かせるために、自分は敵になりたいだなんて……)
 戦闘態勢を整えつつウァーリたちは牧場跡に駆け急いだ。果樹や畑を横切る畦道がやけに長く感じられる。戦いたくない、争いたくないと嘆く己の心には気づかぬふりをしたままでいた。




 ******




「ただいま帰りました。アイリーン、脳蟲たちの世話をありがとうございます」
 ハイランバオスの挨拶に彼女がハッと振り返る。弱き女研究者は、それでも文句の一つくらい浴びせてやる気になったのか「今までどこで何をしてきたんです!?」と金切り声で怒鳴りつけた。
 答える意味も義務もない問いなど無視してハイランバオスはぐるりと畜舎を一瞥する。ある程度成育したものは瓶に移し替えておくように命じていたので今ここには数頭の獣が残るのみだった。これなら一時間とかからず中身を回収できそうである。
「ねえアイリーン、あなたは確かジーアンに辿り着く前に、北パトリアを放浪したこともあるんですよね?」
 土埃で汚れた女に微笑みかける。出し抜けの質問に彼女は「はい?」と首を傾げた。
「何年かこの辺りで暮らしたことがあるんでしょう?」
「え、ええ。さすらっただけで全然住みつけはしなかったですけど……」
 うんうんとハイランバオスはにこやかに頷く。「それじゃあ北辺海沿岸に足が太くて短めの、草原にいるような鷲っています?」と尋ねれば、彼女は真意を測りかねつつ「えっ? いえ」と首を振った。
「この辺りだとイヌワシとか、白い尾のパトリアワシくらいかと……。それがどうかしたんですか?」
 アイリーンからすればわけのわからない問いかけだろう。しかしこちらにはその返答で十分だ。己の置かれた状況も、これから取るべき対応も、全て手に取るようにわかる。
「これだから駄目なんですよ、英雄の馬に相乗りしてきただけの連中は。千年の知恵を持つくせに、これっぽっちも利口にならない」
 独白にアイリーンはますます困惑を強めた。それも気にせずハイランバオスは不満を噴出し続ける。
「直視できないんですね、仲間の裏切りも運命の裏切りも! だから今までと同じ時間感覚でわずかな余命を浪費するし、追跡手段を工夫しようともしない。蟲について知り尽くした私に差し向ける追手ですよ? まともに頭を働かせていれば、もっと別の器を用意するはずですがねえ」
 ああ情けない、とハイランバオスは吐き捨てた。たかが千年程度では生まれ持った資質に躍進など見られないらしい。あの素晴らしい存在のひとかけらでありながら、まったく彼らは搾りかすだ。
「お、お、追手!? 追手ってまさかジーアンのですか!?」
「ええ。ですのでアイリーン、速やかにここを発つ準備をしてください。荷物はまとめて馬の背中に。脳蟲本体と研究ノートさえ持ち出してくだされば結構です。ふふっ、捕まればあなたもただでは済みませんからね。手際よくお願いしますよ?」
 うろたえるアイリーンに「私は彼らの相手をしてきます」と微笑む。可愛い猛獣たちの檻を開け放つべくハイランバオスは畜舎を出た。
(しかしまあ、少しは楽しくなってきました)
 我が君は絶望のあまり今も床に伏せていると聞く。太陽が再び空に昇るまでの、前哨戦と思えば詩の一篇くらいにはなるだろう。最高潮を迎えるためにはまだ少し、素材に欠ける感があるが。
(コナーのような刺激的な人物と巡り会えれば万々歳なんですけどねえ)
 足早に穀物塔の螺旋階段を上りながらひとりごちる。保管庫の鉄柵の向こうには、爛々と光るいくつもの獰猛な目が並んでいた。




 ******




 牧場跡へ抜ける長いブナ林の、中ほどまで駆けたところでウァーリは思わぬ衝撃を受けた。前を走っていたダレエンが突然足を止めたのだ。逞しい背中に思いきりぶつかり、ウァーリは脇に跳ね飛ばされた。
「ちょっともう、なんで急に道塞ぐのよ!?」
 抗議の声を上げたものの、発言は腕で制される。ダレエンは無言のままスッと曲がり角の先を指差した。
「おい、あそこの動物なんに見える?」
「え?」
 問われて茂みに目をやって、ウァーリは声を失った。ハイランバオスが潜伏中だと聞いたのに、立っていたのは熊だったのだ。それも巨大なグリズリーで、奇怪なことに若い女性の顔面が張りついている。本来ならば鋭い牙や濡れた鼻、黒い双眸があるべき場所に。
「はっ? えっ? な、何あれ……!?」
 のっそりと近づいてくる人面熊はどう見ても巷で噂の化け物だった。つぶらな瞳がまっすぐにウァーリたちを見つめてくる。出くわした熊に対する危機感より、不自然な造形への不気味さが勝った。「今はそれどころじゃないんだがな」と嘆息するダレエンの横でうっぷと朝食をもどしかける。
「やだやだ、ちょっと、無理、グロい!」
 早くやっつけちゃってとウァーリは狼男の肩を押した。だが次の瞬間、ブナ林に響いた声に怪物の存在など消し飛んでしまう。

「失礼ですねえ、こんなに可愛いマリリンにグロいなんて。彼女が傷つくじゃないですか」

 声の主は顔を見ずとも推測できた。予想に違わずグリズリーの巨体の陰からディラン・ストーンの姿をしたハイランバオスが現れる。
「長い時間を生きていると、だんだん鈍ってくるんですかね。勝つのが当たり前になって、どんなことで足元が引っ繰り返るかもう忘れてしまいました? あなたたちは傲慢だとは思いませんが、怠慢になっているとは思いますよ」
 薔薇色の頬の青年がにこりと笑いかけてくる。どういう忠告なのかわからず、ウァーリはその場に身構えた。
「ハイランバオス……! 何故俺たちを、ヘウンバオスを裏切った?」
「あっ! そのストレートな質問ぶりはダレエンでしょう!? 女装しているところを見ると、そちらはウァーリですね。こんな僻地に十将が狩り出されるなんてジーアンも相当混乱しているようです。生まれて百年、二百年の若い蟲たちが暴動でも起こしましたか? 十将もさぞや意見が割れたことでしょう。まだレンムレン湖を探すべきか、残った時間を己のために使うべきか。けれど結局自分たちでは決めきれなかったのではないですか? これまでずっと我が君が先頭を駆けてきましたからねえ。あなたたちでは現状維持を選択するのが精いっぱいだったかと思います。まあ意思決定のふりくらいはしたのかもしれませんが!」
 問いには答えずハイランバオスは気ままに喋る。帝国の現状は、ほとんど彼の言った通りだった。婉曲に天帝以外全員無能と指摘され、ぐっと奥歯を食いしばる。
「俺たちの寿命が尽きかけているというのは本当か? その熊の化け物はなんだ? どうやって手なづけた? ――アークとやらに関係のあることなのか?」
 煽りを無視したダレエンの、どの疑問にも回答は与えられなかった。聖預言者の変わらぬ微笑に緊迫感は否応なく増す。業を煮やした狼男は腰の短刀に手を伸ばした。
「ちょ、ちょっとダレエン! 少しは穏便に……」
「穏便に? 寝ぼけたことを。穏便にやってあいつを捕まえられるものか!」
「あはっ! あなたのそういう率直なところ、好きですよ。我々は皆とっても仲良しでしたし、ひょっとすると私を敵だと思えないおまぬけさんが続出するかと心配していたんですが、ダレエンは切り替えが早くて助かります。そう、知りたいことは力ずくで聞いてください! 私も簡単には捕まりませんがね!」
 短刀の刃が閃くと同時、ハイランバオスが人面熊の尻を叩く。合図を受けた怪物はバウッと吠えてダレエンに飛びかかった。
「マリリンに入っている蟲は、愛情を持って躾けた猟犬に寄生させたものなんです。私の命令ならなんだって聞きますよ! 性格も、我慢強くて勇敢です!」
 けしかけられたグリズリーの体当たりを狼男は腕を使ったジャンプでかわす。図体に似合わぬ俊敏さで怪物は再度ダレエンに襲いかかった。
「……ッ!」
「ダレエン!」
 加勢してやらねばなるまい。だがハイランバオスから目を離すわけにもいかなかった。彼の手にはクロスボウが握られており、矢も装填済みだったからだ。
 こうして直接対峙して、ウァーリにもようやく実感が生まれた。彼がもはや昔の彼とは違うということ。自分の知っている詩人ではないこと。
「あはは! 上手くかわしますねえ! でも避けるだけではお得意の狼戦法が使えないのではないですか? マリリンを消耗させるどころかあなたのほうが疲労困憊していきますよ? やはり本物の獣のほうがスタミナは上ですからね!」
 宴会芸でも楽しむように聖預言者は声を立てて笑う。ダレエンに向け、弩が構えられるのを見てウァーリは咄嗟に足元の小石を蹴りつけた。顔のすぐ横に飛んできたそれをキャッチしてハイランバオスは眉をしかめる。
「……なんですか、この石ころは? 殺し合いをしてるんだってあなたは理解していないんですか?」
 底冷えする目がこちらを見つめた。「何年生きても馬鹿は馬鹿のままですね」との言葉に心臓まで凍らされる。
「あの方の手となり足となるべき直臣がこの体たらくとは嘆かわしい限りです。まああなたの場合、大勢の蟲に慕われているのを買われて十将に選ばれただけですから、多少頭が鈍くても仕方ありませんが。あなた以外の蟲たちも、突出した者なんてほんのわずかですしねえ」
 大仰に嘆息するとハイランバオスは「あっでも」と笑顔を取り戻した。きらきらと輝く双眸が未来を語る。彼にとっては喜びに満ちた、こちらにとっては暗澹たる詩人の構想を。
「役立たずでも死ねばあの方の涙を誘うかもしれません! あの方は身内にはどこまでもお優しいですから!」
 卒倒しそうだった。初めて味わう不快感に爪の先まで悪寒が駆ける。
 仲間だと信じた相手に、確かに家族だった相手に、見下され、格付けされ、呼び起こされたのは恐怖だった。怒りではなく、憂いでもなく、本当に彼は我々を殺せるのだという強い恐怖。
「ッ……!」
 指笛を吹き、ウァーリは配下の鷲を呼んだ。「あの人面熊を倒すまで邪魔させないで!」とハイランバオスの威嚇を命じ、スカートの裾を捲くり上げる。
 太腿に結わえつけたナイフを抜いて身構えた。猛毒の塗り込まれた特殊な刃だ。これなら灰色熊を仕留めるくらいわけなかった。木々の生い茂る林の中で、ひっきりなしに駆け回る怪物に当てることができればの話だが。
「ダレエン、そいつの足を止めてちょうだい!」
 ナイフを握るウァーリの姿が見えたのか、人面熊の猛攻を凌ぎつつ切り込む隙を窺っていた狼男の動きが変わる。跳躍し、ブナの白い枝に飛びついた彼は逆上がりの要領で一回転して勢いをつけ、遅れて飛び上がってきた熊の脳天に強烈な蹴りを叩き込んだ。
「さ、さすが!」
 化け物がふらついたチャンスを逃さず毒のナイフを投擲する。刃は背中の、ちょうど心臓の真下辺りに突き刺さった。
(やったわ! これで十秒もすれば動けなくなるはず!)
 ダレエンはすぐさまウァーリの傍らに戻る。不用意に獲物に接近しないのは彼の最初の宿主だった狼の習性だ。蟲は皆、初めの脳の影響をいつまでも受け続けるのである。
 このときもダレエンはのたうつ熊を注視していた。ウァーリの隣で、前だけを見据えて。
「――」
 風切り音が響いたのはそのときだ。何かがすぐ側を横切った。異変を察したウァーリが隣を見やるまでに、狩りは終わりを告げていた。
 血塗れの男が地に伏せる。その肩は、鋭利な鷹の鉤爪によって鋭く深く切り裂かれていた。動かないダレエンの背に、鷹は悠々と翼を広げる。
 どこかで見たことのある琥珀色だ。あれは確か、ラオタオの可愛がっていた――。
「ダ……っ」
 役目を終えるとピュウと鳴き、鷹は主人のもとに舞い戻った。追い払われた鷲が代わりにウァーリのほうへと逃げてくる。
「残念でしたね。アクアレイアで山ほど調達できましたから、手持ちの脳蟲は多いんですよ。ほら、この子たちを見てください! マリリンは駄目になってしまいましたが、皆とっても元気です!」
 ハイランバオスが指を鳴らすと灌木をがさがさ揺らして四頭の猛犬が現れた。こちらも彼お手製のキメラらしく、腕や足、胴体までもがつぎはぎで、色模様が異なっている。
「……ッ!」
 憎らしいことに大きな犬ばかりだった。ナイフを投げてしまった自分に撃退できるとは思えない。
「行きなさい! 他の仲間のいるところまで!」
 全滅よりはましだろうとウァーリは配下を飛び立たせた。ハイランバオスはくすりと笑い、旅装の外套を翻す。
「ご武運をお祈りしますよ、ウァーリ。それではごきげんよう」
 憎らしい台詞を吐いて聖預言者は牧場のほうへ歩き出した。傍らに転がった狼男は声もない。いくらなんでもあっさりやられすぎだと思ったら、爪に毒物が仕込まれていたようだ。ダレエンの負った傷は紫に変色しつつある。
(こっちのワンちゃんたちは無毒だと願うしかないわね)
 ウァーリは腰を低く落とし、ブナの幹を背にして立つ。
 彼の身体はもう駄目だろう。問題は本体が這い出す前に間に合うかどうかだ。
 ワオンワオンと吠える犬どもを睨みつけ、ウァーリは拳を握りしめた。




 ******




 指笛が聞こえたのは「あっちの林、変じゃない?」とフェイヤに尋ねられた直後だった。アルフレッドが振り向くと、何か大きな動物が暴れでもしているようにブナの木が揺れていた。盛んに木の葉を散らすのは一部の樹木だけなので、突風ではないだろう。最初に頭をよぎったのは格闘の可能性だった。
「……ハニーさんとダーリンさんの向かった方角だ。もしかして、何かあったのかもしれない」
 粉ひき小屋周辺の探索は打ち切り、アルフレッドはただちにブナ林に向かうことにする。フェイヤにはジェレムとトゥーネにしばらく家を出るなと伝えるように頼んだ。その後は彼女も二人と待っていてほしいと。
「えっ? アルフレッド一人で行くの?」
「ああ、そのほうがいい。野獣だの賊だのと鉢合わせたんだとしたら、戦える人間だけが駆けつけるべきだ」
「でも、もしアルフレッドに何かあったら」
「平気だよ。怪我をしたって大抵の処置は自分でできる。遅すぎると思ったらジェレムの判断を仰いでくれ」
 案じる少女に平時と同じトーンの声で言い聞かせる。「行こう」と小さな手を取ってアルフレッドは駆け出した。さっき来た道を引き返し、農家近くの畦道でフェイヤと別れる。「気をつけてね!」と声だけが背を追ってきた。
(何か妙な空気だな)
 前方に迫るブナ林に目を凝らし、アルフレッドは眉をしかめる。耳を澄ませばワオンワオンと野犬のものらしき吠え声が聞こえた。吹きつける風にも血の臭いが混じっている。悪臭は、走れば走るほど濃くなった。
(なんだ? 何があったんだ?)
 嫌な予感がして先を急ぐ。緑の小路に差しかかってすぐアルフレッドは息を飲んだ。
「な……っ」
 林には信じられない光景が広がっていた。ダーリンさんがうつ伏せに倒れ、その側に大型の犬が一頭転がっている。髪を乱し、噛まれた右肩を庇いながら残る三頭と向かい合うのはハニーさんだ。彼女の手にはダーリンさんの短刀が握られていたが、力はほとんど入っていなさそうだった。
「ハニーさん!」
 剣を抜き、彼女に飛びかからんとした狂犬の一頭を薙ぎ払う。害獣は白い腹を見せて引っ繰り返り、キャウンキャウンと悲鳴を上げた。
「アルフレッド君!」
「大丈夫か!?」
「あたしは平気、でも……!」
 ハニーさんは悔しげに唇を噛む。視線の先の連れ合いはぴくりとも動かず、呼吸をしているようにも見えなかった。思わず「ダーリンさんは?」と尋ねたアルフレッドに彼女は無言で首を振る。
「とにかくさっさとクソ犬どもを追い払うわよ! 手伝ってくれる!?」
「わかっ――こ、こいつらは一体……!?」
 改めて狂犬たちを前にしてアルフレッドは慄然とした。彼らは前脚も後脚も胴体も尻尾も一つとして「揃って」いないのだ。異なる犬種の異なるパーツが繋ぎ合わされ、一頭の犬を形作っているのである。
(ま、魔獣……)
 ――見覚えがあった。こういうモノには。初めて出会ったときのアンバーがそうだった。彼女は最初、上半身が若い女で下半身が駝鳥という異様な風体をしていたのだ。
(だがもうキメラを造っていたロバータ・オールドリッチはいないのに……)
「アルフレッド君、避けて!」
 ハニーさんの声にハッとして横に飛ぶ。鋭い牙を剥き出しにして向かいくる敵に一閃を浴びせると、視界の端に奇妙な熊が映り込んだ。苦悶に満ちた表情を浮かべる女面のグリズリーが。
(え!?)
 驚きのあまり二度見する。つぎはぎ犬だけでなく人面獣までいたのかと。
 だが今はそんなことに気を取られている場合ではない。一刻も早くダーリンさんを介抱するためにこの状況をなんとかしなくては。アルフレッドはきつく唇を引き結び、まだ一撃も食らわせていなかった最後の一頭に切りかかった。
「キャウッ! キャウンキャウウン!」
 手負いの三頭では敵わないと悟ったか、つぎはぎ犬どもは我先にブナ林から逃げていく。後には作りものめいた犬の骸と熊の骸が一体ずつ残された。
「……ッ!」
 片がつくや、ハニーさんはアルフレッドに見向きもしないでダーリンさんのもとに駆け寄る。連れ合いを抱き起こす彼女の横に膝をつき、こちらも手当てに参加した。
「……酷いな。この肩の傷は毒か? 毒爪を持った熊や犬なんて聞いたこともないが……」
 出血は既に止まっていた。心臓が止まったために血も巡らなくなったのだ。ダーリンさんほどの使い手を死に至らしめるなど、この熊はどんな凶暴な相手だったのだろう。
「やだ、水筒割れちゃってる……!」
 逼迫した声にアルフレッドは顔を上げた。「す、水筒?」と思わず眉間にしわを寄せる。避けられない悲劇を前にハニーさんは錯乱してしまったのだろうか。急に水筒の状態など気にしだすなんて。
「ねえアルフレッド君、水筒持ってない!? 今すぐに水がいるの。できれば塩水がいいんだけど……」
 コップ一杯でいいから取ってきて、と彼女は必死に訴える。治療に関係ないぞと諭してもパニックが悪化しそうなので「わかった、水だな?」と頷いた。
 もしかしたら死に水を取ってやりたいのかもしれない。それにしては塩水だなんて不可解なものを要求するが。
「これで足りるか?」
 疑問を消せないままアルフレッドは懐の小瓶を取り出した。アクアレイアを出る際に持ってきた王国湾の海水だ。できればルディアに会うまで取っておきたかったのだが、緊急事態だ。仕方あるまい。
「……! あ、ありがとう!」
 引ったくるように小瓶を奪うとハニーさんはダーリンさんの涙袋にそっと指を添えた。理解の及ばぬ行動にアルフレッドは疑問符を浮かべる。
 だが謎はすぐ解けた。ダーリンさんの目に涙がせり上がってくるのを見て、それが液体ではなく固体であるのに気がついて、点と点が一本の線で繋がったのだ。あたかも天の啓示のごとく。
「――……」
 アイリーンに聞いた話では、ジーアン帝国上層部は蟲の巣窟なのだという。天帝も、十将も、ハイランバオスも、アクアレイアに棲む脳蟲とは別種だが、極めて近い性質の生き物なのだと。彼らもまた、死体に取りつき、器を変え、人とは違う時間を生きているのだと。
「……。何を入れたんだ? ちょっと見せてくれないか?」
 蟲に見える透明な何かをハニーさんが封じてすぐアルフレッドは問いかけた。今度はこちらがガラス瓶に手を伸ばす番だった。
 彼女は少しためらったが、「何もしないで返してね」と小瓶をそっと手渡してくる。受け取ったそれを眼前にかざし、アルフレッドは息を飲んだ。
 やはり違う。線型をしたアクアレイアの蟲ではない。袋型の丸い虫だ。
「……あなたたちはジーアン人か?」
 去年の夏に覚えたばかりのジーアン語で問う。するとハニーさんは「えっ? もしかしてあなたもだったの? 誰が回してくれた応援?」と目を輝かせた。けれどこちらの硬い表情を見て彼女は即座に勘違いに気づく。そして今更思い出したという顔で「そうだ……。あなた天帝の誕生日祝いの席にいた……」とこぼし、それきり口をつぐんだ。
「…………」
「…………」
 長い沈黙が訪れる。互いの視線はこの状況と互いの腹を探り合った。
 顔に出さない努力はしているようだったが、彼女がアルフレッドの握る小瓶を気にしているのは明らかだ。これをルディアの手に渡せたら、きっと彼女がアクアレイアにいいように取り計らってくれるだろう。だがしかし――。
「……!」
 そうこうする間に横たわっていた犬の耳からも脳蟲がのたのた這い上がってくる。小瓶を手に掴んだままアルフレッドは骸の前に跪いた。
 こちらは馴染みある線虫タイプだ。けれど保管に使える道具がなく、見る間に黒く崩れてしまう。
「……何があったんだ?」
 この北の地で、よくわからないことが起きている。答え渋る彼女に向き直り、アルフレッドはガラス瓶を差し出した。惨劇の詳細については語らず、ハニーさんはただ「返してくれるの?」と目を丸くする。
「一度とはいえ手合わせを頼んだ相手に礼を欠きたくない。それに女性にそうつらそうな目をされるとな」
 彼女が同胞を懐にしまい込むとアルフレッドはハンカチと傷薬を取り出した。「手当てをしよう」と申し出るが、何故かぱちくり瞬きされる。
「え? 手当てってあたしの?」
「他に誰がいるんだ。肩もそうだが足もやられているだろう」
 大真面目なアルフレッドにハニーさんはぶふっと盛大に噴き出した。どうもツボに入ったらしく、しばらくの間笑われ続ける。
「あっはっは、あなた本当にいい子ねえ! でもこれくらい、一人でなんとかできるわよ」
 痛むのだろう肩を押さえて彼女は立ち上がった。肌の汚れもスカートの破れも構わずに、背筋を正してこちらを見つめる。

「我が名はウァーリ。貴殿に救われたダレエンともどもジーアン十将の一人である。礼には礼を尽くすのが武人というもの。――この恩は、いずれ必ず」

 深々と一礼し、ウァーリはこちらに背を向けた。左足をやや引きずりながら彼女はブナ林を去っていく。
(ジ、ジーアン十将)
 あの二人、実は大物だったらしい。何を取り逃がしているのだとルディアに後でどやされそうだなとアルフレッドは苦笑した。
 北パトリアでジーアン人と脳蟲キメラに出くわした。これだけでも注目に値する情報だ。あとはルディアがいつも通り、分析と指針を与えてくれればいいけれど。




 ******




 幾重にも布でくるんだ瓶類が、なおもガチャガチャ音を立てる。割れて脳蟲が死ぬのではないかとビクビクしつつアイリーンは馬を駆った。
「い、一体どこへ逃げるつもりなんですか? セイラリアの下宿には戻れないでしょう?」
「うーん、そうですねえ。どこに逃げましょうかねえ」
 答えるハイランバオスはどこかのほほんとしている。危うく尻尾を掴まれるところだったというのに何故この人は平然としていられるのだろう。
「まああちらも深追いできないでしょうし、手近な街でいいのではないですか? そうだ、コーストフォート市へ向かいましょう! あそこならストーン家の名で入れてもらえそうな病院がありますし、死人が出れば実験したい放題ですよ!」
「……ッ!」
 露ほどの道徳心も持ち合わせない聖者の言葉に青ざめる。本当に、問うべきことの答えを聞いたらさっさと縁を切らなくては。
 馬の手綱を握りしめ、アイリーンは閑散とした道を南西に飛ばした。
 目指す都市に役者が揃いつつあることなど、少しも予感しないままで。









(20161215)